常世の食事 |
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灰谷(はいたに)から連絡があったのは数年ぶりのことだった。転勤族で全国を転々としてきた男だったが、数か月前にこちらに赴任してきたのだという。 「懐かしいなぁ、元気にしてたか? お前、ちっとも変わってないな」 居酒屋で相合を崩した灰谷こそ、かつて大学で一緒にバカや無茶をやった頃から、少しシワと白髪と脂肪が増えたくらいだ。若々しいというか、成長がないというか。 そう言ってやると、笑いながらテーブルの下で足を蹴られた。それそれ、そういうところがまだガキだってんだよ。 かつての仲間というのはいいものだ。瞬時に時空を超えて、甘酸っぱく輝いていたあの頃に心を戻してくれる。 とはいえ、心は若いつもりでも四十代の体は正直だ。語り明かしたい気持ちるを引き摺りながら、俺たちは二時間弱でその居酒屋を後にした。 二軒目に向かいたいが、肝臓にそれを拒否される。さりとてここで解散するのはあまりにも寂しい。 そこで俺は灰谷に提案した。 「どうだ、ちょっとうちに寄っていかないか?」 灰谷も密かにそれを期待していたのだろう。嬉しそうな顔を隠そうともせず、それでも一応の礼儀とばかりに決まり文句を口にした。 「いやいや。こんな時間にいきなりじゃ、奥さんに悪いだろ」 皆まで言ったところで、彼は失言に気付いて口元を覆った。 「悪い。その、ついうっかり……」 「いいんだよ、気にするな。というか、知ってたのか。嫁と子どものこと」 「あ、あぁ。なんというか、風の噂でな。お前の奥さんが、出ていっちまった、って。……ほんとなのか?」 灰谷らしくない歯切れの悪さ。先月別の仲間と呑んだ話をしていたから、そのとき話題に上ったのだろう。仲間内での結婚話はとうに落ち着き、今最もホットなネタは健康問題と家庭の愚痴だ。 あまり気を使わせても悪いし、俺は曖昧に笑みを浮かべるに留めておいた。 「まぁそういうわけで、家には俺一人だ。なにも遠慮する必要はないが、どうしてもというならツマミを奢ってくれてもいいぞ」 俺の軽口に灰谷はホッと胸を撫で下ろし、「三個までだぞ」と笑った。 § 家に着いて三十分もすれば、気心の知れた者同士のまったりとした時間が流れていた。 お茶で割った薄い焼酎をチビチビやりながら、灰谷が少し遠慮がちに口を開いた。 「お前の奥さん、結婚式のときに見たきりだが、小柄で可愛らしい感じの人だったよな。ずっとニコニコしててさ」 「ずいぶん懐かしい話だな。十年以上夫婦を続けてりゃ、ツンケンとまでは行かないが、毎日の表情なんてそう変わらないさ」 「なぁ、なんで出て行ったんだ? いや、言いたくなければ無理にとは言わないが」 俺は、ほぼ炭酸水のハイボールを一口舐めて、首を傾げた。 「わからないんだよなぁ、それが。性格の不一致だったといえばそれまでだが、そこまで不仲だったわけじゃない。十数年連れ添ったなりのごく普通の夫婦だった、と、今でも俺は思ってるんだ。それが、ある日突然……だから、悲しいとか怒るとかいうよりも、ただただ驚いてな」 「そうなのか? 俺はてっきり、どっちかが不貞を働いたんだとばかり」 「失礼な。俺は誓ってそんなことはしないし、あいつだってそんな女じゃない……はずだったんだがなぁ」 「ま、出て行った理由もわからないようだし、その辺に原因があるんだろうな」 灰谷の言葉には少なからずムッとしたものの、俺はぐうの音も出ず、残りのハイボールを煽った。 「しかし、正直助かったよ」 ツマミを噛みしめながら、灰谷がしみじみと言う。 「なにがだ」 「今日こうやって、お前の家族に気を使わずにお邪魔できたことだよ。ちょっと今、家には帰りづらいんだ」 今度はこちらが身を乗り出す番だった。 帰りづらいとは、穏やかではない。しかし灰谷は昔から独身主義で、家で待つ人はいないはずだった。 「なんだなんだ、面白そうな話じゃないか。早く続きを聞かせろ」 「なにを期待してるんだ。お前がような話じゃないよ、まったく」 言って灰谷はグラスを煽ると、慣れた手つきで再度お茶割りを作った。今度は心なしか、焼酎の割合が多かった。 新しい酒を一口舐め、「どこから話そうか」と灰谷は目を泳がせた。 「……知っての通り、俺は転勤族だからな。会社が用意した社宅や一人暮らし用のアパートなんてものには、正直もう飽き飽きしていた。それで、こっちに赴任が決まったときに、自分で家探しをしてみたんだよ。幸い、すぐにいい物件が見つかってな。隣町の閑静な住宅地、というよりもただの田舎なんだが、なんとなく俺の実家の周辺に雰囲気が似ててな。近所に住む人も感じが良かったし、一人暮らしにちょうどいい広さで家賃も手頃だしで、即決したんだ」 「まさか欠陥住宅だったのか?」 「いや、家自体に問題はない。築七十年で見た目は古いが、中はリフォームされてるしな。住み心地はいい家なんだよ。ただ、なんて言えばいいのかな……」 灰谷は言葉を選んでしばし口をつぐみ、俺はグラスを回しながら続きを待った。 「最初にソレに気づいのは、住み始めて三カ月ほど経ったときだった」 「ソレ?」 「あぁ。うちの庭と道路はブロック塀で仕切られてるんだが、その上にある日、タッパーに入ったいかにも手作りといった感じの弁当がな、置かれていたんだ」 「手作り弁当? なんだそりゃ」 「俺が訊きたいよ。そんなことが度々起こるんだ」 灰谷の言葉通り、話は俺が予想していたのとは全然違う方向に向かっているようだった。俺は居住まいを正し、話の続きに耳を傾ける。 その弁当は、朝出勤のときにブロック塀の上にあり、夜帰宅したときにはなくなっているらしい。中身は野菜の煮物、炊き込みご飯、おにぎりとおかずのセットなどまちまちだったが、いかにも田舎の家庭料理、といった風情なのだという。 最初は、近所の人の忘れ物かとあまり気にしていなかった。土地柄的に、朝早くから農作業に精を出す住民も少なくないそうだ。 しかし、月に一回だったそれが二回になり、やがて週一のペースになると、さすがに不審に思うようになった。 「近所の誰かがお裾分けをしてくれているんじゃないのか?」 「それなら休日や夜に尋ねてくればいい話だろ。誰がくれたかもわからない、その上外に置き去りにされたものが食えるかよ。そもそも俺宛てかどうかもわからない。弁当はいつもどこかに消えてるんだ。猫やカラスに荒らされたこともないし」 「消えてるっていっても、ずっと見てたわけじゃないんだろ? 誰かが勝手にお前んちの塀を、弁当置き場か弁当渡し場かに使ってるんじゃないのか。それはそれで迷惑な話ではあるが」 灰谷の話だけでは、俺には彼がそこまでその弁当を怪しむ理由がわからなかった。しかし灰谷は不審を通り越し、怯えすら滲ませながら首を振った。 「いや。先週ちょうど休みの日の朝に置いてあったから、だれが回収してるのかとっちめてやろうと思って見張ってたんだよ」 「……そしたら?」 「ほんの一瞬だったんだ。ほんの一瞬だけ目を離しただけなのに、もう弁当は消えてたんだよ」 「…………」 「俺はすぐに外に飛び出した。でも、誰もいなかったんだ。走って逃げるにしたって、後ろ姿くらいは見えるもんだろ? でもそれもなかった。あの弁当は、本当に、まるで煙のように消えちまったんだよ!」 自分のその大きな声に驚いたように、灰谷は大きく肩を揺らした。ハッとして、取り繕うようにグラスに口をつけ一気に飲み干すと、深いため息をついた。 「と、いうわけだ。なんだか気味が悪くてな、最近家に帰るのが憂鬱だったんだよ。いい年したオッサンがなに言ってんだって、我ながら呆れちまうんだけどな」 乾いた笑いを漏らす灰谷からは、先ほどまでは微塵もなかった”老い”がたしかに漂っていて、なんだか俺自身も寂しさを感じてしまった。 「それって、心当たりはないんだよな?」 「ないな。近所の人とそこまで親しく付き合っているわけじゃないし、嫌がらせをされる覚えもない。こんなオッサンをストーカーするやつがいるとも思えないし」 「相談できる人はいないのか」 「いたら、せっかく久々に会った友人にこんな変な話しないさ」 自嘲するように言ったあと、灰谷はふと動きを止めた。 「いや、待てよ……」 「どうした」 「もしかして、大家ならなにか知ってるかもしれないな。そうか、そうだよ。大家に訊けばいいんだ!」 灰谷は興奮気味にそう言うと、「やっぱりお前に話してみて正解だった!」と破顔した。 俺は、どうして今までそれに気が付かなかったのかと突っ込みたいのを我慢して、鷹揚に頷いてやったのだった。 § 翌朝、遅めの朝食の準備をしていると、結局泊まった灰谷が腹を掻きながら起きてきた。食事を並べたテーブルを目にし、あくびを止めて感嘆の声を上げる。 「ものすごくちゃんとした朝食じゃないか。気を遣わなくてよかったのに」 「なんでお前に気を遣うんだ、俺の家ではこれが普通なんだよ。さっさと顔を洗って来い」 身支度を整えた灰谷を迎えたテーブルには、ご飯とみそ汁、ミニトマトを添えた卵焼き、納豆が鎮座している。灰谷は再度「ビジネスホテルの朝食みたいだ」と嘆息した。 「褒めてるのか、それ」 「最大級の賛辞だよ。なにがすごいって、男やもめがここまできちんとした朝飯を作っているのがすごい」 「お前の常識は二十年遅れてるよ。嫁がいたころから、朝飯は俺の当番だったんだ」 灰谷は信じられないという顔で俺を見つめ、みそ汁を一口すすって納得した顔をした。 「インスタントだ」 「そこまで手をかけられるか。二人しかいないんだぞ」 俺は自分の分に手を付ける前に、おもちゃのように小さなお椀にご飯とみそ汁を取り分けたものを盆に乗せ、カウンターの片隅に置く。毎度のことながら手を合わせそうになるのを堪えて、席に着いた。不思議そうな顔の灰谷に、どこか言い訳がましく言う。 「嫁の陰膳だよ。どこかで腹減らしてなきゃいいなと思って、なんとなく続けてるんだ」 「お前……いい奴すぎないか? なんで嫁さんはお前を置いて出て行っちまったのかな」 「そういうのやめろよ、なんか惨めになるから。それより早く食え。今日は大家の家を訪ねるつもりなんだろ」 自宅で起きる不審な出来事について、大家に尋ねることに遅まきながら思い至った灰谷は、そうだったと頷いて食事に箸を戻した。 「お前がついて来てくれるの、心強いよ」 「休みだし、暇だからな」 それに、昨夜の話には自分でも意外なほど興味をそそられたのだ。 俺たちはさっさと朝食を片付けて出かけることにした。 § 大家というのは、灰谷の家のすぐ近所に住んでいて、いかにも人好きするような壮年の男性だった。 経緯を話すと、大家は細い目を大きく見開いて驚き、やがてそのえびす顔を曇らせた。 「あのブロック塀を近所の誰かが弁当置き場にしている、なんて話は聞いたことがないですね。灰谷さんもご存じの通り、この辺は素朴な田舎ですから、変ないたずらの類ではないでしょう。田舎というのは閉鎖的でよそ者を嫌う側面も確かにありますが、あなたに対するおかしな噂というものも、もちろん僕の耳には入ってきていませんしね」 「そうですか、それを聞いてひとまず安心です。しかしでは、あの弁当はなんなのでしょう? 忘れ物でも嫌がらせでもないとすると……」 大家は言いにくそうに口を開いた。 「お貸ししているあの家は、元は僕の祖父母が建てたものです。いわくもないですし、事故物件でもありません。あの家で、誰かが亡くなったということはない。ただ……」 「ただ?」 「以前住んでいたのが、少し変わった人物でして。灰谷さんの話を聞いてみると、それが関係しているのかもしれませんね」 灰谷と俺は顔を見合わせる。灰谷の顔はすっかり強張っていた。 「ど、どんな人物が住んでいたのですか?」 「言葉は悪いですが、いわゆるロクデナシですよ。若い頃から定職につかず遊び歩き、長らく姿をくらましたと思ったら、還暦近くになって親の年金をあてに帰ってくるような、ね。近所からも白い目で見られていました」 しかしそんな息子でも両親は切り捨てられず、少ない年金で彼を養っていたらしい。 やがて両親が相次いで亡くなると、男は家に引きこもるようになった。 「男のすぐ近くには、彼の年の離れた兄が住んでいました。両親が生きていた間は援助を惜しまなかったようですが、なにを言ってもまったく改心しない弟に匙を投げたらしく、両親の死後は一切の援助を打ち切ると啖呵を切ったそうです。ですが、世間体が気になったのか、それとも兄弟の性なんでしょうかねぇ……実の弟のことを完全には捨てきれず、かといって大っぴらに助けるわけにもいかず、時折自分で作った食事をブロック塀の上にこっそり置いていましたよ」 その兄も、両親の死後一年もせずに亡くなった。もともとガンで闘病中だったのだという。 兄の四十九日ののち、男が近所の雑木林で自ら命を絶っているのが見つかった。 家には遺書が残されていた。病を得て最期は郷里で、と帰ってきたものの、周囲の人間の方が先にどんどん死んでしまう。まるで自分が疫病神のようで本当に申し訳なかった、とたくさんの涙の跡とともに綴られていたそうだ。 「もう、十年近く前の話です。あの家はそれ以降ずっと空き家のままだったんですが、去年リフォームして借家にしたんですよ。あそこでなにかあったわけではないし、時間も経ったことだし、と」 灰谷は緊張をほぐすようにお茶を口に運んだが、その手は小さく震えている。俺も、知らずごくりと喉を鳴らした。 大家は申し訳なさそうに言葉を続けた。 「実は、ロクデナシの男とは僕の叔父のことなんです。世話をしていた兄というのが、僕の父でして」 「はぁ」 「父は頑固者でしたから、叔父に優しい言葉の一つもかけてやったことはないのでしょうが、最期まで気にかけていましたよ。父の方が先に亡くなったから、まだ叔父が死んだことを知らないのでしょう」 「と、言いますと…」」 「その、つまりですね。あなたがあの家に住みはじめたから、父は、叔父が帰ってきたのと勘違いして食事を運んでいるのかも」 「まさか、そんな」 「ですが僕には、灰谷さんの話を聞いてこのことしか思いつかないんですよ。驚かせてしまい、本当に申し訳ありません」 大家がテーブルに着くほど深く頭を下げるので、俺のほうが恐縮してしまった。 死んだロクデナシの弟のために、これまた死んだ兄が手作り弁当を運んでいる? にわかには信じがたい話ではある。しかし、大家には非のない話だ。 灰谷は隣で固まっている。 「……遺書にはね、『兄ちゃんの少し塩辛い筍の煮物が、もう一度食べたい』と、結ばれていましたよ」 寂しそうにそう言う大家につられ、俺は鼻の奥がツンとしてしまった。 § 大家を訪ねた帰り道、灰谷は一言も口を利かなかった。そして、当たり前のように俺の家に共に帰宅した。 「どうしたっていうんだ、お前」 灰谷が寄せた眉根を俺に向けた。自然俺も詰問調になる。 「なんだよその顔は。言いたいことがあるなら言えよ」 「……お前、どう思った?」 「なにがだ」 「大家の話に決まってるだろ。どう思った?」 なに怒ってんだよ、と文句を言いたいのを堪えて、俺は灰谷に応えた。 「大家のお父上たちの兄弟愛には、グッとくるものがあったよ。素直になれない弟と、それを見捨てられない兄の絆なんて、小山田洋次の映画みたいじゃないか」 「…………」 「もちろん、あの話を頭から信じたわけじゃないがな。よくできた話だとは思ったよ。弁当の真偽は結局よくわからんが、あまり気にしない方がいいんじゃないか? たしかにいい気はしないが、実害はないんだろ?」 灰谷は大きなため息を吐いたあと、少し掠れた声で言った。 「俺は、大家の話を信じたよ。確かに現実離れしていたが、実際に弁当が消えたのを見ている身としては、納得のいく話だった」 「じゃあ、なにをそんなに悩んでるんだよ」 「お前なぁ……よく考えてもみろ」 灰谷の声には呆れが混じっていたが、俺をまっすぐ見る目は真剣で、その上どこか怯えを滲ませていた。 「大家のお父上が置いているという食事を回収してるのは、だれだ? そしてそいつは、いったいどこに住んでる?」 「あ……」 「それを考えると、とてもじゃないがもうあの家には帰れないよ」 灰谷が身震いするのに合わせ、俺も二の腕が粟立つのを感じた。 灰谷の家に潜んでいる怪異に恐怖を感じたのではない。 チラリとカウンターの隅を見る。朝用意した小さな陰膳は、いつものように空っぽになっていた。 あれはやはり、そうなのだ。 床下に眠る二人が、自分たちの食事を片付けているのだ。 俺の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。あの日、フラリと早く帰宅したのは虫の知らせだったのか。家に着く寸前の公園で目に飛び込んできたのは、仲睦まじいカップルだった。精悍な若者と、そんな男に蕩けるような笑顔を向ける嫁。あの二人はなにをするつもりで、俺の家に帰ってきたんだろう? 俺は凶器を持って出迎えて、そして………… 「お前には申し訳ないが、しばらく落ち着くまでここにおいてくれないか? 二、三日のことだ、すぐに社宅を手配してもらうから……」 灰谷の声が遠くに聞こえる。 仄暗い床下から、青白くゆらめく二つの影がゆっくりと這い出てくる。一つは大きく、一つは細い。視界の隅で、そんな幻影が蠢いた。 引越しを決行しようという友人とは裏腹に、俺は一生この家を離れないと心に誓った。 |
凧カイト 2024年04月26日 21時33分24秒 公開 ■この作品の著作権は 凧カイト さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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