【長編】フランデリスのイヌ娘、戦禍の地を駆ける。

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■第一部 フランデリスのイヌ娘

●第一話:イヌ娘と少女の出会い

1・リズの日常
 ここは、ベルジウム王国のフランデリス地方、港町アンワーズ近郊にある小さな村、ラーク。

 ラークは、丘に建てられた風車小屋くらいしか見所のない閑散とした田舎の村です。
 村人たちは畑を耕して麦や野菜を育て、家畜を育む素朴な生活をしています。

 そんな村の片隅に建つ、くたびれた小屋のワラのベッドで、少女は目を覚ましました。
 汲み置きの水で顔を洗うと、寝間着から外出用のシャツとズボンに着替えます。
 テーブルに置いた手鏡の前に座ると、青い瞳と輝かしくも長い、金髪の少女の姿が写り込みました。
 少女は、己の容姿を不満に思いながらも、慣れた手つきで金髪をまとめ、亡き母親が作ってくれた帽子の中にしまい込みます。

 少女の名はリズ。

 ラーク村で生まれ育った十二歳の少女です。
 もっとも、長い金髪を帽子に収めてズボンを履けば、その姿は小柄な少年にしか見えません。

 身支度を整えたリズは、祖父の仕事を手伝うため、隙間風の入り込む小屋を出るのでした。

   ◆

「おはようおじいさん」
「おはようリズ」
 リズは、街に行く準備をしていた、頬に傷のある大柄な老人に挨拶をします。
 老人は、リズの祖父で名をアルマンと言い、リズからはアルマンおじいさんと呼ばれています。

 アルマンおじいさんは、いつものように、孫娘の格好に問題がないかを確認し、「これならば大丈夫だろう」と太鼓判を押します。

 これから向かうアンワーズは、港がある賑わった街です。
 そこでおじいさんは、船から下ろされた積み荷を指定された場所へと運ぶ、日雇い仕事をしています。
 荷下ろしの仕事は朝早くから行われ、さらに彼らの住むラークからとても離れています。
 陽が昇り出してまもないうちに出発するのが、ふたりの日課でした。

 アンワーズに着くと、石壁に設置された門を抜けて港を目指します。
 この日もアルマンおじいさんは、荷車に載せられた大きな荷物を運ぶ仕事にありつくことができました。
 アルマンおじいさんは、高齢で髪もヒゲまっしろですが、背は高くて身体もがっしりとしています。
 腰もまっすぐで、曲がったところはありません。
 さすがに若い頃にはおよびませんが、それでも荷運びの仕事をこなすのに問題はありませんでした。
 むしろ、少しでも祖父の力になろうと、懸命に荷車を押すリズの方が大変そうです。
 例え少年の格好をしようとも、彼女が小柄な少女であることは、変えようがない事実なのでした。

 リズが必死に荷車を押していると、どこからともなく「危ない!」との声が響きます。
 とっさにリズが振り返ると、大きな陰が覆いかぶさるように迫ってきました。
 そのまま地面に倒れ、押しつぶされると目をつぶります。
 しかし、倒れた衝撃はあったものの、柔らかな何かが押し付けられただけで、そのまま潰されるようなことはありません。
 口元を塞がれたリズは、息苦しさを覚えながらも、おそるおそる目を開きます。

 そこには、彼女に覆いかぶさる長身の少女の姿がありました。

 少女はとても大きく、大柄なアルマンじいさんと変わらぬほどの背丈です。
 その背中には、リズが三人は入りそうな大きなリュックを背負っていて、リュックには鍋などの金物が雑多に詰まっているのが覗けていました。バランスを崩したのは、詰め込み方が雑なせいでしょう。
 乱雑に切られ揃っていない髪は濃いベージュで、途中から白く色が抜けています。
 顔つきは幼いものの、体つきがしっかりしているので、成人しているようにもみえます。
 ただ、どこかボンヤリとした雰囲気は、リズの知る大人たちとはちがうように思えます。
 首には奴隷の証である鉄の首輪が巻かれていますが、よりリズを驚かせたのは、少女の頭から生えている動物のソレによく似た耳でした。

 その耳は、途中までまっすぐ立っていて、半ばから力尽きたように丸く垂れています。
 顔の横ではなく、頭から生えた耳は、あきらかに普通の人とはちがいました。

 リズは少女の姿に見入ってしまいます。
 ですが、見入っていたのはリズだけではありませんでした。

 少女の澄んだ瞳が、おなじようにリズを見つめています……が、その視線はつながりはしませんでした。
 少女の視線は、リズの輝かしい金髪に注がれていました。
 転んだ拍子に帽子が落ち、中でまとめていた髪がほどけ出てしまっていたのです。
 アンワーズとその周辺では、黒や濃い茶色の髪が一般的で、リズのような金色はとても珍しいです。
 それ故に、彼女の金髪は少女の視線をくぎ付けにするには、十分な理由でした。

 リズは、慌てて帽子を拾い上げると、己の金髪を隠します。
 ちょうどその時、場の空気を破壊するように、粗野な怒鳴り声が投げ込まれました。

「なにやってんだ、この唐変木(とうへんぼく)!
 大事な商品が傷ついたらどうしてくれる!」

 大声とともに樽のような体型の男が現れると、倒れ込んできた少女にムチを打ちます。

 それからリズに視線を向け、怪我がなさそうだと確認すると、「坊主、おめーもボーッとしてんじゃねぇ!」と怒鳴りつけ、あたりに散らばった金物を拾い集め出しました。
 一通り回収が終わるとリュックに無理矢理詰め込んで「いくぞ、パローラ」と、少女の名を呼んでその場から立ち去っていきます。

「おおリズ、大丈夫かい?」
 アルマンおじいさんは、いま頃になって孫娘が倒れていることに気づきました。
 リズを助け起こすと服についた砂や埃を払ってやります。

「まったく、このあたりにもロクデナシが者が増えたもんじゃ。
 子どもにぶつかって、謝りもせんとはの」
「僕なら大丈夫だよおじいさん。
 それよりあの子は?」
 さきほどぶつかった、大きなリュックを背負う少女の後ろ姿をさし、おじいさんにたずねます。

「ああ、あれはイヌ娘じゃな」
「イヌ娘?」
 耳馴染みのない言葉を確認するように復唱します。
「リズはイヌ娘をみるのは初めてだったかの?」
「うん、おじいさんは見たことがあるの」
「昔、ちょいとな」
 おじいさんは無意識のうちに頬にある傷に触れますが、イヌ娘の背を見ていたリズは、そのことに気づきません。
「だったら僕に、イヌ娘のことを教えてよ」
「……まぁ構わんじゃろ」
 アルマンじいさんは、記憶を掘り起こしながらも、リズにイヌ娘という存在について話し始めます。

 イヌ娘は鼻と耳がとても良く、力もとても強いのです。小柄な馬くらいの荷物を運べるので、労働力としてとても重宝されます。

 それを聞いたリズは、とたんに彼女が羨ましくなりました。

 非力な少女の身体は、やっかいなことが多い上に、唯一の肉親である祖父の手伝いもままなりません。
 もしも自分に、大きなリュックを軽々と持ち上げる剛力があったならば、『おじいさんにもっと楽をさせてあげられるのに』と夢想します。

――あるいは彼女本人に手伝ってもらうとか……。

 イヌ娘と一緒なら、荷運びの仕事も、楽になるにちがいありません。
 ですが、貧しい暮らしをするリズたちに、イヌ娘を養うような余裕などありません。
 そのことに思い至り、落ち込みそうになりますが、優しい祖父にそんな顔は見せられないと、別の質問をすることで切り替えます。

「イヌ娘ってことは、男の人はいないのかな?」
「おらんの。どういうわけか、イヌ娘は女だけじゃ。
 突然変異とやらで、普通の夫婦の子として生まれてくるそうじゃ」

 イヌ娘が生まれることは非常に稀で、大勢の人が集まるアンワーズの街でも、十人程度しかいないだろうということでした。
 また、普通の人たちと異なる姿から、邪な神を崇拝する不心得者の子がイヌ娘として産まれてくると、いわれのない中傷を受けることも珍しくありません。
 故にイヌ娘の大半が、幼いうちに奴隷として売りに出されてしまうのだと聞かされます。

――自分じゃ、どうにもできないことで虐げられる。

 似た境遇のリズは、イヌ娘に同情します。
 それと同時に、あんなにも大きな荷物を運べるほどの力を持ちながらも、粗野な男に従ってしまう様子をもどかしくも思いました。

「きっと彼女は優しい子なんだな……」

 リズはパローラと呼ばれたイヌ娘との再会を望み、今度あったら友達になれないか聞いてみようと、心に決めたのでした。


2・パローラ
 その日の仕事を無事に終わらせ、アルマンおじいさんと村に帰ったリズでしたが、寝間着に着替えてワラのベッドに入っても、寝付けないままでいました。

 昼間出会ったイヌ娘のことが心から離れないのです。

 乱雑に切られたベージュと白のグラデーションの髪。
 強い力を持つ大きな身体。それでいて胸はとても柔らかかった。
 頭には、空へと伸びながらも途中でうなだれてしまった耳。
 そして自分を見つめる透き通った瞳。

 金髪に驚いてはいたものの、疎んではいる様子はありませんでした。
 それどころか、綺麗な宝石でも見たかのように反応です。

 そのことにリズは、恥ずかしくも嬉しい想いでした。

「パローラって言っていたな」
 リズは窓を開けて夜空を見上げると、そこにパローラの姿を思い浮かべるのでした。

   ◆

「寝坊した!」
 昨晩なかなか寝付けなかったリズは、慌てて身支度を調えると、小屋から飛び出ます。
 外ではアルマンおじいさんが、ちょうど出発の準備を終えたところでした。

「おやリズ、今日は珍しく寝坊をしたね」
 そう言って、寝起きの孫娘の姿を確認します。

 ちゃんと金髪は隠れているか。
 ちゃんと少年のようにみえるか。

 人の多い街へ出かけるのに、小柄で愛らしい姿をしていては悪い大人にさらわれかねません。
 かといって、頼れる者が誰もいない小屋に、遊び盛りの少女をひとり残すのも、安全とは言い難いでしょう。

 そこでアルマンおじいさんは、十二歳の孫娘に、髪を隠させ少年のフリをさせた上に、一緒に仕事に連れていくことにしたのです。

 余命の少ない身体ではあるものの、せめてリズが成人し一人立ちできる三年後(※この時代のフランデリス地方では、十五歳で成人扱いされます)までは、しっかり働き育てなければならないと、心に強く決めていました。

――欲をかくなら、嫁入り先も見つけてやりたいが……

 アルマンおじいさんは、ラーク村で生まれ育ちましたが、若い頃は他の場所へ、出稼ぎに出ていました。
 その影響もあり、親しい間柄の人間は少なく、また、金髪の子を育てている状況が、おじいさんの孤立を深めています。
 閉鎖的な村で、特別なコネもなく、リズの嫁入り先を見つけるのは、絶望的と言っても過言ではありません。

――いっそ、遠くの世界に羽ばたかせてやれれば良いのだが……。

 しかし、なんの伝も持たぬ少女を、遠くの世界に送り出すということもまた、この時代の人々には難しいことでした。

「…………」

 アルマンおじいさんはリズの所作を眺めつつも、落ちていた棒を拾い上げ、足音を消して彼女の背後へと回り込みます。
 そして、手にした棒をリズに向かって振り下ろしました。

 咄嗟にそれを感知したリズは体捌きでそれを回避。
 ですが、それ事前予測していたおじいさんは、細い足を払って簡単にリズを転ばせてしまいます。
 さらに、大きな身体を使って上から押さえ込みました。
 こうなっては、非力で小柄なリズでは抵抗のしようがありません。

「まだまだじゃな」
「ごめんなさい」
 そんな簡単なやりとりを済ませると、アルマンおじいさんは身体を起こし、リズを解放します。

 孫娘のことが心配なおじいさんは、護身術として襲われた際の対処法をリズに教えています。
 ですが、その成果は実感できるほど実ってはいません。

「謝ることはない。いざというときの技術じゃ。使わないで済むならその方がずっと良い」
 そう言って、何事もなかったかのようにアンワーズに向け歩き出します。

 ですが、気にするなと言われても無理な話です。

 リズは、自分が祖父の負担にしかなっていないことを自覚しています。
 おじいさんの心配事を減らすためにも、自分の身くらいは守れるようになれるよう努力していますが、その成果はいつまでも実らないままdす。
 そのことは、真面目なリズの心に重くのしかかっていました。

――パローラだったらちゃんとできたのかな?

 そんな疑問が脳裏をよぎります。

 ボンヤリとした顔つきで、戦いとは縁がなさそうでしたが、イヌ娘は強い力の持ち主だと聞いています。
 彼女ならば押さえ込まれても、きっとはね返すことができたにちがいまりません。

「リズや、考え事かね?」
「うんうん、なんでもないよ」

 リズの心には、言葉すら交わしていないパローラの事がこびりついていましたが、それを正直に話すことはできませんでした。

 いまの自分たちに家族を増やす余裕はありません。
 そのことをリズ自身よくわかっています。
 それなのにイヌ娘を飼いたいなどと言えば、おじいさんを困らせることになるのは間違いありません。
 そう思っていたハズなのに、リズの口からは、強い想いが溢れ出していました。

「実はね、おじいさん……」
 リズは、昨日出会ったイヌ娘のことが気になっていると白状します。

 彼女を可哀想だと思うこと。
 自分ならもっと彼女を大事にするだろうこと。
 そして、もし彼女がいれば、荷運びの仕事が楽になるだろうことを丁寧に説明します。

 すると、こんどはアルマンおじいさんが黙りました。
 おじいさんを困らせたと思ったリズは、すぐに撤回しようと言葉を紡ぎますが、その言葉はアルマンおじいさんの耳に入ってはいきません。

 なにやら考え込んでいると「保険は必要か」と呟き、パローラを家族として迎えることに賛成してくれました。

 予想外の提案に驚いたリズは、すぐに喜ぶことができません。

「ホント? ホントにおじいさん!?」
「ああ、もちろんだとも。
 リズが好きになるような子じゃ。きっと良い子にちがいない」

 この先、年老いた自分が倒れればリズは路頭に迷うことになりかねません。
 そんな時、リズを支えてくれる存在が必要になるだろうとアルマンおじいさんは考えたのです。
 そしてそんな計算を、決して愛孫に悟らせないよう、極上の笑顔を作ることで隠すのでした。


3・窮地
 その日、リズはアンワーズの年季の入った石作りの街を、ひとりで歩いていました。

 物流が盛んで景気が良いこともあり、この街では大きくて歴史的な美術館がいくつも建てられています。
 しかし彼女はそんな観光名所には目もくれません。

 一七〇年もの年月をかけて建てられたゴシック様式の大聖堂に興味も示さず、中に飾られたニャーベンスの絵画にも興味を示さず、その前を通り過ぎます。

 活きの良い魚や、遠方から運ばれた荷物を積み卸ししている、活気ある港も軽く見渡しただけで、通り過ぎて行ってしまいました。

 最後に、たくさんの露店が建ち並ぶ広場にやってきましたが、そこでも目当ての相手を見つけることは、できないでいました。

「いったいどこにいるんだろう?」

 アルマンおじいさんと相談した結果、金物売りの商人にパローラを譲ってもらえないかと交渉することを決めたのです。
 しかし、頭に耳を生やしたイヌ娘も、その主人である金物売りの商人も見つかりません。

 リズは露店を開いていた商人に、イヌ娘をみなかったかたずねます。
 すると、樽のような体つきの商人は、ゴンドという名前であると教えてもらえます。

 ゴンドは粗雑で乱暴で、仲間である他の商人たちからも評判が悪いことも教えてもらいました。

「そのゴンドさんは今日はいないの?」
「あいつはいつも遅くにやってくるが、それでもこのくらいの時間には店をだしてるんだけどな」
 露店の商人も不思議そうにしています。

「それよりも坊主、あんな男に関わらない方がいいぞ」
「ありがとうおじさん。
 でも僕は、ゴンドさんの連れてるパローラに用があるんだ」

「パローラ?
 ああ、あのイヌ娘のことか。
 ああいう働き者だったら、俺もイヌ娘を買ってきてもいいな」

「パローラの姿も見てない?」
「見てないね。
 いつもゴンドの野郎にコキ使われてるからな。今日も無理させられてるんじゃないかね」

 そうこうするうちに、荷運びの仕事を終えたアルマンおじいさんが、リズと合流します。

「どうだいリズ、探しているイヌ娘は見つかったかい?」
「それが、パローラも金物売りのゴンドさんも、どこにもいないんだ」
 リズは街をくまなく探し歩いたことや、露天商から聞いた話をおじいさんに伝えます。

「どうしてゴンドさんはいないんだろう?」
「さて、どうしてでじゃろうな」
 言いながらも、アルマンおじいさんはリズが収集した情報を脳内で整理します。
 そして、「あちらだな」と呟くと、街の外に向かって歩き出すのでした。

「おじいさん、そっちに行ったらアンワーズから出てしまうよ」
 商売に向かないような場所に、商人がいるとはリズには思えませんでした。

「じゃが、今日はまだ誰も姿を見てないのじゃろ?
 だとしたら、途中でなにかあったとみるべきじゃ」
 リズは「そうか、そうだね」とおじいさんの推理に納得し、その背を追います。

 リズとアルマンおじいさんは、アンワーズをぐるりと囲む石壁を抜け、街道を進みます。
 そして、大きな川にかかった石橋のところで、先日出会ったイヌ娘が背負っていた大きなリュックを見つけるのでした。

 ただし、それを担いでいたのはパローラではなく、商人から名前を教えてもらったゴンドという人相の悪い男です。

 ゴンドは横には太いものの、縦には短い樽のような体型です。
 大柄なパローラに合わせたリュックはたいへん担ぎ難そうです。
 その上、商品を雑に詰め込んだせいでバランスをとるのが難しく、リュックの荷物はいまにも崩れ落ちそうでした。

 ちょうどその時、強い風が川の上を走り、ゴンドごと背負ったリュックを揺らします。
 すると、リュックの隙間から鍋がひとつ転がり落ちました。
 とっさに手を伸ばしたゴンドは鍋が橋の下に落ちる前に、上手くキャッチします……がしかし、身体を斜めにしたことで重心が傾き、重いリュックが川面に向かってひっぱられます。
 ゴンドは荷物諸共諸共川に落ちようとしていました。

「危ない!」
 窮地のゴンドに手を伸ばし、助けたのはアルマンおじいさんでした。

 おじいさんは、橋から落ちかけたゴンドを力を振り絞って引き上げます。
 結果、リュックから鍋がこぼれ落ちてしまったものの、ゴンド自身はたいした怪我もなく窮地を脱することができました。

 川とは言え、重い荷物を背負ったまま落ちていればただではすまなかったでしょう。
 肝を冷やしたゴンドはアルマンおじいさんに礼を言います。

「すまねえなおじいさん」
「このくらいなんでもないよ。それよりもお主ヌシは大丈夫か?」
 おじいさんはそう言って、橋の上に転がった鍋を拾ってあげます。

「こんな大荷物、ひとりじゃ大変だろ」
「ああ、いつもはイヌ娘を使っていたんだがな。
 あいつおっ死(ち)んじまいやがったんだ。
 おかげで俺様がこのザマだ」

「おじさん、パローラが死んだってホント!?」
 突然の凶報に、驚いたリズが割り込みます。

「なんでぇ坊主、いきなり」
「本当にその娘は死んでしまったのかね?」
 即答しなかったゴンドに、アルマンおじいさんも確認します。

 さすがのゴンドも、恩人の問いにはちゃんと考えます。

「いや、まだ息はあったかもしれねーな。
 だが、俺の言うことを聞きゃーしねー。
 仕事ができないんじゃ死んだもおなじだ」
 自分勝手なことを言うゴンドに、リズは腹を立てますが、そんなことをしている場合ではありません。

「おじさん、それどこ!?」
 少女の声で問い詰めると、ゴンドは面を食らいながらも「もう一本前の橋の下だ」と答えます。
 それを聞いたリズは、走り出しました。
 幼い身体はすぐに息を切らしましたが、一刻も早くパローラを助けるため、一瞬たりとも足を止めようとはしません。
 肺が痛むのを堪えながら次の川まで走ると、石作りの橋の下にうち捨てられたイヌ娘の姿を見つけました。
「パローラ!」

 駆け寄って名を呼びますが、返事はありません。
 微かに胸が上下していますが、弱々しい呼吸はいまにも止まってしまいそうです。

 粗末な服の隙間から、鞭で叩かれたあとが見え隠れしているのに気づき、リズは驚きに呼吸がとめ、目から涙があふれて出そうでした。
 しかし、泣いている余裕などありません。
 日頃、おじいさんから教えられている緊急時の対応に入ります。
 弱々しいながらも呼吸は確認できています。

 次は耳元で「パローラ」と呼びかけて意識を確認します。
 すると、パローラは一度だけまぶたを上げますが、すぐに閉じてしまいました。
 それっきり、力を使い果たしたように動きません。

「パローラ、寝ちゃ駄目だ。
 気をしっかりもって」

 リズはこのまま彼女が永久の眠りに陥らないよう、必死に呼びかけます。
 そこに遅れてきたアルマンおじいさんが到着しました。

「容態はどうかね?」
 問いかけにリズは首を振ります。
 おじいさんは、自分でも脈を確認すると、パローラが死の縁に立たされているのを察しました。

「これはいかんの。小屋まで連れていこう」
 そう言って、アルマンおじいさんは自分の荷物をリズに預けると、パローラを背負い、ラーク村まで連れ帰るのでした。


4・看病
 リズはパローラを連れ帰ると、ワラを敷き詰めた自分のベッドに寝かせます。
 しかし、憔悴しきったイヌ娘の様子は、目に見えて良くありません。

 木皿を手にしたアルマンじいさんが、「これを飲ませるのじゃ」とリズに差し出しました。
 それは近隣の山でおじいさんが摘んで来た薬草を煎じたものです。
 リズは体調をくずす度に、この薬草を飲んでいて、その効果を幾度となく体験していました。
「さあお飲み、パローラ。
 おじいさんの薬草はとってもよく効くんだ。
 キミの弱った身体も、これを飲めばたちどころに良くなるよ」
 優しく呼びかけながら、口元に木皿を近づけますが、パローラは反応をしめしません。
 繰り返し呼びかけたことで、一度は口を近づけたものの、臭いをかいだだけで遠ざけてしまいます。

 そんなにも嫌ならば仕方ないと、一度は諦めるリズでしたが、そのまま寝かせておいても回復の兆しはみえません。
 そこで彼女は、無理にでも薬草を飲ませることを決断します。

「おじいさんの薬草はホントに良く効くんだ。
 それを飲もうとしない、キミが悪いんだからね」

 一方的に宣言すると、自らの口に薬草を含みます。
 ドロッとした緑色の粘液がが口内に入るときつい苦みが広がりました。
 薬草の効果は知っていても、このきつい味には、いつまでも慣れません。
 それでもリズは堪え、パローラに口移しで薬草を飲ませます。

 強烈な苦みに、パローラは逃げようとしますが、しっかりと頭を抑えたリズは逃がしません。
 パローラが本調子ならば、非力なリズの手など簡単に振りほどけたでしょう。
 しかし、いまの彼女はそれができないほど衰弱しているのです。
 やがて、全部の薬草を飲み終わると、パローラは力尽きたように眠りつきました。

 そのまま動かない様子に、リズはパローラが死んでしまったのではないかと心配しましたが、呼吸を確認して安心します。

「ゆっくりお休みパローラ。
 きっと目を覚ましたころには元気になっているよ」
 そう囁きながら、リズはベージュから白にグラデーションした頭を優しくなでます。

 一連の様子を見ていたアルマンおじさんは言いました。

「なあリズや、パローラの体調は一日や二日で治るようなものじゃないぞ」
「そうだねおじいさん。
 迷惑をかけちゃうけど、僕に看病させてもらえないかな?」
 そう願い出るリズに、おじいさん「それは構わんのじゃがな」と言います。

「一度に全部を飲ませる必要はなかったんじゃぞ」
 それを聞いたリズは「遅いよおじいさん!」と自分の勘違いを誤魔化すよう、怒鳴って見せるのでした。


●第二話:イヌ娘と村の生活

5・翌朝
 翌日、パローラの容態が落ち着いたのを確認してから、アルマンおじいさんは、仕事をもらいにアンワーズへと向かいました。
 容態が落ち着いたと言っても、まだ、パローラは目を覚ましません。
 そのための看病を、リズひとりに任せることにしました。

 おじいさんは、彼女を村に残すことをとても心配していましたが、彼らの生活が苦しいのは周知の事実です。盗みに入ろうとする者などいないでしょう。
 また、進んでふたりに関わろうとする者もいません。
 外出さえしなければ、リズの身に危険はないだろうと、看病を望んだ彼女の意思を尊重することにしたのです。

 そんな日が三日ほど続き、ようやくパローラが目を覚ましました。
 これまでとちがい、意識はハッキリとしていましたが、自分の置かれた状況がわからないらしく、目をパチクリとさせます。

「おや、気がついたね、ちょっと待ってて」
 男装姿のリズは、そう言って井戸から水を汲んでくると、木のコップに入れてやり、パローラに手渡します。

「僕の名前はリズっていうんだ。キミはパローラだよね」
 リズの言葉にパローラはたどたどしくうなずきました。
 それを確認したリズは、パローラにこれまでの経緯を説明します。

 彼女がゴンドに見捨てられてしまったこと。
 それをおじいさんとリズが見つけて助けたこと。
 彼女はひどく衰弱していて、看病のために自分たちの住む小屋に連れて帰ってきたこと。
 途中、口移しで薬草を飲ませたことを思い出し、顔を赤らめるリズでしたがそのことは黙っておくことにしました。

 説明にいちいちうなずくパローラでしたが、その様子にリズは違和感を覚えます。

「……パローラ、ひょっとしてキミ、しゃべれないの?」
 疑問の言葉に目を揺らしながらも、またもパローラはうなずきます。

「じゃ、字は書けるかい? 書けるなら筆談をしよう」
 またも彼女はうなづきますが、紙とペンを渡しても、困った表情を浮かべるだけで、なにも書こうとはしません。
 こうなってくると、話している内容が伝わっているかも怪しく思えてきます。

 金物売りのゴンドの命令を聞いていたことを思えば、ある程度の意志の疎通はできるでしょう。
 あるいは、わからぬことでも、とりあえずうなずいておくのが、彼女が学んだ処世術なのかもしれません。
 そんなことを考えるリズでしたが、ある疑問が頭に浮かびます。

「おじいさんの薬草の副効果ってことはないよね?」
 そうたずねても、パローラは首を傾げるだけで、返事らしい返事はありませんでした。
 
 そうこうしているうちに、仕事を終えたアルマンおじいさんが帰宅します。

「おじいさん、良い知らせだよ。パローラが目を覚ましたんだ」
「おお、そいつはよかったな」
 おじいさんは、パローラのそばに寄り話しかけました。

「パローラや、おまえの看病はリズがしっかりとしてくれたんじゃ。しっかりと感謝するんだぞ」
「そんな、おじいさんの薬草のおかげだよ」

「なに、リズの献身こそが一番の薬じゃわい」
 そう言って、おじいさんは食事の支度を始めます。

 その日は、パローラに滋養が着くようにと、黒いパンと一緒に、普段はお目にかかれない肉入りのスープが振る舞われました。

「さっ、パローラ食事だよ」
 パローラは『食事』という言葉に反応すると、テーブルのすぐ隣りに座り、自分の食事が下賜されるのを待ちます。
 そんな彼女をリズはその手をとって、立ち上がらせました。

「遠慮しないで、僕らはもう家族なんだ。
 家族はおなじテーブルで食事をしないとね」

 これまでとちがう扱いにパローラは戸惑います。
 それでも、それがリズの命令であることを理解すると、キョロキョロと落ち着かない様子で椅子に座ります。

 そして、ゆっくりと皿に顔を近づけます。
 それをアルマンおじいさんから「これっ」と咎められました。

 パローラは、やはりテーブルの食事に手を付けては行けなかったのだと後悔しましたが、おじいさんが咎めたのは作法についてでした。

「スープを飲むときは、ちゃんとスプーンを使うんじゃ」
 これまで、パローラは直接お皿に口を突っ込んでいたため、スプーンなどの食器を使ったことがありません。
 困った顔でリズに救いを求めますが、そればかりはリズにも庇いようがありませんでした。

6・村の案内
 イヌ娘のパローラが目覚めてから、さらに数日が経過しました。
 一時は命を危ぶまれていましたが、いまではすっかり元気で、いくら歩いても疲れる様子をみせません。

 そのことにリズはホッとします。

 リズは看病のため、何日もアルマンおじいさんの手伝いを休んでいました。
 パローラの命がかかっていたとはいえ、彼女を家族に迎えたいというのはリズ自身のわがままと言えます。
 その我がままで、年老いた祖父に負担をかけるのはたいへん申し訳なく思っていました。
 故にリズは、パローラが元気になったら、これまで以上に手伝いを頑張ろうと心に決めていたのです。
 しかし、そのことを告げると、アルマンおじいさんから、不要であると退けられてしまいました。

「リズや、今日はパローラに村を案内しておやり」
 言われてリズは、表情を曇らせます。

 確かに彼女のことは心配ですが、いつまでもおじいさんひとりに、仕事を押しつけるわけにはいきません。

「なに、おまえには普段からとても良い子にしておるからの。
 ワシからの礼だと思ってくれ」
「そんな……」
 感謝しているのは、自分のほうであるとリズは思っています。

 リズがいなければ、アルマンおじいさんは大変な荷運びの仕事をせず、もっと気楽な生き方が出来たでしょう。
 自分がいることで食費は二倍になるのに、彼女自身はお金を稼ぐことができません。
 それどころか、おじいさんは彼女の将来のためにと、貯金を作ろうとしています。

 それだけで、リズの心は感謝でいっぱいでした。
 その想いを少しでも伝えようと、手伝いを申し出ているのに、どうしておじいさんは拒むのでしょう。

 孫娘の想い対する、アルマンおじいさんの言い分はこうでした。

「パローラが家族になるということは、村の一員になるということでもある。
 みなに紹介が必要じゃろ?」

 村に見知らぬ者が居れば、不安に思う者もいるかもしれません。
 それが普段、出会うことのないイヌ娘であれば、なおさらでしょう。
 リズは、パローラのためにも、おじいさんの頼みを了承することとしました。

   ◆

 アルマンおじいさんから案内を頼まれたリズは、パローラを連れて村の要所を巡り、自慢するように紹介していきます。

 小麦を粉に引くための風車小屋。
 春になると、野いちごが成る自然豊かな森。
 時に大きな魚が姿を現す雄大な川。
 村を見渡せる丘とその真ん中に立つ大樹。
 大樹は樹齢二〇〇年を超え、ずっとずっと昔から、その場所に生えていると伝えられています。

 案内の最中、リズは出会った村の大人たちにパローラを紹介するのも忘れません。
 ですが、その誰もが良い顔はしませんでした。
 それでも、最低限の挨拶は返しますし、進んで彼女らを害するようなこともありません。
 それはイヌ娘への忌避感よりも、リズと関わりにならないようにしているように見え、パローラには不思議でした。

 ですが、それこそが村でのリズの立場なのです。
 むしろ、昼間に村を離れているリズが、得体の知れないイヌ娘を連れていることで面食らっているようでもあります。

 そんな中、元気に挨拶を返した少年がいました。

 少年の名はベイノン。

 リズよりもふたつ年上で、村の子としては上等な作りの服を着ています。
 同年代の少年としては小柄ですが、それでもリズよりはずっと大きいです。
 村の人たちは、少年の格好をしていてもリズが少女であることをみな知っています。ベイノンも例外ではありません。
 それでも、他に歳の近い子がいないため、リズを弟分のように扱い、彼女がアルマンおじいさんの手伝いを始めるまでは、方々に連れ回して一緒に遊んでいました。

 フランデリス地方では、十五歳で成人扱いされるようになります。
 彼は立場上、それまでに覚えなければならないことが、たくさんあるのですが、当人にその自覚は薄いようで、周囲の大人たちの心配の種となっていました。

「やあリズ、可愛い子をつれているね」
「ありがとうベイノン。
 この子はパローラ。
 うちで一緒に暮らすことになったんだ。よろしくね」
「そうなんだ、こっちこそよろしくパローラ」

 パローラは差し出された手をおろおろしながら握ります。

 この場で一番大きな身体をしているのに、ことあるごとにリズの反応を確認する、オドオドとした仕草にふたりは笑いを誘われます。
 そんな彼女にリズは「そんなにオドオドする必要なんてないよ」と優しく声をかけてあげるのですが、パローラのオドオドはなかなか治ることはありませんでした。

「ベイノン、パローラはしゃべるのがうまくないんだ。
 そのへんのことくんであげてね」
「そうなんだ。
 でも、俺も知らないヤツの前だと上手くしゃべれないから仲間かもしれないな」
 冗談めかして行って、みなで笑いあいます。

 そんな時、馬に乗った紳士がその場に現れました。

 男の名はコーネフ。

 コーネフは、村のまとめ役で、風車小屋の管理を任されています。
 風車小屋は、国が税金を使って建てたもので、ここでひかれた小麦には、税金が課せられることになります。
 それを徴収し、国に収める仕事もコーネフの重要な仕事です。

 そして、コーネフはベイノンの父親でもありました。

「ベイノン、こんなところでなにをしている」
 隣にいるリズとイヌ娘の姿に気づくと、眉間にシワを寄せます。

「そのような者たちと遊んでいる暇があるのなら、さっさと家に帰って勉強をしなさい。成人までそう時間はないのだぞ」

「勉強ならちゃんと勧めてるよパパ。ちゃんと間に合わせるさ」
「勉強以外にも覚えねばならないことはたくさんある。
 馬に乗れなければ不便だし、いざという時のため身体も鍛えておかなければならん。
 わかったら、さっさと家に帰って勉強をしなさい」
 そう息子に命じると、コーネフは馬首を返して立ち去ろうとします。

 そんな彼をリズが呼び止めます。

「あのコーネフの旦那」
「なんだ?」

「この子、僕の新しい家族のパローラっていいます。
 よろしくおねがいします」

 リズはパローラと一緒に頭をさげます。
 しかし、それを見たコーネフは小バカにしたような口調で言います。

「家族? イヌ娘とは労働力だ。
 大事にするのは当然だが、それを家族と呼ぶのはいささか教養が足りないのではないかね」

「ですが旦那、僕らは彼女を大切にしています」
「では、その娘の首にはまっているものはなにかね?」

 パローラの首には無骨な鉄の首輪がはまっていて、それは奴隷の証でした。

「これはどうしても外せなくて……」
「また言い訳か」

 コーネフのなまけ者を見るような目は、リズをすくませるほど冷たいものでした。

 そんな彼の態度に反発したのは、息子のベイノンでした。
 ベイノンは、リズたちの事情も聞かないうちに、一方的な言葉を投げつけるのは暴力であると父のやり口を否定します。
 コーネフは、子どもは親の言うことに素直に従うものだと叱りつけますが、ベイノンはそれをヨシとはしませんでした。

 最終的に、リズが和解の調停を試みましたが、不和を完全には抑えることが出来ませんでした。父子は喧嘩別れのような形で離れていきます。
「ベイノン、助けてくれるのは嬉しいけど、旦那さんにあんな言い方はないよ」
「なんだよ、リズはどっちの味方なんだい」

 可愛い弟分を助けたのに、そんな言い草はないだろうとベイノンは口をとがらせます。

「だいたいパパは、最近、ずっとカリカリしてんだ。
 リズにきつく当たったのだって、きっとそれが原因にちがいないさ」
「カリカリ? コーネフの旦那になにかあったのかな?」

 ベイノンが話すには、物価があがっている影響だろうということでした。

 小さな村では物価の上昇は大問題です。
 物価があがって肥料の値段までもあがってしまえば、翌年の麦の収穫にも大きく影響してしまうからです。
「どうして物価があがるの?」
「う~ん、物が欲しいって人が、物を売りたいって人より増えてるせいかな。
 要するに物が足りてないんだ。
 物が足りなくなれば、他の人よりもお金を出してでも買おうとする人が出てくる。
 商人はおなじ商品でも、そっちに売ったほうが儲かるなら、そっちに商品をもっていっちまう。
 そうすると、物が必要な人たちはたいへんでも、なんとか物を買おうとするんだ。ずるい連中だよな商人って」
 以前勉強して覚えた話をリズに教えて聞かせます。
「でもね、これは悪いことばっかりじゃないんだ。
 みんなで少しずつ儲けて、みんなでお金持ちになればうちの村で作った小麦だって高く売れるようになる。
 肥料の値段やらなんやらで、今年はちょっと苦しいかもだけど、来年にはきっと持ち直すよ。
 だからそんなに心配する必要はないと思うよ」
「でも、だったらどうしてコーネフの旦那は不安に思っているの?」
「ただの心配性だよ」
 ベイノンの言葉に嘘は感じないリズでしたが、何故かそれを鵜呑みにする気にはなれませんでした。

7・幸福な時
 リズを背負ったパローラが野原を駆け抜けます。
 イヌ娘である彼女の力はとても強く、小柄なリズを乗せたところで、走りの軽快さはいささかも損なわれません。
 むしろ、リズがしっかりと抱きついているため、雑に荷物詰め込まれたリュックよりも運びやすかったほどです。

 その速さは馬にこそ及ばないものの、普通の大人が走るよりもずっと早く、これまで体験したことのない爽快感に、リズは大喜びでした。

 それを見ていてたまらなくなったベイノンは、自分も乗せて欲しいと頼みます。
 小柄とはいえ、リズよりも大きなベイノンを乗せても、パローラの速度はほとんど低減しませんでした。
 軽快に草原を駆けていきます。

 ですが、問題がなかったかと言えば、そうではありません。

 パローラは周囲の変化に敏感ではなく、反射神経も良いと言えるほどのものではありません。
 故に、ちょっとした油断からカーブを曲がり損なってしまい、背負ったベイノンごと川へと落下してしまったのでした。
 リズくらいの重さならば、川に落ずに曲がり切れたのですが、身体にかかる慣性は重いものほど強く、それを考慮できなかったのです。

 幸いにも水中に落ちたふたりに怪我はありませんでした。
 ただ、ずぶ濡れになった互いの姿に大笑いしあうだけでした。

 笑いがひと段落すると、ベイノンはどうせだからと上着を脱ぎ、そのまま泳ぎ始めます。
「これは遊びじゃないよ。
 いざというときに泳げなきゃ困るから、練習しておくんだ。
 それとひょっとしたら夜のおかずも一品くらい増えるかもしれないしね」
 そう言ってバチャバチャと足で水面を打っていますが、リズにはそんな彼に近寄る魚などいないように思えました。
 代わりにパローラを呼び寄せると、手を貸して川から引き上げようとします。
 ですが、リズは水に濡れたパローラの重さを見誤り、パローラはリズが軽量であることを考えもしませんでした。

 結果、パローラの身体は水からあがることなく、逆にリズをひきづり込むこととなってしまいました。
 こうなったら仕方ないと、ひとり無事だったリズも観念し、バチャバチャと水遊びを始めます。

 そんな中、ベイノンの視線がなにかを注視していることにリズが築きます。
 彼の視線をたどると、その先には濡れたせいで形が浮き彫りになったパローラの大きな胸がありました。

「こら、ベイノン!
 なにみてるんだ!」
 リズに叱られたベインは慌てて目をそらして謝罪します。

 リズの怒りはすぐには収まりませんでしたが、当のパローラは、ベイノンが何故叱られているかわかってはいませんでした。
 もっとも、リズの怒りにはおなじように濡れているにもかかわらず、まるで見向きをされない貧相な身体への不満が混じり込んでいるのですが、そのことは誰も気づいていませんでした。

8・厄災
 リズ、パローラ、ベイノンの三人は、村が見渡せる丘の上で、昼食をとることにしました。
 昼食は、ベイノンの母親が作ってくれたお弁当で、焼いたカモの肉とチーズをパンで挟んだ豪華なものです。
 普段、朝晩の食事しかとらないリズらにとって、これはとてつもないごちそうで、何度も彼の母親に礼を言いました。
 ベイノンの母親は、故人であるリズの母親と、子どものころからの仲良しで、親友と呼べるほどの間柄でした
 アルマンおじいさんとベイノンを除けば、リズに唯一優しくしてくれる大人でもあります。
 ただし、穏やかで気の利く人物でも、息子に対する義務を忘れたりはしません。
 午後からはちゃんと勉強するようにと、しっかりとベイノンに釘を刺していくのでした。

 食後に気分のよくなったリズは歌を歌いだします。
 小さな身体を楽器とし、大きく響き渡る声は感情豊かなものでした。
 それは、男装中に出している声とはまるでちがう、澄んだ音色を宿しています。
 パローラは初めて聞くリズの歌声に目をパチクリさせ、ベイノンは静かにまぶたを下ろして聴き入っていります。

 その場の誰もが、リズの歌声に聴き入っていました。

 不意に、ベイノンがこんなことを言いました。

「やっぱりリズの歌は良いね。
 これなら将来、歌手になって立派にやっていけるよ」

 リズはその言葉に、自分の将来について少しだけ夢を見ます。
 自分が大勢の前で歌い、賞賛される様子。
 実現すれば、すばらしい体験にちがいないでしょう。
 それによって、アルマンおじいさんに楽をさせてやれるかもしれません。

 ですが、彼女の現実的な部分は、その未来があり得ないと囁きます。

 どこの誰とも知れぬ田舎娘の歌声に、足を止める酔狂な者がどれだけいるというのか。
 彼女の知る歌も幼い頃母親が歌っていたものを、うつろに覚えているだけのものにしかしぎません。

 もしこの場にコーネフがいたら、「歌など歌っている暇があるのなら、家事手伝いの練習でもしなさい」と厳しい忠告をするにちがいないのです。

 それでもリズは、精一杯の笑みを作ると、「ありがとう」と歌を褒めてくれたベイノンに御礼を言うのでした。


 ベイノンが勉強のため帰宅したのを機に、リズとパローラも小屋に帰ることにしました。
 コーネフから怠け者扱いされたことを気にし、アルマンおじいさんが帰る前に、小屋の掃除くらいはしておこうと思ったのです。

 そんなふたりが小屋にもどると、見慣れぬ人影を目にしました。

 いえ、見慣れなかったのは二度遭遇しただけのリズだけで、パローラは敏感にその存在を嗅ぎ分けていました。

 そこで待ち構えていたのは、かつてのパローラの主人であるゴンドでした。

 瀕死のパローラを捨てたゴンドが、どうして自分たちのところに来ているのか。
 そのことを不安に思っていると、ゴンドは彼女らの帰宅に気づいて怒鳴り散らします。

「おいパローラ、てめー仕事もしないでなに遊んでやがる!
 元気になったならさっさと仕事に来やがれ!」
「おじさん酷いよ、おじさんはパローラを見捨てて橋の下に捨てたんじゃないか!」

 リズは首輪を掴んで連れ去ろうとするゴンドに、しがみついて妨害します。

 それを邪魔に思ったゴンドは、五月蠅いハエでも追い払うように太い腕をふり回しました。
 普段からアルマンおじいさんに鍛えられたリズはそんなものに当たりはしません。
 機敏に腕をかわすと、パローラを取り返そうと、体当たりで反撃に出ます。

 予想外のことにバランスを崩すゴンドでしたが、軽量すぎるリズでは倒すには至りません。
 逆にゴンドの怒りを誘発し、反撃の憂き目にあいます。
 ですが、ゴンドが振り上げた拳がリズに向かって飛翔することはありませんでした。
 間に割って入ったパローラが勇敢にそれを受け止めたのです。

 かつての主人に、パローラは怒りの目を向けます。

 その視線にゴンドは怯みました。
 相手がパローラでなければ逃げ出していたことでしょう。

 ですが、なけなしの自尊心は、かつての下僕から逃げ出すことを許しませんでした。

 自分に屈しろと言わんばかりに、拳を叩きつけます。

 二発、三発、四発五発……
 繰り返し殴られてもパローラは揺るぎません。

 そのことが、返ってゴンドの精神を追い詰めていきます。

 パローラの力はゴンドよりもずっと強いのです。
 彼女が反撃にでればすぐにも叩きのめすことができるでしょう。

 しかし、パローラにその選択肢は思いつきませんでした。
 ただ、懸命に相手が殴り疲れるのを待っています。

 しかし、格下の相手への敗北を認められないゴンドは、気力を振り絞って殴り続けます。

 むしろ、追い詰められた彼は、ここで手を止めてしまえば、恐ろしい反撃を受けるにちがいないという恐怖に捕らわれていました。

 そして、落ちていた石を拾うと、それを握りしめてパローラに叩きつけます。

 頑健なイヌ娘でも、さすがにこれにたまりません。
 額から血を流しよろけると、そのまま地面に押し倒されます。
 すっかり頭に血がのぼったゴンドはとどめとばかりに、彼女に馬乗りになりました。
 すでに労働力としてパローラを連れ戻しに来たことなど、頭のどこにも残っていません。
 相手を完全に叩きのめそうと、握った石を繰り返し叩きつけます。
 そうするたびにイヌ娘の動きは鈍くなっていきました。

「パローラ!」

 家族の危機にリズはこれ以上黙っていることはできませんでした。

 ゴンドに体当たりをするものの、体重差がありすぎて逆に跳ね返されてしまいます。
 地面に転がると、その拍子に帽子が外れてしまいます。

「坊主、おまえ女だったのか……」
 地面に広がる金髪に気づいたゴンドがそう呟きます。

 暴力に酔った彼には欠片ほどの正気すら残っていません。
 血走った目でリズを見下ろすと、樽のような身体を寄せます。

 異様な雰囲気を恐れ、逃げようとするリズですが、腰が抜けてしまい立ち上がれません。
 それどころか、震えた声をこぼすだけで、大声をあげることすら叶いませんでした。

 太い腕に生えたずんぐりとした指が、リズのシャツにかかります。

 それを止める手が現れたのは、シャツが引き裂かれる直前でした。

「ウチの孫娘になにをしている?」
 そう問いかけるアルマンおじいさんの瞳は怒りの炎が燃えさかっているのでした。


●第三話:イヌ娘と法廷の戦い

9・怒り
 アルマンおじいさんの心は、怒りに満ちていました。
 手塩にかけて育てた孫娘が、見も知らぬ男に乱暴されていたのだから当然です。
 いますぐ血祭りにあげたい衝動に駆られますが、リズの眼前で己の本性を解放するのはかろうじてこらえました。
 そうでなければ、ゴンドは死の境界線の、遙か向こうへと旅だっていたことでしょう。

 アルマンおじいさんの怒気に当てられたゴンドはたじろぎ、アワアワと後ずさります。
 脱げかけたズボンの股間からは、湯気が立ちのぼっていました。
 そして、そのまま彼らに背を向けると走って逃げていきました。

 アルマンおじいさんは、ゴンドを追うとはせず、リズの安否確認を優先します。

「おおリズや、大丈夫だったかい」
「おじいさん、僕のことよりもパローラをみてあげて」

「わかっておる。だがいったいなにがあったんじゃ。
 それだけでも先に教えておくれ」

 アルマンおじいさんは孫娘をいたわりつつも、そうたずねずにはいられませんでした。

 リズはパローラに村の案内をしてから小屋に帰ったところ、ゴンドが待ち構えていたこと。
 さらには強引にパローラを連れ去ろうとしたので、止めようとしたところ、暴力に訴えてきたことを伝えます。
 酒の臭いはしなかったものの、思考にとりとめがなく、どこかおかしかったように感じたことも付け足します。

「そんなことが……」
 ゴンドはどこからか、パローラが元気になったことを聞きつけたのでしょう。
 彼は悪い意味で有名人です。
 その分顔が広く、そのせいで事情を知らない誰かが、パローラの回復を彼に知らせてしまったにちがいありません。

 ですがパローラが捨てられた日、アルマンおじいさんは、ゴンドがパローラを捨てたことを確認しています。
 あの時、おじいさんがリズよりも後に石橋にたどり着いたのは、その確認をしていたからです。
 仮に彼女の体調が回復しても、ゴンドに文句を言われてはたまりません。
 それを回避するための確認だったのですが、ゴルドの脳内にその記憶はすっかり消失されているようでした。

――それにしても、一度使い物にならないと判断したものを、ああも必死で取り返しにくるとはな……。

 アルマンおじいさんは腑に落ちないと考えます。
 仕事に使う為に取り戻しに来たとしても、誰かに売るために取り戻しに来たとしても、それはパローラが健康であることが前提となります。
 そうであるにもかかわらず、ゴンドはパローラや周囲の者に暴力をふるいました。
 これがアンワーズであったならば、警察に捕まって牢屋に入れらたにちがいありません。

――さてさて、どうしたものかの……。

 てっとり早い解決方法は、金銭による譲渡です。
 しかし、貧しい彼らに、そのための資金を工面する当てはありません。
――ならば……
 アルマンおじいさんの目に薄暗い光が灯ります。

 彼がかつていた場所では、場を乱す者が排除されるのは、暗黙の了解として認知されていました。
 そういう輩を放置することで、多くの命を道連れにしかねないのだから、当然のことです。

「おじいさんどうしたの?」
 急に黙り込んだ祖父を不審に思ったリズがたずねます。

 アルマンおじいさんは、己の裏の部分を孫娘に隠しつつも「なんでもないよ」と言い聞かせ、今後の対応について熟考を重ねるのでした。


10・裁判
 後日、ゴンドはアンワーズにある公館の一室に呼び出されました。

 綺麗に整えられた部屋ですが、その場にいる者の大半が、みすぼらしい場違いな格好をしています。
 部屋に入ってきたのは、ゴンドが最後のようです。

 すでに部屋で関係者の到着を待っていたのは、

 最年長である白髪で大柄なアルマンおじいさん。
 その孫娘でありながら、少年の格好をしている金髪のリズ。
 頭から獣の耳を生やしたイヌ娘パローラ。
 そして最後のひとりは、ベイノンの父親であり、村のまとめ役でもあるコーネフでした。
 公館の一室を借り受けたのもコーネフの手はずです。

「いったい、俺様になんの用でい!」
 呼び出されたことにより、商売の邪魔をされたとゴンドは怒ってみせます。
 ですがそれは、普段立ち入ることのない場所に呼び出された不安を隠すためのものでした。

 それに気づきつつも指摘はせず、コーネフが彼を呼び出した理由を説明します。

「私はラーク村でまとめ役を務めるコーネフという。
 国から徴税官の任も授かっていて、村に関わることなら簡易的な裁判権を有している」
「はっ、村のことなら俺が従う義理はねーな」

「私としてはそれでも構わん。
 だが、ここで決着を付けられないのなら、彼らはアンワーズで正式な裁判を起こすと言っている。
 そうなれば面倒な手続きに時間と手間、場合によっては金もかけることになるがいいかね?」

「んなもんにつきあう義理はねー」
「そんなことを公言していいのか。
 公的な機関からの呼び出しを拒否しては、商業資格を失うことになりかねないぞ」
 さすがのゴンドも、その指摘には顔色を変えます。

「ならば穏便に話し合いで解決しようではないか。
 我々は法のルールの下にいきる文明人なのだから」
 コーネフはそう言って話し合いを始めました。

「まずは最初に言っておくが、私は別段彼らを優遇しようという気はない。
 あくまでも、村で起きたトラブルを穏便に解決するのが目的だ。
 そのことを信じてもらいたい」
 その言葉にゴンドは荒い鼻息で不信感をみせますが、そんなことにイチイチ構っていられないと、コーネフは気づかないフリをします。

「キミはうちの村の娘を襲ったそうだね。
 そのことに釈明はあるかね?」
「殴っちまったのはすまねぇ。
 だが襲ったてのは言いがかりだ。
 俺がそんな坊主みたいな小娘襲ったりなんかするもんか」

「シャツに手をかけていたとの証言があるが?」
「おおかた結託して、口裏を合わせただけだ。
 俺様はやっちやいない」

 コーネフは、静かにゴンドの反応を観察しています。
 罪を正直に認める気はなさそうですが、露骨に嘘を吐いているようにもみえません。

――嘘を真実と思い込もうとしているのか、本当に記憶を捏造しているのか……

 コーネフは、アルマンおじいさんやリズに全幅の信頼をおいているわけではありません。
 それでも、ゴンドが粗野な男であることは、態度を見れば明白です。

 どちらが信用できるかといえば明白でしょう。
 ですが、それだけを理由に判決は下せません。

「それに俺が殴ったってのも語弊がある。
 そいつが躾けの最中に割り込んできたから、ちょっと拳があたっちまったんだ」

「あんなの躾けじゃないやい!」
 ゴンドの発言にそれまで黙っていたリズが声を荒げます。

「うるせー、パローラは俺のもんだ、部外者は黙っていやがれ」

「部外者はおじさんの方だろ。
 彼女を捨てたクセによく言うよ!」

「リズ、落ち着きたまえ。
 それでは私が話を聞くことができない」
 ヒートアップしたリズをコーネフが制する。

「それで捨てられていたというのは本当のことかね。
 キミの勘違いということは?」
「勘違いなんてありえません旦那。
 パローラは瀕死の状態で橋の下に放置されていたんです」

「それは……調子が悪そうだったから、寝かしておいただけだ」
「嘘だ! おじさんはあのとき、パローラは死んじまったって言ったじゃないか!
 仕事に使えないから死んだも同然だって!」
「そんなのデタラメだ!」
 感情的になったリズとゴンドは互いの言葉を否定しあう。

 それをコーネフが再び静めると、質問にもどります。

「では、リズに聞こう」
「なんです旦那」

「キミはパローラを家族に迎えると言ったそうだね。
 それに間違いはないかね」
「はい、間違いありません」
 リズの返事を確認すると、コーネフは黙って事の成り行きを見守っていたパローラを呼び寄せる。
 そして、首に付けられた無骨な首輪を確認した。

「では、どうして奴隷の首輪を付けっぱなしにしているのかね?
 コレには所有者がゴンド氏であることが記されている」
「それは、外せなかったからです」

「奴隷を逃がさないための首輪だ。
 首輪は所有者のためにいろいろな工夫がされている。簡単に外れては意味がない」
「でも、どうしようもなかったんです」

「『どうしようもない』ということはない。
 しかるべき組織に出向き、要件を伝えれば外してもらえたハズだ。
 そうだろう、アルマンじいさん」

 おじいさんはうなずくと、孫娘に教えなかった自分の不手際であると謝罪しました。

 それでゴンドは有頂天となります。
 自分の勝利が決まったと思ったのです。

「坊主、これでわかったろ。
 パローラは俺様のもんだ」
「だが、そうすると問題がひとつある」

「なんです旦那?」
 先ほどまでの不機嫌さが嘘のような上機嫌さです。

「キミが奴隷の主としての義務をおこたっていることだ」
「義務?」

「主人は奴隷に最低限の生活を保障しなければならない。それを放置して捨てるなど論外だ。
 それにこのイヌ娘には傷が多い。
 どれも古いもので、彼らと出会う前にできたものなのは間違いない。
 奴隷を不必要に傷つけることは禁止されているが、どういうわけかね?
 まさか未認可の奴隷というわけでもあるまい?」
 それは重罪であると、コーネフは暗に告げる。

「そっ、そんなんじゃねぇ」
 ゴンドは必死に言いつくろおうとしますが、上手い言い訳は出てきません。

 逆に、ここで自分を虐げれば村人に金物を売らないぞと脅しのようなことを言い始めます。

「ほう、私を脅そうというのかね?」
「滅相もない。ただ商人といえどれっきとした人間だ。
 自分を嫌な目に合わせた村の人間に、物を売りたくないないと思うのは自然なことだろ。
 ひょっとしたら俺だけじゃなく、他の商人たちも、仲間が嫌な目に合わされたとあったら、その村の人間相手の商売は控えるよう考えるんじゃねーかな」
 無論、ゴンドはそのための工作を、知り合いの商人たちを使ってするつもりでいます。

「なるほど、では私としても村娘に乱暴を働いたキミを出入り禁止にしなければならんな。
 それで構わないかね?」
「あんな小さな村、追い出されたからってなんだって言うんだ」

「そうだな、うちの村で売れる鍋など一年にひとつかふたつ程度だろう。
 キミにとってはたいした儲けではあるまい。裏を返せばうちの村としてもたいして困らないということだ。
 だがキミの場合、いま以上に悪い噂が広まれば商売の許可証が危ういのではないかね。
 聞いたところによると、あまり仲間内で好かれてはいないようだが?」

 さきほどまで強気だったゴンドの顔色が悪くなります。

 自分が嫌われ者であると自覚しているわけではありません。
 ですが、自分のことを悪く言う者がいるのは、なんとなくわかっています。

 彼らが結託すれば、ただでさえ行き詰まった商売がさらに悪くなるのは間違いありません。

 近頃は仕入れをするだけでも苦労するというのに……。

「なんでオマエらは、真面目に働いている俺の邪魔をするんだ」
 それは紛れもないゴンドの本音でした。

 彼は、自己評価と他者評価に大きな隔たりがあることに、まるで気づいていないのです。

「そりゃ、機嫌が悪いときは、ちょっとは乱暴なことをしたのは認めるさ。
 だけど、誰だってそうだろ。虫の居所が悪けりゃどなったりもするさ。
 なのに、どうして俺ばっかりが悪く言われるんだよ」

 困ったことに、他の者たちが虫のいどころが悪いからといって暴力に訴えたりしないことを、全ての基準が己である男はみじんにも気づいていません。

「この上、寝食も共にしてきた相棒までとりあげるとか、俺にどんな恨みがあるってんだ」

 己のしでかしてきたことを忘却し、ただ己の不幸をだけを嘆くゴンドは、瞳をうるませ、ボロボロと涙をこぼし始めるのでした。


11・育ての親
「パローラは俺が育てたんだ。
 こんなちっこかったのに、親が死んじまったとかで引き取り手がなかったんだよ。
 戦争が終わったばっかの頃でよう、みんな生きるだけでも大変だったんだ。
 イヌ娘を育てたくないってのもわかるよ。
 でも、それでもあんなちっさい子どもを放置するなんて俺にはできなかったんだ。
 ミルクなんて上等なもんは手に入らなかったし、うまいもんもめったに食わせてはやれなかった。
 それでもよ、それでもふたりで食い物をわけあって生きてきたんだ。
 仕事だって、他のことだって仕込んでやった。
 なのに、ここにきて俺から無理矢理そいつをとりあげるなんてどういうことだよ」

「だったら、どうして橋の下に捨てたりしんだい?」
 ひとり言のように続けるゴンドにコーネフがたずねる。

「だってしょうがねーじゃねーか。
 あのときの俺には、あいつを助けてやる手段が思いつかなかったんだ。
 そんなの知ってりゃ、ちゃんとやってやったさ」
 いい歳をした大人が、みっともなく子どもの前で涙を流しながら言い訳をしている。
 そんな様子をコーネフとアルマンおじいさんは黙殺し、リズは狼狽えていました。

「商売が上手くいかないときは辛くあたったこともあったかもしれねぇ。
 でも少ない飯を分け合って、寒い日は肌を重ねてやりすごして来たんだ。
 パローラ、おまえはそれを全部なかったことにしちまうのかよ」

 その訴えに一番動揺したのはリズだった。
 少なくとも彼女の目には、ゴンドが嘘を言っているようには見えなかったです。

 故にここで、和解案を持ち出してしまいます。

「おじさん、ここに銀貨が三枚あります。
 これでパローラを僕に売ってもらえませんか?」

 リズの提案にゴンドは目の色を輝かせます。
 それまでの思い出話はなんだったのかと思わせる変わり身です。
 その様子にリズは、交尾の後にオスを捕食するカマキリのような昆虫を連想しました。

 もともと敗北が確定しかけていたゴンドです。
 少しでも利益が出せるのなら上々。
 それも鍋を売るよりも大金であるなら言うことはありません。

 それに銀貨三枚あれば新しい奴隷を購入できますし、余ったお金で娯楽に興じることもできるでしょう。

「そうか坊主、いや、嬢ちゃん、わかってくれたか。
 ホントはパローラにゃもっと価値があるんだが、仕方ないからそれで負けといてやるよ」

 ゴンドは恩着せがましいことを言うとパローラの売却を了承します。
 そのやりとりをコーネフとアルマンおじいさんは黙認しました。

 実のところ、最初からゴンドにまっとうな理屈が通じないことは予測されていました。
 そこで金を渡して譲歩させることが計画されていたのです。
 ただ、簡単に金を渡しては、味を占めたゴンドが再び金をせびりにこないとは限りません。
 故に最大限の譲歩として、仕方なく金を渡すという形をとることを予定していたのです。
 そのことは、リズも聞かされていました。

 リズから、ピカピカの銀貨を三枚も受け取ったゴンドは上機嫌です。
 アルマンおじいさんから提出された、奴隷の委譲同意書をロクに確認もせずにサインしています。
 そのことで、彼の商人としての力量を見抜かれていたのですが、誰もそのことを指摘しません。

 そして彼は、その金を手に街へ繰り出そうと扉へと向かいます。

「パローラ、これでキミは本当に僕の家族だ。
 首輪はあとで外してもらいにいこう」
 そう言ってリズは新しい家族を抱き寄せます。
 ですが、パローラの目は扉から出て行くゴンズの背を追っていました。
 これでゴンドとは二度目の別れです。
 隣にはリズがいて、体調も悪くありません。
 一度目のような絶望はわきませんでした。

 それでも、丸みをおびた背中が扉の向こうに消えていく様子に心が揺れないわけでもありません。

 いつの頃からか粗暴になってしまったゴンドですが、若い頃は大商人になろうという野望に燃えていたのです。
 彼が言ったように、少ない食料を分け合ったこともあったし、冬は肌を重ねて寒さを耐えしのぐのが当たり前でした。

 辛いことの多い日々でしたが、それでも彼の仕事を支え続けてきたのが彼女の人生だったのです。

 橋の下で捨てられた時はとても悲しかったですが、役立たずとなったのだから仕方ないと受け入れ、恨む気持ちはありませんでした。
 されど、こうしてもう一度、彼と別れることに、未練のような感情は残っていました。
 それでもゴルドの背を追おうとしなかったのは、それと同様以上のものが、出会って半月と立たないリズに対してできていたからです。

 そういう意味では、パローラもゴンドとおなじくらい薄情なのかもしれません。

   ◆

「コーネフの旦那、お手数をおかけしてすみませんでした」
 騒動の終幕に、リズは帽子をとって謝罪をします。
 彼女の長く輝かしい金髪は短く切られなくなっていました。

 ひとりで賃金を稼ぐことができず、金目の品も持たないリズは、己の髪をカツラ屋に売ることでパローラの代金を作ったのでした。
 このあたりでは、滅多にいない美しい金髪は予想よりも高額な、銀貨三枚もの大金となり、パローラを救う助けになったのです。
 これまで、己の金髪をずっと疎んでいたリズでしたが、初めて役に立ったように思えました。

 そんなリズの金髪を見たコーネフは、嫌な思いをしていましたが、それを顔に出すほど未熟ではありません。
 そういう意味では、彼のほうがよっぽど商人らしいと言えるでしょう。
「勘違いしないでもらおう。
 私は己の役割を公正に果たしただけだ。
 それに、あのような無法者を野放しにしておくこともでできないからな」
 コーネフはそう言いますが、それでもパローラが救われたことに協力してくれたことに変わりありません。
 彼の協力がなければ、パローラを助けられなかった可能性は高かったのです。
 故にリズは、感謝の念を消すことはありませんでした。

 そしてそんな純真な少女らを余所に、その場の大人たちは、次の計画のため、すぐさま動き始めるのでした。


12・怪しい薬
 リズから銀貨三枚もの大金を得たゴルドは、上機嫌で日の傾きだした街へと繰り出します。
 ですがその足は、いつもの酒場の前を通り過ぎ、裏路地へと入って行きました。

 後ろを振り返り、自分に注目している者がいないか入念に確認しています。
 そして、いくつか路地を曲がったところにたたずむ男を見つけると、声をかけました。

 いくらかの交渉をすると、得たばかりの銀貨の一枚を小袋と交換します。
 中身は禁制品である麻薬です。
 許可のない者が持てば、それだけで処罰される代物です。

 口笛を吹き、平常を装いながら立ち去ろうとするゴンドでしたが、そこに声をかける者がいました。

「そこ、なにをしている」
 それは警官でした。

 すぐさま逃げ出すゴンドと男でしたが、逃げる先はすでに他の警官たちが塞いでいました。
 足をとめた瞬間に、取り押さえられます。

「こんにゃろ、なにしやがる!」
 暴れて逃げようとするゴンドでしたが、束縛の手が緩むことはありません。

 そして、麻薬を握った彼の手には、太い手錠がかけられるのでした。


 アルマンおじいさんとコーネフは、一連の捕り物劇を陰から見守っていました。
 ゴルドが麻薬を使用していた可能性が高いと疑っていた彼らは、大金を得たゴルドが売人の下へいくと予測し、あらかじめ警察と相談していたのです。
 そして、その予測は見事に的中しました。

「離せ、こんちくしょう!」
 なおも暴れるゴンドでしたが、警官から逃げることはできません。
 売人も捕まり一件落着です。

 麻薬の売買はとても重い罪がつきます。
 今後ゴンドがリズの前に出てくることは、まずないとみて大丈夫でしょう。

 ですが、手放しで喜べる状況でもありませんでした。
 売人を捕まえたことで、麻薬の出所が判明したのです。

 それは戦地で栄養剤として配られているものでした。
 どこからか横流しされたものが、アンワーズに流入したのです。

 杜撰な管理は、戦地の風紀が乱れていることを現しています。
 そして、風紀の乱れは戦況が悪さが影響しているとみて間違いないでしょう。

 その影響がこれ以上、アンワーズに届かないことを、ふたりは深く祈りました。

   ◆

 ゴンドと売人を取り押さえた警官が銀貨を回収すると、そのうちの一枚だけをコーネフに与え、残りは胸のポケットにしまいます。
 その警官は、その金の出所を聞かされていなかったのでしょう。
 ただ、自分が着服するのを黙っていろという意味をこめてコーネフに分け前を与えたのです。

 コーネフはその行為に苦いものを感じながらも、ここで拒めば相手の不信を買いかねません。
 黙ってそれを受け取り、共犯になることを受け入れるのでした。

   ◆

 遅れて小屋に帰ってきたアルマンおじいさんは、「今日は疲れただろう」と労いの言葉とともに、土産として買ってきた肉をリズに手渡します。
 それは、コーネフからアルマンおじいさんに返却された銀貨で買ってきたものでした。

 おじいさんは、リズに返却して自分のために使わせることを考えましたが、その為にはゴンドの件や、警官の不正のことを教えなければなりません。

 汚い大人のやり口を隠すためにも、おじいさんは銀貨を肉に変えることで還元することを選んだのでした。

 こうして輝かしいリズの金色の髪は、パローラの身を救い、美味しい食事という形で皆の胃に収まったのでした。


●第四話:イヌ娘と別れの時

13・昔話
 朝の身支度を終え、小屋を出たリズは、アルマンおじいさんに服装の確認をしてもらいます。
 短くしたことで編み込めなくなった金髪は、帽子に入れられなくなってしまいました。
 それでも髪を短くしたことで、ちゃんと少年のように見えます。

 リズは、一緒にいたパローラにも確認を頼みますが、嬉しそうにコクコクうなずくばかりで、ちゃんと主旨を理解しているのか怪しいものでした。

 そんなパローラの首からは首輪が外され、日焼けの跡が残る首筋がさらされていました。

 首輪はコーネフの口利きで外してもらいました。
 いまは残っている日焼けの跡も、いずれは薄れることでしょう。

――その頃には、もっとパローラと仲よくなれてるといいな。

 そんなことを、密かに願い祈っています。

「リズや、ひとつ頼み事があるのじゃがいいかね?」
「もちろんだよおじいさん。
 いったい僕はなにをすればいいの?」

「どうやら帽子を忘れてしまったようなんじゃ。
 すまんが小屋まで見に行ってもらえないかのう」

 リズは、おじいさんの頼みを快諾すると、元気に小屋まで走っていきます。
 パローラもそれについていこうとしますが、リズからひとりで十分だから待ってるよう言われ、その場で見送ることにしました。

「さて……」
 アルマンおじいさんは、暢気な顔でいつまでもリズの走っていた方角を見つめているパローラの足を払います。
 無警戒だった彼女はあっさり転んで地面に倒れました。
 おじいさんはそこに追い打ちをかけ、お腹に重い一撃を食らわせると、ため息を吐きます。

「鈍い、鈍すぎる」
 リズならば最初の足払いで無様に倒れることはなかったろうでしょう。
 仮に倒れたとしても、即座に反応をみせたハズです。

 しかし、パローラは転ばされただけでなく、攻撃を受けてなお、目をパチクリさせるだけで、反撃の意志すら見せませんでした。

「ヌシには、仕事の手伝いよりも守り手として期待しておったのじゃがな」

 それを口に出して伝えたのは初めてですが、忠誠心があれば身をていして守のは当然のことだろうと、おじいさんは考えていたのです。

 それが、リズに言われたからとはいえ、あっさりと側を離れ、あまつさえ攻撃されても無頓着でいられては、期待ハズレもいいところです。

 アルマンおじいさんは、ポケットから取り出した帽子を被ると、近くの石に腰を降ろします。
 そしておじいさんが、どうしてそんなにもリズの身を気にかけるかを語り出すのでした。

   †

 流通の拠点であるアンワーズは、戦時において狙われやすい重要拠点となります。
 故に昔から幾度となく戦火にさらされてきました。
 街の周囲を大きな石壁で囲っているのもその影響です。

 十二年前に起きた、ドルガ帝国のベルジウム王国への侵略でも、アンワーズの大きな石壁は活躍しました。
 ただし、その防壁が守ったのはアンワーズの街と、そこに住む住民たちだけで、周囲の村々までもを守ることはできません。

 金色の髪をした敵兵たちが押し寄せ、ラーク村は多大な被害を受けたのです。
 ひどい仕打ちをされた者も多く、そのうちのひとりがアルマンおじいさんの娘――ラジーであり、その時に宿されたのがリズでした。

「ドルガの子など産むなんてとんでもない!」

 帝国兵が立ち去った村では、ラジーに堕胎するよう皆が忠告します。

 村に多くの犠牲を払わせた恨みの深い相手の子なのです。村人たちがそう主張するのも無理はありません。
 それでもラジーは、産まれてくる子に罪はないと言い張り、娘を産み落とすことを決めたのでした。

 周囲から反対されていたこともあり、出産を手伝ってくれる村人は限られていました。
 この頃アルマンおじいさんは、他の戦場に兵士として招集されていたので、彼女の出産を手伝ってくれたのは、ベイノンの母親くらいなものでした。
 すでに二歳になっていたベイノンは、当時の様子をおぼろげに覚えているらしく、彼がリズを妹扱いするのはそのためです。

 ラジーの苦難は、リズを産んでからも続きました。
 村を襲った帝国兵の子どもというだけでも肩身が狭いのに、リズの髪はそれを思い出させる金色だったのです。
 彼女の金髪を見た村人たちの恐れ具合は、それはそれはひどいものでした。
 それにより、ラジーと交流しようとする村人はさらに減ります。

 出産時の過労に加え、ひとりでの育児はラジーの身体に酷く堪えました。
 ベイノンの母親は、ラジーとリズを自宅に招いて看病しようと考えたましたが、旦那であるコーネフから「中立であるべき立場の者が、村の厄介者を抱え込むわけにはいかない」と拒絶され、泣く泣く諦めたのでした。
 彼女は、いまでもその時のことを後悔しています。

 アルマンが戦場から帰還した頃には、彼の娘であるラジーは虫の息になっていました。
 自分が息を引き取るまえに父が帰ってきたのは、主(しゅ)のお導きであると感謝し、娘のことを頼むと、そのまま息をひきとってしまいます。
 このことにアルマンは激しく動揺しました。
 娘の住む故郷を守るために戦っていたのに、帰ってみればその村は守られておらず、生き残った村人たちは、村の代表として戦い抜いた彼の娘を冷遇していたのだから当然です。
 戦場から銃を取り寄せ、村人全員を虐殺しにしたい衝動にも駆られました。
 ですが、村人が彼女を冷遇した理由もわからなくはないのです。
 アルマン自身、己の手で抱いた金髪の孫娘相手に、感情の置き場がわからなかったのですから。

 これまで憎しみ、戦い殺し続けてきた敵国兵の子であります。
 それでいて自分の血を継ぎ、愛娘から託された孫娘でもあります。
 彼の頭の中は、混乱の坩堝(るつぼ)となっていました。

 かつては乱暴者と戦地に追放された男に、わずかながらに慈悲の心が宿るようになったのは、この頃からです。
 その心は、無垢な赤子によって癒やされ、育まれていきました。
 そして、凄惨な戦場から生還したアルマンにとって、孫娘を育てることは、己の心身に刻まれた傷を癒やす治療となったのでした。

   †

 リズは、アルマンおじいさんに感謝していると言っていますが、本当に感謝しているのは自分のほうであると彼はパローラに吐露しました。

 しかし、村の連中は、そうではないとも言います。

「帝国が王国に侵攻したのは十二年も前のことじゃ。
 じゃが、村の連中はその時のことを忘れておらん」

 そしてリズの金髪は、根深く刻み込まれたトラウマをひどく刺激すると教えます。
 リズ本人に、なんら落ち度がないとしても、それを消し去ることは難しいことなのです。


 話が終わる頃、ちょうどリズがもどってきました。
 小屋で帽子をみつけられなかったと済まなそうにしていたリズでしたが、アルマンおじいさんが帽子を被っていることに気づいて驚きます。

「その帽子どこにあったの?」
「スマンスマン、どうやらワシの勘違いだったようじゃ。
 そろそろボケがはじまってきたのかのう」

 そう言って笑う彼の姿は、いつもの好々爺です。

 アルマンおじいさんの語った話はパローラには長すぎ、正直あまり理解できていませんでした。
 それでも、彼がリズのことをとても大切にしているのはわかります。
 自分もおじいさんに負けないように頑張ろうと、パローラは心に決めるのでした。


14・忍び寄る戦火
「今日はリズとパローラのおかげで、ずいぶんと楽ができたわい」
 その日の荷運びを終えたアルマンおじいさんが、手伝いのふたりに感謝の意を伝えます。

 リズは「パローラのおかげだね」と、大好きなおじいさんの役に立ったことを褒めてあげます。

 事実、イヌ娘であるパローラは、リズはおろかアルマンおじいさんよりも剛力で、荷車に載せられた大きな荷物を顔色ひとつかずに運んでいました。
 パローラとしては慣れている分、リュックのほうが動きやすいのですが、以前使っていたリュックはゴンドの物です。贅沢はいえません。
 それに街中の舗装された道を移動するならば、荷車のほうが楽なのも確かでした。

 そんなパローラを見ていたリズは思います。
 彼女は背が高いものの細身である。
 だが女性として育つところは育っていて大人のソレと変わりません。
 ゴンドが彼女を貰ったのは戦後のことだと言っていました。
 つまり、パローラはリズとほぼおない年ということになります。

 以前の飼い主を思えば、たくさん食べさせてもらえたとは、到底思えません。にも関わらず、体格の大きなちがいが現れているのは何故なのか、わずかに不満であった。

――そういえばベイノンのバカも……。

 川に落ちた時のことが脳裏をよぎり、赤味をおびた頬が無意識に膨らみます。

 そんなリズの態度を不思議に思ったアルマンおじいさんが、どうしたのかと尋ねるがリズは「うんうん、パローラの首がちょっと寂しいなって」と言って誤魔化しました。

 それはあながち嘘ではなく、首輪の外された彼女の首回りはなにか物足りなく見えます。
 日焼け跡を隠すためにも、なにか代わりの物を用意しようとリズは考えていたのです。

「そうじゃの。上等な首輪は買ってやれんが、リズがなにか作ってやるといい。
 材料費くらいは出せるじゃろう」

 早く仕事を終わらせた分、賃金に色をつけてもらえたとアルマンおじいさんが頬をほころばせます。

 そして三人は、皮商人の居る店を目指すことにした。


 リズはアンワーズの街並みを歩いていて違和感を覚えました。
 毎日来ていたおじいさんは気にとめていませんでしたが、パローラの世話で何日も訪れていなかったリズには、街が別の街のように見えていました。
 これまでもそういう経験はあります。
 お祭りがある日が良い例で、そういう活気のある変化はリズも大好きです。
 ですが、この日の変化はお祭りとは真逆でした。
 誰か有名な人が亡くなったのかもしれない。
 リズはそう考えましたが、喪に服しているのともまたちがうように思えます。

 そんな時、リズは口喧嘩をしている露店の主人と客とおぼしき男の姿をみかけました。

「この野郎、また値上がりしてるじゃないか!」
「仕入れ値があがったんだから仕方ないだろ!」
「そんなこと言って、先週も値上げしたじゃないか!」
「買う気がないなら余所へ行きやがれ!
 こっちは少しでもみなに良い思いをしてもらいたくってこの値段でやってるんだ!」

 そう言って男の目の前で、値札を書き換え値上げしてしまいました。

 喧嘩は激しさをましていきます。

 怒り方からして、リズには露店の主人が本当のことを言っているように思えました。
 もちろん、物の値段が毎週のように上がっては、客側であるリズもたいへんです。
 おなじ状況になれば、文句のひとつも言いたくなるかもしれません。
 そういう意味では客の男を悪く言う気にはなれません。

「ねえおじいさん、物の値段があがってるっていうのは、物価が上がっているってこと?」
「ほう、リズは賢いことを知っておるな」
 感心するアルマンおじいさんに、リズは驕ることなくベイノンから聞いたのだと正直に言います。

「でも、どうしてこんなに値上がりしてしまったんだろう。
 僕の記憶が間違ってなければ、以前ならふたつ買えたお金で、いまはひとつしか買えないよ」
「おそらく戦争の影響じゃろうな」
 孫娘に不穏な話はしたくないアルマンおじいさんでしたが、ここまで物価があがってしまっては、隠すことはできません。
 麻薬の流出が始まっていることを思えば、戦争の悪影響は間違いなく大きいでしょう。
 あるいは、その火の手はアンワーズの直ぐそばまで迫っているのかもしれません。

「ねぇ、おじいさん、どうして戦争は起こるの?」
 戦争の話が出たことでリズはおじいさんにたずねます。

「むずかしい問題じゃな。ワシには上手く答えられん。
 だが、思いつく理由はいくつかある。それひとつが戦争の理由ではなく、どれもが少しずつ影響しているのじゃろう」
「それって?」
「領土問題、国同士の歴史や軋轢(あつれき)、宗教や民族感のちがい、資源の奪いあいや政治的な問題での勃発……本当に枚挙にいとまがない。
 それと……」
「それと?」
「ただの勘違いが原因ということもありえる」
 アルマンおじいさんの言葉にリズは、本当に勘違いで戦争が起こってしまうのかと首をかしげます。

「誰も戦争など望んでおらなくとも、なにかの失敗や行き違いで戦争のスイッチが押されてしまうことがあるのじゃ。
 一度押されてしまえば、無数の死者が出ると分かっていても止められん。
 無理に止めようとすれば、戦争以上のトラブルが国内で起こるとなれば、政治屋どもは止めることはせん」
「政治屋……」
 それはこれまでのリズが、意識したことすらない職業でした。

「自国の運営が上手くいっとらんと、国民たちは不満を抱えることになる。
 それを放置すれば、国民たちの不興を買い、政治屋どもは失職しつぃまうのじゃ。
 それを回避するため、奴らは不満を解消せねばならないのじゃが、それが簡単にできるとはかぎらん。
 故に、もっと簡単にそれを誤魔化すための手段をとる」

 そしてその最有力手段が「戦争じゃ」とおじいさんは言います。

「勝利という美酒をもって国民の不満を誤魔化すなど、政治家として三流も良いところじゃ。
 いま行われているベルジウムとドルガの戦争とて、ちょっとした小競り合いから発展し、周囲を巻き込んだ大胡他になった噂がある。
 ワシに真偽はわからぬが、そんな理由で無数の戦死者を増やしているとは到底信じたくないことじゃ。
 誰も負けたくはないのは確かだが、どこかで落としどころを決めなければならないのじゃがな……」
 片田舎の退役軍人でしかないアルマンおじいさんには、そんなことはわかりません。

「話し合って解決するわけにはいかないの?」
「無理じゃな」
 孫娘の質問に、アルマンおじいさんは即答しました。

 そのことにリズは驚きを隠せません。

「でも、先日の金物屋のおじさんだって、話し合いでわかってくれたじゃない」
「リズや、あれは話し合いなどではない。
 法律という名の別の武器で殴りつけ、言うことを聞かせたにすぎん。それも最後は金という名の媚薬で籠絡したのじゃ。
 アヤツとしても無理に逆らい続ければ商売が立ちゆかなくなる。
 そのことを分かっておるから、適当なところで妥協したのじゃ。
 リズや、あのときの金物屋の顔が改心したように見えたか?」
 その問いに幼い少女は首を振ります。

「みんなで仲よくできればいいのにね」
 悔しそうに言葉をこぼします。

 されど、小さなラーク村の中でさえ、差別は消すことができないのを知っています。それを世界に広げるのはもっと難しいことです。
 それでも、おじいさんはかわいい孫娘のため「そうじゃの」と嘘をついてあげるのでした。


15 楽しい食事
 仕事を終えリズとアルマンおじいさん、パローラの三人は村への道のりを歩いて帰ります。

 村に着く手前の川。その橋の上で上等な服を着た少年――ベイノンが待っていました。

 最近は勉強に追い立てられていることの多い彼が、こんなところにいるのは久しぶりのことです。
 待っている間に読んでいたのでしょう、小脇に籠と一緒に本をかかえています。
 隣にはなにか荷物を入れた籠が置かれています。荷物は厚い布で包まれていて、中身がなんだかわかりません。

「やぁベイノン。どうしたんだい、こんなところで」
「やあリズ、こんにちは。
 実はおじいさんに伝言があるんだ。パパが家まで来て欲しいって。なるべく早くって言ってた」

「いったいなんの用だろう?」
 ベイノンの父親は、ラーク村のまとめ役であるコーネフです。
 コーネフには、パローラの件で世話になったばかりです。
 彼の頼みならば、最優先で応えなければならないとリズは思いましたが、急ぎの用というのは気になりました。
 なにかあったのだろうかと、不安になるリズでしたが、ベイノンに慌てた様子はありません。

「それと俺たちは先に帰って食事にしよう。
 ママがみんなで食べなさいって、牛乳がたっぷり入ったシチューを持たせてくれたんだ」
 そう言って、籠の中にある冷めぬよう厚い布でくるんだ鍋を見せます。
 アルマンおじいさんは、コーネフの旦那のところにはひとりで行くと言い、リズとパローラは、ベイノンと小屋に行ってシチューをごちそうになると良いと勧めました。

 アルマンおじいさんを残して、先に夕食を食べることにリズは抵抗がありました。
 しかし、パローラがお腹を鳴らしたことで、おじいさんの提案を採用することとしました。

「いただきます」
 シチューにはたっぷりの野菜の他に、牛乳やお肉も入っています。
 それに黒くて食べ応えのあるパンを浸して食べると、リズはとても幸せな気分になれました。
 パローラもぎこちない手でスプーンを握り食べています。
 彼女は初めて食べるシチューの味にビックリしていました。

「それにしてもコーネフの旦那が、おじいさんに話ってなんだろうね」
「さぁ? それよりもリズ。
 そんな顔をしてちゃ、美味しいシチューも美味しくなくなっちゃうよ。
 どうせパパたちがどうにかするから、俺たちはこのシチューを美味しく食べよう」
 ベイノンは楽観しています。
 そのことに思うところはありますが、どんな要件で呼ばれたかもわからぬのでは、考えようもありません。
 リズは、言われた通りにすることにしました。
 実際、シチューに夢中なパローラの姿を見ていたら、暗い考えなど、あっという間に消え去ってしまいます。

「そういえば、首輪がないパローラの姿はなんだか新鮮だね」

 ベイノンがその方が素敵だと言う。
 それにリズも同意しました。

「でも、本人はときどき物足りなそうに、首をさすってるんだ」
「すっきりしてるのに」

「本人にしかわからない事がきっとあるんだよ」
 だからねと耳打ちする。

「ナイショで首輪を作っているんだ」
 昼間に革屋に行ったときは、物の値段があがったせいもあり、彼らに返そうな素材はありませんでした。
 故にリズは、鮮やかに染められた糸を見せると、それを編んで首輪を作ることにしたのだと教えます。

 それはパローラには秘密です。
 リズのサプライズを素晴らしいものだとベイノンは賞賛します。
 その後彼らは、アルマンおじいさんが帰ってくるまで、楽しくすごしました。

 リズはとても幸せでした。
 貧しくとも優しいアルマンおじいさんが、他界した母親の代わりに一緒にいてくれます。

 少々頼りないけれど、こうして気に掛けてくれるベイノンもいます。
 最近は、美味しいものが食べられる日もグッと増えました。

 そこに、まじめで優しくて力持ちなパローラが加わってくれたのですから、その幸せは望外のものと言えます。

 しかし、その幸せは翌朝には消えてしまいます。
 何故なら、リズが目覚めると小屋にパローラの姿がどこにもなかったのです。

   ◆

 リズが目覚めると小屋のどこにもパローラの姿はありませんでした。

 リズは慌てて己の記憶を掘り起こします。
 昨晩、おじいさんが帰ってきたのと入れ替わりに、ベイノンが帰ったのおは覚えています。
 はしゃぎすぎて疲れたのか、眠ってしまったベイノンを、いつもは厳しいコーネフが背負っていたのは印象的でした。

 そのころには、リズも眠くなっていたので、パローラと一緒にベッドに入った覚えがあるのですが、記憶がすこしアヤフヤです。

 部屋に荒らされた様子はなく、泥棒や人攫いが現れたわけではないでしょう。
 ですが、どこを探してもパローラの姿は見当たりません。

「おじいさん大変だ、パローラがどこにもいないよ!」

 慌てるリズにアルマンおじいさんは説明します。

「いいかい、リズよくお聞き。パローラは遠くの国にいってしまったんだ」
「それってどういうこと?」
「パローラには遠くに働きに行ってもらったんじゃ」
 その言葉にリズは驚き否定します。
「そんな、パローラは僕とおなじ12歳の子どもだよ。
 十二歳で働いている子なんていないじゃないか」
「いいかいリズ。イヌ娘の成長は普通の人間よりもずっと早いのじゃ。
 だから、彼女らは成人扱いで働くのもずっと早い」
 そういえば、彼女が大きな荷物を背負っていることに、誰も注意することはありませんでした。
 そもそも、イヌ娘の大部分は奴隷で、道具扱いされるのも珍しくないのです。

「だからって、だからってどうして突然いなくなるんだよ」
 それについてはおじいさんは答えません。ただ「すまないの」と繰り返すけでした。
 そして、リズとパローラの再会には長い月日が必要となるのでした。


16・挿話
 時間はパローラがいなくなる前日にまで遡ります。

 ベイノンを通じて呼び出されたアルマンおじいさんは、コーネフの旦那の家をたずねました。
 おじいさんは席につくとお酒を勧められるましたが、警戒心を強くもっていたため断ります。
 そんな様子をみたコーネフは、前置きもなく本題に入ることにしました。

「この村にも召集令が出た」
 それは、国から兵隊にするための人材を差し出せという命令書でした。
 それに逆らうことは国に逆らうことと同義です。
 援助は打ち切られ、村全体に重い罰が下されることになるでしょう。
 逆らうことなど到底できません。

「幸いにも、この村からはひとりでかまわないということだ。そこで……」
「ワシに再び戦場へもどれというのか?」
 アルマンおじいさんは、戦争の噂を聞いたときからそのことを警戒していました。
 同時にそれが最適なのかもしれないとも考えています。
 村の人間が、アルマンを避けるのはリズの事以外にも、彼自身がいまだ戦場の気配を漂わせていることにあります。
 幼い頃からおじいさんに親しんでいるリズやベイノンは気にしていませんが、村の大人たちはおじいさんが近くに来ると緊張してみせるのです。
 孫娘と暮らすうちに、トゲが抜けたと言う者もいますが、隠し持った刃がまだまださび付いていないのは、孫娘に護身術を仕込んでいる姿をみれば一目瞭然でしょう。
 アルマンおじいさん自身、村になじめない部分を気にしていたので、リズのことさえなければとうの昔に村を出ていたことでしょう。
 逆に、リズがひとりで生きられるようになるまで、村を離れる事態は避けたく思っています。
 そのことを告げるアルマンおじいさんでしたが、コーネフは「そうではない」と否定しました。
「貴方のご高名は亡き父から聞き及んでいます。しかしその歳では、さすがに戦場に立つのは難しいでしょう。それに幼い孫娘を残し戦争に立てというのも、さすがに申し訳ない」
 その言葉におじいさんは、彼がなにを言いたいのか察します。
「まさか……」
「あのイヌ娘を私に買い取らせてください」
 そう言ってコーネフは頭をさげました。

「村の若者は貴重な労働力であり、未来を担う宝。
 普通なら厄介者を出すところだが、幸か不幸かこの村にそんな厄介者はいない。みな良い子ばかりだ。
 だからと言って、村から誰も出さないわけにもいかない……」
「ならば、行くべきは、まとめ役の子であるベイノンじゃな。そろそろ成人の時期でもあるし、ちょうど良い」
 おじいさんの指摘にコーネフは難しい顔をします。
「あの子に戦場は無理だ。もうすぐ成人だというのに、子どもの感性が抜けていない。
 人を殺すどころか、演習で死にかねない。そうなれば別の者を出すよう要求されるだろう」
「だから、代わりに養女にしたパローラを送ると言うのか」
「……申し訳ないとは思っている」
 イヌ娘の成長は早く、十二歳で未熟と言う者はいません。
 それどころか、身体能力に関していえば普通の大人よりもずっと高い。
 過去にアルマンおじいさんは、戦場で遭遇したイヌ娘に大けがを追わされたことがあります。顔に残る傷がその名残です。
 イヌ娘を差し出すことを、国が問題視することはないでしょう。

 アルマンおじいさんも、パローラをリズの支え役とともに、いざというときの盾となるよう教育しています。
 戦場に送り込むことになっても、大きな問題はありません。
 ですが、お金でパローラを売り渡す訳にはいきませんでした。

「アレは老い先短いワシの代わりになるために仕込んでいる。
 リズとおない歳だったのは誤算じゃが、それでも彼女が成人するまで支えるくらいのことはできよう」
 それを手放す条件は、金銭ではないとおじいさんは要求します。

「リズとベイノンの仲を認めてやって欲しい」
 コーネフは、またも難しい顔をしました。
 ベイノンには村の為、どこかアンワーズの有力者の娘を嫁につける予定でいたのです。
 そうすることで、アンワーズとの繋がりを強化し、村を大きく発展させる計画を立てていました。
 それは私心からではなく、純粋に村のことを思ってのことです。
 世の中には、村ののどかな暮らしは、なににも代えがたいものだと良いことの様に言う者がいます。
 必要以上にアクセク働くことがないと、優しい言葉で言う者もいるでしょう。
 ですが、村に競争力がなく、周囲よりも発展が遅れてしまえば、窮地に追い込まれるのは村そのものなのです。
 いまも金銭的余裕がないために、物価の上昇に頭を悩ませています。
 それでも、今年はなんとかなるでしょうが、この先おなじような状況が続けば、村から去る者が出てきて村がなくなるという事態が起こるかもしれません。
 あるいは村を出れるなら、まだマシで移住先を見つけられない者は村と一緒に朽ち果てることとなるでしょう。
 コーネフは自分の管理する村でそのようなことを起こすわけにはいかないと考えています。
 そこまでいかなくとも、村人を飢えさせるだけでも、まとめ役として無能の印を押されることとなります。
 それは彼には耐えがたい屈辱です。
 ですが、アルマンおじいさんの要求をはねのけ、ベイノンを戦地に送ることも避けねばなりません。
「難しく考えなくて良い。別にリズをベイノンの嫁にとれと言っているわけじゃないんだ。交流を認めてやって欲しいというだけにすぎん。リズには友達が少なすぎる」
 口先ではそう言ったものの、ベイノンがリズを妹のように思っているのは、周囲の目からみても明かです。その関係は、きっかけさえあれば変化することでしょう。
 それに軟弱なれど優しい彼ならば、リズが窮地に陥ったときに手を差し伸べてくれるのは、間違いありません。
 それを邪魔されなければ、最低限リズを守ることができるのです。
 アルマンおじいさんの考えていることは、コーネフにもわかりました。
 この要求は、状況によってゃ村の発展を阻害することになりかねません。
 故に別の条件にはできないかと申し出ますが、おじいさんは彼の提案するどの条件にも首を縦には振りません。
 結果、コーネフは軟弱で愛しい息子を守るためにも、要求を呑むしかありませんでした。

 その後、アルマンおじいさんは、ベイノンを迎えに来たコーネフとともに、孫娘の待つ小屋に帰ります。
 そこで起きていたのは、火の番をしているパローラだけでした。
 リズとベイノンはお腹が膨れ、話疲れたことにより、微笑ましく肩を寄せて眠っていました。
 アルマンおじいさんとコーネフは、パローラに村の置かれた状況を説明します。
 そして村の為、リズのために戦場に行って欲しいと頼みました。
 パローラは、リズの為になるならと、その要求を快諾します。
 彼女は頭があまりよくなく、戦場がどんな場所なのかもわかっていません。
 ですが、それ以上に優しいリズのために、自分ができることがあるのだと知れば、それをせずにはいられなかったのです。
 そしてパローラは、そのことを知れば引き留めるだろうリズに挨拶することもなく、幸せな想い出がたくさん詰まった小屋を出ていくのでした。

【第一部 完】



■第二部 戦禍の地のイヌ娘

●第五話:イヌ娘と戦場への道

17・新兵訓練学校
 背の高い木々に囲まれた見通しの悪い道を、一台のトラックが行きます。
 その荷台には、大柄で少しボンヤリとしたイヌ娘、パローラがひとりで乗っていました。
 ざっくばらんに切られた髪はベージュですが、その先の部分が白くなっています。その頭にはイヌ娘のシンボルとも呼べる動物のものに似た耳が生えています。耳は途中までは天を目指して立っていますが、途中からやる気を失ったかのように、うなだれています。
 その耳の様子は、彼女の温厚な性格を体現しているかのようです。
 パローラの純真な瞳は、歩いてもいないのに流れていく風景を、不思議そうに追っていました。

 パローラは、大好きなリズのためなると言われ、ベイノンの代わりに戦場に行くことを了承しました。
 しかし、なにもわからぬまま戦場に出ても役には立ちません。それは彼女が鈍くさいからではなく、戦場という特殊環境では誰もが等しく無知なのです。
 彼女が運ばれていく先は、そんな一般人を戦場で活躍する優秀な兵士に仕立て上げる新兵訓練学校です。
 リズと離ればなれになったことはとても寂しいですが、自分が働くことで、みなが幸せになれると聞かされています。
 それを壊してしまわぬよう、パローラの心は頑張ろうという気持ちで一杯でした。

 土を固めただけの道路を行くトラックが速度を緩めます。すると前方の拓けた土地に、大きな建物が建っているのがみえました。
 年季の入ったレンガ造りですが、崩れているところはなく、しっかりとしています。
 そこが新兵訓練学校であり、パローラの新たな住処となる場所でした。
   ◆

「いらっしゃい、長旅お疲れ様。
 トラックの乗り心地はどうだった?」
 まだ、この時代の輸送は馬が主力です。
 荷台とは言え、数の少ないトラックに乗れたことを、貴重な体験として出迎えの少年はたずねました。
 少年は人当たりの良い笑顔の持ち主で、均整のとれた身体を馴染んだ軍服で包んでいます。
 髪は村でよく見たくすんだ茶色で、歳の頃はベイノンよりもいくつか上、十六、七にみえました。
 パローラは運ばれる前に教えられた通り、出迎えに来た人物に書類を手渡します。
「僕は二年生のニコル。よろしくね、中途の新人さん」
 挨拶に彼女は笑顔で返します。
 ニコルは、返事がないことを怪訝に思いながらも、書類をチェックします。
 未記入の箇所が多いことを気にかけますが、パローラの反応から他のことにも気付きます。
 普通、自己紹介をすれば、相手も名乗り返すもの。それがパローラにはありません。その不自然さから、勘の良いニコルは彼女がしゃべれないことを察しました。
 新兵訓練学校とはいえ、しゃべれないことは、他の訓練兵よりもトラブルを引き起こしやすいにちがいありません。それが唯一の女性訓練兵で、イヌ娘となればなおさらです。
 それでも、教官から面倒をみるよう頼まれていニコルは、嫌な顔をみせませんでした。
 書類に書かれた彼女の名前を見つけると、間違いがないことをこっそりと確認します。
「まずは寝床に案内するよ。ついてきてパローラ」

   ◆

 パローラがニコルに案内されたのは、レンガ造りの校舎の隣に建てられた木造の宿舎……ではありませんでした。
 その裏庭に建てられたテントです。それが彼女に与えられた部屋でした。
 軍事用でしっかりした造りであるとは言え、ベッドなど入れることはできません。
 寝袋はありますが、地面の上ではよほど工夫をしなければ快適な睡眠を得ることは難しそうです。

「ごめんねこんなところで。
 一年生は四人ひと部屋が基本なんだけど、イヌ娘とはいえキミは女の子だ。
 男ばかりのプライバシー皆無の空間に放り込むのは、さすがに申し訳ないかなってことで、ここになったんだ」

 正直なところニコルには、テント暮らしと男ばかりの部屋に放り込まれるのでは、どちらが酷いかわかりませんでした。
 ただ、上層部がイヌ娘を優遇する気がないことは察しています。
 下手をすると彼女は備品扱いになっているかもしれません。ならば、上申したところで待遇の改善は難しいでしょう。

「さっ、荷物を置いたら医務室に行くよ。食事はそのあとだ」
 そこで書類の記入漏れを、少しでも埋めようとニコルは提案しました。

 医務室でパローラは、そこに勤務する医師の診察の下、健康に問題がないことを確認されていきます。
 また、身長や体重などの測定も行われました。
 数値を正確にするため、服を脱ぐように言われます。素直に従うパローラですが、豊満な胸を晒すのに躊躇いがないことから、周囲の方がが唖然とします。
 そんな彼女から視線を外したニコルは、「もうちょっと恥じらってもいいと思うよ」と控えめなアドバイスを送るのでした。


18・食堂の主
 パローラが健康診断と身体測定を終えると、今度は食堂へと案内してもらいます。
 食堂は大勢が一度に食事がとれる広い場所で、長いテーブルに椅子がいくつも並べられていました。
 ただ、大半の訓練生がまだ訓練中のため、利用者はほとんどいません。
 ニコルは、厨房でアクセクと働くエプロン姿の少女に声をかけると、パローラを紹介します。

「カナン、この子は中途で来たパローラだ。
 あまりしゃべれないみたいだけど、上手くやってくれるかな?
 パローラ、こちらは調理員のカナン。
 彼女は軍人じゃなくて外部の雇われなんだけど、調理場の仕切りは見事なものだ。食材の管理だけじゃなくて、調理器具や食器の管理までもしてるのさ。困ったことがあったらなんでも相談するといいよ」

 訓練生で女性はパローラだけです。
 男性に言いづらいことはカナンに相談にするように含んでいるのですが、当のパローラはそのことに気づいているかわかりませんでした。

 また、カナンひとりで訓練生全員の食事を作ることは不可能なため、訓練兵が持ち回りで調理の手伝いをすることとなります。
 いずれパローラにも順番が回ってくるので、その際は彼女の指示に従うよう教えてもらいました。

「そこで下手を打つと、カナンからだけじゃなくて、訓練生全員から恨まれることになるから要注意だよ」

 ニコルは茶化して言うと、カナンに自分らの分だけ食事を早めて欲しいと頼みます。
 カナンはため息を吐いて見せつつも、色男の訓練兵の要求を飲んでくれるのでした。

 プレートにパンと暖かいシチュー、少量の副菜が載せられるとパローラに渡されます。
 パローラにとってカナンがこの場で唯一の同性であると同様に、カナンにとってもパローラはこの場で唯一の同性でした。
 こっそり「歓迎の証だ」と告げ、ゆで卵をオマケでくれます。
 ニコルはそのことに気付くと、「良かったね」と言ってくれました。すると「口止めだ」と彼のプレートにもゆで卵が増えるのでした。

 プレートに乗せられた食事は、質素ながらも量があります。
 それだけでパローラは嬉しそうな表情をしました。
 それとは対照的にニコルは、「これで味付けが良ければな」と、調味料をケチるカナンに届かないようボヤいています。
 しかし、時に腐りかけの食べ物すら与えられることのあったパローラにとって、人間のために作られた食事はとても品質の高いものでした。味もニコルが言うほど酷いものとは思えません。
 美味しい食事をたくさん与えられたパローラは自然と笑顔になっていました。
 そんなパローラの食事を見ていたニコルは、普段と変わらぬ味付けがこれまでよりずっと美味しく感じることができるのでした。

 食事が終わると、パローラはニコルに校内を案内されます。
 訓練場、射撃場、座学の教室、救護施設を順に訪れ、ニコルはそれぞれの施設について説明します。
 しかし、途中でニコルの座学の時間になってしまったため、時間が足りなくなってしまいました。
 パローラの訓練と授業は明日からなので、ひとりで見て回るよう頼まれます。
 これといった目的の思いつかないパローラは、一度テントに戻ることにしました。
 記憶力の良くない彼女ですが、自分の臭いを追ってテントまで戻ることは難しくありません。
 そんな最中、他の扉とちがう、細かな装飾のされた扉をみつけました。
 ドアが開いていたので中を覗き込むと、そこは大きな絵の飾られた礼拝堂でした。
 飾られていたのは宗教画で、聖母マリア様が描かれています。
 それを見た瞬間、全身に雷に打たれたような衝撃が走ります。
 その絵画に描かれたマリア様が、リズに似ていたのが影響しているのかもしれません。
 そして脳裏にリズの笑顔を浮かべると、パローラは彼女と早く会いたいという気持ちでいっぱいになります。
 早くも心の由来だパローラでしたが、それでもみんなのため、ここで頑張って仕事をしようと改めて心に決めるのでした。


19・訓練
 翌日から、パローラも支給された軍服に着替え、訓練と授業に参加することとなります。
 ですが、イヌ娘である彼女は、普通よりも力が強く、それでいて馬よりも小回りが効きます。
 その反面、文字は読めないし難しい思考も苦手です。
 そんな彼女には、鉄砲の撃ち方を覚えるよりも、荷運びのための教育を施すことが有効であると軍上層部は判断しました。
 実際、軍用車の導入はされていますが、その数はまだ多くありません。故に、いまだ荷馬や軍馬が活躍する場は多いのです。
 パローラは馬ほどの馬力はなくとも、小回りが効き、馬に比べればいくらか器用なほうです。
 頭のデキはいささか負けているかもしれません。

 穏やかな性格を考えても、運搬係の方が向いていると言えるでしょう。

 授業は、重い荷物を運ぶための基本的な技術を学ぶことから始まりました。
 彼女を担当した教官は、リュックに大量の荷物を積み込んでもくずれないコツや、バランスの取り方を指導します。また、危険物や食料品の取り扱いに関しても注意深く教えてくれました。

 確実に覚えるため、渡した資料でちゃんと復習をしておくように言われますが、ここでパローラは最大の障害にぶつかります。
 彼女は育ての親であるゴンドの不手際により、読み書きがほとんどできないのです。
 アルファベットの判別すら怪しい状況で、彼女にそれを覚えさすことは熟達した教官も手を焼くほどです。
 そこで借り出されたのは、先輩指導員であるニコルでした。
 ニコルは教官からの指示で、授業とは別でパローラに読み書きを教えることになります。
 彼はとても親切でしたが、彼にも訓練と授業があるのであまり時間はとれません。
 そこで、ニコルは夕食の後に時間を設け、彼女に忍耐強く文字を覚え込ませていきます。
 そうすることにより、亀の歩みのごとき進捗ではあったものの、パローラも文字を覚えることができたのでした。

 訓練と授業をひとりで黙々とこなしていくパローラでしたが、時には他の訓練兵たちとおなじ授業を受けることもあります。
 それはベテラン兵たちが、戦場で学んだ知恵や体験談を聴講することができる時間です。
 教科書に記載された知識だけでなく、それを戦場で実際に体験した先達の話に、戦場未体験の訓練兵は唾を飲むのも忘れ聞き入っています。

「なにも銃を撃ち合うだけが戦争じゃない。むしろ戦場で銃を撃ち合ってる時間なんて、そのための準備時間に比べれば一瞬だ。
 大事なのは勝つために必要な情報を集め、それを十全に実行するための準備を整えることにある」

 その日、傷兵として一時的に戦場を離れていて、これから前線に復帰するという厳つい顔の兵士は、そう力説していました。

   ◆

 物覚えの悪いパローラの勉強を見ている都合、ニコルは彼女と一緒にいる時間が増えます。
 また、彼自身、素直で勤勉なパローラに魅力を感じることが増えていました。
 夜、人目がなくなった時間になると、裏庭に設置されたテントを訪れることも、そう珍しくはありません。
 ニコルは音楽家の父と母を持ち、幼い頃からたくさんの音楽と楽器に触れて育ちました。パローラにも、軍票で入手したハーモニカを吹いては聞かせていました。
 これまで音楽に触れる機会のなかった彼女ですが、ニコルの吹くハーモニカの素朴な音色を心地よく思うようになりました。

 新兵訓練学校での日々を過ごしていると、パローラにも食事当番が回ってきました。
 カナンとは毎日食堂で会っていますが、彼女の指示下に入ってなにかをするのは初めてです。
 パローラは苦戦しながらも、渡された包丁でジャガイモの皮を向いていきます。
 そんな中、カナンが手元の魚からアラを処理しながら話かけてきました。

「パローラってニコルのことどう思ってるの?」

 それは極自然な口調でした。
 それ故に、パローラはカナンがニコルに気があることに気づけません。
 いえ、そのあたりの機微に疎い彼女なら、例え感情を乗せたたずねかたをしていたとしても、カナンの言いたいことを理解できなかったでしょう。
 そもそも、パローラがしゃべれないことは皆が知っています。
 そのことを思えば、返事を期待しないただのひとり言だったのかもしれません。
 ですが、パローラは毎日美味しい食事をたくさん食べさせてくれるカナンの事が、恩人であるリズの次くらいに好きです。
 故に、なにか答えなければいけないと懸命に考えます。
 そこで覚えたばかりの文字を駆使して、思いを紙に印しました。
『彼の手は温かい』
 拙い文字で書き切ると、それをカナンに見せました。
 それを見た瞬間、カナンの顔は紅くなりパローラの顔を見ます。
 相手の意図を汲めないパローラは、いつも通りわからぬことには笑顔で返しました。
 それは彼女がどうしていいかわからないときの処世術であり、これまでもトラブルを呼び込んできた悪癖でもあります。
 その笑顔をカナンがどう解釈したのかは誰にもわかりません。あるいはカナン本人にもわかっていなかったのかも知れません。
 ただ、意気消沈し、「そう」と短く言っただけです。
 そして、その日の食事はとても塩っからい味付けとなり、多くの訓練兵たちから不満を言われるのでした。


20・新しい課題
 パローラが新兵訓練学校へトラックで運ばれてきて三ヶ月が経過しました。
 周囲よりも遅れてやってきたパローラでしたが、それでも訓練と勉強を経て、いささか精悍さを身につけたようです。
 来たばかりの頃は不釣り合いだった軍服も、だいぶ身体になじんでいます。
 荷物の運搬も上達し、訓練の一環として普段から大きなリュックを背負い、校内の運搬業務を任されるようにもなっていました。
 残念ながら座学の方はあまり上達しておらず、多少の文字の読み書きを覚えた程度です。教官側もその事実に諦めの色を見せていました。
 ただひとり、ニコルだけが彼女のために、最後まで努力を続けていたのですが……タイムリミットを迎えてしまいます。
 これからニコルら二年生は、長距離行軍演習を行うための計画を練り、事前準備に奔走しなければならないのです。
 長距離行軍演習は、全ての荷物を各自で抱えつつ、訓練兵だけで目的地までのコースを選定し、走破するものです。
 訓練とはいえ新兵には過酷なもので、体調を崩す者も珍しくありません。
 ですが、この演習をクリアしなければ、訓練兵たちは訓練学校を卒業することができません。
 早く祖国のために戦いたいと息巻いている勇者たちには、演習の失敗はこれ以上ないほどの恥となります。
 また、優秀な成績を収めた者たちには、配属先の希望が通りやすくなるため、どの部隊もやる気に満ちています。
 よって、重要な試験を前にニコルは、「残念だけれど、これ以上キミの座学にはつきあってあげられない」とパローラに告げます。
 具体的な目的のないパローラにとって、座学の履修は難しいだけの仕事でしかないため、そのことに執着はありませんでした。
 ただ、そのために彼がテントを訪れ、あのハーモニカの音を聞かせてくれることはないのだと思うと、寂しさに似た気持ちがわくのでした。

 そんなパローラに、ニコルは真面目な顔で告げます。

「パローラ、キミの力を私に貸してくれないか」と。

 長距離行軍演習は六人一組で行われます。
 そのための人員に彼女にも加わって欲しいと彼は言ったのです。

 すでに教官からの許可は取っているらしく、本人の同意が得られれば構わないとのことでした。
 訓練も授業もひとりで受けていたパローラは、他の者たちとその運用も履修すべき単位もちがいます。
 なので、本来ならば卒業を控えた二年生のみの訓練に、彼女を参加させても構わないとのことでした。
 一部の教官からは、座学の履修が出来ていない彼女を運用することを危ぶむ声をあげていました。
 しかし、前線からは少しでも多く、使える兵を送るよう求める声があがっています。
 それを考慮するならば、見込みのない座学に時間をとらせるのは、効率的ではないという判断が下りました。
 また、この判断が下ったのには、彼女がイヌ娘であることが影響しています。
 軍全体をみても珍しい、イレギュラーな存在です。能力はあっても、兵士としての扱い難さがあります。
 結果、給料こそ支給されるものの、イヌ娘は馬と同列の備品扱いとなり、それを上手く活用できる者がいるなら、その者に預けるというのがベルジウム王国軍での方針となりました。
 そして今回の演習で、ニコルがパローラを扱うに足る人物であると証明するだけの成果が出せたのなら、卒業後も彼女を連れ、戦地に赴いて構わないとの承諾も得ています。

 パローラを備品扱いされることに不満のあるニコルでしたが、それについて答弁することに意味がないとわかっています。
 故に実績をもって、彼女の実力を周囲に知らしめ、実力に見合うだけの待遇を要求することにしたのでした。

「戦場でもキミのことを守ってみせる」
 ニコルはそう口にして「いいやちがう、こうじゃないな……」と言い直します。

「パローラ、私はこの戦争を終わらせるために魂までも、軍に捧げるつもりだ。その助けをキミに求める」
 真剣な顔で要求するニコルに、パローラは笑顔でうなずくのでした。

   ◆

 卒業課題である長距離行軍演習は、六人一組になって行われます。
 その内の貴重なひと枠をパローラを入れることについて、他の四人のメンバーは難色を示しました。
 ニコルが実力でパローラを選んだとは考えず、自分の恋人を優遇したのと考えたからです。
 そもそも、備品扱いであるイヌ娘は一人としてカウントする必要がないことを教官から言われています。
 それをニコルが彼女を仲間として扱いたいという、個人的な我がままのために覆しているのです。
 また、パローラがしゃべれないことや、ある程度の読み書きはできるようになったものの、座学についてはほとんど壊滅状態なのも校内で有名です。
 とてもニコルを中心とした精鋭部隊に混ざるだけの実力があるとは思えません。
 そんな仲間を説得するため、ニコルはパローラを試験することを提案しました。
 それはニコルを含めた五人と腕相撲をして、パローラの実力を確かめようというものです。
 単なる力比べで兵士としての実力など測れるハズはありません。しかし同時に、身体が大きいイヌ娘とはいえ、女子相手に自分たちが負けるハズがないと高をくくっていたのです。
 しかし、結果をみれば四勝一敗とパローラの圧勝でした。
 唯一勝利したのは、最後に対戦したニコルだけです。それも力比べというよりも、技術を駆使してもぎとった勝利でした。
「パローラ、腕相撲はたんなる力比べじゃないんだ。
 重い荷物を楽に運ぶコツは授業とならったろ? アレとおなじようなコツが腕相撲にもあるのさ」
 そう言って勝利の種明かしをします。
 そこに注意すれば、次ぎに勝つのは間違いなく彼女であると教え、演習の結果やその先のことがどうなっても、座学を軽んじてはいけないと言い聞かせます。
 ニコルは敗北した四人の仲間にも同じように伝えます。

「力の強い兵士が優秀な兵士ってわけじゃない。
 どんなに強くても銃で撃たれ、当たり所が悪ければ死んでしまう。
 でも、彼女の力はこの場の誰もがもっていない強力な個性だ。
 素直な彼女は、優秀なブレインがつけばその働きをより大きなものにできる。
 そして私たちなら、彼女の力を十全に活かすことができるんじゃないかと思っている。ちがうかい?」
 ニコルの質問に丸い黒縁眼鏡の小男、エリクが賛同の意を示しました。

「そうだな、助け合ってこそのパーティーだ。イヌ娘の参加に俺は賛成だ」
 彼自身、この中で運動能力が一番劣っていること、劣っている部分を知識と細かな技術で補っている自覚がありました。
 しかし、ニコルは彼の発言を直ぐに修正を求めます。
「イヌ娘じゃない、パローラだ」
「そう、パローラ。
 彼女に苦手があるなら俺たちが助ける。
 その分、彼女には運搬能力と機動力で支えてもらう。体力に余裕ができれば、不慮の事故にも対応できるしな」

 エリクはニコルの指摘に従うと、残りの仲間に視線で問いかける。

『おまえたちはどうだ?』と。

 すると残りのレーン、ハンス、ゾフィーも、パローラの部隊への参加を歓迎するのでした。


21・長距離行軍演習
 パローラの長距離行軍演習の参加が決まってから、準備に追われる時間はとても早く進み、試験開始直前となります。
 軍服で身を固めたニコルら六人は普通の兵士に混ざっても、見劣りしないくらいの風格をまとっています。
 そんな中に、大きなリュックを背負うパローラの姿がありました。
「そのリュックも、なんとか間に合ったな」
 大きなリュックを背負うパローラを見たニコル、エリク、レーン、ハンス、ゾフィーの五人は、その勇姿を褒め称えます。
 パローラの強みはその運搬力にあると彼らはみていました。そこでそれを最大限に活かせるよう、彼女に専用の大型リュックを作ることを提案し、実現したのです。
 このリュックは、大きくて丈夫なだけでなく、いざとう時の備えもしてあります。
 単純に大きなだけでは、パローラになにかあった際、代わりにリュックを運べる者がいなくなってしまいます。
 勿論、それを回避するよう心がけますが、戦場で起きるだろうトラブルをすべて予測するのは不可能。それ故に、あらかじめ対策を練っておく必要があるのです。
 そして、彼らが考案したのが、いざという時に分割できるリュックでした。
 普段は大きなリュックとしてまとめてありますが、有事には切り離して荷物を別けて運ぶことが可能です。
 パローラに荷物の大半をあずけたことで、他の訓練兵たちは最低限の装備と非常用の食料を持つだけで、移動の制限を緩和できるのです。

「俺たちならやれる」
「ああ、一位を獲ろうぜ」
 丸眼鏡のエリクが自信満々に言うと、普段無口なゾフィーが賛同します。

 最初こそパローラの参加に不満を示していたメンバーも、彼女の実力が本物だと知ってからは、互いに認め合えるようになっています。
 このリュックはその証明と言えるでしょう。
 そして、彼らは試験が開始されると、その自信が妄想でないことを証明するように、行軍一日目と二日目を非常に優秀な行軍速度で進んでみせるのでした。

   ◆

 夜になると見張りを立てて休息に入ります。
 ニコルたちは、訓練兵としては優秀で、重い荷物の大半をパローラに預けているので、他の参加部隊よりも肉体的な疲労はずっと少ないです。
 しかし、初めての長距離行軍という特殊な演習を、訓練兵のみで行うというのは、事前に想像していたよりもずっと負担のかかるものでした。
 あるいは優秀な者たちが、他よりも有利な状況を用意したことで、返ってプレッシャーを強くしてしまっていたのかも知れません。
 パーティーでひとり普段とおなじリラックスした様子のパローラを見て、ニコルはそんなことを考えていました。
 パローラと見張りについたニコルは、たき火の管理をしながら交代の時間を待ちます。手ではハーモニカを弄んでいますが、敵地の移動を想定した演習中に吹くほど油断はしていません。
 ただ、黙って時間がすぎるのを待つのも退屈です。
 ニコルは休んでいる仲間の邪魔にならぬよう、パローラの隣に移動して、己の夢について小声で語りはじめました。
 彼は志願兵であり、ベルジウム王国の平穏を乱すドルガ帝国兵に立ち向かうことを目的としています。
 その理由は、故郷が戦火に呑まれ焼け落ちたことに起因していました。
 幸いにも家族は逃げ延びたものの、その時に多くの友人や知り合いを失ったのです。これはニコルや故郷の人々だけの問題ではなく、ベルジウム王国にはそういった人々が大勢いたのです。
 そして、そのことを知ったニコルは、ドルガ帝国を打倒し、失った平穏を取りもどすことを誓ったのだと言います。
 その情熱に満ちた姿は、パローラにはとてもまぶしく写りました。

「パローラ、もしこの戦争が終わって、私たちふたりとも生き延びることができたとしたら……」
 普段のニコルらしからぬ、しどろもどろな口調です。
 それを最後まで言い切ることは出来ませんでした。
 何故なら、パローラがその襟首を掴んで地面にたたき伏せたのです。
「なっ、なにを!?」
 言ってから、ニコルも異常を察します。
 視界を遮る木々の向こうから銃声らしき音が聞こえ、その弾丸がさっきまで彼の頭があった場所を横切ったのです。

「敵だ!」
 ニコルは即座に仲間を起こします。
 されど、予想外の遭遇に誰もが混乱していました。
「どうしてこんなところで!?」
 黒い丸眼鏡のエリクが非難の声をあげます。
 演習地域は、戦場と隣接しているといっても、近いわけではありません。
 前線が突破されたという情報もないのだから、本来なら敵と遭遇することはありえない。ですが、そのあり得ないことが現実に起こっているのです。

 皆が態勢を整えるよりも先に、森から飛び込んできた軍服の兵隊が襲いかかってきます。
 軍服は薄汚れていますが、資料で見たドルガ帝国のもので間違いありません。
 ドルガ兵は、銃剣を手に鬼の形相で迫ってきます。
 予想外の強襲に、ニコルたちが戸惑う中、まっさきに動いたのは一番選択肢の少ないパローラでした。
 彼女は、味方が同士討ちで銃を抜くのを躊躇う中、リュックにぶらさげたスコップを引き抜くと、それを敵兵に叩きつけます。
 突撃してきたドルガ兵は、手にした銃剣で咄嗟に受け止めますが、予想を遙かに超える膂力に弾き飛ばされます。
 そのまま追撃に出ようとするパローラでしたが、ドルガ兵の頭からヘルメットが外れ、中から金髪が溢れるとその動きが止まりました。
 その髪色から、最愛の人を思い出したのです。
 無論、相手はリズではありません。
 金髪という特徴以外は性別も体格もちがいます。むしろ共通点を探すほうが難しいでしょう。
 しかし、それでも彼女は思い出してしまったのです。
 戦場で働くために忘れていたものを……。

「パローラなにをしてるんだ!」
 動きの止まった彼女を叱咤するニコルは、代わりにドルガ兵に迫ります。
 しかし茂みからの援護射撃と、相手の熟達した動きに、逃がしてしまいます。
 それどころか、混乱から立ち直れない訓練兵たちは相手に良いように翻弄されます。
 そして最初に倒れたのは丸眼鏡のエリクでした。手先の器用さが自慢な彼は、その特技を活かすことなく銃弾に倒れ、動かなくなります。
 さらにはパローラを銃弾から庇ったニコルも負傷し倒れました。
 パローラの頭は混乱の極地です。
 どうすればいいかわからなくなった彼女は、せめてひとりだけでも救おうと、一番近くに倒れていたニコルの首根っこを掴み引きずります。
 そしてみなで作りあげたリュックを捨てると、意識を失ったニコルを背負い全力で逃げ出すのでした。


22・逃亡
 足下もおぼつかない真っ暗な森の中を、ニコルを背負ったパローラが走ります。
 イヌ娘の脚力に追いつけぬとみたのか、追っ手がやってくる様子はありません。
 ですが、そんなことの分からぬパローラは、ただ恐怖から逃げるように暗い森の中を駆けるだけです。
 そんな中、微かに意識を取りもどしたニコルが彼女の背中で呟きます。
「あいつらは遭難兵だ」
 あの野営地は前線と繋がっているとはいえ、距離が離れている。
 前線から異常を知らせる報告もなかったし、前線が突破されたとしても、一部隊が夜間に遭遇するのは不自然がすぎる。
 おそらくは、前線で手ひどいめにあったドルガ兵の一部が、強引に突破してきたのだろう。
 本来ならば、すぐに仕留められるハズが、前線の王国軍も混乱していたのか、細かな対処に手が回らなかったのかもしれない。
 結果、奴らは逃げ延びたものの、ベルジウム王国内での土地勘がなく、行き場を失ったのだろう。
 薄汚れた状況を思えば、物資が枯渇していたのかもしれない。そこで偶然見つけた未熟な訓練兵を、物資を担いだカモと見て襲いかかってきたにちがいない。
 きっと自分らの物資をうばった奴らは、いまごろ宴会でも開いていることだろう。
 だから、追っ手もいなかったんだ。
 ドルガ兵を駆逐するために、志願したのに、奴らを利するようなことをして情けない。
 パローラの背中でニコルは涙しました。
 しかし、パローラはその話をロクに聞いていませんでした。
 自分の背中で、刻一刻と冷たくなっていくニコルをどうにかしなければならないと必死だったのです。
 彼女では、応急手当すらロクにできません。
 だから、誰かにニコルを助けてもらいたくて仕方なかったのです。
 パローラが一心不乱に野山を駆け抜けた結果、二日かけて行軍した道のりを一日と経たずに踏破し、訓練学校への帰還を果たしたのでした。

   ◆

 演習中、敵兵と遭遇したパローラは荷物と仲間を失い、それでも負傷したニコルを背負って訓練学校まで逃げ帰ってきました。
 警備がいるのも無視して、強引に突破し医務室に駆け込みます。
 偶然、その様子を目撃した者たちは大騒ぎで、すぐに教官たちも集まりました。
 パローラは言葉にならない声で、必死にニコルの治療を懇願しますが、医者は彼をベッドに寝かせただけでそれ以上の処置を施そうとはしません。
 なおも治療を訴えるパローラを止めたのは、教官の鉄拳制裁でした。

「訓練兵ニコルはすでに死亡している」

 それは誰の目から見てもあきらかでした。
 血の気の抜けた彼の身体は冷たく、ピクリともしません。

 軍施設とはいえ、訓練学校に死体が運び込まれることは稀です。
 そのせいもあって、校内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていました。

 さらに死体の状態を調べた医者から、彼の死因は出血多量だろうと告げられます。
 パローラがどこかで冷静になり、ちゃんと応急処置をしていれば結果は変わっていたかもしれない。
 その事実が、教官の鉄拳よりもきつい一撃となり彼女の膝を折るのでした。

 呆然とするパローラの前に、もうひとりの女性が現れます。
 調理員のカナンです。
 エプロン姿のままやってきたカナンは、変わり果てたニコルをみつけると、その上に泣き崩れるのでした。

   ◆

 時は過ぎ二年生の卒業シーズンとなります。
 ニコルの班を除く訓練士は無事卒業することとなります。
 ベルジウム王国領に迷い込んだ遭難兵は、前線の兵らによって駆逐されたとのことでした。
 しかし、ニコル、エリク、レーン、ハンス、ゾフィーの命は帰りません。
 見つけられた死体が、服すら剥がされ、動物に食い散らかされていたことを思えば、遺体がまともな状況で運ばれたニコルはまだマシな方だったのかもしれません。
 それで救われる者がいるかはわかりませんが……。
 無事に訓練学校を卒業した者たちはこれから新兵として、各戦地に派遣されることとなります。
 その中には、パローラの姿もあります。
 イヌ娘である彼女に、すべての訓練と授業を基準以上に鍛えるのには、通常の人間よりも時間がかかります。
 ならば、用途を限定して、使えるように使おうというのが軍上層部の判断です。それは以前決めたものと代わりありません。
 ただ、もしもニコルがパローラを使いこなし、優秀な成績を収めたとしたら、彼女を戦場に連れていくことの許可がなくなっただけです。

 パローラは新兵訓練学校で、大変な経験をしました。
 しかし、彼女の本当の戦いは、まだ始まってすらいなかったのでした。


23・挿話(看病)
 パローラが訓練学校で励んでいる頃、アンワーズ近郊のラーク村では、リズが苦労をしていました。

 祖父であるアルマンおじいさんが、病気になってしまったのです。

「いつもすまんな、リズ」
「気にしないでおじいさん。
 おじいさんにはこれまでいっぱいお世話してもらったんだもん。これからは僕が恩返しする番だよ」

 おそらくは、ゴンドの手からパローラを救い出すため、奔走した時の疲れが出たのでしょう。
 寝込んでからは、ロクに立ち上がることすらままなりません。

 そんなおじいさんを、リズは隙間風の入る小屋で看病します。
 病気で痩せたとはいえ、大柄なおじいさんを幼くも小柄なリズが支えるのは大変です。
 それでも彼女は、これまで育ててもらった恩を返すためにも、一生懸命に看病をします。
 しかし、いくら健気に看病を続けようとも、おじいさんの体調はよくなる兆しをみせませんでした。
 
 リズの苦労は、アルマンおじいさんの看病だけではありません。
 働けなくなったおじいさんの代わりに、リズが働きにでるようになったのです。
 リズはおじいさんの看病を終えると、村のまとめ役であるコーネフの所へ行き、命じられた雑務に勤しみます。
 メモの整理や帳簿の確認、村人への届け物など、日が昇っているうちは働きっぱなしです。
 ですが、これには意外な効果がありました。それまで簡単な読み書きしかできなかったリズでしたが、書類整理に携わるうちに、読み書きがしっかりし、計算能力を伸ばすこともできたのです。
 コーネフの使いとして村人と関わるうちに、彼女への偏見の眼差しもいくらか和らいでいました。
 また、リズが真面目に仕事をこなしていくことで、コーネフ自身の彼女を見る目も変化していました。
 リズを取り巻く環境は、少しずつではあるものの良い方向に向かっています。

 しかし、大変なことに代わりありません。
 こんな時、パローラがいれば手伝ってくれたのでしょうが、彼女がどこに行ったか、いつ帰ってくるのかわからないままです。
 行方を知っているアルマンおじいさんに、いくらたずねても、それだけは教えてはくれないのです。

 リズはコーネフの旦那から頼まれた仕事が終わると、小屋に帰ってアルマンおじいさんの看病にもどります。
 夕食の準備をし、薬草を煎じておじいさんの口元に運んであげます。
 しかし、パローラの一命を繋いだ薬草も、おじいさんの体力を回復させる効果はありませんでした。

 リズがおじいさんの世話を終えた頃になると、小屋のドアをコツコツと叩く小さな音が聞こえました。
 不思議に思ったリズが小屋を出ると、そこには幼馴染みであり、兄貴分を自称するベイノンの姿がありました。

「ベイノン、どうしたんだい、こんなに遅く?」
「リズ、こっちに来てくれ。おじいさんに気づかれないように」

 そう言って彼は、普段の温和な表情を隠し、真面目な表情でリズを呼び出します。
 防寒対策なのか、普段よりも丈夫そうなコートを着て、さらには大きな旅行カバンを脇に置いています。
 そして、話し声がアルマンおじいさんに届かない場所まで移動すると、それまでの平穏を崩してしまう話を始めるのでした。

「リズ、パローラがどこに行ったかわかった。その理由も……」
「どこ? いったいパローラはどこに居るんだい!」
 驚くリズを収め、ベイノンは話を続けます。

「彼女がいなくなったのは、おじいさんとうちの親父が結託したからだ」
「おじいさんとコーネフの旦那が?」
 善良な彼らが、そんな大それたことをするとはリズには信じられません。

「どうして、それまでキミを嫌っていて親父が、わざわざキミに仕事を与えてると思う?」
「それはおじいさんが病気になったから、まとめ役の旦那が親切で僕にでも出来そうな仕事をみつくろってくれてるんじゃ…?」
 そして、それにはベイノンの口添えもあったのだろうと思っていたのですが、口ぶりからするにそうではないようです。

「ちがう。そうじゃないんだ。
 ふたりは俺たちに隠れて密約を交わしていたんだ。その代償にパローラをよこせって」
 善意と思っていたことに、そんな話があったことにリズは驚きます。
 しかし、指摘されてみれば、仕事内容の割りに賃金が高いと気になっていました。

 食料の援助もしてもらっていて、おじいさんが働いていた頃よりも美味いものが食べられるほどです。
 おかげで、リズの身長も少しだけ伸びていました。

「でも、ふたりはどんな約束をしたって言うんだい?
 そもそも、それとパローラがいったいなんの関係が……」

 ベイノンはリズにもわかるように順を追って話します。
 元々ベルジウム王国は中立国家として他国との争いに手を貸さないことを公言していました。
 しかし、諍いにより隣国のドルガ帝国とプリャンシャス共和国が戦争に突入したことで、その中立が維持できなくなったのです。
 ドルガ帝国はプリャンシャス共和国を効率的に攻撃するためにだけに、ベルジウム王国を侵略し、領土を奪い取ったのです。
 そうなってしまえばベルジウム王国とて戦わねばなりません。

 奪われた領土を取りもどすため。
 ドルガ帝国の蛮行を咎めるため。
 なによりも奪われた領土に住む人々を解放するためにです。

 ですが、ドルガ帝国軍は非常に強力で、プリャンシャス共和国と同盟を結んでも戦線は徐々に押し込まれていきます。
 それどころか、周辺諸国までもを巻き込んだ大戦へと発展していったのです。
 現状、プリャンシャス共和国を中心とした連合国の方が有利に戦況を進めていると報じられていますが、戦火はフランデリス地方まで届きそうとも噂されています。
 そして、新たに兵隊を集めるための召集令が、アンワーズとその周辺の村々にまで出されたことをベイノンはリズに教えました。
 以前の戦争で大きく疲弊したラーク村には、兵士として送り出させるような若者は限られています。
 そして、その限られた人材のなかでもっとも適切なのは、ベイノンでした。村のまとめ役の息子としての責任もあります。
 しかし、こうしてベイノンはいまだ戦地に旅立ってはいません。

「つまりパローラは、僕の代わりに戦場に送られたんだ。
 こんなの生け贄と代わらないじゃないか」

 近くにあった石を、思い切り蹴飛ばします。
「彼女を養子にすることで、大事な娘を差し出したっていう体で誤魔化したんだよ。あの卑怯者は!」
「それじゃ、パローラは戦場に!?」
 あまりのことにリズは目を回してしまいます。

「いや、それはまだ大丈夫だ」
 リズを安心させるようにベイノンが言います。

「いきなり戦争に行って戦えるヤツなんていないさ。
 使えない味方は敵よりもタチが悪いって言うし、戦場に送られる前に訓練学校で兵士になるための勉強をすることになるんだ。
 訓練学校を卒業するには二年かかるから、それまでに彼女を見つけて救いだせばいい」
 その言葉にリズはホッと息をつきます。
「でも、救うって言ってもどうするつもりなんだい?」
 具体的な方法を求めるリズに、ベイノンは「俺が行ってくる」と自信満々に答えます。
「もともとは俺が行くハズだったんだ。戦況も良くないなら、志願すればすぐに彼女とおなじ訓練学校に行けるさ」
「でもベイノンじゃ」
 頼りないという言葉はかろうじて飲み込む。自覚のない相手に、そのことを告げても逆効果にしかなりません。
「なに、上手いことやってパローラを救ってくるから、安心してまってな」
 訓練学校がどこにあるのか。
 そこからどんな手段でラーク村まで帰ってくるのか。
 そもそもベイノンは本当に、おなじ訓練学校に送られるのか……彼の計画には、上手くやるという曖昧な願望だけで、具体性がまるでありません。
 しかし、それでも自分なら上手くやれると信じているベイノンは、妹分の忠告に耳を貸そうとはしませんでした。
 そして、「こんど会うときは三人一緒だ」とカバンを持つと、振り返りもしないでアンワーズに向かい歩いて行きました。
 おそらくアンワーズには、兵隊を募集するような施設があるのでしょう。カバンを用意していたということは、以前から準備を進めていたのです。
 それを直前まで隠していたのは、リズからコーネフに事が露見するのを防ぐためだったにちがいありません。
 彼にしては用意周到と言えますが、それだけで上手くいくとはリズには思えませんでした。

 そしてその予感は的中します。

 何故ならば、ベイノンは知らなかったのです。
 イヌ娘であるパローラが、正規訓練をすべて受けることなく戦場に送り出されることを。
 仮にすべてが彼の計画通りに実行できたとしても、パローラとはすれ違いになり、会うことはできないのです。

 そしてリズは、ベイノンとは別の方法でパローラを探そうと、密かに心に決めたのでした。


●第六話:イヌ娘と初めての戦場

24・戦場のイヌ娘
 爆音とともに放たれた砲弾は、空を突き破りベルジウム王国軍の陣地へと飛来します。
 着弾した砲弾は、大地にのめり込むと、大きな振動をあたりに響かせました。
 塹壕に潜り込んだ兵士たちは、耳に栓を詰め込み、口を開け、数分毎に送り込まれる死に神に見つからぬよう、必死に祈りを捧げます。
 ドルガ帝国の陣地へも砲弾は放たれていますが、射程も威力もちがいすぎ、脅威と呼ぶにはほど遠いものでした。
 それでも、一方的に撃たれるよりはマシであると、砲兵たちは懸命に役目を果たします。
 やがて時間が経過し、砲撃の音が少しずつまばらになり、地上を覆っていた砂埃も収まっていきます。
 そして、午前の日課が済むと、兵士たちは互いの無事を喜び、次の仕事の準備に移っていくのでした。

 補給部隊に配属されたパローラの仕事は、そんな塹壕で働く兵士たちに物資を届けることです。
 軍服に身を包み、大きな身体が小さくみえるほど巨大なリュックを背負い、塹壕内を走り回ります。
 訓練学校時代に考案されたリュックは、構想こそ褒められたものの、積載量が同サイズの物よりも減り、製造コストもあがってしまうため、正式採用には至りませんでした。
 それでも彼女は軍用のリュックを背負い、物資を届けて回ります。
 軍服で走る姿は凜々しく、立派な軍用イヌ娘のようでした。
 しゃべれないことに対する不便は大きいですが、もともとベルジウム王国では、プリャンシャス語を公用語として話す地域と、ワランダ語を話す地域とが混在しています。
 そんな理由もあり、おなじ王国軍内であっても言葉が通じず、命令が上手く伝達されないことも珍しくありません。
 しゃべれない彼女が馴染むのも、それほど難しいことではありませんでした。
 むしろ愚痴もなく、物資と笑顔を運んでくれることで人気となります。
 物資の運搬以外にも、力仕事の手伝いや、傷病兵の手当をすすんで手伝うことも、人気に拍車をかける要因となっています。
 若い兵士たちの中には、密かに出回っているパローラの写真を入手し、家族の写真と一緒に懐にしまう様子も散見されました。

 昼時となって仕事が一段落すると、パローラは支給された弁当を食べます。
 物資の運搬にかかる時間は、戦況の影響を大きく受けるので、昼食の時間も場所も毎回のように変わりますが、そのことは彼女にはあまり気になりません。
 配属された当初は、いつ砲撃が再開されるかとビクビクしていたパローラでしたが、毎日繰り返される轟音にも次第に慣れ、塹壕内での食事にも慣れています。

 今日は拓けた場所をみつけると、そこに陣取り昼食を始めました。

 パローラは食事中に、メモを取るようにしています。
 文字の練習も兼ねていて、物資の配達中に気づいたことを思い返しては、書き留めているのです。
 かつては文字が苦手だったパローラですが、己の迂闊さで仲間を失った反省から、勉強に対する姿勢を改めています。
 いまだにわからない単語は多いものの、その上達は目を見張るものがありました。
 最初は、日記のような私的なメモ書きだったのですが、文字の添削をしてもらうため、補給部隊の隊長に見てもらっているうちに、業務の一環となっていました。
 補給部隊の体調の名はドトスコと言います。
 ドトスコはパローラよりもさらに大柄で、厳つい顔の持ち主です。
 そんな強面にも似合わず、細やかな性格の人物で、添削の他にもどうすればより綺麗な文字を書けるかまで指導してくれます。
 また、彼女が学んだワランダ語を、もうひとつの公用語であるプリャンシャス語で言い換えるとなんになるかも教えてくれます。
 その多すぎる指導により、パローラの習得速度が落ちていますが、ふたつの言語を習得することは、本人の財産になると主張しドトスコは聞く耳をもちません。
 その代わり、しゃべれないパローラが不要なトラブルに巻き込まれないよう、あらかじめよく使う言葉をまとめたスケッチブックを、彼女に渡しておくなど、なにかと気にかけてくれています。
 補給部隊の隊長であるドトスコから、様々な恩恵を受けているパローラですが、それは言うほど一方的なものではありません。
 確かにドトスコは、親切でパローラの文字を添削していますが、聴覚や嗅覚の直ぐれたイヌ娘の視点は時に重要な情報をもたらすことがあります。
 ドトスコは、彼女が戦場で見聞きしたことを確認することで、事前に敵の攻勢を察知し、時に上層部に報告することで前線での評価を得ていたのでした。
 そのせいもあり、彼のパローラへの評価は、最初とちがい高いものへと変化していました。
 当初、馬の代わりになるだろうと補給部隊に配属されたパローラでしたが、新兵の女の子ひとりしかよこさなかった軍上層部に、ドトスコは密かに怒りを覚えていました。
 さらに彼女は学業の成績が悪く、長距離行軍演習では、己のミスで助けられたハズの仲間を失ったとプロフィールに印されています。印象は最悪なものでした。
 しかし、ひとりで愚痴もこぼさず、黙々と大量の荷物を運ぶ姿に、ドトスコは評価を改めました。
 他者の倍は働き、それが終わればすぐに次の仕事を求めて隊長である彼の下に顔を出します。
 その態度は、模範として表彰しても良いほどであると彼は考えています。
 また、自分よりも下位の者が成果を出すことで、他の部下たちは奮闘するようになり、結果的に補給部隊全体の作業効率もあがっていました。


 その日の午後も、パローラは土木工事の手伝いに駆り出されます。
 崩れかけた崖を補修するため、太い丸太を立て、崩れぬようにささえます。
 作業は難航しましたが、雨が降り出す前に終わり、大事にはならないだろうことをみんなで喜びました。
 そこで彼女は御礼にとクッキーをもらいます。
 物資が不足しがちな戦場で、甘い物は貴重で誰もが喜ぶ報酬です。
 それはパローラもおなじですが、新たな配達が入ったため、包みごとポケットにしまうと、夕食時にいただくことにするのでした。

 その日は、三日に一度のシャワーの日でした、軍服を脱いだパローラはひとりでシャワーを堪能します。
 自分の裸に頓着のない彼女は気にしないのですが、風紀が乱れることを懸念したドトスコ隊長が、彼女がシャワーを使用している間は、周囲に誰も近づかないよう見張りを立てていました。

 夕食の時間になると、パローラはテントにもどります。
 彼女はここでもひとりです。
 そのことをいささか寂しく思いますが、荷物から一枚の絵画をとりだすと、それを飾って寂しさを紛らわせます。
 金髪の少女が描かれたその絵画は、器用な訓練兵に描いてもらった複製画です。
 礼拝堂に飾られた絵を参考に、少女を中心に描き写してもらったものです。
 それを眺めながら、ニコルの形見であるハーモニカを彼から教わった曲を吹きます。
 ノミのダンス(日本では猫踏んじゃった)という、どこかコミカルでピョンピョンとした曲を吹きます。
 しかし、故人を思い出しながら吹く曲は、明るい曲調とは裏腹に、どこかしっとりとした音色に沈むのでした。


25・戦場の迷子
 翌朝もパローラは働きます。

 砲撃の合間を縫って、前線で戦う兵士たちに物資と笑顔を届けます。

 その日は、砲撃がいつもよりも短かった為、物資の運搬を早く終わらせることができました。
 とは言っても、長く続く戦場では人手不足は常態化しています。休めるような余裕はありません。
 パローラは新たな仕事を受けるために、補給部隊へともどります。
 すると、厳つい顔の隊長ドトスコが、いつもよりも二割増しで厳つい顔をしています。

「おお、キミか」
 ドトスコはパローラの顔を見て、すこし表情が緩ませると、聞かれてもいないのに事情を話始めます。

「実は、少々問題が発生していてな」
 そう言って視線を降ろした先には、五、六歳の小さな女の子が立っていました。
 大柄なドトスコに目が行っていたため、気づくのが遅れました。
 どうしてこんなところに、女の子がいるのでしょう。そんな疑問を持つパローラにドトスコが説明します。
「森で迷子になっているのを斥候の者が保護してな。放置するわけにもいかないからと、ここに連れてこられたというわけだ。
 とは言っても、補給部隊(ここ)とて常に安全とは言い切れん。早急に避難させてやりたいのだが……」
 彼はパローラを見ながら少し考え、言葉を続けます。

「申し訳ないが、この子を近くの村まで送り届けてもらえないだろうか?」

 自らを正義とする軍人たちが、いたいけな女の子を見捨てては部隊の指揮にかかわります。
 かと言って、虎の子の運搬車は大量の物資を運搬するのにかかりきりですし、彼の独断で使うわけにもいきません。
 そんな訳で、ちょうど仕事が終わったばかりのパローラに、女の子を預けることを考案したのでした。

 パローラには機動力と体力があります。
 近隣の村まで往復するだけならば、そう長く戦場を離れずに済むでしょう。
 また、イヌ娘としての嗅覚がなにかの役に立つのではないかと期待したのです。

 女の子は、パローラの記憶にあるリズよりも、さらに小さいです。
 髪の色は赤味を帯びた茶色でふんわりとカールしています。人見知りらしく、おどおどとした雰囲気は、リズとは似ても似つきません。
 それでもパローラは、この幼い子にリズとの記憶を刺激されました。

 パローラは運搬用の大きなリュックを降ろすと、最低限のものが詰められたウェストポーチだけを荷物に身軽になります。

「キミの足なら、明日には帰ってこられるだろう。
 それまで残りの者で補給は回すから安心してくれ」

 そう言いうとドトスコは、話せぬ彼女が困らぬように、状況をまとめた手紙を用意し持たせてあげました。
「ところでお嬢さん、申し訳ないが、もう一度名前を聞かせてもらえないかね?」
 ドトスコは膝を折って視線を近づけると、女の子にお願いをします。

 お願いされた女の子は、自らの名を「アンニャ」と答えました。

「いいかいアンニャ、こちらのお姉さんはパローラと言う。
 これからパローラがアンニャを村まで送り届けてくれるから安心してついて行くといい」
 部隊長はアンニャを安心させると、それを背負うパローラを送るのでした。

   ◆

 迷子の少女アンニャを背負ったパローラは軽快に走り、戦場から遠ざかっていきます。
 近くの村とは言っても、相対的に見て一番近くの村というだけで、そこまで前線に近い訳ではありません。
 それでもパローラは、地図と方位磁針で位置を確認しては村を目指します。
 丘を駆け、森を抜け、川を渡り、日が落ちる前に村へとたどり着いたのでした。

 村に着いたパローラは、その中心にある大きな屋敷を訪ねます。
 メモで自分が会話を出来ないことを示してから、部隊長の手紙を渡し、迷子であるアンニャの受け取りを要求します。
 しかし、村長を名乗る初老の男は、彼女は村の子ではないと受け取りを拒否しました。
 驚いたパローラは、幼い子を戦場にもどすわけにはいかないと、筆談で改めて保護を願いますが、結果は変わりません。

「この村は、ドルガ兵に何度も襲われてな……」

 そのせいで男手は失われ、食料や資源も奪われたと言います。
 軍からの援助物資でかろうじて食いつないではきるものの、他の村の子を養えるような余裕はないと首を振るだけです。

 村長の態度からパローラは説得を諦めました。
 改めて地図を広げると、他に引き取ってもらえそうな村はないかと尋ねます。
 ですが村長の返事は「どの村も難しいでしょう」と残念なものです。

 それでも、知識を振り絞り地図を見つめると、「ここまで行けば……」と遠方の街を指をさしました。

「ここならば規模が大きいですし、なによりも戦場から遠い。
 もし対処してくれなくとも、補給部隊の中継拠点となっているので、相談に乗ってもらえるのではないですか?」

 村長の言葉は一理あります。
 しかし、パローラは迷いました。

 彼女にアンニャを届けるよう命じたドトスコ隊長は、パローラなら翌日には戦場までもどって来られるだろうという判断の下に彼女を送りだしたのです。
 大きな街まで行っては、どれだけ急いだところで、往復三日はかかってしまうでしょう。
 長距離行軍演習での失敗を経て、学習することの大事さを身に刻んだパローラでしたが、いまだに自分で判断するのは苦手なままです。
 どうすべきか考えていると、村長が使用者がいなくなり空いている家があるので、今晩はそこに泊まっていくと良いだろうと案内してくれました。
 村長の家は大きく、空いている部屋くらいはありそうです。にも関わらず、使っていない家を案内されたことにパローラは不思議に思いました。ですがそれが何なのかまではわかりません。
 しかし、村を案内されている最中に、その理由に気づきました。
 家の中から、息を潜めた視線がアンニャへと注がれているのです。
 そこでようやく彼女の素性に、パローラは気づきます。
 彼女はリズと同じ、敵国であるドルガ兵の子なのです。リズほど綺麗な金髪ではありませんが、赤味をおびた髪色はこのあたりで見たことがありません。そう思えば、顔立ちも村の他の子らとちがうように思えます。
 そしてパローラは、アンニャの安全を確保するため、遠くとも街まで彼女を送り届けることを決意するのでした。


26・戦場の黒煙
 パローラは村長から貸し出された家を、アンニャとともに観察します。
 あまり掃除は行き届いていませんがベッドがあります。空気の入れ替えだけすれば、一晩休むくらいは問題ないでしょう。
 それが済むと、台所に残された鍋を借りてスープを作り、携帯用のとても固い乾パンを、アンニャにも食べやすくなるようふやかします。
 それからポケットにクッキーが残っていたことを思い出し、それを彼女に与えました。
 辺鄙な村では、甘い物は平時でも珍しく、戦時となれば尚更です。
 最初はおそるおそる食べていたアンニャでしたが、甘い刺激に警戒心を溶かされると、瞬く間に食べきってしまいました。
 それから、パローラの分まで食べてしまったことに気づき、申し訳なさそうに謝るのでした。

 お腹が膨れたアンニャはすぐに眠りにつきます。背負わされていただけとはいっても、案外疲れるものです。
 そんな彼女をベッドに運ぶと、パローラはハーモニカを控えめな音色で奏でます。
 奏でながらも、次の街までの行程に思いを寄せます。
 携帯用のポーチしか持ってこなかったため、食料に余裕はありません。村の様子からして、分けてもらうことは難しいでしょう。
 かといって、補給部隊のいる前線まで戻れば、もういちどアンニャを送る許可が出るのは難しいかもしれません。
 戦場に幼い女の子を置いておけない以上、このまま街まで送り届けるしかありません。
 明日からの強行軍に備え、パローラもベッドへと入るのでした。

   ◆

 パローラの力走の結果、彼女らは翌日の夕方には、目的の街にたどり着くことができました。
 そこでもアンニャの受け取りを拒否されましたが、ちょうど首都方面からやってきた補給部隊に仲介してもらい、なんとか引き取ってもらえることとなりました。
 アンニャは、別れづらそうにしていましたが、パローラは危険な戦場にもどらなければなりません。
 赤毛の頭をひとつなでてやると、そこでお別れをするのでした。


 アンニャと別れたパローラはそのまま前線までの道のりを走って帰ろうとします。
 こうしている間にも、彼女が抜けた分、誰かに負担がかかっているのです。
 そんなパローラを呼び止める声がありました。補給部隊の小隊長が、前線への届け物のついでに、彼女も送っていこうというのです。
 最初、自分の足で帰ろうとしていたパローラでしたが、普通に考えてその道のりは容易くありせん。
 故に小隊長は、彼女が任務のドサクサに戦場から逃げ出そうとしているのではないかと疑いを持ちます。
 しかし、補給部隊には普段の彼女の働きを知っている者が何人もいて、そんなことをするような子ではないと弁護してくれました。

 部下たちの言葉とともにパローラを信じた小隊長でしたが、やはり前線までは一緒に行った方が良いと改めて勧めます。
 山道で荷物を運ぶなら、馬やパローラの方が小回りが利いて役立つでしょうが、戦場まではちゃんと道が伸びています。そこを休みなく進み続けるのならばトラックの方が圧倒的に有利です。
 また、戦場にもどってから、再び物資の運搬に走り回ることとなるでしょう。
 小さな女の子ひとりとはいえ、二日も背負って走り続けたのです。疲労が溜まっていないハズはありません。
 それを考えれば、荷台で休んでいった方がよいでしょう。
『もし途中で回復したのなら、走って先に帰ればよい』
 そんな意見を取り入れ、パローラは補給部隊と一緒に帰ることにしました。

 戦場へ向かうトラックの荷台は快適とは言い難い環境でしたが、それでもパローラは眠りに落ちていきます。
 自覚はありませんでしたが、身体に溜まった疲労は大きかったようです。
 そういえば、戦場に来てから毎日のように聞いていた砲撃の音を、しばらく聞いていなかったなと思いながら……。

   ◆

 それまで順調に進んでいたトラックが丘の上で止まります。
 運転手がなにやら言っているのに気づくと、パローラは荷台からおり周囲の状況を確認します。
 運転手が指さす方向には戦場が見えます。
 しかし、その様子はいつもとちがいました。

 そこに立ちこめる黒煙は、砲撃による砂埃とはちがうものです。
 それも幾本も立ち上がっていて、尋常な事態でないことがわかります。
 パローラは双眼鏡を借り、手早く木に駆け上ると戦場の様子を確認しました。
 そこでは、分厚い鉄の装甲で固められた戦車がベルジウム王国軍の兵士を蹂躙しています。
 車体の中心から伸びた細い筒からは、強力な砲弾が放たれ堅牢な塹壕を容赦なく吹き飛ばします。
 さらには機銃による斉射は、命からがら逃げ出した兵士たちにとどめの一撃を見舞うのでした。

 その場に登場した戦車の活躍は、あまりに一方的なもので、まるで死に神の所業です。
 それまで恐れというものをよく理解していなかったパローラでしたが、戦車に立ち向かおうという気はとても起きません。
 パローラは木から下りると、同行している補給部隊に状況を知らせます。
 小隊長は任務に忠実でありたいと考えていましたが、このまま物資を運んでも敵に鹵獲されるだけです。
 みすみす敵を利するような真似はできないと、一行は任務の遂行を中断し、身を隠せる森へともどっていくのでした。


27・戦場の束縛
「我が部隊は、本当に全滅したのだろうか?」
 物資を戦場まで届ける任を負っていた、補給部隊の小隊長が疑問を呈します。
 確かに敵軍に現れた戦車は、銃弾をものともしないほど強固で、歩兵ではとうてい太刀打ちできません。
 しかし、それだけで自軍が敗走したとまでは到底思えないのです。

 無線による連絡は付かないものの、どこかに逃げ延び背縁力を再集結させているのかもしれない。
 任務を無事に遂行したいという、願望を孕んだ憶測を手放せません。

 それはパローラにしてもおなじでした。
 前線には多くの塹壕が掘られ、たくさんの兵士たちを収納していました。
 親しくした者らも少なくなく、彼らのすべてが敵に討たれたとは思いたくありません。
 故にパローラは、詳細な情報を得るためにも自分が斥候に出ることを提案しました。

   ◆

 ドルガ軍に前線が突破されたとなれば、そのことは至急、軍本部へと連絡しなければなりません。
 しかし、状況を不完全にしか把握できていない補給部隊の隊員たちは、その情報が本当に事実なのか自信がもてません。
 もし、誤報であったならば、いたずらに軍を混乱させ、士気の低下を招くことでしょう。重罪を課されることもあるかもしれません。
 そんな時、パローラからの斥候に出るという提案は渡りに船でした。
 現在、なによりも必要なのは正確な情報です。
 戦場に近づけば近づくほどその精度は上がります。
 常人よりも高い身体能力を持つイヌ娘ならば、任務の成功確率はあがります。
 また、例えドルガ兵に発見されたとしても、並の兵では彼女の足においつけません。
 車の存在にだけ注意を払えば、リスクを抑えられるだろうという結論に至ります。

「危険な任務になるだろうが頼む」
 小隊長はパローラの両肩を握ると、彼女に偵察任務を命じるのでした。

   ◆

 パローラは事前に身を隠すルートを調べると、日が落ちるのを待って慎重に戦場へと近づいていきます。
 ですが、ドルガ軍もそのルートの存在に気づいているのでしょう、哨戒の兵士が見回っていました。
 しかしパローラの鼻は、風にのってきた敵兵の臭いを敏感に感じ取りそれをやり過ごします。
 この時点で味方が敗走しているのは確実です。補給部隊らと合流して撤退を進言すべきでした。
 しかし、彼女はらしくもなく、欲をかいてしまいました。
 自分に良くしてくれた、仲間達がどうなっているのか確認したい。
 また、荷物にあるリズに似た女の子の描かれた絵画も回収したいと願ってしまいます。
 鼻の利かないドルガ兵を出し抜くことは、そう難しく思えなかったのです。
 ですが、それは間違いでした。
 彼女が荷物にたどり着くよりも先に、背後から声がかかります。
『動くな』
 声に込められた殺気が、彼女の動作を凍らせます。言葉は知らずとも、その意味は理解できました。
 それでも、彼女は逃亡を選びます。
 背後に銃声が響きますが身体に痛むところはありません。
 あとは身を隠せる場所まで全力疾走するだけです。
 これまで山中の行軍で、彼女に追いつけた者はいません。
 にも関わらず、追跡者は彼女の背後をしっかりとつけてきます。
 このまま補給部隊と合流してはいけないと、道を変え、速度を変え、変則的な動きを混ぜて翻弄しようとしますが、熟達した追っ手が相手では無駄に終わりました。
 終いには、背中に強い蹴りを受けて地面へと叩きつけられてしまいます。
 追っ手は地面にひれ伏すパローラに銃を突きつけ、改めて動かないよう命じます。
 そして、自分を追い詰めた相手の姿を目にしたパローラが驚きにとまりました。
 彼女に銃を突きつけた相手は、ドルガ帝国軍の軍服に身を包んだ女兵士だったのです。
 ベルジウム王国軍には女兵士はいないので、驚くのも無理はありません。
 しかしそれ以上に彼女を驚かせたのは、黒髪の間から生えた動物のような耳でした。

「動けば撃つ」
 冷徹な視線を向けるイヌ娘は、なまりのあるワランダ語で命じます。

 そして、抗う術を持たぬパローラは、その軍門にくだることとなるのでした。


●第七話 イヌ娘とドルガ帝国

28・捕虜
 死の淵から救ってくれたリズへの恩に報いるため、戦場へ行くこととなったパローラは、まずは新兵訓練学校へとやってきました。
 訓練学校で新たな出会いと別れを経験し、卒業後は前線の補給部隊へと配属されます。
 軍服に身を包んで大柄な彼女が小柄に見えるほど大きなリュックを背負い、各部隊に物資を届けてまわっていました。
 働き者で、たくさんの荷物と笑顔とともに届けてくれる彼女は、イヌ娘であるにも関わらず、人気者となっていました。
 そんなパローラでしたが、戦場近くで迷子になっていた少女アンニャを近くの村まで送る命令を受け、前線を離れることとなります。
 しかし、命令を終え、補給部隊のトラックに便乗して帰還したパローラを待っていたのは、自軍の防衛線が破られたという悲惨な現実。
 パローラは詳細な情報を得るため、危険な戦場へと赴きますが、ドルガ軍のイヌ娘兵に見つかると、なす術もなく捕まってしまうのでした。

   ◆

 ドルガ軍のイヌ娘に破れ、捕虜となったパローラは収容施設へと送られました。
 そこでは、大勢のベルジウム王国兵が捕まっていましたが、見知った相手はいませんでした。
 偶然にもゴルドに似た顔をみかけますが、話している言葉もワランダ語ではなくプリャンシャス語です。
 匂いもちがいますし、良く似た別人でした。
 見知った相手がいないことには理由があります。
 当然のことながら、捕虜を養うには相応の費用がかかります。
 開戦してから多くの捕虜を得てきたドルガ軍にとって、捕虜を増やすのは、戦費を増やし自分らの首を絞めることになりかねないのです。
 先日の防衛戦突破の際にも、大勢のベルジウム兵が投降しようとしましたが、彼らは人目に着かぬ場所で処理されていました。
 そんな中、パローラが殺されずに捕虜となったのは幸運と言えるでしょう。
 イヌ娘という特殊な存在であり、斥候という危険な任務を負っていたことで、なにか重要な情報を握っているのではと勘違いされたのです。
 それらの事情は、尋問によってこれから吐き出されることとなります。

 パローラは、尋問部屋へと連れていかれました。
 そこには彼女を捕らえた黒髪のイヌ娘がいました。
 ドルガ軍のイヌ娘の名前はヘルガと言います。
 ヘルガは短く切りそろえられた黒髪の持ち主ですが、その毛先はパローラと同じように白くなっています。
 頭からは、動物のものに似た耳が生えています。途中でうなだれたパローラの耳とちがい、キリリと立った耳です。
 その耳は、よりクリアに音を聞き分けるために、ヘルガが自ら切って形を整えたのです。
 引き締まった身体の持ち主で、女性らしい凹凸はあるものの、鍛え抜かれていることが軍服の上からでもよくわかります。
 穏やかなパローラとは反対に、場の空気を引き締めるようなイヌ娘です。
 パローラが自分以外のイヌ娘と会ったことは、数えるほどしかありません。それもアンワーズの街でなんどかすれ違った程度で、会話など交わしたこともありませんでした。
 ですが、パローラの意識は別のところへ向いていました。
 部屋の一番奥の椅子にだらしなく座った軍服の男です。
 パローラが小柄で金髪なそのドルガ軍兵と出会ったのは初めてではありませんでした。

 その男の名はジーン。

 長距離行軍演習中のニコルらに襲いかかり、その命までもを奪った悪鬼です。

 ベルジウム王国軍の認識では、あの時侵入した兵隊はすべて駆逐したハズでしたが、彼はどうにかして生き延びたようです。
 薄汚れた軍服とは見た目が変わっていますが、身体に染みついた独特の血臭が人違いでないとパローラは確信します。

 本人にやる気はなさそうですが、階級章からそれなりの地位にいるらしいことが分かります。
 パローラは己が縛られているのも忘れ、ジーンに襲いかかろうとします。突然の勢いに彼女を拘束するロープを掴んでいた兵士が引きずられます。
 しかし、ヘルガがジーンの前に立つと、容易く叩きのめされてしまいました。
『なにこいつ、この状況で襲ってくるなんて、頭おかしいの?』
 ジーンはおかしなものを見る目でパローラを見下ろし、ドルガ語でヘルガに尋ねます。
 しかし『そうか、おまえあの時の……』と、彼女があのときの生き残りであることを悟りました。

『まあ、戦争中のことだし勘弁してくれよ。
 おまえらの装備はありがたく使わせてもらったし、こっちもあのあと仲間が全滅してるんだから、痛み分けってヤツだ』

 ドルガ語で語るジーンの言葉はパローラにはわかりません。
 ですが、彼女の大事な仲間を殺し、自分の仲間も殺されたというのにまるで頓着していないことだけはわかりました。
 まるで興味のないスポーツの勝ち負けでも話すようなどうでもよさです。

「この男となにが会ったのかは知らんが、無駄なことはやめておけ。
 私に叶わぬようでは、この男の相手など到底かなわんぞ」

 なおも牙を剥き続けるパローラに、発音になまりのあるワランダ語でヘルガが告げます。
 そして、このような有様であれば、パローラに尋問などしても無駄だろうと、牢獄にもどすよう部下に命じました。
 しかし、それをジーンが止めます。
 パローラはなにか重要な秘密をしっていると主張して。

『しかし、所有していた道具から、彼女はただの補給部隊の運搬兵でしかなく、さらにはしゃべることもままならないことは判明しています。
 尋問したところで時間の無駄です』
『そんなことはない。
 そいつは確実に重要なことを知っている。
 何故なら、俺の勘は外れないからな』
 そう言って、彼はパローラの尋問を強行します。
 そして言葉を話せないパローラを強情な兵士であると主張し、拷問を始めます。
 パローラの上着を脱がせると両腕を縛り、天井から吊します。
 そして豊かに膨らむ乳房めがけて鞭を振り下ろしました。
 パローラの肌に鞭の跡が刻まれていきます。傷は熱を持ち、痛みを堪えるパローラの肌が少しずつ濡れていきます。

『ん~、ここまで叩いてもなにも吐こうとしないとは……コイツは相当に訓練された兵士だな』

 ジーンは彼女が重要な情報などもっていないと、最初から気づいています。
 それでもパローラをいたぶるためだけに難癖をつけていたのです。
 まるで他に楽しみを知らない子どものように熱中し、鞭を振るっていました。
「ここまでやって駄目なら仕方ないな。
 さらに尋問の強度をあげるか……」
 肌に刻まれた傷跡をなでながらズボンを下ろそうとします。
 それをヘルガが止めました。

『尋問とはいえ、過度に捕虜を傷つけることは条約で禁止されています。
 殺すわけにはいかないのですから、そろそろ解放せねばならないでしょう』
『なんだ、同族だからって庇うのか?』
『私が従うのは軍規です。
 上官である貴方のサポートも行いますが、軍規を乱すようならば対応を考えなければなりません』

 真面目な副官の言葉に、ジーンは興ざめであると言わんばかりに鞭を放り捨てる。
 そして『まっ、急ぐことはないか、これからなが~い付き合いになんだしな』と言い残すと、パローラの尻をひとなでしてから、尋問部屋を出ていくのでした。


29・苦痛
 パローラにとって、ドルガ帝国での捕虜生活は、これまでのどの生活と比べても最悪なものでした。
 理不尽な暴力を受けるという意味では、育ての親であるゴンドと同格でしたが、ジーンのそれは遙かに洗練されており、パローラに多大なる苦しみを与えました。
 それでいて肉体への負荷は少なく、捕虜としての労働を免除されるようなことはありませんでした。
 ただでさえきつい労働を、疲労しきった身体で行うことは、さすがのパローラにも辛いものでした。
 
 労働は戦争によって破壊された町の復興でした。
 砲撃により破壊された家屋を分解し、トラックに積み込みます。
 綺麗になったら新たに建物を建て直すとのことでしたが、ゴーストタウンに新たな建物が建築される日は遠いように思えました。

 捕虜たちの足には走れないように鎖が巻かれています。歩くだけの歩幅はとれますが、動きづらい事この上ありません。
 栄養価の低い食事に、さぼりを許されない監視付きの労働は辛く、日に日に皆が痩せ衰えていくのが見てとれました。

 監視の中には、ときどきヘルガが現れパローラの動向を確認しています。
 パローラに逃げる意思はありませんでしたが、それを疑われても仕方ない状況であることは彼女にも理解できました。

 ジーンによるパローラへの拷問は月に二回は行われました。
 どれも労働後の疲れた時間帯を狙い行われました。しゃべるべき情報も、言葉すらもたないパローラはジーンの玩具のようです。
 通訳しなければならないという名目で同席したヘルガがいなければ、もっと酷い目に会っていたかもしれません。

「あの男には多くの功績がある」
 昼間の強制労働の最中、ヘルガはなまりのあるワランダ語でパローラに話しかけました。
 周囲に他の監視も捕虜もいません。なんの意図があるのか、独り言のように情報を与えます。

 ジーンはこの大戦が始まる以前の戦争から軍人として功績を挙げていた。
 今回の戦争では宣戦布告する以前から、中立を打ち立てていたベルジウム王国に偵察に入り、数多くの情報を持ち帰ってきたとのことでした。
 工作と称して多くの村を焼いた実績もあり、ベルジウム王国民にとっては悪魔のような存在です。
 それでいてドルガ帝国でも、数々の戦績を英雄視されないのには、その素行の悪さが影響しています。
 任務達成率の高さに反して名声は低い。
 その処遇に頭を悩ませた軍上層部は、幾度となく彼を死地へと送り込んだが、そのたびに生き延びて帰ってきたのです。
 パローラがジーンと遭遇した長距離行軍演習での件もそのひとつでした。
 結果、その素行は治らぬまま、少しずつ階級をあげてきたということです。
 そして、ジーンが羽目を外しすぎないようお目付役に付けられたのがヘルガでした。
 あるいは、戦闘力はあれど規律に五月蠅すぎるヘルガも、軍上層部としては扱いに苦慮し、セットで僻地に封じ込めているかもしれない。
 そんな自嘲めいた呟きを、ヘルガはしていました。

「それと、あの男は手強い。
 私に勝てないようでは、返り討ちに遭うだけだぞ」
 ヘルガはそんな警告を残して、監視を他の者と交代するのでした。

   ◆

 ある日、パローラは尋問部屋に呼び出されます。
 労働を切り上げて呼び出されたので、いつもより早い時間でした。
 そして連れ込まれた尋問部屋にいたのはジーンのみで、通訳役でありストッパーであるヘルガが居ません。
 そのことに嫌な予感を覚えますが、捕虜として繋がれた彼女に、抗うすべはありません。
 ジーンは彼女を連れてきた部下を労うと、輸入物のタバコを二箱渡して吸ってくるように言いました。
 兵隊はやらしい笑みを浮かべると、命令を受諾して部屋を出ていきます。
 そして残されたのは、ジーンとパローラのふたりだけとなりました。

「さあパローラ、今晩は寝かさないぜ」
 ジーンは流暢なワランダ語で話しかけ得ると、彼女の拘束を解くのでした。


30・脱走
「パローラ、おまえにはふたつの選択肢がある」
 拘束を解かれたことに戸惑うパローラに、金髪の小男将兵ジーンが告げる。
 彼はもともとベルジウム王国で潜入調査を行っていたのです。
 任務を果たすためにも、ワランダ語を習得していないわけがありません。
 それをわざわざ隠していたのは、誰かをはめるために他ならないのです。その誰かが自分でないことをパローラには祈ることしかできません。
「ひとつは、捕虜として繋がれ続けること。その場合、俺とのラブタイムは無制限だ」
 ピロトークのように耳元でささやきかける。その手は逃げようとする腰に回されます。

「もうひとつは、こんな制約だらけの貧乏くさい国から脱出することだ。俺と一緒にな」
 最初、パローラにはジーンが言っていることの意味がわかりませんでした。
 言葉は理解できるのに、それまで兵士として培ってきた常識が覆されたのです。

 愛国心というものを理解できないのはパローラもおなじですが、これまで自分に良くしてくれた仲間たちまで捨てようという精神構造は理解の範疇にありません。
 しかし、この苦痛ばかりの日々が終わりを告げるというのは、とても魅力的に思えました。

 ここさえ抜け出せば、仲間たちのもとに帰れるのです。
 あるいはリズの待つラーク村に行くことができるかもしれません。

 しかし、それと同様に懸念もあります。
 どうしてジーンは彼女を誘い脱走を企てようとしているのか。

 パローラの心情を読み取ったジーンは「疑問か?」と尋ねるとその理由を話し始めます。

 ドルガ帝国はまごうなき強国です。
 優秀な人材が豊富で、新しい技術をいくつも開発して戦線を有利に動かしています。
 戦車による塹壕突破の功績など、その最たるものでしょう。
 ですが、それゆえに敵を作りすぎてしまったのです。
 ドルガ帝国は常勝無敗で、年々その領地を広げてきました。
 ドルガ帝国に恨みを持つ国は多く、ドルガ帝国を恐れる国はさらに多いのです。
 それらの国々は果たしてドルガ帝国に屈服することを望むでしょうか?
 暴力による支配をのぞむ国などありません。
 かと言って、正面からドルガ帝国と戦うのはリスクが大きすぎます。
 故に、ドルガ帝国の覇権を望まぬ国々は、裏からベルジウム王国やプリャンシャス共和国に援助を送り、支えることで間接的な攻撃をしかけてきているのです。
 どれだけドルガ帝国が強力であっても、味方よりも敵のほうが圧倒的に多ければ戦い続けることはできません。
 それに加え、最近では産業大国であるメリカンの参戦も噂されています。
 いずれ、ドルガ帝国が限界を迎えるのは火を見るよりも明かです。
 そして、その限界が近いことに前線で戦っている者たちは気づき始めています。それを鋼の精神でかろうじて繋いでいるだけです。
 だから、ドルガ帝国が崩壊するよりも先に、ジーンは逃げだそうというのでした。
 その同行者にイヌ娘であるパローラを選んだのは、彼女の能力と従順な性質故でしょう。
 現状、ドルガ帝国で優秀な馬を入手するのは難しいのです。
 立場上、部下に命じて車で移動することはできますが、個人で車を持ち出そうとすれば目立ちますし、帰って移動ルートが限られてしまいます。
 故に、大量の荷物を運べ、山や川をものともせずに踏破できるパローラを選んだのです。
 だからこそ、彼はこれまでの拷問もフリだけで、パローラの肉体に大きな負担をかけるようなことはしていないと言います。
 与えられた苦痛を思えば、そのことを信用することはできません。
 それでも、捕虜収容所から抜け出せるということは魅力的でした。
 このまま戦場を離れ、リズの待つラーク村まで帰ることができるかもしれません。

「どうする?
 残るか?
 俺と来るか?」

 ジーンが問いかけます。
 他に洩れれば立場が悪くなる重要な情報を漏らしたのです。
 パローラが残る方を選択した場合、残忍な彼は口止めをするのに彼女を殺すのを躊躇わないでしょう。
 ジーンに倫理観などないに等しいのですから。
 それに彼は、パローラが計画に賛同しなかったとしても、単独で逃亡する予備の計画を用意しているハズ。 ならば、考えることはひとつです。

 己の命を惜しむか、惜しまないか。

 そしてパローラは、憎悪すべきドルガ兵ジーンと共に、ドルガ帝国から逃亡することを選ぶのでした。

   ◆

 ジーンとともに、収容所を抜け出したパローラ。
 憎むべき敵兵は有能な仲間となっていました。
 多くの荷物を事前に準備し、パローラを釣れ収容所の壁を抜ける手腕は見事なものでした。
 しかし、いつまでも幸運は続かないでしょう。
 時間が経てばパローラが脱獄したことも、それをジーンが手引きしたことも気づかれます。
 追手に捕まらないよう、距離をかせがなければなりません。

 パローラとジーンは夜になっても歩き続けます。
 山に入り、草木をかき分け、川をわたり進みます。
 途中、ジーンの裏切りを警戒していたパローラでしたが、意外にも彼は協力的でした。
 運搬する荷物こそパローラの方が多いですが、食料も水も平等に別けてくれます。
 無論、彼がなにか企んでいることはパローラにもわかっていましたが、それがなにかまではわかりませんでした。

 途中、村を見つけました。
 地図に載ってもいないような小さな村です。
 そこによるべきか考えますが、慎重なジーンは痕跡を残したくないと寄らないことに決めました。
 それにパローラも従います。

 パローラが脱走をして五日目の晩。
 ジーンはある提案をしました。

「ここまでくればもう大丈夫だろう。ここで別れないか?」

 彼が言うには、自分たちは脱走という目的はおなじだが、その後の人生は別々の場所でと望んでいる。
 ならば、ここで別れるのが得策ではないかということでした。

 そして地図を広げると、ドルガ軍の要所を避けつつもベルジウム王国へ戻るルートを教えてくれます。
 荷物の大半も、より遠くまで行かなければならないパローラに譲ると言ってくれました。
 しかし、その選択を選ぶことはできませんでした。
 何故ならば、ドルガ軍のイヌ娘であるヘルガが、優秀な嗅覚をつかって彼らの追跡を成功させたのでした。

   ◆

『ここが貴様らの終着点だ』
 ヘルガが追い付くとそういい放ちます。

『単独で来たのか? ずいぶんと舐められたものだな』
『おまえ相手にそんなわけないだろ』
 ジーンの軽口にヘルガが答えると、木々の陰から銃撃がはじまりました。
 ヘルガが現れた時点で、伏兵に気付いていたパローラとジーンはそれを回避します。

『これだけかよ。俺を殺りたきゃ一個大隊は必要だぜ。知ってるだろ?』
『ああ知っているさ。
 だが最近は酒を辞めたんだろ?』
 ヘルガの指摘にジーンが眉をひそめます。
『あれだけ好きだった酒を屋m他のは、肝臓がボロボロなんだろ。軍医が吐いたぞ。
 だから、機密情報を手土産にどこかに亡命し、治療を受けようと考えたんだろ? この売国奴が!』
『命を大事にして何が悪い!』
 ヘルガの言っていることは本当なのか、ジーンの動きに以前の精細さがありません。
 正規の訓練を受けていないパローラは銃を放てません。
 銃弾により反撃はジーンのみとなります。
 彼が一発撃つごとに五発にも十発にもなって返ってくる状況には、さすがのジーンも手も足もでません。
 そこで相手をかく乱すべく、スコップを武器にパローラが突入を開始します。
 それを正面で受け止めたのは黒髪のイヌ娘ヘルガでした。
 技術の面ではヘルガが上ですが、筋力はパローラのほうが上でした。
 また、強制労働と逃亡で疲労したパローラの方が疲労が大きいと思われましたが、相当に無理をして追ってきたのでしょう、ヘルガの体力もかなり消耗されていました。
 最初こそ猛追をみせたヘルガでしたが、次第にパローラが優位に立ってきます。
 そうこうするうちに、乱戦を利用したジーンが追っての兵士をひとり、またひとりと倒していきます。
 そして、そのすべてを葬ったのちに、背後から動きの鈍ったヘルガの胸を撃ち抜くのでした。

31・裏切り者
 敵兵とはいえ尊敬できるヘルガが背後からの銃弾に倒れたことに、パローラは忸怩たる思いがありました。
 それをしたのが、彼女の元上官であるジーンなのですからなおさらです。
 脱走したことを後悔はしませんが、己の選択でまたひとり、尊敬できる相手が死んでしまったかと思うと悔しくて仕方がありません。

「パローラ、別れの時間を早めよう」

 翌朝に別れようと相談していた彼らでしたが、襲撃を受けたことにより予定を早めようとジーンが提案します。
 追手を返り討ちにしたとはいえ、他に潜んでいるものがいないとも限りません。
 パローラもそれに同意しました。
 そしてふたりは分かれて山道を行きます。
 しかし、パローラは途中で荷物を置くと、スコップをひとつもって来た道を引き返すのでした。
 そして、別れたジーンを追跡し背後から奇襲したのでした。

「おいおい、いったいなんの真似だ」
 奇襲を防いだジーンはパローラに向かって発砲しつつも尋ねます。

「つっても、聞いてもしゃべれないのか。めんどくせー」
 パローラは銃弾をスコップで防ぎつつ、ジーンと戦います。

 追手の荷物を奪ったことで補給は済んでいますが、一度に込められる玉の数は決まっています。
 パローラの得意な肉弾戦に持ち込むことができました。
 ですが、ナイフを隠しもっていたジーンは恐るべき軍隊格闘術の使い手でした。
 あっという間に、パローラの肌を切り裂いていきます。
「本当に、しゃべれないのが惜しいよ」
 ジーンはサディスティックな本性を出しながら、パローラの身体を痛めつけます。
 パローラは、この残虐な男を世に放つことの危険性を認識し、彼を背後から襲ったのでした。
 また、ジーンもパローラを、鼻が利くヘルガを惑わせるためのおとりとするために連れてきたのでした。
 自分の臭いがたっぷりついた荷物を彼女に持たせたのもその理由です。
 しかし、懸念されたヘルガを討つことができたので、もうパローラを生かしておく理由は彼にもありません。
 そしてジーンはパローラを打ち倒しました。
 最後に、これまでお預けを食らっていた楽しみを実行しようと、彼女の上着を剥ぎます。
 抵抗する彼女の肩にナイフを刺します。
 それで抵抗が弱まったパローラをジーンは蹂躙しようとします。
「さんざん焦らしてくれたんだ。
 奥の奥まで楽しませてもらうぜ」
 ですが、ジーンの欲望は達成されませんでした。
 彼がそうしたように、その背後からジーンを撃った者がいたのです。

 それはヘルガでした。

 胸を撃たれ瀕死になったヘルガでしたが、その命の火はまだ完全には消えてはいなかったのです。
 愛国心と忠誠心から、裏切り者にとどめをさします。
 それが済むと、今度こそ息を引き取るのでした。
 救急箱を取り出し、ヘルガを手当しようとするパローラでしたが、ヘルガはそれを止めます。
 ヘルガの身体はすでに老齢なのです。イヌ娘は普通の人間とちがって、老いがわかり難いですが、寿命はずっと短いのです。
 己の体力の減退と、寿命の残りすくなさにヘルガは気づいていました。
 そこで、軍の悪性腫瘍であるジーンをなんとか排除できないかと勘が手いたといいます。
「もっとも、いまごろあいつを排除しても、無駄なのかもしれんがな……」
 それを最後に事切れました。
 パローラには、彼女の言い残したことの意味がよくわかりませんでした。
 手にしたスコップで彼女を埋葬すると、肩の傷を自分で処置し、ベルジウム王国を目指すのでした。

【第二部 完】


■第三部 天国への道

●第八話:最後の幸運
32・奇跡
 ドルガ軍の捕虜収容所から脱獄を果たし、怨敵ジーンの裏切りや、追手であるヘルガの魔手を切り抜けたパローラは、ただひたすらにベルジウム王国を目指しました。

 食料は途中で尽き補充はできません。
 ベルジウム王国軍のイヌ娘であるパローラが、ドルガ帝国領で食料を分けてもらうことは難しいに決まっています。
 かといって、途中で見つけたドルガ帝国の村も飢えと貧困に耐えている様子を見ては、略奪に踏み切ることもできません。

 訓練学校時代に教わった知識を頼りに、草木の根をかじって飢えをしのぎます。
 幸運にも自生しているニンニクを見つけられたことは、彼女の活力に大いなる祝福となりました。

 やがて戦場近くに到着します。

 本来なら、敵味方ともに厳重な警戒が敷かれている戦線が、何故かその日は静かでした。
 そして幸運にも、味方に発見されたパローラは、その知名度故にすぐに保護され、野戦病院へと運ばれたのでした。

   ◆

 野戦病院に運ばれたパローラは、すぐにベッドに寝かされました。その意識は混濁しています。
 そこに金髪の見習い看護士が現れ、看病をしようとします。

 しかし、その相手がイヌ娘であることに気づいておどろきます。

「パローラ、パローラなんだね」

 パローラは戦場では有名で、彼女のことを知る兵士は大勢います。
 しかし、看護士はパローラが戦場に行く前から彼女のことを知っていました。

 そうです。
 金髪の見習い看護士はラーク村のリズでした。

 リズはおじいさんが病で死んでしまったのをきっかけに村を出たのです。
 そして、自分で生計を立てられるよう、人手不足だった戦場看護の仕事に付いたのでした。

 仕事はとてもつらいものでしたが、それでも彼女は頑張ります。
 それには、パローラと再会できるかもしれないという思いが支えとなっていました。

 しかし、パローラは前線が突破されたときに死亡したと聞いていました。
 その後何時間も泣きはらしました。
 彼女の遺品を受け取り、その荷物に自分に似た絵画があってさらに泣きました。
 にも関わらず、こうして生きて再会できたことに、リズは神様に感謝しました。

「でも神様は意地が悪いね。僕らの再会をこんなにも待ちぼうけさせたんだから」

 そう言っておちゃらけてみせます。
 それに笑って答えようとしたパローラでしたが、上手くいきませんでした。

 アゴに力が入り、うまく開けることができません。
 それどころか身体中の筋肉が硬直し、痙攣(けいれん)を始めたのです。

「パローラ?
 どうしたのパローラ!?」

 感動の再会もつかの間、リズはあわてて軍医を呼びます。
 駆け付けた軍医は彼女の症状をみて顔色を変えました。

「いったい、パローラはどうなってしまったんです」
 見習い看護士の質問に軍医は深いため息とともに、己の知見を告げます。

「この症状は破傷風の可能性が高い。
 筋肉の硬直やけいれん、アゴの締まりなど典型的な症状だ」

「治すにはどうすれば良いんですか?」
「破傷風は神経毒素によって引き起こされる感染症なんだ。
 治療は難しいと言わざるをえないだろう。
 それになんといっても今は薬がない。可能な限り治療はするが、疲労した彼女では難しいかもしれん」

「そんな!?」
 リズはパローラの手を握り必死に彼女を励まします。

 しかし、パローラは苦しむばかりでその目を開こうともしませんでした。


32・集う想い
 野戦病院にて、奇跡の再会を果たしたパローラとリズでしたが、それを喜んでいる余裕は彼女らにありませんでした。

 リズはパローラのために手を尽くそうと考えますが、見習い看護士でしかない彼女にできることは限られています。
 しかも、仕事としてこの場にいるリズは、パローラ以外の傷病者の看護もしなければならないのです。

 そんな中、顔色悪いながらも懸命に働く少女に声をかけるものがいました。
 それは厳つい顔の軍人で、名をドトスコと言います。
 彼はパローラの所属していた補給部隊の隊長でした。
 ドルガ軍の戦車隊の猛攻により前線突破の被害に巻き込まれ、またも大けがを負ったのでした。
 しかし、軍医とリズを含む看護士たちの活躍により、もうすぐ退院というところまで回復していました。

 口の悪い軍医からは、「この男がいると院内が狭くなるのでとっとと退院してしまえ」などと言われていました。

 ドトスコはリズから話を聞くととても驚きました。
 彼はパローラのことを良く覚えていますし、補給部隊の隊長をしていたことで、病気や薬物に対する知識も持ち合わせています。

「破傷風は神経毒素によって引き起こされる感染症だ。
 治療には破傷風抗毒素が必要になる。
 しかし先生が薬がないというなら、どこからか別の場所で用立てねばならない。となると……」
 そこまで言って顔を曇らせます。

「どこにいけば薬はあるんですか?」
「現在のベルジウム王国では薬は貴重だ。
 さらに一部の金持ちどもが、いつか自分が病気になった時のとめにと買い占めている。
 いま病気で苦しんでいる連中のことを無視してだ」
「だったら、その人たちに頼めば良いんですね?」
 表情を明るくするリズにドトスコは申し訳なさそうな顔をします。

「いや、彼らはやすやすと薬を手放したりはしないだろう。
 しかし彼らへの供給がある以上、どこかに薬が出回っているルートがあるにちがいない。
 それについては私に任せてくれないか?」
 忙しいリズにとって、ドトスコの申し出はとても希望の持てるものでした。
 ですが、同時に心配事もあります。
「あの、その薬ってすごく高いんじゃないんでしすか?」
「正規ルートで入手できない以上、それは仕方ないことだ」
「だったらお願いします。
 僕は、これから一生かけてでも薬代を稼ぐので、絶対に絶対に薬を手に入れてください。
 持っているものも全部売りに出してお金に換えます。
 だからどうかお願いします」
 頭をさげて懇願するリズに、ドトスコは頭をあげるよう言います。

「キミのような女の子がそんなことを心配する必要はない。
 これでも私はそれなりの地位にいてね。
 生憎と私の球給金だけでは足らんだろうが、パローラに世話になった者は多い。とてもとてもだ。
 だから、彼らに寄付を募ればキミが心配するようなことにはならないさ」
 その事にリズは、とても驚きました。

 パローラの噂は傷病兵たちからいろいろ聞かされていましたが、彼女がそこまでの人気者になっているとは想像していなかったのです。
 ですが、それによって彼女が助かるということに、リズは神様に感謝の祈りをささげるのでした。

   ◆

 翌日になり、パローラの窮状と記したポスターを書きあげたドトスコは、広く募金を募りました。
 それにはたくさんの反響があり、瞬く間に目標額を達成することができました。
 しかし、予想外のことも起こりました。
 なんと治療薬である破傷風抗毒素がどこも品切れであり、どれだけ大金を積んだところで買えないというのです。
「そんな馬鹿な!」
 怒りをたぎらせるドトスコでしたが、彼が怪我を押してはいずり回っても薬は見つかりませんでした。
 ベルジウム王国は、彼が考えている以上に疲弊していたのです。

 そんな中、パローラの容体は悪化の一途をたどっていました。
 軍医は薬が手に入らないのであれば、安楽死をさせるしかないと渋々提案しました。

「これ以上、私たちのわがままで、彼女を苦しませるのは忍びない」

 その言葉にリズは真っ青になります。
 せっかく再会できたパローラに、ロクに会話もしないうちにサヨナラなど、することなどできません。

 しかし、パローラが苦しんでいるのも良くわかるのです。
 リズは苦しみ悩み、夜になると誰もいない場所で、ひとりメソメソと泣いていました。
 アルマンおじいさんが亡くなった日も、ベイノンが戦場を目指して行方不明になった時も、懸命に堪えていた涙があふれて止まりません。
 そしてベッドで目も開けられぬパローラ相手に、「もう少し、もう少しだけ耐えて」とお願いするのでした。

   ◆

 リズが泣きはらした翌日、野戦病院に場違いな客が現れました。
 それは五歳か六歳くらいの小さな女の子で、このあたりでは見かけない赤っぽい髪色をしていました。
 着ているものはとても高価な紅いドレスで、カバンをもった白髪頭の身なりの良い従者を連れています。

「ねぇ、ここにイヌ娘のお姉さんが居るってきいたんだけど何処?」
 女の子は手にパローラが描かれたポスターを持っています。

 リズはパローラはとても重い病気だから合わせられないと断ろうとします。

 しかし、女の子は強引に病院に入り込むと、パローラをみつけ抱きつくのでした。

「やっぱりイヌ娘のお姉ちゃんだわ。
 お姉ちゃん、あたしアンニャよ。目を開いて」
 問いてもパローラは返事をしません。
 しかし、相手がパローラであることを確認できただけでアンニャは満足です。

「あたしね、お姉ちゃんのおかげで、ずっと離れ離れだったおじい様に合うことができたの。
 お父さんとお母さんのことは残念だけど、外国でお仕事をしてるおじい様は、とってもお金持ちで、あたしに良くしてくれるのよ。
 おじいさんと再会できたのは、あの時、お姉ちゃんが街まで送ってくれたおかげ。だから、こんどはあたしがお礼をするの」
 そう報告すると従者に命じて、軍医を呼んでくるように良います。

 そして、カバンから破傷風抗毒素の瓶を取り出します。
 外国で商売をしている彼女の祖父には、薬を入手できるコネと財力があり、急遽それを入手してきたのでした。

 アンニャは薬瓶を軍医に渡してパローラに打つようお願いしました。
 軍医は驚きながらも薬をよく確認し、それに間違いないことを確認してからパローラの腕を消毒し、薬を注射します。
 すると、心なしか彼女の緊張は少しだけほぐれたようにみえました。
 薬は即効性の高いものではありませんが、パローラの体力が回復すれば、次第に元気になるだろうと軍医は励ましてくれます。
 そしてリズは、薬を用意してくれたアンニャと、協力してくれた全ての人々に感謝の祈りをささげるのでした。


●第九話:終戦

33・終戦
 病院のベッドのとなりに置かれたラジオから、戦争が終結した知らせが流れます。

 ドルガ帝国がついに劣勢を認め、停戦協定の締結を了承したのです。
 それにより、長きにわたる戦争が終わりを告げたのでした。
 ちょうどソレに合わせ、破傷風菌にに打ち勝ったパローラが目を覚まします。
 そのことをリズをはじめ、すべての関係者が喜びました。

 リズは目を覚ましたパローラに、多くの人間が彼女のために協力してくれたのだと教えます。
 そして、戦争が終わったのだから、これからはゆっくりと暮らそうと提案します。

 そのことを教えてくれたリズに、パローラは「ありがとうリズ」と感謝の言葉を口にしました。
 そのことに、その場にいた皆が驚きます。

「パローラ、声が……!?」

 それまでどれだけ努力しようとも、出ることのなかったパローラの言葉が出たのです。
 軍医は薬の副反応かもしれないと、症状を危ぶみますが、軍医の意見をリズはそれを認めませんでした。

「きっと、辛いことにずっと耐えてきたパローラに、神様がご褒美をくれたんだよ」
 そう言って、涙をこぼしながら彼女を祝福します。
 
「でもね、パローラ、僕は君にいっぱいいっぱい話したいことがあるから、しゃべるのは、それを全部聞いてからにしてね」

 愛しいリズの願望にパローラは、「かまわない、たくさんリズの声を聞かせて」と了承するのでした。


34・その後……
 終戦後、パローラは退役しました。
 そしてラーク村にもどってくると、戦時に覚えた言語能力で翻訳の仕事につくことにしました。
 言語の入り混じる国では、彼女の仕事はとても有意義です。彼女は生で多くの人々と触れあい、その言葉に耳を傾けることで、通常以上の言語能力を手に入れていました。
 シャベルことは不得意なままでしたが、彼女はゆっくりとした余生を送ることができたのでした。

 リズは看護士として勉強し、活躍しつつも、疲れ切ったパローラの看病をしました。
 ときどき、リズが歌い、パローラがハーモニカを吹き小さな演奏会を開きました。
 
 遊びにきたアンニャがヴァイオリンで参加することもありました。
 
 コーネフの旦那が見舞いに来ることもありました。
 
 戦後、ラーク村にひょっこりもどってきたベイノンは、料理上手な可愛らしいお嫁さんを連れてきて、みなを驚かせました。

 リズに似せて描かれた絵画はパローラに返却されました。

 そして終戦後、ちょうど一年でパローラの寿命は尽きたのでした。

 お墓は、アルマンおじいさんの隣に立てられました。

 破傷風を乗り越えたパローラでしたが、その際の疲労はすさまじく、それまで半分ほど残っていた髪のベージュ色がすべて真っ白になってしまいました。

 もともとイヌ娘の寿命はとても短いです。
 彼女は一生懸命に生きたのです。
 哀しくはあっても、それを一年の時間で受け入れることが、リズにはできました。

 そして、自分のため、国のために一生懸命働いてくれたイヌ娘の話を、後世にまで伝わるよう、長く長く語り継いでいくのでした。

           
【フランデリスのイヌ娘、戦禍の地を駆ける。完】
HiroSAMA

2023年12月31日 23時54分28秒 公開
■この作品の著作権は HiroSAMA さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
気まぐれな運命に翻弄される少女たち

◆キャッチコピー:気まぐれな運命に、少女らは翻弄される。

◆作者コメント: 架空世界を舞台にしたアレな感じのファンタジーです。
 第一次世界大戦頃のヨーロッパ(ベルギーやらドイツやら)をイメージしていますが、作品の都合で、文化や時代背景を改変・融合・独自解釈をしています。その点をご了承の上、お読みくださるようお願い申し上げます。

あと……女主人公のなにが悪い!


※本作は物語の解釈を読者様に委ねたい都合上、作者からのネタばらしは慎みたいと考えております。
 故に感想への御礼は簡素なものとさせていただく予定であることを、重ねてご了承くださいますようお願い申し上げます。

2024年01月30日 22時37分10秒
作者レス
2024年01月19日 02時06分06秒
+20点
Re: 2024年01月31日 23時08分34秒
2024年01月12日 20時18分20秒
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Re: 2024年01月31日 23時01分59秒
2024年01月11日 02時07分21秒
+40点
Re: 2024年01月31日 22時58分57秒
2024年01月08日 22時12分31秒
+10点
Re: 2024年01月31日 22時57分14秒
2024年01月07日 13時55分25秒
+10点
Re: 2024年01月31日 23時40分45秒
2024年01月07日 12時01分46秒
+10点
Re: 2024年01月31日 22時49分38秒
合計 6人 120点

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