【短編】熱を孕んだ傷 |
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※注意※ 【性的行為を彷彿とさせる描写】、【流血表現】、【近親相姦を示唆する描写】が存在します。ご了承の上お読み下さい。 ふわふわと、綿のような雪が舞う午前三時。 なにもかも寝静まった通りの沈黙は音を吸い込むようで。 ふと目覚めてしまった少女は窓の外のその光景にしばし見惚れたようだったが、すぐに何か面白いものを見つけたように微笑んだ。 「……う……」 寒い。寒すぎて既に体の感覚が麻痺してきたようだ。さっきまであれほど痛みを訴えていた胸の刺し傷からは何も感じなくなっていた。それでも体はかたかたと震える。 「っくそ……」 まさかあいつらが全員共謀していたとは思わなかった。あいつらは俺を殺すためだけにずっと計画を練って、牧内(まきうち)を俺の秘書として潜入させ、そして…… 牧内を灰皿で思い切り殴りつけた感覚が手に蘇る。あいつは死んだだろうか。 この期に及んでも、俺は自分の生き方に後悔はしていなかった。人の道などとうに捨て去ったのだ──戦争で地獄を見て、日本に帰ったら何もかも失われていた。 金の為なら何でもした、その金で得られたものが俺の全てだった。自身が下衆極まりないことは承知している、その上で唯一後悔があるとすれば── 「聖子(せいこ)……」 年端もいかない子供の死に顔が脳裏によぎる。さすがに聖子を死なせてしまった時は後味が悪かった。 あの世で両親と幸せにしているだろうか。あの家族から奪ったものから考えても、俺は地獄で苦しむのが妥当だ。 「寒……い……」 思わず着ているガウンの袖に頭を寄せる。そこから出ている手はべったりと血に濡れている。恐らく胸の傷から出た血は辺りの雪を真っ赤に染めていることだろう。ああ、もう意識も薄れてきた。 もしかしたら地獄で牧内に会うかもな。 はっ、と自嘲した時、ふと近くに人の気配を感じた。 あいつらが止めを刺しにきたかと思い顔を上げると、そこには目を疑うほどに美しい少女がいた。紅茶に溶かす蜂蜜色の髪と瞳。真っ白な衣装。慈愛に満ちた微笑み。 そういえば交渉相手の英国人が言っていたな。そうか、 「お、まえが……天使か……」 天使と呼ばれた少女は一瞬、驚いたように口元を震わせ。その笑みをいっそう深くして、意識を失った男を見つめた。 少女は踵を返すと、足取り軽く屋敷の一室へと向かった。 ▽ 「烏丸(からすま)」 「っ!」 飛び起きた男は驚いた顔で目の前の蜂蜜色を確認し、 「……お嬢ですかい」 とぶっきらぼうに返した。実際は少女以外には『あり得ない』のだが。 なぜなら男——烏丸は、少女以外の人物であれば部屋に侵入される前に気配を感じ目覚めるからだ。 しかしこの少女——麗奈(れな)には、なぜか気配というものがなかった。その為、烏丸は少女が声をかけるまで気づかず、毎回飛び起きる羽目となる。 少女が夜中に部屋にやってくるのは珍しいことではないのだが、未だに慣れない。 「今度は何のご用です」 そして少女が来る時は決まってろくな事がないのだ。 「ん。ふふっ」 麗奈は赤ん坊が玩具を見つけたように笑い、俺の手を引いた。連れられた先は屋敷の外だった。 新雪を踏みしめながら、ちょうど少女の部屋の窓から見えるあたりまで来ると、そこには瀕死の男がうつぶせに倒れていた。鮮血が白い雪によく映えている。白い息がひゅう、ひゅうと口から漏れており、まだ死んではいないようだ。 「これは……また」 麗奈の仕業かと思ったがそうなら俺を起こすことはないだろう。それにその男は烏丸には見覚えのない顔だった。いや、よく見るとどこかで見たような── 「烏丸」 その有無を言わせぬ口調に烏丸はため息をついた。少女を幼子のころから知る彼には麗奈が何を望んでいるかはわかってしまっている。 面倒なことに少女はこの男を『飼いたい』ようなのだ。 出血多量で死にかけていたその男の処置を終え(といっても烏丸は止血をしたのみで、ほとんどは専属の医者に任せたが)、通りを染めていた血や男がここまで歩いてきたらしい道に落ちている血を消して男の痕跡を抹消し終わると、烏丸は屋敷に戻った。 男の状況はどうみても不審だった。この真冬の午前三時にガウン一枚しか身につけておらず、履いていたらしいスリッパが道の途中に落ちていた。そして胸には鋭利な刃物による傷。血を辿った先にあったのは線路だった。 しかしそんなことは、麗奈にとっては関係ないことだろう。 愛玩動物に過去は必要ない。 すべて終わったと告げると、少女は満面の笑みで 「そう。ありがとう」 と言った。 ▽ 翌朝。がしゃん、という大きな音で目覚めた烏丸は嫌な予感がした。昨日麗奈が拾った男のことを思い出し、彼は急いで男の病室へ向かった。 扉を勢いよく開けると、横倒しになった点滴と、床に落ちた鮮血が真っ先に目に入った。驚いた彼が目線を床から上げると、そこにはベッド脇に立つ麗奈と、離れた所にある出窓の縁に手を引っ掛けるようにして倒れた男がいた。 「旦那!」 烏丸は慌てて男を抱き起こした。どうやら胸の傷が開いたようで、浅黒い肌は気持ち青ざめ、荒い息をついている。 「大丈夫ですかい。しっかりして下さい」 烏丸が声をかけると、うっすらと瞼が開く。眉をきつく寄せた表情はいかにも苦しげだった。口端から血が滴っている。 「すぐ医者を呼びますんで」 「……いらん」 男が掠れた低い声で唸る。 「そう言いましても、死んじまいますよ、旦那」 うう、と男がうめく。今にも男の意識が途切れそうになっているのを感じ、烏丸はとりあえずベッドに男を寝かせた。男は目を閉じて忙しない呼吸を続け、時折呻いた。 側に立つ少女は微動だにせず、ただ微笑んで男の顔を見つめていた。 医者は深夜どころか早朝にまで叩き起こされたことに苦言を呈したものの、きびきびと診察を行った。医者は「絶対安静ですよ! 絶対ですからね!」と念押しして医務室に戻って行った。 「お嬢」 声をかけると、麗奈がゆっくりとこちらに顔を向ける。 「さすがに怪我人相手に無体を強くのは、どうかと思いますぜ」 「何もしてないわ」 「嘘をつくのも良くない」 「本当よ。少し触っただけなのに、あの手負いの犬が逃げようとしたの」 やれやれ。烏丸は頭を抱えて男に同情した。 少女の言う『少し』が本当に少しだった試しはない。根っからのサディストである少女は恐らく、男の常識では初対面で絶対にすべきではない事をしでかしたに違いない。男が抵抗したせいで、昨夜の傷が開いたのだろう。 男の意識が戻ったら流石に警告くらいはしてやるかと烏丸が思っていると、麗奈は真っ白いネグリジェの裾をひらめかせ、扉に向かった。 「湯浴みしてくるわ」 「……行ってらっしゃいませ」 後は頼んだと言うように白い手を振ると、少女は蜂蜜色の髪を波打たせて部屋を出ていった。 「……っ、」 しばらくすると、男が身動ぎした。 「気がつきましたかい?」 「……」 男はぼんやりとこちらに目を向けた。 「無闇に動いたら駄目ですよ、昨夜は死にかけて雪の中に倒れていたんですから」 「お前は……誰だ?」 「烏丸と申します。麗奈(れな)お嬢の護衛兼召し使いです」 「れな、お嬢……」 麗奈の名を聞いた壮年の男は、眉間の皺を深くした。 「もしや、さっきの」 「旦那の言うのが年端もいかない少女でしたら、その通りです」 それを聞くやいなや、男の顔は突然怒気をはらみ、同時にじわりと赤く染まった。 無理に寝床から出ようとするので、なんとか肩を押さえて止める。男は上体を起こした状態で、点滴の刺さっていない右手でくしゃりと自身の髪を掴んだ。艶を失った黒髪には、所々白いものが混じっている。 「あ、あいつは、気でも狂っているんじゃないのか」 「お気持ちお察しします。お嬢は何をやらかしましたかね」 興味本位でそう聞いてみると、男の瞳が微かに揺れる。 「あいつ、あの女は、」 男の言葉がつかえる。烏丸は頷いて先を促した。 「笑いながら、俺の首を締めやがった」 ここまでは烏丸の想定の範囲内だった。しかし、その後に男が狼狽えながら続けた言葉は少々意外だった。 「その上、無理矢理口づけをされ、舌まで嚙まれた──息ができず、殺されると思って窓から逃げようとした。が、傷が痛んで失敗した」 「なんとまあ」 烏丸は嘆息した。流石の彼でも、おのれの女主人が、拉致監禁と加虐趣味に加えて親ほども年上の男性を襲おうとしたという事実は受け入れ難いものだった。 「お気の毒に」 烏丸は、この哀れな飼い犬と、輪をかけて異常になったらしい気まぐれな少女の両方に向けて、同情の言葉を紡いだ。 目が覚めて早々にそんな目に遭えば、男が決死の思いで逃げたのも詮無いことだ。 「そうだ、旦那。お名前を教えてもらっても?」 「……」 男は、今度は明確な意思を持って沈黙した。言いたくない、ということか。男も相当に訳ありのようだ。 「せめて、何か適当な呼び名を教えてもらえやしませんかね。お呼びする時に不便で仕方ない」 「……なら、俺のことは大倉(おおくら)と呼べ」 「下の名は」 「喜八郎(きはちろう)、としておこう」 その偽名に、烏丸は覚えがあった。少し昔、高名だった鉄砲商だ。軍需産業に貢献したが、『死の商人』などと揶揄されることもあったと言う。酔狂な名を名乗ったものだ。 「へい、分かりやした。大倉の旦那」 「旦那はやめろ」 「そしたら、大倉様」 「様もいらん」 「大倉どの」 男改め大倉は、呆れたように肩をすくめて首を振った。ずいぶん欧米かぶれした仕草だ。 「……旦那でいい」 「大倉の旦那に、一つ言っておきたいことがあります」 「何だ」 「お嬢には決して逆らわないようにして下さい」 「まさか、俺がそれを聞き入れるとでも?」 大倉は憤慨したようで、しかめ面で言った。 「ご勝手に。破ればご自分の寿命を縮めるだけですよ」 「……どういうことだ?」 「旦那には非常に酷な事実ですが、お教えしましょう」 大倉から目を離さないまま、烏丸はそうっと背後にあるサイドテーブルの引出しを開け、右手をその中に差し入れた。 「旦那は、お嬢の三匹目の愛玩動物です」 引出しから指先で注射器を取り出し、先端のキャップを大倉に見えない位置で外す。 「俺が、愛玩動物だと?馬鹿な」 「信じるも信じないも自由ですが、本当のことです」 「馬鹿を言うな。じゃあ、一匹目と二匹目はどうしているんだ」 大倉は突拍子もない話に気を取られているようだが、烏丸は油断せず大倉を見つめ、注射器を右手に構える。 「お嬢が虐めに虐めぬいて、二匹ともいつの間にか消えちまいました。お嬢が、調教している間に殺しちまったのかもしれません」 烏丸はあやまたず瞬時に大倉の腕を掴み、注射器の中身をすべて血管に流し込んだ。 「は……⁉」 大倉の目が見開かれ、抵抗するように唇が開いて赤い舌が覗いたが、大倉はすぐさま枕にくずおれた。 「恨まないでくださいよ、旦那」 特注の筋弛緩剤の効きは流石だ。即効性が売りだから、今の大倉は指一本動かせないだろう。 「こっちも仕事なんです。……それに、お嬢も色々と、訳ありなんでね」 脱力した身体をベッドに横たえた大倉は、目で必死に何かを訴えるが、烏丸は冷たい言葉をかけるだけだ。 「殺されねえように、せいぜいお嬢の機嫌を取って下さい。お嬢に気に入られたら、他の犬よりかは長生きできますよ。多分ね」 烏丸は最後の情けとして、『お嬢に気に入られたところで、地獄のような生活の幕開けだ』──という点は、伏せておくことにした。 ▽ 麗奈に『準備ができた』と告げ、大倉の病室に案内すると、少女は上機嫌で部屋に入って行った。去り際に、 「怪我人なんですから、治るまで容赦してあげて下さいよ」 と注意しておいたが、反応は返ってこなかった。 烏丸は護衛でもあるため、麗奈からあまり遠く離れる訳にもいかない。かといって少女の加虐趣味を、部屋の壁越しの悲鳴で感じたくもない。 折衷案として、彼は近くの部屋にある最新のテレビジョンを付けて、音量をできる限り大きくして見ることにした。 革張りの長椅子に腰掛け、煙草に火を付けて紫煙を吸い込む。白黒の画面では身なりの良い男どもがしきりに討論していた。早口すぎて何を言っているかまるで分からない。 烏丸は背もたれに身体を預け、思案にふけった。音量を最大にしたせいで思考が邪魔されるが、おかげで今の所は大倉の悲鳴らしき声は聞こえてこない。筋弛緩剤のせいで悲鳴すらあげられない状態なのかもしれないが。 参ったなと烏丸は思った。麗奈の歪みは一年前から、次第に酷くなっている。あの少女は最初から性格こそ悪かったものの、あそこまで外道では無かった。 原因は知っている。だが、対処法はとんと出てこない。そもそも、烏丸には手の出せない問題なのだ。 少女との出会いを、彼は紫煙をくゆらせながら思い起こした。 烏丸が麗奈と出会ったのは七年前だ。 麗奈は生まれながらに特殊な人間だった。それは生来の気質と、その周囲を取り巻く環境、どちらも狂気に満ちていたためだろう。 昭和二十年代から、今現在の三十年代まで、戦後の混乱期を利用して新興の暴力団は急速にその勢力を拡大していった。麗奈の父親が親分を努めていた清陵会(せいりょうかい)も、その内の一つだ。的屋、博徒、密売などから富を得ていた清陵会は、見る見る内に関東有数の暴力団に成り上がっていた。 烏丸は当時、清陵会の舎弟だった。入ったばかりの若造だった彼は、下っぱも下っぱのところにいた。 ある時、烏丸の兄貴分が大失敗をやらかした上、その失敗を彼一人になすりつけ、当の本人はとんずらしたという事件が起こった。 なんとか親分に許されるような落とし前を付けようと、血走った目で躍起になった舎弟たちに取り囲まれ、烏丸は絶体絶命だった。 そこを救ったのが、当時八歳の麗奈だった。少女は平然と、凶器を手にした舎弟たちの中に分け入り、烏丸の前に立って言った。 「お止しなさい。彼を罰しても、お父様はお喜びにはならないわ」 凛とした、それでいて頭の芯を甘く揺らすような独特な声音をよく覚えている。 「彼は、鉄砲玉として、わたしが貰うわ。お父様にお許しも頂いたの」 麗奈が花のように可憐な笑みを浮かべ、親分直筆の手紙を掲げると、舎弟たちは大人しく凶器を手放した。 そうして烏丸は麗奈の手足として、直々に動く鉄砲玉となった。とは言っても荒事ばかり命じられた訳ではない。大抵の仕事は護衛と雑用である。万が一に備えた懐刀、それが彼に与えられた役目だった。 麗奈の並外れた王者の資質と神がかった外見は、何処へ行っても異質だった。母譲りだという異人の血が入った見た目と、極道の親分を努める父譲りのカリスマが奇跡的に融合した、まさに逸材と言える。 恐らく、麗奈の父は、少女が男に産まれて来なかったことを口惜しく思ったことだろう。若頭をしていた長男は、父の血は何処へ消えたかと思うほどに甘すぎる男だったからだ。 それでも、父は麗奈をなるべく利口になるよう、帝王学を施して育て上げた。哀れな父親は気づいていなかったのだ。少女の身の内には、父の持つ毒蛇のような狂気までもが受け継がれてしまっていたことを。 麗奈の父——清陵弦紫(せいりょうげんし)は、偉大な当主ではあったものの、同時に異常者でもあった。麗奈の母は、少女がまだ小さい時に肺の病気で早世しており、父はその欲望の捌け口を母に瓜二つの幼い麗奈に向け始めたのだ。 麗奈の兄——紫苑(しおん)は全く気づいていなかったが、烏丸は知っていた。烏丸は、あの麗奈が泣いたところを一度だけ見たことがある。あれは、確か少女が十二の時だったか。 あの日、麗奈は血を流しながら、張りつめたような表情で彼の元へやってきた。 烏丸は面食らって駆け寄った。少女はハンカチーフで右目を押さえていて、その手を取ってどけると、右目のすぐ近くに鋭い切り傷が走っており、手から血が滴った。 麗奈ご自慢の、紅茶に溶かす蜂蜜色の髪は、傷の近く、右頬辺りの部分だけざっくりと切られていた。着ていたワンピースは、乱暴されたのがはっきりと見て取れるほどに乱れていた。 医者を呼ぼうとすると、麗奈は必死に止めた。 「お願い。誰も呼ばないで。このことは他言無用にして」 「ですが、お嬢」 「これは命令よ」 仕方なく烏丸は麗奈の言葉に従い、彼自身で少女の手当をした。 「何処のどいつに、やられました」 麗奈は蜂蜜色の目を怯えたように伏せ、か細い声で言った。 「おとうさま、なの」 烏丸は全てを察し、それ以上その事に触れることを止めた。 齢十二の少女を組み敷いたとは、度し難い屑だなと彼は思った。かといって、自分に麗奈の父をどうにかする程の力は無い。 「お嬢、御髪はどういたします」 烏丸が聞くと、麗奈は震えた声で言った。 「烏丸が切り揃えなさい」 「それはご勘弁を……」 「命令です」 「……分かりましたよ。仕上がりは期待せんで下さい」 麗奈の首回りにタオルを巻いて美しい金糸を切り始めると、少女は身を震わせ、嗚咽を漏らし始めた。 烏丸は敢えて聞こえない振りをして、髪を切り続けた。 この一件があってから二年半が経ち、麗奈が十四になったばかりの時期。特に冷える冬の日に、麗奈の父は死んだ。死因は、表向きは抗争による暗殺。しかし烏丸は真相を知っている。 毒を盛ったのは、麗奈だ。烏丸は下手人としてそれを実行した。 父が、烏丸に言付けて麗奈に残した最後の言葉。それは『どうか、紫苑を頼む』というものだった。烏丸はそれを聞いたとき、「この男はもしかしたら、殺されることを知っていて毒を飲んだのかもしれない」と、そう感じた。 その後、清陵会の実権はぼんくらの若頭に渡り、麗奈はその兄を陰から操る形で、今も会の運営に助言をしている。あれほどのことをされても、少女は父親の遺言を頑なに守っているのだ。 その後からだ。少女が、父親に面影が似ている男を拐って飼い始めたのは。 ふと意識が浮上し、視線がテレビジョンに吸い込まれる。さっき見たばかりの顔が、そこに写ったためだ。 『二年前に起きた小原聖子(おはらせいこ)ちゃん身代金殺人事件の重要参考人であり、殺人の嫌疑がかけられていた豪商、藤堂彪流(とうどうたける)氏が行方不明となっていることが明らかになりました。』 若干不機嫌そうな表情の、藤堂という男の写真が、テレビジョンに大映しになっている。他人のそら似ではあり得ないほど、その顔は大倉と一致していた。 『藤堂氏は、下関駅から東京に向かう豪華寝台列車の走行中、忽然と消息を絶ったとのことです。藤堂氏の客室には血痕が残されており、警察は事件の可能性もあるとして捜査を進めています。もし情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、以下の番号まで──』 テレビジョンをぶつりと消す。その途端、病室から微かに、噛み殺し切れなかったとおぼしき声が聞こえてきた。 『ぎっ、……ぁっ』 その大倉の声は、苦痛のみとは言い難い程に、甘い色に染まっていた。 「厄介事が増えたな」 烏丸は舌打ちして煙草を灰皿に押しつけ、両手で耳をふさいだ。 ▽ その夜、大倉は酷い高熱を出した。烏丸は麗奈に命じられ、付きっきりで看病した。熱が出た原因に、多少は責任を感じたのかもしれない。 悪夢を見ているのか、魘されている大倉の額や首元の汗を拭う。首元に点々と散った虫刺されのような朱い痕や猟奇的な歯形は、できるだけ直視しないように気を付ける。水で冷やした手拭いを額に乗せてやると、大倉は夢うつつの内に何やら呟いた。 「せいこ」 「……?」 「せいこ、っ、せいこ……」 女性の名前。恋人かとも思ったが、朝に見た報道番組でその名を聞いたことを思い出した。 小原聖子ちゃん身代金殺人事件。日本初の身代金殺人事件であり、戦後最悪とうたわれる犯罪だ。 二年前、金貸しとして巨額の富を集めていた小原家の、当時四歳のご令嬢であった聖子ちゃんが誘拐され、世間は大騒ぎになった。警察と両親は必死に捜したが見つからず、三日後に小原家には身代金五百万円を要求する脅迫状が届いた。 小原夫妻は金をかき集め、藁にも縋る思いで身代金を用意して犯人と接触し、金を全額引き渡した。しかし、聖子ちゃんは返されず、警察による捜索も二週間に及んだ時、聖子ちゃんは遺体で発見された。首の骨を折られて、用水池に浮かんでいたのだ。 訃報を聞いた聖子ちゃんの母親はショック死し、お腹にいた聖子ちゃんの弟か妹も道連れとなった。 全てを失った父親は精神を病み、一年後に拳銃自殺したらしい。 この一連の顛末は、普及しだしていたテレビジョンでも盛んに報道された上、新聞の一面を占めることも珍しくなかった。この悲惨な事件を日本中の誰もが話題にし、痛ましく思ったものだ。 犯人は未だ確定していない。現在嫌疑をかけられている藤堂氏の動向と、検察の判断が注目されているところだった。 面前のこの男は、果たして藤堂なのか。そして、非道にも聖子ちゃんを殺した、真犯人なのだろうか? ともあれ、聖子ちゃんの死について何かを知っていることは間違いなさそうだ。 烏丸がじっと、月明かりに照らされた大倉の顔を見つめていると、その閉じた瞼の下からするりと一滴、涙が落ちた。 「聖子……すまない」 朝になると、烏丸は大倉の頭に乗せていた手拭いの交換に向かった。戻ってくると、いつの間に入ったのか、ネグリジェ姿の麗奈がベッドの傍らの椅子に座って微笑んでいた。 「お早うございます、お嬢。よく眠れましたか」 烏丸は少し気まずさを感じながら挨拶した。 「ええ」 少女はいつもより顔色が良さそうで、形の良い頬は薔薇色に染まっている。 「今日は、駄目ですからね。大人しくしておいて下さい」 麗奈に釘を刺すと、意外にも少女は素直に頷いた。 「昨日は、悪いことをしたわ。今日は私、忙しいの。だから、これだけ贈りに来たのよ」 麗奈はそう言って大倉の首を示す。そこには、真新しい革製の首輪が巻かれていた。刻印を見るに舶来品のようで、高価そうな逸品だ。 「お嬢はこの犬がずいぶんとお気に召したようですね」 「そうね」 麗奈は、大倉の汗ばんだ髪をそっと撫でると、立ち上がった。 「今日は応接間でお兄様とお会いするから、烏丸は珈琲を淹れて」 麗奈の兄である紫苑は、少女の助言を訊きに時たまこの屋敷を訪れる。少女は肌が弱く、滅多に外には出たがらないので、たいていは客の方がこの屋敷に足を運ぶ。そういった客をもてなすために、腕のいい烏丸が珈琲を淹れるのがお決まりの流れだ。 「お安い御用です」 「烏丸の珈琲はとても美味しいわよね。楽しみにしているわ」 少女は機嫌良く部屋を出て行った。 大倉が中々目覚めなかったので、烏丸は持ってきた朝食に埃避けを被せておいた。一旦大倉の世話は他の使用人に頼み、自分の朝食を手早く済ませる。 他の雑事を片付けていると、昼前くらいになって紫苑が訪ねてきた。 「しばらくぶりだな、烏丸。少し痩せたか?」 紫苑は、人懐っこい笑顔を烏丸に向けた。甘ったれで凡庸な御仁だが、それは極道の当主という前提があるからこその評価だ。美丈夫という程でもないが、表情豊かで人たらしなので、俳優でもやっていれば時の人になれたかもしれない。 「そうですかい? 紫苑様は、お変わりないようで」 「はは、そう見えるか? 実は少々太ってしまったんだ。接待が多くてな」 「痩せるよりは良いと思いますね。元々紫苑様はちいと細かったですから」 「俺は筋肉をつけて体重を増やしたいんだがな。まあ、褒め言葉として受け取っておく」 「へえ。そしたら、応接間へどうぞ。ご案内致します」 紫苑を応接間へ通し、麗奈を呼びに部屋へ行くと、麗奈の方は支度が終わっていたようですぐ出てきた。きちんと髪を結い上げ、長袖の落下傘の形をした紺色のワンピースを着こんでいて、化粧もよく似合っている。 「お似合いですぜ、お嬢」 「あら。ありがとう」 麗奈を応接間まで送ると、烏丸は少女の言いつけ通り珈琲を淹れに台所へ行った。あるじが期待してくれているのだ、腕によりをかけて淹れよう。 珈琲の上手い淹れ方は、ここの使用人から教えられた。最初は散々な出来だったが、長年やっていると板についてきた。珈琲の世界は奥が深く、珈琲豆を色々と注文して比べてみることが、今では烏丸の密かな楽しみになっている。 湯を沸騰させている間に豆を量り、手早く挽く。次にフィルターという紙を折り、ドリッパーというガラス器具に乗せる。湯が沸騰したらケトルに移して少しだけ冷まし、フィルターを湯通しする。フィルターに挽いた豆を乗せて平らにならし、湯を注ぐ。この際、最初に湯を少量だけ入れ、三十秒ほど蒸らすことが肝要だ。 蒸らしたら、湯を少しずつ少しずつ注ぐ。粉がふわりと膨らんだところで、膨らみが少し落ち着くのを待ち、また注ぐ。覚えたての頃はこの部分で苛々したものだが、今は豆の薫りを楽しみながら待つことができるようになった。 そうして淹れた珈琲を、温めたカップに注いで完成だ。可愛らしい洋菓子(名前は忘れてしまった)を皿に移し、珈琲と共にお盆に載せる。最後に砂糖と濃いめのミルク、そして匙を添えると、烏丸はお盆を丁寧に持って応接間へと進んだ。 応接間に着き、ノックをする。二人はなにやら話し込んでいたようだが、一旦中断して烏丸に入るよう促した。 二人の前の低いテーブルに珈琲と洋菓子を置くと、烏丸は麗奈のそばにお盆を持って立った。麗奈と紫苑の感想を聞くためだ。 麗奈は珈琲を、ミルクと砂糖を入れずに一口味わって、ほうと息をついた。 「とても美味しいわ」 紫苑も、ミルクと砂糖を入れた後に珈琲をすすり、感嘆の声を上げた。 「うまい。……また腕を上げたな、烏丸。前に飲んだときの数倍、美味しい気がする」 「ありがとうございます、光栄の至りです。でも、そいつは褒めすぎですよ」 紫苑はこの豆が気に入ったようだ。在庫を確認してもう少し注文しておこう、と烏丸は思った。 「こんなに使える部下が、俺にも居ればな。良かったら、俺のところに来ないか?」 冗談めかして言う紫苑に、烏丸は礼をして固辞する。 「お戯れを。俺のあるじは、麗奈お嬢様ただお一人です」 「はっは! 見上げた忠義心だ」 「もう、お兄様ったら。烏丸をからかわないで下さいませ」 「すまん、すまん。ほんの冗談だ、お前が烏丸を手放す訳がない」 「ふふ」 しばし二人が珈琲と洋菓子を味わうのを待ち、用が済んだ食器類を回収した。 「それでは失礼いたします。ごゆるりとお過ごし下さい」 「ああ。ありがとう」 「烏丸、片付けが終わったら後は自由にしていいわ。あ、犬の様子は見ておいてね」 「はい」 「ほう。麗奈は新しい犬を飼ったのか。確か、前飼っていた犬は死んでしまっただろう」 烏丸はぴくりと身動ぎした。この凡庸な兄は何も知らずに、麗奈の語る『犬』はただの犬だと思い込んでいる。麗奈は平然として答えた。 「一昨日、屋敷の前で酷い怪我をしているのを見つけて、拾ったの」 「そうすると、野犬か。……大丈夫か? 病気を持っていないだろうか」 「大丈夫よ、お兄様。お医者様にも、よく見てもらったわ」 「そうか。なら安心だ。前の犬は早死にしてしまったようだから、今度の犬は長生きするといいな」 麗奈は兄の言葉に、悪魔のような笑顔を見せた。 「ええ。……本当に」 烏丸が片付けを終えて大倉の病室に入ると、医者が大倉を診察していた。大倉は上体を起こしており、顔色はまだ悪いものの、昨夜よりは大分回復したようだった。 医者は大倉の肌に残る情交の痕跡にも動じることなく診察を終え、手短に結果を述べた。 「傷のほうはまだ予断を許しませんが、外傷性の発熱のほうはずいぶん良くなったようです。この分なら、命の危機は脱したと言えるでしょう」 大倉は気怠そうに医者の話を聞いていた。首輪は着けたままだ。 テーブルに置いていた朝食を見ると少し手を付けられた形跡があったので、意外なことに、大倉は首輪を着けたまま大人しく食事をしたようだ。 麗奈に脅されたのか、絆されたのか、もしくはこの傷では逃げられないと観念したのかは分からないが、大倉はすぐに脱走を企てることはなかったらしい。 医者は淡々と話を続けた。 「とはいえ、傷はかなり深く、肺に達していましたから、完治には数ヶ月から半年程度はかかるでしょう。依然として破傷風などの感染症に罹る危険があるため、処方した薬を必ず飲んで、くれぐれも安静にお願いいたします」 「……ああ」 医者はちらりと大倉の首輪を見やった。 「ま、安静にしろと貴方に言っても無駄かもしれないですがね」 大倉は不満げな顔をして黙り込んだ。医者はお大事にと大倉に告げ、薬の入った小包をサイドテーブルに置くと、病室を出て行った。 起こしていた上体を倒し、大倉は目を閉じて深く息をついた。 「お体はどうですかい、旦那」 「良くはないが、ましにはなった」 「それは良かったです」 「ここは、どこだ。麗奈というのは何者なんだ」 「清陵会の親分の妹君、清陵麗奈様のお屋敷です。昨日いらっしゃったのが、麗奈お嬢様ですよ」 そう教えると、大倉は非常に驚いたようだった。 「清陵会って、あの清陵会か。関東でも有数のやくざ者の集まりだな」 「その通りです。少し前に麗奈お嬢様のお父上であり、先代の親分でもあった弦紫様がお亡くなりになったので、現在はご子息の紫苑様が親分になっています。紫苑様は、麗奈さまの兄君にあたります」 「たまげたな。あの変態女が、清陵会のご令嬢とは」 「その点については、俺も返す言葉がありません」 烏丸は気になっていた疑問を、さっさと大倉にぶつけてみることにした。 「旦那。……旦那の本当の名はもしや、藤堂彪流なんですかい」 大倉は再び瞠目したが、その質問が来ることを半ば予測していたのか、にやりと口の端を上げた。 「そうだ、と言ったらどうする」 切り返された。しかし、烏丸の答えは端から決まっている。 「どうもしません。旦那は今となっては、お嬢の飼い犬だ。犬の過去なんてお嬢にとっては取るに足らないことですから。お嬢が気にしないことは、俺も気にしないようにしてるんです」 大倉は拍子抜けしたような顔をした。 「変わった奴だな」 「よく言われます」 「まあいい。……どうせ俺には行く当てもないし、傷は深い。しばらくここにいさせて貰うとしよう」 「旦那は、それを選べる立場ではないですしね」 「減らず口を叩くな」 こうして、麗奈の三匹目の犬は屋敷内での生活を始めた。大倉の病室の扉には外側から鍵が取り付けられ、その鍵を開ける鍵は麗奈と烏丸だけが所有することになった。 ▽ それからというもの、麗奈は足しげく大倉の病室へ通い、夜に病室に入ってそのまま朝まで泊まり込むことも珍しくなくなった。 烏丸はある程度こういった状況に慣れていたため、そこまで動揺はしなかったが、大倉を世話しに病室へ入るたびに情交の痕が増えているのをみると、居たたまれない気持ちになった。 烏丸はある事を不思議に思っていた。一匹目と二匹目の時には、麗奈は苛烈に犬を躾け、屈服させてはいたが、犬たちと性的な関係を持とうとすることは全く無いように見えた。しかし今回は初対面から口づけまでして、積極的に関係を持とうとしている。一体どういう風の吹き回しだろうか。 麗奈も年頃で、そう言ったことに興味が出てきたから? それとも、単純に好みだったのだろうか。考えてみたが、どれも違うような気がする。父に性的な衝動を向けられていた少女にとって、肉体関係というのは重要な意味を持つはずだ。おそらく、もっと複雑な理由があるのだろうと烏丸は思った。 もう一つ、疑問に思うことがあった。少女は大倉の肌には執拗に痕を残すのに対し、少女の肌には一点も痕が散っていない。病室から時折聞こえる声も、大倉のものだけだ。しかしこれは、少女の趣味でそうしているとも考えられる。病室の中で行われていることをつい想像しそうになってしまい、烏丸は頭を勢いよく振って思考を断ち切った。 一ヶ月ほど大倉の世話をするにつれ、食の好みなども分かるようになってきた。大倉は洋食が好みなようで、魚より肉を好む。異人風の見た目に反し、和食しか食べず焼き魚が大好物である麗奈とは正反対だ。 二人は性格も対照的だった。大倉は何でも斜に構えて冷笑するのに対し、麗奈はいつも正面から挑んで叩き伏せ、花のような笑みを浮かべる。ここまで違うのにも関わらず、よく相性が良かったものだと、烏丸は思った。こういうのは違う方が話しやすいのかもしれない。 なんにせよ、大倉を飼い始めてからというもの、最近悪かった少女の体調や精神状態は目に見えて良くなったので、烏丸は胸をなでおろした。大倉がどういった心持でいるのかは烏丸には分からないものの、今のところは、大倉は愛玩動物に甘んじてくれているようだ。 しかし日が経つにつれ、麗奈の行為は目に余るものになっていった。二ヶ月が過ぎた頃、少女は大倉の首輪に金属製の鎖を付けて、屋敷の中をよく一緒に回るようになった。 しかも、屋敷内でところ構わず大倉を愛で始めたりするものだから、使用人たちからも苦情が出はじめた。烏丸は人間の気配に敏いので、今のところ情事の最中に出くわしたりはしなかったが、際どいところに居合わせてしまったことはあった。 その時、烏丸は屋敷の大きな資料室で調べ物をしていた。奥の本棚から物音がしたので一応見に行ってみたら、そこには背を壁に預けたままずり落ちるようにへたり込んでいる大倉と、それに覆いかぶさるようにして口づけている麗奈がいた。 麗奈が気配に勘づいてこちらを振り向いたとき、烏丸は寿命が数年縮むような心地がした。上気した少女の顔には不釣り合いな、獣のような光を帯びた瞳がぎらぎらと光っていたのだ。その瞳に睨まれて烏丸は腰を抜かしかけ、その瞬間に少女は正気に戻ったようで、口端を拭って立ち上がった。 「ごめんなさい、烏丸。驚かせたわね」 「お嬢~、場所は選んで下さいよ」 烏丸はわざと軽く流し、すぐさま退散した。資料室の扉を閉めると、早まった動悸を感じ、烏丸は頭を抱えた。 あの時ちらりと見えた大倉の羞恥に染まった顔は、男の烏丸から見てもひどく扇情的だった。唾液のしたたる唇が驚きに軽く開き、揺らめく漆黒の瞳には涙の膜が張っていた。口づけだけでああなるまでに、どれだけ調教されたのだろうか。少女に聞いてみたい気もしたが、見えている虎の尾を踏むほど烏丸は愚かではない。 確かにあんな場面にしょっちゅう出くわしていたら使用人たちも気が気でないだろう。烏丸は麗奈に一度きっちりと言っておく必要があるなと思った。あの少女が聞き入れてくれるかは分からないが。 差し迫った問題はもう一つあった。大倉の健康状態が悪化してしまったのだ。 「肝臓が悪くなっています」 大倉が、身体がむくんでいると訴えてきたので診察させたところ、医者はそう告げてきた。 「いわゆる肝機能障害というものですな」 「原因はなんだ」 大倉は見るからにしんどそうに言った。彼はここ最近、食事もあまり量を食べようとしない。食事の途中で顔をしかめ、手を止めてしまうのだ。 「恐らくは、筋弛緩剤の過剰投与が一番問題でしょう。私からも麗奈お嬢様にお伝えしておきますが、烏丸さんも気をつけておいてください」 「ははあ、承知しました」 筋弛緩剤は、大倉のような犬の脱走防止のためと、命令を聞きやすくさせるため、麗奈が多く使用する薬物だ。副作用はふらつきやめまい、眠気など。他に吐き気や食欲不振も現れる場合がある。そして、長期投与によって起こるのが、肝機能障害だ。 医者は、お嬢様のところに行ってきますと言って部屋を出て行った。 「烏丸」 珍しく大倉に呼ばれ、烏丸は顔を上げた。 「何ですかい、旦那」 「お前に頼みがある」 「へえ」 「筋弛緩剤を使われそうになったらできるだけ大声で叫ぶから、その時は麗奈を止めてくれ。俺は身体が弱っている。麗奈は少女のくせに力が強いから、今の俺では止められないかもしれん」 「……分かりました」 実は烏丸は、大倉に頼まれなくてもそうするつもりではあった。 少女は今のところ、この犬を殺したいわけではない。いたずらに愛玩動物の寿命を早めるような真似は、少女自身のためにならないだろう。ただ、大倉が彼にしては弱気な言葉を吐いてきたのは気にかかった。 「どうかしましたかい。旦那にしちゃあ、いやに弱気ですぜ」 「ああ……」 大倉はベッドに腰かけたまま腕を組んでうつむいた。ぼさぼさの黒髪が、一房額に落ちる。 「昨日麗奈が、『大倉のことを、お父様と呼びたい』と言ってきた」 烏丸はそうきたか、と呻いた。 「あいつはファーザー・コンプレックスってやつか?」 「ふぁー……何ですって?」 「ファーザー・コンプレックス」 烏丸は首を捻った。聞いたことのない英語だ。 「学がないもんでとんと聞いたことがありませんね。もともと横文字は苦手なんです」 「そうだな……厳しい父親に、愛情表現をされないまま成長したせいで生まれる、父親への強い執着のことだ。こう言えば分かるか?」 「良く分かりました、旦那は博識ですね」 「まあ、英国人ともやりとりしていたからな」 「そうなんですか」 大倉は英国人とやりとりするような仕事をしていたらしい。烏丸の知る限り、藤堂は諸外国と取引のある豪商だったはずだから、辻褄は合っている。 「話が逸れた。……どうなんだ」 大倉に真剣な目で問われ、烏丸は答えに窮した。烏丸に、麗奈の心の内など分かるはずがない。ある程度の推測はできるが、あの少女は生来気まぐれな上、他の人間とは違う次元に生きているような存在だ。烏丸の考えが合っているとは思えない。 しかも、少女の懐刀である自分は、あるじの暗部を軽率に話すわけにもいかない。その相手が犬だとしてもだ。 「俺には分かりませんね。お嬢は俺なんかが推し量れるような御仁ではありやせん」 「麗奈の死んだ父親——弦紫といったか。その男の死因と、犯人は」 「お父上は、何者かに暗殺されたんです。毒殺でした。他の暴力団との抗争が原因と言われていますが、犯人は未だ捕まっていません」 「弦紫と麗奈は仲が良かったのか」 「……良かったと思いますよ」 大倉は少し考え込んだ。 「弦紫が死んだのは少し前といったが、いつだ」 「一年ほど前です」 「麗奈が最初の犬を飼ったのは?」 「ええと……いつでしたっけ」 曖昧に誤魔化すが、大倉はきらりと目を光らせた。しまった、勘づかれた。 「お前は何か知っているだろう、烏丸」 「何も知りやしません。そんなに鼻が利くもんは、ここではすぐお役御免になる」 「……そうか」 烏丸の目から強い覚悟を見て取ったのか、大倉は感心したような顔で追求をそこで止めた。烏丸は内心で安堵の息をついた。 「烏丸、お前は主人のことが大事なんだな」 「命の恩人なんです」 「そうなのか」 「お嬢に助けられた時から、俺はお嬢の道具として生きることを決めました。それは今も同じですよ」 「……お前のことを少し見直した。そんな熱い男だとは思っていなかった」 「お褒めに預かり光栄です」 「だが、分からんな。麗奈は清陵会の令嬢である上、十五の子供だぞ。こんな殺人犯かもしれない馬の骨を大事な主人に近づけて、お前は心配にならないのか。俺が隙を見て反撃して、麗奈を殺すかもしれないだろう。それに、襲われて子供ができないか、とか……」 「お嬢はそういう所はしっかりしてますから、隙なんて見せないでしょう。子供に関しては、心配いりません」 「どういうことだ?」 「詳しいことは旦那には言えません」 大倉はいぶかしげに烏丸を見た。言えるわけがない。麗奈は父親からの性的虐待の結果として、子供を産めない身体にされたのだ、などと。 「この屋敷のやつは、どいつもこいつも気狂いだな。十五の子供にあんな振る舞いを許しているのは、異常すぎる」 「度が過ぎている時は俺が注意します。今回は特に行き過ぎていますから、きっちり叱っておきます。旦那が気を揉むことはありませんぜ」 大倉は呆れたような顔をし、ベッドに転がるとそっぽを向いてしまった。烏丸はその背中に一礼して、麗奈の部屋に向かった。 ▽ 麗奈の部屋に向かうと、説明を終えたらしい医者が一礼して部屋から出てきた。その後に、少々顔が青ざめた少女がふらりと出てくる。 「……烏丸」 「お嬢、顔色が悪いですぜ。大丈夫ですか」 「大丈夫。それよりも」 「医者の説明を聞いたんですね。あまり、旦那の肝臓に負担を掛けないようにくれぐれもお願いします。お嬢も、あの犬は長生きさせたいんでしょう」 麗奈は唇を噛んで頷いた。 「……分かった」 「それから、鍵のついた部屋の中以外でおっぱじめるのは止めてください。使用人が困っちまいます」 烏丸がそう言うと、麗奈の顔がさっと赤くなった。 「あれは、その……反省してる。ちょっと、我慢できなくなっちゃったの。もうしないわ」 「はあ……。そうして頂けると助かります」 「ごめんなさい」 普段の天使のような顔が嘘のようにしおれているのを見て、烏丸は少し言い過ぎたかなと頭を掻いた。しかし、ここできちんと言っておかないと、後々面倒になっただろう。心を鬼にして、烏丸は忠告した。 「絶対に筋弛緩剤を使わんで下さいね。次に使おうとしたら俺がすっ飛んでいきますから」 「仕方ないわね」 烏丸の忠告は何とか聞き入れてもらえたようで、その後病室から大倉の大声が聞こえてくることもなく、麗奈の度を過ぎた行いも収まった。大倉の胸の傷は順調に回復していき、床に臥せる時間も減っていった。肝臓の方も、過剰投与がなくなると数値はだんだんと正常値に近くなっていった。 だが、大倉の体調が良くなっていったのとは反対に、麗奈の体調は悪くなっているようだった。肌に張りがなくなり、普段はきれいな天使の輪が見えていたはずの髪も色あせている。華奢な身体はさらに瘦せ、よろよろと歩いている様子は明らかに病人に見えた。 しかし、医師の診察によると少女の身体に異常は見られないという。思春期特有のホルモンバランスの乱れかと思ったが、どうやらそうではないらしい。医者も首を捻っていた。 ここ最近、麗奈が病室の扉の前で逡巡するような様子を見せていることも、烏丸には気がかりだった。ぎらぎらと瞳を光らせ、思い詰めた顔をしているので声をかけてみても、少女は「なんでもないわ」と早口に答えて逃げ去ってしまう。 大倉に筋弛緩剤が使えないことで調教が上手くいかなくなり、ストレスが溜まっているのかもしれない。……そうだとしても烏丸にできることは無いが。元々が異常だったのだから、少しの間大倉を休ませてやってもいいのではないかと思い、烏丸は放っておくことにした。 そうして、大倉が拾われてから三ヶ月目、少し寒さも和らいできた頃に、大倉は屋敷から脱走し、忽然と消えた。 医者が診察していた時、烏丸が少し用事を思い出して席を外した時にそれは起こった。病室に戻った俺は、気絶した医者を見て仰天した。急いで捜索の人員を集めて付近を捜したが、大倉はどこにもいなかった。病室のサイドテーブルには、麗奈の送った首輪だけがぽつりと残されていた。 知らせを聞いた麗奈は半狂乱になって怒り、烏丸の頬を打って暴れた。少女がそこまで怒りを露わにしたところを見たことがなかった烏丸は、どうしていいか分からずにいた。ただ麗奈の激情が落ち着くまで、叩かれるままに立っていることしかできなかった。 こうなってしまっては、大倉の居場所はもはや分からないだろうと烏丸は思っていたが、驚いたことにすぐに明らかになった。翌日の朝刊に、『三ヶ月間行方不明だった藤堂彪流氏、突如発見され出頭』という記事が載ったからだ。胸に刺し傷があったことも記事に明記されており、大倉=藤堂であることはほぼ間違いないようだった。 麗奈は記事を読むなり紫苑に直談判し、あらゆる方法を使って自身を藤堂に会わせるよう怒涛の勢いで懇願した。紫苑は妹の急な変貌ぶりに非常に困惑していたようだったが、他ならぬ妹の頼みだと、最後には首を縦に振った。そうして一週間後、麗奈は藤堂が拘束されている留置場に向かった。 ▽ 「烏丸」 留置場に向かう車の中で、麗奈が常ならぬ声色で呼びかけたので烏丸は少女の方を向いた。少女の顔は相変わらず青白い。 「何ですかい、お嬢」 「烏丸にお願いがあるの」 「何なりと」 麗奈は一息つくように間を置いてから、真剣な目で烏丸を見て言った。 「私、今は自分を抑えられそうにないの。もしもの時は私を止めて。体を張ってでも」 「……分かりました」 麗奈の言葉に、烏丸は否応なしに大倉——改め藤堂の言葉を思い出してしまった。どうしてこんなに、少女を止める役回りばかりが自分に求められるのかと烏丸は不満に思った。荒事の内実が、あるじを狙う曲者を撃退することではなく、あるじの狂乱を制止することだけというのは、どうもいただけない。これなら普通の鉄砲玉として使われる方がましだ、と烏丸は思った。 留置場の受付で手続きを済ませると(本当は被疑者の家族しか面会できないのだが、清陵会の息のかかった警察官に手配をしてもらった)、烏丸と麗奈は藤堂のいる独房へと通された。てっきり面会室で会うものと思っていたが、違法な面会であるため、人に見られない独房の方が安全らしい。 独房の鉄格子の内を覗くと、果たせるかな、そこには少女の愛玩動物が手錠をかけられ、静かに鉄骨のベッドに座していた。 「烏丸、人払いを」 麗奈が硬い声で指示してきたので、烏丸は後ろに立っていた警官に合図を送った。警官は、清陵会のご令嬢の指示に、素直に敬礼を返して引っ込んでいった。 「来ると思っていた」 藤堂は麗奈をちらりと見上げた。麗奈は怒りをかみ殺すように息を止めている。 「しかし、来るべきではなかった。お前は俺といるべきじゃない」 少女の血走った瞳が、それを聞いてかっと見開かれる。 「それを決めるのは、私よ」 「もううんざりなんだよ。麗奈、お前のような変態女にいいようにされるのは」 少女の顔が真っ赤に上気し、その瞳は熊をも殺す勢いで藤堂を睨みつけた。 だが傍で聞いている烏丸には分かった。この言葉は藤堂の本心ではない。藤堂は何らかの理由で、麗奈を遠ざけようとしているのだ。 「煩いわね、貴方はどうなのよ。殺人犯のほうがよっぽど悪いでしょう」 藤堂は自嘲的に笑った。 「信じてもらえないだろうが、俺は聖子を殺していない」 「嘘でしょう。この屑」 「嘘じゃない。聖子を監禁したのも、小原夫妻に身代金を要求したのも、聖子の遺体を遺棄したのも俺だ。それは間違いない。しかし、殺してはいない」 「証拠はあるの」 「ない。だが、事実だ。聖子は見張りの隙をついて窓から逃げようとしたが、あいつを閉じ込めていた部屋は運の悪いことに三階だった。身代金を受け取り、俺が聖子を解放しようとしたときに、あいつの遺体を見つけた。首がぽっきり折れていて、ひどい有様だった」 烏丸は驚いた。十中八九藤堂が聖子を殺したのだろうと思っていたからだ。 「だが、聖子を死に追いやったのは間違いなく俺だ。その罪を二度、俺は思い知らされた。小原夫妻の死と、その友人たちの殺意によって、な」 藤堂は軽く胸の傷に触れた。藤堂の話によるとどうやら、小原夫妻の友人のうちの誰かがその傷をつけた張本人らしい。 「そんなことはどうでもいいのよ!」 麗奈が声を荒げる。藤堂は少女の大声にたじろいだが、すぐに笑みを浮かべ、鉄格子ごしに麗奈が触れるような位置まで近づいてきた。 「そうだったな。俺はお前の愛玩動物ですらなかった」 「……」 「俺の血は美味かったか?」 血? 烏丸は藤堂の言う意味が分からず困惑した。 しかし麗奈には何かが伝わったようで、怒りでぶるぶると身を震わせた。 「こんなところでそれを言わないで」 「お前にとっては、俺はただの餌だった」 「……違う、違うの」 「違わないだろう? 俺の血以外には、用はない」 「それなら、お父様だなんて呼ばないわ」 藤堂はぐっと息を詰まらせたが、怒りを滲ませて言い返した。 「お前の父親の代わりにはなれねえって、何度も言っただろう!」 あちゃあ、と烏丸は思った。藤堂の今の言葉は、確実に麗奈の逆鱗に思いっきり触れたと分かったからだ。 少女の蜂蜜色の髪がぶわりと広がり、瞳がぎらぎら光った。烏丸が行動を決めるまでの猶予は刹那に満たなかった。 ぐさり。 「っぐ、」 麗奈が隠し持っていた短刀は、とっさに止めようとした烏丸の腕に深々と突き刺さった。腕を貫通した刃先は藤堂の額にまで達し、藤堂の額が浅く切れて一筋の血が滴った。少女が驚いたように烏丸を見つめる。 「う、痛……。早まっちゃいけません、お嬢」 麗奈の蜂蜜色の瞳を強く見つめると、その瞳にはじわじわと涙が溜まっていった。 「烏丸……。うう、ひっ」 麗奈はついに幼子のように泣き出してしまった。ひっ、ひっと喉を引きつらせ、不器用にぽろぽろと涙をこぼす少女は、本当に普通の子供と変わらなかった。 「どうして……どうしてなの。どうしてお母様は、私を置いて逝ってしまったの。どうして私を普通に産んでくれなかったの」 烏丸は痛む腕を抑えながら、麗奈の頭に触れようとした。しかし、藤堂が視線をよこしてそれを制したので、一旦様子を見ることにした。 「どうして、っ、お父様は、私を一人の子供として、普通に愛してくれなかったの。私が悪いの? ねえ。答えてよ」 藤堂は鉄格子にさらに近づいた。 「答えてよ!」 次の瞬間、藤堂はその無骨な手に似合わぬ優しさでもって、麗奈を鉄格子ごと強く抱擁した。少女の息が詰まる。 「お前は何も悪くない」 藤堂が目を閉じる。その頬には、あの夜と同じように一筋の涙が伝った。 「全部、俺が悪かったんだ。俺が、お前を少しでも想ってやれば」 その言葉は、少女の父を演じて言っているようでも、自分自身の罪を悔いているようでもあった。 「う、」 「すまなかった」 「うあああ~」 麗奈は悲痛な声を上げ、慟哭した。少女が泣き止むまで、二人は固く抱きしめ合い続けた。 ▽ 「……それで? お嬢が、吸血鬼ですって?」 応急手当を受けた烏丸は、どうしても事の顛末を二人から直接聞きたくて、無理を言って病院に行かずに留置所にとどまった。麗奈は泣きはらした顔でしょげ返っていた。藤堂は思ったよりけろっとしていて、自身の右腕を麗奈の左手に預けている。 「ごめんなさい、烏丸。ずっと黙っていて」 「まあ普通、そうは思わないだろう」 藤堂と麗奈の話は長かったので簡潔にまとめると、今回の事件の裏ではこういったことが起こっていたらしい。 まず、藤堂が傷を負って屋敷の前に倒れていたのは、東京に向かう豪華寝台列車の中で、小原夫妻の友人たちと思しき暴漢に襲われて刺され、命からがら列車から脱出したためらしい。それだけでも驚きだが、藤堂の話によれば寝台列車のほとんどの乗客がグルだったらしいというのだから、小原夫妻の人徳が伺える。殺人は冤罪と主張している藤堂には気の毒な話だが。 藤堂を見つけた時、麗奈は彼の血の匂いが父親の血の匂いに似ていることに気づいた。藤堂を拾った翌日、彼の舌を噛んで血液を味見してみたのはそのためだ。藤堂の体液は麗奈にとって非常に美味だったので、少女はとても驚き、喜んだ。 実は麗奈には、生まれつき吸血衝動があったのだ。なんでも麗奈の母親が本物の吸血鬼だったらしく、その血を引いた少女は定期的に血を飲む必要があった。食事からも栄養は取れるものの、血を飲まないと飢餓感に苦しめられるため、父親が存命の時には父親から血をもらっていた。 そんな状況が変わったのが、あの日。麗奈が傷を負って烏丸のところに転がり込んできた日だ。吸血に伴う快楽に我を失った父親は、思わず少女を襲ってしまった。結果として少女は深く傷ついた。しかし父親は異常性愛を止められず、少女は二年半後、性的虐待に耐えかねて父親を毒殺したのだ。父親が死を進んで受け入れたところを見ると、おそらく父親もその状況に相当苦しんでいたのだろう。 「その後は、お父様と血の味が近い餌を探していたの。お父様に容貌が似ていれば味も似ているかと思って、お父様に似た男を飼うことにしてね。でも、一匹目と二匹目はとても不味かったから、すぐに捨てたの」 「殺していなかったんですかい」 「殺してはいないわ。しっかり調教してから、奴隷として闇市で売っただけよ」 十分悪逆非道な内容を、麗奈は平然とした顔で言ってのけた。藤堂も鉄格子のなかで眉をひそめていた。 「でも藤堂、貴方の血はとても美味しかった。もしかしたら、お父様よりも……」 うっとりとした顔でそうつぶやく麗奈は、確かに吸血鬼らしく見えた。肌が弱く屋敷から滅多に出ないのも、吸血鬼の性質と関係があるのかもしれないと烏丸は思った。 藤堂を飼ってすぐ、麗奈は彼に取引を持ちかけた。血をもらう代わりに安全を保障する、というのがその内容だった。藤堂は驚きながらもそれを了承し、表向きは愛玩動物、実のところは少女の餌として、首輪をつけて屋敷に留まった。 「ははあ、合点がいきました。だから、旦那にしか痕が無かったんですね」 そう言うと、藤堂は少しだけ顔を赤らめた。 「やめろと言っても聞かねえんだ、この阿婆擦れは」 「まあ、酷いわ。貴方も、気持ちよさそうにしていた癖に」 「お前な」 「そうだったんですね。俺はてっきり……」 「……」 黙り込んだ麗奈が般若のような顔をしているのを見て、その先を言ったら殺されると悟り、烏丸は口を閉じた。 「何でもありません」 「よろしい」 「……それじゃあ、どうして資料室で口づけしてたんです」 「それは俺も聞きたい」 「う……あの時は、最初にしたみたいに舌を噛んで血を吸ってたの。あの時はどうしてもお腹が空いて、我慢できなかったのよ。美味しい餌にありついたのは久しぶりだったから、飢餓感が強すぎて……。血液の摂取に快楽が伴ってしまうことは知っていたから、できるだけ病室の中でするようにはしていたんだけど」 「しょっちゅう口内を噛まれるもんだから、食事が食べにくくて仕方なかった」 「仕方ないでしょう、あちらこちらに血を溢すわけにもいかないじゃない」 「なるほど」 藤堂が食事の手を途中で止めていたのは、口の中の傷が痛かった所為だった、というわけか。 そうして藤堂と麗奈は互いの利益のために取引を続けていたのだが、その関係を変えようとしたのは少女の方だった。少女は、藤堂の面影に父親を重ね、彼に父親の代わりを押し付けようとし始めたのだ。 これに気づいた藤堂は少女の要求を拒否し、体調を理由にできるだけ麗奈を遠ざけるようになった。麗奈が夜な夜な病室の前をうろついていたのは、空腹と藤堂の体調への配慮で葛藤していたためらしい。 それでも執拗に父親としての役目を求められ続けた藤堂は、これ以上は付き合い切れないと感じ、隙を見て病室から脱走した。 「話は分かりました。幼い頃からお世話させていただいたお嬢が吸血鬼ってのは、まだ心から信じられませんがね」 麗奈は目を伏せて謝った。 「本当にごめんなさい……烏丸には、人間として私を見てほしかった、から……。烏丸だけでなく、このことは誰も知らなかったのよ。知っていたのはお母様とお父様だけ。兄には吸血鬼の血は入らなかったから、教えられていないの」 あるじにそう言われては責めるに責められない。烏丸は、短くこう告げるに留めた。 「今度からは、どんな事でも必ず相談して下さい。何があっても、俺は絶対にお嬢の味方をします」 少女は嬉しそうに微笑んだ。 「もちろんよ。ありがとう、烏丸」 「ところで、これからどうするんです」 烏丸が問いかけると、少女はおずおずと藤堂を見つめた。 「藤堂」 「なんだ?」 「これからも、一緒にいてくれない?」 「はあ? 俺は世間では殺人犯だぞ」 「知っているわ。それでも、貴方がいいの。お願い」 「そう言われてもな……。俺はこれから裁判を受けるだろうし、場合によっては死刑だぞ」 「死刑にはさせないわ。有能な弁護士を手配するから」 「どうしてそこまでするんだ? 俺はどうやったって、お前の父親の代わりにはなれないんだぞ。血だって、他のやつから貰えばいいだろう」 藤堂は不思議そうな顔をして言った。 麗奈は、ぐいと藤堂の腕を引き寄せ、鉄格子越しに藤堂の胸に顔をうずめた。 「もう、どうして分からないの。貴方じゃなきゃだめなのよ。これからはお父様の代わりでも、餌でもないわ……、愛しい人」 「えッ」 藤堂は素っ頓狂な声を上げて固まった。 「お願い」 麗奈の潤んだ蜂蜜色の瞳に見つめられた藤堂は、照れくさそうに目を逸らし、聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやいた。 「どうせお前に拾われた命だ、好きに使え。俺の気が向いている間なら、そばにいてやる」 麗奈は満面の笑みで頷いた。その笑顔は、長年見てきた烏丸ですら見たことがないほど、純粋で子供らしい笑顔だった。 「今、口づけしてもいい?」 「……仕方のない奴だな」 「嬉しい」 烏丸は邪魔にならないように極力気配を消し、濡れた水音が響く独房を後にした。どのくらい待ってから麗奈を呼びに行くべきなのかと、彼はその後非常に悩むこととなった。 ▽ 烏丸に案内されて傍聴席に座ると、少女は周囲を見回した。ぎらぎらと瞳を光らせているのは、きっと小原夫妻の友人たちだろう。他にも、有名な事件だからか、報道関係の人間の姿が目立つ。 あれから結局、藤堂は自身が列車内で襲われたことは警察に訴えず、彼を襲った暴漢もまた捕まることはなかった。 藤堂は身代金目的の誘拐と死体遺棄の罪を認めたが、断固として殺人は否認し、少女が選んだ弁護人もその意思を尊重した。弁護人や清陵会の関係者たちが八方手を尽くした甲斐あって、聖子が窓から落ちたと証言する目撃者を見つけ出すことに成功し、裁判は長引いた。 判決がどうなるかは分からない。でも、少女はもう心配することを止めていた。もう、男が少女から逃げることは、きっとないからだ。 少女は微笑んで被告人席を見つめた。そこに座った男の首には、少しくたびれた革の首輪が、愛の証として嵌められていた。 完 |
春木みすず HZRSvk9sl. 2023年12月29日 17時55分29秒 公開 ■この作品の著作権は 春木みすず HZRSvk9sl. さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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作者レス | |||
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Re: | 2024年01月22日 23時57分23秒 | |||
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Re: | 2024年01月23日 00時02分45秒 | |||
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Re: | 2024年01月23日 00時28分32秒 | |||
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Re: | 2024年01月23日 00時34分49秒 | |||
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+20点 | |||
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Re: | 2024年01月23日 00時45分07秒 | |||
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+20点 | |||
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Re: | 2024年01月23日 00時58分16秒 | |||
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Re: | 2024年01月23日 01時03分56秒 | |||
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+10点 | |||
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Re: | 2024年01月23日 01時33分45秒 | |||
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+40点 | |||
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Re: | 2024年01月23日 01時50分01秒 | |||
合計 | 9人 | 130点 |
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