顔のない女 |
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*一部残酷な描写を含みます。 青い蝶が飛んでいる。鮮やかで美しい蝶。 それは思わず掴みそうになった十歌(とおか)の指先に止まってぱたり、ぱたりと翅を閉じた。 綺麗な蝶だった。翅は青く光る衣を纏って黒い模様で彩られている。 指先に止まったそれはほんの一瞬十歌の目に青い色彩を映して指先を離れ、空を舞った。 青い蝶はひらひらと飛ぶと山道の柵を乗り越えていく。 蝶の先にはこの××市の市街地を一望できる風景が広がっており、観光客はこぞって見に来るが小さい頃からこの景色を見慣れている十歌はありふれた光景が広がっているだけだった。 この『犬神山』には戦国時代にどこかの武将が作った大きな城が建設されていたらしいのだが長い歴史が経ってほとんど壊されて石垣が残されているだけにとどまり、現在は観光地として山の一部が整備されて多くの観光客やご近所の散歩コースになっている。 その犬神山を青い蝶は下へ下へと降りて行き、次第に遠くなっていく。山道の柵のすぐ下にはだだっ広い広場が広がっておりそこでは無数の虫たちが翅を震わせていた。 今日は××市で行われているフェスティバルの開催日だ。 このフェスティバルは××市が春、夏、秋、冬と年に四回行っている一大イベントで市の各地でステージでのライブやコスプレイベントと言った様々な催しが行われている。 元々はただの地域イベントに過ぎなかったのだが一昨年に公開されて大ヒットした劇場アニメがこの××市を舞台にしていた為聖地としてファンが訪れるようになりそれに目をつけた現在の市長がアニメとコラボして話題となり今や町おこしの一環となっている。 地元の虫が触角をくねらせてはしゃいでいるであろうこのフェスティバルも十歌には盛大な馬鹿騒ぎにしか見えなかった。 その馬鹿騒ぎの一旦を担っているこの市民公園の広場には今や屋台が立ち並びステージでは知らないバンドがやたら電子音をピロピロ効かせて音楽をかき鳴らしている。 屋台の方では観光や地元の虫たちでごった返していて大反響だ。 その中に案の定十歌の学校の頭の悪いクラスメイトのゴキブリたちが触角を生やしてはしゃいでいるのが見えて十歌は小さくばかじゃないの、と呟いた。 ずらっと立ち並ぶ屋台の中に行列ができている屋台が見えた。その行列の中にはどこかの放送局のスタッフであろうメディアの姿もあって、十歌の興味を引いた。 屋台には『纓片旅館』と書かれた看板が立てられており着物を着た働き蜂たちと紫色の上品なお召し物を着こなした女王蜂が客をおもてなししている。 纓片の家だ、十歌の目が金色の色彩で彩られる。 『纓片の家』この××市でその名声を知らない者はいないであろう有名な名家だ。纓片の直系である三人の姉妹たちはそれぞれの役職に就いてその非凡な才能を発揮しており、纓片の家の血筋を証明している。 纓片の家で最も有名なのは本家が経営している老舗旅館であろう。この老舗旅館は戦後代々に渡って繁栄を築き、今日に至るまで多くの観光客が訪れている。 その古風で奥ゆかしい旅館の雰囲気と銭湯で顧客の心を掴んだ、と言われているが実際は当時の纓片の先代が国の権力者に上手く取り入ったおかげでかなりの後押しがあったらしい。そのおかげもあってか他県から観光客を呼び込む事に成功し、一時期纓片の先代は観光大使を任せられるほどだったとの事だ。 今やすっかり市で有名となった現在は纓片三姉妹の長女が夫と共に旅館を継ぎ、最近では外国人観光客の呼び込みに力を入れているようでその目論見は当たりますます繁盛しているとの事だ。 その女王蜂、もとい纓片の家の長女がどういうわけかこのフェスティバルに来て屋台を出店している。 出しているのは旅館で販売している弁当と旅館名物の温泉まんじゅうならぬ銭湯まんじゅうにペットボトルのお茶だ。フェスティバルで観光客を呼び込もうと言う算段なんだろう。 視線を泳がせるとすぐそばにテントが張ってあり、その近くで女王蟻が市民と話している。 纓片三姉妹の次女だ。 次女は一昨年の選挙に当選して××市初の女性市長になった。市長になってからの活躍は目覚ましくフェスティバルを観光イベントにまでのし上げたのもこの女王蟻の手腕だ。 そしてその近くをうろちょろしている“ふんころがし”を見つけて十歌はうわぁ、と思わず声を漏らした。 十歌の母、智理(ちえり)だ。 智理は纓片の次女の後を追ってフェスティバル実行委員会と書かれたゼッケンを着た役員たちにおじぎをしながらカン高い笑い声を上げている。 智理はスーパーチェーン店“ツキハミ”で働いている。そのツキハミの代表取締役は纓片三姉妹の次女の結婚相手なのだ。 一昨年の市長当選の際に次女とツキハミの代表は結婚を発表し、それはそれは大いにふんころがしを盛り上げた。以来ふんころがしは纓片の名前を出しては何かと鼻にかけるようになり、十歌はそれを聞かされるたびにうんざりしていたのだ。 このふんころがしはアピールして何とか纓片家のおこぼれにあやかりたいのであろう。 こういう浅ましい所に十歌はヘドが出そうだった。 ふんころがしが嬉々として自分の糞を丸めるのに必死なのを一瞥してから見なかったことにすると少し離れた所で見慣れた“カミキリムシ”がベンチに座っているのが見えた。 十歌の姉、帆夏(ほなつ)だ。 このカミキリムシとは十二歳年が離れている。帆夏は看護師をやっていたのだが勤務していた病院の系列の薬局に勤める薬剤師と結婚し僅か一年半で離婚して実家に戻ってきた。あとで話を聞いたらどうにも義母との生活が上手くいかず揉めたとの事だった。 かくしてこのカミキリムシは実家にのこのこと戻ってきたのだが、余計なおまけまでつけてきた。 この出戻りカミキリムシ、その腹に薬剤師の男との間に作った幼虫を孕んでいたのだ。 その事を知って十歌は心底絶望した。ただでさえ五月蠅いのが戻ってきてげんなりしていたのに幼虫までついてきて。 そうして戻ってきたカミキリムシはほどなくして幼虫を出産、その幼虫を三歳になるまで育てた後は保育園に預けて別の病院に就職して再び看護師に戻った。 ……とここまで聞くと聞こえはいいが子育て中は本当に酷いものだった。このカミキリムシは子育て中産後うつになり、イライラすると当たってきたり上手くいかない事があると泣き叫んだりと十歌の神経をイラつかせた。 半年ほどその状態は続き、その後はなんとか落ち着いたが幼虫を保育園に預けて働きだしてからはあれやこれやとぎゃあぎゃあと喚いて指図してくるはで本当に鬱陶しい。 しかも自身は仕事に出ているからと言って結局幼虫の面倒をふんころがしと一緒にやらされるはめになり、十歌の貴重で有意義な時間を幼虫の世話で減らされて散々な目に遭っているのだ。 そのカミキリムシは誰かと話し込んでいる。その相手を見て十歌ははたと思う。後ろ姿でよく分からないがなんとなく既視感があった。 そしてその話し相手が振り返った時の顔を見た時、十歌はああ、と思った。 それは纓片三姉妹の三女の息子であった。 三女は医学の道に進んで東京の病院に勤務、後に医者である男性と結婚し現在は東京の病院で働いている。 ふんころがし曰く三女の結婚相手は今東京の病院で院長になったらしい。 ネットで調べた時公式ホームページで院長の隣で澄ました顔で院長夫人として紹介されている写真を見て、まるで女郎蜘蛛の様だと十歌は思った。 この三女、子どもが二人いてこの息子は兄であった。この兄は××市が気に入っているのか休みの日を見つけては帰省している様でふんころがしの買い物に付き合わされたときに会って顔を合わせて会話した事があった。現在は看護師をやっていると聞く。 しかし十歌はどうにもこの兄が好きになれなかった。性格はおおらかでおっとりしていて人のいい所がある様だがそれくらいだ。 顔は父親に似たのであろう、牛肉の丼ぶりの上にチーズをふんだんにふりかけた様な顔で(ふんころがしは優しそうな顔よね、なんて言ってお茶を濁していたが)十歌は気に入らなかった。 そしてもう一人、カミキリムシと兄の傍に駆け寄って女の子が話しかけてきた。ゆるくウェーブのかかったセミロングの茶髪に着物を着ている。遠目でも華やかな雰囲気がこちらにも伝わってくる。 纓片三姉妹の三女、女郎蜘蛛の二人の子どものもう一人、妹だ。妹は十歌と同い年で今配信アプリで30万人のユーザーがいる人気配信者と言う面もある。 この妹とは小さい頃一緒に遊んだ記憶があり、つい先日幼虫を保育園へ迎えに行った帰りに寄った“たいやき屋”でばったり出くわした。 向こうは十歌の事は覚えていない様だったが十歌はこの長女の事は薄っすらとは覚えていたし、何より人気配信者と言うこともあってクラスのゴキブリ達からの人気があることを十歌は知っていた。 この妹、兄と違い母親の血を色濃く受け継いでいて確かに可愛いと十歌は思った。 十歌の身長は160cmだがこの長女は十歌より背が高く、165かそれより少し上と言った所だろう。それに都会の人間という事もあって華やかな雰囲気を纏っている。 さすがは纓片の女と言った所か。 そのたい焼き屋で一緒にいた女の子(後でふんころがしに聞いたが妹の友達らしく東京から一緒に来たらしい。随分見劣りしている。芋虫。)とたい焼きを二人で食べながら話しているのをしばらく眺めていたが、たい焼き屋の店員との受け答えはおっとりとした喋り方でもっとはきはき喋ればいいのにと思ったし友達の芋虫とのやりとりも見ていたが明るい子なんだろうなとは思ったがなんだか物分かりが良すぎる気がして十歌はイラっとした。 十歌はたい焼きを買って幼虫を連れて帰ったがその後も何ともイライラした気持ちでいっぱいだった。 その妹はしばらく兄とうちのカミキリムシと話した後この前一緒だった芋虫と一緒にステージの方へと歩いて行った。 そんな光景をしばらく十歌が眺めていると十歌の手の中のぬくもりが動いて、いっぱいひとがいるね、と舌足らずな声が聞こえて十歌は肩まで伸びたセミロングの黒髪を風で揺らしながら愛想笑いをした。 十歌の手には小さな手が握られていた。髪を結んでもらい、オレンジの模様が入ったワンピースを着ている。そしてその右手には屋台で買った小さな林檎飴が握られている。 カミキリムシ、帆夏の三歳になる娘、幼虫の心実(ここみ)だ。 今日はカミキリムシと一緒に屋台を見て回ったりステージのヒロインショーを見ていたりしていたのだが結局そのカミキリムシに幼虫の世話を押し付けられてしまった。 十歌は自分も屋台を見て回りたかったのに、と心の中で毒づいた。 十歌が横目で心実を見ると心実は買って貰った小さな林檎飴がよほど気に入ったらしく時折林檎飴を覗き込んでいる。 十歌が再び広場に視線を向けると纓片三姉妹の三女の息子、兄がこちらを見つめていた。いつの間にかカミキリムシはどこかへ行ってしまったらしい。遠目だが兄のそのぼんやりとした顔は十歌ではなく心実の方へと視線が向けられている様な気がした。 そしてその目が優しげで、暖かい熱を帯びていて思わず十歌は喉の奥から蛆虫が走った様な感覚がせり上がって、気が付かないふりをして心実を連れて再び犬神山の山道を歩いて行った。 十歌が心実を連れてしばらく歩いていると立ち入り禁止の表札が置かれた道を見つけた。 十歌は辺りを見回して誰もいない事を確認するとその道に足を踏み入れた。 整理されていない道を歩いていく。賑やかな音楽と声が遠ざかっていくと十歌の心は霧に包まれていく。 十歌の毎日は灰色だった。 母親のふんころがしはおしゃべりで口うるさく威張り散らして機嫌が悪いとヒステリックに叫びあげるしで小さい頃から大嫌いだった。おまけにへのへのもへじみたいな顔でその点十歌は父親似だったようでまったく似てなくて本当によかったと思った。 十歌には祖母がいた。祖母は十歌が小学生の頃、姉のカミキリムシとは仲が悪くいつも喧嘩していたが十歌の事は可愛がってくれていた。 そして祖母は決まって十歌にこういうのだった。 十歌ちゃんは帆夏とは違うから、十歌ちゃんはできる子だから、と。十歌もそんな事を言われた当然思い上がった。 テストでいい点数を取って祖母に褒められる度に増長し、姉カミキリムシを見下す事もあった。 しかし小学校五年の頃、上手く行かなくなった。 その頃担任だった女教師のカマキリに目をつけられあの手この手で嫌味を言われたり嫌がらせを受けたのだった。それが影響してテストの点数も下がった。 そんなある日の夜、祖母はふんころがしと談笑していて十歌の陰口を言っていたのだ。十歌はもっとできる子だと思ったのに、そして今度は十歌とカミキリムシを比較して十歌を馬鹿にしだしたのだ。 その頃はカミキリムシは看護師として活躍していて、険悪だった祖母との関係もすっかり良好になっていた。そして祖母はカミキリムシを持ち上げるようになっていった。 小学六年生になった頃にはカミキリムシは結婚して家を出ており、学力が戻った十歌に対して祖母はあからさまに媚びを売るようになった。とんだ寄生虫だ、十歌は思った。 十歌は徹底して寄生虫に素っ気ない態度を取り、以降寄生虫との仲は冷戦状態であった。 しかしそんな寄生虫も十歌が中学校に上がる前にあっさり死んだ。 その日は体調が思わしくなく、トイレに行くとそのまま倒れた。救急隊員によって心臓マッサージを受けたが駄目だった。 その後も苦労は続いた。 ふんころがしに楽だからと中高一貫校に入れられて、入ったはいいが周りのクラスメイトは男は幼稚だし女は下卑てるしこんな馬鹿どもとあと六年も一緒にいなければいけないのかと思うと気が遠くなった。 そしてやっと静かになったと思ったのにカミキリムシが幼虫を孕んで戻ってきて、今度はその幼虫の世話をさせられる日々。 何かと口五月蠅いふんころがしとやたら偉そうに指図してくるカミキリムシ。死んだ寄生虫に小学校の担任のカマキリ。学校のクラスのゴキブリ、トコジラミ、…… 十歌の人生はいつも邪魔ばかり入る。少しも気が休まる日なんてない。貧乏くじを引かされるのはいつだって十歌だった。 そんな生活で、十歌の目にはすっかり灰色の景色しか映らなくなってしまった。 十歌は心実の手を引きながらどんどん山の奥の方へ入っていく。心実は十歌に手を引かれながら律儀についてくる。 心実は普段は大人しくて面倒がほとんどかからない。 しかし先月、保育園の帰りに寄ったスーパーで珍しくぐずった。 最近よく見ている魔法少女のアニメのガシャポンがあり、主人公のピンクの子のグッズを欲しがったのだが一回で出るはずもなくお目当ての子が出なくて心実は泣き出したのだ。 十歌はイラつきながらも宥めていると十歌の後ろからあからさまにイラついた大きな舌打ちが聞こえたのだ。 振り返ると二十代くらいの全身黒コーデで全体的に丸っこい姿の文字通りダンゴムシ男がこちらを睨みつけ、そのまま去っていく。 一気に気分が悪くなってその日は一日ずっともやもやが取れなかった。 しばらく歩いていると茂みが道を覆っていた。十歌がその覆っていた茂みを抜けるとそこは一面の花畑が広がっていた。それを見て心実がお花だー、と言った。 フェスティバルもあって少し興奮しているのだろう、十歌がせっかくだし遊んでいこうかと言うと心実はキャッキャと楽し気に花畑に近寄った。 十歌はその光景を見ながらスマートデバイス“エフェメラ”の電源をつけてカメラを起動してミラーモードにする。 ミラーモードになったエフェメラを少し傾けて周りを映すと十歌の後ろの方で何かが動いた。 それがずっと後ろから“ついてきている”のを十歌は気が付いていた。それは木の陰に隠れてじっとこちらの様子を窺っている。 花畑では相変わらず心実が花を見るのに夢中になっている。 もしここで十歌がこの場を離れたらどうなるだろうか? 今十歌の後ろにいる“それ”は何をするだろうか。 その瞬間、十歌の瞳から光が消えた。そしてエフェメラを取り出すと電話に出るふりをして元来た道を戻って、その場を離れた。 十歌が離れると木に隠れていた“それ”はしばらく様子を窺っていたが、やがてのっそりと動き出して花畑にいる心実に近づいていった。 そして心実が振り向いた時には、…… 十歌は息を潜めてその様子を窺っていた。 “それ”はうつ伏せになって覆いかぶさったままぴくりとも動かない。先ほどまで聞こえていた耳を劈くような泣き声もいつの間にか止んでいた。 十歌はエフェメラで時間を確認すると既に三十分経っていた。早かったな、と十歌は思った。そしてそのまま“それ”の元へ向かった。 覆いかぶさっていた“それ”は気配を感じて振り向き、ずり落ちた眼鏡で十歌の姿を捉えると状況が分かっていないのか呆けた顔をしている。 そのチーズのかかったようなとろけた顔を十歌は白い目で見下ろして言った。 「ぼーっとしないでくれます? それ、早く片付けないといけないんで。」 地面にはあちこちに衣類が散乱して泥まみれになっており、“それ”が覆いかぶさっていたものは既に肉の塊となっていた。 腰まで伸びる長い黒髪を揺らして、十歌は犬神山に来ていた。 今日でこの景色を見るのも最後かと思うと少しノスタルジーな気持ちに浸りたくなったのだ。 “あの日”、ふんころがしとカミキリムシは目を離した隙にいなくなったと言う十歌にぶりぶり文句言いながら二人で手分けして探したが結局見つからず、市長である纓片三姉妹の次女と役員の手を借りることとなった。 役員も総出で心実を探したが行方が掴めず、三時間経った所で纓片三姉妹の女王蟻が警察に連絡をした。 警察で聴き取り調査と心実の捜索が行われる事となったが、結局一週間経っても心実の行方は掴めなかった。 迷子になったのだろうとタカをくくっていたふんころがしは事の大きさを理解してすっかり青くなって黙り込んでしまい、カミキリムシは十歌に詰め寄って罵倒してヒステリーを起こして倒れるわで大混乱だった。 やがて日が経つにつれて地元メディアやネットニュースで大々的に報道されるようになり、それはそれは十歌の心を躍らせた。 学校では好奇心にそそられたクラスのゴキブリたちからは質問攻めにあって悪い気はしなかったし、ご近所のシロアリ連中は色々と気遣いの声を寄せてちょっと十歌が暗い顔をするとお土産をくれたりした。 それからネットでも同情の声が寄せられて募金やら援助品も随分貰った。 そして記者やインフルエンサーがこぞって家に来てインタビューされるわで十歌は大忙しだった。 それから十歌がやっていたSNSのフォロワー数も抜群に増えた。せいぜい百人ちょっとくらいだったのにあっと言う間に一万も増えた。幼虫一匹の失踪でこんなに話題になるなんて。 しかしそんな状況にふんころがしとカミキリムシはいい顔をしなかった。 ふんころがしは記者が来ると普段のおしゃべりはどこへやら、思いっきり引きつった顔でしどろもどろになっていた。 一方のカミキリムシはインタビュアーが来ると迷惑そうに対応して、時には金切り声で怒鳴りつけたりもした。 そんな二匹の場面をこっそりエフェメラで撮影して動画投稿サイトにアップして再生数稼ぎ、その動画をSNSで引用して所謂“お気持ち表明”をして十歌の得点稼ぎに利用させて貰った。 しかしそんな状態が長く続かない事は十歌も分かっていた。 時間が経てば経つほど人の興味は薄れていく。だからこの黄金期が終わる前に十歌は着々と準備を進めていった。 十歌はそっと左手の薬指に嵌められた指輪を見た。 今年十八になった十歌は兼ねてよりお付き合いしていた男性と結婚することとなった。 相手は纓片三姉妹の“女郎蜘蛛”三女の息子、あの兄である。 心実がいなくなったあの日、率先して心実を探してくれた彼は責任を感じており心実の失踪とネットで誹謗中傷に晒されて苦しんでいた時支えになってくれたのは彼でした…… 我ながらよく出来たストーリーだ、と十歌は思った。 実際はその後自分の過ちがバレるのを恐れた兄に呼び出されたのをきっかけに何度か食事に誘わせる運びにさせて、それを交際と言う体にして有無を言わさず結婚に持ち込んだだけなのだが。 どのみち十歌には逆らえなかった。十歌の協力がなければあの兄は今頃獄中でまずい飯を食わされていたからだ。 そして予想通りその波乱と苦悩に満ちたサクセスストーリーはネットで大反響を呼びコバエはこぞって十歌を祝福した。一部には姪っ子がいなくなったのに結婚するとかありえない、なんて声もあったが。 十歌は犬神山から市街地の景色をしばし眺めると、心の中でそっと手を合わせた。 あれから三年経った今でも心実は“見つかっていない” ネットでは未だにこぞってありもしない考察を繰り広げている。結局みんな他人事なのだ。 十歌がしばらく黙祷を捧げて、そろそろ戻ろうとした時だった。 ふいに、十歌の手に何かが触れた様な気がした。十歌は思わず自分の手を見るがそこにはなにもない。 しかし、確かにその手に小さなぬくもりを感じたのだ。かつては煩わしかった、あの幼い手のぬくもりを。 そのぬくもりにほんの少し懐かしさを感じて 「お嬢様、そろそろ」 ふいに声を掛けられ、十歌は振り返った。十歌の車の運転手だ。十歌はさっと手を払うと踵を返して下山して、車に乗り込んだ。 車のシートは綺麗に整理されていて、匂いもいい。こんな高級車に乗れるなんてかつての十歌だったらありえなかっただろう。 車が発車する。これから空港へ向かってお相手(パートナーと言う言い方はいけすかないし、かと言って夫や旦那と言うのも古い気がした)が待つ東京へ向かう。 車の窓ガラスに見知った風景が映っては通り過ぎていく。もうこの景色を見ることは少なくなるだろう。 ふんころがしは心実の件ですっかり意気消沈してしまい、大人しくなった。十歌の結婚には驚いていたが今では何かと電話をかけてきては十歌のご機嫌取りに夢中だ。 カミキリムシとはあれ以来関係が険悪になり、以来口を聞くことはなくなった。三年間いなくなった心実を探し続けていたが心労がたたって現在入院している。 昨日十歌は義理でお見舞いに行ったがカミキリムシは終始無言で最後まで目も合わさなかった。正直もう姉の事はどうでもよかった。 十歌はこれからの未来図を頭の中で広げた。東京に行けば新しい生活が待っている。 幸い纓片の家の人達は皆十歌に同情的だ。“お義母さん”と妹の方は少々十歌に懐疑的なようだが。 こればかりは仕方がない。こちらが努力で歩みよって少しずつ信頼を得ていくしかないだろう。 そこからは十歌自身の運と力だ。 悲運に見舞われ、幸運を掴んだプリンセスで終わるわけがない。こんなものはパフォーマンスに過ぎない。 自分は賭けに勝ち、纓片の家に入ったのだ。衝動的行動で思わぬ幸運を掴んだがこれからはそうはいかない。もっと慎重に動いて戦略を練らなければ。 ふんころがしもカミキリムシもその幼虫も、そして纓片の家も。皆これからの十歌の人生の踏み台だ。 何故なら十歌、いや纓片十歌は今や蛹から美しい翅を広げた蝶となったのだから。 やがて車は高速道路に入り、トンネルをくぐった。白いライトが照らす中、薄暗い闇が車の窓ガラスを覆って十歌の顔を映し出す。 その暗闇の鏡に映った十歌の顔は、どんな顔をしていたのだろうか。 それは薄暗い闇よりも仄暗く、黒い影でぬったりと映し出されて……そしてどんなプリンセスよりも、うつくしかった。 |
九家薊 2024年04月28日 21時39分50秒 公開 ■この作品の著作権は 九家薊 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2024年07月01日 00時43分54秒 | |||
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Re: | 2024年05月22日 01時21分10秒 | |||
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Re: | 2024年05月22日 00時42分13秒 | |||
合計 | 4人 | 30点 |
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