【掌編】無くしたものに花束を |
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雲一つ無い夜空で、糸のように細い三日月が優しく微笑んでいる。こんなに素敵な夜だというのに、私はいったい何をやっているのだろう。ボロ雑巾のような出で立ちで地べたに座り込み、通り過ぎる雑踏をただ呆けて眺めている。 暦は間もなく新たな年を迎えようとしている。聖夜を目前にした街はどこもきらびやかで慌ただしい。腕を絡ませて買い物を楽しむ恋人達。両親の後ろをおぼつかない足取りで追いかける子供。仕事に追われ足早に行く男。目に映る全ての命が、生きる喜びに溢れているかのようだ。まるで自分だけがこの次元とズレて存在しているような疎外感がのしかかる。薄いガラスの向こう側の世界への羨望が、呼吸すら煩わしくさせる。 五感は消耗と共に著しく鈍ってきている。視界は霞み、匂いも感じない。耳に届く音も不自然に遠い。死が這い寄っているのがはっきりと分かる。 なぜ自分はただ死を待っているのだろうか。自分はこのまま死ぬことを望んでいるのだろうか。ただ生きるだけなら簡単なのに。仮に生き続けたところで何をしたいだろうか。そこに意味はあるのだろうか。そもそも意味のある命などあるのだろうか。私の生きた意味はどこかにあるのだろうか。身体は衰弱しきっているのに、不思議と思考は止まらない。無限に押し寄せる自問自答で身動きが取れない。 「おじさん、大丈夫?」 唐突に投げかけられた言葉。それはまるで、悪夢にうなされているところを優しく揺り起こされたかのようだった。ひたすら自己意識の海に深く深く潜っていた私の腕を掴み、水面へと引き上げてくれたかのようだった。ぼやけた視線を上げると、少女が私の前にかがみ、顔を覗き込んでいた。 「おじさん、病気なの?」 困惑する私を心配するように、彼女は質問を続ける。咄嗟の出来事で返事が出てこない。しかし集中することで視界はいくらか晴れた。目を凝らして相手を観察する。どこか中性的で凛々しい顔立ち。肌が透き通るように白い。細く長い栗色の髪は、艷やかに夜風に揺れる。ふっくらと赤みを帯びた唇、小ぶりな鼻筋、まつ毛の長い大きな目。美しい少女だった。だが、何よりその双眸に視線は釘付けにされた。澄んだブルーの瞳は、まるで人形のようだ。それでいて力強い。魅力、というより、魔力とさえ言える。愛らしい容姿の中にあって、それだけが異質に輝いている。 「いつからここにいるの?」 返答の無い私に、少女は丁寧に語りかける。私の身体の中で、じわっと邪な欲望が首をもたげる。彼女の肌を舐め回すように見つめる。口の中で涎が溢れ、喉が乾く。鼓動が早まり汗が吹き出す。その時、 「やめないか。その人は困っているよ」 いつの間にか少女のすぐ背後に背広姿の若い男が立っていた。 「行こう」 男が顔を顰めて少女を促す。ちらっとこちらに向けた彼の視線には、隠そうともしない侮蔑が滲んでいる。 「パパ。私このおじさんとお話したいの」 少女は男の方を見向きもせず、静かに答えた。男は嫌悪感を露わにして空を見上げた。 「何を言い出すんだ。これから夕食に行くんだろう?早くしないと……」 「パパ。私このおじさんとお話したいの」 少女が振り返り、男の顔を正面から見据えて繰り返した。その瞬間、男の表情に緊張が走ったのが分かる。無言で見つめ合う二人だが、折れたのは父親のほうだった。呆れながら肩を竦めると、両手をコートのポケットに突っ込み、背後のガードレールに腰を預ける。そこまでを見届けると、少女はゆっくりと私に視線を戻す。そこには父親を黙らせた威圧感などは微塵もなく、私への気遣いが戻っていた。 「おじさん、具合が悪いの?」 少女が問う。不思議な親子のやりとりで呆気に取られた私は、いつの間にか冷静さを取り戻していた。 「あまり良くないね」 ようやく一言だけ、ポツリと返すことができた。久しく発していなかった私の声は、まるで他人のもののように余所余所しく感じた。いったいいつから私はこんなにも孤独だったのか。最後にまともな会話を交わしたのはいつのことか、思い出すことすらできない。 「病気なの? お家には帰らないの?」 「病気……なのかな。お家も今はもう無くなっちゃったんだ」 丁寧に質問に答えていく。不意の質問攻めに遭いながらも、不快感は無かった。むしろこの少女との対話に安らぎを感じる。彼女は時折瞬きしながら、私の言葉をじっと聞いている。 「お腹が空いてるの?」 「そうだね、お腹は空いているね。でも食欲も無いんだ。もうここから動きたくない」 私が無気力に微笑むと、彼女は私の意思を汲み取ったのか、少し険しい目つきで私の目を真っ直ぐに見据える。 「このまま死んじゃうの?」 核心に迫った問いかけだった。私は答えず、彼女の視線から逃れるように目を閉じた。そうだ。このままここでじっとしていたら、明日の朝までには私は死んでいるだろう。望んでいるわけではない。免れたいわけでもない。ただ状況がそうさせるだけのことだ。それが正解なのか自分で結論を出すことがどうしてもできない。このまま答えが見えないまま消えてしまうことへの焦りと恐怖だけが降り積もっていくばかりだ。 長い沈黙が過ぎた。彼女は何も発さない。私の答えを知りたがっている。答えられない。否、答えは簡単だ。そうだよの一言なのだ。私は今更何か行動を起こそうとはとても思えない。私はもうすぐ死ぬ。結果は明らかだ。しかし、彼女の求めている返答はそうではないのだろう。なぜ死を受け入れているの? そう問うている。それが自分にも説明できないから苦しい。思考がまた無限の螺旋に絡め取られそうになる。だがそれでは何も前進しない。何かを答えたい。この少女に伝えたい。私は、 「昔、好きな人がいたんだ」 自分でも驚いた。私の口は、まるで別の生き物のように勝手に言葉を発したようにすら感じられた。私の意図していない、私の言葉だった。 「とても素敵な人だった。何物にも縛られない、自由でわがままな人だった」 言葉は一度溢れ出すと、湧き水のように止まらなくなった。ばらばらだったパズルのピースが、はじめの一つをきっかけに連鎖的に繋がり始める。私の中に漠然と散らばっていたものが、急速に明確な輪郭を描き始める。初めて自分の根底にあるものを自覚する。少女はまるで慈しむような眼差しで、ただ黙って続きを待っていた。 「いつの間にか、いなくなってしまったんだ。別れも言わないで」 言葉を紡ぎながら、私の脳裏に彼方の記憶が蘇る。満月のように美しい黄金の髪。悪戯な笑顔。重ねた肌の感触。心を見透かすような、あの紅い瞳。こんなにも鮮やかに記憶しているのに、今までどうして思い出すことをしなかったのか。もう自分と関わりが潰えた過去として、無意識に封印してしまっていたのだろうか。自分の虚無の根源が、失恋などというあまりにも陳腐な要因だと認めたくなかったのだろうか。それとも、そんな有りふれた感傷を自分には抱く資格が無いと決めつけていたのだろうか。 「今でもその人のことが好きなの?」 微笑みながら少女が問いかける。答えは知っているけどねと言わんばかりの、いたずらな笑みだ。ずいぶんと意地悪じゃないか。大人をからかって楽しむとは。私は苦笑いを浮かべ、歯切れの悪い返事をする。 「そうだね、今でも大好きだ」 言葉と共に、自然と涙がこぼれた。果てのない思考の迷宮の中、遂に一人では気付けなかった。私は意味を探してきた。生きる意味。死ぬことの意味。月日が過ぎるほど、疑問は漠然と肥大化し、些末なことを覆い隠してしまった。去ってしまったあの人への憤りが盲目にさせた。私はただ許せなかったのだ。なぜ勝手に消えてしまったのか。彼女を理解したかったのだ。別れの意味を知りたかったのだ。意味が無いわけがない。あってもらわねば困る。それがなければ、私の存在が否定されてしまう。私の意味が失われてしまう。そうなったらこの命をどう使えば良いのか。人生など無限の地獄にしか思えないではないか。ならばいっそ終わりにしたい。しかし、答えがないまま消えてしまったら、私の一生は何だったのか。このまま死んでしまって良いのか。この螺旋が延々と脳内を渦巻いていた。しかし、最後の最後で、ほんの一欠片の答えに指先が掛かったような気がした。私は求めるものを間違えていた。人生の価値を自身に問うなんておこがましい。その最中にあった幸福と向き合えば良いだけなのだ。長短は関係ない。命尽きるとき、私は満たされていたかったのだ。生きたことに感謝したかっただけなのだ。 少女は穏やかに微笑んだまま、じっと私を見つめていた。私にはこの少女が何を思っているのか、最後まで見当もつかなかった。なぜ私に話しかけたのか。なにを求めているのか。不思議な瞳は何も語らないのだ。ただ時間だけがゆったりと流れ続けた。どれほど見つめ合っていたのか分からない。視界がまた霞み始める。とうとうその時が近づいている。もう恐れや後悔は微塵も無くなっていた。答えは出た。 「逝くのね」 少女が少し淋しげに呟く。 「ああ。逝くよ」 私は微笑んで返事をする。 「君と会えて良かった」 私の魂を安らぎへ導いてくれた少女に、心からの感謝を伝える。そのとき、初めて彼女から意思を感じた。もう私には彼女の表情は見えないが、私の言葉にほんの少し驚いたような気配があった。 「それは、誰に向けた言葉なのかしらね」 かすかに聞こえた声。頬を撫でられた感触。その瞬間、私は驚愕した。嗅覚はとっくに働いていない。だから気付けなかったのか。しかし、私に触れた手の凍るような冷たさが、私に思い出させた。ああ、最後に会いに来てくれたのか。別れを言いに来てくれたのか。本当に、どこまでも気まぐれな人だ。それならしっかり二人分伝えれば良かった。少女には出会いの感謝を。愛する人には、共に生きた喜びを。 目の前の男は穏やかな表情で息を引き取った。事切れる間際、私に気づいたようだった。それも良い。それが彼にとっての幸福だったのなら何よりだ。肉体から魂が離れると、男の身体は急速に干からび始めた。色褪せ、ひび割れてゆく。全身が枯れた樹木のように灰色に変化していく。しばらくすると、その内部で微かに火種が燻り始める。パチパチと小さな音を立てたかと思うと、一気に全身に炎が燃え広がり、一瞬にして細かい灰になった。夜風が吹き抜け、彼の亡骸を暗い夜空へと運び去った。 「用は済んだかよ。まったく、何だったんだこいつ」 背後からの悪態に舌打ちする。男を無視して歩き始める。 「おいおいシカトか? こちとらずっと腹が減ってんだ。この無駄な寄り道の理由くらい教えろよ」 うんざりだ。私は自身の我慢の限界が近いことを悟り、人気のない路地へと歩を進めた。街の喧騒が遠ざかる。雑居ビルの間、飲食店が背中合わせに連なる薄汚れた細道。袋詰めされたゴミや段ボールが乱雑に並ぶ。足元には油膜の貼った黒い水溜りが点在する。 「おい! いい加減にしろよ!」 男の怒号が飛ぶ。私は諦めて立ち止まった。深い溜め息を吐きながら振り返る。 「彼は昔、私が“変えた”男よ」 短く一言だけ発して踵を返す。これ以上余計な詮索は止めろ。質問にも応じない。その意思表示だ。鈍い頭でもこれくらい簡単なことは汲み取れるだろう。 「はぁ? じゃあなんだ、あれか? 元カレとか? ははっ! マジかよ! なんで野垂れ死んだんだよ? 意味分かんねぇ」 下卑た笑い声が背中を叩いた。血の気が引くのが分かった。 私は再びピタっと足を止めた。すぐ後ろを歩いていた男は、突然立ち止まった私にぶつかりそうになってよろめいた。振り向きざまに、前屈みになった男の喉元を鷲掴みにする。細い指先が皮膚を突き破り、みるみるうちに真っ赤な血に染まる。容赦なく締め上げる。 「ぐがっ!! な、なにを……!!」 赤黒い泡を吹きながら男が暴れる。必死に私の腕を振り払おうと藻掻く。私は微動だにしない。呆れるほど貧弱だ。嘆息しつつ私は目を閉じた。 「あなたのバカさ加減には、本当にうんざりするわ。人間よりほんの少しタフになった程度で、不死身の暴君にでもなったつもり?」 ゆっくりと瞼を上げる。その奥には透き通るブルーの瞳は無い。燃えるような真紅の瞳が男を見据える。いつの間にか身長は男とほぼ同じくらいまで高くなっている。髪は根本から徐々に変色し、月明かりを映して黄金に煌めく。本来の私の姿だ。のたうち回る男の目が恐怖に染まっていく。 「自分が不老不死だと思っているでしょう? 大間違いよ。まだ教えていないだけ。殺し方を。乳飲み子にいきなり言葉を教えないでしょう? 同じことよ」 淡々と話しかける。男は苦しさと激痛でボロボロと涙を流しながら必死に足掻いている。チッと舌を鳴らして男を突き飛ばす。汚れた壁に打ち付けられた男は、ゴホゴホと咳き込みながら身体を丸めて蹲った。 「私のモットーを教えてあげる。『好きに生きるなら、後悔するな』よ。それなりに長く生きてるけど、お陰様で悔いは少ない人生だわ。そんな中でも、あなたを変えたのは私の人生の汚点の一つよ」 吐き捨てて歩き出す。男が地べたを這って私に追い縋る。これからどう生きるかは自分で好きに選べばいい。幽鬼のようにただ無限に無様に生き長らえるのか。それとも彼のように、命の意味を探して果てるのか。こうなってしまったからには、私にもこの愚か者にも、もはや気まぐれな最後しか選択肢は無いのだから。 |
星子 2023年12月31日 03時48分56秒 公開 ■この作品の著作権は 星子 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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