【長編】ミテソシテ |
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※1 グロテスクな表現があります。 ※2 小説〈リング〉(作:鈴木光司/1991年初版)に関する内容やネタバレがあります。 ●プロローグ 電車に轢かれて死ぬとどうなるか。 そう聞かれて多くの人々は口を揃えて言うだろう、「悲惨なものだ」と。人体が徹底的に破壊され、見るに堪えない姿になってしまうことはよく知られている。 生前の顔が判らないほどに破壊された頭部。強引にねじ切られた手脚。破れた肉の袋と化した胴体からは臓腑がこぼれ落ち、酷い時はその内容物までぶち撒けられている。衝突時に弾け飛ぶ部分も多く、警察関係者によれば全ての肉片を回収することは難しいそうだ。 こうなってしまうともはや、人間の尊厳など跡形もない。健全な精神の持ち主であれば、このような最期は可能な限り避けたいと思うのが自然だ。 だというのに。 ここに一人、線路内で座り込む女がいる。 踏切の警報機は規則的に鳴り続いていた。 緊急停止ボタンを押す者はいない。 巨大な鉄の塊が近付いてきた。 警笛、 ブレーキ音、 しかし間に合わない。 衝突音が、夏の空に響いた。 ■七月十三日 両親から聞いたところによると、俺は帰宅するなり玄関で倒れたらしい。今から六日前、つまり七月七日の出来事だ。 まだ梅雨は明けておらず、高すぎる湿度の為か、曇天にも関わらず異様に蒸し暑い日だったと記憶している。その日は一学期の期末テスト最終日だったはずだが、下校中の俺は解放感から程遠い心理状態だったようだ。きっとあの時、精神的に耐え難い『何か』が自分の身に降り掛かってきたんだろう。 自分の事なのに想像でしか物が言えないのは、俺の記憶が一部抜け落ちているからだ。当日の朝はいつものように起き、朝食を摂って学校へ行った。朝のショートホームルームで出席の返事をして、その後はテスト。二限目の数学では苦手な三角関数が出題されたので、思わず天を仰いだことを覚えている。 しかしその後――正確に言えば、下校時の記憶が全くない。まるで誰かに奪われたかのように。おそらく誰かと一緒に学校を出たはずだが、その誰かの顔も名前も覚えていない。 記憶が再開した最初の光景は、安堵の表情を浮かべた両親の顔だった。今年十七歳の一人息子を心の底から案じていたようで、俺が目覚めた時には涙が溢れるほど安心したという。「帰ってきたと思ったら、いきなり倒れるんだもの。慌てて救急車呼んだわよ。」第一発見者の母親は、強がった笑みを浮かべながらそう話していた。 担当医によれば、突然の意識消失や記憶の一部欠損は、過度なストレスが原因かもしれないとのこと。精神に強い負荷がかかり、そのせいで脳がシャットダウンした。これは心が壊れるのを防ぐ自己防衛機能みたいなものだそうだ。確かに俺は日頃から周りの目を気にし過ぎるところがあるから、自分が知らないうちに不要なストレスを蓄積させていたのかもしれない。 市内の病院に運ばれた俺は入院を余儀なくされ、五日目にしてようやく「通学に支障なし」との診断を受けた。夏休みまであと一週間ほどだったから、このまま休んでしまうことも考えたが、クラスメイトや世話になっている先輩の様子が気になっていたので登校することにした。 今朝は相変わらずの曇り空で、まとわり付くような湿気が感じられた。学校の最寄り駅から歩くだけで汗が吹き出し、制服のシャツが体に貼り付く。なんとも言えない不快感を覚えながら教室にたどり着き、出入口のスライドドアを開く。すると、既に登校していたクラスメイトの視線が一斉にこちらを向いた。 ……何だこれは。 教室内での反応は大きく分けて二通りだった。見てはいけないものを目にしたように、視線を逸らす生徒がほとんど。残りの少数、特に女子の一部は俺を蔑(さげす)むような目で見ていた。 心臓が縮み上がるような感覚。胃がキリキリと傷む。 俺はクラスの人気者ではないから、久しぶりの登校を大歓迎して貰えるとはそもそも思っていなかった。 かといって嫌われ者でもなく、俺は言うなればスクールカーストど真ん中の個性なき男子高校生。分をわきまえて、人付き合いにはそれなりに気を遣ってきたつもりだ。それなのに、俺がこんな扱いを受けなければならないのは何故だろう。 もしかして、記憶が抜け落ちている部分に原因がある? 記憶には無いが、みんなに避けられるようなことを俺はしたのか? だとしたら今この状況を甘んじて受け入れ、信用回復に努めるしかないのだろうか。 額に浮かんだ嫌な汗を手で拭い、俺は自分の席につく。努めて平静を装うが、周りには自分がどう見えているのか気になって仕方がない。 室内を見回す。生徒のほぼ全員が既に登校しているようだ。予鈴が鳴るとめいめいに自分の席につき、ショートホームルームに備える。遅れて登校してきた生徒が最後の一人だったようで、本鈴が鳴るのと同時に担任の稲葉先生が教室に入ってきた。 「みんないるか。出席とるぞ」 三十五歳独身、まったく女っ気のない男性教師はボサボサの頭をかきながら出席簿を開く。 「安堂、来てるか?」 出席番号一番は俺だ。久々に名前を呼ばれたので少し反応が遅れた。 「あっ、はい」 稲葉先生は生気のない目で俺を見る。 「久しぶりだな。無理はするなよ」 声に何の感情も込められていない。担任として最低限これだけは言っておこうという程度の考えが見え透いていた。俺が入院した時も、見舞いの言葉一つさえ寄越さなかった人だから、まあこんなもんだろう。人情味あふれる熱血教師を期待しているわけではないから、別にこれで構わない。 順番に名前が読み上げられ、生徒が一人ずつ返事をしていく。いつもと変わらない教室でのルーティンワーク。俺が自宅で倒れた日の朝も、こんな感じだった。 ――いや。 窓際最前列の空席が目に止まった。俺の席は前から三番目で教壇の真正面にある。空席は俺から見て左前の位置だ。 欠席だろうか。もう七月だから、クラスメイトの顔と名前は記憶の中で一致している。なのに空席に座っていたはずの生徒が誰だったか思い出せない。 その生徒の名前が呼ばれることもなく、出席確認が終わった。稲葉先生は空席を一瞥すると、気持ちを切り換えるかのように眼鏡をかけ直した。 「もうすぐ夏休みだな。期末テストが終わって皆すっきりしてるだろうが、羽目を外すことのないように。軽はずみな行動が原因で、周りに迷惑をかけることもあるからな」 教師としては至極もっともなことを言っているが、「これ以上、俺の仕事を増やすんじゃないぞ」と釘を刺しているようにも聞こえる。 その後は、夏休み中の過ごし方についての注意事項と、休み明けの提出物に関する連絡。こうしてショートホームルームは淡々と流れていく。稲葉先生が教室を出ていったので、一限目が始まるまでの間に、俺は右隣の席の男子に声をかけた。 「なあ、ちょっといいか」 隣の席の風見がビクッと反応する。俺に話しかけられるとは思ってもみなかったらしい。 「……な、何だよ」 風見は、おそるおそるといった様子で答える。強者の腰巾着といった雰囲気の彼は、親分が近くにいれば強気だが、一人だと大体いつもこんな感じだ。とりわけ今日は、俺に対して安全地帯を手探りするような態度があからさまだった。 「あそこ、誰の席だっけ?」 背中越しに空席を指さしながら聞く。こちらとしては、抜け落ちた記憶の補足ができればいいという程度の認識だった。 風見は伏せていた目を見開く。そして怯えと戸惑いに満ちた瞳で、こう言うのだった。 「お前……覚えてないのか?」 実際その通りだから仕方ない。 「すまん、記憶喪失みたいなんだ」 そう答えると、彼は魔物でも見たように目を逸らす。わずかな間を置いて、短い答えが帰ってきた。 「……先週、死んだ奴の席だよ」 その日の深夜まで、朝に言われたことが引っかかっていた。 自室のベッドでスマホをいじりながら、風見から聞いた話を思い返す。 蛇迫流姫(じゃさこ るき)。それがあの空席に座っていた女子生徒の名前だ。珍しい上にインパクトのある名前だから、一度覚えたら普通は忘れない。しかし俺の記憶には残っていない少女。彼女が死んだのは七月七日、つまり俺が自宅で倒れた日だ。この日は彼女にとっても、俺にとっても厄日だったらしい。 風見の話では、彼女――蛇迫さんは学校からの帰宅途中、踏切から線路内に入ったらしく、運行中の電車に轢かれて死んだという。自殺なのか他殺なのか、警察からは何も聞かされていないので分からない。翌々日には校長と稲葉先生が葬儀に参列したそうだが、それ以上のことは生徒に何も知らされなかった。彼女の死には不都合な点が多く、学校側はそれを隠蔽しようとしているに違いない――それが生徒間での共通認識なのだそうだ。 彼女はどんな生徒だったのだろう。風見からは、そこまで聞き出すことが出来なかった。 ふと思い立ち、スマホでネットのブラウザアプリを開く。検索ワードとして「蛇迫流姫」の名前を入力し、検索してみる。 数件のヒットがあった。彼女は実名でfacebookとTwitterをやっていたようだ。検索結果をスクロールしていくと、他には〈ルッキーナ〉という名前で動画配信もしていた履歴がある。その動画に投稿されたコメントを参照するに、顔出し配信が原因ですぐに身バレしていたようだ。今ではアカウントが停止されているので、実際どのような動画を配信していたのか観ることはできないが、動画サイト管理者からストップがかかるぐらいだからそれ相応の理由があったのだろう。 彼女のfacebookを開いてみた。閲覧制限は無い。名前や誕生日の他、出身地や在学している高校の名前まで載っている。顔写真はというと、幾つかの自撮り画像が確認できた。 一番よく撮れているものは、左斜めの顔をやや俯瞰ぎみに写した写真だ。もみあげの髪を手で左耳に掛けながら、はにかんだような笑顔をカメラに向けている一枚。 可愛い部類に入ると思う。黒目がちでセミロングの黒髪、清楚系といったところか。スポーツをやりそうな雰囲気ではないものの、左手首に白いリストバンドをしているのが気になった。髪を左耳に掛ける癖があるようで、そんな仕草をしている写真が幾つもあった。 本人のコメントは、いちごタルトが美味しい店に来てみたとか、洒落た雑貨店で可愛い小物を見つけたとか、同年代の女子としては割とありきたりなものばかり。結構な頻度で書き込んでいたが、その返信はごく稀にしか投稿されていない。楽しさを共有できるリアルの友達が少なかったのかもしれない。 ではネット上での友達はどうか。次にTwitterを開いてみる。実名で、しかもヘッダー画像に自分の自撮り写真を使っている。ネットリテラシーに疎いのか、それともリスクを犯してまで他人との繋がりが欲しいのか。自己紹介文には「寂しがり屋です。かまってくれると喜びます。」とあるので、おそらく後者だろう。そのことは、フォロー数がフォロワー数の三倍以上もあることから窺える。 ツイートの内容はfacebookと似たりよったり。違うのは返信の多さだ。匿名で繋がり合えるTwitterならではの気軽さ故に、フォロワーからリプライされやすいのだろう。 ネット上での情報から、蛇迫さんは生前、他人との繋がりを求めているタイプの女子だったという印象を受けた。 「ん?」 その時、ショートメールを受信した。いつもはLINEをメインで使っているので珍しいと思った。 アプリを開いて、受信したメールを確認する。送信元が空白になっていた。電話帳に登録されている人からのメールであれば、名前が表示されるはずなのに。 メールを開き、内容を閲覧する。といっても、本文にはURLが書かれているだけだった。その一部には〈mitesoshite.mp4〉とある。どうやら動画ファイルへの直接リンクらしい。 気になるのは、動画ファイルの名前だ。ローマ字読みすると「ミテソシテ」。外国の言葉だろうか? 意味がよく解らない。 奇妙だ。送信元は不明、本文はURLのみ、動画ファイルには意味不明な名前が付けられている。新手のフィッシング詐欺かとも思ったが、こちらの不安を煽ったりURLへのアクセスを促したりする文言が無いので多分違うだろう。もしかしたらコンピューターウイルスの拡散を狙った迷惑メールなのかもしれない。だとしたらURLをタップした瞬間に感染してしまう可能性がある。 さて、どうしたものか。普通に考えればこんなメールは無視して削除すればいいのだろうけど、何かしら意味ありげなファイル名からして送信者の強い意思を感じてしまうのも確かだ。スマホのウイルス対策アプリは最新版にアップデートしたばかりだから、危険を承知でアクセスしてみようか。 などと考えているうちに、俺は導かれるようにしてスマホの画面に指で触れていた。 一瞬、画面がブラックアウトし、続いて動画が全画面表示される。 どこかの線路内で撮影された動画のようだった。目線の高さからして、線路内に座り込んだ誰かが線路の伸びている先を見通しているロケーション。おふざけにしては危険な内容だ。 と思ったのも束の間。電車が向かってくるのが見えた。 胸がざわめいた。呼吸が荒くなる。嫌な予感がした。 画面が揺れる。撮影者の焦りが伝わってくるようだ。必死で逃げようとするが、立ち上がることができないらしい。 迫る電車の先頭車両。危険を知らせる警笛が鳴り響く。 おい、何してるんだ。早く逃げろ! 思わずそう叫んでしまいたくなる。だがそんな願いも虚しく、電車は軋むようなブレーキ音を鳴らしながら画面いっぱいにまで近づいて―― ぎぃぃぃぃぃいいいいいやぁぁぁぁぁあああああああああっ! スマホのスピーカーが壊れるかと思うほどの大音量。女の悲鳴が部屋を揺るがせた。 ドッ、ウブッ、オッオッという衝突音なのか声なのか判別できない音声がその後に続き、画面が激しく揺れる。カメラが車両の下に巻き込まれたらしく、電車の車輪や何処かの部品、線路の枕木みたいなものが目まぐるしく映し出される。やがて画面は横向きのまま停止した。あらぬ方向に折れ曲がった腕が映り込み、その手首には血染めのリストバンド。映像はまだ続いているらしく、端の方に映った踏切に人影が見えた。離れている上に逆光なので風貌や性別は判らないが、その人影は慌てた様子で走り去る。その姿が見えなくなると、動画はぷつりと切れた。 ……何だったんだ、今のは。 動画を観終わった後は、しばらく動悸が収まらなかった。俺はベッドの上で縮こまり、Tシャツの胸辺りを掴む。息が苦しい。 部屋の外からドアがノックされた。ビクッと体が震え、肌が泡立つ。何か得体の知れない化け物が、ドアの向こうに立っているのを想像した。 「友稀? どうしたの、凄い音が聞こえたけど」 母さんの声だ。溜息が漏れる。 「ごめん、動画の音量設定ミスっただけだから。何でもない」 昨日退院したばかりなので、これ以上心配させるわけにはいかない。とりあえず、嘘にならない程度に返事したら相手は納得したらしい。足音が遠ざかっていく。 それからしばらく、俺はベッドの上で身動きが取れなかった。 動画の内容もさることながら、衝撃的かつグロテスクな映像を送りつけてきた誰かの悪意が怖くて仕方ない。一体誰が、どういうつもりであんな酷いものを俺に見せようとしたのか。何かの仕返しなんだろうか。そんなことをされても仕方ないぐらい、俺は非道な行いをしたのか。 興味本位で観るんじゃなかった。そんな後悔の念は、眠りに落ちるまで俺の心を蝕み続けるのだった。 ……寝苦しい。 エアコンを点けたまま寝たはずなのに、部屋がいっこうに涼しくならない。ねっとりとした空気が、室温を高く感じさせているようだ。湿ったシーツの上で寝返りを試みたものの、体が仰向けのまま動かない。 金縛りに遭ったようだ。体が動かせないのに、感覚は研ぎ澄まされている。締め切っている部屋に吹く微風、腐った魚のような生臭さ、ほんの僅かな衣擦れの音―― 部屋に、誰かが入ってきた。 気配が近づいてくる。ひた、ひたという足音。ベッドが軋む。侵入者がベッドに乗ってきた。こんな時間に、何をするつもりだ。分からない。正体不明のものが間近にいることに恐怖を覚えた。 俺の爪先に何かが触れる。羽根のような軽さから、指先でなぞるような感触へ。今度は手のひら。誰かの手が、俺の脛(すね)を太ももの方向へと撫でていく。 気持ち悪い。こいつは俺に何をしようとしている? やめてくれ、そう言いたいのに声が出ない。体だけでなく、喉まで硬直しきっているようだった。 侵入者はTシャツの上から俺の腹をまさぐり、続いて胸へと。最初は片手だけだったのに、首の辺りからもう片方の手も加わった。両手の四指が俺の頸動脈をなぞり、耳の後ろを経由して後頭部へ。冷たい手のひらが、俺の頬を両側から挟んだ。水で湿っているのか、やけにしっとりした手……。 誰だ。誰がそこにいるんだ。そもそもお前は人間なのか。 見たい。知りたい。だが目を開けば、化け物の顔を見ることになるかもしれない。そうなった場合、命の保証はあるんだろうか。顔を見た瞬間、魂を抜かれたりしないだろうか。 その時、耳元に何かが近づいた。耳に感じる吐息と冷気。嫌悪感とも寒気とも形容できない感覚が込み上げてきた。 「……私を…………し……て……」 囁かれた。 一瞬にして背筋が凍りつく。 やめろ、やめろ、お前は何がしたいんだ! 「……っ、あっ⁉」 何とか声が出た。と同時に目が開く。 そこに化け物の顔は無かった。姿、影さえも。 ふっ、と気配が霧散していく。体の縛めが解かれた。 枕元の目覚まし時計を見ると、時刻は午前三時を示している。 この時ほど、朝が待ち遠しいと思ったことはなかった。 ■七月十四日 結局、朝まで眠れなかった。 両親に心配をかけまいと、何事もなかった風を装い、いつものように登校する。 梅雨が明けたのか、緑豊かな街路樹からは蝉の鳴き声が聞こえる。今日の天気のように晴れ晴れとした気分だったら、夏の知らせを快く感じることもできただろうが、寝不足の俺にとっては煩わしい騒音でしかなかった。 教室に入ると、クラスメイトのこちらに対する余所余所しい態度は昨日と変わらず。隣の席の風見は、まだ登校していないようだった。今日は俺に話しかけられないよう、欠席するつもりなんだろうか。 皆に避けられているのは仕方ない。そう割り切ることにしたものの、一人でいることに慣れるまでには時間がかかる。孤独に耐えきれなくて、どうしても周りの話し声に耳を傾けてしまうのだった。 ――変な動画が届いてさ。 誰かがそう言った。変な動画とはどんなものだろうと続きを聞いていたら、昨夜に俺が観たのと同じ動画だったことが分かった。視線を巡らせると、自分のスマホで別の生徒に動画を見せている女子もいる。彼女も俺と同じ動画を受け取ってしまったらしい。 ――ねぇねぇ、ちょっとこれ観て。 ――うん、うん……何これ、えっぐぅ。マジキモいんだけど。 ――それ、知ってるぅ。あたしんところにも来たんだよ。 ――ああ、俺も俺も。なんか昨日、急に届いたんだよな。意味わからん。 ――お前も? 何なんだろうな、これ。 聞き耳を立てているうちに分かったことがある。それは、俺以外にも例の動画を受け取った生徒が複数いるということだ。誰かが俺だけに嫌がらせするつもりで動画を送りつけたわけではなさそうなので、そこは少しだけ安心した。 だがそうなると、最初の疑問に再び突き当たる。 あの動画は、誰が、どんなつもりで送信してきたのだろうか。 不特定多数に嫌悪感を覚えさせる為だとしたら、やや中途半端に思える。他人に嫌な思いをさせたいなら、もっと過剰な演出があってもいいはず。血みどろの体躯や、こぼれ落ちた内臓を映したりなんかして。 だけどあの動画には、淡々と事実のみを映したようなリアルさがある。それだけに、何かしらのメッセージ性があるように思えてならない。 動画を送信した目的が、『犯罪の告発』だったとしたらどうだろうか。 誰かが電車に轢かれて死んだ。これは自殺や事故ではなく、他殺なのだ。犯人はまだ捕まっていない、だからこの動画を手がかりにして、犯人探しに協力して欲しい。それが送信者の伝えたかったことだとしたら。 動画の内容を思い出す。 電車に轢かれた人物は、衝突の直前まで逃げようとしていた。しかし、避難が間に合わなかった。そして最期に断末魔の悲鳴を上げ、絶命した。 あれが自殺だったとは思えない。死ぬ覚悟を決めた人間が、逃げようとしたり、悲鳴を上げたりするとは考えにくいからだ。 だったら、こういうのはどうだろう。 仮に、電車に轢かれた人物をAとする。次に、動画の最後に映っていた別の人物――逃げた人物のことだ――はBとする。 AとBには何らかの関係があり、とある理由から二人で踏切まで行った。そこでAは、線路内へ入るようBに強要された。あるいは、身動きができない状態にされ、線路内に放置された。そこへ電車が来て衝突、Aは即死した。一連の出来事がBの思惑通りだとしたら、これはれっきとした殺人だ。 その後、Bは逃走する。慌てて逃げるように見えたのは、事が終わってからようやく自分の行いに恐怖を感じたからか。それとも犯行を誰かに見られたからか。いずれにせよ、警察に通報するそぶりを見せずにその場から逃げ出すぐらいだから、自分の罪が追及されるのを恐れてのことだろう。 ――ん? 待て、待て、待て。『電車に轢かれて死んだ』だと? そういえば、そういう死に方をした女子生徒がいる。 蛇迫流姫。クラスメイトなのに、俺の記憶には残っていない少女。彼女が亡くなったのは七月七日。この日は、俺が自宅で倒れた日でもある。偶然にしては出来すぎじゃないだろうか。 あの日、強いストレスに晒された俺の脳は、心が壊れるのを防ぐ為に強制終了した。だったら、俺が感じた強いストレスの原因は、蛇迫さんの死なのか? どうして俺が彼女の死に対して、意識が飛ぶほどのストレスを感じるんだ。俺たちはそれほどの関係だったのか? もしかして、彼女の死には俺が深く関わっている? 動画の内容を反芻する。あれは蛇迫さんが死ぬ瞬間を撮影したものかもしれない。だとしたら、Aは蛇迫さんだ。 じゃあ、Bは誰なのか。 そのとき俺は、恐ろしいことに気づいた。 彼女を殺したのは――俺かもしれないということに。 自分は殺人犯かもしれない。 そう考えるだけで生きた心地がしなかった。もし本当にそうだったら、俺は警察に自首すべきだろう。 しかし踏ん切りがつかないのにも理由がある。蛇迫さんそのものや、七月七日下校時の記憶が完全に抜け落ちているから、自分が犯人だという確証がないのだ。 自分がしたことを覚えていない、これが事を厄介にしている原因だと言える。自分の記憶が当てにならないなら、周りの記憶に頼るしかない。つまり、他の生徒から証言を集めるのだ。 今の俺がクラスで孤立している以上、証言を集めるのは困難を極めるだろう。俺の悪い噂が他のクラスにまで広まっていた場合は、誰からも協力して貰えないかもしれない。さて、どうしたものか……。 こんな時、悩みを相談できる人物には一人だけ心当たりがある。 その人は幼い頃から付き合いのある先輩で、これまでにも何度か厄介事を引き受けて貰っている。少々面倒くさいところはあるけれど、誰よりも頼れる存在だ。先輩が協力してくれるなら、少なくとも悪い方向には転ばないだろう。 そう考えた俺は、放課後に部室を訪れたのだった。 部室があるのは旧校舎だ。今では主に部活動用の建物として使われていて、そこの二階に文化系の部室が集中している。階段を上がって右に曲がり、一番奥まで行くと通い慣れた部室に着く。ドアには〈文学部〉と書いたプレート。三年生の先輩と俺しか所属していない、ごく小さな部だ。うちの学校に古くから存在しているらしいのだが、先輩の卒業後、新入部員がなければ廃部になることが決まっている。気が向いた時だけ顔を出して、好きな本を読むだけの部活だから、存在意義が疑われるのも無理はない。 ドアを開くと、窓際の椅子に腰掛けて読書している女子生徒が見えた。窓の外には夕焼け。青春の一ページのような風景に先輩が溶け込んでいた。 「やあ、遅かったね。掃除当番を代わってあげただなんて、実に君らしいな」 ぱたんとハードカバーの本を閉じて、萬屋千景(よろずや ちかげ)先輩がこちらを向いた。前髪をヘアピンで留めておでこを出し、レンズが大きめの黒縁眼鏡を掛けている。溌溂とした顔つきや喋り方から、生徒会長でもやっていそうな雰囲気の持ち主だが、本人いわく活動の中心になるよりも裏方のほうが性に合っているそうで、生徒会には陰ながら協力する方針を取っている。 「ええ、まあ……」 千景先輩には、相談に乗って欲しいことがあると事前に連絡していた。それで放課後に部室で待ち合わせることにしていたのだが、集合時刻が大幅に遅れてしまった。その理由は彼女が言う通り、俺の都合によるものだ。掃除当番の生徒がバイトに遅刻すると言うので、俺が代役を務めたからだった。 「相変わらず自己犠牲の精神が強いね、君は」 俺が約束の時間に遅れたことを咎めもせず、先輩はニコニコと微笑みながら歩み寄ってくる。俺より小柄で童顔なくせに、お姉さんぶった余裕を醸し出そうとするのはいつものことだった。 「そんなことないですよ。俺のはただの保身です」 俺が他人に親切にするのは、自分が周りに悪く思われないようにする為。ただのポイント稼ぎだと言ってもいい。心の底から誰かの役に立ちたいと思っているわけじゃない。そんなことを考えるのは、千景先輩ぐらいなものだ。 彼女は、人助けが自分の趣味だと言ってはばからない。困っている人の顔を見ると、なんだかゾクゾクしてしまうのだそうだ。果たしてそれは彼女が持つ特殊な性癖なのか、常人には理解できない聖人の徳性なのか。俺には到達できそうにない領域だった。 彼女は俺のご近所さんで、幼稚園のころから付き合いがある。学年はあちらが一つ上だけど、先輩は三月生まれで俺は四月生まれだから、年齢的にはほとんど差が無い。そうと理解しているから、彼女は事あるごとに自分がお姉さんであることを強調しようとする。見た目が俺より若いので、実はそれがコンプレックスなのかもしれない。 「またまた謙遜を。自分が偽善者だと言い張るのは、照れ隠しなのかな?」 ほら始まった。彼女のお姉さんムーブだ。 「まったく素直じゃないねぇ。とはいえ、そんな君が私に頼み事とは嬉しい限りだ。一体、どうしたんだね?」 「その……」 俺は口ごもる。相談したいと言っておきながら、まだ俺は先輩を巻き込むことに躊躇いを感じている。 「深刻そうな顔をしているね」 千景先輩は、中指を使ってくいっと眼鏡の位置を修正した。それから、少しだけ上ずった声で。 「大丈夫か? ええと……その……私のおっぱ……胸でも、揉む……かね……?」 どこでそんな対処法を覚えたのか、彼女は比較的なだらかな胸を俺に向かって突き出す。口では余裕綽々な風を装っているくせに、顔はあさっての方を向き、耳まで真っ赤になっていた。両目を固く瞑っているところからすると、本人にはそれなりの覚悟があるらしい。 ……恥ずかしいならよせばいいのに。そこまでして彼女は、自分のほうがお姉さんだと知らしめたいらしい。 変なところで必死な彼女を見ていたら、少し気持ちが和らいだ。胸の方は丁重にお断りして、俺は本題を切り出したのだった。 俺が入院していたことは千景先輩も把握済だ。長く付き合いのあるご近所さんだから、それも当然だろう。だからその話は省略して、俺は自分の記憶が一部抜け落ちていることから説明した。 そこから先は、相談するに至った経緯など。久々に登校したら皆よそよそしい態度になっていたことや、奇妙な動画が送信されてきたこと、その動画は同じクラスの女子生徒が電車に轢かれて死ぬ瞬間を映したものかもしれないこと、そしてその女子生徒を殺したのは――俺かもしれないこと。話せることは全部話した。 俺が話している最中、千景先輩は一切口を挟まず、逐一頷きながら話を聞いてくれた。こうして聞き役に徹してくれるところが、多くの人から信頼されている所以なのだと俺は思っている。 「話は以上です。先輩は、俺が蛇迫さんを殺したと思いますか?」 「そんなわけないだろう」 即答だった。 冗談ではなく、真剣な顔で。理由はまだ聞いていないが、はっきりと否定して貰えたことが嬉しかった。俺はこの人に「お前は犯人じゃない」と言って欲しかっただけなのかもしれない。 「君が誰かに騙されて殺されてしまうことはあるかもしれないが、その逆はあり得ないと私は思っているよ」 千景先輩は恥ずかしげも無く言う。 「君ほどのお人好しが、誰かを殺めるなんて考えられない。これは幼い頃から付き合いがある者としての直感だがね」 どうしてここまで言ってくれるのか。返す言葉が思いつかないでいると、先輩は俺が訝しんでいるものと解釈したらしい。 「もちろん、私が言うだけじゃ君は納得できないだろうね。君の無実を証明するには、客観的事実の積み上げが必要だ」 「そうなんです。だから先輩にも、俺や蛇迫さんに関する証言を集めて欲しくて」 千景先輩には広い人脈がある。それは日頃の行いの賜物だ。彼女に任せておけば文化系の部活だけじゃなく、運動系の部活や生徒会、もしかしたら先生からも話を聞けるかもしれない。 「二人で手分けして、ってことでいいかな?」 「はい」 自分のことだから、先輩に丸投げするわけにはいかなかった。今の状況からして、俺と話してくれる生徒は少なそうだけど、そこは耐えて地道にやるしかないだろう。 「分かった。可愛い後輩の為だ、ひと肌脱ごうじゃないか」 頼もしい限りだ。俺は礼を言って頭を下げる。 「ところで」 千景先輩が話題を変えた。 「君が話していた動画についてなんだがね」 と言って彼女は鞄からタブレット端末を取り出す。生徒会活動の協力に必要だという名目で、持ち込みの許可を受けているそうだ。 「これのことかな?」 画面に表示された動画を見せられた。遠くまで続く線路が映し出されている。例の動画の冒頭部分だ。 俺が肯定すると、千景先輩は動画を一時停止させる。 「実はこの動画、私宛にも送信されてきたんだ。視聴してみたんだが、かなり不穏な内容だね」 まさか先輩にも届いていたとは。ますます送信者の意図が解らない。 「誰が、どういうつもりで送ってきたのかと思ったから、ちょっと分析してみたんだ」 日頃からミステリーやホラーを愛読しているだけあって、謎めいた動画は彼女の興味を強く引いたようだ。 彼女はタブレット端末の画面を触った後、俺に動画の詳細情報を見せた。 「この動画が撮影されたのは七月七日の午後六時二十二分。日付は蛇迫さんが亡くなった日付と一致している」 その日は俺が自宅で倒れた日でもある。母さんから聞いた話と照合するに、動画が撮影された時刻は俺が帰宅した時よりも少し前になる。 「次に動画の位置情報だが、座標を地図アプリに入力して検索すると、踏切の付近ということになるんだ」 先輩は地図アプリを立ち上げて俺に示す。表示されている町名からすると、うちの高校の学区内にある踏切だと分かる。そこの近隣には生コン工場や運送会社の社屋、倉庫といった建物が並んでいた。住宅街からは少し離れたところらしい。 「プロパティに撮影者特定の手がかりになるような情報が含まれていたら話は早かったんだが、そうでもなかった。ついでに言えば送信元が不明というのも興味深いね」 それからしばらくの間、千景先輩はタブレット端末の操作を続けていた。 「お、あったあった。やはりそうか」 何かを見つけたらしい。俺が覗き込もうとすると、彼女が画面をこちらに向けてくれた。画面にはウインドウが二つ並んでいて、一つは例の動画の静止画像、もう一つはfacebookにアップされていた蛇迫さんの自撮り写真だった。 「ここを見てごらん。白いリストバンドをしているだろう?」 千景先輩が示したのは、動画に映っている血染めのリストバンド。 「次にこちらを」 続いて示されたのが、蛇迫さんが左手首に付けたリストバンドだった。 「どちらも同じものだと思うんだ。ワンポイントが合致している」 確かによく見ると、どちらのリストバンドにもひび割れた涙を図案化したワンポイントが刺繍されている。 日付、撮影場所、そしてリストバンド。これらの条件から考えられるのは―― 「てことはやっぱりこの動画、蛇迫さんが轢かれる瞬間のものってことですか」 「おそらくそうだろう。どうやって撮影したのかまでは分からないがね」 胃が重くなる。記憶に残っていないとはいえ、関わりのあった人間が死ぬ瞬間を見るのは精神的に辛いものがある。 「そうですか……」 と相槌を打ったところで、部室の外が騒々しいことに気づいた。 「何だろうね?」 先輩も気になったようだ。 部室の外に出ると、階段の方から声が聞こえてきた。 時間的には他の部活もそろそろ終わるころだが、まだ多くの生徒が残っているらしい。階段の近くに人混みができていた。 こんな時、つい人混みに近づいてしまうのは野次馬根性か。ざわめきに耳を傾けると、誰かが階段から落ちたという言葉が聞き取れた。 下階を見下ろすと、踊り場に男子生徒が倒れているのが見えた。金髪頭の周りに、赤い血溜まりが出来つつある。四肢を投げ出したまま、ピクリとも動かない。左手の近くには画面の割れたスマホが落ちていた。 彼の周りには誰もいない。集まってきた生徒は誰も、負傷者に近づこうとせず、遠巻きに眺めているだけだった。 ――くそっ、これが俺の役回りか。 内心で悪態をつきながら、階段を駆け下りる。雨の日だったら危険な行為だが、今日は終日晴天。足を滑らせて二次被害、という心配は無さそうだ。 「おい、大丈夫か」 傍らにしゃがみ込む。仰向けに倒れている男子生徒の左胸には、〈火野〉という名札。彼は白目をむき、口から泡を吹いている。見るからにヤバい状態だ。 その瞬間、火野の痙攣が始まった。頭を強打したからだろうか。とっさに俺はハンカチを丸めて彼の口に突っ込む。舌を噛まないようにする為だ。 「それじゃ駄目だ!」 鋭い声が聞こえた。 白いワイシャツに黒いスラックス姿の男が階段を駆け下りてきて、俺の隣にしゃがみ込む。うちの学校では見ない顔だった。 「これだと窒息してしまう」 と言いながら、男は火野の口からハンカチを取り出す。 「君、救急車を」 「あっ、はい」 言われるがまま、俺はポケットからスマホを取り出して通報する。救急隊員から矢継ぎ早に飛んでくる質問に、答えるのがやっとだった。 救急車のサイレン音が遠ざかる。あの後、階段から落ちた生徒――火野の担任教師が駆けつけてくれ、病院までの付き添いをしてくれることになった。そういうわけで、俺と謎の男は学校に残ることに。相手は俺の視線に気づいたのか、スラックスのポケットから手帳のようなものを取り出した。 「驚かせてすまないね。鐘鳴署の佐野だ」 開かれた手帳には〈警部補 佐野聡志〉と書いてある。 「刑事をやっている。この学校に用事があって来たんだ」 佐野刑事は見た目四十代半ばといったところ。年齢の割には体が引き締まっていて、髪を綺麗に撫でつけている。鋭い目つきがなければ、シニア向けファッションのモデルをやっててもいいような印象だった。 「用事?」 反射的に聞いてしまった。 「先週、この学校の生徒が亡くなったんだ。その件を捜査している」 「もしかして……蛇迫さんのことですか?」 先週に亡くなった生徒といえば、彼女しか心当たりがない。何気なく聞いただけなのに、佐野刑事の反応は俺の予想を超えていた。 「君、何か知ってるのか?」 まさかこんなに食いついてくるとは思わなかった。佐野刑事は、犯人を追及するような目で俺の瞳を覗き込む。自分が蛇迫さんを殺したかもしれないと思っているから、俺の鼓動が一気に跳ね上がる。 「い、いえ……」 直視に耐えられず、目を逸らした。この態度が佐野刑事にはどう見えているのだろう。 「……まあ、同じ学校の生徒だから何も知らないわけではないか。すまない、嫌な思いをさせたね」 圧力を掛けるような雰囲気が、引き潮のように消えていく。この緩急の付け方が刑事としてのやり方なんだろうか。 「遺族の強い要望でね。娘が死んだ理由を必ず明らかにしてくれと。だからこうして、毎日学校に足を運んでいる。もっとも、なかなか協力して貰えないがね……」 佐野刑事は疲れたような顔をした。どうやら学校は非協力的らしい。 「それ、いじめの疑いがあるってことですか?」 生徒が亡くなり、学校側は口を固く閉ざす。となると考えられるのは、いじめを苦にした自殺の可能性だ。 佐野刑事は溜息をついた。 「私はそう考えている。しかし校長も担任の先生も、『いじめは無かった』の一点張りだ。それ以上のことは何も教えてくれない。困ったものだよ」 台詞の後半に、もう一つ大きな溜息が混じる。刑事として真相解明に尽力するつもりで来たが、何の成果も得られないことにもどかしさを感じているんだろう。 「あの……生徒から証言を集めたらどうですか? よかったら俺、手伝いますけど」 ちょっとした同情と、我ながら嫌らしい計算高さからそう言った。佐野刑事にも蛇迫さんに関する証言を集めて貰って、俺と情報交換する。そうすれば、効率的に真相へ近づいて行けるんじゃないだろうか。 「ほう? 君がか」 「あと、頼りになる先輩もいます」 千景先輩のことだ。ちなみに今、彼女は佐野刑事に頼まれて校門まで人を迎えに行っている。さっき電話していたから、佐野刑事が現場検証の為に後発隊を呼び寄せたんだろう。 「蛇迫さん、俺と同じクラスだったんです。何であんなことになったのか、俺も知りたくて」 「そうか。もしかして君、彼女と付き合っていたのかな?」 佐野刑事は、俺と蛇迫さんが特別な関係にあったと思ったようだ。 俺は首を横に振る。厳密にいえば記憶に残っていないだけで付き合っていたのかもしれないが、彼女に関して詳しく証言できないのであれば、ただのクラスメイトと変わらない。 佐野刑事は自分の携帯電話番号を俺に見せる。 「今後、何か分かったことがあればこちらに直接電話してくれ。署に電話しても、取り次いで貰えないだろうから」 「何でですか?」 反射的に聞いてしまった。他意はないつもりだった。 「既に結論が出ている事件を掘り返すと、お偉いさんがいい顔しなくてね。済んだ事件には人出を割けないと言ってうるさいんだ。だからこの件は俺の独断でやっている」 再捜査の結果、それまでの結論と違うものが明らかになったら、従来の捜査を否定することになってしまう。警察幹部としては、そんな恥ずべき事態を避けたいのかもしれない。 佐野刑事のやっていることは、組織人としては間違っているんだろう。だけど腐敗した組織に立ち向かうヒーローのような格好良さがあった。 「それでも捜査を続けているのは、刑事として見過ごせなかったからですか?」 「そんなんじゃないさ」 自重気味に言うと、佐野刑事は僅かに表情を曇らせる。 「……私にも娘がいたんだ。親として遺族に共感できる部分もある。だからだよ」 佐野刑事には辛い過去があったのかもしれない。余計なことを聞いてしまったと思うと胸が痛んだ。 ■七月十五日 今朝のショートホームルームでは、訃報が伝えられた。うちの学校の生徒が二人、亡くなったという。一人は火野という生徒、つまり昨日の放課後に階段から転落した男子生徒だ。 「それから。風見も昨日、息を引き取ったそうだ」 死者のように青ざめた顔の稲葉先生が、そう告げた。 俺は隣の席を見る。一昨日に言葉を交わした生徒が、もうこの世にはいない。それほど親しい間柄ではなかったので、悲しみが込み上げてくるほどではなく、実感に乏しいというのが正直な感想だった。 「風見は一昨日の夜、自宅を出たところで車に撥ねられた。警察から聞いた話では、スマホの画面を見ながら歩いていて車に気づくのが遅れたそうだ」 事故に遭ったのが一昨日、亡くなったのが昨日。学校に来なかったのは、そういうことらしい。 「皆のほとんどはスマホを持っていると思う。学校に持ち込むなとは言わないが、画面を見ながら歩くのは控えるように。亡くなったもう一人の火野も、スマホで動画を観ていて階段から足を踏み外したようなので、気をつけて」 火野も歩きスマホをしていたってことか。昨日、スマホの画面を見ながら歩いていた生徒が、二人とも不幸な事故で亡くなっている。この偶然は何だ。 俺が考えているうちに、稲葉先生はさっさと教室から出ていってしまった。自分のクラスの生徒が短期間に三人も亡くなったのだ、担任としては胃が痛いところだろう。 稲葉先生の退出を引き金に、教室がざわめき始めた。今月に入ってから、立て続けに同じ高校の生徒が三人も亡くなっている。しかも最初の一人、つまり蛇迫さんが亡くなってからは、複数人に奇妙な動画が送信されてきて、その後に亡くなった二人の男子生徒は、いずれも歩きスマホをしていて事故に遭ったという。 ざわめきの中で、こんな会話が聞こえた。 ――なぁ、風見って『あの動画』観たんだっけ? ――俺、LINEで送っちゃったよ。 ――既読付いてた? ――うん、付いてた。 ――それ、ぜってぇ観てるじゃん。 ――火野は? ――あいつにも送った。てか、こんなことになるなら観せなきゃよかったわ。 ――なんかヤバくね? あれ、『呪いの動画』なんじゃねぇの? ――『呪いの動画』って。観たら死ぬってこと? ――ちょっと、私、観ちゃったじゃない。何でそんなの観せたわけ? ――ごめん。こんなことになるって思わなかったから……。 ――いやだ、私、死にたくない! 『呪いの動画』という呼び名が真実味を帯びてしまう原因は、内容もさることながら、不可解な点が多いところにある。動画が送信されてきた理由や、送信者の素性が不明であること。動画を撮影した人物も特定できないし、撮影方法も分からないままだ。 それに加え、例の動画を観た生徒が立て続けに二人も亡くなっているという事実。因果関係は不明だが、奇妙な動画と不幸な結果が関連づけて考えられてしまうのも無理はない。 こうなるともう、例の動画には何か超常的な力が関わっているような気がしてしまう。 蛇迫さんの怨念があの動画を生み出し、多くの人々に観せようとしているのか。そして彼女は、動画を観た者に死を与えるつもりなんだろうか。 寒気がした。冷房のせいじゃない。 例の動画は、俺も観た。だったら俺にも死が迫っているかもしれない。 いつか、どこかで死ぬということ。それは誰もが理解している。だが遠い未来であるかのように漠然と考えている人がほとんどだ。俺も今までそうだった。 だが自分の生活圏で、しかも同年代の男女が立て続けに亡くなったことで、今では死が身近なものだと実感せざるを得なくなった。 恐ろしい。教室を出た瞬間、誰かに刃物で刺されるかもしれない。階段から落ちて頭を強打したり、下校途中で車に撥ねられる可能性もある。死期が不明なのに、自分が近い将来必ず死ぬという事実だけがつきつけられている感じだ。 どうにかして死を回避する方法はないだろうか。 考えられるのは、蛇迫さんに関する証言を集めることぐらいだ。自分が助かる方法を知る為に、今は少しでも情報が欲しい。 期末テストが終わったので、終業式までの授業は消化試合みたいなものだ。それでなくとも俺は、授業に全く集中できなかった。 それよりも力を注いだのは、蛇迫さんに関する証言集めだ。自分が助かる為には、なりふり構っていられない。 女子の一部は未だに俺を毛嫌いしていたが、他の生徒は概ね協力的だった。これは俺への評価が回復したからというよりは、話を聞く為に『呪いの動画』を引き合いに出したからだろう。 俺が話を聞けた範囲では、例の動画を知っている生徒は百パーセント。実際に観た生徒は九十パーセントといったところ。動画を観たという生徒は、自分の命が助かるならと可能な限り情報をもたらしてくれた。 『呪いの動画』を観た者には不幸が訪れる――という噂の広まり方であれば、生徒たちがここまで恐怖に駆られることはなかっただろう。不幸が訪れると言われても、それが具体的にどんなものか想像しにくいからだ。例の動画には、「観た者は死ぬ」という具体的かつシンプルな情報が付加されて広まっている。これによって、誰もが身の危険を実感できるようになった。 もちろん、例の動画を観た生徒全員が恐れ慄(おのの)いているわけではない。ただ、「自分が死ぬかもしれない」という可能性を完全に否定できないから、少なくとも「何となく怖い」という気にはなる。そうした心理が生徒たちに浸透していたので、俺は思ったよりも多くの証言を得ることができたのだった。 「さて、そろそろ情報交換といこうか」 隣を歩く千景先輩が切り出した。お互い、自宅がご近所なので、一緒に帰りながら情報交換できるのは都合がよかった。 「はい。どちらから始めますか?」 「私から話そう」 先輩が先陣を切る。 「女子のネットワークを使ったら効率よく情報が集まったよ。話し好きな子たちが知り合いにいると、こういう時は心強いね」 確かにその通りだと思う。彼女らが共有する情報量は、男子のそれを軽く凌駕する。 先輩は一呼吸おいてから話し始めた。 「蛇迫さんは現在の住所地に母親と二人暮らし。元々は父親を含めて三人だったそうだが、彼女が中学一年生の頃に両親が離婚したようだね。それで彼女は母親に引き取られる形になったそうだ。しかし親子仲は悪く、学校では常に母親への不満を漏らしていたそうだよ」 父親に任せられないから母親が引き取ったはずなのに、仲が悪いとはどういうことだろう。 「母親と不仲である理由までは不明だが、『母親が仕事にかまけてばかりで娘を放置していたからではないか』という推測は聞いたよ」 母親が仕事人間だったから、娘を相手にする暇が無かった。それで互いの心が離れていったってことだろうか。 「……と、ここまでなら割とよく聞く『上手くいっていない母子家庭』に留まるわけだが、蛇迫さんに関しては少し異質な点があってね」 千景先輩が声のトーンを落とした。周りに聞こえないよう気を配ったんだろう。 「彼女は少々……性的に奔放なところがあったようだ」 オブラートに包んだ表現だ。その話は俺も他の生徒から聞いていたので、何のことか直ぐに察しがついた。 つまり蛇迫さんは、多くの男性と肉体的関係を持っていたということだ。学校内外を問わず、また生徒だけでなく教師とも関係を持っていたという噂まである。 俺が聞いた話だと、彼女は一部の男子生徒の間で、『頼めば簡単にヤらせてくれる女』として有名だったそうだ。俺がそれを知ったのは、火野や風見と親しかった水嶋という生徒から「お前もあいつとヤったんだろ?」と聞かれたのがきっかけだ。自分には身に覚えが無かったので肯定しようもなかったが、水嶋はこちらが聞きもしないのに、蛇迫さんとの性体験を誇らしげに語るのだった。 清楚な見た目とは裏腹に、彼女は不特定多数の男と関係を持っていた。その情報を得た時、俺はようやく女子の一部から蔑むような目で見られていた理由が解った。 俺も、蛇迫さんと関係を持ったと思われていたのだ。性に奔放な女子のところへ引き寄せられていく浅はかな男子に対し、潔癖な女子は厳しい評価を下す。よく考えれば当たり前のことだ。 「君、彼女と会話しているのを何度か目撃されているようだね。その状況から、女子の一部が君に疑いを持っているそうだ」 千景先輩の言葉が耳に痛い。蛇迫さんに関する記憶が無いので、絶対に違うと言い切れないのが辛いところだ。 「で、実際どうなんだ?」 先輩がやけに突っ込んでくる。俺は答えようがないので黙り込むしかないが、これが肯定の沈黙と解釈されたらどうすればいいんだろうか。 千景先輩の顔を見ると、彼女のまっすぐな視線が突き刺さった。その圧力に負けてその場しのぎの否定をするのは、何か違う気がした。 「……すまない。記憶が残っていない君には意地悪な質問だったな。忘れてくれ」 千景先輩が視線を逸らす。彼女は自分を戒めるかのように、むき出しのおでこを手でペチペチと叩いていた。 しばらくの間、変な沈黙があった。 千景先輩は気を取り直したように、話を再開する。 「ま、そういうわけで。蛇迫さんは女子の大半から好ましく思われていなかったようだ。教室でも孤立していたそうだね」 見た目は真面目そうなのに、裏では何をやっているか分からないタイプの人が嫌われやすいのは世の常だ。蛇迫さんもそんな女子だとレッテルを貼られていたに違いない。 「私が聞いたのはこんなところだね。じゃあ、次は君の番だ」 俺は頷く。千景先輩が集めた情報とかぶる部分は省略するとして、何から話そうか。 そうだ、これでどうだろう。 「蛇迫さん、去年の夏休み明けまで付き合ってた男子生徒がいたらしいです」 「誰だい?」 「火野です」 この証言を得た時は体が震えた。火野は、昨日、階段から転落して亡くなった男子生徒だ。彼は転落する直前、スマホで動画を観ていたそうだが、観ていたのは『呪いの動画』だったという。つまり彼は、自分の元交際相手が死ぬ瞬間の動画を観ている最中、死に直結する事故に遭ったことになる。 「火野君はどういう子だったのかな?」 千景先輩は彼の人となりが気になったようだ。 「一言でいえば『オラオラ系』ってところでしょうか」 火野は『女を惹きつけるタイプのワル』という評価がぴったりの男子生徒だったと聞く。髪は金色、制服をラフに着こなし、言動は粗野。多くの同類を引き連れたリーダー的存在で、教師の手に負えない生徒の代表格だったという。そんな彼には、アウトローとしての魅力があったのだろう。蛇迫さんもまた、彼に惹きつけられた女子の一人だったわけだ。 彼女は相当、彼に入れ込んでいたらしい。でも火野はそれほどでもなかったようで、生前の彼いわく「やることやったら飽きた」のだそうだ。こうして二人の交際関係は、高校一年の夏休み明けに自然消滅した。以来、二人が仲睦まじくしている様子を見た者はいない。 「ふむ……『付き合っていた男に捨てられたから恨みを抱いた』のか?」 千景先輩は早くも考察に入ったようだ。 「もしそうだとしたら、恨まれる相手は火野だけってことになりますよね」 「そうだな。風見君が亡くなったのは、ただの偶然ということになる。この二人の関係はどうなんだい?」 それだったら、明確な答えがある。 「二人は主従関係に近いものがあったという証言があります。火野が親分で、風見が子分ってところでしょうか。火野は敵に回すと厄介ですけど、味方につけると心強いそうで」 火野は荒くれ者だったという評価が多い反面、教師に強い対抗力を持っていたという評価もなされている。思春期の男子にとって、大人に対抗しうる力を持つ者は憧れの対象だ。ならば、その力にあやかりたいと思うのも自然な考え方だ。風見は火野の手下というポジションを得ることで、上手く立ち回ることを選択したのだろう。 「火野君と風見君が、蛇迫さんに何かしたという可能性は?」 千景先輩が突っ込んだ質問をしてきた。 「そこまでは……ちょっと分かりません」 「そうか。仕方ない、明日また別の伝手を使って情報を集めてみるよ」 俺のふがいなさを、千景先輩は自分のミスであるかのように話す。こちらが巻き込んでしまった手前、彼女への申し訳なさが込み上げてくる。 「それにしても、蛇迫さんは何をしたいのだろうね」 千景先輩は、例の動画は蛇迫さんの亡霊が送信したものだと考えているらしい。動画を観た者は死ぬという噂もまた、真実味があることとして捉えているんだろう。彼女も例の動画を観ているから、自分が死ぬ可能性は頭のどこかで考えているはず。それでも死の恐怖に思考停止することなく、何とかして前に進もうとする姿勢は尊敬できるし、心強くもあった。 「生前の恨みを晴らして欲しいのかもしれませんね」 悪霊を成仏させるには、生前の恨みから解き放ってやるのがいいと聞く。だったら、蛇迫さんの恨みを晴らしてやれば、『呪いの動画』を観たとしても死なずに済むかもしれない。そんな漠然とした思いが、俺の中で芽生えていた。 その晩、佐野刑事から電話があった。 「昨日受け取った動画、解析に出したよ」 捜査の手がかりになるならばと、例の動画ファイルを渡していた。専門の部署へ解析に出してみたところ、今日の昼には結果が出たという。 まず、動画の撮影日時に関しては千景先輩が調べた通り、七月七日午後六時二十二分で間違いないそうだ。次に撮影場所は、動画ファイルに付加された位置情報や映り込んだ周辺の景色からして事故現場とほぼ同一。この他、電車の特徴や轢かれた人物の身体的特徴及び身に付けた物(リストバンドのことらしい)、事故の状況などが合致した。以上から、例の動画は蛇迫さんが亡くなる瞬間を撮影したものだと推定されたとのことだった。 「あの動画、本当に誰かから送信されてきたものなのか?」 訝しむような声。電話の向こうに、しかめっ面のベテラン刑事を想像した。 「そうです」 「だとしたら、不可解な点がある」 相手の言いたいことは大体予想できた。 続きを聞くと、やはり送信元が不明であることについてだった。警察で調べて貰えば分かるかもしれないと思っていたが、そうはいかなかったようだ。 例の動画の送信経路を辿ってみたが、どの端末から送信されたものなのか特定できなかった。これはIPアドレスを特定できなかったという意味ではなく、IPアドレスそのものが存在しないという意味らしい。 「インターネットを経由している以上、送信元は必ず存在するはずなんだ。でもあの動画は、送信元が存在しない。いや――『この世に存在しない』と言ったほうがいいかもしれない」 あの世からの送信。ふと、そんなフレーズが脳裏をよぎった。 「不可解な点はもう一つある」 「何ですか?」 「あの動画、撮影したカメラが存在しないんだ」 佐野刑事から聞いた説明はこんな感じだ。 蛇迫さんが電車に轢かれた現場には、防犯カメラが設置されておらず、電車にはドライブレコーダーが取り付けられていたものの、撮影方向が明らかに違う。となると、蛇迫さんが自分のスマホかハンディカムで撮影した可能性が考えられるのだが、彼女のスマホは自宅で発見され、例の動画ファイルも保存されていなかったという。ハンディカムも同じ理由から否定された。 もしかしたら――という考えが浮かぶ。 「あの動画、『蛇迫さんが見た最期の光景』だったとは考えられませんか?」 佐野刑事は唸り声を漏らす。それは俺の推測が突飛だからか、あるいは真実味があるからか。 「そんな馬鹿な。人間が見たものが動画ファイル化されるなんて聞いたことがない」 相手は否定するが、喉の鳴る音が聞こえた。 俺も半信半疑なのでそれ以上のことは言えなかったが、例の動画の解析結果からするとあながち間違いではないような気がした。 しばらくの沈黙の後、佐野刑事が戸惑いの消えきらない様子で言った。 「ところで、君のほうで新たに分かったことはあるか?」 「はい。蛇迫さんにまつわる噂話なんですが」 今日の夕方、千景先輩と情報交換した内容を話した。すべてを伝えた後、佐野刑事の反応がやけに遅く感じられた。 「……なるほど。学校側が何も語りたがらないわけだ」 声が重い。俺と同様、蛇迫さんの意外な一面を知って衝撃を受けているようだった。 「そういうことなら、頼みがある」 「何でしょうか」 「彼女と肉体的関係にあった人物を、可能な限り抽出して欲しいんだ。事情聴取はこちらで行う。情報の出どころは秘密にしておくから、心配しなくてもいい」 佐野刑事は、蛇迫さんの死の原因について関係者から聞き出すつもりだ。彼女と関係を持った人物に疑いを持っているのだろう。 「わかりました」 そう答えて、今の時点で特定できている生徒の名前を伝える。あとは噂程度だが、名前の上がった生徒もすべて話しておいた。 「ありがとう。今後も頼むよ」 礼を言われて、悪い気はしなかった。 ■七月十六日 一晩明けて、事態は更に加速する。今朝のショートホームルームでは、更なる訃報が伝えられた。 「水嶋が首を吊っているのを発見されたそうだ」 担任の稲葉先生は病的に白い顔で言う。目はうつろで、どこか別の次元を見ているようだった。 「夜の公園で酒を飲みながら過ごしていたそうだが、そこで何を思ったか自分のベルトを木に掛けて――」 生徒への配慮など欠片もない。警察から聞いた情報をそのままタレ流しにしている感じだ。自分のクラスから新たな死者が出たことで、正常な判断を失っているのだろう。 「足元に落ちていたスマホには、動画を観ていた形跡があったそうだ」 教室の一部から、ヒエッという悲鳴が上がる。 「君たちが奇妙な動画に恐れを抱いているのは先生も知っている。だが、憶測や妄想に囚われて軽率な行動をしないように」 どうやら稲葉先生も『呪いの動画』の存在を認知しているらしかった。その動画に、生徒たちがどのような感情を抱いているかも把握しているようだ。 先生が教室を出ていく。寝不足なのか、ふらついて教室のドアに体をぶつけていた。 水面に落ちた水滴が波紋を作るように、教室内ではざわめきが広がっていく。例の動画を観たことについて、悲観して泣く者もいれば、動画を観せられたことに怒りの声を上げる者もいた。皆、蛇迫さんが送りつけてきた動画に恐れを抱いているんだろう。 かつて自分が在籍していたクラスに恐怖の種を撒く。それが彼女の狙いであるならば、望み通りの結果が出たことになる。彼女は今頃、あの世で満足そうな笑みを浮かべているのだろうか。 「――安堂! お前、『呪いの動画』について調べてるんだろ? 頼む、助けてくれ‼」 放課後、隣のクラスの土橋という生徒からいきなり泣きつかれた。話を聞くと、俺が蛇迫さんに関する証言を集めているのを、『呪いの動画』から解放される為の手段を模索しているものと解釈されているらしかった。 元はといえば、自分が蛇迫さんを殺した可能性を否定する為に始めたことだったが、今では自分――もちろん千景先輩も含むが――の命が助かる為にやっている部分もあるので、土橋がすがりつきたくなる気持ちも解らないではなかった。 土橋は、火野や水嶋のようにアウトロー気質の生徒だった。ただ、火野ほどは徹底しておらず、どちらかといえば火野と仲が良かったという風見に雰囲気が似ていた。力ある者の下に付いて、その恩恵を受けているタイプ。制服を着崩してはいるものの、それ以外は至って普通だった。悪く言えば中途半端な印象だ。 ちょうど千景先輩の待つ部室へ行くところだったので、俺は土橋を連れて行くことにした。先輩にも話を聞いて貰ったほうが、自分とは違った視点の意見を聞けるかもしれないと思ってのことだった。 「おや、珍しいね。客人を連れてくるなんて」 土橋を見るなり、千景先輩は目を丸くした。かたや土橋は、少し身を固くしているようだった。これから話そうとすることが、俺以外の人物に聞かれてはまずいことだと思っているかのように。 「ついさっき、声をかけられたんです。俺たちが調べていることについて、何か話したいことがあるようで」 と、簡単に経緯を説明する。蛇迫さん関連のことだと知った途端、千景先輩は椅子に座り直して、興味津々といった視線を土橋に向けた。 「聞こう。話してみたまえ」 促され、土橋は迷いの表情を見せた。だが少しして、彼は意を決したように口を開いたのだった。 「火野、風見、水嶋の三人が死んだから……次はきっと俺なんです」 「それはどういう意味かな?」 余裕のある台詞ながら、千景先輩がわずかに緊張しているのが伝わってくる。 そこから土橋が語った内容は、以下の通りだ。 既に亡くなった火野、風見、水嶋、そして土橋は同じグループの一員だったという。火野をトップとして、水嶋がそのサブ、風見と土橋は手下といった具合だ。四人は日頃からつるんでいて、深夜営業しているアミューズメント施設へ遊びに行ったり、コンビニの前で他愛のないことをダベったりといったことを日常的に行なっていた。 そんなある夜、四人の間で性体験の話題が上がった。当時、既に女性経験があったのは火野だけ。残りの三人は未経験だった。 俺も早くヤりてぇ、そう言い出したのが水嶋だったという。そこへ火野から思わぬ提案があった。 ――すぐにヤらせてくれる女なら知ってる。お前ら、童貞卒業したくないか? そうして紹介されたのが蛇迫さんだった。その頃、火野と蛇迫さんはもう彼氏彼女の関係ではなくなっていたが、蛇迫さんとしてはまだ未練があったようで、火野からの申し出を断るに断れない状況だったらしい。 火野からの申し出とはすなわち、親しい間柄にある水嶋、風見、土橋の三人に体を許すこと。これに応じてくれたら、よりを戻してもいいとも言っていたそうだ。 こうして一対四の狂宴が実現する運びとなった。時期は今年のゴールデンウィーク明け、場所は蛇迫さんの自宅。彼女は母子家庭である上に母親が仕事で家を空けていることが多いので、都合が良かった。 閉鎖的空間ということもあって、『少々強引なこと』も行われたという。もっとも、これは土橋の言い分なので、どの程度のことが行われたのかまでは想像に任せるしかない。とにかく、完全なる合意の上で行われたとは言い難い状況もあったようだ。 事の一部始終は、火野がスマホのカメラで撮影した。後に紛争となった場合を見越しての措置だと彼は話していたそうだが、その真意までは分からない。 入れ替わり立ち替わりに事が進み、水嶋、風見、土橋の三人は念願叶った。昼過ぎに始まった狂宴が終幕したのは、日が暮れる頃だったという。すべてが終わった時、蛇迫さんは精も根も尽き果てた様子で、裸のまま身じろぎもしなかったそうだ。 「――で、俺たちはそのまま帰ったんですけど。いま思えば、ちょっとやりすぎたかなって」 「……ほう」 千景先輩の相槌が、冷気を帯びていた。いつもはにこやかな笑みを浮かべている彼女も、さすがにこの時ばかりは能面のような顔になっていた。 「話は、それで全部かね?」 「えっと……はい、そうです」 「ならば聞くが、本当に合意の上でのことだったのか?」 「多分そうです。いいよって言ってたし、拒否られもしてなかったし……」 「拒否されなかったから、合意の上だったと?」 「……」 千景先輩の圧力に、土橋は口をつぐむ。 「『従わなければどんな目に遭わされるか分からない』といった相手の心理状態を想像するには至らなかったようだね」 本で読んだことがある。性被害に遭った女性が、加害者を受け入れたように装うのは、最低限自分の命を守る為の自己防衛手段なのだと。これがしばしば、裁判では「明確な拒否が無かった。黙示の合意があった」として判断されてしまうので、非常に難しい問題だとも。 「蛇迫さんが本当に君たちを受け入れていたかどうか疑問が残るところだ。もしそうでなかった場合は、君に猛省を促したい」 土橋は返す言葉も無かった。 「この際だ。君が知っていることは全部話してくれないか。もしかしたらそれが、解決の糸口になるかもしれない」 千景先輩の台詞はあたかも、熟練の刑事のそれだった。 観念したのか、土橋は声を震わせながらも語る。狂宴の後も何度か蛇迫さんと連絡を取り、醜態を映した動画の拡散をチラつかせながら個人的に関係を持っていたこと。火野ら四人のグループで結託して、同じ高校に通う男子生徒に性体験の斡旋をしていたこと。様々な職種の成人男性を対象に、売春をさせていたこと。そして一部の教師に彼女を抱かせ、それをネタに強請りや服従の強要を行なっていたこと。聞けば聞くほど酷い話だった。 すべてを聞き終えてから、千景先輩は冷徹な声でこう言ったのだった。 「いま話したことは全部、警察で証言してくれるね?」 部室に長い沈黙が訪れた。 ■八月二日 土橋から証言を得て以降、うちの学校の生徒から死者は出なくなった。 もしかしたら蛇迫さんは、自分が受けた辱めの告発をしたかったのかもしれない。火野を始め、自分を慰み者にした男たちへの復讐を果たしたことで、溜飲を下げたのだろうか。これで彼女の呪いは消滅するのではないかと考えたら、少し気が楽になった。 蛇迫さんにまつわる一連の出来事は、佐野刑事に対応をお願いした。ベテラン刑事は思わぬ収穫に驚いていたが、捜査が著しく進展したことに手応えを感じているようだった。 プロに任せたら、素人が出しゃばる必要もなくなる。俺も千景先輩も、普通の高校生としての生活に戻っていった。学校は夏休みに入り、俺は短期バイトや夏期講習に明け暮れる日々。千景先輩は今年受験生なので、志望校合格に向けて地道な努力を続けている。 数日の間は互いに忙しかったので連絡を取り合うことも無かったが、今日になって先輩から呼び出しの電話があった。受験勉強の合間に気づいたことがあるので、俺に聞かせたいと言っていた。 変に期待してしまう自分を抑えながら向かったのは市立図書館だ。このところ千景先輩は、ここで勉強をしているのだという。 指定された通り、赤本のコーナーへ行くと、書架の前で志望校のものを探しているらしい先輩を見つけた。紺色のチュニックに七分丈の白いパンツを合わせた、大人っぽさを醸し出そうとする彼女らしい服装だった。 「早かったね。そうかそうか、そんなに私に会いたかったか」 俺に気づいた先輩は、いつものようにお姉さんムーブを発動する。それをさらりと受け流し、俺は用件を尋ねた。 「久しぶりだというのにせっかちだね。まあいい、こちらへ来てくれ」 といって案内されたのは閲覧スペースだった。机の上に開いたノートや参考書が置いてある。ここで勉強していたようだ。 促されて先輩の対面に腰掛けると、彼女はバッグからスマホを取り出した。 「これを見てくれ。あらかじめ言っておくが、見たら直ちに呪いがかけられるものではないよ」 奇妙な動画が送信されてきた経験があるので、先輩は俺を安心させる為に先回りして言う。 見せられたのはTwitterのタイムライン。その中に、見覚えのあるサムネイルがあった。 「これって、例の動画のやつじゃないですか」 そう。蛇迫さんから死後に送信されてきた動画の開始時点の静止画を表示したサムネイルだ。その中心には右向きの三角形が表示されていて、これをタップすると動画が再生されるようになっている。 「そうなんだ。誰かがアップロードしてしまったようだね。これが今、物凄い勢いでリツイートされている」 見ると、一万リツイートを超えていた。いわゆる『バズっている』状態だ。 「アップした人は、大した悪気は無かったのだと思う。話題の動画を入手したのでちょっと見て欲しい、ぐらいの感覚だろうね」 そういう感覚なら理解できなくもない。日々の生活で面白いもの、興味深いものを見つけた時、それを誰かに紹介したくなる感覚。良くも悪くも心揺れ動いた瞬間を誰かと共有したくなる感覚とでも言うのだろうか。 「これは……マズいんじゃないですか?」 今となっては、この動画にそれほど恐怖を感じないものの、薄気味悪さはまだ残っている。たったいま口にしたように、『何となく良くない状況』であるような気がしてしまうのだ。それはきっと、いわくつきのものが多くの人の目に触れる状態になってしまっていることへの気まずさなのだと思う。 「私もそう感じた。自戒も込めてこんなことを言うのだが、我々は時々、その動画や画像を観た人にどんな影響を与えるのかを深く考えずにアップロードしてしまうよね」 その悲惨な結末として、炎上というケースがある。典型的なのは飲食店でのイタズラを映したものだ。動画や画像をアップすることで、それが後々どのような事態に発展するのか、正確に予想できる人は少ない。 「『この動画を観た人は死ぬ』という呪いが有効なまま拡散されたら、あっという間に死者の山が出来てしまいそうだ。そうと知らずに動画を観てしまった人は、不運以外の何物でもない」 ある日タイムラインに上がってきた動画が、『呪いの動画』ではない保証はどこにも無い。タイムライン上の動画ファイルを開くのにも、慎重さが求められるということだ。下手に開けばその瞬間、死の呪いが掛けられるかもしれないのだから。 「実は今、これに近い現象が起きている」 これ、とは「死者の山が出来てしまう」のくだりだろう。 千景先輩は積み上げた参考書の下から、新聞紙のようなものを引き抜いた。 「県内で発行されている地域紙だ。ここを見たまえ」 地域紙とは、各都道府県の中でも一部の地域を取材対象とした新聞のことだ。その地域に住まう人々に情報提供する手段として発行されているもので、全国紙に比べてローカル色の強い記事が多い。たとえば対象地区内における道路整備の進捗状況とか、県・市議会で議題になっている福祉関連の政策を紹介するものとか。 そんな中で千景先輩が示したのは、社会面の事件欄だ。ここにはどこの地区で空き巣があったかとか、どこの道路で交通事故があったかという記事の他、お年寄りが自宅で転倒して怪我をしたという内容のものまである。このように、対象地域内で起こった事件や事故が全国紙以上に細かく書かれているのだ。 事件欄に掲載されているのは、七月十六日以降に発生した事件と事故についてだった。この日を境に、うちの学校の生徒からは死者が出ていないと思っていたが、地域単位にまで範囲を拡げると、実は多くの人が亡くなっていたと分かる。 たとえば七月十七日、この日は住宅火災で二十代の男性が焼死している。翌十八日にはバーベキューをしに河原まで来ていた大学生グループが水難事故に遭い、二人が亡くなっていた。週明けの十九日には三十代の女性がバイクで交通事故に遭い、二十日には二十代の男性工員が深夜の工場でプレス機に挟まれ死亡している。こんな具合に、今日まで毎日のように十代後半から三十代の男女が死亡している。俺たちが住んでいるのは人口二十万人程度の市だから、その人口からすると不慮の事故による死者の増加ペースが異常に思える。 ただの偶然だと考えることもできるが、Twitterのユーザーとして最も多い若年層から数珠つなぎに死者が出ていることに気味悪さを感じた。 「このことに気づいたのは昨日でね。ちなみに昨日は、十九歳の男性が高所作業中に転落死している。最初は私もただの偶然だと思っていたのだが、念のため佐野刑事に確認してみたら驚くべきことが分かった」 千景先輩も俺の協力者なので、佐野刑事の連絡先は伝えてあった。彼女はその伝手を使ったようだ。 「七月十六日から今日までの間に、市内で亡くなった十代から三十代の男女のうち、九割が例の動画を観ていたそうだ。ちなみに残りの一割は、確認が取れなかった人を含むそうだよ」 それを聞いた瞬間、室温が一気に下がったような錯覚を覚えた。 「うちの学校からは死者が出なくなった。代わりに、別のところで死者が出るようになった。これが何を意味するかというと」 「呪いの範囲が拡大している、ってことですか」 千景先輩が頷く。 「事態は新たなステージを迎えたと考えたほうがいいかもしれない。蛇迫さんが恨みを持つ人物への復讐から、無差別的な死の宣告に拡大した――とね」 体が震えた。 蛇迫さんの個人的な恨みから生み出された――俺はそう考えている――『呪いの動画』が、今は不特定多数の人々に死をもたらそうとしている。どこまでやれば彼女は気が済むのだろうか。 鳥肌が立った二の腕をさする。半袖を着てくるべきではなかった。寒くて仕方ない。 蛇迫さんの恨みは、まだ解消されていない。となると例の動画を観た者は死ぬという呪いも、まだ有効ということだ。しばらく、俺の通う高校の生徒から死者は出ていなかったが、いつかまた同じ学校の誰かが死ぬ可能性は今なお残っている。次こそ、俺が犠牲者になる番かもしれない。 「正直、私も恐れを抱いている。次は自分かもしれない、とね」 千景先輩はぎこちない笑みを浮かべる。怖いことは怖いが、強がって見せることで年上としての威厳を保とうとしているようだった。 「しかし興味深いとも感じている。なにしろ状況がね、似ているんだ」 似ている? 何にだろうか。 先輩はハードカバーの本を俺に向かって差し出す。図書館の小説コーナーから持ってきたらしい。そのタイトルは。 「〈リング〉ですか」 鈴木光司先生が一九九一年に発表したホラー小説だ。その内容はもはや説明不要と言っていいだろう。本作の映画版に登場した怨霊〈貞子〉は、和製ホラー作品を代表する存在となっている。 「〈リング〉では、貞子が動画を念写したVHSテープを媒介に死の呪いが拡散されていくのだが、蛇迫さんの場合はネットを介して拡散している。三十年の時を経て、呪いの拡散方法も進化を遂げたようだ」 なるほど。俺たちが今直面しているのは、〈リング〉の進化版というわけか。 拡散と聞いて、ふと思ったことがあった。 「どうして呪いを拡散する必要があるんでしょうか?」 「〈リング〉の場合だと、貞子の母親と彼女自身が、世間の人々から不当な扱いを受けたことに端を発しているね。社会そのものに向けた恨みを晴らす為とでも言おうか」 「あとは、貞子が感染した天然痘ウイルスの『自己増殖』という目的と融合した結果だとも説明されていますよね。それは解るんです。俺が知りたいのはそうじゃなくて」 千景先輩は自分で自分のおでこをペチンと叩く。 「失礼、蛇迫さんが呪いを拡散する理由についてだね。実は私も、ここが疑問なんだ」 ネットに動画を流すことで、死の呪いを拡散する。これにどんなメリットがあるのか。 不特定多数の人々に死を振り撒きたいのであれば、わざわざ動画をネットに流すなんて回りくどい真似をしなくてもいい。怨霊となり、人外の力を得たのであれば、普通に(?)呪い殺せばいいのだ。『呪いの動画』を観せるなんてワンクッションを置く必要が無い。 俺が自分の考えを話すと、千景先輩は人差し指を立てた。 「それについては一つ、仮説がある」 「どんな仮説ですか?」 「『例の動画と死の呪いは切り離して考えるべき』という説だ」 千景先輩が話した内容は、大体こんな感じだ。 蛇迫さんは『呪いの拡散』を望んでいない。動画の拡散は望んでいるかもしれないが、動画に呪いを込めたわけではない。例の動画が『呪いの動画』だと言われているのは、視聴した者が死亡したという結果が生じたからだ。つまり、周りの人間が結果から遡(さかのぼ)って、例の動画の性質を決めつけている。 あの動画は確かに奇妙だが、人を呪い殺そうとするような悪意は感じられない。それよりも、何かを伝えようとするニュアンスが強いように思える。できるだけ多くの人々に何かを伝えようとするなら、動画は拡散されたほうがいい。多くの人の目に触れることで、込められたメッセージを正しく読み取ってくれる人が現れるかもしれないのだから。 いっぽう、例の動画を視聴した人が死ぬことについては、そもそも因果関係がはっきりしない。何か別の意図が働いていると考えたほうがシンプルだ。誰が何の為に、不特定多数の人々を死に至らしめているのかまでは解らないが。 「――とまあこんな感じだ。勘違いして欲しくないんだが、この説は『客観的事実に基づいてなされた限りなく真実に近い推理』ではない。『動画を観たから死ぬなんて有り得ない』と思いたい個人的感情が大いに含まれている」 幽霊の正体見たり枯れ尾花、とまではいかない。『呪いの動画』はまやかしに過ぎないと断定するには根拠が乏し過ぎた。 「私は例の動画に呪いが込められている可能性を否定しないよ。現に、視聴した人の死亡率が高まっているわけだからね。死の呪いが拡散されているという点についても同様だ。というわけで」 千景先輩は手早く机の上を片付けた。トートバッグを肩に掛け、俺にこう言う。 「我々が助かる為には、オカルト的手段に頼るのもアリだと思うんだ」 意味が解らないので首を傾げていると、彼女は先に歩き出した。 「蛇迫さんの霊を鎮める為に、まずは線香を上げに行こう」 思い立ったが吉日、俺と千景先輩は蛇迫さんの自宅へ向かうことにした。さすがにアポなし突撃は常識外れなので、彼女の母親と連絡が取りたい。そう思って学校に問い合わせてみた。 夏休み中だが、教職員は学校に来ている。幸運なことに、担任の稲葉先生が電話に出てくれた。電話で個人情報を話すわけにもいかないだろうから、俺は事情を話して学校に向かった。 職員室の隣にある生徒指導室に通され、横並びに腰掛けた俺と千景先輩の正面に稲葉先生が座る。開口一番、先生はこんなことを言い出した。 「小耳に挟んだんだが、安堂。お前、蛇迫のことを調べて回っているらしいな。悪いことは言わない、やめておきなさい」 稲葉先生は左目の辺りをひくつかせながら言った。ストレスからくるチック症状なのかもしれない。 続けざまに、先生は俺たちを諭すような口調で御託を並べた。蛇迫さんのことは不幸な事故として結論づいている、警察も事件性は無いと言っていた、これ以上彼女について嗅ぎ回るのは遺族にとって心理的負担になる云々。口ではもっともらしいことを言っているが、感情がこもっていない。薄っぺらな単語の羅列にしか聞こえなかった。 ――いや、「これ以上触れるな」と言いたいのか。真相が明るみに出たら色々と都合が悪いから。 そういえば、学校側は蛇迫さんの死に対して後ろ向きな態度を貫いている。稲葉先生は何か隠しているのかもしれない。 「萬屋も安堂に言ってやってくれないか。成績優秀な君なら、こんなくだらないことに時間を費やしても無駄だと解るだろう」 くだらないこと、か。稲葉先生には元々期待していなかったけど、今ので評価を一つ下げることにした。 「無駄ではないと思いますよ」 千景先輩はそれだけ答えて、俺に目配せする。「君の担任だろう、君がやりたまえ」とでも言いたげだ。 今日まで聞き分けのいい生徒を演じてきたつもりだが、先輩からパスを出されたなら仕方がない。 「先生。俺、入院してたんで、蛇迫さんの葬式に行けなかったんですよ。クラスメイトとして、そんなの寂しいじゃありませんか」 稲葉先生の腐った魚みたいな目がこちらを向いた。 「葬儀なら、他の生徒も参列していない。私と校長先生が皆を代表して行ってきたんだ」 そうくるのは予想通り。だったら、これはどうだ。 「記憶を無くすまでは俺、蛇迫さんと親しげに話してたそうなんです。普段から仲良くさせて貰ってたんなら、せめて遺影に向かって手を合わせるのが礼儀なんじゃないかと思うんです」 ううむ、と先生が唸る。もうひと押しだ。 「家に行って、線香あげて、遺影に手を合わせるだけです。それくらいさせてください、お願いします。余計なことは言いませんから、どうか」 と言って俺は頭を下げた。真摯な態度は見せておいたほうがいいだろう。 しばらくして、稲葉先生が口を開いた。 「……本当にそれだけだな?」 「はい」 「分かった。お母さんには私から連絡を入れておく。住所は、ちょっと待ってなさい」 先生は職員室に引っ込んでいく。住所録を見に行ったんだろう。 俺と千景先輩は生徒指導室に取り残される。 「君、なかなかやるね」 先輩は満足そうだった。 稲葉先生の話では、蛇迫さんのお母さんは当分の間仕事を休むと言っていたそうで、おそらく今日も在宅しているだろうとのことだった。 先生が本当に連絡を取ってくれるかどうかは疑わしいので、俺と千景先輩は先生が電話するのを待たずに学校を後にした。もし先生が連絡を取っていなくてアポなし突撃になってしまったとしても、それは俺の責任じゃない。 学校の最寄り駅から電車に乗って十分ほど。特急は通過するが快速なら停まる規模の駅で下車した。 ここから先は歩きだ。先生から教えて貰った住所を地図アプリで検索し、それを頼りに目的地へ向かう。 途中で運送会社の社屋や倉庫の立ち並ぶ界隈を通った。地図アプリのナビに従ってひたすら歩いていくと、踏切が見えてくる。踏切の手前には、今はもう閉鎖しているらしい生コン工場があった。踏切を通り過ぎる時、周辺を見渡すと、どこかで見たような風景が広がっていた。 「ここが現場だろうね」 千景先輩が言った。周りの景色からして、この踏切の近くが事故現場に間違いなさそうだ。七月七日の午後六時二十二分、ここで一人の少女が人生を終えた。この世に未練を残して。 ずきり、と頭が痛んだ。 何故だろうと思っているところへ、先輩の声が俺の耳に入り込む。 「そろそろ着きそうだ」 彼女が指差す先には、五十軒ほどの一戸建てが並ぶ住宅街。炎天下の中、俺と千景先輩は緩やかな上り坂を進んでいく。 住宅街に入り、四軒ほど家の前を通過したところに目的地があった。 ごくありきたりな洋風建築。両隣三軒とも同じような作りなので、建売住宅と思われる。 門柱には〈蛇迫〉と書かれた表札。その下にはもう一枚、過去に別の表札が掲示されていたが剥がされた痕跡があった。以前は別姓の家族が同居していたのかもしれない。 「ここだね」 珍しい名字なので、他の家と間違える心配は無かった。千景先輩は門柱のインターホンを押下する。 ……が、いっこうに応答が無い。 「留守かな?」 たまたま家を空けているだけなのだろうか。門柱の郵便受けには、朝刊や郵便物が詰め込まれたままになっていた。 「仕方ない、日を改めよう」 千景先輩は仕方なしといった様子で、門柱から離れる。するとそこへ、声がかかった。 「蛇迫さんにご用事かしら?」 振り向くと、向かいの家の前に七十代くらいの女性が立っている。柔らかい物腰の、人が良さそうな顔をしていた。 「はい。ここの娘さんと同じクラスで」 俺がそう言うと、老年の女性は顔を曇らせた。 「あら、あら、それは……」 何と言っていいか分からない様子で、周囲を見回す。向かいの蛇迫家に関して知っている事はあるが、この場で話していいものか迷っているようだった。 「あなたたち、良かったらうちに来る? お茶ぐらい出すわよ」 どういう風の吹き回しだろうか。俺と千景先輩は、予想外の事態に顔を見合わせるのだった。 女性は、山科(やましな)さんといった。古くからこの地に住み、今は年金を頼りに旦那さんと二人で穏やかな老後を過ごしているという。 「外は暑かったでしょう? はいどうぞ」 と言って、山科さんはよく冷えた麦茶を出してくれた。 「ありがとうございます」 千景先輩は遠慮せず麦茶で喉を潤す。彼女は客人らしく好意に甘えることにしたようだ。 「あの……」 コミュ力の高い千景先輩なら大して苦にならないだろうが、俺は違う。赤の他人の家に上がり込んでいる状況に、居心地の悪さを感じていた。だからさっさと外に出たくて、自分から事情を話すことにした。 「今日は線香を上げに来たんですけど、蛇迫さんのお母さんが不在みたいで」 「そう……お友達の為にせっかく来たのに残念だったわね」 山科さんは麦茶を一口飲むと、遠い目をした。 「あの家では色々あったけど、この度は本当に気の毒よ。お母さんに掛ける言葉が見つからないわ」 山科さんは純粋に心を痛めているらしかった。目を伏せて溜息をつく。 「蛇迫さんご一家のこと、よくご存知なんですか?」 すかさず質問したのは千景先輩だ。情報収集のチャンスだと踏んだらしい。 「知っているといえば知っているわ。うちの向かいに引っ越してきた頃からの付き合いだからね」 老女は縁側の方を見ながら、記憶を辿り始めた。 蛇迫一家がこの地に引っ越してきたのは十年前。当時、一人娘は小学一年生で、小学校への入学にタイミングを合わせて引っ越してきたようだった。入居当時は祖母も健在で、家族は全部で四人。しかし一人娘が小学四年生のころ、祖母が亡くなった(そういえば門柱の表札が二つから一つに減っていた。母方のお祖母さんが亡くなったからかもしれない)。 蛇迫家に変化があったのは、その頃からだという。二次性徴を迎えた一人娘はみるみるうちに大人びていった。思春期の少女にしては父親とも仲がよく、手を繋いで外出する様子もよく見られた。厳しい性格の母親とは折り合いが悪かったものの、近所の人々に対しては礼儀正しく、気立てのよい女の子だった。顔もいいし、きっと将来はいいお嫁さんになるに違いない、老人会ではそんな評判が流れていた。 「でもね、ちょっと変だったの」 「といいますと?」 千景先輩に尋ねられ、山科さんは頬に手を当てる。 「う……ん……何というか、お父さんと仲が良すぎるように思ったのよねぇ……」 俺の勝手なイメージだが、普通は逆ではないだろうか。思春期の女の子は同性の母親と仲がよく、異性の父親は毛嫌いする。クラスの女子が話しているのを聞いていても、そんな場合がほとんどだ。 そういえば、千景先輩はどうなんだろう? ふとそんなことを考え、隣の彼女を見る。 「『仲が良すぎる』とは?」 先輩が更に突っ込んだ質問をする。山科さんは視線をさまよわせた。話していいものかどうか、迷っているようだ。 「……私ね、見ちゃったのよ。中学生になった娘さんとお父さんが、家の前で抱き合っているところ。お母さんが出張か何かで遠方に出かけている日だったわ、確か」 俺の脳裏に『ある考え』が浮かぶ。倫理的には完全にアウトな方向性の。 「これはあくまで噂なんだけど――」 山科さんが囁くような声になった。 俺と千景先輩は無言で頷く。聞く準備は出来たという意思表示だ。 「娘さんとお父さん、『一線を越えちゃった』みたいなのよ」 かなり遠回しな言い方だが、何を意味するかは察せられる。つまり親子であるにも関わらず、男女の関係になってしまったということだ。 「その噂が広まった頃かしら、ご夫婦が離婚したのは。仲が悪いのにお母さんが娘さんを引き取ったのも、そういう事情があったからなんでしょうけど……」 聞いているこちらが気まずくなってしまうほど、衝撃的な内容だった。 俺は言葉を失う。ある程度予想はできたが、実際に聞いてみるとショックが大きい。蛇迫さんに抱いていた清楚なイメージは、今や完全に崩壊した。 「娘さんは、お父さんとの仲を引き裂かれたと感じたみたい。お母さんとの仲がもっと悪くなるのに、そう時間はかからなかったもの。皮肉なものよね、娘を守る為にやったことが、余計に嫌われる原因になるなんて。お母さんには同情するわ」 「それからどうなったんでしょうか?」 千景先輩は止まらない。ただのゴシップ好きではないだろうが、彼女の探究心の強さには驚かされる。 「お母さんは仕事で家を空けることが多くなったわ。娘さんはお友達をよく家に呼んでいたみたいだけど、いつの間にか男の子しか来なくなった。『お姫様』になりたかったのかもしれないわね」 父親を奪われ、母親からは逃げられ。寂しさを埋める為に友人を頼ろうとしたが、やり方が分からなかったのかもしれない。唯一、確実に知っていたのは――『男を喜ばせる方法』。そんな下衆い妄想が浮かんでしまう。 「そのことは、お母さんも知っていたんでしょうか?」 「さぁ、どうかしらね。気づいてたけど、気づかないふりしてたんじゃないかしら。あの年頃の子って、難しいからね」 加えて母親には、離婚によって父親を遠ざけたという負い目もある。原因を作ったのは自分だと責めるあまり、言うに言えなくなってしまったのかもしれない。 「母と娘って、色々と複雑なのよ。同性だから許せることもあるし、同性だから許せないこともあるし」 過去に経験があるかのような口ぶりだ。きっと山科さんにも計り知れない苦労があったのだろう。 「娘さんが亡くなって、お母さんが落胆してたのは確かだけどね。なんだかんだ言って愛してたのよ、家から出る気力を失ってしまうぐらいに。もうしばらく姿を見ていないわ」 「え、それってどうなんですか?」 思わず口を挟んでしまった。 「どういうこと?」 山科さんは俺の言わんとするところが理解できなかったらしい。 「蛇迫さんが亡くなってからもう一ヶ月近く経ってます。なのにお母さんが一歩も家の外に出ないってのはさすがに……」 胸騒ぎがした。在宅しているはずなのに、インターホンへの応答が無い。郵便受けに溜まった新聞や郵便物。そして一ヶ月近くも姿を見せていないという事実。 「ちょっと、見に行ってみませんか」 提案したのは千景先輩だ。 「そ、そうね」 山科さんも事の重大さに気づいたようだ。 俺たちは三人で蛇迫家に向かう。 道路を挟んで向かいの家なので、到着は早い。問題は中の様子が窺えるかどうかだ。 インターホンを押しても応答が無いのは相変わらず。玄関ドアは施錠されている。ここから直接、中に声を掛けるのは無理だ。 「裏に回ろう」 千景先輩が先頭を行く。続いて俺。最後は山科さんだ。 裏の庭には、リビングのものと思われる掃き出し窓が面していた。しかしカーテンが引かれ、中の様子が見えない。 ――いや。 カーテンの合わせ目が、僅かに開いていた。俺はそこから中を覗き見る。 照明は点いておらず、薄暗い。外が眩しいので、目が慣れるのに時間がかかった。 次第にぼんやりと中の様子が見えるようになってきた。窓ガラスの向こうにはソファがあり、テレビと対面している。やはりリビングのようだ。 その奥はおそらくダイニングキッチン。四本足のテーブルが見えた。椅子は四脚あるが、一脚だけ横倒しになっている。倒れた椅子の上には、何か大きなものがぶら下がっていて―― 「先輩、救急車を!」 とっさに叫んでいた。 「何が見えた?」 千景先輩はバッグからスマホを取り出し、俺に聞く。通報時の事情説明をするのに情報が欲しいんだろう。 「中で、人が首を吊っています」 リビングで首を吊っていたのは、蛇迫さんのお母さんだった。 救急から警察にも通報がなされたようで、救急車が到着するのと警察官が来たのはほぼ同時だった。レスキュー隊員が窓ガラスを割って中に入り、続く救急隊員が首を吊っている人の生死を確認。既に腐敗が始まっているとのことだった。 ここから先は警察の領分らしく、俺たち三人は第一発見者として詳しく話を聞かれることになった。幸いなのは佐野刑事が現場に来てくれたこと。この家に来た経緯を一から話す手間が省けた。 といっても、俺たちが解放されたのは午後八時過ぎ。長時間の捜査を経て、ようやく本件は自殺と断定されたようだった。 自殺と断定された決め手は、蛇迫さんのお母さんの自筆とみられる遺書が見つかったこと。詳しくは教えて貰えなかったが、「娘の流姫が死んだのは、全部自分が悪い」という内容に加えて、狂ったように謝罪の言葉が書き連ねてあったのだという。死の直前は、かなり追い詰められた精神状態だったようだ。 警察署まで同行を求められていたから、帰り際は佐野刑事から気遣いの声を掛けられた。 「遅くまで付き合ってくれてありがとう。家まで送ろうか」 俺は首を横に降って、相手からの申し出を辞退する。 「いえ、気持ちだけで結構です。警察が家に来ると親が心配するので……」 蛇迫さんの家に行くことは両親に伝えていなかった。そこへいきなり警察が出てきたら、両親の心臓に負担をかけてしまう。 「私も。彼とは家が近いので一緒に帰ります」 「そうか。じゃあ道中気をつけ」 「それよりも」 佐野刑事が別れの挨拶を言い終わらないうちに、千景先輩が切り込んだ。 「例の動画はありましたか?」 「……ああ、その話か」 佐野刑事の顔に疲れが浮かぶ。それは事案処理の大変さとは別に原因がありそうだった。 「あった。テーブルの上に、再生が終わった状態の携帯電話が置いてあったよ。あれは一体何なんだ」 「分かりません。ただ言えるのは、あの動画を観た人は死ぬかもしれないということです」 「そんなわけが……いや、もしかして」 この市内で起きた数々の死亡事故について、佐野刑事は俺たち以上に詳しい情報を得ているはずだ。そんな彼がこのリアクションなのだから、やはり何かがあると考えてしまう。 「とにかく、君たちは帰りなさい。協力してくれてありがとう」 その帰り。警察署の最寄り駅で次の電車を待っている間、俺と千景先輩はお互いに沈黙を保っていた。間もなく特急電車が駅を通過するというアナウンスが、まるで他人事のように流れていた。 新たな犠牲者は、蛇迫さんのお母さんだった。彼女に関しては、山科さんが言っていた通り、気の毒としか思えない。 蛇迫さんのお母さんは、なぜ死んだのだろう。自責の念から自暴自棄になったのか、それとも娘に呪い殺されたのか。生前、蛇迫さんは母親を恨んでいたようだから、呪殺されたとしても合点がいってしまう。 人の死を目の当たりにして、自分にも最期の時が近付いているような錯覚を覚える。いや、実際すぐ近くまで来ているのかもしれない。今こうして駅のホームに立っているが、誰かに後ろから突き落とされる可能性だってあるのだから。 真夏だというのに、薄ら寒さを感じる。俺は今の立ち位置から一歩後退し、周りを見渡した。 右隣には千景先輩。俺たちの近くに人はいない。先輩より車両一つぶん向こうに、仕事帰りらしい会社員風の男性が立っていた。その後ろにはイヤホンを耳にはめた大学生っぽい女性。二人とも、スマホの画面を見ながら待ち時間を過ごしている。 反対側を見ると、やはり仕事帰りらしい男女が数人。その向こうにも次の電車を待つ人々が連なっていた。 人々のほとんどが、スマホの画面を見ている。家族と連絡を取り合っているのか、ゲームをしているのか、あるいは――動画を観ているのか。画面をあんなに注視して、危なっかしい。特急電車が通過する瞬間に誰かから背中を押されたら、一発でアウトだというのに。 「トモキくん」 いきなり下の名を呼ばれて、ビクッと反応してしまった。 「考え事をしていたようだね」 何だ、今のは千景先輩か。普段あまり名前を呼ばれないから、別の人かと思ってしまった。 「いえ、大丈夫です。何か?」 「君は、蛇迫さんにどんなイメージを抱いた?」 正直、どう返していいか分からなかった。 最初は清楚な寂しがり屋だと思っていた。次は異性関係にだらしない女子。土橋の話で哀れな被害者へと変貌を遂げ、近所の住人から聞けば禁断の園へと入り込んだ背徳者だったと。 「すいません、分からないです」 「そうか」 千景先輩は夜空を見上げた。幼さの中に時々垣間見える大人びた雰囲気。 彼女はただお姉さんぶっているだけの痛い人じゃない。精神的に同年代より少し大人なのだ。自己中心的になりがちな俺たちの年代にいながら、彼女は自分よりも他人を優先し、誰かの役に立とうとする。そんな彼女だから、俺は―― 「私は、蛇迫さんを『誰かに必要とされたい気持ちが強い女性』だと感じた」 あ……そういうことか。 蛇迫さんは、自分の居場所を求めていたのかもしれない。 彼女は自分が父親に必要とされていた――たとえそれが歪んだ愛情によるものだったとしても――と感じていたことだろう。それが両親の離婚を機に失われ、母親との関係が悪化することによって、家庭での居場所を完全に無くした。 中学時代の彼女については詳しく知らないが、友人関係が上手くいっていなかったと思われる。近所には同じ中学に通う生徒もいただろうし、彼らの耳に蛇迫さんの両親が離婚した経緯の噂話が入ったことは容易に想像できる。結果、彼女は同年代からも敬遠されることになったはずだ。 うちの高校に進学してからは、交際相手に恵まれなかったようだ。火野から誘われ、好きな人の為ならばと体を差し出した。この人ならきっと、自分を必要としてくれると信じて。 その思い虚しく、火野の思惑に乗せられて、彼女は多くの男たちから欲望の捌け口とされてしまったわけだが、今度はインターネットの世界に自分の居場所を求めた。その最終到達地がTwitterだったわけか。 「君はどう思う? 寂しさを埋める為に人肌のぬくもりを求める人を」 これはきっと、言葉通りの意味ではないだろう。もっと踏み込んだニュアンスを含んでいる。 「俺は……その……」 何と答えていいか分からない。上目遣いの千景先輩から慌てて視線を外し、俯いてしまう。 「私は理解できる。自分を必要としてくれる人を繋ぎ留める方法が『それ』しかないなら、たとえ相手が歪んだ欲望を抱いていると解っていても、受け入れるしかないと考えるだろう」 先輩の言葉が胸に突き刺さる。自分の体を差し出すことでしか、自分の存在価値を実感できない。そうと解ってしまったときの絶望感たるや。蛇迫さんの左手首には何故リストバンドが付けられていたのか。今なら解る気がする。その下にはきっと、無数の傷が―― 「もっとも、今の私はそういう状況にはないがね。ありがたいことに」 千景先輩の声がさっきより明るくなっていた。ただ、表情には晴れやかさの中にも僅かな憂いが混ざっているようで、満面の笑みとまではいかない。自分は多くの人々から頼られていると自覚してはいるものの、本当に自分が必要とされているかどうかは分からないから不安に感じている。胸中を想像するに、大体こんなところか。 ふふっ、と先輩が笑い声を漏らした。話の中に笑える要素が見当たらないので、何か面白いことでも思い出したんだろう。 「覚えているかな? 私が小学校に上がったばかりの頃」 覚えている。今思い返しても赤面ものだ。 それまで同じ幼稚園に通っていたのが、彼女の卒園を期に同じ場所で顔を合わせる機会が減った。四月になって初めの頃は、「千景お姉ちゃんがいない、会いたい、会えないなら幼稚園に行くのは嫌だ」などと泣いてばかりいた自分。そんな俺を見かねて、小学生のお姉さんになった彼女は毎朝俺の家まで顔を見せに来てくれたのだった。 自分の学年が上がるにつれて、周りの男友達からシスコンだとからかわれるようになり、恥ずかしさから少し距離を置くようになったけれども、根本的な部分では今も変わっていない。 「あの頃から君は、私を必要としているんだろう?」 先輩が悪戯っぽく笑う。俺が恥ずかしがって否定するのを見越しての態度だ。 分かっているんだよ私は、とでも言いたげな顔をされたのが悔しい。当たっているだけに尚更だ。 だから俺の中で天の邪鬼が発動する。 もしこの場で、逆にハッキリと肯定したら彼女はどんな顔をするだろうか。驚いてくれたら仕返し成功だ。 深呼吸一つ。恥ずかしい事を口にするには、それなりの覚悟が必要だ。 「先輩、あの」 その通りです。俺は貴女なしでは生きられません。 柄にもなく、そう言ってやろうかと考えた。もし変な空気になったら、冗談だと言って誤魔化せばいい。 意を決して顔を上げた時には、電車が通過するとのアナウンスが流れていた。 千景先輩の姿が、消えていた。 特急電車がホームに進入してくる。俺はその場に立ち尽くしたまま、車両が切る風に身を任せていた。 駅員から事情を聞かれても、言葉が出てこなかった。目の当たりにした光景を思い出す度、喉が締め付けられる。呼吸すら難しかった。 なぜあの時、俺たちはもう少し後ろに立っていなかったのだろうか。もっと周りに目を配っていれば、先輩をホームから突き落とした犯人が近付いていることに気付いたかもしれないのに。いや、そもそも、変に気を遣わず佐野刑事の好意に甘えて、家まで送って貰えば良かったのだ。 浮かんでくるのは後悔ばかり。これからどうしようなどとは、とても考えられなかった。 「防犯カメラの映像はどうだ?」 駅員だか警察だか分からないが、誰かがそう言った。事故が発生した状況を撮影した映像の有無を確認しているらしい。 「確認しました。ですが――」 「どうした。この子たちがバッチリ映ってたんじゃないのか、カメラの位置からして」 「はい。確かにこの子たちはしっかり映っていたんです。服装も同じですし、それは間違いないです」 「じゃあ、何でそんなに歯切れが悪いんだ?」 「実は……犯人が映っていないんです」 「ならいいじゃないか。女の子がふらついてホームから落ちただけってことになる」 それを聞いた途端、俺の金縛りが解けた。 「何がいいってんだよぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」 俺は目の前のおっさんに掴みかかる。 「先輩は誰かに突き落とされたんだ! いい加減なことを言うな!!」 駅員たちが俺とおっさんの間に割って入る。無理やり引き剥がされ、俺は羽交い締めにされた。 「げほっ……落ち着きなさい。映像を見せてあげるから」 説明するよりもそのほうが早いと考えたらしい。 駅員室のモニター前まで連れて行かれ、分割画面の一つを示される。 「ほら、ここだ。君たちが映っているだろう?」 確かに。服装や背格好からして間違いない。 「そろそろだ」 おっさんが言う。俺の胃が急激に収縮していくけれど、画面から目を離そうとは思わなかった。 画面の中の俺たちは、カメラに背を向けて何かを話している。先輩が俺の方を向き、俺は俯く様子。この時は周りに誰もいなかった。 一瞬だけノイズが入る。その直後だった。 「何だよ、これ……!」 さっきまでの興奮が、さあっと引いていく。有り得ないものを見たからだった。 千景先輩は、不可視の力で押されたようにホームから落ちていく。彼女を突き落とした犯人は、駅員が言う通り『映っていない』のだった。 絶句した。さっきは一体、何が起こったんだ? 俺の理解を超えている。 「分かりました。もう結構です」 と答えたのは俺じゃない。 「この度はご迷惑をおかけしました。大変申し訳ありません。きっと疲れが溜まっていたのだと思います」 丁寧に頭を下げられて、おっさんは表情を緩める。制服姿で、胸の名札には〈駅長〉と書いてあった。 「そういうことなら。ダイヤの乱れもそれほど出ていないし、今回は大目に見よう。親御さんにはこちらから連絡しておいたよ」 「そうですか。ありがとうございました」 手を掴まれた。 「さあ帰ろう。長居は無用だよ」 俺たちは駅員室から退出する。 外に出た途端、俺の手を引いていた千景先輩がぺたんと座り込んだ。 「……これ以上は無理だ」 ホームから転落した彼女は、とっさにホーム下の退避スペースに潜り込んだおかげで助かったのだった。しかし精神的ダメージは相当なものだったらしく、さっきまで気丈に振る舞っていたのが奇跡に思えるほど、今は憔悴しきっていた。 地べたに座り込んだまま、先輩は俺を見上げる。作り笑顔なのが容易に判ってしまうぐらい、怯えた目をしていた。 「すまない。もう少しの間、手を握らせてくれ。力が入らないんだ」 彼女から震えが伝わってきた。 帰宅した俺を待っていたのは、母さんからの質問攻めだった。駅で事故に遭ったってどういうこと、怪我はないの、一緒にいた千景さんは大丈夫なの――などなど。ダイニングテーブルの向かいでは、母さんが涙目になっていた。その隣に座る父さんは、子の行く末を案じるような表情。母さんの質問の合間に、こんなことを聞かれた。 「お前、何か厄介なことに巻き込まれてるんじゃないか?」 親として心配なんだろう。それは解る。ただ、全てを話してしまうと両親も無関係ではいられなくなる。きっと例の動画にも興味を持つだろう。そうなったら最後、両親までもが呪いの対象になってしまう。 「大丈夫だから。そのうち必ず、話すから」 嘘はつきたくなかった。だからそれだけ言って席を立つ。 「待って!」 母さんの悲痛な叫びが背中に刺さる。椅子が倒れる音と、父さんが制止する声。胸が酷く傷んだ。 「友稀……あまり背負い込むなよ。父さんと母さんは味方だからな」 諭すような父さんの台詞。多くは語らないが、いつでも手を差し伸べる覚悟は感じ取れた。きっと母さんも同じ気持ちなんだろう。 子が悩んでいるから、親として何かをしてあげたい。そんなごく当たり前の感情を、当たり前に抱き、当たり前に表明できる。うちの両親はそういう人たちだ。 子としては有り難い、けどそれだけに巻き込みたくなかった。せめて両親だけは、蛇迫さんの呪いと無縁でいて欲しかった。 母さんの泣き声に後ろ髪引かれながらも、俺は自分の部屋に戻るのだった。 ベッドに横たわり、今までの出来事を振り返る。 事の発端はおそらく、七月七日のテスト終了後。この日、俺と蛇迫さんとの間に何かがあった。それが原因で彼女はこの世を去り、生前の恨みを晴らす為に亡霊となった。自分が死ぬ瞬間の映像に呪いを込め、拡散し、観た者を次々と地獄へ引きずり込んだ。 こんなホラー映画じみた展開になってしまったのには、俺の責任も大いにあると思う。しかし具体的にどんな責任なのかは分からない。 一体、俺は蛇迫さんに何をしたのだろうか。火野たちが彼女にしたような、非道な行いだろうか。俺は偽善者だから、ひとたび善人の仮面が剥がれてしまえばどんな悪事でもやりかねない。 記憶が無いのが悔やまれる。せめて俺が何をしたのか分かっていれば、蛇迫さんの怒りを鎮める方法も思いつけただろうに。 究極の話、俺が死ねば赦されるのだろうか? いや、それだとおかしい。俺が狙いなら、蛇迫さんは真っ先に俺を殺しにくるはずだから。俺への当てつけに人々を殺戮するというのであれば、近しい人々に手をかけたほうが効果的だ。なのに彼女は俺と無関係な人々の命を奪っている。呪いを動画に載せて拡散するという方法で。 どうにも一貫性に欠ける。蛇迫さんは何がしたいんだろう。 歩んできた人生を考えれば、蛇迫さんは〈リング〉の貞子みたいに不遇な生き方を強いられてきたと言えなくもない。だから社会そのものに恨みを抱くようになったと考えても、不自然ではないだろう。自分を慰み者にした一部の人間に対する個人的な恨みが、そんな連中を生み出した社会そのものに対する恨みへと醸成されたのかもしれないから。この点は性的暴行を加えられ、更には殺害された貞子と共通している。 じゃあ、動画を拡散する狙いはどこに? 貞子の場合ははっきりしている。天然痘ウイルスの『自己増殖』という目的と融合した結果だ。しかし蛇迫さんにはそれが無い。どういう意図で動画を拡散させているのか、まるで見えてこない。 ここで思い出すのが、千景先輩の仮説だ。 『例の動画と死の呪いは切り離して考えるべき』という説。千景先輩が言うには、蛇迫さんが送信してきた動画には、呪いは込められていないが拡散の意図は含まれているとのこと。これをベースに考えたら、逆のパターンもあり得る。つまり、呪いは込めたが拡散の意図は含めていない。 動画の拡散は、別の人物の思惑によるものかもしれないのだ。あるいは、深く考えずにSNSで動画を拡散してしまうような、不特定多数の人間による軽率さが原因なのかも。 となると『動画』『呪い』『拡散』の三要素をそれぞれ別個に考えることもできないだろうか。俺は無意識のうちにこの三要素を組み合わせてしまい、『蛇迫さんによって呪いの動画が拡散されている』という幻想を生み出してしまっているのではないか。 それを検証する為には、もう一度あの動画を見るしかないだろう。動画に込められた意図を読み解く為にも。 スマホを出し、保存してある動画ファイルを開く。行き詰まった時の為に残しておいてよかった。 動画を再生、間もなく例の場面がやってくる。 蛇迫さんに電車が迫り、衝突する瞬間。音声をミュートにしてあるので、大音量が流れることは無い。そこは安心だ。 ――が。 「うぶッ⁉」 途端に吐き気を催した。同時に、千景先輩が駅のホームから落下した瞬間がフラッシュバックする。 電車に蹂躙される蛇迫さんの姿が千景先輩と重なり、彼女の小さな体躯がバラバラに引き千切られていく様を想像してしまった。 胃の内容物が食道へ逆流するのを感じた。口の中に嫌な酸味がほとばしり、たまらず俺はゴミ箱の中に吐き戻した。初めて動画を観た時とは違った感覚だ。駅のホームであった事故が、よっぽどショックだったんだろう。 えずき、顔をしかめ、またえずく。部屋の中に悪臭が充満していく。 もう吐くものが無くなった頃、眼の前が真っ白になる感覚があった。 気絶、とは違う。これまで閉じられていたカーテンが、突然に開け放たれたようだった。 ――そうか。そういうことだったのか。 ■八月十三日 間一髪、危険を回避できたとはいえ、千景先輩の命が狙われたのは間違いない。しかも彼女を駅のホームから突き落としたのは、得体の知れない『何か』だった。 こうなるともう、確信せざるを得ない。蛇迫さんの呪いは、間近に迫っている。 標的にされた千景先輩は、今や家から一歩も出ることができないでいる。きっと、迫りくる死の恐怖に心を蝕まれていることだろう。俺が巻き込んだばっかりに、先輩には申し訳ないことをした。だからこれ以上は、彼女を俺の事情に付き合わせるわけにはいかない。 『俺の事情』。記憶を取り戻した今なら、そうと断言できる。 例の映像に映っていた、踏切の近くから逃げ出す人物。あれが俺なのは間違いない。彼女を殺したのは、やはり俺だった。 俺のせいで蛇迫さんは怨霊となり、動画を媒介に死の呪いを振り撒いた。その呪いを受け取ってしまった人々は、不運にも殺されてしまった。彼女の意図は不明なままだが、きっと呪いはこれからも続くだろう。彼女の怒りを鎮めない限り。 この約二週間は罪悪感に苛まれていた。自分のせいで多くの人が犠牲になり、身近な人まで危険に晒してしまった。なのに自分は、まだ助かりたいと思っている。そんな己の醜さと向き合うのが怖くて仕方なかった。 考えに考えた結果、俺は自分で落とし前をつけることにした。決して「我が身を顧みず世の中の平穏を取り戻したい」などというヒロイズムに酔っているわけじゃない。あくまで自分がしたことの責任を取ろうと考えているだけだ。怖いものは怖いし、できることなら逃げ出したい。けれど逃げたところでいつかは蛇迫さんに呪い殺されてしまう。それよりは、少しでも自分たちが助かる見込みのある方法を試してみたほうがいい。 俺が考えたのは、蛇迫さんが亡くなった現場に献花して、彼女に心から謝罪するというものだ。これぐらいしか、できる事は思いつかなかった。 ただ決心したと言っても、ふんぎりがつかない。自分がやろうとしていることは本当に正解なのだろうか、蛇迫さんの怒りを逆に増大させることになりはしないか……という迷いが、実行に移そうとする度に自分の奥から問いかけてくる。 迷った挙げ句、俺は他人の手を借りることにした。千景先輩に頼るわけにはいかないので、佐野刑事に電話を架けたのだった。 「どうした?」 ワンコールで出てくれたのが頼もしかった。 「あの……思い出したことがあって」 どこから話せばいいのか。計画を実行することばかり考えていたから、話す順序を決めていなかった。 「何を?」 電話の向こうで佐野刑事は、いきなり電話を掛けてきた俺を訝しんでいるようだった。相手から問われて、俺はたどたどしいながらも自分が思い出した内容を話した。 佐野刑事は口を挟まず、相槌を打っている。俺が話し終えると、こんな答えが返ってきた。 「……そうだったのか。よく話してくれたね」 ねぎらうような一言に、少しだけ心が救われた気がした。 「はい。蛇迫さんを殺したのは俺です。だから彼女には謝ろうと思って」 ちらりと時計を見る。時刻は午後三時半を過ぎていた。 「事故現場に行きます。もし迷惑でなければ、佐野さんも来て貰えませんか」 しばしの沈黙。対応の仕方を決めあぐねているのだろうか。 時計の秒針が一周した頃、佐野刑事はこう返してきた。 「わかった。こっちは五時過ぎに署を出られそうだから、現地集合しよう」 「ありがとうございます。じゃあ俺、今から準備して家を出ます」 「ああ。後でまた連絡する」 通話を切り、息を細く吐き出す。とりあえず第一歩は踏み出せた。 自室から窓の外を見る。遠くでは灰色の雲が空を覆っていた。予報では夜に雨が降るらしいけど、それまでには帰ってこれるだろう。 自宅を出てから一時間ほど。途中で献花用の花束を買ったから、事故現場までの所要時間はこんなものだろう。 見上げると灰色の雲が空を覆っていた。思ったより雲の流れが早いので、ひょっとしたら帰るまでに雨が降るかもしれない。花束を買うついでに、近くのコンビニで傘を買うべきだったかと少し後悔する。 電車の来ていない踏切に立ち、改めて景色を確かめる。 間違いない、ここだ。俺は蛇迫さんが電車に轢かれる瞬間を目の当たりにして、恐ろしさのあまり逃げてしまったのだ。よほどショックが大きかったんだろう、帰宅した俺は玄関で倒れてしまった。そして過剰なストレスから、事故の瞬間の記憶だけでなく、彼女にまつわる全ての記憶を失ったのだった。 蛇迫さんとの間に何があったのか。今では目を閉じれば鮮明に思い描くことができた。 きっかけはゴールデンウィーク明けにまで遡る。それ以前から蛇迫さんはクラス内で孤立していた。俺としては集団無視に加わっているつもりは無かったが、彼女に関心が無かったので結局は同じことだったかもしれない。 その日――蛇迫さんが火野たち四人の相手をさせられた日の翌日だ――の二限目が始まる直前、教室移動の最中に俺は、廊下でしゃがみ込んでいる蛇迫さんを見つけた。顔色からして体調不良だと明らかに分かる様子だった。 こんな時、普通なら誰かが声を掛けて保健室にでも連れていきそうなものだが、蛇迫さんの場合はそうではなかった。きっと誰もが彼女と関わりたくなかったのだと思う。 結局、俺が保健室に連れていくことになった。それは自分の中に親切心や人情があったからじゃなくて、単に自分が冷血漢だと思われたくなかったからだ。 なのに、保健室のベッドに横たわった彼女からはこんなことを言われた。 ――ありがとう。君、優しいんだね。 蛇迫さんは涙を浮かべた目で俺を見ていた。勘違いされているのは察していたけれど、わざわざ訂正するのも面倒だったから答えなかった。 それからというもの。 一度声を掛けてしまえば、それまで空気みたいだった相手を、確かに存在する人間として意識するようになる。常に一人ぼっちでいる蛇迫さんがやたら気になった。彼女がこちらを振り向けば苦笑いを返してみたり、話しかけられたら無難な返事をしてみたり。気づけば教室で彼女と話しているのは俺だけになっていた。 特別な感情が芽生えたわけじゃない。無関心から、「こういう女子がうちのクラスにいたんだな」という認識に変わった程度。当時は蛇迫さんのことをよく知らなかったから、あくまで普通のクラスメイトとして接していたつもりだ。 そんな彼女との関係が変化したのは、期末テストが近づいてきた時期。彼女から勉強を教えて欲しいと言われて、俺は―― 着信音。 回想から現実に引き戻された。 電話を架けてきたのは佐野刑事だった。 「今、どこにいる?」 「もう着いてます。そちらはどうですか?」 「すまない、急な事案が入ってしまって出られなくなった。それほど長引く事案ではないが、どうする?」 佐野刑事は俺の都合に合わせてくれるつもりらしい。 「俺だったら大丈夫です、待ってますから」 こちらから頼んだ手前、簡単に引き下がるわけにはいかなかった。 「そうか。だったらこちらの目処がつき次第、また連絡する。それまで待っててくれ」 予定時刻は元々決まっていなかったし、多少遅くなっても構わない。よほどのことがない限り、今日中に事を済ませたかった。 俺が了解の返事をすると、佐野刑事は通話を切ったのだった。 佐野刑事から二度目の着信があったのは午後八時。この頃には小雨がパラついていた。 「申し訳ない、もう少しかかりそうだ。日を改めようか?」 「いえ、もう少し待てそうです。忙しいのに、こちらこそすみません」 「じゃあ、午後十時を過ぎた場合は日を改めることにしよう。さすがに未成年を深夜まで待たせておくわけにはいかないから」 「わかりました」 「雨はどうだ?」 佐野刑事は天候が気になるようだ。 「小雨です」 「近くに雨宿りできそうな場所はあるか?」 そう聞かれて、俺は周りを見る。目に入ったのは、八階建てほどの高さがある建物。生コン工場のバッチャープラントだ。 「生コン工場があります。あそこなら」 「いいだろう。敷地内に入れるよう、責任者には私から話を通しておく。鍵がなくても中には入れそうか?」 確か、正面の門には鎖が引いてあるだけで、それをくぐれば中に入れそうだった。 「多分、大丈夫です」 「では移動してくれ。こちらの都合で振り回して悪いな。親御さんには私から連絡を入れておこう。心配させないよう、上手く話しておくよ」 佐野刑事なら任せてもいいだろう。俺は甘えることにした。 「お願いします」 そう答えて電話を切り、雨宿りできる場所へと向かう。生コン工場は、踏切から歩いて五分の距離だ。 日は暮れて、辺りはすっかり静まりかえっている。道路沿いにはまばらに防犯灯が並び、近隣の倉庫からはライトの光が放たれている。薄暗くはあるが、懐中電灯なしに目的地まで行けるのは有り難かった。 そういえばこの道は、蛇迫さんと一緒に歩いた道だ。テスト勉強をするのに、彼女の家まで来るよう誘われたから、この道を通っていったのだ。 二人きりで勉強するというシチュエーションに後ろめたいものを感じながらも、無下に断るわけにはいかなかったから、俺は蛇迫さんの誘いを受けた。今にして思えば、これがいけなかった。あの時の俺に指示を出せるなら、今すぐ引き返せと言いたい気分だ。 しかし引き返さなかった当時の俺は、期末テスト最終日の後も、蛇迫さんに誘われるがまま、彼女の家へと足を運んでしまった。勉強を教えてくれたお礼がしたいという言葉にまんまと乗せられて―― 生コン工場の前に人影が見えた。佐野刑事が到着するにはまだ早い。回想が中断され、思わず身構えてしまう。 人影はこちらに気付いたらしく、近づいてきた。担任の稲葉先生だった。 「安堂か。出歩くには遅い時間だぞ」 先生は左目の辺りをひくつかせている。溜め込んだストレスはまだ解消されていないようだった。 「事故現場に花束を置いて帰ろうと思って」 俺は用意した花束を掲げて見せる。それだけで相手は何のことか理解したようだった。 「まだ蛇迫の件を嗅ぎ回っているのか。やめろと言ったはずだぞ」 先生は鼻に皺を寄せる。怯えて唸り声を出す犬のような顔をしていた。 「用件が済めばすぐに帰ります。それより先生こそ、どうしてこんなところに?」 踏切は逆方向だと突っ込まれたら面倒なので、さらりと質問し返した。 「警察から連絡があったんだ。この工場の敷地内で騒いでいたうちの生徒を補導したと。親と連絡が取れないから代わりに迎えに来いだとさ」 後半部分が吐き捨てるような言い方だった。きっとまた、余計な仕事を増やされたと感じているに違いない。 「それよりも。お前は用事が済んだら早く帰れ。いいな?」 先生は俺に背を向け、ブツブツと何かを言いながら塀に沿って歩いていく。裏手へ回るようだ。そちらで補導された生徒が引き渡されることになっているのかもしれない。 ただ、少し妙だなとは思った。 生徒が騒いでいたという割には、辺りが静まり返っていたからだ。 それから更に一時間。時刻は午後九時を回っていた。 佐野刑事から電話が架かってこないかと思ってスマホをポケットから取り出したら、ちょうどその時に着信音が鳴った。しかし俺が思っていたのとは違う人からの電話だった。 「先輩、どうしたんですか?」 電話してきたのは千景先輩だった。 「さっき、佐野刑事から電話があったよ。君、一人で事故現場へ行こうとしていたみたいだね」 余計なことを。この時ばかりはベテラン刑事の機転を恨んだ。 「すみません」 「それは私に黙っていたことへの謝罪かな? だとすれば謝る必要はないよ」 俺を咎めもせず、先輩は諭すような口調で言う。 「君のことだ、私を巻き込みたくなかったのだろう? しばらく連絡が無かったから、そんなことだろうと思ってね」 図星だった。 「反論がないところからすると、どうやら正解のようだね。亀の甲より年の功とはよく言ったものだ」 自分のほうが年上だから洞察力に優れていると言いたいらしい。こんな時でも彼女のお姉さんムーブは健在だった。 「で、今は生コン工場で雨宿り中かな?」 佐野刑事は俺の居場所まで話してしまったらしい。千景先輩が俺を心配するから話したのかもしれないが、そんなことをしたら先輩がどういう行動に出るか予想しなかったのだろうか。 「もしかして、来るつもりですか?」 「そうだよ」 「やめてください……!」 「やけに必死だね。しかしもう遅い、着いてしまったよ。君はええと……いた! おーい」 遠くから呼ぶ声がする。声がした方向を見ると、千景先輩が手を振っていた。 「雨が強くなってきたね」 傘を閉じながら、先輩が俺の隣に立つ。工場の敷地内にある事務所の軒先で、俺たちは横並びになった。工場は閉鎖されているので、事務所の中に従業員はいない。 「何で来たんですか」 「ここまで深入りしたんだ、最後まで付き合うよ」 「でも、また危ない目に」 「佐野刑事も来るんだろう? 何なら君が守ってくれてもいいんだが」 「そんなこと言って……」 と反論しようとしたが、千景先輩の真剣な表情を見たら何も言えなくなってしまった。 「聞かせて欲しい。もしかして君、一人で全てを背負うつもりじゃないだろうね?」 「それは――」 俺は説明した。記憶を取り戻したこと、全ての元凶は自分であること、ならば自分が責任を果たさなければならないこと。蛇迫さんとの間にあった事も包み隠さず、全部話した。 「……そんなことがあったんだね。責任を感じてしまうところが実に君らしいな。しかしそれは違うと思うよ」 「どういう意味ですか?」 「物事の結果は、多くの原因が積み重なって起きるものだ。だったら原因の数だけ責任があると考えるべきだ。色んな原因があるのに、責任は一つだけなんておかしいよ。まして君が一人で全部背負うなんて馬鹿げてる」 つまり先輩はこう言いたいのだろう。蛇迫さんが電車に轢かれて死に、怨霊となって死の呪いを振り撒くようになったのにも様々な原因がある。俺だけが責任を感じることはないと。 「君は優しいから、自分を犠牲にすることをつい選んでしまうんだ。誰もやりたがらないことを、結局は請け負ってしまうだろう? それに私を巻き込まずに自分だけで解決しようとする姿勢がまさにその通りなんだよ。いい加減、自覚したまえ」 俺が優しい? 人目を気にしてばかりの俺が? 「何を呆けているんだい。まったく、自分で自分を騙すなんて、よほどのひねくれ者だね君は」 人のことを優しいと言ってみたり、ひねくれていると言ってみたり。もう滅茶苦茶だ。だけどこの人に言われるなら悪い気はしなかった。 「それはそうと。君が記憶を取り戻したことで真相が明らかになった。そこで改めて考えてみたんだが、やはりおかしなことがある」 先輩は何かに気付いたようだ。 「なぜ彼女は動画を送りつけてきたのだろうね。あとは」 その時だった。 事務所の窓がいきなり開いた。位置的には千景先輩の真後ろ。振り向くと同時に、暗闇の中から二本の黒い腕が伸びてくるのが見えた。 腕は先輩の首に絡みつき、かと思えば瞬く間に彼女を事務所の中へ引きずり込んだのだった。 「くそっ!」 俺は後を追って窓から事務所内へ飛び込む。通路を引きずられていく先輩を見つけると、彼女を引きずる黒い影めがけて、手近にあった消火器を投げつけた。 黒い影がうめき声を上げ、その場でうずくまる。消火器が頭に命中したようだ。 「先輩!」 千景先輩の手を掴み、黒い影とは逆方向に走った。背後からは憤怒の声が聞こえる。明確な殺意が動き出すのを肌で感じた。 事務所は三階建て。一階の通路を疾走する。息を切らせながら振り返ると、黒い影が追いかけてくるのが見える。影は呪詛とも思える言葉を喚いていた。 事務所の外に出たほうがいいのは解っている。しかし出口が見つからない。通路の窓は腰高窓なので、よじ登っている間に追いつかれてしまう。ドアは施錠されているかもしれない。運良く鍵がかかっていなければ外へ出られるが、そうでなければ行き止まりになってしまう。 「上へ!」 千景先輩が叫んだ。結局、こうするしかないのだ。ホラー映画では、殺人鬼から逃げるのに何故か建物の上へ上へと進んでしまうものだが、実際に体験してみるとそうせざるを得ないからだと解る。 通路の突き当りに階段があった。階下が見えるオープンステアだ。これを上がりながら足元を見ると、下階には俺たちを見上げる黒い影の姿があった。 二階では距離を稼げない。とりあえず三階へ逃げて身を隠し、追手をやり過ごした後に下の階へ降りるのがベターだろう。あとは三階に身を隠す場所があればいいのだが……。 階段を上りきると、三つの部屋があった。ドアを見るとプレートが貼ってあり、一番手前が資料室、その奥が会議室、そして最奥が社長室となっていた。これらのうちどれかに身を隠すことになりそうだ。確率は三分の一、俺たちの運が試される。 カンカンカンという階段を上がる足音が聞こえる。黒い影が追ってきたのだ。じっくり考えている暇は無い。俺は一番近い資料室のドアノブを掴んだ。 がちん、という手応え。施錠されていた。 「こっちも駄目だ!」 千景先輩が悲痛な叫びを上げる。会議室のドアも開かないらしい。だったらもう、あと一部屋しかないじゃないか。 社長室。ここのドアが施錠されていたら終わりだ。通路の突き当りにドアがあるので、ここから中へ入れ無ければ袋小路になってしまう。 祈るような思いでドアノブを掴み、回した。 手応えは、無い。鍵はかかっていなかった。 俺と千景先輩は中へ身を滑り込ませ、室内側から施錠した。これで少しは時間が稼げるはずだ。 ドアの向こうで、他の部屋のドアノブを回す音が聞こえた。黒い影は階段手前の資料室から順番に調べているらしい。この社長室に俺たちが隠れているのがバレるのも時間の問題だ。 と思っていたら。 ドォンという音がして社長室のドアが揺れた。黒い影が体当たりでこじ開けようとしている。 さて、どうする? 避難口を求めて窓の外を見た。外は土砂降りになっている。夜空に稲妻が走り、間もなく落雷の音。床が揺れるほどの衝撃があった。 「バリケードを作りましょう」 出入口のドアに亀裂が入っていた。ここを突破されたら、もう逃げ場がない。 「いや、それじゃ駄目だ」 千景先輩が首を横に振った。 「バリケードを作っても多少の時間稼ぎになるだけで、結局はジリ貧になると思う。この部屋から出る方法を考えたほうがいい」 この部屋から出るといっても。窓から飛び降りるのは危険だ。カーテンを結んでロープ代わりにする方法もあるけど、それだと時間がかかり過ぎる。 「こっちだ」 千景先輩が歩んでいく先は、出入口のドアだった。今まさに外から繰り返し突撃を食らっている。 「次の衝撃までに少しの間がある。相手は助走を付けてドアに体当たりしているようだ。そしてこのドアは内開きだ。だったら体当たりのタイミングに合わせて――」 そういうことか。相手が助走を付けてドアにぶつかってきた瞬間、ドアを開けてやる。そうすれば相手は勢い余って室内に突っ込んでくる。その隙に俺たちが室外へ出ればいいわけだ。 他の手段を模索している暇は無い。俺と千景先輩は、ドアが開く方向に身を寄せた。 衝撃が来るのはほぼ一定のリズム。砂でも踏んでいるのか、じゃりじゃりといった足音が聞こえる。これなら相手の動きが読めそうだ。 来た。ドアが軋む。まだ突破されない。音を立てないよう解錠し、ノブを掴んだまま、次の一撃に備えて意識を集中させた。 ――今! 一気にドアを開けてやる。同時に、黒い影が部屋に飛び込んできた。影は勢い余って床に転倒する。逃げるなら今がチャンスだ。 「先輩っ!」 俺が先に部屋を出た。千景先輩の手を引こうと自分から手を伸ばす。 手は、掴めなかった。 黒い影のほうが一瞬早かった。千景先輩は後ろから羽交い締めにされている。 「離せ!」 先輩を取り戻そうと引き返すが、彼女は信じられないことを口走ったのだった。 「行け! 私はいいから‼」 なに言ってるんですか、先輩。そんなことをしたら、あなたは。 「……私のほうが上級生だからね。後輩を逃がすのは先輩の役目だ」 こんな時でも自分が先輩であることをアピールする。そんな場合じゃないのに。 「じゃあね、安堂友稀くん。君と一緒で楽しかったよ」 そう言って千景先輩は、儚げな笑みを浮かべた。 「どうか生き延びてくれ。それが私の願いだ」 直後、社長室のドアは閉ざされたのだった。 引き返したくなるのを堪えながら、無我夢中で走った。 千景先輩を見捨てるつもりは毛頭ない。警察に電話する時間を稼ぐには、できるだけ遠くへ行く必要があった。 一階へ降り、最初に入ってきた窓から事務所の外へ出る。停電しているらしく、屋外の照明は全て消灯していた。 辺りが真っ暗なので、自分が今どこにいるのかよく分からない。加えてこの土砂降り、視界はゼロと言ってもよかった。 暗闇の中、自分の方向感覚だけを頼りに進む。どこまで行けば安全な場所に辿り着けるのか、想像もつかなかった。 逃げ切れないかもしれない、という不安が体を重くする。これは生前の蛇迫さんから感じたのと同じ感覚だ。 思い出す。 七月七日のテスト終了後、俺は蛇迫さんの誘いで彼女の家へ行った。お礼がしたいと言うので、それを断るのも悪い気がしたからだった。 家に着いた時、蛇迫さんの雰囲気がいつもと少し違うような気がしていた。とはいえ、お礼といっても何かを渡される程度だろうから、すぐに帰れるだろうと楽観的に考えていた。 しかし俺の予想とは裏腹に、リビングまで通され、お茶と菓子を振る舞われ、何なら晩ごはんも食べていくかと聞かれた。 悪い気はしなかったが、心のどこかでは不穏な空気を感じていた。さすがに勉強会以外で女子の家に長居するのはマズいと思ったから、俺は夕食の誘いを断って帰ることにしたのだった。 ――帰らないで。まだ、お礼ができていないから。 捨てられた犬のような顔をしてそう言うと、蛇迫さんは俺を自室に誘った。それで察しがついた。 ――お礼って、そういうことじゃないの? 私、トモキくんとなら、してもいいと思ってる。 俺がもう少し能天気だったら、二つ返事で彼女の申し出を受け入れていただろう。でも俺は、蛇迫さんの瞳の奥に言い知れない恐怖を感じた。 上手く表現できないが、雌のカマキリに睨まれている感覚とでも言うのだろうか。彼女と事に及んだ瞬間、頭から食われるのではないかと思うような。 理由はそれだけじゃない。蛇迫さんから秘め事の誘いを受けた時、ふと幼い頃から付き合いのある先輩が脳裏をよぎった。俺が欲望に負けたら、彼女には申し訳ない気持ちになるだろうなと思った。 だから、逃げるように蛇迫さんの家を後にした。 彼女は追ってきた。何がそうさせたのか、俺には解らなかった。 そして、あの踏切で事故は起こった。 呼び止める声に振り向くと、蛇迫さんは線路内に入っていた。間もなく、踏切の警報機が鳴り始めた。 ――行かないで! トモキくんが行くなら、私ここで死ぬから‼ 自分の命を人質にして、俺を繋ぎ止めたかったのだろう。どうしてそこまでするのか聞くと、彼女はこう答えた。 ――だって、あなたみたいに優しい人、他にはいないから。お願い、ずっとそばにいて! 蛇迫さんは勘違いしていたんだ。俺が心の清い人間だと。 しかし俺は醜い人間だった。欺瞞に満ちた言葉で、蛇迫さんを思い留まらせようとする程度には。 わかった、君の言う通りにしよう。だから線路から出てきてくれ――そう説得したら、彼女の顔が喜びの色に変わった。 彼女は線路内から俺の方に向かって歩いてきた。だが途中で何かに躓き、転倒した。その時に足をくじいたらしい。思うように立ち上がれないでいるところへ、電車が来た。俺は身がすくんでしまい、助けに行くこともできなかった。 ……あとは動画の通りだ。 俺が中途半端な優しさを見せなければ、あんなことにはならなかっただろう。だから蛇迫さんを殺したのは、俺で間違いないのだ。 何かに躓いた。 水たまりの上で盛大に転び、体を強かに打つ。弾力のある物体に足を取られたようだ。振り向き、闇に慣れ始めた目で観察すると、それは人の形をしていることが分かった。 稲光。 一瞬、辺りが照らされる。その時に倒れている人の顔が見えた。 土橋だった。火野、風見、水嶋らと共に蛇迫さんを欲望の捌け口にした四人のうち、最後の一人。アスファルト舗装された地面に転がった彼の首には、刃物で切り裂かれたような傷口がある。傷口は真新しく、流れ出た血液が雨と混ざって赤い水流を作っていた。 死んでいる。いや、殺されたのだ。誰がこんなことを。 恐ろしさのあまり、座った姿勢のまま後ずさると、今度は別の物体に手が触れた。 振り向く。こちらも死体のようだ。鈍器で滅多打ちにされたのか、腕や脚が異様に腫れている。手足を破壊して身動きを取れなくしたところへ、頭部への一撃を見舞ったらしい。脳天がかち割られ、頭蓋の中のものが飛び出している。強い衝撃を受けた為に顔面の形が歪み、顔を判別するのに少し時間がかかった。 死んでいるのは、稲葉先生だった。 心拍数が跳ね上がる。もう、何がなんだか分からない。今、生コン工場の敷地内で何が起こっているのだろうか。 とにかく逃げなければという思いで、俺は立ち上がった。暗闇に目が慣れてきたので辺りを見回すと、ここはどうやら駐車場のようだった。もう少し行けば門があり、そこを通れば敷地の外へ出られそうだった。 走る。門の脇に守衛室が設けられていた。その前に、もう一体、転がっている。 今度は誰だ。 仰向けに倒れている人の顔をおそるおそる覗き込むと、それは千景先輩だった。 頭部から出血し、眼鏡のレンズにはひびが入っている。顔は蒼白に染まり、生きているようには見えなかった。 が。 「……ん」 先輩が僅かに声を漏らした。 彼女の傍らにしゃがみ込み、呼吸を確認する。弱々しいが、まだ息はあるようだ。あの状況から生還したのは奇跡だと思った。 「しっかりして下さい。一緒に逃げましょう」 先輩を抱き上げる為、彼女の体に両手を伸ばす。 その時、稲妻が走った。一瞬だけ辺りが明るくなり、地面に落ちた影がくっきりと浮かび上がった。 ――俺の背後に立つ人影が。 人影は長い棒のようなものを振り上げていた。 俺は振り向きざま、左腕で頭を庇う。直後、ガツンという強い衝撃。左腕に激痛が走った。途端に冷や汗が吹き出し、貧血を起こしたように視界が狭まっていく。 「……はあっ……はあっ……」 息が苦しい。意識が飛びそうだ。そうなれば最後、俺はこの場で殺される。 見上げると、相手は右手に鉄パイプを持ち、憤怒の表情で俺を睨んでいた。 千景先輩を餌に使い、俺を足止めするという狡知。激情に任せて人を物理的に破壊しようとする暴力。そして実体を持ち、俺の前に堂々と姿を現した。 目の前にいる『こいつ』は怨霊じゃない、生きた人間だ。 落雷があった。近い。稲光とほぼ同時に、聴覚が奪われかねない大音響。空気がビリビリと振動するのを感じた。 今ので相手の顔がはっきり見えた。何故この人が俺たちを襲ったのか、答えは見つからなかった。 「どうしてこんなことを……」 問うたところで答えてはくれないかもしれない。だが聞かずにはいられなかった。 俺の前に立っているのは――佐野刑事だった。 「どうして、だと?」 ベテラン刑事は片眉を釣り上げた。怒りの表情が急激に冷め、冷酷なものへと変貌する。冷静な分、その気になれば確実に命を奪う為の行動に移るであろう恐ろしさを感じた。 「お前たちが流姫を殺したんだ。その報いを受けるのは当然だろう」 なぜ佐野刑事は蛇迫さんを下の名前で呼ぶのか。その理由を考えた時、ふと台詞の断片が蘇った。 ――私にも娘がいたんだ。 佐野刑事が蛇迫さんの死について捜査を行なっていた理由。それが職責の自覚からではなく、個人的感情によるものだったとしたら。 つまり、佐野刑事が蛇迫さんの父親だったとしたら。一連の死亡事故が、娘を死に追いやった者たちへの復讐だったとしたら。 刑事としての知識や経験、立場を利用すれば、殺人を事故や自殺に偽装するのは容易だったことだろう。 たとえば火野。彼が階段から転落した時、佐野刑事は上階から現れた。突き落とすことによって転落事故に偽装したのだろう。風見は呼び出して、外出したところを車で撥ねた。水嶋は精神的に不安定になっているところへ、酒を飲ませ、首を締めてから立木にぶら下げ自殺に見せかけた――というように。 「あなたが、蛇迫さんのお父さんだったんですね」 佐野刑事は頷く。 「でも名字が」 「今は旧姓を使っているからな」 そういうことか。世間一般には妻が夫の姓に変わることが多い、そんな先入観が俺の発想力を鈍らせていたのだ。 佐野刑事は婿養子として入籍し、離婚までは蛇迫姓を名乗っていた。自宅に二つあった表札のうち、後に剥がされたのは佐野姓のもの。てっきり亡くなったのは母方のお祖母さんだと思っていたが、実は父方のお祖母さんだったようだ。 佐野刑事が鉄パイプを振るう。防御が間に合わず、右脚に容赦ない一撃が加えられた。激しい痛みと共に力が抜けていく。獲物を逃さないよう、確実な手段を選択しているらしい。 「勘違いするなよ。君を生かしているのは流姫への謝罪を引き出す為だ。情報提供してくれたからといって見逃す気は無い」 今更ながら、自分がとんでもないことをしていたと気づく。蛇迫さんと肉体的関係にあった男たちの名前を、俺は佐野刑事に教えてしまっていたのだ。その情報を得て佐野刑事は復讐の範囲を拡大させた。土橋からは事情聴取の名目で、性交渉した教師や売春相手の情報を聞き出した。そうして蛇迫さんと事に及んだ男たちを、片っ端から手にかけた。死の連鎖は、彼によって引き起こされたものだったのだ。 呪いの動画なんてものは存在しなかった。動画がバズるほど拡散されたのなら、多くの人の目に触れるのは当然のこと。あの動画を見たから死んだんじゃない、ただ『死んだ人々があの動画を見ていた』だけ。原因と結果が逆転していたのだ。 「君のおかげで、娘を辱めた四人は全員始末できた。恥知らずな教師もね」 ちらりと稲葉先生の亡骸を見る。担任教師が起こした不祥事を、学校側は揉み消したかったに違いない。 「君も同罪だ。中途半端な優しさは人を傷つけると学ぶべきだったな」 そう言われると返す言葉もない。蛇迫さんに思わせぶりな態度を取ったのはまごうことなき事実なのだから。結局俺は、自分の偽善から一人の少女を死に追いやってしまったのだ。 「最後に、謝罪の言葉を聞こうか」 復讐鬼と化した父親が要求する。 「……娘さんのことは、お気の毒でした。俺も責任を感じています」 これは本心だ。俺は佐野刑事を見上げ、目を合わせる。 「この度は大変申し訳ありませんでした」 そう言って深々と頭を下げた。 「……ふん。まるで大人みたいな謝り方をするな。子供なら子供らしく、無様に泣き喚けばいいものを」 俺の態度が上っ面だけのものに思われたらしい。根が偽善者なので、そう解釈されてしまうのは仕方がなかった。 鉄パイプが振り上げられた。それは俺につきつけられた死の宣告だった。 もはやこれまでか。 観念して目を閉じる。 しかしいつまで経っても、最後の一撃がこない。 「……何故だ。俺は、お前の為に」 目を開くと、佐野刑事は俺の頭上を見ていた。 「お前のことは今でも愛している。だからこうして、お前を泣かせた奴に罰を与えてきたんだ。なのにどうして」 幻覚でも見ているのだろうか。まるでそこに誰かがいるようだった。 「安心しろ。父さんがお前の仇を取ってやる。こいつが悪いんだ」 そう言って佐野刑事が俺の方を見た瞬間。 雷が落ちた。 轟音と共に視界が真っ白に染まる。 どさり、と倒れる音。音がした方を見ると、そこには体から煙を上げて横たわる佐野刑事の姿があった。 落雷が佐野刑事を直撃したようだった。広い駐車場で鉄パイプを振り上げたのが良くなかったのかもしれない。変わり果てたベテラン刑事は、信じていた者に裏切られた時のような表情をしていた。 雨足が弱まってきた。 次第に雷鳴も遠ざかっていく。 これで全てが終わったような気がした。 とはいえ、気を抜くわけにはいかない。千景先輩の意識は戻らないままだし、俺も腕と脚をやられた。ひとまず救急車を呼んで、それから警察だ。 ポケットからスマホを取り出した。まだ電源は入っている。119番をしようとして画面を見た時に、今回の出来事が思い出された。 きっかけは、このスマホに奇妙な動画が送信されてきたことだった。千景先輩と協力して蛇迫さんに関する証言を集める中で、いつの間にか「例の動画を見たら死ぬ」という幻想に囚われていた。 だが呪いなんてものは存在せず、実際に行われていたのは父親による復讐劇だった。動画が拡散されたのは、蛇迫さんの意思ではなく、考えもなしに情報を拡散してしまうSNS利用者の軽率さが原因。 そして動画を観た人が死ぬのではなく、死んだ人が動画を観ていただけ。恐怖に駆られている間は分からなかったけど、こうして種明かしされればそれほど不自然なことでもなかったと解る。 ――いや、待て。本当にこれでいいのか? そもそもあの動画は誰が送信してきたのか。何の為に送信したのか。千景先輩は、誰に駅のホームから突き落とされたのか。そして佐野刑事は、死ぬ間際に何を見たのか。 おかしい。まだ説明のつかないことが残っている。やはり得体の知れない『何か』が、今回の出来事には関わっていたとしか考えられない。 着信音。 こんな時に誰からだろう。俺はスマホの画面を見た。 言葉を失う。有り得ない人物からの着信だった。 馬鹿な。とは思うものの、否定しきれない。 俺は電話に出た。 「……待って……た……よ」 その声は、蛇迫流姫のものだった。 総毛立つ。スマホを持つ手が震えた。 「……本当に蛇迫さんなのか?」 ノイズが酷く、返事が聞き取れない。だけど画面に表示された名前と、さっき聞こえた声の感じからして、相手が蛇迫さんだと確信する根拠は十分にあった。 「あの動画を送ってきたのは、君か」 激しいノイズの向こうから、肯定の返事が聞こえた。 「どうしてそんなことを?」 自分が死ぬ瞬間の動画を送りつけてきた理由。それが知りたい。するとこんな答えが返ってきた。 「……観て……そして思い出し……欲しかっ……から……」 聞いてようやく理解した。 蛇迫さんは呪いを振り撒きたかったんじゃない。単に動画を観て、あの日、何があったのかを思い出して欲しかっただけなんだろう。他の生徒にも送りつけたのは、俺一人に送っただけじゃ心もとないから。他の生徒が蛇迫さんの真意に気付いたら、俺に知らせるはずだと期待していたんだろう。 「呪い……なん……酷い……私は……ただ……」 途切れ途切れの台詞は、俺への非難にも聞こえる。彼女から送られてきた動画を呪いの動画と解釈したのは、俺を含め視聴した人々だ。例の動画に誤った認識を持たれてしまったのは、蛇迫さんにとって心外だったに違いない。 彼女から俺への非難はまだ続く。 「それに……あの時……君……助け……て……くれ……なかっ……」 踏切で足をくじいた時のことだろう。俺にもう少し勇気があれば、蛇迫さんは死なずに済んだ。そのことについては弁解の余地もない。 「……ごめん。あの時は、怖くて動けなかった」 正直な気持ちを伝えたつもりだった。 「……その女は……守ろうと……し……くせに……!」 蛇迫さんの声色が変わった。『その女』とは、千景先輩のことだろう。 「その女……が……いいの……?」 答えるのを迷った。蛇迫さんを傷つけない為には、正直に答えるべきか、嘘をつくべきか、判断がつかなかったからだ。 結局俺は、黙り込むことしかできなかった。 「……その……優し……さ……が、痛い」 電話の向こうで、ひときわ騒がしくなるノイズ。蛇迫さんの感情の乱れを表しているようだった。 気付いた時には遅かった。俺はまた中途半端な優しさで、人を傷つけたのだ。 「私は……あな……たが……欲しい……の……に……!」 僅かに怒気をはらんだ声。それが聞こえたかと思うと、千景先輩から苦悶の吐息が漏れた。 見れば、千景先輩の首にくっきりと指の跡が浮かび上がっている。不可視の力で首を絞められているようだ。 「……ぅ……あ」 指の跡が深くなっていく。先輩の半開きになった口から、舌がせり出してきた。顎がわななき、顔が鬱血していく。蛇迫さんは、千景先輩を殺す気だ。 「やめろ!」 とは言うものの、見えない相手にどうやって止めさせるのか見当もつかなかった。 俺は耳に当てていたスマホを放り出し、千景先輩の体に覆いかぶさる。彼女の細い首に食い込んだ指を外そうとするが、蛇迫さんの手に触ることができない。となるともう、あとは懇願するしかなかった。 「やめてくれ! 頼む‼ この人は」 俺にとって必要な人なんだ。 幼い頃から一緒だった。たまたま近所で、同じ時期に生まれたというだけで付き合いが始まった。俺のほうが学年が下だったから、先輩はお姉さんとして接してくれた。泣いている時には寄り添い、困っていたら助けてくれる、そんな優しい姉。その献身を恥ずかしく感じた時期もあったけど、この人がいたから今の自分があると思っている。 恩義に感じている、だけじゃない。尊敬の念もあるし、彼女の人柄や考え方を好ましくも思う。『恋愛感情』の一言では説明できない気持ちを、俺は抱いている。 先輩が大切だ。自分を犠牲にしてでも守りたい。だから彼女を連れていかないでくれ。連れていくなら―― 「俺が欲しいなら俺を連れて行けよ! ずっとそばにいてやるから! それでいいだろ‼」 何もできない自分がふがいない。涙が後から後から溢れ出してきた。体温を伴ったそれは俺の頬を伝い、雨に流されていく。 「お願いだ……お願いです……どうか……先輩だけは……」 あとはもう言葉にならなかった。強制的におもちゃを取り上げられる子供みたいに、泣きじゃくる俺。どれだけ無様でも、どれだけ情けなくても、我が儘を押し通そうとする。それが俺の精一杯だった。 「そう……」 底冷えのする声。耳元で囁かれたかと思ったら、激しい耳鳴りが始まった。 頭の両側から圧力がかかり、ミシミシと頭蓋骨の軋む音が聞こえる。蛇迫さんは俺を殺すことにしたようだ。 視界が狭まり、色彩が失われていく。網膜に写る先輩が、鮮明な像を結ばなくなってきた。 死。 はっきりとそう意識した。このまま俺は、頭をトマトのように潰されて生涯を終える。そこから先は、蛇迫さんと永遠に歩む奈落の底だ。 まだ視界が生きているうちに、千景先輩を見た。苦しむ様子はない。標的が俺に移ったからだ。今は静かな呼吸を続けている。 俺が蛇迫さんの望みを叶えたことで、先輩には生き残る可能性が出てきた。それなら本望だ。さっき逃がしてくれたことへのお返しが、こんなにも早くできるとは思わなかった。 自分の口元が緩む。そうだ、これでいい。 「……なん……で……?」 聞こえなくなったはずの耳に、そんな台詞が飛び込んできた。 万力のような圧力が、嘘みたいに消えていく。 「……もう……いい……」 その一言を最後に、蛇迫さんの気配が消えた。 雨は、まだ降り続けていた。 ■八月二十五日 夏休みは終盤に入っていた。高校二年生、中だるみの貴重な長期休暇は、入院生活のまま終わりを告げそうだ。病院の外ではまだ蝉の鳴き声がうるさいけど、生命の危機を体験した身としては、彼らの精一杯の生命活動を咎める気にもなれなかった。 あの後、俺は偶然近くを通りかかった人に助けられた。スマホは雨に濡れて使えなくなってしまったし、何とか動けそうなのは俺だけだったから道路まで這っていき、通りすがりの誰かに助けを求めることにしたのだ。 運良く、それほど待たずに車が止まってくれた。降りてきたのは仕事帰りのおじさんで、スーツが汚れるのも構わず肩を貸してくれた。車に乗せられた後、俺から事情を話したらすぐに救急車と警察を呼んでくれた。見ず知らずの人なのに、あんなに親切にしてくれて。名前を聞けなかったのが悔やまれる。 病院に運ばれてからは、色んなことを、色んな人から、山ほど聞かれた。特に警察は、佐野刑事が周りに気付かれないよう上手く立ち回っていたらしく、事情を知る人がいなかった。そんなわけで俺は、一から全て話さなければならなかった。救急車の中でも、面会謝絶が明けた病室でも、捜査員からの質問が矢継ぎ早に投げられてうんざりしてしまうほどだった。 あと両親。事のあらましを話したら、滅茶苦茶怒られた。それだけ心配してくれてたんだと解っていただけに、申し訳なさで押し潰されそうだった。この短期間に俺は、母さんをどれだけ泣かせたんだろうか。親不孝ここに極まれり、いくら恩返ししても足りないことだろう。 自分にとって何一ついいことが無かったように思える今回の出来事だけど、一つだけ喜べることがあった。 それは、千景先輩が意識を取り戻したことだった。 「やあ、会いに来てくれたんだね。お姉さんは嬉しいよ」 生死の境を彷徨っていたくせに、回復した途端にこのざまだ。お姉さんムーブは相変わらず健在らしい。 先輩はベッドの上で身を起こし、余裕のある笑みを浮かべている。同じ病院に運ばれたので、彼女の容態は看護師から聞かされていた。意識が回復したのは三日前で、話せるようになったのは今日から。午後に面会の許可が出たので、俺は車椅子を急いで走らせてきた。もっとも、車椅子を押してくれたのは看護師さんなのだけれど。 「じゃあ、終わったら呼んで下さいね」 と言って看護師さんが病室から出ていく。若い女性なので、色々と察するものがあったんだろう。その気遣いが有り難いような、恥ずかしいような。 パタン、とスライドドアが閉まる。 「君も何とか生還したようだね。よかった」 「先輩こそ。あの時はもう駄目かと思いましたよ」 お互い苦笑い。自分たちが殺されそうになったことは、正直トラウマもので二度と思い出したくないのだけれど、先輩とならこうして笑い話に変えることができる。 「私はほとんど諦めていたよ。だからせめて君だけでもと」 佐野刑事に捕まった時のことだろう。あんな状況であっさり自分の命を諦めて、他人を生かそうとするなんて聖人なのだろうかこの人は。 「先輩はどうして平気であんなことができるんですか?」 「平気ではないよ」 千景先輩の眉尻が下がる。自嘲しているらしい。 「何というか……あの時はああするのがベストに思えたんだ」 照れ隠しなのか、彼女は窓の外を見る。 「自分の命よりも大切な――いや、何でもない」 台詞を途中で打ち切り「出産する時の母親みたいなものだよ」と、よく分からないことを言うのだった。やけに早口で、耳が赤いのが気になった。 「……そうかもしれませんね」 こちらまで恥ずかしくなってくる。だから俺は話題を変えることにした。話題といっても、俺と先輩が興味を共有しているのは蛇迫さんに関すること。 千景先輩が気を失っている間にあった出来事を話すと、彼女はいつもの考察モードに入ったようだった。 「……そうか、蛇迫さんがそんなことを」 「はい。あれは確かに蛇迫さんの声でした」 にわかには信じられないけど、蛇迫さんはスマホを通じてあの世からメッセージを送ってきた。非科学的ではあるけれど、実際に体験してしまったのだから事実として受け入れるしかない。 「彼女は、君を必要としていたんだろうな」 「ええ……たぶん」 蛇迫さんにとって俺は、どんな人物に見えていたんだろうか。男たちの汚い部分を見続けてきたから、俺が清らかな人間に見えてしまったんだろうか。だとしたらそれは見当違いだ。他人に嫌われるのが嫌で、偽善的な行いしかできないのが俺なんだから。 「つくづく気の毒な話だね」 という先輩の言葉は、俺に対するものか、それとも蛇迫さんに対するものか。おそらく後者だろう。 蛇迫さんは結局、何一つ得られなかった。世間一般にいう『両親の愛情』も、親しい友達も、そして互いを尊重し合える恋人も。誰かに必要とされたいと願いながら、自分を必要としてくれる人には出会えなかった。父親――佐野刑事は、もしかしたら娘を心から愛していたのかもしれないけど、ああした愛の形が彼女の望んでいたものかどうかは分からない。 報われないまま、蛇迫さんはどうなったのだろう。ふとそんなことを考えた。 「彼女はどこへ行ったんでしょうね」 あれからというもの、蛇迫さんの気配は感じなくなった。例の動画もどういうわけだかネット上から削除され、ただの都市伝説になっている。 「分からないな。成仏したとは思えないが……」 霊はこの世に未練がある限り成仏できないと聞く。生前、死後ともに念願叶わなかった蛇迫さんが納得したとは思えない。 「俺たちが分からないだけで、まだ近くにいるのかもしれませんね」 そう考えてしまうのは、最後に蛇迫さんが意味深なことを言い残したからだ。 「もういい」という台詞。あれが諦めの言葉だったとは思えない。あれはそう――『あなたがそのつもりなら、こちらにも考えがある』という意味ではないだろうか。 彼女はどこかで俺を、いや『俺たちを』見ている。隙あらば、またあの時みたいに千景先輩を亡き者にしようとするかもしれない。そうなった時はどうするべきか。 「先輩」 決意を滲ませ、俺は声を掛けた。 「? 何だい、急に改まって」 「俺、守りますから」 「何を?」 ああもう、そこできょとんとしないでくれ。補足説明するのが恥ずかしい。 「……その……助けて貰ったから、今度は俺の番です」 少し考えてから、先輩は胸の前で両手をパチンと合わせた。 「ああ! そういう意味か!!」 ようやく気付いてくれたらしい。 「こちらこそよろしくね、トモキくん」 そう言って千景先輩は――妖艶に微笑む。 知性に溢れた眼差しが、獲物を見つけた猫のような目に変貌する。まるで別の誰かが乗り移ったようだった。 彼女は俺の顔を見つめながら、華奢な指でほつれた髪を左耳に掛ける。 どこかで見たような仕草に、俺は言い知れない胸騒ぎを覚えるのだった。 [了] |
庵(いおり) 2023年12月30日 14時35分44秒 公開 ■この作品の著作権は 庵(いおり) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2024年01月21日 21時28分32秒 | |||
Re:Re: | 2024年01月22日 08時36分40秒 | |||
Re:Re:Re: | 2024年01月22日 10時14分31秒 | |||
Re:Re:Re:Re: | 2024年01月22日 23時49分37秒 | |||
Re:Re:Re:Re:Re: | 2024年01月23日 22時29分52秒 | |||
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Re: | 2024年01月21日 21時27分39秒 | |||
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+30点 | |||
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Re: | 2024年01月21日 21時26分26秒 | |||
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+30点 | |||
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Re: | 2024年01月21日 21時25分07秒 | |||
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+20点 | |||
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Re: | 2024年01月21日 21時23分28秒 | |||
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+10点 | |||
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Re: | 2024年01月21日 21時21分58秒 | |||
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+10点 | |||
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Re: | 2024年01月21日 21時20分31秒 | |||
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-30点 | |||
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Re: | 2024年01月21日 12時43分05秒 | |||
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Re: | 2024年01月21日 12時41分53秒 | |||
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Re: | 2024年01月21日 12時40分57秒 | |||
合計 | 10人 | 130点 |
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