【超長編】エルフの里のコックさん

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 プロローグ  大往生


 なるほどなぁ。これが『死に往く』ってぇ感覚か。

 子供達や孫達、そして大勢の弟子達に囲まれた布団の中で、俺は呑気にもそんな事を考えた。
 不思議と恐怖は感じねぇ。むしろ、これで長年の苦しみから解放されるのかって思うと、年甲斐も無く少しワクワクするくれぇだ。
 それに、もしもあの世ってぇもんがあるんなら……一足先に逝っちまった、かかあにまた会えるかも知れねぇしなぁ。
 未練なんてもんも特に無ぇ。
 この世に生を受けて八十年。やりてぇ事も大概やったし、残してぇ物もきっちり残せた。
 後はこれが肺癌なんかじゃなくて、老衰でぽっくりと逝けりゃあ万々歳だったんだが、まぁそう全部上手くもいかねぇわなぁ。
 でもまぁ、総じて悪か無ぇ人生だったよ。
 大戦争のさ中に産まれて。
 戦後の焼野原を生き抜いて。
 どうにかして一端のコックになって。
 かかあに出会えて、ガキにも恵まれて。
 小さいながらも念願のレストランを構えて。
 戦後の復興から高度成長期、そしてあのイカレたバブル期を凌ぎ切った頃にゃあ俺の店も『下町の名店』なんて言われるくらいまでになって、大勢の弟子達にも恵まれた。
 うん、我ながら悪か無ぇ。悪か無ぇどころか、中々良い人生だったじゃねぇか。
 できれば、かかあにだけは俺より長生きして欲しかったのと……やっぱりもう少し料理していたかったけどなぁ……

 ああ……目を開けてももう、何も見えねぇや。息をするのも、疲れる。
 最後に――そう、最後に、この連中に……なんか一言でも掛けて……やれるか……な。

「なぁ……おめぇら……」

 声、ちゃんと出てんのか? 今やそれすらもはっきりしねぇが……まあ、いいか。

「いいか……まっとうな……まっとうな料理を……作れ、よ……まっとうな、もんを……食うんだ、ぞ……」

 ふぅ……たったこれだけの事言うのに、えれぇ疲れたぜ……
 
 あぁ……眠く……なって…………





 第一部 異世界転生編






 1 死後の世界



 とまあ、そんな感じで俺は死んだみてぇだ。
 そして今居るここは、いわゆる『あの世』ってやつなんだろうか?
 薄らぼんやりと靄の掛かった、なんにも無ぇ、だだっ広い不思議な空間だ。
 特に暑くも無ければ、寒くも無ぇ……と、そこまで思い至った所で、俺は自分の姿も形も認識できて無ぇ事に気付く。
 しかし、それでいて『俺』ってぇ存在自体はしっかりと自覚できている。そう言やぁつい先程までの苦しさや呼吸のし辛さなんかは微塵も感じねぇな。ああ、こんなに爽快なのは久しぶりだぜ。まあ今の俺が呼吸をしているかなんて事も分かったもんじゃねぇけどな。

 ――今のあなたは肉体の軛から放たれた純粋なる魂です。姿形を認識できないのも当然の事でしょう――

「ああ、なるほど。今の俺は魂なのか……まぁとにもかくにも……はぁ、これが『あの世』ってやつかぁ。ここは一体天国なのか、それとも地獄なのか」

 生前の行いを顧みれば、なんとなく地獄に落ちそうな気がしねぇでも無ぇが……どうやらここは地獄ってぇ程陰惨な所じゃぁ無ぇ。かといって天国に見えるかってぇと、そんな華やかなもんにも見えねぇ。どうも死後の世界ってぇのは、言われてたもんよりも随分と殺風景な所みてぇだな。

 ――そもそも天国や地獄などというものなど存在しません。それはあなた達人間が勝手に想像したものですから――

「ああ、こりゃどうも先程からご丁寧に……って、ん?」
 
 そう言やぁ俺、さっきから誰と話してんだ?
 もしかして、神様か?
 そりゃまあ、ここが『あの世』だってぇんなら、当然神様だっておられるんだろうけど?

 ――そうですね。わたしはあなたの言う所の『神』という存在です。正確には、あなた達の住む世界の創造主という事になりますが――

 次の瞬間、何も無かった目の前が突然まばゆく輝く。その光がおさまると今まで見た事も無ぇ、とんでもねぇ別嬪さんが現れていた。
 美しく輝く金色の髪。
 厳しくも見え、優しくも見えるやはり金色の瞳。
 まるで彫刻像の様にくっきりと均整の取れた目鼻立ち。
 純白の、長いドレスのような衣装。手には錫杖の様な物を携えている。

「どうでしょう? これで、より認識し易くなりましたか?」

 ああ、なるほど。こりゃあ分かりやすい程に女神様だな。むしろ分かりやす過ぎてちぃとばかり如何わしいくれぇだ。

「何も如何わしくはありません。事実、私は『創造の女神』と崇められていますから」

「はあ……そうなんですね」

 まあ、ともあれこんな場所におられるのだから、女神様って事できっと間違いは無ぇんだろう。
 さて、これから一体どうなるんだろうな。俺の生前の行いを裁かれたりするんだろうか? 自慢じゃ無ぇが、俺はこうやって死ぬまでは良い事もしただろうし悪りぃ事だってそれなりにやった。そして人様の命こそ奪っちゃいねぇが、生きる為とは言え料理人として数え切れねぇ程の命を奪った。だから、ここでどんな裁きが下ろうとも、せめて見苦しく無ぇ態度だけは貫きてぇもんだ。

「流石に動乱の生を歩んできた者は違いますね。自らが死して尚これ程冷静でいられる者は、そうおりません」

 神様はそう言うと、まるで出来の良い子供を見つめる様な瞳になって呟いた。

「では、改めて。あなたの生前は『石川 進』に相違ありませんね?」

「はい」

 石川 進。
 確かにそれは死ぬ前の、俺の名前だ。

「結論から言えば、私はあなたの生前を裁く様な事はしません。いちいちその様な事をせずとも輪廻転生の法則に則り、あなた達は別の命に生まれ変わります」

「あ、ああ……そうなんですか。じゃあ、昨年死んじまったウチのかかあも」

「ええ。今は新たな命を得て、地球のどこかで生を営んでいる事でしょう」

 そうか……あいつに会う事はできねぇのか……まあ、そうそう上手ぇ話は無ぇよなぁ。

「勿論、転生をするにあたり、生前の善行や悪行は考慮されます。特にあなた達人間の持つ原罪は他の種よりも重く大きいですから。しかし……例えば石川進。あなたは生前、自覚している通り多くの命を奪ってきましたね。これだけを見れば罪かも知れません」

「はぁ」

「しかしそれはあなたが料理人の仕事として、更に言えば人が生きていく上で必要な糧を得るための行為であるので、その全てが悪行という事でもありません。生きる為に他の命を奪うというのは、全ての命が生まれながらに持っている原罪なのですから」

「は、はぁ」

「それらを加味した上で、あなたの転生後は……予定では帆立貝となっています」

「……ホタテ」

「はい。あなたが生前、一番多く命を奪ってきた生き物である帆立貝として産まれ、養殖されますね。北海道は知床の海で三年程育てられた後に出荷されます」

「出荷」

「ええ。そして最終的には急速冷凍されて、お刺身でも食べられる冷凍ホタテ貝としてどこかの鮮魚売場に並ぶでしょう。もしかしたらお隣の国が課した水産物禁輸のあおりを受け、誰にも食べられる事の無いまま冷凍焼けしてしまい、廃棄されてしまうかも知れませんね」

 まるで明日の天気でも話すみてぇに、目の前の女神様は俺の来世を語る。
 ……そうか、俺はホタテ貝に生まれ変わるのか。
 確かに、生前俺が一番得意にしていたのはホタテの料理だった。新鮮な活ホタテで作るフライやソテー、タルタルにカルパッチョなんかは多くのお客さんに喜んでもらえたもんだ。

「あなたの来世は、人間としてはまだまともな方です。例えば先日魂を返した某国の悪徳政治家は赤虫になって熱帯魚の餌になりましたし、とある連続殺人犯は製薬会社の実験用ゴキブリとなりました。あなた達人間の持つ原罪とは、それ程までに大きいのです」

 知りたくなかったな、俺の来世。
 とは言え、まあそう決まっちまったなら仕方が無ぇ。この際は潔く、せめて立派で美味しいホタテに育ってやろうじゃねぇか。そしてできるもんなら、かかあにはもうちっとまともな転生だった事を祈るばかりだ。愛らしい猫にでも産まれ変わって、優しい人間に可愛がられてたりするといいんだがなぁ。

「石川進、あなたは本当に興味深い人間ですね。生前もあなたは人として曲がる事無く、慈愛の心を忘れず、そして他の者には無い行動力がありました。そこを見込んで、実はあなたにお願いがあるのです」

「はぁ、神様が? 俺にお願い?」

「ええ。こちらを見てください」

 女神様が錫杖を振り上げると、何もなかった空間にぱっと映像が浮き上がる。それはどこかの惑星の様だった。
「この星は、私が今まさに創世している新たな世界です」

 映し出された惑星がどんどん拡大していき、やがて地表を映し出す。
 画面の中じゃあ、鎧に身を包んだ大勢の軍隊が怪物と戦っていた。
 巨大なダチョウみてぇなのに跨って槍を持った兵隊が大声上げながら突撃し、そいつらを迎え撃つのは緑色の肌をした小せぇ怪物の大群。その後じゃあ細っこい人間みてぇなのが呪文を唱え、作り上げた火の玉を敵目がけてぶっ放している。

「こいつぁ……」

 こいつぁまるで、孫達が夢中になって遊んでた、テレビゲームの画面みてぇじゃねぇか。

「本来、この世界は様々な種族が共に手を取り歩む、理想の社会を創り上げるつもりだったのですが……結果は見ての通り、争いが絶えません」

 画像を見つめていた神様が、哀しそうに呟く。

「何か理由でもあるんですか?」

 俺の問いかけに、彼女は首を横に振った。

「わかりません。あなた達の言葉を借りて説明しますと……初期設定はちゃんとプログラミングされていたのですが、予想も付かないバグが出てきてしまった、という感じでしょうか」

「何だかよくわかりませんが、ますますゲームみてぇな話ですね」

「そこで詳しく調べ直してみた所、どうやらこの世界の住人達は心のゆとりが著しく乏しい事が判明しました。心にゆとりが足りてないので、争いが絶えないのです」

「はあ。ゆとり、ですか」

 そりゃあ、住民みんなが心ギスギスさせてたら争いも絶えねぇだろうな。可哀想な話だ。もっとこう、美味ぇもん食ったり美味ぇ酒飲んだり、楽しい事やって穏やかに暮らしゃぁ良いのにな。

「そう。そうなんです。この世界の住人達は闘争心ばかりがやたらと強く、芸術や美食を愛する様な心の余裕を持ち合わせていないのです。せっかくこの世界には、今まで培った経験を元に様々な種族だけで無く動植物も選りすぐったものを集め、様々な素材や食材となるものも素晴らしいものを色々と取り揃えたというのに……住民達は見向きもしてくれません」

 そりゃあ、何ともまあ勿体無い話だな。
 しかし、例えば市場に何も知らねぇ小僧を連れて行っても目利きなんかできねぇ様に、日々戦ってばっかりの殺伐とした連中じゃあ、そもそも素材の良し悪しなんて気にもしてねぇんだろうな。きっと『食い物なんて食えりゃあそれで良い』くれぇにしか思ってねぇんだろう。

「まったく由々しき事です。せっかく素晴らしい環境を用意したというのに、ろくな食文化すらも築かずに殺し合ってばかり……このままでは遠からず、争いによって滅びてしまうでしょう。一体どうしてこんな事になってしまったのかは判りませんが、大問題です」

「はあ。しかし、女神様がこの世界を創ったってぇんなら、今からでもそういう風に修正しちまえば、それで済む事じゃないんですか?」

 俺の疑問に、しかし女神様は困った様な顔をしてぽつりと零す。

「ここまで出来上がってしまった世界にはもう、おいそれと直接的な干渉をする事ができないのです。私達の力は大きすぎるので、もしもここから修正しようと思ったら全ての住人を絶滅させるなりしなければなりません」

「あー……そうなんですね」

 今サラリと怖ぇ事言ったな、この神様。

「なのでここから先は私本体の力では無く、私の力の代行者を用いて修正をしていかなければならないのですが……それを行うには色々と制約があり、中々思い通りにはいかないのです」

「なるほど、そう簡単にはいかねぇもんなんですね。しかし女神様。こう言っちゃあなんですが、俺の居た世界も争い事は絶えませんでしたよ? 他の種族なんてもんこそ居ませんでしたが人間同士で何千年も殺し合ってましたし、環境汚染なんかも平気でやってますし。うん、そりゃあ酷ぇ世界でした」

「正直を申しますと、あなたが居た世界も私が創世したのですが……ぶっちゃけ、アレとんでもない大失敗作だったのです。なので、こっちの世界はその辺の事を踏まえた上で、完璧なものを創ろうとしていたのですが」

 なん……だって?

「更にぶっちゃけてしまえば、あなた達から見れば神の様に思える私とて、更なる上位の存在に使役しているに過ぎません。あなた達風に言ってしまえば、サラリーマンみたいなものなのです」

 え……えぇ…………

「なので、過去に地球創世でやらかした前科のある私は最悪降格も有り得るので、今度こそ失敗する訳にはいかないというのに……と、一体どうしたものかここ百年程考えあぐねていた所、折よくあなたの事を発見しました。石川進。あなたの力を私に貸しては頂けませんか?」

「ええと、そうは言いますが俺は何の変哲も無い一介のコックですよ? 一体神様にどんな力が貸せるってんですか?」

「そう、コック。料理人です。あなたは前世で多くの経験をして様々な調理技術を会得し、かつ食文化に精通した人間。その様な存在を送り込む事によって、この世界に美食文化を、ひいては穏やかな世となる礎を作る事が出来るのではないかと、わたしは考えているのです」

「それは、つまり……」

 つまり、俺がこのテレビゲームみてぇな世界に行って、この得体の知れない連中に料理を教える、と?
 それにより、この物騒な世界に食文化を伝えて、穏やかな世界へと変えていく?

「えぇと、そりゃまた随分と気の長げぇ話に思えますが」

「あなたから見ればそう思うでしょうね。しかし我々の物差しで図れば、そう長いものでもありません」

 ま、そりゃあ神様の尺度ならそうなんだろうけど……

「それに、何より」

「何より?」

「この子達、本っ当に料理とかできないんです! ですから祭壇にそなえられる供物なんかも全っ然美味しくないの! なんなの野菜茹でただけとか! 調味料だって塩くらいしか使わないし! そんな供物でこの私が仕事を張り切れるとでも!?」

「思いっきり私情じゃねえか!?」

「し、私情とも言い切れないのです。先程『ここから先は代行者を用いる』と説明しましたが、そういった権能を扱う力の源こそが住人たちの信仰心。我々に取って、捧げられる祈りや供物は力の源なのです。ですので住人達の信仰心が強ければ強い程、より強力な権能が使え、また捧げられる供物が上等な程、私はより張り切って仕事をこなす事ができるのですよ」

「結局供物は女神様の私情じゃないですか……で、念の為に聞いておきますが、この世界での女神様に対する信仰ってぇのは」

「え、ええと……それが、豊富にあったら……ここまで苦労して、いないのかと……」

 ……さっきから薄々感じていたんだが、この女神様……実は結構なポンコツじゃねぇのか?

「うぐ……ポンコツと言われてしまえば返す言葉もありませんが……あなた達が思う程、『神』も全能ではありません。正直をいえばこの仕事に向いていない事だって、私はとっくに気付いております……しかし、私も一度請け負った仕事を放っぽり出す事はできないんですよぉ……くすん……くすん……」
 
 遂に女神さまはさめざめと泣き始めてしまった。
 ええと、なんだこれ? なんかこの絵面だけ見たら、俺が女神様泣かせちまったみてぇじゃねえか?
 神様泣かせるとか、すげぇな俺。
 ……じゃあ無くって。
 どうやら俺は死んだと思ったら、ホタテにされるか得体の知れない世界でまたコック人生を歩むかってぇ二択を迫られているじゃねぇか? 一体なんだこれ?
 しかしまあ……考えてみりゃあ、それはそれで俺に取っても悪くは無ぇ話なのかも知れねぇな。ああ、少なくともホタテ貝になるよりゃ、随分とマシだろう。
 何より、もうかかあには会えねぇって事も分かったんだ。今や元居た世界に対する未練なんて、これっぽっちも無ぇ。
 そして、何と言っても。

「その世界でもまた料理ができるってぇんなら、女神様。やってみてもいいですよ。いえ、やらせてください」

 俺の返答に、女神様は涙を拭いて満足げに頷いた。

「よくぞ言ってくださいました、石川進。では、これよりあなたに細やかではありますが私の祝福を授け、そしてこの世界に転生させましょう。

 女神様は俺の身体(?)を抱きしめる様と、次の瞬間両手を広げて空へ解き放つ。

「あちらで生を受けたら、いずれ教会を尋ねなさい。そこでなら私と繋がる事も叶いましょう。よろしくお願いします……どうか、次の生も善き道を歩まん事を」

 俺はまばゆい光に包まれ、またしても意識を失った。

 ☆

 それからどれ程の時が経ったのだろうか?
 再び目覚めたその時、俺は只ただ叫び声を上げる事しかできなかった。
 喜びなのか。
 悲しみなのか。
 希望なのか。
 絶望なのか。
 自分でも、どんな感情に突き上げられているのか分からない。
 それでも、今の俺にできる、唯一の感情表現方法――

 ただ只大声で、泣き声を上げた。

 ――おお、これは元気な男の子だ――
 ――よおやった! でかした!――
 ――さあさ! 早くお湯を!――

 周りの大人達も負けじと声を張り上げる。
 ある者は喝采の声を上げ、ある者は喜びに顔をほころばせ、またある者は口早に指示を出し。
 
 そんなてんやわんやの中で俺は、新たな生を受ける事となった。



 2 異なる世界に転生



 俺は赤ん坊だ。
 産まれてひと月も経っていない。
 にも関わらず、俺は色々な事を知る事ができた。
 何せ俺は前世の記憶と知識を保ったまま産まれてきたんだ。おそらくは女神様の言っていた『祝福』というやつのおかげなんだろう。周りの大人達の言葉も全て理解する事ができたし、こうして思案に浸る事もできる。
 幸か不幸かロクに動く事のできない赤ん坊の身だ、いくらでも考える事ができた。目下の悩みは考える事しかできないって事と、あとはこれから育っていく際にちゃんと子供らしい仕草で生きていく事ができるかだけど、こればっかりは自力でどうにかするしか無いだろう。取りあえず生前のべらんめぇ口調な江戸弁は封印しなけりゃいけねぇだろ……いけないだろうな。喋れる様になるまでに、どうにかしねぇとな。
 まあ、何にしても今の俺にできる事は、そう多くない。目下できる事と言えば……

「ほぎゃあ! ほぎゃあっ!」

 こうして泣く事だけだ。

「あらあら、どうしたのシン。おなかが空いちゃったのかしら?」

 俺を優しく抱き上げてくれた女性は、そのまま躊躇無く服を捲ってぼろんと胸をさらけ出し、俺に含ませる。そう、彼女はもちろん俺の母親だ。
 茶色い髪をゆるく三つ編みにした、穏やかそうな女性。歳は二十台前半くらいだろうか? 
 その女性である母親の乳首に、遠慮無く俺はむしゃぶりつく。吸えばなんとも言い難い美味さと、まさに『滋養』としか言い様の無い甘露な母乳が口内に広がり、その多幸感に思わず頬が緩む。彼女が自分の母親だという事を本能的に理解しているのだろうか、それとも単に幼いからなのだろうか、若い女性の胸にしゃぶり付いているというのに性的な興奮はいっさい無い。
 そしてやはり身体の年齢に引きずられているのだろうか、『母』に甘えているという事に、只々嬉しさしか感じていなかった。良かった、ちゃんと俺、赤ちゃんじゃねぇか。
 ……それにしても、俺の名前は『シン』か。
 前世では進と書いて『すすむ』だったが、その呼びやすさからかガキの頃からあだ名は『シン』だった。なのでこの名前は実にこう、しっくりと来る。もしかしたらこの辺りもあの駄目そうな女神様のお導きなんだろうか?
 
 ☆

 なんて事を考えている内に、一年が過ぎた。
 どうやら俺が産まれた家は宿屋みたいだ。
 なので毎日多くの客が押し寄せ、それを父親や俺をおぶった母親、その他の従業員やらで切り盛りしている。どうやらこの荒っぽい世界でも赤子ってのはそれなりに可愛がられるみたいで、母に背負われた俺を客達はあやしてくれたり変な顔をして笑わせてくれたりする。中には俺をダシにして母親に色目を使ってくる様な輩も居ないでは無いけれど、概ね平和に、そして順調に俺は育っていった。
 唯一問題だったのは、やはり『食事』だ。
 一歳を迎える少し前から、俺は母乳を徐々に減らされていわゆる離乳食にされていった。
 日本では古来より離乳食はお粥と相場が決まっていたが、さすがにここは異世界だけあってどうやら米は無い様だ。なので俺が始めて口にした食物は、茹でて潰した野菜だった。
 味から判断するに、おそらくは人参に近い根菜だろう。この幼い身体は味覚も鋭敏な様で、以前よりも格段に香りや風味の違いが分かる。その感覚から想像するに、これは一般的な西洋人参では無い。京野菜の金時人参を思わせる強い甘みと爽やかな風味を持った素晴らしい野菜だ。
 そう、素材は良かった。
 他にもジャガイモと思われるほっこりとした野菜やカボチャと思われるねっとりと甘い野菜なども口にしたが、どれも素晴らしい味わいだった。さすがに女神様が『様々な素材や食材となるものも素晴らしいものを色々と取り揃えた』と自負するだけあって全てが一級品と言える程の、出来の良い野菜達だった。
 ……なのに、どうしてロクに味付けしねぇんだよ!
 せいぜいが軽く塩を振るくらいで、あとはひたすらに茹でただけ。茹でただけ。茹でただけ。幸いな事に生まれ変わったこの身体は味覚もやたらと鋭敏だから食材本来の味だけでも楽しめているけれど、見ればどうやら大人達の食事も俺が食べているのとさほど変わらない。むしろこの離乳食の方が潰したりしている分だけ手間が掛かっているくらいだ。
 なるほど、確かにこの世界は料理という概念に乏しいらしい。前途多難だな、こりゃあ。

 ☆

 とかなんとか言っている内に、三歳になった。
 ここまで育つと、もちろん食事も大人の食べる物と大差無いものを与えられている。
 つまり、主食には茹でた芋。それとたまにだけれどパンも出る。しかしこのパンもずいぶんと雑な作り方をしているし、かつ保存の為だろう。やたらと硬いのでそのままでは食べる事すらできない。俺くらいの子供には主になんかの乳でふやかしたのが出される様だ。
 主菜や副菜といった概念は無く、その日によって焼いたり茹でた肉とか、干した魚を焼いたもの。それと、かろうじてスープの概念はあるみたいで、肉や野菜の茹で汁に塩をぶちこんだだけのものが出たりする。大人達はこれにパンを浸して食べているを良く見かける。
 あと、さすがに塩漬けの習慣はあるらしく、肉や魚、一部の野菜なんかは保存の為に塩漬けにされていた。しかし現状見た限りではそれ位で、例えば酢漬けや油漬けといったものは無さそうだ。
 つまり、総じて調理技術が未熟。前世の記憶から察するに、これは古代ローマ辺りよりも遅れているだろう。こんな世界にはたして料理を、しいては美食を広める事なんてできるのだろうか?
 とは言え未だ三歳児の俺にできる事など何も無く。今は只情報を集めながらこの身体が大きくなる事を待つしかなかった。

 ☆

 ところが世の流れは残酷だ。
 俺が四歳になった時、母が亡くなった。
 元々あまり身体の強い人ではなかったらしく、特に俺を産んだ後からは病に伏せりがちだったのだが。
 これにはさすがに堪えた。
 前世では、父親は俺が産まれた時には兵隊として戦争に出ていて、どこか南方の島で戦死したらしい。なので母親は戦争寡婦としてタバコ屋を営みながら、俺を育て上げてくれた。
 だから俺は言ってしまえば母親っ子だったので、今世でも母には随分と甘えていた。その母が亡くなったのだ。俺は泣いた。只ひたすらに泣いた。自分が幼い子供だという事を、まさかこんな形で思い知らされる事になるとは思いも依らなかったが、とにかく泣いた。
 
 まったく……前世では父親の顔も知らず、今世では幼くして母親を亡くすとは、運命ってのは残酷な事をしてくれるもんだ。

 ☆

 更に時はいたずらに過ぎ、ついに俺も五歳になった。
 このくらいになると、どうも子供は放っておかれるらしい。何となく小さい頃から家の仕事を手伝わされたりするんだろうと思っていたのだけれど、やらされるのはせいぜい簡単な掃除とかお使いくらいなもの。それ以外の時間は大体放って置かれる。
 なので子供は子供達だけで集まり、勝手に遊んでいたりする。ここが田舎なせいなのか、学校という概念は無いらしい。うちなんかは家が宿屋だからか、簡単な読み書きや算数を父が教えてくれた時もあったけれど、勉強なんてのはせいぜいその程度だ。
 そして、その子供達の世界の中で……俺は孤立していた。
 まあ考えてみれば、俺は前世から数えれば実に八十五歳。いくら実年齢に精神面も引っ張られていると言っても、同年代のガキ共と自然に接する事が難しい。そして他のガキ共も俺の事は何となく気味が悪いらしく、向こうから近寄ってくる事も稀だ。なので大抵はひとりで、目下行ける所を徹底的に散策してこの世界の情報を収集している。本当はそろそろ厨房に入って料理をしてみたいのだけれど、どうやらこの世界でも刃物や火を扱う仕事は危険と認識されている様で、子供である俺は中に入れてくれない。女神様との約束もあるというのに、実に歯がゆい。
 そうそう、その女神様だが……
 生まれ変わる寸前、彼女は俺に『 教会を尋ねなさい』なんて事を言っていたのだけれど。

「教会無ぇじゃん」

 この田舎町に教会なんて無かった。
 子供ながらも、五歳にもなればこの町がどんな所かくらいは分かってくる。はっきり言ってここは田舎だ。どうやら街道沿いに作られた小さな宿場町らしく、うちの様な宿屋が何件かと雑貨屋とか何件かの商店や厩。あとは百人に満たない程の住人が住む住居。それくらいしか無い。以前、母がまだ生きていた時に教会の事を尋ねてみたが、その時も「どうしてシンはそんなものを知っているの?」と小首を傾げつつ、「こんな小さな町には無いわよ」と、実にあっさりと答えられた。前世ではどんな小さな町でも寺のひとつくらいはあったと思うのだが。
 なので未だに女神様にコンタクトを取る事もできていない。
 まったく、どうせならもっと連絡を取りやすい所に転生させてくれれば良いものを。やっぱりあの女神様はポンコツに違いない。俺は心の中で、彼女の事を『駄女神様』と呼ぶ事に決めた。

 とまあ、そんな感じで今日も俺はひとり散策を続けている。
 父親からは『町から出るな』と口酸っぱく言われているけれど、この子供心に引っ張られた好奇心や探究心は自分で押さえる事が難しい。なので子供ながらに出来得る最大限の注意を払いながら、俺はこっそりと町を出て最近は近郊まで足を伸ばしている。もっとも、この小さな宿場町の外には南北に伸びる街道の他には畑と何も無い草っ原。そしてちょっと先に、こんもりと繁る小さな森。せいぜいそんなもんである。
 そして、その小さな森の中で。
 俺の今後の人生を決定付ける相手と出会ったのだった。



 3 エルフさん



 森なら何かしら食料になるものが有りそうだ。山菜とかキノコの類とか。
 単純にそう考えた俺は、ひとり森の中に入った。こんなの父親に知れたらこっぴどく怒られるかもしれないけれど、そこはバレなければ問題無し。そう自分に言い聞かせながら、散策をする。
 生前も特に詳しくは無かったが、それでもこの森はやはり地球の、というか現代日本の森とは少し様子が違った。
 しかし、むしろ俺に取ってはちょっとした懐かしさすら感じる。前世の俺がまだガキだった頃、産まれ育った多摩は今とは比べ物にならないくらいのド田舎だった。回りは畑と田んぼばっかりでそこいらに牛や馬なんかが当たり前に居たし、ちょっと山に入ればここと同じ様に雑多な植物が割と無秩序に生え盛ったいわゆる雑木林。杉の木がずらーっと気持ち悪く並ぶ、戦後の政策で作られた不自然な山林とは根本的に違っていた。
 そんな原生林の様なここにもさすがに人の手は入っているみたいで、よく見ればうっすらと獣道めいたものをみつける事ができる。俺は道に迷わない様に枝を折ったり木に印しをつけたりしながら、その獣道に沿って入り込んでいく。やべえ、これは実にワクワクするじゃねぇか。
 子供特有の過剰な冒険心は実年齢八十五歳の俺にもしっかりと備わっているみたいで、気が付けば俺はそこら辺に落ちてた丁度良い大きさの棒っ切れを手に、まるで探検家気取りで足を進めていた。
 そして迷った。

「あれ……こ、こんなはずじゃあ……」

 端的に言えば、森を舐めてたとしか言い様が無いだろう。それと、自分の幼さもだ。
 しっかりと目印を付けてきた筈なのに、それが見つけられない。そして今の俺の背ではろくに視界を確保する事もできない。これはまさしく迂闊、そしてそれをもたらしたのは己の増長。いくら前世の記憶と知識を受け継いでいるとて、実際の俺は五歳の小僧に過ぎない。そんな事実を今、またしても俺は思い知らされていた。

「ど、どうしよう」

 ついさっきまで俺の心に満ちていた冒険心は今や微塵も無く、後悔と焦燥、そして恐怖に支配される。先程まで全然気にもならなかった木々のざわめきや鳥の鳴き声すらも、今は恐ろしい。くそっ! 結局俺はまだ全然ガキじゃねぇか! 前世の人格と、今の身体に引っ張られている精神面。そのバランスを普段は危ういながらも取っていたつもりだけれど、こうやってちょっと日常を外れるとそれは簡単に崩れてしまうものだった。
 つまり、何が言いたいかというと。

「う……ぐすっ……うぇ……うぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 俺はもう、恥も外聞も無く、ただただ泣きじゃくっていた。
 すると。

「囀るな」

「うひゃあっ!?」

 突然、背後から声を掛けられた。

「だ、だ、だ、誰か、いるの?」

 振り返ると、そこには――

「精霊が騒ぐので来てみれば……人の子よ。ここは我が聖なる森ぞ」

「あれ? 女神さま?」

 まさしく、あの時に見た女神様がそこに居た。
 美しい金色の髪に、やはり金色の瞳。ほっそりとしながらも女性らしい体形。違う所といえば、やたらと長い耳くらいなものだ。
 しかし。

「んなっ!? め、めがみ……さま? え? ん、んっ! 我を女神様とは、また大それた事を言う。人の子よ。斯様におこがましい事、易々と口にするものではない」

 彼女はそれを否定した。まあよくよく見てみれば、あの女神様みたいな現実感の無い様相では無い。
 見た目も人間でいえば十代後半くらいだし、使い込まれたのがありありと見て取れる若草色の衣服といい、肩から羽織った浅葱色のマントといい、手に携えた弓といい、明らかに生活感を感じさせるものだった。

「ま、まあ……女神様の如き高貴なるお方と間違われるとは、光栄な事ではあるが……なっ!」

 語尾を強調させると共に、一度後に振り向いてからバサッとカッコ良くマントを翻し、何だかカッコ良さげなポーズを取る。
 うん、この感じは『あの』女神様とはちょっと違うな。確かにポンコツっぽいけど、そのベクトルが少し違う。

「え、ええと……じゃあ、あなたは……」

「我はエルフ。故あって今はこの森に住まう者だ」

 エルフと名乗ったその女性は妙なポーズのまま、まるで値踏みする様な目になって俺を見降ろす。そのでたらめな程の美しさに、俺はガン泣きしていた事すら忘れて見とれてしまった。

 ――こんなに美しい人って居るんだ。

 思わずぼけーっと彼女を見詰めてしまう。ここまで見目麗しい人など、前世でも見た事が無い。人間というよりもいっそ妖精、それこそ本当は神様だと言われても信じてしまいそうな、それは文字通り神秘的な美しさを備えた女性だった。しかも何だか良い匂いがする。これで挙動がいちいちおかしく無ければ完璧なんだけど。

「して、人の子よ。そなたは何故ゆえに我が森に足を踏み入れた?」

「え、ええと……森には、何か食べるものとかいっぱい生えているかなって思って」

 そのあまりにも美しい女性に詰問された俺は、バカ正直にもそう答える。
 うん、我ながら言ってて本当にバカっぽいな。
 しかし、本当にそう考えての行動なのでこう答える他に無い。すると当然と言うべきか、エルフと名乗った女性は小首を傾げて「解せぬ」と零す。

「そして、森の中をうろうろしているうちに……迷っちゃいました」

「……そうか。今ひとつ要領を得ぬが、迷ったというなら是非も無し。それで人の子よ、そなたは一体どうしたい? 我としては、このような所でいたずらに騒がれるのは迷惑この上無いのだが」

「え、ええと……町に、帰りたい、です」

「ふむ。ではついて来るが良い、人の子よ。この我が自ら救いの手を差し伸べてやろうぞ」

 エルフを名乗る女性はまた謎のカッコ良いポーズで答えると、子供の足でも追いつけるくらいの歩みで森を歩き出す。彼女について行くと、ほんの数百歩も歩かない内に森から出る事ができた。

「ありがとうございます、エルフさん」

「礼には及ばぬ。それよりもそなたは年相応の行いをせよ。むやみに森になど足を踏み入れるな。ドラゴンに食われても知らんぞ」

 俺を森の外まで送り届けると、エルフさんは謎のポーズをキメてそう言った後、来た時同様瞬時に姿を消した。まるで森に溶け込むかの様に。

「っていうかこの世界ドラゴンなんか居るんだ」

 ☆

 その日の晩。
 仕事を終えて遅い夕食を取っている父の元に向った。

「シンか。どうした?」

 父は少しだけ驚いた様な顔で、俺を見る。どうもこの男は俺の事をあまり良くは思っていないらしい。父親なのに。
 しかしまあ、それも分からないでは無い。おそらく、いやきっと俺は子供としては異常なのだろう。いくら気を付けて生活しているつもりでも、冷静に考えれば八十過ぎの爺が子供として生きていける筈が無い。いくら頑張っても必ずどこかでボロが出る。それをこの父は多少ならず不気味に思っているのだろう。
 それに比べると、母は俺を実の子供としてとても愛してくれていたのだが……
 まあ、そんな事はともかく。

「実は今日、森でエルフさんて人に会ったんだけど。どういう人なのかお父さんは知ってる?」

 俺の放った言葉に、今度は驚いた顔になった父は目を剥いて俺にずいと顔を寄せる。

「お前、エルフに会ったのか?」

「う、うん……」

「何てこった。あの偏屈女が人の前に出てくる事なんて、滅多に無いのに」

 父の言葉には、なにか棘を感じる。どうやら彼はあまりエルフさんの事を良く思っていない様だ。
 ならば、ここは彼女の株を上げておかねばならないだろう。何と言っても俺に取って恩人なのだから。

「あ、ええと。僕が、森の中で迷って泣いてたら助けてくれたんだよ。きっといい人だよ?」

「エルフは人じゃ無い。亜人……半分化けもんみたいなもんだ。あいつ、年端も行かない小娘みたいな姿だったろう? あれ、俺がガキの頃からあの姿だからな」

「え?」

「だから言ってるだろう。化けもんみたいな生き物なんだよ。エルフって連中は」

 どうやらエルフというのは種族の名前らしかった。なるほど、彼女の名前じゃなかったのか。
 それから父はエルフについて話し出した。
 彼女達は人間では無い事。人間とは若干の距離を取りつつも交流している事。男も女も皆絶世の美男美女だけど、寿命がとても長くて人間の十倍以上生きるらしい事。精霊と会話ができるらしく、精霊魔法とかいう謎魔法を使える事。そして、基本的に得体が知れなくて何考えているのか良く分からないから、あまり関わってはいけないという事などだ。
 
「だからシン、あの女には金輪際近づくなよ。本当に何考えてんだか分からない連中なんだからな」

「あ、はい」

 と、そこまで話したところで、父は改めて俺をギロリと睨み。

「ところで、だ。お前がどうして森なんかに行ってたのか、そこら辺を詳しく聞かせてもらおうか?」

 この後俺はめちゃくちゃ怒られた。
 もしかしたらこの世界に産まれてから初めてなんじゃないかって程に、めちゃくちゃ怒られた。

 ☆

 なんて事があったにも関わらず――
 今日も俺は森に来ていた。理由はもちろんエルフに会う為だ。父には「金輪際近づくな」なんて言われたけれど、そこは強い心を以て無視する。
 実を言えば、特に理由らしい理由は無い。しかし、現状ではただ町に居るだけでは何もできない。周り近所はおろか実の父にまで不審な目で見られている俺は、町では何をやって悪目立ちする。それならまだ森に行ってる方がいくらかマシだろう。そして結局昨日は何も分からなかったけど、森の中にはきっと何か食材として使えるものがある筈。そう考えた俺は再び森に入り込み。

「エルフさん! エルフさーん!」

 取りあえず大声で呼んでみた。
 正直自分でもこれはどうなんだろうと思わないでも無いけれど、目下これしか思い付かないから仕方ない。また森の奥まで入り込んで迷子にもなりたくないし、それに何となくだけれどあのエルフの人は俺の力になってくれそうな気もする。根拠など無いけれど。

「エルフさーん! エールーフ―さーん!」

 子供らしい無遠慮な態度で呼び続ける事暫く。

「またそなたか。一体なんだと言うのだ。この森で囀るなと言った筈だ」

 昨日と同様に、森の中から唐突にヌルっと彼女は現れた。

「うわ、ほんとに来た!」

「馬鹿みたいな大声で呼んでいたのはそなたであろう」

 そして何だか機嫌が悪そうだ。よく見れば起き抜けの如く、薄ら眠そうに目を細めてちいさく欠伸などしている。きっと今さっき起きたに違いない。

「それで一体何用なのだ? この森には来るなと言ったであろう」

「え、えーと、それは」

 うん、何も考えてない。
 取りあえず、森にきてエルフさんに会えばどうにかなるかなと無計画にここまで来てみたけれど、冷静に考えてみれば彼女には俺に会う必要も義理も無い。それなのにいきなり大声で呼び出されれば、そりゃあ機嫌だって悪くなるだろう。ああ、どうもこんな所ばっかガキの思考になってしまって困るな。
 しかし、無理矢理にでも何か用事を考えなければ話にならない。瞬時にあれこれ考えた挙句、出てきたのは。

「ええと、ええとね。昨日のお礼を言いにきました」

 こんなどうしようもない言い訳だった。

「礼?」

「うん。昨日は助けてくれて、ありがとうございました」

 子供らしく。
 極めて子供らしく、そう言ってぺこりと頭を下げる。すると、エルフさんはつまらなそうな顔で俺を見降ろして、言った。

「まったく、何かと思えば。ああわかったわかった。もう帰っていいぞ。こう見えて我も暇では無い。そなたのせいでまだ朝餉も食せていないのでな」

「朝餉って、もうとっくに日も上がってるけど」

「何刻だろうと起きた時間が朝だ。良いから去れ」

 しっしっ、と手で払う様にして俺を追い払おうとするエルフさん。やはり寝起きで機嫌が悪いのだろう。昨夜の様なカッコ良い謎ポーズを取ったりする事も無く、何ならすぐにでも二度寝したそうに欠伸などしている。
 しかしここでそうですかと引き下がる訳にもいかない。何とかして彼女の知己を得て、この森について等色々と教えて頂きたいのだ。なので。

「ええと、ええとね。お礼に、何かご恩を返したいんだけど!」

 更にしつこく食い下がってみる。
 この一見無謀な行動も、今の俺くらいの年齢がやると存外に効果が高い事を経験上知っている。何だかんだ言って大人は子供に甘いのだ。
 とタカをくくってみた所――

「……ふむ。気に入らん。まったく気に入らんな。恩返しだと? 子供の分際でそんな事を言うなど、まったく以て気に入らん」

 なぜかエルフさんはへそを曲げてしまった様子。

「どうして? お世話になったんなら、ちゃんとお礼を言ってご恩を返すのは、当たり前じゃないの?」

「子供はそんな事を考えなくても良いと言っているのだ。それにな、人間の世界ではどうか知らぬが、我々エルフでは謝罪や謝礼には相応の対価を払うものだ。それができて初めて一人前とされる。そなたはどうなのだ? まさか『ありがとー』と頭を下げる事が対価になると?」

「う……それは、ええと……」

「どうせ何もできまい。だから子供だと言うのだ。分かったな? 分かったなら帰れ。そしてこの森には近づくな」

 面倒臭そうに言うエルフさん。
 しかし、確かに彼女の言う通り今の俺には謝礼として差し出せるものは何も無い。なんと言っても所詮は五歳のクソガキだ。小遣い銭すら持っていないのに、一体何が差し出せるというのか――
 と、そこまで考えていたその時。俺の脳裏に稲妻が走る。
 先程彼女が零した、

『そなたのせいでまだ朝餉も食せていないのでな』

 
 不機嫌を隠そうともしないその一言に、俺はまさに天啓を受けた。
 これだ!
 これしか無い!

「ええと、エルフさん。朝ごはんまだ食べてないんですね?」
「ああ、そなたのせいでな」

「じゃあ、お礼をさせていただきます。僕にご飯を作らせてください!」

「……………………ん? そなたが、朝餉を作ると?」

「はい!」

 これだ。これしか無い。
 今の、何も持たないこの俺が対価として払えるのは労働力のみ。そして俺が一番得意な労働は料理に他ならない。
 そして何より。
 この世界に生まれ変わって、俺は初めて料理ができるのだ!

「一体何を言っているのだ? 食事など誰でも作れるものであろう。そんな雑事をまさか対価とは言うまいな」

「うん、作る『だけ』なら誰でもできるよ。でもね、『おいしく作る』のはきっとエルフさんじゃあ無理なんじゃないかなー」

 ニヤニヤと小ばかにした様な笑みを、敢えて浮かべながら彼女を見上げる。まあ我ながら拙い挑発だとは思うけれど、この人には何となく効きそうな気がした。果たして――

「ほう? そこまで言うのなら、人の子よ。やってみよ。この我にそうも大層な口を利いた事、あとで後悔するなよ?」

 乗ったー。思ったよりも遥かに簡単に乗ったー。
 まるで喧嘩を吹っ掛けられた馬鹿な中学生みたいに、エルフさんは頑張って凄んだ顔で俺を睨む。 
 こんなにチョロくて良いんだろうか? この人、悪い人間に簡単に騙されちゃったりしないだろうか?
 などと余計な心配すらしてしまった俺にガンを飛ばしつつ。

「来い」

 彼女は吐き捨てる様にそう言うと、わざとらしくバサッとマントを翻して森の中に入っていった。



 4 初料理



 従い歩く事、暫く。
 深い森が唐突に途切れると、ちょっとした広場と簡素な小屋が現れた。まるで木と一体化したような不思議な建築様式で、屋根の真ん中から大きな木がズドンとそびえている。おそらくはこの木そのものを大黒柱にしているのだろう。その小屋の周囲では放し飼いにされていると思わしき山羊が数頭、エルフさんの姿を見るや嬉しそうに寄ってきた。

「うわ、この山羊飼ってるの?」

「飼ってるとは失礼な。この子達は毎日乳を恵んでくれる、我の大切な友だ」

 ギロリと俺をひと睨みした後、今度は急に優し気な笑顔になって山羊達を撫でるエルフさん。その姿には自然と調和した美しさを感じると共に、どこか『山羊しか友達のいない可哀想な子』の様にも見えて俺は何故かそっと視線をそらした。

「さあ、では約束通り朝餉を作ってもらおうか。あれ程の大口を叩いたのだ。さぞかし立派なものを作ってくれるのだろうな?」
 
 エルフさんに促されるまま小屋に入ると、入口はまるで日本家屋の土間の様になっていた。その片隅にナイフなどが置かれた小さな作業台があり、隣に簡素なかまど。壁に鉄網や中華鍋っぽい簡単な鍋がぶら下がっている所を見るに、きっとこれが台所なのだろう。
 作業台の下にある戸棚にはジャガイモや人参といった馴染みのある野菜が数種と、岩塩の塊。そして天井から何本か縄が垂れていて、そこには羽を毟った鳥が数羽吊るされている。

「この食材を使っていいの?」

「うむ。しかしどれも貴重な森の恵みだ。無駄にする事は許さぬぞ」

 胡乱気な視線を送るエルフさん。まあ彼女の心配というか不信も分からないでは無い。なのでここは言葉では無く仕事で語る事にしよう。
 まずは天井から吊るされている鳥を縄から外し、まな板に置く。
 鶏とも鴨とも微妙に違うその鳥は、羽を綺麗にむしられて内臓を抜かれ、首も落としてある。この辺の処理の仕方はまあ、どこの世界でもそう変わらないのだろう。
 ひっくり返して肛門の脇辺りから刃を入れる。
 そのまま腿肉を切り落とし、脚を外す。程良く脂の乗った少し赤みのある肉は、鶏よりも鴨に近い。鶏に比べて腿の部分がずいぶんと小さいけれど、筋っぽくも無いし身もみっしりと詰まった感じの良い肉質だ。
 両脚を切り落としたら今度は首元から皮を剥ぎ、やたらと大きな胸肉を外す。
 文字通りに勝手が違う状況ではあるけれど、それでも前世(むかし)取った杵柄と言うべきか。さしたる苦労も無く鳥をバラす事ができた。今や主要部位を完全に切り取られ、寂しげな鳥ガラとなってしまった本体。これは後で出汁とかに使えるので、取っておく。

「なんと、大山鳩が瞬時に……」

 後から監視する様に見ていたエルフさんが驚嘆の声を漏らす。なるほど、これは鳩だったのか。道理で鴨にしては脂身が少ないと思った。そして胸肉が大きく腿肉が小さいのも納得である。

「しかし解せぬな。この様に切り刻まずとも、そのまま焼けばそれで済む話ではないか」

 彼女の一言で、いかにこの世界が料理に対して興味を持って無いかが判る。きっと彼等は鳥なんて丸焼きくらいでしか食べないのだろう。

「ただ食べるだけならそれでも良いけど。でも、少し手間を掛けるだけで、この鳥はもっと美味しく食べる事ができるんだよ」

「美味しく? 大山鳩は焼いただけで十分美味であろう。それがもっと美味しくなるというのか?」

 お、エルフさん食い付いて来た。そうか、そうだよな。この料理が発達していない世界でも『美味しい』『不味い』の概念はちゃんとあるんだよな。そして出来ることなら美味しいものを食べたいという欲求も持っている。よしよし、良い手応えじゃないか。

「じゃあ、見せてあげます。料理の力という奴を」

 半分は自分に言い聞かせつつ、俺はエルフさんに向かってそう言い切った。
 さて。
 改めて整理しよう。
 目下、使える食材と調味料は幾らも無い。
 まずはこの鳩肉。そしてジャガイモやキャベツ、キノコ等いくつかの野菜。そして調味料は塩のみ。
 うん、作れる料理など、本当にたかが知れる。その限られた中で、一番『効果』の高いものは一体なんだろうか……
 なんて考えている俺の耳に、外から聞こえてきたのは山羊の泣き声。

 …………そうか! こんな素晴らしい素材があるじゃあないか!

「ねえエルフさん、外の山羊ってお乳が出るんだよね?」

「うむ」

「じゃあ少し貰いますね」

 手近な所に置いてあったコップ程の大きさの壺を取り、外で草など食んでいる山羊に向かう。

「ちょっと分けておくれー」

 山羊の乳搾りをした事は無かったが、牛なら前世で経験がある。何せ俺がガキだった頃の多摩は、この世界と大差無い程のド田舎だったからな。周りは田畑と山だったし、家には水道も無く便所だって当然汲み取り。この世界との差なんてせいぜい電灯とラジオが有ったくらいだ。まったく、俺くらいの世代だからまだ対応できたけど、今時のガキ共だったらこんな未開な世界、絶対対応できなかっただろうな。
 と、物思いに更けながら山羊の乳を搾る。すぐに壺いっぱいの山羊乳が取れた。
 見知った市販の牛乳より少し黄ばんでいて、若干のトロみも感じる。よしよし、これなら上手く行きそうだ。
 頂いた山羊乳の入った壺。
 ここに塩を入れ、しっかりと密封。
 それを両手でしっかりと握りしめて、振る。
 振る。
 振る!
 振る!!
 ひたすらに振る!
 昔、知人のバーテンダーに教えてもらったシェーキングを思い出しながら、手首を使ってリズミカルに。背後から監視しているエルフさんのドン引いた視線を気にも留めずに。
 こうして振る事しばらく。いい加減腕がだるくなってきた頃。

「ふう……そろそろ良いかな?」

 壺を置いて蓋を外すと、中身は半透明になった液体と薄黄色い脂の塊に分離している。
 そう。バターの完成である。

「ふっふっふ……これさえあれば、もう勝ったも同然だ」

 前世での俺の職業は洋食レストランの亭主、いわゆるコックさんだ。
 つまり、バターは一番扱い慣れた調味料と言っても過言では無い。更に、推測だがこの世界にバターは無い。この調味料の恐ろしさを、まだ誰も知らないのだ。そこまで考えて思わず「ふひひ」と嫌らしい笑いをしてしまった俺を、今やエルフさんは不審を通り越してなんだか気持ち悪いものを見る目になっている。
 うん、今はまだそんな目で俺を見ているが良いよ。すぐにこの世界初の、バター料理の餌食にしてあげるから。

 すぐさま小屋に戻り、竈に火を入れて鉄鍋を熱し、バターを多めに投入。できたばかりのバターは瞬時に液体へと戻り、そしてすぐにしゅわしゅわと泡立ち始める。それと同時に、なんとも言えないコクのある香りがふうわりと漂い部屋中を満たす。これは焼いたバターでしか出す事のできない、魔性の薫りだ。

「な……なんと……この、得も言えぬ芳香は……」

 さしものエルフさんも、この香りには驚いたらしい。
 俺はそこで間髪を入れず、まずは八ツの櫛斬りにしたジャガイモを投入。ある程度火が回った所でそれを端に寄せて、前もって一塩しておいた鳩肉を皮目から鍋に入れる。強めの火で表面を焼いたら、ひっくり返して今度はじっくりと中まで火を通す。この際、上面になった皮目にはしっかりとアロゼ、つまり木匙で鍋の中の油をすくい、上からかける。これにより外側はパリッと、そして内側にはしっとりとジューシーに仕上げる事ができる。
 肉とジャガイモに火が通ったら皿に移し、最後に鍋に残ったバターを少し焦がしてソースを作り、それを掛けたら完成。本当はここにレモン汁や香草の類を入れた『ブール・ノワゼットソース』にしたかったのだけど、無い物ねだりをしても始まらない。現状できるだけの事をするしか無いが、しかしそれでもこの世界では充分だろう。
 現に、先程からエルフさんは一言も発する事無く、涎を垂らさんばかりの呆けた顔で皿を凝視しているではないか。

「完成しました。題して『鳩のポワレ エルフの森風』でございます」

 気障ったらしい仕草など交えて、エルフさんに皿を差し出す。彼女はそれを受け取ると、

「こ、これは、どうすれば良いのだ?」

 と、明らかにうろたえた表情になって俺を見る。

「どうもこうも、そのまま食べちゃってくださいな。冷めると美味しくなくなりますから、熱いうちにどうぞ?」

「わ、わかった」

 彼女はテーブルに付き、胸に手を当てて何かに祈りを捧げた後、木でできた簡素なフォークを手に取って――

 料理を口に運んだ。
 次の瞬間。

「ふ……ふぉぉぉおおおおおおおおおおっ!? こ、これは一体何なのだ!」

 熱さに口をはふはふさせつつ咀嚼していたエルフさんが、それを飲み下すと共に咆哮を発する。

「山羊の乳を幾重にも濃縮したかの如き強烈な味わいは!? それが皮をパリパリに焼かれた大山鳩の肉に絡み合って! そしてこの芋までもが美味なる山羊乳の味を纏って!」

 おそらくは産まれて初めて食べたであろう、ちゃんとした『料理』
 その暴力的なまでの美味に、さしものエルフさんも冷静ではいられないのだろう。くわっと目を見開き、凄いペースでフォークを運んでいる。
 しかし、勢いに任せて半分ほど食べ終わったその時。

「しまった! 斯様に美味なるもの、我がひとりで食してしまう訳にはいかぬ! これは是非とも女神様に供えねば!」
 
 何を思ったか、彼女は皿を手に席を立つと、そのまま小屋の奥に足を運ぶ。そこには簡素な祭壇の様なものがあり、木彫りの女神像が奉られていた。

「創造の女神よ……感謝と尊敬の念を以て、ここに供物を捧げます」
   
 うやうやしく皿を手に持ち、エルフさんが祭壇に捧げる。すると――
 次の瞬間、まるで時間が止まったかの如く……いや、これは本当に時間が止まっているのか?
 エルフさんは微動だにせず、外から聞こえていた山羊や鳥の鳴き声も聞こえない。その静寂な世界の中で、不意に木彫りの女神像が怪しく輝き出して。

『うっま! なにこれ!? うっま! ようやく……この世界においてもようやくちゃんとした料理が作られるようになったのですね! ああ、このバターのなんという芳醇な香りとコク! やば! うっま!』

「……………………おい」

 この駄女神め、五年も掛けてやっと会えたと思ったら俺より飯の事かよ!

『……あ。石川進……いえ、今はシンでしたね? 私です……創造の女神です……ようやくこの世界にて出会う事、叶いましたね』

 ☆

 俺は遂に、あの駄女神様と再会する事ができた。
 ならば言わねばなるまい。言ってやらねばなるまい。

「あのさあ女神様。なーにが『ようやく出会う事、叶いましたね』ですか。五年も掛かりましたよ? 五年も。いくらこの世界はあなたへの信仰心が低いからって、五年は掛かり過ぎでしょ。どうしてこんな有様になったんです? せめて、あなたの力で最初くらいはちゃんとした所に送ってくださいよ。このエルフさんみたいに、あなたを信仰している人もほんの少しくらいは居るんでしょ? どうしてそういう所に送り出してくれなかったんです?」

『え、ええと……ごめんなさい……実は、当初はそういうつもりだったんですけど、どこかで間違えてしまったみたいで……』

「間違えたって、あなた。俺にこの世界をどうにかしろとか言って置きながら、間違えたって。一体何なんですか? 本当にやる気あるんですか?」

『ううっ、ごめんなさい……』

「まったく、今度から気を付けてくださいよ?」

『くすん……はい……』

 あ、いかん。ここ五年で溜まったフラストレーションのままに思わず女神様を説教してしまった。まあ少しスッキリしたから良いか。

「で、俺はこれからどうしたら良いんですか? 正直このままだと当分何もできないんですけど」

『そうですね……初期配置には失敗してしまいましたが、ここでエルフに出会えたのは僥倖です。シン、あなたはこのエルフと共に行動し、そして彼女達エルフの力になってあげてください』

「エルフさん達の、力に?」

『はい。見て分かる通り、エルフはこの私が自らの姿形を模して造り上げた種族。それ故に私への信仰心が他の種族に比べ、ずば抜けて高いのです。ですからこの者達が繁栄すればする程、その信仰心により私のこの世界での権能が上がり、より大きい力を振るう事が叶うようになりましょう』

「はあ」

 エルフさんは女神様と似ていると思っていたけど、やっぱりこの女神様の仕業か。そして自分そっくりに作ったので愛着のあるエルフさん達をえこひいきしたいから、俺に助けろと。

『決してこの子達をえこひいきしている訳ではありません』

「はあ?」

 してるだろ、絶対。

『と、とにかくエルフ達の力になってください。彼女達は私に似てとても美しくまた優秀ですが、この世界においては強い種族とは言い難いのです。むしろ種としての生命力は弱く、また他種族から何かと狙われやすいので、なんだか放っておくと絶滅しちゃいそうなんですよ……』

 だから何でそんな脆弱な種を作ったんだよ? 自分を模して作ったのならもう少し……いや、むしろこのアレな女神様に似ちゃったから色々と問題が出ちゃったんじゃないのか?

『アレな女神って…………とにかく、当面はエルフ達の事をお願いします。頼みましたよー』

 たよー、たよー、たよー、と地味にイラつくエコーの掛かった言葉を残し、駄女神様は去ってしまった。それと共に再び時間が動き始める。

「はっ!?」

 我に帰ったエルフさん。彼女は暫く無言で祭壇を見詰めた後、俺に視線を移す。その瞳には今まで無かった嬉し気な、そしてどこか興奮したかの如きキラッキラした輝きが見える。

「人の子よ! そなた、女神様の使徒だったのだな!?」

「え、ええ。一体どうしてそれを?」

「ああっ! 我の! 我の長きに渡る女神様への信仰が! 今! 報われたぁぁぁぁぁぁぁッ! そうか、この為なのだな。この為に我は、今までこんな居心地の悪い辺鄙な田舎で雌伏を余儀なくされていたのだな! これは女神様のお与えになった試練だったのだ! ああ、なんという!」

 エルフさんは今や狂喜乱舞といった言葉を体現するが如く、様々なポーズを取りながら満面の笑みを浮かべてはしゃいでいる。その姿は今までのどこか斜に構えたアウトロー気取りの痛々しい仕草とはかけ離れたものだった。

「今、聞こえたのだ。女神様のお告げが。そなたは近い将来、絶対に我らエルフの力となってくれる。だからそなたが一人前に育つまで、我に守護をせよと仰せになったのだ」

 おお! あの駄女神様、今度はちゃんと仕事してくれたじゃないか!
 この世界において、目下俺は中々に動き辛い状況にあるが、このエルフの人が助けてくれるとなれば話も違ってくる。ここにきてようやく、小さな光明の様なものが見えた気がした。
 と、そういえば。
 俺は今まで、割と大事な事を聞いていなかったな。

「ところでエルフさん」

「なんだ」

「僕、まだエルフさんのお名前聞いてませんでした。教えてください。あ、僕はシンっていいます」

 俺の問いに彼女は一旦後ろを向いてから、バサッとマントを翻す例のカッコいいポーズを決めて。

「我が名はローザリンデだ。シンよ、これからよろしく頼むぞ」

「こ……こちらこそ、よろしくお願いします」

 僕とエルフ……ローザリンデさんは互いに視線を合わせ、頷きあう。
 こうして彼女と駄女神様の餌付けに成功した俺は、ようやくこの世界での活動を開始する事になったのだ。



 5 雌伏の時



 七歳になった。
 今の俺は、毎日森に入ってはエルフのローザリンデから様々な事を学んでいる。さすがに長い時を生きるエルフの知識は大したもので、俺はそれをまるで乾いたスポンジが水を吸う様にどんどん吸収していった。
 因みにローザリンデに今何歳か聞いてみたのだが、『乙女の年齢を聞くとは何たる無粋』とか言って教えてくれなかった。まあ今の父親が子供の頃から姿形が変わらないと言っていたから、少なくとも彼よりは年上なのだろう。見た感じだと十五~六歳くらいにしか見えないのだが。

「で、その乙女のローザリンデさんはどうしてこんな所にひとりで住んでるの? 幾らも離れていないのだから、町に住んだ方が何かと便利じゃない?」

「我は森の民故、人間の町は性に合わぬ。それにな、シン。そなたも知っておろう。町の者達はそなたと違い、我らエルフにあまり良い感情を持っておらぬ。その様な者達と共に暮らせば、自ずと軋轢も生じよう。我はそもそもそなた達人間について学びにきているのだ。つまらぬ争いをするつもりは無い」

「人間を学びに? どうして?」

「我が里の教えでな。我の様に若いエルフは一度は里を出て、人間について学ぶべしと定められているのだ。『若きエルフよ、人間と触れ合え。人間は、幼き頃は良き友となり、成長してからは良き理解者となり、最後に死して失う悲しみと命の尊さを教えてくれよう』とな」

「はあ」

 なんか前世でも似た様な事を聞いた事がある様な無い様な。
 しかし、その人間について学ばなければならないローザリンデは町の人達とあまり上手くいっていない。その原因のひとつはもちろん、町の人間達の無知から来る無用な恐れからくるものだけど、それとは別にこの自称乙女のエルフにも問題がある。
 まずはこの変に尊大な態度だ。
 仰々しい物言いとか、無駄に偉そうな、それでいて無駄にかっこ良さげな仕草とか、どうも見ていて少し痛々しい。その若干の恥ずかしさを伴った痛さはどこかで見覚えがあると思っていたが、よくよく思い出したら前世の、中学生の頃の息子や孫達の仕草にそっくりだった。
 どこか斜に構え、まるでこの世の全てが気に入らないと言わんばかりの物言いに、おそらくは一生懸命考えたであろうかっこいい言い回しと謎のポーズ。あの、思春期の子供が一度は掛かるという心の病に彼女はしっかりと罹っているみたいだ。
 只でさえ得体の知れないエルフが更に色々とこじらせているのだから、これで対人関係が上手くいくとは到底思えない。
 だから彼女は今まで、人間と触れ合うどころか最低限の生活用品を買ったり射った鳥を売りに来る時ぐらいしか、町には来ない。
 しかも、それでいて見た目(だけ)はとんでもなく良いから、町の女性達からは特に警戒されている。その一方で、かつてちょっかいを掛けようとした男達はことごとく彼女の使う謎魔法で撃退されていて、彼等からは物理的にも恐れられていた。
 そんなエルフのローザリンデと、やはり町で腫物扱いの俺は妙に馬が合う。そして駄女神様から『守護せよ』とのお告げを受けた彼女は、最近では時に姉の様な、時には母の様な態度で俺に接してくれる。四歳で母を亡くした俺は、そんな彼女には実の父親以上の親近感を最近では抱いていた。

「我の事よりもシン、己の事を考えよ。いくら優秀な我と偉大なる森から学ぶべき事が多いとて、近頃のそなたはここに入りびたりではないか。我が言うのも何だが、同族間の友誼もなおざりにしてはならぬぞ」

「うん、まあ……そうなんだけどねぇ」

 彼女が言う通り、俺は最近この森に入り浸っている。
 理由のひとつはもちろん、この森と彼女から学ぶ事があまりにも多いからだけど。しかしそれとは別に、最近の俺にはあまり町に居たく無い理由がるのだ。

「まだ新しい母とは上手くいっていないのか」

「……まあね」

 そう。俺が七歳になったこの年に、父が後添を娶った。新しい母となったその女性は同じ町の住人で、やはり連れ添いを病で亡くしている。そして未亡人となった後は生活の為にうちの宿屋で働くようになり、そして父と再婚するに至った。しかもその新しい母のお腹には既に父との子供が居るらしい。
 もちろんと言うべきか、その新しい母も俺の事は扱いかねている様で、となれば俺からもあまり近づこうとも思えない。只でさえ最近は町でも『宿屋のシンはエルフに取り憑かれた』などと陰口を叩かれているのだし、そんな俺なんぞと仲良くしても何も良い事など有りはしないだろう。

 それに、この世界での俺の母親は、俺を産んでくれたあの人だけで充分だ。

 と、そこまで思い至った時、気が付けばローザリンデが心配そうな顔で俺を見詰めていた。

「大丈夫だよ、ローザリンデさん。それよりも僕は『あの』女神様との約束を果たさなくちゃいけないから。その為にはもっともっとここで学ばなきゃいけない」

「まったく、そなたはその歳で何故にこうまで達観しているのやら。まるで人間ではなくエルフの子供の様だな。もう何十年も生きている様な」

 うん、実はそうなんだよ。本当は今年で八十七歳になります。

「それよりも、そろそろ昼餉にしましょう」

「うむ!」

 今やすっかり餌付けの完了したこのエルフは、俺のこの言葉で瞬時におとなしくなる。正に胃袋を掴むとはこの事だ。

「で、今日はどの様なものを作ってくれるのだ?」

「今日は森で色々と香草を取ってきましたから、ローザリンデさんの好きなアレを更に美味しく改良できると思いますよ」

「ほう!? それは聞き捨てならないな!」

 俺の放った一言に、瞳を輝かせて喜ぶローザリンデ。もしも彼女にわんこの如き尻尾が生えていたならば、きっと千切れんばかりに激しく振り回されていたに違いない。

 ☆

 ローザリンデとこの森から、俺は様々な事を学んだ。
 この世界には様々な動植物が居て、それは前世である地球のものと酷似している事はこの数年間で分かっていた。かつて死後の世界で駄女神様が『この世界は様々な素材や食材となる素晴らしいものを色々と取り揃えた』みたいな事を言っていたが、きっとあのポンコツ女神の事だ。動植物の類なんかは以前作った地球のものを使いまわしたりしているのだろう。そうに違い無い。
 ならば、この世界の住人達が使っていないだけで、調味料となり得るハーブやスパイスの類だって有る筈だと色々物色していた所……それは意外な所に解決策があった。
 以前、森で採れる植物について彼女から学んでいた時。

「この葉は、気分が悪い時に煎じて飲むのだ」

 そう言ってローザリンデが見せてくれた木の葉は、見た目と言い香りと言い月桂樹、つまりローリエそのものだった。

「これは、腹痛を覚えたときに飲む葉」

 針の様に細い葉がびっしりと生えた細い枝。ローズマリーである。

「これは、熱が出た時に飲むと効く」

 スーッと爽やかな芳香を放つ、柔らかくて青々とした葉っぱ。バジルだ。
 この様に彼女等は食用では無く、あくまでも薬としてハーブやスパイスを服用していたのだ。
 考えて見れば、ハーブやスパイスは調味以前に、その薬効成分を得る為に服用されてきたという歴史がある。カレーに使うスパイスが実は漢方薬の原料とかなり被っている事を例に出すまでも無く、人類は遥か昔からそういったものを利用してきた。それと同じ事を、森の住人であるエルフが気付かない訳は無いだろう。
 こうしてハーブやスパイスに関してある程度の望みを持つ事ができた俺は、当然料理に幅を持たせる事も出来る様になった。
 特にハーブの類だ。この森にはローリエやローズマリー、バジル、オレガノといった香草がそこら中バカみたいに生えていて取り放題。
 例えばこれらの香草を乾燥して混ぜ合わせると、前世地球のフランスでエルブ・ド・プロヴァンスと呼ばれていたミックスハーブの調味料ができるのだが、これはローザリンデが好んで食べる大山鳩との相性がとても良い。
 そのエルブ・ド・プロヴァンスを鳩肉に塗して焼いただけのいわゆる香草焼きを初めて供した時、彼女はあまりの感動に泣き出してしまったのだった。どうやらエルフ的観点からすると香草焼きの風味、もっと言うと香草の香りというのはとても好ましいものらしい。

 なので、今回はそれを更にパワーアップした料理を作る事とした。
 通常は乾燥したハーブを混ぜ合わせて作るエルブ・ド・プロヴァンス。しかし今回はそれらに使うハーブ、ローリエやローズマリー、バジル、タイムなんかを生のまま、荒めに刻んでから一塩した鳩肉に塗し、それをバターでソテーする。そうする事で乾燥ハーブとは比べ物にならない鮮烈な香りを鳩肉が纏い、そしてバターでカリカリに焼かれたハーブが食感にもアクセントを与えてくれる。更に焼き終わった後の鍋に残った、香りの移ったバターで芋や人参等を焼けば、それだけで素晴らしいガルニチュール、つまり添え物になる。
 更に更に、この森にはなんとレモンまで自生していた。もちろんそれを搾り掛ける事により、爽やかな酸味と香りにて料理の質を上げる事ができるのは言うまでも無い。

「天才か!? そなたは天才なのだな!?」

 この日作り上げた『真・大山鳩の香草焼き』に、ローザリンデは狂喜乱舞した。
 彼女の笑顔に、俺も頬が緩む。
 この世界において今や唯一、完全に気を許せる相手であるこのエルフに喜んで貰えるのは俺も純粋に嬉しい。もしも母が生きていてくれたらまた違った事になっていたのかも知れないけれど、それを考えても詮無き事。今はこうしてローザリンデから色々と学びつつ、そして出来るだけの恩を彼女に返しながら、知識を蓄え力をつけて、やがて来るであろう試練に備える。

 エルフの力となって、絶滅しちゃわない様に彼女達を助ける。
 そして何より、料理の力でこの世界を変える。
 
 女神様に託されたそんな無茶振りを、果たして俺なんかがどうにかできるものなんだろうか?
 漠然とそんな事を考えつつも、俺は目下ひたすらに、このモラトリアムめいた現状で研鑽を続ける他無いのだった。



 6 転換期



「ローザさん、起きて。もう朝だよ? とっくに日が昇ってるよ?」

 朝。
 寝ぼけまなこを擦りながら、俺を抱き枕にして幸せそうに眠っている寝坊助エルフを揺さぶり起こす。

「うぅ~ん、あと一刻……できれば二刻……いっそ三刻……」

「そんなんやってたらお昼になります。いいから起きて。せめて僕を離して」

「むぅ……シン……あったかぃ……すやぁ……」

「だから寝るなっての」

 この極めて朝に弱い怠惰な自称乙女の腕を潜り抜け、寝台から這い出る。彼女の体温とどこかフローラルな匂いに後ろ髪を引かれつつも、気合でどうにか起床。
 そして彼女を叩き起こす前に、身だしなみを整えて朝餉の準備。今やすっかり仲良くなった山羊達から乳を分けてもらい、畑で取れた野菜や森で採った果物と一緒に添えればこれでエルフ風の朝食が完成。この間、僅かに半刻程。もはや熟練の主夫と言っても過言ではあるまい。
 そう。十歳になった今、家を飛び出した俺はローザの小屋でお世話になっているのだった。


「森の恵みに感謝と尊敬の念を以て、本日の糧を賜ります」

「いただきます」

 食前の祈りを互いの流儀で行い、朝食を頂く。今まで町の実家で食べていた茹で芋なんかよりも、エルフ達の朝食の方がよほど『それらしい』ものだったのは少しばかり意外だった。

「シンよ。今日はどうするのだ?」

「そうだね。今日も弓を教えてよ。ようやくコツみたいなのが掴めてきたんだ」

「ふむ。しかし風の精霊も見えない人間のそなたに、そうそう弓が扱えるとも思えないのだが。それにな、そなたには今少し、人間の町で学ぶものもあると我は考えるぞ」

「ローザさん、僕はもう町には帰らないよ」

「……そうか」

 俺の放った言葉に、ローザは少し哀しそうに眉をひそめる。もしかしたら彼女は、俺が女神様の使徒である事、彼女達エルフの為に色々やろうとしている事に恩義と心苦しさを感じているのかも知れない。だから家を飛び出してきた俺を快く迎え入れてくれたのだろう。
 しかし、それでも。

「シンがそうまで言うのなら、もはや我は何も言わぬ。だがな、同族と仲良くできぬのは……辛い事だぞ」

 寂し気に微笑みながら、彼女が言う。それは、まるで自分もそうだと言っている様にも思えて俺は少し心がざわついた。

 ☆

 俺が家を飛び出したのは、半年ほど前の事だ。

 どうやらこの世界では、子供は十歳になると仕事に付く事になる様だ。といっても、もちろんいきなり何かの仕事を任される訳では無い。農家や工房、商人などに弟子入りし、そこで小僧として働きながら仕事を学んでいくのが一般的らしい。
 もちろん実家が何かしらの商売をやっていたならば、それを継ぐのが世間一般の流れ。当然俺も実家の宿屋を継ぐ事になるのだ。本来ならば。
 だけど、俺はそうしたくは無かった。
 理由はもちろん、あの女神様との約束だ。いくらホタテ貝になりたくなかったからと言え、俺は自ら選択してこの世界に来た。ならば、そうなった理由である女神様との約束は絶対に守らなければならない。それはつまり、いつかはローザと共にここを旅立ち、エルフ達の元へ向かわなければいけないという事。
 なので――

「お前も、もう十歳だ。そろそろ俺に付いて宿屋の仕事を覚えなさい」

 とある日の夕食時、そう話し始めた父に、

「父さん、僕は冒険者になるよ。だから宿屋は継がない」

 俺は首を横に振ってきっぱりと拒絶し、言った。
 テーブルを挟んで、俺の正面に座る父。その隣では既におろおろとした顔になった継母が、もう三歳になる弟のマルスを胸に抱いている。そのマルスは熱にうなされた瞳で、何故かぼーっと俺を見ていた。

「藪から棒に、一体どういうつもりだ? お前は宿屋の息子なんだぞ?」

 だから黙って宿屋を継げ。父の目はそう言っている様にも見えるが、しかしその実彼は俺をちゃんと見てはいない。それは今に始まった事では無く、俺が幼い頃からずっとそうだった。
 この男は昔から、俺の事などろくに構いもせずにただ仕事だけをしていた。母が生きていた時は全てを母任せにして、そして母が他界した後も最低限の事しかしようとせず、俺は宿の従業員達に疎ましがられながら雑に育てられた。
 それでいて後妻の子供、つまり俺の腹違いの弟であるマルスが産まれたと思ったらそいつにはちゃんと愛情を持って接している。そんな奴に、こんな時だけ父親面されるのは流石に面白く無い。
 だから言ってやった。

「いいじゃん、別に。父さんも本当は僕なんかよりマルスが継いだ方が良いって思ってるんでしょ? 僕が冒険者になって町を出れば体よく厄介払いができるよ? 一石二鳥じゃん」

 次の瞬間――
 気が付いたら俺は床に叩き付けられていた。
 ぶん殴られたと気付いたのは、頬が異様に熱くなっていたから。
 頭を上げて周りを見回すと、俺の前には血走った目をして見降ろしている父。そしてその後ではマルスをしかと抱きしめた継母が、俺達から顔を背けて震えている。

「いきなりぶん殴るって、どういう事? もしかして図星を指されたから怒っちゃった?」

 俺は怒りのままに、目の前の父に言い返した。今まではそれなりに頑張って子供らしく、言うなれば猫を被ってきたが、こうなったからにはもうそんな事はできない。
 いや、できなくなっていた。
 最近は前世の年齢と実年齢のギャップに苦しむ事もずいぶん減ってきたが、今の俺は自分でも危うくなっているのが分かる。何と言っても実質八十過ぎのジジイが十歳の肉体と精神の中に閉じ込められているのだ。今の俺は言わば子供らしい癇癪を起こした老害。もはや一切の遠慮も躊躇も無くなっている。

「大体、今まで散々放っておいて今更父親面するの? ちょっと馬鹿にし過ぎじゃない?」

 俺の言葉に怒っているのか、それとも何かに恐れているのか。父は黙って俺を見降ろすばかりで何も言おうとしない。まったくふざけた話だ。子供を怒るならもっと徹底的に怒れば良い。思わず手を出した事を反省しているなら、「殴って悪かった」くらい言えば良い。なのにこいつは何をするでも無く、只俺を見降ろすばかり。全く持って不甲斐ない。
 そもそもこいつは三十歳程の若造だ。しかも人として未熟。実質八十過ぎの俺から見たら、人の親としても人間としても実に拙い。そんな所にも何だか腹が立つ。

「殴っておいて何も言わないの? ああ、とりあえず殴ったからスッキリした? そうなんだね、良かったね」

 まだ少しぐらんぐらんする視界に思わず顔をしかめてしまうが、それでも努めて何事も無かったかの様に立ち上がる。
 最後に、やはり何も言わずに居る父と、泣きながら弟を抱いている継母に心から軽蔑を込めた視線を送ってから、俺は家を出た。
 そしてその足でローザの住む森へと向かい、今に至っている。
 今にして思えば俺も相当大人げなかったけれど、しかしあの父親も家を出る俺を止めるでも無く、ただ茫然と眺めているばかりだった。やはり内心では俺が居ない方が良いと思っていたのだろう。
 継母に至ってはきっと万々歳に違いない。産まれた弟は俺と違って身体も弱く、何かといっては熱など出したりしている虚弱児だが、取りあえず俺が居なくなればやがてあの家はマルスのものになる。
 と、なれば俺はもうここに居る必要も無い。ここ数年でローザに色々と教わって、この世界における常識や知識もしっかりと備わった。もういつでも旅に出る事ができるだろう。
 ――だというのに。
 ローザは何かと言っては「まだ早い」とか「機は熟していない」と、全然旅立とうとはしない。確かに俺はまだ実年齢十歳のガキんちょだから、旅に連れて行くにはまだ早いのかもしれない。しかし、例えば実家の宿に泊まりに来る商隊なんかには、俺と大差無い年の子供が丁稚として働いていたりもする。そうそう早いという訳でも無いだろう。
 もちろんローザが俺の事を心配してくれているのは理解している。そして彼女が俺に対し、どこか引け目に似たものを抱いているという事も。
 だから俺は、今はただ日々を色々な修練に費やして、いつの日か来るであろう旅立ちに供える。そう考えていたのだけれど……

 世の中というのは、そうそう思い通りには進まないものである。
 
 ☆

 それは突然やってきた。
 この日も俺は、いつもの様に修練を重ねていた。森の中に、ぽつんと広がる空き地とその一角に佇む簡素な小屋。そこの片隅で俺は、ローザが立ててくれた的に向かって弓を射っている。この十歳の身体には中々の重労働だけれど、ローザが使っている弓はエルフが森で好んで使う短弓というもので、これはどうにか子供の俺でも引く事ができた。

「シン。風の流れを読め。精霊の見えないそなた達人間は、風の行方を見て弓を射る必要がある」

「はい」

 彼女の教えに沿って風の、空気の流れを意識しながら弓を引く。
 木々を揺らす風の音に。弦の引き絞る音に。そして自分の発する呼吸の音に。心臓の音に。
 全てに神経を集中して、今まさに射たんとした、その時。

「待て。誰か来る」

 ローザが手を上げて俺を止めた。
 エルフ特有の鋭敏な耳が、きっと何かを捉えたのだろう。そういえばローザは以前、足音だけで誰が来たか分かるみたいな事を言っていた。だからなのか、彼女は来訪者が姿を表す前から複雑な表情で俺の顔を覗いていた。
 次の瞬間。がさりと藪の間から現れたその男に、俺はさすがに息を飲んだ。

「……………………何しに来たの?」

 自分でもびっくりするくらい、冷たい声が出た。
 この世界において、俺にこんな声を出させる相手なんて一人しか居ない。父だ。

「仕事はどうしたの? お母さんが亡くなった時も仕事してた人が、こんな所でサボってちゃ駄目じゃない」

 瞬時に湧き立った怒りのままに、俺は更に言葉を重ねる。すると。

「シン! やめよ」

 ローザが、珍しく鋭い声で俺を制した。

「まずは相手の顔を見てから話せ」

 滅多に無い彼女の叱責に、俺は内心驚きながら。
 視線を上げて、見たくも無いその顔を見上げた。
 俺の視線に合わせる様に、彼は俺に顔を向けるが、あの時と同様に何も話そうとしない。しかし、その表情は今まで見た事も無かったものだった。
 一言で言えば、憔悴。
 まさに、心身共に疲弊し切った男の顔がそこにあった。

「……どうしたの?」

 俺の発した問いに、父は暫く逡巡した後、口を開いた。

「マルスが……病に倒れた。きっと、もう……長くない」

「マルスが?」

「ああ。あいつは、お前には懐いていた……死ぬ前に、せめて顔だけでも見せてやってくれ……」

 絞り出す様な声でそれだけ言うと、父は再びとぼとぼと歩いて去って行った。最後に、ローザに向けて小さく会釈していたのが意外に思えた。確か奴はエルフの事を良く思ってはいなかった筈だが。
 それよりも、マルスが……
 確かに、弟はどうも生まれつき身体が弱かった。赤ん坊の頃からやたらと熱を出していたし、食も細い。これも女神様からの祝福なのか知らないが、今まで風邪ひとつ引いた事の無い俺とは大違いだ。
 尤も、ロクな医療も無いこの世界では人の命はびっくりするくらいに軽い。まだ十年ちょっとしか生きていない俺ですら、もう何人も町民の死を見ている。その中には俺と同年代や年下の子供も居た。もしも前世だったら病院に行けば一週間で治る様な、些細な病気でもこの世界では簡単に死ぬのだ。
 そう。死ぬのだ。母さんみたいに。

「……マルスが……死ぬのか?」

 まだ三歳のあいつは、他の人間達と違って俺を色眼鏡で見ない。純粋に、ただの家族の一員として無垢な笑顔を俺に向けてくれた。俺があの家で唯一心を和ませる事の出来た存在、それが弟だった。
 その弟が死に瀕している。『あの』父が、わざわざ俺に会いにこんな所まで来たくらいだ、それは深刻なのだろう。
 しかし――
 足が動かない。
 あの家に戻る。そう考えただけで、俺の身体はまるで何者かに乗っ取られたかの如く、動かなくなってしまう。

「よもやとは思うが、家には戻らぬとは言うまいな?」

 そんな俺に掛けられたローザの言葉は、先程同様に鋭利なものだった。

「良いか、シン。そなたは女神様の使徒だ。そして我は女神様より直々にそなたを守護せよとの神託を賜った。もちろん我はその御言葉に従い、そなたが一端の男となるまで守護しよう……だが」

 逃れようも無い程に、真正面から俺の目を鋭くねめつけて。

「もしもそなたが、死に瀕した家族をも見捨てる様な薄情者であったなら話は別だ。もとよりその様な者が女神様の使徒である筈など無いからな。今すぐ家族の元に向かうなら善し。そうで無いというのなら……すぐにこの森を去るが良い。そして二度と足を踏み入れるな。例えそなたが野垂れ死のうとドラゴンに食われようと、もはや知った事では無い」


 あまりにも真っ直ぐな彼女の言葉に、俺の心は貫かれる。
 気が付いたら涙を流していた。
 心臓は早鐘の様に鳴り響き、膝はガクガクと震え、涙はボロボロと止まらない。
 だけど。
 それでも。

「ねえ、ローザさん……一緒に、来てもらって、いい……ですか? ……お願いします」

 どうにか、そう言葉を絞り出した俺に。

「よかろう!」

 ローザはマントをカッコ良くバッと翻して、頼もし気に微笑みながら頷いてくれた。

 ☆

 実に半年ぶりの町。そして実家。
 そこは、まるで通夜でも行われているかの如く静かで陰鬱だった。
 
「今、戻ったよ」

 戸を潜り、誰にとも無く言い差してから中に入る。どうやら宿泊客は取っていないようで、屋内はがらんとしていた。
 階段を上がり、家族の居住区に入る。そして唯一ひとの気配がする継母の寝室に向かうと、そこには寝台に寝かされている弟と、腫れた目でその手を握っている継母。そして隣に佇む父の姿。

「シン……来てくれたか」

 父は、まるで抜け殻みたいな顔を俺に向ける。それに小さく頷いて、俺は寝台のマルスを覗き込んだ。

「容態はどうなの?」

 継母に聞くと、彼女は小さな溜息を零す様に。

「熱が下がりません。何より、食べ物を口にしてくれないのです。このままだと滋養も取れず、身体も弱り切ってしまい……」

 ついに耐えかねたのか、そこから先は嗚咽となって喋る事もできない。そんな継母の背中を、父は優し気にさすっていた。
 瞬時に、心の中に黒いものが蠢く。

 お前、母さんの時にそんな態度を取った事があったか?
 俺に、弟と同様の愛情を注いだ事があったか?

 ドス黒い心の闇から、ふとそんな負の感情がもたげる。
 しかし、まるでそれを察知したかの如く、ローザが俺の手をぎゅっと握ってくれた。そして。

「熱が下がらぬのだな。薬は飲ませたのか?」

 不意に放たれた彼女の言葉に、びっくりした様に父が顔を上げる。

「薬と言える薬など、この町には無い。一応、熱に効くという薬草は飲ませたが」

「見せてみよ」

 父が取り出したそれを、ローザは一瞥するやフンと鼻を鳴らす。

「この様な雑草、何の効果もあるまい。これを煎じて飲ませてみよ」

 彼女が懐から取り出したのは、俺が森で採取し彼女が『薬として』調合したミックスハーブだった。

「これはシンが森で自ら集めたものだ。きっと弟の病に効く」

 父は驚愕に目を剥いて俺を見詰めた後、手渡されたハーブを持ってすぐさま部屋を出た。そして言われた通りに煎じて作った薬湯を持って、戻って来る。
 熱にうなされている弟に、継母がそれを飲ませる。こころなしか、口にした弟の表情が少しだけ緩んだ気がした。

「これを日に三度も四度も飲ませよ。そして口にしやすく、滋養のある物を与えるのだ。この者の病自体はそう大したものでも無いが、身体に滋養が行き届かなければその病にも勝てぬ」

「は、はい……しかし、この子は元々食も細くて……最近では潰した芋すら、ろくに食べようとしてくれないのです……」

 突然現れたと思ったらまるで医師の様に振舞うローザに、継母は愕然としながらもそう答える。

「そうか。食が細いのか。ではシン、ここからはお前の仕事だな」

 突然振られたローザの言葉に、しかし俺は強く頷く。

「すぐに森から必要な物を取ってきます。お義母さん、厨房使うよ」

 返事を聞く間もなく、俺は走り出した。

 ☆

 材料を両手に抱え 、家の厨房に戻る。突然動き出した俺を父と継母は驚愕の表情で、そしてローザは頼もし気に頷きながら見ている。
 当然と言えば当然だろう。日夜俺の料理を食べているローザと違い、ふたりは俺が料理をする事すら知らない。しかし彼等はこれまでのローザの言動から何かしらを感じ取ったのか、あるいは単に憔悴し切っているだけなのか、何も口を挟もうとはしなかった。
 なので邪魔される事無く、俺は調理を開始する。

 まずは芋。手早く皮を剥いて小さく切り分け、茹でる。その間に鳥ガラで出汁を取りながら、山羊乳でバターを作成。それを柔らかく茹で上げた芋と混ぜながら、木べらで丁寧に潰して混ぜる。
 混ぜ終えたなら、それを鳥ガラの出汁で伸ばし、そこに山羊乳を加えてから焦がさない様にゆっくりとひと煮立ち。最後に塩で味を整えたら――

「完成。ジャガイモのポタージュだ」

 最適解はきっとこれだろう。
 主食とされる程栄養価の高いジャガイモを漉し、やはり高カロリーのバターをふんだんに使い、それでいてしつこくも無く口にし易いもったりとしたスープ。その優しくも力強い味わいは、病んで食の細い子供にもきっと喜んで貰えるに違いない。

「これを飲ませてあげて」

 人肌よりちょっと高い程度に冷ましたそれを、継母に渡す。彼女はうろたえながらも頷き、寝室に戻ると木匙でマルスに与える。弟は熱にうなされつつ、それでも俺の作ったスープをひとくち、ふたくち、啜ってくれた。

「ああ……あああぁ…………」

 継母は涙を流しながら、震える手でかいがいしく弟にスープを飲ませる。それを一通り見守ってから、俺は寝室を後にした。
 部屋を出ると、そこには腕を組んで何故かドヤ顔のローザと、申し訳なさそうに俯いている父。

「じゃあ、僕は戻るよ」

 さすがに無視して帰るのもどうかと思い、そう言い残して森に帰ろうとした所――

「シン。ここに残るが良い。そなたには今少し、やる事がある」

 意外な事にそう言って、ローザは俺の肩を掴んだ。そして今度は父に視線を向けて。

「そなたもだ。曲がりなりにもそなたは父親だろう? ならば、このままで良いと思ってはおるまいな」

 有無を言わさず。
 まるで子供を叱る母親の様な目で、彼女は俺と父に言い放った。そして、

「話は後で聞かせてもらうからな」

 俺にそう言い残すと、飄々とこの場を去って行ったのだった。

 ☆

 取り残された父と俺は、どちらとも無く居間に向かい、卓に付いた。
 何を話すでもなく、黙って見詰め合う。
 久々に真正面から見た父の顔。それは最後に見た半年前よりも、明らかにやつれていた。
 きっと弟の病に随分と心を痛めたのだろう。何せあいつの為に、見たくも無いであろう俺の所まで来て頭を下げたのだから。
 でも正直言って、別に話す事など無い。弟の為に最低限の事、つまりミックスハーブの薬湯やポタージュの作り方なんかを伝えればそれで済む。なのでとっとと終わらせて森に帰ろう。
 そう思っていた矢先。

「何と言ったらいいか……まずはシン、あの時は殴ってすまなかった」

 ぽつり、ぽつりと父が話し出した。

「いいよ、別に今更」

 だから早く帰らせてくれ。どうせあんたは俺の事なんかどうでも良いんだろう? 
 と、口に出し掛けた、しかしその時。

「俺はな、シン。お前が怖かったんだ。お前が、ずっと小さな頃から」

 意外な事を、父は言う。

「…………怖かった? 僕が?」

「ああ。幼い頃からお前は、普通の子供とは明らかに違っていた。赤子の時からロクにぐずりもせず、まるで意思を持っているみたいに聞き分けが良かったし、言葉もすぐに覚えた」

「あ……そう、なんだ」

 うん。そうだろう。何せ中身は老人なんだからな。

「そしてある程度大きくなってからは、更に異様に見えた。文字も算術も瞬く間に覚えて、話す言葉もまるで大人の様だった。唯一、妻に甘えている時だけは年相応に見えたが、彼女が亡くなってからはそれすら無くなった。それで俺は、きっとお前は『神憑き子』なのだろうと思ったんだ」
 
「神憑き子……って?」

「稀にそういう子供が産まれる事があるという。生まれながらに頭も良くて、まるで大人の様に振舞う子供。伝説に出てくる勇者や偉人は、大抵そういう生い立ちらしい」

「そ、そうなんだ」

 成程。前世で言うところの神童とか麒麟児みたいなものか? それともこの世界には俺の他にもどこか別の世界から転生した者が居るのかも知れないな。

「だからって、怖がる必要あるの? 僕はこれでも父さんの子供なんだけど」

「そうだな……でも、俺は怖かった。お前を恐ろしく感じた。何と言ったらわかってもらえるか、皆目見当もつかないが、俺はお前が怖かった。何を言っても、何をやっても、全てを子供であるお前に見通される様な……とにかく、そういう怖さをお前から抱いてしまったんだ」

 確かに、そう言われてしまえばそうなのかも知れない。何せ俺の中身は八十過ぎのジジイだ。その俺からみればこの父という男は半人前に見えてしまい、それを我知らず態度に出してしまったのかも知れない。そう考えれば確かに、俺は相当不気味な子供に見えただろう。

「だからと言ったらなんだが、俺は仕事に逃げたんだろうな。その結果、前の妻の病状に気付く事もできず……彼女の命を縮めてしまった……」

「…………」

「そして、まあ今の妻とも色々あって一緒になったのだが。今度こそは同じ失敗をすまいと、彼女とマルスには父としてしっかり向き合おうとしたのだが……今にして思えば、それもお前に取っては面白く無かったんだろうな」

「…………まあ、ね」

「しかしな、シン。これだけは信じてくれ。俺は、決してお前を邪魔な子供だと思ってなんかいない。そりゃあ、俺は今でもお前の事がよく分からない。恐ろしく頭の切れる、俺なんかとは似ても似つかないお前の事が正直怖くもある。でもな、シン。お前は俺の子供なんだよ。子供を邪魔に思う親など居ないんだ」

 頬がこける程やつれて、隈のできた目で、それでもしっかりと俺の目を見て、父が言った。
 ああ、そうだな。子供を愛さない親なんていないよな。前世では俺もそうだった。うちのガキ共はちゃんと俺に似てバカだったけれど、でもちゃんと可愛かった。ぶん殴って説教した事だって何度もあるけど、それでも子供は可愛かった。むしろバカなガキ程可愛かった。
 でも――

「じゃ、じゃあ、なんで……なんであの時、出て行った僕を放っておいたの?」

 あの時。
 殴られた事はまあ、良い。きっとあの時の俺は大層生意気なクソガキだったろうから。
 でもそれじゃあ何で、飛び出した俺を追って来なかった。それどころか、弟がこんなになるまで放っておいて。

「それは……それは、お前が俺を、俺達を避けていたから。だから、あの時追っても良い事は無いだろうと考えてしまった。お前が森でエルフと懇意にしている事は知っていたし、あれが何故かお前を気に掛けているのも知っていたからな。ならば俺が追いかけるよりも良いと思ってしまったんだ」
 
「避けていた……僕が……」

「そうだ。前の妻が亡くなった辺りからだろう。お前は明らかに俺を避ける様になった。そして今の妻を娶ってからは、彼女の事も。俺達は、お前に嫌われていると考えた。思えばお前と前の妻には酷い仕打ちをしたのだから、それも仕方の無い事だと思い、俺は……」

 ああ、そうか。
 避けていたのは俺だったのか。
 考えてみれば、俺は父親との接し方なんてのも知らなかったしな。何せ前世の父など、顔も見た事が無いくらいだし。
 まったく、このアンバランスな自分が憎い。下手に前世の記憶など持っておらず、もっと純粋に子供として生きる事ができていたらこんな目には遭わなかったろうに。
 まったく……

「ねえ、父さん」
 
 暫く考えた後。おれは改めて父に向かい合う。

「なんだ?」

「確かに、父さんは自分でも言う通りダメな父親です。僕はこれでも結構傷付きました」

「ああ……そうだな」

「でも僕もダメな子供でした。今、言われるまで気付かなかった事がいっぱいありました」

「…………」

「ダメな者同志、これからは仲良くしませんか?」

 我ながら、バカっぽい事を言っているのを自覚する。耳が熱くなっているのが自分でもわかる。
 でも。
 それでも、俺はそう言い切って、右手を差し出した。

「は……はは……そうか、俺達はダメ親子か……」

 父は呆気に取られた様な顔をした後、小さく笑って俺の手を取ってくれる。
 この世界に産まれ落ちて十年と半年。ようやく俺はこの父と本当の親子になれた様な気がした。



 7 幼年期の終わり

 

 結果から言えば、俺はあの後実家に戻った。
 まがりなりにも父と和解する事もできたし、自分の未熟さも思い知らされた。そして何より、病に伏せっている弟の看病もしなければならない。とにかく、俺のせいで一度バラバラになってしまったこの家族を歪ながらも組み立て直さなければならなかった。
 ……あと、流石に十歳にもなると異性に対する認識も改まってくるからな。毎晩ローザの抱き枕にされて寝るのが色んな意味で辛かったのも事実だ。
 結果として彼女はまた自堕落な寝坊助生活に戻ってしまったが、まあそれは仕方が無い。俺はああいった大人にならない様に気を付けようと思う。

 そして、家業である宿屋で新たに仕事を与えられる事となった。
 料理だ。
 どうやら弟の為に作ったジャガイモのポタージュは、両親に取っても衝撃的な美味だったらしい。まあ確かにこの世界では出汁を取るという概念すら無いのだから、それも当たり前の事かも知れないが。
 更に森で取れるハーブは薬用の他にも料理に使える事をふたりに教え、ついでに大山鳩の香草焼き等の料理を披露した所、父が「これを宿で売りたい」と言い出して俺が厨房を預かる事になったのだ。
 最近では継母の他にも、料理の評判を聞いた周りの宿屋や近所の奥さん連中まで俺に料理を習いに来る始末。以前あれだけ俺の事を邪険に扱っていたにも関わらず、現金な事だ。まあ、対外的には『エルフから野草の扱いと料理を教わった』という事にしてあるし、そのおかげでローザに対する町の連中の態度も少しだけ改まってきたから、これで善しとしておこう。

 とまあ、そういった感じで今の俺は家で料理の仕事をしつつ、空いた時間は森に入ってローザから旅に出る為に必要な知識等を教わる生活を続けている。
 当初はすぐにでもローザと旅に出るものだと思っていたのだけれど、彼女は事ある毎に「機が熟していない」と言っているので何かしらの要因があるのだろう。

 そんな生活を数年ほど続け、俺が十三歳になって暫く経ったある日。

「ローザさん、今の何?」

 いつもの森で、彼女と虫を食べられるかについて色々と議論していたその時。
 俺の目の前を、何かが通り過ぎた。
 それは透明な燕の様な、目には見えないけれど確かにそこに居るのが認識できる、不思議なものだった。

「風の精霊? はて、人に認識される程に急いでいるのか?」

 ローザは両手を差し出し、その透明な塊を掌に戴く。そして何やら耳を澄まし、俺には聞こえない精霊の声とやらを聞いて――

「シン。我が里から帰還せよとの知らせが届いた……我は旅立たねばならぬ」

 今まで見た事の無い程、真剣な表情で彼女が言った。

「今まで『機が熟してない』とかなんとか言ってたのはこれを待ってたの?」

「いや、実を言えばまだ幼きそなたを案じての事だったのだが……しかし里から戻ってこいと言われてしまえば是非も無し。我は帰らねばならん。きっと我を呼び戻す位だ、里に何かしらの危機的状況が生じたに違いない」

「じゃ、じゃあ……」

「うむ……シンよ。これからはきっと長い旅になる。そして旅立てば、もうこの町に帰る事叶わぬやも知れん……それでも、我と共に旅立ってくれるか?」

 彼女の問いに、俺は強く頷く。
 もちろん、俺はその為にここ数年修練を重ねてきたのだ。
 確かに、和解した家族と離れる事には、今となっては悲しみを覚える。特に弟は俺に懐いてくれているし、実家である宿の厨房に立つ事も楽しい。この町は確かに、俺の第二の故郷となっている。
 それでも――

「行くよ。あの時、女神様と約束したからね」

 ☆

 数日後。
 旅装を整えた俺とローザさんは、町の外れに立っていた。
 そして、俺達を見送りに俺の家族や、周りの連中なんかが集まってきている。この数年で俺は町の奴らとも絆を結び直す事ができていた。

「じゃあ行ってくるよ」

 泣きじゃくる弟の頭をわしわしと撫でてから、親父に声を掛ける。

「ああ。行ってこい。そしていつの日か必ず、無事に帰ってこいよ」

 親父と継母は、色々と言いたい事はあったろうけれど結局俺が冒険者になる事を認めてくれた。

「お前はこんな町にいるよりも、世界を巡って多くの事を学んだ方が良いだろう」

 そう言って、俺の旅立ちを応援してくれたのだ。

「では、シン。参るぞ」

「うん」

 最後に大きく手を振って、町を後にする。
 これからはこの世界に産まれて初めての旅路だ。そういえば前世でもこんな事は無かったな。板場の修行をする為に色々な店を渡り歩いたりはしたけれど。

「で、ローザさん。目的の、エルフの里まではどれくらい掛かるもんなの?」

 俺の問いにローザは目を細めて答える。

「そうだな。まあ旅慣れないそなたの足を持ってしても、左程掛かりはするまい。ざっと二年もあればたどり着こう」

「え……あ、そ、そう……」

 うん、忘れてた。
 俺達人間とエルフでは、時間の物差しがそもそも違うんだった。





 第二部  エルフの里リノベーション編





 1 ローザリンデの帰還



「着いたぞ。ここが我が故郷だ」

「そうか……長かったな……」

 実に三年にも及ぶ旅路の末、俺とローザは目的地である彼女の故郷へたどり着いた。気が付けば俺も十六歳になっている。
 ここまで来るのには相当な苦労があった。
 慣れない徒歩の旅に当初の俺は足を痛めたり腰を痛めたり。
 道中で路銀が尽きて、俺が人夫出しの仕事で日銭を稼いだり。
 ローザが手っ取り早く賭博で稼ごうとして俺の稼ぎを一瞬で失ったり。
 そこの胴元が悪党でローザが危うく奴隷として売り出されそうになったり。
 色々と散々な目に遭いながらも、とにかく俺達は目的の地に到達する事ができた。

「で、ローザ。着いたのは良いけれど……ここが君の故郷なの? 随分閑散としてるけど」

 彼女がいう所の、故郷。
 森の中にポッカリ空いた様な平地に住居と思わしき建物がぽつぽつと建っていて、後は小さな畑と、低い木の並んでいる果樹園の様な場所が幾つか。その木の元ではお馴染みの山羊達がのんびりと草などを食んでいる。

「うむ、これぞまごう事無き我が故郷。相も変わらず貧相な里だ」

 俺の問いに、マントを翻したローザはやれやれと肩をすくめて零す。なるほど、おそらく彼女はこの寒村めいた里に嫌気がさして出奔したのだろう。ここまでの道中、彼女は口にこそ出さなかったけれどその態度からは帰りたくなさそうな雰囲気が常に漏れ出していた。
 しかし、それでもこの里に戻ってきたという事は、きっとそれなりに重要な意味があるのだろう。

「ところで誰も居ないね。そもそも村の入り口に見張りすら立っていないのは、流石に不用心なんじゃないか?」

 この三年程旅をしてきて、俺もそれなりにこの世界について学ぶ事ができた。はっきり言ってこの世界は野蛮だ。種族間はもとより同族間でもあちらこちらで小競り合いをしていたし、旅路を歩けば盗賊やなんかが至る所に居る。そんな世界であるからして、大抵の集落は周りを強固な防壁で囲って入り口には衛兵などを配置していたものだが。

「我らエルフにその様なものは不要だ。全て聞こえるからな。出てこないだけで、里の者達は我が帰って着た事などとうに気付いている」

「はあ、そういうものか」

 確かに彼女達エルフは異常な程に耳が良いからな。それにあの得体の知れない精霊魔法とやらもある事だし、例え盗賊や敵対勢力が近づいてもちゃんと判るんだろう。便利な連中だ。
 ……なんて事を呑気に考えていた、その時。

「あああああっ!? 聞き慣れない音がしたと思ったら、ローザが男連れ込んでる!」

「あらあらぁ、ローザったらぁ。里を追い出されたかと思ったら男咥え込んで戻ってくるなんてぇ、やるじゃないのぉ」

「うわっ!?」

 気が付いた時には、俺達はふたりのエルフに両脇を挟まれていた。
 彼女達はやはりローザと同様、凄く良い匂いがする。これはエルフ特有のものなんだろうか?

「パウラにリズか。久しいな。それと男を連れ込んだだの咥え込んだだの、人聞きの悪い事を言うな」

 当然と言うべきか、ローザは俺と違って特に驚く事無く、突然現れたふたりと挨拶を交わしている。きっと彼女にもふたりが近づいている事などお見通しだったのだろう。
 そのふたりのエルフは、何やら悪い笑顔で俺を見ながらローザを肘で突く。

「で、こちらの人間の男の子はどうしたの? わざわざ里に連れてくるくらいだから、きっと只ならぬ関係なんでしょ?」

「そうよねぇ。何て言っても、あの『使徒様』のローザが連れてきたんだもんねぇ。おねぇさん、気になるわぁ」

 ふたりはニマニマと嫌らしい笑みを浮かべながら、ローザににじり寄る。

「え、ええい。うるさいな。いいかお前ら、確かに我は女神様の使徒などと思い上がっていた。それは認めよう。しかし、我は艱難辛苦の旅の末に見つけたのだ。本物の女神様の使徒をな!」

 ローザはバッとマントを翻し、いつもの謎ポーズを取ると俺の肩に手を置いて。

「この者こそが女神様の使徒、シンだ」

 まるでおもちゃを自慢する子供の様な顔になって、言った。

「彼は創造の女神様より、我らエルフの助けとなる為に遣わされたのだ!」

「…………」

「…………」

 ふたりは、ドヤ顔のローザと戸惑う俺を交互にねめつけた後、二三歩後ずさって小声で話し出す。

「どうするリズ。この子、四十年経っても全然変わらないよ。これ絶対長に怒られるやつだ」

「仕方ないわよぉ。たったの四十年くらいであの子のアレが治まるとは思えないものぉ。むしろ自分が使徒なんかじゃ無いって気付いただけでもぉ、偉いと思ってあげなくちゃぁ」

 などとわざとらしく話し合った後、小さく溜息を吐いた彼女達はローザに向き合い。

「とにかく、長のところに行きなさい」

 何やら可哀想な子を見る様な瞳になって、妙に優しい声で囁いた。

 ☆

 何となく不機嫌そうなローザの後をついて歩く事、暫く。
 集落の最奥に大きな建物が見えてきた。その佇まいは、何となく前世の教会の様に思える。

「着いたぞ。ここが長の住まいにして女神教団の教会。そして……我の実家だ」

「え? 実家? じゃあローザって、この里の長の、娘?」

 俺の問いに、ローザは小さな溜息で答えた後教会の扉を静かに開き、中に入る。
 続いて入ると、そこはやはり俺の知っている教会に近かった。
 年季の入った木造の、礼拝堂とおぼしき広場。その最奥には立派な女神像。そしてその手前に、ひとりの女性が佇んでいた。
 人間で言うなら三十歳を少し過ぎたくらいの、びっくりするくらい綺麗な女性だ。
 腰まで下ろされた、ゴージャスに輝く金髪。
 シミひとつ見えない綺麗な白い肌。
 切れ長の、金色の瞳。
 ピンと立った長い耳。
 それらは全てローザに良く似ている。いや、彼女にローザが似ているのだろう。ローザを見れば若い頃の彼女を、彼女を見れば将来のローザを簡単に想像できる程に、ふたりは良く似ていた。

「母様。ローザリンデ、只今帰還致しました。そしてこちらは――」

「聞こえておりました。ローザ、四十年ぶりですね。少しは貴方も大人になったかと思いましたが」

 ローザに母様と呼ばれた女性は、どうやら久々に再会したらしい娘を見て盛大な溜息を吐いた。

「四~五十年程外で頭を冷やしなさいと私は言ったつもりでしたが。まさか、選りによって使徒を自称する人の子を連れ回していたとは……」

「母様、シンは我と違い自称使徒などではありません。我は確と聞いたのです、女神様より直々のご神託を」

「ローザ。みだりに女神様の名を騙るなと、あれ程言ったのがまだ分かりませんか。貴方の事です、どうせ何も知らない人の子を言いくるめて使徒などと言わせていたのでしょう? 私は『人間を知れ』とは言いましたが、人間をたらし込めなどと教えた覚えはありませんよ」

「そうでは無い! 我は貴方の言う通り人間の元に赴き、彼等と触れ合った。そしてシンと、この女神様の使徒と出会ったのだ! これは運命! 女神様が、我に試練を与えると共に引き合わせてくれた、運命の出会いだったのだ!」

 胡散臭げに見降ろす母に対し、両手を広げて朗々と説くローザ。うん、俺から見てもいかがわしさしか感じない。そして彼女達の問答から察するに、どうもローザは母親に怒られて里から追い出されていたみたいじゃないか? ああ、だから帰りたくなかったのか?
 とは言え。
 俺があの駄女神様の使徒である事は事実だから、そこはどうにか納得して貰わなければならないな。

「えーと。ちょっといいですか? まずは挨拶させて頂いてもよろしいでしょうかね?」

 冷ややかに娘を見下す母の、視線を奪う様にローザの前に出る。

「あら。そういえばまだ名乗ってすらいませんでしたね。失礼を致しました。私はジークリンデ。この里の長にして、そこな愚娘ローザリンデの母です。以後お見知りおきを」

「あ、これはどうもご丁寧に。俺はシンと言います。ローザには色々と助けて貰いました」

 どんな時でも挨拶は大事だ。それは前世八十年の経験で良く知っている。対人関係は第一印象で大概が決まる。言うまでも無いが悪印象を覆す事は至難の業なのだ。彼女の様に、高い立場にある相手には特に。

「そして、俄には信じて頂けないでしょうけれど、俺は女神様の使徒です。より正確に言うと、こことは違う世界で人生を終えた後、女神様からこの世界へと遣わされた者です」

「ええっ!? そなたにはそんな経緯があったのか!?」

 俺の放った言葉に、ジークリンデさんよりも先にローザが驚愕の声を上げる。
 あ、そういえばローザにはこの辺何も話してなかったっけ。もう何年も一緒に居たのにな。

「そ、それは……本当に、信じがたい話でありますね」

 そして肝心のジークリンデさんは俺の放った言葉に一瞬驚愕の色を浮かべると、改めて怪訝な表情で俺とローザを見つめる。特にローザには『こいつ今まで何してたんだ』と言わんばかりの、もはや不審を通り越して諦観とも言える悲し気な瞳で。

「シン殿と仰いましたか。まずは、そなたが本当の事を言っているとしましょう。だとしたら、そなたは女神様より一体どの様な使命を与えられたのでしょうか?」

「直近では『エルフの力になれ』と言われましたが、そもそもはこの世界に料理を伝える為に遣わされました」

「…………料理?」 
 
「はい。女神様は、この世界が争いに明け暮れている事を大層悲しんでいました。そして俺に『料理と美食の文化を伝えて穏やかな世界になる様協力して欲しい』と仰ったんです。前世での俺の生業はコック……料理人だったので」

 俺の返答に、ジークリンデさんはしばらく沈思した後、またしても大きなため息を吐いた。
 
「あれは百年程前の話でしょうか。やはり、そなたと同様に『異なる世界より来た女神の使者』を名乗る人間と出会った事があります」

「お、俺以外にも居たんですか!?」

「ええ。確か、名前をトールキンと言いましたか」

 トールキン?
 どこかで聞いた事ある様な、無いような……

「その者は、『文学の力でこの世界を豊かにする』と息巻いておりました。私には何の事かさっぱり分からなかったのですが。しかし彼は数年程この世界を旅した後、突然姿を消してしまったのです」

 うん、間違い無い。それはきっとあの駄神様の仕業だ。美食の前には文学の力を借りようとしてやがったのか。

「女神様のお考えは、凡庸なる私には判りかねますが……いずれにしても、武の力も無しにこの世界を変えるなど、私にはできると思えませぬ。シン殿は料理の力とやらでこの世界を変える事ができると、本当にお思いですか?」

 真顔に戻って、彼女は真剣な目で俺を見つめる。いや、これはむしろ睨んでいると言って良い程の眼力。
 それは『この世界を舐めるなよ』と言葉無くとも語っている様に、俺には思えた。
 けれども。

「正直に言うと、判りません。でも、俺は料理人です。料理に人生を捧げた男です。ですから俺にできる事は、料理と美食をこの世界に広めるって事だけです。その結果、この世界が少しでも穏やかになるんだったら、こんなに嬉しい事は無いって思います。俺にできる事は料理だけですから」

 そう。俺は料理人だ。
 剣も振れない。魔法も出せない。
 料理以外の事なんて、何一つできないのだ。
 だったらいくら怖くても、勝算の欠片すら無くても、料理をするしかないのだ。
 そんな俺の決意を口にした瞬間――

 ぎゅるるるるっ

 と、俺の腹が盛大に鳴った。
 凄い剣幕で睨んでいたジークリンデさんが、それに釣られて思わず表情を崩す。
 そして、少し呆れた様な口調で俺に言った。

「そろそろ夕餉の準備をする時間です。そこまで仰るならば、シン殿のお力を是非見せて頂きたい」



2 理を料る



 この世界に俺が来た目的は、料理と美食の力で世界にゆとりを与え、平和な世の中にする事。

 うん。自分で言ってみても、いかがわしさしか感じない。
 かつて俺が生きていた世界には、本気でラブ&ピースを掲げている頭の中がお花畑な奴らがたくさん居たけど、そんな連中と比べてもこれはちょっと酷い話だ。日々戦に明け暮れているこの世界のジークリンデさんなんか、内心は相当に腹を立てているのかも知れない。
 それでも、俺はそれを目的に生きて行かなければならないのだ。あの駄女神に変な脅迫をされたとは言え、これは自分で決めた事なのだから。
 そう思うと、この里に来て早々に料理をする機会を得たという事は、多分悪い事では無いだろう。
 瞬時にそこまで考えた後、俺は彼女に向かって力強く頷き返した。

「わかりました。俺に作らせてください」

 ☆

「どうぞ。こちらにある物はご自由にお使いください」

 彼女に連れて来られた、厨房兼食料庫の様な場所。
 ざっと目を通してみる。
 目算で四畳半くらいの小さな部屋。壁際に水の入った大きな瓶と石で組んだ簡素なかまどが並び、その上には換気の為の小窓があしらわれている。
 反対側にはまな板が置かれた小さな作業台と、食材が納められた棚。中には数種類の野菜や果実、そして小さな壺などが幾つか並んでいた。
 そして天井から何本か縄が垂れ下がっていて、羽をむしった鳥が吊るされている。
 ここいら辺の作りは、かつてローザが住んでいた小屋と大体同じ。つまり、これが平均的なエルフの住居なのだろう。

「夕餉の支度が出来たら教えて下さい。そなたの信じる料理の力、括目させて頂きたく思います」

 まるで『やれるもんならやってみろ』と言わんばかりの表情を見せているジークリンデさん。なんだか勝負でも吹っかけられているみたいだ。案外このひと好戦的なのかも知れない。
 望むところだ。

「では、掛からせてもらいます。少々お待ちください」

 彼女を見送り、改めて厨房を見渡す。さて、一体何を作ったものか……
 この世界で料理をする様になって、早十年。当初は塩くらいしか無かった調味料もずいぶん増えた。バターにハーブ、そして旅先で仕入れた様々な食材。それらを使えば、かつてのローザと同様の食事しか取った事の無いであろう彼女に大きな衝撃を与える事ができるだろう。
 だが、しかし。
 その一方で、食というものに対して保守的な人も一定数居る。特にこういった僻地に籠って外の世界を知らない人なんかにはその傾向が顕著だ。そんな人を相手に見た事も無い料理を出しても、逆効果になりかねない。
 と、なると。
 ここはやはり、彼女を知っている人物に聞くのが一番だろう。

「ねえローザ。ジークリンデさんは何か好んで食べる物とかあるかな?」

 俺の後でなんとなく手持無沙汰でそわそわしている彼女に問いかける。

「母様の好物か? ……そうだな、特にこれといった物は思い付かないが、まあ我々エルフが好んで食べるのは果実と野菜だな。肉は鳥が殆どだ。四ツ足の獣も食べない事は無いが、母様の様な古い世代には好まれないな」

「古い世代って。ジークリンデさんって一体幾つなの?」

「ああ見えて七百は越えているぞ。そうそう、母様は脂の強いものを好まぬ。もう歳も歳だからな」

「は、はあ」

 なんとまさかの七百歳越えか、すげえな。本当にエルフって連中は見かけでは判断ができない。
 まあ、それはともかく今の情報はとても役に立つ。脂が苦手なら、おそらくバターを使った料理では逆効果だ。そして野菜を好むならもっとシンプルで、それでいて料理の意味を知らしめる事ができる献立を――
 そこまで考えた上で、もう一度食材を確認。
 天井から吊るされているのはお馴染みの大山鳩。これは今まで散々扱ったので何も問題は無い。
 野菜を見ると、これも今まで扱ったものばかりだ。京人参そっくりの人参。ビーツみたいに真っ赤な山芋。シイタケそっくりのキノコ。他にもキャベツとか、蕪っぽい根菜とか。
 これらを使って、実質七百歳越えのお婆ちゃん的味覚を供えているであろうジークリンデさんの好みそうな料理というと……

「よし。こういう時はとことんシンプルにいこう」
  
 脳内で瞬時に献立を組み立てて、調理を開始した。
 かつてローザは、野菜はそのまま食べると言っていた。まあ切るくらいの事はしているのだろうけれど。
 それでいて肉類にはちゃんと火を通す文化がある。恐らく大した事はしていないだろうけれど、それでも一応調理らしい事もやっている。
 ならば――
 直感的に感じた。
 彼女達エルフには、和食の調理法が通用するに違い無い。
 なるべく余計な加工をせず、素材本来の旨味を最大限に尊重する事を至上命題とする和食の概念は、きっとエルフの好みに合致するだろう。俺は本来洋食が専門のコックさんだけど、そもそも日本人であるからして和食の知識と経験もそれなりにある。なので、今回は敢えて得意技である洋食の技術を封印して、おばあちゃんエルフ用の優しい和食に挑む事とする。
 まずは大山鳩を捌く。
 身体から外した腿は開いて骨を抜いた後細かいスジや軟骨を取り、身の盛り上がった部分に刃を入れて厚みを均等にしてから二センチ角に切る。胸肉も皮を引いてから、腿より気持ち大きくカット。そして残った皮は裏側の余分な脂をそぎ落してから幅二センチ、長さ五センチくらいの大きさに揃える。
 そして、切り揃えた食材を串に打つ。
 腿肉、胸肉、そして皮。
 腿肉は四切れずつ、身から皮目を貫く形で刺す。この時、均等に火を通す為に手元側から順に小さい肉を打つ事が肝要だ。
 胸肉も同様に、そして皮は一枚ずつ折り畳む様に刺していく。
 山芋や人参も一口大にカットして、シイタケみたいなキノコも石突きを外して同様に串を打つ。
 そして肉類には少し荒めに削った岩塩を両面に振って、仕込みは完了。

「よし。では焼きに掛かります」

 興味深そうにこちらを見ているローザに一声かけて、かまどに向かう。
 火を起こし、網に熱が回って来たら食材を並べる。まずは野菜串。人参は網の両端、つまりいちばん弱火の場所に置く。山芋はその内側。両方とも生で食べられる食材だが、火を通すとほっこりとした食感に変わるので焦がさない様にじっくりと熱を入れる。
 それより内側の中火の部分には、キノコ。こいつは身が温かくなって表面から水滴が滲む、いわゆる『汗をかいた』状態になれば食べられるので、この場で短期決戦。
 そして真ん中の一番火が強い部分に、胸肉と腿肉。
 肉を網に乗せると、じゅわぁっと音を立てて脂の焼ける匂いが立つ。
 後ろでローザが「うはぁ♪」と嬉しそうな声を上げた。今や俺にすっかり胃袋を掴まれたこのエルフ娘は、涎を垂らさんばかりの緩んだ顔で焼けていく鳥肉を見詰めている。
 程なくしてジリジリと脂の跳ねる音が聞こえて来た。肉に火が入って来た証だ。そのまま少し我慢して、下面がほんのりキツネ色を帯びてからようやくひっくり返す。ここで早まってしまうと生焼けの肉が網に食いついて、悲惨な事になるので注意が必要だ。
 肉の片面が焼けた頃、キノコが汗を掻き始める。こいつはもう焼き上がり。ここから更に焼き続けるとシワシワにしぼんで食感も悪くなってしまうので、火から下ろして皿に盛る。そして空いた部分には、皮を配置。こいつは火の通し方が一番難しいので、ここからは一切気が抜けない。
 良い感じに熱が入って来た人参と山芋をひっくり返した頃、胸肉と腿肉が本格的にじゅわじゅわと脂を鳴らし始める。
 本来なら胸肉は真ん中が生の、いわゆるタタキみたいな状態にしたい所なのだけど、保守的な食生活を送っているであろうジークリンデさんの為に今回は完全に火を通す。何度か表裏を返す内に、腿肉は自らの脂で表面をカリっと焼かれ、胸肉は身をみっしりと締める。
 そうこうしている内に今度は皮が、その身に溜めた脂分をポトポト落とし出す。こいつがもし火の真下に居ると、落した脂が燃えてあっという間に焦げてしまうので注意が必要。短気は損気。余計な油分を落とす為に、じっくりと臨む。
 表面に綺麗なキツネ色が出来たら、腿と胸は焼き上がり。それらを外して皿に盛り付けたら、仕上げに皮を真ん中の強火に移動。手早く何度も返しながらカリカリに焼き上げる。皮に振った塩は、大部分が脂と一緒に落ちてしまうのでもう一度振り塩をして、完成。
 最後までじんわりと焼いていた人参と山芋を火から上げ、キノコと共に塩を振る。こちらには、肉に使った粗い塩は使わない。しっかり味を付けるというよりもほのかな塩分で野菜の甘みを引き出すのが目的なので、極限まで細かくすり潰したものをはんなりと降らせる。
 最後に、木の器にバランス良く整えて盛りつければ――

「よし!」

 俺の、エルフの里に来て初めての料理。名付けて

「地鳥と地野菜の網焼き エルフの森風。完成」

「そ、それ、我も食べていいんだよなっ!? なっ!?」

 ローザが、まるで飼い主から長時間『おあずけ』を食らっているわんこみたいな瞳で俺に訴える。

「もちろん。では夕餉にしよう」

 ☆

「準備が整いました」

 調理を終えた俺は、ついにジークリンデさんとの『勝負』の時を迎えた。
 場所は、教会に隣接している彼女達の住居。テーブルの上には出来上がった料理と、いつの間にかローザが盛り付けていた数種類の果実が乗ったボウルが鎮座している。ちなみにこの家屋の中も、とても良い匂いがした。

「では……」

 テーブルを挟んで相対するジークリンデさんが、右手を胸に当てて瞳を閉じた。その隣に座るローザも同様にする。

「森の恵みに感謝と尊敬の念を以て、本日の糧を賜ります」

 厳かな口調でエルフ親子が唱和。
 俺も日本人の作法として合掌をして「いただきます」と唱える。
 開戦のゴングとしては、それは随分と穏やかなものだった。

「さて、こちらはどの様にして頂けば良いのでしょうか?」

 木皿に盛られた串焼きに視線を落として、ジークリンデさんが問いかけて来る。

「そのまま手に取って、かぶりついてください」

 前世日本では、女性は箸で肉を串から外してから食べたりもしたけど、当然エルフの食卓に箸など存在しない。少々ワイルドだがこのまま食べて頂こう。
 ふたりは俺の言葉に素直に従い、まずは腿肉の串を手に取って食べ始めた。

「おおっ!? これは美味だ!」

 腿串を一口食べたローザが、もごもごさせながら驚愕の声を上げる。

「これ、お行儀が悪いですよ」

 ジークリンデは娘の無作法を叱りながらも、やはり驚きを隠せないのだろう。口元に手を添えて、

「しかし……確かに、これは美味しいですね」

 と呟いた。
 ふたりの反応を確認してから、俺も腿肉を一本手に取ってかぶりつく。
 噛んだ瞬間、口腔内に濃厚な肉汁の旨味が広がった。肉は鶏よりも少々硬いものの、その弾力はむしろ食感の良さに昇華されている。噛めば噛む程に旨味を出し、飲み込んだ後鼻から息を抜くと、適度に焦げた香ばしさと共に野趣溢れる独特な風味の余韻が残る。
 歯応えも良く味も濃い。大山鳩、実に良い食材だ。

「こちらはまた違った味わいですね。先程のものよりも少し硬いですが、あっさりしていて好ましいです」

 胸肉に手を伸ばしたジークリンデさんが目を細めて評する。どうやら彼女は胸肉がお気に入りの様だ。

「正直、驚きました。一見した所、大山鳩を細かく切って木の串に刺し、塩で味を付けて焼いたもの。普通に焼いたものと一体何が違うのかと、訝しんでおりましたが」

 胸肉を一串食べ終えた彼女は、感嘆とも呆れともつかない溜息を吐きながら、そう零した。

「これが料理の神髄です。大した事をやっている様には見えないかも知れませんが、焼き鳥ひとつ取っても切り方、串の刺し方、塩の振り方、そして焼き方、全てに『仕事』をする事により、ただ漠然と丸焼きにするのとは格段の差が出ます」

 調理において、工程には全て意味がある。
 それは焼き鳥の様なシンプルな料理にも、いや、シンプルな料理にこそ重要な要素となるのだ。
 食べやすく、そして火の通りを良くする為の切り方がある。
 食材の味を最大限に引き出す為の、塩の振り方がある。
 しっかりと火を入れ、食感や味わいを壊さず、更に高める為の加熱方がある。
 理(ことわり)を料(はか)ると書いて、料理。そういった『意味のある仕事』を丁寧にこなす事によって、食材の味は何倍にも何十倍にも高まるのだ。

「うわっ! これは!? 表はカリカリなのに、噛んだら脂がじゅわって出てくる! これは何だ? 皮なのか? 皮ってこんなに美味しいのか?」

 ローザは皮がお気に召したらしい。確かに、この表面のパリパリとした食感と噛み締めた時に溢れる脂の旨味がもたらすギャップは食べていて面白い。これもしっかりとこなした仕事あってのものだ。

「焼いた野菜もまた、良いものですね。野菜を火に掛けるとは、我々エルフには無い発想です」

 火が通ってねっとりと甘くなった人参と山芋を口にすると、ジークリンデさんはむしろ鶏肉を食べた時よりも嬉しそうな顔になった。やはり彼女は肉よりも野菜や果物を好む様だ。

「この野菜の焼き物も、しっかりと料理をしています。こっちには肉に使った物とは違い、砂の様に細かくなるまですり潰した塩をほんの少しだけ振りかけてあります」

「まあ、塩の形で味が変わるのですか?」

「ええ。塩加減は料理において一番重要な要素と言っても過言ではありません」

「ほう……料理とは、中々に奥が深いものですね」

 目を細めて野菜串に舌鼓を打つジークリンデさん。
 その隣では肉食系エルフのローザが両手に串を持ちながら「美味し! 美味し!」と笑みを浮かべている。
 取りあえずは料理の力、その片鱗を見せる事はできたみたいだ。

 ☆

 食事を終え、食器を片づけた後に再び彼女達とテーブルを挟む。

「素晴らしい晩餐でした。この世に生を受けてより七百余年、今日より食事を美味しいと思った日は無かったでしょう」

 ジークリンデさんは柔らかい表情を浮かべてそう言った。隣のローザも、

「うむ。美味だった」

 と恵比須顔。これだけ聞けば、俺の完全勝利である。
 しかし、だ。

「しかし。だからと言って、料理に世界を変える力があるのかというのは、また別の話です」

 今度は真顔に戻って、彼女はそう言葉を続けた。
 まあ、当然そう思うだろう。一回美味い飯食っただけでそんな妄言めいた話を納得できるとは、この俺ですらも思っていない。
 それに――

「もちろん、俺も料理と美食で簡単に世界が変わるなんて思っていません。でも、神様は言ってました。『この世界の住人には心の余裕が足りない。なので芸術や美食を愛でる、心のゆとりを与えて穏やかに暮らしてほしい』って」

 正面からまっすぐにジークリンデさんの瞳を見つめて、続ける。

「正直、料理や美食はきっかけの一つに過ぎないとも俺は思っているんです。美味しいものを食べる喜び。美味しいものを作って、大切な人に食べてもらう喜び。そういった小さいけれど幸せだと思える事。そういうのをコツコツ積み重ねていく事が、やがて世界を変えていくんじゃないかって、俺は思います」

 俺の言葉を聞いていたジークリンデさんは、それでも納得がいかないという様に小さく頭を振る。

「気の長い話ですこと。その様な事、人間であるそなたの生きている内に叶うとは思えません。我々エルフの寿命を持ってしても怪しいものです。それに」

「それに?」

「そなたの言う『美食の喜び』なら、既に私たちも知っています……ローザ」

 突然話を振られたローザリンデが、耳をぴこんと立てる。

「何ですか? 母様」

 そんな彼女に、ジークリンデさんは厳かに、それでいて妙に弾んだ声で言った。

「納屋から私の取って置きの醸果(かもか)を持ってきてください」



 3 限界集落エルフの里



「えぇ……母様、醸果たべるの?」

 ジークリンデさんの言葉を聞いた途端、ローザが露骨に眉をひそめる。

「いいから持ってきなさい」

 そんな彼女を眼力でねじ伏せる母。やがて、仕方なしと言った風体で「はい」とローザは席を立った。何やら気の乗らなそうな娘に対して、命じた母は「フフフ……」と不敵に微笑む。このひと、案外大人げないのかも知れないな。
 程なくして、ひとつの壺を抱えて彼女が戻って来た。

「よいしょっと。母様、くれぐれも食べ過ぎないでくださいね」

 完全に警戒した視線で母を一瞥して、ローザは席に着く。対してジークリンデさんは

「母に向かってその口のきき方は、なんですか」

 と小言をいいつつも、なんだか少し嬉しそうな表情を見せながら壺の封を開けた。途端に、辺りが芳香に包まれる。

「なっ!? この香りは……」

 俺の反応が気に行ったのか、彼女は目を細めて誇らしげに言った。

「どうぞ、召し上がってみてください。これこそが我々エルフの誇る美食、醸果です」

「かもか……」

 俺はすかさず立ち上がって壺の中を覗き見た。そして、中身を見て納得する。

「うん、やっぱりだ」

 彼女が自信たっぷりに引っ張り出して来た壺の中は、軽く発酵した葡萄が詰まっていた。

「いただきます」

 進められるままに、壺の中に手を突っ込んでその一粒を摘まみ出す。
 一見すると、シワシワになった腐りかけの赤葡萄。しかしその香りは芳醇にして複雑玄妙。むしろ捥ぎたてのものよりも芳しいのではないだろうか。
 口に含んでみると、芳香は瞬時に鼻腔の隅々まで行き渡った。
 軽く噛むと中の身はホロリと溶ける様に姿を失くし、ジェル状になる。残った皮を噛んでみると表面はほんの少し苦いものの、内側には絶妙な甘酸っぱい部分が有って思わず噛み続けたくなる。
 そして最後に、発酵により生じた僅かなアルコール分がふうわりと、余韻として残った。

「ふふふ、ぐうの音も出ない様ですね」

 何故か勝ち誇った顔のジークリンデさん。嬉しそうな表情で、彼女も壺の中の醸果をつまむ。そして口にした瞬間、まるで大好きなお菓子を貰えた子供の様に相好を崩す。

「はぁ……この豊かな香り……生の葡萄では味わえない妙味……食後の不思議な多幸感……これが美食で無くて、何が美食と言うのでしょう」

 うっとりとした目で頬を染め、すかさず二粒目をひょいっとつまんでぱくりと口に入れる。

「どうですか、シン殿。私達はあなたに教えられるまでも無く、既に美食を知っております」

 ひょいぱく。

「我々はこの様に、美食を愛でるという事を既に何百年も行っております。なのに、何故女神様が仰ったという『心の余裕』とやらを持たないのでしょう」

 ひょいぱく。

「そなたがこの世界に来られる百年程前、やはりトールキンという女神様の使徒が現れました。その者は、来た当初こそ『文学の力でこの世界を豊かにする』などと大層な事を言っておりましたが、この世界にて数年程過ごした後、女神様に頼み込んで元の世界に逃げ帰ったと聞きます。彼の言う文学とやらも、この世界を救う手段足り得なかった訳れす」

 ひょいぱく。

「れす?」

 何やら語尾が可愛くなっている事に不審を抱き、改めてジークリンデさんを良く見てみると……

「つまり、私は何が言いたいかというとれすね」

 ひょいぱく。
 と、結構なペースで醸果を摘まむ彼女の、陶器の様に真っ白だった肌は全身綺麗なピンクに染まっている。
 ……このひと、めっさ酒弱いじゃねえか。
 今、俺達が口にしている醸果。これは単に葡萄の果実が自然発酵しているだけのものなので、当然酒の様なアルコール度数は無い。食べてみたところの感覚では、せいぜい2%くらいなものだろう。
 にも関わらずここまで酔ってしまうとは、このお母さんとんでもない下戸である。

「聞いてまひゅか? シン殿!」

 だんっ! 
 とテーブルを平手で打って、据わった目付きで俺を睨む。
 その隣ではローザがゆっくり首を振りながら「あーあ」と呟いていた。

「き、聞いてますよ。ええ、ちゃんと」

 俺は以前の仕事で身に着けた、対酔っぱらい様の営業スマイルで応戦する。

「わらひが何を言いたいかというとれすねえ! 女神様は方法をまちがえているんりゃないかって事なのれす!」

 だんっ!
 再びテーブルを引っ叩いて、彼女はとんでもない言葉を吐いた。
 うわあ、このひと司祭なのに神様を批判しちゃったよ!

「ただでさえ、この集落はそんざいの危機にひんしているのにっ!」

「そ、存在の危機? 戦況はそこまでひっ迫しているんですか?」

 なるほど。彼女達は存亡の危機に瀕している程に追い詰められているのか。
 ならば、そんな時に女神の使徒を名乗る奴がのこのこと現れて『料理で世界を平和にする』とかほざいていたら面白くは無いだろう。酔って愚痴のひとつも言いたくなるに違いない。

「戦況なんか、どうでもいいのれす」

 ……え?
 再び、ジロリと俺を睨むジークリンデさん。その瞳は完全に酔っぱらいのそれである。

「この里には、おかねがないのれす」

「はい?」

「この里には、おかねがないのれす! おとこしゅうがみんな戦に行っちゃっへるから、おかねを稼ぐことができないのれす! このままじゃあ、やっへいけないのれす!」

「お、お金ですか?」

「そうれすよ! この里にはこれといった名物も特産品もありまひぇん! なので男衆は皆傭兵として出稼ぎに行っちゃってましゅ! だからなんにもできないんれしゅ!」

 存亡の危機って言うから、よっぽどエルフ達は戦に苦しんでいるのかと思ったら、まるで日本の片田舎で良く聞く限界集落みたいな話じゃねえかよ。俺の使命感返してくれよ……

 話している内に思い出しギレでもしてきたのだろうか。ジークリンデさんは「ひぐっ! ひぐっ!」としゃくり上げながら更に声を上げた。


「せめて内職の手だけれも増やそうと娘を呼び戻したら! なんか料理しかできないってひと連れて来ちゃうし!」

 うん、何気にひでえ言い草だ。
 しかしまあ、彼女がこうも愚痴るのも、判らない話じゃない。
 きっと彼女はその細腕でこの経済的に危うい里を、なんとか切り盛りしてきたのだろう。じゃなければこんなに悔しそうな顔などできない筈だ。

「ひぐっ、あなたぁ……どうして私たちを置いて逝ってしまったの……あなたぁ……」

 悔しそうなしゃくり上げは、いつしかさめざめとした涙声に変わる。ジークリンデさんはテーブルに突っ伏して泣き出してしまった。

「すまないな、シン。母様はここ百年程、醸果を食べるとずっとこんな調子なんだ。まったく、だからあれ程食べ過ぎるなって言ったのに」

 ローザは苦笑しながら母に一瞥をくれると、俺に振り返りる。

「今、母様を寝かせてくるから。ちょっと待っててくれ」

「あなた……あなたぁ……すぅ……」

 ジークリンデさんの泣き声は、いつしか可愛らしい寝息に変わっていた。

 ☆

 酔い潰れたジークリンデさんを寝かしつけた後。俺達は何をするでもなくふたりでテーブルに向かい合っていた。

「で、結局ローザが呼び戻された理由って」

「ああ。どうやら里の借金返済の為に呼ばれたみたいだな。まったく、我が追い出されていたここ四十年でどれだけ借金が増えたのやら」

 はあ、と大きな溜息を吐くローザ。そいうえば、俺はかれこれ十年以上つるんでいるのに彼女の事を何も知らないんだな。今日改めて思い知った。

「それにしてもローザ。君が里の長の娘だなんて知らなかったよ。どうしてそういう大事な事を先に教えてくれなかったんだ?」

「それは……もう分かっただろうが……我はこの里では浮いた存在だったからだ」

 恥ずかしそうに。それでも真摯に、ローザは話してくれた。
 里長の娘として産まれ、しかも長は女神教団の司祭でもある。となれば自分は特別な存在に違いないと彼女は考えた。それが単なる優越感と自己顕示欲だけだったなら、彼女はとても醜悪な人物に育ってしまっただろう。しかし彼女自身も敬虔な女神教徒である為、そうはならなかった。
 その代わり、何を思ったか彼女は『自分こそが女神様の使徒に違いない』と考えるようになった。
 その思い込みはいつしか強烈な自己暗示となり、気が付けば言葉使いも仰々しいものになり、百歳を越える頃にはとても痛々しい自称女神の使徒が完成してしまった。

「そんな我を諫める為に、母様は我を里から叩き出した。『四~五十年程世間を見て、頭を冷やして来い』と、な」

「それで旅に出た末に俺らの町の近くに住みついて、俺に出会った訳だ」

「うむ。まさか本物の使徒に出会えるとは夢にも思っていなかったが……しかし、今にして思えば我が身に余る思い違いをしていたのも、母様から里を追い出されたのも、女神様から与えられた試練だったのだろう」

 腕を組んでうむうむと頷くローザ。そんな彼女は俺に視線を移すと、少し恨めしそうな目になって言った。

「しかし大事な事を話してなかったのはシン、そなたも同様だ。先程の話は驚いたぞ」

「先程のって……俺何か言ったっけ?」

「母様に言っていた『こことは違う世界で人生を終えた云々』というやつだ。我はその様な話は一言も聞いていないぞ」

 あー。そうか。その事か。
 確かにこの話はローザはおろか、誰にも話していなかった。その理由はもちろん、言っても誰も信じないだろうから、だけど。
 でも、今なら。
 今のローザになら話しても良いだろう。

「そうだな……じゃあ、話そうか。実を言うと、俺には前世の記憶があってな」

 そして俺は自分の過去を全て話した。
 こことは異なる世界での、八十年に及ぶ生涯。
 赤子としてこの世界に産まれ、前世の記憶のせいで実年齢のギャップに苦しんだ事。
 そのせいで町では浮いてしまい、ローザには結果としてとても助けられた事。
 更にはローザのお陰でこの世界における家族と和解をする事が叶った事。などなど。

「……なるほどな。初めて会った時から妙にこまっしゃくれたガキだと思っていたが、まさかそなたの中身が八十歳過ぎの老人間だったとはな。納得だ」

「うるせぇよ、自分だって自称女神の使徒とか拗らせてたくせに」

 俺達は互いに見詰め合い、そして笑った。

 ☆

 翌朝。
 なにげに容赦無く叩き起こしに来たローザに連れられて、朝餉の卓に招かれる。
 テーブルの上には適当な大きさにカットされた人参や山芋、キャベツ等の生野菜が乗った大皿。なんかのベリーやりんごみたいな果実の盛られた籠。そして山羊の乳と思われるカップが並べられていた。実にエルフらしい朝食だ。

「おはようございます、シン殿」

 テーブルには、既にジークリンデさんが着いていた。

「おはようございます」

 挨拶を返しつつ、さりげなく観察。どうやら二日酔いになっていたり気分を悪くしていたりという気配は無い。
 それどころか。

「昨夜は先に休んでしまい、申し訳ありませんでした」

 なんて事をケロリと仰います。

「醸果は我が里の誇る美食ですが、眠くなってしまうのがいけませんね。しかしあれを食すると翌日は実に気分良く起きる事ができるのです」

 たおやかな笑顔を浮かべて語るジークリンデさん。そして俺の背後ではローザが「ハハハ……」と乾いた笑い声を発している。

(……おい、もしかしてジークリンデさん、昨日の事覚えてないのか?)

 振り返り、小声でローザに耳打ち。

(ああ。母様、アレ食べると記憶を無くすみたいなんだ。まったく、自分は散々愚痴って泣いて寝ちゃうから次の日スッキリできるだろうけど、付き合わされるこっちはたまったもんじゃない……)

 うわぁ、地味に質悪りぃ。
 そして母親がスッキリした分だけ娘がストレスを抱え込むのか。

(強く生きろよ、ローザリンデ)

 明らかに不機嫌そうなローザの顔をちらりと覗いてから、俺も食卓に着いた。
 生野菜と果物という、素朴ながらも健康に良さそうな朝食を頂いた後。

「ええと、ジークリンデさん。いえ、里の長。幾つかお話したい事があるのですが、よろしいでしょうか?」

 俺は改めて『里の長』としてのジークリンデさんに向き直る。

「……はい。なんでしょう」

 何かを察した彼女が、姿勢を整えてすっと俺の目を見据えた。

「有り体に言いますと、しばらく俺をこの里に置いてもらいたいんです。もちろんタダ飯を食らうつもりはありません。俺ができる事なら何でもやります。駄……女神様から『エルフの助けになれ』って神託も受けていますし」

「そう、ですか。正直を言いますとその神託とやらも疑わしいものですが……しかしそなたがあくまでも女神様の使徒を名乗るのならば、私としても見極めなくてはなりません。滞在を許しましょう」

「ありがとうございます。もしかしたら、この里の問題を解決できる手立てを見つけられるかも知れません。もし男衆が居なくても外貨を稼ぐ術を見つける事ができれば、里の役にも立てると思いますし」

 俺の言葉を耳にした彼女が、驚愕の表情を浮かべた。

「どうしてそなたは里の窮状を!? 一体誰から聞いたのですか?」

 あんただ、あんた。
 


 4 エルフの里で新事業



 ジークリンデさんの了承を得た俺は、ローザに頼んで里を案内してもらっていた。

「こうして見ると、思ったより普通なんだな。エルフは森の民とか言ってたから、てっきり木の上にでも家作って住んでるのかと思った」

「我が里は森の外れで、ドワーフや人間の町にも近いからな。彼等の影響が大きいんだと思う。森の奥の方には、今でも皆が木の上に住んでる里もあるぞ」

 案内役のローザが、丁寧に色々と教えてくれる。
 どうやらここは、長の名を取ってジークリンデの里という名称らしい。深い森の端っこにぽつんと存在する、人口は二百人に満たない小さな里。どうやらエルフ達は広大な森の中に、こういった小さな集落を点々と作って暮らしている様だ。

「見ての通り何もない村だからな。あるのは畑と果樹園と、小さな泉くらいだ」

 彼女の言う通り、そこはまさしく辺境と呼ぶに相応しいひなびた集落である。

「周りの森には鳥もたくさん居るし、キノコなんかも取れるから我らが食べていく分には困らないが……母様が言う通り、お金に換えられる様な珍しいものなんて何もない」

「食っていけるんなら、それで良いんじゃないか?」

「武器や鉄器などの生活道具はドワーフから買わなければならないし、人間と交流するにも必要だ。それにこの辺りはゴブリンやオークといった連中も頻繁にちょっかい出しに来るから、それなりに備えねばならない」

 はぁぁとため息を吐いて、村の現状を話すローザ。彼女も長の娘として、里の行く末を危惧している様だ。
 地獄の沙汰も金次第、とは前世で言われていた言葉だが。
 まさかこんな異世界に来てまで、そんな世知辛い話を聞く事になるとは思いもよらなかった。

「野菜とか果物なんかは売れないのか? 今朝食べた奴は、どれもすごく美味かったけど」

「あんなもの、この世界じゃあどこにでもあるよ。それに、確かにこの里の果物は美味しいけれど、人間の町は遠いからな。持ってくまでに痛んでしまう」

「醸果は?」

「あれは作るがとても難しいんだ。作り方自体は葡萄を壺に入れて放っておくだけなんだが、ちゃんと醸果になってくれるのは十の内に一あれば良い方。そんな物を大量に作るのは無理だ」

「……あー」

 なるほど。やはりここの連中は発酵のなんたるかをちゃんと理解していないのか。
 まあ、だからこそあんなものを作っておきながらその先に進もうとしないんだな。きっと醸果も偶然壺に入れて放っておいたのが良い感じに熟成しちゃったとか、そんな感じで『できちゃった』んだろう。

「葡萄自体は、たくさん採れるの?」

「土の精霊にお願いすればいくらでも作れるが、食べきれない量を作っても意味は無かろう」

 そんな事を話している内に、目的地である果樹園に到着した。
 綺麗に棚にされた葡萄の木が目算で数百本。そのほとんど全てに、たわわに実ったルビー色の葡萄がぶら下がっている。

「食っていい?」

「ああ」

 彼女の了承を得て、手近な房から一粒摘んで口に運ぶ。
 噛み締めると、鮮烈な甘酸っぱさを持った瑞々しい果汁が溢れる。香りは巨峰の様にふくよかでありながら、果汁はマスカットみたいな爽やかさも兼ね揃えていた。そして何より、糖度が高い。
 文句の付けようも無い、見事な葡萄である。
 思わず期待に鼻息を荒くしながら、俺はローザに振り返って微笑みかけた。

「喜べローザ。この葡萄は、上手く行ったらきっと大金を稼いでくれるぞ」

「だから、いくらここの葡萄が美味しくても売る術が無いと言っているだろう? そなたは人の話を聞いていないのか?」

 俺の言葉に、ローザはジットリとした視線を送りつつ呆れた様に言う。

「いや、このまま売ろうって話じゃない。もちろん醸果なんて半端なモンも作らない。ここはひとつ、女神の使徒の言う事を信じて力を貸しちゃあくれないかな」

 ここぞとばかりに錦の御旗である『女神の使徒』を強調。
 さすがにこの言葉にはそれなりの威力もあるらしく、彼女は相変わらずのジト目ながらも頷いてくれた。

「まあ、シンがそこまで言うんなら手伝ってやらんでもないが。で、一体何をすればいいのだ?」

「じゃあ、今から言う道具を集めて欲しい。あと、作業場に使える所があると助かる。ああそれと、手伝ってくれるひとがもう何人か欲しいな。できればローザと同じくらいの歳の娘が理想なんだけど」

「うわ、一切遠慮しないな」

「これも里の未来の為だ。頼むぞローザ。君ならできる」

 謎の励ましと共に、ローザの背中を押して発破を掛ける。彼女は「なんでそんなやる気に満ち溢れているのだ」などとブツブツ言いながら、手配に向かってくれた。
 ふふふ、これでやる気が出なくてどうする。

 何と言っても、酒を造れるのだから。

 料理と酒は、切っても切れない間柄。酒は料理の味を引き立て、美味い料理は更に杯を進めさせる。
 フランスではお互いの良さを引き出す酒と料理の相性を『マリアージュ』、すなわち結婚とまで言っている。この世界に料理と美食を広めるという俺の目的の為には、是非とも必要なものだ。
 それに、外貨を稼ぎたいこの里に取ってもワインの醸造は悪い話じゃ無い。これが量産出来て販売体制が整えば、きっと外貨獲得の切り札になる筈。ここでは原料となる葡萄、それも極上品質のものがいくらでも作れるらしいので原料不足に悩まされる事も無いだろう。
 更に。
 幸いな事に、葡萄から作るワインは酒の中でも最も簡単に作れる類のものなのだ。
 通常、酒を造るには原材料を発酵させる酵素が必要になる。
 日本酒の場合だと、原料の米に酵素は無いので炊いた後に麹を混ぜて発酵させる。
 ビールやウイスキーの場合、原料の麦が発芽すると酵素を発する為わざわざ全部水に漬けて発芽させ、麦芽にしてから使用する。
 どちらも酵素を得る為に、何らかの加工が必要になる訳だ。
 その点、ワインは原料である葡萄の皮に、既に天然酵母が付着しているので面倒な加工が必要無い。極端な話、皮ごと潰したぶどう果汁を適切な温度で放っておくだけで酒になってしまうのだ。
 葡萄をそのまま壺に入れて丸ごと発酵させる醸果を、もう一歩先に進めるだけでワインを作る事も出来ただろう。それを思い付かなかったというのは、やはりこの世界の住人は食に対する意識が低いと言わざるを得まい。

「これが上手く行けば、俺の目的にも役立つし里の窮状も救えるかも知れない。まさに一挙両得というヤツだな」

 もちろん専門の醸造家でも無い俺が、そう簡単に美味しいワインを作れるとは思っていない。
 それでも、例えわずかでも希望があるのなら、それに縋りたい。
 そんな思いを胸に抱きつつ、取りあえず俺はローザが戻って来るまで葡萄を摘む事にした。

 ☆

 待つ事、暫く。

「言われたもの、全部準備できたぞ」

 何だかんだ文句を言いつつ、それでもローザは俺が頼んだものを短時間で全部用意してくれた。
 所望した作業場も、今は使われていない納屋を一棟手配してあるという。さすがは里長の娘、痛々しい態度と喋り方に反して実務能力は高かった。

「あと、娘衆も取りあえず二人程とっ捕まえてきた」

 彼女の後ろには、なんだか見覚えのある二人の可愛らしいエルフ娘。
 ひとりは髪をぱっつんと肩で切りそろえた活発そうな子。もうひとりは長い髪を二つ結びにした、垂れ目のおっとりとした感じの子だった。

「改めまして、使徒殿。私はパウラ。よろしくね」

 ぱっつん髪の子がくだけた口調で自己紹介。快活そうな雰囲気だけど、頭にはシロツメクサみたいな花で編んだ冠を乗っけているのが妙にアンバランスで可愛らしい。

「こんにちはぁ、使徒様。わたしはリズと申しまぁす」

 二つ結びの子は、やはり見た目通りにのんびりとした口調。こちらは髪の結び目にダリアみたいな大輪の花をあしらっている。ほんわかとした雰囲気の彼女に、とても良く似合っていた。

「改めまして。俺はシン。一応、女神様の使徒をやってます。ああ、『殿』とか『様』とかはやめてね」

 実にこう、乙女らしい華やかな二人を前に内心少しだけ動揺してしまう。着ているものこそローザと同じ様な若草色のワンピースだが、髪に花を飾ったり手首に草花で作ったブレスレットみたいなのを着けていたりと、随所に女子力の高さを見せていた。
 で、再びローザに視線を移すとそこには相変わらず素っ気ない少年の様な恰好。もちろん花など身に着けていない。

「……うん」

 何故か妙な納得をしてしまった俺は、大きく頷いて彼女の頭にぽんぽんと優しく手を添える。

「何か傷付いたぞ!」

 むくれるローザは、やはり同世代の同族と一緒だからだろうか。普段よりもずいぶん柔らかく見えた。

 ☆

「さて。これから君達とワインを作りたいと思います」

 摘んだ葡萄を作業場である納屋に運び込んで、俺は彼女達に改めて宣言をした。

「わいん? それは一体何なのだ?」

「そうだなあ。簡単に言うと、醸果を更に強力にしたものと思ってくれれば良い」

「かもか……」

 ローザが少しだけ嫌そうな顔をする。

「えぇと。シン君はぁ、私達の里を助けに来てくれたんじゃあ、ないんですかぁ?」

 おっとりとした口調で頬に人差し指を添えて、リズが言う。この娘はいちいち動作があざとい。もしもこれを狙ってやっていたとしたら、相当な遣り手だろう。

「うん。確かに俺は君達エルフの力になるようにと女神様から遣わされた。しかし、その手段は何も戦う事だけじゃあ無い。美味しいワインが作れたら、それはきっと高い値段で売れる。そうやってこの里が豊かになれば、自ずと君達は力をつける事ができると思うんだ」

 俺の放った言葉に、パウラが「へぇ……」と小さく頷く。
 ローザは訝しげに「んー」と唸る。
 そしてリズは「そうなんですかぁ」と微笑み顔。
 三者三様の反応を見せているが、特に反対意見は出ない様だ。

「よし。じゃあ早速仕事に掛かろう。まずは葡萄を全部房から外してこの中に入れてくれ」

 こうして三人の助手を手に入れた俺は、この世界に来て初めての、いや、これまでの人生で初めてのワイン造りに取り掛かった。



 5 ワイン作成



 しばらく三人のエルフ娘と一緒に葡萄の実を房から外し続ける。
 こういった仕込み作業は飲食店では日常茶飯事なので、俺としては一切苦にならない。三人娘にしても、普段からこうした農作業系の仕事はしているのだろう。かしましくお喋りなどしながらも、誰ひとり手を抜く事無くきっちりと作業をしてくれる。程なくして、バスタブくらいはある大きな桶が七割ほど葡萄で埋まった。

「よし。これくらいあれば十分だろう」

 巨大な桶に、どっさり納められた葡萄。中々に壮観である。

「こんなにいっぱい外してしまって、一体どうするのだ?」

 うはー、と感嘆とも呆れともつかないため息を吐きながら、ローザ達も桶を見つめている。

「実は、ここからが君達に本当に頼みたい事なんだ。まずは靴を脱いでこれで足を良く洗ってくれ」

 俺はあらかじめ用意しておいた、水を張った小さな桶を三つ、巨大な桶を囲む様に設置。その小桶に一人ずつ娘達を促した。

「足? 洗うのか? ここで?」

 きょとんとした瞳でローザが問う。

「そんな事に一体何の意味があるの?」

 パウラがその端正な眉を少しひそめる。

「洗えば良いんですねぇ。あぁんっ、お水つめたぁい」

 リズはにっこりと微笑んで床に腰を降ろしてサンダルを脱ぎ、足を桶に浸す。そして相変わらず喋り方がナチュラルに色っぽい。
 何の躊躇も無く洗い始めた彼女を見て、ローザとパウラは互いにみつめ合うと、納得がいかないと言った表情を見せながらもそれに続いた。
 桶でぱしゃぱしゃと足を洗う三人のエルフ娘。中々にシュールな光景だ。
 やがて「洗ったぞ」とローザが俺を見る。パウラとリズも、同様に視線を向けている。

「じゃあ、三人ともこの桶に入って葡萄を踏んでくれないか」

「はあ? シン、そなた本気で言ってるのか?」

「葡萄を……踏む、ですって?」

「ええぇ? 踏んじゃうんですかぁ?」

 三者三様に、驚きを隠さない彼女達。

「うん、踏んでくれ。そりゃあもう原型が残らないくらい、徹底的に」

 と、俺が言い終わらない内に、

「ふざけるな! その様な食べ物を粗末にする行為、できる訳無いだろう!」

 ローザが凄い剣幕で俺を睨んで叫んだ。

「そうだよシンさん。私達は森の恵みに生かされているんだよ? そんな罰当たりな事、できないって」

 パウラも呆れた声で非難する。
 ああ、やっぱりな。
 まあこうなる事は何となく予想していた。食べ物を足げにするとか、普通の感覚では中々出来ない事だからなあ。日本ではうどんの生地を練るのにやはり足で踏んだりする地方もあるけど、あれも人によっては受け付けられない行為だったしなあ。
 本来なら、彼女達にワインの醸造について一から詳しく説明するべきなんだろうけれど。しかし、そもそもワインが何かも知らないのに作業工程を詳しく説明しても、理解して貰えるとも思えないし……
 一体どうしたものかと考えあぐねていた、その時。

「踏めばいいんですねぇ? よいしょ。シンくぅん、手を貸して頂けますかぁ?」

 小桶の中に足を突っ込んだままのリズが、やはり躊躇無く立ち上がって大桶を跨ぎ、中に入ろうとしていた。

「ちょっと待てリズ! 本当にやる気なのか!?」

「リズ!? 一体どうしちゃったの!?」

 当然と言うか、ローザとパウラが驚愕の声を上げる。
 しかしリズは相変わらずのほほんと笑みを浮かべたまま、俺の手を取って言った。

「だってぇ、私達の里を救いに来てくれたっていう使徒さんが言う事だもの、ちゃんとした理由のある事だと思うわぁ。女神様の使徒だって人が、意味も無く食べ物を無駄にするとも思えないものぉ」

 おお! リズさん、なんだかアホっぽい喋り方に反してしっかりと考えているではないか。感動した!
 言われるままに差し出した俺の手を、無駄に恋人繋ぎでしっかり握りしめながら、リズはそーっと足を下ろしていく。むぎゅっと葡萄が踏み潰され、足が沈んでいった。

「あはぁん! なにか、不思議な感触ぅ。こんなの初めてぇ」

 だから、言い方が一々無駄に色っぽいんだって。
 もう一方の足も大桶に運び、中で両足を着いて立ったリズは唖然としているローザとパウラに向けて再びにっこりと微笑む。

「それにぃ、もしもシン君が本当にただ食べ物を粗末にする様な人だったらぁ……その時は私達エルフの掟に則ってぇ、ちゃんと『責任』とってもらえばいいんじゃないかしらぁ」

 にっこりと。
 それはもう、只にっこりと微笑んでいる筈なのに。
 彼女の笑顔を見た瞬間、俺は部屋の温度が一気に下がった様な気がした。

「……そ、そだねー。良く考えてみれば、女神様の使徒ともあろう人が食べ物無駄にする事ないだろうしねー。命も惜しいだろうしねー」

 彼女の笑顔を見たパウラがすっくと立ちあがる。

「シンさん、手」

 まるで下僕でも呼ぶように俺を呼びつけやがりました。
 へいへいお嬢様、と彼女の手を取る。そぉっと葡萄に足を下ろしたパウラは、

「ひゃああっ! なにこれ、変な感じ! うひゃひゃひゃ!」

 と、あんまり可愛く無い声を出す。この娘はもう少しリズを見習った方が良いだろう。

「ふん、そうだな。万が一の事があったら、リズがしっかりと『責任』を取らせれば良いのだからな」

 そう言ってローザも立ち上がり、大桶に入ろうとする。

「手、貸そうか?」

「無用だ」

 彼女は俺をひと睨みするとパウラの手を借りて、大桶の中に片足を突っ込んだ。

「うあ、こ、これは……きゃっ」

 足の裏で葡萄が潰れていく感触に戸惑っているのだろう。むず痒そうな顔をして、おっかなびっくりといった風体で足を下ろしていく。
 とにかく、彼女達はなんとか桶の中に入ってくれた。
 ひとりは無駄に色っぽく目を細め。
 ひとりは「にひひ」と変な笑い声を零し。
 ひとりはぶすっと俺を睨みつけながら。

「よし。じゃあ踏んでくれ。全ての葡萄つぶが無くなって、完全な液体になるまで頼むよ」

 俺の言葉に、微笑んだり睨んだりしながら、それでも彼女達は言い付けた通りに葡萄を踏み始めてくれた。これで一安心である。
 ……それにしても、リズの言うところの『責任』って、一体何されるんだろう?
 そしてふたりは何故あんなにもリズの言う事を素直に聞くのだろう?

 これが失敗して、葡萄が全部駄目になったら俺は一体どんな目に遭うのか。
 それは、あえて考えない事にした。

 ☆

 戸惑っていたのは、最初だけ。
 恐るおそる葡萄を踏み始めた彼女達だが、すぐにそれは楽しそうな表情に変わっていった。

「あははっ、これ面白い! 足の裏でね、ぶちぶちっていうの!」

 パウラがいたずらっ子の瞳で嬉しそうに葡萄を踏みつける。まるで新しい遊びを思い付いた小学生男子みたいだった。

「んふふ……これ、きもちいいかもぉ……」

 リズは恍惚の表情を浮かべ、小刻みに足を動かしている。
 三人ともワンピースの裾が汚れない様に端を摘まんで少し持ち上げながら踏んでいるのだが、彼女は明らかに他の二人より高くスカートを上げて綺麗なふとももを披露していた。この娘絶対に確信犯でやってるだろ。
 そして、

「食べ物を踏むなんて……こんな事、良くないのに……しかし、何だこの不思議な心の高揚感は……」

 ローザはなんだかよく判らないが、妙に頬を赤く染めながらうっとりとした顔で葡萄を踏みしめている。おそらく初めて覚えた背徳感に酔っているのだろう。
 大桶一杯に入っていた葡萄がすべて踏まれて果汁と化すまで、さしたる時間は掛からなかった。

 ☆

 大桶にいっぱいの葡萄果汁。
 あとは、こいつを上手く発酵させる事ができれば完成である。

「みんな、お疲れ様。これでもうワインの仕込みはほとんど終わった様なもんだ」

 大桶から出て、再び足を洗っている三人娘に労いの言葉を掛ける。

「えー、もう終わりー?」

 当初は踏むことを罰当たり呼ばわりしていたパウラが、つまらなそうに口を尖らせる。本当にガキんちょみたいだ。

「お役に立てたのなら、よかったですぅ」

 リズは妙に潤んだ瞳でこっちをみている。先程一瞬だけ見せた凄まじいまでの殺気は微塵も感じさせず、その代わり無駄なくらいの色っぽさを全身から滲み出していた。

「それよりも、これをどうするつもりなのだ? 只でさえ葡萄を潰して汁にしてしまうなんて聞いた事も無いのに、これだけの量」

 ローザは相変わらずキツい瞳から鋭い視線を送って来る。さっき一番興奮していたくせに。

「この葡萄果汁を発酵させるとワインになるのだけど……ていうか君達、葡萄を絞って飲んだりしないの?」

 俺の素朴な疑問に、彼女達は「は?」と首を傾げる。

「どうして葡萄を汁にしなきゃいけないのだ? そのまま食べられるのに」

 ローザが昨日のジークリンデさんとまったく同じ様な言葉を返してくる。そうだった、ここはそういう世界だった。

「俺の居た所では、こうやって果実を絞ったものを飲んでいたんだ」

 用意しておいた木のカップで大桶の中の果汁を掬い、一口飲んでみる。
 うん、美味い。酸味は強いが甘みもまた強い。その上、もしかしたらエルフが踏んだからだろうか? 只の葡萄には無い、得も言えぬ芳香が感じられる。これはきっと良いワインになるだろう。

「飲む?」

 カップを彼女達に差し出してみる。しかし三人とも首を横に振った。

「それ、今しがた我らが足で踏んだやつだぞ」

 ローザが眉をひそめる。

「だからちゃんと足を洗ってもらったろう。それに君らが踏んだ葡萄なら俺は全然気にならないぞ。なんか良い匂いするし」

 ムサいおっさんが踏んだ葡萄だったら俺もお断りだがな。

「私達が踏んだ葡萄の汁を、美味しそうに飲んで……うふふ」

 相変わらず不必要な程に色っぽいリズ。違うんだ。こう、俺の言いたい事は微妙に違うんだ。

「ふ~ん、人間の好みって変なの」

 先程一番楽しそうだったパウラは、そんな事をすまし顔で言う。そして、

「あなた達人間が果実の汁を飲む事はわかったわ。でも、汁にした所でこのままじゃあすぐに腐っちゃうよ? すぐに人間の町に持っていく事も出来ないし、これだけの量をあなたがすぐに飲めるとも思えない。一体どうするつもりなの?」

 などと、見た目に似合わず理屈っぽい事を言う。
 よろしい。これから三人に、ワインについて教育してやろう。

「そうだね。確かに普通なら三日と置かずに腐ってしまうだろうね。そこで、この果汁を発酵させる。そうして出来るものがワインだ」

「さっきから言っている、その『はっこう』って一体何なの?」

「君達が作っている醸果と、やる事は同じだ。これを適切な温度で置いておくと、やがて発酵してワインになる」

 と、そこまで言った所でローザが不満気な声を上げた。

「しかし醸果はそう簡単には作れないぞ? うちでは母様がしょっちゅう作っているけど、ちゃんと出来るのは十回に一回あるか無いかくらいだ」

 もぎゅもぎゅと葡萄を食べながら。こいつ、さっきの原料くすねてやがったな。

「それはきっと温度管理がしっかりできていないからだ。そもそも君達は、何で葡萄が醸果になるか解かっているのか?」

 俺の問いに、三人は互いに顔を見合わせながら「さあ?」とか「そう言えば」とか「なんででしょうねぇ」とか呟いている。まあ予想通りの反応だ。
 しかし、科学の発達していないこの世界の住人に、酵素とか発酵とかを順序立てて説明するのは少しばかり骨が折れる。一体どう説明したものか……

「うーんと、そうだなあ。目には見えないんだが、葡萄の皮には酵母っていう……そう、精霊みたいなのが居てだね。その酵母が住みやすい環境を整えてあげると、葡萄を酵してくれるんだ。それが実のままだったら醸果になるし、こうやって絞り汁にするとワインになる……って、この説明で解かるかな」

 うん、我ながら要領を得ない説明だ。さすがにこんな説明では理解してはもらえないだろうな。どうやって納得してもら……

「ああ、この子達ね」

「うむ。確かに居るな、そういえば」

「そうねぇ。今まで気にした事無かったけどぉ」

 ローザが配った葡萄を食べながら、三人は摘まんだ実の表面を見つめてそんな事を仰いました。

「君達酵母見えるの!?」

「ん? 我らはエルフだぞ? 精霊が見えなくてどうする」

 ローザが『お前はアホなのか』とでも言いたげな視線で俺を見る。っていうかこの世界では酵母って精霊なのか?

「正確に言うと、精霊とも少し違うけど。これはただの精だね」

 真面目な顔でパウラが言う。

「精?」

「うん。精霊の様にしっかりとした自我の無い、そこら辺にたくさん居る、ただの精。この世の万物にはすべからく精が宿っているの。それは様々なものを構築したり、整えたり、壊したりする。食べ物を放っておくと腐るのは、そこに食べ物を壊す悪い精が取りつくからだよ」

 なるほど。俺達の菌に対する概念とあんまり変らない。それなら話も早いな。

「ならば理解は簡単だろう。この酵母という精が一番居心地の良い環境を整えてあげると、こいつは頑張って葡萄を醸してくれるんだ。ローザ、ジークリンデさんはいつもどこで醸果を作っている?」

「かまど部屋だが」

「それじゃあかなりの確率で失敗するだろうな。酵母は涼しくてあまり気温の差が無い所が好きなんだ。気温が急に上がったり下がったりすると死んでしまう。そして代わりに悪い菌――精が付くと、醸されないで腐ってしまうんだ」

 俺の説明に、三人は「ほほぉ」と聞き入っていた。特にパウラは妙に好奇心溢れた視線を向けている。

「そこを考えると、見た所この納屋は昼間でも涼しいし、夜はちゃんと戸締りすれば気温も左程変わらないだろう。こういう所に置いておけば、酵母が頑張って果汁をワインにしてくれる。もちろん毎日ちゃんと世話をして酵母の居やすい環境にし続ける事が肝心だけどね」

 ようやく得心したらしい三人娘。所変わればなんとやら、精霊を例えに出したのは我ながらナイスな説明だった様だ。

「なんとなくだが理解した。とにかくこの子達が頑張れる様にすれば良いんだな?」

 色々と痛々しいが実務能力の高いローザが納得してくれたのは、ありがたい。

「へぇぇ。この精が居る内は、悪い精も付かないんだ。面白いなぁ」

 パウラはどうやら知的好奇心が旺盛らしい。彼女が色々覚えてくれるなら、この里のワイン造りも希望が持てるだろう。

「これならシン君にお仕置きしないで済みそうですねぇ。良かったぁ」

 例によってのんびりした口調で、リズが剣呑この上ない事を言う。
 何だかよくわからないが、取りあえずこの子だけは怒らせない方が良い。そう俺の本能が告げている。

 とにかく、ワイン造り最大の山は越した。後は毎日世話をして、ちゃんと発酵するのを促すだけ。酒造りにおいては、結局最後は自然の力を借りるしかないのだ。
 順当に行けば、二週間もすればワインらしいものができるだろう。



7 エルフとジビエ、そしてワイン



 ジークリンデの里に来て早や数日。俺はワイン醸造を行いながら、主にローザからエルフについて色々と学んでいた。
 彼女から聞く限り、やはりこの里のエルフも他の種族同様に食べる事にはあまり意欲的では無い様だ。
 彼女の話によると、元々菜食の習慣が強いエルフは基本的には野菜と果実だけで満足できるらしい。
 動物性タンパクとして主に摂取されているのは、山羊の乳と鳥肉。特に大山鳩は彼らに好んで食べられているらしいが四ツ足、つまり獣の肉を好むのは意外と少数派だという。せっかく狩りが上手いのに、勿体無い話である。
 そして食事は朝餉と夕餉の一日二回。ただし間食は割と頻繁にしているらしく、彼等はちょっとした時間ができると果実を摘まんでいる。むしろ主食は果実と言っても良いくらいだ。

 ――以上の事を踏まえた上で。

 まずはこの里に、料理と美食の魅力を伝える為には一体どういうアプローチが一番効果的なのか?
 ジークリンデさんやローザの反応を見る限り、ここの人達も決して美味が判らない訳では無さそうだ。先日俺が作った焼きものを彼女達はとても美味しいと言ってくれた。特にローザは調理についても興味を持ちつつあるので、教えれば料理にハマってくれる可能性も決して低くは無いだろう。
 それだけに、俺はもっと彼女等エルフの心を鷲掴みにできる料理を考案しなければなるまい。確かに串焼きは調理法もシンプルで教えやすいが、ワインという新たな要素も加わる事だし、この際もっと華やかで彼等に好まれる、それでいてさほど難しくない料理を作り広める必要があるのだ。
 なんて事を考え込んでいた時。

「シンよ。そろそろ鳩の取り置きが無くなるから射ちに行こうと思うのだが。せっかくだから一緒に来ないか?」

 そんな誘いを、ローザから受けた。
 この世界にはもちろん冷蔵庫なんてものは無いので、そう何日も肉の保管ができない。しかし大山鳩などは森に入ればいくらでも居るらしいので、食べたくなったら狩りに行くというシンプルライフを彼等は営んでいるという話だ。

「ふむ、狩りか」

 食材となる生き物がどの様な生態で、どの様に捕られているのか。それを知る事は料理をするに当たって参考になる事も多い。それに、考えてみれば俺はまだこの里の周囲を詳しく見た事が無い。良い機会だからお誘いに乗ってみようか。

「良いね。是非連れて行ってくれ」

 こうして俺はローザの狩りに同行する事になった。

 ☆

 狩りの支度をしたローザと森に入る。
 と言うか、里自体が森の中にぽっかりと開いた空地みたいなものなので、少し歩けばあっという間に周囲は木々に覆われる。一応里の外周は柵で覆われ何ヶ所かの入口が設けられているのだが、そこも獣道よりは幾分マシといった細い小道しか通っていなかった。

「遅いぞ、シン」

 さすがに森の民であるローザは、それなりに深いブッシュをものともせずにひょいひょいと弾む様に森を歩む。恰好も普段のワンピースにマントでは無く、若草色のシャツとズボン。そして皮をなめした様な茶色いベストを着ていた。この茶と緑の出で立ちはちょっとした迷彩効果がある様で、エルフ特有の能力と相まって少し離れると簡単に見失ってしまう。

「ちょ、ちょっと、待ってくれ。君達エルフと違って俺は只の人間なんだぞ」

 現世の俺は子供の頃から森に親しんでいる方だが、それでもエルフと同様に動けるものじゃあ無い。鼻歌まじりのローザに、精一杯歩いてもついて行く事すら出来なかった。

「まったく、そんなんじゃあこの森ではやっていけな……と、獲物発見。ちょっとだけ静かにして」

 彼女は急に止まったかと思うと俺に掌を向けて黙らせる。そして肩に掛けていた弓を構えると素早く矢をつがえ、放った。
 刹那、矢の飛んだ先で「ピャッ!」と小さな鳴き声が聞こえて何かの落ちる物音。まさに電光石火の一撃である。

「相変わらず凄ぇな……」

 獲物がどこに居るのか全然判らなかった上に、弓を射る一連の動きもロクに目で追えなかった。さすがはエルフ。それは恐ろしいまでの、狩りの腕前だ。
 獲物に駆け寄るローザを追って、走る。
 ようやく追いつくと、地面には射ち落とされた一羽の大山鳩。矢は頭部を見事に貫いていた。恐らく、この鳥は痛みすら感じる間も無く絶命した事だろう。

「あなたの命を賜ります。あなたの命を我が血肉とさせて頂きます。あなたと、あなたを育んだ森に感謝と尊敬を捧げます」

 射落とした獲物を前に、ローザは膝をついて瞳を閉じ、右手を胸に添えて呟く。
 それは森に生きる者としての、獲物と森に対する感謝の祈りなのだろう。その真摯な立ち振る舞いには、調理をする者としても共感が持てる。
 俺も目を閉じて合掌し、それに従った。

 ☆

「この実がなっている所には大鳩が集まるんだ。うむ、変わらずに美味い」

 祈りを終えるや、ローザは獲物を腰のベルトに括ると足元の茂みから赤い小さな実を摘まみ取って嬉しそうな笑顔で口にする。

「ほら、食べてみろ」

 久々の故郷だからだろう。普段よりも柔らかい表情のローザがそれを差し出す。彼女がこうやってたまに見せる年相応(何歳か未だに知らんが)の笑顔に最近妙にドキドキさせられるけれど、しかしその一方で彼女には母親の様な包容力というか、安心感の様なものも覚えてしまい複雑な気持ちにさせられる。

「ほら」

「ん」

 差し出されたそれを、思わず彼女の指から直食い。
 口に含んだ瞬間、ベリー系の鮮烈な芳香が満ち溢れ、噛むと絶妙な甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。その爽やかさはブルーベリーにも勝り、甘さとねっとりした口当たりはあまおうやとよのか苺といったブランドものの苺をも上回る。

「なんだこれ!? うめえ!」

 予想外の美味しさに、つい叫んでしまった。

「ふふふ、美味であろう。これは森イチゴ。この実がたくさんあるから、ここの森には大山鳩がいっぱい来るのだ」

 まるで自分の手柄の様に、ふふんと自慢げな顔をするローザ。
 少々ウザいけれど、それでもこの実が美味しい事は紛れも無い事実。俺は黙って頷き、彼女に同意した。

 美味しい果実が沢山実り、それを求めて鳥が訪れる。
 彼女達エルフはその恩恵に感謝を忘れず、自然を敬い慎ましく生きている。

 そんな、素朴でありながらも美しいと思える彼等の生活。
 むしろ、ここまで自然に恵まれているからこそ、この世界には料理という概念が育たなかったのかもしれない。俺が口にした限り、鳥の肉も野菜も果実も、前世のものよりはるかに上質なものばかりだったから。
 しかし、だからと言って料理を否定する事はできない。
 俺は料理を生業とする者だし、そこに良い素材があるのなら更に美味しく仕立ててやろうという意気込みも覚える。
 なので――
 この森イチゴを口にした時、俺の頭の中で新たなメニューが瞬時に組み上がった。

 ☆

 あの後も、ローザはあれよあれよと言う間に都合三羽の大山鳩を仕留めて狩りは終了。俺は思い付いた料理の為に、森イチゴを数十粒程採取した。
 里に戻り、鳥の下処理をするというローザと別れた後、ワインを醸造している納屋へと足を向ける。そこには予想通りにパウラが来ていた。

「やあパウラ。発酵の具合はどう?」

 大桶の前にしゃがみ、中をじぃ~っと見つめている彼女に声を掛けてみる。

「良い感じ。こうぼ達も元気に働いてくれてるよ」

 足音で俺が来た事を察知していたパウラは、振り返る事無く答えた。
 その敏感な耳で、彼女は酵母達の声を聴いている様だ。俺も桶を覗くと、赤黒く染まった果汁の中にモロモロとした果実や皮、種などが浮いていてぴちぴちと小さな泡が立っていた。

「踏んだ後は時々かき混ぜるだけで放ってあるのに、本当に腐らないんだねー」

 うっとりとすら感じる声で、彼女が言う。見た目に合わず知的好奇心が旺盛なパウラは、醸造にすっかりハマってしまったらしい。毎日ここを訪れては、かいがいしく撹拌したり今みたいに発酵によって生じる炭酸ガスの泡立ちをずっと見つめ続けたりしている。

「この子達、凄いね。葡萄汁の中でいつも元気に働いているし、悪い精が来ても全部追い払っちゃう。もしかしたら、この子達に頼めば他の食べ物も腐らせない様にできるの?」

「うん、良い質問だね。俺が前に居た世界では肉とか野菜とか、色んな物を発酵して保存していたんだ。他にも塩に漬けたり、油に漬けたり、後は凍らせたり。興味があるなら今度詳しく教えてあげるよ」

「本当!? 是非!」

 まるで恋する乙女の様な瞳で嬉しそうに声を弾ませるパウラ。
 彼女が発酵や塩蔵、更に冷蔵冷凍等に興味を持ってくれるのは俺としてはとてもありがたい。おそらく、今の段階では彼女は「腐らせない為の技法」という、単に学術的な部分にしか興味は持っていないのだろう。しかし、取っ掛かりはそれでも良いと思う。
 そこから発酵食品の味や、食材を保存できる事によって料理や食事の質が向上するという事を知って貰えれば、しめたものだ。

 その為にも、まずワインをちゃんと作り上げる事。
 そして彼女達に食の喜びを知ってもらう事が肝要だ。

 パウラの肩越しに、再び大桶を覗き見る。
 ぷつぷつと炭酸ガスを出し続けている葡萄果汁。しかし、その勢いは日に日に衰えてきている。この様子なら、もう何日かで発酵を終えるだろう。
 そうしたら、後はそれを濾してカメにでも注いで澱引きをしたら完成。
 もちろん、最初からそうそう完璧なワインなど望むべくも無いけれど、少なくとも醸果などという中途半端なものではなくちゃんとした『酒』が生まれる。
 そいつを、俺の作る料理と合わせて味わった時。彼女達は一体どんな反応をしてくれるのだろうか?
 それは、もの凄く不安でもあったし、その反面もの凄く楽しみでもあった。
 特に、先程狩りに出た際に思い付いた新メニュー。
 これをイメージする通りに作れたならば、決して彼女達を失望させるものにはならない筈だ。



 8 最初の晩餐


 
 ついにワインができた。

 カップに注がれた、それは深紅の液体。
 透明なグラスでは無いので詳しく色を見る事は出来ないが、上から覗いてみた限りだとさほど濃い色合いではなく、言うなれば鮮やかなルビー色。見た目の感じはボージョレ・ヌーヴォーに近い。
 一口含んでみる。
 やはり発酵させて間もないだけに、軽い。ライトでフレッシュな口当たりはやはりボージョレ・ヌーヴォーの様でもあるが、フルーティかつ爽やかな酸味は少しイタリアのキャンティを思わせる。その上例の『エルフ香』とも言うべき謎の芳香も加わり、その風味は正に複雑玄妙。若干、種や皮が由来と思われる渋味と苦味も感じるが、ここは工程を見直す事で改善できるかも知れない。発酵の名残りで微発泡しているのは、ご愛嬌。
 このまま若い内に飲んでも良さそうだし、樽で熟成させるのも楽しそうだ。いずれにしても、素人が初めて作ったにしては上出来と言っても良いのではなかろうか。
 俺は、目の前で固唾を飲んでいる三人のエルフ娘に向かって頷いた。

「いいね。完成だ」

 力強く頷いて応えると、彼女達がぱっと花開く様に顔をほころばせる。

「シンさん。それは、私達も味を見させてもらえるんだよね?」

 パウラが探究の炎を灯した瞳で言った。彼女はこの醸造という作業に一番興味を抱いていたので、やはり結果が気になるのだろう。

「私もぉ、どんなものが出来たのか、気になりますわぁ」

 リズは相変わらずおっとりした口調と無駄に色っぽい流し目。今回は謎の殺気を放つ事も無く、いつも通りのフェロモンマシマシスマイルである。

「もちろん。君達の助力無しでは、決して作る事はできなかったからね。でも、どうせだったら一番美味しい形で味わってみたいと思わない?」

「一番美味しい形?」

 パウラの問いに、俺は会心の笑顔で答えた。

「ワインの味を引き立てる、料理と一緒に。今日の夕餉を一緒に食べよう。ジークリンデさんにも味を見てもらわないといけないからね。彼女には既に了承を得てある」

『料理』の一言を聞いた途端、ローザが耳をぱたぱたさせながらもの凄く良い笑顔になる。

「ああ! それは良い! リズもパウラも、シンの料理を食べたらきっと驚くぞ! すっごく美味しいんだからな!」

 まるで自分の手柄みたいに語るのはどうなのかとも思うが、まあそれだけ彼女は俺の料理を買ってくれているのだろう。ここは素直に喜んでおく事にした。

 ☆

 一端解散した後、俺はジークリンデ邸のかまど部屋に向かう。
 今日こそが、以前俺がワインと合わせる為に考案した鳥料理を作る時である。

「むふふふ……」

 調理用のナイフを手に、思わず笑みが零れてしまう。幾度回数を重ねても、やはり新しい料理にチャレンジするのは心が躍るのだ。

「シンは本当に楽しそうに料理をするな」

 もはや当然といった顔で俺の隣に立つローザ。

「仕事に生き甲斐を感じる事ができるのは、素晴らしい事だと思わない?」

 吊るされている大鳩を手に取り、まな板に置く。この何の変哲も無い只の鳥肉が、俺の手によって美味い料理に変わっていくのだ。これが楽しくない訳ないだろう。

「刃を持ってニヤニヤするのは気持ち悪いぞ」

 うん。このエルフ本当に失礼だな。
 色々と言いたい事もあるけれど、取りあえず今は料理に集中。彼女のつまらない茶々でこの俺の、料理に対する情熱を妨げる事などできぬのだ。
 今回のメインディッシュに使用するのは、大山鳩の胸肉。
 まずは強めに一塩振ってなじませる。本当は胡椒もあれば尚良いのだけれど、ここで無い物ねだりをしても始まらない。例え手持ちのカードが少なくても、少ないなりの戦い方で戦う。そして、それができるのがプロってもんである。
 乾燥バジルと乾燥ローズマリーを荒く砕き、まんべんなく擦り付けて下準備は完了。後はソースの仕込みを終えるまで、休ませておく。

 お次はかまどに鍋を置き、採取しておいた森イチゴとバターを投入。弱火にてイチゴをヘラで潰しながら、先程完成したワインを注ぎ込む。
 やがて荒く潰した森イチゴの果汁がワインと混ざり合い、温められてフルーティな香りがかまど部屋に満ち溢れる。横から様子を伺っているローザから「うっはぁ」と、例によってあんまり可愛くない溜め息が漏れた。

 鍋が煮立ったら、塩で味を調える。ここは塩味を付けるというよりも、微かな塩気でイチゴの甘みを引き立てるのが目的。要はスイカに塩を振るのと同じ原理だ。
 味を見てみると、ほど良い甘味と酸味、そして煮立てたワインとバターのコクが味蕾をくすぐる。砂糖が無いので若干不安だったが、森イチゴのポテンシャルに助けられて十分満足できる味に仕上がっていた。あとはこれを軽くトロみが付くまで煮詰めれば……

「よし」

 これでソースは完成なので鍋をかまどから外し、今度は網を置いて肉を焼く。
 胸肉は皮目を下にして、遠火の強火。程なくして脂がじゅわりと滲み出て、ジリジリと音を立て始める。それと同時に香草の焼ける芳しい匂いが立ち上がってくる。

「みんな、この料理を楽しんでくれるかな?」

「当たり前だ。三人とも、シンの料理に狂喜する事間違い無いだろう。なにせこうやって横で見ている我が既に驚愕してるのだからな」

 何気なく零した俺の独り言に、ローザが満面の笑みでそう答えてくれる。俺にはなんだかそれがこの上無く嬉しく、また頼もしく思えた。

 やがて、胸肉は俺の理想通りパリっとジューシーに焼き上がった。

 ☆

 その日の夕刻。
 完成したワインのお披露目と、醸造お疲れ会を兼ねた食事会が開催された。
 テーブルには里の長、ジークリンデさんとその娘ローザリンデ。そして彼女と共にワインの醸造に力を貸してくれたパウラにリズが、既に腰を降ろしている。
 この里に来てから既に二週間程が経過したが、そう言えばジークリンデ親子以外に料理を振る舞うのは今日が初めてだ。
 やはり胸には微かな不安を覚えるけれど、料理のプロとして現状出来得る限りの事は尽くしたという自負もある。
 ワインの出来も初回にしては相当良かった事だし、そうそう彼女達を失望させる事も無いだろう。
 それが証拠に――
 テーブルに並べられた料理を、皆は興味深そうに見つめている。
 初めて俺の作った料理を目にするパウラとリズはもちろんの事、調理の一部始終を見ていた筈のローザまでもが、まるで子供みたいに瞳をキラキラさせている。ジークリンデさんすらも、今まで目にした事の無い料理に少なからぬ関心を抱いている様だ。

「では、始めさせて頂きます」

 彼女達に一礼して、用意した木のカップに出来立てのワインを人数分注ぐ。全員に行き渡った所で俺も着席。

「森の恵みに感謝と尊敬の念を以て、本日の糧を賜ります」

 ローザリンデさんの音頭で彼女達は胸に手を当て、食前の祈りを捧げる。俺は合掌して「頂きます」を唱えた。

「これが『わいん』というものですか……確かに醸果と同じ、いえ、それよりももっと複雑な香りがしますね」

 カップに注がれたワインをまじまじと見つめながら、ジークリンデさんが呟く。

「はい。葡萄を潰して汁にしてから酵したものです。醸果よりも『強い』ものなので、先に何か食べてからの方が良いかと思います」

「なるほど。確かに、醸果も食後の方が美味に感じますね」

 俺の進言に、ひとまずカップを置くジークリンデさん。
 この人はどうやらお酒に相当弱いみたいだから、とりあえず何かお腹に入れてもらった方が良いだろう。
 そして、その隣では娘の肉食系エルフがむっふーと鼻息も荒く木皿に対峙している。

「シンよ! これはどうやって食べたらいいのだ?」

 ローザは初めて見る料理に興奮を隠そうともしない。彼女程では無いにしろ、パウラとリズも何気にそわそわとしながら料理を凝視していた。
 先程焼き上げた『大山鳩のロースト 森イチゴソース添え』
 バジルとローズマリーを利かせた鳩の胸肉をじっくり焼き上げ、一口大にカットして森イチゴソースの敷かれた皿に盛り付けてある。塩以外に調味料を持たない彼女達には、おそらくどんな味かすらも想像できないのではなかろうか。ソースの添えられた料理など、どうやって食べたら良いのかも判らないだろう。

「これは大山鳩の胸肉を香草と共に焼いたものと、下に敷いてあるのは森イチゴをワインと一緒に煮て作った『ソース』だ。このソースを適量、肉に絡めて食べてみてくれ」

 俺はまずお手本として、自分の皿の肉を一切れフォークで取って下のソースにまぶし、口に運んだ。
 最初に煮詰めた森イチゴの濃厚な香りと甘酸っぱさが舌と鼻腔をくすぐり、それを追いかける様にハーブの鮮烈な爽やかさと肉汁の旨味が広がり、最後にバターがどっしりとしたコクを与えてくれる。
 強めに塩を利かせた大山鳩は、素材の良さも相まって森イチゴソースの風味をしっかりと受け止めていた。それどころかフルーティで甘酸っぱいソースは野趣あふれる鳩肉の味を上手に引き出して、得も言えぬ一体感を生み出している。
 よし。我ながら、上出来だ。

「すごい! 肉を果実で味付けするとは!」

 俺に倣って口にしたローザが驚嘆の声を上げる。

「何これ!? こんなの今まで食べた事無いよ!」

 続いたパウラも、驚愕に目を見開く。

「私ぃ、本当はそれほどお肉は好きじゃあ無ないのだけれどぉ、でもこれはとっても美味しいわぁ」

 相変わらずのんびりした口調のリズだが、彼女にしてもこの味は予想外だったのだろう。必要以上に潤んだ瞳で、にっこりと笑みを浮かべている。

「この森から得られる恵みの象徴たる大山鳩を、彼等が特に好んで食べる森イチゴと共に頂く。これはまさに、森の恵みそのものが美味となった様に思える料理ですね」

 さすがに里の長を務めるジークリンデさんである。俺がこの料理に表現したかった事を、彼女は的確に捉えていた。

「はい。俺が言いたかったのは、まさしくそれなんです。俺はローザに連れて行ってもらった時、この森の豊かさに感銘を受けました。なので、どうにかその感動を料理に表現したくてこれを考案したんです」

 我々日本人にはあまり馴染みは無いけれど、鳥獣肉を果実と合わせるのは欧米辺りではポピュラーな手法だ。フランスでは鴨をオレンジソースで食べるし、アメリカでは七面鳥をクランベリーソースで食べたりする。
 なのであの日狩りに行った時、俺は瞬時にこの料理を思い付く事ができた。
 主菜たる大山鳩を、その好物である森イチゴのソースで食べるという構成は、味もさる事ながら料理に主張を持たせるのにもうってつけだと考えたからだ。もちろん、この森の豊穣さに負けない料理を作りたいという、俺の意地も多分に含まれているのだけれど。
 果たして、そんな俺の思惑通りに彼女達は感慨深そうに料理を味わっている。どうやら初手は大成功。味付けに果実を使う事で、エルフの心をがっちりと掴む事に成功した。
 畳み掛けるなら今だ。

「では、この大山鳩の料理を食べた所でワインを飲んでみてください」

 先程と同じ様に、まずは俺が率先してカップを手に取りワインを口にする。
 含んだ瞬間若いワイン特有の瑞々しさが舌を洗い、かつハーブを利かせた鳩肉の味をまるで補強するかの如く際立たせる。
 そしてワインは森イチゴのソースにも使われているので、その風味は料理を邪魔する事無く見事に融合し、渾然一体となって余韻の長い後味となる。
 うん。狙い通りのマリアージュだ。
 視線を彼女達に戻して、確認してみる。
 果たして俺の目論んだ通り――
 三人娘はもちろんの事、ローザリンデさんまでもが料理とワインの織り成す美味に、まるで心を奪われた様に恍惚の表情を浮かべていた。

「……素晴らしい」

 ワインを一口飲んだジークリンデさんは、感嘆の溜息と共に小さく呟いた。

「このわいんという飲み物。醸果と同じく葡萄を用いながら、芳醇さと言い口に含んだ心地良さと言い後味と言い、遥かに勝っております。更に、この物からはまるで万物に宿りし精達の息吹が聞こえて来る様な、生命の力強さすら感じます」

 やはりエルフという種族は、俺達人間とは感性が少し違うらしい。彼女はおそらく発酵に携わる酵母の存在というものを強く感じているのだろう。
 そして、どうやらそれは彼女達エルフに取って、決して不快なものでは無い様だ。
 ジークリンデさんのみならず、ローザやパウラ、リズまでもが慈しむ様な目つきでカップの中の液体を見つめている。

「私が育てた精達が、葡萄の汁をこんなに美味しくしてくれたんだね……」

 感慨深そうに呟くのは、パウラ。
 彼女は三人の中でも特に発酵について興味を持ってくれていたので、その感動もひとしおなのだろう。

「私達があんなにも踏みつけた葡萄の汁が、こんなに素敵になって……うふふ」

 リズはどうも感心する所が少しずれている様な気がしないでもないが、まあ放っておこう。

「合う! このわいん、お肉とすっごく合うな!」

 食欲魔人のローザは思った通りのリアクション。そして、ある意味俺の求めていた通りの感想を言ってくれた。

「ローザの言う通りワインは食事、特に肉料理と凄く相性が良いんです。そしてこれは醸果と違って大量生産にも向いていますし、日持ちもします。原材料の葡萄は豊富にあるみたいですし、これを人間や他の種族に売る事ができれば里の財政にも貢献できると思うのですが」

 俺の提案に、ジークリンデさんは真剣な顔で頷く。

「確かに……これを大量に作る事が叶えば、この何も無い里に取って貴重な交易の品となり得ます。しかし、このわいんという物は簡単に作れるものなのですか?」

「それは大丈夫です。今飲んでもらっているワインも、実はほとんど彼女達三人だけで作ったものですから」

「まあ! この子達が?」

「ええ」

 頷いて、三人娘のひとりずつに視線を送る。
 ローザは「フフフ」と色気の無い笑みを浮かべ。
 パウラはキリ顔で誇らしげに頷き返し。
 リズは相変わらず無駄に潤んだ瞳をにっこりと細める。

「特にパウラはワイン造りにとても興味を持ってくれました。理解も早いし、回数を重ねればきっと良い造り手になってくれると思います」

「おお……」

 ジークリンデさんはまるで神様でも見る様な瞳で俺と、彼女達三人を交互に見つめて小さく零す。

「もしも、それが本当なら……この里の未来にも明るい展望が見えます。おお神よ。この気持ちをどう表せば良いのでしょう」

 今や泣き出さんばかりに瞳を潤ませて。
 そんな彼女を、三人娘も嬉しそうに見つめている。その眼差しひとつ見るだけでジークリンデさんがいかに彼女達の敬愛を受けているかが判るというものだ。

「俺の居た世界では、こういう時には『乾杯』という儀式をします。こうやって杯を掲げて、中のお酒を飲み乾して慶事を祝ったり祈念したりするんです」

 ワインの注がれた木のカップを手に、立ち上がる。

「やってみませんか。景気付けをしましょう」

「やろうじゃないか。シンよ、どうすれば良いのだ?」

 即座にローザが立ち上がり、俺に倣ってカップを持つ。彼女の勢いに押されたのか、残りの三人も次々と立ち上がった。
 彼女達に視線を送り、カップを目の高さまで上げる。皆が同様の姿勢を取った所で、

「ではご唱和ください。里の、さらなる発展を祈念して……乾杯!」

 お決まりの言葉を唱えてカップを捧げ、ワインを乾した。

「か、かんぱい!」

 ジークリンデさんを筆頭とするエルフ達も、見よう見まねで同じ様にワインを一気に飲み乾す。
 そして、宴が始まった。

 ☆

「ひっく……ひっく……シン殿の、シン殿のおかげれ、ろうにかこの里もやっへいけそうれしゅ……なんとお礼をいえば……ひぐ……」

「こらあ! シン! かあさまを泣かせるたぁ、いったいどういうりょーけんだあっ!」

「お、おう……」

 右腕には感涙にむせぶ(酔っぱらった)ジークリンデさんがすがり付き、左腕はそれを見て何故か怒った(酔っぱらっている)ローザにがっしりと掴まれてぶんぶん振り回されている。
 そうだった。
 この人達、まともな酒は初めて飲むんだった。
 今まで彼女達が口にしていた醸果など、所詮は自然発酵した葡萄の実。アルコール度数もたかが知れている。せいぜい2~3%程度だろう。
 しかし、このワインはおそらく12~3%くらいにはなっている筈。醸果ごときで酔っぱらうジークリンデさんには、いささか強すぎたかも知れない。
 ……て言うか。
 ジークリンデさんには一度絡まれているから納得できるが、ローザもこんなだったか。やはりこういう所は親子なんだな。
 達観しつつ、そんな事を考えていると、

「そんなことよりシンさん! 質問があります! あれだけ甘かった葡萄の汁が、わいんになると少しも甘く無いの! これは一体どういう事……はっ!? まさか、あの精達はこの甘味を欲して汁に集まるのでは!? すると他にも甘い汁を使えば似た様な事が……そう……そうなのね……ふふ、ふふふ……」

 今度はパウラに捕まったと思いきや、彼女はべらべらと勝手に仮説を立てて悦に至っている。その仮説が何気に大体正解である所に彼女の地頭の良さが伺えるが、それでもウザい酔い方である事に間違い無い。
 うん、酷いなこのエルフども。
 久しぶりの酒に俺もそこそこ酔ってはいるものの。こうも周り中タチの悪い酔っ払いばかりでは、のんきに酩酊する事もできない。
 これはアレだな。飲みの場で良くある、他の面子に先に酔われて否応なしに介抱係にされてしまうという一番つまらないポジションだ。
 そんな中。

「うふふ。シン君ってば、モテモテだわぁ」

 ただひとりリズだけが、いつも通りの態度を保っている。まあこの娘は普段から少し酔っぱらっている様な感じだが。

「いや、見てないで助けてくれないかな」

 俺の哀願に、彼女は「そうねぇ」と首をかしげると、

「確かにローザのお邪魔をするのも良くないわねぇ。パウラぁ、私達はそろそろおいとましましょうねぇ」

 すっくと立ちあがり、未だにひとりで熱く語っているパウラの襟首を引っ掴み、

「じゃあシン君。私達はこれで失礼しまぁす。ごゆっくりぃ~」

 そのままずりずりと引きずりながら、部屋を後にする。
「きゅうっ!」となんだか苦しそうなうめき声が一瞬だけ聞こえた後、ふたりはパタンと閉まる扉の向こうに消えた。

 当然、残されたのは俺と酔っ払いエルフの母娘。

「シンどのぉ……わらひは、わらひはあなたになんてかんひゃしゅれば……ひっく、ひっく……」

「シン! あれほろかあさまを泣かすなって言ってりゅのに!」

 ふたりは大人しくなるどころか更に泥酔している。生前はしょっちゅうこんなの相手にしていたけれど、まさか異世界に来てまでこんな目に遭うとは。
 特に。

「シン! おまえ、飲みが足んないんじゃないのかぁ! もっとのめよお」

 ローザなんかは、完全にキマっちゃった目でさっきから俺に絡み続けている。
 今まで俺に怒っていたかと思ったら、今度は新橋の酔っ払いサラリーマンも顔負けの強引さで酒を強要する始末。こいつ本当にタチ悪りいな。
 しかし、そこまでされては俺も黙っている訳にはいかない。これでも前世ではうわばみの進と言われた男だ。酒で勝負を挑まれたのなら受けてやろうじゃねえか。

「この俺にそこまで言うのなら、分かっているだろうなローザ。勝負だ」

「ふん、よかろう小僧」

 俺が差し出したカップをひったくる様に取ると、ローザはそれを一口で飲み干す。そして新たなワインを注ぎ、俺にずいと突き出した。
 もちろんそれを奪い取り、俺も一息に飲む。
 そんな事を繰り返していく内に、気が付けばジークリンデさんは床に倒れ込んで泣きながら眠り、ローザは何十杯目かを乾した後両手で口を押さえながら外に走り去り。

「ふっふっふ……この俺に勝とうなんて……百年、早い……ぜ……」

 俺はそこで意識を失った。

 ☆

 で、気が付いたら例の白い場所に居た。

『ああんっ! もうっ! ついにワインまで出来ちゃうなんて! ああ、この香草焼きも良いですね。ベリーのソースがあっさりした胸肉と実に良くマッチして、ワインのアテに最高じゃあないですかっ!』

 ……またあんたか。

『またあんたか、って。シンよ、わたし、こう見えて一応神様なんですけれど……もうちょっとこう、敬う心とかリスペクトとか……』

 例えばあなたが最初っから俺をここに送ってくれていればもっと早くワインくらい作れたかも知れないんですけどリスペクトした方が良いですか?

『…………ごめんなさい』

 まあ、いいです。で、女神様。言われた通りにエルフの里であの人たちの為に働きましたよ。

『はい。全て見ておりました。シンよ、そなたは私の予想以上によくやってくれました。まさかこうまで早くお酒に辿り着けるとは思ってもみなかったです』

 はあ。でもたった今見たと思いますが、酒は人生を豊かにしてくれる半面人をダメにもしますからね。作っちゃった俺が言うのもなんですけど。

『そうですね。これからもしっかりと見守らなければなりません』

 って、見守る以外になんかできるのか? この神様。

『そ、それは……それはまあ、ええ。この世界の者達の、心の正しさを信じましょう』

 うわ、丸投げだよ。
 で、これから俺はどうすれば良いんですか? 出来る事ならこのまま暫く、エルフ達の所で働いてみたいんですが。

『ええ、構いません。そなたには今まで苦労ばかりさせてしまいました。ですので、当面はこの里にて思うままに過ごしてください。ここの子達にはそれとなく、そなたに手を貸すように言っておきますので』

 はあ。そりゃあ、そうして貰えれば色々と助かりますが。でも女神様、そんなんで良いんですか? 俺に与えた例の使命は?

『その為にこそ、そなたはこの里に居るべきです。ここならできるのでしょう? あなたがこの世界で本当にやりたい事が』

 ありゃ、さすがにお見通しなんですね。じゃあ女神様、俺はこれからもここで、エルフ達と共に使命を果たすって事で良いんですね? やっちゃいますよ?

『はい。存分におやりなさい。これからも料理と美食の普及、あと美味しいお供えを頼みましたよー』

 たよー、たよー、たよー……
 例の残響音と共に、女神様の気配が消えて。
 俺は再び意識を失った。



 8 シンの決断



 あれから数日が経った。
 里でワインを造って売り出すという俺のアイデアは、ジークリンデさんによって住人に伝えられた。
 どうやらあの晩、彼女の元にも女神様の神託が下ったらしい。

『我が使徒シンの言葉を信じなさい。さすればエルフに更なる繁栄がもたらされるでしょう』

 とかいう女神様の神託を、ジークリンデさんは当初酔っぱらった頭が見せた幻ではないかと思い悩んだらしいが、あの駄女神様がしつこく三日くらい枕元に立ち続けて力業で納得させた様だ。
 そして里長である彼女の言葉は、すぐ実行に移された。もとより特産品など何もない限界集落な上に、女神様の神託というお墨付きである。あれよあれよという内に里の住人達はワイン造りに邁進していった。
 今や里の至る所で畑仕事に精を出す姿や葡萄を踏む娘衆の生足、果ては新たに大桶や樽を作る為に大工仕事をする女房衆の姿などが見られ、里はかつてない活気に満ち溢れている。
 もちろん言いだしっぺである俺も知らぬ存ぜぬで居られる訳は無く、またそのつもりも無い。ここ数日は彼女達と一緒にワインを造り、また希望者には料理の基本を教えたりして過ごしている。
 今日も、作業をしているあちこちを巡っては手伝ったりアドバイスをしたり。
 それはまあ、良いのだが……

「ああ、使徒殿。良い所にいらっしゃいました」

「う、うん……」

 葡萄を潰して果汁にする『圧搾加工所』に足を運んだ俺が目にしたものは、娘衆に混じって楽しそうに葡萄を踏み踏みしている、この里でいちばん偉い人の姿だった。

「ジークリンデさん……い、一体何をしてらっしゃるんでしょう?」

 俺の引き気味な問いに、彼女は、

「やはり長たるもの、仕事は全て把握していなければと思いまして」

 なんて事を、しれっと答える。
 それどころか、

「どうですか? 私もまだまだ娘衆に負けたものでも無いでしょう?」

 などと言いながら、スカートの裾を摘まみ上げて綺麗なおみ足をお見せになっていらっしゃいます。周りの娘衆からの生暖かい視線など、一切気にしておりません。

「女神様の使徒たるシン殿の御言葉にて行われし神聖なる事業です、いかなる作業とて疎かにしてはいけませんからね」

 もの凄く良い笑顔でそう言い切る、里の長ジークリンデ。
 女神様の神託を受けたあの日以来――
 彼女の様子と態度は一変してしまった。
 俺の事を女神の使徒として完全に認め、今度は不必要なまでに敬うようになってしまった。その様はまるで前世のドラマなんかによくあった、ツンと気の強い娘が何かの拍子で今まで気にも掛けていなかった男に惚れてしまい、一気にデレデレしてしまうあれに良く似ている。
 うん、俺どうしよう。
 もちろん彼女に使徒として認められる事はありがたい。この里での立ち位置も安定するし、このワイン作りも彼女のお陰で全てが怖いくらいに順調だ。
 しかし、それにしてもこの代わり身の早さはどうだろう。

「じ、じゃあ、俺は次の所を見て来ますんで! お仕事がんばってください!」

「あん、シン殿ぉ」

 彼女が大桶の中から動けないのを良い事に、俺は逃げる様にその場を後にした。

 ☆

 そうして俺が向かったのは、初めてワインを作成した例の納屋。ここはその環境の良さから醸造場となっていた。    
 大きな桶が幾つも並び、酵母達がぴちぴちと囁いているその中には、ローザがひとりぼんやりと佇んでいた。

「何してんの?」

 もちろんエルフである彼女が俺の足音に気付かない筈は無い。彼女は振り返ると、普段の快活さの欠片も無い小声で答える。

「なあ、シンよ」

「なに?」

「そなたはこれから、どうするつもりなのだ?」

「どうする、とは?」

「そなたは女神様より『エルフの力になれ』との神託を受け、そして見事にそれを成し遂げようとしている。今作っているわいんを売る事ができれば、この里の窮状も救われよう」

「ああ。そうなると良いな」

「で、その後だ。女神様からの使命を見事果たしたそなたは、その後どうするつもりなのだ?」

 まるで悪事を白状した子供の様に、不安げな顔で俺を見上げて。
 ああ、気付いたら俺の方が背が高くなっているんだよな。
 そこにはかつて、幼かった俺を導いてくれた如何わしくも頼もしいエルフのお姉さんの姿は無く。
 むしろ親に捨てられるのを恐れている子供の様な、情けなくも必死な目で俺を見ている。
 
 ……そうか。このひと、俺がこれで帰っちゃうとでも考えているのか。

「まさか、ローザは俺の仕事がこれで終わったなんて思ってるの?」

「違うのか!?」

「ああ。むしろ、俺が本当にやりたい事はこれからだ。今まではその準備をしていたに過ぎない」

「何と……して、シンよ。そなたが本当にやりたい事とは一体何なのだ? 我がそれを手伝う事は叶うのか?」

 俺に取って今や家族と同様……いや、いっそそれ以上の存在である彼女に、強く頷きを返す。

「これからもローザには俺を助けて欲しい。お願いできるかな」

 この母とも姉とも友とも慕うエルフの手を、俺は改めて両手で取って見つめ返す。なんだか耳がちょっと熱いけど、そこは強い心で無視する事にする。

「ああ…………ああ! このローザリンデ、女神様の使徒たるそなたにこれからも全力で助力するぞ。例えそなたが『いらない』と言ってもやるからな。覚悟しておけ!」

 両手をがっしりと結び合い、俺達は強く頷く。これからも彼女と進む事ができるのが何よりも嬉しく、また心強い。
 この先はたぶん今まで以上の困難もあるだろうけれど、ローザが一緒に居てくれるのなら俺はきっと成し遂げる事ができるだろう。

「ローザ。俺はこれから、この里にレストランを開こうと考えているんだ。それを君に手伝って欲しい」

 俺の言葉に、彼女は嬉しそうに微笑んで――

「ああ、分かった。それでシンよ。その『れすとらん』とは一体何なのだ?」
 
 




 第三部 レストラン経営編





 1 レストラン開店準備



 エルフの里にて、俺は彼女達にワインの醸造を伝えた。
 これは彼女達エルフの窮状を救う為に始めたものだが、実はもう一つの理由もある。
 それは勿論、俺がこの世界に来た本来の目的である『料理と美食の普及』の為だ。その為に何をすれば良いのか、俺は産まれてからずっと考えて来たのだが……
 うん。やっぱり俺ができる事といえば美味い料理を作り、食べてもらうという事だ。
 その為には料理を提供する場所、すなわちレストランが必要なのだ。
 なので、これからはそこを目的の中心に添えて動いていきたいと思う。
 ただ問題は色々とある。
 まず、この世界にはまだ料理屋という概念に乏しいという事だ。
 俺はこのエルフの里に来るまで、実に三年程旅をしてきた。その行程の大部分を野営で過ごしてきたが、当然町に立ち寄った時には宿に泊まったし、何ならこの世界での俺の生家も宿屋だ。その宿屋も、宿泊客に食事を提供するという事は殆ど行っていない。宿泊客達は勝手に部屋や厨房で(超簡単な)調理をして勝手に食っていた。食材の持ち合わせが無い客に芋や肉などを売る事はしていたけれど、それを調理しての提供などはしていなかった。
 なので今世の父が思い付いた、俺の料理を売るという事はこの世界においては何気にエポックメイキングな事だったのだ。
 そんな世界だから、当然飯屋などというものは存在しない。
 せいぜいが食料品店の店頭で茹でた芋や焼いた肉なんかを売る程度。そんな世界でレストランを開こうというのだから、これは中々に難しいだろう。
 でも――

「レストランって言うのは、そうだなあ……例えばローザ、俺と君が面識の無い他人だとしよう。そして君は俺の料理が美味い事を知っていて、食べたいって思ったとする。そんな時、君はどうする?」

「ふむ、そうだな。常識的に考えるなら、何かしらの対価を以て料理を作って貰う、だろうな」

「そう、つまり俺がやりたいのはそういう事なんだ。俺は店を構え、そこで料理を売る。そしてそれを食べたい者は対価として金を支払う。その為の店が、つまりレストランという訳だ」

「なるほど。食料では無く、それを料理したものを売る訳か」

「うん。そこで料理と一緒にワインを売ったり、なんなら料理の作り方を書き記した紙を売ってもいい。そうやって俺は、この世界で料理や美食を広めていきたいって考えているんだ……手伝ってくれるか?」

「ああ、もちろんだ。きっと母や里の皆も喜んで協力するだろう」

 ――でも、この里なら。
 俺の料理の価値を認めてくれる人達が居るこの里なら、レストランを立ち上げる事も可能だろう。
 しかも、この辺りにはエルフ以外にも様々な種族が居ると聞く。もしもその連中にも料理を広める事ができたなら、人間の町で人間だけを相手にするよりも遥かに効果が高いのでは無かろうか。
 そう考えたからこそ、俺はこのエルフの里に残る事を決意したのだ。


 果たしてローザが言った通り、ジークリンデさんを始めとする里の人達は俺のレストラン起業案に賛同してくれた。
 尤も、里長である彼女ですらこの事業がどういう影響をもたらすのかについては理解していなかったみたいだけれど、それでも、

「使徒殿のお考えになった事なら」

 などと言って全面的に賛同してくれて、なんとその為に店舗まで作ってくれるという。
 どうやらエルフ達は森の民を名乗るだけあって木工の技に長けていて、里には女衆しか居ないというのに丸太小屋程度の家屋なら簡単に作れるらしい。実に有難い話だ。

 折しも丁度、里の皆が主体となって作った最初のワインが完成した。
 その完成記念を兼ねた食事の場を、何とジークリンデさん率いる村の女衆が設けてくれるというのだ。パーティなんて概念の無かったであろうこの世界において、それは素晴らしい文化的躍進と言えよう。
 そして俺はその場を借りて、幾つかの料理を披露してレストランの概要を知って貰う事にした。

 ☆

 当日。
 礼拝堂の中にテーブルが運び込まれて立食パーティめいた会場になっている事に、俺は感動を禁じ得ない。
 卓上にはワインの入った瓶と共に、俺から料理を学んだエルフの作った品が並んでいる。この里には、飲食を楽しむ文化が芽生えつつあるのだ。

「我らが里のこれからの発展と、女神様の使徒シン殿の新たな事業、その成功を祈念して――」

 出来立てのワインが注がれたカップをジークリンデさんが掲げる。彼女が行うと、開催の挨拶も何かの宗教儀式の様に思えて少し面白い。

「かんぱい」

「かんぱーい!」

 いつの間にか乾杯の作法すら会得していたエルフ達の、華やかな声と共にパーティが始まった。
 彼女達は初めて口にするワインの味に驚きつつも、概ね好意的な雰囲気。まあ、そもそも彼女達エルフがこよなく愛する葡萄を使い精達が作った飲み物だから、口に合わない筈も無いだろう。
 とは言え、先日色々と教訓を得た俺は彼女達が初めての飲酒で潰れてしまわない為の料理を用意した。
 そのひとつが、これだ。

「ええとみんな、ワインはとっても美味しいけれど醸果よりよほど強いからね。ちゃんと食べ物をお腹に入れる事、あと水分を良く取る事にも気を付けてね」

 そう言って彼女達に振舞った料理は、深い木のボウルになみなみと注がれた汁もの。
 大山鳩の骨ガラで取った出汁で人参やジャガイモ、塩漬けの鳩肉などを煮込んだ料理、つまりポトフである。もちろんエルフ達の味覚に合う様に、セージやローレル、ローズマリーにバジルといった香草をふんだんに使ったブーケガルニで風味を強めに付けている。

「これは……鳩肉や野菜を味のついた湯で茹でたもの、なのですね? やはり我らエルフには無い発想の食べ物です」

 手渡されたジークリンデさんは、初めて見る汁もの料理に若干戸惑い気味。
 驚いた事に、彼女達エルフには薬湯以外に温かい汁ものを口にする文化がほぼ無かったらしい。森と共に生きる事をモットーとしているので、火を使うのは最低限に押さえているのがその原因のひとつなのかも知れない。
 しかし、それゆえ彼女達に取ってポトフは衝撃的な料理だったみたいだ。恐るおそる一口を啜った彼女は、

「ああ、数々の野菜や香草、そして大山鳩から溢れ出た滋味がこの一椀に全て凝縮されている様です。これは美味である事ももちろん、病に倒れた者に与えるにも適している様に感じますね。素晴らしい品です」

 と、満面の笑顔で応えてくれた。
 そして、もう一品は。

「シン! これは凄いぞ! この芋、わいんとの相性が凄まじいな! これを摘まみながらだといくらでも飲めてしまう!」

 早くも酒クズの片鱗を見せつつあるローザが狂喜しながら摘まんでいるのは、これもエルフの里で普通に生えていたオリーブの実から取った油で揚げて、塩とエルブ・ド・プロヴァンスで味付けしたじゃがいも。すなわちハーブ風味のフライドポテトである。
 今まで料理の付け合わせとして提供した事は何度もあったけれど、こうやってメインの食材として出したのは初めてだ。それはもちろんここに来るまでに大量の油を入手するのが困難だった事も大きいが。
 何にしてもフライドポテトである。前世でも子供から大人まで大人気で、飲食店ではメニューに無い方がおかしいとまで言われた程のこの料理は、当然酒のツマミとしても最強クラス。そして芋はこの世界でも多くの種族に主食として食べられている事を例に出すまでも無く、腹持ちも良くて栄養価も高い。そういった意味からも、まだ酒に慣れていない彼女達に最適なメニューだ。
 既に彼女達に伝えた鳥の串焼きや香草焼き等が用意されたこの場に、更なる華を添える事ができただろう。
 この場にいる皆が、笑顔でワインと料理を楽しんでくれている。

「これだよ。こういう場を作りたいんだよ、俺は」

 誰に話すでもなく、ひとり呟く。
 何故ならお酒にめっぽう弱いジークリンデさんは既に酩酊状態で周囲のエルフ達に絡み、その娘は「うっはぁたまんねぇな」とか言いながらワイン片手に料理を片っ端から食い漁り、誰も俺の話なんか聞いてくれないからだ。
 ……ううむ、この連中に酒なんて伝えて大丈夫だったんだろうか?
 などと一人たそがれていると。

「シンさーん。これ食べてみて。あなたから教わった料理を元に、私なりの工夫をしてみたの」

 ワインで頬を染めたパウラが、何やら真っ赤に染まった木皿を手に俺の元までやって来た。

「……これは?」

「山芋と人参を、潰した森イチゴと共に鍋で焼いてみたの。どうかな、ちゃんとした料理になっているかな?」

「お、おう……常識に捕らわれない、斬新な料理だね……」

 野菜を潰した果実と一緒に炒めるという荒業を繰り出してきた彼女に引きつった笑顔で応えていると、今度は反対側から、

「シンくぅん、私の料理も食べてくださいなぁ」

 何本かの串物を手にしたリズに腕を取られる。
 
「はい、あーんしてぇ?」

 と俺に差し出して来た串には、大山鳩の腿肉と葡萄が交互に刺さっている。

「こ、これは……」

 鶏肉と長ネギを交互に刺した、いわゆる『ねぎま』と同じ概念で作られたそれは、確かに料理の工夫として素晴らしいものだが。

「う、うん。大変エルフらしい料理ですね……」

 なんだか怖いので、黙って差し出された串を頂く。塩すら振られていない腿肉のナチュラルな滋味が半生に焼けた葡萄の酸味と甘みに包まれ、何とも複雑怪奇な味わいとなって俺の味蕾を襲う。

 彼女達の独創的に過ぎる料理を食べながら、しかし俺は内心とても嬉しかった。
 少なくともこの里のエルフ達には、料理と美食、そして仲間と共に飲食を楽しむ文化が産まれつつある。これを他の種族達にもどんどん広める事ができれば、もしかしたらこの世界は女神様の望む様な形にできるのかも知れない。
 もちろんそれはとてつもない手間と時間が掛かるだろう。俺が生きている内になど、絶対に叶わない程に。
 それでも、その礎だけでも築けるというのなら、料理人としてこんなに嬉しい事は無いだろう。



 2 レストラン開店  ~ドワーフ来店~



 ワイン完成披露パーティから半月程経ったこの日、ついに俺の店となる家屋が完成した。

「凄いな……こんな建物がひと月も掛からず建ってしまうとは」

 彼女達が俺に建ててくれたのは、前世でいうところのログハウス。丸太を組んで作り上げたその建物は広さにして20坪くらいだろうか? 中は四人掛けのテーブルが八つ程と、あと俺のリクエストで厨房はかなり広めに取ってある。その厨房の内部には広々とした作業台と、壁際には竈を四つも配備。これは俺だけで無く、いずれ俺から料理を覚えたエルフ達を将来的に雇う事まで考えての事だ。
 更に、この厨房には今までこの世界には無かった画期的な設備がある。

「じゃあローザ、お願い」

「うむ」

 力強く頷いた彼女は目の前の扉を開くと、その最奥に置かれた大きな箱に手をかざして俺には解らない精霊の言葉を紡ぐ。すると、彼女の言葉に応え箱の中が瞬時に氷で満たされたではないか。

「これで良いのだな?」

「ああ、ありがとう。助かるよ」

「うむ。しかし……部屋の中を凍らせ、冬の状態にして食料が痛むのを遅らせるとは。そなたの居た世界というのは、実に面白い事を思い付くのだな」

 そう。これは冷蔵室。大量の食材を備蓄するレストランには欠かせない設備だ。
 電源など無いこの世界で一体どうしたものかと産まれた時からずっと悩んでいたのだが、つい先日その事をローザに話したところ、

『そんなの、水の精霊に頼んで氷を作ってもらえば良いではないか』

 と予想の遥か斜め上を行く解決案を提示されて、今に至る。
 もちろん前の世界にも氷室という概念は太古からあったが、さすがに魔法で氷を出すという発想は俺には無かったので今まで考えもしなかった。
 ともあれ、立派な冷蔵室を供えた店舗を俺は手にする事ができたのだ。あとは開業するだけなのだが……

「なあ、シンよ。ここでそのれすとらんとやらを開くのは良い。しかし、こんな辺ぴな森の中でどうやって客を呼ぶのだ?」

 そう。問題はそこなのだ。

「うん、実は何も考えていない。まあ当面は里のエルフ達を相手に、食材を持ってきたら無償で料理を作る、希望があるなら作り方を教える、という形でやっていこうと思っているんだけど」

「そうか。思った以上に考え無しだったんだな。少し安心したぞ」

 何故かローザはそう言って俺の頭を可愛がる様にぐしぐしと撫でてから、出て行った。
 彼女には色々と言いたい事が無いでもないが、しかしその懸念は尤もな事だ。何せ来客が無ければ経営は成り立たない。そして、この里の僅かなエルフ達では人数も少ない上、頻繁に外食を行う様な経済的余裕もまだ無い。
 なので当面は金を稼ぐ事は考えずに色々と模索していく事とした。それと並行してワインを他の種族に売りつける算段もしなければならないので、ここは焦る事無く慎重に動こうと思う。

 ☆

 ――などと呑気に考えていた時が俺にもありました。
 世情は俺の思惑など一切考えてくれない事は、これまでの人生で知っていたつもりだ。でも、それにしても状況というものは動く時には一辺に動くものなのだ。

 営業を開始してから数日経った、とある日。
 この日も俺はロクに来客も無い店で、ひとりオリーブオイル抽出などの仕込み作業をやっていた。
 すると。

「ここか! この儂に話がある人間の若造が居るというのは!」

 まさに銅鑼声という言葉の如く、大地を揺さぶる様な大気声と共にそれはやって来た。

「ん? お客さん?」

 久々に聞いた男の、しかも異様にでかい声に驚きながらも店に出てみる。するとそこに居たのは『筋肉ダルマ』とでも呼ぶのが相応しそうな、立派な髭を蓄えた小さなおっさん。ドワーフだ。
 そして、その後を申し訳なさそうに耳を垂らしたジークリンデさんが追ってきて、

「ゴドノフ殿、こちらは女神様の使徒殿です。我が里の大切な客人でもあります故……」

 と、妙に下手に出た感じで諫めている。
 一体彼は何者で俺に何の用なんだろう?
 一応、こっちから挨拶しておくか。

「ええと、取りあえず女神様の使徒で人間のシンです。そちらは、どなたさん?」

「儂は『猛き鉄槌のゴドノフ』じゃ! 覚えておけい!」

「使徒殿。こちらのゴドノフ殿は、近隣のドワーフの里『鉄火村』の村長です。本日は、はるばる我が里へ足を運んで頂きました」

「ふん! お前らがいつまで経っても品代を払わねえから取り立てに来たんじゃろうが!」

 ゴドノフと名乗ったドワーフは、ギロリとジークリンデさんを睨むとそう吐き捨てた。
 まったく、ドワーフには旅の最中に何度か出会った事が有るが、どいつもこいつもこんな感じのガサツな連中だ。しかしその反面性格的には裏表が無く、俺としてはむしろ付き合い易くすら感じる。まあ繊細なエルフからしたら相当に取っ付き辛い相手だとは思うが。
 しかしそんなドワーフ達から、どうやらこの里は少なからぬ借金をしている様だ。まあ、それは以前ローザ辺りから聞いてはいたが、それにしても一体俺に何の用なんだろうか?

「あー、ゴドノフ村長? なんか今、俺が村長に話があるみたいな事言ってましたが、一体それ何の事?」

「何を言うか! 貴様がこの里の借金を返すとジークリンデが言っておったぞ!」

「ですからゴドノフ殿、違いますって! 使徒殿より伝えられし『わいん』にて、そちらの村との経済的な交流をですねえ」

「ごちゃごちゃ言うな! とにかく! 貸し付けた金をどうするんじゃ! その算段が貴様にはあるんじゃろう!?」

 何とか宥めようとする里長と、聞く耳を持たずに勝手に話を進めるドワーフ。うん、わかった。こいつ話を聞かないタイプの人だ。
 まあ確かに以前出会ったドワーフは、個人差はあったが大体こんな感じだった。基本的に人の話聞かない種族なのだろう。
 しかし前世の、特に昭和期にはこういったジジイは沢山居たし、何なら俺だってどちらかと言えばそっち側だった。
 なので、こういう手合いの対応は良ぉく知っている。

「分かった! ところでゴドノフさん、腹減ってねえか? 御馳走するから飯食っていってくれや!」

 相手に負けない様に俺も大声を張って、そう問いかける。果たして俺の予想通りに――

「おう! 気が効くじゃねえか! じゃあ芋でも貰おうか! 大盛りで頼むぞ!」

「あいよ! ちょっと待ってくれ!」

 突然態度が豹変した俺と妙に機嫌が良くなったゴドノフを「え? え?」と不審な目で交互に追っているジークリンデさんを取りあえず置いといて、俺は厨房に戻った。
 数分後。

「なんじゃあ! こりゃあ一体何なんじゃあ!」

 目の前に出された超大盛のフライドポテトを前に、さすがのドワーフも驚愕の声を上げる。

「これは俺が考案した芋の料理だ! 熱いから気をつけて食ってくれ!」

「おう! 芋なんじゃな! じゃあ、賜るぞ!」

 ゴドノフは一応食前の祈りの様な仕草をした後、揚げたての芋をむんずと掴んで口に運ぶ。

「ふふぉぉぉおおおおおおっ! 熱いぞ! しかし美味い! 美味いな!」

 芋の熱さに一瞬だけ驚愕の声を上げたものの、それが美味だと分かるや今度は凄まじい速さで口に運んでいく。俺とジークリンデさんが引く程のスピードで、彼は芋を完食した。

「美味かったぞ! もっと無いか!」

「あるけど今度は肉はどうだ?」

「肉か! そいつは良いな!」

「じゃあ待っててくれ!」

 負けじと俺も声を張り上げながら応え、厨房に戻る。やべえ、なんかちょっとだけ楽しくなってきた。
 次に用意したのは、今やこの里での人気ナンバー1。もはやここの名物と言っても過言では無い、大山鳩の香草焼きだ。
 しかし。
 この俺の代表作とすら言える一皿をゴドノフに出した所――

「なんじゃこりゃあ! 肉だと言ったのにどうして鳥なんか出るんじゃ! だが美味いな!」

「いや、だから肉じゃん。あんた鳥肉嫌いな人?」

「馬鹿者が! 肉と言ったら四ツ足じゃろうが! 猪の肉は無いのか! ほれ見ろ! 鳥なんかあっという間に食い終わっちまうだろう!」

「エルフは猪食う人少ないからなあ。まだうちには置いて無いんだよ」

「なんじゃと!? まったくけしからん奴らめ! 待っておれ!」

 文句言いながらも瞬時に料理を平らげたゴドノフは、やはり叫びながら扉を蹴り開けるとその体躯からは想像もつかないスピードで森へと消えて行った。
 そして茫然とそれを見送った俺達がようやく我に帰り、さてどうしたものかと思案し始めた頃。
 
「見ろ小僧! これが肉ってもんじゃ! 分かったか! 分かったらさっさと焼けい!」

 鮮血の付いたバカでかい斧を担ぎ、2mはあろうかという巨大な猪をゴキゲンに引きずったゴドノフが戻ってきた。見ればご丁寧に血抜きをして内臓まで全部抜き取ってあるではないか。一体どんな早業だよ。

「ま、まあいいや! すぐ焼くから待っててくれよ!」

 せめて気概だけは負けじと、猪を厨房まで引っ張ろうとしたものの俺如きの腕力ではびくとも動かない。仕方が無いので腿肉の良さそうな部分だけ五キロ分くらい切り出して、1ポンド程にステーキカット。
 ついさっきまで生きてた獣の肉は、鮮度はもちろん良いが熟成されていないのでその実、味は左程でも無い。なのでその辺を補うべくバターをたっぷりと使ってソテー。そこにワインを投入して塩と、砂糖の代わりに花の蜜で味付けを施し、しっかりとウェルダンに火を入れたら、肉を皿に取り最後にフライパンに残ったワインと肉汁を煮詰めてソースにして――

「完成。猪のソテー赤ワイン風味」

 客室にて「まだか! 遅いぞ!」とがなり立てているゴドノフの前にドンと差し出す。

「お待ちどう! 食ってくれ!」

「おう! この儂をこれだけ待たせたんじゃから、さぞかし美味いんだろうな! 賜るぞ!」

 目の前に置かれたてんこ盛りの猪肉を、さすがに今度は素手では無く木のフォークで突き刺して口に運ぶと。

「おおっ!? これは美味いな! こんなに美味い肉焼きなぞ、今まで食った事無いわ!」

 彼は満面の笑みを浮かべて子供の様にはしゃぎ声を上げた。

「そうか! 良かった! じゃあこれも飲んでみてくれ!」

「ん? なんじゃ、こりゃ…………うぉおおおおおおおおおおっ!?」

 差し出したワインのカップを取り、特に吟味するでもなく口にしたゴドノフは、一口飲むや今日一番の銅鑼声を発して突然立ち上がった。
 そして俺に向き直ると、両手で肩をがっしと掴み――

「小僧! 一体これは何じゃ! 只の葡萄の汁では無いな! この凄まじいまでの精の強さは一体何なんじゃ!?」

 ぎりぎりと万力の様に強力な握力で肩ていた。

「痛い痛い痛い! 離せ! 話すから離せ!」

「おお、こりゃあすまんな! で、この汁は一体何じゃ!」

「これはワインと言ってだね、これから里の特産品として売り出そうとしているものだ。材料は葡萄の搾り汁で、簡単に言えば醸果を凝縮して強化した様なもん、かな」

 俺の放ったその言葉に、ゴドノフはピクリと眉を動かすと今度はゆっくりと味わう様にカップを傾ける。

「ふむぅ……これを、エルフ達は売ろうってのか…………小僧、貴様が言いたかったのはこれか!」

「ああ。この里では交易品としてワインを売り出そうと思っている。どうだろう? あんた達ドワーフはこれを買いたいって思うかい?」

 ゴドノフは暫く黙ってカップの中身を覗いた後、再び席に着く。

「仕事の話は飯の後じゃあ! ほれ、ジークリンデも席に着け! 小僧! 肉焼きをもっとじゃ! それとこのわいんとやらもな!」

「お……おうよ! すぐに焼いて来るから待っててくれ!」

 ☆

 賑やかな(主に音量的な意味で)食事を終えた後。
 俺達三人は改めて商売の話に移った。

「よし分かった。ジークリンデよ、このわいんを全部、儂の村に寄越せ。さすれば儂らが人間や他の種族に売りつけてやる」

「全部、ですか? さすがにそれは即答できかねますが……使徒殿はどう思われますか?」

 縋る様な目を俺に向ける里長と、商売人らしい鋭利な視線を送ってくるゴドノフ。

「そうですね……俺はゴドノフ村長に任せて良いんじゃないかって思います」

「ほう? 小僧、どうしてそう考える?」

「理由はふたつ。まず一つ目は、この里にはおそらく商売する為の知識も経験も乏しい。そんな人達がいきなり交易を始めようとしても、きっとカモにされて大損する未来しか見えません。それなら豊富な経験と知識、そして多くの顧客を持っているであろうドワーフの里に一任する方がよっぽど確実と考えます。一方のドワーフ側にしても、ワインの販売を独占できるのは後々大きな商機になる筈です。であるならば、目下この里でしか作る事のできないワインに対して、下手な値段で取引しようとは思わないでしょう」

「ほう……」

「まあ……」

「そして二つ目。俺はワインの事業はこれで終わりだと考えてません。むしろこのワインを使って更なる商品の開発も視野に入れています。その為にはきっとドワーフの助力が必要になる。だから今ここでがっちりと手を組むべきだと考えてます」

 そう。ワイン事業はここで終わりでは無い。
 このワインを元に、様々な物が作れるからだ。
 例えば酢だ。どうもこの世界にはまだ酢は無さそうだが、アレがあれば料理の味付けは勿論、食材の保存にとても役に立つ。
 さらにはワインを蒸留してブランデーを作る事も可能になるだろう。どうやらドワーフは鉄工の技術に優れているらしいからな。簡単な蒸留器くらい、頼めばきっと作ってくれるに違いない。
 テーブルを改めて見回す。
 ジークリンデさんは縋る様な瞳を俺に向けている。やはり彼女には商売の経験も知識も乏しいのだろう。
 ゴドノフ村長に視線を向けると、こちらは面白い物を見つけた目になって、それでいて俺を値踏みする様に見詰めている。

「もちろん、これはエルフとドワーフの里が互いに信頼し合って初めて成立する事ですけどね」

 なので俺も、挑発する様な表情を敢えて作って彼に視線を返す。

「ふん! 小僧、貴様頭が切れる上に腹も座ってるな! いいだろう! 決してエルフ共の損になる取引はせぬと、このゴドノフが鉄槌の名に誓おう! しかしジークリンデよ! まずはこれまでの借金と相殺という形で良いな!」

「え、ええ……勿論でございます」

「よし! そうと決まれば早速取引開始じゃ! 良いな?」

「おう! ところでゴドノフ村長、俺は今度この店で、こういった料理を売る商売をしようと思っているんだが、どう思う?」

「ほう、飯を売ろうってのか……」
 
 彼は暫く髭を弄りながら考えた後、ガハハと大声で笑い出す。

「これだけ美味い飯ならば、金を払っても食いたい奴は居るじゃろ! どうじゃ小僧、貴様こんな辺ぴな所じゃ無く儂の村で商売せんか! 儂ん所は色々な連中が買い付けに来るから、きっと儲かるぞ!」

「いや、それは有難い申し出だけどさ、俺はここのエルフ達に恩義があるからあんたの所に行く訳にはいかないんだよ」

「なんじゃ、残念じゃの! 貴様が来れば毎日美味い飯が食えるものを!」

 豪快に笑うドワーフと、安堵の溜息を吐くジークリンデさん。
 なんだか随分となし崩し的だったが、結果としてこの店初の仕事は美食外交となり、そして大成功を納めたのだった。



 3 レストラン繁盛  ~ゴブリン来襲~



 ゴドノフ村長の来店から数日後、早速ドワーフ達との交易が始まった。
 当面は借金の相殺になるからこの里からの出荷のみになるけど、まあそれは仕方が無い。一体幾ら借金があるのか知らないけど。それよりも俺としては、ワインを引き取りに来たドワーフ達が店に寄ってくれるから純粋にありがたい。何せドワーフはよく食べるから、来客人数は少なくても作る量は中々のものになるからだ。
 ……とは言え、里の人達以外のいわゆる外貨を稼げる客は今の所ドワーフ達のみ。そろそろ他の種族なんかも視野に入れたいのだが。
 などと考えつつ、仕事をしていると。

「ん? ゴブリン共が来たな。まったく懲りない連中だ」

 なんとなく俺の助手をやってくれているローザが突然、窓の外に顔を向けてそう言った。

「ゴブリン? ああ、なんかたまに来るって言ってたっけ?」

「うむ。まあ今回は左程の数じゃあ無いみたいだから、リズに任せておけば問題無いだろう」

「え? リズ? 彼女一人だけで大丈夫なの?」

 思わず零した俺の言葉に、ローザは苦笑と共に答える。

「少なくとも、今この里でリズに勝てる者などいないよ。もしも戦ったなら、我など触れる事すらできぬまま瞬殺されるだろうな」

「まじか……あ、そういえば……」

 以前、初めてのワイン醸造で葡萄を踏ませた時に一瞬だけ感じた恐ろしい殺気を思い出す。そしてよくよく考えてみれば、今までローザやパウラ等里の娘衆がリズに逆らっているのを見た事が無い。
 うむ、以前俺が直感的に感じたアレは正しかったんだな。マジで彼女だけは怒らせないようにしよう。
 程無くして里の外から轟音と悲鳴が聞こえ、そしてすぐに収まった。

「ふむ、終わったみたいだな」

 耳を立てて様子を伺っていたローザが、そう言って外に出る。付いて行ってみると、丁度里の外からリズが戻って来る所だった。

「おかえり、リズ。お疲れだったな」

「うぅん、運動にもならなかったわぁ」

 まるでちょっとそこまで散歩でもしてきた様な気軽さでリズは言う。しかしそんな彼女が手にしている縄には、緑色の肌をした小さな亜人達が十数人ほど数珠繋ぎになって引っ張られている。その誰もがまるで袋叩きにでもされたが如き様相だった。

「ん? 生かしたままなの? 里を襲いに来たんでしょ?」

 思わず発した俺の言葉に、ふたりのエルフは面倒臭そうな溜息と共に言った。

「殺せばゴブリン達と全面的に争う事になろう。こいつらは一人ひとりは大した事無いが、何せ数がやたらと多い。そんな連中を相手にしていたら里の被害も只では済まなくなる」

「そうよぉ。それにぃ、この子達って考え無しだからぁ、あんまり悪気も無く里の物盗みにきちゃうのよぉ。その度にこうやってお仕置きして返すんだけどぉ、しばらくすると忘れちゃうのか、また悪さしに来ちゃうのよねぇ」

「はあ……なるほど」

 つまり、ゴブリンはバカなのか。なので、彼女達は面倒臭くてもお仕置き程度に手を抜いて、全面戦争にならない様にしつつ制裁を加えてから返す、と。

「じゃあ、ゴブリンってそう邪悪な存在でも無いのか」

「邪悪とまでは言わんが、迷惑な連中だな。正直あまり関わりたくは無い。こいつら相手にするならまだコボルドやオークの方が話になるだけましだ」

「ふぅん……」

 俺はリズに捕まって『イタイナ』とか『ツカマッタ!』とか片言で呟いているゴブリン共に視線を移す。そこで不意に駄女神様の言葉を思い出した。

『本来、この世界は様々な種族が共に手を取り歩む、理想の社会を創り上げるつもりだったのですが……』

 もしも、俺の料理にこの世界をどうにかする力があって、こいつらとも仲良くできる手立てになり得るとしたら――

「ねえ。ゴブリン達ってそもそもどういう生活してんの? 同じ森に住んでるんだよね」

「こいつらか? 確かにこいつらも我らと同じく森の民だ。それなりに大きな集落を作り、普段は狩りをしたり森の恵みを採ったりしているみたいだ。しかしこいつらはまあバカでな、目の前に良さそうな獲物があると見境無く襲い掛かったりする。折しも今、里は葡萄の収穫が凄い事になっているからな、きっとそれに目を付けたのだろう」

 ローザの言葉に、俺はゴブリン達を向いて問いただす。

「そうなのか?」

『エルフノツクルクダモノ、ウマイ』

『オレタチモクイタイ』

『イッパイアル。スコシクライトッテモワカラナイ』

「なるほど、バカっぽいな」

 しかし、取りあえず意思の疎通はできそうだ。それならば……

「ねえリズ、こいつらの事、俺に任せてもらえないかな?」

「はぁ? シン君に? 一体どうするつもりなのぉ?」

 流石にリズも、俺のこの提案には驚いたらしい。普段のおっとりした垂れ目を見開いている。

「それはもちろん、女神様からのお役目を果たすんだよ」

 彼女の持っている縄を受け取り、ゴブリン共を店内に連れ込む。そしてふたりに見張ってもらいつつ、俺は厨房に戻った。
 話から察するに、奴らはエルフの作る果実が美味い事を知っている。という事は多少なりとも美食に興味を持っている筈だ。それなら、もしかしたら――

 ☆

「ふう、お待ちどう。そいつらの縄を解いて、これを食わせてやって」

 俺は出来上がった料理の大鍋を持って厨房を出た。そして鍋の中身を一人前ずつ深皿によそってローザに見せる。

「食事を与える? ゴブリン共にか? シン、一体何のつもりだ?」

「まあまあ、これも考えがあっての事だから、頼むよ」

「ぬう……まあ、そなたが言うのなら」

『解せぬ』とか言いつつも、ローザはゴブリン達の縄を解き、席に着かせる。それをリズが驚きつつも、楽しそうに頬を緩める。

「んふふ、ローザったらぁ、シン君の言う事は素直に聞くのねぇ」

「うるさいな。シンは女神様の使徒なのだぞ」

「うんうん、そういう事にしておいてあげるわぁ」

 若干リズがうざいものの、取りあえずゴブリン達は彼女を恐れてか大人しくしている。そんな彼らに俺は一皿ずつを配り、促した。

「食っていいよ」

 果たしてゴブリン達は見た目通りのバカっぽさを発揮して皿に飛び付く。一応スプーンを使う位の知恵はあるみたいだが、一切考え無しに出された料理を貪り、『ウマイ!』『スゴクウマイ!』『コンナニウマイノ、ハジメテ!』とガキみたいにはしゃいでいる。こいつら俺が毒入れるとか考えてないんだろうか?
 もちろん毒なんかは入れていないが。それどころか、この料理だってちゃんと真剣に作った。
 こいつらに出した料理は大量のジャガイモを里では不人気な猪肉と一緒に煮込んだ、いわゆる肉じゃがだ。直感的にゴブリンにはこれが合うと思って作ったのだが大正解だった様だ。
 瞬く間に料理を平らげたゴブリン達は、キラキラした目で『ウマカッタ!』『モットクイタイ!』と、まるで飼い主に餌をねだる犬っころみたいに見てくる。よし、ここまでは想定通りだ。問題は、こいつらにここから先をちゃんと理解するだけの知能が有るかどうか、だが……

「ええと、君達。ここはレストランという所だ。本来なら、今出した様な飯を、お金と引き換えに渡している」

『オカネ? ナンダソレ?』

『オカネ、シラナイ』

「うん、そうだろうな。だから君達とは物と交換しようと思う。ここの飯が食いたいなら、森で食料を採って来るんだ。兎でも、鳥でもいい。キノコとか果物でもいい。それの量と質により、食べさせる量も多くなったり少なくなったりする。どうだ? わかった?」

 俺の言葉を聞いたゴブリン達は、円陣を組んでぎゃあぎゃあと話し出した。そして、きっと彼等のリーダーであろう一人のゴブリンが言った。

『ウサギイッピキデ、メシクエルノカ?』

「そうだな。兎一匹なら今の皿二杯分ってところだ」

『トリ』

「大山鳩なら、同じく一杯」

『イノシシ』

「猪なら大きさにもよるけど、最低でも十杯は出そう」

『ワカッタ。オレタチ、ドウブツモッテクル。オマエ、メシクワセル?』

「そうだ」

『ワカッタ!』

 ゴブリン達は仲間内でぎゃあぎゃあと一通り騒いだ後、森に帰って行った。残されたのは唖然とした顔でそれを見送る、ふたりのエルフ娘。

「シン…………そなた、凄いな」

「本当ねぇ。まさかゴブリン達を手懐けちゃうなんてねぇ。そりゃあローザなんか簡単よねぇ」

「どういう意味だ!」

 じゃれ合うふたりは置いておくとして。しかし予想以上に上手くいった。あいつらゴブリンは確かにバカそうだけど、決して邪悪な存在では無いのだろう。それならば同じ森に住む者同志、もっと上手く付き合う方法がある筈だ。そして、それがきっとあの駄女神様の望みに違いない。

 果たして、俺の予想通り――
 いや、効果は予想以上だった。ゴブリン達は俺の言った通りに大山鳩や兎、そして時には猪なんかも持って頻繁に現れる様になった。そして俺の作った肉じゃがを食べると嬉しそうに帰っていくのだ。
 当初予定していたものとは随分と違ってしまった様にも思えるが、それでも俺のレストランは思いも依らぬ形で繁盛しつつあった。



 4 レストラン大繁盛  ~森の人気店~



 開店より、もうすぐひと月。店はいよいよ忙しくなってきた。
 その仕事の半分くらいはゴブリン相手のものだったが、もう半分はドワーフや、たまに訪れるホビットに人間。そう、彼らは何処から聞きつけたのか、直接ワインを買おうとこの里に現れる様になったのだ。もちろんゴドノフ村長との契約があるので現状では彼等に売る訳にはいかないが、将来的にはこの辺りも考えなくてはいけないだろう。

 ☆

 そんな感じでこの日も仕事をしていたのだが。

「シン。そなたに客だ」

 いつの間にか店でウエイトレス的な事までやる様にまでなったローザが厨房にやってきた。

「俺に客? 飯食いに来た訳では無く?」

「うむ。まあ来てくれ」

 彼女に促されて出てみると、そこに居たのは全体的に犬っぽい獣人達。コボルドだ。

「ええと、俺にどんな用だろう?」

「ゴブリンから聞いた。お前、森の恵みを美味い飯と交換してくれる、本当か?」

「お、おう……そう来たかー」

 まさかの食材バーター交渉だ。視界の隅ではローザがヤレヤレと小さく肩をすくめている。
 でもまあ、以前のゴブリン達みたいに里に悪さをしに来た訳でも無いので別に良いだろう。それどころか、もしかしたら彼等からはゴブリンとはまた違う食材を持ってきてもらえるかも知れない。

「で、君らは何を持ってこれるの? その物によっては考えない事も無いけど」

 聞いてみると、彼等は手にした粗末な鞄から色々なキノコを取り出す。

「俺達、鼻が良い。土の中のキノコ見つけるの、得意」

 そう言って出してきたキノコの中に、俺は宝物を見つけた。
 一見すると、とても食材とは思えない只の黒い塊。しかしその発する芳香たるや前世地球では多くの美食家を魅了してきた、まさに魅惑のアロマ。

「こ、こ、こ、こ…………これは……まさか、トリュフ!?」

 ひゃっほう! 

 狂喜した俺は思わずローザの手を取ってワルツめいた謎のステップを踏み、その喜びを全身で表現する。コボルド達は突然躍り出した俺を何か不審なものを見る目でみていたけれど、「腹一杯になるまで好きなだけ食っていってくれ」の一言に尻尾をブンブン振りながら頷いた。
 よぉし!
 大金星のコボルド諸君には、特別腕によりを掛けて御馳走しようじゃないか。
 これも独断と偏見と直感だが、彼等には骨付き肉だ。きっと骨付き肉が好きに違いない。
 なのでメニューはもう即座に決まった。
 猪のリブロース芯、それも骨付きのいわゆるトマホークだ。この赤身と脂身のバランスが素晴らしい部位を、豪快に骨付きでカットして塩で下味を付けたら、まずは表面を強火でしっかりと焼いてから弱火で中までじっくり火を通す。こうする事により、肉汁を余す事無く閉じ込めて美味しいステーキに仕上がるのだ。焼き上がったら皿に盛り、最後に彼らが採ってきてくれたトリュフを薄く削って散らせば――

「完成。猪のトマホークステーキ、トリュフの風味を添えて」

 焼き上げたステーキを彼らに振舞うと、予想通りに狂喜してぎゃうぎゃう言いながら貪り始める。

「この肉、美味い! 焼いただけなのに!」

「あの変なキノコ、こんなに美味かったか!?」

「知らない! 前に食った時は美味くなかった!」

 肉の美味さもさることながら、特に彼らは自分達が持ち寄ったトリュフに驚いている様だ。まあ理由は簡単に想像できる。あれはまるのまま食ってもそれ程美味くはない。いっそケチ臭い程に薄ぅく切って使う事が肝要だ。そうする事により、香りを最大限に引き出す事ができる。そう、トリュフは味では無く香りを食べるのだ。
 しかも、トリュフの香りは肉料理と合わせる事で最大限に威力を発揮する。その為にステーキ、しかも味付けは塩だけという実にシンプルな品を俺は用意したのだ。

「お前凄い! これからもキノコ沢山持ってくる! だから飯食わせろ!」

「おう! 特にその黒いキノコと、もしあったらそれの白いヤツも持ってきてくれ!」

「わかった!」

 もはや何も言わずに達観した目でこっちを見ているローザをよそに、俺はコボルド達とも契約を結んだ。

 ☆

 かくして俺のレストランは大盛況となった。
 連日ゴブリンやコボルド、そして最近では噂を聞いたオークやら何やら、色々な種族が訪れる様になっている。そして、ドワーフや人間の中にもワインの商売抜きで純粋に飯を食いに来る連中が現れだした。
 なので最近ではローザの他にパウラやリズまでも従業員として雇い、特にローザには調理の助手までやってもらっている。以前、町の近くに住んでいた頃の彼女は

「野菜などそのまま食せるではないか。わざわざ切り分ける意味などあるのか?」

 とか言っていたものだけど最近は調理の楽しさに目覚めたみたいで、暇な時には自分で鳥ガラの出汁まで取っていたりする。
 パウラやリズにしても、ワインの醸造に精を出す傍らこっちの店まで手伝ってくれるのだから有難い限りだ。
 そして店内を見渡せばエルフや人間、ドワーフなんかと一緒にゴブリンやコボルド達が普通に飯を食っている。最初のうちは異種族間で小競り合いになりかけた事も有ったりしたが、俺が毅然と

「うちで飯が食いたいのなら、この場では一切争うな。それができないなら出ていけ」

 と言い放ってからは大人しくなった。やはり美味い料理の力とは偉大だ。
 当初、多くの他種が里に訪れる事を危惧していたジークリンデさんも、この様子を見て感動していた。

『ああ……これこそが創造の女神様の、本当に創りたかった世界の姿なのですね』

 両手を祈る様に組んで、瞳に涙を湛えながら彼女は言った。
 どうやら、最近は女神様の力が強まっていくのを司祭として感じているらしい。きっとエルフ達の生活が安定してきた事により、女神様への信仰心が強まったのが原因なのだろう。確かあのひと『信仰心が力になる』とか言ってたからな。まあ『美味い供物でやる気が出る』とも言ってたから、あまりあてにもできないけれど。

 と、まあ。
 こんな感じで俺のレストラン計画は順調に進んでいった。

 ――そう。順調に進み過ぎたのだった。

 なので、後にあんな事が起きるとは、この時の俺達には夢想する事すらできなかった。



 5 レストラン大ピンチ 
 

 
 この日も俺は仕事に励んでいた。
 連日押し寄せる様々な種族に料理を提供し、幾らかのお金と大量の食材を手に入れる。それをまた料理して提供し……というエルフの里でのレストラン経営。それは俺に取ってとても充実したものだった。
 特産品として開発したワインも順調に売れていて、今やこの里には俺が初めて来た時の様な貧相な雰囲気は微塵も無い。パウラやリズに「そろそろローザと所帯を持って身を固めなさいな」とからかわれるのが目下の悩みだが、当然俺とローザはそんな関係では無い。彼女は俺に取っては母の様であり、姉の様であり、友の様であり、時に妹の様ですらある。外野が思う様な簡単な仲では無いのだ。
 
 そのローザが突然、出汁の灰汁取りに使っていたお玉を放り投げて外に走り出した。かなりの慌て様だ。見れば周りにいたエルフ達も次々と外に飛び出していく。

「一体今度は何があったんだ?」

 彼女達の、あまりにもな慌て様に不安を抱いた俺もそれを追って外に出る。
 すると――

「あ……あれは……まさか、どうして…………今に、なって…………」

 里長であるジークリンデさんが、まるで腰が抜けたみたいにぺたんと座り込み、絶望的な眼差しで遠くの空を見ている。俺もその視線を追ってみると、遥か彼方の空に黒い点が見えた。
 そいつはどんどん大きくなり、やがてその姿がおぼろげながら見えてくる。

「あれは……竜なのか?」

 まるで巨大なトカゲに翼が生えた様な姿。それは東洋的な龍では無く、西洋風の竜、いわゆるドラゴンだった。

「ほ、本当にドラゴンなんて居たんだな……って、アレ明らかにこっちに向かってきてるな!?」

 ドラゴンは瞬く間に巨体を晒し、気が付けば里の直上まで来ていた。そしてばっさばっさと翼をはためかせながら、目の前に降りて来る。その大きさたるや、大型のバスもかくやという程だ。

「え……エンシェント……ドラゴン……」

 まるで熱にうなされた子供みたいに、ジークリンデさんが茫然と零す。

 ――ほう。我を知る者がまだ居たか。かれこれ五百年は経っていようが、さすがにエルフは長命よのう――

 目の前のドラゴンの、言葉が脳内に直接響く。まるであの駄女神様と話している時みたいに。

「こ……此度はいかようにございましょうか……貴方様との契約は、五百年の昔に終えていると存じておりますが」

 怯える様を隠そうともせずに震えながら。しかし里長であるジークリンデさんはそれでも立ち上がり、ドラゴンの前まで歩み寄る。周囲を見渡せばエルフ達は皆涙目になって震え、中には気を失って倒れている者すら居た。ドワーフや人間の客達も一切動く事無く、固唾を飲んで事の次第を見詰めている。ゴブリンやコボルドといった連中は我先にと里から逃げ出して行った。
 まるで空気が固まってしまったかの如き、息苦しさ。
 それを打ち破ったのは、やはりと言うか目の前のドラゴンだった。

 ――風の噂に聞き及んだのだ。このエルフの里に、最近面白い者が居るとのう――

 最近現れた、エルフの里の面白い者って。もしかして俺の事か?

 ――その者は驚くべき手腕で美味なる糧を作り、いかなる種族も虜にしてしまう、と――

 うん、俺じゃん。絶対にそれ、俺の事じゃんか。
 きっと皆気付いたのだろう。周り中の視線が一斉に俺に集まった。特に目の前からとてつもない圧力を感じる。
 もの凄く嫌な予感しかしないけど、『それ』に顔を向けてみると……目の前のドラゴンと視線が合った。

「!? う……ぁ……」

 突然だが、ライオンや虎などの猛獣の瞳をまじまじと見た経験はあるだろうか?
 俺はある。もちろん前世の、上野とかの動物園での話だが。
 まだ若い頃、修行先の先輩から教わったのだ。

『動物園で猛獣に全力でガンを付けるんだ。奴らの目は、それはもう怖い。そいつに慣れたらそこら辺に居るヤクザやチンピラなぞ屁でも無くなるぞ』

 と。
 なので俺はその教えに従って試した所、本当に怖かった。まるで自分が食い殺されるのではないかと思う程に。彼我を遮る檻が無ければ、あの眼力には決して抗えなかっただろう。
 この特訓のお陰で、前世では地域のやくざ者やチンピラ共に臆する事無く店を構え続ける事ができたし、この世界においてもドワーフやゴブリンといった得体の知れない奴らを相手にしても互角に接する事が可能だった。
 でも――
 これは無理だ。絶対に無理だ。
 目の前のドラゴンが発する眼力に、俺のなけなしの根性はあっけなくへし折られた。それはもう、強い弱い以前に生き物としてのランクが違う。俺達が普段蟻なんかに対するそれの、いやきっとそれ以下だろう。もはや見下す等というものですらない、俺に生き物として絶対に抗えないという事を直感的に分からせて来る様な恐ろしい視線だった。

 ――ふむ、貴様か――

 どうやらドラゴンは俺がその『面白い者』だと見抜いたらしい。真正面から、いっそ楽し気に口元を歪ませた。きっとネズミから見た猫はこう見えるに違いない。
 
「あ……え……」
 
 思わず腰が抜けて、へたり込んでしまう。あまりの恐怖に、もはや声すら出せない。只震えながら、目の前にある強大な暴力の塊を見上げる事しかできなかった。

「し、シン!」

 そんな俺を、まるで庇う様にローザが歩み寄ってきて奴の視線から俺を隠した。見れば彼女も当然震えながら、しかしそれでも胸を張ってドラゴンに対峙し、口を開いた。

「え、え、エンシェントドラゴン殿。我はこのジークリンデの里の里長、ジークリンデが一子ローザリンデ。この里に来られた理由をお聞きしたい」

 ――理由? ふむ、理由か。そうさな、さしたる理由など無い。只の気まぐれよ――

「気まぐれ、ですと?」

 ――左様。先にも話したが、この里において面白い者が居ると聞いてな。たまさかには美味い糧でも食ろうてみようと、な――

 余りにも意外なドラゴンの言葉に、俺は耳を疑った。
 ええと、何? じゃあこのドラゴン、俺の作る飯の噂聞いてわざわざ飛んで来たの?
 うわあ、マジかよ!? 俺の料理の評判って、ついにドラゴンにまで届いちゃったの?

「そ、それじゃあ貴方は俺の店の、お客様……なんですか?」

 庇っていてくれたローザの陰から顔を出して問う。

 ――客とな? そうさのう、貴様がその美味い糧を作りし者なら、そうなろうな――

 目の前のドラゴンは、更に狂暴に口元を歪ませていた。きっと笑っているのだろう。そう信じ込む事にする。

「で、では……貴方は、俺の料理を食べに来た、という事で良いんですね? ええと、いらっしゃいませ?」

 いくら恐ろしい姿をしていても、店のお客様というのなら話は別だ。未だに笑っている膝をバシンと叩いて気合を入れ、立ち上がる。
 そして、今まで俺を庇っていたくれたローザの肩に手を置いた時。
 彼女が真っ青な顔で、絶望的な目をして涙を流している事に気が付いた。

「ろ、ローザ? どうしたの?」

 問いかけるも、彼女は何も答えない。
 その代わりに、目の前のドラゴンが再び口を開いた。

 ――では人間よ。我が好物であるエルフで美味い料理とやらを作ってみよ――



 6 ご注文はエルフですか?



「い、今……何と仰いました?」

 ――二度は言わぬ。早々に作るが良い。我を満足させる事叶ったなら褒美を授けよう――
 
 ドラゴンはさも当然といった風にそう言い放った。
 
「え、え、エルフを、食べる……と、言いました?」

 ――くどいぞ、人間。この我に何度も同じ事を言わせるつもりか?――

 今度はやや不機嫌そうに、ギロリとその巨大な目で睨む。もちろんそれはかつて見た事が無い程、恐ろしいものだった。ついさっきまでの俺だったらションベン漏らして気絶していたかも知れない。
 しかし――

「そっ! そんな事できる訳無いでしょう!?」

 恐怖と動転で思わず声が裏返ってしまったが、俺は目の前で茫然と立ち尽くすローザを抱き止め、先程彼女がしてくれた様に背中に庇いながらドラゴンに叫んだ。

 ――この我に意見するか。今までエルフの背に隠れていた人間が――

「え、エルフを料理しろなんて言われたら、そりゃあしますよ!」

 口答えした俺をドラゴンは更に睨むと、俺に目線を合わせる様に首を下げて近寄ってきた。
 あ、俺このまま食われるんだ。
 そう覚悟して、せめてローザだけでも逃がそうと後ろ手に突き飛ばす。
 ところがドラゴンはそのままパクリとは来ず、俺の真ん前にぺたりと顔を置く。これだけでも軽自動車くらいはありそうだ。そしてやはり巨大な瞳を、今度は意地悪そうに細めて俺を見詰め。
 
 ――人間よ。貴様らとて己より弱い獣を糧にしておろう? ならば何故我がエルフを食らう事に異を唱える――

「え……それは……」

 ――草葉を虫が食らい、小さき獣がそれを食らう。その獣とて大きな獣に食われ、貴様達人間はそれをも食らう。であれば貴様達より強き我が人間やエルフを食らう事も、何もおかしくはあるまい。全ては世の理よ――

 しょ、食物連鎖を持ち出して理を語る……だと?
 このドラゴン、何気に答え辛い事を言ってくるじゃねえか……くっ、只でかいだけじゃなくて知能も高いとは、なんて厄介な奴なんだ。
 しかし、もしも奴の言葉に一理あったとしてもそんな事を納得してやる事などできないし、ましてやエルフを料理にするなど俺にできる訳など無い。

「しかしエルフは俺の友であり同胞です! そんなひとを糧として差し出す事などできる訳無いでしょう! お引き取りください!」

 何がエルフで美味いもん作れ、だ。誰がそんな事するか!
 いくら恐ろしいドラゴンの言う事だって、聞ける事と聞けない事がある!
 そう、腹に括って言い返してみたものの……

 ――友であり同胞とな。笑わせる。一体それが何だと言うのだ? 貴様達は山羊や牛といった獣を普段は友などと言い飼っておきながら、いざ糧に困窮したならば躊躇せず食するではないか。いかに我とて、友を食らう様な惨い事などせぬぞ?――

「そ、それは……しかし獣と人間やエルフは違うでしょう。意思の疎通もできるし、そもそも同族です」

 ――ほう? では意思の疎通ができぬのなら食ろうても構わぬと? それは傲慢な考えだとは思わぬのか? それに貴様達は食らう事無くとも同族同士で常に殺し合っているではないか? であるならば答えよ。食らわぬのならば同胞を殺しても良いのか?――

 ぐぬぬ……
 このドラゴン、見た目に似合わず実に理屈っぽい。しかも、この論調からして明らかに相手を論破する事を楽しんでいる。
 それに、何より。

 ――勘違いするな、人間。我は命じているのだ。貴様が料理とやらを施さぬなら、今すぐにこの者達全てを食らっても良いのだぞ?――

 目の前のドラゴンにひと睨みされただけで、全ての闘争心をへし折られて再びへたり込む。
 ああ、無理だ。どうやってもこいつを言い負かす事などできないだろうし、ましてや戦う事など思いも依らない。
 絶対的に格上。
 生き物としてのランクが桁外れに違う。
 そんな奴を相手に、俺如きができる事など何も無い。
 唯一、あるとすれば……

「で、では……一昼夜、時間をください……」

 ――なんだと?――

「美味しい料理を作るのは、時間が掛かるものです……貴方が理を語るというのなら、どうかご理解ください……」

 こんな苦しまぎれの時間稼ぎをする事くらいだ。
 尤も、この言い訳は奴に取っては面白かったらしく。

 ――人間如きがこの我に理を唱えるか。まことに面白い。良かろう、では、明日の夕刻再び参ろうぞ。その時改めて、貴様の料理とやらを見せて貰おうか――

 楽しそうに牙を剥いてそう言うと、ドラゴンは物理法則を無視した動きでとフワリと空に浮く。そして来た時同様急速に飛び去っていった。

 ☆

 「俺の……せいだ……」

 遠ざかるドラゴンを茫然と見送りながら、溢れる涙と共に零した。
 そう。全ては俺のせいだ。
 ここでレストランなんか開かなければ。
 ゴブリンやコボルドなんかを相手にしなければ。
 色んな種族にもてはやされて、俺が有頂天になっていなければ。
 あんなドラゴンなんかに噂を聞きつけられる事など無かっただろうに。
 ああ、俺は一体どうやってこの責任を取れば良いんだ?

「思い詰めないでください、使徒殿。これは貴方のせいではありませぬ。きっと早かれ遅かれ、起きた事……」

 項垂れる俺を宥める様に、ジークリンデさんが言う。

「我らエルフは、そう……七百年以上の昔から、かのエンシェントドラゴンの贄とされていたのですから」

「贄……ですか?」

「ええ」

 彼女の話はこうだった。
 今から七百年以上前。ジークリンデさんが産まれたばかりの頃。エルフは今程の力を持っていなかったらしい。その種全体の数も僅かで、しかも森には敵となる勢力も多い。彼等エルフは絶滅の危機に瀕していた。
 それをどうにかしようと考えた挙句、当時この地にて最強の存在だった古代竜(エンシェントドラゴン)の庇護を求めた。
 ドラゴンはその対価として、毎年一人のエルフを贄として差し出す事を要求し、それは五百年程前まで続いていたらしい。

「ドラゴンの庇護を受ける事により、我らエルフは外敵により殺される事は無くなりました。しかし、数の少ないエルフに取って毎年ひとりを贄として差し出す事は、結局滅びの道を進む事と変わりは有りません。なので五百年程前に、改めてドラゴンに交渉をしたのです……すると」

「話を聞いてくれたんですか? あのドラゴンが?」

「はい。かのドラゴンは言いました。『これ以上数が減って、居なくなられても困る。故に、暫くの間貴様らを食らうのは控える事にしよう』と。ですので、今回の事が無くともいずれあのドラゴンは現れた筈です」

 彼女の言葉に、周りのエルフ達が項垂れる。
 きっと彼女達は幼い頃からドラゴンの恐怖を聞かされていたのだろう。

「え、ええと。例えばあのドラゴンと戦う事ってできないんですか? ほら、リズなんか凄く強いんでしょ?」

「無理よぉ……私達エルフは精霊の力を借りて魔法を使うのだけれど、エンシェントドラゴンは精霊よりも上位の存在だから魔法の干渉を受け付けないのよぉ……」

 俺の言葉に、リズが力無く答える。
 ああ畜生、一体何なんだよあのドラゴン。ガタイがでかくて頭も良く、更にはエルフの魔法も効かないなんてどんだけデタラメな生き物だ。あんなの一体どうして存在……
 
 ああっ!? 作ったのってあの駄女神じゃんか!

 そこまで思い至った俺は、彼女達を残して教会に走った。そして扉を蹴破らんばかりの勢いで礼拝堂に踊り込み、女神像に叫ぶ。

「おい駄女神様! 一体あれ何なんですか! あんたが作ったんでしょう!?」

 すると、例によって時間の流れがさっと止まり――

 ――シンよ、ついにわたしを平気で駄女神呼ばわり……いえ、なんでもりません……確かに、あのエンシェントドラゴンはわたしが創造しました。本来はこの世界の調停役、いわばわたしの代執行をする存在として生み出したのですが……どうも自我が強く育ってしまったみたいで――

「またそのパターンかよ……で、あのドラゴンどうにかできないんですか? せっかくここまで良い感じに料理を広める事ができてたのに、あんなのに来られたら全部台無しですよ! アレあなたが作ったんでしょ? どうにかしてくださいよ!」

 ――そうしたいのはやまやまなのですが……以前話した通り、わたしはこの世界に直接介入する事はできないのです――

「何かしら方法は無いんですか?」

 ――一応、あの子に直接訴える事はできるのですが……あの子は、それは大層我儘に育ってしまい、わたしのいう事なんて殆ど聞いてはくれないのです――

 ああもう! 毎度の事ながらこの女神様本当に使えねえ!

 ――くすん……使えない女神でごめんなさい……私の方からも、なんとか訴えてみますが……――

「ええ、全く期待しないで待ってますよ!」

 俺はやりきれない気持ちを胸に、教会を後にした。



 7 最後の晩餐……なのか?



 結局、何も出来ないまま夜になった。
 あの時なんとかして稼いだ『一昼夜』という時間が無為に消えていく。もちろんあれからずっと、それはもう吐き気を催す程に考え抜いたけれど、それでも俺に事態を打開する案は何一つ出なかった。 
 里のエルフ達は、先程まで教会に集まり話し合っていたらしい。そこでどんな話をしていたのか、俺は聞きたくもなかった。
 だから俺は逃げるように、この里において初めて出来た俺の場所である納屋に閉じこもっている。今はワインの醸造小屋となっているそこには、発酵中のぶどう液がぴちぴちと泡を立てる音だけが小さく響いていた。

「一体、どうしてこんな事に……」

 我知らず零した言葉に、しかし答えてくれるひとは誰も居ない。これがエルフならぶどうを醸す精と話をする事もできるのかも知れないが、只の人間である俺にそんな真似ができる筈も無く。
 何をする事も出来ずに、俺は茫然と膝を抱えていた。
 すると――

「シンさん。こんな所に居たんだ」

「パウラ……」

 納屋に入って来たのはパウラ。彼女もワインを見にきたのだろうか。
 彼女は俺の隣に腰を下すと、力無く項垂れて。

「ローザがね……贄になるって。さっき、あの子自分でそう言ったの」

「なっ!? ローザが……」

「うん。『我は里長の娘。贄としての役割を果たす義務がある』とか言って……あの子、まだ二百歳にもなってないのに……」

 ボロボロと泣きながら語るパウラ。しかも、彼女は話す程にどんどん涙を零し、最後には嗚咽と共に切なげに声を絞り出して。

「そしてね……それを聞いた時……私、心の中で安心しちゃったの! 『自分が選ばれなくて良かった』って思っちゃったの! 私よりも若いローザがあんな立派な決断をしたっていうのに!」

 悔しそうに地面を搔き毟りながら、まるで懺悔する様に涙声で叫ぶパウラ。
 しかし、そんな彼女を非難する事など誰にもできないだろう。喜んでドラゴンに食われようとする者など、居る筈無いのだから。
 それに誰が贄にされようが、この里のエルフ達は今や俺の大事な同胞だ。そこには誰一人として居なくなって良い人なんか居やしない。
 ……やはり俺がレストランなんて開かなかったら……いや、今はそんな事考えたって仕方が無い。今そんな事を考えるのは逃避に他ならない。もっと考えるべき事が、他にある。

「パウラ……俺、もっと考えてみるよ……もしかしたら、女神様の使徒である俺に何かできるかも知れない……だから、あんまり余計な事考えないで。自分を責めちゃだめだよ」

「……うん」

 あまりにも薄っぺらい俺の言葉に、しかし彼女は小さく頷いてくれた。いたたまれなくなって、俺は逃げる様に納屋を出る。
 そして現在の居場所であるレストランに戻ると、厨房の方に明かりが灯っていた。
 誰か居るのか?
 ほんのりと漂う調理の匂いに誘われるまま中に入ると、そこにはひとり竈に向かうローザの姿。

「お帰り。遅かったな」

 まるで何も無かったかの如き穏やかな微笑で、彼女が俺を迎えてくれた。

「…………何、しているの?」

「これか? 見ての通り野菜を煮ている」

 見れば彼女の言う通り、店一番の大鍋でじゃがいもや人参、キャベツに蕪といった幾つかの野菜が鳥ガラ出汁と思われるスープで煮られていた。

「母様に作ってあげようと思ってな。あのひと、最近はこういった野菜の煮物が好みなのだ。なんでも我々エルフは五百歳を過ぎた頃から脂のしつこいものが食べられなくなっていくらしい」

 本当に、何も無かったみたいに穏やかな口調で。
 ローザは淡々と鍋に向かい、灰汁を取る。

「うむ、完成。シンの真似をするならば『野菜の鳥ガラスープ煮 エルフの里風』と言ったところかな?」

 満足げに微笑みながら、ローザは出来上がった料理を深皿に盛り付けて俺を手招きした。

「まだ夕餉を食していないのだろう? 共に食べよう。最後の晩餐と洒落込もうではないか」

「どうして……」

「ん?」

「どうしてローザは、そんなに平然として居られるの?」

 情けなくも零した俺の言葉に、彼女はいっそ柔らかい笑みを浮かべる。

「正直言えば、平然となどできていないよ。しかし、我はこの里の長の娘だからな。皆の規範となる様、心がけねばならない。今までが駄目過ぎたのだ」

 夕餉の準備をしながら、淡々と言う。
 そして俺に着席を促して――晩餐が始まった。

「さあ、シン。我の渾身の料理だ。どうか忌憚の無い意見をくれないか」

 ☆

 ローザに差し出された、深皿に盛られた煮物料理。
 綺麗に透き通ったスープの中には数種類の野菜。いずれも綺麗に面取りされている。

「……頂きます」

 木匙でスープを掬い、一口含む。丁寧に下処理された上に、執拗な程しっかりと灰汁取りがなされた鳥ガラのスープには一切の淀みが無く、更に野菜から溢れ出た滋味まで加わったその味わいは優しさに満ちているのにどこか力強い。このスープだけで彼女が料理という行為に、いかに真剣に向き合って作ったかが伝わってくる。
 そして具材を口に運ぶと、今度はどの野菜からも大山鳩の持つ深い旨味とコクを充分に感じる事ができた。しかも火の通し方が凄い。煮崩れる事無く、それでいて中までしっかりと味が染みている。まさかローザがここまでの料理を作れる様になっていたなんて……

「おいしいよ。とても丁寧で、一生懸命作った事が伝わってくる素晴らしい料理だ」

 俺の寸評に、彼女はまるで少女の様に表情を輝かせる。

「そうか。そなたにこうまで言ってもらえると、さすがに嬉しいな」

「特に火の通し方が完璧だ。まるで一流のコックの仕事だよ。一体どうやってこの短時間でここまで……」

「ああ、それは精霊の力を借りたんだ」

「精霊の力?」

「うむ。毎日水の精霊に氷を作ってもらっているだろう? それと逆の事をお願いしたのだ。以前そなたが言っていた様に、スープが沸き立つ寸前の温度で煮続けて欲しい、とな」

「なん……だって?」

 まさか、そんな技法があったとは……
 改めて、俺はこの世界の常識というものを理解していなかった事を思い知らされる。精霊に火加減を任せる事ができるなんて、前世のIHコンロより優秀なんじゃないか?

「なんにしても、最後にちゃんとした料理が作れて良かった」
 
 ローザはやはり優しげに微笑むと、今度は俺の目にしっかりと視線を合わせて。

「たくさん作ったんだ。これを……私が居なくなった後、母様に食べさせてくれ。きっとしばらくはロクに食事も取らなくなるだろうからな。我の遺言だとでも言って、無理矢理にでも食べさせてくれないか」

「…………」

「シン」

 彼女は立ち上がり、俺の背後に回ると背中から優しく抱きついて。

「そなたもすっかり一人前の男だ。これなら我も、女神様からの神託を見事果たしたと言って良いだろう……」

 まるで慈しむ様な手で、俺の髪を撫でながら。

「エルフは永き時を生きるが、しかし只長く生きれば良いという訳では無い。長さより深さこそを、我々エルフは尊ぶのだ。我がそなたと過ごしたのは十数年に過ぎぬが、それは今までのどんな時間よりも深く、また濃密なものだったと思う。そなたに出会えて、本当に……良かった……」

 ぽつり。
 雫が俺の背中を濡らす。
 もう耐えられなくなった俺は立ち上がり、振り返って彼女の身体を強く抱きしめた。

「いやだ! ローザが食われるなんて! いやだよ! 認めない! 俺は絶対に認めねえぞ!」

「シン……」

「こんなに美味ぇ料理作れる様になったじゃねえか! これからだよ! これからなんだよ俺達のレストランはよぉ! なのにこんな事で俺を置いて行くんじゃねぇよ! 行かねぇでくれよ!」

 いっそ情けなく、ぼろぼろと涙を零しながら力一杯に抱き着く。

「まだまだ教えてねぇ事だっていっぱいあるんだよ! 出汁の取り方も! 肉や野菜の美味ぇ食い方も! もっと……もっと……たくさんあるんだよ……居なくならないでくれよ!」

「シン……我……わたしだって、本当は死にたくなんかないよ! あんなドラゴンなんかに食べられたくないよおっ! もっとシンと一緒に居たいよおっ!」

 ローザも俺を、まるで親の仇でも取るみたいに渾身の力でぎゅうっと強く抱きしめる。
 俺達はそのまま、涙も声も枯れ葉てんばかりに号泣した。

 ☆

 どれだけ時間が経ったのだろう。
 散々に泣き尽くした俺達は、厨房の隅にふたり寄り添いながら腰を下している。彼女が呼んでくれた光の精霊が、ぼんやりと淡く辺りを照らしていた。
 あまりにも徹底的に泣いたからだろうか。今の俺は自分でもびっくりする位に心が静まっている。
 こんなに自我を剝き出しにしてみっともなく泣いたのは、この世界に産まれて初めての事だ。母が亡くなった時でもここまでは取り乱していなかっただろう。
 見れば、ローザも泣き腫らした瞳で恥ずかしそうに俺を見詰めている。

「シンは心を乱すと急に言葉使いが悪くなるな。良くない癖だぞ」

「自分だって普段のババ臭い言葉使いじゃなくなったくせに」

「ババ臭いとは酷いな」

 力無く笑いながら、見詰め合う。なんだかここにきてようやく、俺達は冷静に話し合える様になったみたいだ。

「本当に、もう手立ては無いのかな……あのドラゴンに誰も食われず、穏便に済ます方法は」

「さあな……だが、もしもそんな手があったなら、そもそも我々エルフは奴になど食われてはいなかっただろう」

 溜息と共にローザが言う。確かに、そんな都合の良い話があったなら彼女達はこれまで苦労はしていなかったろう。
 じゃあ、いっそローザを連れてここを逃げるか?
 ――いや。それも駄目だ。
 そんな事をしても他の誰かがドラゴンの餌食になるだけだし、第一ローザ自身が絶対に了承するまい。もしも無理矢理連れ去りでもしようものなら、俺は生涯侮蔑される事だろう。
 尚も考え続ける俺に、ローザは首をこてんと倒してもたれかかる。

「出会った時は年端もいかぬ子供だったのに、頼もしくなったものだ」

 そのまま両手で俺を、包み込む様に抱きしめて。

「シン、お願いだ。私の事をとびっきり美味しく料理してくれよ。あのドラゴンが驚愕する程に」

「嫌な事言うなよ」

 俺も腕を回して抱きつく。こんな時でもローザはとても良い匂いがした。
 初めて会った時からずっと感じていた、フローラルな優しい香り。この匂いに包まれて眠るのが、子供の頃は大好きだった。
 この、とても生き物から出ているとは思えないエルフ特有の香しい匂いに…………

 匂いに……

 あれ? 何か。
 何か、閃きかけている。俺は何か、今までに無いものに閃きかけているぞ……

「シン?」

 急に顔を上げた俺に、ローザが少し不満げな視線を向ける。その瞳には、厨房の隅で儚げに灯っている光の精霊が映り、輝いている。
 その目を見た瞬間――

「そうか……そうなのか……もしかしたら……これは……」

 脳内に、瞬時に全てが思い描かれた。
 俺は立ち上がると、きょとんとした表情のローザに手を差し出して言った。

「ローザ……今すぐ君を調理する。まずは服を脱いでくれ」



 8 エルフ料理



 俺の職業を表す言葉はたくさんあった。
 料理人。
 料理番。
 調理師。
 シェフ。
 コック。
 板前。
 厨師。
 きっと他にもたくさんあるのだろう。
 自分の店を構た頃は主に親方なんて言われていたし、バブルの頃の気取った時代にはシェフなんて呼ばれた事もあった。晩年は主に師匠だったな。調理場には最後まで立ち続けていたが、調理するよりも若い連中にあれこれ教えていた時間の方が長かったくらいだ。
 まあ色々な呼び名で呼ばれたんだけれど、でもその中で一番長く呼ばれて一番好きだったのは、

 コックさん

 だった。
 コックさん。この響きには得も言えぬ頼もしさと優しさ、そして親しみやすさが感じられるし、どこか少しユーモラスだ。
 料理を食べに来てくれた家族、その小さな子供達から、

「コックさん、おいしかったよ」
 
 なんて笑顔で言われるのが、生前俺は一番嬉しかった。そう、コックさんは人を笑顔にする事ができる素晴らしい仕事なのだ。
 
 そんな、人を幸せにする為に修練を重ね培ってきた技術を使って、俺は……

 ☆

 夜が明けた。
 あれから俺は一睡もしていない。そして今も尚調理は続いている。
 明るくなってもこのレストランを訪れる者は居なかった。きっと皆、各々の家で固唾を飲みながら事の次第を見守っているのだろう。
 俺は調理の手を休める事無く、ひたすらに働き続ける。
 やがて日は中天を跨ぎ、空は高くなり。
 そして夕暮れが訪れた。

「そろそろ来る頃か……」

 額の汗を拭い、建屋の外に出る。茜色に染まりつつある空は、まるでうっすらと血を吹き付けたみたいにどこか不穏に感じられた。

「使徒殿……」

 掛けられた言葉に振り向くと、そこには里長であるジークリンデさん。そしてその後にはパウラとリズが、泣き腫らした赤い目元も隠さぬまま立っている。

「見届けに参りました」

「はい」

 気丈にも胸を張り、ジークリンデさんが言う。そんな彼女をまるで守る様に、パウラとリズが両脇を固める。そして少し間を置いて後方に、里のひと達が不安げに様子を伺っている。
 俺達はそれ以上何も話す事無く、只黙って空を見上げていた。
 やがて、空の向こうに小さな影が現れ――
 瞬く間にそれは巨大なドラゴンの姿となり、俺達の前に降りてきた。

 ――ほう。逃げずに待ち構えているとは感心したぞ――

 あまりにも不遜なその言いぐさに、瞬時に怒りが湧き上がる。
 俺はもう覚悟した。例え食い殺される事になろうと、こいつにへりくだった態度など絶対に取ってやらない。そう昨夜心に誓ったのだ。
 なので。

「はっ、脅迫しておいてよく言うよ」

 唾を吐き捨てる様に、そう言い放つ。遠巻きに見ているエルフ達から悲鳴に近い声が上がった。

 ――この我にそこまで無礼な態度を取るか。昨日はあんなにも無様な姿を晒していた人間が……貴様、命は惜しくないと見える――

 いっそ楽し気に頬を歪めるドラゴン。その笑顔すら昨日は恐ろしく見えたが、今の俺には只々憎たらしい。

「こちとら死ぬ気でやってんだ。今更そんな脅しにゃあ屈しねえよ」

 ――人間如きが中々に面白い事を言う。ならば貴様の料理とやらが我を満足させぬものであったら、その時は貴様を食ろうてやろうぞ――

「ああ、はいはい。勝手にしろよ。そして文句は食ってから言ってくれ」

 そう言い捨てて俺は店に戻り、用意しておいた荷車を引っ張り出す。その荷台には、ワイン醸造に使われている里で一番大きな木桶が乗せられている。

「お待ちどうさん。これがあんたのご注文、エルフ料理だ」

 ――ほう――

 ドラゴンが興味深そうに木桶を覗き見る。
 桶の中はまるで鮮血の様な赤い煮汁に満たされている。その煮汁の中に、大きく切り分けられた肉塊が幾つも揺蕩い――長い耳がふたつ、浮かんでいた。

「うっ…………」

「ひぃっ!?」

「ッ!」

 桶を目にしたジークリンデさんが目元を押さえて項垂れる。
 パウラは両手で顔を覆って蹲り。
 リズは殺気の籠った瞳で俺とドラゴンを睨みつける。

 ――これが料理なる物か。では如何なるものか、見極めてくれよう――

 まるで猫みたいに脚を畳んで座り込んだドラゴンが首を下げ、まずは桶に鼻を寄せて香りを利く。こんな仕草までが俺の心をいちいち逆撫でした。

 ――ふむ。この芳醇なる香しさは、まさしくエルフのもの。それがこの得体の知れぬ赤い液の放つ香りと相まって、実に我が欲をくすぐる香りとなっておる――

「そいつはワインだ。葡萄の汁を搾り、エルフ達が丹念に作ったこの里の特産品だよ」

 ――ほう? 葡萄なる果実に、幾多の精が集まりておるのを感じるのう。我が放っておいた五百年、エルフも只漫然と過ごして居った訳でも無いというのか――

 あくまでも偉そうに、ドラゴンが語る。
 しかし、奴の発した言葉に俺は小さく拳を握り締めた。俺の判断は『ここまでは』間違ってなかったのだ。

 ――しかるに、味は――
 
 目を細めてドラゴンが、桶に口を突っ込む。まるで餌を食う犬みたいに。
 俺の横ではジークリンデさんが目を覆い、パウラがしゃがんで泣き崩れ、リズが奴を睨みつけていた。 

 ――……む、これは一驚に値する。かつて口にしたエルフとは、比べ物にならぬ旨さよ――

 一口飲み込んだドラゴンが満足そうに目を細め、感嘆の言葉を発する。

「美味いかよ」

 あくまでも喧嘩腰で挑む俺をいっそ面倒臭そうな半目になって睨みながら、

 ――確かに美味である。貴様の如き不遜な人間が作りしものとは、とても思えぬ程にな――

 言うや、ドラゴンは再び桶に顔を突っ込んで残りを食い漁る。バスタブ程もある大きさの桶が空になるまで、さしたる時間は掛からなかった。

「これで満足か?」

 ――斯様に美味なる糧を、貴様が如き人間が作り上げし事にはどうにも納得はできぬがな。確かにこの料理なるものは美味であった。満足と言っても良いぞ――

 どこまでも上から目線なドラゴンの発言。
 しかし、それは俺が何よりも欲していた言葉だった。
 振り返り、店に向かって大声で放つ。

「良かったなローザ! 君から取った出汁はとっても美味かったらしいぞ! ざまぁみろってんだ!」

 突然の事に、里長達はおろか遠くで見守っていたエルフ達が驚愕した目で俺を見る。目の前のドラゴンですら、訝し気な顔になって見降ろしている。
 そして……

「こらぁシン~、きたない言葉をつかうなっていってりゅらろ~」

 俺の言葉に応じて、店内からべろんべろんに酔っぱらったローザが千鳥足になって現れた。
 全裸で。



 9 お味の秘密はエルフ出汁



「…………ローザ?」

「うそ…………」

「まぁ…………」

 彼女が現れるや、里長達三人は幽霊でも見たかの如き形相となって固まった。
 そして肝心のローザといえば、フラフラとおぼつかない足取りで俺の元に歩み寄り、だらしなくしなだれかかってくる。

「うぇへへぇ、シン~」

 うん、相変わらず酷ぇ酔い方だ。
 俺に絡みついて尚もぐだぐだとぐだを巻く彼女を適当にいなしつつ、目の前のドラゴンを見上げる。

 ――人間よ。一体どういう事だ。貴様が我に用意した糧は、エルフを用いしものでは無かったというのか? ……否、あのかぐわしき香りはまさしくエルフのもの……これなるは一体――

「ネタばらしをすれば、今出したのは猪の肉だ。それを、このローザから取った『エルフ出汁』で煮込んだものだよ」

 ――エルフ……出汁……とな?――

 いかにドラゴンと言えど、所詮は出汁の概念の無いこの世界の住人だ。理解はできまい。

「出汁ってのは本来、肉や野菜の旨味を水に溶け出させたものだ。大抵は材料を湯で煮て、その旨味を取り出す。俺が居た世界の料理では基本中の基本だな」

 ――……説明を続けよ――

「今回はこちらに居るエルフのローザを、温めたワインに一晩ぶち込んだ。おかげでワインにはエルフ特有の何とも言えない芳香が加わり、素晴らしい風味の『エルフ出汁』が取れたよ。まあ、その代償としてローザはこんなんなっちゃったけどな」

 お目目をぐるぐるさせて「はにゃ~」とか言いながら俺に抱き着いているローザの頭を取りあえず撫でながら。

「その出汁で、猪の肩や腿などの脂身が少ない肉を、更に何度も茹で零して灰汁と臭みを極限まで抜いてから煮込んだ。しかもエルフが好むハーブで作ったブーケガルニをこれでもかとぶち込んでいる。お陰で猪肉が持つ臭みは完全に消え去り、エルフ特有の優しい香りとワインの持つ豪奢な風味が際立った逸品が出来上がったって寸法よ」

 ――…………――

「ちなみに浮いてた耳は、やはり猪の皮をナイフで切り出して作った模造品だ。前世のタイって国のおばちゃんから習ったカービングって手法があってね。良く出来てただろ? 我ながら自信作だよ」

 エルフを食わせずにドラゴンを満足させるにはどうしたら良いか、俺は考えに考え貫いた。
 こいつはエルフを『美味い』と思って食う。ならば、一体エルフのどういった所を美味いと思うのか?
 そこで俺は純粋に、エルフを『食材』として見た時の特色を考えた。なんだか人として大切な部分をゴリゴリと削られてしまった様な気がしないでもなかったが、とにかく考えた。
 結果、思い当たったのは香りである。
 ご存知の通り、エルフは特有のとても良い匂いがする。これは他の生き物にはおそらく無い、エルフ最大の特色だろう。
 しかしその半面、動物としての肉付きは悪いと言って良い。人間と比べても細いし、脂肪も少なそうなので肉としての食いでは無いと思われる。純粋に肉だけの価値としては、きっと猪の方が上だろう。
 なので。
 俺はエルフ最大の特色である匂いを他の肉に移す事を考えた。結果思い立ったのが、ちょっと熱い風呂くらいの温度にしたワインでローザを一晩掛けてゆっくりと煮出す『エルフ出汁』だ。
 そのヒントになったのは勿論、昨夜彼女が母の為に作った野菜の鳥ガラスープ煮に他ならない。
 あの煮物はそれは見事な出来栄えで、各種の野菜にしっかりと鳥出汁の味と風味がしみ込んでいた。そしてそれを可能にした精霊魔法による温度調節。これが無ければあの大桶のワインを一定の温度で一晩も維持する事はできなかっただろう。

「と言う訳で、これが俺の作ったエルフ料理だ。美味かっただろ?」

 背筋を伸ばして腕を組み、きつと睨んでドラゴンに言い放つ。これでへべれけになったローザが絡みついてなければもう少し恰好が付いたのだろうけれど、これはまあ自業自得なので仕方が無い。

 ――では人間よ。我を騙したのだな?――

「騙したとは人聞き悪いな。俺はちゃんとあんたの要望に答えたぞ。あんたは昨日こう言ったんだ。『エルフで美味い料理とやらを作ってみよ』ってね」

 ――なん……だと?――

「エルフ『を』では無く。エルフ『で』と、あんたは言った。ならば『エルフで出汁を取った、猪の料理』でもご要望通りのものだと言えるだろう?」

 ――なんと……人間如きが、屁理屈を並べおって……――

 俺とドラゴンは暫く無言で睨み合う。
 まあ、確かに奴の言う通り屁理屈だ。はっきり言って「これじゃない」と言われても仕方が無いくらいの無理筋だとは、自分でも思っている。
 さて、俺にできる抵抗はここまでだ。これ以上はもう、怒ったドラゴンに食われようとも仕方が無いだろう。せめてローザくらいは逃がしたいところだが。
 なんて事を考えながら、睨み合う事幾ばく。流石に俺の気力も尽き果てようとしていた頃――

 ――本来ならば人間、貴様が如きの宣う屁理屈を聞いてやる必要も無いのだが、な――

 ドラゴンはそう言うと、面倒臭そうに頭を振りながら、

 ――昨夜から、頭の中で女神が五月蠅いのだ。『エルフを食うのを止めよ。我が使徒を苛めるな』と、絶え間無く騒ぎよる。あの女神め、以前は偉そうに語り掛けてくるのみで何もできなかったと言うに、最近はやたらと力が増しておるわ――

 おお!? あの駄女神様、ちゃんとやってくれたのか?

 ――それに……このエルフ出汁とやらを用いれば、エルフを減らす事無く美味を味わう事が叶う。そうなのだな?――

「へ? あ、ああ。まあね」

 ――ならば人間よ、貴様に命ずる。これより我が所望せし時にはこの料理とやらを献上せよ。それにて此度の無礼、許してつかわす――

「あ、そ、そうなの? ええと、ありがとう、ございます?」

 俺が控えめに頭を下げると、ドラゴンは尚も不満そうに鼻を鳴らす。

 ――まっこと、何処までも無礼な奴よ。だが人間、貴様の屁理屈とエルフの料理は中々面白くもあった。それに免じての事、ゆめゆめ忘れるでないぞ――
 
 そう言ってドラゴンはふわりと浮き上がり、まるで嫌がらせみたいに大きく羽ばたくと俺や周りのエルフ達を吹き飛ばしながら豪快に帰って行った。

「いてて……まったく大人げ無いドラゴンだ。(生みの)親の顔が見たいぜ、まったく」

 遥かな高みからこちらを見降ろしているだろう、駄女神様に向かって悪態を吐く。そんな俺に、

「へへへぇ、シン~。しゅきぃ~、だいしゅきぃ~」

 相変わらず泥酔状態のローザが、それでも彼女なりの感謝を伝えてくれているのだろう。俺に絡みついては所構わずちゅっちゅちゅっちゅと吸いついてくる。

 そんな俺達を、周囲のエルフ達が実に微妙な表情で見守っていた。



 エピローグ エルフの里のコックさん



 あの厄介極まりなかったドラゴン騒動も、どうにか無事に納める事ができた。
 結局あのドラゴンは、エルフを資源のひとつとしてしか見ていなかったのだろう。だから数百年前にもその個体数が激減した際には食べる事を控えたのだろうし、今回俺が発明した『エルフ出汁』を用いた料理にも理解を示したに違いない。
 何だかエルフを秋田県名物のハタハタ辺りと同一視されているみたいで若干面白く無いが、それでも今はこれで満足しておくべきなんだろうな。

 そして俺は相変わらずにレストランの仕事を続けていた。
 店は以前と変わらず忙しい。いや、以前よりも更に忙しくなった。何と言ってもあのエンシェントドラゴンに一泡吹かせた男(自己評価)がやっているのだ。ゴブリンやコボルドなんかの他にも色々な連中が次々とやってくるし、最近では噂を聞きつけたらしい他の集落のエルフまでもが訪れる様になっている。
 もちろん、今日も――

「シンさーん、ゴブちゃん達に肉じゃが、十二人前入りましたー」

「シンくぅん、ドワーフさんご一行、お肉追加でぇす」

 次々と入ってくる注文に、俺は厨房でてんやわんやだ。
 そこに、

「使徒殿……またエンシェントドラゴン殿の使いが参りました。『明日訪れるので料理を用意せよ』だそうです」

 何やらコウモリみたいな使い魔を手にしたジークリンデさんまでが現れる。

「えー、またかよ……了解です。じゃあローザ。今夜もよろしくな」

「……なあ、シンよ。毎回思うのだが、出汁を取られるのはわたしじゃないと駄目なのか? ここにはパウラもリズも居るだろう?」

「えぇ~、やだよ。私まだ清い乙女だもん。いくらシンさんでも肌を晒すのはお断りです」

「わたしは別に構わないけどぉ、やっぱりこれは奥様のお仕事なんじゃないのかしらぁ?」

「誰が奥様だ! それにパウラ! わたしだって未だ清い身だ! 破廉恥な事を言うな!」

「え~、嘘だあ。シンさんの事だいしゅきなんでしょ?」

「そうよねぇ~『しゅきぃ、だいしゅきぃ、ちゅっちゅっ』だもんねぇ~」

「やかましい! アレは、わ、わいんのせいでだなあ」

「使徒殿。我が娘が純潔を捧げたからには責任を取って頂きますからね?」

「いやしてないよ!? 俺達なんにもしてないよ!? それよりみんな働いて! お客さん待ってるから!」
 
 今日も変わらずに忙しく、そして店内は活気と笑いに満ち溢れている。
 訪れるお客さん達も、種族を問わずに俺の料理を美味いと言って楽しんでくれている。この世界に来た目的である『料理と美食の力で世界を豊かにする』為の、第一歩を踏み出す事はできた筈だ。
 もちろんこれで全て善しという訳にはいかない。それどころかこれは始まりの、ほんの小さな一歩に過ぎない。この世界は相変わらずに荒っぽく、今もそこかしこで争いに明け暮れているのだ。きっと俺の生きている内になど、達成できる事は無いだろう。そこはまあ、長命のエルフ達にも頑張ってもらう他無い。

 とにかく、俺にできる事はこれからも料理を作り続けることのみだ。そして、できるだけ多くのお客さんに楽しんでもらうんだ。
 何と言っても俺は皆を笑顔にする事が仕事の、エルフの里のコックさんなのだから。
いさお

2023年12月29日 17時25分54秒 公開
■この作品の著作権は いさお さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
気まぐれなお客の我儘に応えるのもコックの仕事です
◆キャッチコピー:剣も振れない。魔法も出せない。俺にできるのは料理だけ。
◆作者コメント:中々の枚数になりましたが、どうにか書き切る事ができました。
頑張って書いたので、読んで貰えると嬉しいです。

追記:当初予定していたタイトルは
『エルフの里のコックさん ~二度目の料理人生は異世界で~』
というサブタイトル付きのものだったのですが、今回の仕様である【超長編】の五文字を加えた事により字数オーバーとなり表示できませんでした。
仕様ならば仕方ないと思いつつも、つけようと思っていたタイトルがこの様な形によりつけられなかった事には少しばかりモヤっとしております。

2024年01月18日 11時50分23秒
+20点
Re: 2024年01月23日 17時37分30秒
2024年01月17日 09時06分00秒
+50点
Re: 2024年01月23日 17時26分38秒
2024年01月14日 21時35分53秒
+30点
Re: 2024年01月22日 21時18分52秒
2024年01月12日 20時16分35秒
+30点
Re: 2024年01月22日 20時31分30秒
2024年01月06日 22時18分46秒
+10点
Re: 2024年01月22日 20時26分06秒
2024年01月05日 15時25分34秒
+30点
Re: 2024年01月21日 20時49分44秒
2024年01月05日 14時12分14秒
Re: 2024年01月21日 20時17分10秒
2024年01月04日 21時43分34秒
+30点
Re: 2024年01月21日 19時44分56秒
2024年01月02日 21時15分35秒
+10点
Re: 2024年01月21日 19時26分31秒
合計 9人 210点

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