魔剣が看板の宿屋の主人が実は勇者で幽霊娘とのキスに悩みます!

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1、
 フィントゥアの地は、王国全体から見れば辺境といえる。
 だが、国境からは遠く、隣国から王都へと続く街道が通っている。
 さらに農地も肥沃で、冬が来ても蓄えには困らず、国の内外に売るほどの収穫があった。
 そうした土地は人の往来も多く、宿屋は儲かって当然である。
 確かに、ちょっと前までは、扉にこんな張り紙がしてあった。

 ……格安でお引き渡しいたします。
 ……前の主人の借りも込みで引き受けてくださる方は、領主の屋敷まで。

 それでも、元はすぐに取れそうなものである。
 だが、ひと月ほど前に流れてきて、この宿屋の主となったオスタは、泊りの客を迎えたことがなかった。
 1階にある、7、8人ばかりたむろするのがせいぜいの酒場にやって来るのは、日が暮れるまでカブやらカボチャやらの収穫を終えた農民たちばかりである。

「いつまでこんなことが続くんだよ、オスタさん」
 愚痴る中年男に大ジョッキのエールを差し出した若者は、困ったように首を傾げた。
「そう言われましてもねえ、俺には何とも」
 たかが宿屋のオヤジである。
 しかも、たいして大きくはない。
 2階にも、せいぜい4部屋かそこらしかないのだ。
 そこを掃除するのがやっとの主人が、口々に並べたてられる農民たちの悩みをどうこうしてやれるわけがない。
「朝起きてみると、カボチャもカブもすっかりやられてるんだぜ」
「ブドウだのナシだのも散々だ」
 その目の前にエールのジョッキを置きながら、オスタは農民たちをなだめにかかる。
「まあ、それでもこうやってお酒を飲みに来られるんですから」
 ここへやってくる長い旅の間に、もっと貧しい土地を見てきた身からすれば、ここに集う男たちは百姓貴族と言ってもいい。
 その、不満たらたらの呑気者たちは、口をそろえてオスタをからかった。
「そんなこと言ってていいのかい」
「ツケでいいって言ったの、しまったと思うことになるぜ」
「冬が来るまでに、それなりの実入りがなかったら……」
 勝手な言い草だが、こういう話を聞いていると、気が楽になる。
 オスタはぴしゃりと額を叩いてみせた。
「いや、そいつは困った!」

 おどけているわけではない。 
 痛いところを突かれたのである。
 あてどもない旅を続けてきて、そろそろどこかに落ち着きたいと思っていたところで、この宿屋が売りに出ているのを見つけたのだ。
 領主の屋敷を訪ねてみると、使用人が取り次いだ相手は家令のマヨフという男だった。
 年の頃は50歳を少し過ぎたくらいだったろうか。
 背はひょろ高く、頬骨の出た顔で、暗い目をしてものを言う。
 宿屋に何か隠し事でもあるのかと疑ったが、これは性分らしい。
 ただ、売りに出た事情というのは、あるにはある。
 もともと領主の家の所有だったのを分割払いで買った前の主が逃げ出したので、元を取ろうとしたに過ぎなかった。

 農民たちが噂しあう。
「張り込んでたヤツが、幽霊を見たんだってよ」
「前の領主の娘、シャイア様のな……幽霊馬に乗って手下を連れて、畑を荒らしてるんだとか」
「恐ろしくて逃げ帰ってから、もう張り込みは御免だとよ……わざわざそんな目に遭うこともねえ」
 あちこち歩いていると、そんな話はよく聞く。
 ワイルドハント(荒ぶる狩人)だ。
 秋の終わりごろに暗黒の夜空を駆けていく、魔物たちの群れだという。
 邪魔をすれば、あの世に連れていかれるとも聞いたことがある。
 そんな連中が作物泥棒とは、オスタにしてみれば、いかにもみみっちい話だった。
 急に、そそくさと台所を片付け始める。
「すんません、今夜はお開きってことで」
 農民たちはぶつくさ言うが、オスタは有無を言わさず酒場を閉める。
 この辺りに、食事付きで酒が飲めるのは、この宿屋しかない。
 今夜は帰るしかない農民たちも、明日は再びこの酒場へやってくることだろう。
 フード付きのマントを羽織り、天秤棒を手に勝手口から外へ出ようとすると、カウンターの奥で、この店の看板代わりになっている剣が不満げに唸った。
 オスタは、それを鋭く低い声で叱り飛ばす。
「お前に出番はやらん」

2、
 
 細い三日月が見えるだけの、秋の夜風は冷たい。
 この地へやってきたときにも、オスタは羽織ったマントの前を掻き合わせ、フードを目深にかぶっていた。
 あのときの風は今ほど寒くはなかったが、そうやって顔を、姿を隠さないではいられなかったのだ。
 天秤棒を担いで、暗い畑を見渡す。
「これで済まさんと、アレがいつ現れるか分からんからな……」
 そうつぶやいて辺りを見渡すと、暗闇の中から蹄の音がする。
 オスタが目を凝らすと、その先にはぼんやりと白く浮かびあがる人馬の姿があった。
「おいでなすったな」
 低くつぶやくと、マントを羽織ったまま地面に伏せる。
 それが暗い地面に溶けて消えたのが気付かれることはなかった。」
 腰に剣を提げた白い騎手に率いられた、小人や魔物の群れは道なりに通り過ぎた。
 しばらくして、オスタは土を払いのけながら立ち上がる。
 ワイルドハントたちの姿は、細い三日月の下でも、まだどうにか見ることができた。
「空を駆けたりはせんようだな」
 そう言って肩をすくめると、後を追って走り出す。
 その速さは、騎手の操る馬の並足に劣ることはなかった。

 オスタがたどりついたのは、山の中で住む者もなく、すっかり荒れ果てた寺院の跡だった。
 途中で谷川を越えなければならなかったので 濡れた足はすっかり冷え切っている。
 魔物たちの群れは、寺院跡に隠れてしまったのか、もう、どこにもいない。
 ただ、目の前では狩猟服をまとった白い騎手が、沈みかかっている細い三日月の光よりも冷たい眼差しで、オスタを見据えていた。
「何者?」
 低く、くぐもってはいるが、女か、声変りをする前の少年の声だった。
 しばし黙って騎手を見上げていたオスタだったが、急に肩をすくめて背中を丸めると、頭を掻きながら答えた。
「しがねえ宿屋のオヤジでさあ」
 文字通り上から見下ろしながら、白い騎手は命じた。
「ならばお帰りなさい」
 オスタは卑屈なまでに背を屈めた。
「そうはいかねえんで。うちの酒場へ飲みに来る百姓方が、畑を荒らされて冬も越せねえと頭を抱えておいでなんで。そうするってえと、店のツケも払ってもらえねえ。商売あがったりというわけで……ちいと伺いてえんせですがね、何でまた、そんなひでえことをなさるんです?」
 返事は、拍子抜けするほど簡単なものだった。
「そうしたいからそうしているだけだ」
 言い捨てるなり、騎手は寺院へと馬を走らせる。
 天秤棒を担いで慌てて追ったが、その姿は裏手へと消えてしまった。
 細い三日月はとうに沈んでしまっていたので、もはや騎手や白馬を探すどころではない。
 オスタは星明かりを頼りに手探りで、ようやく寺院の正面へ戻ってきた。
 大きな扉を開け放って、中へ入ってみる。
 そこでオスタは、闇の中で風を切る音を聞いた。
 首を傾げただけで、飛んでくる矢を耳元でかわす。
 何かが天井を駆ける気配があった。
 なおも飛んでくる矢を、片端から天秤棒で弾き飛ばす。
 矢が尽きたところで、外へ出ようとすると、巨大な人影が立ちはだかった。
 棍棒のようなものが、頭のてっぺんへと振り下ろされる。
 だが、それは天秤棒をかざしただけで受け流された。
 背後から、さっきの騎手の声が聞こえる。
「その技……無傷のオスタね?」
 そんな二つ名で呼ばれていたこともあった。
 聞きたくもないという口調で尋ねる。
「なぜ知っている?」
 騎手は、ある種の敬意をこめて答えた。
「父から聞いたことがあるわ。売り出し中の若手に、そんなのがいるって」
 オスタもまた、同じ生業にあった者への礼を込めて応じた。
「すると、あなたは娘のシャイア……聞いたことがある。前の領主のアブハインは、大蛇の守っていた財宝を手に入れて、跡継ぎのいなくなったリュー家の血筋を買ったと」
「跡継ぎ……家出息子のゼナのことね」
 騎手は、なぜか鼻で笑った。
 だが、再び凛然とした声を響かせる。
「ずっと憧れていたの、あなたに。明日の夜、会いましょう」
 振り向くと、そこにはただ、どこまで続いているか分からない闇があるばかりだった。
 気が付いてみると、巨人の影もない。
「やれやれ……こんなものか、お化けの話というのは」
 そう言いながら外へ出たオスタは、騎手が馬を駆けさせた辺りで屈みこんだ。
 地面を探ると、蹄鉄の跡がある。
 なぞった指を擦り合わせて、つぶやいた。
「幽霊馬の足が濡れているとは……」
 背筋に、ぞくっとするものが感じられた。

3、

 次の日、オスタは女領主マイストレアスの屋敷にいた。
 夜中の追跡に着かれて朝方は寝ていたので、訪問は昼過ぎになった。
 だが、今度は家令のマヨフも杖を手に、広い敷地の外に出ると恭しく出迎えた。
「おっしゃってくださればよかったのに」
「引退したので」
 不愛想に答えてみせると、機嫌を取るように穏やかな口調でおだてられた。 
「そのお若さで」
 余計に煩わしくなったので、この場を凌ぐためには答えたくないことも口にしなければならなくなった。
「つらいんですよ、いつまでも斬った張ったは」
 すると、陰気な家令は元の不愛想な口調で、本音を返してきた。
「私からすれば、いいご身分です……」
 言い捨てるなり、オスタを女領主の待つ部屋へ招き入れる。

 家令のマヨフに勧められるまま座った革張りの椅子に腰掛けて、顛末を告げる。
 大きなカウチにしなやかな身体をもたれさせて聞き入っているのは、胸元の豊かな年の頃18、9ばかりの娘だった。
 長い黒髪も顔立ちも美しいが、眼の奥には何かぎらつくものがある。
 ひととおりの話を聞いた後で、マイストレアスはオスタをうっとりと眺めた。
 家令が咳払いすると、下がるように手で指図する。
 ふたりきりになったところで、背中を丸めてため息をついた。
「腹違いの妹なんです。父に甘やかされたみたいでね。家が傾くまで贅沢三昧したせいで、病気になってしまって」
 農民たちが意気揚々としているのは、領主の没落のせいかもしれない。
 もっとも、それはやがて自分たちにも災難となって降りかかってくるのだが。
 そこでマイストレアスは呆れたように言った。
「それで父の愛馬の肝を食べれば治るなんてわけのわからないこと言って」
 あの白馬は、その幽霊ということなのだろうか。
 だが、続く言葉はいかにも悲しげだった。
「それも食べずに死んだとか」
 声は虚ろに聞こえたが、そのわけは単純だった。
「家令のマヨフに聞いたところでは」
 つまり、その現場をマイストレアスは見ていないということだ。
「ずっと、母のもとにいましたので。その母も、私が呼び寄せたのに聞こうともしないで、半年前に亡くなりました」
 そこには、オスタが言葉を継げなくなるほどの重苦しさがあった。
 慌てて、話を事件に戻す。
「そうそう、乗っていた馬の足跡は、濡れていました」
 マイストレアスが、怯えて顔を上げた。
「もしかして、ケルピー……ですか?」
 ケルピーとは、川のあるところに出没する怪物だ。
 馬の形をしていて、旅人を川の中に引きずり込み、内臓だけ残して食らい尽くす。
 執念深く、殺し損なった相手は、どこまでも付け狙って追い詰める。
 ただし、女は美青年に姿を変えて誘惑したり、馬の姿のままでさらっていったりすることもある。
 マイストレアスもそれを知っているのか、オスタが考えたことと同じような答えにたどり着いた。
「父の馬が、幽霊になって」
 それが正しいかどうかは、まだ分からない。
 とりあえず屋敷を出たところで、身震いする。
 ケルピーのことなど考えたせいかもしれない。
 何度か戦ったことがあるので覚えているが、出くわしたときに感じたものは、あの蹄の跡に触れたときの寒気に似ていた。
 冒険者として潜り抜けてきた戦いの日々が思い出される。
 カンテラの光に照らし出されたダンジョン(地下洞窟)。
 古い城塞。
 襲い来るゴブリンやガーゴイル、トロール、サラマンダー、そしてドラゴン。
 とうに関わりを捨てたものが追いかけてきたのではないかという気までした。
 だが、やはり、しっくりこないものがある。
「暗くてよく見えなかったが……肌に感じるものが違う」
 いつのまにか、日が暮れかかっていた。宿屋に戻ってみると、酒場で勝手に酒を飲んでいる者がいた。
 慌てて壁の剣を取ろうとして、はっとする。
 そうさせたものは、二つあった。
 ひとつは、剣そのもの。
 もうひとつは……。
「久しぶり」
 しなやかな身体を持つ、精悍な顔立ちの女がジョッキを掲げてみせる。
 オスタは、その忘れようとしていた名をつぶやいた。
「タシュトレイ……」 
 若々しい、弾むような声で女ははしゃいでみせた。 
「気にしなくていいのに、昔のことなんか。ボクは……」
 オスタは答えもしないで、料理の準備にかかる。

 簡単な食事を出しながら、オスタは昔の仲間に釘を刺した。
「見てのとおり、宿屋のオヤジだ」
 タシュトレイは何杯目かのエールを一気に飲み干して、高らかに笑った。
「分かってて来たんだよ。大丈夫、すぐに行くから」
 どこへ、とは言わない。
 言っても仕方のないことだということは分かっていた。
 行くものだけが分かっていればいい。
 他の者は知らなくても、生きて帰って語れば済むことだ。
 そうでなければ、どこかへ行ったきり、まだ帰ってこないということで済む。
 オスタもまた、そんな生き方をしていたのだった。
「まだ、そんなことを」
 隠し扉を見つけたり、仕掛けられた罠を破ったり、敵を背後から襲ったりと、そのしなやかさと器用さでは、ずいぶんと助けられた。
 頼りにもしていたし、それ以上の気持ちも、なかったわけではない。
 だからこそ、オスタは去ったのだった。
 できれば、タシュトレイにも穏やかな暮らしをしてほしいと思っていたが、そんな性分の女ではないとも分かってはいる。
「他のことできると思う? アタシに」
 いささかふてくされ気味に答えたところで、どやどやとやってきたのは、夕べ追い返された農民たちだった。
 タシュトレイを見るなり、そろって目を丸くする。
 カウンターに駆け寄るなり、勝手なことを言い出す。
「別嬪だねえ!」
 髪を短く刈ってはいるが、顔立ちは女領主のマイストレアスに負けず劣らず美しい。
「オヤジさんのコレかい?」
 口元を緩めてオスタをからかったところで、小さな拳で後ろ頭をどやしつけられる。 
 それが、かえって面白がられた。
「まあ姐さん、一杯」
 相手にしなければいいのだが、それにうまく乗っかれるのもタシュトレイという女だ。
 適当に話を合わせてその場を盛り上げたところで、オスタは昔のように告げた。
「あと頼む」
 どこへ、と口を挟む農民たちに、タシュトレイは目配せする。
 おそらくは何のことだか分からなかっただろうが、若い娘に中年男が甘いのは、どこでも同じだ。
 天秤棒をかついで出ようとしても、オスタに気を留めはしなかった。
 ただ、タシュトレイだけが呼び止める。
「持っていきなよ」
 見つめる先にあるのは、看板代わりにカウンターの壁に掛けた剣だった。
 これが、例の「アレ」である。
 オスタの顔つきが険しくなった。
「これは……」
 タシュトレイも、まっすぐに見つめ返した。
 だが、農民たちに気付かれる前に、口元をほころばせて囁く。
「大丈夫、オスタなら」 

4、

 だが、次の日、オスタは再び朝から寝込む羽目になった。
 代わりに店の掃除をしたタシュトレイは、昼前に遅い朝食を作って出す。
「昔は徹夜なんか平気だったのに」
 ダンジョンの中では、昼も夜も分かりはしない。
 しかも、期限付きの護衛や探索行が続くと、おちおち寝てなどいられない。
 昼間で寝ていられる今の生活は、王侯貴族の身分をもらうよりも幸せかもしれなかった。
「だから足、洗ったんだよ」
 粉の荒いパンを塩だけのスープで腹の中に流し込みながら、オスタはぼやいた。
 木のコップ一杯の水を差し出しながら、タシュトレイは笑ってみせた。
「そうだったね……ねえ」
 当たり障りのない返事をしたところで、大真面目な顔をしてみせる。
 オスタも目を白黒させた。
「……何だよ」
 タシュトレイは、照れ臭そうに囁いた。
「こうしてると、なんだか……夫婦みたいじゃない?」
 水を無理やり飲みこんだ喉が、ぜえぜえと鳴った。
 ようやくのことで、夕べから腹の底に溜まっていた言葉を吐き出す。 
「許してくれ」
 それが何を意味するかは、二人だけが分かることだった。
 沈黙が続く。
 それは、互いの胸の内だけで相手の気持ちを推し量っているようでもあり、続く言葉を探しているかのようでもあった。
 先に見つけ出したのは、タシュトレイのようだった。
「今はひとりで、うまくやってるから、ボク」  
 取って付けたようではあるが、それが精一杯の言葉だったらしい。
 だが、オスタには足りないようだった。
「そうじゃないんだが」
 なぜ、離れ離れになったか。 
 わだかまりは、そこにあった。
 それを取り繕うかのように、タシュトレイは言葉を継ぐ。
「今だって……」
 口ごもったところで、オスタはおずおずと尋ねた。
「どうした?」
 笑顔は見られたが、やはり無理があった。
「何でもない……で、何があったの」
 話をそらされたが、かえって気楽だった。
 オスタはカウンターに突っ伏して、溜息をついてみせる。 
「まさか、幽霊にすっぽかされるとは」
 料理をする手が止まって、子どもをなだめるように頭を撫でた。
「気まぐれな幽霊だね」

 幽霊が嘘をつくものかどうか。
 同じアンデッドでも、吸血鬼やリッチならあり得ないことでもない。
 ダンジョン探索や要人の護衛などで、虚々実々のかけひきを繰り広げてきたものだ。
 仕方なく、オスタは秋の深まり行く中、寒さを増していく夜を張り込みに費やした。
 こうなると、タシュトレイの助けはありがたかった。
 代わりに、酒場を預かってくれるようになったのだ。
 常連の農民たちも、むさい男よりも若い娘に酌をしてもらったほうが楽しいに決まっている。
 だから客足が途絶えることはなかったし、いらぬ心配をしたカミさんたちまで見張りがてらやってくるようになったので、結果として店は繁盛した。
 おかげで、オスタは心置きなく「荒ぶる狩人(ワイルドハント)」を待ち受けることができたのだった。
 最初は、あの荒れ寺で出現を待ったが、会うことはできなかった。
 仕方なく、元のとおりマントに身を隠して畑の土の上に伏せていると、満月に照らされた道の向こうに、再び白い人馬と怪物の群れが現れた。
 作物を奪いながら、闇の中へと消えていく。
 後を追うと、馬はやはり川を渡っていった。
 その向こうに寺院が見えたところで、高らかに指笛が鳴った。
 近づいてみると、もはやその姿はない。
 馬は指笛と共に、自ら怪物たちと共に古い寺院の裏に消えたようだった。
 残されたのは、月下に佇む幽霊騎手シャイアだった。
「諦めて帰るかと思ったのに」
 呆れたような口調で、溜息までついてみせる。
 明らかな挑発だったが、オスタは乗せられることはなかった。
 ただ、淡々と語りかけるばかりである。
「お姉さん……マイストレアスはただ、怯えている。君のことも惜しんでいる。もう、許してやったらどうだ」

 シャイアは、ぷいとそっぽを向いた。
 横目でオスタを睨みつけながら、皮肉っぽく口を歪める。
「神様が許してくれたんならね」
 その答えにも、オスタは首を傾げた。
 ダンジョンや地下墓地(カタコンベ)などに潜って、アンデッドたちと戦ったことは数えきれないほどある。
 だが、どれほど知能の高いアンデッドでも、神の許しなどというものを口にしたことはない。
「幽霊が神の名を口にするとはな」
 それは、むしろ独り言に近かった。
 別にシャイアをからかったわけでもない。
 だが、それは幽霊の感情をいたく害したようであった。
「死んで間もないもんでね」
 そう言い捨てるが早いか、シャイアの姿が消えた。
 幽霊だから無理もない。
 ……というわけでもなかった。
 低く屈んで、オスタの視界から消えただけである。
 そこへ、腰に提げられていた剣が、抜き放たれて跳ね上がった。
 月明りを照り返した一瞬の閃光は、そのまま喉笛をえぐるかと思われた。
 だが、冷たく甲高い音と共に剣は弾かれて受け流され、シャイアの身体はつんのめって倒れた。
 立ち上がろうとすると、オスタの剣が鼻先につきつけられている。
「もうやめておけ……これは幽霊でも斬れる」
 シャイアは憎々しげな眼差しで見上げてくる。
 怒りに任せて襲いかかってくれば、本気で斬られると分かって耐えている顔だった。
 だが、オスタも抑え込んでいるものがあった。 
 手の中で、剣が暴れているのだ。
 それは、心の奥底に潜んでいる気持ちでもある。
 かつてダンジョン探索で見出した魔剣は、そういう気持ちを勝手に満たそうとする、厄介な代物だった。
 いかにシャイアを止めようとも、オスタは、どこかで反撃を望んでいた。 
 相手が襲いかかってくれば、自分に嘘をつかずに、心おきなく斬り殺すことができるからだ。
 それは、欲望に任せて昔の仲間を皆殺しにしかかった昔をごまかして生きるのとは違う。
 オスタの手が振り上げられる。
「やめろ!」 
 それは、魔剣に対する叫びでもあったし、自らへの哀願でもあった。
 剣がいうことを聞かないのであれば、自分の意志と力で止めてほしい。
 そのどちらもかなわなかった。
 オスタは、抑えられない殺戮への欲望を、相手のせいにして満たそうとしていた。
 魔剣は、それをかなえようとしているにすぎない。
 月光の下で、剣と剣との冷たい音が響き渡った。

 シャイアが剣を投げ捨てていた。
 魔剣もまた、地面に転がっている。
 澄んだ音を立てた剣は、共に冷たい月の光をその刃で照り返して輝いていた、
 オスタがつぶやいた。
「ありがとう……」
 それは、剣の魔力だけでなく、自らの中に潜んで離れない殺戮への渇望から解き放たれたことへの感謝であった。
 シャイアも、美しい唇をほころばせて微笑む。
 だが、その間に平穏が訪れたわけではなかった。
 白く輝く地面に、狩猟服がはらりと落ちた。
 オスタは後ずさる。
「やめろ……」
 だが、シャイアの歩みは止まらない。
 その服は、少しずつ脱ぎ捨てられていく。
 オスタは呻いた。
「やめないと……」
 大理石の彫刻を思わせるつややかな肌が、月の光を浴びてきらめく。
 すらりと伸びた華奢な脚。
 薄いが、ふっくらとした胸。 
 しなやかに伸びる腕。
 だが、その裸身はオスタの腕で掴まれて、地面に組み敷かれていた。
 その手元で、魔剣が嬉しげに震える。
 それを拒むかのように、オスタは喘いだ。
「お前は……望んではいまい……こんなことを……俺だって」
 苦しみに歪んだその顔を、シャイアはまっすぐに見つめる。
 その微笑は、崩れてはいない。
 突然、その腕がオスタの首に絡みついた。 
 胸を押し付けながら、しっとりと濡れた唇を重ねて喘ぎを止める。
 冷たい感触に息を呑むオスタの耳を、甘い囁きがくすぐった。
「これであなたは、私のもの……」
 オスタは絶叫しながら立ち上がった。
 乱暴に地面へ転がされた少女は、自ら晒した裸身の要所を両の手でそれぞれ隠しながら、うずくまった。
 意地の悪い目つきで尋ねる。
「幽霊にキスされたら、どうなるか知ってる?」
 もちろん、10年近く、旅から旅を繰り返して危険な仕事を果たしてきたオスタである。
 知らないわけがなかった。
 それだけに、敢えて答えはしない。
 代わりに、シャイアが告げた。
「明日の夜も来て……来なかったら、あなたは死ぬ」

5、

 次の朝、宿屋に帰ったオスタをタシュトレイは笑顔で迎えた。
「おかえりなさい……」
 だが、オスタは返事もしない。
 自分の部屋に引っ込んで、ベッドに潜り込んでしまった。
 閂をかけた扉の向こうから、タシュトレイの呼ぶ声が聞こえる。
「何があったの? ねえ、教えてよ!」
「出ていけ!」 
 喚くオスタに、タシュトレイは怒鳴り返してくる。
「入れてもくれないじゃない!」  
「どこにでも行けって言ってるんだよ!」
 それはもはや、悲鳴に近かった。
 タシュトレイが黙り込むと、シーツの中から聞こえるオスタの声も、少し落ち着いた。
「うれしかったよ、来てくれて。でも、一緒にいると、つらい」
「ボクは、別に……」
 その先は聞こえなかった。言おうか言うまいか、タシュトレイが迷っていることは分かった。
 オスタは、ベッドの上に起き上がる。
「頼みがある……昔の仲間に、坊主が何人かいたろう?」
 暗い目で、うつむき加減に話してはいるが、返ってくるタシュトレイの声は、むしろ明るかった。
「アンデッドをなんとかしたいってことだね?」
 オスタは頷いた。
「幽霊とやっちまったヤツは死ぬっていうだろう」
 あ、という声が、扉の向こうから聞こえた。
 それきり、返事はない。
 そこで初めて、オスタはうろたえた。
「なかった! 絶対になかった! そこまでは……」
 急に、甲高い笑い声が聞こえた。
 何か気に入らないことのあった子どもが、やけを起こして騒いでいるかのようなはしゃぎようだった。
 やがて、タシュトレイは、からかうように尋ねてきた。
「じゃあ、どこまで?」
 子どものように尖らせた口から、力の抜けた、情けない声が漏れる。
「分かるだろ、言わなくても」
 くつくつという笑い声が、扉の向こうから聞こえてきた。
 それはしばらく抑えられなかったようだが、いつの間にか苦しげな息遣いに変わっていた。
 笑いすぎたせいか、それとも、それが辛くなったからかは分からない。
 いずれにせよ、タシュトレイはどうにか声を鎮められたらしい。
「聞いてくるよ。いつまでに?」
 今日中に、と答えると、宿屋の扉をばたんと閉める音がした。
 外から、大声でわめくのが聞こえる。
「無理! ちょっと待ってもらってよ……どうせ気まぐれなんだから、その幽霊!」

 タシュトレイが去ると、オスタは朝食もそこそこに領主の屋敷へ向かった。
 すっかり怯え切っているのか、マイストレアスの顔には、初めて会った時のような自信に満ちた表情はなかった。
 報告を聞いて、力なくつぶやいた。
「気まぐれな……幽霊……いるんですね、そんなものが」
 いるともいないとも答えられなかった。
 オスタも、こんなアンデッドに関わるのは初めてだったのだ。
 ましてや、キスなど。
 さすがに、そこまでは話すことができなかった。
 代わりに、聞いてみる。
「昔から、そうでしたか? シャイア……妹さんは」
 女領主は、美しい眉を寄せて顔を背けた。
「会ったこともありません。私は、父が死んでから家令に呼び寄せられたのです。母は、父を嫌っていたようですから」
「どうしてだか、心当たりはありませんか?」 
 しばらく考えてから、マイストレアスは答えた。
「……私は、母がここを去ってから生まれました。その後に、妹は呼び寄せられたようです。よその女に産ませた継子は、母にいじめられる心配があったからでしょう」
 しっとりとした口調で経緯を語る声は、悔しげに震えていた。
 無理もないことだった。
 本来なら、豊かな土地の領主の娘として、裕福な子ども時代を送ることができたのだ。
 それなのに、妹のせいで家が傾きかかった頃になって呼びつけられ、その後始末をさせられている。
 だが、幽霊になったシャイアにしてみれば、生きていれば思いのままにできた領地を乗っ取った、憎むべき本妻の娘ということになる。
 冒険者として、欲望と憎悪の渦巻く戦いの中に生きてきた身からすると、どちらの気持ちもよく分かった。
 そこで、オスタの口ぶりは急に変わった。
「どんなもんですかねえ……妹さんと、じかに話してみたら」
 初めてこの屋敷に来たときの、宿屋のオヤジの口調だった。
 女領主は怪訝そうに眼を細めた。
「幽霊と?」
 背中を丸めたオスタは、ぶしつけに身を乗り出す。
 酒場に集う農民たちのように。
「腹割って話さないと、分かってもらえないこともあるんじゃねえですかねえ、お互い」
 それは、斬らなければ斬られる、冒険者の理屈とはかけ離れている。
 というより、むしろオスタは、そこから敢えて離れてみたくなったのだった。
 だが、マイストレアスは顔も身体も強張らせた。
「会えばきっと殺されます」
 シャイアは、そんなことは言っていなかった。
 思い込みが先に立っては、分かり合えるものも分かり合えない。
「では、そう伝えます」
 話を打ち切って立ち上がるオスタは、依頼を受けて働くときの冒険者に戻っていた。
 部屋を出ていこうとすると、後ろから、金切り声が響き渡った。
「あなたも行かないで!」
 それは、女領主の命令ではなかった。
 泣きじゃくりたいのを堪えて強がる、小さな女の子の叫び声に近い。
 だが、オスタは振り向きもしないで告げた。
「頼まれてやってることじゃないので」
 なぜ、こんなことをしているか、自分でも分からなかった。
 強いて言えば、シャイアたちに作物を荒らされている農民たちためだということになるだろう。
 だが、毎晩のように酒場へ集うことができるのだから、それほど困っているわけでもないだろう。
 ツケも、たぶん払ってもらえる。
 そこで思い出したのは、宿屋の壁に飾ってある魔剣のことだ。
 あれのせいで戦いに駆り立られているのではないかという気もするが、それがいちばん間違いないのかもしれない。
 店の看板代わりにしているのも、下手にしまい込むと、外に出たがるあまり、かえっていさかいを引き寄せるかもしれないからだった。
 それでも敢えて持って出ないのは、少しでもいざこざを避けたいからだ。
 いずれにせよ、出しゃばってくるときは、どこからともなく現れるのがオスタの魔剣なのだった。
「シャイアに会わないと、俺が死にます」
 事情は言いたくなかった。
 これまで魔剣が引き起こしてきたことを、思い出したくなかったのだ。
 そのまま出ていこうとしたが、身体が動かなかった。
 だが、魔剣の呪いとか、そういった類のものではない。
 豊かな胸が押し当てられた背中から、微かな泣き声が聞こえる。
 マイストレアスがすがりついていたのだった。
「私と母を放り出した憎い父でしたが……もういません。何もかも押し付けられて、辛かった。せっかく、頼れる人が見つかったのに」
「家令に任せればいい」
 囁き返すと、いっそう低い声が聞こえた。
「何を考えているか分からない男です」 
 そこで部屋の外から、当のマヨフが咳払いするのが聞こえた。
 慌てて飛びすさったマイストレアスは、居住まいを正して高らかに命じた。
「たとえ妹であろうと、幽霊であろうと、領地を荒らす者を野放しにはできません。この地に居を構える者として、直ちに退治なさい。褒美は取らせます!」

6、

 部屋を出ると、マヨフが恭しくお辞儀をした。
 その慇懃さに、オスタはかえってうろたえた。
「な……何にも、何にもしてません!」
 だが、マヨフは気にした様子もない。
 自分の用件を、一方的に告げた。
「思い出したことがあります。デナさまは、蛇がお嫌いでした。身体がすくんで、動けなくおなりでした」
 何の脈絡もない話をされても、どう答えていいか分からない。
 しかも、マイストレアスの話を聞いた後である。
 そんなことはおくびにも出さず、何を考えているか分からない家令マヨフに訪ねてみる。
「なぜ、そんなことを?」
 陰気な家令は、いつになくおどけた口調で答えてみせた。
「まあ、気まぐれですかな」
 そう言われると、余計に気になる。
 気まぐれが多すぎるのだ。
 幽霊の約束にしても。
 そこでオスタは、日の高いうちに寺院跡へ行ってみることにした。
 暗い中でたどった道を見る間にたどるのは、目印となるものがないので、容易ではない。
 だが、そこは冒険者として培った目がものを言った。
 微かに残った馬の足跡をたどると、馬が渡った川を見つけることができた。
 たとえあれがケルピーだったとしても、昼間に遭遇することはない。
 水の冷たさをこらえて越えた向こうで見つけた馬の足跡をたどると、見覚えのある寺院にたどりついた。
 馬の足跡をさらにたどると、少し離れたところに厩があった。
「ケルピーに厩はいらんだろう……」
 そこで寺院の中に入ってみると、祭壇の前に、天井が吹き抜けになった広間がある。
 まず目についたのは、何か大きなものを引きずった跡だった。
 隅にある階段を登ってみると、何か円い板が落ちている。
 拾ってみると、井戸のつるべをひっかける滑車のようなものだった。
 同じ階を探ってみると、大広間の吹き抜けを挟んだ反対側に、とぐろを巻いているものがある。
「あの蛇か……!」
 だとすれば、かなり大きい。
 家令のマヨフの言葉を思い出して、魔剣に手をかけそうになる。
 だが、荒事を好むはずの剣の柄は、うんともすんとも言わなかった。
 よく見れば、大蛇などではなく、長いロープである。
 オスタは、思わず笑いだした。
「そういうことか……」
 冒険者だったときも、こんなふうに笑っていたときはある。
 酒場でも笑っていたが、腹の底からではない。
 戦いの旅から足を洗ってからは、ひとりになると塞ぐときのほうが多かった。
 それが、こんなことで笑えるとは。
 こんなことなら、いちいち女領主の屋敷に報告に行かなくともよかったのだ。
 無駄な手間をかけたものだった。

 愉快な気持ちで宿屋へ帰ると、酒屋の戸口で農民たちゅが待っていた。
「遅いぞ」
「寒いところで待ってたんだからな」
「早く飲ませろや」
 口々に勝手なことを言いながら、戸口から差し込む夕暮れの光の中に飛び込んでいく。
 急いでジョッキに酒を注いで出すと、てんでにひと息で飲み干した。
 オスタも酒場のオヤジに戻って、無駄口を叩く。
「まだ日が出てるんじゃねえですかい、百姓は日が暮れるまで働くもんじゃありませんか」
 農民たちは怒りもしないで言い返す。
「飲み代で食ってるくせに、何言ってやがる」
「俺たちが来るまでに、酒や食い物の支度しとけ」
「あの姐ちゃんがいるだろうが」
 秋の日は深まっていくごとに、日も短くなっていく。
 すぐに、店の中もランプを灯さなくてはならなくなった。
 やがて、おかみさんたちもやってくる。
「何だい、今日で取り入れが終わったからって」
「明日は街へ早くから売り出しに行くんだよ」
「ここんとこ、向こうの財布の紐も固くなってるんだからね」
 その辺りは気になって、オスタは聞いてみた。
「そりゃ、いつからで?」
 女たちは、口々に吐き捨てる。
「死んだ領主の死んだ娘が、自分で食っちまった馬で走りまわるようになってからだよ」
「アタシらが売る前に、作物を誰かが先に売っちまってるんだよ」
「おかげでこっちのは安く買い叩かれるってわけさ」
 今度は、男たちが騒ぎだす。
「辛気臭い話すんじゃねえ」
「おい、あの姐ちゃんどこだ」
「さては逃げられたな」
 それを聞いた途端、おかみさんたちはぞろぞろと帰りだした。
「飲んだらさっさと帰んな」
「日の出前に街へ行くんだからね」
「オヤジさん、もう店閉めていいからね」
 残された農民たちは歓声を上げて、ジョッキで乾杯する。
 タシュトレイさえいなければ、店が閉まるまではお咎めなしということになったからだ。
 あとは主のオスタ次第だが、男たちには心ゆくまで飲んでもらうつもりだった。
 久しぶりに、何のわだかまりもなく大笑いしていたかった。
 生きていくとは、たかがこんなことなのだ。

 次の朝、目を覚まして店の掃除に出ると、タシュトレイが扉と窓を開け放って箒をかけていた。
「いつまで寝てるの! もうお昼近いよ」
 扉にカギをかけて寝たはずだが、そんなものを外すのは何でもないのだろう。
 叱り飛ばしておいてから、オスタの顔をしげしげと見る。
 急に口元をほころばせると、嬉しそうに笑った。
「よかった……いいことがあったんだね」
 ああ、と答えるだけにする。
 あったにはあったが、全てをタシュトレイには言えなかった。
 代わりに、首尾を尋ねる。
「どうだった?」
 タシュトレイは口を尖らせる。
「他に言い方ないの? たいへんだったんだからね……上に来て」
 客のための部屋は、タシュトレイのためにひとつ空けてある。
 そこのベッドに並んで腰掛けさせられそうになったが、オスタは拒んだ。
 仕方なく、自分ひとりで座ったタシュトレイは、ほとんど一昼夜かけて調べてきたことを告げた。
「この辺りの冒険者なんだけど、見つけた財宝を相棒に横取りされて死んだのがいるんだって」
「そいつ……蛇が苦手じゃなかったか?」
 オスタが確かめようとしたことを聞いて、タシュトレイは目を丸くした。
「何で知ってるの? ボクが調べに行くことなかったんじゃない?」
 詳しいことは説明しないで、オスタは次の報告を急かした。
「他には? どんな些細なことでもいい」
 タシュトレイは不審げに首を傾げながらも答えた。
「ああ、それから、街に来てた大道芸人の一座が消えたらしいよ。」
 どうでもいいことのようだが、それだけに引っかかるものがあった。
「何で、そんなことが?」
 もういい、とふてくされるタシュトレイをなだめる。
 やがて、頬を膨らませていたのを吐きだすかのような勢いで、その事情が語られた。
結構、大掛かりな芸だったらしいんだよね。日が暮れる頃にしかやらないんだけど、みんな家に帰ろうともしないで見入ってたみたいで。百発百中で的に矢を当てたり、で妖精が空飛んだり、路地から巨人が現れたり」
 ある程度、「荒ぶる狩人(ワイルドハント)」の正体が分かったような気がした。
 だが、念のため、確かめておかなければならないことがある。
「誰か、坊さんは……」
 タシュトレイは、口ごもりながら答えた。
「誰も……会ってくれなかった」
 その原因は、分かっていた。
 もう、オスタと関わろうとする冒険者はいないということだ。
 ならば、タシュトレイの本心はどうだろうか。
 心に浮かんだ不安は、まなざしとなって向けられたようだった。
 見つめ返したタシュトレイは、哀しげに微笑んだ。
 目を閉じると、伸びやかな身体をベッドの上に投げ出した。
「いいんだよ……ボクなら」
 オスタは肩を強張らせて、目を背けた。
「やめてくれ……俺は、おまえを……」
 微かな声が、震えながらそれを遮った。
「イヤだっただけだよ、あんなのが……」

7、
 
 パーティを組んで最後のダンジョンに潜ったときのことだった。
 その最下層には、智を司る天使が堕したという魔王の神殿があった。
 魔剣を手にして自身満々だったオスタは、そこに挑んだのだった。
「俺がこの剣を振るって、負けたことがあるか? 行こう。魔王を倒せば、名誉も富も思いのままだ!」
 パーティの仲間は止めた。
「格が違う。最高の位を極めた聖騎士だって、魔王を倒そうなどと考えはしない」
「お前だって若い身空で、もう充分稼いだろう? この辺りの国々で、『無傷のオスタ』を知らない者はない。」
「黙って座っていても、探索や護衛の依頼はひっきりなしに飛び込んでくる。まだ、何が足りないっていうんだ?」
 オスタは、なおも言い募った。
「分からない。だけど、俺の中で叫んでるものがあるんだ。ついてこられないなら、ひとりでも行く」
 魔剣はと見れば、オスタの興奮をうけて、高らかに歌っている。
 だが、本当にオスタひとりだけでダンジョンの最下層に挑んで、生きて帰れる保証はない。 
 富や名誉と命を天秤にかけて、身動きできなくなったものもいれば、逃げ帰る機会をうかがっている者もいる。
 それはオスタの目にも、見れば分かった。
 ひとりでもダンジョンに挑むと大見得を切りはしたが、やはり心のどこかに不安はある。
 そこで気になったのは、タシュトレイだった。
 平穏な生活に飽き足らず、危険な仕事に手を染めたときから、危険を共にしてきた仲間だった。
 彼女までもが去ったら、諦めてもいいのではないか。
 そんなことを考えたときだった。
 ぴったりと身に着いた革鎧をまとったタシュトレイが、声を上げた。
「欲しいものがあるから、こんなことやってるんじゃないの? 命が惜しいんなら、帰ればいい。でも、欲しいものがあるから、生きているんじゃない?」
 すると、僧侶のひとりが反論した。
「我々には欲しいものなどない。ただ、神の奇跡のためにこの生を捧げておる」
「じゃあ、それは死んでるのと同じね。まるでアンデッド。だから、何もほしくないのよ」
 このひとことは利いた。
 僧侶は真っ赤になると、何も言わなくなったのだ。

 パーティはそのままオスタに率いられて、魔王の棲むダンジョン最下層を目指した。  
 行く手を阻む無数の怪物を前に、オスタの心は躍り、振るう魔剣も、それまでの技を超えて冴えていった。
 最初は警戒していた仲間も、層を下るたびに勢いづいていく。
 魔法使いの放つ炎はモンスターの群れを焼き払い、武装した戦士たちは巨大な獣や、火を吐くトカゲを次々に倒していった。
 最初は反対していた僧侶も、見るからに邪悪なものどもを神の奇跡で滅ぼしていく快感に酔いしれていた。
 タシュトレイも、トラップを外し、隠し扉を見つけ、モンスターたちの不意を突き、ダンジョン制覇に意気揚々としていた。
「やろうと思えば、何でもできるもんだね」
 オスタはというと、次第に余裕を失っていた。
 事があまりにもうまく進み過ぎるのだ。
 だが、言いだした本人がそれを口にするわけにはいかない。 
 やがて、真っ黒な龍さえも打ち破ったパーティの前には、巨大な神殿が開けた。
 その奥にある玉座に鎮座していたのは、獣の頭に挟まれた人の顔を持つ巨人だった。
 毒蛇の尾をのたうち回らせて、炎の息を吐きながら、こんなことを告げた。
「よくぞ参った。選ばれし者のみが、ここに導かれる」
 これが魔王だ、と感じさせるだけの禍々しさと凶暴さが、そこにはあった。
 オスタが問い返す。
「どういうことだ。俺たちは、自力でここまで来た」
 魔王は愉快そうに笑った。
 洞窟が崩れるのではないかと思うほどに響き渡る哄笑に、あちこちから下卑た歓声がこだまする。
 それが収まるか収まらないかのうちに、魔王は告げた。
「では、その力を見せてもらおう。我が下僕たちをことごとく打ち倒した者どもよ、その頂点に立ってみせい!」
 己を失った戦士が次々に背後から襲いかかってくるのを、オスタは振り向きざまに残らず一刀両断した。
 仲間を斬り殺したのに呆然とする間もなく、呪文を唱える魔法使いの指先に電光が閃く。
 それが放たれる前に、魔剣が耳をつんざくような音を立てて絶叫した。
 目の前が真っ白になって、気がついたときには自らの雷に打たれたと思しき肉塊が黒焦げになって異臭を放っていた。
 あまりの惨劇に、僧侶は神への祈りも忘れて腰を抜かしている。

 そこで、タシュトレイの悲鳴が聞こえた。
 魔王の手で乱暴に掴まれた身体が見悶えするのを見上げたとき、ダンジョンに響き渡る声が選択を迫った。
「この女を犯すか? その男を殺すか?」
 オスタは迷わず、僧侶に斬りかかった。
 だが、その顔が恐怖に歪んだときだった。
 タシュトレイが叫んだ。
「オスタ! いいんだよ、ボクなら……」
 果物の皮でも剥くように、魔王の爪が革鎧を引き剥がす。
 魔王の掌の上に差し出されたタシュトレイの裸身の前で棒立ちになっていると、宙に浮かんだ魔剣が躍って、武装を全て切り刻んだ。
 恫喝の声が轟く。
「どちらも、お前が心の奥底で臨んだことだ。選んだことを為すがいい」
 身体の中の何かに突き動かされるまま、タシュトレイの身体の上に覆いかぶさったときだった。
 固く閉じた目から、一筋の涙がこぼれるのが見えた。
 どんな危険な目に遭っても、恐ろしい目にあっても、流したことのない涙だった。
 オスタは咆哮した。
 魔剣が、空を飛ぶ鳥や水の中を自由自在に泳ぎ回る魚のように悠々と目の前を滑っていくのが見えた。
 その柄を引っ掴むや、魔王の手首を斬り落とす。
 高らかな哄笑が聞こえた。
「面白い! 面白い! 面白い! 人間は実に面白い!」
 気が付くと、オスタは裸のまま、一糸まとわぬタシュトレイの身体を抱えて、荒野に転がった巨石の影にうずくまっていた。
 辺りには、パーティの戦士たちの真っ二つに斬られた死体と、かつて魔法使いだった消し炭の破片が転がっていた。
 ただひとり、生き残った僧侶は汚いものでも見るかのような一瞥をくれると、吐き捨てるような言葉を残して去っていった。
「お前のあるべきところはどこにもない、呪われてあれ」

9、

 いずれにせよ、僧侶たちが知恵も力も貸してくれない以上、オスタは死ぬしかない。
 不意うちとはいえ、キスを交わした幽霊のシャイアがデタラメを言っているのでない限り、である。
 タシュトレイと為すべきことを為してひと眠りしたオスタが、女領主の屋敷を訪れたときは、もう日が傾いていた。
 マイストレアスは、憂鬱な顔でカウチにもたれたまま、けだるげに尋ねた。
「市場に買い出しにでも行くつもりですか? 宿屋の主人」
 その腰に魔剣を携えることなく、オスタは告げた。
「信じてはもらえますまいが、あれは魔王の意を受けた剣……幽霊ひとり斬るのは何でもありません。ですが、そちらにもこちらにも、必ず悔いが残る」
 魔剣を振るえば、それだけあの魔王を喜ばせることになる。
 どれほど憎んでいたとしても、血を分けた妹を殺したことを忘れることはできない。
 オスタの過去はマイストレアスのあずかり知るところではない。
 一方で、シャイアについては、逃れられない宿命として、命ある限りつきまとってくる。
 だが、人知れず傾きかかっている領地を統べる女主人は、オスタが思っていたほど臆病ではなかった。
「シャイアをきちんと死なせてほしい」
 一転して真剣な顔つきで見据えられても、オスタは応じることができなかった。
「相手が幽霊であっても、きちんと向き合うべきだ」
 ましてや、生身の人間であれば。 
 オスタも、タシュトレイから逃げる気はなかった。
 だが、マイストレアスは聞かない。
 目を固く閉じてうつむくばかりだった。 
「シャイアは私を憎んでいるに決まっている」
 そう思っていたのは、オスタも同じだった。
 魔王の前で怯えるだけだった僧侶に悪評を流されたように、タシュトレイにも許してはもらえないと思っていた。
 だが、勝手に離れていったのはオスタのほうだったのだ。
 この女領主も、そうでないとは言い切れない。
 その両肩に手をかけて、オスタは励ました。
「その憎しみも受け止めてこそ、分かり合える」
 何日も眠っていないであろう、疲れきった肉体に抱き寄せられて、オスタはその先の言葉を失った。
 泣きじゃくるばかりの声を、抑えることもできない。
「できません! できません! 会ったこともない妹なのに、死んでから顔を合わせることなど!」
 これ以上は、何を言っても無駄だった。
 カウチの上で、しばらく抱かれるがままにしていると、その腕がするりとほどけた。
 静かな寝息をたてはじめたマイストレアスをそのままにして、部屋を出る。
 そこで目の前に現れたのは、家令のマヨフである。
 何のやましいこともないのに、オスタは再びうろたえた。
「な、何にもしてません、何にも、あ、お休みのようなので、何か温かい毛布などお召しになったほうが……」
 それを聞いているのかいないのか、じっと見つめ返していきたマヨフだったが、あさってのほうを向いてつぶやいた。
「顔を合わせずとも、隠れて見ていることはできましょうな」

 すっかり日が暮れた後のことである。
 あの打ち捨てられた寺院の扉を開け放った者を、カンテラの灯が照らし出した。
 その光に目を覆ったのは、シャイアである。
 扉から洩れる月の光を浴びて現れたのは、待ち受けていたオスタだった。
「お帰りなさいませ、亡き領主の死せるお姫様……今日お帰りとは、気まぐれにもほどがありますな」
 シャイアは、悲しげに微笑んで剣を引き抜いた。
「好きだって……言ったのに」
 後に続く「荒ぶる狩人(ワイルドハント)」たちも、甲高い威嚇の叫びを上げた。
 だが、それはすぐに悲鳴に変わった。
 頭上を滑るように飛ぶものがあったのだ。
 シャイアが呻く。
「ガーゴイルだと! どういうことだ!」
 すると、その後ろから返事をするものがあった。
「知らねえ! あっしじゃねえ!」
 すると突然、月の光が消え失せた。
 秋から冬の夜空を、何を恐れることもなく駆け抜けるはずの「荒ぶる狩人」たちは、そろってうろたえ騒いだ。
「誰だ! 戸を閉めやがったのは!」
「いや、誰も閉めちゃいねえ!」
「じゃあ、何で……」
 月の光を遮ったものの正体は、すぐにカンテラの光に照らし出された。
 それは、巨石の身体に魔力で魂を与えられたゴーレムだった。
 幽霊のシャイアが、荒ぶる狩人たちに向かって喚き散らす。
「なぜだ! これがなぜ動く!」
 その謎は、すぐに解けた。
 ゴーレムが開け放たれた扉の前から離れると、再び月の光が寺院の中へと滑り込んだ。
 そこへ、カンテラの光に照らされて、滑車つきのロープ伝いにするすると降りてきた者がある。
 しなやかな身体を誇るように、少しばかり背の低いシャイアを見下ろした。
「初めまして……さきほど、オスタの妻になりましたタシュトレイと申します」
 驚きと怒りとで吊り上がっシャイアの目は、前と後ろの光がなくとも見て取れるほどだった。
 オスタは、低い声でたしなめる。
「いい加減なこと言うんじゃない、若い娘の前で……」
 タシュトレイは、むっとして言い返した。
「ボクだって若いんだけど」
 ひと回りは違うだろが、とオスタが悪態をついたところで、月の光の中に、細い影が伸びた。
「ご無沙汰しております」
 杖を突いて現れたのは、代々の領主に仕える家令のマヨフだった。
 その隣に佇むゴーレムの影からは、まるで道化師のような格好のマイストレアスが現れる。
 呆れたように、感嘆交じりにため息をついた。
「よくもこんな仕掛けを……」
 オスタとシャイアが昼間から為すべく励んでいた、為すべきこととはこれだったのだ。
 そこで騒ぎだしたのは、「荒ぶる狩人」たちだった。
「触らんでくれ、ワシらの商売道具に、それ以上!」

「黙れ!」 
 金切り声で叫んだのはシャイアだった。
 剣を振りかざして襲いかかる先にいるのは、腹違いの姉のマイストレアスだった。
 今にも斬りかかろうとしたところで、その前に立ちはだかったのは家令のマヨフである。
 天秤棒を手に駆けだそうとしたオスタだったが、いらぬ心配だった。
 マヨフの杖は2本のバトンに分かれて、胸の前で交差する。
 そこで剣を受け止められたシャイアは、憎々しげに叫んだ。
「裏切ったか! マヨフ!」
 忠実な家令は、落ちついた、柔らかな口調で答えた。
「私は常に、リュー家の忠実な下僕でございます」
 言うなり、バトンの一方で絡め取られた剣は、もう一方で闇の中に弾き飛ばされた。
 マヨフもそれが精一杯だったのか、寺院の外へと逃げ出したシャイアには気付かなかった。
 月明りの下で指笛が吹き鳴らされると、蹄の音がする。
 ぞくっとするものを感じてオスタが駆け出してみると、馬上のシャイアは既に小さな影となって消えていた。
「やられた……」
 舌打ちしたところで、背後に再び蹄の音がする。
 振り向くと、シャイアが乗っていったはずの白馬にタシュトレイがまたがっていた。
 唖然としていると、急かしぎみの声で叱り飛ばされた。
「乗って! 説明は生きて帰ってから!」
 それは、相手が本当の魔物であるということだった。
 もっとも、シャイアの乗った馬らしきものは、山道には慣れていないようだった。
 だが、白馬を操るタシュトレイは、その身体にしがみつくオスタと共に、幾多の修羅場を駆け巡ってきた女である。
 川の手前で、追いつくことができた。
 シャイアを乗せているのがケルピーであることは、もう見当がついていた。
 何度となく白馬に乗って川を渡っているうちに、目をつけられたのだろう。
 その白馬がケルピーに並んだところで、オスタとタシュトレイは、荒れ寺に仕掛けをした旅芸人たちもかくやという離れ業をやってのけた。
 まず、タシュトレイがケルピーの背中から、シャイアを横抱きにして引き抜く。
 すかさず、オスタがそこへ滑り込んだ。
 ケルピーといえども、これに気付いたかどうか。
 聞いた話では、乗りこなして重労働にコキつかった者もあるという。
 もっとも、その仕返しは凄まじく、子々孫々まで祟るらしい。
 これを避けるには……殺すしかない! 
 そこでオスタが頭を振ったのは、ケルピーを憐れんだからではない。
 魔剣さえあれば、という考えを追い払おうとしたのだ。
 だが、遅かった。
 白馬のほうから差し出されたものを見て、オスタは呻いた。
「何でこれを……」
「いや、何で持って出なかったのかな、と」 
 怪訝そうにタシュトレイは答える。
 オスタを冒険の旅から遠ざける元凶となったのが、この魔剣だとは夢にも思わないのだから仕方がない。 
 ケルピーのほうは、その恐ろしさを感じ取ったのか、川の中に飛び込んで後ろ足を跳ね上げた。
 もんどりうって転げ落ちたオスタに食らいつこうと、歯を剥いて襲いかかる。
 その、長く伸ばした首が動きを止めた。
 秋も終わりがけの冷たい月の光が、魔剣の切っ先にきらめいている。
 まっすぐに繰り出された刃が、大きく開かれたケルピーの口の中から長い頭を貫いていたのだった。
 川岸で白馬の手綱を引いたタシュトレイの背中にしがみついて、シャイアは息を呑んでいる。
 ケルピーの口から魔剣を引き抜いたオスタは背中を向けて、荒い息をつきながら言い放った。
「よく見ろ、俺の姿が今のお前だ」
 だが、あの魔王の前で仲間を斬り、タシュトレイを組み敷いたときの形相は見えない。
 見る余裕もなかっただろう。
 道化師の姿のまま、何度も転んだのか足を血だらけにしながら、マイストレアスが山道を駆け下りてきた。
 白馬に追いすがると、シャイアをその背中から引きずり下ろして、強く抱きしめたのだった。

10、

 次の日の朝のことだった。
 育ってきた屋敷の、懐かしい部屋でシャイアは目を覚ましたという。
 タシュトレイを伴って屋敷を訪れた、丸腰のオスタに会いはしたが、ひと言も詫びることはなかった。
 幽霊ではなかったのだから、キスをしようがしまいが、その命に関わりはない。
 そのキスのことは誰も知らない当人同士の秘密だったから、仕方のないことではある。
 オスタもまた、つじつまの合わないことしか尋ねはしなかった。
 まず、キスに続いて最も振り回されたのは、そのきまぐれな約束である。
 これについては、オスタよりも、「荒ぶる狩人(ワイルドハント)」のことを心配していた。
「あいつらにも食い扶持はいるから」
 死んだと見せかけて人前から姿を消したシャイアは、街で評判の旅芸人たちを雇って、夜中に畑を荒らす怪物たちに仕立て上げていたのだった。
 作物を奪い取った作物は、次の日に白馬に積んで出ては街で売り払っていた。
 昼間に寺院へ忍び込んでも、厩に至るまで空だったのは無理もない。
 さらに、この辺りの作物は出来がいいので、高い値がついたという。
 それを、旅芸人たちが仕事の大変さに応じて報酬を求めるたび、謝礼に当てていたのだった。
 予告どおりに出現できなかったのは、こういうわけだったのである。
 では、なぜ、こんなことをしたのか。
 シャイアは、毅然として答えた。
「父の名はデナ。出奔したリュー家の息子……死んだ前の領主アブハインは父親の冒険者仲間だったの」
 デナは一介の冒険者として妻を迎え、娘のシャイアを得た。
 その後、あるダンジョンの探索に臨んだとき、大蛇が守る財宝が見つかったのだという。
 だが、デナは蛇を見ると、身体がすくんで動けなくなるのだった。
 アブハインはそれを目の当たりにしながら、見殺しにして財宝を持ち去ったのだった。
 デナの妻は夫を失った絶望のあまり、身体を弱らせて死んでしまった。
 残されたシャイアを引き取ったのは、その財宝を元手にリュー家を手に入れたアブハインだった。
「気がとがめたのかもしれないけど……父から奪い取った財産を食いつぶしてやったわけ。それなのに、娘のほうが戻ってきたのよ」

 では、なぜシャイアは、アブハインの白馬と共に、幽霊になりすますことができたのか。
 それは、家令のマヨフが屋敷の広い庭を、新しい杖をついて歩きながら語ってくれた。
「家系を買った冒険者が現れたときいたので、出奔したデナ様ではないと思ったのです。自由気ままなお方でしたが、物事は深くお考えの方でしたので。何の苦労もせずに、屋敷と領地を先祖から受け継ぎたくなかったのだろうと」
 ところが、領主に収まったのは赤の他人のアブハインだった。
 そのうえ、どこかで拾ってきた女の子を娘として育てはじめたのに、マヨフは更に失望した。
 ところが、成長した娘がデナに似てきたので、期待を寄せないではいられなくなった。
 それなのに、シャイアはリュー家の後継者にふさわしくない乱行を繰り返す。
「たまらなくなって、追い出されるのを覚悟でお諫めしました。そこで、初めて聞かされたのです……デナさまの忘れ形見であると」
 そこまで話して、マヨフは伏せた眼を拭った。
「死んだことにしたのは、家に縛られたくないとおっしゃったからです。まるで、お若い頃のデナさまを見ているようでした」
 アブハインの白馬もシャイアになついていたので、屠殺されたことにして屋敷の外に出した。
「お血筋の方が生きておられるうちは、偽物にお留守を預けるくらい、何でもないと思うことにしたのです。その先は、たぶん、私のあずかり知らぬことですから……」
 ところが、アブハインの死後に娘のマイストレアスがやってきたのを知ったシャイアは、策略を巡らして領地経営を妨げ、追い出そうと謀った。
「そこで考えたのです。このままシャイア様にリュー家を継がせることができないかと」
 ちょうど、そこに現れたのが冒険者カ行を退いた「無傷のオスタ」だった。
 オスタに「荒ぶる狩人」の正体と共にアブハインの過去を暴かせれば、マイストレアスはこのフィントゥアの地を去るだろう。
 そこでマヨフは、宿屋の前の主人にシャイアが率いる「荒ぶる狩人」を見せて怯えさせ、分割払いの代金を放り出して逃げ出すよう仕向けたのである。
「思ったとおりに宿屋を買い取ってくださり、まことにありがとうございました」
 マヨフは、慇懃無礼に頭を下げたものである。

 オスタが領主の部屋を尋ねると、マイストレアスはもう、荷物をまとめていた。
「やっと幸せになれたと思ったのに」
 さっぱりとした声を残して、今にも出ていこうとする。 
 アブハインがリュー家に収まっても、その妻は招きに応じなかった。
 その手元に留め置かれた娘のマイストレアスは、ずっと満たされない思いを抱えていたという。
「本当なら私がお姫様なのに、どこの馬の骨かもわからない娘を、と思っていたら……こういうことだったのね。生まれつき、何もかも持っているシャイアが憎いわ」
 それが女領主としての、最後のひと言になるはずだった。
 ところが、そこで口を挟んだ者がある。
「だったら、私が出ていく」
 シャイアだった。
 部屋の中に踏み込んでくると、マイストレイアをしっかりと抱きしめる。
「本当は分かってるのよ、マヨフも……私も父と同じ。領主なんて、ガラじゃないのよ」
 マイストレイアも、その耳元で囁く。
「そういうところが嫌なのよ。こっちが欲しくて仕方がないものを、ポンと投げ出されたら、惨めじゃない?」
 シャイアも負けてはいない。
「気まぐれだから、私……お礼ってことにしたくなっただけ」
「何もあげた覚えがないんだけど……」
 シャイアを抱きしめながら眉を寄せると、すぐに答えが返ってきた。
「今、してくれてること……あのときも。ずっと昔、父と母が、してくれたこと」

 かつて姉妹であった親友同士を残して、オスタはタシュトレイと共に領主の屋敷を出た。
 宿屋に戻ると、荷物をまとめはじめる。
 タシュトレイも手伝いながら、不機嫌そうに尋ねた。
「宿屋の主人はやめたの?」
 オスタは、カウンターの壁に掛けた魔剣に目を遣った。
「こんな物騒なもんに取りつかれた宿屋に誰が泊まる?」
 しばらく手を止めて考えていたタシュトレイは、唐突に言った。
「一緒に住まない? 平気だよ……ボクなら」
 まとめ終わった荷物を担いだオスタは、最後に魔剣を手に取る。
「また、どこかで会おう」
 タシュトレイは、寂しげに笑った。
「約束だよ」
 戸口で振り向きながら、オスタはおどけてみせる。
「さあ……守れるかどうか。俺も気まぐれだからな、あの幽霊並みに」
 そこで放り出されたカギで、タシュトレイは主人のいなくなった宿屋の扉を閉ざす。
 それを領主の屋敷に返した後、彼女もまた、あてどもない旅に出るのだろう。
 残された宿屋には、次の主人がやってくるまで、こんな張り紙がしてあるはずだ。

 ……何もかもきれいに片付いておりますので、どうぞお引き受けください。
 ……あなたを、待っています。

 長い冬がやってくるだろうが、人はきっと集まってくる。
 今度こそ、ここは元の取れる宿屋になるはずだ。
兵藤晴佳

2023年12月31日 23時51分24秒 公開
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■作者からのメッセージ
気まぐれな幽霊

◆キャッチコピー:貧乳幽霊は嘘をつくか?
◆作者コメント:オーソドックスな(ベタな)ファンタジー設定のサスペンスです。

2024年01月21日 17時30分14秒
作者レス
2024年01月20日 22時29分56秒
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Re: 2024年01月21日 17時14分51秒
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0点
Re: 2024年01月21日 15時58分26秒
2024年01月05日 15時03分08秒
Re: 2024年01月21日 15時45分23秒
2024年01月05日 08時15分07秒
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Re: 2024年01月21日 15時17分09秒
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