【短編】雲壌月鼈の夕べ

Rev.03 枚数: 27 枚( 10,606 文字)

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壁の時計にチラリと目をやると、針はもうすぐ終業時間であることを示していた。
 吉丸由夏(きちまるゆか)はホッと安堵の溜息をつく。仕事もたった今目途がついたところだし、今日は定時を大きく過ぎずに帰れそうだ。
 思えば今日は大変だった。いや、「今日も」というべきか。
 出社直後、後輩の「寝坊しちゃって三十分遅刻します!」という連絡を受けてしまったがために、彼の朝一提出の書類チェックを代行する羽目になり。(その後後輩はきっちり一時間遅刻した)
 それが落ち着いたと思ったら、「言ったはずだけど?」が口癖のお局から、寝耳の水の注文書の処理を催促され。(お局としては、三日前に一度申し送りしたとのこと。注文内容が決まったのは、一昨日の会議の後だったはずだけど)
 やっとお昼にありつけると思いきや、部下の意思を尊重することと優柔不断をはき違えている課長からの、「吉丸くんはどう思う?」攻撃に晒されてしまい、休憩時間を半分ロスしてしまった。(課長はその後、外回りついでに評判の店のランチを堪能したらしい)
 しかし、そんな大変な一日ももうすぐ終わる。おりしも花の金曜日、今日こそは近所にオープンしたあのカフェで、冬季限定イチゴパフェを堪能するんだ。そう、絶対に。
 由夏がそう決意して、パソコンに向き直った時だった。

「吉丸くん、ちょっといいかな?」

 遠慮がちな課長の声が、終末のラッパのように響いた。

「な、なんでしょうか。近藤課長」
「大変申し訳ないんだけどね、部長からのお達しだ。明日の会議のこの資料、先方に提案するプランなんだけど、これだと去年のまんまなんだよね」
「あのでも、去年が評判がよかったから、今年も同じように進めると部長が決められたのでは?」
「うん、そうだったんだけどさ」

「そうだった」。その言葉に、由夏は目の前が真っ暗になる。敏腕と評判の部長の欠点は、気まぐれなことだった。その上、気まぐれで変更した内容のほうが常に目新しく華々しい結果を出すから、始末が悪い。

「だからね、差し替えてほしいんだよ」
「い、今からですか⁉」
「大丈夫大丈夫。ほらこれ、部長から叩き台預かっているから、これを基に体裁を整えてくれるだけでいいから」
「あ、叩き台はあるんですね……。いやでも、この資料を作ったのは橋上(はしがみ)くんですよね? 彼に訂正してもらえばいいのでは? 私がやるより詳しいはずです」
「それはもちろんそうなんだけど、彼はその、体調が悪いらしくて。朝起きられなかったのもそのせいだとか、感染症かもしれないと言われると、帰さないわけには……」
「はあぁ?」

 由夏の少々ドスの聞いた声は、すでに早退していた後輩の橋上には届かなかった。

「で、でもですよ課長。私、この一週間残業続きで……」
「うん、それはわかっている。いつも君にばかり頼んで悪いと思っているよ。でもこの資料、去年作ったのは吉丸くんだよね? ということは、橋上くん以上に手早く素晴らしいものが作成できるはずだよ。大丈夫。明日は初回の会議だから、これから改善していくつもりで気楽に作ってくれればいいから」
「気楽にって、そんな課長」
「もちろん、肩の力を抜くことと手を抜くことは違うけど、吉丸くんならその辺のことは問題ないでしょ。きみの仕事の丁寧さはみんな知っているから、安心して任せられるよ。それともこの後、なにか特別な予定が?」
「うっ……それはないですが」
 
 無意識に肩先の髪を弄んでしまうのは、防衛本能だろうか。言葉に窮しながら、由夏は自らの詰みを感じた。
 普段優柔不断な近藤課長は、残業依頼に関しては決して引かない。そして、彼が饒舌に語りだしたらそれは、王手を目前にした合図なのだ。
 近藤課長は本当に申し訳なさそうに目を伏せながら、最後の一手を放った。

「本当に悪いね。僕が手伝えたらいいんだけど、あいにく今日は妻を待たせていて。結婚記念日なんだよ」
「ソウデスカ、ソレハオメデトウゴザイマス」
 
 力なく呟いた由夏の後ろで、定時とともにバッグを手にしたお局が、フロアの出口に向かっていった。

◇🔶◇ 🔶 ◇🔶◇ 🔶 ◇🔶◇

「っあーーーーーーー! やってらんねぇ!」

 誰もいない歩道橋で、髪を振り乱しながら由夏は思い切り叫んだ。

「いや、やってらんねぇっていうか、やり切ってきたんだけどね! 仮病の後輩の尻拭いを、私はやってやったんだけどね!! 三時間残業してね!」

 叫んだせいで少し枯れた喉を炭酸飲料で潤す。ここはアルコールのほうが格好がつくとは自分でも思うのだが、残念ながら由夏は下戸なのだ。

「なんだってのよ、もう! 無責任な上司に、ご都合主義のお局に、ルーズな後輩⁉ おまけに部長は気まぐれで、うちの会社にはロクな奴がいねーのか! 振り回されるこっちの身にもなれっつーの!!」

 大声を出すだけ出して、由夏は欄干に体を預けた。
 なんだかドッと疲れた。体も頭も、心もクタクタのへとへとだ。
 本当はわかっている。はっきり断れない自分も悪いこと。そこに付け込まれて、周りの人間を増長させてしまっていること。
 眼下を走る車の灯りを何気なく目で追っていくと、行きたかったカフェのライトが今まさに消灯されたのが見えてしまった。我慢していた涙がぽろぽろと溢れてくる。

「な、なんだってのよぅ。期間限定パフェ、食べたかったのにぃ……」

 涙を拭き鼻水をすすり、ずるずるべそべそ、これ以上ないほど情けない顔をさらしていたときだった。

「もしかして、吉丸さん? 大丈夫ですか?」

 背後からそう声をかけられ、由夏はゆっくり振り向いた。

「やっぱりそうだ。どうしたんです、こんなところで。風邪ひいちゃいますよ」
「えっと……楢(なら)さん? あの、『Olive Tree』の?」

『Olive Tree』は、由夏の行きつけの美容室だ。心配そうな顔でこちらを見つめているのは、そこの美容師の楢かすみだった。

「はい、楢です。吉丸さん、泣いてるんですか? 嫌なことありました?」

 明るい茶髪をポニーテールにまとめたかすみは、その目立つ見た目ながら、職業柄なのか人柄なのか人の懐にスッと入ってきて警戒心を解かせる笑顔と声を持っていた。「よかったら」とポケットティッシュを差し出してくれる。
 由夏はありがたくそれを受け取り、同時に涙と鼻水だらけの自分が急に恥ずかしくなった。慌ててゴシゴシと顔を拭う。

「あー……ごめんなさい。大の大人が恥ずかしいですね。こ、こんなところで泣いたりして」
「そんなことないですよ。誰だって、泣いたり弱音を吐きたいときってありますもん」

 やわらかい雰囲気で微笑むかすみは、どうして由夏が泣いていたのか、その原因を聞き出そうとはしなかった。
 それに、由夏はなんだかホッとした。会社での理不尽な仕打ちや、あいまいな態度で周囲をつけあがらせてしまう自分に対する嫌悪感や、限定パフェを食べられなかった悲しみを、かすみに上手く説明できる気がしなかった。なにより、それらは言葉にすればその瞬間に、ありきたりで、号泣するに足る出来事ではなくなってしまうことも嫌だったのだ。
 ティッシュを半分ほど使って、なんとか由夏は落ち着いた。涙で少し引き攣る頬を無理やり動かして、笑顔に似たものを作る。

「ほんと、ごめんなさい、楢さん。ティッシュありがとう、使いすぎちゃった」
「いいんですよ。それ、ただの街頭ティッシュだから。それより、吉丸さん」

 ズイッとかすみが顔を寄せてきた。突然の至近距離に由夏は少しのけぞってしまう。

「な、なんでしょう?」
「夕ご飯って、もう食べました?」
「あ、まだ……」
「じゃあ、よかったらご一緒しませんか? 私今日、行きたいところがあるんです」
「行きたいところ?」
「ぜったい、後悔はさせませんよ」
 
 かすみは自信たっぷりに胸を張った。
 由夏はしばし考える。念願だったパフェを逃してしまった今、これといって食べたいものも思い浮かばず、食欲も正直ない。しかし、せっかくのお誘いを無碍にするのも悪いし、ここまでかすみが自信をもって言い切る夕食には、少々興味をそそられた。
 なにより、これから誰もいない自宅アパートに帰って部屋が温まるまでの間に、また気持ちが落ち込んで涙がこぼれてこない保証はなかった。

「そうですね。じゃあ、お言葉に甘えて」
「そうこなくっちゃ。あ、私のこと、よかったら名前で呼んでください。かすみ、です。私も、由夏さんって呼んでいいですか?」
「もちろん」

 そうしてかすみの先導で歩道橋を降りかけて、由夏はふと気が付いた。
 さっき一人騒ぎ、聞かれていたらかなり恥ずかしい。

「あのーところで、なら……かすみさん? さっき、どこで私だって気づいたんですか?」

 階段を中ほどまで降りていたかすみは、振り返って答えた。

「下からふと見上げたら、欄干に大きく体を預けているのがまるで飛び降りようとしてるみたいに見えちゃって。それで慌てて上ったら、由夏さんだって気づいたんです」
「そ、そうだったんですか。すみません、ご心配かけちゃって」
(よかったー。その前に怒鳴りまくってたのは聞かれてないみたい)
「それにしても、びっくりしちゃった。由夏さん、あんなに大きな声が出るんですね」
「がっつり聞かれてんじゃん!!」

 頭を抱えた由夏に、かすみの快活な笑い声が降り注いだ。

◇🔶◇ 🔶 ◇🔶◇ 🔶 ◇🔶◇

 かすみに案内されて訪れたのは、繁華街から少し外れた、場末の古びたバーだった。こじゃれた夜カフェか庶民的な居酒屋を想像していた由夏は、少し意外に思う。
 かすみは慣れた様子で入口に手をかけた。

「Rose and Daisy……」

 曇りガラスがはめ込まれたドアには、金文字でそう綴られていた。仕事帰りと思しき若い男性客がカウンターで店員と談笑している。他に客の姿は見えない。
 かすみに続いて一歩中に踏み入ると、香ばしいコーヒーの香りが鼻を掠めた。入口の正面にある長いカウンターは飴色に磨かれ、その向かいにある三つのテーブル席には、いずれも赤い布張りの年季を感じる椅子が四脚ずつ備えられている。思ったよりも小さいが、想像していた以上に居心地のよさそうな店だった。

「こんばんは、いらっしゃい」
「マスター、こんばんは〜」

 シェイカーを手にカウンターの中からそう声をかけてくれたのは、優しげな風貌の男性だった。三十代半ばほどに見え、『マスター』という呼び名は少し早すぎるように思えた。それでも、カクテルを作る手つきは堂に入っている。

「かすみ、そちらの方は?」
「こちらは、私が髪を切らせていただいている吉丸由夏さん。さっきたまたま帰りが一緒になって、誘ってみたの。由夏さん、こっちは私の兄で、このお店のマスターの楢萬里(ばんり)です」
「あ、お兄さん、なんですね」
「はい。いつもかすみがお世話になっています」
 
 確かに、微笑んだときの目尻の皺が同じかもしれない。柔らかい物腰と声でカウンター席に案内されながら、由夏はそう思った。
 席に座ってから、改めてかすみと萬里の顔を見比べる。いかにも似ているタイプの兄妹ではないが、人好きする微笑み方や警戒心を抱かせない口調など、揃って接客業に向いているらしい。

「ここね、もともとうちのおじいちゃんがやってた喫茶店だったんです」

 由夏の隣に腰を下ろしたかすみが口を開いた。

「『喫茶 雛菊』って、喫茶店にしては結構な老舗だったんだけど、おじいちゃんが体調崩して続けられなくなって。それを五年前に萬里が引き継いで、バーにしたの」
「あ、でもごめんなさい。私お酒ダメで……」
「大丈夫! 今日はお酒を飲みにきたんじゃないから。萬里、気まぐれディナー二つね」
「気まぐれ……?」
「そう。決まったメニューはなくて、その日の仕入れとマスターの気分で内容が決まるんです」

 「気まぐれ」とは、あまり今聞きたい言葉ではなかった。由夏はふと、食べ損なったイチゴパフェのことを思い出す。しかし、夕食に罪はない。
 かすみが内緒話をするように顔を寄せてきて、「実は」とささやいた。

「私、今日のメニューを知ってるの。国産黒毛和牛のローストビーフ丼」
「ロ、ローストビーフ丼⁈」

 同じく声を潜めてはいたが、由夏の声は見事にひっくり返った。かすみは目を丸くし、すぐに声を上げて笑い出す。

「由夏さん、ローストビーフ好きなの?」
「好き好き、大好き! 子どもの頃、クリスマスにだけ出てくるご馳走だったんです。それが今日みたいな日に食べられるなんて、嬉しい!」
「なら、誘った甲斐があったってもんです。いいお肉が入ったから、昨日リクエストしといたの、正解でしたね」

 ししし、とかすみは楽しみでならないという笑みをこぼした。
 由夏もさっきからニヤニヤが止まらない。気まぐれだろうが定番だろうがサプライズだろうが、ローストビーフ丼こそが正義だ。中心に向かって織りなすブラウンからピンクのグラデーション、しっとりとした重さ。濃厚なソースを纏ったその姿を思い出せば、現金なことに俄然食欲が湧き出した由夏だった。
 
「なんだか盛り上がっていますね。お待ちの間にこちらをどうぞ」

 厨房から戻ってきた萬里が差し出してくれたのは、小さなグラスに入ったうっすらと黄色がかった飲み物だった。炭酸が含まれているらしく、底から小さな泡が無数に立ち上っている。グラスがそっと置かれたときのかすかな「コトリ」という音とともに、華やかな葡萄の香りが由夏の鼻腔に吸い込まれていった。

「いい匂い……」
「食前酒です。ノンアルコールワインですので、ご安心を」
「あ、ありがとうございます」
「萬里、私ホワイトミモザがいいな」
「飲みすぎるなよ」

 ワインの芳醇な香りとバーテンダーのスマートな態度に由夏がうっとりしているうちに、かすみの前にも同じような食前酒が置かれた。
 お酒に詳しくない由夏には、『ホワイトミモザ』なるお酒がどんなものかさっぱりわからなかったが、それをいかにも美味しそうにクイッと傾けるかすみの仕草には、下戸ながら羨望の眼差しを向けてしまう。

「素敵ですね。お酒を嗜むって、こういうことをいうのかな」
「えー、そんな風に言ってもらえて嬉しいな。でも私、そんな大したもんじゃないただの酒好きですよ」
「そうそう。アルコールの楽しみ方は人それぞれですし、かすみの飲み方を参考にしたらいけませんよ」
「萬里、失礼じゃない?」
「大人のお付き合いにお酒はつきものですが、かといって、飲めないからダメということはありません。今はノンアルの飲み物もたくさんありますし、自分のお酒の楽しみ方を見つけることが大事ですね」

 妹の抗議を無視し、萬里は席を一つ空けて座っている先客の男性を目で示して続ける。

「彼なんかは、酒に弱い酒好きの自覚があるものですから、長く楽しめる飲み方を実践していますよ」

 由夏がつられて見やると、彼の前にはそれぞれ半分ほど中身の残ったグラスが二つ並んでいた。「そうそう」と男性客は、眉の濃い精悍な顔つきに爽やかな笑みを浮かべる。

「これ、シャンディガフっていうお酒と、ウーロン茶ね。交互に飲まないとすぐ潰れちゃうの、俺。ね、マスター」
「そういうことです」

 頷いて、萬里はもう一度厨房へと姿を消した。
 頼まれたわけでもないのに、先客の男性が場を繋ぐように話し始める。

「俺、坂本千尋(さかもとちひろ)っていいます。ここの常連。妹さんなんだって? マスターにはいつもお世話になってるっス」
「いえいえ~、こちらこそ。萬里の妹のかすみです」
 
 かすみと坂本は軽く会釈を交わし、そろって由夏に目を向けた。自己紹介を待っているらしい。

「えっと、吉丸由夏です。よろしくお願いします」
「と、いうわけです。私の友人の由夏さんです」

 いつのまにか『髪を切らせてもらってる』から『友人』に格上げされている。
 由夏が驚いて見たかすみの顔は酔った様子もなく、ごく自然に発せられた言葉なのだとわかった。 
 大人になって新しく友達ができるなんて、思ってもみなかった。嬉しさとくすぐったさがないまぜになったヘラリとした笑みで、由夏は『友達』という言葉をそっと反芻した。

「というか、坂本さんって、もしかして……」

 かすみが勘ぐるような視線を坂本に向けたときだった。

「お待たせいたしました。本日の気まぐれディナーです」

 かぐわしい香りともに、萬里が二人分のトレイを運んできた。由夏とかすみの目が一気に彼に注がれる。ゆったりと丁寧な配膳の所作に焦らされて、由夏の胃がキュゥっと収縮した。
 目の前に一皿ずつ食事が並ぶ。瑞々しいグリーンサラダに、バターが添えられたこんがりと香ばしいバゲット。

「……バゲット?」

 由夏の疑問をそのまま、隣のかすみがポツリとこぼした。

「本日のディナーは、国産黒毛和牛のビーフシチューでございます」
「「……なんでっ⁉⁉」」

 由夏とかすみの声が見事にシンクロした。
 萬里が目をぱちくりさせている。

「なんで?」
「なんで、って萬里、それはこっちのセリフ! 今日、ローストビーフ丼って頼んだじゃない!」
「あ、そうだったっけ? ごめんごめん。でも、かすみもビーフシチュー好きだから、悪くはないだろ?」
「でももう、ローストビーフの口になっちゃってたのよ? というか……」

 申し訳なさそうな視線を感じて、由夏は気がついた。ビーフシチューも好きなかすみがこうやって声を大きくしているのは、自分のためなのだ。由夏が「ローストビーフ大好き!」なんて言ったから、その期待を裏切ってしまったことに罪悪感を感じてしまっている。
 その優しさにほっこりしながら、フォローのために由夏は口を開いた。

(やだやだ、かすみさん全然気にしないで。ビーフシチュー、私だって大好きだもん。しかもこれ、すっごく美味しそう。誘ってくれてほんとにありがとう)
「ろ、ローストビーフ、食べたかったのにぃぃぃ……!」

 口からは心の声と正反対の、かなり恥ずかしい内容が飛び出てきて、由夏は度肝を抜かれた。
 おまけに、ポロポロと涙まで溢れてくる。
 由夏は、かなり焦った。が、どうしていいかわからない。

「た、楽しみにしてたのに〜」
(ちょっと待って! 好きなものが食べられなくて泣くなんて、まるで子どもじゃない!)
「いくら気まぐれディナーだからって、き、気まぐれがすぎるじゃない! だから気まぐれって嫌いなのよ!」
(失礼がすぎる!!!)

 涙で幕の張ったような両目に、オロオロするかすみと呆気に取られている萬里がぼんやりと映る。恥ずかしさと申し訳なさで今すぐ逃げ出したいのだが、体はまるで制御が効かない車のように、イヤイヤと首を振る仕草しか許してくれなかった。
 
「うわーーん、ローストビーフー!」
「……ごめんなさい!」

 もはやただの大きな駄々っ子と化した由夏に頭を下げたのは、客であるはずの坂本千尋だった。
 突如の展開に、彼にかすみと萬里の視線が集まる。由夏も泣きじゃくりをあげながら、涙と鼻水で汚れた顔を坂本に向けた。

「ビーフシチュー、俺のリクエストなんです。前に食べたのがスッゲー美味かったから、もう一度食べたくて。でも、ローストビーフをこんなに楽しみにしている方がいるなんて知らなくて……。申し訳ありませんでした」
「そんな、坂本さんが悪いんじゃありません。私がうっかりメニューをばらして期待値上げちゃったのが悪くって」
「そうだよ千尋くん、君が気に病むことじゃないよ。吉丸さん、ご期待に沿えず申し訳ありません」
「………………」

 由夏は鼻をすすりながら、三人の顔を順番に見つめた。みんな申し訳なさそうな顔をして自分を見ている。誰もなにも悪くはないのに。こんなことで大泣きして騒いでいる自分が、ただ一人悪い。
 そう気づいた途端、胸の内が、すぅっと冷えていった。顔から血の気が引いていくのを感じる。

「ご、ごめんなさい……」

 嵐のように荒れ狂っていた感情の、ただ一か所だけ他人事のように冷静だった部分から、さざ波のように羞恥と後悔が広がっていく。由夏はゆっくりと顔を覆った。穴があったら、いや掘ってでも入りたい。ブラジルまで行ってもまだ足りない。
 誰かが小さく噴き出して、やがて遠慮がちな笑いは徐々に大きくなっていった。嘲笑されている感覚はなく、むしろそのあたたかな笑い声は深くめり込んでしまった由夏を通常の場所まで引っ張り上げてくれているようだった。

「ほ、本当に申し訳ないです。こんなに大騒ぎすることじゃ、ないのに」
「かまいませんよ。むしろ、涙を流してスッキリされたのならよかった」
「そうですよ由夏さん。泣くのって、ストレス解消効果があるみたいだし」
「そうそう。吉丸さんも会社勤めでしょ? 色々あるよねー、使われてるとさ」
「……はい」

 この期に及んでも号泣の理由を聞いてこない三人のやさしさが胸に痛い。 
 今度は萬里が差しだしてくれたティッシュでもう一度顔を拭いて、由夏は顔を上げた。

「みなさん、ありがとうございます。今日は……同僚の都合や上司の気まぐれに振り回されて、ちょっとしんどいなって感じていて。だから、ロ……大好きなものが食べられないことのショックが、自分でもびっくりするくらい大きかったみたい。でも、気まぐれメニューなんだからこれが当たり前ですよね。あんなに騒いでしまって、本当にごめんなさい。恥ずかしくて、本当は今すぐ帰りたいんですけど……マスター、このビーフシチューいただいてもいいですか? ローストビーフはもちろん大好きだけど、ビーフシチューも好きなんです、私」

 萬里はもちろん、かすみと坂本も大きく頷いた。
 深い焦げ茶色をした濃厚な液体を、とろりと大きなスプーンですくう。大泣きした間も冷めないで待っていてくれたことがありがたかった。ごろりと大きな具材たちの中で、ひときわ存在感を放っているのが件の牛肉だろう。少し迷ってから、由夏はその大きな塊を一口に押し込んだ。

(……おいしい!)

 声にならない言葉は、鼻息とともに外に漏れだした。萬里がニコリと微笑む。

「気に入っていただけたようでよかった」
「萬里、料理はうまいもんね」
「いやいや妹さん、マスターなんでもできるっスよ。俺めっちゃ憧れてますもん」
「きみたちは、足して二で割ったらちょうどいい感じだねぇ」
「……ほんとにおいしいです、このビーフシチュー。ロースビーフのこと、忘れちゃいそう」
「いやいやいや。あれはなかなか忘れられないっスよ、由夏さん」
 
 最後の坂本の台詞にはじけるように彼を見てしまったのは、その些細なイジリに反応したからではない。「由夏さん」という、今日二人目からの名前呼び、それも男性からのそれが、自分でも驚くほどの刺激だったからだ。そしてそれは、決して嫌なものではなかった。

「あ、ごめんなさい。俺、酒が入るとすぐ馴れ馴れしくしちゃうんスよね」
「あ、いえ……」

精悍な顔が、笑うとくしゃりと歪んで急に幼く見えた。酒に弱いという言葉通り耳の先が真っ赤になっている、その顔にまっすぐ見つめられると、由夏の心臓は大きくひとつ音を立てた。

(あれ、ちょっと? さすがに情緒不安定すぎでしょ、これじゃ⁈)

 由夏がこっそり深呼吸をしながら落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせているうちに、隣のかすみも嬉々としてビーフシチューを頬張りはじめた。

「ん~! わが兄ながら、やっぱりおいしい。坂本さんがリクエストするのもわかるわ。でも、よくこの味知ってましたね? お店でビーフシチュー出したことあったっけ?」
「いや~、去年の誕生日に作ってくれたんすよ、萬里さんが。それ以来この味が忘れられなくて」

 坂本は何気なくそう言ったが、とたんにかすみはニヤニヤと兄と坂本を交互に見た。

「ふーん、やっぱり」
「? どうしたんですか、かすみさん?」
「なんだよ、かすみ」
「いや、萬里に恋人ができたんだろうなー、とは思ってたんだよね、去年あたりから。そうかそうか。坂本さん、兄をよろしくお願いしますね」
「お、妹さん公認っすね。かすみさん、こちらこそよろしくお願いします!」
「え、え? あ、マスターと坂本さんって、お付き合いされてるんですか⁉」
「いや~、由夏さん。ストレートにそう言われると照れるな~」
「千尋くん、口が滑りすぎだよ」
(えええぇ⁈)

 由夏は内心頬に手を当てて、呆然と目の前の光景をながめる。
 兄とその恋人を祝福するかすみ、頬まで真っ赤になって相合を崩す坂本、呆れた口調ながら柔らかな眼差しの萬里。
 驚きが徐々に落ち着いてくると、それはまるで完成された一幅の絵画のように由夏には思えた。
 つい先ほど弾んだ胸は完全に高鳴り損となったしまったわけだが、そのことはほんの一抹の寂しさにしかならなかった。二人の男性が恋人同士だということは自分でも意外なほどすんならと受け入れられ、むしろこの場に立ち会えてよかった、と心から思えた。

「マスター、坂本さん。お幸せに」
「やだぁ、由夏さん。まるで結婚式みたいじゃない。気が早いよ」
「いや、嬉しいッスよ、由夏さん。ありがとうございます!」
「ありがとうございます。由夏さん、またぜひいらしてくださいね。今度こそローストビーフを作ってお待ちしていますから」
「マ、マスター……もうそのことには触れないでおいてください」

 笑い声に彩られながら、週末の夜は更けていった。

◇🔶◇ 🔶 ◇🔶◇ 🔶 ◇🔶◇

 翌朝、由夏はいつもより遅い時間に目を覚ました。休日ということもあり、目覚めてからもしばらくベッドでゴロゴロと時間をつぶす。

(昨日は楽しかったなぁ)

 ビーフシチューのあとにはマスター自慢のコーヒーを堪能し、二人の馴れ初めなどを根掘り葉掘り聞きながら、由夏は何度も声を上げて笑ったのだ。
 そんな楽しい記憶を反芻しながら、由夏はゆっくり起き上がった。カーテンの隙間から、すっかり昇りきった太陽が存在を主張している。
 昨日は気まぐれに泣かされ、気まぐれに救われた一日だった。今日はどんな一日になるだろうか。

「よし! 今日こそはあのカフェでイチゴパフェを食べるぞ!」

 自分を鼓舞するようにそう宣言して、由夏は身支度のために動き始める。
 どんな一日になったって大丈夫。
 鏡の中の自分にそう言われた気がして、由夏は大きく頷いた。

凧カイト

2023年12月31日 11時03分26秒 公開
■この作品の著作権は 凧カイト さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
気まぐれな上司、気まぐれなメニュー

◆キャッチコピー:
気まぐれに泣かされた夜を慰めるのは、やっぱり気まぐれ?

◆作者コメント:
こんにちは。冬企画の開催おめでとうございます。
なんとか間に合わせることができホッとしています。枯れ木も山の賑わいとして、どうか忌憚なきご意見をお寄せください。
タイトルになんだか難しげな四字熟語を使っていますが、「雲壌月鼈(うんじょうげつべつ)」、天と地、月とスッポンという意味だそうです。
ご笑覧いただければ幸いです。

2024年01月20日 19時13分45秒
+10点
Re: 2024年01月21日 22時16分44秒
2024年01月20日 17時57分48秒
+30点
Re: 2024年01月21日 22時15分57秒
2024年01月17日 21時24分02秒
+10点
Re: 2024年01月21日 22時13分53秒
2024年01月17日 20時06分39秒
+30点
Re: 2024年01月21日 22時12分47秒
2024年01月08日 23時40分02秒
+10点
Re: 2024年01月21日 22時11分54秒
2024年01月05日 14時37分21秒
+30点
Re: 2024年01月21日 21時57分41秒
2024年01月04日 17時19分09秒
+50点
Re: 2024年01月21日 21時54分33秒
2024年01月02日 23時14分33秒
0点
Re: 2024年01月21日 21時53分04秒
合計 8人 170点

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