遺書は捨てても蘇る |
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自分と関係ないところで起きている危機や悲劇は、なんだか少しわくわくする。 成績を落とした妹が、リビングで叱られている声を自室で寝転んで聞く時だとか。 交通事故現場で血塗れになって倒れる人の隣を、自転車で走り抜ける時だとか。 ソフトボールの部活の試合で、先輩が酷いエラーをして試合が無茶苦茶になる時だとか。 不幸に陥る人達を嫌っている訳じゃないのだ。ただ人の危機や不幸を目の当たりにすることで、自分が今安全であることを心から感じられるのが痛快なのだと思う。優越感に浸り偽悪に酔い暗い快感を愉しむ。そういう感覚はきっと誰にでもあるのではないか? だから、浅原の身体が校舎の屋上から落ちて来るのを目の当たりにした時も、悲鳴を上げる妹の隣で、わたしは非日常的な興奮を覚えていた。 浅原はクラスのいじめられっ子。嫌味や陰口なんてものはとっくに通り越していて、面白半分にハサミで髪を切られるとか財布扱いで連れ回されるとか人前で裸で踊らされるとか、悲惨な被害に遭っていたようだ。そのことは誰の目にも明らかなのだから、警察なんかにそれを証明して助かる方法はいくらでもありそうなものだけれど、実行する度胸も行動力もない。そんな子だ。 その浅原は今鈍い音を立てて校舎の前のコンクリートに身体をしたたか打ち付けていて、手足を妙な方向に折り曲げて頭から血を流し、倒れ伏している。 自殺したんだ。 誰だってそう思うし実際そうだろう。 大変なことになったぞと、わたしは非日常感に胸をときめかせるようにして、浅原の身体ににじり寄る。後ろでは一緒にその光景を目撃した妹が今も泣きじゃくっているが、姉ぶって慰めてやる前にわたしは死体に興味がある。 「姉さん……?」 不信感を纏った妹の声が聞こえて来る。こいつさえいなければスマートホンで写真をカシャリとしても良いところだけど、今得ている信頼や尊敬を捨てる程でもないので我慢する。信じられない程の血溜まりの大きさや、あり得ない箇所があり得ない角度に曲がっている手足を眺め、浅薄な背徳感を満たしていたその時だった。 浅原のスカートのポケットから、一枚のノートの切れ端がぽろりとこぼれる。 折りたたまれたそれにもちろん手を伸ばす。 遺書と描かれている。 見ずにはいられない。わたしは興奮と共にその紙を開く。 びっしりと並んだ文字の最初の二行には、以下のように描かれていた。 前園さくら、三島和江、神崎鳩子の三人にいじめられました。 だから、私は自殺をします。 「……は?」 それを見て、わたしは呆然とする。 神崎鳩子とは、他でもないこのわたしの名前だったのだ。 〇 何かの間違いだ。と、遺書を開きながらわたしは考えていた。 まったく、身に覚えがない。 だってわたしは浅原をいじめたことなんてない。わたしは浅原の友達だった。高校に入ってから少し距離が出来たが、中学の頃は妹と三人で良く遊んだし、教室でいじめられる彼女を見かけると、それとなく庇ってやったことさえある。 グループ別けであぶれて困っている時に声を掛けてやったこともあるし、泣きじゃくりながら苦しみを吐露する浅原の話を優しく聞いてやったこともある。わたしはクラスでは級長で、そういう役割に慣れていて自然体で誰にでもそういうことが出来たし、その一方で前園や三島ともしっかり仲良くやっていた。特に器用なつもりもない。ただいつも堂々として誰にでも親切に接するというのを実践していれば、どんな環境でもそういう立ち位置でいられる。 わたしは人望があるし優しい。 内心で十人並に性格の悪いことを考える時もあるが、それを口に出さないだけの品性も、自制心もある。 敵なんて作らないし、いじめなんて愚かな真似はしなかった。 それがどうして? 「姉さん」 妹のすずめが訝るような声を掛けて来た。 「その紙、なんですか?」 近付いて来るすずめから背を向けて、見えないように隠しながら遺書を懐に入れ、代わりに鞄からテキトウなプリントを引っ張り出す。 「何かと思って開いてみたけど、ただのプリントだったみたい」 わたしはプリントを持ってない方の手を開いてすずめに向けながら、はっきりとした口調で言う。 「……? そうですか」 すずめはそれで納得してしまう。バカな奴なのだ。 「浅原さん、悩んでましたよね」 そう言ってすずめは浅原の前にしゃがみ込み、顔を覆って泣きじゃくり始める。 すずめは浅原とは違うベクトルですっとろいタイプの子供で、同学年に友達がいない所為か姉のわたしやわたしの友達の浅原と良く一緒に遊んでいた。 容姿や能力が人に劣る訳ではない。むしろ大きな切れ長の瞳と小作りだが高い鼻と薄い唇という涼し気な容姿と、日々のがり勉で培われた優秀な成績を持っていた。しかし家族にすら敬語で話す程四角四面とした性格で、融通の利かない正義感の持ち主で、その所為か色んな環境で上手く立ち回れず気が付けば孤立していた。 その為、教室で被虐者の地位にある浅原に共感・同情し、良く相談を受けていたようだ。 「浅原さんの学校や警察に証言しましょう。いじめがあったって」 「そうだね」 その日は休校になった。早速証言をするのだというすずめに付き合って校長室に向かい、浅原から聞いたことを必死で訴えるその様子をぼんやり眺めた後で、帰宅する。 「今度、浅原さんのご家族のところで同じ証言をしましょう」 「そうだね」 「こんなことになる前にもっと行動するべきでした。私達にも問題があります」 そう言って泣き始めるすずめを優しく宥めてやった後、一人になりたいからとかテキトウに理由を付けて、部屋に引っ込む。 勉強机に例の遺書を広げて、稚拙な文章と汚い文字で描かれた恨み節を読みながら、やがてわたしは思い出す。 「あの時だ」 わたしは浅原の裸踊りを、前園や三島と一緒に、笑いながら眺めたことがあった。 〇 一週間ほど前のことだった。 ある日、わたしは前園と三島からカラオケに誘われた。特に作為もなくわたしはそれを了承した。前園は話が面白く交友関係が広く一緒にいると楽しかったし、三島は強がってはいるが本当は寂しかりで少しナイーブで、前園に振り回されつつ頼りにしている様子はキュートでもある。あまり深入りしたい連中ではなかったが、時々一緒に遊ぶ分には楽しかったのだ。 だが誤算だったのは、現地集合のカラオケ屋に、前園が浅原を連れて来たことだ。 「財布持って来たぞーっ」 なんてブラックジョークを飛ばして下品な感じで笑う前園に、わたしはちょっとだけ顔を引き攣らせていた。三島は気づかわし気な様子でわたしと前園の顔を交互に見ている。 前園だって、わたしと浅原が、一応、友達であることは知っているだろうに。 まあしょうがない。前園はバカというか豪胆な性格で、いつだって他人は自分に従うと自然体で考えているようなタイプで、周囲の人間関係にいちいち配慮なんてしない。これはどちらかというとわたしの八方美人が招いた事態で、わたしが処理しなくちゃいけないわたしの問題だった。 とりあえず、青い顔で呆然としている浅原に「後でお金は返すからね」と耳打ちしておく。その後浅原はドリンクバーを運ばされたりごちゃ混ぜのドリンクを飲まされたり、アツアツのタコ焼きを大量に口の中に放り込まれたりと、酷い目にあっていた。 「いつもこんなことさせてんの? 可哀想じゃない? やめたげなよ」 なんて宥めたりしても見るけど、前園はぽかんとした顔で。 「なんで? 面白いじゃん」 なんていうだけで、何が悪いのか何が可哀想なのか分からないという様子だ。三島の方を見ると、小さく肩を竦めるだけで、わたしに加勢する様子は当然ながらない。 「そうだ。浅原。いつものやれよ」 そんな前園の声に、浅原は一瞬だけわたしの方を一瞥してから、すぐに俯いて服を脱ぎ始める。 「えっ何が始まるの」 「見てろよ」 裸になった浅原を見てわたしは「きゃー」とドン引き。いや浅原のたるんで突っ張った腹に対するものじゃなくて、かと言って前園の酷いいじめに引いた訳じゃなくて、どんな調教を受けたらこんな簡単に人前で裸になれるようになるのか浅原のことがまるで理解できなくて引いたのだ。 阿吽の呼吸で三島が曲を入れると、流れ始めたメロディに従って浅原が腹を揺らして踊り、謡い始める。前園の甲高く下品な笑い声。ニヤニヤしている三島。泣いて嫌がる訳でもなければもちろん平気そうでもない、受容と諦観の中で、少しでも痛みを減らそうと淡々と振舞いつつも、恐れと媚びが表情に滲んでいる浅原の姿。 いつもの恥芸。なんてことないいじめ。彼女らにとって当たり前の光景。 それを見ながら、わたしは急速に自分の腹の底が冷めて行くような心地を覚えた。日頃少しはあったはずの浅原に対する友情や同情心が、呆れと蔑みに塗りつぶされる感覚に陥る。そのあまりのみっともなさに対し、やがて嫌悪は不思議な愉悦へと翻り、そして一度だけたった一度だけわたしは 「ふふっ」 と、鼻から抜けるような笑みを漏らしたのだ。 その後浅原が全額支払ったカラオケ代は、前園と三島の分も合わせて、その日の夜に本人を訪ねてちゃんと返した。 手痛い出費だったが、この先問題が明るみになった時、何がどうこじれてわたしが加害者になるかもしれないので、ここははっきり清算しておかなければならない。 浅原が黙ってそれを受け取ったことで、わたしの中でそれは終わった話になっていた。 〇 あんなことで遺書に名前を書く程人を恨めるのだろうかと、わたしは考えて見る。 確かにわたしは浅原の裸踊りを見て笑った。あの時鼻から溢れ出したあの感情は、確かに嘲りだったと思うし、それを浅原が感じ取ったのなら、かなり傷付いたのはまあ理解出来る。わたしを味方だと思っていたからこその感情の逆噴射。子供染みた癇癪。 でもだからと言って 『鳩子ちゃんは最後の最後に前園や三島と一緒に私に裸踊りをさせて、笑っていました。友達だと思っていたのに、鳩子ちゃんは彼女らと一緒になって私をいじめたのです』 こんな風に書くほどわたしを恨むか? 別に前園と三島以外にも加害者はたくさんいただろうに、そいつらを差し置いてわたしを名指しするか? わたし側の事情や言い分はどうあれ、自殺した人間が加害者だと名指しすればわたしは加害者になる。復讐は果たされる。わたしは確かな社会的ダメージを受ける。 そうなる訳にはいかない。だが運の良いことに遺書は今わたしの手の中にある。 わたしは遺書を指先で幾重にも切り裂き、粉々に千切った後、まとめて口の中に放り込んだ。 〇 妹と共に通夜と葬式に参加する。 泣きじゃくっているすずめと話す浅原の両親に許可を取り、浅原の部屋に入らせてもらう。 何度か遊びに来たことがあるので何がどこにあるかは分かっている。わたしは遺書の草稿や日記帳のようなものがないかを確認し、必要なら持ち帰って処分するつもりだった。 手始めに学習机をチェックする。どうでも良い小物や読みっ放しの漫画が散乱する机上に、開きっぱなしのノートがあるのが目に入った。 ページを切り取った痕跡がある。これが遺書に使われたノートだろうか? 一ページずつ捲ってみたが、ただの数学のノートで、他のページに草稿が描かれているということはない。良かった。 以前存在を自慢された引き出しの二重底を含め、日記帳のようなものがないかを確認したが、それもない。机に掛けられている学習鞄を含め、直近のものらしきノートをぱらぱらをめくってみたが、勉強した痕跡以外の記述は見付けられない。 それは果てしない作業で終わりなどないことにわたしは気付く。全てのノートの全てのページを確認するなんて無理なのだ。それでもわたしはどこか偏執的な焦りに突き動かされ、部屋を漁る作業をやめられずにいた。 「姉さん」 すずめの声が掛かった。 「何してるんですか、姉さん」 「日記とか置いてないかなって。ほら、いじめの証拠になるかもしれないし」 わたしは両手を開いてすずめに晒しながら、はっきりとした口調で話す。言葉の上での嘘はないことを面白がりながら、真意を隠す。 「そういうのは、ご家族や調査員に任せるべきでは?」 「そうだけど気持ちは分かるでしょ? 浅原さんのご両親はなんて言ってた?」 「娘は何も話してくれなかったって」 それは重畳。 「ただ、私がいじめがあったって言ったら、必ず証明して償わせると仰っていました」 「そっか」 その後帰宅してからも、浅原のSNSの方もチェックしてみる。わたしについての記述は見付けられない。それでも隅々まで偏執的に、意味もないのに昔の記述までチェックする。 やがて夜が来て、わたしは横になり、考える。今の自分はいったいどの程度安全なのか。 どれだけ調べてもどれだけ考えても、完全な安心など手に入る訳がないと分かっている。 それでも考える。考えてしまう。考えることをやめられないでいる。 考えることをやめられないまま、やがて眠気がやって来て、わたしは眠る。 〇 月日が流れる。 すずめにいじめの事実を知らされた浅原の両親は、その後も担任教師や娘のクラスメイトなどに聞き取りを行う。もちろん学校側はいじめの事実なんて認めないが、目撃した生徒達からの証言により、両親はいじめを確信するようになる。 主犯格の前園・三島を筆頭とした数名、および学校に損害賠償を請求しようという流れになる。ただ仮にいじめの事実を証明出来たとしても、自殺との因果関係まで明らかにするには必要な材料がいくつもあるらしく、浅原の両親は苦戦を強いられる。 「遺書でもあれば全然違うそうなんですけどね」 すずめは嘆くように言う。「そうだねぇ」とわたしは悩まし気な顔をして見せる。 事態は泥沼化した。証拠集めは遅々として進まず、両親も学校側も疲弊して行った。ナイーブな三島は学校に来れなくなっていて、一番の子分を失った前園もまた、時たま心細そうにわたしのところにやって来る。 「なあ神崎。あたし、大学に行けなくなったりすんのかな?」 その心配か。追い込まれて暴発されても厄介なので、わたしはテキトウ言って元気付けてやる。 「いじめの事実が確定するまでは、受験の不利にならないように、学校がちゃんと守ってくれるんじゃないのかな?」 「人一人いじめ殺しておいて、何事もなくて済むなんてあるか?」 おや? ちょっと反省したような気になってる? 別に不自然ではない。こいつはバカだけどアタマがおかしい訳じゃないのだ。 「不安だよね。大丈夫? 夜寝れてる? 無理しない方が良いよ。何でも相談してね」 わたしは慰める。前園はわたしの胸の中で泣く。 やがて一年が経ち、わたし達は三年生に進級し、受験期を迎える。浅原の両親の動きはすっかり停滞し、学校への追及も確実に減少して行く。 喉元の熱さが通り過ぎたように感じ始める。それは他の加害者達にも共通しているようで、休みがちだった三島の精神状態も緩解し、普通に通学するようになる。 三島が戻って来たことで、前園も随分元気になった。 「自分がバカをして浅原をいじめた所為で、何より自分が不安な思いをしているからな。ちゃんと受験できるのか、どんな報いがあるか、今も怖いよ。ちゃんと反省したし、今後は更生して真面目に生きて行こうと思う。それが何より自分の幸せの為になると思うから」 普通なら嫌悪感を覚えそうになる前園のその言葉に、しかしわたしは納得して頷いた。 仕方ないのだ。 生きて幸福を追求することを自ら妨げる理由なんてどこにもない。人は皆自分の幸せの為に生きていて、それは当然で、当然のことに善いとか悪いとかはない。 人間だから、心があるから、罪の意識も後悔もあるし、時に激しく苦しむこともある。それは良いことだし必要なことだ。良心があるから反省し、成長し、何よりも自分自身の為に、無暗に人を傷付けないことを覚えて行く。そうして人は優しくなり、更生してまともになり、世の中は少しずつ良くなっていくのだ。 そこに加われず死んでいった奴らには同情するし、同情以上のことはしてやれない。 死んだのだから。 〇 受験期も佳境に入っていた。 たいていは部屋で勉強に没頭しているのだが、時たま昔のことを思い出すことがある。 遠い日の記憶だ。 小学生の頃、わたしは友達の浅原と妹のすずめを従えたわんぱく娘だった。二人は大人しい性格でわたしの言うことを何でも聞いた。一緒に秘密基地を作る時も、自転車で海まで行く時も、いつもわたしがリーダーで、何かと二人に指図をしていた。 当時から浅原は丸っこい容姿で押し出しが弱く、いつも男子にちょっかいを掛けられていた。酷いあだ名をつけてからかわれると、わたしのところに来てみっともなくさめざめと泣く。それを見たわたしは義憤にかられ、その辺に落ちている棒や石ころを拾うなどして、からかった男子をぶん殴りに行くのだ。 当時は体格も男子と変わらないし、何よりわたしは気が強かったから、喧嘩してもたいてい勝利を収めた。そんなわたしのことを浅原はやはり頼りにしていて、頼りにされることがわたしは嬉しかった。 そんな関係も月日と共に薄れて行き、高校の頃になると一緒に遊ぶこともほぼなくなって、気が付けば浅原は屋上から落ちて死んでしまった。 彼女はわたしを憎んで死んだ。 彼女はわたしに裏切られて死んだ。 「姉さん」 すずめの声に振り返る。 「なあに?」 「これを」 差し出された一枚の紙にわたしは絶句する。 それは浅原の遺書だった。 全体を鉛筆で薄く塗りつぶされたノートの切れ端に、薄っすらと白く浅原の文字が浮かび上がっている。そこに描かれている文章は、忘れもしない、あの時わたしが拾い上げて始末した遺書と同一のものだ。 「……ご両親は浅原さんの自室をそのままにしているようで、勉強机には一冊のノートが、開かれた状態でずっと置かれていました。それに一か所、ノートが切り取られた痕跡があったので、ご両親に許可を取って持ち帰り、その下のページを鉛筆で薄く塗って見たのです」 上のページに描かれた文字の筆圧は、下のページに必ず移る。それを浮かび上がらせるテクニックだ。 わたしは衝撃を受けている。迂闊だった。このノートは回収しておくべきだった。それはわたしのミスだ。だがだとしても、どうしてこの妹が存在すら知らない遺書の文章を蘇らせようと、こんなことを思い付けたというんだ? 「姉さん……姉さんが遺書を隠したんですよね?」 「違うよ。何言ってるのさ」 わたしは両手を晒しながら、語気は出来るだけ朗々と、はっきりとさせる。 「そんな遺書があっただなんてわたし知らないよ。まだ良く読んでないけど……ひょっとしてわたしのことも描かれているの?」 「姉さんって、嘘を吐く時手を大きく開いてこちらに向ける癖がありますよね?」 思わず息を飲む。 動揺したわたしに気付いたように、すずめは微かに目を伏せる。 「……何年一緒にいると思っているんですか? そのくらいの癖は知ってますよ。手を開いてこちらに掲げながら、相手の目を見ながら、はっきりとした口調で話すんです。いつもです」 「勘違いだよ。もし仮にそんな癖がわたしにあったとして、今は嘘なんて吐いてないしさ」 「浅原さんのポケットから落ちた紙を拾った時もそうでした。プリントだと姉さんは言いましたが、あれは背中を向けている間にすり替えたもので、本当は遺書だったんですね?」 当たっている。 「浅原さんの部屋をあちこち見て回っていた時もそうでした。日記を探しているということに間違いはなかったとしても、その真意には偽りがあります。姉さんは日記を探して隠蔽したかったんです」 当たっている。 「姉さんに何か後ろ暗いことがあるのは察していました。でもそれはいったい何? 浅原さんのポケットから出て来た紙がプリントであることが嘘なのなら、紙の正体はいったい何なのか。自殺する人が胸に抱える紙と言ったら……わたしだってまさかと思いましたよ」 そうやって推理したのか。だけれど。だとしても。 遺書の存在を確信している訳でもないんだろう? 机に無造作に置いてあるノートを見て、死の前日に開いてそこに遺書を描き、切り取ったのだという推理が、すっとろいこいつにどうして出来る? それも自殺から一年経った今さらになって……。 「姉さんは人をバカにしているんです」 冷や汗が頬を伝う。 「確かにわたしは姉さんより要領も悪いですし、アタマも良くありません。それでも姉さんのことは誰より良く知っているつもりです。姉さんの日々の振る舞いを見ていたら、浅原さんを失った悲しみやいじめへの怒りといったものが、表面的なものでしかないことは察しが付きます。そうして降り積もった日々の違和感が……わたしにこれを思い付かせたのです」 すずめは黒く塗られたページに白く蘇った遺書を掲げ、言う。 「内容は知っていますよね? これを浅原さんの両親に見せに行きます」 「やめてっ」 わたしは縋るのをこらえられない。 「受験期の今そんな証拠を出されたらどうなるか……。あんたもそれを読んだのなら分かるでしょう? わたし大して酷いことしてないじゃん! 一緒になって裸踊りをさせたっていうのも浅原の嘘で、わたしはただその場にいただけで大して笑った訳でもないのに……」 「そうなのでしょう。姉さんは人をいじめるなんてバカなことをする人ではありません。きっと運が悪かったんです。浅原さんはただ、昔のように姉さんに助けて貰えなかったことがただ悲しくて悔しくて、死ぬ直前までそれに囚われて、それでこんな風に描いたんだと思います。あの人はきっとそう言う人です」 「だったら!」 「だとしても!」 すずめは強い断罪の意思を込めて言った。 「遺書を捨ててしまったことは、許されません。それは償うべきことです」 わたしの全身から力が抜け落ち、思わずその場に蹲る。 涙が溢れ出る。 どうしてこんな理不尽な目に合う? こんな窮地に追いやられる程、わたしは酷い生き方をして来ていない。内心では少しは性格の悪いことを考えることもあったけれど、そんなのは誰にでも備わっているちっぽけな軽薄と偽悪で、それを表に出さないだけの品性も自制心もちゃんと備えて来たはずなのだ。誰にでもちゃんと親切にして来たし、無暗に人を傷付けることもしなかった。 あの事故のような一回を除いては。 なのに浅原はわたしの名前を遺書に描いた。 「ねぇ考え直してよ。わたしは今大切な受験期なんだよ! そんなものを公表されたらわたしの人生に大きく傷が付くの! ねぇ、やめてよ……助けてよ」 すずめは表情を変えない。 「確かにわたしは遺書を捨てた。でもそれは仕方なかった! 何を置いても大切な自分自身を守ろうとするのは、被害者も加害者も同じじゃない!」 「……姉さんが自分を守ろうとするのは当然なのかもしれません。しかし」 すずめの意思は揺るがない。 「それは姉さんにとっての当然であって、周囲がそれを尊重する訳ではありません。当然と言うなら、浅原さんの友達であるわたしが彼女の遺志を守り抜くことも、当然なんですよ」 「妹でしょう? わたしの味方してくれないの?」 「……姉さんは大丈夫です。確かに、この遺書を後悔することで、姉さんの経歴には大きな傷が付きます。しかし必ず立ち直ることが出来ます。姉さんはわたしの尊敬する、強い人ですから」 そう言ってすずめはわたしの部屋から去って行く。 蘇った遺書を手にしたまま、死者の遺志を世に知らしめる為に。 〇 部屋の床に蹲って、呆然している。 ふと気が付けば、じっと自分の両手を見詰めている。 この手は血に汚れているのだろうか? わたしは浅原を死に追いやったのだろうか? 遺書が公開されて、罪を償うことになって、それで良かったとこの先わたしは思うのだろうか? 罪を隠しながら苦しみながら生きて行くことより、誰からも蔑まれ後ろ指を刺され石を投げつけられる人生の方が、あるべき姿だと心から思える時が来るのだろうか? そんなバカなことはない、と思う。 きっとそうなる、とも思う。 「ごめんね」 両目を手で覆い、嗚咽しながらわたしは呻くような声を出す。 「ちくしょう」 静かな部屋の天井に、わたしの声は嗚咽と共に沈み溶け消えて行く。 対極の感情を乗せた二つの言葉を届けるべき相手は、この世界のどこを探しても最早どこにもいないのだ。 |
粘膜王女三世 2024年04月26日 00時04分20秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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