【超長編】虹川一子と五つの棺 |
Rev.05 枚数: 300 枚( 119,932 文字) |
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〇 プロローグ 〇 虹川一子は多重人格者だった。主人格である一子の他に、五つの交代人格が存在していた。 二葉(第二人格・19歳)は苦痛の管理者だった。父親からレイプされる一子の苦痛を引き受ける為に生み出された。その役割を遂行する為、彼女は自身が慰み者にされることを、あらゆる意味で拒まなかった。何もかもに受け身な彼女だったが、自身が性的に必要とされることには喜びすら覚えた。 レイプ以外にも、日常生活で生じるあらゆる肉体的・精神的な苦しみを引き受けるのも、彼女の役割だった。それはたいていの場面で彼女が矢面に立たされることを意味していた。一子は学校その他の場所で常に被虐的な立場にあり、その生活には常に恥辱と苦痛が付き纏っていた。いつしか二葉は出ずっぱりになり、一子は棺桶の中で深い眠りについた。 押し出しの弱い二葉にそれらの苦痛を撥ね退ける力はなかった。ただ漫然と苦痛をやり過ごすことは得意だったが、父や同級生から殴る蹴るの暴行を受けたり、階段から突き落とされたりする内に、命の危機を覚えるようになっていた。 死んでしまうのは流石にまずい。そう思った二葉は、身を守る為に新たな交代人格を創造することにした。 戦う力を持たない自分の代わりに身を守ってくれる優しい人が良い。強さも必要だ。自分を守る為に出て来たのに、強さが足りずに逆にぶちのめされるというのでは可哀そうだ。それでは自分と変わらない。 少しくらい乱暴者の男の子の方が、そうした役割には適していそうな気がする。そういう人を作って、自分を守ってもらうことにしよう。 三浦(第三人格・17歳)は守護者にして憎悪の管理者だった。家庭や学校における虐待から、一子や二葉を守護するべく生み出された。その役割を遂行する為、三浦は暴力的な少年として作られていた。アドレナリンを自由に操ることが出来、普段の一子には考えられない腕力を発揮する。 クラスメイト達をぶちのめすのはすぐだった。三浦は容赦しなかった。相手を組み伏せて繰り返し顔を殴り、鼻の骨を折った。制止しようとした体育教師は、胸部に肘撃ちを食らってろっ骨を砕かれた。 三浦はただ身を守るだけでなく、自らの敵対者に積極的に攻撃を仕掛けて行った。そこに容赦はなかった。長期的な自衛を果たす為には、相手の心をへし折るだけの徹底的な暴力が必要だった。かつての攻撃者達は三浦によって指や手足をへし折られたり、二階から飛び降りさせられたり、ナメクジやムカデを捕まえさせられ食べさせられたりした。 父親のことも例外ではなかった。いつものようにベッドの中に潜り込んで来た父親のズボンとパンツを脱がすと、三浦は容赦なく陰茎に噛み付いて食いちぎった。ホースのように吐き出される血液を浴びながら、三浦は仰向けでのた打ち回る父親の睾丸を蹴りつけ破裂させた。 それらの行為によって一子達には平和が訪れたが、しかしその平和を維持する為に三浦の暴力性は役に立たなかった。敵対者が現れる度に大暴れして精神病院に入れられるような暮らしは安息とは言えない。三浦は周囲との衝突を防いだり、トラブルを穏便に解決したり出来る新たな人格を創造することに決めた。 人当たりの良い女が良いだろう。そういうのには女が向いている気がするし、一子の肉体の性と一致するのも良い。だが感じが良いだけではダメだ。ある程度の気の強さも必要だろう。 それにはあの女が向いている。かつて一子や二葉をいじめていた、クラスのボスだったあの女。口が上手く、気が強く、要領が良い。あいつを模した人格を作り出そう。 四季(第四人格・十五歳)はホストだった。人前に出る時は常に彼女が矢面に立ち、周囲と打ち解け味方に付け、時に気の強い言動で人を屈従させた。口先が上手く、他人の心理を読むことに長け、たいていの環境で有利なポジションを確保することが出来た。 彼女の出現によって交代人格達の生活は快適なものとなった。友達を呼べる存在がたくさん出来たし、異性と仲良くすることだって出来た。教室で支配的な地位に着き威圧的に振舞うことは快感でもあった。 色んなことを要領良く上手くこなした四季だったが、苦労することもあった。それは勉学だ。様々な人格が入り乱れ、好き勝手に授業を受ける生活の中で、継続的に勉学に取り組む習慣が作られるはずもない。高校受験を控えた中学三年生の時分、その課題は決定的に発露するようになった。 言語感覚に優れる四季が国語と英語を、ひたすら暗記することが得意な二葉が理科と社会を担当することで、それらの科目については誤魔化していけた。それでも偏差値の良い高校に行ける程ではなかったし、数学に至ってはこれまでの遅れを取り戻すのは絶望的だった。 アタマの良い人格を作ろう。四季は決意した。と言っても単なるがり勉では魅力に欠ける。そんな奴と一緒にいたくはない。自分好みの可愛らしい、少し生意気な、背の低い年下の男の子にしよう。少し斜に構えた態度を取りながらも、ここぞという時は的確な洞察力で自分達を導くことが出来る有能な子だ。 四季は密かに、二葉が買ってくるフィクションに登場する、そうしたキャラクターを深く愛していた。そんな一面も彼女にはあったのだ。 五木(第五人格・13歳)は洞察力と考察力に優れた少年だった。主な役割は受験勉強だったが、しかし知性を必要とするあらゆる場面で活躍した。調べ物の名手で手に入れられない情報などなかったし、難しい電子機器を難なく使いこなしたり、複雑で他の人格には理解しがたい物事をかみ砕いて解説したりすることが出来た。 だがその能力の高さが祟ってか、彼の性格は生意気で傲慢なものとなった。高い知性を鼻にかけて周囲を見下すような態度を取ったり、ディベートの上手さを見せ付けるように意味もなく人をやり込めたりした。人前に出れば必ず誰かしらと軋轢を作って戻って来る為、他の人格とは違う意味で人前に出しづらい存在だった。 もっともその欠点は二葉や三浦にも言えることだった。二葉は自身を性的に必要としてもらおうと駅前で立ちんぼをしては別の人格に懲らしめられたし、三浦は些細なことで激昂して暴力的な手段に訴えては警察等の世話になった。それらと比べれば五木の抱える問題は幾ばくかささやかでもあった。 そんな五木も、自らの手で新たな人格を作り出したいという願望を抱えていた。ホストの四季と賢い自分がいれば、この先の人生ある程度何とかなりはするだろう。だがそれではあまりにも妙味に欠ける。自分達は必要とする能力を持った人格をある程度自由に生み出せるのだから、何か奇想天外な特技を持った人格を生み出すくらいの、外連味と好奇心はあっても良いのではないか? 問題はどういった能力の持ち主にするかどうかだ。考えた末、五木は手先の器用な幼い少女というキャラクターを構想した。縄抜けや錠前外し、掏りと言った犯罪にも応用できる手先の器用さだ。そんなものが役立つような人生になるかは分からないが、そんな力を持つ者が仲間にいるというだけで、わくわくするというものではないか? 〇 1 〇 六花(第六人格・11歳)が目を覚ますとそこは暗闇だった。 大きな物音が建物内に反響していた。ひび割れた天井から落ちて来たらしきコンクリート片が、六花の頬のすぐ近くに転がっていた。 思わず身を起こすと全身が何かで湿っているのに気が付いた。とにかく現状を把握する為にスマートホンのライトをつけると、そこは見慣れぬ廃墟だった。ボロボロの天井からは内部の鉄筋や木材が剥き出しになっていて、その一部は六花の眼前にまで垂れ下がっている。染み付いた壁には卑猥な落書きが描かれており、あたり一面には不快な砂埃が充満していた。 だがそれらの状況把握が終了する前に六花は悲鳴を上げている。何故なら六花の全身は血にまみれていたのだ。 見ると隣には一人の男性が六花以上に血塗れになって横たわっている。胸を中心に血塗れになった男性の目は閉じられており、その全身は微動だにせず、間違いなく死亡していた。年齢は四十代程に見え、痩身で顔の作りも整っている。 呆然となった六花の手から、音を立てて一本のナイフが床へと落ちた。そのナイフは血に塗れており、隣で死亡している男を刺し貫いたことは明らかだった。 「この人を刺した? あたし達の誰かが……」 その発想が出て来るのはあまりにも当然のことだった。 身を起こそうとする六花の全身に痛みが走った。誰かに殴打されたような痛みである。調べると六花の身体のあちこちには青黒い内出血の痕があった。 自然に考えれば、交代人格の誰かが隣にいるこの男性と戦って打撲痕を負い、その後ナイフで抵抗してこの男性を殺害したということになる。だが問題はそこに至る経緯と、それをしたのが『だれ』なのかということだった。それを洞察する力は六花には備わっていなかった。 六花は手先の作業に長けた第六人格である。特技は掏りと縄抜け、錠前外し。十一歳という精神年齢故に腕力や知能は高くなく、高校で表に出られることは少ないが、家庭科の授業では手芸分野で活躍することもある。趣味は折り紙とテレビゲーム(交代人格達の中で一番上手い)の他、週に三回与えられる夕方のプレイタイムで、一つ年上で十二歳のビーちゃんと公園で遊ぶこと。 そんな六花では、この状況に対処するのにふさわしくなかった。 「……変わった方が、良いよね。誰かに……」 自然と覚醒する場合なら誰が出るのかは選べるが、急な覚醒時に誰が出るのか分からない。その場合はすぐに相応しい者に変わるべきなのだが、問題は誰を『電話』で呼び出すかということだ。 一度『コックピット』を出て皆を集めて討議しても良いが、この危険な状態で一子の肉体を『虚無』の状態にするのは憚られる。五木に小言を言われたり、四季に怒られたりするのは嫌だった。 「……どうしよう」 考えた末、六花は五木に電話をすることにした。五木は知能の高さを鼻に掛け、何かというと自分を出すように口にする。頼りにされれば、高慢な態度を取りつつも内心では喜んでいるような性格だ。それに彼を出しておけば、他の誰かが文句を言っても、自分を出した六花は正しかったと言いくるめてくれそうな気がする。 六花は脳内に存在する『精神世界』おいて、コックピットのすぐ傍に設置されている『電話機』を手に取り、五木の部屋に電話を掛けた。 〇 ぼく(五木・第五人格)は、六花から『申し送り』を受け取って状況を把握した後、コックピットに腰かけて肉体の操縦権を得た。 六花は何かと悩んだ上でぼくを外に出したようだけど、その判断は至って正解であると言える。危機的状況においては何をおいても状況を把握することが不可欠であり、その能力に関して言えばぼくより優れた奴は存在しない。 ぼくはまず目の前の男の遺体を確認する為にライトで照らした。こうして見ているだけでも色んなことが分かる。 まずどういう訳か、右手の親指が切断されている。指がどこに消えたのかは分からない。ぼく自身の身体を確認してみたが、どこにも指が忍ばせてあるということはない。 そしてこの男を殺したのは右利きの人物だ。ナイフの挿入口の向きと刺され方からそれは明らかだ。ぼく達交代人格の中で左利きなのは三浦だけだから、彼が犯人であるという可能性はある程度除外できる。そうなることを狙ってあえて右から刺したなんてことも考えられはするけれど、あいつにそんな知能があるもんか! そして今のぼくは(虹川一子の肉体は)おしゃれな外出着に着替えているし、髪も整っていて唇にはリップクリーム(しかも色付きの!)が塗られている。少なくとも三浦は絶対にこんなことはしないから、その意味でも彼は容疑者から遠いと言える。 それから、ぼくはスマホのナビ機能を表示して現在位置を割り出す。自宅から三キロ程の廃ホテルの場所が表示されていた。 この廃ホテルの条件は悪くない。周囲を含めて人は来ないし、近くには大きめの水路もある。いざ遺体を始末しようとなったら、労せずにそれは出来るだろう。 その後ぼくは男のものらしき荷物を漁ってみる。財布の中の免許証から、鈴木宗孝四十四歳だということが判明。住所はこの近所だから誰かの知り合いの可能性はある。 鈴木崇高のスマホにはロックが掛かっており、中身を確認することは出来ない。ぼくら自身の携帯電話も調べてみたが、この鈴木とのやり取りは確認できなかった。 そして最悪なことに、カバンの奥の方には、独特の形状をしたピンク色の危惧があった。膣だかケツだかに挿入する奴に見える。……というか多分ケツの方だ! いったい何の為にこんなものを鈴木は持っていたのだろうか? ぼくは一通りの観察を終えた。 となると、今成すべきことは何を置いてもこの死体の始末だろう。その為にはまず身体に着いた血液を拭う為の布が必要だ。この血塗れの状態では、外に出ることもままならない。 ぼくは廃墟の内部を探索し始めた。 だがしくじった。階段を降りる時、ぼくは足元に穴が開いているのに気付かずに滑り落ち、床に落ちているガラス片が膝に深く食い込んだ。 激しい痛みに思わず涙が出そうになる。食い込んだガラスは砕けていて傷口からほとんと露出しておらず、これを掘り出すのは苦労しそうだ。かと言って刺さったまま膝を動かしたりしたら、余計に酷いことになるだろう。 ……ちくしょう。あんな奴に頼ることになるのか。 ぼくは忸怩たる思いを感じながらも、『電話機』を取って、苦痛の管理者たる二葉の部屋に掛けた。 「五木さん?」弾んだ声がする。「どうしたんですか電話なんて掛けて来て。というか、わたし嬉しいですもう一生無視されるものだと思ってましたっ」 「うるさい黙れ」ぼくは冷たい声で言った。「今すぐコックピットに来い。膝に食い込んだガラスを除去してハンカチで手当てしろ。終わったら一秒でも早く三浦に代わるんだ」 「え、あ。……はい」二葉が電話口の向こうで意味もなく目を反らしたのが想像できた。そして、いつものへどもどした声と態度で続ける。「け、ケガをされたんですね。だ、大丈夫ですか?」 「黙れアバズレ腐れマゾ。心配するなら今すぐに来い」 「は、はいすぐ行きます。待っててくださ……」 言い終える前にぼくは電話を切った。 〇 わたし(二葉・第二人格)はコントローラーを受けとるなり激しい痛みを膝に感じます。 しかしそれは耐えられない痛みではありません。何せわたしは苦痛の管理者。痛みや苦しみ、屈辱なんかの感情には耐性があるようにできています。とは言え感じ方そのものは他の人とあまり変わらないので、単に我慢強いということもできますが……。 膝にはガラス片が食い込んで、しかも皮膚に近いところで砕けてしまっています。引っ張り出したいところですが、それを摘まむ為のとっかかりがほとんど露出していないのです。 単にガラスが刺さったにしては痛みが強すぎるので、かなり奥の方まで……もしかしたら骨のあたりまで……食い込んでしまっていることが予想されます。 わたしは傷口に指を突っ込みました。摘まむことは出来ずとも、ガラスに爪に引っかけることは出来るようです。わたしは爪で力一杯ガラス片を引き上げます。傷口が抉られる痛みがわたしの膝を貫きました。 「えへっ。ふへへへへへっ。ああぁああ~っ。痛い痛い痛いぃい~っ! ふひひひひっ。」 全身を迸るような激しい痛みが脳を焼きます。目玉が飛び出しそうです。おしっこが出そうです。うんちが漏れそうです。 「生きてるぅううっ! この瞬間だけは本当に生きてるって感じがしますよぅっ。」 恍惚としながら荒い息を吐いている内に、傷口は広がってガラス片の先っちょが皮膚から露出しました。その先っちょを人差し指の腹で押し付け、左右に力強く動かします。 「ふへへへへへっ。えへっ。ふへへへへへへへっ!」 痛いのはつらいのです。苦しいのです。しかしそれを引き受けるのはわたしの存在意義でもあるのです。マゾじゃないですよ? 痛みや苦しみは他の皆と同じように感じていて、気持ち良くなんかありません。ですがその痛みや苦しみを痛みや苦しみのまま、まっさらにわたしは必要としているのでした。わたしはその為に生まれて来たので。 傷口を広げたことにより、ガラス片を二本の指で摘まめるようになっていました。力一杯引っ張り上げると、「ひょぉおおおおおっ!」という感じの激痛がわたしを強く疼かせました。 ガラス片を除去し終え、脚を軽く動かしてみます。今なお相当痛いです。この状態で誰かに変わる訳にはいかないので、痛みがマシになるまでわたしが出ておくことにしました。 わたしは空間把握能力に自信があります。それに関しては仲間達からも認められているのです。誰よりも早くこの廃虚の全容を把握し、必要な物資があれば調達しておくことが出来るでしょう。 久々の活躍に興奮してきます。わたしって皆の中では割と味噌っかすというか、痛いときや苦しい時に、それを代わりに引き受けるくらいしか役割のない女です。いいえ、わたし自身はその役割に誇りを持っているのですけど、いちばん長子の割にあんまり尊敬されてないのは悲しいところで……。なので探索を頑張ります。 十分ほどで廃墟の隅々まで回ると、必要としていた身体に巻き付けるものと身体を拭くもの(ボロ布&新聞紙の束)を確保しました。そして出口までの道順を持っていたメモ帳に書き記します。 そして役に立ったという充実感を覚えながら電話機を手に取り、三浦さんに電話を掛けたのでした。 〇 「あの女は余計なことばかりをする」俺(三浦・第三人格)は悪態を吐いて壁を蹴った。「どんだけ待たせるんだ。早く代われと言われただろうに」 なかなか呼ばれない所為でずっとイライラしていた。どうやら遅れたのは勝手に廃墟を探索していたかららしい。おまけにガラス片を取り出しただけで、ハンカチによる手当が出来ていない。この不履行は後で戒めなければならないだろう。俺は舌打ちをしつつ受話器を取って五木に電話を掛けた。 「代わったぞ五木」「そうか。じゃあさっき『城』の中で言った通りにしておくれ」「身体を拭くのか?」「ああ。血の一滴も残さないことだ」「それが終わったら?」「遺体からぼくらの痕跡を100パーセント取り除くんだ。そして何とか上着を確保してから、家に帰って寝袋を持ってきて、それに入れて遺体を運べ。近くに大きめの水路があるからそこに流すんだ」「水路なんかに流したところでどこかで見付かるだろう?」「それで良いんだよ。同じ遺体が見つかるにしても、ぼくらの証拠がたっぷり残ったこの廃虚で見付かるのと、水路のどこかで見付かるのとでは、どちらがマシだい?」「山に埋めるとかはないのか?」「ないね。ここから山は遠い。山の土は木の根が絡んで固い。君のバカ力でも一晩やそこらじゃ人が埋められる穴なんて掘れないよ」 良く分からんが五木が言うならそうなんだろう。俺は考えるのが得意ではない。得意になりたいとも思わない。ただ遺体を運びだすのに俺の腕力が必要なら提供するだけだ。五木の物言いは横柄でムカつくが指示自体は明瞭かつ細やかだから好きだ。同じ指図されるのでも、四季はざっくりしすぎるし二葉は丁寧なつもりで余計なことを捕捉しすぎる。 俺は五木に言われた通り完璧にやった。他人に言われたことを言われたとおりにやるのは得意な方だ。代わりの服は廃墟の近くのマンションで洗濯泥棒をやって入手した。自宅までの往復六キロの距離を息一つ切らさず走破して寝袋他数点の道具を確保すると、男の遺体から俺達に繋がりそうな痕跡を徹底的に排除した上で、寝袋に入れて遺体を水路に運ぶ。そして寝袋から出した遺体のみを川へ流した。そして廃墟に舞い戻り、あたりに飛び散っている血痕その他を徹底的に掃除した。 「これならこの廃虚に誰が入ってもここで殺人事件が起きたとは思われないだろう。そうと疑って科学的に調べられない限りはね」五木は言う。俺には良く分からないし考えるつもりもない。その役割は他の奴に任せているしそこに問題があるとは思わない。俺は守護者だ。便利な暴力装置だ。誰かの指図を受けて動くことを恥だとは思わないし、そのことで他の奴が俺より偉いとも思わない。俺にとって他の奴がいなくなれば困るのと同じくらいには他の奴にとって俺がいなくなれば困るのだ。俺達の関係は対等だし、対等であることを俺は疑っていない。違うという奴がいるなら、俺はそいつと全力で対決するだろう。 作業を終えた俺は使い終えた道具を背負って帰路に着く。そしてシャワーを浴びるとベッドに大きく横になって就寝した。 〇 「みんな。ご苦労様」 『城』の中で私(四季・第四人格)は他の交代人格の皆を労った。 私達交代人格の住まう『城』は一子の脳内にあり、『コックピット・ルーム』あるいは『操縦室』と呼ばれる五角形の部屋を中心に、それを取り囲むように各人の個室が存在している。コックピットを取り囲むように五角形に伸びた廊下の各頂点に、それぞれの部屋の扉が設置されているのだ。もっとも鋭角の頂点にそのまま扉を設置することは出来ないので、各頂点は向かいの線分と並行になるように凹んでいるのだが。 コックピットの入り口は五角形の各辺すべての存在している。どの部屋からでも、廊下に出てすぐに中に入れるという仕組みだった。 城の内部はすべて無機質な白色に囲まれている。壁も床も天井もすべて真っ白だ。蛍光灯の類はないが、それでも全体は薄っすらと明るい。 起きている間は誰かしらがコックピット・ルームにあるコックピットに座っているのだが、現在肉体は就寝状態にある。よって私達交代人格五人は玄関の前の廊下にて一堂に会することが出来た。 「良いんです良いんです。いやぁ、大変なことになりましたねぇ。えへへへ……」 こんな時でも媚びたような上目遣いで私を見上げるのは、第二人格の二葉だった。彼女はマネキン人形のように欠点や大きな特徴のない、ひたすら整った顔をした十九歳の女の姿をしている。黒い髪は肩に届かないくらいの長さで、背丈は平均的。すらりとしつつも胸や尻には必要なだけの肉付きがあるスタイルは、どんな服を着せても似合いそうだった。 「良いから何が起きたか俺に教えろ」 ぶっきらぼうな声で言うのは、第三人格の三浦である。精悍な顔立ちと鋭い三白眼を持った筋肉質の大男で、女にしちゃ背の高い私でも見上げる程の背丈があった。額とこめかみにそれぞれ大きめの傷があり、痛んだ長い髪があちこち無造作に伸びている様はタテガミのようだ。年齢は十七歳だったが、威圧的な表情の作り方と渋い声には迫力があった。 「それを確かめる為に、今から一人ずつ話を聞かせて貰うんだよ」 冷笑的な態度で言ったのは第五人格の五木だった。彼は西洋人の子供のようにあどけない顔立ちの十三歳の少年で、栗色の髪は少年にしては長く顔全体を覆うようだった。肌の色が白く、小作りな鼻は高く、目が大きい。まず美少年と言って良かったが、時折見せる生意気な表情には高慢な性格が嫌でも滲むかのようだった。 「何を聞くの? あたし、何も分からないんだけど……」 俯きながら漏らすのは第六人格であり、末っ子にあたる六花だった。漆のような髪を腰のあたりまで伸ばした小柄な十一歳児で、身体つきは触れば折れそうな程に痩せていた。声が小さくたいてい俯いていて、線の細い顔立ちも相まって儚げな印象を人に与える。性格は暗い。暗い奴にはムカつく私だが、六花の場合その分物静かなので、臆病な癖に余計なことばかりのたまう二葉よりは嫌悪を抱かせなかった。 「皆の申し送りは見させてもらったけど……。確かに大変なことになっているわよね。殺人事件に巻き込まれるなんて」 私は言った。『申し送り』というのは、文字通り交代人格達が自分の経験を伝達する為の書類であり、今まさに描かれている『この文章』がそうだし、他の格人格を主人公とした上記すべての文章がそうだ。それらを読み合うことによって私達は互いの経験を共有している。 と言っても実際に紙とペン、或いはワープロソフトなんかを使って描く訳ではない。こういう風に描きたいとアタマの中で念じたことが、そのまま反映された文書が自動的に作られるのである。 ちなみにその気になれば嘘を描くことも出来る。描きたくないことを描かない不作為を起こすことも。とは言え身体を共有している以上明らかな嘘はバレるものだし、そういうことを繰り返して信頼を失えば損をするだけだ。なので、よほどの理由がなければ、そうそうやるようなことではない。 申し送りの文章にはそれぞれの性格や特徴が出る。男どもは鍵カッコの前の行頭を一字明けにして、同じ段落に台詞をいくつも入れようとするが、私達はしない。特に三浦は段落をあまり変えないので読みづらい。二葉は鍵カッコの最後に『。』を入れる癖を直さない。六花に至っては、何故か三人称のような文体で申し送りを書く。神視点などではもちろんなく、嘘も描けば勘違いも描く。本人曰く、『地の分で自分のことをあたしって描くのがなんか恥ずかしい』とのことだ。十一歳児らしい繊細な感性だ。 「巻き込まれたのではないだろう。ぼく達の誰かがあの男を殺したんだから」 五木が鋭い声で言った。 「そうなのか?」 と三浦。 「状況からして明らかだろう。六花が目を覚ました時ぼく達の肉体は返り血に塗れていたし、手にはナイフまで握られていた。おそらくは、ぼくらの中の誰かがあの男に強姦されそうになり、返り討ちにしたのだろうと考えられる」 「ええーっ? そうなんですかぁ?」 二葉が会話に混ざりたそうに大きなリアクションをしたが、五木は何も答えずに三浦の方を見た。 「そうなのか?」 三浦が二葉の代わりに改めて問うと、五木は小さく頷いて。 「その蓋然性は高いと思う。男の鞄の中には性的な目的で使われる器具が入っていた。廃墟の中にぼくらの内の誰かを連れ込み、それを使って悪戯をして、犯そうとしたに違いない」 「大人のオモチャって奴ですねっ! 具体的に何が入ってたんですか?」 二葉が諦めじと声を発したが、五木は答えを返すどころか表情一つ変えなかった。どころか二葉の方に視線をやろうともしない。潔癖な性格の五木は性的に奔放な二葉のことを嫌いぬいており、無視しているのだ。 「ちょっとぉ。五木さん無視しないでくださいよぅ。さっき電話で話してくれたじゃないですかぁ。あれ、嬉しかったのにぃ……」 涙目になりながら媚びたような声を出す二葉に目もくれず、三浦が発言する。 「犯そうとして、それでどうなったんだ?」 「返り討ちにしたのだろう。君が購入したあのナイフでね」 目を覚ました六花が持っていたナイフは三浦が買ったものだった。護身用に常に持っておけと強硬に要求した為、常に懐に忍ばせることになったのだ。 「役に立ったということか」 「いいや逆だ。あんなものを持っていた所為で、その人格は殺人を犯す羽目になった。最悪だ」 「その人格ってのは誰なんだ?」 「それをこれから議論するんだろう。まず、昨日の就寝時の状況を振り返ろう。コックピットルームはいつも通り施錠をしていたんだよな?」 五木の質問に、私を含む残る四人格がそれぞれ頷いた。 夜中となれば、基本的には私達交代人格達もそれぞれの部屋で就寝する。その隙を狙い、二葉のバカがコックピットに侵入して、身体を操って駅前に立ちんぼに行くという暴挙を犯したことがあった。 それがバレた二葉は当然ボコボコにされ、主人格の一子がそうされているように、棺桶に封印される寸前まで行った。その教訓を活かし、コックピット・ルームの鍵は寝る前に皆の前で施錠した上で、鍵は三浦が、コントローラーは私が、それぞれ一晩中預かるというルールになっていたのだ。 コントローラーというのは文字通り肉体を操る為の装置である。見た目はまんまゲーム機のコントローラーだ。ワイヤレスの。 コックピットに入ることが出来たとしても、コントローラーがなければ身体を動かすことは不可能である。逆にコントローラーだけがあっても自由な行動はまず無理だ。コントローラーに付いている電源ボタンを入れれば肉体は覚醒するが、視覚と聴覚を得ようと思ったら、コックピットに設置されているテレビ画面の前に行くしかない。触覚・聴覚・味覚については、電源を入れたコントローラーを握っていれば感じることが出来るが、それだけを頼りに自宅から三キロ先の廃虚に移動することはどう考えても不可能である。 五木は言う。 「コックピットを施錠し、コントローラーを四季に預けた後、ぼく達はそれぞれの部屋で眠りに付いた。だが夜中に突然アラートが鳴り響き、ランダムに選ばれた六花がコントローラーと共にコックピットに飛ばされた」 基本的に私達の朝はコントローラーを持った誰かがコックピットに座り、電源を入れることで始まるが、肉体が強制的に起床させられる場合もある。その際は城中に強烈なアラート音が鳴り響き、ランダムに選ばれた一人がコントローラーと共にコックピットに瞬間移動する。 「アラートが鳴った原因は天井から顔の傍に落ちて来たコンクリート片による衝撃と轟音。それで目が覚めてみたら男の死体と共に廃墟の中にいた。違わないね、六花」 六花はちょんと小さく頷く。 「不可解な状況よね。誰もコントローラーを持ってコックピットに入れなかったのに、どうやって私達は廃墟の中に移動したのかしら?」 私が疑問を口にすると、二葉が元気良く挙手して発言した。そして気持ち胸を張って、自信ありげに意見を述べる。 「はいはいっ。思い付きました。誰かにさらわれたっていうのはどうですか? 寝ている間に廃墟まで運ばれて、体に血を吹っ掛けられたんです。ナイフもその犯人に握らされたのです」 「あ。あるかも。というか、それ、思ってた。あたしも」 六花が顔を伏せたままそう漏らした。「そうでしょうそうでしょう」と胸を張る二葉に、五木が答えたくなさそうに首を横に振って。 「それはない。そうでなくとも廃墟で目覚めた時のぼくらは服を着替えていたし、髪も整っていて口には色付きのリップが塗られていた。さらわれたのだとすれば、それは説明がつかない。第一、寝ているところを血を吹っ掛けられたり痣が出来る程殴られたりしたら、その時点でアラートが鳴って起きるんじゃないのかね?」 言われた二人は納得したように頷いた。 「だから、男を殺したぼくらの中の誰かさんは、自分の脚と意思であの廃墟まで移動したんだ。これは間違いがない」 「それは私もそう思うけど……でもどうやって? 鍵とコントローラーを盗み出したとか?」 私が言うと、それを否定したのは三浦だった。 「それはない。少なくとも、コックピットの鍵に関しては。俺は練る時必ず自室をちゃんと施錠するし、それは今日の晩だって同じことだ」 私達の部屋は内側からのみ施錠することが出来る。三浦がちゃんと鍵をしていたというなら、少なくともコックピットの鍵を盗み出すことは不可能だろう。コントローラーを預かる私も、基本的にはちゃんと施錠をして眠るようにしているのだが……。 尚、肉体が起床して個室内の人格がコックピットに飛ばされるなどして無人になった場合、その場で天使様がそっと開錠しておいてくれる。部屋の外に締め出されるようなことは起こらない。 五木が頷いて三浦の話を引き継ぐ。 「部屋の鍵は天使様のお作りになったものだから、錠前破りの名人である六花であっても、外側から開けることは不可能だ。そうだろう?」 「うん。あたし開けられないよ、あの鍵。天使様にも聞いてみて」 「基本的に、コックピットの鍵は三浦が、コントローラーは四季が持っていたと考えるべきだろう。では誰が廃墟まで行ったのか、そしてあの男を刺したのか。条件はもう出そろったと言って良い」 五木は答えが分かっているかのようだ。私達は緊張して彼の発言を促した。 「誰なのよ?」 「それは四季、君だ」 私は溜息を吐いて、肩を落としながら答えた。 「コントローラーだけがあっても三キロ先の廃虚には行けないわよね?」 「一人ならね。だが、誰かに手を引かれていたのならどうだろうか? 髪を整えるのも服を着替えるのもリップを塗るのも、それくらいなら目と耳が使えなくても出来る。君はその状態で家を出て、手を引かれながら廃墟まで移動し、そこであの男を殺害したのだ。その間ぼく達はそれぞれの自室で就寝していて、精神世界の外で起きていることに気付かなかった」 「誰が私の手を引いたっていうの?」 「殺された鈴木崇高本人だと考えるのが自然じゃないのか? 鈴木氏とのランデブーを目論んでいた君は、ぼく達が寝ている間に彼に頼んで手を引いて貰い、共に廃墟に移動するという計画を立てていたのだ。だがそこで何かしらのいざこざが起きて、全身に数か所の痣が出来る程の殴打を受けた君は、持っていたナイフで反撃し鈴木氏を殺害した」 腹の底がしくしくと痛み始める。 「殴打される痛みは、電源の入ったコントローラーを持つ者のみが感じるものだから、外で何が起きているかぼくらは当然気付かない。鈴木氏を殺してしまった君は途方にくれることになった。何せ目が見えないのだから自宅に帰り着くことも出来ない。ぼくらに事情を説明することも出来ない。どうにかバレないことを祈って、その場で就寝することしか、君に出来ることは残されていなかった」 「何の証拠もない話じゃない」 私は剣呑な顔をして見せた。 「そもそもランデブーって何よ? どうして私がそのおっさんと一緒に廃墟に遊びに行かなくちゃいけない訳? セックスでもするの? 目も見えない状態で? その動機ならむしろ二葉が疑われなくちゃおかしいんじゃない?」 「目も耳も防がれた状態で痣が出来る程の殴打を受け、その後にアナルバイプで犯される壮絶プレイですか……。なるほどっ。受け止められるのはわたしくらいかもしれませんっ!」 二葉がバカを言ったのを、私も五木も無視した。 「動機なんてものはどうとでも解釈できる。ぼくが言いたいのは、君に疑いを払拭したい意思があるのなら、その為の努力をして欲しいということだ」 「だから無理に払拭する程の疑いじゃないって言いたいの。辻褄は合うのかもしれないけれど、何度も言うけど証拠もない訳だし……」 「でも怪しいと思うよ」 六花が蚊の鳴くような声で言った。 「アタマ良いしね、五木くん。他に可能性、ないし。ねぇ、本当に四季ちゃんじゃないの?」 「大丈夫ですよ、四季さん。例え人殺しだったとしても、わたしは絶対に四季さんの味方です」 二葉がやけに優しさに満ちた笑顔を浮かべて、若干の年長者風を吹かしつつ、わたしの肩を抱いた。 「一緒に罪を償えば良いんです。わたし達はずっとずっと一緒なんですから。安心して罪を打ち明けてください。わたしはすべてを受け止めます。勢い良くゲロってしまうのです! さあ、早く。『おえ』ってしてください! 『おえ』って!」 わたしは二葉のアタマを張り倒した後で、五木の方に向き直る。 「……もういいわ。義務の不履行だから言いたくなかったけど、この際だからちゃんと話すわ」 私は苛立ち紛れに白状することにした。 「実はね。私、昨日の晩、良く眠れなくて城の外を散歩して来たのよ。一時間くらい。部屋にコントローラーを置いたままね」 「それが何だっていうんだ?」 五木が鋭い視線を向ける。 「だから、その一時間の間は、コントローラーは部屋にあった。部屋の鍵は外からはかけられないから、誰でも自由に盗み出せたのよ。誰がコントローラーで悪さをしていてもおかしくないわ」 「誰がそんなことを信じると思って……」 「証人がいるのよ」 私は二葉の方に視線をやった。 「そうよね、二葉センパイ?」 二葉は露骨に視線を反らして、へどもどした声で答えた。 「え? は、はい。そう言えば、確かに。昨日廊下で、外から戻って来る四季さんをお見かけしましたね。……偉く冷たい顔で目をそらされたので、声を掛けるのは遠慮しましたけど……」 「そりゃそうでしょ。だってあんた……あの時服着てなかったじゃない」 バラしてやると、二葉は恥ずかしがるようにわが身を抱きながら、しかしその唇を妙な形に持ち上げて、頬を紅潮させて答えた。 「はあ、まあ、そうですけど」 「何で裸で廊下ほっつきまわってたのよ?」 「そういう趣味なので……」 「どういう趣味よ?」 「皆が寝ている間に、皆さんの部屋の前の廊下を全裸で回ると、性的に興奮するんです。いつ扉が開いて見られるか分からないと思うと、ものすごくスリルがあってですね……、ふ、ふへへっ。ふひっ。えへへへへへへ」 一同がドン引きしながら二葉の方を見詰めた。五木に至っては、痛みをこらえるように頭に手をやっている。 「でもそうでしたね。四季さん、あの時外出てたんですもんね。コントローラーを外に持って行かなかったのなら、確かにその間に誰かが盗み出すことも可能だったのかもしれません」 「そう思うんなら、なんで私が犯人確定みたいなノリで、自白を促して来たりするのよ?」 「ごめんなさい。忘れてたんです」 「何で忘れるのよ! ほんの数時間前のことでしょう?」 「露出とはその瞬間瞬間を楽しむものなのですよぅ。ふひひひひひっ」 「死ね」 わたしは冷ややかな目をして言い放った。 「……可能性だけを言うなら、全員に犯行が可能ということにはなるのかな?」 五木が悩まし気な表情で言った。 「三キロの道のりなら一時間あれば十分に移動ができる。もっとも、事前に鈴木と示し合わせて、廃墟に自身を誘導する計画を立てられるのは、コントローラーを預かる四季くらいのものなのだろうが」 「ここまで来て自分の推理にこだわる訳?」 「こだわるだろう。蓋然性で言えば君が一番怪しいのには違いはないんだから。とは言え、今すぐに自白を促せる程ではなくなった。それは確かだ」 五木が忌まわし気に言って肩を竦めた。 「もし私が自白したらどうするつもりだったのかしら?」 「……分かっているだろう? 殺しなんかするような奴は、一生涯棺桶の中に封印だ」 ぞっとする程冷たい目。こいつは多分、本気でそうするつもりで私を追及していたのだ。 「秩序を乱す者はそうするに限る。もっとも現時点で君が犯人だという確信までは持つことができない。だがそれでも、明日から夜間にコントローラーを預かる役割はぼくがさせてもらう。コントローラーの管理義務を怠ったのだからそのくらいはやむを得ない。構わないね?」 「どうぞご自由に」 私は息を吐いた。三郎は既にコックピットの鍵を管理しているし、六花は子供だし二葉は論外だしで、私以外の誰かなら五木しかない。他の皆にも異論はないようだ。 「……もう良いか?」 黙ってやり取りを見守っていた三浦が低い声を出した。 「今夜はもう遅い。話し合いはここまでにしてもらいたい」 「そうね。魔女裁判はもうごめんよ。終わりにしましょう」 私は肩を竦めた。 「ああ。寝れるんだ。やっと」 六花はそう言って目をこすった。 「じゃあ寝るけど。忘れないでね。明日はあたしのプレイタイムの日だから」 「友達と公園で遊ぶんでしょ。いいわ。楽しんでらっしゃい」 十一歳のガキのこいつには、月水金の夕方に自由時間を設けてある。学校が終わって美術予備校に行くまでの、たかだか一時間かそこらだが。 それぞれの人格はそれぞれの個室へと帰って行った。来る明日に備え、それぞれの休息を取る為だった。 〇 2 〇 一子の肉体が起床する時刻が訪れる。 私(四季・第四人格)は、コックピットに向かう為に自室を出た。 城の廊下では三浦と五木が待っていた。それぞれぶっきらぼうな態度で、コックピットの鍵とコントローラーを差し出してくれる。そのまま言葉も交わさずに立ち去ろうとする男どもに、私は声をかけた。 「二葉と六花は?」 五木は興味なさげに答える。 「寝ているんだろう」 「良いご身分ね」 「寝かしておけば良い。特に二葉はね。あのあばずれに関しては、このまま永遠に眠っておいてくれるのが理想だ」 「あいつにしか出来ないこともあるんだろ」 三浦が表情を変えずに言った。五木は肩を竦めて。 「それは誰だってそうだ。だが問題は利点と欠点を天秤に掛けてどちらが上回るかということだ。奴が担っているささやかな役割と、目を覚ましたら見知らぬ男の隣で寝ていたり、中絶が必要になったりするリスクを天秤に掛けて、どちらが重たいかは自明だと思うが」 「耐えがたい程の痛みや苦しみをいったい誰が引き受ける?」 「暴力的な脅威は今のぼくらの暮らしにはない。あったとしても、三浦、君が遠ざけるのさ」 「絵が一番上手いのも奴だ」 「ずば抜けてね。それは誰もが認めているが、しかしその能力をぼくらの為に使ってくれる訳でもない。木更津芸術大学の入学試験を担当してくれるというなら話は別だが、奴にその気はないんだろう?」 五木は真剣に二葉の排除を目論んでいる。二葉が何かやらかす度に、天使様に頼んでこいつを棺桶に封じ込めようと提案して来る。 私達は大切なことは全員の多数決によって決める。二葉自身はもちろん反対するし、五木はもちろん賛成するので、残る三人の内の二人が賛成すれば可決になる。私としてはやらかしの程度によって賛成したことも反対したこともあるのだが、三浦が常に反対側に回ることもあって、今のところ二葉は首の皮一枚繋がっていた。 「今は良いでしょ。その話は。それに、あんな奴にも一応の使い道はあるっていうのは、三浦の言う通りでもあるわ」 私は受け取った鍵とコントローラーを持ってコックピットに入った。 『コックピット』などという物々しい名前が与えられているが、実際のその部屋の雰囲気はむしろ遊び部屋に近かった。五角形の部屋の中央には大きめのテレビと座椅子がおかれていて、五面の壁の内扉以外のスペースには本棚が並んでいる。それらの本棚に並べられているのは、私達の記憶そのものである『申し送り』のバックナンバーだった。 座椅子の隣には電話機もある。見た目は携帯電話などではなく自宅用のいわゆる『子機』だ。部屋の外に持ち出しても機能はするが、それは規則で禁止されていた。 私は座椅子に座り込むと、テレビを眺めながらコントローラーの電源を付けた。 虹川一子の肉体が起床する。 私は目をこすって部屋の様子を眺めた。八畳の広めの子供部屋には、クイーンサイズのベッドと小学生の時から使っている勉強机がある。本棚には人格達のそれぞれの嗜好からなる書籍や小物が、常にスペースを争いながら多種多様に詰め込まれている。ゲーム機もあり、主に六花が遊んでいる。自由にさせていると無限に夜更かししてやり続けるので注意が必要だ。 部屋の隅には画板もあり、いつも誰かしらが絵を描いている。私の身分は芸大を志す受験生であり、美術予備校にも通って画力を鍛えている。壁には誰かしらが描いた絵が飾られていることもある。今は三浦の抽象画。 洗面台へ向かい顔を洗い歯を磨く。鏡を見るとそこには茶髪を短めに切り揃えた、切れ長の目をした女が立っている。気の強そうなくっきりとした顔立ちで、女にしては背が高い。目の下に小さな泣き黒子があり、顎周りがスッキリしているのが気に入っている。私の顔だ。 この『私の顔』というのは『私=四季』の顔という意味であり、一子の肉体が本来持つ顔立ちという意味ではない。多重人格者特有のある種の思い込みから、本来映っているものと無関係に、鏡の向こうに四季としての私の容姿を幻視してしまうようなのだ。 身支度を終えて朝食の席に向かう。私はさわやかにあいさつをした。 「おはよう」 リビングには義父がいて、整ったスマイルを返してくれる。 「おはよう。一子」 この人は母の再婚相手でハンサムな医者。涼し気な目鼻立ちに眼鏡を掛けていて、四十代とは思えない程若々しい。この人の稼ぎが良いお陰で私達はこの大きくて清潔な一戸建てに住めている。会ったことのない実父よりも、私はこの人を自分の父だと思っている。 「最近、絵の調子はどうだい?」 「ぼちぼちかな? 相変わらず、画風が安定しなくてね」 こう言っておく。画風が安定しないのは人格ごとに描きたい絵が違うからなのだが、それを悟られてはまずい。私達は多重人格者であることをひた隠しにしていた。 「でも、勧めてくれた美術予備校は気に入っているわ。木更津芸大から来てる講師のバイトも来ているし、集中して絵が描けるの。流石お義父さんね。良いところを知っているわ」 私は笑顔を浮かべる。 断りを入れてからテレビを付けた。ニュースを眺めると、水路で発見された男性の他殺死体についての報道がなされている。私は思わず息を飲み込んだ。 やはり見付かったらしい。しかし発見されたのは三浦が捨てた場所から比べると、かなりの下流にあたる位置だった。殺害場所が例の廃虚であることはおそらく分からないだろう。五木が指揮を執ったのなら、隠蔽工作としてまずまずの手が打てたはずだ。 母親の運んできた朝食を採って、私は学校へ出掛けた。 教室に入るといつもつるんでいる何人かの仲間と挨拶を交わす。皆若干の媚びを孕んだ顔で、私をもてなしてくれる。 その中に一人、微かな不満を讃えた表情で、遠巻きにこちらを見ている少女がいるのに気付いた。柏木だ。 柏木は私の親友。バスケ部に入っていてガッシリした体格で、額が狭くて唇が厚いが、化粧で誤魔化せばまあ十人並の顔にはなる。あまり良く喋る方ではないけれど、相手をじっと睨む時の据わった瞳には迫力があり、頑固な性格で激昂すると信じられないくらい強硬になる。 本気で敵に回したら少しは面倒な手合いなので、グループに入れて一番の親友ということにしておいてある。ある程度の対等扱いをして、どうでも良いことを雑に褒めてやったら、十人並の顔をくしゃりとさせて私に懐いた。 そんな柏木だったが、今は唇を結んで不満げな顔をこちらに向けて来ていた。 「ねぇカッシー。あなたもそう思うよね?」 私は努めて笑顔を浮かべて柏木に話しかけた。彼女は口元でぽつりと「別に」と呟くと、あからさまにそっぽを向いた。 ムカついた。冷静に対処すべきか逡巡したのは一瞬で、私は感情のままに声を荒げた。 「ちょっと! 何その態度! 不満があるならハッキリ言ったどうなの?」 睨み付けると、柏木は一瞬だけ鼻白んだ様子を浮かべながらも、すぐにいつもの据わった目になって私を睨んだ。 「別に、何でもないし」 「何でもないことないじゃない? ずっとそんな態度でいられたら困るんですけど? 友達なんだからちゃんと話せば良いじゃない?」 「話さないと分からないのがおかしいんだよ」 柏木の言葉に、周囲の取り巻き達は一瞬だけ同調したような気配を発した。微かな仕草や表情の変化から、近くにいる人間の感情や共通認識を読み取る力は、交代人格の中でも私が突出している。二葉や六花はこういう場面でおろおろするだけだし、五木は理屈しか分からないし三浦に至っては簡単な会話以外は理解できない。 どうやら私は柏木に対し何かやらかしたらしい。私がというか、交代人格の中の誰かが。 それを悟った私は、努めて冷静な、しかし物怖じしない態度で柏木に相対する。 「あのさぁ。私だって自分が何したかはちゃんと分かってるし、それについて話すつもりはちゃんとあったの。だからってさぁ、そんな何もかも察しろみたいな横柄な態度取られるのは、流石に嫌なんだけど」 「だって一子ちゃんが悪いんじゃん」 「昨日のことはね。でも今横柄な態度取ってるのはカッシーでしょ? 何があったのか、何が嫌だったのか、そっちから話しなさいよ」 そう言って柏木に負けないくらい剣呑な表情でじっと見詰めてやる。すると柏木は私の迫力に屈したように、拗ねたような表情で漏らした。 「昨日の数学。ちょっと教えて欲しかっただけなのに、一子ちゃん凄く嫌みな言い方して来た。あたしだって勉強ちゃんと頑張ってるのに」 ……そういうことか。 多分、というか間違いなく五木のやらかしだった。あいつはお利口な自分と比べて周囲がバカに見えるとそれをあからさまに態度に出す。さぞ偉そうな口調で講釈をぶったに違いない。 なんであいつの尻拭いをせにゃならんのだと思いながらも、私は全身から怒気を消して温和な表情になると、柏木の肩を抱いた。 「ごめんねカッシー。やっぱりあの時のことで傷付けていたんだね」 優し気に言って頭を垂れる私。同じグループで、名目上の親友ではあってもこいつとの間には序列があるが、時には下の奴にアタマを下げてやるのも処世術だ。 「受験生だと思うとついピリピリしちゃうよね。それはカッシーも同じなはずなのに一方的に強く当たっちゃった。私って本当にダメだなぁ。今度から気を付けるからさ、許してくれない?」 下手に出る時はきちんと下手に出るのも、クラスのボスとして上手くやるコツだ。柏木はむしろ安心したように頷いて見せると、媚びを孕んだ声でこう答えた。 「うん。いいよ。あたしも嫌な態度とってごめんね」 グループ全体に気が抜けたような気配が漂ったのが分かった。 「でも一子ちゃんって時々本当にキャラ変わるよね。その時とか本当に人が違ったみたいだったもん。他にも急に気が弱くなったり無口になったり、手が付けられない程暴れまわったり……」 「そうかもね。私、性格が気まぐれなのよ」 そういうことにしておいていた。 「その時の気分によってキャラが変わっちゃうっていうか、自分でも多重人格なんじゃないかと思う時ある。昨日みたいに迷惑かけることもあると思うけど、友達でいてね」 自分で言って白々しいなとそう思った。 〇 六花(第六人格)は公園のベンチに腰かけていた。 学校が終わり、美術予備校に向かうまでのこの一時間、六花にはプレイタイムが与えられていた。この一時間は六花のもので、他の人格に迷惑を掛けない限り、何をしても良いことになっている。 その日は友達と遊ぶことになっていた。気分を弾ませながら、その友人の到着を待ちわびる。 やがて彼女はそこにやって来た。 「お待たせ。六花ちゃん」 六花のことを六花と(一子ではなく)呼ぶこの少女はビーちゃんと言って、十一歳の六花より一つ年上の十二歳の少女だった。彼女は他のどの交代人格とも無関係な六花自身の個人的な友人だった。 「今来たとこだよ。何して遊ぶ?」 とりあえず遊具で遊ぶことにして六花達は並んでブランコに腰かけた。そしてそれぞれのブランコを揺らしながら、共通の趣味であるテレビゲームについての会話を交わす。 六花は姉が(という体裁で話している他の交代人格が)、貴重なアイテムを勝手に使ってしまう話をし、ビーちゃんは良く共感しながらその話を聞いてくれた。 「あーしも兄弟多いから気持ち分かるよ。部屋も狭いしさ。プライベートがないのって本当つらいよね」 「ないの自分の部屋? ビーちゃんは」 「ないよ。大家族だからもうすし詰めだよ。六花ちゃんはどうなの?」 脳内世界の『城』の中には六花個人の寝室が存在したが、しかし現実世界では一つしかない一子の部屋を五人の人格達と分け合って暮らしている。六花はどう答えて良いか分からなくなった。 「どっちとも言えるかな? あるともないとも」 「そうなの? 良く分かんないけど、六花ちゃんがそう言うんだったらそうなんだろうね」 「難しいかも。詳しく話すのは」 「良いよ。自分のこと何でも全部説明する必要なんてないよ。こうやって一緒に遊んで楽しいんだったらそれで良いんじゃないかな?」 そう言ってビーちゃんは勢い良くブランコから飛び降りた。凄まじく高く飛んだビーちゃんは、ブランコの柵を乗り越えた遠い場所に鮮やかに着地する。ビーちゃんは六花と比べるととても大きくて身体つきもしなやかなので、時折こうした運動能力の高さを見せることもあった。 「すごいビーちゃん」 「大したことないよ。こんなの兄弟の誰でも出来るよ」 「でも出来ないしあたし」 「六花ちゃんには六花ちゃんにしかできないことがあるよ。そうだ、あれ見せてよ。他人の身体から何か取る奴」 六花は過去に、兄弟の一人に勝手に使われてお金に困っているというビーちゃんの為に、掏りをしたことがあった。 「ええでも。怒られるよ。そんなことやったら家族に」 「財布じゃなきゃ良いと思うんだけどね。ハンカチとか無くなっても本気で困る人そうはいないよ。心配ならさ、後から返せば良いんじゃないかな?」 そう言われ、六花は頷いて見せた。 六花は公園内を散歩している壮年の女性に狙いを定める。その視線から注意の矛先を読み取ろうとする。どこへとも注意の向いていないリラックスし切った視線。落ち着いて散歩を楽しんでいる無警戒な様子。 六花は女性の注意を引かないよう慎重に、しかし何気ない様子で近付いた。女性の視界の中に六花は入っているようだったが、公園をうろついているただの女子高生(肉体は)に、いちいち注意を払う者はいない。 女性とのすれ違い様に、六花は最低限度の動きでポケットに手を伸ばした。人差し指と親指が中の手帳に触れた一秒後には、その手帳は六花の懐に消えている。 仕事自体は二秒もかからずに終わることだ。掏りを終えた六花が手招きをすると、ビーちゃんは残念がった様子で近付いて来た。 「やっぱ無理だった?」 六花は首を横に振り手帳を差し出した。 「え? 嘘。これあのおばさんの? 見えなかった。いつの間に掏ったの?」 「ダメだから。見えたら。見えないようにやらないと。掏りじゃないから」 「すごいね六花ちゃん。まるでプロだ!」 ビーちゃんは手放しに賞賛する。六花は照れ笑いを返した。 その後なんとなく手帳をめくると、そこには遊具や花壇などのスケッチが描かれていた。どうやら散歩がてら公園で絵を描くご婦人らしい。だがデッサンがいい加減で構図にも工夫が見られないその絵に価値はなかった。 「下手っぴだね」 「うん。全然ダメ」 そう言った後、六花はビーちゃんが伸ばした手に手帳を載せる。ビーちゃんは女性に走り寄ると、落としましたよと明るく声を掛けた。 〇 私(四季・第四人格)は美術予備校近くの公園で六花と交代し、表に出た。 日中は私が表に出ていることが多い。ホスト(対人)人格だからだ。そのこともあり私は連中と比べ大きな発言力を持っている。交代人格はそれぞれ対等であるという建前が存在しているが、事実上の権力には一定の差異があった。暫定的には私がリーダーで、五木は参謀格で、二葉と六花は味噌っかす。三浦も意見を言う方ではないが、ごくたまに野党として吠えるとかなりうるさい。 六花と交代すると頻繁にそうなるように、服が砂っぽく汚れてあちこちほつれていた。ビーちゃんとかいう友達と一緒に、子供らしく飛んだり跳ねたりしたことだろう。それにしても、肉体的には十八の女子高生である六花と対等に遊ぶというビーちゃんは、果たして何者なのだろうか? 「一子さん」 声を掛けられた。 背の高い、とてもハンサムな男性がそこには立っていた。 堀の深い鼻筋の通った顔立ちで薄い唇を持っている。中学の頃は剣道で全国に行ったというたくましい身体はしなやかだった。体格の割に威圧感がないのは、その涼し気な目元がいつも優しい形を描いているからだろう。 「唯人さん」 鈴木唯人は名門木更津芸術大学の一年生だった。私達の通う美術予備校で講師のアルバイトをしており、絵の技術はもちろんトップクラス。芸術に関する知識は深く、その大きな右手が生み出す絵画は息を飲むほど美しかった。 「バイトに行く途中でたまたま見かけたから、声を掛けてみたんだ。休憩中だったのかな?」 「え、ええ」 「今日は美術教室に行くのかい?」 「もちろんです。あの、一緒に連れて行ってもらませんか?」 「もちろんさ。おれもそうしたくて声を掛けたのだからね」 文武両道で人当たりが優しく、さらにイケメンであるという唯人は、美術教室に通う少女たちの憧れだった。それは私にとってもそうだった。そして幸運なことに、彼は私の絵を気に入ってくれ、彼のアパートで特別授業までしてくれていた。 唯人と一緒に美術予備校に向かう道中、私は幸せだった。予備校の仲間は唯人と歩く私を見て指を咥えるような表情を浮かべた。だがそこに優越感を覚える暇もない程、彼と肩を並べ、互いの絵について語り合うその時間は楽しくてたまらないものだった。 「君ならきっとおれの後輩になれるよ。たくさん教えるから、たくさん良い絵を描いてね」 「はい。唯人さん」 この人と触れ合うことが、今の私の幸せのすべてだ。 邪魔をする者がいたら、それこそ棺桶の中に閉じ込めてやる。 〇 俺(三浦:第三人格)は美術予備校の画板の前に座っている。絵を描いていた。摩天楼のように背の高い図書館の遥かな天井から、長い鎖で吊り下げられた粗末な椅子の脚を少女が掴み、もう片方の手で本を読んでいるというものだった。 美術教室で絵を描く権利はすべての人格が均等に持っていた。不公平にならないよう順番も決めて、誰かが絵を描き終えると別の誰かに交代した。今は俺の番だった。俺達は皆自分の番が来るのを心待ちにしていたが、二葉だけは人前で絵を描かなかった。俺達が絵を描くのは趣味でもあったが、芸大に入る為に必要な練習でもあった。 確実に芸大に受かろうと思ったら誰か一人が集中的に練習して、そいつが受験を担当するべきはずだった。それに相応しいは明らかに二葉だった。コンクールで最大の実績を得ていた俺よりも予備校の講師に個人授業を施される程才能を見出された四季よりも、アニメ調の絵をネットに晒せば必ず多くの閲覧数を記録する五木よりも誰よりも自由で個性的な画風を持つ六花よりも、二葉の絵は誰よりも突出して上手かった。その一点に関しては誰も異論を唱えなかったし唱えられなかった。しかし二葉は受験を担当することを嫌がった。奴は人前に絵を見せるのを極端に嫌がった。受験のような評価や批評に晒される場なら猶更のことだった。ならば二番目に上手いのは誰かというとそれは自分自身だと俺を含む皆が主張し話はまとまらなかった。審美眼においても信頼されていた二葉に選ばせようという話も出たが、奴にはそれは出来なかった。奴は著名な画家の絵でも才能のないその辺の子供の落書きでも、一様に褒めるだけで批評したり優劣を付けたりということが出来なかった。よって俺達は美術予備校に使う時間を四等分し均等に絵を描くことに決めた。そうしろと二葉が言ったのだ。明らかに不合理で非効率的な方法だと皆が二葉に文句を言ったが、他にやりようがないのも確かだった。 「皆さんいったん手を止めて聞いて下さい。良いですか、色彩学的に赤い色というのは……」高橋という講師が何やら講釈をぶっているのを俺は無視して手を動かした。俺は自分の描く絵について誰かの教えに従ったり誰かの意見を取り入れたりすることを絶対にしなかった。「虹川さん、あなた聞いているんですか?」と高橋はさえずっていたが関係なかった。俺は俺の絵を邪魔する者のことは無視するか敵対すると決めていた。本当は今すぐにでも敵対したかったが我慢しているのは他の連中に迷惑が掛かるからだ。「虹川さん。あなたいい加減に」 「そんな奴の言うこと聞くことないよ」声がした。それは雪の声だった。「あんたの言ってることいつも的外れだし無意味なんだよ。そんな赤を五や六つに分類したってしょうもないよ。どう分けたってグラデーションにしたらどっかしら曖昧な部分が出来るのに、たかだか五つや六つに分けて一個一個に講釈ぶったって、そんなもん知識の域を出ないんだよ」 雪夏彦はこの予備校の生徒。ゴボウみたいに細く背が高く女みたいな小奇麗な顔立ちをしていて、一端の芸術家を気取ったような汚らしいロン毛と、チェック柄のシャツとよれよれのジーンズを身に着けた軟弱そうな男。歳は二十三。有象無象の芸大になら現役の時に滑り止めで受かったそうなのだが、名門木更津芸大にこだわるあまり五度の浪人をしている。 「あのねぇ雪さん。そりゃあ色の分類なんて自然界には存在しない、人間が勝手にやってることなんすけどね。でも無限に存在する色を人間が扱おうと思ったら、どっかしらで線引いて分類してってする必要があるでしょ」「でも全部赤じゃん!」「だから、その赤とか青とかいうのも所詮は分類だし知識でしょ? でもその分類とか知識が上手い絵を描けるようになるのに必要だと思うから、あんただってこの予備校に通ってるんでしょ?」「そんな分類が絵を描くのに役立つの最初だけだよ。どんだけ細かく分類してってもキリがないってなったら、興味も意味もなくなるよ」「必要ないと思うんならもう帰って下さいよ。邪魔だから」「そんな次元の話でいちいち手を止めさせんなって言ってるんだよ。手を止めなくて良いから聞けとか、聞きたい人だけ聞けとか、そういう言い方あるだろうがよ」 雪は尚も口角泡を飛ばして高橋を批判していた。この予備校の講師には芸大・美大から来ている学生のアルバイトが多い。自分より年下の講師に教わるのが我慢ならない雪は、しょっちゅういちゃもんを付けるのだ。こいつはこいつで人に自分の手を止められるのを嫌う性質だから、その辺の苛立ちもきっとあるんだろう。 誰にとっても雪自身にとっても厄介なことに、雪の絵の技量や知識は講師を含むこの予備校の誰よりも高かった。コンクールでいくつか賞を取っているし、芸術論についてディベートをさせればそれなりのものだ。だがそれだけに雪は己のプライドを抑えられずにいた。 「それじゃ必要な人まで聞かずに流しちゃうでしょ? あのね、あんた一人の為だけに授業してんじゃないんですよこっちはさ。嫌ならこんな予備校やめりゃ良いじゃん。どうせあんた木更津芸大無理なんだから」 教室中からどっと笑い声が吹き上がる。 「ああーっ! てめぇ! ライン超えたな! 今ライン超えたなてめぇ! てめぇ!」雪は顔を真っ赤にして立ち上がる。「覚えてろよおまえ! おまえ! 僕が将来名のある画家になったらおまえなんて踏みつぶしてやるんだからな!」 雪と高橋が諍っている間中、俺は自分の絵に集中していられた。その意味では俺は雪に感謝していた。そうでなくとも、俺は少なくとも主張している内容に関して言うならば、雪のことを支持していたのだ。 予備校は六時から十時半まで続けられる。途中で夕食を取るなどの目的で四十五分と長めの休憩時間が設けられており、その際に俺はカップ麺でも食おうと思って席を立った。 すると雪が声を掛けて来た。「一子ちゃん参るよねあのクソ講師」俺は無視する。「あんな奴に教わってても時間の無駄だよね」俺は無視する。「なんでこんな予備校選んじゃったんだろうね。僕ね他のまともな予備校行ってたら絶対違ったと思うんだ。生徒の自主性ってもんを軽視してるよ。一子ちゃんみたいな才能ある人程潰しちゃうよこういうところは」俺は無視する。 「ねぇ一子ちゃん良かったら一緒に晩飯食わね? 奢るよ。僕実家太いから良いもん奢れるよ?」 「あんたな」俺は声を低くして、自分の顔を人差し指でさしながら言った。「いくら『こいつ』があんたに優しく口を聞いてやったからってな。こちとら常にそういう対応が出来る訳じゃねぇし、してやる義理もねぇんだわ。失せろよ」 前に六花が階段で転んだかなんかで身体を痛め、珍しく二葉が予備校で出ていた時に、下心を全開にした雪に介抱をされたことがあった。二葉は男が自分に下心を持って接して来てもあしらう奴ではなかった。むしろ同情心が強く押しに弱く良く流された。そんなあいつから見て、一つの芸大に固執して五年も浪人し続ける雪は、純朴か一途か清貧か、そういう風にも映ったのだろう。食事に誘われてのこのこ付いて行き、己が境遇について一方的な愚痴を垂れる雪に共感的に耳を傾けてやり、安い慰めや無責任な励ましを繰り返し口にしてやったのだという。 その所為で雪は何かしらの勘違いをしたらしく、ことあるごとに俺らに言い寄って来るようになった。それをあしらうのは主に四季の役割であり、それなりにきつい対応もしたようだが、心臓に毛が生えたこいつは懲りずに何度もアプローチを掛けて来る。 「一子ちゃん本当気まぐれちゃんだよね」雪は平気そうな様子だった。「日によってキャラ違うよね。今日気分じゃないんだったら別に良いよ。また誘うから」 俺を諦めた雪は一人教室を出て行った。どっかに飯を食いに行ったんだろう。すると「五浪丸また虹川に玉砕してるよ」予備校の生徒の内の一人が仲間と囁き合っていた。五浪丸というのは雪の蔑称だった。 「でも虹川って鈴木先生と付き合ってるんだろ? しょっちゅう前の公園で逢引きしてるらしいじゃん。哀れだよなぁ」「知らない訳じゃないと思うよ。知ってて諦めきれてないだけ。こないだじーっと、公園で鈴木先生と会ってる虹川のこと影で見てんの」「マジ? ストーカーじゃん!」生徒達は声をそろえて笑い合う。「あいつ絶対童貞だろ? きっと女と付き合ったこともないんだろ」「それで虹川のいつもの『気まぐれ』にほだされて惚れたと?」「哀れだねー。何の為に生きてんだろあいつ」 こいつらが雪の悪口を言っているのは、頼まれもしないのに他人の描く絵を批評したがるあいつに、ボロカスに言われているからだ。経験値が他より高い雪の技量と審美眼は高く、その批評は的確かつ挑発的で、しばしばトラブルの原因になるので講師たちも頭を抱えていた。 「あ。そうだ。良いこと考えたわ」 一人の男が含み笑いを漏らしながら雪の描きかけの絵の方に近付いていく。そして雪の絵具を勝手に持ち上げて、キャップを外して絵に近付けた。 「おい」俺は怒鳴って生徒達に近付いて、絵具を取り上げた。「おいてめぇ。何をしようとしてる?」 「何って……こいつの絵に絵具塗りたくろうと思ったんだよ。どうせあいつ木更津受かんないし絵ぇ描いても無駄……」言い終える前にそいつは床に転がっている。俺が胸を掴んで叩き付けたからだ。 「腐った真似をするなよ」俺は男に近付いて再び胸倉を持ち上げた。「雪が何だろうとおまえが何だろうと、人の絵を勝手に台無しにして良い訳じゃないんだからな」鼻っ面に向けて肘を叩き付けると、赤い血が迸ってそいつは床に倒れた。気を失っている。 俺は教室を見回した。この教室で休憩を取る奴はそう多くない。飯を食うかもっと居心地の良いところで休むためにそれぞれ出払っている。残っているのは倒した男の連れを含む数人で、全員を黙らせるのはそう難しいことではなさそうだ。 「余計なことを余計な奴に言うなよ」俺は教室に残っている連中に向けて言った。「おまえらはただ黙っていれば良いんだ。それが一番利巧な考えだ。そうすれば何も起こらない。良いな?」 そして一人一人を睥睨し、その態度や日頃の性格によって脅したり言い含めたりした後に、俺は男の身体を肩に担いで教室を出た。 俺は予備校の外の路地裏に男を捨てて肩を鳴らした。余計なことをしたと思ったが特に後悔はなかった。四季か五木あたりには文句を言われるだろうが構わなかった。確かに俺は一時の感情で行動をしたが、俺は殴りたいという感情を持ったらそれを押し留めるのが不得手だったし、また不得手であるように作られてもいた。だからこれはある意味では仕方がないことだった。仕方がないことを理解されるべきだった。 「……一子ちゃん」振り返ると雪がいた。「見てたよ一子ちゃん。僕の為に戦ってくれたんだね」 こいつがどこから見ていてんだろうか。どうして今になって声を掛けて来たんだろうか。いずれにせよストーカーみたいに俺に張り付いていたんだろう。気持ちの悪い奴だ。だがいつものように無視していれば良いはずだった。 「お礼に夕飯奢らせてよ。まだでしょ? 好きなものを食べさせてあげるから」「いいよ別に。腹減ってねぇから」「そんなこと言わないでよ。別に今日じゃなくて良いからさ」「良いって」「何かお礼しないと気が収まらないんだよ。別に食事じゃなくても良いけどさ。一子ちゃんなんか欲しいものとかある?」 言いながら付き纏ってくる雪。いい加減に鬱陶しくなって来た。この鬱陶しさは耐えがたい苦痛と言って良かった。それに耐え続けることは俺の役割であるとは言い難い。どういう種類のものであれそれが苦痛である以上、それを二葉に負担させることは原則に反しないと俺は判断した。それが奴の仕事だった。 俺はコックピットに備わっている電話機を手に取った。 〇 わたし(二葉:第二人格)は雪さんの前に現れました。 雪さんは女性のような線の細い、背が高くて端正な顔立ちをした、とてもお綺麗な方です。四季さんに言わせれば服装がとても良くないそうですが、しかしそういう不器用で無頓着なところも、捉えようによっては彼の純粋さの表れのようにも感じられます。 「雪さん。」 「え? うん、どうしたの?」 「お食事、誘ってくださってありがとうございます。ご一緒させてもらって良いですか?」 わたしが尋ねると雪さんは驚きと共に表情を明るくさせました。 予備校の駐車場には雪さんの車が止められていました。その助手席に乗せられて、わたしは近くにあるレストランに向かいました。 着いてみるとそこはとってもお洒落でおいしそうなお店でした。とても素敵なところにエスコートしていただいたものです。 「毎日ここに来てるんだ。お金ならたくさんあるからね。」 「まあ。そうなんですか。」 「実家が太いだけなんだけど。僕自身はバイトもしたことないし。何度か絵のコンクールに入選した時の賞金ならあるんだけど、それも大した額じゃないしね。」 「雪さんって、とっても絵がお上手ですよね。」 「いいや僕なんて大したことないよ。」 雪さんは表情を俯けて言いました。 「ずっと木更津に落ち続けてるし。本当は自信なんて欠片も残ってないんだよ。」 「そんなこと……。わたしは雪さんの絵はとっても素敵だと思いますよ?」 本心でした。彼の絵はとても技巧的で随所に洒脱さが散りばめられています。ご自身の美的感覚を巧妙に表現する術をしっかりと確立されているのでしょう。前に会った時に何枚か見せて貰ったのをわたしはしっかりと覚えていました。 「あんな素敵な絵が描ける雪さんですから、今年はきっと合格しますよ。わたしは信じています。」 実際にどうなのかはわたしには分かりませんでしたがそう言いました。そう言えば喜んでもらえると思うのでそう言ったのです。それで良いのだとわたしは思っています。 しかし雪さんは自嘲したような表情で首を振りました。 「いいや。どうせ無理だよ。」 「どうしてそんなこと。」 「言っとくけど、僕は別に自分を下手糞だと思ってる訳じゃない。上には上がいることを知っているだけで、少なくともあんな予備校にいるような連中の内じゃ、講師を含めて僕が一番実力的に上さ。それは客観的にも間違いない。」 そう言った雪さんの口調には自然体の自負がありました。驕るでも偉ぶるでもなく、ニュートラルにそう認識しているのが伝わって来ます。 「でもね。芸大っていうのはその時絵が上手い奴じゃなくて、絵が上手くなれる素質がある奴が受かるものなんだ。技術よりも将来性をより重視される。だからあんな予備校で伸びしろを使い切ってる僕は、木更津芸大なんてなかなか受かれたりはしないんだよ。」 そう言われると、わたしの方まで悲しい気持ちになりました。 「ごめん暗いこと言って。単なる愚痴さ。あの、先に言っといて良い?」 「え? 何をですか?」 「おめでとうって。一子ちゃん、きっと木更津芸大受かるから。志望してるんでしょ?」 「それは……わたしもきっと受かると思ってますけど……。」 受けるのはわたしではありませんが。わたしは断るので交代人格達の誰かが受けるのでしょう。しかし誰が受けたとしてもきっと受かるとわたしは信じています。あの子たちなら何も心配することはありません。 「でもなんで今それを仰るんですか? 受験は大分先ですよ?」 「もし僕が今年もダメで、一子ちゃんが受かったら多分、僕は一子ちゃんに『おめでとう』って言ってあげられないと思うんだよ。だから今の内に言っておこうと思って。」 「ありがとうございます。もし受かったら家族に伝えます。雪さんは祝福してくれましたよって。」 やがて料理が運ばれてきます。そのどれもが信じられない程おいしくてわたしは幸せでした。食事の席は誰かと一緒なことが多いので、だいたいホストの四季さんが担当しています。三度の食事以外に何か食べると、『太る』とか言われて四季さんにシメられてしまいます。三浦さんなんて趣味が色んなメーカーのカップ麺の味見ですから、しょっちゅうそのことで喧嘩になっていました。怒られてまで食べる勇気はないわたしにとって、今日はかなりの役得でした。 「どうかなここの料理? おいしいかな?」 「ええとってもおいしいです。えへへへっ。ふへっ。ふひひひひひっ。」 「え何その笑い方。」 「あ、す、すいません。良く変って言われるんですが、治らなくて。」 「いや別に良いけど。……ところで、今日の一子ちゃんは本当に優しいね。」 上品な所作で食事をしながら雪さんは笑い掛けました。 「たまに無茶苦茶優しい日があるよね。普段は結構キツい日も多いのに、なんか気分とかあるの?」 「ま、まあ。わたしってそういう性質なんです。いつも酷い態度を取って申し訳ありません。『わたし』は雪さんのこと、素敵な方だと思ってるんですが……。」 「そんな風に言ってくれるの一子ちゃんだけだよ。毎日予備校でもバカにされるしさ。」 「雪さんの素晴らしさをちゃんと見ている人も中にはいますよ。覚えてますか? 雪さんがヌードモデルになった時のこと」 雪さんは鼻白んだような表情になると、気まずそうに目を反らしました。 「あれはその、僕としてもあまり思い出したくないことなんだけど。」 「いいえ。わたしはずっと覚えています。」 「なんで?」 「素敵でした。雪さんのおちんちん。」 「いきなり何言い出すんだおまえっ!」 雪さんは身を乗り出さんばかりに言いました。この人は感情的になると食い気味になって声を大きくする癖があります。 わたしは驚いてあわあわと両手を前に差し出しました。 「い、いえその。すいません。言う順番を間違えました。いきなり結論から入るべきではありませんでした。」 「そ、そう……。」 「ええ。雪さんのおちんちんが素敵だと思ったのにはちゃんと理由があるのです。これからそれについてお話しますね。」 「どっちにしろぼくのちんちんには言及するんだね……」 わたしは当時のことを思い出していました。 と言ってもそれはわたし自身が経験したことではありません。実際におちんちんを見たのは四季さんです。わたしはただ申し送りを読んで、この雪という方はなんて素敵なのだろうと思ったに過ぎませんでした。 「前に芸大からとってもお歳を召した芸術家の方が来て、わたし達に授業をしてくださったことがありましたよね? そこでその先生は、ヌードデッサンをわたし達に提案しました。」 「そうだったね。」 「その先生は誰かヌードモデルに立候補しろと強い口調でわたし達に求めました。ですがその時はやりたい人がおらずに誰の手も上がりませんでした。」 わたしがそこにいたらきっと手を挙げて絵を描いてもらうのに。残念でした。苦痛の管理者として、他人が嫌がることを引き受けるのがわたしの在り方です。決して人前で裸になりたい訳ではありません。 「今の時代ならそこでヌードデッサンはお流れになるのが普通です。それが現代のコンプライアンスというものでしょう。しかしその先生はお歳を召していられた為に何というか考え方にちょっとした齟齬があり、立候補がない以上こっちで勝手に選ぶと言って、目についた一人の女生徒を指さして前に立たせてしまいました。」 その方は目に涙を浮かべていたそうです。可哀そうでした。お年頃の少女にとって公衆の面前で全裸に剥かれるというのは過酷な経験です。きっととても怖い思いをしたことでしょう。わたしがその場にいてこのわたしが脱ぎさえすれば、そんな思いはさせなかったというのに。 「今すぐ裸になれと強く要求するその先生から、彼女を助けられる者は日頃の講師を含めて一人もいませんでした。何せその先生はとっても偉い芸術家の方ですので、逆らうのは容易ではありませんでした。」 わたしはそこでしばしの為を作って、くわと目を見開いて大声で叫びました。 「その時です! 立ち上がった雪さんがおちんちんをさらけ出したのは!」 「でかい声で人がちんちん出した話をするなよ恥ずかしいだろ!」 雪さんは身を乗り出して食い気味に叫びました。レストラン中に二人の声が響き渡ります。 「脱衣を強要されていたその女生徒をかばう為、雪さんは自ら生まれたままの姿となったのです。そして足音を立てて教団の前に上がると、『さあ自由に描くが良い』と言わんばかりに、ポーズをとって股間を剥き出しにしたのでした!」 それはとても勇気のある行動であり献身的な自己犠牲です。四季さんの申し送りに描かれたその行為を読んで、わたしは心から雪さんを尊敬しました。 「ま、まあ、人助けのつもりだったのは確かだよね。そこを認めてくれるのは、ちょっと嬉しいかな。」 雪さんは目を反らしながら言いました。当時のことを思い出してか、頬が赤くなっています。 「そんな勇ましい雪さんの姿でしたが、一つ問題がありました。なんとそのおちんちんがとても小さかったのです!」 「この流れでそこに触れるのかよ!」 雪さんは食い気味に叫びました。 「そのおちんちんは小さいだけでなく皮被りであり、その余らせた包皮は、女性の親指くらいならすっぽりと包み込んでしまえそうな程でした。よって心無い人々は嘲るような失笑を浮かべたのです。やがてその忍び笑いはじわじわと大きくなり、先生の『君ちっさいなぁ~』という声と共に、大爆笑へと変化しました。その股間を激しく嘲笑される可哀そうな雪さんに、わたしは思わず涙していました。」 「いやあの時の君普通に笑ってただろ! 誰よりも!」 知りません。それは四季さんです。『ちっさ! ねぇ見てあれ。ちっさぁ!』と仲間と共に指さして笑ったのは四季さんであって、わたしではありません。 「ですがわたしは思ったのです。あれほどの短小包茎であれば、他人と比べずとも自分でそのことを理解していたはずであると。にも拘らず! 一人の少女を救う為にその股間を曝け出せる雪さんは立派だと! そのおちんちんは誰よりも勇気のある素敵なおちんちんであると! わたしは心からそう思ったのです!」 その後四季さんがスケッチして来たおちんちんをわたしは穴が開く程じっと見詰めました。わたしはそのおちんちんを史上最も高潔なおちんちんとして心から認めたのです。 わたしは思わず雪さんの手を握りしめていました。 「安心して下さい。世界中の誰もかもが雪さんを短小包茎と嘲っても、このわたしだけは、それが世界中の誰よりも立派なおちんちんであることを知っていますからね!」 「これもうただのいじめだろ……。」 雪さんはフラッシュバックに苦しむかのように項垂れていました。 〇 私(四季・第四人格)は自室でスマホを眺めてくつろいでいた。 友人に見せるSNSを更新したり、ラインなどで様々な人と連絡を取り合ったりする。これも一応人間関係を適切に保つ為のホストとしての業務の一つということになっていたが、SNS は楽しいし傍らではテレビのバラエティ番組が流れているしで、私にとっては憩いの時間でもあった。 しかも今夜は嬉しいことに、美術予備校の講師であり私とただならぬ仲である唯人から連絡があった。絵についてアドバイスをしたいから今度の土曜日にウチに来れないかという誘い。私は大喜びで了承の返事をした。 そうしていると十二時を回りそうな時刻になった。今日はこの後に二葉に三十分間、絵を描く時間をやることになっている。私はダラダラと動画を流していたスマホを閉じて、二葉を呼んでやろうとする。そしてふと気付いた。 英語の宿題が出ていたのだ。 学校の宿題は科目ごとに私と二葉と五木で分担しており、国語と英語は私の領分だった。そこには遂行義務があり、各人の自由時間を含む余裕のある時……例えば先ほどまでのような……に片付けてしまうことになっていた。 だが私は明日が提出日のその宿題に一切手を付けていない。やむを得ず、私は電話機を手に取って二葉に掛けた。 「二葉」 「これは四季さん。これからわたしの時間だからご親切に連絡を下さったんですね? ありがとうございます」 「そうじゃなくてさ。今からのあんたの三十分、私にくれないかしら」 そういうと、二葉は途端にへどもどした態度になった。 「そ……そうですか。良いですけど、どうしたんですか?」 わたしは「ごめーん」と形だけ謝罪して。 「学校の宿題が終わってなくてさ。ほらあんたも歴史のワークとか時間内に終わんないことあるでしょ? それと一緒よ」 「え。ええそうですね。わたし昔っから問題解くの遅くって……」 「トロいもんねぇあんた。そういう訳だから、ごめんね~」 私は電話を切ると宿題をする為に学校の鞄を開ける。 英語のワークを取り出す時、指先に妙な感触があった。ガラスのようなその感触に鞄を除くと、覚えのない瓶が入っているのに気が付いた。 取り出してみる。 中は真っ赤だった。 それは血塗られていると言って良かった。渇き初めた血液が瓶の内部にこびりついている。その血液の出どころは明らかで、それは誰かの切り取られた親指だった。 五木が申し送りに記入していた内容によれば、私達の誰かが殺害したと思わしき鈴木宗孝は、親指を切り取られていたらしい。そしてその親指はどこにも見付かっていない。 ……これがそうなのではないか? その親指の隣には折りたたまれた小さな紙が添えられている。私は瓶の蓋を開けてピンセットで恐る恐る紙を取り出して開いた。 撥水性の高い素材で出来ているのか、畳まれていた紙の内側にまでは血が滲んでいなかった。 そこには筆跡の分からない端正な文字で以下のように綴られていた。 生贄の棺の鍵は私。 背中を向けて整列していて、時々お腹を割かれてしまう。 「……意味が分かんない」 誰がこんなメモを残した? 何の為にこんなメモを残した? 〇 「それで英語の宿題もやらずに皆をここに集めたと?」 城の内側、玄関の前に集められたぼく(五木・第五人格)は、肩を竦めて四季の方を見た。 「それがどうしたの?」四季は不機嫌そうに言った。 「義務の不履行はいただけないと思ってね」 「そんなこと言ってる場合?」 「ぼく達が存在する目的は虹川一子としての日常生活を協調して生き抜くことだ。例えイレギュラーなことが起きても、緊急性がない限り個人の義務は果たされるべきだと思う。宿題をこなしてからぼくらを集めたのでも遅くなかったのでないのかな?」 「こんなものを見て英語のワークなんてやる気になるのはあんたくらいよ」四季は忌まわし気に言ってから二葉の方を見た。「二葉。明日先生に怒られるのはあんたに任せるわ。苦痛の管理者なんだからそれが仕事でしょ?」 「分かりました。任せてください」二葉は笑顔で頷いた。 五人の交代人格がこの玄関前に集っていた。全員が集っての緊急会議だ。 一子の肉体はコントローラーで電源を切って(眠らせて)、ベッドの上に横たわらせている。ぼく等が起きている限り一子の脳には負担がかかり続けるが、せめて肉体の方には可能な限り休息をやっておこうという訳だ。 「問題はそのメモを描いて、鞄に潜ませたアホは誰かってことだ」三浦はヤンキー風のうんこ座りだ。「どう考えても、鈴木宗孝を殺したのはそいつだ」 「なぞなぞみたいだよね。なんか」六花は膝を抱えて座り込んでいた。「結構、好き、あたし、そういうの」 「わたしも好きですよぅ。というか……えへへへへっ、実は答え分かってたりして」揃えた脚を延ばして座っている二葉が得意げに胸を張った。「答え言って良いですか? ねぇ、良いですか?」 「待ってよ。あたし、考えたいから」 「じゃあヒント出して良いですか?」 「良いから。自分で解きたい」 「本当に良いんですか? 遠慮しなくて良いんですよ?」 「良いから」 「とっても難しいですから聞いといた方が良いですってぇ。ねぇ。ねぇねぇ」 どうしてもヒントを出したいらしい。それが自分が解答を知っている証明にもなると考えているのだろう。しかし六花は煩わしそうな顔をするばかりだ。 「良いから。もう黙っててよ。二葉さん、たまに鬱陶しい時あるよ」 末っ子に突き放されて二葉は傷付いたような顔をした。 「こんなのは別に考える程の問題じゃない」ぼくは肩を竦める。「それにこんななぞなぞの答えが、誰が犯人かを解き明かすヒントにはなりはしない」 「じゃあどうして犯人はこんなメモを私達の鞄の中に入れたの?」これは四季。 「こうしてくだらない謎解きをさせられるぼくらを面白がる為さ。こんな問題にかかずらってやることはない」 ぼくはコックピットから持ち出しておいた各人の申し送りを手に取った。内容を知るのにいちいち時間をかけて目を通す必要はない。指先一つ触れた瞬間に、書かれている内容が全て頭に入って来る仕組みになっている。それに基づいて時系列を整理したが、その瓶がいつ投入されたのかは分からなかった。 「問題は瓶がいつ放り込まれたのかではなく、どうやって犯人がその親指を持ち帰ったのかだ」ぼくは言った。「親指をポケットなどに身に着けていれば誰かが気付くはずだ。その意味では、昨日の夜最後にコックピットに座った者が怪しいとは言える」 「じゃあそいつが犯人なんじゃないか?」と三浦。 「それは君だろう?」とぼく。 「そうなのか」 「ああそうだ。だがぼくは君が犯人であるとは考えていない」 「何故だ?」 「君が化粧をして男に抱かれに行くというのは流石に考えづらい。そして被害者は右手でナイフを刺されていたが、君は左利きのはずだ」 「そう思わせる為の偽装工作ってことはない?」と四季。 「三浦にそんなことが出来ると思うか?」 「思わないわね。念のために聞くけれど、三浦あんたポケットの中調べてないってことはない?」 「ないな」三浦は言う。「死体を川に流すのに使う道具を入れるのに、何度もポケットは触ったからな」 「親指を廃墟のどこかに隠していたというのはどうでしょう?」二葉がとても良いひらめきをしたという表情で言った。「それを後から回収したに違いありません」 「…………」ぼくは答えるのも嫌だったが、話を進める為にやむを得ず口にした。「今日の申し送りを見るに、誰もあの廃墟に近付けるようなチャンスもなかったように思える。四季は一日学校にいて、三浦は美術予備校にいてアリバイがあるし、六花の持つ一時間の自由時間ではあそこまで行けても戻っては来られない」 「だったら、どうやって私達の誰かは、その親指を持ち帰ったのですか?」 「協力者がいたというのはどうだろう? 犯人は廃墟で誰かに親指を預け、いずれかのタイミングでそれを受け取った。そうとでも考えない限り、その親指が鞄の中に入っていることに説明がつかない」 「協力者ですか。それは……」 「だがそれを特定するのには無理があるだろう」ぼくは食い気味に言って二葉を黙らせた。「少なくとも、現時点では。今日少しでも接触があったすべての人間に可能性があるし、また申し送りに描かずに接触したといことも考えられるからだ」 そう。申し送りは嘘が吐ける。この謎を解く為に必要なのは五人の語り部による証言だが、その内の誰か一人は確実に嘘を吐いていることになる。『信頼できない語り部』がぼく達の中には確実に一人以上紛れ込んでいるのだ。 「でも共犯なんてものを過程しない限り、三浦が怪しいんでしょう?」と四季。「確かに状況は三浦が犯人でないと告げているけど、でも偽装出来る範囲だし、そもそも馬鹿正直さを理由に容疑を免れるっていうのもナンセンスでしょ」 「何も三浦が馬鹿正直さだけを理由に偽装工作を疑わない訳じゃない。ぼくの推理によれば、あの事件は突発的に起きたものだ。ならばそもそも偽装工作などあらかじめ行える余地がないんだよ」 ぼくがそう言い終えた時、六花が唐突に顔と声を上げた。 「……あっ。分かった」 「何が分かったの?」と四季。 「メモの謎解きの答え」 「ずっと黙ってると思ったらそんなの考えてたの?」 「悪い?」 「悪いわよ。子供だからってマイペース過ぎない?」 「みんないつも子供扱いするけど、あたし五木くんと二つしか違わないよ?」 「だったらちゃんと議論に参加しなさいよ」 「ごめん」六花は顔を俯けた。「言って良い?」 「ちょっと待って。私も考えてるところだから」 「考えてるの? 四季ちゃんも」 「別にどうでも良かったんだけどね。お子様のあんたに解けるとなったら、分かんないままにしとくのが悔しくなって来た」 「ところでどうでも良いことかもしれないが」三浦が疑問を漏らした。「被害者の名前、鈴木っていうんだよな。鈴木宗孝」 「それがどうしたの?」と四季。 「いや。おまえの彼氏と同じ苗字だと思ってな」 「予備校の鈴木唯人先生のこと? そんなの偶然でしょ偶然。鈴木なんて全国で二番目に多い苗字なんだから。そもそももし親子とかだったら通夜や葬式に行ってるはずだから、講師として予備校なんて来ないでしょ」 決めつけるように言った後、四季は思わせぶりな表情を浮かべた。 「というか今はまだ彼氏じゃないんだけどね。そうなりたいとは思っているけど。ああいう誠実な人が相手なら五木だって文句を言わないでしょ?」 「節度を持って正しく恋愛を楽しむならそれは良いことさ」ぼくは鼻を鳴らした。「誰かのように、くだらない男に節操なく媚びを売られたら困るというだけさ」 「五浪丸のことなら、二葉も悪いけど、あいつの前に二葉を出した三浦も悪いわ。変な噂が立ったら、唯人さんがなんて思うか」 三浦は何も言わずに宙を睨んでいた。 〇 3 〇 起床すると部屋の机の上に生首があった。 私(四季・第四人格)は驚きと怒りで頭が真っ白になった。 若い女の首だった。目も口も半開きで不細工だった。全体が青白く左右の眼球はそれぞれに虚空を向いており、青紫の唇には一枚のメモ用紙が挟まれていた。血の付いた髪の毛は乾燥して固まっており、まるで放置したモップのようだった。首の下からは血が滲んでいたが、親切にも分厚いタオルによって受け止められていた。 それで血が吸収しきれるということは、切り取ってからかなり時間の経った生首なのだろう。私はその場で泣きじゃくりたいくらいの気持ちで、五木に電話を掛けた。 「何かな?」 「机に生首が置いてある」 「対処しろ」 五木の声は冷静だった。その冷ややかな態度は動揺し混乱している私を咎めるかのようで、私はその場で叫びだしたくなる。 「どうすれば良い?」 「ビニールに入れて部屋のどこかに隠せ。そして染み付いた臭いを出来るだけ誤魔化すんだ。そして今日は学校を休むと両親に申告しろ。両親が仕事で家を空けている間に、圧力鍋で煮溶かして骨と肉を分離させて処分する」 わたしは五木の言う通り生首を隠し、両親に体調不良を申告した。そして両親が共に外出するまで、部屋で寝ているふりをした。 その後五木の指示でドラッグストアに向かい数点の薬品を購入した。それらを使い生首を圧力鍋で煮る作業は苦悩を極めた。二葉に押し付けたかったが、ミスのできない作業だけにあんなトロい奴に任せるのもはばかられた。湯気と共に部屋中に死臭が充満するようで、鍋の前の椅子に座り込みながら私は涙をこらえ続けていた。 どうして私がこんな目に合う? やがて骨から分離した顔の肉と皮、そして形を保ったままの頭蓋骨が浮かび上がった。眼球は溶けたのか見当たらなかったが、髪の毛は解けずにそのままで、浮かんだ肉や頭蓋骨に絡みついていた。それらをザルで取り出した後、絡み着いた髪の毛を取り外し、肉と皮と共に黒いビニールに包んだ。 「髪は乾かしてから焼いて処分しよう。肉と皮はゴミ袋に混ぜて出せば発覚する可能性は低い。頭蓋骨は三浦にでも粉々に砕かせてトイレに流す」 「それで本当に大丈夫なの?」 「心配いらない。それよりも、生首が咥えていたというメモには何が描いてあった?」 「まだ読んでない」 「読んで伝えろ」 わたしはメモ用紙を目の前に広げて内容を読んだ。 蛮族の棺の鍵は私。 私はぬくもりに満ちている。幾億の時、十の眷属が舞いながら私の周りを回る。 「くだらないね」 「シャワー浴びてしばらく休んで良い?」 「ああ。休養する権利はある。君はそれだけ大変な仕事をしたのだからね」 こいつにも最低限程度の思いやりはあるらしい。私は息を吐いた。 「そうよね」 「学校には行けそうかい?」 「今から? パス。途中から顔を出すのって気まずいの」 「ならせめて美術予備校には行くべきだ。受験を考えたら一日でも休むべきではない。増してや、ぼくらは限られた時間を四等分して絵の練習をしているのだから」 仕切り屋め。私はこいつに電話を掛けたことを後悔しかけていたが、生首を始末するのに五木の知恵が必要なのも確かだった。 「他の連中を集めておく。シャワーを浴びて少し休んだらコックピットを出て会議に参加しろ。今起きたことについて話し合う」 「……了解。少ししたら行くわ」 私は掃除した台所の換気扇を全開にし、こびり付いた死臭を一刻も早く洗い流す為に、浴室に向かった。 〇 六花(第六人格)は城の中の玄関前に他の人格と共に集合し、四季が現れるのを待っていた。 「お待たせ」 四季がやって来て手を挙げた。その表情には普段の自信と利発さは備わっておらず、疲弊が強く滲んでいた。 「で、誰がやったの?」 「それを今から話し合うんだよ」 五木が肩を竦めた。相変わらず議論のイニシアチブはこの二人が握るようだった。それで良いと六花は思う。自分で何か思ったことや考えたことを口にするのは不得手だった。それに、二葉のようにしゃしゃり出ようとしても退けられるのは分かっている。六花はいつものように膝を抱えて聞き手に回った。 「ぶっちゃけ言うけど、五木。犯人はあんたじゃないの?」 「どうしてそう思うんだい?」 「昨日の夜コントローラーを預かっていたのがあんただからよ」 「視覚も聴覚もなく人を殺して首を切り取って持って来られるとでも?」 「あんた自分で言ったんじゃない。犯人には協力者がいるって。玄関で生首を受け取るくらいのことなら、視覚も聴覚もなくても出来ることだわ」 「なるほど筋が通っている」 五木は手の平を晒して降参のポーズを取った。 「昨日は可能性の一つとして挙げただけの共犯者説だが、より一層真実味を帯びて来たな。それを根拠に疑われると、効果的な反論が思いつかずに悩ましい。せいぜい、簡単に自分が疑われると分かっていて、何故そんなことをしたのかと言えるくらいさ」 「それは前回の私が主張したくてたまらなかったことよ」 「前回と今回とでは事件の質が違う。前回の議論でぼくが披露した推理では、殺人は偶発的に起きたということになっていた。しかし今回の事件では、犯人は明らかな悪意を持って行動している。この違いは大きい」 「ですが、どちらの事件でも、犯人は同じような犯行声明を残しています。つまりそれぞれは一連の犯行ということになり、ならば前回の事件も計画的に行われた可能性が高いのではないでしょうか?」 二葉が口を出す。五木は誰もそれに答えないのを確かめてから、口を聞くのも嫌そうに応答した。 「第一の犯行の時点では、殺人が起きたのはあくまでも偶発的だった。計画的だとすればあまりにも状況が杜撰だからね。しかしその後犯人の気が変わるなどして、第一の犯行を組み込んだ一連の連続殺人にシフトしたとも考えられる」 「ははあ。そうなんですかね」二葉は半口を開けて頷いた。 「計画的だろうと無計画だろうと、今回の犯行に関しては私は完全にシロよ。私はコックピットの鍵もコントローラーも持っていなかったんだからね」と四季。 「そうとも言い切れない。むしろ第一発見者である君はかなり怪しい。ホストとして起床時の肉体の操縦権を得た君は、隠し持っていた生首を机の上にセットすることが出来た。然る後に生首を発見したと喚いたのだとして何らおかしなことはない」 何らかの理由で肉体が強制的に覚醒させられるケースを除けば、虹川一子の朝はコックピットに座った誰かがコントローラーの電源を入れることで始まる。その役割を担うのは、ホストである四季だった。 今朝もそうだった。珍しく早起きした六花が何となく廊下に出ると、それぞれの自室から五木と四季が現れるところだった。寝ぼけていた六花が五木と身体をぶつけ合うというハプニングはあったが、その後はいつものようにコックピットの開錠とコントローラーの受け渡しがスムーズに行われていた。そして四季が最初にコックピットに入ったのだ。 「それでどうする? 昨夜のぼくは完璧にコントローラーを管理していたが、それでも事件が起きたことには変わりがない。ぼくもまた、四季のようにコントローラーの管理権を失うのだろうか?」 「そりゃそうでしょ。他人から役割を奪っておいて、自分だけ例外だなんてムシが良すぎるわ」 「なら誰に管理を任せるね? ぼくも四季もダメで、三浦は既にコックピットの鍵を管理している。となると」 「わたしですね。六花さんでも良いですけど、わたしが長子ですし」 二葉が気持ち胸を張って前に出た。 「六花、頼むわ」 四季に言われ、六花は頷いた。二葉は落ち込んだ表情をした。 「二葉よりマシだからあんたに頼むけど、あんたにちゃんと管理できる?」 「大丈夫だよ。しないで子供扱い」 「あっそ。じゃあ任せたけど、ちゃんと鍵を掛けて寝るのよ」 「四季ちゃんに言われたくない」 六花は抱えた膝に顔を埋めた。 「それでどうするの今日は? 学校には行かないけど、美術予備校には行くんだよね?」 「そのつもりだけど?」 「だったら今日のプレイタイムもそのままで良い? 生首の話聞いて無理だと思ってたけど、予備校行くんならその前の一時間、友達と遊びたい」 「こんな時まで? まあ、良いけど。いやぁ、子供は遊びに貪欲よねぇ」 四季は他愛もないものを見るように苦笑した。 「手と足の他に、ツメがある体の部位はどこ?」 「分かんない」 ビーちゃんの問いかけに、六花は答える。 「正解は脳。脳って漢字には『ツ』と『メ』が入ってるからね」 「へえ。面白い」 「じゃあ次。どんな色の服を着ても黒くなるものって何?」 「それも分かんない」 「答えは影。じゃあ最後、世界で一番難しいなぞなぞって何でしょう?」 「全然分かんない」 「答えは『世界で一番難しいなぞなぞって何でしょう?』というなぞなぞだよ。世界一のなぞなぞなんて誰にも決められないでしょう? それに問題と答えが同じなら、永遠に同じことが繰り返されて絶対に答えが出なくなるから、それは世界で一番難しいとも言えるの」 「おもしろい」 公園のベンチでビーちゃんと共に腰掛けながら、六花はなぞなぞを楽しんでいた。 六花は年齢相応にそうしたなぞなぞを好んでいたが、それ以上に重要なことは仲の良い友人と時間を共有するということだった。六花の心は弾んでいた。ビーちゃんもまた、出題役として六花に問題を解かせることを楽しんでいる様子だった。 「すごいねビーちゃん。良く思い付くね。そんななぞなぞ」 「ネットに書いてあるの持って来てるだけだよ。自分で考えることもあるけど、調べた方が早いから」 「へえ。そうなんだ」 「でも他人よりはたくさん知ってる方だと思うよ。家族の中でこういうのが流行る時は、割とあーしが出題役を独占してるしね」 確かにそういうタイプはいる。六花の交代人格達の中では意外にも二葉がそれだったことがある。五木があからさまに瞬殺しすぎるので(昔は彼も二葉と口を利いた)、やがてそうすることは少なくなっていったが。 「出す方が楽しいよ絶対。皆優しいから付き合ってくれるしさ」 「ビーちゃんは大家族なんだっけ」 「そうだよ。家は狭いからすし詰め状態だけど、その分賑やかで楽しいよ。いーちゃんとかはうるさそうにいつもアタマを抱えて蹲ってるんだけどね」 「いーちゃん?」 「末っ子だよ。ちょっと六花ちゃんに似てるかな。大人しいけど上の子に従順で空気も読むから、自然と周りに守られる感じ。一番下の子ってそういう感じになるのかもね」 「それはその……場合によると思うけど」 六花が大人しいのは、最も歳の近い長子にあのうるさい五木がいるのが大きい。五木は六花を言いくるめ無力感で押さえつけるばかりで、年が近い癖に、仮初にでも肩を並べてくれることはなかった。 守られているという実感もない。二葉と三浦は六花にとっても盾と矛だが、それは家族全体にとってそうなのであって、六花個人が守られているのとは違う。四季は色んな局面で頼りになるし、気を利かせてくれることもあるが、反面自分のことを味噌扱い・子供扱いするところもあった。 虹川一子として生きて行く上で対話や協調が必要な場面は多々あるが、六花の主張が取り入れられることはほぼなく、またあえて意見する程の関心もなかった。勝手にやってくれという感じだった。そして主張はしないが責任も取らないという六花のスタンスは、四季や五木にとって好むところだったらしく、二葉のようには煙たがられることもなかった。 だがそれでも六花という魂は常に孤独を抱えていた。 「かくれんぼをしよう」 物思いにふけっているとビーちゃんが提案をした。六花は頷いてじゃんけんをして鬼を決めた。目を閉じて数を数えているとビーちゃんの隠れる音が聞こえて来た。 「もういいよ」の声を聞いて六花はビーちゃんを探し始めた。必敗に近い鬼ごっこよりマシだが六花はかくれんぼの勝率が悪かった。ビーちゃんの方が遥かに背が高く不利なはずなのに、この広くもない公園で彼女は驚くほど上手く隠れた。 だが今回はきっと見つけ出してやる。六花はそう意気込んだ。 「おい虹川。おい」 腕を掴まれた。 振り向くと男が二人いた。美術予備校の同級生だった。一人は泰然と腕を組みもう一人は憎悪に満ちた表情で六花を睨んでいた。睨んでいる方の顔は包帯で固定されており青黒い痣がはみ出していた。 「おまえ。前は良くもやってくれたな」 覚えがなかった。だが心当たりを探ることが無意味だと六花は知り抜いていた。どうせ三浦か五木あたりが作って来た敵に違いなかった。 「顔貸せよ」 六花は公園の公衆トイレの中に連行された。強いアンモニアの臭いがして六花は顔を顰めた。碌に掃除されていないのはそれだけ寂れているからで、よって誰かが入って来て助けてくれることも期待しづらかった。 「良くも俺のことをゴミみたいに路地裏に捨ててくれたよな。こっちは鼻の骨を折ったんだぞ。ちゃんと謝れよ」 どうやら、雪の描いた絵を汚そうとして三浦に殴られた男らしい。這いつくばって謝れば穏便に済む可能性もあったが、鼻白むあまりまともに声も出せなかった。 「何とか言えよ!」 男は六花の腹を殴った。鳩尾を痛打した六花はその場に蹲った。相手は六花と違い男性であり背が高く体格もたくましかったが、それを理由に手加減を求めるには、以前の三浦はやり過ぎていた。 「謝れって言ってるんだよ!」 蹲った腹に更なる蹴りが襲い掛かる。息が出来なかった。身動きが取れなかった。あまりの痛みに六花は目の涙が浮かぶ。この痛みから逃れる為なら六花は喜んでこの身体から出て行きたかった。 六花は迷わずにそうすることに決めた。後のことはどうでも良いから、とにかく今この痛みを肩代わりしてくれる存在に、六花は助けを求めた。 〇 わたし(二葉・第二人格)は男子トイレの床の上にいました。 繰り返しお腹を蹴りつけられたのか、息苦しい痛みが全身に響いています。お腹を蹴られるのはとてもつらいことです。痛いだけでなく気持ち悪く身動きが取れなくなるのです。胃の中に入っているものが喉から飛び出したり、肺が息を吸えなくなってもだえ苦しんだりしてしまいます。 「ふっ。ふへっ。えへへへへへっ。ふへへへへへっ。」 久しぶりに味わう暴力の痛みにわたしは笑みを漏らしていました。これを引き受けることが自分の存在意義なのだと思うと充実感が全身を駆け巡ります。立ち上がれず身動きを取れず、汚いトイレの床でもがいているしかないこの状況で、わたしは世界中の誰よりも自由に自分の中の痛みを味わっていました。 「えへへへへへっ。痛い、痛い痛い痛いっ! ふひっ。ふへへへへへっ。」 「な、何だこいつ。気持ち悪い。」 わたしに暴力を振るっている男の子の一人が目を丸くして言いました。わたしは身を捩りながら両手を広げ、男の子の方に笑みを向けました。 「大丈夫ですよもっと蹴っても。何かつらい思いをされたんですよね。それで気が済むのならわたしは嬉しいです。さあ、どうぞ。」 「おまえ……何言ってんの。こっちはただ謝れって……。」 「あ。そ、そうですか。分かりました。謝ります。ごめんなさい。」 「ふざけてんのかよ。おい。」 男の子はわたしのお腹をさらに蹴りつけます。 「この間の威勢はどうしたよ。自分が殴られたらすぐ降参する癖に調子に乗りやがって。女の癖に! おまえがそうやって降参したところで俺の鼻は治らないんだよ! どう責任取ってくれるんだよ! ああっ?」 無抵抗なわたしを見て男の子はさらに気持ち良さそうにわたしを蹴り続けます。わたしは反射的に身体を丸めて背を向けました。これならどれだけ痛くても、内臓を痛めたり骨が折れたり死んじゃったり、そうした致命的なことは起こりません。 背中を蹴りつけられていると、自己愛や自尊心がみるみるすり減って、自分がまるで虫けらか鳥の糞のように思えてきます。こうしてゴミクズのように痛めつけられるわたしは、なんてダメでどうしようもない奴なんだろうと思えます。すると同時に、わたしは自分の内側にだけ、甘ったるく閉塞的な喜びを覚えるのでした。 この痛みは情けないわたしへの罰で、わたしはこうされるべき罪人で、これは正しいことなのだと思えてきます。相手の気の赴くままに暴力を振るわれ、様々な感情に対する一方的なはけ口にされるのは、本当にとても苦しくて痛くて屈辱的です。ですが、それに打ちひしがれて、とことんまで自分を卑下した先に、何もかもを許容し愛せるような安らぎが訪れることを、わたしは知っていました。 「こいつ……泣いてやがるぜ。」 後ろで見ていた方の男の子が言いました。気が付かなかったのですがわたしは顔全体で泣いていました。目は熱くなり涙が溢れ、蹴られた拍子に痛打した鼻からは血が滲んでいて、口の周りはよだれ塗れでした。みっともない自分の顔を想像すると恥ずかしくなりましたが、それは何ともわたしらしい顔だとも思えました。 「ふん。そりゃこんなに蹴ったらな。」 「でもおかしくね? あの時はあんなに強くて荒々しかったのに、今はただの気の弱い女の子みたいになってやがる。」 「こいつはこういう奴なんだろ? 気分屋で、日によって気が強かったり弱かったり……。どっちにしろ所詮女だから、こないだみたいに不意打ちされなきゃ勝てるのは分かっていたさ。さあ来いよ。」 言いながら男の子はわたしの髪の毛を掴んで持ち上げます。全身からは力が抜けきっておりわたしはされるがままでした。 「どうするんだ?」 「便所の中に顔を突っ込む。中学の頃クラスの奴に良くやってたよ。」 「うわエッグ。女子にそこまでやるか?」 「やらないよ普通なら。でも俺はこいつに鼻を折られたんだよ。これくらいしないと気が収まらねぇ。」 わたしは個室の便器の前に連れて来られました。長いこと掃除のされていないその洋式便器には、茶色いカスがあちこちこびり付いていて酷い悪臭がしました。こんなところに顔を突っ込まれるのは、大便以下のがらくたに違いないとわたしは強くそう思いました。 乱暴に顔を押し込められます。ここまでの暴力で息は荒れ、肺に上手く空気を取り込められなくなっていたので、わたしは酸素が欲しくなりました。息を吸おうとして、口の端から漏れ出した空気で便器の水をかき乱しました。飲めば確実にお腹を壊す液体が、口内そして喉の奥へと流れ込んできます。腹痛に耐えるのがわたしだとしても、仲間には迷惑をかけるなと申し訳なく思いました。 限界まで精神を抑圧される体験は、わたしに安心と、色んなものに対する愛情を抱かせました。自分が卑小に思えれば思える程、多くのものを肯定できるような気がするのです。冷静に考えれば、無抵抗なわたしをこんな風に痛めつけている男の子は、確かに卑劣なんだと思います。ですがこんな風に痛めつけられ便器に顔を突っ込まれているわたし程には、恥ずかしくも情けなくもないし、ちゃんと自立したまともで崇高な存在だとそう思えて来るのです。 髪の毛を掴み上げられて、わたしは便器から顔を上げます。わたしは息を吸うことが出来ました。もっと長い時間ぶち込まれていれば多分わたしは窒息していたのに、それを助けてくれるなんて優しくて嬉しいことだとわたしは感じました。 「もう一回いっとくか?」 男の子は言いました。 「ふひひひひひひっ。良いですよ。」 わたしは笑顔で答えました。 「どうぞ気が済むまで。わたしなんかどう扱ったって何をしたって構いませんから。」 「バカかおまえ。」 「良いんです。本当に良いんです。わたしはそれで。どうぞ。どうぞご自由に。」 「……中学の頃のいじめてた奴もそうだったわ。」 男の子は憐れんだようにわたしを見詰めます。 「おまえ程あからさまじゃねぇけどさ。殴って蹴ってバカにして、そうやって痛めつけてると、余計にこっちに媚びて来るんだよな。へどもどしてさ。金やゲームソフトをせびる時も、裸にして芸をさせる時も、『おまえら』はいつだってへどもど笑ってやがる。そうして平気ぶって、一方では情けを期待して、そうやって適応していくんだよな。バカだよな。」 心底からの嫌悪と軽蔑がわたしを見下ろしていました。 「そのバカさ加減がムカ付くんだよな。叩きのめしてやりたくなるんだよな。今までは鼻を折られた仕返しのつもりだったけど、今じゃ単純におまえがムカつくわ。」 恐ろしい程冷ややかな目を男の子はしていました。男の子はわたしの髪の毛を掴んでもう一度便器に顔を浸けようとします。 その時でした。 荒々しい足音がしました。男の子たちが驚いて個室から顔を出して様子を伺うと、息を飲み込んで個室の中に隠れました。 わたしも思わずそちらを伺います。美術予備校の鈴木唯人先生がいました。 鈴木先生は四季さんの想い人でハンサムな芸大生でした。絵も教え方も上手く優しく物腰柔らかなので、予備校生皆に慕われていました。それは男の子たちにとっても同じであるようで、二人はそれぞれバツの悪そうな顔を浮かべていました。 鈴木先生は静かに私達の隠れている個室へと向かってきます。鍵を掛けようとした男の子に先んじて、鈴木先生は個室の扉を掴んで開け放ちます。 鈴木先生はどこか人間味のない表情を浮かべていました。あえて表情を消して相手を威圧するというのはありがちですが、しかしその顔には含みも凄みもなくあくまでニュートラルでした。 男の子たちは怯えた様子で顔を上げました。疲弊して四つん這いの私も同じようにします。鈴木先生はわたしの方には目もくれず、男の子の一人に近付くとその大きな拳を顔面に叩き付けました。 壁に吹っ飛んだ男の子はアタマから血を流して伸びていました。それは衝撃的な威力と光景でありわたしは息を飲みました。これほど凄まじいパンチを撃てる人を、わたしは他に三浦さんしか知りませんでした。 残る一人……わたしを痛めつけていた方……は怯えた様子で後退りました。しかしそこにはトイレの黄ばんだ壁しかなく男の子は絶望しました。男の子はその場に蹲って何事か懇願し始めます。すいませんとか土下座しますとかそういう声が聞こえてきましたが、鈴木先生はそれを意に介することなく顔に肘を叩き付けます。 三浦さんに圧し折られた鼻にもう一度肘撃ちを食らったその人は、やはり血を流しながらその場に倒れ伏しました。可哀そうでした。 わたしは怯えていました。わたしは暴力を耐えたり受け入れたりすることに長けていますが、それが平気な訳ではないし、むしろ目の前で行われる荒事は苦手でした。鈴木先生はそんなわたしを空虚な瞳で見つめると、口元で何かつぶやきました。 「れ……ま。」 良く聞こえませんでした。 「われ……んま。」 鈴木先生はそこで大きく首を振りました。そして途端に眉間に皺を寄せると、足元を転がっている男の子二人に軽蔑したような表情を向けました。そしてそのケガの具合を探るように男の子達の身体を触ると、重症でないことを確かめたように頷きました。 そしてわたしの方を向いて、優しい表情を浮かべます。 「大丈夫?」 わたしは恐る恐る頷きました。 「可哀そうに便器に顔を沈められたんだね。さあ、これで拭くと良い。」 タオルを差し出されます。わたしは首を振ってお断りしました。どう考えても人の持ち物で拭いて良い類の汚れではありませんでした。わたしは自分の懐のハンカチを取り出して、それが誰かが大切にしていたものでないことを確かめてから汚れを拭いました。 「立てるかな?」 頷いて差し出された手を取りました。たくましい大きな手でした。 「酷い目にあったね。」 「は、はい良いんです。あの。先生。どうして助けてくれたんですか?」 「どうしてって……当然のことだろう?」 「そうではなくて。あの。なんでこのトイレにいるのが分かったのかなって。」 「なんだそんなことか。」 鈴木先生は笑顔を浮かべました。 「たまたま便所に入ったら出くわしただけだよ。ただの偶然さ。」 わたしは鈴木先生に連れられてトイレを出ました。外には六花さんのお友達であるビーちゃんがいるはずでしたが、見当たりませんでした。 「あの人達、大丈夫でしょうか? 救急車か何か……。」 「急を要する程のケガじゃない。放っておいても復活して自分で病院に行くさ。それに予備校の前で救急車を呼ばれて大事にされたらおれが捕まってしまう。予備校をクビになったらアパートの家賃が払えなくなるから、それはやめてもらえないか。」 「は……はい分かりました。」 「だが君の身体は心配だね。すぐにおれの車で運ぶよ。病院に行こう。」 「一人で行けますよ。」 わたしはその場で身体をあちこち伸ばして自分が動けることをアピールしました。手足を動かす度に骨と筋肉が全力で悲鳴を上げていましたが、痛みに耐えるのは好きなので問題ありません。むしろ生への実感が漲り全身に気力が溢れました。 「先生は予備校に行かれてください。これから講師のアルバイトなんですよね。わたしならもう一人で大丈夫ですから。」 「そういう訳にはいかない。」 「本当に良いんです。」 その後も少し問答がありましたが、わたしがあくまで遠慮すると鈴木先生が折れました。 「分かった。じゃあ気を付けてね。それと。」 鈴木先生はわたしの顔に唇を近付けてキスをしました。 わたしは顔を真っ赤にしました。男の人にこういうことをされるのは大好きでしたが、いきなりのことで驚きました。 考えてもみれば、誰かに襲われているところを男性から助けられるというこの状況は、何とも少女漫画的であり憧れでもありました。しかしそのことに興奮や充実感を覚えるよりも前に、わたしは大きな罪悪感を覚えていました。 この接吻を貰うのにふさわしいのはわたしでないはずでした。彼は四季さんの思い人であるはずでした。こんなハンサムで誰からも憧れられる人はわたしには釣り合わないはずでした。 「ごめんね。こんなことしてる場合じゃないのに、つい気持ちが抑えきれなくて。」 鈴木先生は申し訳なさそうに言いました。 「いえ! いいんです。メチャクチャにしてください!」 わたしは言って服を脱ごうと手を掛けました。 「こんな状況に付け込むなんてズルかったかもしれない。軽蔑するかな?」 「いえ! いいんです! メチャクチャにしてください!」 わたしはシャツを脱ぎ捨てて今度は下着に手を掛けました。 「少しでも君の力になれて良かった。また連中が何かして来たらすぐおれに言うんだよ。」 「はい! 分かりました! メチャクチャにしてください!」 「ねぇ一子さん」 「なんですか?」 「服を着なさい」 公園の青空の下で、わたしはほとんどすっぽんぽんになっていました。 〇 部屋のテレビを点けるとニュースが流れている。 山中で二つの遺体が発見された。一つは首を切られた女性の遺体。警察の調査によるとその身元は専門学生の峰高好美(20)であり、数日前学校に行くと言って外出するのを家族が確認したキリだった。もう一つの遺体は会社員の香久山正雄(57)の物であり、彼もまた数日前から行方不明になっていたらしい。そして香久山の遺体からは肘から先が消えている。警察はこれらの遺体を親指を切り取られた鈴木崇高(44)と一連の犯行と見て調査を進めている。 俺(三浦・第三人格)はそれらのニュースを見て舌打ちをした。そして机の上に置かれた血濡れの新聞紙を見詰める。中には浅黒い色をした人間の右腕が包まれていた。それが香久山正雄のものであることは最早疑いの余地はない。その手の中に握られていたメモ用紙には、いつものように人を馬鹿にしたような謎解きが記載されている。 道化の棺の鍵は私。 私はあなたと共にいた。あなたと出会う願いが叶う時、私はあなたに殺されていた。 「ふざけるなよ」俺は舌打ちをして湯の入ったカップ麺をテーブルに置いた。香久山の腕を右手で観察しながら左手と口で割り箸を割ると、三分測ることせずにラーメンを啜りこんだ。麺は固く味がしなかった。元よりどのラーメンを食っても美味いと思うことはなかった。所詮それらは安い食い物で塩辛くて単調なだけだ。それでも食うのは、物を口に入れて嚥下すれば微かにだが充実した気分を味わえるに過ぎない。一度食った商品を二度と買わないのも、新しい味を楽しむ為ではなく、単に飽きないようにする為だった。 机に置かれた香久山の腕を眺める。会議は嫌いだ。長いからだ。だからこれについて仲間に報告することを思うと憂鬱だった。とは言えそれは後でも良いだろう。何が起ころうと何が見付かろうと、今は俺の時間だった。わざわざコンビニに寄ってまで購入したラーメンなのだから、これを食うくらいの権利はあろうものだ。誰にも文句は言わせない。 特に急ぎはしなかったが、俺はラーメンを数分で平らげてコックピットを出た。 いつも会議の時にするように皆を玄関前に集めると、四季がいきなり二葉の顔を平手で叩いた。二葉は面食らった顔をしたが、すぐにいつものようにへどもどした顔になって、上目遣いに問うた。 「どうしたんですか?」「どうしたんですかじゃないわよ」四季は二葉の胸倉を掴み上げた。「あんたねぇ何を思い上がって唯人さんの前で裸になんてなった訳? はしたない女だと思われたらどうするの? しかもあんな野外で! 警察呼ばれたっておかしくないんだからね」きりきりと二葉を締め上げる四季。「うぇえええギブギブ」目に涙を浮かべて四季の両手を掴む二葉だったが、四季の方が力が強くまともな抵抗になっていない。 俺は溜息を吐いて二人に近付いた。「ちょっと三浦こんな時までこいつを庇う訳? 今回のことはいくら何でも……」四季が言い終える前に、俺は二葉の横っ腹を蹴り飛ばしていた。 四季に胸倉を掴まれていた二葉はそれで数メートル吹っ飛んで廊下の壁にぶつかった。四季は思わず手を放したがそれでも巻き込まれるように体制を崩し床に転がった。俺は二葉に近寄ると、顔を青白くして震えている二葉の髪を持ち上げ、壁に押し当てた。 「男に抱かれたがるのは持って生まれたおまえのサガだ」俺は言った。「俺が短気ですぐに暴れるのと同じだ。最初からそのように作られているし、自分ではそれを制御できない。だからそれをコントロールするのは俺達自身ではなく、周囲の連中なんだ」俺は二葉の顔面を続けざまに二回殴った。唇と目元がそれぞれ切れて血が滲んだ。強く殴ったので大きな青痣になるはずだった。二葉は顔を顰めて許しを請うようにこちらを見詰めたが、俺は容赦せず今度は腹を殴った。 崩れ落ちる身体から俺は手を放して床で休ませてやった。「身体で覚えろ。俺達に迷惑がかかるからじゃない。おまえ自身が痛い思いをするんだ。良いな?」 「……はい」蚊の鳴くような声が聞こえた。俺は身を引くようにして悄然としている四季達に視線を送ると、『これで良いか?』とばかりに首を捻った。 「庇ったつもりか?」これは五木だった。「それだけ派手に痛めつければ、いくらそいつでも同情される。そうやってそいつの立場がこれ以上悪くなることを防いだつもりなんだろう」 俺が答えないでいると、五木は冷笑的に鼻を鳴らす。「抗いがたいサガをコントロールするのが周囲の役目というのなら、君が二葉を暴力で躾けたように、君だって罰を受けなければならないだろう」「何故だ」「無暗に暴れ回って敵を作ったからさ。あれがぼくらを守る為に必要な暴力なら良かった。でも雪の絵を守るのは守護者の責務に含まれない。今回六花が襲われて二葉が盾にならなければならなくなったのは、元を正せば君の所為なんだよ」「六花か二葉が俺に代われば良かった。そうすれば簡単に決着がついた」「だからその二人が悪いというのか?」 「やめようよもう」座り込んだ六花が膝に顔を埋めながら言った。「ないけどさ。仲良しじゃなきゃいけないなんてこと。そんないちいちギスギスする必要までないじゃない。喧嘩する為に集まりたくないよ」 「喧嘩の為に集まったんじゃない。机に置かれた右腕について議論する為だ」五木は言った。「机に置くのが可能そうなのは家を出る時にコックピットにいた四季か、帰った時にコックピットにいた三浦だろう。だが協力者がいるのだとすれば、複製された家の鍵を受け取っていて、留守中にそっとテーブルに腕を置いておくことも出来る。可能性だけなら、誰にでも犯行は可能だと言えるだろうな」 「そもそも、わたし達の誰かが犯行に関わっているという前提は、確かなのでしょうか?」 ダメージから回復しつつある二葉がよろよろと立ち上がった。先ほど殴った顔の箇所が早くも腫れて来ている。二葉は壁に手をやってなんとか直立したが、すぐに諦めたようにその場に座り込んだ。 「わたし達も被害者の一人だったのです。殴られたり血を掛けられたりした人格は、犯人から脅されているとか、何かしらの訳があってそれを黙っているのですよ」 「黙っているなら共犯と同じでしょ」四季は忌まわし気だった。「知ってることを白状させなくちゃ」 「もしぼくらの内の背徳者が、既に共犯者としての役割と終えているのなら、特定は難しいかもしれないな」五木は溜息を吐いた。「直接手を下す役割がそいつの手から離れ、ただ遺体の一部と謎解きの描いたメモを受け取るだけなのだとしたら、尻尾を出す余地はほとんどない」 「天使様にお願いして、誰が犯行に関わっているかを知ることは出来ないの?」六花がそこでバカげたことを言った。 「何言ってんの」四季は首を横に振った。「出来る訳ないじゃない」 「……気持ちは分かるのですが、そうですね。無理だと思います」二葉は気まずそうに目を反らした。「あの方は『この世界』においてほとんど万能ですが……意思疎通がまず図れませんからね」 「でも、一応会いに行ってみたら」と六花。 「本当にそれが出来るんならとっくにやっている。君だってそれを分かっているから、今の今までそれを言い出さずにいたんじゃないのかい?」五木が肩を竦めた。「溺れる者が藁を掴むかのような提案だな、それは」 俺は何も言わなかった。 過去に一度だけ、俺は六花と二人で天使様に会いに行ったことがある。 大昔のことだった。まだコントローラーを四季が管理しだす前のことだ。 その時六花はコントローラーを紛失して困っていた。何をしていて失くしたのかは知らない。子供のやることなんだから理屈なんてない。子供なりの理屈があったとしても興味などない。ただいずれにせよそれは過失であり、過失である以上何かしらの罰が与えられる可能性はある。それを恐れて六花は城の外の川原で泣いていた。俺はそれを見付けた。偶然だった。どうしたと声を掛ける俺に六花は泣きながら事情を話した。それは俺を信頼してというより、どうせバレることになるからと観念したような様子だった。 「天使のところに行こう」 六花の説明を聞き終えて俺はそれを提案した。六花は驚いていた。それはそうだろう。天使様の力を使うには人格同士の協議の末過半数の支持が必要だった。個人的な過失の埋め合わせに天使様の力を使うというのは本来考えられることではなかった。 「どうせコントローラーはなくちゃ困るんだ。協議すればどうせ天使様を頼ることになるのは明らかだ。だったら、俺達で行っても何も変わらないよ」 俺は六花を伴って川沿いを上がり山を登った。道のりは長く険しかった。山林は深く視界はおぼつかず、頻繁に足元を取られて転びそうになった。やがて頂上にたどり着くと一つの小屋があった。俺達はその扉を開けると、中には鉄製の小さな檻があって一つの肉塊が横たわっていた。それが天使様だった。 天使様は大きな目玉の付いた肉の塊で、その重量は自動車程もありそうだった。横たえられた四角柱のような形状で一目には巨大な燻製肉の塊に見えた。皮膚は備わっていたが茶黒い色をしていてその全体が垢めいていた。その巨体の中央に大人の顔程もある巨大な眼球が一つだけあり、それは俺達が近づいたのに気付くとぎょろりとこちらに視線を向けた。 「コントローラーを紛失した。新しいものを用意して欲しい」 天使様は何も言わなかった。身じろぎ一つ瞬き一つ、およそレスポンスと呼べることは何一つしなかった。天使様は口も利かないし何の意思表示も行わなかった。だから何かをお願いする時も一方的にこちらから話すだけだ。だがその要求は聞き入れられたようだった。いつの間にやら新しいコントローラーが俺達の前に現れた。それはそれまで使っていたものと寸分変わらぬ外観をしていた。足元に落ちていたそれを拾い上げると俺は六花に渡した。 「……これ。まずいんじゃないかな」六花は言った。「何がだ?」「コントローラーが二つになっちゃった」「それがどうした?」「あたしが失くした方のコントローラーをもし誰かが見付けたら、それを使って悪さをするかも」 「そうか」俺は頷いた。「なら。今まで使っていた方のコントローラーから、機能を消し去ってもらうことは可能か?」 天使様は何も言わなかった。だが俺はそれを了承の合図だと受け取った。何を言っても何をしても、天使様は何のレスポンスも返さないのだから合図も何もないはずだったが、それでも俺は天使様がそれを了承したように思えた。 俺達が山を下りるとコントローラーを所定の位置に戻した。それで六花の過失は誰も知るところではなくなった。コントローラーが入れ替わっていることに気付く者はいなかった。 数年か経ったある日、二葉が川原で砂に汚れたコントローラーを見付けて俺に見せて来た。 「こんなの見付けたんですけど」「そうか。機能はしてるか」「いえ。どこを押しても、うんともすんとも言わないんです」「貸してみろ」 二葉の言った通り、コントローラーのどこを置いても何の反応もしなかった。 「ゴミだな」 俺は機能を失った古いコントローラーを川に投げ捨てた。川の流れは古いコントローラーを流し去ってどこに行ったのかも分からなくした。「何をするんですか?」と二葉は抗議したが、俺は何も言わず、事情を説明することもしなかった。ただこのことは黙っていろと言い含めただけだった。 天使様は万能で、俺達の為に必要な便宜を図ってくれる。 だが向こうからは何も言わず、質問をしても答えることはない。 それが俺達の身体を使って人を殺している犯人のことであったとしても。 〇 テレビニュースが流れていた。一連の連続殺人事件における新たな被害者についての報道がなされている。お決まりの展開。しかも今回の被害者は二人だった。彼らは大学生の若いカップルで、それぞれ右手と左手の手首から先が持ち去られていた。 私(四季・第四人格)は溜息を吐くのをこらえた。隣に唯人がいたからだ。同じソファの身体が触れ合う距離に腰かける唯人は、同じテレビを眺めながら私の肩に優しく手を回した。 「何か思いつめた顔をしているけど、大丈夫?」 動揺を悟られていたことを反省しつつ、私は努めて笑顔を作り、なんでもないと言って笑い掛けた。 ここは塾の講師である鈴木唯人のアパートだった。 今日は土曜日で、私は唯人に絵を教わっていた。唯人は絵も教え方も上手くて、彼に導かれながら描いていると自分でも信じられない程綺麗な絵が描けた。唯人はそんな絵を描く私の頭に手を置いて、上手だねと優しく笑い掛けてくれる。 心がとろけるような気分。 私達は順番にお風呂に入った後並んでソファに腰かけてくつろいでいた。同じ空間のこんな近くに唯人と二人きりでいることに私は幸せを感じている。誰からも憧れられるハンサムで優しい唯人が、私のことだけを家に呼んでこんな風に扱ってくれることが誇らしかった。 「そろそろ眠ろうか」 唯人はそう言って私をベッドに案内した。同じ布団で寝るの? という疑問を私は口にしない。何か余計なことを言ったりしたりすることで、これから起こる幸せなことが消えてしまう可能性が少しでもあるのなら、私は余計なことは何もしない。すべてを唯人に任せてただ私を幸せにしてくれるのに任せて置きたかった。 明かりを消した暗闇の中で、唯人が優しい両手を私に伸ばしてくる。 一夜が過ぎた。 小鳥の囀りと共に目を覚ました。私は深い充実感に包まれていた。満ち足りた気持ちは今も持続していた。それは永遠に続くかのように思われた。これほどまでに強烈で確たる幸福がやがて風化するなどと信じられなかった。私は私の生命と人生に心の底から感謝していた。 「おはよう一子」 私は笑顔で答えた。 「おはよう唯人さん」 私達は同じベッドで目覚めて同じテーブルで朝食を採った。幸せだった。 家に帰る為に唯人のアパートを出ると、途端に私は竜宮城を出たような気持ちになる。強い寂寥感を覚えたが、確かに私は唯人に抱かれたのだし、その思い出は永遠に残り続けるのだと思うと励まされた。また何度でも唯人と会って同じ時を過ごすことが出来るはずだと思い直した。私は唯人を手放したくなかった。唯人に手放されたくなかった。 私はアタマの中を唯人で一杯にしている。その所為だろう。幽鬼のようにアパートの前に立ち尽くす、気持ち悪いその陰に気付けなかったのは。 雪がいた。 この瞬間、私の心は間違いなく現実に引き戻された。雪は酷く打ちのめされたような、そして非難するような表情で、私の方をじっと見詰めている。 気持ちが悪かったし煩わしかった。幸せな気分がこんな奴によってぶち壊されたのが忌まわしく、私は剣呑な声を浴びせかけた。 「何じろじろ見てんの? 気持ち悪いから失せてくんない?」 雪は鼻白んだ様子も見せずに、泰然と腕を組んで唇を尖らせる。そしてまるでそれが正当な権利であるかのように私に抗議した。 「何で鈴木の家なんかに泊まってたの?」 「はあ?」 私は心底から呆れ返っていた。 「そんなの私の勝手だと思わない?」 「でも何でかなって」 「好きなのよ。私達お付き合いをしているの。分かった?」 「やっぱり僕じゃなくて鈴木が良いんだ」 目に涙を貯め始める雪。深く溜息を吐く私。 「あんたなんて眼中にないわよ。分かったらどっか行ってくんない? そんで二度と私に話し掛けて来ないで。気持ち悪いのよ。あんたなんかが人を好きになるのは、それだけで迷惑なことなんだわ」 「僕を振るのはしょうがないけど、なんでそんなに冷たい言い方をするの?」 「再三態度で見せても付き纏うのをやめないからでしょ。あんたなんて大嫌いよ。消えなさい」 私は露骨に顔を背けて雪の脇を通り抜けようとする。 雪はその手を掴んで来た。 私は身の危険を感じながら振り向く。 「……僕は信じてないからね」 「はあ? ちょっと……やめてよ。手を放して」 「今の君は本当の君じゃない。もっと優しい心を持った君が君の中にいるはずなんだ。僕はそのことを信じているし、だから今の君に何を言われたって信じないからね」 震えた声の雪。その目は赤らんでいて腕を掴む力は強かった。視線が据わっている。私は身の危険を感じていた。三浦に変わらなければならないかもしれないことを覚悟した。その時だった。 「やめてください」 毅然とした声がして雪の腕が振り払われた。自由になった私をたくましい腕が抱き寄せる。 唯人だった。 「……僕は今一子ちゃんと話してるんだ。割って入って来ないでよ」 雪は怒りに満ちた声で言って、唯人を睨んだ。 「雪さん、あなたおかしいですよ」 「僕が何をしたっていうんだ?」 「いつからそこにいたんですか? アパートの前で待ち伏せるなんて、ここに一子さんが来ていることを知らなかったらできませんよね? まさか、昨日からずっとそうしてたんじゃないでしょうね?」 「それが何か?」 雪は頬に捨て鉢な笑みを描いた。赤らんで血走った目は爛漫と輝いている。 「ストーカーですよ」 「違うよ。一子ちゃんを一目見て、一子ちゃんと少し話がしたかっただけさ。それだけの為に僕は何時間でも何日でもずっと同じ場所に立ち続けてられるんだ。あんたに同じことが出来るのかい?」 「もったいないですよ、雪さん」 唯人は諭すように、言い聞かせるように落ち着いた声を出した。 「雪さん。あなたには才能がある。結果に恵まれないことに何年も専念し続ける一途さもある。去年生徒として予備校にいた時から、おれはあなたを尊敬しているんだ。追いかけるべき背中だと思っているんです」 「だからなんだ? 僕を置き去りに木更津芸大に受かった癖して」 雪は忌まわし気に歯噛みした。 「雪さんにだって将来がある。画家として大成する未来があるんだ。だからストーカー行為なんてしちゃいけない。もしおれが警察に通報して事件になったら、大学はあなたをどう思いますか? そんなことをした人を合格させると思いますか?」 「僕は別に法に背くようなことはしていないぞ!」 「あなたのような人の行いはエスカレートするのが常だ。現段階でさえ、講師のおれが証言すれば予備校をやめさせるくらいのことは簡単です。この近所に木更津を目指せるような予備校はあそこくらいでしょう? それでも良いんですか?」 「はん。今更自分が木更津に受かるなんて、本気で思ってやしないさ」 雪は退廃的な形に唇を釣り上げた。その瞳は既に私のことも唯人のことも見ておらず、あらぬ方向に虚ろな視線を漂わせていた。 「最後に真剣に絵を描いたのはいつになるのかな? どうせ今年も落ちるって分かってるのに、本気で絵の勉強なんてする気になる訳がない。ダレてんだ」 「……思ってもないことは言うもんじゃないですよ」 「本心さ。もし本当に受かろうと思ってたら、下手糞共にいちいち絡んだりしない。あんたら講師の言うことに突っかかたりなんてしない。遮二無二自分の絵をやるだけさ。そうじゃないのは、モチベーションがとうに摩耗してるってことなのさ」 雪の瞳孔は開き切っていた。その目には純度の高い絶望があった。繰り返し挫折を味わった人間にしか醸し出せない深い暗闇。その暗闇に私は恐れを成した。 「かと言って木更津に受かる以外の人生を今さら考えられはしない。僕は一生、あの糞ったれた予備校で、成長の止まった絵を描き続けるだけなのさ」 自嘲気に言って、かと思えば途端にプライドを剥き出しにして、雪は高圧的に声を荒げた。 「ただ言っておくが、それでもあんたよりはよっぽどマシな絵が描けるぞ? あんたは所詮粗削りだよ。晩成する余地があるという意味での粗削りじゃない。自分の技巧が及ばない箇所を、模倣や雰囲気でそれらしく誤魔化してるような画風だもんな。一生上手いところは上手いってだけの奴で終わるさ。大学の奴らは伸びしろがあるのと下手糞なのを区別しないが、僕は評価しないね」 唯人の絵をバカにされて、私は腹が立った。思わず声を上げようとして、唯人がさりげなく片手を差し出してそれを制する。 「……確かに、雪さんの絵は上手いでしょう。細部に行き渡る確かな技巧がある。あなたの描く絵はおれの絵よりもよほど達者だ」 鋭い視線。 「だがそれは現時点での話だ。あなたを目標にしていた話を校長にしたら、こう言われましたよ。目指した背中が間違っていても、追い抜いてしまえば関係ないってね。腐りきった今のあなたは、とても一子さんに相応しくない」 「黙れ!」 雪は叫んで唯人に殴りかかった。 決着は一瞬で着いた。雪はそもそも喧嘩なんて一度もしたことがないんだろう。殴るつもりで伸ばした腕は簡単に躱され、捻り上げられて身動きを封じられる。そしてその痛みから逃れようともがく雪を、唯人は情けを掛ける様にその場に放り捨てた。 地面を転がって砂まみれになりながら、雪はどうにか身を起こした。その後も唯人を睨み続ける雪だったが、しかし力の差を簡単に思い知らされてガックリ来たのか、肩を落としてその場から背を向けた 唯人は私の方に優し気な視線をやった。 「家まで送るよ」 「この後もバイトなんでしょ? 遅れないの?」 「仕方がないさ。今の君を一人にしてはおけない」 「大丈夫よ。身を守る手段はちゃんとあるから」 先ほどの感じだと三浦に代わるまでもないとすら思う。あっけなく退けられた雪はみっともなかった。あんな奴に好意を寄せられていると思うと虫唾が走った。 「油断しない方が良い」 「本当に平気。唯人さんに迷惑を掛けたくないの」 そう言うと唯人はその場でタクシーを呼んで、必要な金額を私に手渡した。 タクシーで自宅に帰り着くまでの間中、私は全身に雪の視線が絡み着くような不快感を味わっていた。 〇 繋ぎ合った若い男女の手がある。 それだけ聞くと牧歌的で幸福な光景だと言えた。しかし実際にはそれはむしろ猟奇的でおぞましく何より悪趣味だった。何せその男女の手は握り合った状態でそれぞれの手首から切り落とされていたのだから。 ぼく(五木・第五人格)は鞄の中の二つの手に気が付くと、両親の不在を確かめてから鍋に放り込んだ。四季と三浦にやらせたように、薬品で煮て始末するのだ。 煩わしい作業だった。楽しくもなければ何の経験にもならない。こんなことをぼくがやらされるのがたまらなく不条理だった。真っ赤になった鍋の中を分離した肉が漂う様は珍しいとも言えなくもないが、望まずしてやらされている作業でそこに興味深さを見出せるはずもない。 こんなことは終わりにしなければならない。 ぼくは鍋を見守りつつ血まみれの三枚のメモを見詰めていた。二つの手と共に鞄の中に入っていたものだ。内の二枚はいつもの謎解きで、血塗られた紙には以下のように記されていた。 愚者の棺の鍵は私。 目を開ける程に見えないが、瞼を閉じた時にだけ、あなたの前に現れる。 咎人の棺の鍵は私。 回る部屋の中でいつも控えている。部屋を出る時、私は他人を傷付けてしまう。 さらにもう一枚の紙にはネットのURLが記載されている。湯の沸騰する音を聞きながら、ぼくはそのURLをスマホに打ち込んだ。 サイトにジャンプする。 黒を基調としたシンプルなデザインのページだった。五つの棺が中央に並べて配置され、それぞれ上に『生贄の棺』『乱波の棺』『道化の棺』『愚者の棺』『咎人の棺』という文字が表示されている。他にタッチしてアクセス出来そうなアイコンはない。 試しに『生贄の棺』をタッチすると、『鍵を入れてください』という文字と共にパスワードの入力画面が表示される。迷わずに『book』と打ち込むと、一枚の画像が現れた。 それは一枚の油絵だった。 過去に一子が通っていた小学校の運動場の遊具の傍に、六角形の西洋の棺が置かれている。その棺で眠っているのはなんと二葉で、目を閉じて両手を重ねた姿は静謐だった。 世界にはまるで運動場と棺しかないかのようだった。黒い棺桶の中で二葉の白い肌が映えている。長いまつ毛が彩る閉じられた両目の間で、まっすぐに通った鼻筋はしなやかだった。桃色の唇は信じられない程柔らかく、瑞々しそうだ。二葉はこの棺桶の中で永遠に身動きをしないのだろう。それは死体なのだから。かと言ってこの棺桶にある限り、この美しい二葉の姿が損なわれるなどありえない。腐り落ちることも朽ち果てることもなく、その姿のまま永遠にあり続けるのだ。そんなことを考えさせられる絵だった。 流石に愕然とした。初めて見る絵だった。凄まじく出来の良い絵だった。二葉が描かれているということは、それがぼくらの中の誰かが描いたので間違いない。交代人格達を除いて、誰も彼女の姿を知らないからだ。だとしてもその絵はとてつもない傑作で、これほどのものを描きながらそれを仲間に見せないというのは、あまりにも考えづらいことだった。 もしかしたら、ぼくらの中の殺人犯は、この絵を仲間に自慢する為に人を殺しているのかもしれない。ただ見せるだけでは妙味に欠けると考え、劇的な演出として人を殺し、謎掛けを残し、それを解かせてから絵を見せるということを思い付いたのかもしれない。それをくだらないと断じられない程度には、ぼくは目の前の絵に魅せられていた。 スマートホンの小さな画面に嫌気の射したぼくは、部屋に戻ってパソコンを起動した。インターネットにアクセスしてURLを打ち込むと、五つの棺をそれぞれクリックして一つ一つパスワードを打ち込んでいった。 蛮族の棺の鍵『san』。 道化の棺の鍵『mizuko』。 愚者の棺の鍵『dream』。 咎人の棺の鍵『bullet』。 すべて遺体の一部と共に残されていた謎解きの答えだった。道化の棺の鍵だけは回答を迷った。『水子』に相当する英語がなかった為なのだが、試しに『mizuko』と打ち込んだら無事通過することが出来た。もしかしたら他の回答も『hon』とか『taiyou』とか打ち込んでも通ったのかもしれない。 乱波の棺の中には三浦の死体の絵があった。棺は近所の土手に置かれていた。長く荒々しい髪を乱して眠る三浦は役目を終えた戦士のように気高かった。 道化の棺の中には四季の死体があった。棺は中学校の教室に置かれていた。壁の端に寄せられた机に取り囲まれたような棺の中で、四季は信じられない程孤独に眠っていた。 愚者の棺の中にはぼくの死体の絵があった。棺は近所の繁華街の交差点に置かれていた。無人となった繁華街に放り出された棺で眠るぼくは、羨ましい程安らかだった。 咎人の棺の中には六花の絵があった。棺は近所の林の中に置かれていた。伸びる草木に覆われた棺で眠る小さな六花は、誰よりも可憐で人形のようだった。 五つの絵を見てぼくはある仕掛けに感づいた。街の地図を表示させて、それぞれの絵の舞台となっている箇所にアイコンを立てる。それらを繋ぎ合わせると、それは綺麗な五芒星を描いているのが分かった。さらにその五芒星の中で眠るぼく達の姿は、ぼくらの住まう『城』の部屋割と酷似している。 ならば五芒星の中央にはコックピット・ルームに相当するものがあるかもしれない。ぼくは家を出て五芒星の中央を目指した。 そこは近所の川原だった。注意深く足元を凝視して歩き回ると、ひしめき合う石や岩の色が他と違っている箇所があるのに気が付いた。そこだけ岩のいくつかが引っ繰り返されたように、それまで土に接していた面が表を向いているのだ。何かが掘り返された痕跡であるように見えた。 ぼくはその地点まで向かい岩をどけて行った。肉体労働だったが三浦を呼ぶことはしなかった。ぼくはぼくの発見をぼく自身の手で確かめたかった。 そこには一つの棺桶があった。 黒い棺だった。それは現実世界に現れた六つ目の棺でありぼくは戦慄した。息を飲み込んで棺の蓋を開ける。意外なほど容易く開いたその中にあるものを一刻も早く確かめたかった。 入っていたのは六枚の絵だった。 内の五枚はぼくの知っている、知ったばかりの絵だった。棺に眠る交代人格達の描かれた絵。ネットで見た絵の原典だろう。 もう一つの絵は、城の中のコックピット・ルームの絵だった。それはおぞましい絵だった。コックピットの椅子の上には、朽ち果てて骨や腐った内臓を晒し、ハエのたかった少女が据わっている。腐り落ちた肉の隙間には、ボロボロになった歯茎の上に白い歯が覗いている。服には乾いて茶色くなった血がこびりついていて、痛みきった髪が抜け落ちて体の各所に絡んでいる姿はあまりにも無様だった。 劣化し切ったその遺体が誰の物なのか。ぼくは確信を持って判断出来た。 それは虹川一子の死体だった。 それぞれの人格達を順番にコックピットに座らせて、六つの絵画の原典を見せた。 反応はそれぞれだったがそこについて触れることはしない。それぞれのリアクションの後で、ぼく達五人は皆一様に深刻な表情を浮かべ、集会所と化している玄関前で顔を突き合わせていた。 「良く解けたよね。謎解きを五つとも」六花が感心した風でもなく口にする。「あたし『本』しか分からなかったよ」 「そうですね。わたしも分かったのは『本』と『水子』だけです。ダメですね」二葉は気持ち胸を張った。自虐風に言ってはいるが、その実二つは分かっていたんだぞと言いたげでもある。「流石は頭脳労働担当と言ったところでしょうか。すごいですね、五木さん。尊敬です」 媚びるような視線を向けて来るが、ぼくはいつものように無視をする。そしてこいつは懲りずに傷付いたような顔で俯くのだ。鬱陶しい。同じ身体を共有する相手だからと言って、誰とでも仲良く出来る訳じゃないしその義務もないということを、こいつはいつになったら理解するのだろうか? 「問題はあの絵を描いたのがこの中の誰かということだ」ぼくは改めてその場にいる四人の仲間達を見回した。「この中に、あの絵を見たことがあるという者は?」 誰も手を上げなかった。ぼくは質問を変える。 「この中に、誰かがこっそりと、隠れて絵を描いているのに感づいた者は?」 ここでも誰も手を上げなかった。四季がけだるげな声を出す。 「その気になれば絵の六枚くらいなんとでもなるんじゃない? 申し送りには嘘だって描けるんだし、こっそりと絵を仕上げていくことは誰にでも出来るわよ」 「しかしあの絵は半端な時間では描くことが出来ない」 「時間を描けて少しずつ仕上げれば良いじゃない」 「絵の保管はどうするんだ?」 「上手い隠し場所があるんでしょ。というか、それを考えるのが、それこそ頭脳労働担当のあんたの仕事じゃない?」 「違いない」ぼくは肩を竦めた。「確信はないが、一番怪しいのは四季、君だと思っている」 四季は微かに鼻白んだような表情を浮かべたが、すぐに攻撃的な表情になり、ぼくを睨み返した。 「どうしてそう思うのかしら?」 「ぼくらの中でもっともコックピットにいる時間が長いのはホストである君だ。ダントツで一番多いと言って良い。そして暫定的にはリーダー格と言って良いくらいの発言力を持つ君は、誰がいつコックピットに出るかについて、かなりの部分まで意見出来る。隠れて絵を仕上げるというタスクをもっともこなしやすいのは、間違いなく君なんだよ」 四季は憮然としている。構わずにぼくは続ける。 「ここ一か月程の全員のスケジュールを思い浮かべて見ても、六枚の絵を完成させるほどの時間的余裕がある者は、君を除いて一人もいない」 「だから。小さな時間を集めて行けば、私以外にもどうとでもなるわ。手の速いあんたや三浦は猶更ね。私を怪しむのは分からなくもないけれど、何か証拠があって行っている訳じゃないんでしょう? 違う?」 「違わないね。だが、君の申し送りを見ながら、怪しい点を精査し、本当にその通りに行動していたのか、聞き込みなどで調査することは簡単にできる」 「好きにすれば良いじゃない」 「そうさせて貰うさ」 そう言って、ぼくはいい加減にその場を収めようとした。毎度毎度険悪な議論をしているのも、流石にうんざりして来たからだ。 皆も同じ気持ちだったのだろう。弛緩した雰囲気が全体に流れる。 その時だった。 「あのぅ。ちょっと良いですか?」 二葉だった。 ぼくは思わず剣呑な表情を向けてしまう。自分で先を促すのも嫌だったので、ぼくは三浦あたりが反応するのを待った。 「どうした?」と三浦。 「いえその。……あの絵を誰が描いたかって話をするなら、それは絵を見れば良いんじゃないのかなって、思うんですけど、その……」 「はあ?」四季が攻撃的な声を発した。「そんなのに意味があるなら最初からやってるわよ?バカじゃない?」 「な、なんで意味がないんですか?」 「言いがかりの吹っ掛け合いにしかならないからよ。誰の描いた絵に見えるとか見えないとか、そんなの所詮ただの印象に過ぎないじゃないのよ」 「……でも参考程度にはなるかもね」六花が小さな声を挟んだ。「あたし達、画風にはそれぞれ違いがあるし。皆、一応、絵は上手いし、審美眼も、そりゃあちょっとは、ある訳なんだし。誰の絵に見えるか、言い合ってみる?」 四季は眉間に皺を寄せて六花の方を見詰めた。六花の方は怯えた様子を見せつつも、四季とは目を合わさず膝に顔をうずめた。 「俺は分からんぞ」と三浦。「上手い絵だなとは思う。だが、誰の画風とも異なっているように見える。絵だけを見れば、俺達の誰のものでもない絵だと言われた方が、信じやすい」 「同感だね」ぼくは言った。「おそらく画風は変えてあるんだろうね。本来の画風から離れてこんな絵が描けるのなら二葉かもと思うが、しかし二葉ならむしろもっと良い絵を仕上げて来るような気もする」 「どっちにしろ分かんないんでしょ? ほら見たことか」四季は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「言っとくけど私も何も分かんない。六花はどうなの?」 「…………」六花は膝に顔をうずめたまま沈黙し、か細い声で言った。「分かんないけど」 最初から分かっていたことだった。明確に誰かの画風に似ているのなら、誰ともなしにそれは指摘されたはずだ。何せぼく達にだってそれぞれある程度の審美眼はあるし、嫌でも常に一緒にいて一緒に絵を描いて来た仲間同士でもある。いつもの画風を用いて描けば、それはあっさりと看破されたはずだ。そうでないということは、それは端からバレないように描いてあるということだ。 しかし。 どれだけ画風を変えて描いたとしても、ある程度までの審美眼の人間を騙し果せたとしても、それでも欺けない相手というのは存在する。 「わたしは四季さんの絵だと思うんですけど」 二葉はあっさりとそう言ってのけた。 四季は忌まわし気に歯噛みしながら、三浦は無表情に、六花は目を丸くしながら、それぞれ二葉を見詰めていた。 「そうなのか?」 ぼくは言った。いつも二葉のことを無視しているぼくだったが、それは聞き捨てならなかった。他のすべてが邪魔だとしても、こと絵に関する能力だけは、ぼくもこいつを信用していたのだから。 「は、はい。そう見えるんですけど」 「どのくらいの確信を持ってそう言えるんだ?」 「確信っていうか……だってどう見てもそうじゃないですか?」 「具体的に説明してみろ。ぼくらを納得させるんだ」 「だってどう見ても……」 四季が二葉の胸倉を掴んだ。「言いがかりはやめなさい」 「うぇえええ。ギブギブギブ!」二葉は四季にタップした。「ごめんなさいごめんなさい。でも絶対そうじゃないですかぁ?」 「どのあたりが四季の絵に見える?」 三浦が端的に問う。二葉はぼそぼそと説明を始めた。 「色使いとか線の引き方とかモチーフの配置の仕方とか色々……」 「それで分かるかよ。具体的に言え」三浦は呆れたような声だった。 「あの、わたし、他人の絵を批評とかするのすごく嫌で……」 「批評をしろと言っているんじゃない。相似点を言えと言っているんだ」 「…………三浦さんや六花さんは主題を分散させるのがお好きですけど、四季さんはテーマをドカンと配置しますし。そこに関しては五木さんも似てますが、でも五木さんは他をあくまで背景として扱うことで主題を際立たせるのに対して、四季さんは主題以外もちゃんとモチーフとして扱いはするし、全体の調和とかもすごく考えられてて」そこまで言って二葉は急に青ざめて言い訳がましくなる。「す、すいません皆さん。比較してる訳じゃなくって、違いを述べているだけで。みんな違ってみんな良いんです。本当です」 「良いから続きを話せ」 二葉は絵についての論評をたどたどしく口にして言った。それはとても面白く、そして感銘を受ける時間でもあった。こいつは日頃どんな絵を見ても『上手』とか『素敵』とか以外のことを言わない。こいつが皆の絵についてそれぞれどう考えているのかを知れるのは、とても興味深いことだった。 「……だから、あの棺桶の配置の仕方は絶対に四季さんで、箱状のものを描く時の線の引き方だって四季さんらしいとは思いませんか? あんなに細かく緻密に色のグラデーションを考えるのも四季さんですよね? 六花さんはもっと感性に従って大胆な感じですし、五木さんは色彩学にひたすら正確で、三浦さんはグラデーション自体をあまり作らないので」 二葉が何か言う度に皆は順番にコックピットに向かい、絵を確認しては戻って来た。二葉の講釈は小一時間程に及んだ。本人は「だってどう見てもそうじゃないですか」ですべてを片付けたがっていたが、ぼくらがそれを許さなかった。ぼくらの一人一人が、四季さえも、二葉の言葉に興味を持ち二葉の言葉に耳を傾け続けていた。 「……決定的じゃないか。おい」三浦は眉を大きく歪めながら言った。「いちいち言ってることが腑に落ちるぞ」 「……流石にね」ぼくは肩を竦めた。「こうして説明されてみると、自分でそれに気付けなかったことが情けなく思えて来る程だ」 「……うん。良いと思う」六花は頷いた。「あの絵を描いたのは四季さんだよ。二葉さんが言うことに、間違いはなかったんだ」 四季は顔を引きつらせながら腕を組んでいる。その顔は青ざめていた。これが警察による調査なら、画風の相似なんぞは何の証拠にもならないはずだ。しかしぼくらは皆絵描きであり、正確に行われる寸評に対しては誠実だった。それは四季自身も同じであり、二葉の看破に対してぐうの値も出せないはずだった。 「……あんたね。あたしが犯人だって言いたい訳?」 四季は震えた声で言った。 「いえ……そうではなくて、あくまであの絵は四季さんの絵だなぁって」 「それはあたしを犯人扱いしてるってことだと分かるでしょ?」 二葉は黙り込んだ。目が泳いでいる。それはただその場をやり過ごす為の、如何にもこいつらしい沈黙だった。 「それで四季」ぼくは嘲るような声で四季に言った。「いつの間にこんな絵を描いていたんだ?」 「さあね。自分で考えてみれば?」 「申し開きをしろと言っているんだ。しらばっくれるよりそっちの方がまだ君にとって可能性がある。この絵が君の物だってことは最早誰も疑っていないのだから」 「良く言うわね。二葉が余計なことしなけりゃ、誰もこれが私の絵だって分からなかった癖に」四季はどこか開き直るかのような露悪的な態度だった。「あんたの言う通りよ。ホストの私には皆の何倍も自由な時間があった。その時間をちょっとずつ使って仕上げたのよ」 「何故人を殺した? 何故こんなことをした?」 「別に?」 「なんだそれは?」 「説明する義理なんかありゃしないわよ。自分で考えてみれば?」四季は偽悪的な笑みを浮かべる。「それに私はこの絵を描いただけよ。人なんて殺してないわ。本当よ」 「なるほど。犯人は四季さんがこっそりと描いた絵を盗み出して犯行に利用しましたが、そこに四季さんは関わっていないんですね」 二葉は得心したように頷いた。本気で言っている。相変わらず浮世離れした考え方をする奴だが、最早用済みのこいつにぼくは反応せずに、あくまで四季を弾劾する。 「ぼくらに隠れてこんな洒落にならない絵を描いた理由はなんだ? そしてそれがどうして犯行に使われている? どうやって犯人は君の絵を入手することが出来た? 答えて見ろ」 「だから、説明する義理はないのだわ。ふふふふっ」四季は捨て鉢な笑い声をあげた。「あはははははっ。五木、あんたって思ったより賢くないのね。いつもいつも偉そうなことばかり言ってる割に、何も分かってないんじゃない。最後の解決だって結局二葉を頼りにした。バカじゃないのよ。あははははははっ」 四季は笑っている。笑い続けている。 「そりゃあそうよね。だってあんたは私と同じ『虹川一子』なんだもの。知ってる? 人間は自分より賢い人間を創造できないのよ! あんたは私達の中で一番賢いというキャラクターを与えられているから、日頃私達にだけそういう風に扱ってもらえるだけで、実際にはまったく大したことはないのだわ」 笑い続けた四季はとうとう腹を抱え始める。 「それは誰だってそう。二葉だって三浦だって六花だってこの私だって、皆同じ。我慢強いのも喧嘩が強いのも手先が器用なのも社交的なのも、実際には一子の持つしょぼい能力の一部に過ぎないのに、自分はそれが得意だという思い込みから綱渡りで役割をこなしているだけのことよ。いつかボロが出るわ。ううん。いつだってボロが出ている。だから私達はいつか破綻するし、今だって十分に破綻し切ってるのよ。だって人を殺しちゃったくらいなんだものね! 良い気味だわっ! あははは。あはははははっ。あははははははははっ!」 「…………犯人でないというなら説明してみろ。申し開きをする義務が、君にはある」 「ないわよ。あんたに対して、あんたらに対して私は何の義務も義理もない」 「何故そう言える?」 「あんた達は私の敵だからよ。時間や人生という限られた貴重なリソースを奪い続けるただの敵。そんな奴らに何を説明してやる義理があるというのかしら」 「確かに、ぼく達は極めて厄介な状況に置かれている。互いを疎ましく思うことも当然ある」ぼくは自分がかつてなく冷ややかな目をしていることを自覚した。「だがだからこそ協調と秩序が必要なはずなんだ。人格が六つあるという『この状況』を今後どう扱うにせよ、『この状況』がいつまで続くにせよ、日々を生き延びる為に今はやむを得ずとも結託せねばならないはずなんだ。それを妨げた君は看過しがたい大罪人なんだよ」 「そうかもしれないわね。で、だったらどうするの?」 「前に言っただろう? 天使様頼んで君を棺桶に封印させてもらうのさ。今すぐにね」 「待て。それは反対だ」三浦は言った。「そいつからはまだ何も聞き出せていない。棺桶に入れるのは時期尚早だ」 「そ、そうですよ」二葉が声を震わせた。「第一、四季さんが犯人だとして、封印は本当に必要なことなんですか? 一緒に罪を償いましょうよ」 「もう、何言ってるの二葉さん」六花は彼女にしてははっきりとした声を出した。「一緒に罪を償うって何なの? みんなで刑務所にでも行くの? 三浦さんも。その人今すぐ封印しとかないと何するか分からないよ。また人殺すよ?」 「今すぐ尋問すりゃ良いだろうが。五木の推理によれば、『協力者』とやらがいる可能性が高いんだろう?」 「そいつはどうせ何も話さないさ」ぼくは言った。「話しても話さなくても封印は免れないのだから。これほどまでぼくらに敵意を剥き出しにしている以上、親切に自分の行動を説明してくれるとは思えない。それに」 ぼくは四季の方に挑発的な表情を向けた。 「協力者の目星はついている」 四季は息を飲みかけたようだが、すんでのところで表情を変えてしまうのは免れたようだ。 「あまりぼくを侮らない方が良い。確かに君の言うとおり、ぼくの持つ思考力は所詮虹川一子の能力の一部さ。だがそれにしたって、それが誰なのか分からない程に鈍くはないのさ」 「どちらにしろ、現時点で四季を封印するのは不可能なはずです」二葉は口を挟んだ。「誰かを封印する為には過半数の票が必要ですが、今賛成に投じられた票は二票だけですから」 「そうでもないさ」ぼくは唇を鋭く持ち上げて、居直ろうとする四季に言う。「現在投じられた票は賛成2で反対2だ。そして四季、君だって投票権を失った訳じゃない。キャスティングボードは他でもない君自身が握っている。さあ決断してくれ。君は君自身を今すぐに封印することに、賛成かな? 反対かな?」 四季は屈辱をこらえるように歯噛みした後、覚悟を決めたように目を反らした。そして言ってのける。 「賛成ね」 酷く退廃的な表情を浮かべていた。 「そう言うと思った」ぼくは勝ち誇った。 「本当に忌々しい奴ね、あんたは」 「四季さん……どうして」二葉は目に涙を浮かべている。 「あんたらと同じ空気を吸うくらいなら消滅した方がずっとマシ。まあ、消えられる保証はないみたいだけど、最低限度深い眠りが保証されるのならね」四季は首を横に振った。「あんたもさっさとそうしたら? ずっと嫌な思いをすることばかり肩代わりさせられて、正直参っているでしょう? あんたが眠りを望むなら、それを叶えるのに一票投じてやったって良い。五木の奴も投票してくれるでしょうから、それで楽になれるわ」 二葉はそれに答えずに、涙を拭いながら最後の言葉を告げる。 「あなたの絵はとても上達していました。本当にすごいです」 四季は微かに面食らったような表情を浮かべたが、最後には笑顔を作った。 「ありがと」そして大きく腕を上げ、伸びをする。「ああ。ようやく静かに眠れるのね、私。良い気味だわ」 息を吐きだす。 「せいぜい頑張りなさいよあんた達。心の底から疎んでいるけど、かと言って、別に軽蔑していた訳でも嫌っていた訳でもない。あんたらは私自身だけれど、愉快でおもしろい奴らだと思ってたわ。本当よ。……じゃあね」 手を振った四季のその表情には、確かな安堵があるようにも見えた。 〇 4 〇 四季は最後の最後まで抵抗しなかった。 ぼく(五木・第五人格)にとって、それは意外なことでもなんでもなかった。全員で城を出て山を登る時も、天使様に出して来て貰った棺桶を前にした時も、四季は命乞いなどしなかった。その表情は心安らかですらあり、その振る舞いは覚悟を決めたような堂々としたものだった。 「……どうして、四季さんは自分を封印することに賛成したんでしょうか」 二葉が首を傾げた。ぼくはいつものように無視しようとしたが、ふと思い直して返事をしてやった。 「自分の口を封じたかったんだろうさ」 「どういうことですか?」 「あの絵を描いたことを君に看破された時点で、彼女の目的は、自分の身を守ることではなくなったということさ」 ぼく達は山を降りるところだった。森と土の匂いのする山道は冷ややかで凍えそうな程だった。空は常に暗闇に覆われていて月も星もない。山にはぼくらの他に生き物はおらず、木々はそこにあるだけで伸びもしなければ枯れもしない。ただ時折吹いて来る乾いた風に、しなるような音を発するだけだった。 「……といか、五木さん。今はわたしと話してくれるんですね」二葉が嬉しそうというよりは、むしろ不安がるような声を発した。それがいつまで続くか伺っている様子だった。 「そりゃそうさ。四季がいなくなった今、嫌が応でも、君達はこのぼくの指揮系統に入るのだから。いくら何でも、すべてのコミュニケーションを排除する訳にはいかないだろうさ」 「どういうことだ?」三浦は低いだけでなく剣呑な声を発した。 「これからはぼくがリーダーでありホストだ。言うことには従って貰う」 三浦は忌まわし気な表情で、二葉と六花は目を丸くしてぼくの方を見詰めた。 「不満かな?」 「四季がホストだった時も、俺達は別にあいつ一人に従っていた訳じゃない」 「だが彼女が一番大きな発言力を持っていたし、そのことに皆納得していたはずだ。彼女が自分のことを暫定的にでもリーダーと称する際、誰も文句を言わなかっただろう?」 「言わせておいただけのことだ。俺達は対等な存在で、特定のリーダーを必要とする訳じゃない。おまえの意見が正しい時は従うが、それは四季の時と変わらない」 「暫定的にでもリーダーを決めておかないと、議論が紛糾した際にまとまらないぞ? ただでさえこれからは偶数人数でやって行くのだから、何もかも多数決で決める訳にはいかないだろうし」 「いなくて良いよリーダーなんて」六花が言う。「四季ちゃんがリーダーぶってたのも、単に声が大きいから成り行きでそうなってただけなんだし。うざいのがいなくなって、やっと対等になったくらいに考えようよ」 皆絶句した。この大人しくて暗い、無口な部類である少女がこうも露悪的なことを言い出したことに、皆驚きを覚えたのだ。 「おい。口に気を付けろよ」三浦が苛立ちを露わにした。「いなくなった奴の悪口はダメだ」 「でも。あの人は『あたし達』の身体を使って人を殺してたんだよ? どうして悪く言っちゃいけないっての?」 「あいつが人を殺していたのは事実なんだろうが、そのことと『一子』にとってのあいつの功績は別だ。うるさい奴だしムカつく女だったが、奴なしには俺達はまとまらなかったと思う。奴の力失くして『一子』が生きていけなかったのもまた確かだ」 「実際、四季さんなしで明日から学校とかどう乗り切るかを思うと、大変そうですもんねぇ」二葉は他人事のように言った。「もし五木さんが友達にいじめられたりしたら、遠慮なくわたしを頼ってくださいね。代わりにいじめられてあげますからっ。いつでもウェルカムです!」 こんな奴に頼るつもりは毛頭なかった。むしろ極限まで出番を減らしてこの城の中に閉じ込めておいてやるつもりだった。 「それより五木くん。分かったんでしょ? 協力者。誰?」 六花の問いかけに、ぼくは思わせぶりに小首を傾げて見せる。 「さあ。誰だろうね」 「やめてよ。そういうもったい付けるみたいなの」 「正直に言うとまだ予想の段階なのさ。ほぼ間違いないとは思ってはいるが、それでも確証を得られるまで、少し待ってくれ。調査をする。……と言っても」ぼくは肩を竦める。「下手にちょっかいを掛ける必要はないかもしれないね。仮にそいつと接触するのだとしても、対決という形は避けるべきだ」 「どういうこと?」 「この事件は既に終わっているじゃないか」 犯人の目的はぼくらに謎を解かせ、六枚の絵を見せ付けること。それはもう終わったことだ。 他に狙いがあるのだとしても、少なくとも一端の区切りが着いたと見て、間違いはない。 「だから犯人を打倒する必要性はぼくらにはない。そいつとはそもそも共犯関係なのであって、事件の隠蔽という意味では、むしろ協力すべき間柄だよ」 「だからって文句の一つも言わないのか?」と三浦。 「それが合理的だよ。どう考えても仲良くするべきなんだ、そいつとは」 ぼくは言った。心の底から。 月曜日の朝だった。 ホストとして最初の朝を迎えたぼくは、四季が要したのの半分以下の時間で身支度を整えると、両親との食卓に向かった。 「おはよう。一子」 いつものように(あくまで四季の描いた申し送りによれば、だが)先に食卓に着いていた父親が言った。ぼくが席に着いて頬杖を着いていると、そいつは窘めるような表情で柔らかな声を掛けて来た。 「おいおい。挨拶を返してくれないのか。今日は機嫌でも悪いのか?」 「別に」ぼくは首を横に振った。「ただ、挨拶という行為に意味を見出せなくて……」 そう言って見せてから、ぼくはふと自分の過ちに気付いた。四季なら父親にはちゃんと挨拶を返すはずだ。何もかもあいつと同じようにするつもりはないし、またそれは不可能なことでもあるのだが、だとしても学費や生活費を見て貰っている身分、両親との関係を麗しく保っておくことにメリットはある。 「おはよう。お父さん」ぼくは半ば棒読みで言った。「いつもと気分が違ったんだ。気にしないでおくれ」 好感度を稼いでおくことで周囲から得られる利益を確保する。ホストの重要な役割だ。 父親はぼくの様子が普段と違うことに気付いたようだが、特に何も言わずにテレビの方に目を落とした。ぼくらの『気まぐれ』はこの両親にも浸透しているので、ある程度は大目に見られることだろう。それも計算づくだ。 食事を取り終えるとすることがなくなった。四季はこの時間もごちゃごちゃ化粧台の前で身繕いに熱心なようだったが、五木体制にそのような時間の浪費はない。すぐに鞄を持って学校に向かった。 いつもより早く登校したぼくは、早速教材を開いて一日の予習をし始めた。元々担当していた理数科目はともかくとして、四季に担当させていた国語と英語に関しては学習の余地がある。徹底的にやる。遠からず二葉が担当する科目も奪ってしまうつもりでいた。勉強に時間を注ぎ込めるのなら、ずっと前からしてやりたかったことだった。 学ぶのは楽しいことだ。自分の為にもなる。今後の一子の人生を円滑かつ豊かなものにしたければ、知識や教養は欠かせない。たくさん勉強して、賢くなるのだ。 そんなぼくの気合に水を差す者がいて、それは四季の級友達だった。早く来て勉強しているぼくに気付くと、まとわりついて話し掛けて来た。 「うわ。一子ったらこんな朝から勉強してる」面白がるような、何なら蔑むような表情を浮かべるのは、確か柏木とかいう女子だった。「一子ってそんなテストの点ヤバかったっけ? つうか芸大志望なんでしょ? 五教科とかテキトウで良いって言ってなかった?」 「人の努力に水を差すのはやめたまえ」ぼくは不機嫌を隠さずに言った。 「うわっ。何その喋り方。ウケるっ」柏木はぼくが冗談でも言っていると思っているようだ。 いい加減に煩わしくなったぼくは完全無視の構えを取ることにした。柏木は困惑した態度を浮かべたが、やがてその困惑は怒りとなって、ぼくの振る舞いを咎めるようなことを言い始めた。だがそんなことはぼくにとってはどうでも良かったので、やはり無視し続けている内に、ホームルームの時間となった。 教師からの伝達事項を漠然とアタマに入れながら、傍らでは今後の方針をアタマの中で組み立てていた。 まず基本となる五教科についてはすべてぼくが担当する。直観像素質者と思わしき二葉に暗記科目を担当させるという四季の指針は、ぼくの好みではない。丸暗記することは真の知識とは言えないからだ。その他の授業は他の人格のガス抜きに使っても良い。三浦は体育を、六花は家庭科あたりを割り当てればそれなりに喜ぶだろう。 授業の合間の休み時間中も、ぼくはやはり自己修養に時間を割くことにした。ぼくがどれだけ言っても四季は授業中と課題を片付ける時間以外、勉強に費やすことをしなかった。そんな状態で高校三年生にまでなってしまったぼくらの教養は、耐えがたい程に稚拙なものだった。最早時間は一秒でも無駄にすることが出来なかった。 昼休み。一緒に昼食を採ろうと近寄って来る連中を無視して、ぼくは一人で机に着き続けていた。 「ちょっと一子。あんたどうしたの?」柏木が心配でもするように言った。「いつもの気まぐれにしたってさ、いくら何でもずっと無視は酷いんじゃない?」 「うるさいよ」ぼくは苛立ちを露わにした。「君らのような痴愚魯鈍とは違ってね、ぼくは自己修養に忙しいんだ。放っておいてくれたまえよ」 「何。『くれたまえよ』って。ウケる」柏木は嘲るかのようだった。「そんな急に勉強ばっかりして……いったい何を目指してるの? バカみたい」 「君が一人で堕落するのは勝手だが、他人の努力に水を差すのはやめたまえよ」 「ガリ勉に目覚めるのは良いけどさ。そうやって友達をないがしろにするのはダメなんじゃない? 集中したいだけなんだったら、普通にそう言えば……」 「誰がぼくの友達だって?」ぼくは鼻を鳴らして肩を竦めた。このあたりではっきり言って置いた方が良い。「悪いがぼくの方は今後、君達との交流は断絶させてもらうことに決めたんだ」 ぴりりとした空気が流れるのが分かった。柏木は「は?」と顔を顰めて、剣呑な表情になってぼくを睨んだ。 「一子。今あんた、何て言った?」 「言った通りの意味さ。どう考えても、君との交流を持続するメリットは、ぼくにないからね」肩を竦める。「時間の浪費というものさ。放課後の貴重な時間を学問や絵に使わずに君らとつるんだり、増して休日を半日潰したりするのは。これまでに無駄にして来た時間の総量を思うと本当にぞっとするよ」 「……本気で言ってる? ねぇ、一子、あたし達、友達だったんじゃないの? 一子の気まぐれは知ってるけどさ。後から謝って来たってあたしは許さないよ」 「許さなかったら何だというんだ? ぼくに危害を加えるつもりなら……」 「もういいっ!」 柏木はあからさまに音を立ててぼくの前から消えて行った。 うるさいのがいなくなって済々した。ぼくは気分良くペンを一回転させ、勉強を再開した。 放課後も無駄なことに時間を使わずに勉強を続けた。美術予備校のない日だったのでたっぷりと出来た。こんなにも猛烈に勉強できたのは始めての経験だったので爽快だった。結局、一日中ぼくがコックピットに座っていた。 翌日。起床したぼくは両親には最低限の礼節を払いつつ朝の時間を過ごした。両親と会話をしながら朝食を採るのが面倒だったので、この時間は六花あたりに回しても良いなと思った。 早めに登校して机に着いていると、柏木が仲間を連れて絡んで来たので、ぼくはげんなりとした。 「ねぇ一子。あんた、ちょっとこっち来なよ」 学校は勉強をするところの割には環境が良くない。一つの環境に押し込められた子供という子供は猿のようにはしゃいだり威嚇し合ったりで、とにかく鬱陶しい。朝早く学校に来て勉強するくらいなら、起床時間をずらしてその分夜勉強した方が良いかと考えていると、柏木はいきなりぼくの胸倉を掴み上げて来た。 「何のつもりかな?」 「良いから来なよ」 「今勉強しているから後にしてくれたまえ。それと、本当に大切な用があるのなら、そんな乱暴なことをせず冷静に対話を」 柏木はぼくの頬を平手で打って来た。 唐突な暴力にぼくは驚いた。四季の申し送りを見る限り、こいつはそこまで乱暴な人間ではないはずだった。確かに中学時代はいじめっ子だったとか、高校二年生の時に上級生と揉めて喧嘩沙汰になった経験があるだとか、そういう話は聞いていた。だがだとしても、こんな風にいきなり人の頬を打って来るなどと予想が付かなかった。 「良いから来い」 低い声を浴びせられる。思わず抵抗する気勢を削がれてしまうが、しかし黙り込んでやり過ごそうなどというのは軽蔑する二葉の態度に近い。ぼくは反骨精神を込めて口先を弄する。 「おいおいこんな教室の真ん中で暴力を振るうとは良い度胸だな。これは教師に報告させて貰わなければならないね。その上ぼくをどこかに連行してさらなる暴力を振るおうというのなら、然るべき報いがあることを覚悟してもらわなければ」 柏木はさらにぼくの頬を打った。 「待ちたまえよ。この程度の損得勘定も出来ないのか。君は本当にヒトか? 殴れば殴る程自分が窮地に陥るということくらい、冷静に考えれば」 柏木は黙ってぼくの頬を打った。 「おい待てよ。話を」 柏木はぼくの頬を打った。 「おまえ。ふざけ」 柏木はぼくの胸倉を強く掴んで教室の外まで引っ張り出した。ぼくは気力を失くしていた。こうも愚かさを剥き出しにされればどんな言いくるめも通じない。そもそもぼくは別に人を言いくるめたり説得したりするのに適した人格じゃない。それは四季が担当していたし、その四季はもうぼくらの城にいなかった。 近くの女子トイレに連行されたぼくは柏木によってタイルの上に突き飛ばされた。 「なあ一子! おまえいい加減にしろよ!」柏木は怒鳴る。「もういいよ! おまえの気まぐれにはもう付き合ってられない。そんな態度取り続けるのなら、こっちだって本当に友達だって思わなくなるよ? それで良いの?」 柏木の背後には取り巻きのように複数人の女子がやり取りを見守っていた。その全員が柏木に同調するかのように頷き、ぼくの方に冷ややかな視線を注いでいた。ぼくは声を震わせながら、その全員に虚勢で声を返した。 「だから何度も言っているだろう。ぼくは君達とはもう関りを持ちたくな……」 「うるさいよ!」 柏木は再びぼくの胸倉を掴み上げた。その目には何故か涙が浮かんでいた。 「ねぇ一子。正気になってよ。いつもの楽しくて優しい一子はどこに行ったの? なんでそんな酷い態度ばっかり取るの? それとも本当にあたしのこと嫌いになった?」 怒りと不安と悲しみがないまぜになったようなその表情に、ぼくはどう対処して良いか分からなくなった。このまま拒絶を続ければ、こいつらとの縁を切るというぼくの目的は達成されるだろう。だがその代わりにどんな目に合うのかは、まるで予想が出来なかった。 思わず黙っているぼくに、柏木は「なんとか言えよ!」と怒鳴り声を浴びせかける。思わずすくみ上がり、ぼくは何も言い返せなくなる。 胸倉を掴まれる不快感と、敵意を発散させる相手に睨まれている恐怖心とで、ぼくは耐えがたい苦痛を覚えた。いっそのこと二葉に肩代わりさせようかとも思い掛けたが、それでは問題が拡大することすら考えられた。あいつならどんな目に合おうとこの場をやり過ごしはするだろうが、その後の学生生活をこの猿共に委縮しながら過ごすことを余技なくされかねない。 なら三浦の方を出すか? それは多大なリスクを伴う判断だった。奴を出して良いのは事後の隠蔽行為が容易な状況か、正当防衛を主張できる状況に限られるはずだった。確かに三浦ならば目の前のこいつらを容易くやり込め、恐れさせることが可能だろう。だがそれは一歩間違えれば、学校を退学になりかねない危険も孕んでいる。 「なんとか言えよ! なあ! 何とか言えったら? どうすんの? 一子、ねぇ、あたし達とおまえ、今後どうすんの?」 どうする? ぼくは自分達の持つ矛と盾とを比較した。それは一子の中にある強さと弱さであり暴発と忍耐であり闘争と屈従であり弱さと強さだった。その両方が一人の人間が生き抜くのに必要不可欠なものだったが、しかしぼくらの持っているそれらは、どちらも一個の人格が備えるには歪な程に大きすぎた。簡単に振りかざして良い代物ではないはずだった。 「どうすんだって言ってるんだよ一子! 早く決めろよ!」 悩んだ末、ぼくが手に取ったのは矛だった。 〇 目覚めるなり、汚い唾を飛ばしながら吠える女の顔を殴り飛ばす。まるまる一秒間は浮遊した柏木は、トイレの洗面台にアタマを強打した後、泡を吹いてその場で仰向けに倒れた。 「……なんてこった」俺(三浦・第三人格)はアタマから流血する柏木を見下ろして、吐き捨てた。「四季がいなくなって二日でこれだ。この程度の状況で、簡単に俺を出してどうすんだよ」 四季がいればこんなトラブル早々に引き起こしはしなかった。起こしたとしても舌先三寸を用いて最小の被害で切り抜け、俺を呼ばずに済ませられたはずだった。五木のホストとしての性能は酷かった。実際のところこうなることは分かりきっていた。二葉は自分が代わって誰かからの攻撃を受ける覚悟をしていたようだし、俺はもちろん代わって誰かを殴り飛ばすことを予感していた。五木では四季の代わりにならない。だがそれは他の誰が担当しても同じようなものだっただろう。早かれ遅かれ俺達はこのような状況に陥っていたし、だがらこれは避けられないことだった。 「カッシー!」叫んだ女生徒の一人が血を流す女に駆け寄った。「カッシー、ねえ大丈夫? ねぇ、ねぇったら……」 「ねえ一子! あんた何してくれたの? こんなに強く殴る必要がどこにあったっていうの?」女生徒の一人がそう言って俺に詰め寄った。俺は黙ってその女を張り倒した。吹き飛ばされた女は横向きにタイルを転がった。骨を折ったりしないよう手加減こそしたが、床に叩き付けられた痛みで起き上がれなくなったらしく女は芋虫のようにもがいていた。 蜘蛛の子を散らすようにその場を逃げ出さんとする女生徒達に回り込み、俺はトイレの入り口に立ちふさがった。女生徒達は竦み上がった様子でその場に硬直し、何人かは涙を流し始めた。 さてどうするか。こいつらに凄んで見せれば口を封じられるだろうか? 暴力で脅せばすべてが都合の良いように転がるだろうか? それは常には上手く行くことではないし、実際に何度となく失敗して来たことでもあった。だがどういう時に成功して失敗するのかを見極める能力はなかったし、そうでなくともそもそも俺は他に方法を知らなかった。 「なあおまえら。余計なことを言うなよ」気が付けば俺はそう言っていた。「余計なことを言わなきゃおまえらには何も起きない。それが利巧な選択だと心得ろ」俺は一人一人の肩や胸倉を掴みながら凄んで見せ何人かは腹を数発殴って見せる。そうすることで事態はより悪化し『一子』への被害はより拡大することは予想できたが、それでも俺はそうするよりなかった。それはある種の惰性であり習慣であり、呼吸をするように俺は最初からそうするように作られていた。 気を失っている柏木を除く全員を、トイレの外に出す。柏木に余計な口を利かないようどうにか言い聞かせるつもりで、そのか細い息を確認した。生きている。それどころか意識がある。俺は滾々と言い聞かせ始める。「おいおまえ。余計な奴に余計なことを言うなよ。そうすればおまえにだってこれ以上何も起きな……」 「何をしている!」教員らしき大柄な男が女子トイレの中に飛び込んで来た。「三組の虹川だな。おい! そいつから手を放せ! これ以上暴れるな!」 「うるせぇよ」俺は柏木を放り出して教員に向き直る。最早自分がどうなっているのかも分からないまま、俺はその教員に殴りかかろうとした。 その時だった。 コックピットの『電話』が鳴った。 誰かが掛けて来たようだ。俺は外の世界からコックピットの方に意識を戻して受話器を取った。 「なんだ?」「三浦さん。そっちどうなってます?」二葉だった。「おまえの知ったことじゃない」「わたしと代われませんか?」「おまえに代わって何になる?」「五木さんが怯え切った様子でわたしのところに来たんです。このままだと三浦さんが大暴れして、とんでもないことになってしまうかもしれないって」「だから?」「わたしと代われませんか?」「五木は自分からおまえでなく俺の方をコックピットに呼んだんだぞ?」「でも怖がってるんです。『一子』の人生が終わるかもしれないって怯えてるんです。泣いてるんです。可哀そうなんです。わたしが出て行って何もかもやり過ごせば、少なくとも今より状況が悪くなることはありません。任せて貰えませんか?」 「おい虹川! おまえさっきから一人で何を言っているんだ?」教員が言う。俺は舌打ちする。だから人前で誰かと『通話』するのは嫌なんだ。自分と自分で会話するのを聞かれるなんてぞっとしない話だ。「おまえ。アタマは大丈夫なのか?」「大丈夫じゃねぇよ」俺は吐き捨てる。「とっくの昔に大丈夫じゃない。大丈夫じゃないからこんなことになっているんだ。なあ。助けてくれよ」 俺はほとんど自棄になっていた。自分が追い込まれていることを、自分が一子全体を追い込んでいたことを強く自覚していた。俺にはそんなことしか出来なかった。そんなことしかできない自分が嫌だった。何故俺は俺達はこんな風なのかと深く嘆いた。 「あの。どうなんでしょう?」二葉は電話口で言う。「わたしが出た方が良いですか?」 「助けてくれ」俺は言った。「つらいんだ」 「分かりました。つらい時はいつだって呼んでください。助けます」 俺は受話器を置いてコックピットから逃げた。 〇 わたし(二葉・第二人格)は大人しく体育教師に連行されて行きました。 柏木さんは救急車で病院に運ばれて、おそらく大事には至らないとのことでした。アタマから血を流していたのも皮膚が裂けただけで、顔を殴った時に出来た打撲痕は深刻なものの後遺症の心配はないとのことです。他の方についても、それぞれ手当を受けた後数日で学校に復帰できる見通しなのだと聞かされました。 わたしは学校で先生から、警察署でおまわりさんからそれぞれ事情を聞かれた後、一泊だけして家に帰されました。 おまわりさんの取り調べは厳しいものでわたしは何度か泣かされました。家ではやはり両親から事情を聞かれました。そのすべてをわたしはひたすら俯いてやり過ごしました。 やがて話にならないと両親から溜息を吐かれた後、わたしは自室に戻されました。 学校からは、今のところどんな処分が下るかは分からないが、とにかく家で待機せよということのようです。退学を言い渡される可能性も、家裁送致の可能性もありました。 ですがそんなことは些細な問題でした。三浦さんの大暴れが起こすトラブルにもみんな慣れっこです。そんなことは何度も乗り越えて来たし、ここ数日わたし達の身に起きている殺人への関与という巨大な不安と比べれば、大したことがないはずでした。 それでも誰もコックピットに座りたがりませんでした。意識を持つことを嫌がりました。生きていることを嫌がっていました。 それは何故なのか? 明らかでした。四季さんがいなくなったからです。四季さんのいなくなった生活を目の当たりにして、四季さんのいないこれからの人生を想像して、皆それぞれに不安と苦悩を心に抱えていたのです。 こういう苦悩の時間をただ一人意識を持って耐え、他の皆がお城の中の自分の部屋で安らかに眠っていられるようにするのが、苦悩の管理者たるわたしの責務でありました。 考える時間はたくさんありました。決断する勇気を蓄える時間もたくさんありました。 やがてわたしは一つの決意を胸に浮かべて、それを伝える為に皆をお城の玄関前に呼び出しました。 「自首をするってのはどういうことだ?」 五木さんは咎めるような視線を向けました。 「言った通りの意味ですよぅ。わたし達は殺人事件に関わっています。おまわりさんにすべてを話して、四季さんがどうしてそんなことをしたのかを突き止めて、禊を果たすのです。」 白けたムードが流れます。委縮しそうになるわたしに、三浦さんが投げやりな口調で促しました。 「何でそう思うんだ? 言ってみろ。」 「わたし達には四季さんが必要だからです。わたし達は一人の人間が生きるのに必要な力を、五つの人格で分け合っています。その内の一つでも欠けてしまっては、虹川一子としての人生が成り立たなくなるのです。」 「困るのは確かだけどさ。四季ちゃんがいないと。でもそれがどう繋がるの。自首することと。」 六花さんが体育座りで言いました。 「わたし達が四季さんを封印したのは、彼女が殺人事件と関りを持っていると判断したからです。人を殺すような人をコックピットに座らせることは出来ないという理屈です。」 「それが何なの?」 「ですがわたし達には四季さんが必要です。」 「だから何なの?」 「警察に自首をして、四季さんと共に罪を償うのです。そして四季さんが反省して罪が贖われれば、四季さんは以前のようにコックピットに座れるようになると思うのです。」 「意味が分からない。」 「人は罪を犯せば社会で暮らす権利を失います。反省の為に刑務所に行くことになるのです。しかしそこで刑期を全うすれば再び社会に出ることが出来るはずです。四季さんだってそれは同じです。ちゃんと罪を償えば……。」 「だから、人を殺したのは四季ちゃんなのに、なんで無関係のあたし達まで刑務所行くの?」 「違いないな。」 五木さんはそう言って肩を竦め、両手を晒しました。 「君のその浮世離れした理想論もまた、多重人格の弊害なのだろう。現実的でシビアな感覚を持つことを他の人格に押し付けにしているから、君自身はそんな風に能天気でいられるという訳だ。」 鋭く指摘され、わたしは息が詰まります。 「とにかく自首は却下だ。四季がいなくなった分の穴埋めは大きな課題だが、それを埋め合わせる方法はいくらでもある。会議の回数を増やしてどうにか対応策を……。」 「四季さんの代わりなんていませんよ。」 息が詰まりながらも、わたしはどうにか、自分の決意を口にします。 「やはり、わたしは警察には行くことにします。そして四季さんを棺桶から解き放ちます。」 「……許可もなしに勝手に行くつもりか? 早まるなよ。」 三浦さんが眉間に皺を寄せてわたしを強く睨みます。 「ですが。このままだとわたし達、絶対にまともに生きていけないと思うんです。」 わたしは怯えつつも、全身の克己心をどうにか搔き集めて応答しました。 「もちろん。できれば皆さんを説得できれば良いなとは思っています。勝手な真似をして嫌われたり、無視されたりするのは嫌ですから。でも、それでも、わたしはこれが絶対に正しいと思いますし、皆さんの為にもなると思うんです。」 「そいつを棺桶に封印する。」 五木さんは冷たい声を発し、そして手を上げました。 「二葉以外の者は挙手をしろ。四票中三票で可決するんだ。」 「待て。こいつの役割は代替が利かない。下手をすると四季以上にだ。」 三浦さんがそう言うと、五木さんは悔しがるように歯噛みしました。 「二葉。おまえも早く撤回しろ。」 「わたしの決意は固いのです。」 「その決意は良い。何を決意しても良いし、何を主張したって構わない。だが身勝手な真似はするな。おまえの持つ発言力はあくまでも一子の四分の一だ。一子の一生を左右する決断は、おまえ一人じゃ下せないんだよ。その不文律を破るというなら、五木の言う通り、おまえのことは棺桶に封印するしかないんだよ。」 三浦さんはわたしの胸倉を強引に掴み上げます。そして竦み上がるわたしに、縋るような目線を向けながら、懇願と恫喝の混ざったような声でこう言いました。 「いいか。何があっても俺達を裏切るな。共に一子として生きていたいなら、裏切らないでくれ。」 わたしは黙り込みます。 「返事をするんだ。」 「……はい。」 そう答えるしかありませんでした。 〇 わたしは自室で一人膝を抱えて夜を過ごしました。 わたしを外に出しておくことを咎める意見も出ましたが、しかし結局、誰もコックピットに座りたがりませんでした。あれほど張り切っていた五木さんでさえもです。学校にも美術予備校にも行けず、四季さんのいなくなった自分達のこれからについて不安と苦悩を抱えながら、家で膝を抱える時間に耐えられる者は、わたしを除いて一人もいませんでした。 やがて朝日が昇り、それからも膝を抱えながら孤独と不安に耐え続けていると、携帯電話が鳴り響きました。 思わず手に取ります。 「一子ちゃん? 大丈夫?」 雪さんでした。 「つらいことがあったんだってね。心配になって電話したんだ。」 「雪さん……」 わたしは思わず息を飲みました。わたしを心配して電話を掛けてくれる人がこの世にいることに救われました。 「分かるよ僕一子ちゃんの気持ち。一子ちゃん何も悪くないもんね。分かるよ。ねぇ一子ちゃん、これから今言うところに来られないかな?」 「その、お気持ちは嬉しいのですが、今わたし自宅待機中で……。」 「無理にとは言わない。でも、これは別に下心って訳じゃないんだ。ただ、君に会って欲しい人がいるんだよ。」 「会って欲しい人?」 「僕の姉さんなんだ。セラピストをやってるんだけどさ、君のことを話したら、すごく興味があるって。」 雪さんはしなやかな優しさを纏った声で言います。 「一子ちゃんは今まで一人で頑張って来たよ。だけどそろそろ、誰かに助けを求めても良い頃だと思うんだ。姉さんならきっと何か、君の抱える問題を解決するヒントをくれるはずだよ。どうかな?」 わたしは雪さんの家に向かうことにしました。 雪さんの家は近隣の高級住宅街の一角にありました。ひときわ背の高い、屋根の大きなお洒落な住宅でした。庭には高級そうな外国車が数台停められています。内一台は、雪さんが予備校への通学などに乗り回しているものでした。 チャイムを鳴らすと雪さんが出ました。 「来てくれてありがとう。」 「いえ、こちらこそ。」 中は清潔で広々としていました。わたしの家も新しいお義父さんになって引っ越してから相当に広くなっていましたが、それを上回る高級ぶりです。 客間に案内され、ふかふかのソファの上でしばし待たされていると、雪さんは二十代後半程の女の人を伴って戻ってきました。 「これが姉さんだ」 とても綺麗な女の人でした。 流石は雪さんのお姉さんと言ったところでしょうか。髪は長く色が白く、瓜実のような面長な顔をしていました。くっきりとした眉をしていて、垂れ目がちの目元には涼し気な印象があります。しっかりと通った鼻筋と、桃色の薄い唇は羨ましくなる程でした。 「秋穂です。初めまして。」 秋穂と名乗った雪さんのお姉さんは瀟洒な笑みを浮かべて会釈しました。 「は、初めまして。虹川一子と申します。」 「いつも夏彦が面倒をかけてごめんなさいね。この子昔っから陰険で執着心が強いので、付き纏われたら本当に大変でしょう? 迷惑なようだったら、いつでも私に相談してください。」 夏彦というのは雪さんの名前のようです。『雪』という苗字がとても印象的な為、下の名前を意識したのはほとんど初めてでした。 「ちょっと姉さん。それじゃ僕がストーカーみたいじゃないか。」 その雪さんが不満げな表情で言いました。 「ストーカーでしょ? 部屋にこの子の写真一杯貼ってる癖に。」 「人聞きの悪いこと言わないでよ。違うからね一子ちゃん。隠し撮りとかしてないから。ちゃんと一子ちゃんのお友達にお金を払って譲ってもらったものだから。」 「別に結構ですよ。それで何か困るという訳でもありませんし、雪さんが嬉しいのでしたらそれで。」 わたしは微笑んで言いました。 「そこまで想っていただいている人に、日頃酷い態度を取ってしまっていることが、申し訳ないくらいです。」 「本当にそれで良いの? 夏彦は従順そうに見える大人しい子が好きだから、そんな態度取ってたらますます執着されますよ? 夏彦のことを遠ざけたかったら、一度しっかりと怒って見せることです。この子は相手が自分の思い通りにならないとなると、すぐに興味を失いますよ。」 秋穂さんは呆れた様子で言いました。 「いえそんな……わたし雪さんには、十分にきつい対応をしてしまっていると思います。」 「でもそれは『あなた』じゃないですよね?」 鋭い声でそう言われ、わたしは言葉に詰まりました。 「相手の目をあまり見ず俯きがちで、手は指先を絡めながら膝の上、たまに手遊びをする。脚はしっかり膝と踵を合わせて姿勢良く座る。表情は笑顔が多いけれど、笑いながら怯えていて、かなりぎこちない。夏彦から聞いた通りの仕草です。『あなた』が夏彦の好きな人格ですね?」 わたしは怯えていました。この人は明らかにわたしが一子の中の一人格に過ぎないことを見抜いていました。いくらセラピストの肩書があると言っても、どうして初対面でしかないこの人にいきなりそれを指摘されたのか、わたしは混乱していました。 「ちょっと姉さん。いきなりそういうのダメなんじゃないの?」 雪さんが焦った様子で言いました。 「じっくりと時間を掛けてまずは心を開かせるというかさ。そんな不意打ちみたいに確信に迫るのは、セオリーから外れる行為なんじゃないの?」 「素人は黙っていなさい。どう考えても、これ以上のアイスクラッシュはこの人に対して意味を為さないの。こんなにも他人に怯えているのに、心理的防御は試みず為されるがまま。これほどガードが低いのは何をされても受け入れて耐えられるからなんでしょうね。こんな人を相手に短期決戦を挑むのは、いくら何でも分が悪いわ。」 「そうだよ。一筋縄じゃ行かないんだよ。だったら何でそんな性急な真似をするかな?」 「時間を掛ける余裕がないからよ。暴走する守護者がいるなら一刻も早く問題を両親に伝えた方が良い。それに大事なのは私がこの人からどうやって問題を聞き出すかじゃない。この人にどこまで話すつもりがあるかなのよ。セラピストの肩書を聞いてここに来てくれたのなら、少なからずこの人にも、自分達の直面する問題について危機意識があるはずでしょう?」 秋穂さんはそこでわたしの目を見ました。 「ですから単刀直入にお願いします。」 秋穂さんはわたしにアタマを下げました。 「あなた自身が自分達の在り方に危機を抱いているのなら、一度他の方と話をさせていただけませんか?」 わたしは何も言わずに俯いていました。 「今、あなた自身は他の方とお話はできますか? 出来るのなら、出る気があるのかどうか聞いてみてください。出来たら守護者の方が良いです。ね『守護者』というのは、普段あなたに危機が迫った時、代わりに身を守ってくれる人格のことです。」 「あの。」 わたしは思わず尋ねていました。 「あなたはどうしてそこまで、わたしの、わたし達のことが分かるのですか?」 「夏彦から聞いたからです。あなたのことばかり考えてあなたのことばかり見ている内に、あなたの抱える問題の正体に気付いたのだとか。」 ……こう見えてバカではないのですよ。と、秋穂さんは雪さんのことを一瞥しました。 「喋り方や言動が気分によって変わることはあり得ても、目線や仕草はその人固有のものです。数日やそこらでそうそう変化することはありえない。手や指の位置、脚の組み方や姿勢、表情の作り方、そういったものが明らかに変化するとなれば、それは肉体を同じくするだけの全くの別人と取るしかありません。」 気付いたのは雪さんで、それが秋穂さんに伝わったということのようです。雪さんは申し訳なさそうに俯いていました。 「これでも画家を目指しているだけのことはあるのでしょうね。視覚的な洞察力は一丁前で。他の人には気分気まぐれで通せても、夏彦のことは誤魔化せなかった。……これで大したことのない腕自慢をやめて、自分がまだ若いことを思い出せれば、もう少しまともな絵を描けるはずなんですが。」 「僕の絵のことは良いだろう。それで、一子ちゃん。どうかな? 姉さんは不躾だけどとても信頼のおける人だ。何を話しても、一子ちゃんが望まない限り他人に漏らすことはない。他の人に代わって貰えないかな?」 実のところ答えは決まっていました。外的にも内的にも、わたし達は現状維持ではままならないところに追い込まれていましたし、禁を破ってでも他人の助けが必要なことは明らかでした。 そこに至るまでの道筋に大きな紆余曲折はあると思ってはいましたが、秋穂さんは単刀直入な物言いでそれを見事に省略してくれました。わたしは小さく頷きます。 「呼んでみます」 わたしは受話器を手に取って三浦さんに電話を繋ぎました。 〇 俺(三浦・第三人格)はコックピットを交代するなり目の前の女を睨んだ。 雪とその姉がいる。姉の方を見るのは初めてだった。 「……腕は胸の前か頭の上で組む。両足は開くか右脚を左脚の上に乗せる。拳は必要以上に硬く握る。視線は相手を威圧するかのように下から睨み付ける。……夏彦にちょっかいを掛けた子を暴力で遣り込めた人格ね。あなたが守護者なのかしら?」 「うるせぇよ」囀る女……雪の姉……に俺は低い声で言った。「てめぇ。どこまで分かってるのかは知らねぇが、余計な真似をすると良くねぇぞ?」「余計な真似とは?」「何があっても俺達のことを他人に話すな。それがあんたが平和に暮らし続ける唯一の方法だ」「あなた達の許可があるまで誰にも話すつもりはありません。それは約束します」「何があっても許可しねぇよ」 俺はそう言って鼻を鳴らしたが、雪の姉は特に気にした素振りも見せず、柔らかな声で続ける。 「あなたは自分達が抱えている状況をそのまま維持すべきだと考えているのですか?」「他にどうすることが出来る? 俺は消えたくない」「あなたは自分達の症状が人に知れれば、それが自分が消えることに繋がると考えているのですね?」「そうだろう。五木の奴がそう言っていた」 「イツキというのは?」「俺達の身内の一人だ。いけ好かない奴だが、アタマが良い」「人格にはそれぞれ名前が付いているのですね」「ああそうだ。ないと不便だ」「あなたの名前を教えてもらえますか?」「三浦だ。男は何故か苗字なんだ」「イツキさんというのは男性ですか? 女性ですか?」「男だよ」「五本の木と描くのですか?」「さあな。確かそうだったと思う」「名前に数字が入っているのに意味はありますか?」「あるぞ。主人格が『一子』だから、番号が名前に入るようになった。俺は三番目だ」「あなたがたまに暴れるのは、それがあなたの役割だから?」「そうだ」「あなたは強い?」「俺達の中では一番な」「人にケガをさせる時はいつもあなた?」「ああ。何人も病院送りにして来た。その所為で仲間に迷惑を掛けるが、俺はそういう役割だから仕方ないんだ」「人格にはそれぞれ役割がある?」「ある」「他の人格のすべてをあなたは知っている?」「ああ知っている。俺達みたいな奴で、お互いがお互いを把握していないなんてケースはあるのか?」「ありますよ。むしろ、その方が多いようです。百を超える人格があって把握しきれていなかったり、数はそれほどでもなくても互いの存在に気付いていなかったり、様々です」「へえ。そりゃ面白いな」 「あんたと話すと喋り過ぎるな」俺は忌まわしい気持ちで言った。「余計なことまで言ってしまいそうだ。いや、言わされているんだろうな。そういう奴と話すのは俺は苦手だ」 「では他の方に代わりますか? 先ほど話に出た五木さんですとか」 「あいつ次第だな。だが話したがるような気はする」 「聞いてみませんか?」 「そうすっかな」 俺はコックピットの受話器を手に取った。 〇 「やれやれ」ぼく(五木・第五人格)は肩を竦めた。「どうして話す羽目になっているんだか」 やはり二葉は余計なことしかしない。いつもそうだ。長子だとか言って、本来なら自分の裁量にないような決断をしたがるのだ。 「すぐに頬杖を突きましたね」雪秋穂は言った。「両肘を着いて、もう片方の手は開いて前に掲げている。脚は軽く開いて踵のところで交差させる。目線はフラットに、相手の目をしっかりと見る。あなたが五木さんですか?」 「そうさ。いちいち講釈をぶらなくても、あんたがぼく達の仕草を一人一人見抜いていることは分かっているよ」ぼくは言う。「いや、見抜いたのはあんたの弟だったか。痴愚魯鈍の類だと思っていたら、意外と洞察力があるもんだ」 「あなたはどういう役割の人格なの?」 「頭脳労働が担当だ。主に勉学、特に理系科目が得意だね。探し物や調べ物なんかも」 「他にどんな役割があるのですか?」 「二葉は苦痛の管理者、三浦は守護者、六花の奴は手先が器用だ。四季って奴も前にいたんだが、そいつはホスト役だった」 「どうして四季さんはいなくなったのですか?」 「それは答えられない。ぼく以外に聞いてもそうだと思うよ」 「今挙げた四人にあなたを加えた五人が人格のすべて?」 「そうだね。一子ってのもいて主人格なんだが、今は深い眠りに着いている。他に天使様ってのもいて、それはいわゆる保護者かな? 彼はコックピットに座ることはない」 「コックピットというのは?」 「ビリー・ミリガンでいうところの『スポット』さ」 「あなた達は普段どうやってやり取りをしているの?」 「アタマの中にぼく達の済む世界があって、その中にある城に住んでいる。コックピットはその城の中央さ。その中にいる間中、人格達は肉体を操れる。定員は一名」 「人格同士の関係性は良好?」 「仲良しこよしではない。とは言え、他の解離性人格障害の奴らと比べれば、遥かに協調出来てるんじゃないかな?」 「あなたは同じ疾患を持つ他の人達のことも調べているんですね?」 「図書館とかネットでね。服部雄一は一通り読んだ」 「『守護者』とか『苦痛の管理者』とか、そういう単語はそこから学んだんですか」 「ああ」 「名前に含まれる数字には何かルールがある?」 「生み出された順番さ」 「なら交代人格としては、二葉さんという方が最初に生まれた?」 「ああ。あんたもセラピストなら分かるだろうが、多重人格に至る経緯には似通った蛍光がある。肉体の人格は女性が多くて、ほとんどの場合幼い頃に酷い虐待を経験している。その苦痛を肩代わりさせる為に、最初の交代人格が作り出されるのさ。ぼくらの場合、それが二葉だった」 「二葉さんはどんな人?」 「余計なことばかりするアバズレさ。ぼくはそいつが疎ましくてしょうがないが、しかしこれが頼りになる時もたまにはあるんだな」 「六花さんはどんな人?」 「アタマの悪い子供」 「四季さんはどんな人だった?」 「思い出したくもないね」 「記憶の共有はあるのかしら?」 「直接はない。代わりに、申し送りというのを互いに描いて共有している。しかしこれには嘘が描けるのが困りものでね。実際のところは、他の奴の見てないところで誰が何をしているのかは分かったものじゃないな」 「あなたは症状を人に知られれば人格が消えることになると三浦さんに言ったそうですね?」 「解離性同一性障害の治療っていうのは、ようするに人格の統合だろう? 誰かを救済人格に立ててそいつを中心に一つになるんだ。それっていうのはつまり、ぼくという固有の魂が消滅することを意味する。そんなことはごめんだね」 「今のままで一子としての人生を生き抜けると思う?」 その質問は踏み込んだものに感じられたが、ぼくは正面から受けて立つつもりで相手の目をじっと見据えた。 「可能だよ。さっきあなたの質問に答えたように、ぼく達は他の多重人格者と比べて、遥かに協調できているんだ。秩序と役割を持って明日を生きる為の自己修養の努力もしている。精神医学の世界では解離性人格性障害は確立された疾患なんだろうが、患者本人が日々の生活に支障を感じていないというのなら、一セラピストでしかないあなたにとやかく言われる筋合いはないはずだよ」 「本当に生活に支障はないのですか?」雪秋穂はさらに鋭く踏み込んで来る。それは明らかにセラピストとしての職分を超えていたが、雪秋穂に迷いはないようだ。「三浦さんが人を傷付けるのは問題ですよね? 四季さんを失うことになったのにも、何もなかったとはとうてい思えません」 「いずれも乗り越えていける問題さ。医者や心理士は人格の統合を個々の魂の喪失ではないと説明するそうだが、それは他人事だから言えることなんだ。当事者のぼくらにしたら、そうそう割り切れる問題ではないよ」 「一つの肉体を、人生を分け合うのはつらくはない?」 「つらいよ。でも、今ここにいるぼくが消えるのよりは余程良いことだ」 「それは全員の共通認識?」 「おおむね。望んであんたのところに来たんなら、二葉が余計なことを考えている可能性はあるが、それはぼくが黙らせる」 「三浦さんは消えるのを怖がっていた」 「そうだろうね」 「六花さんはどうなのですか?」 「怖がっているだろう」 「その六花さんとお話させて貰えませんか?」 「ああ。いいさ」ぼくはコックピットの受話器を手に取った。「ここまで来たら全員と対決してもらおう。子供だからって、奴一人を仲間外れにするのは気が引けるしね」 〇 六花(第六人格)は秋穂の前に現れるなり不平を感じた。どうして他の人格がこんな女との面談を受け入れているのか疑問でならなかった。こんなことはあり得て良いことではないはずだった。 「あなたは六花さんですか?」 机の上に置いた指先で手遊びをしながら下を向いている、膝だけを合わせてバツの字を書くように踵同士の距離を開けているこの姿勢が、六花が六花である証左だった。だが秋穂はその点に気付きながら言及はしなかった。 六花は黙っていた。この女と話すことなどないと感じた。この女に上手く尋問されればあらぬことを口走ってしまいそうだった。 「警戒心が強いのですね」 「…………」 「他の人達は、わたしと話をしてくれましたが。……あなたがそうしたくないのなら、また別の誰かに代わってもらいましょうか?」 「いいえ」 六花は答える。そして立ち上がる。せっかくコックピットに座れたのだからやりたいことがあった。誰かに代わってしまうことは口惜しい。 「帰ります」 秋穂から背を向けて部屋を出ようとした際、雪夏彦が六花の手を掴んで来た。 「ちょっと一子ちゃん。帰っちゃうの? もう少し色々お話ししようよ。姉さんはきっと君の力になれるはずだよ」 「やめなさい夏彦」 秋穂が落ち着いた声で言った。 「姉さん。でも」 「帰してあげましょう。人格にはそれぞれの考え方があるの。それを尊重してあげるべきだわ」 「他の奴らはまだ姉さんと話したがってるかもしれない」 「でも今出て来ているのは六花さんでしょう? だったら行動の選択権は六花さんにあるはずよ。勝手な行動を咎められる可能性はあるけれど、それを含めて六花さん自身が判断するべきだわ」 雪夏彦は六花から手を離した。六花は軽く会釈だけを残してその部屋から去った。 家を出るなり六花はまず親友のビーちゃんに電話を掛けた。謝らなければならないこと、説明しなければならないことは無数にあった。 「もしもし。ビーちゃん?」 「今はベータではない」 受話器から声がした。 「アルファさん?」 「ああ。そちらは?」 「六花だよ。ビーちゃんと代わって」 「代わったよ六花ちゃん」 声の感触でビーちゃんが現れたのが分かった。ビーちゃんの家族は一つの部屋ですし詰めに暮らしているので、取り次ぎがスムーズなのだ。 「ひさしぶりだね。二回も約束の場所にいないから心配したんだよ」 「ごめんねビーちゃん。実はちょっとトラブルがあって」 「大丈夫だよ。六花ちゃんの苦労は良く分かるよ。それで、今は出て来られるの?」 「うん。あの、したいから色々説明。会える? 今から」 「大丈夫だよ。じゃ、いつもの公園に来てね」 「うん。じゃあ」 通話を切る。 六花はスマートホンを懐にしまって、予備校近くの公園に急いだ。 早くしなければならない。仲間の誰かが異変に気付いて、コックピットの電話を鳴らす前に。 〇 ビーちゃんは先に公園で待っていた。 六花が現れたのに気付いてビーちゃんは無邪気な笑みを浮かべた。手を挙げて嬉しそうに立ち上がるその姿には歓迎の意思が満ちていた。約束を二度も破ってしまったことで嫌われたのではないかと危惧していたが、それは杞憂だったようだ。向こうからそれを態度で示してくれるビーちゃんのことを、六花は改めて好きだと思った。 「ごめん約束破って」 「良いんだよ。実はアルファから聞いて事情は知ってるんだ。学校で暴れて予備校にも来られなくなってるってね。こうして会えて何よりだったよ」 ビーちゃんは笑顔を絶やさない。心底から六花と会えることを喜んでくれている表情だ。 「それで、上手く行った?」 「うん。最終的に、ビーちゃんの狙い通りになった」 「そっか。じゃ、六花ちゃんと会える回数が増えるね」 「それは分かんないかも」 「そうなの?」 「うん。四季が消えてから五木が調子に乗り出した。学校終わってもずっとがり勉ばっかしてる。これじゃ前の方がまだマシだったかも」 「そっか。じゃ、またなんか計画考える?」 「そう何度も上手く行くのかな? でもそれよりも、実はちょっとまずいことになってる」 「まずいこと?」 「うん。二葉が自首しようとしてる」 そう言われ、ビーちゃんは目を丸くして口元に手をやった。 「一番上のお姉さんだっけ?」 「うん」 「六花ちゃん達の盾なんだよね?」 「うん」 「困ったな。あーしも同じ役割だから分かるんだけど、苦痛の管理者の意見って最後の最後はなんだかんだ尊重されがちなんだよね。一番大変で過酷なポジションだし、長子なことも多いから」 「二葉はそう言うんじゃないよ。どっちかっていうといじめられてるというか、雑に扱われてる感じだし」 「でも一人でも自首とか言い出したらまずいんじゃない? コックピット? っていうんだっけ、そっちは。とにかく身体の操縦権握ってる時に証拠持って警察署に行かれたら……」 「そうなんだよ確かに。皆で止めてるんだけど、いつまで大人しくしてるか分からない。勝手なことばっかりするんだ二葉は、自分が長子だからって。だから、まずいかも」 「うーん……。困ったね、それは」 ビーちゃんは弱ったように眉を歪めて、小首を傾げて口元で何やら呟き始めた。 「ちょっと皆に相談してみて良い?」 「いいよ」 六花は答えた。六花はビーちゃんを信頼していた。何がどういう風に転んでも自分にとって悪いようになるとは思えなかった。ビーちゃんが自分を守ってくれるし、何もかも自分の都合の良いようにしてくれるはずだと信じ切っていた。 「聞いてた?『ああ』どうしよう?『イプシロンに口を封じさせましょう』お友達だよ?『あなたにとっては』皆の恩人じゃないの? いーちゃんもやりたくないよね?『ぼくはデルタに言われたとおりにするだけなので』」 ビーちゃんは口元でぶつぶつと何かを呟いている。一言発する度に口調と声音が変化するその様子はまさしく一人芝居だが、六花はそれがふざけている訳ではないことを知っていた。ビーちゃんは確かにビーちゃんの内側にある声と対話していた。 「『捕まったら絵が描けない。やりなさい』『分かった。じゃあやるよ』口を封じる以外に捕まらない方法はないの?『口を封じるのが一番安全です。他の手段を講ずる合理的な理由は我々にはない』『だが恩人であるというベータの主張にも一理はある』そうだよ。『父を殺してくれたことですか? そんなのはイプシロンが……』」 ビーちゃんは徐々に徐々に興奮したように声を大きくしていく。目線は焦点が合わずに不規則に揺れ、痙攣するように小刻みに動く手足は、複数の意思によって同時に動かされているかのようだった。 「ガンマも何か言って。『やややだよ』なんで?『ぼぼ、ぼくがなんか言ったって、いい一度もききき聞いて貰えたことない』そんなことないよ。あーしはガンマ好きだよ。頼りになるもん。『そんな奴に何を判断できるんです?』ちょっとデルタやめて。『そんな奴は部屋から出してしまいましょう。二度と窓に近付けさせてはいけません』ちょっと。『落ち着くんだ。これは重要な問題だ。俺達だけで判断することはできない』」 ビーちゃんの身体が震え始める。 「『先生を呼べ』先生? ちょっとアルファ正気?『ことこの状況に至っては、あの方に決めて貰うしかあるまい』しょうがないのかな?『そうです。先生を呼びましょう』『先生の言うことは絶対』『先生ならいい良いや』『そうだ。窓に向かって叫べ。先生を呼び出すんだ。先生を。俺達の先生を』分かったよ。今すぐ呼ぶね」 立ち上がり、拳を握りこんでビーちゃんは声を張り上げた。 「先生!」 木霊が返って来そうな程遠くまで響き渡る声だった。声の余韻が完全に消えるまで数秒の時を要した。しばしの沈黙の後、ビーちゃんは返事を待つように目を閉じた後、残念がるような表情でその場で項垂れた。 「ごめん六花ちゃん。無理みたい」 「無理って何が……」 「先生が言うんだ。六花ちゃんを殺して口を封じなさいって」 ビーちゃんは懐から拳大の危惧を取り出した。黒い取っ手に、銀色の筒状の金属が付着している。 「ガンマと代わる前に、最後に伝えておくね。今まで仲良くしてくれて、本当にありがとう」 その言葉を最後にビーちゃんの表情は消えた。愛嬌を伴ってくりくりと動いていた両目は途端に輝きを失って、ガラス玉のような空虚さに変化する。 ガンマだ。六花は恐怖してその場を逃げ出そうとしたが、ガンマはすぐに追いついた。六花のことをたちまちその場に組み伏せて、首筋に器具を押し当てる。 電流が走った。骨が砕けるような痛みに六花は悲鳴を上げることも出来ずに、全身の力を失った。辛うじて意識はあったが混濁したように曖昧で、天も地も分からないままひたすらその場に伸びていることしか出来なくなった。 「『れ……んま』」 ガンマの口元から声がする。 「『代われ……ガンマ。おまえに任せておけるのはここまでだ』」 肉体年齢相応の低い声は、すぐに拗ねた子供のような甘えた声音に変わった。 「そ、そ、そうやっていつもぼくを窓から離す。『すまないな』いいもん。か、代わるね」 そして六花の身体は抱えあげられる。最早六花は自分を抱えているのが誰なのかも分からない。いずれにせよ、公園の前に止められているビーちゃん達の車に運ばれるのは間違いなかった。六花は絶望を感じた。親友に裏切られ殺されることに恐怖した。その時だった。 「こらーっ! 待て鈴木! 一子ちゃんに何をしている!」 上ずったような間抜けな声音だった。 「一子ちゃんに不埒なことをしようと言うなら、この僕が許さないぞーっ!」 雪だった。どうしてこいつがここにいるのかと考えて、四季から聞いた話を思い出した。こいつは自分達のストーカーで、公園で鈴木と逢引きしている自分達を、物陰から隠れて頻繁に観察しているのだと。 「この変態め。どこから見ていやがったんだ」 「一子ちゃんを守るために僕はいつだって見守っているんだよっ! とっとと一子ちゃんを離しやがれ! 警察呼ぶぞ! 警察!」 「ねぇ雪さん。通報なら啖呵切って飛び出す前に済ませておくべきじゃないですか。それにその物言いじゃ、あんたがまだどこにも連絡していないことがバレバレですよ」 ガンマだかアルファだか……とにかくいずれかの人格を表出させた鈴木唯人は、そう言って六花の身体を公園の地面に下す。そして手首を回しながら雪と相対した。 「あんた。何も考えずに出て来たでしょ。事態の深刻さ分かってます? 恰好付けられるチャンスみたいに浮かれてる場合じゃないですよ。あんたが出て来て勝てる訳もないのに、バカですよね?」 「勝てる勝てないじゃないんだよ。一子ちゃんが酷い目にあっているのに、戦わない訳にはいかないんだよ!」 「だから、本当に一子のことを守りたいんだったら、そんな考えなしに飛び出すべきじゃないってこと。バカで軟弱で大学も受かんない癖して肝心な時も役立たずってんなら、本当に救いようがないですよ、あなた」 「うるさい! 役立たずかどうかなんて、まだ分かんないだろ!」 雪は両手を振り回しながら鈴木唯人に殴りかかる。が、いつぞや四季が申し送りに描いていたのと同じように、あっけなく片手を掴み上げられてその場に組み伏せられてしまう。 「ぐぇえええっ。痛い痛い痛い! ギブ! 降参! 離して!」 「離す訳ないでしょう。まったく、ガンマに代わるまでもない」 「離さないと酷いぞ! 大声出すぞおまえっ。おまえこらっ! 大声出すぞおまえこら!」 「粋がって殴りかかる前に、最初っからそういうことしとくべきだったんですよ」 「もうキレたからな! 大声出すからな本当に! 行くぞ! すぅ……たーすーけーてぇええぐぇええええっ!」 雪の首元にスタンガンが押し当てられる。たちまち、雪は意識を失ってその場に倒れ伏した。 「……邪魔が入ったな」 徒労感に満ちた表情で鈴木唯人は言った。 「おまえらまとめて前の廃墟に運ぶ。まとめて口封じをさせて貰うから、覚悟をしておけ」 その言葉を聞き終えると共に、六花は公園の地面の上で意識を失った。 〇 5 〇 ……ザメヨ。 声が聞こえた。 ……メザメヨ。 私(四季・第四人格)は真っ暗な棺桶の中で目を覚ました。視界は暗黒に包まれており、ただ冷たい鉄の感触と錆びたような臭いがするだけだった。 決して居心地の良い空間とは言えなかったが、それでもそこは安らぎに満ちた場所のはずだった。コックピットに座り、日々の人間関係のやりくりに神経を使う必要もない。将来への不安も現状への憂いもすべて他の連中に押し付けにして、ここで目を閉じていればそれで済む。わたしはそんな安らぎを手に入れた、はずだったのに。 ……メザメヨ、シキ。メザメヨ。 棺桶の扉が開いた。途端、外の空気が棺桶の内部に侵食して来る。森と土の匂いと眩い星空の明るさと冷ややかな夜風が、私に降り注ぐ。 今の声は何だったのか? 声の主を探して私はあたりを見回した。そこは天使様の囚われている山頂の小屋の傍らしく、私の眠っていた棺桶の隣にはもう一つ、一子の眠る棺桶が設置されている。開かれた私の棺桶とは異なり、それはいつものように固く閉ざされていた。 「天使様?」 私は小屋に向かって呼んだ。 「天使様。あんたが私を起こしたの?」 返事はない。だが私は私の心にあんな風に話しかけ、棺桶から解放する存在に他に心当たりがなかった。天使様はこの精神世界でおおよそ全能の存在だ。これまでになかっただけで、ああして声を掛けて来ることがあり得ないという訳でもない。 「そもそもの話……『この世界』で何が起こってもおかしくないのは、天使様絡みに限ったことじゃないのよね」 私は呟いた。そうだ。ここはあくまでも一子の脳内の世界だ。一子の……私達交代人格全員の妄想が作り上げた空間と言って良い。誰の性格を反映してかその在り方には厳格なルールが存在するが、それでも妄想であることに違いがない以上、何が起こるかなんて誰にも分からないのだ。 私は一人山を降りて城へと向かった。 長い道のりを超えて城の扉を開けると、飽きる程見慣れた四つの交代人格達が、いつものようにバカ面を下げて玄関に集合していた。 何があったのだろうか? 見れば六花が膝に顔を完全にうずめて表情を見せないまま身を震わせており、それを五木と三浦が取り囲むようにして剣呑な顔を浮かべていた。二葉はそんな三人の傍に立って何やらおろおろした様子を見せている。 「……四季さん?」 その二葉が私に気付いて反応した。 「どうしてここにいるんですか? 棺桶に封印されていたはずじゃ……」 「あんたらが解放してくれたんじゃないの?」 「違います。あの、どういうことなんでしょう?」 「きっと天使様が気を利かせてくれたのさ」 五木が肩を竦めて私の方を見た。 「どっち道、こちらから解放しに向かうつもりだったんだ。手間が省けて助かったと言える」 「どうして私を解放する気になったのかしら?」 「真犯人が発覚したからさ」 「それってどういう……」 その時だった。 コックピットから大きなアラート音が鳴り響いた。城全体どころかこの世界全体に響き渡るような大音量のそれは、鳴る度に私達に激しい頭痛を齎すものだ。 この音が鳴り響くということは、眠っていた一子の肉体が強制的に覚醒することを意味する。自然に起床する際は私達の誰かがコックピットに移動してコントローラーの電源を入れることになるが、何らかの刺激によって叩き起される際はこの音が鳴る。肉体には強制的にスイッチが入れられ、誰かしらがコントローラーごとコックピットに瞬間移動させられるのだ。 今回は一体誰が出るのかしら? なんて思う間もなく私はコックピットへと飛ばされた。 さあ一体、何が起きているのか。 目を覚ますとそこは近所の廃ホテルだった。数日前に男の死体と共に目が覚めた、忌まわしい記憶が想起されるあの場所だ。 異常なことに、私の右手には金属の黒い手錠がかけられていていた。手錠の反対側はドアの筒状の取っ手に繋がっていて、それによって私はその場から逃げられなくなっている。そして私のすぐ隣、肩が触れ合う位置に雪がいて、耳が痛くなるような大声で喚き続けていた。 「誰かーっ! 誰かいませんかー! 誰か来てくださーい! 誰かーっ!」 キンキンとした高い声。男がどうしてこんな高くてみっともない声を出せるのか疑問なくらい、それは騒然とした喚き声だった。 「誰かー! 誰か来てー! おーい! おーいおーいおーい誰か! 誰かーっ! 助けてーっ!」 本当にうるさい。雪の腕には私と同じような手錠が嵌められていて、それが私と同じドアの取っ手に繋がっている。 「あっ。一子ちゃん! 一子ちゃん起きた? 起きた?」 雪は目に涙を貯めたおよそ頼りになるとは言い難い情けない表情で私を見詰めた。 「大丈夫だよ一子ちゃん僕がいるからねっ。僕がきっとこの異常な状況から助けてあげるからねっ。大丈夫だからねっ。ねっ!」 「うるさいよ!」 私はとりあえずそう言って雪を黙らせてから、状況を把握する為に黙考を開始した。 どうやらこの雪の大声で目が覚めたらしい。その所為でここ数日間棺桶に封印されっぱなしだった私が出る羽目になったという訳だ。忌々しい。 この状況も良く分からない。何故廃墟に手錠で繋がれているのだろうか? やがて足音がした。私達が繋がれているのとは別の扉から、唯人が現れて私達に近付いて来る。驚きと納得の入り混じった感情で呆然と見つめる私に、唯人は妙に女性的な仕草で手を口元に持って行き、奇妙な程にあどけなく小首を傾げた。 「目が覚めたかな? 助かろうとして大声出しちゃう気持ちは分かるんだけど、無駄だと思うな。こんな近くに山と水路しかない廃墟で喚いても誰も来ないし、そうでなくともこの建物は大きいからね。そうそう声なんて外に出て行かないよ」 「唯人さん! ねぇ、これどういうことなの?」 そう尋ねると、唯人は妙に間延びして高い声でと喋り方で答えた。 「仲間から申し送りは受け取っていない? 六花ちゃんからは、いつもそうやって他と記憶を共有してるって聞いたんだけど」 「確かにそうだけど、今回はそんな暇がなくって……」 なんて言いながら、私は唯人の言葉に違和感を覚えた。 「ちょっと待って。申し送りのことを唯人さんに話したのって、私でしょう? 六花から聞いたって……どういうこと?」 「あーしが申し送りのこと聞いたのは六花ちゃんだよ。あなたが申し送りのことを話したのは、アルファ」 「アルファって……何を言って」 「あーしはベータ。鈴木唯人の交代人格の一人で、苦痛の管理者なんだ」 そう言って、ベータと名乗った唯人はその場でぺこりとアタマを下げた。 「十二歳の女の子だよ。こんな大きな体で、口や腕や脛に毛も生えてて、おちんちんも付いてるけど、それでも正真正銘女の子なんだ。笑わないでね?」 「ちょっと唯人さん。これは一体何の冗談で」 「あんたも多重人格者なのか?」 口を挟んだのは雪だった。先ほどまでのようには取り乱してはおらず、冷静な口調だった。 「そうだよ雪さん。あなたに会ってたのはほとんどホストのアルファだから、あーしはお初にお目にかかる感じかな? 窓からいつも見てたけど……本当に美青年さんだね」 「おかしいとは思ってたんだ。あんたの絵ぇだけ見れば、まあまあ良い技術も知識も持っていそうなのに、講義の内容は無難っていうか正直ヘボいからさ。授業担当と絵を描く担当がそれぞれ別の人格だって言うのなら、納得が行く」 目の前で行われているやり取りに、私は困惑し続けていた。 唯人が多重人格者だった? そしてベータとかいう交代人格がいて、そいつは六花と既に会っている? しかも六花はそのベータに私達の秘密を話した? 「あなたはどの一子さん?」 ベータは尋ねた。 「四季よ」 「四季さんはもう封印されたってさっき六花ちゃんに聞いたよ?」 「でも四季なのよ」 「蘇ったの?」 「そのようね。気が付いたら棺桶の外に出てた」 「そっちの世界の封印は結構いい加減なんだね。こっちだと皆でバットとかナイフとかで動けなくなるまでグチャグチャにするから、一度消した人格は基本復活とかしないんだけどな」 剣呑なことを無邪気な口調で話すベータに、わたしは息を飲んで尋ねた。 「……ねぇベータ。街で人を殺して回って、私の身の回りに遺体の一部を置いていたのは、あんたなの?」 それは質問だったが実際のところ答えは分かっていた。交代人格の他の誰が分からなくとも、他でもないこの私だけは、強い確信を持って真相を捉えていたのだから。 「そうだよ」 ベータはこともなげにそう答えた。 「まあ実行犯はあーしじゃないけど。いやあーしも手伝いはしたよ? 発案者はあーしだし、計画立てるのにも口出しはしたしさ。でも実際手を下してたのはいーちゃん。イプシロンのいーちゃん。いーちゃんは人を殺す為に作られた人格なんだ」 「……なんでそんな奴がいるの?」 「お父さんを殺す為だよ」 ……殺せなかったけどね。とベータは困り顔で言った。 「実際にお父さんを殺してくれたのは六花ちゃん。この廃虚で最初に殺された鈴木宗孝ってのがいたでしょう? あれがあーし達の父親なんだ」 私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けていた。 あの男が……目覚めた六花の隣で寝ていた男が唯人の父親? 確かに苗字は鈴木だった。それについて議論も交わした。だが鈴木なんて苗字は有り触れているし、唯人の方にも変わった様子がなかったから、誰もその繋がりを疑わなかった。偶然の一致で済ませてしまっていたのだ。 そしてそれを殺したのが六花? 唯人と……唯人『達』と共謀して殺人を繰り返していた私達の中の背徳者が、あんな子供だというのだろうか? 「酷い父親でさ。家にいた頃は、毎晩毎晩あーし達の布団にやって来てあーし達を犯すんだ。それはあなた達のところの父親も同じだったんだってね。解離性同一性障害が発症するのは、たいていの場合家族からの肉体的か性的な虐待が原因っていうけれど、どこも事情はだいたい一緒なんだ」 「ちょっと待って。父親から犯されたって……どういうこと? あんた達は私達と違うでしょう?」 「何が違うの?」 「だってほら。あんた達はその、肉体の性で言えば、男で……」 「肉体と精神の性が不一致な人が存在するなら、父親なのに息子を性愛の対象に出来る人が存在しても、何らおかしくないんじゃないかな?」 「…………」 「オリジナルの、主人格の『鈴木唯人』はお父さんから受ける虐待に耐えかねて、苦痛の管理者であるあーしを生み出した。あーしが女の子なのは、お父さんに毎晩毎晩犯される中で、主人格のジェンダーアイデンティティに混乱があったからなんだろうね。男の人が男の人にレイプされ続けたら、自分が男ってことが揺らいでいく。その結果主人格は男に犯される女としてのあーしという交代人格を作った。そういうことじゃないのかなって」 あっけらかんと話すベータ。わたしは問いかける。 「六花がその変態ホモ親父を殺したってのは? どういうこと?」 「突発的な出来事だったんだ」 ベータは語り始める。 「大学を出て一人暮らしを始めたあーしらなんだけどさ。それで虐待は終わってくれなくてね。たまにあーしらの家に来てあーしを犯すんだよ。盾になるあーしはもちろんつらいし、他の男の子達にしてみても、日常的に父親に犯されてるってだけで、耐えがたい程の苦痛と屈辱を感じていたんだよね」 「だったら何でその父親から逃げ出したり、遠ざける為に戦わないの?」 「そりゃあ、あーしらだってもう子供じゃないんだから、その気になったらうんと遠くに引っ越すとか被害届出すとか、色々やりようはあるって考えられるよ? でもね、誰かから尊厳を奪われて本当に心を支配されてる時ってね、恐怖とか無力感でがんじがらめにされてる時ってね、アタマの中でいくらそんなことを考えたって無駄なんだ。何も出来なくなっちゃうんだ。何をしても無駄だって思っちゃうくらいに、相手のことが怖くて怖くて仕方なくなっちゃうもんなんだ。昔はあなた達だってそうだったんでしょ?」 「……違うわね。無力だったのは一子と二葉だけで、娘をレイプする変態ロリコン親父なら、三浦が陰茎を食いちぎって金玉を蹴りつぶして成敗したわ。十歳かそこらでね。そして私が生まれた時には、クソ親父は既に刑務所にいたわ」 「へぇ。身体は女の子なのに、それはすごいね」 「あんたらの肉体は十九歳の男なんだし、何をそんなに怖がることがあるの?」 「こっちが屈強な若者で、相手が衰えて気力も体力も失くした年男だったとしても、植え付けられた恐怖の前には関係ないと思うんだよね。育ててやった恩だとか学費を出してやってるだろとか、そう言うの持ち出されて強く出られると、もう何も出来なくなっちゃうものなんだよ。分かんないかなぁ?」 「……分からない。私には何も分からない」 「分からないように三浦さんと二葉さんがしてくれたんだよ。もちろん、あーしらだってされるがままでいたかった訳じゃない。九歳の時父親に抵抗する為のガンマが、十三歳の時父親を殺す為のイプシロンがそれぞれ生み出されたけど、結局何も出来なかったな」 「それをどうして六花が仕留めるなんてことがあるのよ」 「前に公園であーしが六花ちゃんと遊んでるのを、父親に見られたことがあってさ。あの女の子は誰だ、おまえの彼女か? なんて根掘り葉掘り聞かれて、普通にお友達ですって答えるんだけど、だったらそれを犯させろって父親は迫って来たんだよ」 私はぞっとした。 「そんなことまで要求して来るの?」 「そうだよ? お父さんは普通に結婚もしてるしバイセクシャルだからね。それであーしらしょうがなく六花ちゃんを父親に犯させる為の計画を練ってさ」 「従ったの?」 「そうだよ。六花ちゃんは友達だから本当につらかったけどしょうがないんだよ。本当の恐怖に支配されてる人間っていうのは、支配されてる相手から強く出られると一番の親友のことだってやむなく差し出せちゃうもんなんだよ。同じ虐待の被害者として、それは分かって欲しいな」 何も分からない。そんな父親からの支配などどうとでも振り払える。それが出来ないのは情けなさであり愚かしさであり、そのことの報いを自分ではない他者に受けさせるなど、卑劣以外の何物でもない。私はベータ達のクソ親父のことを軽蔑するが、それと同時に卑小なベータ達のことも同じくらいに軽蔑した。 ……しかしこうも思う。 私がそんな風に思えるのは、一子が父親から虐待を受けていたその苦しみを知らないからかもしれない。二葉が盾となって一子を庇い、三浦が矛となって父親を打倒した、その戦いを経験しないで生まれた人格だからかもしれない。 二葉と三浦は相当に偏った人間性とベクトルの異なる危険性を秘めているが、それはあの二人が乗り越えた地獄が、そうでもなければ乗り越えられない程苛烈だったことの、裏返しなのではないだろうか? そしてベータ達はつい数日前まで、その地獄の中にいたのだ。 「あーしは六花ちゃんに言ったんだ。夜中誰もいない時にコントローラーを使って身体を動かして、あーしと一緒に外で遊ぼうって。コックピットっていうところに行かない限り視覚と聴覚は使えないけど、でも体の感覚があるんだったら、あーしが迎えに行けば、手を握って連れ出してあげることは出来るからって」 「体の感覚しかない状態で、一体何をして遊ぶっていうの?」 「決まってるでしょ? アルファと四季さんがやったのと同じことだよ」 「は?」 「セックスだよセックス。あーしらの肉体の性は男だし、そっちは女なんだから。普通に出来ることだよね?」 「……意味が分からない。ベータ、あんたは女だし、六花は十一歳の子供でしょ?」 「あーしってバイなんだよね。女の子としての精神は男の人、というかお父さんのことを受け入れるようにできてるけど、肉体は男だからさ。女の子だって別に好きなの。それにね、あなたが子供扱いしてる六花ちゃんも、あれで結構進んでるんだよ? あなた達には秘密にしてたはずだけど、アルファがあなたとする前に、あーし六花ちゃんとは何回もやってたんだよね」 ……おぞましかった。あの日唯人の家に泊まった夜、私は生まれて初めて好きな人と結ばれることに喜びを感じていた。しかし実際には、肉体の上では私と唯人がやったのは初めてではなく、そしてそのセックスは私ではない私と唯人ではない唯人との間で行われていたのだ。 「内緒の夜遊びに六花ちゃんは賛成した。六花ちゃんの特技はもちろん知ってるよね? 人が持ってるものを掏り取ること。コントローラーの管理は四季さんがやってるみたいだから、それを掏り取って自室に持ち込めば、六花ちゃんは夜中中身体を自在に操ることが出来るって訳」 「待って。それはおかしいわ。確かに六花なら私からコントローラーを掏ることは簡単だけど、それでも私、コントローラーを失くしたりなんかしてないわよ? 部屋に置きっぱなしで出掛けたことならあるけれど……」 「置きっぱなしで出掛けたのはここでは関係ないよ。実はね、六花ちゃんは偽物のコントローラーを所持していたんだ」 「偽物のコントローラー?」 「そう。機能は何にもないけれど、見た目だけは完全に本物と同じコントローラーをね。六花ちゃんは夜寝室に向かうあなたの持つ本物のコントローラーと、自分の持つ偽物のコントローラーを掏り替えた。そうして手に入れた本物を使ってあーしと夜遊びして、そして朝になったら、もう一度偽物と本物を掏り替える。そういう作戦を立てたんだ」 私は思い出す。前に三浦が残していた謎の申し送りのことを。 六花がコントローラーを失くし、代わりのコントローラーを天使様に作らせたという内容だった。突如として作成されてコックピット内の本棚に差し込まれていたそれを、私が目にしたのはたまたまだ。 その申し送りが現れたのは最近だったが、内容自体は随分と過去のことらしかった。どうしてそんな前のことをいちいち申し送りに描くのか分からず、三浦自身に問いかけたところ、奴はぶっきら棒な口調で。 『知らねぇよ。二葉の奴がそうしろって言い出したんだよ』 そういう三浦に、私はこう返したものだ。 『なんで? というか、二葉には話してた内容なの、それは?』 『ついさっき俺のところに来て、川原で見付けた薄汚れたコントローラーのことについて問い質されたから、話した。そしたら皆にも共有した方が良いって言われたから、申し送りに描いといたんだ』 『ふうん』 その時はそれ以上深く考えなかった。機能のないコントローラーが存在するとして、それは川の流れに沿って下流に消えたはずだった。それを六花が密かにサルページしていたなどと想像することをしなかったのだ。 「あーしは六花ちゃんをこの廃虚まで手引きした。でもそこで六花ちゃんとセックスをするのは、あーしじゃなくてあーし達のお父さん。そういう手はずだったんだけど、お父さんが六花ちゃんに襲い掛かった時、六花ちゃんはそれがあーしじゃないことに気付いたんだね。恐怖した六花ちゃんは持っていたナイフで抵抗して……お父さんを殺しちゃったんだ」 あの夜の出来事について、五木の推理は大筋では当たっていたらしい。裏にある謀略にまでは勘付けるらくもなかったが、それでもてんで的外れという程ではない。 「尊厳を奪い続ける存在だったお父さんを殺してくれて、あーしらは心から喜んだ。その場で混乱し続ける六花ちゃんを抱き締めて、掌に文字を描いて感謝を表明した。『ありがとう』ってね。そして訳も分からなさそうにしてる六花ちゃんに、そのまま文字を描き続けて事情を全部説明したんだ」 「……まあそう言う方法を使えば、両手の感覚に優れている六花でなくとも、時間を掛ければ十分に意思疎通が出来たでしょうね」 「そうだね。でも特に六花ちゃんとはすごくスムーズだったよ。書き直しがまったく必要なかったし、筆談してるのとほとんど変わらないくらいのスピードでやり取り出来た。それでね、あーしらは六花ちゃんにお礼を申し出たんだ」 「お礼?」 「六花ちゃんね。あなた達他の交代人格の数を減らしたがってたの」 私は愕然とした。 「まあそう言う気持ちは誰にだってあるよね。限られた時間や人生を分け合う存在なんだから。一人でもいなくなればその分自分が使える時間が増えるって考えるのは、悲しい話だけれど、当然の話でもあるよね。その為に、あーしらはお父さん……鈴木宗孝殺しの罪をあなたに擦り付けられないかと考えたんだ」 「どうやって?」 「簡単だよ? だってその日の夜コントローラーを預かっていたのは本来なら四季さん、あなたなんだから。あえて証拠を隠滅せずに鈴木宗孝の傍で就寝して目を覚ませば、コントローラーを管理していた四季さんは、きっと疑われるよね? 視覚も聴覚もなくても人を殺すことは起こりうるってことに誰も辿り着かない可能性はあるけれど、その時は六花ちゃん自ら主張しても良い訳なんだし。偽物のコントローラーが見付かるとまずいけど、それは朝廊下で待ち伏せてすり替えれば良い。そう言う作戦だったんだ」 「ちょっと待って。それはおかしいでしょ」 わたしはあの日の廃虚での夜のことを思い出して言った。 「うんおかしいね。実際にはあなた達はその時、自然には目覚めなかったんだから」 そうなのだ。あの夜私達は自然に目覚めてなどいない。天井から落ちて来た瓦礫の音に肉体が反応し、激しいアラート音が城の中に鳴り響いた。それによってランダムに選ばれた六花がコックピットに瞬間移動したのだ。この場合二つのコントローラーのすり替えは発生していないのではないか? 六花と共にコックピットに移動するのは当然本物の方のコントローラーだから、私の手元には偽物のコントローラーが残されていたことになる。 だが実際にはそうならなかった。アラート音と共に目が覚めた私の手元には、どちらのコントローラーもなかった。それは何故だ? 「天井から落ちて来た瓦礫に驚いて目が覚めたのは、六花ちゃんにとって不運だね。普通だったらこれで犯行は露見していたんだから」 「そうよね。でもそうはならなかった。どうして?」 「六花ちゃんは一つ不運だったけど一つ幸運だったんだ。何故なら四季さん、あなたがコントローラーを置いて部屋の鍵も開けて、不用心にお城の外に散歩に出かけてたんだからね。その隙に六花ちゃんはあらかじめあなたの部屋に本物のコントローラーをおいとけたんだよ。別に朝になってからすり替えたって構わないけど、部屋が無人ならその時戻しておく方がより確実とは言えるよね。そうしておいたことが功を奏したんじゃないのかな?」 事実としては、私がコントローラーを置いて部屋を出ていたのは犯人の六花に好都合であったとは言える。しかしそれはあくまで、天井から落ちて来た瓦礫によって起床させられるというアクシデントを、ケア出来たという意味でしかない。本来であれば、私が一晩中部屋で寝ていたとしても、計画に何ら問題はなかっただろう。 「それで、まあ色んないざこざとか陰謀とかが渦巻いた一夜だった訳だけど、結論として六花ちゃんはあーしらのお父さんを殺して、でも四季さんのことは封印出来なかった。上手くいかないもんだよ」 「だからって……どうしてあんた達はその後で、続けざまに何人も人を殺したり、遺体の一部を私らの身の回りに忍ばせたりしたの?」 「もちろん四季さんを封印させる為だよ。出来るだけたくさん殺して、出来るだけ異常な行動を印象付けた方が、最後四季さんの絵を出した時、より四季さんを危険人物だとお仲間に思わせられるからね。ちなみに殺したのは全部あーしらで、六花ちゃんは共犯ですらないから安心してね」 「どうやって生首や腕を私らの机の上や鞄に忍ばせたの?」 「別にチャンスなんていくらでもあるよね? 二人目の被害者の生首は、五木さんが預かってるコントローラーを掏り替えて朝に戻せば、夜中中六花ちゃんは自由に動けた。だから生首の受け渡しくらい簡単だよ。他はまあ六花ちゃんから貰った合い鍵で家に忍び込んだり、家に泊めた時にアルファが鞄に仕込んだりとか、上手いことやった感じかな?」 私はこいつらのことが分からなかった。他人を殺すことや、それで人を混乱させることや、陥れることを愉しめる精神性が理解できなかった。 「狂ってるわ……あんた達」 「別にあーしら全員が殺人狂って訳じゃないよ。他人を殺す恩はいーちゃん……イプシロンだけ。お父さんを殺す為に生まれたイプシロンには、殺人衝動のようなものが備わっていてね。何か月に一度は、どの道人を殺さなくちゃいけないんだ」 「どうしてそんな危険な人格をどうして飼い続けてるのよ」 「デルタが気に入っているんだよ。イプシロンが人を殺す様子をデルタは『窓』の後ろ方からじっと眺めてて、目に焼き付けた光景を自身の芸術活動に役立てるんだ。木更津芸大に受かったのも、その退廃的で尖った画風が評価されたからなんだよね。雪さんには『上手いところが上手いだけ』とか言われるけどね」 ベータは雪の方を一瞥したが、雪はうつむいたまま何も言わなかった。 「それにあーしらだって邪魔な人や死んで欲しい人は何人もいるよ? お父さんだけは殺せなかったけど、それでも嫌な人を事故に見せかけたりして上手く殺してくれるいーちゃんは、結構お役立ちなんだ。殺した五人の内の一人は大学の嫌な教授で、二人はデルタが昔好きだった女とその恋人だしね。六花ちゃんへの恩返しがなかったとしても、話し合っていつか殺ってた連中に過ぎないんだよ」 胸糞が悪かった。 「で、そうやって何人も殺して遺体の一部を置いて、緊張感を高めた後で、最後の最後に四季さんの絵を出せば完璧って訳。あの絵は正真正銘あなたが描いた絵なんだし、それを見抜ける人もあなた達の中にはいるんでしょう?」 「……そうね。その通りよ。それについては、あんたらの思い通りになったわ」 ……こいつらは六花を通じて知っていたのだ。二葉の存在を。 私達は全員二葉の審美眼を信頼していた。もちろん六花だってそうだったのだろう。二葉なら私の絵が私の絵であることを見抜けると六花は確信していたのだ。 「ねぇ四季さん」 「何よ」 「アルファに教わりながらあの六枚の絵を描いていた時、あなたは幸せだった?」 「……なんでそんなことを聞くの?」 「あーし本物の恋って知らないんだよ。だからアルファに絵を教わってるあなたの姿はなんというか眩しくってさ。本当に好きな人と一緒にいる時、女の子ってこんな顔をするんだなって思うと、胸がきゅんきゅんしたっていうのかな?」 ベータは幼稚な言葉を交えて囀り続ける。無邪気な表情で。恋に憧れる少女の顔で。 「他の交代人格達にも内緒だったもんね。アルファにだけは何でも話してさ。自分の抱えてる多重人格のことも、交代人格の仲間達のことも、何もかも全部。アルファは優しく聞いてくれたよね。他のどの交代人格よりも四季さんのことが好きって言ってくれたよね? 申し送りには普通にただ付き合ってるだけみたいに描いて、その実、アルファの家ではアルファにしか見せない絵を描いていたんだ」 提案をしたのは唯人だった。交代人格達について話す私に、唯人はその姿を絵に起こしてみて欲しいと提案した。唯人は私達の、何よりも私自身の脳内世界における本来の姿を知りたがった。私にそれを拒む理由はなかった。 「一つだけ言えることがあるとすれば……あの絵自体は犯行に使う為に描かせたものじゃなく、あくまでアルファとあなたの恋愛の中で生まれた、純粋な代物だったっていうことだね」 「だったらどうしてその絵を、誰にも見せずに唯人に預けていた大切な六枚の絵を、あなた達は犯行に使ったりなんかしたのよ?」 「あれ以上に四季さんが殺人犯だと強く印象付けるのに有利な材料はないから。多数決で決まったらアルファだって従うしかない。ちなみに提案したのはあーしだよ。いえい」 ベータはピースサインを私に向けた。 「ちなみに遺体の一部と共に残してた犯行声明の謎解きを考えたのもあーし。ああいうの考えるの得意でさ。イプシロンは殺すことにしか興味ないけど、デルタとかはそういう劇場型殺人にも興味あるから、細部を色々詰めてくれたんだ」 「……つまり結局、あなた達はどの人格も全員、骨の髄まで殺人狂って訳なんじゃない……」 「そうかもね。でも一つ疑問。ねぇ四季さん、なんで五木さんたちに問いただされた時に、あーし達……鈴木唯人が怪しいって言わなかったの? 六枚の絵を管理してたのは四季さんの恋人である唯人ことアルファなんだから、それが犯行に関わってることは明らかな訳じゃん」 「知れたことよ」 私は吐き捨てるように言った。 「好きだったから。唯人が人殺しだってことは分かってた。でも、そのことを告発して、唯人の画家としての将来を閉ざすことは、私にはどうしても出来なかったの」 そうなのだ。 唯人は画家になる為に本当に努力していた。寝食を惜しんで絵の勉強をし、講師のアルバイトにも精を出し、自分の画風を一生懸命に磨いていた。実際に絵を描いていたのは私の知る唯人ではなくデルタという別人格のようだったけれど……しかしそんなことを知らない私は、どうしても唯人を告発することが出来なかったのだ。 私は心の底から唯人を愛していた。それは唯人が私の絵を犯行に用いたとしても変わらなかった。だから唯人の邪魔になることは出来なかった。唯人に裏切られた悲しみを胸に抱えたまま、一人静かに棺桶の中で眠ることに決めた。 それで良かったと思っていた。こうして本当のことを知るまでは。 「もしも私が唯人のことを仲間に告発していたら、仲間の内の誰かしらは唯人のところに来るわよね? 三浦が大暴れしてけがをさせるかもしれない。二葉はバカだから勝手に自首をするかもしれない。そんなことになったら唯人が困る。だから私は黙って封印されることにした」 「ふうん。……純愛だねぇ」 ベータは憧れるかのように、とろんとした目をして言った。 「あーしちょっと四季さんのこと好きになったかも。アルファは幸せ者だよ、本当」 「もし私が仲間に唯人のことチクって、五木あたりが問い詰めにやって来たら、あんたらはどう対応するつもりだったの?」 「殺人を認めたところでまさか通報なんて出来ないでしょ? 何せそっちは共犯関係なんだから、一緒になって黙っているしかない。だからこっちは普通に認めるだけだし、実際認めたよ?」 「認めた?」 「うん。五木さん、四季さんが棺桶に封印された次の日に、あーしらの家まで来たんだ」 ……あーしらが殺人の実行役だって気付いたみたい。と、ベータは関心を交えた声で言った。 「四季さんが皆に内緒で絵を描ける隙があるとすれば、それはアルファこと君の恋人の唯人と一緒にいる時間が最有力だって、五木さんには分かったみたい。六花ちゃんが犯人って見抜けなかった以上名探偵とはとても言えないけどさ、てんで大したことないって程じゃないみたいだよ。そっちのブレーンは」 「……それで、どう答えたのよ?」 「さっきも言ったように、あーしらが人を殺してたことはちゃんと認めた。その上で二つの嘘を混ぜさせてもらった。まず動機について、『四季さんの絵を君達に印象付ける為の劇場型殺人を二人で計画した』って話したし、実行役についても『自分と四季が交互にやった』ともっともらしく話しておいたよ」 「……奴はそれを信じたの?」 「後者はともかく、前者は懐疑的だったな。『そんなことをする程四季はバカじゃない。他に理由があるんだろう!』とか突っかかって来てね。アルファもボロを出さないのは大変だったみたいだね」 ……あの生意気なガキンチョに、そんな熱い一面があるとは。意外だった。 「そんで聞けば五木さん、そのことを仲間の誰にも話さないことにしたみたいだね。申し送りにも描かないって言ってたよ」 「どうして?」 「あなたの為だよ。唯人が殺人犯だってことは、四季さんが棺桶で眠ることになってまで隠し通した事実なんだよ? そうやって自分の口を封じて恋人を守ったんだね。だから五木さんはそれを仲間にはばらさず、墓場まで持って行くことにした。アルファにそれ以上の殺人を犯さないことを約束させる以上のことは、五木さんはしなかったんだね」 「…………ふうん」 五木は釈明を拒んで開き直ったあたしを棺桶に閉じ込めた。その一方で、五木は私の秘密を守ってもいたのだ。私が守り抜いた秘密を五木も守ったのだ。守ろうとしてくれたのだ。 「とにかく、四季さんを封印することに成功して、後からやって来た五木さんもやり込められて、あーしらとしてはこれでミッションコンプリート。お父さんを殺してくれた大恩人の六花ちゃんに報いることが出来て、ついでに殺したい奴も何人か始末出来た。イプシロンは短期間で四人も殺せてほくほく。デルタは絵の資料がたくさん手に入って喜んでたし、あーしは六花ちゃんとの友情を深められた。オールハッピー。……の、はずだったんだけど……余計なことを考える奴はいるもんだよね」 「……余計なこと?」 「そ。そっちの長子で、苦痛の管理者の二葉さんが、本気で自首を考えてるっていうんだもの」 ベータは可愛らしく唇を尖らせた……つもりだろうが、大の男である唯人がやると、それはどこかしら不気味だった。 「六花ちゃんにそのことを相談されて、あーしらは六花ちゃんを……あなた達を殺すかどうか悩んだ。皆で議論して、それでも決められなくて、結局『先生』に決めて貰っちゃった」 「『先生』って……?」 「保護者の人格。そっちでいう『天使様』のポジションじゃないのかな? その人に相談して、結局、あなたを殺すことが決まったって訳」 そこまで聞いて、私はようやくすべてを理解した。私が封印されている間に起きたこと、私がここで手錠で拘束されている、その理由。 「目覚めたみたいだから車に戻るのやめて様子を見に来たけど、実際に殺すのはもうちょっと後になるかな。デルタが殺し方にこだわるみたいでね。カメラと三脚を取りに行ったり、凶器を準備したり、色々あるんだ。だからちょっとの間だけ待っててね」 その言葉を残して……ベータは、その場から立ち去った。 「……大変なことになっちゃったね。一子ちゃん」 雪が蒼い顔をしていた。 「スマホ……は、もちろん没収されてるみたいだね。一子ちゃんの方も同じかな?」 「……そうみたい。あ、でも、三浦が持ち歩いてるナイフならあるわ」 折りたたんでかなり小さくなるタイプのナイフだ。ポケットではなく懐の奥深くに隠してあるので、奴らも気付かなかったようだ。 「それ貸して?」 「何でよ?」 「手錠かドアの取っ手かどっちか壊せないか試してみる」 「……無駄だと思うんだけどね。まあ、いいわ。一応試してみて」 そう言って、私は雪にナイフを手渡してから、一人静かに目を閉じる。 この状況を解決するのに必要なのは、隣で無駄な努力を開始した冴えない男の力ではない。 同じ人生を共に生きる、仲間達だ。 〇 六花(第六人格)は仲間達に取り囲まれていた。 三浦は握りこんだ拳を今にも振り上げようとしている。二葉はおろおろとしながらも、そんな三浦を制しようと、六花との間で両手を開いている。五木はそんな二人をやや離れた位置から眺めながらも、いつものような冷笑はそこにはなく、その表情は疲弊に打ちひしがれたように虚ろだった。 「どうする? こいつ」 三浦が剣呑な表情で言った。五木が覇気のない声で返す。 「どうするも何も、棺桶に封印しておくしかないだろう」 「本当にそれしかないんですか? 一緒に罪を償えないですか?」 二葉はあたふたとしている。三浦は鼻を鳴らして答える。 「四季のことだって、俺達は封印したんだ。六花だけ助けるってのは通用するのか?」 「違いない。公正さを損なっては規律など成り立たない」 「ですが……」 六花を除く三人は口論を続けている。しかしそれは発展のない議論だった。同じような内容を堂々巡りし続け、その度に六花は責められ、それでいて結論は一向に出なかった。 どうにでもなってしまえと六花は思う。六花は絶望していた。親友だと思っていたビーちゃんに裏切られ、殺されかけていることがショックだった。このまま仲間達を道連れに一子の肉体ごと消滅してしまいたいと強く願った。 ビーちゃんは六花にとって最も大切な存在だった。多重人格者である六花の苦しみを理解してくれた。それは表面的な理解や共感ではない。ビーちゃん自身同じ障害を抱え、数多くの不自由を味わっていたのだから、心底から二人は通じ合い愛し合うことが出来た。ビーちゃんは六花が初めて出会った同胞であり同じ魂を持つ分身だった。 それなのに。 「もう好きにしてよ」 六花は膝を抱えたまま口にしていた。 「あたしのことはもう好きにして。今すぐ棺桶に封印してよ。ビーちゃんに裏切られた世界で、あなた達なんかと一緒に生きていたくなんかない」 「勝手なことを」 五木が呆れたように肩を竦めた。 「望むならいくらでもそうしてやる。だが、それで済むような状況じゃないんだ」 「知らないよもう。殺されちゃえば良いんだ、あなた達なんて」 「黙れ! 誰の所為でこんな状況になっていると思っている! 望み通り今すぐに棺桶にぶち込んでやろうじゃないか!」 「やめなさい」 声がした。 「今はそうやっていがみ合っている場合じゃないでしょう。そいつを封印して、この状況が少しでも好転するの?」 四季だった。 「……四季さん? どうしてここに?」 二葉が目を丸くする。 「あんたらとこの状況について話し合う為に、肉体を『虚無』にして来たのよ。はいこれ、さっきまでの申し送りね」 手渡された申し送りは仲間達に共有された。六花は外の世界になど興味もなかったが、二葉に宥めすかされて指先で触れた。 四季のしたためた文章がアタマの中に入って来る。 自分達は手錠によって金属製のドアの取っ手に繋がれ、拘束されているらしかった。味方と言えるのは隣で同様に拘束されている雪だったが、彼が頼りになるらくもない。状況は全く持って絶望的だ。 「三浦さんの力で取っ手かドア本体を破壊できませんか?」 二葉が提案する。しかし四季が首を横に振って。 「あのドアは金属製だったわ。いくら三浦の馬鹿力でも、どうにかなるようなものじゃない」 「ですが、試して見る価値は……」 「手錠の方を攻略する方がまだ容易いんじゃないか? 所詮大学生でしかない鈴木に警察が使うような本格的な手錠が手に入るはずもない。変態がオモチャとして買っていくような、中途半端な代物しか用意できていないはずだ」 五木の考えに、三浦は腕を組みながら問う。 「引きちぎれってのか?」 「違う。ピッキングが出来る可能性がある。六花の特技は掏りと縄抜けと錠前外しだ。その為のピンもポケットの奥に常に携帯している。鈴木にはそれがただのヘアピンにしか見えていないはずだから、まさか取り上げられてはしないだろう。小型とは言え、ナイフを見逃すくらいなのだからね」 その通りだ。六花はヘアピンが一本あればどんな鍵でも解除してしまえる。 そしてそのことをビーちゃんは知らない。ビーちゃんに見せたことがある特技は掏りだけで、他の二つについては見せる機会がなく知らせていない。 「なるほど! じゃあ、この状況を打開できるかもしれないんですね!」 二葉が瞳に希望を滲ませた。四季も納得したような表情を浮かべ、言う。 「そのようね。頼むわ六花」 六花は膝を抱えたまま黙り込んでいた。 「六花? どうしたの」 六花は何も言わない。 「いい加減にしないか、六花」 五木が声を荒げた。 「早くしないと敵が来てしまう。さっさとコックピットに行くんだよ。死にたいのか?」 六花は何も言わない。 「なあ六花。なあ! 死にたいのかって言ってるんだよ!」 「死にたいよ」 涙に濡れた声。 「死んじゃいたいよ。だってそうでしょう? どうせここを切り抜けたって、皆あたしのことを封印する癖に。だったら皆を道連れに死んだ方が百倍マシだ」 その言葉を聞いて、三浦が剣呑な表情で六花の方へと歩み寄った。 「なあ六花。おまえいい加減に」 「待って」 四季が片手を上げて三浦を制した。 「聞いて六花。あなたを封印なんてしないわ。私がさせない」 「……信じられないよ」 「濡れ衣を着せられて封印されてた私が説得すれば、皆だってきっと納得するはずよ。させて見せるわ」 四季は六花以外の人格達の方に向き直る。 「聞いて皆。六花を封印するのは良くないの」 四季は人格達に語り掛ける。 「私を封印した時に皆懲りたでしょう? 私達は虹川一子という人格の持つ生きる力を、五つに別け合って存在している。誰か一人でも欠けたりしたら、この先の人生絶対に成り立って行かないのよ」 人格達は皆口を閉じて聞き入っている。 「身に染みたはずよ。確かに、私達は互いにいがみ合うことも憎しみ合うこともある。全員と好き合うことなんてできないと思う。それでもね、生きる為には協調していくべきなのよ。互いに対等に尊重して、力を貸し合うべきなのよ。だから六花をここで切り捨てるのは、私達の未来を致命的に閉ざす悪手なのよ」 四季は本心からそう言っているように見えた。六花を一時的にでも納得させる為、パフォーマンスをしているようには見えない。心底から、四季は自分達が生き抜くために六花のことを必要としている。 「そしてそれは、私達多重人格者のような、特殊な境遇に置かれた人間に限らないわ。人間同士、人格同士、一か所に集まって何かをしようと思ったら、互いが互いの力をどうしても必要としてしまうものなのよ。私達はそれを理解しなくちゃいけない。嫌い合ってでもバカにしあってでもいがみ合ってでも構わない。それでも私達は、私達に私達全員が必要だと理解して、誰のことも切り捨てたりなんかしちゃあダメなのよ」 六花の肩に四季の手が添えられる。 「私は説得したわ。皆がそれに答えてくれるかどうか、あなたが判断して」 その表情は六花が見て来たどの四季よりも優しいものだった。 「コックピットに座るのよ。あなたが私達のことを信じるのなら、手錠を外して誰かと代わって。信じないというのなら……それはしょうがないわ。殺されて来なさい。どちらにするか、生きるか死ぬか、あなたが決めて」 強く心の籠ったその言葉に、六花は戸惑った。これまでの人生、多重人格の末っ子という立場で生きて来た六花にとって、六花が何かしらの選択を迫られたことはなかった。大切な判断は常に自分以外の誰かがやっていた。多数決の内の一票を握ることはあったとしても、たいていの場合において六花はあくまで付和雷同で、場を支配する意見に流されて、何となく多数派になりそうな方に手を挙げて来ただけだった。 そんな六花が今、全員の生き死にを決定することを迫られている 「……あたしが選ぶの?」 「そうよ。あなたが選ぶの。さあ、行きなさい」 そう促されるままに、六花はぼんやりとその場を立ち上がり、コックピットに向かった。 〇 「切れろ! うおおおお! 切れろ切れろ切れろ!」 雪が喚いていた。三浦の意見で持ち歩くようにしているナイフを自分の手錠に向けて、グリグリと絶えず押し付けている。しかしその手錠も一応は金属で出来ているのか、傷が入るだけで切断される様子はない。 「うおおおおっ! 切れろ切れろ切れろ! ……って、一子ちゃん起きた?」 六花は頷いた。 「いやあ突然目を開けたまま動かなくなるもんだからびっくりしたよ。あれってさ、もしかして誰も意識下に現れていない状態だったりするの?」 「うん、まあ……」 『虚無』と呼ばれている状態だった。起床したまま誰もコックピットに座っていないと、一子の肉体はそんな状態になる。 「そっか。ちなみに、今出て来てるのはどの一子ちゃん?」 「……六花」 六花はか細い声で答えた。 「僕と会ったことはあるの?」 「何度か。……予備校行くことあるから、あたしも。絵を描く為に」 「そっか。何か話したとかある?」 「絵を褒めてくれた。今日の一子ちゃんは今までで一番独創的だねって」 「あの二つに折れた飛行機描いてた子?」 「そう」 「凄かったよあの絵。僕はもうあんな自由な絵は描けないからさ。羨ましいくらいだった」 「でもあたし、皆の中で一番下手なんだ」 「そうなのかな?」 「うん。誰も口に出さないけど、そう思われてると思う」 「心配しないで。本来、絵は上手いとか下手とかじゃないんだ。描く人がどれだけ描くことを楽しめるか、見る人がどれだけ見ることを楽しめるか大事なんだよ。君の絵を見るのは楽しかった。だからそれで良いんじゃないかな?」 「あたし、絵を描くの楽しくないよ?」 「そうなの?」 「そうだよ。それしかまともに自分の外側に残せるものがないから描いてるだけで、描くこと自体はしんどくてしんどくてたまらないよ。それで一番下手なんだから嫌になるよね」 「まあそれが悪いってことはないでしょ。誰だってどんな理由だって、描くことは勝手だし、その一点だけ見りゃ巨匠もヘボも平等なんだから」 「……二葉さんが似たようなこと言ってた」 「二葉って……あの優しくておっとりした子だよね」 「そう。でもやっぱりちょっと違うかも。あの人は全ての創作活動は祝福されるべきものだって言ってた。上手いとか下手とかはもちろん、姿勢や動機も関係なしに、全部の創作活動は素晴らしくて、全力で尊重して賞賛するに値するって」 「そりゃ、酷く悪平等だな」 「あたしもそう思うし皆そう言ってる。けどあの人みたいな考え方も必要なんだよ、多分」 「絵について、皆それぞれ違った考えがあるの?」 「あるよ。三浦くんは絵はどこまで行っても自己修養だから他人の評価とか関係ないって言ってるし、五木くんはどれだけ多くの人に見られるかがその絵の価値で自己満足に意味はないって言ってる。四季ちゃんは男の子達がゴチャゴチャ語ることに冷笑的だけど、本当は多分、誰か一人自分を認めてくれる人の為に描こうとする人。その一人のことをずっと探してる人」 「僕は戦いだったよ」 雪は自嘲的に笑った。 「僕のことをバカにして来る世界との戦い。おまえらが何と言おうと僕はこれだけのものが描けるんだぞって、そう思い知らせる為に描いて来た。でもそれは戦う手段にはなっても、勝利する手段には程遠かったな」 そう言って雪はナイフを手錠にこすりつける作業に戻った。一心不乱に擦り付けても、手錠にはひっかき傷以上のものは生まれない。 「多分無駄だよそれ」 「分かってる」 「のにやるの?」 「うんそう。途中で無理だって分かっても続けるの。他にやることないから。これしかできないからこれをやるしかないの。それがずっと続くの。周りはどんどん前に進んでるのに、僕は一人だけここに座り込んでこれを続けるの」 「つらくない?」 「つらいよ」 「助けて欲しいとか思わないの?」 「思うよ。でも誰も助けてくれないから」 「そうなんだ」 「でもこのままじゃダメだな。本当は分かってる。どこかで本気出さなきゃダメだよな」 言って、雪はナイフを手錠から離し、じっと見つめた。 「別に今までが本気じゃなかった訳じゃないけど。こんなのが僕の全力だったけど。でもどっちにしろそれじゃダメだから。死に物狂いにならないとダメだから」 「何を言ってるの?」 「腕を切り落とす」 雪はそう言って、手錠の掛かっている右手にナイフを押し当てた。 「ちょっと……何をやってるの? やめてよ」 「やめないよ。だってそうすりゃここを出られる」 「ダメだよ。絵が描けなくなるよ」 「そんなことにはならないよ」 「なるよ。もしそれがあたしの為なのならやめて。あなたの腕はあたしの命なんかより……」 「違うよ六花ちゃん。僕がこれをするのは、どの一子ちゃんの為でもない」 雪は覚悟に満ちた表情を浮かべた。 「僕は絵を描く為にこれをするんだ。自分が生きる為にこれをするんだよ。右手がなくなっても左手で描けるし左手がなくなっても口で描ける。そして僕は木更津芸大に合格して名のある画家になるんだ。その為に僕はこれをやるんだよ!」 そう言って雪は高く掲げたナイフを、自分の右手に力強く振り落とした。 嫌な音がした。ナイフが肉を貫き骨に食い込み、弾け飛んだ血があたりに爆ぜる音だ。 深々と突き刺さったナイフは雪の腕を貫通して制止している。六花は目を見張った。この男にこれほどの気骨があるとは六花は思っていなかった。本人が自虐するように、ただ惰性で日々を浪費するだけの救いがたい軟弱者にしか見ていなかった。 それが今では、生き残る為に自分の右腕を犠牲にする覚悟を決めている。 「いってぇえええっ! あぁああああ! お、おか、おかあさーん! うぎゃあああ!」 ……いや、軟弱者なのだろう。泣きじゃくりながら痛みに喚いているこの姿はそれにしか見えない。しかしこのおよそどうしようもない男にも、画家になるのだという矜持は確かにあるのだ。そのことを六花は心の底から思い知った。 「ちくしょう! 痛いじゃねぇか!」 雪は喚きながらナイフを引き抜いた。信じられない程高く飛んだ血液が六花達の頭上から降り注いだ。 「でも僕は画家になるんだ! 皆を見返すんだ! これまでの全部取り返すまで、これで全部が報われて僕が勝ったって思えるまで。……僕は死ぬ訳にはいかないんだよおおおお!」 「やめてっ!」 再びナイフを振り下ろそうとする雪に、六花はしがみ付いて制止した。 「やめて……。分かった助けてあげる。あたしがあなたを助けてあげるから」 「助けらんねぇよ! 僕のことなんか誰にも助けられるかよ!」 「助けるよ! 今は助けてあげられるんだよ! だからそれはやめて。……ね?」 必死でそう言うと、雪はへなへなと血まみれのナイフをおろした。そして虚ろな表情で言う。 「……でもどうやって?」 六花は懐からヘアピンを取り出した。 〇 ぼく(五木・第五人格)は、雪に肩を貸しながら廃虚を歩いていた。 「見直したよ」腕にナイフが刺さった痛みにしくしくと泣いている雪に言った。「一寸の虫にも五分の魂。君のような惰弱な凡夫も時には意地を見せるもんだね」 「うるせぇよ凡夫じゃねぇよ」雪は鼻水を垂らしながら言った。「六花に言っとけよ! ピッキングなんて特技あるんなら最初っからやっとけよってよ。お陰でこっちは大ケガだよ」 「こっちにも事情ってものがあるのさ。ただまあ、あれだけグズってた子供を一人説得してのけたのは、他でもない君の気骨が故さ。二葉の奴は男の趣味が最悪だと常々思っていたが、その評価をほんの僅かに上方修正する余地が微かながら生まれたと言って言えなくもない」 「さっきからなんだよおまえ。いちいち言い方が余分なんだよ! さてはあれだな、おまえ五木だな。たまにノートにアニメっぽいイラスト描いてるいけすかない奴!」 「そうさ五木だ。覚えておくが良い。ピクシブで三十万人のフォロワーがいる」 「言っとくが僕はそう言うのは絵として評価してないからな! そういうのはマーケティングの良し悪しの問題で、絵としての技量云々は二の次なんだろうが!」 「君が認めずとも、ぼく達の活動は着実に日本経済を回している。かくいうぼくも、アップしてた漫画を出版しないかと声を掛けられたことがある。忙しいもので、断ってしまったがね」 「うるせぇよオタク! 断ったんなら鼻に掛けんなよ! アニメ絵どれだけ描いたって文化活動として認められることはないんだよ! 一時の小遣い稼ぎの手段になりこそすれ、後世にまで名声が残ることはあり得ないんだからな!」 いちいち反応が大袈裟で愉快な人だ。ぼくはほくそ笑む。ディベートしたら面白いかもしれない。何を言ってもちゃんと真正面から自分の意見を返してくれる相手というのも、これで意外と貴重なものだ。 とは言え今雪は腕からの出血でよろめいている状態だ。大声を出すにも限度があるようで、既に息も絶え絶えになってぼくの肩に身を預けている。 こいつの息が続く内にどうにか外に出て助けを求めなければ……そう思っていると、反対側から足音が轟いた。 ぼくは咄嗟に隠れる場所を探した。いくつか見当たらなくもなかったが、しかしどこに隠れるにも、この肩に担いでいる負傷した男が邪魔だった。こいつを背負ったまま殺人鬼をかくれんぼを演じるよりは、真正面から受けて立った方が良い。 そう思い、近くの壁に雪を横たえ終えた頃、そいつは現れた。 「あれぇ。脱出しちゃってるじゃん」鈴木は言った。背中には大きなリュックサックを背負っている。絵の参考にと、ぼく達を奇怪な方法で殺害する為の道具が入っていると思われた。「どうやったの? というか、あなた誰?」 「五木だ」ぼくは答えた。「あんたこそ誰だ」 「ベータだよ。すぐにガンマと代わると思うけどね」 「迂闊だったね」ぼくは冷笑的に言った。「六花は掏りだけじゃなく、ピッキングも得意なんだ。あの程度の手錠なら簡単に脱出することが出来る」 「『まったく何をやっているんですか』」 突如として口調と声音が変わった。 「『だからあんなオモチャの手錠じゃダメだったんですよ。ちゃんと手足の腱を潰しておかないと』『すまんな。油断した』まあ別にアルファじゃなくても同じ油断をしたんじゃないかな?『私ならしません』そう言わず。こうしてちゃんと間に合ったんだから」 「今話してるのが、そっちのファミリーかい?」 「そうだよ。仲良しなんだ。同じ人生を生きる切っても切れない仲間って感じかな?」 「切っても切れない人間が自分の中にいることを苦痛に感じることは?」 「たくさんあるよ。でも嫌い合うのやいがみ合うのはダメじゃない? だから、仲良くする為にお互いちゃんと優しくするんだよ。仲間の望みは何だって叶えるんだよ。あなた達をむごたらしく殺すことがデルタの絵の役に立つんなら、みんなで協力してそうするんだよ」 「ぬるいな」ぼくは心の底から冷ややかな声を出した。「協調とはそういうことを言わない」 「あーし達はそれで上手くやって来たんだから、とやかく言わないでよ」 「何人もの他人を犠牲にしなければ成り立たないのなら、それは上手くやれているとは言わない。あんたらは完全に破綻し切っている。爛れた異常者さ。同じ多重人格者として心から軽蔑する」 「あーし達の考えた計画を見抜けず、間違った推理で仲間を封印した五木さんに言われたくないよ。まったくブレーン失格だね。笑えるよ」ベータは口元に手を当てて少女のように笑った。「トラッシュトークはこの辺にしとこうよ。さっさと決着をつけちゃおう」 「その通りだね」ぼくは電話機を手に取った。「来い。三浦」 〇 初撃を与えたのはこちらの方だった。 俺(三浦・第三人格)は五木と代わるなり鈴木に走り寄ってその顔面に拳を放った。鈴木はそれを躱そうとも防ごうともせずにただ鼻っ面で受けた。クリーンヒットしたということなのだが、普通なら敵を吹っ飛ばして再起不能にするはずの俺の拳にも、鈴木は微動だにすることなくその場に踏みとどまった。 次の瞬間だった。 突如として始動した鈴木が強烈なパンチを俺に放った。殴った後隙で身動きを突かれた俺は見事にそれを胸に食らってしまう。信じがたい程の衝撃に俺はあっけなく身体が宙を舞い、背中を壁にしたたか打ち付けてその場に蹲った。 「か、か、かわいいな」鈴木は幼い子供のようなたどたどしい声で言った。「ちちち、ちからがかわいいんだよ。しょ、しょせん、女の子の、かかからだだからなぁ」 「おまえ何者なんだよ」俺はどうにか立ち上がりながら、尋ねる。そいつは答える。「ぼぼぼぼ、ぼくはガンマ」「守護者か?」「ななな、な、なにそれ?」「なんかあった時戦うのはおまえか?」「そそそそ、そうだね。それがしゅ、守護者っていうの?」「言うそうだな」「しゅしゅしゅ、守護者ってななんか格好良いね。ぼぼぼくは守ってるっていうより、こここき使われてるだけなんだけどさ」「良いだろそれで。考えるの得意じゃないんなら、使われてる方が」「そそそそうかな。ぼぼぼぼくは結構いいい嫌だけどな。ととと、とにかく。い、いまは君を倒さなきゃいけないから」 ガンマは俺に殴りかかって来る。大人の男の拳だ。掠りでもしたらどれほどのダメージになるのかは、先ほどの一撃で思い知っている。引き付けるのも程ほどに、俺はガンマの拳を回避した。 反撃に転じようと拳を放つ。向こうは本気では避けようとせず、軽く腕を振るうだけでそれを払ってしまう。愕然としている間もなく、ガンマからの強烈な反撃が来る。 両腕を重ねてどうにかガードする。 それでも、よろめく。ぶっ飛ばされそうになる。 たまらずに俺はその場から距離を取った。信じられなかった。俺は一子の腕力を最大限に引き出すことが出来た。全身のアドレナリンをコントロールし、人間が無意識に掛けている肉体のリミッターを振り切って、どんな男よりも高い腕力でどんな相手でも地に伏せてきたはずだった。男の不良に取り囲まれたことも何度かあるが、その全員を俺は一撃の元に屠ることが出来た。それなのに。 「おまえどうなってるんだ?」「なな何が?」「強すぎるんだよ。こっちはアドレナリンを操ってるんだぜ? 人体の限界ぎりぎりの力を出せる。その俺よりが殴ってもびくともしないってのはどういうことだ?」「ききき君が出来るようなことはぼくにもできるってここことじゃないのかな? おお同じ守護者なんだから。そその条件がおお同じなら、ああ後は男女の肉体の差がもももモロに出るのさ」 ガンマは走り寄って来て鋭いジャブを放ってくる。どうにか払いのける。すかさずにもう一発。これもどうにか防ぐ。ガンマは殴りながら体制を作って強烈なストレートを見舞って来た。俺はその場で転がりながら回避しようと試みたが、あまりの速さに躱し切れずに頬をかすめる。それだけで顔の骨が砕けたような衝撃がして俺はたまらず床に沈んだ。 「あ、あ、諦めなよ」 ガンマは蹲った俺に蹴りを入れて来る。身体を丸めて防御するが、それは大してダメージを殺せていない。 非常にまずい状態だった。と言うよりすでに敗勢だった。地に伏した状態で身体を丸めて耐え凌ぐしかないというのは、ケンカにおいておよそ逆転が絶望的な状況だった。この状況に持ち込めば俺はたいてい勝利を確信するし、この状況に追いやられるのは初めての経験だった。 「かかか勝てないんだからそのままここ殺されなよ」ガンマもまた圧倒的有利を悟っているようだった。「ぼ、ぼ、ぼくもアタマ悪いけど勝てない相手に立ち向かう程バカじゃないよ。お父さんの時だって……」 「一子ちゃんをいじめるな!」 ナイフを振りかざした雪がガンマに襲い掛かった。咄嗟のことで回避できなかったガンマは肩にナイフを刺されて「ぐあっ」痛みのあまり顔を顰める。 俺はその隙を付いてその場を立ち上がり、悶えているガンマの股間を一撃した。 「ぎゃああっ」「ナイスだ雪! おまえも男じゃねぇか!」 俺がそう言い終える頃には、雪は出血する右手を抑えながら座り込んでいる。 「今は気合で動けたけど、もうこれ以上助太刀は期待しないで」 「ああ構わねぇ十分だ。懐かしいな男の金玉を蹴り飛ばすってのは」俺は言いながガンマを見下ろす。ガンマは顔を真っ青にしてその場でのた打ち回っている。「ちんちんを食いちぎって金玉を蹴りつぶしてやったのさ。一子や二葉を犯していた、あの糞親父をな。笑えたぜ? 子供を相手に粋がってたあんな糞野郎でも、いざ反撃されたら涙を流して許しを請うんだから」 「お、お、おまえ。なななな何を」ガンマは震えながらどうにか体制を整える。「そ、そんなことをしたら、痛いじゃないか!」「そうだよ痛いんだよ。アドレナリンを操れるおまえですら、そんなに痛いんだ。だったらおまえの親父にも同じことをしてやれば良かっただろうが」俺はガンマに向けて飛び蹴りを放つ。全身の力と体重を使った大技であるだけに、ガンマはさばき切れずに腹部に受ける。蹲るガンマ。「一番の敵を相手に戦うことも出来ないで何が守護者だ。女を盾にして自分ばかり痛みから逃れる卑怯者が! そんな奴にこの俺が負けるかよ!」 「う、う、う、うるさいな!」ガンマは目に涙を浮かべている。「お、お、おまえに何が分かる? お、お父さんは怖いんだぞ! 酷いんだぞ! あ、あんな恐ろしい人に逆らえって、戦えって……ぼくにだけぼくにだけ……できる訳がないだろう!」ガンマは立ち上がって俺に拳を放って来た。だが感情が乱れているのかその動きは稚拙であり俺は簡単に回避することが出来た。躱しながら背後に回った俺は、その後頭部に向けて肘を叩き付ける。よろめくガンマ。 「どどどどどうすれば良かったんだよ!」ガンマはフラフラになりながらパンチを撃って来るが、最早当たる訳がない。「たたた戦うってなんだよ! 大人と子供だろ? 親と子だろ? ささささ最初っから勝負にならないだろ! そんな無茶な宿命って、な、ないだろ! おまえは戦えたし勝てたかもしれないけれど、ふ、普通は違うだろ。むむむ、無理なんだよ! 無理に決まってんだよ!」 「そうだろうな。普通は無理だ。俺だってビビったよ。勝てたのはたまたまだよ」俺はガンマの攻撃を難なく躱す。「あの時勝てなかったら、俺はどれだけみじめな生き方をしたんだろうなって思うよ。一番の敵を刺せない柔な矛じゃあ、仲間達に胸を張れない。ただの能無しだ。もしも俺がそうだったらと思うと、怖くて怖くて仕方がなくなる」 「な、な、なんでそんなこと言うんだよ! お、おまえだって怖かったんだろう!」 ガンマは完全に泣きじゃくっていた。がむしゃらに腕を振り回して来るが、雪が刺したナイフのダメージもあり、それは既に速くも重くもない。 「ああ。怖かった。だからおまえには同情するよ」俺はガンマの攻撃を躱す。「おまえの仲間の誰が分からなくても、俺はおまえの感じた怖さが分かる。俺だって一人じゃきっと逃げてたはずだ」 「じゃじゃじゃじゃあなんでおまえは逃げなかったんだよ!」 「一番身近に、決して逃げない奴がいたのさ」俺はガンマの攻撃を躱し、拳を握りこんで接近した。「どれだけつらくても苦しくても痛くても、どんな目にあっても何もできずとも、逃げることだけは絶対にしない奴がいたんだよ。そいつは信じられないくらい弱くて情けなくて優しくて……誰よりも勇気がある奴なんだ」 俺はガンマの顎先を渾身の力で鋭く殴り飛ばす。 「おまえのところの『盾』とは違う。親父の言いなりになって友達を差し出すような卑怯者じゃない。あいつなら親父に逆らうことで自分がどれだけ傷付いたって、全部を自分の身で受けていたはずなんだ」 壁にぶつかって伸びたままガンマは微動だにしない。俺は勝利を確信しながら、その場で膝を着いて蹲る。 全身からアドレナリンが引いていく。感じなくしていた痛みが襲い掛かって来る。あまりの痛みに泣きだしそうになる。この身体から逃げ出したくなる。 ガンマにあちこち殴られた痛みだ。身体のどの骨が折れていてもおかしくないし、体のどの内臓が傷ついていてもおかしくはない。だがこれほどの強い痛みでも、どれほどの強い苦しみでも、逃げ出さない奴を俺は一人だけ知っていた。 ……また頼ってしまうのか。 結局のところ俺は弱虫だ。本当につらい時はあいつに守ってもらってばかりいる。そのことを強く思い知りながら、それでも痛みと戦うことはせず、俺はこの苦痛の園であるコックピットから逃げ出した。 〇 わたし(二葉・第二人格)は外の世界に意識を持つと共に、あまりの痛みに狂喜しました。 「ふひひひひひひひっ! 痛い痛い痛い痛い! 生きてるぅうう!」 その場でもだえ苦しみながら自分の中の痛みを弄ぶわたしに、雪さんは恐る恐る言いました。 「い、一子ちゃん? どうしたの急に? 大丈夫?」 「大丈夫ですよぅふひひひひひひっ。ふへへへへふひっふひっひっひえへへへへへっ!」 痛いのは大好きです。自分が生きてここに存在しているということを、これ以上なく実感することが出来るのです。快感の限度はそこそこ止まりですが、痛みの限度は底知れません。自分がどこまで痛くなれてどこまで痛いのに耐えられるのか、それを思うとわたしはわくわくしてしょうがないのでした。 「ふひひひひひっ。痛いよぅ痛いよぅ。ふひひひひひ。ふーひーひっひっひっひ!」 「なんか怖いよ今の一子ちゃん……。様子がおかしいっていうか、アタマがおかしいみたいになってる。……あの、誰?」 「あ、二葉です」 「二葉ちゃんなの! マジで?」 雪さんは仰天したように目を丸くしました。 「これが本当のわたしなんですよぅ。ふひひひひっ。雪さんに知られちゃうなんて……恥ずかしいようなもっと見て欲しいような。ふひひひ、ふひっ、ふひひひひひひひっ」 わたしは思わず赤面して顔を覆います。 「ずっとこうしていたいですけど……仲間の為にも外に出ないといけないですね。申し訳ありませんが、その人から携帯電話を取って来て、警察と救急車を呼んでもらって良いですか?」 「あ。ああ。分かった。すぐそうするよ」 「はい。ありがとうございます。それと雪さん」 わたしは笑い掛けて言いました。 「大好きです」 救急車がやって来て、わたしは病院へと運ばれました。全身の治療が行われ、やがて警察がやって来て事情を聞かれました。 わたしは全てをお話ししました。 嘘を吐くことは出来ませんでした。仲間達もそのことは理解してくれたと思います。わたしは三浦さんのことを話し四季さんのことを話し五木さんのことを話し六花さんのことを話しました。最初は半信半疑だった刑事さんたちですが、雪さんの方もわたしの抱える問題のことを正直に話したらしく、やがて精神科医の方がやって来て診断を下しました。 解離性同一性障害。 六花さんが最初に犯した殺人については正当防衛が主張できるにしても、その後の幇助行為については当然ながらお咎めがありました。果たしてどのような裁きが行われるのか、わたし達は戦線恐慌としていました。 やがて家庭裁判所への送致が行われました。裁判を受け、心神喪失が認められ有罪判決は免れました。そして精神病院への移送が決定しました。 檻の中でわたし達は長い長い時を過ごしました。わたし達は人格の統合を目標に様々なリハビリを受け、一方では被害者の方々への償いの為に遺族の方へ手紙を書くなどしました。 慌ただしい日々の中でわたし達は高校を卒業する時期になり、肉体が十九歳になり、さらに数か月が経ってようやく仮退院が認められました。 〇 エピローグ 〇 「一子ちゃん! 好きだ! 僕と付き合ってくれ!」 退院した私(一子・主人格)を病院の前で待ち構えていたのは、雪夏彦という芸大生だった。 二葉はこの男を絶賛していたが、他の連中の反応はまちまちだ。『根性あるけど情けない奴』『絵は上手いけど感性ない奴』『一途だけれど半端な奴』『優しいけれど陰湿な奴』などなど。 その手には真っ赤な花束が握られている。これから電車で帰る人間になんてものを持たせようとするんだ。それとも背後にこれ見よがしに止めてある真っ赤なスポーツカーで送るつもりなのだろうか? それは正直助からないでもない、と言えなくもないが。 「ごめんなさい」 私はその場で頭を下げた。 「私、あなたのことあまり良く知らなくて……」 「いや結構お話とかしたじゃん! 一緒にご飯食べたし、死地だって二人で乗り越えたじゃん! ぼくのこと、大好きだって言ってくれたじゃん!」 「それは私ではないです」 「誰だよ君?」 「一子です。主人格です。精神病院でのセラピーの末、こうして出て来られるようになりました。これから私を中心に統合が進むみたいです。ですからその、雪さんと仲の良かった二葉は消えて行きますし……もう半ば消えてるようなもんなんですよ」 「違うよ一子ちゃん」 雪は花束を掲げたまま真摯な視線を注いだ。 「ぼくは二葉ちゃんだけとお付き合いしたい訳じゃない。一子ちゃん全体を愛するつもりなんだ。そうでもなければ、誰かも確認せずにいきなり告白したりするもんか」 「そうなんですか?」 「姉さんに言われたんだよ。交代人格ごとに対応の仕方を変えるのは良くないって。一子ちゃんを愛するのなら、それは全員の個性を受け止めて全員を愛する覚悟が必要だって。だから今の一子ちゃんがどの一子ちゃんでも、まずは今そこにいる人格に告白しようと思って」 「それが三浦や五木でもですか」 「そうだよ。相手が男だろうと、それが一子ちゃんなら関係ないぜ!」 そう言って誇らしげに両手を掲げる雪。せっかくの花束から花弁がいくつか地面へと垂れ落ちた。 「きっと一子ちゃんを幸せにしてみせるよ! なんてったってこちとら木更津芸大受かったんだからね!」 そうなのだ。 この男はなんと五浪目にして木更津芸大に合格していたのだ。この男の絵が独自の魅力を手に入れた訳は、新たなモチーフを手に入れたことに尽きる。私の交代人格達との手紙のやり取りで知った人格達の精神世界での素顔を、この男は人物画として描くようになった。 彼らはいつだって幸せそうに笑い、仲が良さそうに肩を組み合っていたりした。それは私の知るいがみ合う交代人格達の姿とは正反対で、まるで理想世界での彼らのように淡い光に照らされていた。 「それは……本当におめでとうございます」 「ありがとう。……で、一子ちゃんはどうするの? 入院してた所為で受験台無しになっちゃったけど、木更津は受けるの?」 「そのつもりです。無事に木更津に浮かれれば、後輩ということになりますね」 「一子ちゃんならきっと受かるよ。じゃあその時まで絵を教えたり色々してあげるね」 「結構です」 「え? でも一子ちゃん、僕のこと良く知らないんでしょ? だったらこれから僕のことを知ってもらう為に、一緒に過ごす時間を持たなくちゃいけないんじゃないの?」 ……持たなくちゃいけないんじゃないの? って、なんで義務みたいになってるんだよ。 「すいません。結構です。絵の勉強は自分で出来ますから。そっちこそ芸大忙しいんじゃないですか? せっかく夢が叶ったんだから大学生活楽しめば良いじゃないですか?」 「いやぁ。まあ、それもそうだと言えばそうなんだけどね」 「友達いないんですか? 同級生と歳が離れすぎてて仲良くなるの無理ですか?」 「……失礼な一子ちゃんだな。ところがどっこい、流石は名門木更津芸大だけあって、五浪くらいはざらにいるのさ。入学式の日に隣に座ってた人が僕より老けててね。声を掛けて見たら七年浪人して入ったっていうんだよ。もちろんすぐに仲良くなったさ。そいつと毎日芸術について熱く語り合う青春の日々がぼくにはあるのさ」 「だったらその人と遊んでてください。それでは」 私は雪に背を向けてその場を歩き始めた。雪はそんな私を追いかけながら。 「待ってよぉお! つれない一子ちゃんだなぁ。君がダメなんだったら、せめて二葉ちゃんと会わせてよぉおお! ずっと離れ離れでつらかったんだからぁあああ!」 しつこい上に失礼な奴だ。私達全員を愛すると言いながら、結局二葉が恋しかっただけじゃないか。 聞いていた通りだ。大した男じゃない。あんな奴と私達が付き合うだなんてありえない。 みんなもそう思うよね? 『そんなことないですよぅ。雪さんは素敵な方です。私達と共に戦ってくれました』 二葉の声がした。 『あいつの根性のお陰でガンマに勝てたところはある。情けない奴ではあるがな』 三浦の声がした。 『キープしといて色々貢がせるってのはどうよ? あんなイージーなのはどうとでも弄べるわ』 四季の声がした。 『確かに実家は太いんだよな。木更津芸大生でもあるし、性格以外は優良なんだよな』 五木の声がした。 『私は別に良いと思う。顔は格好良いしね。それに結構、勇気あるよ』 六花の声がした。その一つ一つに耳を傾けて、私はしばし黙考した後で、雪の方に振り向いた。 「一子ちゃん?」 「しょうがないから受け取ってあげます」 私が両手を差し出すと、雪は感極まったように花束を手渡して来た。 「一子ちゃん……っていうことは……」 「あ、今すぐ付き合うとかではないですよ。それでも、とりあえずお家まで送ってもらうくらいは良いのかなって」 「わ、分かった。じゃ、すぐに僕のポルシェに乗ってもらうね」 嬉しそうな顔で私を車までエスコートして、得意げな顔で助手席の扉を開ける。そして自慢げにハンドルを握ると、どうにもたどたどしい運転で自動車は走り始めた。 話し掛けて来る雪にテキトウに返事を返しながら、私は頭の中の住人達に意識を向ける。しかし誰も声を掛けてくることはなく、その気配を読み取ることもままならなかった。 彼ら彼女らが私に声を掛けてくることは稀だった。強く呼びかけても無視されることもあるし、逆に静かにして欲しい時に騒がしいこともある。そして現れる頻度は少しずつ減っていて、今ではどこで何をしているのかも良く分からない。 それでも。 それでも彼らは私の一部なのだ。彼らは私の代わりにつらい時を生き、私を守り、私の為に戦い、私の人生を築き上げて来た。その一人一人が私にとってかけがえのない心の一部で、だからそれは無くなることはないし、消えることはない。 だからきっと、彼らはずっと私の中にいるのだ。 あの静かで少しだけ気味の悪いお城の中で、しょっちゅう喧嘩したりいがみ合ったりして。それでも互いの存在をかけがえなく大切にしながら、今この瞬間も。 |
粘膜王女三世 2023年12月30日 03時02分24秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2024年01月25日 03時51分42秒 | |||
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