Zのネックレス

Rev.01 枚数: 25 枚( 9,751 文字)

<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部
 俺——クレッグ・ホールはその日、妙に胸騒ぎが止まらなかった。そして、夕方になってその嫌な予感は見事的中した。
 二〇二三年五月二十一日。ワイオミング州で警官をしている俺と、同僚のサム・ディッカーソンは、イエローストーン国立公園のほど近くにあるホテルからの通報を受け、支配人に聞き取りを行っていた。俺が支配人と話し、サムは調書を取った。
「それで、白人の二人連れがホテルに戻ってこない、との通報でしたが」
 支配人はニック・ゴードンという初老の男性だった。
「はい。一昨日から当ホテルに滞在されている男女二人連れが、夕食時になってもお戻りにならないのです。それだけなら、通報したりはしませんが……掃除に入ったスタッフが、これを見つけたのです」
 彼は机の上にある二通の封筒を指した。
「これは……ロシア語ですかね」
「はい。封筒の表には、二通ともロシア語で『私の死を悲しんでくれる者たちへ』と書かれているそうです。掃除スタッフが語学に堪能な者だったので、それを不審に思い中身を確認してみたところ、イエローストーン国立公園で、二人で心中するつもりだ、といった内容がロシア語で書かれていたらしく……」
「遺書ということですか」
「そうです。こんなものが残され、実際にお二人が戻らないということで……通報した次第です」
「ふむ。その二人の氏名と特徴は? できるだけ詳しくお願いしたい」
 支配人はフロント係の女性を呼び出し、二人のことを話すよう指示した。彼女は宿泊台帳を手に証言を始めた。
「男性はザウル・ネスコブリノフ様、三十台後半くらいに見受けられました。黒い短髪のがっしりとした方で、今日の服装はグレーのトレーナーをお召しでした。女性の方はゼンフィラ・フォミチョーヴァ様、長いシルバーブロンド、服装は黒のカーディガンとハットでした。こちらの方は二十台前半くらいだと思いますね。お二人とも、お揃いのネックレスを付けてらっしゃって」
「ネックレス? どんな」
「Zの字が象られている、金属のネックレスでした」
「ふむ」
 名前の頭文字だろうな、と俺は思った。ザウル(Zaur)もゼンフィラ(Zenfira)も、Zで始まる名前だ。
「二人ともロシア人か?」それまで黙って調書を取っていたサムが、突然口を開いた。
「まあ、少なくとも名前はロシア系だな」俺は適当に相槌を打った。
「お二人は、一昨日から滞在されていました。ボーイの話では、一昨日の夜に男性の——ザウル様が深酒をなさり、その影響か昨日は二人とも外出されませんでした。今日は朝八時ごろ、イエローストーン国立公園に行くと言って出て行かれ、部屋には掃除不要の札が掛けられていました」
「このホテルでは、掃除は何時にするんですか?」サムが聞いた。
「午前十時と、午後十五時の二回です。掃除不要の札がかけられている部屋は、午後の一回だけ掃除いたします」
「朝八時に出て行ったのに、掃除不要の札を掛けたのか?妙だな」サムが不思議そうに言った。
「いや、二人が心中しようとしていたなら、時間稼ぎのために掛けたんじゃないか? 十時に掃除がされていたら、その時に遺書が発見されたわけだろ。もしそうなれば、ホテルはすぐに通報したはずだ。そうなったら心中が止められかねないだろ」
「なるほどな。これからどうする?」
「とりあえず、ホテルの部屋の調査だな」
 俺たちは二人が泊まっていたホテルの部屋に入った。荷物は男女二人分、旅行用のカバンもそのまま。おそらく二人は最低限の荷物だけを持っていったのだろう。俺たちはざっと中を調べたが、特にめぼしい物は無かった。
 掃除は中途半端なまま放置されていた。途中で遺書を見つけ、驚いた掃除係の人間は掃除をほっぽり出してしまったのだろう。替えられていないベッドのシーツには、色濃い情事の痕跡が付着していた。
 その後、防犯カメラの映像を調べてみたが、男性は良く映っているものの、女性はハットを被っていたので顔は良く分からなかった。無いよりはましだろうと、一番映りの良い部分をプリントアウトした。映像を見るに、ザウルはコンパクトなポシェット、ゼンフィラは大きなナップザックを持っている。服装はフロント係の証言と一致していた。
「じきに暗くなる。応援を呼んで、明朝から捜索しよう。手紙と部屋は科学捜査班に調べてもらうか」
「今のところ、よくある行方不明事件だぞ。そこまでする必要があるか?」
「念のためだよ。最近、上が何かとうるさいからな」
 サムは顔をしかめて頷いた。

 ▽

 翌朝、俺たちはイエローストーン国立公園に向かっていた。
 イエローストーン国立公園は世界中に名の知れた観光地である。ワイオミング州北西部を中心としたこの場所はアメリカで最も人気のある国立公園であり、何百万という観光客が押し寄せる。それが何を意味するかというと——たった二人の旅行客を探し出すことは『普通なら』困難だということだ。
 しかし、今は五月下旬である。イエローストーンの観光シーズンは夏が定番なので、まだシーズンが始まって間もないくらいだ。この時期に訪れる客はそう多くない。せいぜい野生動物を撮影しに来るカメラマンくらいだ。
 だが、それなりに人目はある。なぜ彼らはイエローストーンで自殺をしようと考えたのだろうか? 単に自殺を図るだけなら、もっと人気のない場所はいくらでもあるだろう。何か思い入れでもあったのだろうか?
 とりとめのない思考を巡らせているうちに、俺たちは国立公園の入園ゲートに到着した。ゲートは全部で五つあるが、ホテルの最寄りは南のゲートだったので、俺たちはもちろんそこから捜索を開始した。

 観光客はまだ少ないとは言え、広い公園内を探し回るのは苦労するだろうと思っていたが、防犯カメラ画像のおかげで捜索は意外にも順調だった。目撃情報を頼りに足取りを追っていくと、国立公園の南西部の端にたどり着いた。州境を超えて隣のアイダホ州に入ったあたりだ。
 俺たちは道外れに駐車された車を見つけ、その付近を捜索することにした。
「道路に轍が一つしかない。この辺りには、少なくとも今日はこの車しか来てないみたいだな」
「この先は指定された歩行ルートを外れちまうぞ。俺だって命は惜しいんだが」
 サムは地熱地帯の道を歩きながらため息をついた。
 イエローストーン国立公園は、観光のルートを外れると非常に危険な場所であり、死亡事故が数多く発生している。酸性の熱水泉が点在する上、グリズリーも多数生息しているからだ。ここはまさに大自然のど真ん中と言える。
 しばらくすると、俺たちは大きな熱水泉に行き当たった。
「足元に気をつけろ。足突っ込んだら大やけどだぞ」
「分かってるって——おい、何か光ったぞ」サムは熱水泉の中を指さした。
「光った? おい待て、危ないって——」
 サムはずんずんと進んでいった。彼は熱水泉に警棒を突っ込み、それに引っ掛けて何かを拾おうとしたが、その拍子に熱水泉に少し触れてしまったようで、急に後ろに飛び退った。
「アウチ!」
「言わんこっちゃない」
 警棒に引っ掛かっていたものは、はずみで宙を飛んで俺の足元に落ちてきた。俺はそれを見て目を見開いた。
 それは、Zを象った金属製のネックレスだったからだ。

 ▽

「おいクレッグ。熱水泉でもう一つ見つかったってさ、昨日見つけたアレとペアのネックレス」
 サムは同僚から今しがた聞いたのであろう情報を得意げに俺に話した。
「じゃあほぼ確定だな」
「でも、遺体は見つからなかったな」
「無くても不思議じゃない。二人が一昨日の午前に熱水泉に転落したなら、遺体は酸性の熱水泉で跡形もなく溶かされちまったんだろう。あのネックレスは白金製だったから溶けなかったんだ」
 熱水泉で心中か、と俺は思った。熱傷性ショックで死ぬまでに結構時間がかかりそうだ。
「だけど、科学捜査班が変なことを言ってるらしい」
「はあ?」
「これは心中じゃなくて、殺人かもしれないってさ」

「二通の遺書を調べた結果、巧妙に筆跡を変えようとした形跡はありましたが、筆跡鑑定をしたところどちらも筆跡は同じでした。つまり、この二通は同一人物が書いたものです」
 科学捜査班のアビー・ウィンストンは落ち着き払って言った。
「つまり、どちらかは偽造、ということか」俺は剃り残した髭を手で触りながら言った。
「その可能性はあります」
「じゃあ、無理心中かもしれないってことか?」サムは呟いた。
「そう決めつけるのは早いだろ。男の方が何らかの理由で手紙を書けない状態だったから、女が代筆したってこともあり得る」俺はサムをたしなめた。
「確かにその通りです。しかし、この遺書には他にも重大な手がかりが二つ残されていました。
 一つは指紋です。この二通からはそれぞれ別々の指紋が検出されました——筆跡は同一だったにもかかわらず。ちなみに封筒にも指紋がありましたが、封筒から出た指紋も二種類です」
「それはちょっと変だな」サムは肩をすくめた。
「もう一つの手がかりってのは?」俺はアビーに訊いた。
「これを見てください」
 アビーは顕微鏡写真のようなものを示した。そこには、細長いまっすぐな紐のようなものがいくつも映っている。
「これは、男性——ザウルさんの遺書の封筒の外側両面と、中身の手紙の両面から発見されたポリエステルの繊維です。調べた結果、ホテルのシーツに使われているものと一致しました」
「ふうん? どうしてそれが手がかりなんだ?」サムは不思議そうな顔をした。
「この繊維はザウルさんの遺書の封筒の外側両面、および手紙の両面から発見されました。もしクレッグの言う通り、ザウルさんが何らかの理由で遺書を書けず、ゼンフィラさんに遺書を代筆してもらったとすると、違和感があります。それは、シーツの繊維の付着している部分が両面であることです」
「詳しく説明してくれ」俺は先を促した。
「遺書をベッドの上で書いたと仮定して——遺書をベッドで書くこと自体が私には信じがたい行為ですが——普通、シーツの繊維は手紙のウラ面にのみ付くはずです。しかし、この遺書には両面に付いている。変ではありませんか?」
「シーツの繊維ではなく、服とかの繊維と間違えたってことはないのか?」
「この写真をよく見てください。繊維の断面に白い点が見えるでしょう。これは特殊なセラミックスを練り込んだ、遠赤外線効果を持つ珍しい繊維です。ホテルに問い合わせたところ、彼らが泊まっているホテルでこれが使われていたのは企業とのタイアップの為らしく、新製品なのでまだ他では使われていないそうです」
「なるほどな」
「どうして、両面にシーツの繊維が付いたんだろう?」サムは腕を組んだ。
「遺書をたまたまシーツの上に置いていたとか」俺は思いつきを口にした。
「手紙は封筒に入っていたんですよ。普通、封筒の中身を出してわざわざシーツの上には置かないと思いますし、裏返しにして置くことはより考えにくいです」
「アビー、お前はすでに納得のいく答えを見つけているんじゃないか」俺は聞いた。
「状況から仮説は立てられますが、憶測の域を出ません」
「ひとまず、その仮説を喋ってみてくれ」
 俺がそう言うと、彼は首を横に振った。
「嫌です。憶測でものを言いたくはありません」
「出たよ」俺とサムは顔を見合わせてため息をついた。
 アビーは頭が切れるが頑固な人間で、一度自分が決めたルールはなかなか曲げない。たとえ、それが組織のルールには反していても。
「昼食を済ませてから、二人の身辺について調べてる奴に話を聞いてみるか」
 俺たちは科学捜査班を後にした。

 ▽

「ハーイ、クレッグにサム。実は、例の行方不明の男女についてちょっと耳寄りな報告があるわ」
 後輩のフリーダ・カルトは、そう言って俺たちを歓迎した。
「何だ、男と女どっちかが浮気性だったとか? だったら嬉しいね」サムはそう軽口を叩いた。
「残念ながら違うわ。まず、男性——ザウルは元々ロシアの軍人だったんですって。ウクライナ侵攻で、ロシア側の兵士として戦った内の一人よ。
 戦争中にPTSDを発症して、半年ほど前にウクライナに投降し、その後アメリカの親戚の所に移り住んでいたんですって。でも、アメリカに移ってからもPTSDが続いて精神科に通院していたらしいわ」
「それは気の毒なことだ」サムはゆっくりと首を横に振った。
「女性の方は?」
「ゼンフィラは、ザウルの友人によれば彼がアメリカに移ってすぐにできたガールフレンドだったそうよ。家の近くの公園で知り合った、と友人には言っていたらしいわ。ロシア人留学生で、大学では地政学を専攻しているって。
 でも、驚いたことに、その大学を調べてもゼンフィラ・フォミチョーヴァという女性が在籍しているという事実は無かったのよね」
「えっ?」
「友人の話が間違っていた可能性も考えて、ザウルの自宅近くにある大学を全部洗ってみたけど、ゼンフィラの名前は何処にも無かったわ。これは変だと思わない?」
「つまり、彼女は経歴を詐称していたってことか?」
「そうなるわ」
「うーん、それは怪しいな」サムは唸った。
「そういうわけで、ゼンフィラの周辺人物については手がかり無し」
「ザウルの友人から、他に何か情報は得られなかったか? その、二人の最近の関係性についてとか」
「友人の話では、いたって良好だったらしいわ。予定を合わせて二人きりで旅行に行くことは珍しくなかったそうよ。
 それに、二人とも自殺するようには思えなかったって。熱水泉で見つかったっていう揃いのネックレスは、旅行の直前にゼンフィラがザウルにプレゼントしたものらしくて、彼はすごく喜んでいたらしいわ。情報はこれくらいかしら」
「分かった。ありがとう」俺は頷いた。
「いえいえ。そう言えば、二人は科学捜査班へ話を聞きに行ったのよね? アビーは何て?」
「殺人の可能性があるって言ってた」サムが言った。
「でも、あいつは肝心な所だけ俺たちには教えてくれないんだ」俺は愚痴をこぼした。
「彼はじっくり考えたいタイプなのよ」彼女はアビーを信用しているらしい。
「とりあえず、もう一度アビーの所に行かないか? フリーダから得た情報をアビーに共有すれば、あいつなら何か分かるかもしれないだろ」俺はそう提案した。
「私も行くわ」

 ▽

 俺たちは再び科学捜査班を訪れた。今度はフリーダを合わせて三人だ。
 フリーダは俺たちに話したことと同じ内容をアビーにも話した。彼は注意深く彼女の言葉に耳を傾けた。
 次に、彼は俺たちに聞き取りの内容について説明を求めてきたため、俺とサムは調書を見ながらホテルで聞き取ったことを洗いざらい話した。さらに、ネックレス発見時の状況も訊かれたので、それも説明した。
 説明が終わると、アビーは今まで見たこともないような表情をした。何やら複雑な感情に襲われているらしい。
「ううん……大体のことは分かったのですが……しかし、これは……」
「ちょっと、アビー。私たちは苦労して情報を集めてきてあげたのよ。ちょっとくらい瑕疵があったとしても、仮説の信憑性は高まったんじゃない?」
「そうだそうだ」サムは彼女を援護した。
「ですが、かなり突飛な仮説である上、論理に一つ穴があります。さらに、結局は仮説でしかなく、証拠不十分です」
「証拠はこれから集められるかもしれないだろ。お前が話さないことには、俺たちは不足している証拠が何なのかも分からない」
 俺はそう追い打ちをかけた。
「……仕方ないですね」アビーは観念したようだった。「いいですか皆さん、くれぐれも他言無用ですよ」
 彼は嫌々といった風に話し始めた。
「私の仮説は、ゼンフィラさんは心中に見せかけてザウルさんを殺した、というものです。しかも彼女は、かなり計画的にこの殺人を行っていると考えられます」
「どうしてそう思うんだ?」サムが口を挟んだ。
「順番に話しますのでお待ちください。動機については、少し込み入った仮説になるので最後に回します。そうですね、ゼンフィラさんが旅行前にした準備から話しましょう。
 まず彼女は、ロシア人留学生を装い、ザウルさんに接近しました。まあ、方法は色々あるでしょう——偶然を装って公園で会い、色仕掛けするとか。とにかく彼女はザウルさんのガールフレンドになることに成功しました」
 俺はフリーダがピクリと眉を上げるのを見たが、彼女は何も言わなかった。
「何回か一緒に旅行に行き、ザウルさんの信用を得たところで、彼女はイエローストーン国立公園への旅行を提案します。大学がたまたま休みだとか、理由はどうにでもなるでしょう。そして、旅行前に例のZのネックレスをプレゼントし、お揃いで旅行に付けていくことも提案しました」
 俺は想像してみた。大好きな彼女にもらったお揃いのネックレスなら、旅行に付けていくことに特に抵抗は無いだろう。
「そして、彼らはホテルに車で向かいました。ホテルに着いた当日、彼女はホテルで彼に深酒をさせて酔い潰しました。もしくは睡眠薬を盛ったかもしれません。
 彼が眠った隙に、彼女は事前に偽造しておいた遺書の封筒と、中身の手紙に彼の指紋を付けます。その方法は実演した方が分かるでしょう」
 ここで、彼は突然床に仰向けに横たわった。手のひらは上を向いている。
「私をザウルさん、床をシーツだと思ってください。フリーダ、そこのA4用紙を取ってください……そう、それです。それを遺書の手紙に見立てて、両面を私の指に押し付けてください」
 フリーダはA4用紙の文字が書いてある方を彼の指に押し付け、裏返して文字の書いていない方も押し付けた。
「ストップ。そこで動きを止めて。クレッグ、今のを見て何か気づきましたか?」
「……どっちの面も、床に触れてた」
「そうです。これが中身の手紙の両面にシーツの繊維が付着した理由です」
「封筒に付着した繊維も……?」
「同様にして両面に指紋を付けたのでしょう」アビーは起き上がりながら言った。
「でも、こんなことをしなくても、腕を掴んで手紙に押し付ければいいじゃないか」サムは不満そうに言った。
「恐らく、そうできない理由があったのでしょう。彼はPTSDを患っていましたし、眠りが浅かった可能性は高いです。腕を取るだけでも、眠りを妨げるリスクはあります。特に彼女はこの殺人に関して、事前に気づかれることだけはなるべく避けたかったため用心していたのだと思います」
「どうしてそこまで?」
「それに関しては動機に絡んでくるので後ほどご説明いたします。
 ホテルに着いて二日目、ザウルさんは酔いつぶれたと思いこみ一連の出来事には気づきません。彼女はその日は大人しく過ごしたのでしょう。そして三日目、ついに犯行当日です」
 俺はゴクリと唾を飲んだ。
「彼女はホテルの部屋に、ザウルさんに気づかれないよう遺書を残し、掃除不要の札を掛けておきます。彼女は大きなナップザックに変装用の服と小ぶりな凶器を隠し、ザウルさんと共にイエローストーン国立公園に向かいます。そして、ザウルさんをさりげなく公園の南西部の端に誘導します」
「ちょっと待った。どうして南西部なんだ?」俺は彼を制した。
「おや、ご存知ないですか。『ゾーン・オブ・デス』を」
「『ゾーン・オブ・デス』? 何となく、聞き覚えがあるような……」
「『ゾーン・オブ・デス』はイエローストーン国立公園の南西部にある南北に長い地域で、行政区画上はアイダホ州に属します。アメリカ合衆国憲法修正第六条の不備により、この地域で発生した殺人を含む重大な刑事犯罪は理論上、裁判所で裁くことができないのです」
「えっ!」サムは叫び声を上げた。「知らなかった。どうしてそんなバカなことが起きてるんだ?」
「そうなった経緯は複雑すぎるので、後ほどご自分で調べてください」
「話を続けてくれ」俺は先を促した。
「ゼンフィラさんはザウルさんを『ゾーン・オブ・デス』に誘導後、何らかの方法で殺害し、熱水泉に突き落とします。そして、自らのネックレスも泉に投げ入れます。その後、服を着替え、元の服やナップザックを熱水泉に放り込み、その場を後にします」
「ザウルは屈強な軍人だぞ。女性のゼンフィラにそう易々と殺害できるか?」
「普通の女性なら彼を殺害することは難しいでしょうね。しかし、彼女が『普通では無かった』としたら?」
「どういうことだ?」
「彼女は、ロシアのスパイだったのです」
「ええ!?」今度は俺たち三人が声を合わせて驚いた。
「よく考えてみてください。彼女は遺書を偽造していますが、これ自体が普通の女性には難しいことです。筆跡を真似るのは簡単ではありませんし、ロシア語は女性名詞と男性名詞が違うので、より難易度が高い。
 にもかかわらず、彼女は遺書を偽造できた。これは彼女が偽造の訓練を受けたことがある、ということを示唆しています。事実、筆跡鑑定をしなければ偽造はバレなかったでしょう」
「でも、そんな……論理が飛躍しすぎてない?」
「もちろん飛躍はあります。ただ、こう考えると動機にも見当が付きます。ザウルさんはウクライナへ投降した兵士でした。ロシアの一部の勢力に、彼は裏切り者とみなされたかもしれません。実は、Zの文字はウクライナ侵攻を支持するシンボルでもあります。
 とにかく何者かが、彼の殺害をゼンフィラさんに命じた。その結果、彼女はスパイとしてアメリカに潜入し、彼に接近して殺害した、という推測ができます」
「心中に見せかけていたのは、アメリカとロシアの間で国際問題が起こることを避けるため……」俺は呟いた。
「恐らくそうでしょう」アビーは頷いた。「もしくは、一旦は警察の目をくらませて、逃走の時間を稼ぐためかもしれません」
「だが、まだ論理の穴について聞いてない。今のところ、俺はまだ穴を見つけられてないんだが」
「論理の穴に関する部分はまだ話していませんから。問題はゼンフィラさんがザウルさんを殺害した後、どうやってその場から離れたかと言う部分です」
「どうやってって……車で……あ」サムは口ごもった。
「来た時の車を使えば、心中でないことは一目瞭然になります。あの場所に車ナシで行くのは無理ですから。つまり、彼女は来た時の車はその場に残して、別の手段を取る必要があった」
「別の手段って?」
「例えば、協力者に車を用意してもらうとか。犯行後にゼンフィラさんから連絡を受けた協力者が、彼女を車でピックアップしてイエローストーン国立公園から出ればいい」
「でも、他に車の轍は無かったぞ」
「そこが、論理の穴です。ゼンフィラさんが仮にこの方法を取ったとすれば、轍は他にもあったはずです。しかし、無かった」
 一同は沈黙した。

 ▽

「大変だ、大変だ!」
 アビーの推理を聞いた翌日、仕事をしているとサムがオフィスに駆け込んできた。
「どうした?」
「一応まだ、あのゾーン・オブ・デス周辺の捜索は続いてたんだけど……付近から、溶けかけた女性の腕が見つかったんだ。オオカミが咥えてたんだってさ」
「えっ⁉ ゼンフィラか?」俺は驚いた。
「多分。指紋が遺書に付いてたものと一致したってさ」
「彼女は死んでいたってことか? それで、もう一つの大変なことって言うのは?」
「その指紋が、スパイ容疑のかかってた女性のものとも一致したんだ。この事件は、後の捜査はFBIが担当するらしい」
「ワオ」俺はうんざりとして言った。FBIが出張ってくるなら、これ以上の捜査は許可されないだろう。
「アビーの推理はある程度正しかったみたいだな。でも、ゼンフィラはどうして死んだんだろう」
「返り討ちにあったんだろ」俺は言った。「それか、彼女は本当にザウルを愛していたのかもな。殺したはいいものの、彼が死んでいくのを見て、絶望して後を追ったとか。まあ、その辺の真相は当人たちにしか分からないな」
「どっちにしろ、良い気分はしない事件だったな。ゾーン・オブ・デス内の事件だから、もしゼンフィラが生きてて逮捕できたとしても、裁けなかっただろうしさ」
「まあ、飲みにでも行って憂さ晴らししようぜ。ところで、この事件でお前は何に一番腹が立った?」
「戦争かな」
 珍しく、俺もサムと同意見だった。
春木みすず

2024年04月26日 23時01分40秒 公開
■この作品の著作権は 春木みすず さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:ところで、この事件でお前は何に一番腹が立った?
◆作者コメント:
イエローストーン国立公園で行方が分からなくなった男女二人組。
泊まっていたホテルからは二人分の遺書が発見され、また国立公園の熱水泉からは彼らがつけていたZの文字を象った白金製のペアネックレスが発見されたことから、州警察は心中と考えていた。
しかし、科学捜査班は遺書を調べてある事実に気づく──。

初めてのミステリー作品です。「私が犯人ならこうやって殺す」みたいな気持ちで書きました。

2024年05月11日 23時41分03秒
+20点
2024年05月11日 22時48分49秒
2024年05月10日 22時28分05秒
+30点
2024年05月10日 19時58分52秒
+30点
2024年05月06日 11時33分24秒
+10点
2024年05月06日 09時59分54秒
+10点
2024年05月04日 21時47分11秒
合計 7人 100点

お名前(必須) 
E-Mail (必須) 
-- メッセージ --

作者レス
評価する
 PASSWORD(必須)   トリップ  

<<一覧に戻る || ページ最上部へ
作品の編集・削除
E-Mail pass