【長編】物語を綴る理由 |
Rev.02 枚数: 101 枚( 40,003 文字) |
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1 僕が文芸部への入部を決めたのは比較的本が好きで、創作に興味があったから、なんていうありがちなことだけが理由じゃない。というより、もっとしょうもなくありがちなことが一番の理由だった。 好きな子がいて、その子のことを知りたかった、というのがそれである。 文芸部、入ろうかなと思ってるんだけど、と、緊張を押し隠し、声をかけた僕に向かって、同じクラスの相田真記(あいだ まき)は 「えぇ?」 とか言ってきた。 不人気部活にとって、入部希望者は何を置いても歓迎するもの、と思っていた。手を上げて喜ぶ、なんてことは相田のキャラクターから期待はしていなかったけど、せめて戸惑いつつも喜ぶ、くらいはしてくれると思っていたのだけど、実際僕に向けられたのは何でお前んなこと考えたんだよ、という迷惑そーな気持ちが濃く浮かんだ、えぇ? だった。 「何で?」 「いや、ほら、僕、本好きだし、実は小説書くのも興味あったし」 「もう十月だよ?」 「まあその、暇を持て余してたからさ……」 「小説書くんなら一人でもできるじゃん」 「いや一緒に書く仲間を持ちたかったり経験者からアドバイスもらいたかったりするし……相田だって文芸部入ってるだろ」 「まあそうだけどさ」 「何だよ新入部員お断りなのかよ」 「いやハル先輩は喜ぶだろうけどさ……」 うーん、と、しばらく唸りつつ天井を見ていた相田だったけど、「まあ良いか」と、言う。 「OK、部長に話すわ」 「ちょっと待て、まあ良いか、ってなんだよまあ良いか、って」 そう言うものの、相田はさっきまでの表情を仕舞い、いつもの人を食ったような顔を僕に向けてきた。 「別に、深い意味はないよ」 「いや明らかに何かあるだろ」 「本当にないんだから何も言いようがありませんね」 これ以上問い詰めても疲れるだけだと悟り、僕はそれ以上問うのをやめ、ただ小さく、ため息を吐いた。 「無駄なことをしないのは吾妻の美点の一つだね」 「欠片も思ってないこと言われても全然嬉しくないよ」 「バレた?」 「バレバレだよ」 そう言う僕を笑ってから相田は「放課後一緒に行こうか」と言い、そこで休憩時間終了を告げるチャイムがタイミングよく鳴った。相田はほら戻れ、と言わんばかりに僕に手を振ってきて、僕は行き場を失った文句を飲み込んで席に戻り、日直の号令に従って立ち上がり、礼をし、授業に向かう。 眠気を誘うばかりの中年教師の古文を流し聞きしながら、僕は斜め前の相田を見た。 古文の教科書を目隠しに、文庫本を読みふける相田はさっきの僕とのやり取りはすっかり忘れているように見えた。マイペースで、人の扱いが非常に雑。そんなことはさっきのやり取りを経るまでもなく、これまでの短い付き合いでもよく分かっているつもりだった。 なのにどうして好きになったのか、と僕は思った。 「ホント? 嬉しい、ありがとう」 相田に連れられて訪れた文芸部室で、入部したいんですが、と伝えると、部長であり唯一の上級生という日下春(くさか はる)先輩はそう言って、ふんわりした顔一面に笑顔を咲かせた。 初対面でしどろもどろな挨拶をした僕に対しても、ハル先輩は心底嬉しそうな顔をして迎え入れてくれた。美人に温かく接せられて嬉しくない人間はおらず、にへら、とした笑みを返した僕だったけど、そのだらしない顔を相田が蔑むように見た気がしたので慌てて顔を引き締めた。 「これからよろしくお願いします」 「そんなかしこまらなくていいよー。えーっと」 「吾妻です、吾妻颯士(あづま そうし)」 「じゃあソーシ君で良いかな? 私のこともハルで良いからね」 「はい、ハル先輩」 「いやぁ、今年は良い後輩がたくさん入ってきてくれて私は嬉しいよ」 と、後光が射すような笑みで言った先輩の横で、相田はニヒルに小さく笑った。 「いや、吾妻は根暗で話も面白くないんでその評価は適切じゃないですよ」 「お前、今日いちいち酷くないか」 「別にーただ事実を言っただけですー」 「そろそろ怒るぞ」 「あ、先輩聞きました? これがこいつの本性です。ヤバい奴です。退部させましょう退部」 「お前……」 いつもより容赦ない相田のイジりに、若干腹が立ってきた僕の横で、ハル先輩はわざとらしく目元を拭った。 「人気のあんまりないことに定評があった文芸部で夫婦漫才が見れて、私は嬉しいよぅ」 「夫婦じゃないですから」 すかさず突っ込んだ相田に、ハル先輩は「いやいや照れなくて良いから~」と笑いながら言った。 「いやマジで違いますから」 と、マジで心外そうに相田が言い、僕は結構傷ついた。 「ソーシくん、ほんとに入ってきてくれてありがとう。マキちゃんがこんなにイキイキしてるのが見れて、私は嬉しいよ」 「してないですから……」 と、げんなりした顔で言う相田。 「文芸部は、この三人だけなんですか?」 このまま話していると、また変なところで傷つきそうだったので、僕は話題を変えた。 「いや、あと二人いるんだけどね、いつも来てはくれないんだ。高橋くんと、内原ユイちゃん」 「そういや内原、まだ原稿上げてないんですか」 そう言う相田に、ハル先輩は少し困ったような笑みを浮かべた。 「うん、まだ」 「締め切り大分前ですよね」 そう言った相田に、ハル先輩はふふっ、と遠い目をして笑った。 「そう、そろそろマジでやばいんだよなぁ……」 「締め切りって何ですか?」 「文化祭で文芸誌を頒布するんだよ」 聞けば、来週の土曜日に開催する高校の文化祭で、文芸部は文芸誌を配ることになっているらしい。詩や小説、エッセイ等々、部員の作品を載せるのだけど、締め切りがとっくに過ぎてるにも関わらず、内原唯(うちはら ゆい)という部員の作品がまだ上がってきていないのだそうだ。 「印刷と製本もそうだけど、作品の割り付けだったり誤字脱字のチェックとかもしなきゃなんないからそろそろ上がってこないと不味いんだよねー……」 「もう内原抜きで仕上げかかっちゃいませんか」 「うーん、最悪そうだけど、もうちょっと待ってみようよ。ユイちゃんも書くって言ってるんだし」 「どうですかね、内原、適当ですから」 「私はユイちゃん信じるよ。せっかく入ってくれた仲間なんだし」 そう言うハル先輩の横顔は、どこまでも優しく、会ってさほど経っていないのに、僕は彼女の人の好さに好感を覚えた。 悪気なく本音を言ってしまう相田が、部活なんていうものを続けていられるのも、この先輩の人格あってこそのことなのかもしれないな、なんてことを思う僕の前で、ハル先輩は、あ、と言って手を叩いた。 「そうだソーシくん、もしかしてもう小説書いてたりする?」 思いがけない言葉に、反応が少し遅れる。 「まあ書いてますけど」 「もし良かったら文芸誌に載せてみない?」 「え」 ハル先輩はさっきと変わらぬ笑みのまま、戸惑う僕の肩をぽんぽん、と叩いた。 「文芸誌の発行は年に一回で、高校生活でも三回しかないんだ。そして不特定多数の人に見てもらうっていうのは特殊な緊張感があって創作力を上げるにはまたとない機会。作品が多い方が誌面も賑わうし」 「いやいやいや作品って言っても高校受験の息抜きに書いた適当なやつですし」 「出来の良し悪しよりまずは人に見て貰うことが大事じゃない? ネットとかに上げたりとかは……」 「してないですけど」 「じゃあ尚更、載せた方が良いよ。せっかく書いた作品も、人に読まれないとかわいそうだよ?」 「そうかもしれないですけど、僕の作品なんて……」 「そうですよハル先輩、こんな時期に入部してくる奴の作品のクオリティなんてたかが知れてますし、文芸誌の格を落とすだけですよ」 「マキちゃん、そんなこと言っちゃダメ」 相変わらず容赦ない相田を、ハル先輩がすかさずたしなめる。相田はちょっとしょげたようだった。ざまみろ。 「繰り返しになるけど、文芸誌の発行は年に一回なんだ。せっかくの機会を逃すのはもったいないと思うよ」 にっこり笑うハル先輩は僕の肩に手を置いたまま、言葉を続けた。 「だから、ね?」 「そ、そうですね」 そう先輩に応じた僕の顔は多分、かなりだらしない顔になっていたと思う。 どういう訳か、相田はそんな僕をキツい視線で睨み付けていた。 * さすがに何のチェックも貰わないまま作品を載せるのも気が引けるので、二人に作品を見て貰い、その上で文芸誌に載せるかどうか決めることになった。 ハル先輩は誌面が賑わうことの方が重要らしく、別に良いんじゃない? っていう感じだった。入部の意思を伝えた日は月曜日、文化祭は翌週土曜でスケジュールが結構厳しいからチェックを省いてしまおう、ということだったかもしれないけど、やっぱり人の目を経てないものを文芸誌に載せるのは気が引けるんです、とハル先輩には言っていた。 ただ、見てもらいたい理由はそれだけじゃない、というか一番の理由は他にあった。 家に帰った僕は、家族兼用のデスクトップPCを立ち上げ、作品が入ったUSBメモリを差し込む。 久しぶりに僕の初作品、〝アクマノハナシ〟を読み返す。なろう系にありがちな転生や追放といった要素を廃した独自の世界観、陰鬱だけど重厚なストーリー展開は、我ながら良いものだった。 読み直して気付いた誤字を修正しながら、僕の脳内には既に、明日部室へ行ったときに待ってるであろう二人のリアクションが繰り広げられていた。ハル先輩が神々しい笑みを浮かべ、凄いよソーシ君、超大型新人だよーと言い、その横で相田が不服そうな顔でぼそっと、ふん、凄いじゃん、とか言う……頭の中で想像を花開かせ、胸を熱くしながら、僕は二人のメルアド宛にワードファイル付きのメールを送信した。 そう、僕の自信作を読んで二人を驚嘆させたい、という邪な意図が、二人に読んで貰う一番の理由だった。 さて、多少なりとも創作をしたことがある人なら想像がつくと思うけれど、予想は妄想に終わり、僕はトラウマを負うことになった。 翌朝。教室に入った僕は席についた相田を見つけると、おはよう、と挨拶をした。 相田は少し憐れむような目で僕を見たあと、おはよう、と小さく返してきた。この時点でも、僕はまだ相田の失望に気付かず、「どうだった?」と暢気に尋ねた。 「感想は部室で言うわ」 「そっか」 「あの、言っとくけど、私、結構容赦ないからね?」 「そうだろうな、とは思ってるから」 あくまでも暢気な僕に、相田は呆れたような顔になる。そしてそれ以上は何も言わず、文庫本に向かった相田は、放課後になり、部室に入り、僕の作品を読んだ感想を言う段になって、開口一番、こう言った。 「端的に言って酷かった」 思いがけない言葉に、ちょっと放心する。 何十秒かの沈黙の後、僕はなんとか声を出す。 「ど、どの辺が」 そんな僕を憐れむような顔で見つつ、相田真記は言葉を続けた。 「どの辺、っていうと逆に難しい。言っちゃうと、全部」 「全部……」 「書き出しから、構成、キャラクター、文章、何もかも」 そして、相田の形の良い小振りな唇から辛辣な、しかし的確だろう指摘が次々と出てきた。 曰く、今のご時世に直球ファンタジーで勝負したのは好感持てるし、設定も面白かったけど、評価できるのはそこだけ。 曰く、最初の五ページで延々世界観語るのは構成として下の下の下だし、文章も回りくどいわ固いわで最高に読みづらかった、正直最初の一ページで読む気無くした、などなどなどなど。 良いと思っていた自作をこき下ろされるダメージというのは思った以上に大きく、僕の頭は途中から相田の言葉の理解を止めた。 「マキちゃん、ストップ、ストップ」 相田のダメ出しを延々と受け続ける僕があんまりにも哀れだったのか、ハル先輩が手を上げながらそう言った。 「あの、指摘するのは良いんだけどもうちょっと人を思いやった言葉遣いをすべきだと先輩思うよ?」 「容赦なくやってOK、って吾妻自身が言ったんで」 「いや、マキちゃんが想像以上に容赦なくて吾妻くん泣く暇もない状態になっちゃってると思う」 「そうなの?」 「そうかもしれない」 自分でも情けないくらいに、僕は素直にそう言った。 「じゃあごめん、言い過ぎたかも」 と相田は言い、僕はサンドバック状態から解放される。 空気が悪くならないようにと作り笑いを浮かべる。何か言おうと思うけど変なことを言ってしまいそうで、結局僕は黙ったまま、じっと部室のテーブルを見ていた。 「マキちゃんはそう見えたかもしれないけど、私は個性的で良いと思ったよ? 悪魔と契約して魔法を得る、代償を払うっていうのはよくあるけどさ、それを中世世界でやるのは逆に今まであんまりなかったと思うんだ。そこは長所だと思うよ」 そんな僕を見かねてか、ハル先輩は明るい声でそう言った。 先輩の心遣いにちょっと気分が上向いたものの、すぐにあることに気がついて僕の気分はまた直ぐに落ち込む。 個性的で良い、とは言ったものの、先輩は面白いとは言っていない。つまりは、先輩から見ても僕の作品はつまらなかったということだ……かなりネガティブな考えだったけど、僕にはそれが否定しようがない厳然たる事実に思えてしまった。 ありがとうございます、とか細く言った僕にハル先輩はますます心配そうな顔になり、一方の相田は、あくまで事務的な表情のままだった。 「傷つけたらごめん、でも吾妻が小説を上手くなりたいなら、言っておくべきだと思ったから」 「いや、いいよ、ありがとう」 声に涙が混じらないようにするのが精一杯だった。 自分のナイーブさに、情けなさがさらにつのる。ちょっと限界だった。 「読んでくれて、ありがとうございました。文芸誌に載せるのは、やめときます」 と、僕は二人と視線を合わせないまま言う。 「このままのクオリティで文芸誌に載せるのも気が進まないし、直すのも間に合わないでしょうし」 「あ、うん。そっか……残念だけど仕方ないね」 「はい。あとこれから用事あるのでこれで失礼します」 「うん、またね」 バッグを取り、テーブルから立ち上がる。バッグと自分の体をひどく重く感じながら僕は文芸部の部室を出る。 「わっ」 出たところで、右の方から来た女子とぶつかりそうになった。 鼻に入り込んでくるような、柑橘系の香水の匂いが印象的だった。ただ、情けないものになってるだろう自分の顔を誰かに見せるのが嫌で、僕は視線も合わせず、「ごめん」とだけ言ってその子の横を通りすぎた。 * ハル先輩に言った用事なんてものはもちろんなく、僕は真っ直ぐに家に帰る。自転車から降り、敗残兵のような足取りで家の玄関を開けた僕は、大きくため息をついた。母さんも父親も帰っていなかった。電気ケトルでお湯を沸かし、紅茶を淹れ、カバンとカップを持って自分の部屋に上がった僕は、椅子に腰かけ、お茶を飲んだ。 吾妻が小説を上手くなりたいなら、言っておくべきだと思ったから。 ふと思い返された、相田のその言葉が僕の頭を刺してきた。 それは言葉どおりに、あくまで一人の小説書きとしての意見だと、今の僕には感じられなかった。 相田との関係を深めたい、というのが、入部した一番の理由だった。小説に興味がある、創作仲間が欲しい、なんていう、入部に際して相田に言ったこともゼロではないけどほとんど嘘だ。 相田の言葉は、そんな僕の下心を見透かした上で、なじる意図が含まれていたんじゃないか、と思う。隠しているつもりの僕の好意は既に彼女にバレていて、その上で否定されてるんじゃないだろうか、とネガティブな思考はどんどん巡り、回る。 クラスで話してきて、そこまで彼女に嫌われている自覚はなかった。それとも、友達なら良いけど恋愛対象としてはダメなんだろうか。どの辺が彼女に嫌われたんだろうか、髪型とか清潔感とか、それとも根暗なキャラクターだろうか……心当たりがありすぎて、僕は沼のようなところにずぶずぶと沈んでいった。 ついでに、昨日の夜、嬉々として二人のメルアドに作品のファイルを送ったこと、暢気に作品の感想を相田に尋ねた今朝の自分への恥の意識も加わって憂鬱な気分に窒息しそうになったとき、スマホが見当たらないことに気がついた。 ふとズボンのポケットに手を伸ばしたところ、なかった。上着の内ポケット、鞄。一通り探ったものの、僕のスマホは見当たらなかった。 マジかよ、と呟きつつ、自分の今日の行動を思い返す……相田と教室を出たとき、時間を確認するためにスマホを見た。そのあと、相田からの容赦ない指摘に動揺してポケットの中からスマホを取り出したような記憶もある。つまり、置き忘れたとしたら十中八九、部室だろう。 部屋の壁時計を見るとまだ五時二〇分を過ぎたくらいだった。二人がいつもどのくらいまで部室にいるのかは分からないけど、運動部と同じなら六時くらいまでいるはずだ。 自作への批評でテンションを下げまくり、用事があるとか言って帰っておきながら、のこのこ戻るのは恥を三重くらい上塗りする気がした。そのまま置きっぱなしにしようか、とも思ったものの、万一別のところに落としていたら良くないよな、とも思い、僕は結局、学校へ行くことにした。 学校に着いた頃には六時過ぎになっていて、運動部の連中も帰り始めていた。僕はわいわいと話しながら校門をくぐる生徒の中に、ハル先輩や相田の姿がいないかを伺いつつ、そっと学校へ入った。 文芸部室は他の文化系部活と同じく、理系授業で使う教室や図書室、音楽室といった特殊教室が詰まった西棟、その三階にある。そろそろと自転車を押しながら西棟を伺うと、文芸部室の灯は消えていた。 西棟の玄関はまだ施錠されておらず、楽器を担いだ吹奏楽部の生徒が何人かいた。こんな時間に校舎へ入る僕を怪訝な顔で見てくる彼女らの横を通り、階段を登って三階へ向かう。 三階に着くと、そこは既に廊下の明かりも落とされていた。耳をすませても廊下に人気はなく、どうやら相田も先輩も帰っているらしい。 僕は部室へ向かう。人気がなかったはずの部室から物音がしたのは、部室のドアまであと二、三歩のところだった。 部室の電気はやっぱり消えていて、不審者? というのがまず真っ先に頭に浮かんだことだったけれど、あれだけ生徒がいる中を不審者が入り込むだろうかとも思い、じゃあやっぱり先輩か相田がまだいるのだろうか。いるのだとしたらどうしてこそこそしているのか、とも思った。 やっぱり帰ろうか、と思い、僕は廊下の真ん中で動きを止め、耳を澄ます。がたがた、と椅子か机が鳴る音、そして密やかな囁き声が、僕の耳に入り込んできた。結局、部室のドアに辿り着き、それをそっと、音を立てないように開けたのは、好奇心が不安を上回ったからだった。 部室の中にいたのは相田真記と、見知らぬ女子だった。 部室の灯りは消え、照らすのは外から差し込む外灯の光だけだった。でも中にいる相田ともう一人を照らすには十分すぎた。 相田は部室の真ん中に二つ並べられた長テーブルに腰と両手を乗せていた。そんな彼女に、もう一人の女子はのしかかり、キスをしていた。 その女子は相田がテーブルについた両手を包むように握り、一心不乱に彼女の唇をついばんでいた。興奮した女子の荒い息づかい、キスをする水音が、静まりかえった部室を侵していて、そんな二人をドアの隙間から覗く僕は真横から見る形になった。 何だこれ、という混乱が一刹那、僕の頭を一杯にした。 髪の長い見知らぬ女子は、一生懸命に相田の唇をついばんでいた。相田の下唇、上唇を自分の唇で順々に包んだかと思えば、舌で全体を撫でる。目を閉じたその女子の整った顔のラインが外灯で照らされる。対する相田は、そんな女子の懸命の奉仕をただ眺めている、そんな風に見えた。僕の作品を指摘してきたときと同じに見える、至極事務的な表情のまま、絡みつくその女子をじっと見つめていた。 嫌がっているのか、とも思ったものの、ふと相田が目を閉じた。そしてため息をつくように、小振りな唇が開く。そこを相手の女子は見逃さなかった。 女子は、ほとんど頭突きのような勢いで唇を押しつけた。相田の苦しげな呻き声のあとに、より強い水音が部室に響く。びじゃびじゃびじゃ、という強い音を聞きながら、僕は自分がどうしようもなく勃起していることに気付く。 「待って」 相田がそう言う。両手をテーブルから離し、もたれていた体を起こし、のしかかってきた女子を押し返しながら、相田は苦しそうな声でそう言った。 「やり過ぎだよ、内原」 その言葉とは裏腹に、相田の声は溶けていた。さっきの部活で容赦なく作品の粗を指摘したときはおろか、普段僕と話して笑ったときとすら違うその声がショックで、僕は相田が口にした名前が締め切りを破ったという部員だということに気付きもしなかった。 「やり過ぎって?」 荒く息を吐きながら、内原と呼ばれた女子が言う。 「練習っていう話だったでしょ。もうこれは」 「まだ練習だよ」 「だからそういうレベルじゃない」 「練習っていうことで良いじゃん」 そして内原は右手を相田のスカートに差し入れた。 「あ」 と相田が言ったところで、僕は部室のドアを開けた。 自分でも自分が何をしたのか、よく分からなかった。 ただ泣きそうな心持ちで、僕はバネ仕掛けの人形のように僕を見てきた二人の視線を受け止める。 息は情けないくらいに荒く、ズボンはさらに情けないアレが押し上げていた。 お揃いの驚愕の表情で僕を見る二人に、僕はか細い声で言う。 「スマホ、忘れて、取りに来たんだ」 そう言っても、二人の表情は変わらない。驚いた顔のまま、相田が右手でテーブルの隅を指さす。そこに置いたスマホを僕は取り、部室から出て行く。 二人の視線が背中に刺さるのを感じつつ、僕はドアを締め、廊下を駆ける。 そうする必要は無いのに、僕は飛ぶような勢いで廊下を走り、階段を下りた。 2 相田のことは、この四月に高校に入学し、同じクラスになった時点では特段意識しなかった。 意識するようになったのは、もう七月に入ろうかという頃で、そのとき僕は、人類滅亡まで繰り返されるだろうSNS上のいさかいを眺めていた。ふと顔を上げると、教室の端っこで一人の女子が文庫本を読んでいた。 休み時間の教室では数人で集まって話したり、机にべったりと体をもたれて一人スマホをいじったりしてるかで、クラスメイトは大体二分されてた。そんな中、椅子の背にもたれ、じっと文庫本に視線を落とすその姿は、浮いてる、とも言えた。 僕なんかがそんなことをすれば、周りから奇異な視線で見られないかが心配で、本の内容に意識を集中することなんてできないだろう。ただ、その子はただじっと、本の中の世界に身を浸し、それを理解し、静かに感情を動かされている、そういう風に見えた。その様はかっこよく、一枚の絵のようですらあった。少し茶っぽいショートヘアに、白い肌、通った鼻梁に、三白眼気味の瞳を見ていると、心臓が微かに跳ねた。 相田真記をそれまでも見てきたし、挨拶やちょっとした会話も何度も交わしてきた。でもあの日、相田に対して抱いた感情を名付けるとしたら、一目惚れが一番近いように思う。 僕はスマホをポケットにしまい、相田の方へ歩く。 「何読んでるの?」 カバーのかかった文庫本から目を上げた相田は、ちょっと疎ましそうに僕を見る。そんな質問を投げてくる奴はたくさんいて、うんざりしてる、そんな顔だった。 「言う必要ある?」 少し険のこもった声を相田は返してくる。その返しは酷くないか、とも思わないでもなかったけど、そう答える気持ちも少し分かる気がした。自分が何を読んでるかは結構プライベートな事柄で、聞かれたら僕も少しためらうかもしれない。 「別に、言いたくなければ良いよ。僕も本読むから、何となく気になったんだ」 ふうん、と相田は相づちを打つ。そのまま視線を本に戻すと思いきや、相田は開いたままの文庫本を机に置き、僕を見てきた。 「ごめん、名前なんだっけ」 ……軽くショックを受けたものの、まあそんなもんか、と思い直す。 「二番の吾妻だよ、君のすぐ後の」 「ごめん、人の名前覚えるのは苦手なんだ」 そう言い、相田は少しだけ笑う。 「吾妻君はどんな本読むの?」 「やっぱ推理モノかな、宮部みゆきとか。あとは時代小説も好きなんだ」 「渋くね?」 「結構面白いよ? そう言う相田さんはどんなの読んでるのさ」 「中山可穂」 「誰それ?」 「まあ、メジャーとは言い難いかな」 「ジャンルは何なの?」 「文学……になるのかな」 「僕より渋いんじゃないかな」 「そうかもね」 そして、相田は笑う。顔立ちは可愛い部類に入るのだけど、相田にはこういうクールな笑顔がよく似合った。 「昔から文学作品読んでるの?」 内心のときめきらしきものが顔に出ないよう、苦労しながら僕は尋ねた。 「いや、こういう小説読み始めたのは最近」 「最近?」 「そ」 そう言って、相田は笑う。 「文芸部、入ったんだ」 勉強のために、文学作品も読むようにしたんだ。そう言って、相田は晴れやかに笑った。 その日、話をしたことをきっかけに、僕と相田は時折だべる間柄になることになったのだけど、基本的に彼女はシニカルでクールで、大体けだるげ。そんな奴だった。顔は可愛いけど何か気取ってていけ好かない、そういう風に彼女を言う人もいる。 でも僕は気付けば彼女が好きになっていた。 恋愛感情というのは本当によく分からない。親しく話していたと思えばいきなり僕をけなしてきたり、不機嫌なときにはちょっとしたことで嫌味を言ってきたり、そんな彼女にどうしようもなくやられていた。彼女の本を読む姿に惹かれたのも、どう理屈をこねてもよく分からない。結局、そういう感情は理屈を越えたところにあるという至極つまらない結論にいきついてしまうのだろうけど。 でも否定のしようのない陰キャな僕はどう距離を詰めたら良いのか分からず、そうして選んだのが彼女と同じ部活に入るという、つまらない方法だった。 ふと気付くと、教室は薄闇に包まれていた。 相田は相変わらず目の前にいた。 闇の中で、彼女はひどく蠱惑的に笑んでいた。 僕に、相田は手を差し伸べる。意図がよく分からないまま手を取ろうとした僕の前で、別の誰かが相田の手を取った。 相田の手を取った女子は相田の口に自分の口を重ねる。びじゃびじゃびじゃびじゃびじゃと、AVでも聞いたことがないような下品な音をたて、ディープキスをした女は不意に顔を上げ、僕を見る。 「邪魔するなよ」 そして女は相田とのキスへ戻る。 僕は女の細い腰を思い切り蹴った。床に倒れた女に足を何度も落とす。女の体は粘土細工のように歪み、千切れ、動かなくなる。 僕は相田を見る。 いつの間にか彼女は裸になっていた。 白く綺麗な裸体をさらしたまま、相田は倒れた女を悲しげに見つめ、僕には視線すら寄越さない。 そんな相田を、僕は押し倒した。 無感動な顔のまま、倒れ伏した彼女の胸を掴み、キスをする。相田は僕の行為に何の反応も示さず、手と舌で感じる彼女の体は死体のように冷たかった。 獣のような欲望が、絶望に変わったところで、スマホのアラームが僕を覚醒させた。 * 体を起こす。着ていたパジャマは冷えた汗で湿り、そのくせ心臓はばくばくばくとうるさかった。 案の定、股間はどうしようもなく突っ張っていて、夢精していなかったのがせめてもの救いだった。 ベッドから起き上がった僕は、しばらくそのまま放心する。家に逃げるように帰り、機械のように飯を食い、風呂に入り、布団に入ったものの、全く眠れなかった記憶がある。それでも結局ちゃんと眠り、嫉妬やコンプレックスやリビドーが入り混じった夢を見るのだから、僕の頭は酷く下衆に出来ているんだな、と思った。 下衆ついでだ。 と、投げやりな気分で、僕はズボンを下ろした。 端的に言って、僕は馬鹿である。 そんなことをすれば相田と会う気まずさがより酷くなるというのに、それに考えを及ばせることもないまま、獣欲のおもむくまま、致した。あんなところを見られた相田が気まずさから学校を休むことを期待していたのかもしれないけど、結果的に相田は来たので馬鹿だし、可能性もさほど高くはないのでどっちにしても馬鹿である。自分の加減を越した馬鹿さに僕がようやっと思い至ったのは高校の玄関で相田と顔を合わせたところだった。 僕を見た相田は小さく息を呑んだようだった。 僕はといえば頭が熱くなり、事前に何も考えていなかったことに慌て、そして朝方、相田でした自分を今更恥じていた。おはよう、すら言わず、上履きを持ったまま僕がしばらく立ち尽くしていると、相田は「あとで、ちょっと話したいんだけど」と言ってきた。 いいよ、と応じるしかない僕を置いて、相田はさっさと教室へ歩いていった。 相田に呼び出されたのは昼休みのことだった。 ついて来て、と言う彼女に連れられるまま廊下を歩き、階段を登ると、辿り着いたのは西棟の屋上だった。普段施錠されているはずの屋上のドアは開いていて、そこには既に一人の女子がいた。 言うまでもなく、昨日相田とキスをしていた女子だった。 彼女は内原さんと名乗った。原稿を締め切り過ぎても出していない文芸部員だった。 手すりに持たれて眼下に広がる校庭や、街の風景を眺めていた彼女は、屋上のドアを開けると、ゆっくりと振り向いてきた。 「ごめんね、呼び出して」 そう言って内原さんは微笑んだものの、声には緊張と敵意を帯びているように、僕は聞こえた。 相田と視線を交わしてから、内原さんは小さく息を吸い、話し始めた。 昨日、ようやく仕上げた原稿を部室に持っていったこと。 原稿をチェックしてもらった相田から色々指摘をもらい、その直しをしていたこと。 ハル先輩が塾で途中で帰り、二人きりになったところ、自分から相田にキスすることを提案したこと。 このことは、誰にも言わないで欲しいこと。 言い切ったあと、内原さんは緊張と敵意に、さらに不安が添加された視線で僕を見てきた。もちろん、言わない、そういう悪趣味はないから安心して欲しい、と僕が言うと、ようやく内原さんの目から力が抜けた。相田もほっと息を吐いた。僕は怒りを感じる。 「聞いて、良いかな」 肝心なことは何も話さずに言質を取って安心する二人に、軽い敵意さえ覚えながら、僕は言う。 「二人は、レズビアンっていうことなのか」 内原さんは僕を睨んできた。僕は相田を見る。相田は僕の視線を真っ直ぐ見返し、そして目を逸らす。人気のない校庭の方を見ながら、相田は答えた。 「よく分からないところはあるけど、多分私はそうなんだと思う」 「男を好きになったことは」 「ない。今まで恋愛対象になったのは、女性だけだった」 相田は、きっぱりと言った。 そうか、と答えた僕は、放心すると同時に、お腹の底から笑いが突き上げてくるのを感じる。妙な気分を味わっていると、吾妻くん、と、内原さんがたしなめるように言ってくる。 「そういう質問はあまりしないで欲しいんだけど」 「どうして」 「セクシャリティに関わることはプライベートな問題でしょ。セクマイは特に、聞かれることで傷つくこともあるし」 「僕は、傷つくようなリアクションをしたかな」 「そんなことはないけど、私はほとんど初対面のあなたにそんなこと聞かれたくないし、答えたくない」 「僕だって、昨日あんなもの見たくなかった」 内原さんの顔が赤くなる。相田も気まずそうに視線を逸らした。 恥ずかしさで赤くなっていた内原さんの顔に、怒りが徐々に添加される。どういう訳か、僕はそのことに嗜虐的な喜びを感じる。 「あんなものってどういうこと」 「別に君らの行為自体が汚らわしいとか、そういうことを言ってるんじゃない。ただ人目につくかもしれない場所と時間でやるなって話だよ」 至極真っ当な僕の台詞に、内原さんは真っ赤に染まった顔に笑みを刻んだ。 「途中までこそこそ見てたくせに、それに吾妻くん、あのとき勃ってたよね?」 「スマホ取りに来てみれば、こそこそ女同士でキスしてるのを見せつけられたら慌てて何もできなくなるよ。それにあれは生理反応だ、どうしようもない」 僕が本音を誤魔化しているのを、どうやら内原さんは何となく察したようだった。そして彼女は頭に血が昇ると見境がなくなるタイプの人間でもあった。 「ていうかさ、吾妻くん、マッキーのこと好きなんでしょ?」 今度は僕が顔を赤くする番だった。 何も言わない僕を、相田は驚いた顔で見てきた。得意絶頂の内原さんは、僕をせせら笑いながらなおも言う。 「マッキーが男を好きになったことがあるのか聞いたのってそういうことでしょ? そりゃ傷つくよね、好きな人が別の人とキスしてたらさ……でもそれで勃起するとか、吾妻くん、ちょっと変態の気があるかもね」 お前馬鹿か、馬鹿だろう、僕はお前が知ってほしくないことを見たっていうのにその僕にそんなこと言いやがって。それとも僕みたいな陰キャに言いふらされたところで問題はないだろうから、煽ってやろうとかそういう判断したのか。 僕の方も完全に頭に血が昇っていて、お前らの性的指向を言いふらしてやる、なんてことを言いかける。 ただ、相田も傷つけるそんな言葉より、もっとクリティカルに内原さんにダメージを与えることに気付き、それを直ちに口にした。 「片想いっていうならさ、内原さんもそうなんじゃないかな?」 内原さんの顔に動揺が走る。 ビンゴらしかった。 「よく知らないけどさ、いくら高校生のカップルだからって学校でああいうことをするのって、普通は無いんじゃないかな。そりゃヤンキー校のバカップルなら平気でやるだろうけど二人はそうじゃないだろ。普通のカップルなら自分の部屋とか、プライバシーが保てる場所でやるんじゃないかな? それをしなかったのは、二人がそういう関係ではないから、じゃない? あと昨日、確か、練習、って言ってたよね。恋人といちゃいちゃするのに練習っていう言葉は使わないよね? これはあくまで推測でしかないけど、君は相田が好きな人とそういう風になったときの練習ってことで、自分とキスをするよう相田をそそのかした。その結果、僕に見られたっていうことじゃないかな? ねえどうだろう? どうなの? ねえ?」 そうまくしたてる僕から内原さんは目を逸らさなかった。顔が赤くなったかと思えば青くなったり、笑ったと思えば無表情になったり。内原さんの顔に去来する諸々の感情をサディスティックに僕は眺めた。 仕返しの締めとして、内原さんの返答を僕が待っていると、返ってきたのは全力のビンタだった。 「死ね!!!」 と言い、内原さんは屋上から走り去る。バアン! とドアが閉められる。 勝った。 キーーーーンという金属音を左耳に聞きながら、僕は歪みきった優越感に浸る。 言うこと言ってやることやってすっきりした僕はふと冷静になり、横の相田を見る。 相田は僕を呆れたような、怖がるような目で見ていた。大丈夫、僕がムカついたのは内原さんで相田じゃないよ、と言う代わりに微笑んだものの、ちょっと遅かったようだった。 「吾妻って、キレると怖いね」 引き気味に、相田は言う。僕は苦笑いするしかない。 「普段大人しいのに、一度怒ると見境なくなるっていうか」 「陰キャだからね、内に秘めた物は大きいんだろうよ」 「自分で言うんだ」 「せめてネタにしないと、メンタルが保ちそうにないからね」 君の前で大恥かいたことだし、と心の中で僕は言う。 「内原さんにはキレちゃったけど、昨日のことや君の性的指向のことは誰にも言わないから、それは安心して。確かに僕は根暗でキレると何するか分からないヤバい奴かもしれないけど、約束はちゃんと守るから」 そこまで言うと、僕は屋上から出て行こうとする。 「今日も部活あるから、来てね」 内原さんがさっき思い切り閉めた屋上のドアを開けたところで、相田はそう声をかけてきた。振り向いた僕は間抜けに尋ねる。 「いや、どうして」 「どうしてって……文芸部に入部したじゃん」 「入部のとき、君は散々嫌がったし、その上、僕はさっき文芸部員と盛大な喧嘩をしたばっかりだよ?」 「……一昨日は本当に悪かったし、昨日も不快な思いをさせたことも本当にごめんなさい」 心底申し訳なさそうに相田は言い、そして言葉を続ける。 曰く、あの調子だと内原は確実に部活に来ない。 曰く、もう一人の部員の高橋くんも兼部しているマンガ研究会がデスマーチに入っていて多分来れない。 曰く、文芸誌の編集作業が今日から本格的に始まるので人手がどうしても必要。 一通り話を聞いた僕は、気分が乗ったらね、とだけ言って、屋上を出る。 教室に向かって階段を下りながら、放課後になればほいほいと文芸部室へ行くだろう自分に、僕はため息をついた。 * 放課後になり、相田に、行こうか、と言うと、彼女はほっとした顔で、ありがとう、と言ってきた。 そのことに喜んでしまっている自分を情けなく思いつつ、僕は相田を引きつれ文芸部室へ向かった。 部室を開けると既にハル先輩はいた。相田と二人で入ってきた僕に先輩は驚き、そしてホッとしたようだった。 「良かった」 と言った先輩に、「何がですか?」と聞くと、先輩は微笑み、もう一度、良かった、と言った。 「昨日、マキちゃんが色々指摘したからさ、二人が仲悪くなってないか、心配だったんだ」 「あー……そんなこともありましたね」 「昨日のことだよ、そんな昔の話じゃないからね」 と、先輩は笑ったけど、実際僕には、作品をこき下ろされたことが三年くらい前のことのように感じられた。 あのあと、この部室で見てしまった相田と内原さんのあれ。あの衝撃は自分の小説をけなされて落ち込む、なんていう贅沢を僕から奪ってしまっていた。 「それはそうとユイちゃんは?」 先輩がそう言い、僕は相田を見る。相田はため息をついてから、「多分来ないと思います」と言いづらそうに言った。 先輩は少し険しい顔になる。 「昨日のこと気にしてるのかな?」 何で相田と内原さんのあれを先輩が知ってるのか、と僕は少し慌てたものの、先輩の言っている昨日のことは、それとは別のことだった。 「マキちゃん、やっぱりあれは言い過ぎだったよ」 厳しさを滲ませた声で先輩は言う。相田は視線を落としつつ、「そうですね」と申し訳なさそうに言う。 「何かあったの?」 「昨日、締め切り破った内原がようやく原稿持ってきてさ、私が作品のこと色々言ったの」 「……僕のときみたいに?」 「吾妻のときより酷かったかもしれない」 先輩の様子を見る感じ、相当なものだったんだろう。 でもおかげで言い訳立つから良いか、と、真の元凶である僕は無責任に思った 勘違いをしたままの先輩は、一つ息を吐くと相田を見る。そんな先輩に見つめられ、相田は身構える。 「昨日の時点で言わなかったのは私が悪かったけど、マキちゃん、言葉が強いよ。文芸誌を良いものにしたい、相手に上手になって欲しいっていう気持ちは分かるけど、相手を傷つけたら何にもならないんだからね。良い文芸誌を作る、良い作品を書くことより、楽しく仲良く部活をすることが前提なんだから……確かに厳しさが必要なときもあるけど、昨日のマキちゃんはちょっと度を越してたよ」 「……はい」 「マキちゃんは文章力も読解力も分析力も凄い。私はもうちょっと、友達を思いやること努力をしてほしい」 「でも、内原は多分、サボって締め切り破りました」 「でもユイちゃんは色々忙しくて、って昨日言ってたよね」 「確実に嘘です」 「でもそれって、相手を傷つけるくらいに作品を酷く批評して良い理由にはならないよ。自分の得意なことで責め立てる、っていうのはとっても卑怯なことだと私は思う」 ほんわか優しい、というイメージだった先輩の口から出てくる直球正論のお叱りに気を呑まれていると、相田がぐずり、と鼻をすすった。あの相田が泣いてる、と驚く僕の前で、先輩は相田をじっと見つめ、ふと厳しかった顔をなごませた。 「ごめんね、私も言い過ぎた」 そう言い、先輩は相田の頭をそっと撫でた。 身長は相田の方が頭一つ分くらい高く、先輩は少し背伸びをしながら相田の頭に手を伸ばす形になったものの、肩を落とした相田を撫でる先輩は、大人の女性が子供をあやしているようだった。 「マキちゃんは頭が良くて一生懸命で、凄く素敵な、羨ましいくらいの人だよ。でも友達のことは、もう少し大事にして欲しい」 「すみません」 「謝らなくて良いよ、ちょっと厳しくしてごめんね」 先輩は少し涙を滲ませてそう言った。 目の前で僕とは関係なしに繰り広げられる青春に立ってるしかない僕だったけど、それまで相田をよしよししていた先輩が不意に見てきた。 「さてソーシくん、今日何をやるか聞いてる?」 「いや、えっと、編集作業?」 それまでの流れを完全無視、というか湿っぽい空気をあんまりにも無理矢理に変えようとする先輩に、陰キャの僕は当然上手く乗れない。 「そ。正確には作品の割り付けをする前の誤字脱字チェックをします! さあ座って座って」 そして先輩は未だにぐずる相田と僕を席に座らせ、そして各々の前に右隅にホチキス留めされたA4縦書きの原稿と赤鉛筆を置いた。 手許の原稿の誤字脱字をチェックして、間違ってるところ見つけたら赤を入れる。終わったら隣の人に回す。同じ原稿を二人チェックしたらそれでお終い。来週に印刷入る予定なのでチェックは今日明日で終わらせる気合いで行こう。じゃあ頑張ろう。 と、ずばばば、とでも効果音の付きそうな勢いで言い切った先輩は次の瞬間には自分の手許の原稿に視線を落とし、相田も洟を一つすすると目を赤くしたまま自分の原稿を見つめた。 ただ一人、流れに乗り切れていなかった僕だったけど、質問だったり疑問だったり、あるいは突っ込みを許してくれる様子は二人になく、僕はため息を一つ吐いてから、手許の原稿を見た。 A4用紙をびっしりと文字が埋めたその右端には、〝貴方に焦がれて〟というタイトルと、相田真記、という名前がそっけなく書かれていた。相田の原稿か、と僕はもう一度、心の中でため息をつく。 色々あって忘れていたとはいえ、自分の作品を容赦なく批評されたことへの若干気にくわない思いはまだ残っていたらしく、誤字脱字だけじゃなく、内容で気になったこともあったら指摘してやろう、と決めてから、僕はその五〇ページほどの作品を読み始めた。 物語の語り手は男子高校生で、彼は上級生の女子に恋をしていた。 題材が平凡すぎる、という感想を頭の中のメモに書き付け、僕は続きを読み進めた。 物語は主人公の心の移ろい、彼女に惹かれながらも、既に彼氏のいる彼女へ想いを告げられない苦しい胸の内が語られる、という滅茶苦茶陰気な内容だった。 物語に起伏らしい起伏はない、主人公の苦しい心情が淡々とした文体で綴られる、暗い暗い小説だったけど、僕はそれに引きずりこまれた。 どうしてなのか、自分でもよく分からない。強いて言うなら、その文体の持つ抑揚や、豊富な語彙、となるのだろうけど、多分そうじゃない。ただ、その正体が掴めないまま僕は主人公の一人語りに魅せられ、言葉の一つ一つに心を揺さぶられた。 センスや才能、というのがこの凄さの説明で次に浮かんだことだったけど、それも違うような気がした。間違いなく相田の文才はとんでもないものだったけど、ただそれだけでこの作品の凄さは成り立っていない。 物語は終盤になって急展開する。上級生の彼氏が事故で突然の死を遂げ、気落ちする彼女を見ながら、主人公は姑息にも、それに喜んでいる自分に気付く。主人公はなんとか彼女をものにしようと、嘆き悲しむ彼女へ寄り添うのだけど、いくら慰め、励ましても、彼女の心には死んだ彼氏がいて、そのことに主人公は絶望する。絶望しつつ、主人公は自分の想いを彼女へ告げる。自分が彼女を愛していること、彼氏が死んだことであなたの隣に自分の居場所ができる、と喜んでしまったこと、そんな自分でも愛して欲しいと思ってしまっていること。それを聞いた彼女の驚愕の表情を描写したところで、小説は終わった。 書き手の心が刻まれている。 読み終わったとき、僕はそんなことを思った。 心から滲み出した血をインクに、小説を書きつけた。そんな、僕らしからぬ詩的な感想がふと脳裏に浮かんだけれど、それは妙にリアルな質感を持って、心の中に残った。 誤字脱字のチェックをほとんどしてなかったことに気付いて、やり直そうと思うけれど、揺さぶられた情緒は集中を妨げた。諦めて、僕は相田を見る。 涙のあとを拭き、顔の赤みもどこかへ片付けた相田真記は、自分の割り当ての原稿をじっと見ていた。 彼女のことを、僕は何も知らなかったんだな、と僕は思った。 シニカルでタフなやつ、と勝手に思っていた彼女は先輩からの注意に涙を流し、ふざけた話が好きかと思えばこんなに心を揺さぶる小説を書きさえする。そして、性的指向が女性にある。 何も知らないまま、外見とか雰囲気だとか、表面的なことだけで、好きになったんだな、と僕は思った。 昨日に引き続き、今日も塾のテストがあるとのことで、五時半になるとハル先輩はバタバタと帰り支度を始めた。 「ごめんねごめんね、部長なのに先に帰っちゃって」 と言い、部室を出て行こうとする先輩に、相田は立ち上がり、頭を下げた。 「ありがとうございました、ハル先輩」 そんな相田に、先輩は笑う。 「これからもよろしくね、マキちゃん」 そして先輩はばたばたという足音と共に去り、部室には僕と相田の二人が残された。相田は先輩が去って行ったドアをしばらく見つめていた。 ふと、昨日、内原の原稿を相田がこっぴどく批評したということを思い出す。そしてその後に、内原と相田はあんなことをしていたことも。 馬鹿な僕のもっと馬鹿なアレが若干反応する。 誤字脱字のチェックが終わっていない、相田の暗い小説に意識を集中して治めようとした僕に、相田は声をかけてきた。 「あれだけ嫌な空気になってたのに、どうしてああなったのかは私もよく分かんないんだ」 僕が必死に意識の外に追い出そうとしていたことを、相田はぶっ込んできた。 やれやれと心の中で村上春樹風に肩をすくめ、僕は原稿を置く。 「相田は内原さんと付き合ってる訳じゃないんだよね」 「違う。好きでもない」 「でも」 「男もさ、好きな人じゃなくても、綺麗だな、とか、エッチだな、って感じたりすることってあるんでしょ?」 「まあ、そうだね」 「それと同じ、だと思う。同じ性的指向だっていう人と実際に会ったのは内原が初めてで、馬鹿で性格もだらしないけど、内原はとても可愛いかった。そんな人から、キスしようよ、って言われて、私は好奇心に勝てなかった」 「そういうものなんだ」 「そういうものみたい」 クールを装って返しながら、内心僕はかなり動揺していた。 「どうして僕に、そんなことまで話すの?」 「吾妻って、思ってたより誠実な人だと思った」 思ってたよりって何だよ、思ってたよりって。 「私や内原の性的指向のことはちゃんと黙ってくれるって思ったし、誤解を招きたくなかった。同じ文芸部の仲間だし」 相田の言葉に、僕は苦笑いを浮かべかける。 つまり相田は、さっき先輩に言われたことを早速実践してるという訳だ。先輩には素直なんだな、と皮肉交じりに言おうとしたものの、結局僕は言わなかった。素直すぎるな、とふと思ったからだ。 それと、と言い、相田は言葉を続ける。 「吾妻と私は全然違う」 遠く、管弦楽部が練習する音が聞こえる。同じ楽器が一斉に低音を響かせる。聞きようによっては間抜けに聞こえるその音も、相田の帯びた切実な空気をかき消してはくれなかった。 「性別も性格も、知らないけど家庭とか人生も。 でも状況は同じだと思った。叶えようのない、恋をしている、していた。 ……そう思ったせいなのか、どうかは分からないけど、吾妻には私のことを知ってもらった方が良いと思った。私のためにも、あなたのためにも」 当の相手から、叶えようのない、と言われ、思いがけずショックを受けた僕は、相田の言葉を理解しようと必死に頭を働かす。 状況は同じだと思った。叶えようのない、恋をしている、していた。 相田もその、叶えようのない恋をしているということなのだろうか。性的指向の異なる彼女に恋をした僕と同じように、性的指向の異なる、つまりは女性に恋をしてるのか。 そして相田が、ハル先輩のことを見つめる顔を思い出す。 「相田はハル先輩が好きなの?」 相田は答える代わりに、困ったように微笑んだ。 その顔は悔しいことに、酷く可愛かった。 3 LGBTQ レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャル、クエスチョニングの頭文字を取った言葉で、性的マイノリティのことを指す。それぞれの言葉は、女性同性愛者、男性同性愛者、両性愛者、性自認が与えられた性別と異なる人、自分の性的指向が分からない人、をそれぞれ意味する。ただ、性的マイノリティには男女両方の性的特徴を有するインターセックス、DSDや、人に対し性的魅力をそもそも感じないアセクシャルなど、LGBTQという言葉ではくくりきれないマイノリティもいて、最近ではそうした人を含めたLGBTQ+という言葉が使われることも増えている。 また、LGBTQは、恋愛感情を持つ性別を指す性的指向、自分の性別の認識を示す性自認という位相の異なる概念を並列した言葉で誤解を招くとして、英語で性的指向と性自認を意味するSOGI、という言葉も議論で使われている。 同性愛者を呼ぶ、レズやホモという言葉は、差別的なニュアンスを含んでいる。 性自認や性的指向は生来のもので変えられないとも言われるが、人生の中で揺らぐ人もいる。バイセクシャルからゲイとなった人もいるらしい。 日本では国会議員が性的マイノリティに対して人権を無視した発言をしたことがある…… 相田のカミングアウトを受けてからというもの、僕は時間を見つけてはスマホをいじり、そうした情報を読み込んだ。保健体育の授業で僅かに覚えていたものの忘れていたことも、全く知らなかったことも、色々と。 今後も相田と(あともしかしたら内原とも)顔を合わせていく上で、そうした情報を知っておくことは、不意打ちだったとはいえ彼女の性的指向や好きな人についてカミングアウトを受けた人間として、最低限やっておくべきことのように感じたからだ。 スマホの情報では確度が足りないと感じて、図書館に出かけて資料を探ることもした。検索用のPCで後ろに人がいないかを確認してからLGBT、と入力しながら、何やってんだろう、という気分に僕はなった。 僕が文芸部に入ることを、相田は最初、嫌がった。 当時内原と、未だに僕は顔を見たことのない高橋くんは幽霊部員で、部活は相田とハル先輩のほぼ二人きりの状況だった。相田にとっては好きな人と話し、距離を詰め、あわよくば落とすための貴重な時間で、僕が入部することはそれを奪われるということになる。当然相田にとっては嫌だろう。 入部当日、相田が僕をやたらいじったのはそういうことで、もしかしたら僕の作品を徹底的に批評したのも、僕がやっぱり辞めます、と言うことを期待する意図があったかもしれない(まあ、僕の作品が酷かったのは間違いないけれど)。 そして僕は相田が好奇心に負けた結果という内原とのアレを見せつけられ、不可抗力で失恋させられた。流れとはいえ、自分の恋心を告白させられもした。 僕のここ数日の状況は、相田に良いように弄ばれてると言って良い。 そんなやつのために、何で僕はこうして人目を気にしてまでせっせと勉強をしなきゃならないのだ。 結局、自分で検索しても上手い資料が見つからず、レファレンスをお願いすることにした。 三〇代くらいの女性の司書さんは親切で、特に変な顔もせず資料探しを手伝ってくれた。最近だと異性愛者でも勉強や教養のためにそういうことを調べるのはよくあるのかもしれない。 見つかった初心者向けの解説本を手に図書館を出た僕は、生ぬるい空気を肌に感じながら気付く。 彼女の性的指向を知ってもなお、振り回されてもなお、僕はまだ、彼女が好きなのだ。 文芸部の活動は基本的に暇、と僕は思っていた。その認識は大体間違いではないものの、こと文芸誌や文芸コンテストの時期は当てはまらず、作業に忙殺されることになるらしい。 そしてそういう時期に限って何かトラブルが起きて、忙しさにさらに磨きがかかるんだよ、と皆で赤を入れた原稿を作業用のノートPCで直しながらハル先輩は言っていて、実際そのとおりになった。 その翌日、ハル先輩が高熱を出した。インフルだった。 一緒に作業していた僕らは幸いにも発熱せず、最悪の事態にはならなかったものの、作業の中心人物がいなくなるのは言うまでもなく痛かったし、そもそも僕らは編集作業をどうするかも知らなかった。今の三年生には引退した文芸部員はおらず、文芸部の顧問は名ばかりで活動に携わったこともなく、頼りは熱でもうろうとなったハル先輩がラインや電話で伝えてくれる作業の指示だけだった。 編集作業に使うアプリの操作に四苦八苦する僕らは、結構遅い時間まで残ることになった。誤字脱字の修正、文章の割り付け、フォント調整。印刷機の予約は明日なので、その日中にそうした作業を終えなければならなかった。PCを主に操作するのは相田、僕は彼女が作業に詰まったときに横からああじゃないかこうじゃないかと意見するポジションだった……ただ位置取りがよくなかった。 隣に座ると、意識するつもりはなくても、彼女のうなじの白さとか、つけた香水の控えめな甘い匂いとかが五感を刺激してきた。位置を変えたり距離を置くのも変なので、僕は作業に意識を集中して雑念から離れようとする。それでもピンク色をした何かは僕の胸に寄せてきて、僕は密かに苦しむ。何せ、どれだけ想おうとも、どう頑張っても、相手には手が届かないのだ。 ネットや本で調べた知識の中には、人生の中で性的指向が変化する人もいる、なんていう話もあった。ただ一度レズビアンであること、ゲイであることを自覚した人が変わることは少ないらしい。レズビアン寄りのバイセクシャルもいるそうだけど、話を聞く感じ、相田はそうじゃなさそうだ。 ダメと分かれば、あっさりと無くなれば良いのに、恋愛感情とはそうはいかない。他の人なら、相手との距離を置くなりして自分の感情が落ち着くのを待つのかもしれないけど、僕の場合は困ったことに、失恋が確定してからの方が当の相手との距離は近くなっている。そして僕も、離れたくないと思っている。自分で自分を拷問にかけているようなものだった。 「吾妻」 コンタクトを忘れたとかで、今日は眼鏡をかけた相田が僕を見てくる。 「集中して」 そもそも、君が自分のプライベートを切々と話してきたのが悪いんだぞ。 とは言えず、ごめんごめんと言ってディスプレイに視線を向け直そうとしたところで、部室のドアが開いた。 内原だった。 隣り合って座る僕らを見て、内原は一瞬眉をひそめる。ただ、その表情を見せたのはほんの一瞬で、すぐにマスクに覆われた顔に笑顔を咲かせた。 「先輩が休んだって聞いて、助けに来たよ。ごめんね、今まで来なくて」 そして僕らの向かいに座った内原は、手伝えることない? と言う。 その内原に、相田はノートPCを閉じてそっけなく言う。 編集作業は終わったから、明日印刷して、製本作業に入る。今日は帰ろ。 しょげた様子の内原にざまあと思った翌日、部室に行くと死にそうな顔の男子学生がいた。 マンガ研究会と兼部してるという文芸部員、高橋くんだった。頼まれていた文芸誌の表紙を持ってきたという彼はひょろひょろと背が高く、猫背だった。もともとか、最近続いてるというマンガ研究会のデスマーチのせいか、顔色は悪く、失礼だけど、幽霊みたいな風情だった。 手伝えなくてごめんね、という彼から印刷した表紙とデータの入ったUSBを受け取り、高橋くんがふらふらした足取りで去って行くと、入れ替わるようにやってきたのは内原だった。 嫌味を言い合ったクソヘテロセクシャルの僕のいる部室に内原が顔を出したのは彼女が言うように人手が少なくなった文芸部を助けようなんていう殊勝なお気持ちからではなく、単に相田と僕を二人きりにするのが嫌だったから、というのが間違いないところだろう。 実際、内原はもっぱら相田と話し続け、僕には一瞥すら寄越さなかった。相田と僕の接触を断とうとしてるのはあからさま過ぎるくらいで、面倒くせえなとか思いながら僕はコピー機から吐き出された原稿に製本シールを貼り続けた。 そういえば、内原も相田のことが好きらしい。でも性的指向が同じらしい者同士、間違いなく僕よりも勝率が高い訳だ。いくら相田が好きじゃないと言ったとはいえ、僕と違って勝率はゼロじゃない。畜生。と雑念に捕らわれながら作業していたら文芸誌一〇〇部が完成した。 出来上がった文芸誌が積み上がった写真を撮って相田が送ると、ハル先輩からは僕の知らないキャラクターがクラッカーを鳴らすスタンプと共に、お疲れ様、熱下がったから文化祭当日出られそうだよー、というメッセージが返ってきた。 「お疲れ、ありがとうね二人とも」 一つ区切りを付けられてホッとした様子の相田はそう言う。 「打ち上げで何か食べにいかない?」 そう提案してきた相田に、いいね、と応じようとしたものの、僕は横にいる内原を見る。相変わらず、内原は視線を合わそうとしない。 「僕は、いいよ」 そう答えた段になってようやく、内原は僕を見てきた。彼女の方は見ないまま、僕は言う。 「用事があるから、お先に失礼するよ」 「そっか……じゃあまたの機会にね」 「うん。文化祭が終わったときにでも……ああ、でも」 我ながら、僕は結構嫌な奴で、部室を出がけに捨て台詞を残すことにした。 「何かするときは、場所と時間を考えてした方が良いと思うよ」 「……しないって。何言ってんだよ吾妻」 と呆れた口調で言った相田には答えず、僕は内原をちらっと見る。怒りとか羞恥で真っ赤に染まった内原の顔を確認してから僕は部室を出た。 * 文化祭では部活に加えてそれぞれのクラスで出し物をすることになっていて、僕のクラスはタコ焼き喫茶、とかいう代物をやるらしかった。文芸部の方に忙殺されていた僕はタコ焼きなんて焼けるはずもなく、もっぱらタコ焼きと一緒に出すお茶やジュースの準備や会計をすることになった。シフトは大体一時間くらい、それ以外の時間は他のクラスを回ったり、自分の部活の出し物を手伝ったりして過ごすことになる。 僕の高校は上級生に優しい作りになっていて、上級生の教室は二階で階段を一階分しか登る必要がなく、一年生は四階まで苦労して教室に辿り着かなければならない。高齢者に優しいバリアフリーなんだよ、といつか誰かが冗談交じりに言っていたのを聞いた気がする。 文芸誌作りで体と気を使ったこともあってか、昨日九時間くらい寝たにも関わらず、体と頭は妙にだるかった。タコ焼き喫茶はタコ焼き作りに引くぐらいの情熱を傾けるクラスメイトがいたし、そもそも客もそんなに多くなかったので、僕は四階から学校の中庭とか空とかを眺めながらゆっくり過ごしていた。 「いらっしゃい!」 タコ焼きをオサレな雰囲気で食べてもらう、タコ焼きの一風変わった楽しみ方を楽しんでもらう、というのがタコ焼き喫茶のコンセプトらしいけど、焼き手の野球部の彼がお客さんが来る度に元気にする挨拶のおかげでいちいち台無しだった。タコの代わりにチョコレートを入れたチョコ焼きや、注文を受けてから淹れる紅茶よりも、普通のタコ焼きやお茶やコーラの方が人気なので、宣伝とか売り方とか色々反省点は多そうだった。 とにもかくにも、お客さんが来たらしいので僕は窓から教室へ視線を向け直す。お客さんは内原だった。 財布片手の彼女はタコ焼きのパックを取り「お会計はあっちで!」というタコ焼きくんの指示に従い、僕の方へ向かってきた。「お茶頂戴」と無愛想な顔で言った彼女に「合計七〇〇円になります」と答えてお金を受け取り、ペットボトル入りの緑茶を渡す。 受けとった内原はタコ焼きも食べず、お茶も飲まず、わざわざ椅子を僕の近くに持ってきた。 「この前の打ち上げ、どうして来なかったの」 「来て欲しかったわけじゃないだろ?」 「そうだけどさ」 「喧嘩した僕と一緒より、相田と二人きりの方が内原の気分も良かっただろうし、相田もギスギスした時間過ごすよりそっちの方が良いだろ」 「でもマッキーは仲直りして欲しかったんじゃないの」 「そのことを話しに今日は来たの?」 「マッキーのこと、まだ好きなの?」 会話は絶望的に噛み合っていなかったものの、内原は一応気を使ってるようで、顔を寄せ、少し声をひそめて言ってきた。 「分からない」 と、僕は答えた。 「あ、そう」 とだけ内原は言い、タコ焼きとペットボトルを入れたビニール袋を持って去って行った。 タオルをバンダナ巻きした野球部のタコ焼きくんが、去った内原を見て何か誤解したのか、どんまい、とでも言わんばかりの笑顔を向けてきた。面倒くさいので僕は彼を無視して窓の方へ視線を戻した。 文芸誌は無料で頒布するとはいえ、部について質問されたり、万が一入部希望者が来たりしたときの応対も必要なので、一応部室には店番を置くことになっている。復活したハル先輩も交えた打ち合わせで、午前中に詰めておくメンバー、午後に詰めておくメンバーをそれぞれ決めていて、本来なら僕は午後から入ることになっていた。 文化祭で回りたいところはなく、回るような友達がいるはずもなく、タコ焼きのシフトを終えた僕は生徒や他校の生徒やOBや保護者が歩く廊下を通り、文芸部へ向かった。 午前のシフトは相田とハル先輩になっていて、彼女達とだらだら喋って過ごすつもりだったのだけど、辿り着いた部室に相田の姿はなかった。部室には横に二つ並べられた長テーブルとその上に置かれた文芸誌(ちなみにタイトルは「あゆみ」なんていう中学生の文集みたいなものだった)、客引きのためとかで何故か置かれたダーツがあり、そしてハル先輩と一人の男がいた。 清潔感ある韓流イケメン、というのがその男の人の第一印象だった。パーカーとジーンズという服装と雰囲気から見て、OBらしい。 「あ、ソーシくん」 まだ咳が残っている、マスク姿の先輩は僕に気づくと手を振ってきて、それと一緒に男も僕を振り向く。 僕が頭を下げると、その男性はハル先輩に「新入部員?」と尋ねた。 「うん、最近入ってくれた吾妻ソーシくん、です」 とってつけたような敬語で、ハル先輩は言った。 「あーハルが熱出したおかげで地獄見たっていう可哀想な子か」 「いやそこまで大変じゃなかったですよ」 僕は反射的に答えた。 「ハル先輩も体調悪くて辛いのに、ラインとかで教えてくれましたし、本当にありがたい先輩です、はい」 「うわハル……」 「言わせてない、言わせてないですから」 咳をこんこんさせて言いながら、先輩は笑っていた。 「あの、失礼ですけど、その」 「あ、ごめんね、名乗らなくて」 韓流イケメンは爽やか、としか言い様のない、向けられた側が思わず照れてしまうような笑顔を僕に向けてくる。 「僕は羽野(うの)、去年卒業した文芸部OB。よろしくね」 相田が今回の文芸誌に書いた作品で、主人公が恋する上級生の(最終的に死亡する)恋人の外見は長身痩躯、くらいの簡単な描写しかされていない。 ただ、明るく誰にでも公平で優しく、気配りを常に忘れない、そして恋人である上級生を深く愛し、依存している人物として、その言動は徹底的に描写されていた。そしてその言動はいちいち羽野さんと被っていた。 羽野さんは色々と僕に話しかけてきた。 どうして文芸部入ったの? 小説もう書いてる? 作家は誰が好き? といった、古巣に顔を出した文芸部OBなら聞きそうな通り一遍のことだったけど、羽野さんに偉ぶった素振りはないし、僕のことを知りたい、っていう気持ちがその言葉からは感じられて、話していて心地よかった。 そんな感じに羽野さんと僕が話していると(まあ大体話してるのは羽野さんだったけど)、ハル先輩が文芸誌の束を持って立ち上がった。 「ハル?」 「ちょっと配って来ますね、このままだとお客さん来なさそうだし」 僕自身、期待はしてなかったけど、一〇〇部刷った文芸誌は一〇も減っていなかった。 「俺も行く?」 「高校生と大学生がつるんでたら不味いでしょ、常識的に考えて……後で怒られるの絶対私じゃないですか」 「それもそうか」 「せいぜいここで一般のお客さんっぽくしててください」 「はいはい行ってらっしゃい」 そう言い、羽野さんは手をひらひら振ってハル先輩を見送った。 初対面、しかもどうやらハル先輩と深い関係らしい人に少なからず緊張する僕だったけど、羽野さんは察した様子もなく、人の好い、としか形容のしようのない笑顔を向けてくる。 「ハルは大丈夫? 押しが強くて迷惑かけられてない?」 「押しが強いのはそうかもしれないですけど、迷惑って感じたことはないですよ。面倒見が良い先輩で、文芸部入って良かったと思ってます」 「なら良かった。あいつ上級生が自分一人だからって気張ってる感じがしてたからさ、ちょっと心配だったんだ」 「羽野先輩も、面倒見が良いんですね」 「そうかな? まあ最後の一年間はほとんどハルとマンツーマンだったから気になってるのかもね……でも安心したよ。良い後輩が何人も入ってきてくれたみたいで」 まあ水面下で色々どろどろしちゃってますけどね、HAHAHA。 なんて心の中で思っていると、あ、と羽野さんは思い出したように呟いた。 「そういえばあの子の作品凄いね。あの女の子の」 内心、少なからず慌てる僕だったけど、羽野さんは何の気なしに話し続けた。 「相田さん、だよね。ハルに聞いたんだけど書き始めてまだ間もないんだって? にしては作品のクオリティ凄いよね……文芸コンテストも良いとこまでいけるんじゃないかな?」 「そういえば相田は……」 「あー俺が来た後に友達から呼ばれたとかで、出かけちゃった」 相田の嘘の付き方の下手さは目も当てられないくらいだったけど、羽野さんの様子を見る感じ、自分がモデルになってるかもしれない、なんてことを察している気配はなかった。 そして多分、ハル先輩も気づいていないんだろう。相田の原稿のチェックは先輩がしていたけど、言動を見る感じ、相田の小説の主人公について気にしてる様子はなかった。もしかしたらモデルが羽野さんかもしれない、とは思っているのかもしれないけど、相田の恋愛感情については影すらも気づいていない気がした。 自分の彼女への恋を分かってもらうため。 相田があの小説を書いた意図はそういうことなのかもしれない。そうして見込みの少ない、ハル先輩への恋心を成就させるための布石の一つとして書いたのかもしれないと思うと、ただ凄い出来とだけ感じた相田の小説が、こすい意図のあるものに感じられてしまった。 お気に入りの作品について語りたがるのは本読みの常で、羽野さんは僕と相田の作品についてもっと話したい様子だった。あれの登場人物のモデル、ハル先輩とあなたかもしれないですよ、とも言えず、話してる中でそれを察してしまったらどうしよう、と僕が思っていると内原がやってきた。 部室にいた羽野さんを見て内原は一瞬、うわぁという顔をしたものの、羽野さんと目が合う前によそ行きの笑みを顔に貼り付け、ご無沙汰してますーと挨拶をした。 「おお内原さんだっけ? 久しぶり」 「羽野先輩こそお久しぶりですー来てくれたんですね、ハル先輩は?」 「文芸誌があんまりはけないんで配りに行っちゃった」 「あーやっぱり全然お客さん来てませんか」 「まあ例年どおりなんだけどね」 「もし良かったら先輩も配ってきてくれません?」 「え? 俺も?」 「多分ここにいてもどうせお客さん来ないでしょうし、校内で誰かが宣伝してくれた方が良い気がします。それに配るってことでハル先輩とも一緒に行動できるかもですし」 「別にこんなところでイチャイチャする気はなかったけど……分かった、そうするよ」 そして羽野さんは文芸誌の束を持って部室を出て行った。内原はため息をついて僕の隣の椅子に腰かけた。 一緒に午後入るはずの高橋くんはどういう訳か来ず、僕は何ともいえない気分を内原と共有する。 「あのさ、羽野さんって」 「あらためて確認しなくても分かるでしょ」 ため息交じりに、内原は答える。 「ハル先輩の彼氏だよ」 「やっぱりか」 レズビアンがノンケと付き合うケースも多い、とは聞く。そうすることでノンケがビアンに目覚めることが多いとも。ただ、ハル先輩が羽野さんを捨て、相田と付き合う様子を思い浮かべることは難しかった。 そして、羽野さんとハル先輩を置いて、相田が部室から去ったことは、自分の恋が成就しないことを彼女自身、認めているような気がした。 「マッキーは、馬鹿なんだよ」 パイプ椅子に座った内原は視線を僕に合わせないまま言う。 「あんなスペック高い彼氏がいるハル先輩を落とせる訳がないのにさ、ずっと想い続けてるんだよ。近くにこんな美人のビアンがいるにも関わらず。 ビアンがSNSもパーティーも介さず別のビアンに会うなんて、奇跡みたいなものなんだよ? どうして私じゃダメなの? 成就するはずがない恋を頑張るより、私と付き合った方が絶対良いはずだよ?」 彼女と相田の逢瀬を邪魔し、あまつさえ彼女の片想いをおちょくった僕に、内原はそんなことを言った。誰でも良いから、ただ聞いて欲しかったんだろう。 「内原は、どうして相田がレズビアンだって気づいたの?」 「そりゃ、マッキーがハル先輩を見る目見たらすぐに分かったよ。この子、女の子に恋してるな、って」 「だから君も文芸部入ったの?」 「たまたま部のオリエンテーションに行ってみたら、滅茶苦茶可愛い子があんな初恋みたいな顔してるんだから、そりゃ興味出るでしょ」 「相田は結構不器用な人間なんだな」 「そう、ほんとに。自分でも無理だって分かってても、恋心を捨てきれないんだから、本当に馬鹿」 そして僕も間違いなく、同類の馬鹿なんだろう。 僕がつい苦笑いを浮かべると「何笑ってんの、キモい」と内原はすかさず言ってきた。 そうして内原とだらだら喋ってると(とは言っても大体話していたのは内原で、その大方は相田への愚痴だった)、高橋くんが寝袋を抱えてやってきた。 この前、文芸誌の表紙を持ってきたときと比べればへろへろ具合は若干マシになっていたけど、頬はこけ、顔色は悪く、不健康であることに代わりはないように見えた。 高橋くんは大部分が売れ残ってる文芸誌をちらりと見てため息をつくと、持ってきた寝袋を掲げた。 パーテーションの裏で良いから寝させてくれない? 睡眠時間全然取れて無くて正直キツいんだ。 それを聞いた内原はため息を高橋くんに返した。 良いけど、こんな所でそんなので寝るより保健室でベッド借りてちゃんと寝な。 いやそこまでする必要ないよ、とぶつぶつ言う高橋くんに、内原はきっぱりと、必要ある、と言った。 内原に密かに感心した僕は、昼飯を買いついでに高橋くんを保健室に送ることにした。高橋くんはやっぱり固辞したものの、結局は内原に押し切られ、高橋くんは僕に脇の下を支えられて保健室へ出かけた。 ふらふらの高橋くんを保健室へ送り届けた僕は自分のクラスへ行く。売り上げ貢献ついでに昼飯を調達するためだった。 タコ焼きを焼いていたのは相田だった。 正確には例の野球部のタコ焼きくんから焼き方のレクチャーを受けていて、恥ずかしそうに、でも楽しそうに形の悪いタコ焼きを作っていた。タコ焼きくんは相田が不器用に道具を動かす度にいちいち、すげーじゃん、才能あるよ、と合いの手を入れていた。なんだかんだで、相田は可愛いく、密かにファンという男も多いのだ。 僕に気づくと相田は、お、吾妻じゃん、と言ってきて自分が作ったタコ焼きのパックを見せてきた。 「何でそんなことしてんの」 「タコ焼き屋さんのシフトだからに決まってるじゃん。それより見て見て、相田さんお手製タコ焼き」 「タコ飛び出てね?」 「そこが良いんじゃないですか」 とか話していると、タコ焼きくんや、他の男子が軽く恨めしそうな顔で見てきた。事情を知らない奴等は、気楽である。 見てくれが悪くてもタコ焼きはタコ焼きなので、出来の悪さをソースとかつお節で誤魔化した相田のタコ焼きを二セット、しめて一〇〇〇円分買った。一つは僕のお昼用、一つは内原への差し入れ用だった(さっきも内原はタコ焼き買っていたけど、相田のお手製と聞いたら喜んで食べるだろう、おそらく)。さっさとクラスを出ようとすると、相田も、シフトもう終わりだから、と、着ていたエプロンを脱いでついてきた。 「ちょっと付き合ってくんない?」 そう言ってきた相田についていくと、向かった先は前に内原と阿呆な口げんかをした屋上だった。 人気のないことを確認してから、相田はポケットから鍵を取り出し、屋上へ入る。聞いたところ、以前に内原が職員室からちょろまかし、その合鍵をもらったそうだ。 屋上は文化祭の日も立ち入り禁止であることに変わりはない、ただ、校舎や中庭、そこかしこで為される出し物の喧噪は屋上にも及んできていた。 屋上の建屋の脇に相田は腰かけ、僕はその隣に腰かける。ビニール袋からパックを一つ取り出し、僕らはそれをもそもそと食べた。相田の作ったタコ焼きはまだ熱かった。 「羽野さんと会った?」 相田はそう聞いてくる。 話したし、今頃ハル先輩と校舎の中を文芸誌配って回ってるかもしれない、と彼女に答えた。 「そっか」 「相田のあの小説は、やっぱりハル先輩とのことを小説にしたの?」 気になっていたことをそのまま口にすると、相田は少し笑う。 「別に、羽野さんに死んで欲しいって思ってる訳じゃない。でもハル先輩への恋愛感情は多少なりとも反映されてると思う」 そう言って相田はタコ焼きをまた一つ摘まんだ。 「相田はハル先輩と上手くいくと思ってるの?」 タコ焼きをもさもさと咀嚼する相田は僕の問いかけに答えなかった。 タコ焼きを飲み込んだ彼女は口元をハンカチで拭い、そしてよく晴れた空を見る。 「叶うか分からない人に焦がれるより、気の合う人と繋がった方が良いんじゃないか」 自分でも思いがけず、僕はそんなことを言っていた。 しばらく静かに空を眺めたあと、相田は「吾妻は優しいね」と言った。 「ハル先輩に恋愛的な意味で好きです、って言ったとしても、難しいだろうっていうのは分かってるよ。でも、叶わないだろうから、ってすぐに引っ込めることができないものみたい、恋愛っていうのは」 よく分かるよ。僕は一瞬、そう答えようとした。 「私は今のこの想いを大切にしたいんだ」 そっか、とだけ僕は答えて、空を見た。 秋にしては温かすぎる気温の空には、綿菓子よりも頼りない雲がいくつか浮かんでいた。誰かのため息のような雲を見ていたら、ふと相田が呟くように言った。 「不思議とね、そうして感情を大事にしてると、小説が上手く書ける気がするんだ」 「小説のために恋愛してるの?」 「そういう訳じゃないよ。でも小説を書くことが充実すると、なんか嬉しいんだ」 「あの小説、良かったよ」 「ありがとう」 「相田は小説家になりたいの?」 「それは微妙だけど、書くことは、とても好きだよ」 そう相田は晴れやかに笑う。 これからも君の作品を読みたいよ、と僕は言った。 4 相田がハル先輩に告白したのはその年末のことだった。 文芸誌の作成が終わった文芸部は一時の忙しさが嘘だったようにだらだらした活動内容となり、僕らは週に二回の活動日に書評をしたり、リレー小説なんてものをしたり、あとは文芸とは関係のないイベントを楽しんだりした。ハル先輩はそういうのも好きらしく、焼き芋会、鍋パと次々と企画してくれた。都合がついた時には羽野さんも参加したし、ついでに言っておくと漫研で酷い目に遭った高橋くんもこの頃はよく文芸部に来るようになっていた。 その年の締めくくりはクリスマスパーティーで、そのちょっと前の文芸コンテストで相田が佳作を取ったことのお祝いも兼ねていた。 クリパとは言っても十二月二十四日にやった訳でなく、終業式の夜に街中にある食堂の一間を借りて少し早いプレゼント交換やチキンを楽しんだ感じだ。その日は試験があるとかで、羽野さんは来なかった。ひとしきり食べて喋って騒いで相田におめでとーと言ってお開きになり、そして僕らはだらだらとした冬休みに入り、年末年始を親戚の家を回ってお年玉を集めて過ごした。 相田から、新年会しない? と連絡が入ったのは新学期の始まる直前のことだった。来るように言われたカラオケボックスに行くと内原と相田が既にいて、久しぶりに会った僕らはおっす、と挨拶をする。 部屋に入るや否や、相田はカバンからビールを取り出した。冷蔵庫からママのやつを持ってきた、と言う相田は目を白黒させる僕の前でプルタブを開けて盛大に泡を吹きこぼした。 うわなにこれ、と相田は笑い、飲む? と僕らに言ってきた。それとなくカメラの影になるように移動した僕と、僕と同じく事情を知らされずに戸惑うしかない様子の内原がいらない、と答えると、相田は、あっそ、と言い、それをあおった。 にっが、と相田は言い、それでもそれを一口二口と飲み続ける。 やめろ洒落にならない、と僕が言う隙を与えず、相田は曲を入れ、僕の知らないゴアメタルとかいうジャンルの曲を歌い上げた。 突然の乱心、そして殺意のこもったシャウトに、僕と内原がどう反応していいか戸惑っている内に、相田は一曲を歌い終え、満足げにイエーイと言った。ドン引きする僕らを見て相田はへっへっへ、という感じに笑うと朱が差した顔のままソファに座り、そしてぽつりと、先輩に告った、と言った。 相田の話した告白の顛末は、僕が、多分内原も、そして相田自身予想したとおりだった。 クリパのあと、先輩を呼び出したファミレスで、相田はハル先輩が好きです、と彼女に告げた。私も好きだよ、と先輩は言い、後輩としての好きじゃないんです、と相田は答えた。 ライクじゃなくて、ラブです。私は性的指向が女性にあるみたいで、そして先輩に恋をしてます。 ハル先輩は相田の瞳をじっと見返し、そしてテーブルの上で握り込んだ相田の両手を自分の手でそっと包んだ。 言ってくれてありがとう、私なんかを好きって言ってくれてありがとう。でもマキちゃんが知っているとおり、私は今好きな人がいて、幸運なことに、その人と付き合っている。マキちゃんの気持ちには答えられない、ごめんなさい。 そう言った先輩の前で相田はぼろぼろと泣き、嫌です、好きです、抱いて下さい、なんてことまで言ってしまったらしい。そんな相田の頭を先輩はそっと撫で、相田が泣き止むまで一緒にいてくれたらしい。 相田は持ち前の文章力をいかんなく発揮して、情感たっぷりに自分の失恋を語った。 僕はソファに持たれた相田の方や、壁やカラオケの機械へ視線を彷徨わせながら話を聞き、内原は相田をじっと見つめ、自分の目元を拭いながら話しを聞いた。 「頑張ったね、お疲れ様」 相田が話し終えると、内原はそう言った。 相田は残ったビールを飲み干し、うっぷ、と小さくげっぷした。女子もげっぷするんだな、と密かに感心しつつ、相田が手を伸ばした別のビールを僕は取り上げた。 「それあたしのだよ」 「ダメ。騒ぎになったら退学になるかもしれないだろ」 「良いんだよ、よりにもよって先輩にレズがバレたんだから、あんな学校にいる必要ないもん」 「先輩はレズビアンだからってお前を嫌うような人じゃないだろ。それにお前、身勝手だぞ。アルコール騒ぎになったら内原や僕だって処分されるんだから」 「うるさいんだよ、吾妻」 「マッキー、今は吾妻の方が正しいって」 「うるさいうるさい、皆死ねば良いんだ」 そう言い、ぐずる相田の話を聞いたり、水を飲ませたりして、冬休み最後の日は更けていった。 新年初の活動日、ハル先輩はいつもと変わらない笑顔で僕らを迎えてくれた。むしろ緊張していたのは相田と、事情を知ってる僕らの方で、そんな僕らを先輩は久しぶり、元気だった、と言いながら迎えてくれた。 相田はそれでも、先輩を諦めてないみたいだった。 いつか先輩と添い遂げてやるんだ、と決意を新たにする相田に、内原は嘆息しながらも彼女自身、相田への気持ちは捨てきれず、こちらもまた虎視眈々と彼女を狙った。僕は逞しい彼女達を見ながら小説を書いた。いつか相田をぎゃふんと言わせられるようなクオリティの作品を書くことを夢見て。 そうして僕らは時々頑張りながら、全体的にだらだらと仲良く高校生活を送り、卒業後は育んだ友情とか捨てきれない愛情を胸に大学や社会へ羽ばたいていく。 と、なれば良かったのだろうけど、僕らの高校生活はそんな平和なものにはならなかった。 * 二年になって僕と相田は別のクラスになった。 僕は相田にならって休み時間やちょっとした時間を使って本を読むようにしていたのだけど、なかなか読書時間は確保できなかった。新しいクラスメイトになった江原(えはら)くんという男子がやたらと話しかけてくるようになったからだ。 話題は他愛のないものだった。何読んでんの? YouTube何見てる? 飯食った? 江原くんは結構なイケメンで、そんな彼が世話話を向けてくるのに陰キャの僕は戸惑い、受け答えも結構ぎこちないものになっていたと思う。でも江原くんはお構いなしに、機会のあるごとに僕に話しかけ続けた。彼がそうした意図は当然、僕と仲良くしたいなんてことじゃなかった。 相田さんと付き合ってんの? と、ある日江原くんは尋ねてきた。一緒に掃除をしているときで、周りに人気がないことを確認してから、彼はそう言ってきて、僕は吹き出すのをなんとか堪えた。 違うよ、と答えると、僕でも分かるくらいに江原くんは安心したようだった。良かった、と言った彼はチャラ目の恰好とは裏腹に純情なようで、僕はちょっと好感を持ち、そして彼がまず失恋するだろうことに同情したり、若干ざまあと思ったりした。 告白した江原くんがあえなく撃沈し、落ち込む彼を慰める、なんてことになれば良かったのだけど、事態は思いがけない方向に転がった。 相田がレズビアンだ、という噂が流れた。 あの掃除の日を境に、江原くんが僕に話しかけてくることはめっきり減り、僕が休み時間に悠々と本を読んでいたら、隣にいた男子グループがひそひそ話してるのが聞こえてきた。 曰く、二組の相田って女が好きらしいぞ。 曰く、あんな可愛いのに変態とか残念だよな。 僕がそいつらの方を見ると、ニキビ面したそいつらはその視線の意味がよく分かっていなかったらしい。そして僕が相田と同じ部活だということに気づくと、顔を寄せて、そそくさと去って行った。その出来事とさほど時間を置かずに、江原くんが僕に、相田の性的指向について尋ねてきた。僕はそんなことは初耳だ、違うと思う、と答えた。 内原によれば事の発端は江原くんらしい。 彼が悪いのではないけれど、彼に恋心を抱く別の女子が、相田がレズビアンだという噂を流したのだそうだ。 顔形が良い癖に同性グループとつるまない、そして僕は知らなかったのだけど、男子からの告白をいくつも撥ね付けていた相田は、女子受けが悪く、以前から陰口を叩かれていたらしい。そんな女子の中で相田のレズビアン疑惑は広がり、後輩の女子を食ったとか、エイズに罹ってる、なんていう悪意満点の尾ひれも付いているらしい。 ただ、内原とのあの場面を目撃されたとか、ハル先輩への告白を誰かが見た、といった証拠がもとになったものでなく、いずれ飽きたら終息するでしょ、と内原は見ていた。僕もそうだと思ったし、相田自身、さほど気にしてる様子はなかった。 ただ、ある日、相田が学校を休んだ。 一週間ほど休んだ彼女は、その間、僕や内原のラインにも全く応答しなかった。そして不意に再び登校し始めた彼女は見るからにやつれていた。 頬がこけ、土気色に近い肌の相田は、部活に来なかったし、内原や僕がクラスに行っても大丈夫、大丈夫と力なく答えるだけだった。そして相変わらず、彼女の周りでは身勝手で悪意に満ちた噂が飛び交った。 どうすれば良いのか分からず、ただ心配することしかできなかったある日、相田から、放課後会いたい、というラインが来た。 呼び出されたのは、よりにもよって相田の家だった。その日、相田は体調不良で早退したらしく、僕は内原に部活休むとラインをし、チャイムが鳴るとさっさと相田から教えられた住所へ向かった。 学校から自転車を漕いで二〇分ほどのところに、相田のアパートはあった。古びたアパートの二階の角部屋のチャイムを鳴らすと、中からパジャマ姿の相田が出てきた。 相変わらず顔色は悪く、目に力がなかった。 でもドアが開いた途端に、女子の匂いが迫ってきて、僕は狼狽えたことを顔に表さないようにしながら、彼女に、どうした? と尋ねた。 「まあとりあえず、入ってよ」 と、相田は言った。 相田の部屋は綺麗に片付いていた。日頃から掃除されてるのが伺える居間に通された僕は、そこにあったソファに腰かける。お茶を淹れにダイニングへ行った相田が来るまでの間、僕はそこに飾られた写真を眺めた。そしてあることに気づく。 まず、相田が幼い頃の写真がなかった。もっぱらあるのは最近の写真ばかりで、古くてせいぜい中学校入学の頃のものだった。そして、写っているのは相田とお母さんの二人だけだった。 「母子家庭なんだ、ウチ」 紅茶を淹れたカップを持って戻ってきた相田はそう言った。僕の隣に腰かけた相田は紅茶に息を吹きかけてからぽつぽつと話した。 「例の学校の噂がさ、お母さんの耳に入ったらしいんだ。お宅の娘レズなんですって、っていう電話がかかってきたらしいよ」 学校の女子が、おそらくグループの女子に囲まれながら、スマートフォンで相田の母親に電話をかける様子が脳裏に浮かんだ。電話役の奴は事務的な表情を崩さないまま、淡々と話をし、周りの連中は息と笑いをこらえてそれを見守る。通話を終了したあと、奴等は一斉に笑い声を上げるのだ。 人を殺したい、と思ったことは何度かある。 でもここまで強く殺意を抱いたのは初めてだった。僕の勝手な想像で勢いが付いているのは分かりつつも、僕は卑劣なメス共を殺したい、と強く思っていた。 「それを母さんに聞かれてさ、私、カミングアウトしたんだ。 多分、その電話は悪意ある女子からで、そういう噂が流れてるのは確か。それとは関係なしに、私は性的指向が女性にあるみたい、って」 そこまで言い、相田は少しの間、何も言わなかった。しばしの沈黙のあと、彼女はぽつりと言う。 「変態じゃない、って母さんは言った」 冗談でしょう、すぐ直しなさい、と相田の母親は言ったのだそうだ。 相田は寛容で仲が良い母親は、自分の性的指向を知っても受け入れてくれる、と思っていたのだそうだ。だから今回のトラブルをむしろ良い機会だと思い、自分の性的指向を話したのだけど、返ってきたのは予想だにしない反応だった。 ショックを受けながらも、相田は言う。 これは性癖じゃなくて、変えづらい性的指向だ、女性を愛する女性は明らかになっていないだけでたくさんいて、私は変態じゃない。 でも母親は聞き入れず、もう話をしたくない、と髪を振り乱し、彼女を拒絶した。 翌日、相田は学校を休み、母親は仕事へ出かけた。 帰ってきた母親は寝込む相田に、話しかけてきたらしい。 突然のことで慌てて、あなたを傷つけるようなことを言ってごめんなさい、と母親はまず言った。 真記がどんな子でも、大切な子供であることに変わりはない、とも言った。 ただ、と母親は続けた。 ただ、本当に男性が愛せないのか、それはよく確かめなさい。今の日本で、レズビアンとして生きるのはとても大変なことなのだから。 「母さんが私を心配して言ってる、とは私には思えなかった」 どんどん冷めていく紅茶を見ながら、僕は相田の話を聞く。 「同性愛者は異常で、もし間違いないのならしょうがないけど、自分が本当にそうなのかよく確かめろ、って言ってるように私には聞こえた」 両手に、無意識の内に力が入る。つとめて冷静に、僕は話す。 「相田、僕は実際のお母さんの話を聞いていない。でも、もしかしたらお母さんは君のことを心配して、そう言ったかもしれないよ」 「今の私には、そうは思えない」 きっぱりと、相田は言う。 「確かに、その通りだもん。皆当たり前に、彼氏彼女になってるのに、私や内原はそうじゃない。彼女しか作れない、皆みたいに好きな人同士で子供を作れない。異常だよ、確かに」 「違う、相田、それは違う」 「違わないよ。吾妻だってそう思ったでしょ? 何でこいつ、女なんか好きなんだろう、って」 「相田……」 「ウチって、カトリックでさ。神父さんの話だとこの世は神様が作ったらしいよ。けどさ、そいつはマジでクソだよ」 相田の顔にはいつの間にか、酷く嗜虐的な笑みが刻まれていた。 「どうして、大体異性愛者にしときながら、私みたいなの作ったんだろう? 気まぐれで、こういう風なのがちょっとはいた方が世界はドラマチックになるとか、そういうこと考えたのかな? マジでクソだよ、ほんとに」 クソクソクソ、と言いながら相田は泣いていた。自然と体が動いて、僕は彼女を抱きしめた。ハル先輩がそうしていたように、相田の頭をそっと撫でる。本当は、相田がこうして欲しいのはハル先輩なんだろう、そんなことを思いながら、僕は相田の体をそっと抱きしめる。相田は、僕の胸の上で泣いた。 何で僕は女じゃないんだろう。 そんなことを僕は思った。 僕が女なら、泣く相田の心に渦巻くものをもっと深く受け止められたかもしれない。彼女の望むものを捧げられたかもしれない。でもそうすることはできない。自分の脚の間に付いたものや、勝手にごつごつと成長する体を、僕は酷く疎ましく感じると共に、未だに相田のことが好きなんだということに気づく。 ふと、相田は泣いたまま、顔を上げた。 目を涙に濡らした彼女に、僕は不吉なものを感じる。 待て、と僕が言う前に、相田が唇を僕に押しつけた。 がつん、と後頭部を殴られた気がした。衝撃でじんじんとした頭が自分の唇を包む相田の柔らかい唇の感覚を受け入れるごとに、ピンク色で熱い何かが頭から首、肩、下半身と、全身を侵してくる。 相田は長い間、僕に唇を押しつけた。不意に彼女は唇を離す。 僕はソファに倒れ、相田はそんな僕の股間にまたがるような形になっていた。下半身は言うまでもなくどうしようもなくなっていて、多分、相田は固くなったそれをパジャマ越しに感じてるはずだった。 実際に、夢遊病の人を見たことはなかったけど、相田の今の顔はまさにそれだった。彼女の顔に興奮も、何もない。ぼんやりとした顔のまま、どこか事務的にも見える顔のまま、相田は手を動かした。 「相田、やめろ」 相田は僕の手を取る。 「やめてくれ」 そして、彼女は僕の手を自分の胸に押しつけた。固い感触に僕の掌は戸惑う。それがブラジャーの感触で、その下の相田の胸の柔らかい感触に気づいたとき、僕は叫んでいた。 「やめろ相田!!」 びくり、と相田が震えた。僕は体を起こし、相田に退くよう言う。 「……ごめんなさい」 そう言い、相田は大人しく僕の体から離れた。ソファに座り直した僕は頭を抱えた。大きく息を吐き心を落ち着けようとする。でも頭を一杯にした怒りは収まらず、どうしようもない台詞が出てきた。 「馬鹿にするなよ」 そして、一度台詞の端が出ると、そこから繋がる言葉は雪崩のように口から流れ出る。 「同性愛者ってことに悩んで、僕で試そうとしたのか? 自分が男で欲情できるのか。 僕を何だと思ってるんだ。僕は確かに未だに君が好きだよ。どうしようもなく惚れてるよ。でもだからって好き勝手に実験して良いんじゃない。僕は君の都合の良い一本のチンコじゃないんだぞ、ふざけるな!!!」 ごめんなさい、と相田が言うのを背後に聞きながら、僕は彼女の家を去った。 自転車を力の限り漕ぎながら、僕は泣いた。通りがかりのおじさんや、他校の生徒がぎょっとした顔で見てくるのもお構いなしに、僕は泣き、走った。 相田もどうしようもなかったんだ。拒絶され、混乱して、彼女自身、自分が何をしているか分からなかったんだ。僕を都合良く実験動物にできるくらいの冷酷さを持てるような人間じゃない。僕は傷ついた彼女にもっと優しくするべきだった。何やってるんだこの馬鹿。 そんな切れ切れの思考を抱えたまま、僕は自分の家に帰り着く。情緒は限界で、そのまま寝てしまったのだけど、僕はそうするべきじゃなかった。相田の家へ戻り、ごめんなさいと彼女に詫びるべきだった。彼女の混乱と嘆きに寄り添うべきだった。でも全ては遅かった。 翌日、相田が屋上から飛び降りた。 内原からもらった合鍵を使って、僕に自分の性的指向をカミングアウトし、小説や先輩への恋のことを話したあそこから、転落防止用の柵を乗り越え、相田真記は飛び降りた。 幸い、上手く木に当たって、命に別状はなく、腕の骨を折るだけで済んだらしい。ただそれきり相田は学校に来なくなり、そして僕や内原にも何も言うことなく、転校してしまった。 僕が内原に、あの日のことを話せたのは相田の転校が知らされた日のことで、内原はバカバカバカバカと言ってきた。 そう、辛いのは相田だった。僕はそれを理解するべきだった、でも僕もどうしようもなかったんだ。 なんとかそう言えた僕の頬を、内原は張った。いつかの全力のそれではなく、ただパチンと音を立てるためのものだった。内原自身、そうせざるをえなかったんだろう。 内原は、相田が飛び降りたあとも、転校してしまったあとも、何度もメールしたり、実際に会いに行ったりしたらしい。メールへの返信は切れ切れで、会いに行っても母親が会わせてくれなかったりしたし、会えても相田とはあまり話せなかったらしい。 僕はといえば、相田に会いに行くことすらできなかった。 自分がしてしまったことが相田を深く傷つけてしまったこと、その罪悪感のせいだった。そして、僕はどうしようもなくナイーブなクソ野郎だった。 相田はおろか、他の人と会うことにも気まずさを感じるようになり、僕は学校を休むようになった。スマホにはハル先輩や内原、高橋くんから何度もメールが来た。そこに書かれた気遣いの文章を見るのが申し訳なかった。なんとか短い、御礼の返信をしたものの、僕は体を起こすことができず、自分の部屋に引きこもり続けた。 そんなことが一週間ほど続いたある日、相田から手紙が届いた。 手紙の中で、相田は突然のことで戸惑わせてしまったこと、傷つけたかも知れないことを詫びた。僕は悪くない、そして、あの日あんなことをしてすまなかった、とも。 私はあの日、あなたが言ったようにあなたを使って実験をしようとしていたのかもしれません。私は強く混乱し、あの日、自分がどうしてあんな大胆なことをしてしまったのか、よく分かりません。でも確かなことがあります。 私は、異性愛者の中に僅かな同性愛者や性的マイノリティを作った神様の気まぐれを呪いました。 一方で私は、神様の作った普通というものに強く焦がれていました。普通に家庭を作り、普通に愛する子供を持ち、母親の老後を普通に見守る。普通というものを呪いながら、どうしようもなく焦がれてもいたのです。 私が普通の人生を歩みたいと望んだとき、吾妻くんは一緒に歩んでくれる。そんな傲慢な考えがあったのかもしれません。 私の性的指向を知っているあなたが、どう感じるか。私はそこまで考えを及ばすことができませんでした。 私は逃げるために転校しました。 私があなたにしてしまったこと、傷つけたこと、それを直視することは今の私にはできなさそうです。今こうして手紙を書くことも、向き合う作業の一つですが、まだあなたに直接会うまでの勇気は私にはありません。 あの屋上から飛び降りたことも、死にたい、よりは、逃げたい、という気持ちの方が強かったように思います。 情けない私を、吾妻くんは許す必要はありません。 ですがいつか、私が自分のしたことや、自分の気持ち、自分がどう生きたいか。そうしたことと折り合いを付けるときができたとき、私があなたに会う勇気を持てたときには、どうか私と会ってください。そのときは、あらためて私を罵り、怒ってもらって構いません。 いつか、私はあなたと会いたいです。 そうして締められた相田の手紙を、僕は何度も読み返した。女の子らしい丸い字で書かれた、相田の苦悩と、将来への勇気と同時に不安も感じられる手紙。 誰が悪い、というものじゃない、と僕はふと思う。 相田も、僕も、相田に関する噂を立てた女子も、相田の性的指向を受け入れられなかった母親も、誰も彼もが大きな流れのようなものに翻弄されて、そうせざるをえなかったんじゃないか。なら呪うべきはやはり、その大きな流れを作った神様か? 神様はこういうクソな感情を向けるために存在するのか? そんなことを、僕は思った。 相田への返事を書けないまま、僕はそのままさらに数日引きこもった。 持っていたマンガを読んだり、スマホをいじったり、寝食の他はそんなことをし続ける生活をする内に、部屋は酷いことになった。 部屋を片付けよう、と思ったところで、僕はふと、ノートに小説を書きつけた。 以前に書いた、しょうもないファンタジーとは違う。 自分の心が赴くままに書きつける、心の傷から滲んだ血をインクに書きつけるような、暗い暗い心情を描いた小説。読んだ人が目をひそめるような、陰気な物語。 相田も、あの作品を書いたとき、こんな風だったのか、と僕はふと思う。 自分の傷を癒やすことを望むとき、人は物語を書かざるを得ないのかもしれないな、と思い、僕はどこか遠いところで、相田真記が同じように小説を書いていることを、切に願った。 |
赤木 2023年12月31日 17時32分59秒 公開 ■この作品の著作権は 赤木 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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