【超長編】勇者になんてなりたくもない |
Rev.28 枚数: 287 枚( 114,517 文字) |
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〇 1 〇 階段から突き落とされた。 そのことに特に意味はなかった。ただ青空が階段を下りていたからという理由で、戯れに背中を押されただけのことだった。 そんなことをすれば危険なのは明白だったが、突き飛ばした方の桃園にも一応の考えはあった。第一にその階段は然程高いものでもなかったし、第二にその時青空の左手は手すりに添えられていた。第三に桃園が青空を突き飛ばすというのは様々な場面で日常茶飯事のことであり、その全てで青空に大きなケガはなかった。無論取るに足らないような小さなケガ……肘や膝を擦り剥くだとか、あちこち打撲するとか、顔を打って鼻血を出すとか……は良くあることだが、それらは桃園に不都合になるような大事ではなかった。よって今回階段を下りる青空を押したとしても、大したことにならないだろうと桃園は考えたのである。 しかし実際には青空は階段から落ち、胸を打ち付け、折れた肋骨が心臓を貫いた。 溢れ出す血液が青空の制服を濡らす。桃園は悲鳴を上げた。 死んだと青空は思った。愚かな同級生による愚かな虐げに晒され続け、その愚かな行いによってあっけなく死んでいくことを思うと口惜しかった。自分の生命と人生は一体何だったのだろうと、死の淵で青空は強く嘆いていた。 その時だった。 激しく傷んでいた胸の痛みがたちまち引いた。胸から溢れ出ていた血液は止まり、白い皮膚を突き破って露出していた肋骨が元通りになる。機能を停止していたはずの心臓が正常に動き出し、血液が全身に巡り始めた。 青空はその場を立ち上がった。制服には赤黒い血がこびりついていたが、それを除けば肉体は正常そのものだった。背後から桃園が息を吐く音が響いた。 「青空。あんた、大丈夫なの?」 思わず媚びを孕んだ表情で青空は振り向いた。 「え、ええ。大丈夫みたいです」 「ムッチャ血ぃ出てんじゃん」 「ちょっと、擦りむいただけですよぅ」 そんなはずはない。突き出した肋骨は内臓と皮膚のみならず制服をも貫いて、穿たれた穴からは青空の白い肌と水色の下着が露出していた。それほどの事態が起きながら、何事もなかったかのように再生している己の肉体が信じられなかった。 やがて騒ぎを聞きつけた教師に発見され、青空は一先ずは保健室へと連れて行かれた。どう考えても学校の保険医に対処できる事態ではなかったが、本人は元気そうにしているし、擦り剝いただけだと主張してもいる。救急車を呼んで大事にするのは学校としても避けたかったのだろう。 「驚いた。本当にケガをしていないのね」 若い保険医は青空の身体をまじまじと見詰めながら驚いた声を発した。 「でも血は本物だわ。何が起きたのか、今すぐに大きな病院で見て貰いなさい」 「早退して良いんでしょうか?」 「良いに決まってるわ。何なら、誰か先生に車を出して貰いなさい。救急車を呼んでないのがおかしいんだから」 「いえ。それは」青空は首を横に振った。「良いです。自分で行けます」 青空は教室に鞄を取りに向かった。 教室では桃園が取り巻きに囲まれながら、何事もなかったかのようにはしゃいだ声を上げている。目を合わせないように前を通り過ぎようとして、青空は再び背中を突き飛ばされた。床に這いつくばる。 なるべく恨みがましい顔をしないようにすると、自然と媚びを孕んだ薄ら笑いになる。桃園は「きっしょ」と蔑みを帯びた声を発し、「擦りむいたくらいでいちいち早退すんなよ」と青空を睨んだ。 「すいません」 「階段からは自分で落ちたって言ったんでしょうね?」 「あ、はい」 「なら良いわ」 帰った帰った、と手を振る桃園。青空は引き攣った笑みの形で強張らせた顔のまま、下駄箱に向かって廊下を進んだ。 壁に設置された鏡が目に入る。 黒くて長い髪と白い肌をした少女の姿がある。すらりとした百六十五センチの背丈に、痩身に似合わぬ大きなバストを持っている。黒目がちな大きな目と小作りで高い鼻、柔らかげな薄桃色の唇をしている。自分が綺麗であることには流石に気付いている。雑誌やテレビに声を掛けられたこともある。 だがいつからだろうか。媚び諂った薄笑いがその面貌に張り付いて剥がれなくなったのは。不器用に持ち上げられた口元と、今にも泣き出しそうなのに無理矢理笑っているその目元は、見ていると情けなくなる程みっともない。 青空は無理矢理鏡から目を離した。肩を落として、下駄箱へ歩き始めた。 〇 思えば近頃、青空の身体はどこかおかしかった。 まずケガの治りが異様に早い。桃園にしばしば付けられる擦り傷や打撲の類は、数時間もせぬ内に完治していた。 身体も丈夫だ。池に落とされた時も風邪を引くどころかまったく寒くもならなかった。ただ濡れた全身を不快に感じただけだ。 とにかく疲れない。財布と定期券を取り上げられて、帰宅するのに二時間の道のりを歩かなければならなかった時も、面倒に感じただけで息一つ乱すことなかった。太腿や脹脛が張るような感触も皆無だった。 体育の授業の調子も凄ぶる良い。いや良すぎる程だ。マラソンではクラスの運動自慢達を周回遅れにしてしまいそうになり、思わず手を抜いて走った程だ。クラスの男子から戯れに申し込まれた腕相撲では、空手部で地区優勝を果たしたという彼の力が赤子のそれに感じられ、青空はへどもどした笑みと共に負ける演技をしなければならなかった。 何かが起きている。青空は思っていた。 どうして自分の身にこんなことが起きる。青空は悩んでいた。 心当たりのあることが一つあった。その現象と青空の身に起きている現象に相互関係を見出す理由は、どちらも『異常』であるという一点に尽きる。それ以外に具体的な共通点は何もなかったが、その一点において強烈に結びついていた。 だから、目の前にそれが現れた時も、青空は『とうとう来たな』という以上の感想を抱かなかった。 怪獣だった。 轟音と共に当たりの建物を踏み壊しながら現れたそれは、灰色の皮膚と二足歩行するトカゲのような姿をしていた。体長は校舎の倍はあり、爬虫類のそれを何十倍も硬く分厚くしたようなウロコに覆われた全身はまるまるとして大きく、手足はそれと比較すると随分と短く感じられる。精悍なようにも愛嬌があるようも見える、絵に描かれる恐竜のような顔立ち。太く長い尻尾はそれだけで家屋五つ分程に達する長さで、頭上から尻尾の先に掛けて、トリケラトプスのような太い棘が規則的に並んでいる。 ああ……これは。青空は思う。 おぞましい程にバカげた外見をしている。 特撮作品を探せばこれに近いか、ほとんど一致するような怪物が必ず、それも何体も見付かるだろうというような姿だった。青空はその姿を見てバカげていると感じたが、正確にはその外見そのものがバカげていると言うより、そんなものが現実に現れて街を破壊するという事情がバカげていると言うべきだろう。今時そんな話を考える方も愚劣だが、現実に起きるのは最早喜劇だ。緊迫感や恐怖感よりも、滑稽さの方が先に来る。 怪獣は咆哮を上げた。どこかで聞いたことのあるような、安っぽく作り物めいた声だった。それを聞いて青空は確信を強める。それはこの怪獣は自然に発生したものではなく、何者かが作為を持って生成した代物だという確信だった。それもおそらくは赤子のような想像力しか持ちえない、バカげた何者かによって。 あたりの建物を薙ぎ払い、人々を踏みつぶしながら怪獣は行進を始めた。そして思い付いたかのように大口を開いては、火炎とも光線ともつかない遠隔攻撃を無作為に放射した。 青空は踵を返して怪獣から逃げ出した。こんなバカげた怪物からはとにかく距離を取るに限る。何を置いても逃げるしかない。 同じように逃げ惑う他のすべての人々よりも、自動車の渋滞の脇を抜けて歩道を走行し始めたオートバイよりも、青空の脚は速かった。肉体に異常が生じて身体能力が増してからと言うもの、全力疾走というものをしたことがなかったが、本気を出せばその時速は百キロにも二百キロにも達するかのようだった。 十分に離れられたと思えたところで、青空は息を吐きながらビルの壁に手を付いた。人並みの暮らしをする分には疲れ知らずだった肉体も、全力で走ればちゃんと疲れるらしかった。血まみれの制服の裏で心臓がバクバクと跳ねているのが分かる。 青空は自分がどこまで怪獣から距離を取っているのか気になって、ビルの前で跳躍した。ビルに飛び乗って高所から遠くを見まわそうと考えたのだ。ほんの思い付きだったが実行するのは容易かった。七階建てのビルの屋上まで一息に跳び上がり、着地する。 景色を見回す。見渡す限りの摩天楼に青空は目が眩んだ。白銀の太陽に照らされたビル群は、いくつかは圧し折れいくつかはねじ曲がり、いくつかは完全に横たわって踏みつぶされていた。そしてその中心で灰色のウロコを持った二足歩行の爬虫類が、破壊の限りを尽くしながら咆哮をあげている。思った程の距離が取れていないのか、或いは怪獣自身の規格外のサイズの為か、その稚拙な造形の巨体はやけに近くに感じられた。 青空と怪獣の視線が交差する。 冷ややかな恐怖が胸を通り過ぎた途端、怪獣は咆哮をあげて青空のいる方へと全力で走り始めた。 狙われた。思わず青空はうめき声を漏らす。どれほど如何にもでバカらしい、想像力の欠如した姿をしていても、怪獣は怪獣であり凄まじい脅威に外ならない。こんなものに追われては何を老いても逃げるしかない。 青空はビルからビルへと飛び移りながら怪獣から逃げた。聳え立つ摩天楼の頂上を乗り継いで走る体験はある意味では夢のようでもあった。地上で逃げ惑う人々を豆粒のように見下ろしながら、自分一人快適な上空をひたすら飛び続ける。後ろから怪獣に追われていなければ、少しは良い気分だったかもしれない。 瞬発的な走行速度なら青空の方に分があったが、総合的な移動速度そのものは、怪獣の方が速かった。その原因は主にスタミナにある。その怪獣はその巨躯に無尽蔵の体力を孕んでいたが、青空の方は全力疾走を長く保てなかった。度々ビルの屋上で膝に手を付いている内に、怪獣との距離は縮まっていく。 一度青空をロックオンしたからには、もったい付けた歩き方を怪獣はしないらしかった。胴体と比較して長いとは言えない手足をシャカシャカ動かし、建物を薙ぎ払いながら直線的に突っ込んで来る。その迫力に青空は強く恐怖した。 どうやら逃げているだけでは自分は助からないらしい。 怪獣はみるみる内に青空に迫って来る 青空は悲鳴を上げた。その時だった。 胸の中から何か熱い物が込み上げて来るのを感じた。それは決して比喩的な表現ではなく物理的に熱かった。心臓のあたりから発生したその熱は、やがて具体的な形を持って青空の身体を這い回ると、肩と肘を経由して青空の右の手の平へと移動して行った。 青空の掌で青い光が瞬く。 黒い拳銃が青空の手の平に生成された。 何が起こったのか。どうしてこんなものが自分の中から現れたのか。分からないが、とにかく何かバカげた作為がそこに働いているのは明らかだった。恐ろしく想像力の欠如した何者かが恐ろしく想像力の欠如した怪獣を生み出し、そしてそれに対抗する為の手段として、青空に超人的な肉体と一本の拳銃を与えたのだ。 愚劣だ。 だが今はこれに頼るしかない。 青空は拳銃を怪獣へと向ける。 どうして自分がこんなことに巻き込まれ、どうして自分がこんなことをやらされているのか。理不尽で不本意でならなかったが、とにかくこれをやらないと生き延びられない。それが確かである以上、青空は引き金を引くしかない。 発砲。 放たれた弾丸が巨体の腹部に到達すると、怪獣は悲鳴を上げてその場で倒れこんだ。怪獣が倒れこむことで近くにあった建物が押しつぶされ、あたりを逃げていた人々の何人かが圧死したが、とにかく青空の攻撃が怪獣にダメージを与えたことは確からしかった。 青空はその場で怪獣から背を向けた。この隙に逃げる為だった。 「は? 何ちょっと、逃げちゃうの」 声がした。 「おい。そりゃねぇだろ。おまえ、ちゃんと最後まで戦えよ」 別の声がした。 その場で声の主を探すこと刹那、青空の前に、隣のビルの屋上から二人の少女が飛び移って来た。 赤い髪と金色の髪をした少女らである。これまた戯作的だが、しかし彼女らの場合それは単に染めたり色を抜いたりして、ファッション的にそうしているに過ぎないらしかった。証拠に彼女らの顔立ちは青空と同じ日本人のそれだったし、髪の色を変えている以外にはその外見自体に異常なところは何もなかった。 その手に持っている奇怪な凶器を除いては。 赤い髪の少女は大きな弓を帯びていた。少女の体長の半分以上にもなる大きな弓だ。セミロングの赤い髪に、髪が染め物であることを伺わせるアーモンド形の黒い目は、化粧して作ったであろうくっきりとした二重瞼と、針金のような長いまつ毛に彩られている。眉もくっきりと太く描かれており、唇は色の濃い紅が引かれていた。体格は中肉中背と言ったところ。 金髪の少女は大きな槍を構えていた。少女の背丈より高い銀色の柄に、実用性を疑いたくなる程太く巨大な穂が付属している。垂らせば肩に届くかどうかという金髪は無造作にあちこち跳ねていて、瓜実のような細面を覆う様子はタテガミのようだ。やけに精悍な切れ長の三白眼に、嫌でも目を引くようなくっきりと通った鼻筋をしている。体格は良く引き締まっていて、背は165センチの青空が見上げる程高い。 「あなた達は……」 青空は自分の手にある拳銃と、少女達の持つ弓と槍を見比べた。 「あなたと同じ。わたしも戦士に選ばれたんだよ」と赤髪の少女。「すごいことだよ。本当にすごいことなんだから」 「いい加減あたしらも戦うぞ」と金髪の少女。「これ以上被害を出す前に、さっさとやっちまうぞ」 怪獣が身を起こした。憤怒に塗れた表情で、青空達三人を見詰める。 「その子が戦士として覚醒するのを促す為に、わたし達は手を出さないんじゃなかったの?」と赤髪の少女。 「武器が生成されるまで待ったんだから、それで良いだろう」と金髪の少女。 「でもまだ一人前とは言えないじゃん。今手を出したら、対策局の人が怒るかも」 「待てばその分、人が死ぬんだぞ」 怪獣が口を開いた。青空が思わずビルを飛び降りたその直後、放たれた火炎だか光線だかが、先ほどまでたっていたビルを破壊した。 着地した青空の周囲にビルの破片が降り注いだ。その内の一つが青空の頭上にぶつかったが、「いたっ」という声を上げさせる以上の威力はなかった。 「バカだなぁ。ちゃんと避けなくちゃ」赤髪が愉快そうに笑っている。 「来るぞ」 金髪が言うなり怪獣の巨大な足の裏が青空の頭上に到来した。遮二無二回避することで辛うじて被弾は免れる。 そのまま青空は脱兎の如く逃げ出した。 もうこれ以上、突如現れたこの二人にかかずらってはいられなかった。その二人が何者で自分とどういう関係があるかは分からなかったが、いやおぼろげに筋書きは見えていたが、とにかく今は逃げるしかなかった。いくら武器がありそれが驚く程有効に作用したと言っても、戦えば負ける可能性があり、敗北すれば命を失うのだから。 「あっ。ちょっと」赤髪の少女の声がした。「本当に逃げちゃうの? そこのパチモンゴジラ、きっと雑魚っ端だよ? あなたがわたし達と同じなら、何発かその銃を打ち込めば簡単にやっつけられるのに」 「もう構うな」金髪の少女が苛立ったように言う。「どうせ怪獣はまた現れる。そいつに戦士としての習熟を促すのは、その時になってからで良い」 青空は逃げ続けた。怪獣はもう追って来なかった。弓と槍を持つ二人の少女が、怪獣に対峙して足を止めさせていた。これから戦いが始まるのは想像に難くなかったが、そんなものを見届けたいとも、増して参加したいとも思わなかった。 背を向けた青空の視界の外で、怪獣は少女達を殺害しようと鋼の爪を帯びた手を伸ばす。 二人の少女は難なくそれを回避する。赤髪の少女は身を躱しながらどこからともなく取り出した矢を番え、金髪の少女は槍を構えながらその場を飛び上がって襲い掛かる。 放たれた矢が怪獣の懐を貫いた。矢の細さを考えると考えられない程巨大な穴が怪獣の胴体に穿たれて、反対側から冴え冴えとした蒼天を覗かせた。悲鳴を上げる怪獣の頭上から飛び掛かった金髪の少女が、巨大な槍をその脳天に突き立てる。 怪獣の頭部は穴が空く間もなく木っ端微塵に破壊され、激しい衝撃の余波でその胴体までもが吹き飛んだ。飛び散った怪獣の肉体は街のあちこちへと降り注いだが、怪獣の爬虫類的な外観からすると不思議なことに、血は一滴も溢れていなかった。 〇 2 〇 日本に怪獣が現れ始めたのは数か月前のことだった。 彼らはどこからともなく出現しては、きっかり一万人の人間を殺戮した後、どこへともなく去って行く。その姿や性質はそれぞれではあるが、いずれも巨体かつ無尽蔵の生命力・戦闘能力を有している。既存の軍事機器では掠り傷一つ付けることはままならない。 皮膚が丈夫だとか肉体が強靭だとか、そうした次元の話ではない。怪獣の無敵性は物理法則を超越している。物理的な方法を使う限りにおいては、何をやっても何一つ効かない。完全に無効化される。怪獣の前ではエアガンが射出するBB弾も戦闘機が放つナパーム弾も平等である。今のところ試したことはないが、核兵器の類を浴びせかけたところで、おそらく彼らはピンピンしているのではないかと推測されていた。 そんなものが数週間おきに現れては街をメチャクチャして行くのである。どういう訳か怪獣達はきっかり一万人を殺害すれば満足していなくなるのだが、だとしてもそんなことを繰り返されては日本と言う国は破滅に陥る。日本の人口は一億強で、一回に死ぬのは一万人なのだから、怪獣が一万回現れるまでは大丈夫じゃないかなどとは、もちろん言ってはいられない。あらゆる事業が大打撃を受けたし、あらゆる企業の株価はどん底に落ち、目端の効く有能な者から順に国外逃亡して行った。国力は低下する一方で、日本は順調に滅びに向かっていた。 そんな時だった。 怪獣に対抗する力を持った者が現れたのは。 彼女達は超人的な体力と身体能力、そして唯一怪獣達に有効なダメージを与えることの出来る固有の武器を持っていた。ある者の武器は大きな弓矢で、ある者の武器は大きな槍。またある者の武器は巨大なハンマーだった。 そしてその全てが十八歳の少女達であり、彼女らは一般人として普通に暮らしている最中、ある瞬間に突如として超人として目覚め、武器を手にする。 青空の武器は手の平に収まるような小さな拳銃だった。 〇 「次はゴリラだと思ってた」と赤錆(あかさび)……赤髪で弓矢を持った方の少女は言う。 「何でゴリラなんだ?」と黄地(おうじ)……金髪で槍を持った方の少女は言う。 「トカゲの次だから」 「亀じゃなくてか?」 「いやトカゲの次はゴリラでしょ? 順番的に」 「そうなのか?」 「うん。ガメラは結構後の方だよ。『ゴジラ』の次が同じ恐竜モチーフの『アンギラス』。その次に登場するのが『キングコング』。これ、常識」 「知らんな。でもあれは知ってる。金色で首が三つある奴」 「キングギドラ?」 「そうそれ。あれが一番強い気がする。何せ首が三つあるんだから三倍強いに決まってる」 「それは分からないけど……他に知ってるのはある?」 「でかい蛾みたいな奴も知ってる。小学生の頃兄貴と一緒に金ローで見たよ。ただどっちにしろ……」黄地は数百メートル先で破壊の限りを尽くしている怪獣を指さして言った。「あいつと似た奴は見たことないぞ?」 ビルの屋上に立つ三人が目にしているのは、イカの化け物のような怪獣である。と言ってもそいつは陸で普通に息をしていたし、脚の数もぴったり十本ではなかった。その数倍あるいは十数倍の本数があった。数えきれない程無数の脚を持つという点では、イカよりはクラゲに近いかもしれない。とは言えその脚だか触手にはざらついた細かい吸盤のようなものが付いていたし、怪獣全体の体積と比較してもある程度の分厚さもあった。その触腕の根本にある本体の上にはエンペラのような機構が備わっており、全体は塔のように細長くまっすぐに天を向いている。本物のイカと異なるのは、外套膜にあたる部分の中央に血走った巨大な眼球が一つだけめり込んでいることだ。体色は深い藍色で、古びた苔のように黒ずんでいた。 「おまえなんか知ってるか?」黄地は青空の方に水を向ける。 「クトゥルー? とか?」向けられた青空は曖昧に答える。 「『ビオランテ』じゃなくて?」と赤錆。 「ビオランテって何ですか?」 「ゴジラシリーズの触手部門担当だよ。それ以上のことはわたしも良く知らないんだけど……」 その時だった。 イカ怪獣が空を飛んだ。数十本はある触腕をぶわりと広げて高く宙に浮いたかと思うと、頭部を斜め下に向け、触腕の中央から真っ黒な煙を発射しながら、ロケットのように青空達に突っ込んで来る。空か海かの差異を除けば、頭足類の面目躍如と言った挙動だった。 「イカが飛んだぞ」黄地はくだらないものを見るかのようだった。 「泳いでるんでしょ?」赤錆は面白がるように言った。「空も海も一緒だよ。怪獣にとってはね」 「物理的に説明がつかないですよぅ」青空は真っ青になって叫んだ。「見た目がどれだけバカらしくても実際にあんなのが突っ込んできたら脅威です。あの、約束通り、私逃げますからねっ」 そう言って青空はビルから飛び降りた。「おいっ」と黄地がその背中に向けて叫ぶ。 「逃げんなおまえ! アイツを放っておいたら一万人の人が死ぬんだぞ?」 「怖くなったら逃げて良いって言われてるんです!」 その通りだった。怪獣との戦闘に参加することを全力で拒む青空を、怪獣対策局(愚劣なことにマジでそういう名前である)の局員にそう宥められたのだ。 そんな約束でも取り付けない限り、青空が戦場に出るはずがない。いやそんな約束があってすら本当は嫌だったのだけれど、黄地が槍を構えて『おまえには人類を救う責任があるんだぞ』と脅すのだから仕方なかった。受験期の七月に学校も塾も諦めて休み、次の怪獣が現れると言うこの地域まで連れて来られたのだから、文句を言いたいのはこちらの方だ。 「この無責任女め!」黄地は吐き捨てる。「人類の危機なんだぞ? 分かってるのか?」 「別に良いでしょ。二人でも楽勝なんだし」赤錆が肩を竦める。「あの子だって望んで『戦士』になった訳じゃないんだし。戦いたくなくて普通だよ」 「あたしら三人が全員同じように考えたらどうなるんだ?」言いながら、黄地は槍を構える。 「実際そうじゃないんだからどうでも良くない?」赤錆が弓に矢を番える。 イカ怪獣が二人の眼前に迫る。黄地が槍を持って飛び上がり、赤錆が矢を放つ。放たれた矢がイカ怪獣の胴体を貫いて動きを止めた瞬間、黄地がイカ怪獣に飛び掛かって槍を差し込んだ。 その一撃を持って、あっけなくイカ怪獣は爆散する。 〇 「どうして逃げたのかしら?」 ここは各県に設置された怪獣対策局の支部である。緑川という二十代の若い局員が、剣呑な表情を青空に向けた。 「はあ……」青空は弱気な顔を俯けるだけだ。 「そりゃああなたはまだ戦士になったばかりだから、怖くなったら逃げても良いとは言ったわ。でもね、流石に戦闘が始まる前から逃げ出すのは、いくらなんでも、ちょっとね。一回戦うごとにあなたには数十億円の報奨金が支払われるのだから、次はどうにか、頑張ってもらえないかしら?」 欲しくて貰っている金ではない。青空は何度も辞退した。青空の家は病院を経営しており十分に裕福で暮らしに何の不満もなかった。仮に例えどれだけ貧していたとしても、金の為に命を賭けるような行為はどう考えても愚かだった。 実際、青空は報酬金が振り込まれる口座を一度として開いたことはない。通帳もカードも親に預けてある。叶うことなら今すぐにでも国に突き返し、自由の身になりたかった。 「あなたが本当は戦いたくないのは知ってる。高校生の子供であるあなたに戦いを強いなければならない国や軍や私達は、本当に情けないと心から思う。でもね、怪獣達を相手に戦えるのはあなた達しかいないの。あなた達が戦わなかったら大勢の人が死ぬの。国が亡ぶの。望んでそうなった訳じゃなかったとしても、あなた達には人々を守る為に戦う責任が、私達にはあなた達を戦わせる責任があるのよ。それは分かってもらえるかしら?」 「はあ……はい」 とりあえず聞き流しておくしかない。言い返しても無駄なのだ。気弱な青空なりに十分過ぎる程抵抗したが、全てが無駄であることは悟り抜いていた。何せ青空は国の命運の三分の一を担っている。日本と言う国のすべてが青空に戦うことを強いている。小娘一人、それに抗おうと足掻いたところで、何の意味もない。 「だから、次はもうちょっとだけ頑張って見て欲しい。敵が弱い内に戦いに慣れておいて貰わないと、いつか赤錆さんと黄地さんの二人で手に負えなくなった時、困るからね。それはあなた自身の命を守ることに繋がるわ。お願い出来る?」 「はあ……」 「どうかしら?」 「……はい」 口先だけそう答えたことによって青空は解放された。 部屋を出ると赤錆と黄地が立っていた。「怒られたぁ?」と下卑た興味を向ける赤錆に、青空はへどもどと媚びるような笑みを返した。 「怒られました」 「あんま怖くないでしょ?」 「はあ……まあ」 両親や姉、塾の講師に叱られる時と比べると、語気や言葉選びは遥かにソフトだった。しつこく難詰めされるようなこともなかったし、感情任せに恫喝されるようなこともなかった。 「強く言えないんだよ。あなたには代えが利かないから。本当にヘソを曲げられて逃げ出されたら困るのは向こうだからね。適度に機嫌を取って、𠮟らなきゃいけない時も最低限度。そういうもんよ。聞き流してやったら良いよ」 「余計なことを教えるな」黄地が剣呑な顔で赤錆を一瞥した後、青空を睨んだ。「なあおまえ。あんな体たらくじゃ困るんだよ。毎回おまえにすぐ逃げられたら、一緒に戦ってるあたしらが危ないんだよ」 「……皆で戦うのをやめるのはどうでしょう」青空は蚊の鳴くような声で、半ば本心から戯言を弄した。「それを選ぶ権利は、私達にあるはずで……」 黄地は青空の胸倉を掴んで壁に叩き付けた。「おいおまえ。ふざけたことを抜かすなよ。あたしらが戦わなかったらどうなる? 一万人の人が怪獣に踏みつぶされて死ぬんだぞ?」 どうでも良かった。いやまったくどうでも良いことではないし痛ましいことなのだが、それでも青空自身の生命の危機と引き換えにするようなことではなかった。当然だ。無辜の人々が一万人程死ぬと言われたら、それが例え自分と無関係な人達であっても、それを防ぐ為にある程度のものなら差し出せる。青空の差し出せるものなどたかが知れているが、それでも小遣いの貯金の半分くらいは出すかもしれない。だが自身の生命を危険に晒すことは流石にあり得ない。それを強要されると言うのなら、出来る限り抵抗するのが、生命体として原則であるはずだった。 「今はあたしと赤錆で事足りてるから、そうやって呑気に人任せにしてられるのかもしれないがな。でも敵は現れる度に強くなってる。いずれそれじゃ済まなくなる日が来るかもしれないんだよ。分かってるのか?」 何も分からない。国が亡ぶのなら亡べば良い。いよいよとなったら一家で国から逃げ出すだけだ。青空の両親は経済的に豊だし、青空自身小中と英会話を習っており英語には自信があった。外国へ逃げてもやっていけるはずだ。そうしていないのは、両親には経営している病院があるし、青空も受験で大変な時期だからというだけのことだ。 胸倉をきりきりと締め上げられる。青空の目尻には涙が浮かんだ。どうしてこんな目にあっているのか。どうして自分がこんな運命に置かれなければならないのか。理不尽だった。 「まあまあ」と、間に入ったのは赤錆だった。「そんな締め上げることないじゃない。あたし達仲間だよね。仲良くしとこうよ」 「おまえこそ呑気だな。こいつが戦わなくちゃ困るのはおまえも一緒で……」 「だから、そういうの注意するのは緑川さんとか大人組に任せておいて、わたし達はテキトウにツルんでりゃ十分だよねってこと。これから三人で行動する機会ばっかりなのに、険悪なのは嫌じゃない。雰囲気、良くしとこうよ」 赤錆は青空の手を握り、黄地から距離を取らせた。 「つう訳でさ青空さん。わたし達これから一緒に遊びに行かない?」 「い、今からですか?」青空は目を白黒させる。「あの、私、これから飛行機で家に帰るんですけど……」 戦いが終わったら、次の怪獣の出現地が判明するまでの間、青空は自宅へ帰してもらえる約束だった。既に飛行機の便も取って貰っていた。安全な自宅で受験勉強に戻り暖かい布団で眠るのを青空は心待ちにしていた。 「それって今日の夕方の便でしょ? まだ朝の九時だよ? 緑川さんも今日の四時に支部にいたら良いって言ってたじゃん。時間一杯あるでしょ」 「ですがっ。その時間は受験勉強の為に……」 「受験勉強って何っ。勉強なんかしなくてもあんたもう億万長者じゃん。ウケるんですけどっ」赤錆は本気で面白がっているようだ。「良いから行くよ。黄地さん、あんたも来る?」 「これからトレーニングだ」黄地は片手をぴらぴらと振った。「武器の扱いを練習しとかなきゃいかん。おまえらもちょっとはやっとけよ。自分達が無敵だと勘違いしてると、死ぬぞ?」 立ち去って行く黄地。「クソ真面目だねぇ」と赤錆は肩を竦めて見せた。 〇 わたし達って信号機みたいね、と赤錆は面白がるように言った。 「信号機ですか」 「赤錆、黄地、青空。全部信号機の色でしょ」赤錆は愉快そうに笑う。「青空ってのも珍しい苗字だよね。良い苗字だ。下の名前は?」 「……渚、です」 「わたし夕香。どう? 下の名前で呼び合ってみる?」 「え、ええ」別にどちらでも。「良いですよ」 「よろしくね、渚」 青空は赤錆に連れられ、イカ怪獣の被害が及んでいないところまで自分達の脚で移動し、テキトウな繁華街を発見してそこで遊ぶこととなった。支部の周辺の街は皆混乱状態にあったので遊ぶどころじゃなかったが、時速百キロをゆうに上回る青空達の脚力であれば、三十分もあれば平和な地域まで移動することは容易かった。 繁華街で見付けたデパートに入る。赤錆は国から貰った報奨金を自分で好きなだけ使う方針らしかった。デパートをうろついては洋服だの鞄だのを好きなだけ購入し、恐ろしい程の散財をする。たちまち両手が塞がった赤錆は、いくつかの荷物を青空に差し出して「半分持って」と要求した。 「あ、はい。分かりました」 青空は大量の紙袋を受け取った。それは半分を明らかに上回る量だった。青空の手元には四つの大きな荷物が来たのに対し赤錆の手に残された荷物は二つしかなくしかも小さい。全体の八割程の荷物を持たされたのは明白であり、しかしそのことに文句をつけられる性格を青空はしていなかった。 それでも全部を持たされる訳じゃない=パシりじゃない=いじめられている訳じゃない(?)と自分を納得させている青空を気遣ったのかそうじゃないのか、赤錆は気楽な口調で言った。 「買い過ぎちゃったね。誰か荷物持ち呼ぼうかな?」 「よ、呼んだら来るんですか?」 「当たり前じゃない。わたし達はこの国を賭けて戦う英雄だもん。対策局に電話一本すれば、どんな呼び出しにだって応じるんだから」 信じがたい。対策局にいるのは公務員や自衛隊のエリートが中心だった。青空達の保護監督役を務める緑川にしたって、東大法学部卒の第一種公務員試験合格者だと言っていた。本来こんな小娘に使われるような身分には程遠いはずだった。 赤錆はスマートホンを取り出して電話をし始めた。本当に怪獣対策局に掛けている様子だった。電話で話をしながらも脚を止めることはなく、前も碌に見ていない赤錆の動きは危なっかしかった。 向かいから歩いて来る少女と赤錆の肩がぶつかった。赤錆は気にしていない様子だったが少女は赤錆を睨んでいた。それに気づいて赤錆は脚を止めた。少女は赤錆の方をじろじろと見ながら、不快そうに自分の肩を払うように叩き、視線を外して再び歩き始めた。 「ちょっと待ってね」赤錆はどこからともなく弓を取り出し、矢を番えた。「ムカ付く奴がいるから」 赤錆は矢を放ち少女を背後から射った。矢が貫通するなり少女はその場で四散する。肉体は小さな無数の片となって散り散りになり、デパートの通路を赤黒く汚した。 本気を出せばこんなデパート木っ端微塵にしてしまえるだけの威力の矢だ。それ少女の身体以外を破壊しなかったのは、それだけ赤錆が手加減をしていたからだろう。しかしそれでも周囲の人々は悄然として震えあがっており、血まみれの少女の肉片と赤錆たちを取り巻いていた。 「ちょ、ちょっと」あまりの凶行に、青空は流石に顔を青ざめさせて赤錆に縋り寄った。「な、なんてことをするんですか?」 「ムカついたから」 赤錆はそっけなく言って、電話口との会話を再開する。 「え? 何? 殺したかって? うん、殺したよ。別に良いんだよね。 うん、うん。……じゃ、三階の喫茶店で待ってるから」赤錆は電話を切った。「それじゃ、いこっか」 こともなげな笑顔を浮かべる赤錆に、青空は引き攣った笑みを返した。 言いたいことは山ほどあったが、こんなおかしな人とまともに対話する気にはなれなかった。恐ろしくてたまらなかったが、しかし自分に敵対的でないのなら、何とか媚び諂ってやり過ごすことが出来ると青空は自分に言い聞かせた。 そして理解した。 日本にとって、地球人類にとって、警戒すべき化け物は怪獣だけではない。 赤錆であり、黄地であり、そして青空自身だ。 〇 「さっきの奴さぁ。わたしの高校時代の嫌いな奴に顔が似てたんだよね」 喫茶店でアイスコーヒーを啜りながら、赤錆は言った。 デパートのこのフロアに客は一人も残っていなかった。赤錆を恐れて逃げ出したからだ。それは従業員も同じだったが、この喫茶店の店員だけは赤錆が首根っこを捕まえて逃亡を許さなかった。今は震え切った様子で、コーヒーだの軽食だので赤錆をもてなす役をやらされている。 「そうじゃなかったらひょっとしたら殺すのは我慢したかも。いちいち騒ぎになるのも面倒だしね。強く叱られたりはしないけど、それでも小言くらいは言われるし? でも顔見た瞬間、我慢できなくなっちゃって」 「そ、そうなんですか」 「一応、同じグループだったんだけど。いるじゃん? やたら声がでかくてなんでも仕切りたがる奴。そいつといると一緒に威張れるからテキトウに機嫌取ってたんだけど、大学生の彼氏いるとかどうでも良いことで雑にマウント取って来るから、内心鬱陶しくて。今度地元の近くの支部に行くことがあったら、殺しに行くつもり」 気が付けばデパートには何人もの対策局員が立ち入っていた。最初に緑川がやって来て「いくら処罰されないからって、人を殺しちゃダメよ」とやんわりとした口調で注意を行っていた。 「それから、支部から外出するのならちゃんと局員に断ってから、自分の脚じゃなくて職員の車ですることね。勝手にいなくなるからもう大騒ぎよ。気付かなかったこっちもこっちなんだけどさ……」 「あーはいはい」赤錆は鬱陶しそうだった。「あんまり小言言わないでよ。しつこいと殺しちゃうかもよ?」 露悪的な口調で言って見せる赤錆。緑川は流石に鼻白んだ後、額に汗を浮かべながら作り笑顔を浮かべて「どうしたの?」と訊く。 「赤錆さん、普段もっと優しいじゃない? そんなこと言うなんて、珍しいわね」 「そういう気分なの」赤錆は肩を竦めた。「とにかく、今は渚と話してるから、邪魔しないで」 なんとなく、青空は理解した。今の赤錆は自分達が対策局員に対して行使できる権威を、新米の青空に見せ付けようとしているのだ。自分達が何をやっても最終的には許されることになるし、小言くらいは言われても本気で逆らうようなら殺してしまえる。そんな暴君としての自分達の地位を赤錆は青空に示しているのだ。 「この力が手に入って、本当に良かった」赤錆は運ばれて来たミックスサンドイッチを口に運ぶ。「学校、つまんなかったんだよね。一応クラスの一軍グループにいたんだけど、その中じゃ下の方だったっていうか。そういう立ち位置が実は一番気ぃ使うししんどいんだよ。渚に分かるかな?」 「……ど、どうでしょうか」青空はへどもどした笑みを浮かべる。「私は、その、お察しのことだとは思うますが、あの。地味派の日陰者だったもので」 「顔はすごい可愛いのにね。もっと堂々とすりゃ良いのに。何でそんな気ぃ弱いのかな?」 「は、はあ」 「家もまあ、中流って感じでさ。月の小遣いは可もなく不可もなくだけど、バイトが禁止なの。これが本っ当にしんどい! 女子高生のお付き合いってお金かかるんだよ? 服一着買ったらもうその月カラオケいけないじゃん。付き合い悪いとか言われて一日シカトされて、泣いて謝る羽目になって……。そういうのが嫌で家のお金盗んだこともあるよ。ぶん殴られた」 「そうなんですか」青空は特に共感するでもなく話を聞いていた。ようするにどこにでもいる女子高生だったのだろうと思う。教室では被虐者の地位にいた青空からすれば、その普通具合が何とも羨ましいが、そんな赤錆にも赤錆なりの苦悩があったらしかった。 「でも今じゃこうやって好きなものしこたま買い込めるし、腹の立つ奴は弓矢で好きに射殺せる。髪だって自由に染められる。この赤いの、どう? 可愛いでしょ?」 「可愛いと思います」こう言う以外にない。もっとも、赤錆の容姿は極端に良すぎはしないが良い方ではあるので、その鮮やかな赤色のセミロングも様になっていた。 「怪獣と戦うのもね、最初は確かに大変だったけど、慣れたらこなせるしさ。アニメの主人公とかになった気分。そんで戦ってる時以外は何しても許されるお姫様。最高だよ」 「そ、それは良かったですね」 「監視がきついのはつらいとこだけどね。昼はこうやって外で買い物したりとか遊んで、夜はネットとかで特撮とかの怪獣調べてるんだ。わたし達が戦う怪獣って、いちいちが何かのパクりみたいな見た目してるんだよね」 「それは分かります。どうデザインしても何かとは似ちゃうんでしょうけど」 「支部の個室とかホテルの部屋とかで寝起きするのも楽しいよ。家にいた頃はお姉ちゃんと相部屋だったんだよ。良く喧嘩したよ。相部屋じゃなかったら多分あんなに仲悪くなかったんだろうけどさ。あの人が高校出て一人暮らし始めた時は、本当に嬉しかったな」 「あ、それはちょっと分かります」青空は口を挟んだ。「相部屋じゃありませんでしたけど、私も嫌いだったお姉ちゃんいます」 「え、そうなんだ」 「ええ。六つ年上なんですけどね。親が忙しくてあまり家にいないものだから、半分以上保護者みたいな感じで。成績の管理まで姉がやってました。良く怒られましたよ。中学受験の時とか、参考書何冊も買い込んできて、終わらなきゃ本当にごはん抜きですよ。虐待ですよ」 「ふうん……」赤錆はあまり興味がなさそうだったが、自分の話をした直後だからか、青空の話も促してくれた。「どういうとこ受けたの?」 「海鳴(かいめい)の中等部です」 「海鳴って、あの海鳴? 超名門じゃん」赤錆は感心したようだった。「そっか。渚って東京の人だもんねぇ……。で、受かったの?」 「一応、まあ」青空は気持ち胸を張った。学力は青空の自慢できる数少ないことの一つだ。「成績良いんですよ。大学だって、理三を志望しています。A判定です」 「理三って何?」 「東京大学の医学部です」 「すごい人じゃん!」赤錆は目を丸くしていた。 「いえいえ本当まったく全然大したことないんです」青空は気持ち頬を赤らめた。自然と鼻から荒い息が出る。「わたしなんて単にがり勉してるだけで……。銀緑戦士なんて揶揄されるんですけど、分かります? 銀緑塾(ぎんりょくじゅく)っていう有名な塾があって、そこの上級クラスで夜遅くまで。課題も山ほど出ますから、もう休日も土日もなく毎日死ぬほど朝から晩まで……」 「渚が勉強好きなのは分かったからさ」赤錆は窘めるようだった。「そんなに勉強して医者になって、どうすんの? 親が医者だとか?」 「両親は共に医者です。大きな病院を経営していて、医者になるなら将来はそこを継ぐことになるとも思います」 「その為に頑張ってる訳? でもさ、こんなこと言ったら難だけど、必死に勉強して医者になって、激務こなして病院を経営するよりも、怪獣を倒して報奨金を貰った方がよっぽど楽で儲かることない?」 「儲かりますね。でも、お金じゃないんです」 「傷付いた人を治してあげたいとか? 立派だね。でもそれだったら猶更怪獣と戦った方が良いんじゃない? 一人の医者が人生でいったい何人救えるっていうの? 怪獣一匹倒したら一万人だよ?」 「人助けでもありません。私の努力はあくまで私一人の為のものです」 「なにそれ? どういうこと?」 「お姉ちゃんを見返すんです」 青空はその口元に露悪的な笑みを浮かべた。 「お姉ちゃんもまた中高と海鳴で、銀緑塾にも入っていました。両親の病院を継ぐ為に、やはり東大の医学部を目指していました」 姉は努力家だったが自分のように勉強だけが取り柄という訳でもなかった。それなりに友人はいたし部活動にも精を出していた。中学の頃は柔道で地区大会を優勝していたし、忙しい両親に代わって家の用事をこなしたり、妹に教育的な指導を加える役割も買って出ていた。 高校に入り鉄緑塾に入ってからは流石に忙しくなり、柔道もやめ家の用事も青空に分担させるようになった。妹への叱咤鞭撻にも手を抜かず、当時小学生だった青空を海鳴中学に入れる為、自身の受験勉強と並行して多くの参考書を買い与えるなど精力的に指導した。 「でもあの人、落ちちゃったんですよね」 姉の成績は確かに良かった。十分すぎる程才気溢れる若者だったと言える。それでも東大理三とは日本で最も偏差値の高い学部であり、どれだけ才能があろうが努力しようが、合格など不可能なのが基本的には当たり前だった。 「今にして思えばテキトウな滑り止めで満足しとけば良かったんですよ。でもあの人、完璧主義ですからね。一年浪人して受け直すって言うんです」 それ自体は良くある選択だ。日本で一番偏差値の高い学部なのだから、何度も受験してようやく合格を果たす人間もいる。姉もそうした中の一人になろうとしたのだろうが、しかし。 「姉は損切りがね、出来なかったんですよ。今までつぎ込んだ時間とか労力とか、そういうのを全部取り戻そうとして、報われようとして。何度も何度も浪人して。一度ほとんど半狂乱になったかと思えば、今度は信じられない程無気力になって……」 三度目の不合格通知が届く頃には、姉はほとんど家に引きこもるようになっていた。食事は青空が扉の前に置いて時間が経ったら下げに行くという有様だ。かつての引き締まった身体は面影もなくなった。たまに様子を見に行けば、ゴミ貯めのように散らかった部屋の中央で、ぶよぶよの肉の塊が鎮座しているという有様だった。 「それで……どうなったの?」 赤錆が息を飲むようにして言った。 「四浪目にもなるとほとんど勉強もせず、ただ部屋に引きこもっていただけだと言います。流石に両親も見かねたようで、部屋から引き出して病院の事務の仕事を与えました。元々能力は高い人ですから、しっかり仕事を覚えて良く働いているそうです。今年の春からは一人暮らしも始めました。身体もすっかり痩せて小奇麗になって、最近だと恋人まで出来たそうですよ」 「それは良かった……のかな?」 「ええ良かったんですよ。私に対する当たりも多少穏やかになりましたしね。社会に出て働いていることに対して尊敬だってしています。でも、だけど……」 青空は頬に露悪的な笑みを浮かべる。 「偉そうに私に厳しくしていた頃のことがなくなる訳じゃないんです。もっとも姉が入れなかった東大の医学部に入れたところで、面と向かって姉をバカにするとか、何か言ってやるとか、そういうことはしません。というか、出来ません。以前よりは優しくなったというだけで、まったく怖くなくなったかというとそうではない訳ですし。だから私は、ただ、受かるだけです。それで私の溜飲は下がるんですよ」 合格通知を受け取る自分の姿を青空は良く夢想している。その先に何か具体的なビジョンがある訳ではない。医者になる自分も病院を継ぐ自分も上手く想像出来ない。合格することがゴールでありそれを果たしたら大学になんて行かなくて良い。 「姉は多分悔しがったりせず本心から祝福してくれると思います。喜んでくれると思います。それで良いんです。私は私の思い出の中の厳しかった姉に復讐したいだけで、今の丸くなった姉のことは、どうでも良い訳ですから」 青空はふぅと小さな息を吐く。 「だから、今の私にとって大切なのは受験勉強で、怪獣をやっつけることじゃないんです。私は私の生命と人生を守るのに精一杯ですし、精一杯でありたいと思っているんですよ」 こんなに人に自分のことを話したのは久しぶりだった。赤錆は唇を結び目線を斜め下にして、青空から距離を取るように椅子に背中を押し付けている。 訝しむような顔をする青空に、赤錆は微かに顔を上げてからこう言った。 「人から暗いって良く言われない?」 〇 デパートからの帰り道、青空達は緑川の運転する自動車に乗っていた。 青空達が出掛けていたのはイカ怪人の出現位置からは遠く離れたデパートだ。よってその帰路もしばらくは平和で正常な街が続くが、支部に近付くに連れ街の様子は混迷を深めて行き、やがて人っ子一人いない状況となった。さらに進むと崩壊した建物や破壊された道路が姿を現し、イカ怪獣の暴虐の爪痕が色濃く印象付くようになって来る。 「今回って犠牲者いた?」赤錆が尋ねる。 「いなかったわ」と緑川。「今回は前と違ってかなり早い段階で怪獣の出現を知れたから。事前に避難勧告を出すことが出来たわ」 「ほとんどの場合そうじゃん。前回が珍しく急だっただけでさ」 青空は窓辺に寄り掛かり、瓦礫と化した街の様子を眺めながら上の空と化していた。人が死ななかったのは素晴らしいことだと心底から感じるが、それ以上に嬉しいのは例え一時でも自宅に戻れるということだ。 例えそれまでの日常がどれだけ過酷かつ苦悩に満ちていたとしても、その日常が破壊され冗談のような非日常に誘われるという体験は、不本意でおぞましいものだった。例えそれがクラスメイトからいじめられ、教科書やノートを隠されたり背中を押されて転ばされたりする日々であってもだ。確かにいじめに遭うのはつらく苦しいし、学校に行くのは今から憂鬱だったが、しかしよほど運が悪くなければ、生命の危機にまで晒されないのも確かなのだった。 一度支部に戻って荷物をまとめた後空港に向けて再出発し、自宅への飛行機に乗る。フライト中は持ち込んだ参考書でも捲りながら、時々は窓を眺めて空の旅というものも味わおう。そして自宅に戻った暁には、叶うことなら両親との再会を……。 車が急停車した。 青空は驚いた。緑川の運転は丁寧であり急ブレーキなど掛かったことは一度もなかった。何かあったのかと前方を確認すると、一人の少女が自動車の前に立ち尽くしていた。 おかしな情景だった。 こんな瓦礫と化した街の中に、ティーンエイジャーの少女が突っ立っているというだけでも、一種異様なことではある。その少女の雰囲気もおかしかった。肌はやけに青白く、一点に据えられて微動だにしない瞳は、感情がなく虚ろだった。顔立ち自体は作り物めいて整っているが、しかし眼前に車が急停止しておいて表情筋一つ動かさないその様子は、本物の人形のようで見ていると気味が悪くなる。 さらに妙なのは、少女が抱いている赤ん坊である。 裸だった。男の子であることがすぐに分かった。オムツすら履かされていない股の間で、小さな陰茎が微かに揺れている。髪の毛は完全なつるっぱげで、それは生まれたての嬰児なのだとしても妙なことだった。 「……来たわね」 緑川が息を飲んだ。赤錆もやや深刻そうな表情で唇を結んでいる。一体何が始まるのかと思う間もなく、「出るわよ」という緑川の合図に従って、まず赤錆が、続いて青空が車を降りた。 赤子を抱いた少女と対峙する。少女は体の向きは愚か、首も目線すらこちらに向けることはなかった。こうして近くで見ると本当に芸術品のように完璧に整った顔立ちの少女であり、年齢は十四歳か五歳くらいに見えた。 「だぁああ。だぁあああ」 少女の胸の中で赤ん坊が鳴いた。それ自体はただの赤子の泣き声で妙なところは何もなかった。しかし直後、それを抱いている少女が抑揚のない声で言った。 「次の怪獣は〇〇県〇市に出現する、と主は申しています」 「あうらうだう」「あなた方はそれを待ち受け、倒さなければならないと主は申しています」 「だぁ。だぁあああっ」「でなければまた一万人の犠牲者が出るだろうと主は申しています」 「あだ。あだひゃ。あだぁあああ」「怪獣はまた少し強くなる。遠からず力を合わせなければならなくなる時が来るだろう、と主は申しています」 少女の声は機械で作った声のように一定のトーンを維持していた。聞く者すべてに美しく透き通った声だと思わせる見事なソプラノだったが、しかしこうも感情を伺わせない声色だといっそ不気味に感じられる。 「だぁああああ。だぁあああああ」「それを倒せばあなた達の武器はまた一つ強くなる、と主は申しています」 「あうらうだう。あだ。だだぁああああ」「今はまだ弱いが、やがては我を滅しうる力に変わり得る、と主は申しています」 「あうらうだう。あひゃひゃ。あひゃひゃひゃひゃ」「その為には四つの武器を一つに束ねる必要がある。全ての条件が整った時、我はあなた方の前に首を差し出しに現れるだろうと、主はそう申しています」 緑川も赤錆も、神妙な顔で赤ん坊の鳴き声と少女の言葉を聞いていた。青空は悟る。目の前の赤ん坊と少女は、青空が直面する想像力の欠如した誰かの作ったようなバカげた事態に深く関わっていて、青空達とも怪獣とも違う立ち位置で事態に干渉している。 ふと瞬きをした直後に赤ん坊を抱いた少女は消えていた。いや実際には瞬きなど関係ないのだろう。何の前触れもなくただ忽然と、元からそこにいなかったかのように少女達はその場から消え失せたのだ。 「……青空さん」 呆然とする青空に、緑川が振り向いて、神妙そうでいて有無を言わせない表情で言った。 「ごめんなさい。これからすぐに〇〇県に行ってもらいます。つまり」 青空は深く肩を落とした。 「あなたは自宅に帰れません。……ごめんなさいね」 〇 3 〇 テレビ画面の中で、怪獣が何かを激しく追っている。 怪獣はおぞましい程に想像力の欠如した愚劣な姿をしている。ベースは灰色の肌をした二足歩行するトカゲで、尾は長く背中にはトリケラトプスのような棘、どこかで聞いたことのあるような咆哮を発する。これと良く似た怪獣を思い浮かべるのは日本人なら誰にとっても容易であり、もしこれが特撮映画なら二番煎じの謗りは免れないことだろう。 しかしそれは現実の映像であり実際に青空が体験したことだった。映像の中で怪獣が追っているのは長い髪をした少女であり、逃げ惑う人々の狂騒の上でビルとビルを乗り継いで高速で走っているそれは、他でもない青空自身の姿だった。 ある瞬間に、逃げ惑う青空は脚を止め、怪獣の方に身体を向けた。そしてどこからともなく取り出した拳銃を構えると、乾いた音と共に発砲する。 弾丸は目に見えなかった。しかし命中したのは確かであるようで、怪獣はその場で悲鳴を上げて崩れ落ち、地面に横たわり倒れ伏す。それを見て再び踵を返そうとした青空の両隣に、赤と金の髪をした二人の少女が姿を現す……。 「今ご覧いただいているのが、地球を守る選ばれた『戦士』の姿です。彼女らは怪獣を倒す力を持ち、我々をその脅威から救うのです」 VTRに合わせてキャスターが解説を加える。ダメージを引き摺りながら起き上がった怪獣を、赤錆と黄地の二人がそれぞれの武器を用いて攻撃し、その全身を粉微塵にして撃破した。 「良く撮れてるじゃない」満足そうな表情で赤錆が笑った。 「悪い気はしないな」黄地は胡坐をかいて腕を組み、頬を持ち上げている。 青空は眩暈がしていた。こんな映像を公開する許可を出したつもりはなかった。自分がこんなバカバカしい出来事の主要人物であることが、全国的に有名になったことを思うと気が遠くなるようだった。肖像権は一体どこに行ったのかと思うと、苛立ちと共に腹の底がシクシク痛むような心地がした。 「テレビ局に勝手に送られて来るそうなのよ」緑川が言った。「誰が撮影しているのかも分からない。とは言えあんな混沌とした戦場でこれほど完璧な映像を撮るのは人間には無理だから、怪獣を生み出している側の何者かが撮影して送りつけているっていうのが定説よ」 「怪獣を生み出してる人がいるんですか?」と青空。 「あの怪獣達が自然発生した生物でないことは、見た目や構造からして明らかよ。『人』かどうかは怪しいけれど、何かしら超常的な手段で怪獣を生み出している者はいるはずだわ」 その通りだった。生物学的に言ってあんな巨大な生物が生まれるのは合理的じゃない。というか地球の物理法則が正しく作用しているなら、あんな巨体がまともに成り立つこと自体あり得ない。何らかの超常的な作為の上にしか存在出来ない概念なのだ。 「それってもしかして」と黄地。「あの赤ちゃん抱いた女のことか?」 「『赤ちゃん』なんて言い方するキャラなの、あなた?」と赤錆。 「黙れ。ともかく、他に考えられないだろう」 黄地もまたあの赤子を抱いた少女と会ったことがあるらしい。彼女らは前触れもなく、武器を持った戦士たる少女達の前に姿を現しては、次の怪獣の出現位置と、妙な予言めいた言葉を残して去って行く。目的が何なのか、どちらの味方なのか、その正体は完全に不明だ。 「どっちかっていうと味方じゃないのかな? 怪獣が出るところ教えてくれるし」と赤錆。 「あたしはラスボス説を推すね。味方ならもっと分かりやすくハッキリ協力してくれるはずだ。あいつが怪獣を生み出してけしかけてるんだ」と黄地。 「何の為に?」 「知るか。なあ、今度あいつが現れたら槍で突いて見ても良いか?」 「絶対にやめて欲しいわね」緑川はやや口調を強めた。「敵か味方かも目的も役割も分からない以上、軽率なことをしたくない。あの子に攻撃を試みるのは、もう少し調査が進んでからよ」 あの赤ん坊を抱いた少女が消え去った後、青空は緑川達と共に飛行機に乗って旅立った。家へ帰る為ではなく、新たな戦いに赴く為だ。 そうしてやって来たのがこの新たな支部だ。対策局の支部は各県に設置されており、怪獣が現れる場所が判明するなり、最寄りの支部に移動させられるのだ。 怪獣の出現先が知らされてから、実際に出現するまでの時間はまちまちだ。青空が最初に出くわしたトカゲ怪獣のように避難勧告が間に合わず大勢の犠牲が出ることもあれば、イカ怪獣の時のように一人の犠牲者も出さないこともある。 今回は後者のケースらしかった。それも人類側にはかなりのモラトリアムが与えられている。既にこの支部で待機を初めてから一週間以上が経過していた。 「持って来た参考書、全部終わっちゃったんですけど」青空は緑川に訴える。「あの、家から新しいの取りに行きたいんですけど、ダメですかね」 こんなに待たされるとは思っておらず、数日分のテキストしか持って来ていなかった。前回が丸一日で終了したのだから、今回もその程度だろうと考え油断していたのだ。 「ごめんなさい。許可してあげたいけれど、無理なのよ」緑川は申し訳なさそうに言った。「受験生だし、そのあたりは気遣ってあげたいんだけれどね。ネットで何かダウンロードしておいてあげるから、それで我慢してくれないかしら」 「銀緑塾のテキストじゃないと……」 青空は目を伏せた。全国的に有名な名門塾である銀緑塾は、名だたる講師達によって独自のテキストを作成している。その内容の充実具合たるや凄まじく、一冊一冊がネットで数万円の金額で転売されている程だ。 「と言うか、私が行っていない内にも新しいテキストが配布されているはずですし……授業出れないならせめてそれだけでも送ってもらえないですかねぇ……」 「ごめんなさいね。無理なの」 「どうしてですか?」 「テキストを送付するにも送付する人がいる訳じゃない? その人は当然この支部までテキストを持って来なくちゃいけない訳だけど、その途中で怪獣が現れたら命が危険でしょう? クリティカルなことでないのなら、命を賭けなくちゃいけない人が一人でも増えるのは、ちょっとね」 ぐうの音も出なかった。青空だってその人の立場だったら行くのは嫌だ。いくら大学受験が尊重されるべきことであっても、一人の受験生の為だけに命を賭けさせられるのは理不尽である。 「と言うか、今日の昼から大事な模試が塾であるはずだったんですよね」青空は溜息を吐いた。「流石にそれまでには間に合うと思ったのになぁ」 「そんなに大事な模試なのか?」黄地は尋ねる。 「え、ええ。……夏休み中の授業でどのクラスに所属するかが決まる、とても大切なテストなんです」 青空は今上級クラスAと呼ばれる最上位のクラスに所属している。下に上級クラスB、上級クラスC、そして一般クラスがある。銀緑塾の生徒の八割は一般クラスに所属しているが、そこの生徒ですら平均偏差値は70を上回るという名門ぶりだ。 それでも理三を目指すなら今の地位は何としてでも維持していたいところである。その為の模試を受けられないことを想うと青空は焦燥を感じた。 「勉強頑張ってて偉いじゃないか」 「は……はあ、ありがとうございます」 「まあでもさ。良い大学に行くにしたって、それは日本っていう国や、地球人類が維持されていてこそな訳だろ? それが出来るのは怪獣を倒せる武器を持ってる、あたし達『戦士』だけなんだよな。しんどいとは思うけど、どうにか両立するのがおまえの為でもあるんじゃねぇの?」 言い返せないことを言われた。粗暴そうな口調の割には理知的なところもある少女である。 本当の気持ちを言えば怪獣との戦いは青空以外の二人に担当してもらい、青空自身は勉強に専念したいところだった。どうせこの二人は戦いが終わったら国から貰える報奨金で悠々自適に生きるつもりなのだろう。青空の分の負担も請け負って貰えるのなら、報奨金は丸ごと二人に差し出しても良い。 ともあれ要求が通らなかったのは確かである。青空は肩を落として、今いる共用のリビング・ルームを去って自室を目指し始めた。既にやり終えたテキストの復習をする為だ。 「ねぇ渚」 そんな青空に追い付いて来て、背後から声を掛ける存在があった。赤錆だ。 「何ですか?」 「何大人しく言いくるめられてるの?」 「は? いや、でもダメって言われたものはどうしようも……」 「言うこと聞かないなら撃つぞ、って言えば良いじゃない」赤錆は手の平をピストルの形にして見せる。 「……そんなことしたらダメなんじゃないですか?」 「あんたは地球人類すべての命を守っているんだよ? それなのにテキスト一つ持って来て貰えないなんて不条理だと思わない?」 「そんなことはないです。というか私は戦闘に出来るだけ参加したくないって態度ですから、極端な特別扱いは辞退するのが筋というか……」 「ふうん。だったらさ」赤錆は閃いたように言った。「自分の脚で取りに行ったら?」 気楽に行われたその提案に、青空は思わず目を丸くした。確かに今いる場所は青空の自宅からそう遠くはなく、県境を二つ程跨げばたどり着ける。青空の走力ならば直線距離で数時間もあれば往復できる。 「出現場所が予知されてから、怪獣が現れるまで、早い時は一瞬だけど待つ時は結構待つんだよ。最長で一か月とか。今回も多分長いパターンだよ。その間ずっと満足に勉強出来ないのは、渚にとってつらいことだよね?」 「そ、そうです。そうなんですよ」青空は拳を握って強く訴える。 「そりゃあ黙って抜け出したのバレたら怒られるけど、どうせ強くは言われないんだし。軽いお説教と引き換えに参考書や問題集が手に入るんなら、渚にとっては悪い話じゃないじゃんね」 「……良いんでしょうか?」 「良いってば。行って来れば」赤錆は他愛もないものを見るように青空を見た。妹分に悪さを教えるような愉悦がその表情にはあった。「渚がいない内に怪獣がもし現れたとしてもさ、わたしと黄地さんで片付けておいてあげるから。今まで苦戦したこともないし、きっと大丈夫だよ」 「ありがとうございますっ」 知恵を出して背中を押してくれた赤錆に、青空は思わずアタマを下げて感謝の意を表した。 〇 支部を抜け出した青空は、人々が避難した静かな街を、自らの脚で駆けて行った。 その時速は百キロを上回り流れる景色は目まぐるしかった。何の変哲もない街の様子も、無人であるというだけで退廃的な異世界めいて感じられる。じっくりと探検したい気持ちにも駆られたが、本来の目的を思い出して自宅を目指した。 半時間程で避難区域を脱した。往来する人や車が現れ青空は地上を走れなくなった。最高速度で人とぶつかれば殺してしまう心配がある。目立つのは嫌だったが、青空は建物に飛び乗って合間を飛び移りながら移動することにした。 人々は好機の目を青空に向けた。写真を撮る者もおり恥ずかしかったが我慢するしかなかった。どうせ自分の顔は日本国民全体に知れている。受験の為だと思って我慢するしかない。 やがて自宅へと辿り着いた。持って来た鞄に必要なテキストを多めに押し込んだ後、青空は時計を確認した。午前十一時。今日は土曜日。銀緑塾は既に開講している。 青空は迷わず塾に向かった。青空がいない間に配布されたであろうテキストを受け取る為だ。 銀緑塾は大きなビルを丸ごと一つ貸し切っている。エントランスを通りエレベーターを使って上級Aクラスの教室へ向かうと、中にいる生徒と教師が一斉に青空の方を向いた。 青空は気まずさを押し殺しながら講師の方に歩み寄ると、「すいません」と声を掛ける。 「青空か」 「はい」 「大変なことになったみたいだな」 「そうなんです」青空はこくこくと首を縦に振る。「それで最近休んでたんですけど、ちょっと時間が出来てですね。休んでた間に配布されたテキストとかあるようでしたら、受け取らせてもらえないでしょうか?」 講師の男はまじまじと青空の方を見詰めてから、「良いぞ」と言ってチューター(助手)を務める学生アルバイトに手招きをした。 「講師室の俺の机にあると思うから、取って来てやってくれ」 「分かりました」 「怪獣と戦いであっちこっち行ってるみたいだが、勉強はちゃんとやっているのか?」 「やってます」青空は頷いた。「使える時間は出来るだけ全部、勉強しています」 「当然だな」講師は尊大に頷いた。「してなきゃウチの生徒じゃない。東大なんか受かりっこない」 人ならざる力を持ち常人のレールから外れた青空に対し、講師からは好機も畏怖も感じさせなかった。ただ自分が預かる生徒の一人としてニュートラルに接している。それが出来るのもこの講師の知性の深さと精神の強固さ故に思われた。銀緑塾の講師は全て東大医学部または法学部の卒業生または在校生で構成される。特に目の前の講師は全国的に有名な名物講師で、苛烈かつ厳格な授業で知られる男だった。 やがてチューター(彼もまた東大生だ)が戻って来て「ほら」とテキストを手渡してくれた。 「ありがとうございます」 「午後からの模試は受けるの?」講師の男は鋭い目付きで青空を見た。 「え? えっと、その……」 「時間があるんだったら受けた方が良いのは分かるな?」講師は青空から目線を反らして黒板に何やら書き記し始める。「模試受けないんだったら問答無用で一般クラス行きだ。君の事情は分かるけど、クラス別けまで特別扱いできないのは分かるな? 君の為にもならないし。どうすんの?」 「う、受けます」青空は自然とそう答えていた。この講師に高圧的に何か言われると、生徒は基本的に『YES』としか言えないのが常だった。「でも筆記用具ないです」 「近くの奴に借りろ」講師はそれ以上青空に特に関心を払う気はないようだ。「ほら、席着いて。今やってる授業はそのテキストで出来るから」 ぞんざいな態度。本当に心の底からこの講師は青空を特別扱いするつもりがないようだ。青空は定位置となっている右端後方の席に向かった。学校と違い正式な席順がある訳ではないが、何日も通うと自然と定位置が出来て来るもので、やんわりとした縄張り争いの末、青空はその隅っこに追いやられていた。 「はいシャーペンと消しゴム……の欠片」一つ前の席に座る白石という生徒が青空に予備の筆記用具を手渡してくれた。「ノートある?」 「ないです」 「何も持って来てないじゃん」白石はくすくすと笑った。「ほら、切れ端あげる」 「ありがとうございます。すいません、大分ドタバタしていたもので」 「しょうがないでしょ。青空さんは地球を守る為に戦ってるんだから、ドタバタもするよ。ね、ね、怪獣と戦うのって一体どんな気分……」 「おいそこうるさいぞ!」講師が吠え声を上げた。「筆記用具貸し終わったんなら私語すんな!ここは勉強するところだぞ!」 竦み上がる青空。平気そうに舌を出す白石。これが赤錆だったら弓矢を使って射殺すのだろうなと、何故か青空はそんなことも思った。 90分一コマの授業が終了する。青空は溜息を吐いた。相変わらず難解かつハイペースな授業だったが、自分から積極的にテキストや問題集に立ち向かう時間と比べると、受け身でいられる分楽だとも言える。『授業は休憩』などと言うおかしな戯言が銀緑戦士の間ではささやかれていた。 「あー終わった。やっとお昼だ」白石がそう言って伸びをした。「午後からとうとう夏休み前模試だね。あーし自信ないよ。青空さんはどう?」 「……何も分からないですね。ずっと一人でやってましたから」 「ま、青空さんなら大丈夫だよ。あーしと違って真面目だしさ」 白石は青空の一つ前の席を定位置とする銀緑塾生だった。海鳴と並び都内でも三指に入る名門と呼ばれる動道(ゆるぎどう)高校に在籍し、青空と同じく東大理三を秀志望する秀才だった。しかしその風貌は世間のイメージする優等生とはかけ離れていた。 髪は白に近い程明るい色に脱色されウェーブの掛かった二つ結びにされている。土曜日だと言うのに纏っている制服は奇怪な形に着崩されており、アニメのキャラクターの印刷された缶バッチが列を成して貼り付けられている。スカートは限界まで短くされ、左右で色の異なるまだら模様のソックスを履き、左手の人差し指にドクロの指輪が嵌められていた。くっきりとした顔立ちに施されているメイクは意外にもナチュラルだ。 「いやでも……ここのところ本当にドタバタしていましたし……自信なんて」 「勉強ってのは貯金出来るものだから何週間かそこらサボっても平気だよ。増してや青空さんは怪獣倒しながら勉強もちゃんとやってたんだし……クロもそう思うよね?」 白石はすぐ隣の席の生徒に声を掛けた。「知らないわよ他人のことなんて」と声を掛けられた少女は単語帳を開きながら白石に目もくれない。 クロと呼ばれた少女は本名を黒岩と言い、白石の隣を定位置としている塾生だ。白石と同じ動道高校に在籍し、こちらも東大理三志望。 黒岩は型破りな風貌の白石とは真逆で、四角四面とした雰囲気を放つ優等生然とした少女だった。土曜日なのに制服を着ているのはこちらも同じだが、目的不明の白石と異なりその方が勉強に身が入るという理由らしい。校則通り膝丈までのスカートに皺一つなく整えられた襟元をしていて、とにかく姿勢が良い。漆のようなショートボブの髪に、銀縁の分厚い眼鏡、生白い肌は屋内でひたすら勉強を続けて来た半生を嫌でも物語るようだった。 「今ちょっと単語帳見てるから話しかけないで」黒岩は白石に言う。 「おべんと食べないの?」 「食べると眠くなるから持って来てない」 「お腹減ってると力出ないよぉ。あーしの半分あげようか?」 「いらないわよ別に」 「ダイエットしてるから貰ってよ」 「最初っから半分だけ詰めて来なさいよ」 「半分にしてって言ってもお母さん山盛りに詰めて来るんだよ。もう十分痩せてるから良いでしょとか言うんだけど、それは日頃の節制の成果であってさ」 「知らないわよ。食べられない量じゃないなら親の愛情はきちんと腹に入れなさい」 掛け合いをする様子は気安く、実際のところこの二人は仲が良かった。キャラクターのベクトルは正反対なのに意外に見える。中等部の一年時に顔を合わせて以来、時に本気で嫌い合い時に心から憎み合い、殴り合いの喧嘩を含む波乱に満ちた関係の中で、しかし最後には親友になったというのは白石の談。黒岩はそれらを単に『腐れ縁』の一言で片付けていた。 「青空さんはおべんと食べないの?」 「え? あ。ああ……私はその、持って来てなくて……」 模試を受けることになるとは思っていなかったので当然ではある。今頃支部はどうなっているだろうか? 緑川は激怒するかアタマを抱えているだろう。そのことに胸を痛めるというよりかは、どちらかというと痛快に感じる自分もいた。 「なんで?」 「バタバタして……」青空は最早すべてそれで片付ける構えである。 「そっか。じゃ、半分食べてくれる?」 「ありがたいですけど……」胃が荒れやすい青空は食べないと調子が出ないタイプである。「でもお箸が一膳しかないんじゃあ……」 「前に学校で作った割り箸鉄砲解体するから大丈夫だよ」 白石は鞄から取り出した割り箸鉄砲(割り箸と輪ゴムとセロテープを用いて工作される、輪ゴムを射出する為の器具)を解体した。そうして取り出した一膳の割り箸を「はいこれ」とにこやかに差し出す白石に、ぎこちなく受け取った青空は「……洗って来ます」と言って席を立った。 「昨日それで授業中に狙撃されたの、絶対に忘れないんだからね……」 「クレープ驕ったからチャラじゃん?」 黒岩の恨み節と、白石の呑気な声が聞こえて来た。 〇 「ねぇ青空さん。怪獣と戦うのってどういう感じ?」 口の周りをハンバーグのソースで汚しながら、白石が青空に問うた。 「え……。あ、ああ。怖くて嫌な感じですね」 「そっか。そうだよね。そのカラアゲあーしのだから食べないでね」 「あ、すいません」 青空は半分口に入れかけていたからあげを弁当箱に戻した。この少女は人当たりが良く見えて激情家で、怒るとドクロの指輪付きの拳で殴りかかって来るので注意が必要である。黒岩の外見を『眼鏡付きこけし』とバカにした男子を、それで成敗するのを見たことがある。 そのカラアゲをグーにした手で操る箸で突き刺し、口に運んでから白石は言った。 「やっぱり大変なの?」 「大変ですねぇ」青空は溜息を吐いた。「なんで自分がこんな危険なことしなくちゃいけないのか、たまらない気分になります。こっちは受験生で落ち着いて勉強したいのに、全国あっちこっち行かされて、命を賭けた戦いをさせられて……本当、嫌になります」 「まったく理不尽な話ね」そう言ったのは単語帳をめくっていた黒岩だった。「怪獣の鎮圧は国を守る為に不可欠なことだけれど、その為に青空さん個人が人生の大切な時間を進んで差し出すのは、あまりにも不条理だわ」 青空は何度も繰り返し深く頷いた。ここまでハッキリと、積極的に青空の抱える不満を誰かに言語化してくれたのは初めてだった。 「怪獣対策局とやらが青空さんに戦いを求めるのは当然だけれど、青空さんがそれに抵抗するのもまた当然よ。青空さんには青空さん自身の一度しかない人生と、一つしかない生命があるのだから。もう少し何とかならないのかしら?」 「実は今日も、対策局の支部から逃げ出してここに来たんです」青空はつい心を開いてそれを白状した。「今頃支部の局員さん達は大慌てだと思います。今に迎えに来るかも……」 「ヒーローも大変な訳だ」白石は炒め物の中からピーマンとタマネギを取り除き、青空の方に寄せた。食べろと言う意味らしい。「いやヒロインかな。戦闘美少女だよ。プリキュアだよ。セーラームーンだよ。キューティハニーだよ。素敵だね」 「特撮作品ではなくて?」と黒岩。 「どっちでも良いよ。国を守る為に命懸けで戦っているのなら、それは立派なことなんじゃないかな? あーし尊敬するよ」 「どうかしらね?」黒岩は冷笑的な表情を浮かべた。「結局アイツらって、何かの不思議存在から与えられた力で超人になって暴れているだけで、自分から努力してそうなった訳じゃないのよね。青空さんだってそれと同じよ。たまたま選ばれたというだけで、何も特別なことは……」 「黙れ!」 白石は吠え声を上げて机を強く叩いた。 教室中が悄然となった。青空も思わず息を飲む。立ち上がって強く黒岩の方を睨む白石に、黒岩は至って冷静な視線を返した。 「あなたは誤解していると思うわ」黒岩は涼し気な声で言う。「ワタシはあくまでも、人々を救う医者になる為に勉強に励む生身の青空さんの方が、余程立派だし尊敬できると言いたいだけよ」 「選ばれたのは偶然だとしても、その責任を果たす為に命懸けで戦い続けるのは、誰にでも出来ることじゃない。そこには敬意が払われるべきでしょう?」 白石は完全に表情を消していた。据わった目付きでじっと黒岩を見詰めるその姿には、底知れぬ程の迫力がある。しかし黒岩がそれに動じた様子はない。 「それは本当に青空さん自身の意思なのかしら? 周囲からの圧力に屈する形で無理やり戦わされているだけでしょう? 同情や感謝ならするけれど、尊敬するかというと違うわね」 「青空さんの意思は関係ないんだよ。現実に青空さんが戦わなくちゃ国が亡ぶなら戦わさないとどうしようもないんだよ。泣こうが喚こうが関係がない。全ての国民がそれを強いるし、強いて当然。あーしだってそう。でもだからこそ、青空さんにはその戦いに報いるだけの物が与えられるべきだと思う。敬意や富と言った形でね。そうじゃない?」 「後から尊敬や金をくれてやれば命懸けの戦いを強いても良いと? それこそ理不尽なんじゃないかしら?」 「理不尽だろうと何だろうとどうでも良い。綺麗事抜かしてる間に怪獣が国を踏みつぶす。そうならない為に青空さんを犠牲にするんだよ。犠牲になって貰っているんだよ。それを……」 「全体主義の為の尊い生贄という訳ね。酷い欺瞞だわ」 「何をしたって埋め合わせにはならないけれど、それでもせめて与えられる物は与えられるべきだと言いたいんだよ。特別扱いしてちやほやしてあげて当然だと思うし、それは欺瞞とかじゃないんじゃないかな?」 「国民が青空さんに戦いを強いるのは当然だわ。でなくちゃ国が亡ぶもの。青空さんがそれに抵抗するのも当然だわ。戦えば死ぬかもしれないもの。それだけのことじゃない?」 自分の頭上で交わされる激論に怯んで青空は涙目になっている。心情的には黒岩の味方だったが、しかし青空がもし今の立場にいなければ白石のように考えたような気がした。 「クロの考え方は分かった。でも実際に命懸けで戦っている人に対して、面と向かって敬意を欠いたことを言うのは、流石にクロが悪いんじゃない?」 黒岩は不承不承と言った様子で肩を竦め、首を横に振った。そして不本意であるという態度を明らかにしながらも、形式的には折れて見せた。 「そうかもね。ワタシが悪かったわ。ごめんなさいね青空さん。失言だったわ」 「い、良いんです良いんです。む、むしろ、嬉しいくらいで。黒岩さん、私が思ってることと、同じようなことを言ってくれたから……」 青空は尊敬も金も特別待遇も欲しくなかった。ただ自分の生命と人生を守りたいだけのことだった。どれだけ富や名誉が与えられたところで、対価として命懸けの戦いを強いるというのなら、それは明確に青空の敵だった。 「青空さんが良いなら別に良いんだけどさ」白石はいつもの柔和で軽薄な態度に戻った。「ごめんねランチ中に大きな声出しちゃって。ほら、卵焼き一個だけあげるから、許してよ」 「え、ええ。良いですよ」 青空は甘い味の卵焼きを一つだけ食べた。 〇 午後からの模試を受け終えた。 本調子ではなかった、と思う。準備が不十分だったので当たり前だが。炭水化物を控えているという白石から弁当箱にぎっしりの白米を食べさせられていた為、ブドウ糖こそ足りていたが、そもそもの予習が足りていなければ点数など取れるはずもない。 その所為か、その後黒岩と白石と共に行った自己採点においては、青空の点数は二人と比較して圧倒的に低かった。 「仕方ないよ」白石は慰めるかのようだった。「青空さんずっとバタバタしてたんでしょう? 世界を救う為に戦ってたんだ。時間的にも精神的にも環境的にも恵まれてなかった訳なんだし、それで良い点が取れるんなら銀緑塾に意味なんてないもんね」 「そうかしら?」黒岩は顔を顰めていた。「確かに人によって事情はあるわ。でもそれを言い訳にして『仕方がない』と言ってしまうのなら、最終的に大学を落ちることも『仕方ない』ということになってしまう。この結果は重く受け止めるべきよ」 「そんなことは青空さんだって分かってることでしょ? そんな耳に痛いことを言うのはやめてあげてよ」 窘めるように言う白石。青空は打ちひしがれていた。青空はこれまで銀緑塾のAクラスの中でも上位の成績を誇って来た。理三にも十分に合格できるという確かな手応えを積み重ねて来たのだ。こと勉学に置いて順風満帆だった青空にとって、今回のことは初めて経験する挫折だった。 「これ……多分Bクラスに落ちますよね」青空は肩を落としながら言った。 「そりゃあこの点数じゃね」白石はあっけらかんと言った。「気を落とすことはないよ。Bクラスから理三行く人だって何人かは毎年いるんだから。クラス分けの模試はこれからもあるんだし、下克上のチャンスだってまだまだ残されてるよ」 そうなのだ。確かにこの一件は大きな挫折ではあるが、しかし致命的で取り返しのつかない挫折ではない。今はまだ夏休み前で受験までは幾ばくかの猶予があるし、共通模試ではA判定が出ている事実だってある。弛まぬ努力を続ければきっと……。 「今のままじゃ無理よ」黒岩は断言するかのようだった。「いくら青空さんが優秀でもハンディキャップが大きすぎるわ。塾にも学校にも碌に通えず、独学で何とか凌いでるようじゃ、偏差値なんて落ちて当然。今回のことでそれは分かったでしょう? このまま行けば青空さんは受験に失敗するわ」 「ちょっとクロあんたなんてことを言うの?」 「聞いて青空さん。ワタシ、あなたと一緒に理三に行きたいの」黒岩は青空の肩を掴んで、真摯な表情で訴えた。「あなたは大変な努力家よ。その努力は報われなくちゃいけない。それを妨害する人達がいるというのなら、あなたはそれと全力で対立するべきだわ。自分の為に、それと対立しなくちゃいけないのよ」 その通りだと思った。だがどうやって対立するというのだろう? どれだけ青空が手足をばたつかせたところで、青空に戦いを強いようとする人々の力は強大だ。何せ国家そのものが相手なのだから、立ち向かうのにも限界がある。 その為の方法を、一体誰が青空に示してくれるというのだろう。その為の力を、一体誰が青空に与えてくれるというのだろう? 「……ごめんなさい。偉ぶったことを言い過ぎたわ」黒岩は息を吐いて首を横に振った。「あなたのひたむきさを知っているものだから、それが踏みにじられていることに、どうしても腹が立ってしまって」 「まったくもう。何様のつもりかと思ったよ」白石は頬を膨らませている。「他人に感情移入して、義憤に駆られて見せるのは気持ち良いんだろうけどさ。でもその苛立ちを、青空さん本人に受け止めさせてどうする訳?」 「いえ……その、良いんです」青空は言った。「お二人には感謝しています。また一緒に勉強してください」 「Aクラスのこの席でね」白石は笑顔を浮かべた。「まだ落ちると決まった訳じゃないけど。でもどっちにしろ、青空さんならきっとまたここに戻って来るよ。あーし信じてるからね」 根拠のないことだとは思わなかった。いや実際には何の根拠もないのだろうが、それを不快だとは思わなかった。この二人とは塾の席順が近いだけでプライベートで仲良しこよしという訳では決してなかったが、それでも同じ目標の元切磋琢磨する良い間柄なのだと感じられた。 〇 塾を出ると既に十時を回っていた。 暗い夜道を一人で歩くこの時間をかつての青空は愛していた。特に夏の夜は良い。涼し気な夜の匂いを嗅ぎ、都会の空に微かに浮かぶ星々を探して歩いていると、今日もたくさん勉強出来たという満足感に浸ることが出来た。帰ったら今日出た課題のどれかに手を付けようだとか、あそこの復習をしておこうだとか、勉強の計画を立てるのもこの時間だった。受験という競技にひたむきに邁進することに青空は充実と青春を感じていた。 しかし今では、勉強のことを考えると焦燥と不安に襲われて、激しい苦しみを感じるようになっていた。どうして自分はこんなに情けないのだろうと自らを卑下する気持ちと共に、自分をこんな状況に追い込んだバカげた怪獣達と、戦いを強要する対策局の面々への憎しみを覚えた。 かつての習慣から、青空は自宅へ向けて歩を進めていた。本当なら今すぐにでも怪獣の出る支部の方へと走って戻らなければならなかったが、黒岩に言われたことを思い出すとどうしてもその気分にはなれなかった。一秒でも長く怪獣だの何だのが登場する非現実な現実から逃避していたかった。 そんな青空の前に、裸の赤ん坊を抱いた少女が突如現れた。 それは本当に『突如現れた』としか言いようがない。どこかから歩いて来た訳でも生えて来た訳でも降って来た訳でもない。この世のどこでもない場所から今いるその場所に、その姿がただ現出したのだ。 青空は思わず立ち止まった。少女の無機質な相貌がじっと青空の方へと向けられている。身じろぎ一つせず表情一つ動かさず、しかしその目は明確に青空の姿を捉えていた。胸に抱かれている裸の赤ん坊だけが、その細い両腕の中で気に入りの体勢を探すかのように、無邪気に手足をばたつかせていた。 「だぁああ。あああああ。だぁああああ」 赤ん坊が抱いた。少女が口を開く。 「次の怪獣は××県×市に現れます」 青空は眩暈がした。次なる怪獣の出現が予知されたということは、前に予知されていた怪獣が討伐されたということを意味する。同時に、青空はまた新たなる出現先に向かわなければならないということだ。 「あうらうだう」「戦士達はまた一つ怪獣を滅した、と主は申しています」 「だぁああ。あだぁあああ」「武器はまた一つ完成に近づいた、と主は申しています」 「あひゃ。あひゃひゃっ。あだひゃひゃひゃっ」「あなたもまたあなたの武器を強くする為、いずれ戦うことになるだろう、と主は申しています」 「あだぁああ。ああああ。ふにゃああああっ」「人類の為ではなくあなた自身の為に。あなた自身の意思で。そしてその相手は怪獣のみならず……」 「あのっ」青空は思わず声を上げていた。「あなたは……私達はどうしてこんな……」 少女の姿は消えていた。 どこへ消えたのか分からなかった。地上平面を歩き去った訳でも、天地どちらかに吸い込まれた訳でもない。ただ消滅した。目を開けていてすらその瞬間を確認できたと言い難い。気が付けばただいなくなっていた。 青空はしばし呆然としていた。膝が震えている。 何もかも勝手だと思った。弄ばれていると思った。こんなものに付き合っていられないと感じた。こんなものが自分の生命を脅かし人生を阻害しようと言うのなら、青空は憎しみを持って全力で立ち向かわなければならない。その為に手段は選んでいられないのだと青空は悟った。 自動車の音がした。 背後から走って来た自動車が青空の隣で停車した。見覚えのある車だった。運転席の扉が開くと、中から微かに表情に苛立ちを滲ませた緑川が降りて来て、冷ややかでも温かくもない声で「乗って」と告げた。 青空は唇を結んで後部座席に乗り込んだ。 〇 「受験勉強は中断した方が良いかもしれないわね」 運転席に座る緑川の表情を直接伺うことは出来ない。バックミラーには、ただ赤茶けた眼球と血管の浮いた白目が見えるだけで、その瞳からは何の意思も読み取ることが出来なかった。 「私も東大だったから分かるけれど、ちゃんと良いところに受かろうと思ったら、遮二無二勉強するのは当たり前のことよね。けれど、今この国を守る使命を帯びた青空さんに、怪獣を追って全国のあちこちに行かなければならない青空さんに、それだけの余裕があるとはとても思えないわ」 青空は何も答えない。流れる景色にも目をくれず、ただ運転席に座る緑川の背中だけをじっと見詰めている。 「確かに、青空さんにとって受験勉強は本当に大切な物事よ。人生が大きく変わると言って良い。ご両親の病院を継ぎたい気持ちも良く分かる。とても親孝行よね。でもね、物事には順序があるの。大学に入るのも医者になるのも、まずはこの国を、地球人類を救ってからじゃないと出来ないことだと私は思うの」 青空は何も言わない。 「日本という国や人類が滅びてしまえば、どの道大学で勉強なんて出来やしないのは分かるわよね? 青空さん個人のことだけを考えても、進学する前にまずは怪獣をすべて倒してしまわなければならないのよ。その為に人生の計画を一年くらい後にずらすのも、ひょっとしたら仕方がないかもしれないわ。一年間、一年間だけ時間を貰えれば、私達は必ず怪獣出現の原因を突き止めて根本的に事態を解決する方法を……」 「それって」自分でもぞっとする程冷たい声が出た。「浪人しろってことですか?」 青空は思い浮かべるのは浪人を繰り返し精神を病み、家に引き籠った姉の姿だった。ゴミ貯めのようになった自室で蹲り、丸々と醜く肥え太り、人生と自分自身を台無しにして行った、優秀だったはずの姉。厳しく偉そうで高圧的に自分を支配した姉。嫌いだった姉。尊敬していた姉。家にいなくなった今となっては、取るに足らない程ちっぽけな存在へと生まれ変わった、高卒で一事務員の現在の姉。心の中に居着いたまま青空を叱咤し続ける、当時の姿のまま忘れ得ぬ、思い出の中の憎たらしい過去の姉。 「……本当に申し訳ないと思っている」緑川は緊張した声だった。「でもあなたには怪獣退治に専念して貰わなくちゃいけないことも確かなの。出来る限りの報酬は出すわ。だから、どうか青空さんの大切な一年間を、この国と人類の未来の為に使って貰えないかしら?」 青空は何も答えない。 「命懸けの戦いを他の二人に負担して貰っていることについて、青空さんは何も感じない訳じゃないんでしょう? あの二人だってね、命を賭けているだけじゃなく、色んなものを犠牲にして戦ってくれているの。黄地さんは女流棋士を目指していて夢が叶う目前まで来ていたのだけれど、今は研究会に出るのも諦めて怪獣退治に専念してもらっている。赤錆さんだって、あれで最初は渋ったのよ? 一緒にいたい家族も好きな友達も、憧れていた男子だっているんだって。それを多額の報酬金と、怪獣と戦ってくれる限りはどんなワガママでも聞くし何をしたってお咎めなしという特別待遇と引き換えに、どうにか納得して貰えたのよ。事態が収拾した後は、勉学を含む人生全てに特別なサポートを約束する。出席日数もどうとでもなる。だから、青空さんもどうにか折り合いをつけて……」 青空は『戦士』としての武器である拳銃を掌に生成し、緑川の方を向けていた。 緑川は絶句した。たちまち震え出した脚でどうにかブレーキを踏むと、ぎこちない様子で青空の方を見る。青空を落ち着かせるためだろう、どうにかおだやかな笑顔を繕っている。対する青空の表情は歪そのもので、顔面蒼白で小刻みに震えていて、明らかに正気を失っていた。 「ごめんね青空さん。たくさん無理を言ったから青空さんを追い込んでしまったのね。私が悪いわ。一度落ち着いて貰えないかしら。ほら、深呼吸を……」 「車を降ろせ!」そう言った青空の声は切羽詰まっていた。小刻みに震える上下の顎が、青空の白い歯を打ち鳴らしガタガタという音を生じさせている。ヒステリーを起こしていたのだ。「私は受験勉強をするんだ。もう二度と怪獣退治なんてするもんか。家に帰せ!」 「ごめんなさい。青空さん、それは出来ないの」緑川は腹を括った表情で言った。「青空さんには戦って貰わないといけないの。これから怪獣が現れるところに、向かって貰わないといけないの」 緑川はここを勝負所と捉えたようだ。ここで阿るようなことをしてしまえば、二度と青空は戦闘に参加などしないだろうことを、緑川は理解していた。緑川は自らの命を賭けて、国を守る為に青空と対峙することを選択している。 「私一人をそれで撃ち殺したところで何にもならないのよ」緑川は覚悟を決めた様子で、拳銃を握る青空の両手に腕を伸ばす。銃を降ろさせるためだ。「私を殺せば今一時、家に帰れるかもしれない。でもね、そんなことをしたって次の局員があなたの元へ現れるだけよ。その人だって、きっと命を賭けてあなたのことを説得するでしょうね。その人のことも殺す? そうやって何人も何人も殺し続ければ、あなた自身がこの国の、この星の人類の敵となるだけよ? それでも撃つの?」 「うるさい!」青空は泣き叫んだ。「私の邪魔をするな!」 発砲した。 弾丸は緑川に命中こそしなかったが、こめかみの脇を抜けてフロントガラスを破壊した。粉々に砕かれたガラスが二人に降り注ぎ、緑川の頬を微かに切り裂いた。強化ガラスを貫通した弾丸はそのまま何一つ勢いを減じずに、遥か上空へ向かって突き進み天へと消えた。 怪獣すら滅ぼす威力を持ったその弾丸は、幸いにして誰のことも傷付けることもなく、次第に勢いを減じて空へと消えた。 だが銃を暴発させた青空には、激しいまでの動揺が襲い掛かった。自分が怪獣以外のものに発砲したという事実に直面し、その事実の恐ろしさに青空は悲鳴を上げた。 「わ、わぁああああああっ!」 そしてアタマを抱えて蹲り、両目から滂沱の涙を流し始める。とんでもないことをしてしまった、許されないことをしてしまったという事実が青空の全身を駆け抜けて、その幼い精神をパニック状態に陥らせていた。 こんなはずではなかった。銃なんて出すつもりはなかったし撃つつもりなんてなかった。ただ頭が真っ白になって自分でも何が何だか分からなくなっている内に、気が付けばフロントガラスが砕け散っていた。それが自分のしでかしたことかと思うと、青空は気が狂いそうになっていた。 「ひぃいい。ひぃいいいっ! わぁああああ!」 「落ち着いて!」緑川がぴしゃりと言って、運転席から青空のいる後部座席に身を乗り出して、その肩を強く、それでいて優しく掴む。「分かったわ青空さん。一杯一杯なのね。ごめんね。私が悪かったわ」 「ひぃ……ひぃい。ご、ごめんなさい。ごめんなさいぃいいっ」 「良いのよ。青空さん。あなたは何も悪くないのよ」緑川は必死の形相でそう言って、青空のことを穏やかに宥める。「私達皆であなたのことを追い込んでしまっていたのね。分かったわ青空さん、あなたの言う通りにしましょう」 「……私の言う通り……?」青空は震える声で言った。 「ええ。一旦休憩してもらうことにしましょう」緑川は表情筋のすべてを動員したかのような笑顔を浮かべる。「一旦お家に帰りましょう。それで青空さんの気持ちの整理が着くまでの間、ご両親や学校の先生たちのケアを受けながら、好きなことをして過ごしなさい。ゆっくり休んだって良いし、受験勉強をしたって良い。あなたは怪獣となんて戦わなくて良いのよ」 それはまさに断腸の思いの決断だろう。緑川自身の生命を守る為に……ではない。あくまでも人類の為だ。 ここで青空を追い込んでバーンアウトさせてしまっては、人類にとって新たな脅威が生まれる可能性すらある。それは避けられなければならない事態だと緑川は考えたらしかった。 「家に……帰れる」青空は涙を流しながら言った。「私、本当に家に帰れるんですか?」 「ええ。そうよ」 緑川は優しい笑みを崩さずに、そう言って頷いたのだった。 〇 4 〇 ようするにある種のノイローゼに陥っていたのだ、と今となっては青空は思う。 勝負の夏を控え青空の精神は不安定になっていた。学校ではしょっちゅう後ろから突き飛ばされ、教科書やノートを隠されるなどの虐げに合い、快適とは言い難い学習環境だった。銀緑塾はこれ以上なく勉強に専念出来る場所と言えたが、その授業内容は過酷であり、付いて行くのに強力なプレッシャーを感じ続けていた。 そんな中で怪獣退治だ。咆哮を上げ破壊の限りを尽くす怪物が青空の生活にちらつき、常に恐怖に晒されていた。巨体を持って暴れ回る異形を前にしては本能的な死の恐怖は免れず、いつだって逃げ出したかったが、周囲はそれを許さず青空に戦いを要求し続けた。 怪獣は青空から勉強をする為の時間や環境をも奪い去って行った。学校にも行けず塾にも行けず、全国を連れ回されながらどうにか独学を続けるのは不安な日々だった。その所為でBクラスに落ちたことと、緑川に浪人を打診されたことで青空の精神は限界を迎え、錯乱して銃を乱射するに至ったのだ。 今では大分落ち着いている。身支度を整え、電車の吊り革に捕まりながら、青空は安堵の息を吐いていた。 青空は全国的な名門校である海鳴高校に向かっていた。もちろん登校をする為である。 かつては学校に行く道中は憂鬱に彩られていた。忌々しいいじめっ子たちのことを思うと胃の中がシクシクと痛むかのようだった。しかし今の青空は日常に回帰出来た喜びからかさっぱりとした気分であり、窓を流れる東京の景色をぼんやりと楽しむ余裕すらあった。 学校に着く。下駄箱で靴を履き替え教室に着くと、桃園が青空の方を一瞥して目を伏せた。 思わずこちらからも目を反らす。またしても桃園からの仕打ちに耐えることを思うと、流石に憂鬱な気分になった。 授業が開始される。身を入れて勉強をしていると時間が経つのはすぐだ。二時限目、三時限目と続き、やがて昼休みを迎えた時、青空は今日は一度もいじめに遭っていないことに気が付いた。 どういう風の吹き回しだろうか、階段から突き落として死なせかけたことで懲りたのだろうか? いやいやそんな程度の理性のある人間だったら、日頃あんな仕打ちをして来るはずはない……などと考えつつ、弁当箱を持って教室を出る際に、桃園に声を掛けられた。 「なあ青空」 「は、はい何ですか?」 ついに来た、と思った。コンビニにパンを買って来いとか、それくらいの要求であってくれと心の中で希う。嫌なのは声を掛けておいていきなり胸を突き飛ばされる場合だが、それにしたってそこで終わりになるのならまあ、マシに済んだと思うべきだろう。上記二点の組み合わせというのが、考えられる説の中ではもっとも有力かもしれない。 鬼が出るか蛇が出るか、青空は暗い覚悟を決めた。 「あんたさ、ウチに復讐とかしたくないの?」 「は?」 ……復讐? 一度もそれを妄想したことがないと言えば嘘になるが、その度に余計にみじめな気持ちになるので、最近ではどう立ち回れば被害を最小に抑えられるのかということしか考えていなかった。 「別に、ないですけど」 こう答えて置くしかない。そうです私はあなたに復讐したいです、思う様ぶちのめしてアタマを踏みつけてやりたいです、なんて口にしたら実際にそうされるのは青空の方だ。 「本当に?」 「ほ、本当に」 「……何で?」 「なんでって……」青空は視線を宙にさ迷わせた。「い、意味ない、……ですし」 自分で言ってその通りだと思った。自分に危害を加える相手を憎たらしく思うのは当然だ。しかし報復を実行するかというと躊躇われる。誰かを攻撃して苦しめようとすれば、自分の方にもストレスがないはずがない。何の利益もないのみならず、自らの品位を下げているだけだ。 やる前からむなしいと分かる。そんなことを青空はやらないのだ。 「ふうん。そっか」桃園は弱気な顔は見せまいとするような澄ました顔で、しかし恐怖に耐えかねたように目を反らして、やや震えた声で言った。「当たり前だけど、もうあんたにちょっかい掛ける気とか、ウチにはないから」 そう言って足早に、逃げるようにその場を立ち去って行く桃園を見送る。青空ははてなと小首を傾げた後、桃園が態度を豹変させた理由に気が付いた。 彼女は自分が怪獣を倒す戦士として目覚め、超人的な力を得たことを知っているのだ。青空が怪獣に向けて弾丸を放つ様子は度々テレビで放映されるので、それも当然である。 その気になれば青空は桃園のことを片手で捻り潰すことが出来る……と桃園には思われているようだった。そんなこと出来る訳がないのにと青空は思う。捻り潰される桃園が気の毒だから……ではもちろんなく、それが大きな生理的嫌悪感を伴う行為だからだ。虫を叩き潰す柔らかな感触すらおぞましいというのに、人間に暴力を振るったり、殺害したりするなどとんでもない。 去って行く桃園を見送った後、青空はいつものように教室から遠く離れたトイレの個室に陣取った。そして弁当箱を広げる前に、胸の中から湧きだして来る衝動に任せて万歳をした。 「もういじめられない! やったぁあ!」 超人的な力を授かったことに、青空は初めて感謝した。 〇 青空は真に勉学に集中できる環境を得た。 学校の学期末テストにも集中して取り組み、学年で六位という現時点の青空としてはなかなかの結果を手にする。そして残り少ない一学期を修了し、勝負の夏を迎えた。 臥薪嘗胆の日々だった。毎日のように鉄緑塾に向かい、家では持ち帰った課題と格闘。Aクラスへの下克上を果たす為に誰よりも予習復習をした。 塾の環境は良かった。誰も青空を特別扱いしなかった。そんなことをするだけの価値が青空にはないことを、銀緑塾の秀才達は理解しているのだろう。恐れるでも媚びるでもなく、フラットに接するか、あってもやや遠巻きにすると言った程度だった。その為青空は何の抵抗もなく塾の自習室に入り浸ることが出来た。 勉強に余計なことは全てシャット・アウトした。風呂上がりにドライヤーで髪を乾かしながら参考書を熟読し、食事中右手で箸を操りながら左手では単語帳を捲り続けた。休日も朝起きて机に着いたら、風呂とトイレと食事以外は、或いはその最中であってもペンを手放すことはなかった。 その成果は出た。青空はめきめきと学力を上げ、八月末に行われる模試で好成績を獲得し、無事にAクラスに返り咲き白石と黒岩の二人に再会を果たした。 「おめでとう青空さん。きっと帰って来るとあーし思っていたよ」白石はピースサインを作りながら屈託のない笑みを浮かべる。 「まあ。ここで戻って来られないようじゃ、ワタシの知っている青空さんじゃないわよね」黒岩は青空の方に目もくれずに参考書を捲りながらも、その声音には満足と安堵が滲んでいた。 「……ご心配をおかけしました」 「心配なんてしてなかったよ。青空さんならすぐ戻って来るって分かりきってたし」白石は本心でそう言っているようだった。「でも怪獣退治は大丈夫だったの? 毎日自習室に入り浸っていたみたいだけど」 「ああ。大丈夫です」青空は頷いた。「しばらくお休みをいただいたものですから」 「え、そうなの? その間の怪獣退治は?」 「他の二人がやってくれています」 「そんなの許されるの?」白石は小首を傾げた。「他の二人は戦っているのに、青空さんだけ休んでて良いものなの?」 「私は大学受験がありますので」青空はさらりと言った。「他のお二人は高校を出たら報奨金で悠々自適に暮らすんでしょうけど、私は違いますし」 「ふうん。へぇ」白石はそこで瞳から表情を消したが、青空はそれに気付いていない。 「別に不公平って程不公平でもないんですよ? 他の二人は怪獣を一匹倒すごとに何十億円も受け取っていますけど、私は当然それは貰っていない訳ですし。そりゃあ二人だって好きでやってるって訳じゃないんでしょうけど、でもその気になれば拒みようのあることを拒んでいないのも、確かな訳ですから。私のようには勉学や他のやりたいこともないんじゃないですか?」 「まあ、それはその通りなんでしょうね」黒岩は頷いて言った。「怪獣相手にチャンバラごっこして有名になれて、お金もたくさん貰って……一見すれば夢のような話に見えるわよね。青空さんはちゃんと自分の夢と信念を持っているから、そんなものに目を眩まされることはないんでしょう。けれど、俗世的な凡人はどうしても安きに流されて……」 「黙れ!」 机を叩く音が聞こえた。 白石だった。表情を消して立ち上がり、黒岩のことを静かに見つめている。 黒岩はそれを見て溜息を吐いた。「あなたね、そうやっていきなりキレるの、ワタシは何とか受け入れているけど、普通だったら扱い辛いったらないわよ」 「知ってるよ。だからクロが親友なんじゃん」 「納得いかないことに怒るなとは言わないけど、最初っからそうやって激怒して見せるんじゃなく、予兆のようなものを匂わせるところから始めて欲しいわね。そしたらこっちも対応の余地があるから」 「匂わせたところでクロは気付かないじゃん。無神経だから」 「気付かないんじゃなくて、気付いた上で言いたいことは言わせて貰っているだけよ」 「だったらあーしも言わせてもらうよ。あのね、怪獣と戦ってる人達にとっては、世界の為に戦わなくちゃいけないっていうことがまずあって、お金や名誉なんてのは後から付いて来るだけのもじゃないのかな? 少なくとも、守ってもらってるだけの立場のクロが、どうあれ命懸けで戦っている人のことを悪く言うのはおかしいんじゃないのかな?」 「あくまでワタシが言いたいことは、青空さんが他の二人に遠慮する必要はないということなのよ。二人は確かに怪獣と戦っているけれど、それに報いるものはきちんと受け取って、満足もしているはず。だったら青空さんが富や名誉より大切な学問を修めるのを憚る理由は、どこにもないはずよ」 「話を逸らさないで。あーしはただ、戦場で命を賭けて戦っている人達へのクロの言動を咎めているのであって、青空さんが戦いを休んでいることへの賛否について、対立している訳じゃないんだってば」 「同じような力を得て同じような状況に置かれれば、ほとんどの凡人は怪獣と戦うことを選択するわ。そんな彼女らに何か特別なことがあるのかしら? 確かにワタシは少し冷笑的に過ぎるかもしれないけれど、心から尊敬しているような人なんてそうはいないわよ」 「あーしはその冷笑的な態度について物申したいんだってっば。クロだってこの街に住んでいるんなら、怪獣をその目で見たんでしょう? いくら無敵の力を持っているからと言って、あんなに大きくてビルをいくつも壊しちゃえるような怪獣を相手に戦えるのは、それだけ勇敢である証じゃない? 誰にでも続けられることじゃないよ。実際に、青空さんは脱落した訳なんだし……」 「青空さんは脱落したんじゃなくて、自分の人生を守り抜く為の高貴な選択として、戦わないことを選んだに過ぎない訳でしょう? 私はむしろ、青空さんの方が遥かにブレない自分を持っていて、勇敢であるように感じるわね」 「三人ともがその高貴な選択とやらをしたら国はどうなると思っているの? あーしに青空さんの選択をとやかく言う権利はないけれど、でもクロは少しは自分の言っていることの意味を……」 その時だった。 教室の扉が開いて一人の少女が中に入って来た。鮮やかに染められた真っ赤な髪が目を引く少女だった。 「ここが渚の通ってるクラスなんだよねー」赤錆だった。手には身の丈の半分以上はある大きな弓を帯びていて、その身は何故か返り血を浴びたようにあちこち赤く濡れていた。誰かしら射殺して来たのかもしれない。「銀緑塾っていうけど意外とガリ勉っぽい見た目の奴ばっかじゃないんだねー。むしろシュッとしてる子が多いっていうか。つか渚どこー?」 教室中の視線を浴びながら、赤錆はあたりを歩き回り青空の姿を探した。 「あ。いたいた渚。おーい」 「え、あ、ああ。こ、こんにちは」 青空はへどもとした声で答える。赤錆はひょいとジャンプすると天井近くまで飛翔して、ふわりと青空の机の上に着地した。踏まれたテキストの上に思いっきりスニーカーの痕が着いた。 「ひさしぶり」 「ひ、ひさしぶりです」 「なんで顔出さなくなっちゃったの? こっちは黄地と二人きりじゃ退屈なんだってば。あいつつまんないし、人間に矢を撃つなとか小言ばっかり言って来るし」 「は、はあ……。すいません、受験に専念したくてですね」 「わたしだって受験生よ。服飾関係か美容師の専門学校行くつもりだったし。まあ口座に百億入ってるのに今更そんなとこ行く価値ないけどね。渚だって受験勉強なんてやめて遊び暮らせば良いじゃない」 「は、はあ……」 「つう訳でこれから遊び付き合ってよ。せっかくあんたに会う為に来たんだし。また一匹怪獣やっつけて、暇になったから」赤錆は屈託なく笑った。「地元の友達皆わたしのこと怖がるから、なんか合わなくなっちゃって。対等な親友になれるのって同じ『戦士』の子だけだし、黄地さんはクソ真面目だし、藍沢さんはもういないし、残りは渚一人だもんね」 藍沢さんって誰だ? 初めて効くその名前について何か言う前に、赤錆は青空の腕を掴んで引き寄せた。 「塾なんて終わりにして遊ぼうよ。ねぇねぇ」 強引に連れ出そうとするのを、青空はどうにか首を横に振って拒む。 「すいません夕香さん。私まだ受けたい授業あって」 「どうせ今日の塾はもう終わりだよ。廊下で一人殺して来たから。閉校になるに決まってるし」 「な、なんで殺したんですか?」 「足踏まれたのに謝罪なかった」赤錆はあっけらかんとしていた。「顔も元カレに似ててムカついたしね。成績良いの鼻に掛けて威張ってたけど、偏差値五十ちょっとのウチで学年何位だろうが知れてるっての。そういう意味じゃこの塾にいるのって本当の秀才ばっかなのよね? どの男が一番賢いの? 教えて。彼氏にするから」 「どうやって?」 「色気を使う」 「でもそんなすぐに好きになって貰えますか?」 「じゃあ付き合わなきゃ殺すって言って脅す」 騒然となる教室。青空はか細い声で「成績なら紅林くんが一番だと思いますが……」と呟いた。生贄を選定する行為だったが、それだけに塾内の最高実力者を公平に挙げた。 「どいつ?」 「そこの斜め前の……」 「顔見して」 全国模試一位常連で数学オリンピック銀メダリストの紅林は、不承不承とばかりに赤錆の方に向く。鼻孔が大きくニキビ面で天然パーマとおよそ見目麗しくはなかったが、眼鏡の奥には深い知性を讃えた鋭い眼光があった。 「ああダメダメ。偏差値と顔面偏差値の差が激しすぎ」 「は、はあ……」 「もっとシュッとした奴はいないの? まあ良いやどうでも。ねぇ遊ぼうよ渚」 「勝手に帰ったら良くないので……」青空は目線を反らした。ただでさえ色眼鏡で見られかねない身分だ。傍若無人な振る舞いをしたくはない。「閉校になるならなるで、正式に発表があるまで待ってもらえませんか?」 「あ? 良いよ真面目だね渚は」赤錆はそう言って青空の机のから飛び降りる。「じゃあわたし前の温泉施設で待ってるから来てね。最近サウナにハマってるんだ」 立ち去って行く赤錆。それを見送って、憮然とした表情をする白石に、黒岩が冷笑的に言った。 「あんなのが勇敢にも、尊敬に値するようにも、あなたには見えるのかしら?」 白石は表情の消えた視線を赤錆の背中に送りながら、何も返事をしなかった。 〇 赤錆は露天湯の傍の椅子にもたれていた。 目を閉じてくつろいだ様子の赤錆に、青空は控えめに声を掛けた。 「赤錆さん」 「今整ってるから後で声掛けて」 邪険にする口調ではなかったが赤錆はそう言って青空を遠ざけた。言っている意味は良く分からないがとにかくくつろぐのを邪魔してはまずいらしい。青空はそっと隣の椅子に腰かけた。 野外の露天湯コーナーは真夏の白銀の太陽に照らされていた。タオルを一枚巻いただけの状態で、浴びて来たシャワーで微かに濡れた身体に日光を浴びせていると、なるほどとても心地が良い。 思えばこの夏休みはずっと勉強ばかりに費やして来た。受験生だから珍しくはないのだろうし、またそうすることが当たり前の環境に身を置いても来たが、それにしても根を詰め過ぎていたのは否めない。赤錆に誘われて断れなかったからという口実ありきではあるものの、温泉施設で羽休めをするのも悪くなく思える。 久方ぶりのリラックスを味わっている青空に、隣で赤錆がおもむろに立ち上がって声を掛けた。 「んじゃサウナ行くよ」 「あ、はい」 「今日もう3セット目♪」 楽しそうに笑う赤錆。聞けばサウナで温まった後水風呂に浸かり外気浴で休むまでを1セットと数えるらしく、それを何度も繰り返すことで『整う』と呼ばれるディープリラックス状態に陥るのだとか。 「そうすると脳内から快楽物質がたくさん出てくるんだよ。それが気持ちが良いってだけじゃなく、美容や健康にも良いってサウナは言われてる」 眉唾だった。単に強い灼熱から解放された身体が安堵を感じているだけなのではないだろうか? 折檻の休憩や全力疾走後座り込むのが心地良いのと原理は同じだ。 「髪傷んだりしないんですか?」 青空は心配になって聞く。青空とて乙女だし、長く伸ばしたストレートの髪はお気に入りだ。 「いやわたし達超人なんだから髪なんて痛まないでしょ。怪獣に火ぃ噴かれたことは何度もあるけど、熱いって思うだけでなんでか髪は燃えないし、体も大して火傷しない」 「熱いとは思うんですか?」 「思うよ。感覚は普通の人と一緒じゃん。渚だって夏は暑いし汗も出るでしょ? 怪獣との勝負自体は毎回そんな苦戦しないし、攻撃食らっても滅多にケガしないししてもすぐ治るけど、でも痛いとか苦しいは普通にあるよ。だから戦う時はいつも大変だし、怖いんだよ」 サウナの中は薄暗く、当然ながら熱かった。激しい熱気が肌を焼き鼻孔を通り抜けて行く。苦しくもあるが面白い感覚でもあり、心地良いとも思えないでもなかった。内部にはひな壇のような設備があり、老若問わず様々な女性達がそこに腰かけて汗をかいていた。その最上段に青空達は並んで座った。 「だからね、最近はちょっと嫌になることもあるんだよ。あんたみたいに逃げ出したくなるのもしょっちゅうでさ。お金貰えるから頑張るけど、次いつ怪獣と戦う羽目になるのかと考えると、結構憂鬱」 「いつも私の代わりに戦って貰っててすいません。ありがとうございます」 自然と青空はそんなことを言っていた。怪獣と戦うことへの苦しみを、赤錆が初めて吐露したからだろう。自分とは違い莫大な報酬金を受け取っているとは言え、赤錆や黄地が戦ってくれていなければ、青空の立場も今と違っていたのは間違いがない。 「良いよ別に。わたしは戦士に目覚めて良かったと思ってるし」赤錆は言った。本心のように思えた。「わたしも大概好き勝手してるから、渚の振る舞いを咎めるつもりはないしさ。人それぞれだよね。どんなに特別な待遇とお金を手に入れるチャンスがあったとしても、それを享受するかはその人それぞれだし。別に良いと思うよ」 「そうです。その通りなんです」青空は大きく何度も頷いた。 「わたしは身の危険とかよりそっちに食いついたけど、食いつかない渚みたいのもいる。無欲だし珍しいとは、やっぱり思うけどね」 「黄地さんもやはり報酬金や待遇欲しさに、戦ってるんでしょうか?」 何の気なしに青空はそう言った。やや露悪的な言い方になったが、赤錆はそれを咎める風でもなく、ニュートラルに首を横に振った。 「それは違うっぽいよ。あの子、多分本気で人類の為に戦ってる。報酬金とか特別待遇とか、無関係にね」 青空はぽかんと口を開けた。 「そ、そんな人がいるんですかね?」 「いるよ。でなきゃあんな命知らず痛み知らずに振舞えない。あの子が前線でバチバチ怪獣と戦ってくれるから、わたしは後ろの方で弓でちくちくやってるだけで済むんだから、感謝なんだけどね」 確かに、黄地の持つ武器は槍であり、弓矢や拳銃のような遠隔武器を持つ青空や赤錆とは戦い方が異なる。怪獣退治に伴う恐怖やストレスも段違いなはずだ。少なからず破格な報酬を得られたとしても、信念なくして出来ることではないのかもしれない。 「でも真面目過ぎてたまにウザいんだよ。日頃からもっと矢の訓練をしろだの、敵の動きを良く見て的確に援護出来るようになれとか、同級生の癖に偉そう言って来るしさ。中学頃一緒のバスケ部でエースナンバー付けてた奴がそんな感じだったわ。こっちは友達と駄弁りながらテキトウにやりたいのに、一人だけ熱くなっちゃってさ。いるんだよねぇ、そんな奴」 「は、はあ……」 同調は避けつつも青空は内心で共感していた。思うところがあったからだ。 青空の通う海鳴高校は進学校だが、勉学のみに一途な者もいればそうでない者もおり、中には文化祭や合唱コンクールなどの行事ごとに熱を上げる生徒もいる。上手く住み分けてそれぞれ好きにやれるのが一番良いと思うのだが、中には過激派もおり準備や練習を手伝うことを強硬な態度で求めて来ることもあった。 『人任せにしないでよ!』とかなんとか。そっとその場を離れるかあらかじめ逃げておくか。どちらも叶わない時は従うしかない。あれはなかなかに困りものだった。 「他にもね黄地の奴ねっ。わたしがたまにムカついた奴射殺すことについて、ムッチャ口出しして来るんだよ。テキトウに聞き流すんだけどさ。一度なんてキレて掴み掛って来やがってさ。自分一人偽善者ぶるのは勝手だけれど、それを他人にまで押し付けて来るのは……」 赤錆は機関銃のように黄地の悪口を放ち始めた。同じコミュニティに所属する内、その場にいない者の悪口を言いたがる特有の心理なのだろう。 漫然と話を聞いている内に、青空はそろそろサウナから出たくなって来た。心臓は息苦しい程激しく脈打ち、全身は汗だくで喉は激しく乾いた。青空は出ることを赤錆に提案したが、赤錆は「十分はいなくちゃ意味がない」と首を横に振った。 「まだたった七分じゃん。頑張んなよ。でなきゃ外で気持ち良くなれないでしょ」 「でも死にそうです。喉がものすごく乾いて……」 「死ぬかぁ。あんた超人でしょ我慢しな」 そう言って肩を押さえつけられる青空。いくら超人でも感覚自体は常人と変わらないと言ったのは赤錆の方だ。熱がって苦しそうにする青空を完全に面白がっている。これはいじめじゃないのだろうか、いやいじめに違いないと青空が目に涙を貯めていた時に、サウナ室の扉が開いて数人の若い少女達が入って来た。 「あ」「あ」 青空は入って来た桃園と目を合わせ間抜けな声を発し合った。桃園の背後には取り巻きというべき良く一緒にいる友人が二人おり、彼女らは桃園の背後で青空から目を反らす。 三人はそれぞれ何事か囁き合った後、下段の方に並んで腰を着けた。「気にすることないよ」という桃園の声が聞こえたような気がする。 「すいません赤錆さん。私もう出ます」 「まだたったの八分だって。ガンバレガンバレ」赤錆は楽しそうに青空の肩に力を込める。 「いやその……ちょっと知り合いが入って来まして。気まずいっていうか」 「そうなの?」 「ええ。裸見られるのやですし……」 「スタイル良いのに。そんだけおっぱいでかい癖に」 そういう風に言われるのが嫌なのだ。じろじろ見られたり冷やかされたり、自意識過剰と断罪されるのが嫌だ。肩が凝るとか邪魔だとか、そういうのとは別の次元で青空は自分の体格にコンプレックスを持っていた。今はまだタオルを巻いていられるが、浴室にいる限り完全に全裸になる機会は必ずある。それをいじめっ子に見られるのは流石に嫌だ。 「とにかく、その、出してください」 珍しく強硬な態度を取る青空に、赤錆はそれ以上肩を掴むのをやめてくれた。 「しょうがないな。じゃあ出よっか」 「夕香さんも出るんですか? そちらはそちらでまだ楽しめば……」 「なんかドライじゃない? 一緒に出ようよ。一緒に来てんだから別々に行動しちゃ意味ないじゃん」 サウナを出るのはこちらの都合なのだから合わせる必要はないと思うが、拒むのもおかしいと思ったので一緒に外に出た。 〇 「二階のテラス行かない?」 浴室を出て服を着て髪をドライヤーで乾かしている時に、赤錆はそんなことを提案した。 「サウナ楽しんだ後テラスで風にあたるのが最高なんだ」 「でも桃園さんたちが施設にいて……」 「何あんたそいつらにいじめられてでもいるの? 大丈夫だよまだしばらく浴室にいるはずでしょう? それに、もしウザいんだったら、自分の拳銃で殺せば良いじゃん」 そんな風に割り切れたら楽なのだろうか? だが怪獣とは戦わず一般人は撃ち殺すというのでは、青空自身がこの星の敵であり悪だ。大いなる力を手にしたと言って大いなる責任が伴うとは思っていないが、悪用はいくら何でも許されないと感じる程度の倫理観はあった。 結局、二人はテラスに行くことにした。 テラスからは東京の素晴らしい景色が一望できる……という訳ではなく、建物を取り囲むビルが間近に見える他には、あるのは道路だけだった。所詮二階だ。ただまだ微かに濡れている身体に晩夏の風は心地良く、見上げる蒼天は眩く雲はくっきりとして白く厚みもある。青空はベンチに腰かけて目を細めた。 「どう? 結構良いでしょ」 そう言う赤錆に青空は頷いて見せる。それなりに本心だった。思えば青空が今しているのは『友人と遊びに行く』という行為に外ならず、それは青空にとって久しい経験だった。 「渚の銃ってさ、射程どのくらいあるの?」 「どのくらいって……さあ。分からないですね」青空は小首を傾げた。「実験とか言って緑川さんに測定されたことは何度かありますが、興味もないので忘れました」 「勉強のことは全部覚えてるのに、それは忘れるんだ」 「え、ええまあ。別に人より記憶力そのものが高い訳ではないので……」 勉強をすれば物事を学習する力は増す。だがそれは物事を効率良くアタマに入れる方法を習熟しているだけで、記憶力そのものが上昇している訳ではない。自分に合った暗記方法はそれなりに知っているが、活用しなければそれまでだ。色んなことを勝手に覚えて行くようになる訳ではない。 「本気で興味ないね戦うことに」 「ま、まあ……」 「わたしの結構長いよ。四キロと三百メートルだって」 とんでもない射程だった。いくら何でも弓矢でそれは無理があるだろう。糸で出来た弦の力のみを動力に、そんな遠くまで届く武器がこの世にあって良いはずもない。そこらの中学生が自らの創作物に付与する設定のようだったが、それはこの話に限ったことではない。 「それはすごい。でもそんな遠くに当てられるんですか?」 「そこは訓練だね。青空だって何度かやらされたでしょ? 勉強したいからとか抵抗してたけど、それでも何度かはやらされてたじゃん」 そうだった。人々が避難して無人となった街に巨大な的が設置され、ビルの屋上からそれを撃たされる。命中する度緑川が機嫌を取ろうとして褒めてくれたが、青空はその時間がひたすら苦痛だった。 「流石に渚よりは練度高いはずだよ。見せてあげよっか」 「どうやって?」 「あの遠くのビル狙ってみるね」 そう言って、赤錆は弓を取り出して矢を番え、弦を引き始めた。 止める間もなかった。早く射る方の訓練もしているのだろう。というかしているのを見たことがあった。 放たれた矢はしなやかな軌道を描いて突き進み、青空の視界でみるみる小さくなって消えた。かと思うと大きな音がして、視界の果てのぼやてしまいそうなところでビルが吹き飛び、瓦礫となって地上へと降り注いだ。 「ほら命中」赤錆は得意そうだった。「大したもんでしょ」 「な、な、な……」何をしているんですか! とは青空は言わなかった。あまりのことに絶句していた。 あのビルの中には大勢の人がいるはずで、赤錆がしたのは彼らを殺害する行為だった。瓦礫となって降り注いだビルの破片も危険だった。ぶつかれば死ぬ。 戯れに放った赤錆の矢はこの街の人々の営みをただの一撃で無茶苦茶にした。そんなことをしておいて無邪気に笑っている赤錆に青空は恐れを成した。 「まずいですよ」青空はとりあえずそれだけ言った。 「なんで? ビルなんて怪獣がいくつも壊してるよ?」赤錆は小首を傾げる。 「いやでも……ここ私の住んでる街ですし。両親が巻き込まれるのは困りますし……」 そう言いつつも、幸いにして両親と姉の職場はあの付近ではない。良かった。もちろん何も良くはないが、それでも青空にとってそれはとてつもなく良いことだった。良いことでないと誰に言えるのだろう。 「そっか。確かに、渚の親殺しちゃうのは流石にまずいよね」 「そ、そうです。そうなんです」 「あんたって他に友達とかいる? いないよね暗いもん」 「え……? まあ……はい」 青空は白石と黒岩の顔を思い浮かべたが、彼女らは別に友達と言う訳ではない。同じ志の中で切磋琢磨する間柄だが、受験はあくまでも個人戦でありベタベタと仲良くすることはない。自習室で会ってもわざわざ近くには座らないし挨拶もしない。二人とも青空を応援してはくれるし、自分自身彼女らに好意を持っているようにも思うが、それだけだ。 「兄弟は?」 「お姉ちゃんがいます」 「そういやそうだっけ? いくつくらい?」 「二十四歳のはずです」あやふやだった。そう言えば誕生日を知らない。「六つ上なので」 「じゃあうんと若い奴狙えば大丈夫だね」 「へ?」 「えいやっ……と」 赤錆はさらなる矢を番え、今度は地上へ向けて発射した。 放たれた矢は地上を歩く若者を正確に射殺した。 意味が分からなかった。身体に矢が貫通して倒れ伏しているのは、高校生らしき少年だった。彼と赤錆の間には何の接点も殺意が芽生えるような動機も何もないはずで、あまりの蛮行に青空は絶句していた。 「あははははははっ」赤錆は笑っている。「たまにやるんだ。こういうの。面白いでしょっ」 赤錆はさらなる矢を番え発射する。また別の少女に命中し、命を奪う。 超えてはならない一線なるものがあるとして、赤錆の精神性はその遥か彼方に位置していた。腹の立つ相手を我慢せず殺す、というだけでもその線を踏み越えるのに十分なのに、この少女はおもしろ半分に人を撃ち殺しはしゃぎ笑っていた。 力を持ち怪獣と戦う特別な人間であるという自意識が、赤錆にある種の傲慢さや万能感を与えているのだろうか? それだけなら単に調子に乗っているという話だが、しかしそれで済ませるには今日の行動は完全に常軌を逸していた。与えられた力や環境が赤錆を狂わせたというだけでなく、生来の気質として彼女はどこかおかしいのかもしれなかった。 「渚もやんなよ」赤錆はさらなる矢を番える。パニックになって逃げ惑う人々に狙いを付ける。「面白いよ。せっかく力を得たのに渚は大人しすぎるから、このくらいのことして度胸付けなよ」 「やめましょうよ」いくら何でも……と、青空は赤錆に縋りついて制止した。「流石にそれはまずいですって。いくら赤錆さんが国の為に戦っていても……」 「まずくないよ。何も怒られないよ」赤錆は露悪的な笑みを浮かべる。「いくら救国の英雄だからってこんなことをするのは間違ってる。それは当たり前だよね。でもね。仮にこれが間違いだとして、その間違いをいったい誰になら咎められるって言うの? わたし達がヘソを曲げたら、滅ぶのはこの国の人間のすべてなのにさ」 赤錆は矢を放つ。どこかで誰かの悲鳴が上がり、人垣の中央で矢が刺さって死んでいる少女の姿が見えた。その気になればビルを破壊できる矢なのだから、綺麗に射殺す為に相当な手加減をしていると見るべきだろう。 「人からは咎められなかったとしても、悪い夢に見たりとか自己嫌悪に陥ったりとか、そういうことはあるじゃないですか」青空は言葉を選んでどうにか説得にかかる。それなりに真剣だった。「やめましょうよ。今は良くても何日かしてきっと後悔しますよ」 「そんなウェットじゃないっての」赤錆は露骨に煩わしそうな顔をした。「つか渚。今喉乾かない?」 唐突に投げ掛けられた質問に、青空は「へ?」と素っ頓狂な声を上げて、律儀に返答する。 「それはその……お風呂上りですし」湯舟には浸かっていないが乾いている。浴室を出た後でウォータークーラーで少しの水を飲んだが、足りていない。「乾きますけど」 「わたしも。一緒になんか買って来てくんない?」 「え」 「ダメなの?」 赤錆は僅かに剣呑な声で言う。赤錆を制止するという形で珍しく逆らって来た青空を、咎めるようなニュアンスがそこにはあった。 「いえ。その」培われて来たパシり根性が青空に告げる。これ以上この件で食い下がればきっと怒りを買うだろう。ここは穏便に。「良いですよ」 「わたし、コーラね」 赤錆は屈託のない笑顔に戻ってそう言った。そのことに安堵している自分にも、青空は気付いている。赤錆の暴挙を止めることは、最早完全に諦めていた。 〇 外からは喧噪が聞こえ続けている。赤錆は今も尚無差別に人を射殺しているようだ。 多分赤錆は気ままにこれを続けたかったのだろう。一度でもそれを咎めて来た青空が彼女にとっては邪魔だった。だからジュースを買いに行かせた。 関わらずに済むならそれに越したことはない。青空は最早そう考えている。一緒にやることを強要されたら断るのには難儀するだろうし、隣で見ていろと言われた場合も気が重い。赤錆が飽きるまでゆっくりと時間を掛けてジュースを買って、戻った時にまだやっていたら、何とか理由を付けて帰宅を試みよう。 考えを巡らせながら、二階の無料休憩所の傍にあった自販機には気付かなかったことにして階段を降り、一階の自販機コーナーへと足を向けていた。その時だった。 「おい青空! あんた、なんで止めないんだよ!」 声を掛けられた。桃園だった。 ターゲットになるのを恐れて温泉施設から出られないでいる一団の中に桃園はいた。桃園は憤怒を剥き出しにした表情で青空に歩み寄ると、剣のある声で詰問した。 「矢を射ってるのあんたの連れなのよね? テレビでも見たことあるわ。弓矢を使って怪獣と戦う髪の赤い女。あいつでしょ?」 桃園の剣幕に怯え視線を反らすと、窓の外で人が倒れているのが見えた。逃げ去った人々に置き去りにされ、胸を矢が貫いて道路に倒れ伏している。何者かが矢を放ち人々を殺していることを、施設に残る人々はこうして目の当たりにしたのだろう。 新たに一本の矢が地上に降り注ぎ、逃げ惑う人々の内の一人に命中した。「おいっ」と桃園は青空の胸倉を掴む。 「あんたあいつと一緒に来てるんだよね? だったら何で止めないの? どうしてこんなところをのこのこと歩いてるの?」 「……だ、だって。ジュース買って来いって言われましたし……」 青空は素っ頓狂な答えを口にした。胸倉をきりきりと締め上げられて苦しく、目に涙が滲んだ。 「何バカなこと言ってるの! あんたがぶちのめして止めなくてどうするの。他の奴が止めに入っても殺されるだけだろうし、どうにか出来るのあんただけでしょ?」 「すいません」 「すいませんじゃなくってさ! 分かってんの?」桃園は声を荒げる。「外では今も次々と人が死んでる! あんたが止めない所為だ! あんたが止めに行かないと、あの赤髪の奴は何人殺すか分からないんでしょう?」 板挟みとはこのことだ。青空は途方にくれた。どうすればやり過ごせるか考えて、へどもどした声で機嫌を取ることにした。 「そ、その内飽きますから……。それに桃園さんはここにいたら被害に遭わないですし、良いじゃないですか」 「あんた。何言ってんの?」 「何って……赤錆さんその内降りてきますけど、矢で狙うのが楽しいだけだから、同じ建物にいる人を無差別攻撃とかしないです。それでも怖いなら、トイレにでも隠れておけば関わり合いにならずに済みますよ」 「そう言う問題じゃない」 「分かりますけどしょうがないですよ。止めたんですよ一応でもダメで」 「殺してでも止めて来てよ! あんたならあいつとだって戦えるんでしょう?」 「嫌ですよ。私の所為じゃないんですから私を責めないでくださいよ。関係ないんですよ私。やってるの私じゃなくて赤錆さんなんですから私のことは離してくださいよ」 乾いた音がした。 桃園に頬を張られた。じわじわと頬に広がる痛みに青空は目に涙を貯める。超人たる青空はこんなことでケガはしないし、頬だっておそらく白いままなのだろうが、それでも痛みは常人と何も変わらない。痛いのは不快だし精神的な動揺もあるし、尊厳だってすり減って行く。 「……あんたさ。そういうところなんだよね? 気付いてる?」 「は……?」青空は桃園の言っている意味が分からない。 「全力で止めた訳じゃないんでしょ? 分かるわ。ちょっと言ってダメだったらすぐに撤退して来たんだよね? あんたの性格だと絶対そうでしょう?」 「それはその……そうですけど」青空は表情を俯けた。「でも仕方ないじゃないですか」 「あんたにとっては仕方なくても、殺されている人達にとっては仕方なくないの。一応は止めたけど無理だったから仕方ない、自分は悪くないっていうのは、あんた一人の都合に過ぎないの。悪いとか悪くないとかじゃなくて、あんたが動かなきゃ大勢死ぬの。それってつまりあんたの責任なの。どうしてそれが分からないの?」 分かっている。そんなことは分かっている。あれ以上止める勇気がないことも、増してや赤錆と戦いたくないのも、青空の都合だった。戦うのが怖いのも命が惜しいのも受験勉強がしたいのも、青空一人だけの個人的な都合であり、死んでいく無辜の人々や滅びの危機に瀕する世界には、何も関係がないはずだった。 だがだから何だと言うのだ? 青空は青空だ。それ以外はそれ以外だ。青空が青空一人の都合で動いで何が悪いというのだ? 何も自分から積極的に人に迷惑を掛けている訳ではない。本来ならそれで何も悪いことはないはずなのだ。それなのに。 「ウチがあんたをいじめてたのはね、自分の都合や権利ばっかりを主張する、あんたのその腐った根性が気に食わなかったからなんだよ!」桃園は吠える。「自分もクラスの一員なのに、文化祭の準備にも合唱コンの練習にも参加しない。すぐに姿を眩ます。放課後はすぐに学校から帰る。昼休みはあろうことかトイレに逃げ込む。そうやって勉強とか自分のことばかりちまちまやってる!」 だから何なのだ? 確かに青空は協調性のある方ではないが、しかし放課後や昼時間は青空のものであり、鉄緑塾の膨大な課題と必要なだけの予習復習をこなすのに必要な時間だ。それを投げ打ってまで学校行事に協力する義務なんてない。そもそも。 「そんなこと、今起きてることとどう関係あるんですか?」 「あるわよ。どちらも共通して、あんたの無関心で無責任な態度の表れじゃないの」 「確かに学校行事にあまり関心はなかったかもしれません。しかし責任はちゃんと果たしていたはずです」青空は珍しく反論する。「総合学習とか学校行事の為に設定された時間は、ちゃんとやってました。だってそれは授業だから。でも放課後や休み時間は、そもそも私のものじゃないですか。参加する責任なんてないはずなんです」 「分かるわよあんたの言ってることも。ずっと親に勉強漬けにされて来たから、せめて学校行事は全力でやりたいとか、それこそウチの都合だしね。だから放課後の練習時間だって、皆の塾なんかの都合に合わせて設定して来たし、課題とかで抜けたい奴には融通だってして来た。けどあんたは……あんたは全部で何回練習に参加したのよ! 数える程もなかったじゃないの!」 二年生の時、桃園とはそういうことでしばしば揉めた。精神的には従う方が楽だったが、しかし東大理三を志す青空は少しの時間も無駄に出来なかった。文句を言われている時はへどもど頷いてやり過ごしながら、いざ昼休みや放課後が来るとそっと姿を眩ませていた。 「そんな義務はない、塾がある課題がある放課後や昼休みは自分のもの、権利がある都合がある……その通りなんだよ! 皆それぞれに権利も都合もある中で、皆が少しずつそれを差し出して、投げ打って、そうやって成立させてる行事なんでしょ!」 「そんなの私に関係ありません!」青空は喚き叫んだ。「クラスの行事も赤錆さんがしてることも怪獣のことも、私の人生に何にも関係ありません!」 「あるんだよ! 何で分からないんだよ! そうやって自分のこと自分のこと……あんたはどうしてそればっかりなんだよ!」桃園は吠え返す「そんなんだから……そんなんだから、今外であの赤髪に殺されてる人のことだって、無関係だと思えるんでしょう? 違うでしょ。あんたもこの場に居合わせた一員なんでしょ? 増してやあいつを止める力を持つのは、この中であんた一人なんでしょう……? あんたには止める責任があるはずなんだよ!」 桃園は息を吐き切ったように沈黙した。その後荒い調子で何度か呼吸をして、息を整えてから懇願するように言う。 「止めて来てよ……。お願いだから。お願いだから止めて来てよ。もう見ていられないんだよ……こんな酷いこと」 青空は困惑していた。自分をいじめ続け、あまつさえ階段から突き落としさえしたこの女に、無関係の人の死をこうも全力で止めようとする善性があることが信じられなかった。こんなまともな感性があるのなら、どうして自分にあんな仕打ちをしたのかと問いたかった。 「……青空さんの態度はあーしだってぶん殴りたいと思うけどさ」声がした。「でも結局はそこのそいつも、人任せにしているっていう点では、本質的には同レベルだよね」 振り返る。限界に近い程脱色された髪、着崩した制服に並ぶ缶バッチと左右で色の違うソックス。目を赤くして憮然とした顔の白石がそこにいた。 「……白石さん?」青空は問う。「なんでここに……」 「クロが赤髪の女に殺された」白石は震える声で言う。「塾が閉校になった後、ずっとクロと口喧嘩してたんだ。お互い目を真っ赤にして言い合って言い合って、息も切れそうになってた時に、飛んできた矢でクロは殺された。あっという間だった」 青空は衝撃を受けていた。如何に赤錆が闇雲に矢を射ったところで殺せる数は知れている。その中に青空の個人的な知り合いが含まれていることなど考えてもいなかった。 「あーしさ。前にこの街に怪獣が来た時に、お兄ちゃんを殺されているんだ。迫って来る怪獣から一緒に逃げている時に、怪獣との戦いで崩れたビルの瓦礫に潰されて死んだ。悲しかった。怖かった。自分もこのまま死ぬんだと思った。それを救ってくれたのは、怪獣と戦う戦士の女の子達だったんだ」白石は語る。「だから私は青空さん達に感謝していた。尊敬していたんだ。それを知っていて、あーしの前で好き勝手言うクロが許せなかった」 白石は青空にこそ自分の話を聞かせているようだ。黙って青空はそれを聞いていた。 「分かってるんだよ。クロはそう言う性格。相手が誰だろうと自分の意見を言うことを躊躇しない。迎合しないし退かない。クロ自身怪獣にお母さんを殺されてるけど、その上でクロは青空さんにあんな風に言うことが出来る。怪獣と戦わない青空さんを肯定し尊重することが出来る。すごい奴だよ」 血走った目が青空に向けられる。青空は思わずぞっとした。 「でもそんなクロは死んだ。面白半分に放たれた矢に射られて死んだ。あーしはそれを許せない。これ以上の犠牲も許せない。青空さんにも誰にも止めることが出来ないのなら、あーしがぶん殴って止めて来る」 そう言って本当に赤錆のいる二階への階段に向かい始める白石。その歩みからは躊躇も決意も感じ取ることが出来ず、その振る舞いはどこまでもニュートラルなものだった。黒岩の死を受けた白石がそうするのはあくまでも自然なことで、特別なことでも何でもないのだと感じさせる態度だった。 「待ってください。殺されるだけです」青空は言う。 「確かにこれは勇気じゃなくて無謀だね。分かっているよ」 「そうですよ。その通りなんです。やめた方が良いですって」 「でもだったら青空さんは勇気を出してくれたの?」白石は振り返ることもしない。「くれなかったからクロは死んだんだよね? 黙っててよ」 青空は返答に窮した。ハッキリ友人と定義する勇気を持てないままだった塾の仲間が死地へ向かうのを、青空はそれ以上何も言わずに見送った。 「あんたさあ」共に白石を見送った桃園が、呆れたように青空に言った。「今のって知り合いでしょ? 止めなくて良かったの?」 「止めてたじゃないですか」 「本気で言ってる?」 「何がですか?」剣呑な桃園の様子に、青空は声を震わせる。自分を鋭く睨み付けるその相貌が、青空は昔から怖くてたまらなかった。「見てたはずですよね」 「……二年生から持ち上がりでずっとあんたと一緒にいるけど、今確信したわ」桃園はこれまでにない深い蔑みを載せた視線を青空に注いだ。「あんたは最悪のクズよ」 何故そこまで言われなければならないのか。青空には疑問でならなかった。 それ以上桃園は何も言わなかった。青空に期待するつもりを失くしたように視線を反らすだけだった。見放されたように感じなくもなかったが、これ以上絡んで来ないのなら何でも良かった。 青空は課せられた用事を果たすことにした。一階に並んでいる自販機に歩み寄りコーラを一つ買い、少し悩んでからもう一つ買った。 赤錆が虐殺を開始してからというもの緊張の連続で余計に喉が渇いていた。甘い物も欲しかった。今ごろ二階のテラスでは白石が殺されているはずだったが、それを悲しむ思うと同時に、青空には青空の生理的欲求があった。それを満たすことを阻む理由もまた見当たらなかった。 二本のコーラを持って二階に上がる。 テラスへ向かうと、案の定白石の胸に矢が突き刺さり、絶命した様子で血を流し、倒れ伏していた。 「遅かったじゃん」赤錆が咎める口調でもなくそう言った。 「すいません。ちょっとその、クラスの人に絡まれてまして」青空はへどもどとした表情で言う。「ほらさっきのサウナに入って来た知り合いの人ですよ。あの人本当に苦手でして、言いがかりを付けられると、上手くあしらえなくて。しつこくて」 「殺しちゃえば良かったのに」赤錆は掌を青空に差し出した。「まあいいや。ほら。コーラちょうだい」 「はい」青空はコーラを差し出した。 「ありがと」赤錆は懐から財布を取り出して、千円札を一枚青空に渡す。「これお金。お釣りはあげるから。嬉しいでしょあんた報酬金断ってるんだし」 「ありがとうございます」 青空はほんの少し、しかし本心から笑った。ちょっとした小銭が嬉しかったのだ。 自分の分のコーラを青空は飲んだ。弾ける炭酸の感触が楽しく強烈に甘い味がする。美味だ。節制の為と思いあまり飲まないようにしていたが、今日は色々あって大変だったから、構わないだろうと青空は思った。 帰ったらまたたくさん勉強しなければならない。そのことに思いを馳せながら空を見上げる。テラスには相変わらず白銀の太陽が降り注いでいて、澄み渡った蒼天に思わず目を細めた。 「サウナの後のコーラ、おいしいでしょ」赤錆はどこか得意げに言う。 「そうですね」 足元で転がった白石の死体だけが、二人のそのやり取りを物言わずに聞いていた。 〇 5 〇 青空の日々は連綿として続いた。 あれからすぐに二学期がやって来た。少し心配したが変わらず桃園は青空をいじめて来なかった。ただ青空の力に恐れを成していた一学期の終盤とは異なり、そこにはいじめる価値も構う価値もないというニュアンスが感じられたが、同じことだった。 遮二無二勉強をし続けた。それが出来ることが快感だった。クラスメイトは青空のことを畏怖して遠巻きにしたが、元より友達などおらず構われないのもニュアンスが違うだけで同じことだった。 世間的には、青空達戦士少女は変わらず救国の英雄として扱われているようだった。赤錆も含めて。 おかしな話だった。あれほどの暴挙を繰り返しているのだから、赤錆の罪は誰かが撮った動画などが出回るなどして白日の元に晒されているはずだ。にも拘らず、どういう情報規制を強いているのか、その手の投稿は徹底的に削除されるらしく、悪い噂の類は完全にネットから締め出されてしまっている。世間が抱くイメージと実際の自分達の間には大きな解離があると言わざるを得なかった。 時には妙なのが絡んで来ることもある。ファンを名乗る人間に声を掛けられる場合はへどもどやり過ごす。妙な言いがかりで突っかかって来るような場合もあるが、そういう時はとにかくその場を逃げ出した。こればかりはいつまで経っても馴れることがなく、憂鬱な気持ちが続いていた。 一方で、勉強の調子はすごぶる良かった。鉄緑塾ではAクラスを維持していたし、海鳴高校でもトップクラスの成績が続いていた。東大模試で一桁順位を達成するという快挙を成し遂げた時は、強い快感と共に自分は理三に行けるんだという確信が全身を貫いた。 「大したものだね」模試の結果を机の上に広げながらニヤニヤしていた青空に、紅林が声を掛けた。「模試の順位など水物とは言うが、それにしたって誰にでも取れる順位ではないよ」 「ありがとうございます」今回で四度目となる全国一位を達成した天才に褒められて、青空は喜んだ。 「たまたま見えてしまったんだが、とても良い順位だったので思わず声を掛けてしまった。不快だったらすまなかったね」 「良いんです。それよりも、この間は赤錆さんがすいません」 「構わないよ。容姿をなじられた時は僕の半分も脳味噌詰まってない癖にと憤慨したものだったが、しかし今では彼氏にして貰えなかったことを残念に思っている程だ」 「え? そうなんですか?」 「ああ。僕は彼女に恋をしている」 はっきり断言され青空は息を呑んだ。確かに赤錆の容姿は良い方だと思う。人類を守る為に戦う戦士だという特殊性に惹かれる異性もいるかもしれない。しかし紅林のような頭の良い少年が、果たしてそんな単純な理由で人を好きになるものだろうか? 「どこに惹かれたんですか?」 「スパ銭のテラスから通行人を矢で射殺しまくってる姿が、とても良くてね」紅林はとんでもないことを言ってのけたが、少し照れたようなその顔は年相応の恋する少年に見えた。「彼女はとてもシンプルだよ。バカだけどね。あの屈託のなさは本当に得難い。あんな女の子に日本中連れ回してもらいながらその好き勝手を拝めるのなら、ひょっとしたら受験期をフイにしても釣り合うんじゃないかと、半ば本気で思うほどさ」 その時のやり取りはとても印象的だった。とは言えそれで交流が生まれるということもなく、紅林とはそれっきりそれほど口も利いていない。たまに事務的なやり取りがあるだけだ。 白石と黒岩がいなくなった今、勉学に没頭する青空はほとんど誰とも関りを持たなかった。銀緑塾の生徒のすべてが非社交的ながり勉ではないが、そうしたステレオタイプもやはり一定数存在しており、青空はその中に心地良く埋没していた。 そんな中で、やがて九月も終盤に差し掛かろうとしていたある時。 緑川が運転する車に乗って、黄地が青空の前に現れた。 〇 塾の帰り道だった。 青空は機嫌が良かった。二週に一度というハイペースで行われる塾内模試で、塾内四位の成績をマークして自信を確たるものにしていた。努力が報われる過程より幸せなことなどこの世にはなく、夜の匂いを嗅ぎながら涼しい秋風を浴びて青空の足取りは弾むようだった。 順調で充実した受験期を謳歌する青空の前に、緑川の車が止められた。そして後部座席の扉が開かれて、中からやけに目付きの悪い大柄の少女が姿を現した。 「よう」 黄地だった。引き締まった肉体は筋金のようで、切れ長の三白眼はぞっとする程鋭い眼光を放っていた。あちこち跳ねた金髪が月明かりを照り返し、車から降りて仁王立ちで青空を睨む姿は夜叉のようだった。 「車乗れよ」 「何でですか?」青空は全力で警戒した。 「次の怪獣が出る地域の支部に行く」 「私、今大切な受験期で……」青空は震える声で言った。「あの、私、休んでて良いって言われましたよね?」 「気持ちが落ち着くまで、少しの間ね」緑川が運転席から降りて冷たい声で言った。「もういい加減、十分に良く休んだでしょう? モラトリアムはもう終わりよ。さあ」 「今ものすごく大切な時期なんです!」青空は強く訴える。 「知るか。来い」黄地は端的に言った。「赤錆が怪獣に大きな負傷をさせられた。地面に叩き付けられて、腕を折ったんだ。あたし達の肉体はケガの治りも早いからそれ自体は一日か二日で治るだろうが、問題なのはそうした負傷者が出る程敵が強くなっているその事実だ」 「黄地さんと赤錆さんの二人では、安全に勝てなくなってきているのよ」緑川は言う。「もし二人が怪獣に負けたらこの国は亡ぶわ。そうなったら青空さん、あなただって困るでしょう?」 「しかし……」青空は目に涙を貯めた。「私、嫌です」 「そうか。嫌なのか」 黄地がそう言って左手を前に掲げると、そこから上下に広がるようにして巨大な槍が現れた。黄地の得物だ。黄地の伸長を大きく上回る棒状の柄の先端には、武器としてはおよそ不必要な程巨大な穂が付属している。黄地はその槍の先端を青空の方に向けた。 「来ないのならば、おまえを殺す」 「何を言って……」 「やって良いわ」緑川が信じがたいことを口走った。「容赦しないで」 黄地は槍を持ったまま青空に掴み掛って来た。咄嗟に身を翻し退避するが、巨大な得物を持っている割には向こうの脚が速い。後ろから槍を持たない方の手で首根っこを押さえられ、組み伏せられる。 その場でもがいてみるが黄地の力は強かった。青空とて超人のはずで、その腕力は怪獣を除くありとあらゆる物理的な力に対し無敵であり、誰かに組み伏せられたとしてもその気になれば簡単に抜けられるはずだった。無論黄地とて超人だったが、それは青空も同じである以上互角程度でなければおかしいはずで、体勢的不利を差し引いてもこれほどびくともしないのは不可解だった。 「殺しなさい」緑川が言った。「最早その子を説得している余裕はないわ。藍沢さんの時のように、その子の力を奪うのよ」 藍沢さんという名前を耳にして青空は微かに反応した。以前赤錆が口にしていた名前だったがその詳細は聞けていなかった。そして今もまた、それを質問する余地のある状況ではなさそうだった。 「待て。それはしたくない。あたしにチャンスを与えさせてくれ」黄地は言った。 「甘いわよ」 「あたしは人類の為に戦っている。もうこれ以上、仲間を手に掛けるのは嫌だ」 何を言っているのか良く分からないでいる青空の髪を黄地が掴み、その顔を引っ張り上げたかと思うと地面に叩き付けて来た。顔の前で花火が散るような感触があって、青空は強い痛みと恐怖を感じた。 黄地は容赦せずそれを数度に渡って続けた。鼻が折れる乾いた音がして青空はうめき声を上げた。人生で初めて経験する骨折の痛みに青空は涙を流した。こんなに痛む鼻など捥いで取り去りたいと思うような強烈な痛みだったが、そんなものは黄地の折檻の一部に過ぎないようだった。 悶え苦しむ青空から手を離した黄地は、その場で立ち上がって今度は脇腹を蹴りつけて来た。 「あうっ」青空は呻き声を発する。「助けて……やめて……許して」 「ならあたしと一緒に人類の為に戦うか?」黄地は低い声で問う。 「…………」青空は何も答えない。 「戦うのかっつってんだよ!」 怒鳴り声を発しながら背中を踏みつけに来た黄地に、青空は手の平に生成した拳銃で反撃を試みた。この武器の良いところは撃つだけなら青空自身の腕力や体勢は関係のないところであり、全身負傷して地面に横たわった状態でも闇雲に乱射することなら十分に可能だった。 問題は命中するかどうかだ。まったく狙いを付けていないのでいくら至近距離でも外す可能性はあったが、しかし運良くというべきか闇雲に撃った内の一発が黄地に命中した。 きちんと出血しているのを見るに付け、弾丸は黄地の体内に食い込んでいるらしかったが、しかし彼女は仁王立ちの体勢を崩さなかった。拳銃で撃たれた人間が何故立っていられるのかと困惑する青空に、黄地は強い力を込めた蹴りを放った。 それは凄まじい威力であり青空はその場を吹っ飛んだ。先ほど青空をいたぶっていた蹴りが相当な手加減の元行われた証拠として、宙を舞った青空は数秒の滞空時間の後数百メートル先の地面に叩き付けられた。 着弾した地面のコンクリートが割れて破片があたりに飛び散った。人通りのない夜でもなければ、この破片か青空自身が誰かしらに当たっていた可能性もあるだろう。青空は腹から血を吐きながら、身を起こすことも出来ずにもがいていた。 何が何だか分からなかった。青空は武器を使って攻撃したのに、黄地は膝を着くこともせず平然と反撃を返して来た。対する黄地は自身の武器である槍を使わず、ただの蹴りだけで青空を飛翔させその全身に立ち上がれない程のダメージを齎している。二人の戦闘経験に雲泥の差があるのは承知の上だが、それだけでは説明できない程の根本的な力量差を感じさせた。 降伏するか逃げるか。青空はすぐさまそれらの選択肢をアタマに思い浮かべる。しかし降伏して助かったという経験は青空にとって乏しいもので、自身に悪意を向ける相手にどれだけへつらったところで勘弁して貰えた試しはない。へどもどすればするほど相手を調子付かせ虐げられて来た経験が、敵からはとにかく少しでも離れなければという強い克己心を生み、青空はどうにか立ち上がった。 体の骨のいくつかが折れていた。強烈な痛みを抱えながらそれでも立ち上がれるという事実に、青空は自らの身体の異常性を再認識する。ほとんど力が入らない身体だが、ほとんど入らない小さな力でも、立ったり歩いたりすることが可能なのだった。 しかし足ったり歩いたりできるというだけでは、襲い来る悪鬼から逃げきるのはままならない。 数百メートルの距離を一っ飛びで詰めて来た黄地は、涼し気な足取りで目の前に着地して青空を絶望させた。本能的に身を翻した青空の肩を掴み前を向かせると、手首を捻り上げて得物である銃を落とさせる。 「そんな銃であたしをどうこう出来る訳ないだろうが」 血の滲む腹部に指を突っ込むと黄地は弾丸を取り出して青空に見せた。黄地が弾丸を指で弾くと、宙を舞ったそれは砂のようになって消滅する。黄地が服をめくって負傷した腹を見せると、血に塗れた傷口はみるみる内に閉じて行き、付着した血液を除いて跡形もなくなった。 「なんでそんな……」青空は震える声で言った。「ば、化け物……」 「あたしとおまえ達とは違うんだよ。何せ二人分だ」 黄地は鼻を鳴らして足を振り上げ、地面を転がる青空の銃を狙う。踵を落とすと簡単に拳銃が砕けた。厄災しか齎さない銃だったが、敵に襲われている現状縋れる唯一の武力であるそれを砕かれたことで、青空の全身にたちまち絶望が訪れた。 「心配せずとも、あたしらの武器は壊れても数分で復活するよ」そう言って黄地は槍を持っていない方の右手を振り上げる。「だから死ね」 肩を殴り飛ばされた。左腕が吹っ飛ぶんじゃないかと言う衝撃と共に青空は再び宙を舞った。地面とほぼ垂直に低い軌道で飛んだ青空は、何度も身体をコンクリートに打ち付けながら数百メートルの距離を転がると、虫の息の状態でその場に横たわった。 最早立ち上がることは不可能だった。殴られた肩はおそらく粉砕骨折しており連なる左腕はピクリとも動かせず、全身あちこちが痛すぎて最早どこがどのくらい痛いのかも分からなくなっている程だった。ただこの苦痛に満ちた身体から出て行きたくて、恐怖に満ちた現状から救われたかった。その為なら青空は何を差し出しても構わなかった。 やがて悪魔の足音が響き始めた。黄地は今度は一足で青空の前に到達するのではなく、じっくりと一歩ずつ近付いて来た。それはとてつもない恐怖を演出した。青空は竦み上がり神や悪魔、この世のありとあらゆるものに願った。助けてくれ。 「怪獣とあたしとどっちが怖い?」 やがて傍まで来た黄地が青空を見下ろした。 「戦わないというのなら、あたしは何度でもこうやっておまえを痛めつける。行き過ぎて殺してしまうのなら、それはそれで構わない」 「どうして……」青空は辛うじて動かせる口で喚くように言った。「どうして私が怪獣と戦わなくちゃいけないんですか!」 「あたしにボコられない為だよ」黄地は冷たい声で言う。「もうそれで良いよ」 「どうして私がこんな目に遭うんですか? 私が何をしたって言うんですか? お母さんやお姉ちゃんの言うこと良く聞いて、勉強だってすごくすごく頑張って来たのにっ! 何があっても我慢してっ、逆らわないでっ、絶対に叱られないようにっ。ずっと良い子にして来たのにっ! 世界中の誰よりも私が一番っ! 一番っ! それなのになんで? ねぇなんでっ!」 青空は泣き喚いていた。剥き出しの感情がとめどなく口から溢れて止まらなかった。恥も外聞もどこにもなく、ただただ理不尽な現実に対する嘆きだけが青空の全身を染め上げていた。 「何言ってんだ、おまえ」黄地は微かに動揺した様子だった。「ずっと良い子にして来たんなら、親や姉ちゃんに言われたら戦うのかよ?」 「戦う訳ないでしょう! バカじゃないですか!」青空は理性を失くした声で叫んだ。「バカですよあなた! そんなに強いんだったらその気になればどうとでも拒否できるのに、なんで言われるがまま戦ってるんですか! なんで国とか人類とかそんなのの為に命賭けるんですか! バカですよ!」 「本気で言ってるのか?」黄地は心底から青空の言葉が理解できないようだった。「あたしらが戦わなかったら、大勢の人が死ぬんだぞ?」 「どうでも良いですよそんなの!」青空は慟哭していた。止めどなく溢れる涙が頬を伝い落ち、震える声が嗚咽と共に吐き出される。「私が戦わなきゃ亡ぶんだったら日本なんて亡べば良いんです! 私に勉強させてくれないんなら人類なんてなくなれば良いんです! 私だってあなた程じゃないけど強いから怪獣からも逃げられますし、ちゃんと賢いから外国行っても生きていけます! 習ったから英語も喋れます! 海外の医学部にだって、勉強すれば受かります!」 「…………」黄地は表情を引き釣らせていた。「……それがおまえの本心なのかよ。この世界の危機を前にして、自分が良ければそれで良いっていうのかよ」 「そうじゃない人なんているんですか? いる訳ないじゃないですか!」青空は強い確信と共に吠えた。「世界か自分かだなんて自分に決まってるじゃないですか! そうでないというならあなたはただの異常者です! アタマがおかしいんです! どうかしてます! あなたに比べたら赤錆さんの方が百倍まともです!」 「…………」黄地は最早絶句している。 「自分が一番大切だなんて生き物なんだから当たり前でしょう? 誰にとってもそうだっていうのを理解し合うことが、互いを尊重して思いやるってことじゃないんですか? その為にもまずは自分を一番大事にしなくちゃいけないんじゃないですか?」 「こんな時にいったい何を言ってるんだ? そんな生温いこと言っていられるような立場にいないって、まだ分からないのか? バカだろおまえ」 「バカじゃない! 毎日勉強頑張ってるもん! バカっていうのは国とか人類とか世界とか、そう言うくだらないことの為に自分自身を粗末にしてしまう人のことです! あなたみたいな人のことです!」 黄地は絶句していた。隔絶した魂を持つ存在を目の当たりにしたように、戸惑った瞳で青空のことを見下ろしていた。 「何で逃げないんですか? なんで戦うんですか? おかしいのは自分だってどうして考えないんですか? あなたみたいな破滅主義者の落伍者が、世界の誰より良い子にして来たこの私から、何を奪う権利があるって言うんですか?」 泣きじゃくりながら、青空は黄地に縋りついて許しを請う。 「もうやめてくださいよ。助けてくださいよ。放っておいてくださいよ……」 「黙れ」 静かな声でそう言って、黄地は青空の首元に槍を突き付けた。 「もう喚くな。何を言われようと、あたしのやることは変わんねぇよ」 「暴力と脅しですか?」 「ああそうだ。おまえみたいな一言居士な奴を言葉で納得させようと思わねぇよ。元々口は下手だしな」 黄地は首元に突き付けた槍を青空の首に触れさせる。ちくりという感触と共に、明瞭な死への恐怖を感じた。 「……で、どうすんの? 戦いから逃げるならあたしはおまえを殺すよ?」黄地は冷ややかな視線で青空を見下ろした。「難しい話はしていない。戦うか逃げるか、生きるか死ぬか、どっちか選べ」 青空は歯噛みした。恐怖の前に平伏すという体験は青空にとって珍しいものではない。誰だって生きていれば絶えずそういう目に遭い続ける。そうやって自分の負けを認め、自分の何かを差し出すことでしか、人はその存在を認めて貰えない。そうやって奪われながら耐えながら青空は生きて来た。 しかし今回、差し出さなければならないものはあまりに巨大だった。大切な受験期と生命の安全、心の平穏となけなしの尊厳。それら全てを奪う代わりに命だけは助けてやると、冷酷に黄地は告げている。 「どうするんだおい! 答えろ青空!」 涙が出た。全身が痛んだ。怖かった。命を奪われるのが怖かった。だから青空は今生き延びる為にこう口にした。 「……戦います」 青空は屈服した。 「だから助けてください。これ以上いじめないでください……」 黄地は青空の首元から引いた槍を消滅させると、僅かに表情を緩めて青空に肩を差し出した。 「行くぞ」 半ば引き摺られるようにして、青空は黄地の肩を借りて歩き始めた。 〇 黄地真幸は女流棋士を志し、その登竜門である研究会に所属していた。 十四歳の時、黄地は将棋の中学生大会で全国ベスト4の成績を取った。思い切りの良い攻撃的な棋風で知られ、振り飛車を指させた時の切れ味は同世代の中でも屈指と言われていた。その才能を見出した将棋部の顧問に知人のプロ棋士を紹介してもらい、研究会に所属し本格的に女流棋士を目指すことになったのだ。 黄地は幼い頃から将棋に没頭していた訳ではない。元々は剣道が好きだった。幼稚園の時から道場に通い、血豆が出来る程練習に打ち込み、帰宅して夕食を採ってからも就寝時まで庭で素振りをしていた。 家にいる時間のほとんどを庭での素振りに費やす黄地の姿は、近所の人々の語り草だった。あの家の娘さんはいつだって庭にいて竹刀を振っている。その姿どこか偏執的でもあった。 努力は実り、黄地は小学校時代の全国大会で準優勝の成績を勝ち取った。報われる努力は楽しかった。自分は剣の道で身を立てるのだと確信するようになり、日々夢中になって素振りに明け暮れ、その実力を研ぎ澄ませて言った。 そんな彼女に悲劇が襲ったのは、中学校入学を控えた小学六年の春休みのことだった。 道場へ向かう道すがらだった。友達と道路脇を歩きながらふざけ合っていた黄地は、ふとした弾みから友達に突き飛ばされ、走って来る原付の前に出た。危ないと思った次の瞬間には、黄地の身体は跳ね飛ばされ宙を舞っていた。 右足を複雑骨折した。一年のリハビリの末歩けるようにはなったものの、最早元通りの鮮やかな足運びなど不可能になっていた。 黄地は悲嘆にくれた。見舞いに来た友達を『おまえの所為だ』と非難して見ても、心はさらなるどん底に陥るだけで何一つ気持ちは晴れなかった。謝罪の言葉を口にしながら崩れ落ちて泣きじゃくるその子の姿を見て、黄地は友達の心と共に、自分自身も傷付けたのだと悟ったそうだ。 そんな彼女に将棋を勧めたのは彼女の祖父だった。小学校時代クラスの男子達がやっているのに混ざったこともあったが、特に楽しい遊びとは思わなかったし、大して強かった訳ではなかった。よって興味もなかったのだが、剣道を失い膿んだ時間を持て余し過ぎていたことと、祖父があまりに親身で熱心だったことなどから、黄地は中学の将棋部に入ることにした。 殊更才能があった訳ではなかったのだろうと黄地は言う。実際、最初の頃は部内でも負けっぱなしだったし、定石を覚えるのも遅ければ迂闊な見落としも多かった。しかし黄地は類まれな努力家だった。弛まぬ努力を誰よりも高い集中力でこなすことが出来た。 じわりじわりと、自分が強くなっていくのを感じる内に、黄地はますます将棋にのめり込んで行く。報われる努力程楽しく幸福なものはないのだ。やがて剣道に代わるものを手に入れたと感じられるようになるまで、あまり時間はかからなかった。 「それを誰よりも喜んだのは、黄地さんの事故現場に居合わせた、黄地さんを道路に突き飛ばしてしまったお友達だったそうよ」 黄地が元気になる姿を見せる度、その友人も少しずつ明るさを取り戻していく。黄地は研究会に通い詰めてさらに将棋に没頭した。始めるのが遅かった為か何歳も年下の小学生に惨敗を喫することも多かったが、しかし負ける度黄地は強くなった。やがて級位を上げ、女流棋士になる条件である二級への昇級へと挑んでいた時に。 日本に怪獣が現れるようになり、それと戦う為の力と武器に黄地は目覚めた。 「今期後二つ残っている対局を、二つとも勝てば女流棋士になれるっていう大切なチャンスを棒に振って、黄地さんは研究会を休む決断をしてくれたの。いつ怪獣が現れるかも分からないのに、同じ場所に留まって将棋をする訳にはいかないって」 対策局の支部において、緑川は青空を部屋に招いて黄地についてそんな話をした。 「将棋はあの子のすべてだった。女流棋士になることはお友達との約束でもあった。人生を賭けて挑んでいたの。あの子は若いとは言え、昇級の規定は厳しくて二級昇級に挑めるチャンスなんてそうは多くないし、それをこの先勝ち取れる保証なんてどこにもない。それでもあの子は、国と人々を救う為に怪獣と戦うことを選んでくれたの。怪獣退治の為に人生の大切な時期を捧げているのは、何もあなた一人じゃないのよ」 だから何なのだ。青空は思う。他の誰がどうしていようと他人は他人だ。青空には関係がない。自分が何を犠牲にしていたとしても他人に同じ犠牲を強いて良い理由にはならない。増してや、暴力で脅すだなどと。 「それにあなたの大学受験のことならあまり心配はいらないと思うわ。直近の東大模試の成績を見ても、少しくらい学習環境が変わったところで、余裕を持って合格できる学力はある。それだけの貯金を蓄えてもらう為に休養を与えた訳だしね。ここからならきちんと自学すればどうにかなるわよ」 それで一時成績が落ちたではないか。模試の成績なんてものは所詮水物で、準備を怠り調子を崩せば簡単に下落する。偏差値や順位は相対的なものなのだからサボれば抜かれるのが当然だ。受験する大学や学部を選ぶ参考にはなっても、勉強の手を緩める材料になる訳がない。それに受験のことがなかったとしても、生命を賭けた戦いなど青空はごめん被りたかった。 「いくら受験生だからと言って、あなたは少し、我を通すことに傲慢になり過ぎているようにも見える。自分のことが一番大切なのは当然だと思うけれど、それは得意げに威張って振りかざせばまかり通るようなことじゃない。自分以外を尊重しない人は自分以外から尊重されない。少しは他人のことも考える姿勢も、あなた自身が生きて行くのに必要なことなのよ」 「はあ……」 「話はこれでおしまい。身体の調子はどう?」 「もう大分治りました」 黄地に痛めつけられてから三日しか経っていないが、今ではすっかり良くなっていた。自身の超人的な回復力が気色悪かった。人間離れしていることを認識するのが不愉快だった。 「そう。なら部屋に帰りなさい」 青空は緑川の部屋を出て溜息を吐いた。理不尽な説教に苛立ちが募り、心に靄が張ったように気分が落ち込む。 自室に戻って勉強を再開する前に、青空は支部の敷地を少し散歩することにした。どんなに落ち込んでいても勉強は出来るし効率だって変わらないと思うが、ただ願望として青空は少しでも爽やかな心境が欲しかった。 青空は支部の建物を出る。支部の敷地は周囲を柵で覆われており、その内部にいくつかの建物が建てられており、残るスペースは駐車場や通路になっていた。青空はその合間をぼんやりと歩きながら、肌寒くなりつつある夜風を感じていた。 何かが空を切る音が聞こえた。 視線を送ると黄地がいた。その手に出現させた槍を一心不乱に素振りしている。額には玉の汗が浮かんでいて頬は紅潮し、ここでおそらく数時間単位で素振りを行っていたことが見て取れる。 「よう」 黙って前を通り過ぎようとすると声を掛けられた。青空は思わず怯えた視線を黄地に向ける。 「こ、こんばんは」 「前は乱暴なことをして悪かった」 「は、はあ……」青空は思わずへどもどとした表情になった。「い、良いですよ。気にしてません」 「嘘吐くなよ」 「嘘なんて……」 「そんなビビって迎合して来なくたって、ちゃんと怪獣と戦ってる内は、何もしやしない」 「そうですか」青空は微かに緊張を解いた。「熱心ですね。偉いですね」 黄地は四六時中己の得物である槍のトレーニングをしていた。昼間は良くトレーニングルームに入り浸り、教官として招かれた槍術の師範の指導を受け、夜になると野外に出て素振りに耽る。怪獣との戦いに邁進する黄地に相いれないものを感じていたが、それでも世の為人の為努力するその姿には、敬意を表するべきだと理解していた。 「国と人々を守り抜く英雄だからな」黄地は頬を持ち上げて不敵な笑みを浮かべた。「そう言うおまえもちゃんとやっとけよ。ちゃんと武器の扱いを練習しとかないと戦力にならないし、おまえ自身の生存率だって下がるんだから」 戦力云々はともかく、生存率の方は確かに気になった。命中精度常勝の為の射撃練習はともかくとして、戦場での安全な立ち回り方や怪獣の攻撃を回避するシミュレーション訓練などは、念入りに反復しておく必要がある。戦わずに済むのが最善ではあるが、戦いを強要される以上は生き残る術を鍛えるべきだ。 「でも勉強と両立しようとすると大変なんですよね」 「だろうな。おまえ東大行くんだろ? すごいよな」黄地は素直な調子で青空を褒めた。「毎日遮二無二勉強してるもんな。おまえのそういうところは割と好きだよ。根性あると思う」 「あ、ありがとうございます」 「まあでも優先順位ってものはあると思うから。怪獣に負けて死んでしまったら受験どころじゃねぇし。戦闘訓練の方も、ちゃんとしといた方が良い」黄地は槍を構え直した。「じゃああたし、素振りに戻るから」 「あ、はい分かりました。頑張ってくださいね」 そう言って青空はその場を離れようとした。黄地から背を向けて、勉強する為に自室のある建物の方に向かう。 「大丈夫だよ青空」素振りしながら黄地が言った。「おまえは死なせないよ。絶対にあたしが守るからな」 思わず立ち止まり、振り向いて黄地の方を見た。黄地は青空の方に目線を向けることもなく、一心不乱に槍を打ち出したり、突いたりと言った動きを反復している。 「緑川さん達が怪獣の出現する理由を突き止めて、連中を根絶できるその日まで。必ず全員で生き残ろうな。そしてこの国を守り抜いて、英雄になるんだ」 本心に聞こえたが、青空はそれには頷かなかった。ただ「ありがとうございます」と言って頭を下げた。 「おやすみ」「おやすみなさい」 挨拶を交わし、青空は勉強する為に自室へと向かい、黄地は素振りに戻った。 〇 6 〇 「あいつに似たのは見たことないわね」と赤錆。 「そうなのか」と黄地。 「ええ。蜂なんて初見だわ」 「怪獣の種類なんてほとんど無限にあるって前に言ってたじゃないか」 「わたしの怪獣知識なんてウィキペディアでちょっと調べてるだけで素人未満よ。詳しい人なら多分何かしら類似した奴の名前を上げられるんじゃないかしら」赤錆はそう言って肩を竦める。「とは言えケツから蜂の巣ぶら下げてそこから子分の働き蜂をばらまくっていうのは、ちょっとしたギミックかもしれないわね。今までのが単調過ぎた分、ほんの少し芸があるというか、マシだというか」 ビルの屋上に集合した青空達三人が見ているのは、巨大なスズメバチの怪獣である。体色はやはり黒と黄色のまだら模様で、その胸と尻は現実のスズメバチより遥かに細長く、顔も小さい為等身が高く、全体のフォルムをスタイル良く見せていた。女性であることを表現する為か胸に乳房のような器官が備わっていて、顔立ちもどこか怜悧な差を感じさせる。瞳は残酷さを思わせる赤色だった。 最大の特徴は尻に付属する針の後ろから、細い糸のようなもので巨大な蜂の巣をぶら下げていることだ。怪獣本体の全長程もあるその蜂の巣からは、やはり働き蜂であろう小さな(と言っても青空達よりもやや大きい程のサイズはある)子分蜂をばら撒いていて、それらは本体の怪獣の周囲を守護するように飛び交っていた。 「確か私、あれと良く似たの見たことがある気がします」青空は思わず言った。「というか、小学生の頃、確か育ててました」 「何それ?」と赤錆。 「ビークインって名前の女王蜂がモチーフのポケモンです。下半身がドレスのスカートみたいになってて、その底に蜂の巣みたいな穴があるんです。そこから働き蜂を出して戦わせるというポケモンなんです。メスのミツハニーから頑張って進化させて……」 「渚ってゲームとかやるんだ」赤錆は意外そうな顔をした。「意識のある間はずっと勉強しかしたことないガリ勉なのかと思ってた」 「そんなことありませんよ。昔はゲームくらいやりました」青空は言う。「一時間という枷がありましたけど」 「一日一時間? そういう制限して来る親っているわよねぇ」 「親じゃなくてお姉ちゃんです。そして、一日一時間じゃなくて週に一時間です」青空は目を細めた。「土曜と日曜に半時間ずつ進めていくのが生き甲斐で……。一年かけてクリアした時は、あれに勝る喜びはないと感じました」 「……悲惨極まりないわね。というかどうやって一時間測るのよ、それ」 「DSをお姉ちゃんが管理してて、やる時だけ渡してくれるんです。そして返しに来るまでの時間をお姉ちゃんが測ってるんです。週に一時間を超過したら、例えそれが一分でも夕飯を本当に抜かされて……」 「そろそろ来るぞ」 黄地が言うと蜂怪獣がこちらに気付いたように首をもたげた。そして子分蜂を身に纏いながら、特有の蜂の羽音を響かせながらこちらに向かって来る。巣を尻からぶら下げながら、身体を地面に水平にして飛んでくる様は、爆弾を抱えた戦闘機のようだ。 「戦闘開始かぁ。あー、やだなあ。本当やだなあ」赤錆は憂鬱そうに息を吐き、頭を抱えた。「もう前回みたいな思いはしたくないなあ。すぐ治るからってさぁ、骨折って本当無茶苦茶痛いんだよ。渚も前に黄地さんにボコされたんなら分かるよね?」 「あの女王蜂はどう考えても巣から働き蜂を飛ばして攻撃して来る。いつものような距離の取り方じゃあ、安全圏とは言えないはずだ。だからおまえらは今回は可能な限り遠く離れて、得物の射程範囲のぎりぎりから援護してくれ」 言い残して黄地は蜂怪獣まで突っ込んで行った。ビルとビルの間を飛び移りながら蜂怪獣まで迫り来ると、向かって来る子分蜂を意にも介さずに本体に槍を突き付けた。 蜂怪獣は大きな顎を使って槍を迎撃した。金属同士がぶつかるような音がして、黄地の槍は跳ね返される。そして近くのビルに着地した黄地に、子分蜂達が一斉に襲い掛かった。 黄地は槍を振り回して子分蜂を蹴散らしていく。一匹一匹突くのではなく、縦横に振り抜いてその切っ先で切り裂くようにしてその数を減らして行く。 目に見えて子分蜂が数を減らすと、蜂怪獣はぶら下げている巣を軽く揺らして増援を繰り出した。次々と現れる子分蜂に、黄地は対応しきれずに針による攻撃を食らい、全身から僅かずつ血を流して行く。 「……相変わらず頑張ってんなああのマゾ。しゃあないからわたしも戦うかね」 赤錆が投げやりな口調で言って、弓を引いて矢を放った。突然飛来した矢に対応できなかった蜂怪獣は、その胸の部分にあっさりと攻撃を貰う。付き立った矢を鬱陶しそうに六本ある腕の内の一つで引き抜くと、赤錆のいるこちらの方を赤い瞳で睨み付けて来た。 「あんま効いてないじゃん。ヤバっ」赤錆は顔を顰めた。「これ、来るんじゃない?」 蜂怪獣が巣を揺らすと現れた子分蜂はこちらに向けて勢いよく飛んで来る。規則的にまっすぐに飛んで来るというよりは、それぞれ違う形の弧を描くようにして、タイミングもそれぞれに青空達の方に襲い掛かった。 「何ぼさっとしてんの」赤錆は言った。「ほら、あんたも迎撃して」 青空ははっとして拳銃を突き付けた。飛んで来る子分蜂達一匹一匹に狙いを付けて弾丸を放つ。全てが当たる訳ではないが、連射性速射性共に優れた青空の銃の弾丸は確実にいくつかは命中し、接近する子分蜂を迎撃して行った。 「子分蜂全然耐久ないみたいだから、連射が利くあんたが迎撃してって。わたしは黄地さんを援護しながら、女王蜂相手のダメージソースやるから」赤錆が弓を引いて蜂怪獣本体を狙う。速やかな状況判断と指示は、流石に青空よりも遥かに戦いに慣れているのを感じさせた。 「分かりました」青空は飛んで来る子分蜂を一体ずつ撃ち落としていく。 この子分蜂が自分達のところまで到達したらどうなるのだろうと青空は不安に思った。子分蜂から攻撃を受け続けている黄地は今も元気に戦い続けているが、それでもその全身からは血が流れ、少なからずダメージを受けている様子である。 子分蜂の尻の針は目測五十センチと言った長さで高い殺傷能力を感じさせた。青空達は超人だし、何発か刺されても倒れていない黄地を見るに、一発や二発は自分でも耐えることが出来そうだったが、それでもあれに刺されるのがどれほどの苦痛と恐怖を伴う体験かは想像もつかなかった。 「これ逃げた方が良いんじゃ……」青空は思わず言った。 「何抜かしてんの?」赤錆が矢を放ちながらそう返す。「あいつ倒さなきゃ終わんないんだよ?」 「でも黄地さんも言ってたじゃないですか。働き蜂が飛んで来るから極力距離を取っていろって」 「今いる位置があんたの射程距離ぎりぎりでしょうが。二キロかそこらしか届かない癖に!」 そうだった。青空の得物は速射性連射性命中精度共に優れていたが、代わりに威力と射程距離に乏しかった。対する赤錆は連発が利かない代わりに威力も射程も優れている。 「あんた一人ここに置いてわたしだけもっと距離取るのも良いけどさ。でも今日が初実践のあんたを一人にするのは、いくら何でもまずいでしょうよ」 赤錆が意外と面倒見の良いことを言った、その時だった。自身に襲い掛かっていた子分蜂をすべて追い払うことに成功した黄地が、その場を飛び上がって蜂怪獣へと接近する。 黄地は槍を頭上に掲げると横方向に高速回転させた。まるでヘリコプターの羽根のような動きをするそれは、行きかう子分蜂を巻き込んで次々と八つ裂きにして言った。黄地の滞空時間は長くまるで回転する槍が推進力を生んでいるかのようですらあり、蜂怪獣の頭上へと勢い良く迫る。 蜂怪獣は先程と同様にその硬い顎を持って槍を迎撃しようとする。しかし黄地は迫り来る二対の顎の片方になんと着地すると、そのまま蹴り付けて再び飛翔して、今度は蜂怪獣の脳天を狙った。 槍は深々と蜂怪獣の頭部に食い込んだ。蜂怪獣は悲鳴を上げながら全身の力を失うと、羽ばたくのをやめて墜落し、あたりの建物をなぎ倒しながら沈み込むように地に伏した。 「やったっ!」 赤錆は叫んだ。しかし、戦闘はそれで終わらなかった。 倒れた蜂怪獣と繋がったまま残った蜂の巣は、変わらずに子分蜂を吐き出し続けて行く。あれを破壊するまでは戦いは終わらないのだろうかと青空が考えた、次の瞬間。 蜂の巣からやや大振りの働き蜂が現れる。その蜂は細い糸によって蜂の巣本体と繋がっていた。大振りな働き蜂が近くのビルに横向きに捕まって微かに身震いをすると、たちまち巨大化しこれまで飛んでいた蜂怪獣と同じサイズにまで巨大化した。 「なんでっ?」赤錆が驚いたように言った。「なんで女王蜂がまた出て来るの?」 巨大化した第二の蜂怪獣は、倒れ伏した第一の蜂怪獣と蜂の巣を繋ぐ紐を顎で断ち切ると、蜂の巣を釣り上げながら宙を浮いた。 「嘘でしょ? キリないじゃん!」赤錆は叫んだ。「本体が蜂の巣ってこと? 上等よ!」 赤錆は矢を放ち蜂の巣を攻撃した。矢が突き立った蜂の巣は大きく揺れると、その衝撃でこれまでにない程大量の子分蜂が出現した。 それはまさに蜂の巣を突いたような有様だった。街全体を黄色く染め上げる程の子分蜂の群れ。そのいくつかは青空のいる方にも殺到し攻撃を仕掛けて来た。 「ひえええっ」青空は迎撃をしようと銃を乱射する「来ないで! 来ないで来ないで……」 しかし無駄だった。青空の銃は速射性に優れているが、それ以上に子分蜂の数は多かった。そうでなくとも青空の射撃は明らかに修養不足であり命中精度に乏しく、撃ち漏らす数だけ飛翔する蜂の数は増え、やがてその何匹かが青空の目の前へと迫った。 咄嗟に逃げようとする青空の背中を子分蜂の一匹が刺し貫いた。激しい痛みと共に腹から針が突きだすのが見える。長い針が貫通する痛みは息苦しく焼け付くようだった。 「こ、この……っ」 生きる為に青空は背後に銃を放った。自分を刺していた子分蜂のアタマが吹き飛ぶ。青空が子分蜂の身体を両手で振り払うと針が抜け、貫通していた箇所から鮮血が溢れ出した。 こんなことになってでも尚立っていられる自分が信じられなかった。一か所で死なないのなら、このまま自分は蜂によって穴だらけにされて死んでいくのだろうか。そんなむごたらしい己の死にざまを想像すると、青空は恐怖のあまり絶叫を上げた。 「わぁああああ! あああああああああ!」 死にたくない! そう思った瞬間に青空はその場から背を向けていた。「ちょっと渚っ」と叫ぶ赤錆に目もくれず、殺到する子分蜂を上回る速度で、ビルの合間を飛び移りながらその場を全力で逃げ去って行った。 〇 青空はビルの物陰で一人膝を抱えていた。 蜂怪獣との戦場からは数十キロ離れた場所だった。仮に戦闘がまだ行われていたとしても、その喧噪は聞こえてこない距離だった。 逃げてから数時間が経過していた。子分蜂に刺し貫かれた背中から腹にかけての穴は、早くも塞がり始めていた。痛みも少しずつ引いていた。痕も残らず傷が治療しそうな気配に安心するとともに、完全に異形と化した自らの肉体への嫌悪感も覚えていた。 逃げてしまったという事実と向き合う。自分が逃げたことで残された二人は敗北したかもしれなかった。事実あの蜂怪獣はかなり強かった。かつて別の怪獣の身体に巨大な空洞を設えた赤錆の矢がほとんど効いていなかった。以前と比べ、怪獣は確実に強くなっているようだった。 例えあの蜂怪獣を二人が始末出来たとしても、怪獣との戦いはまだまだ続く。そして怪獣はどんどん強くなって行く。そして怪獣との戦いに、目に見えるゴールは今のところない。 「おい」 声がした。 顔を上げると黄地がいた。全身に赤い血を纏っていたが、その血が出ていた傷は既に治癒したようだった。 「探したぞ。ほら、帰るぞ」 黄地はこちらに手を差し伸べて来た。困惑しながらその手を握り返すと、思いの外優しい手つきで青空のことを立ち上がらせてくれた。 「怪獣は……? 勝ったんですか?」 「ああ勝った。本物の女王蜂は巣の中にいた。あたしが巣に張り付いて槍で突きまくってたら、子分蜂をほんの少しでかくした尻の丸っこいのが出て来てな。それを追い掛けてぶち殺したら、飛んでいた蜂共諸共巣は消滅した」 思い出してみればあの蜂怪獣は全身がスリムで尻も細長かった。女王蜂と働き蜂の見た目に大きな差はないが、しかし良く見れば尻が働き蜂より大きく丸い形をしているという。つまりあの蜂怪獣は巨大化した働き蜂に過ぎず、本体である女王蜂は巣の中に隠れ潜んでいたということらしかった。 「おまえ、途中までは戦闘に参加してたんだって? すぐ逃げた前回よりも、ちょっとは進歩してるじゃないか」黄地は青空の肩を叩く。「次は役に立たなくても良いから最後まで戦場に残ることを目標にしろ。少しずつ進歩して行けば良い」 「殴らないんですか?」 「あんまり追い込んだら逃げるだろおまえ」黄地は息を吐いた。「怖かったか? だとしたらそれは今まで戦闘に参加して来なかったツケだな。だが安心しろ。今回だって手間取った方だが苦戦したって程じゃない。赤錆と二人で何とかなる範囲だった。おまえは今後、本当に三人が力を出し切らなきゃ勝てない敵が現れるまでに、戦いに慣れてくれればそれで良い」 「やがて三人でも勝てない敵が現れたら?」青空は言う。 「知るか」その口調は投げやりというよりは楽天的だった。「そんなこと考えたってしょうがなかろうよ。まあ安心しろ。どんなに強い奴が来ても、おまえも赤錆もあたしが守るから」 〇 怪獣は少しずつ、しかし着実に強くなっていった。 最早青空達後方支援組も安全圏ではなくなっていた。次に現れたフクロウ型の怪獣は、目を光らせる度天から眩い雷を降り注がせるという遠隔攻撃を行った。それを食らうと全身が焼けるような熱さと共に、頭上から殴りつけられたような衝撃を感じた。青空は恐怖のあまり地上で蹲って頭を抱えて動けなくなり、黄地に怒鳴りつけられ引っ張り上げられ立たされた。 その次に現れたカタツムリの型の怪獣は目から光線を放って来た。青空達は左右に三つずつある角のような目から絶えず発射される光線攻撃は苛烈であり、食らわない為には回避に専念し続けるしかなかった。しかし黄地はそれを許さず、青空を絶えず怒鳴りつけ援護射撃を求め続けていた。 いずれの戦いにおいても、もっとも貢献したのは黄地だった。七割がた彼女一人の力で勝利したと言っても大げさではないかもしれない。青空自身何度も彼女に助けられた。フクロウ怪獣との戦いでは被弾しそうな青空を庇う為に、槍を天に突きあげることで自ら避雷針になるような真似すらした。カタツムリとの戦いでの活躍も凄まじく、レーザーの届かない背後から無敵に思われた殻の部分を攻撃し続け、ついには破壊せしめたことが決め手となった。 だが青空達戦士側の消耗も蓄積して行った。フクロウ怪獣戦では雷を繰り返し食らった赤錆が、その戦闘中ではあるが行動不能に陥った。次の戦いでは、予想外にも大ジャンプを行いボディプレス攻撃を仕掛けて来たカタツムリ怪獣に覆いかぶされ、青空は窒息状態に陥った。黄地による撃破・救出が後もう少し遅れていたら、死亡していただろうと思われた。 「今日も勝てたなー」ようやっと解放された粘液塗れの青空を助け起こしつつ、黄地は呑気な声で言った。「おまえ粘液臭ぇぞ。全身ぬるぬるだしよ。汚ねぇなあ」 このまま戦い続ければ死ぬという確信があった。確かにどうにか勝ててはいるが危うい戦いが増えていた。ふとした油断や失敗がそのまま死へと結びつくのだという実感が、次の戦闘に対する強烈な忌避感として青空の中に降り積もった。 最早事態は受験勉強どころではなくなった。青空は生き残る為、勉強よりもトレーニングを優先するようになった。国や人類のことはともかくとして、青空自身が死亡することは何としてでも避けたかった。この銃の使い方を、この人間離れした肉体の扱い方を、身に着けることは生き残る為に急務だった。 そんな状況に陥ること自体青空にとって不条理でありナンセンスだった。強烈なストレスのあまり訳もなく泣き喚き、夜になれば悪夢を見て飛び起き、壁を睨みつけながらぶつぶつと呪詛を呟き続けた。 〇 「このままだとわたし達、死なない?」 部屋にやって来た赤錆がベッドに腰かけて青空に言った。机に着いて勉強していた青空が振り返ると、「うわ目の下ヤバっ」と引き攣った顔を赤錆は浮かべた。 「クマ出来てんじゃん。大丈夫なのあんた。寝てる?」 「寝れてません」青空は溜息を吐いた。「トレーニングと受験勉強の両立が難しいというのを差し引いても、呑気に寝てられる精神状態ではなくなって久しいです」 「あんた前の戦いで死にかけてたもんねぇ」赤錆は他人事のようだった。「今はまだ勝ててるけどさぁ。このままだと絶対いつか死ぬでしょ」 その通りだった。戦闘になれば必ず誰かしらが大きな負傷をしていた。誰か一人が戦闘不能になるような状況も珍しくなく、戦いは徐々にぎりぎりになっていた。 「それでどうすんの、渚?」 「どうするって……」 「だからさ。このままだとわたし達ヤバい訳じゃん。死ぬ訳じゃん。こっちの武器の威力だって戦う度に上がってるって対策局の人は言ってるけれど、でもわたしらの実感としては全然そんなことないじゃんね。敵が強くなるのに追い付いてないし。その上あんたはずっと弱虫で、まるで頼りにならないしさ」 「ごめんなさい」青空は反射的にアタマを下げた。内心はどうあれ、そういう態度を取らなければまずい立場であろうことは察していた。 「いやごめん渚を責めるつもりはないんだよ」赤錆は言った。本心のように思えた。「悪いのは怪獣が現れることじゃんね。渚もわたしも頑張って戦ってるだけなんだし、例え誰からでも責められる筋合いはないよ。それがわたし達同士でもね」 それを黄地に言って欲しい。戦闘が終わる度に『あそこでもっとああしろ』とくどくど言って来る。次の戦闘の為の確認だしその必要性は理解していたが、しばしば感情的になって『分かってんのかこら』と胸倉を掴むのは勘弁してほしい。 「敵は強くなり続ける。負ける確率は上がり続けて、そして戦いに終わりは見えない」赤錆は真剣な表情で青空を見詰める。「ねぇ渚。あんたはどうするの?」 意味するところが分かった。 逃げようというのだ。実のところそれは青空自身の心の中に常にあった選択肢だった。しかしそれは一人で実行するつもりでいたことで、赤錆の方からそれを持ちかけて来るという成り行きは想像したこともなかった。 「……早ければ早い方が良いのは確かだと思います。引き延ばせば引き延ばす程、死の危険は濃くなる訳ですし」 「そうよね」 「ですが、その選択をした瞬間、わたし達は国を失う訳で……」 「それがどうかしたの?」赤錆はあっけらかんとしていた。「この力があったらどんな場所でも生きて行けるよ。渚あんた英語だって話せるんでしょう?」 「ある程度は。お金も何とかなると思います。国から貰った報酬金がありますし、私達十八歳で成人ですから外貨両替だってスムーズに出来ます」青空は頷いた。「ただ、そうだとしてもその生活は、命があるというだけで、幸福からは程遠いように思います。住み慣れた母国を捨てて、何も成せずに荒野の上でただ生きるだけ……。本当にそれで良いんでしょうか?」 「じゃあ渚は怪獣に殺されるっていうの?」 「いえ。それは」青空は首を横に振った。「死ぬよりはマシです」 そう。死ぬよりはマシだ。だが死ぬよりマシという以上のことではない。踏ん切りがつかなかったのもその為だ。 しかし今青空達の目の前にはその死があった。他の何を投げ打ってでも、これまでの人生の積み重ね全てを諦めてでも、青空はその死から遠ざからなければならなかった。青空よりも早くそのことに気付き、逃げる提案を持ちかけた赤錆はクレバーだった。 「大丈夫だよ渚。あんたなら海外行っても秀才だって」赤錆は機嫌を取るように言う。「勉強出来るんでしょ? お姉さん見返す為に医者になるんだったら、海外の名門医学部でも目指せば良いじゃん。あんたならきっと大丈夫だよ」 それは妥協のようなものだな、と青空は冷静に考えていた。東大に勝る大学など世界には無数にあることは知っていたが、それでも青空は理三にこだわりがあった。しかしそのこだわりこそが最善の判断を遠ざけていたことに、今の青空は自覚的だった。 まずは命だ。 「分かりました」青空は頷いた。「一緒に逃げましょう。国外逃亡です」 「そう来なくっちゃ」 赤錆は広げた掌を頭上に掲げた。その意味が分からずにぼんやりとする青空に、「ん」と何かを促すように顎をしゃくった後、赤錆は言った。 「ニブいわね。ハイタッチよ」 青空は恐る恐る控えめにハイタッチをした。あまり雰囲気は出なかった。 〇 青空と赤錆は連れ立って支部を出た。 この先対策局からの、黄地からの追跡があるだろうことを考えれば、赤錆という仲間の存在は頼もしかった。赤錆はバカかもしれないが、しかし良心に囚われない合理的な決断力がある。今回向こうから共に逃げることを提案してくれたことも含めて、青空は彼女の妹分として何となく馴染んでしまっていた。 次の怪獣が現れる地域ということで、あたりには人払いが行われて久しかった。無人の摩天楼を飛び移りながら青空達は支部から距離を取って行く。今頃既に青空達の脱走はバレていることが予想され、とにかく距離を取ることが必要だった。 「まずはそれぞれの家にパスポート取りに行きましょう」青空は言った。「ありますよね?」 「ないわよ」 「ないんですか?」青空は目を丸くした。それでどうして国外逃亡など言い出せたものだ。 「ええ。でもそれって必要なの? ハイジャックでもすれば良いじゃない」 「そんな目立つことは……」 「目立とうが目立たなかろうが、対策局はわたし達が逃げてることなんて嗅ぎつけるわよ」 「上手く行きますかね……?」 「行かなきゃその時よ。というかそもそも国外に逃げるのって必要なことなの? 怪獣との戦い避けたいだけだったら、日本中を対策局や怪獣から逃げ回って生きれば良いじゃない? その方がQOL高いと思うんだけど」 「いつか捕まりますよぅ」青空は目を見開いて言った。「そもそもこの国はいずれ亡ぶんです。わたし達が逃げ出す以上、黄地さん一人で怪獣を倒し続けられる訳がないんですから。だったら今の内に逃げておくのが判断として正しくてですね……」 「その辺また改めて話し合わない?」赤錆は首を横に振った。「今日はもう遅いから休もうよ。渚あんたも寝不足でしょ? どっかホテルに部屋でも取ってさ」 行き当たりばったりにも程がある。『今この瞬間にも次の怪獣が現れるかもしれないから』という理由で、すぐに脱走しようとする赤錆に流されたのが良くなかった。 二人は避難区域から出た青空達は、それからもしばしの間走り続け、十分に支部から距離を取った後に宿を取った。 シャワーを浴びて床に入った後も、寝ている間に対策局員が黄地を連れて追跡して来ることを想像し、青空はまんじりとも出来なかった。逃げ出したことそのものよりも、しっかりと計画を練らなかったことを後悔していた。自分一人だったらこんなことにはならなかったのにと考えて、赤錆に流されるまま必要な意見を口にしなかったのは青空自身だと思い直した。 「これ黄地さん、追い掛けてきますよね? 私達を連れ戻そうとしに来ますよね?」 青空は思わず口にした。ベッドで横になっていた赤錆は「ううん?」とけだるげな声を発すると、青空の方を向いて眠たげに言った。 「大丈夫だよ。こんな遠くの宿なんて分かんないよ」 「全国のホテル一つ一つに確認すれば、私達がここにいることも分かるんじゃ?」 「考えたってしょうがないでしょ。野宿する訳に行かないんだから」赤錆は寝返りを打った。「もし来たらその時考えりゃ良いでしょ。今は寝かせて。眠いから」 流石に神経は図太い。いや無神経なだけなんじゃなのではないか。ひょっとするとこの女は何も考えていないんじゃないかと感じるようになったその時。 「だあああああああ」 赤ん坊の声がした。 「次の怪獣は〇〇県×市に現れる、と主は申しています」 その赤ん坊を抱く少女が言った。ベッドから身を起こすと、その奇妙な二人組は月明かり差し込む窓辺に立っていて、いつもの能面のような無表情で青空達を見下ろしていた。 「嘘……」赤錆が目をこすりながら身を起こす。「怪獣倒したの? 黄地一人で。強すぎでしょあいつ」 驚いたが青空は納得もしていた。黄地は単純な力量でも飛び抜けていたが、それ以上に破滅的と良いくらい果敢に戦う精神力がある。実力以上の相手を捨て身で打開することも黄地ならやってのけるのではないだろうか? 「あうらうだう」「終わりの時は近付いている、と主は申しています」 「だぁああ。だあああああっ」「四つの武器はじきに一つになる、と主は申しています」 四つ、というのが青空は気になった。拳銃と弓矢と槍と、武器は三つのはずではないか? 「あひゃ。あだ、あひゃひゃひゃっ」「槍か矢かそれとも弾丸か。どれが残るか。いずれにせよ、貴様らの殺意が私を貫く時は遠からず来る。と主は申しています」 言い残し、いつものように何の前触れもなく、霧散するようにして少女はその場から消えた。 「流石にこれは緑川さんに伝えた方が良いわね」赤錆はスマートホンを取り出した。「いくら何でも、次の怪獣の出現場所が分からないと、あの人達だって困るでしょうし」 「今さらじゃないですか?」青空は言った。 「どういう意味?」 「えっと……それ心配するくらいなら、最初から逃げたりしない訳ですし……」 「……本気で言ってる?」赤錆は剣呑な表情で青空を見竦めた。「別にわたしら自分の身が可愛いから逃げてるだけで、国が滅んで欲しい訳じゃないじゃん? だったら伝えたって損はないでしょ? それでもし次も黄地が何とかしてくれるなら、それに越したことはない訳じゃん」 赤錆は緑川にメッセージを送り終えてから再びベッドに横になった。青空もまた、横になって目を閉じようとした。 そこでふと気になった。 「あの。赤錆さん」 「何よ?」 「武器って元々四つなんですか?」 「そうだけど?」赤錆は目をこすりながら軽く身を起こした。「なぁに知らなかったの?」 「知りませんでした。それに関連して尋ねますけど……藍沢っていったい誰ですか?」 赤錆や緑川が漏らしたことのあるそれらの名前を、青空は記憶していた。武器の総数が四つなのだとすれば、そこにその名前が関係するような気がした。 「それも知らんの?」 「ええ。ちらほら耳にした名前ですが、詳細までは」 「なんで聞かなかったの?」 「そんなに興味がなかったので。自分に関係あるとは思いませんでしたし」 「怪獣との戦いに関する名前だってのは分かってたんでしょ?」 「ええ。ですが、私は怪獣との戦いに興味なんてなかったんです」 「とことん自分のことしか興味ないよね渚って」 赤錆は呆れた様子だった。 「藍沢さんはわたし達と同じ怪獣と戦う『戦士』だよ。今はもうどこにもいないけどね」 「どうしてですか?」 「死んだから」 こともなげな口調が青空の懐にずんと響いた。 「怪獣に殺されたとかじゃなくて、病気でだけどね」赤錆は言う。「もともと癌がなんか患ってたみたいで、力に目覚めた時点で一か月くらいしか余命なかった。いくら超人でもケガはともかく病気は無効化出来ないなんて皮肉だよね。癌に犯されてる身体を超人の力で無理やり動かして、幾許もない命なのに人類の為に戦い続けて、気が付いたら普通に病気で死んでった」 赤錆の口調には微かに寂寥が滲んでいた。 「でっかい鋼鉄のハンマーが得物でさ。強かったよ。それに良い奴だった。優しかったししっかりしてた。渚みたいな暗いガリ勉じゃなくて本当の優等生みたいな感じ。わたしもあの子のことは好きだったけど、特に黄地は尋常じゃなく執着してて。余命が近付いてからはほとんど片時も離れずに傍にいて……だから看取ったのもあの子だけだった」 「なんでその話を一度も私にしなかったんですか?」 「わたしも渚と一緒だよ」赤錆はやや露悪的に言う。「死んだ人に興味なんてないから」 そうなのだろうと青空は思う。赤錆はその時々を愉快でいられるならそれで良いという考えを貫いている。そんな彼女が過去に亡くなった仲間のことを話すことに、少なくとも積極的にはならないだろう。 だが緑川と黄地は何故話さなかったのだろうか? 「あの子が死んでからだっけ? 黄地が異様に強くなったの。これまで藍沢さんと二人掛かりでこなしてた前衛を、一人でこなせるくらいになったの」 「そうなんですか」 「藍沢さんの分の力が黄地に乗り移ったりしたのかな? でもどうやって力を伝達するっていうんだろ。渚、なんか分かる?」 「それはその……」青空は口を噤むことにする。「……すいません。良く分かりません」 「そうよね」赤錆は布団に潜り込む。「考えたってしょうがないか。わたしら怪獣との戦いからはドロップアウトするんだし」 「それはその通りですね」 「もう寝るわ。あんたもそうしな」 「はい」 青空は沈黙した。しかし頭の中では考え続けていた。どうして藍沢は死んだのか。黄地はどうしてあそこまで強いのか。 やはり力の伝達は行われたのだと青空は思う。そしてその方法にも心当たりがある。だがそのことを赤錆に話そうとは思わなかった。赤錆に察する力がないのなら、それはそのままにしておこうと青空は思った。それは当然の判断だった。 〇 7 〇 テーマパークに行こう、と言われた。 耳を疑った。どうしてそんなことをしている暇があるというのか? 「日本から離れるんだったら最後に思い出作っときたいじゃん。わたし買い物とかはしこたまやったけど、こういうところはあんまり行けてないんだよね」 そう言って連れて来られたのは東京にある有名なテーマパークだった。この状況でこんなところで道草を食うのだという事実に頭痛がした。逃亡生活の相方がこんなことを言い出す赤錆であることに眩暈がした。それを断れない自分自身にも情けなさを感じた。 テーマパークは入口からしてまさに夢の国というべき華美な装飾が施されており、近くに立つだけでも楽し気な空気が伝わって来る。こんな時でもなければどれほど楽しめていたか分からない。 「渚って東京の人だよね? 案内してよ。つか来た事ある?」 「小学生の頃に一度だけ」青空は遠い目をした。 「そうなの? 楽しかった?」 「楽しかったですよ。ただそれ以上に、帰る時つらくて駄々をこねて、姉と喧嘩したのが強く記憶に残ってます」 姉の大学受験と青空の中学受験は重なっており、一緒に合格して記念にここに来ようねと二人で約束をしていた。結果として青空は受かり姉は落ちたが、それでも姉は青空をここに連れて来てくれたのだ。 だが楽しんでいたのは青空だけで、姉はどこか上の空というか、思いつめた顔をしていた。自分の気など知らずはしゃいでいる妹のことが疎ましかったに違いない。 日が暮れる頃、二人はそろそろ帰るか帰らないかで揉めた。閉園時間まではまだまだあるのにもう少し楽しめば良いじゃないかと珍しく主張した青空を、姉は平手で叩いて来た。お姉ちゃんは本当は今日も来年に向けて勉強をしなければならないのに、無理をして連れて来てやったんだろう。これ以上わがままを言うな、と怒鳴り付けられたのだ。 帰りの道すがら、青空は電車の中で泣いた。もう二度と姉とここに来ることはないのだろうと、そう思う程涙が溢れた。 「青空でも駄々をこねたりするんだ」 「親にはあんまりわがまま言わなかったと思うんですが、姉に対しては度々」青空は照れ笑いをした。「国を出る時はあの人達にも連絡を取らなきゃですね。この国はもうダメだから今すぐ国外逃亡するべきだって。両親はお金持ちだから外国でも生きていけるはずですし、姉もその庇護下に入れるから大丈夫でしょう。赤錆さんは、ご家族にはいつ連絡するんですか?」 「別にいつでも。つか、親とかどうでも良いしなぁ」赤錆は気だるげに言った。「もう何か月も連絡取ってないし、一人で生きる蓄え出来た今となってはウザいだけだよ。死ぬんなら死ねば? って感じ」 二人はテーマパークへ入場した。 園内には胸がわくわくするような装飾が施されていた。豪奢でカラフルな建物の数々は異世界の王都に来たかのようで、見覚えのあるキャラクターがあちこちで手を振っている。見上げればパークを象徴する巨大な王宮が園内のどこかでも視界に入り、宝石を散りばめたような青と白のそれは息を飲む程素晴らしかった。 「すごーいっ!」赤錆が無邪気な声を上げた。 青空は姉と共にこの景色を眺めたことを思い出していた。今が逃亡生活の最中であることも忘れ、かつての記憶が目の前に再現されていることに胸の高鳴りを覚えた。海鳴に入った時点で勉強漬けの子供時代を送ることを覚悟していて、まさか自分がもう一度ここに来られるとは思っていなかった。 陶然としていた青空の手を、はしゃいだ様子の赤錆が掴んだ。 「ぼーっとしてないで、ほら、今日は楽しむよ」 「は、はい」 青空は赤錆に連れられパークを歩いた。 案内しろと言っておきながら、赤錆は青空よりもパークに詳しかった。随分と下調べをして来たらしく、まずはこれ次はあれと、テーマパーク内で青空を連れ回した。 アトラクションはどれも素晴らしかった。平日を狙って来たお陰で人はまばらであり、手ごろな待ち時間で楽しむことが出来たのも良かった。二人は十八の女子高生らしく観覧車からの景色に目を奪われ、ショーに興奮し、絶叫マシンで悲鳴を上げた。 「思ったよりずっとすごいね、ここ」 「そうですね。そうなんですよ」青空は何度も頷いた。「本当に良い場所なんです」 「わたし決めたわ。日本から逃げたら世界中旅をしてテーマパークハシゴする。その為の旅をする。渚あんたも付き合ってよ通訳も兼ねて」 赤錆らしい戯言だったがそれも悪くないと青空は思えて来た。半ば本気で青空はその日々を妄想した。何も残らず何も成さない行楽の日々だったが、そういう人生が案外一番豊かであるのかもしれなかった。 途中、木の傍で蹲って泣きじゃくっている少女を発見した。 傍には母親らしき女性がいて、やや剣のある口調で「諦めなさい」と言い聞かせている。しかし少女は駄々をこねるかのように首を横に振り一行に言うことを利かない。 「あれじゃない?」 赤錆は木に引っかかったキャラクターものの風船を指さした。木はかなりの高さがありそうで、脚立でも持って来ない限りはまず背が届かなさそうだった。 その光景に青空はかつての自分と姉の姿を幻視した。風船を買って貰ったこともそれを飛ばしてしまったこともないが、何か失敗をして駄々をこねたことならいくらでもあった。それを思い返すことはどちらかというと苦い気持ちで、その為青空は黙ってその場を通り過ぎようとした。 しかし赤錆は黙って青空から離れ、何も言わずに母子に近付いた。言い合っている二人を慈しみの視線で一瞥すると、人間離れした脚力で垂直にジャンプして風船を取って着地した。 「はい」 子供の方に風船を渡すと、「お姉ちゃんありがとう」と泣きじゃくった笑顔が返って来た。母親の方にも頭を下げられるのに照れたような会釈を返すと、青空のところに戻って来る。 「いこっか」 青空は何も言わずに赤錆に続いた。 何にかは分からないが、負けた気分だった。 〇 ナイトパレードを二人で拝む。 派手な装飾を纏った乗り物に乗ったキャラクター達一人一人に、赤錆は講釈をぶった。途中でガイドブックを買っていたからその知識だろう。青空もアトラクションの待ち時間に開いているのを横から読んだが、赤錆のようにはアタマに入っていなかった。 「今日は楽しいね」 「そうですね」青空は頷いた。 夢のような一日だった。テーマパークは素晴らしかったし、遊び仲間としての赤錆は楽しい相手だった。無邪気に遊んでいる時の赤錆は素朴かつ純真で優しくもあり、それは過剰な力を持つあまり暴虐な殺戮者と化していた彼女の、素顔の内のある一面でもあるらしかった。 「一回さ。友達とここ来るチャンスあったんだよ」 「そうなんですか」青空はパレードに目を奪われながらも返事をした。 「うん。いや、あれチャンスって言わないね。多分、どうあがいてもわたしは無理だったし」赤錆は微かに照れたような表情を浮かべた。「友達の一人がくじ引きがなんかでここのグループチケット手に入れてさ。皆で行こうってなったんだけど、それが四人まででさ。ウチら五人グループだから一人余るのよ。どうやって決めるのかなって思ってたら、一番偉そうにしてる子がわたしの方見て『夕香はお金ないから無理だよね』っつって来て」 その時の赤錆の顔に憎らしさや苛立ちはなくむしろ寂寥が滲んでいた。かつての友人達への不満を口にしているというより、当時の自分の在り方を自嘲しているかのようだった。 「わたし『そうなんだよー』って言っちゃったんだよね。『わたしバイトしてないからさー。交通費とか出せないから皆で行って来てー』って。親に言えばそのくらい何とかなるって、わたしだって分かってたし、その子だってきっと分かってたのにね」 「それはその……」青空は言葉を選ぼうとしたが、上手い言い方が出てこなかった。「悲しい思い出ですね」 「そ。まあだから今日渚と来れて良かったよ。あの時あの子達と一緒に来られてても、今日程は楽しくなかったと思うし」赤錆は本心で口にしているかのようだった。「今日はありがとうね、渚」 「いえ、こちらこそ」青空は笑顔を返した。 その時だった。 パレードを眺める人々の列の中で誰かが動いた。 青空がふと目をやるとそこには見知った顔があった、ような気がした。その人物もまた青空に気が付いた様子で、焦ったような表情で列の奥へと引っ込み、姿を消した。そんな風にも見えた。 「どうしたの?」絶句する青空に、赤錆が小首を傾げた。「何かあった?」 「緑川さんがいました」 「え? マジで?」 「いえ……正確にはそんな気がするってだけですが……」青空は口ごもった。自信はない。距離もあったし、似た髪型の人がいたとかで見間違えてしまっている可能性も十分にあった。 「いやいや流石になくない?」赤錆が眉を潜めている。「あの人これまで休暇とか取ったことなかったでしょ? なんでこんなテーマパークにいるっていうの?」 「わたし達がここにいるのを突き止めに来た、とか? わたし達有名人なんですから、いくら目立たなくしても誰かがSNSとかに目撃証言上げる可能性あるっていうか……」青空は思わず自分の血の気が引いて行くのが分かった。「というか、既に上がってますでしょ。列で並んでる時とか何度か声掛けられましたし。赤錆さんがあしらってくれましたけど……」 「それ嗅ぎ付けて緑川がやって来たって? でももしそうだったらもう既に声掛けられてると思わん?」 「それはそうですけど……」 「黄地の奴連れて来てないのもおかしいしさ。大丈夫。ただの気の所為だって」赤錆は肩を竦めた。「ほら、まだもう一遊びする時間あるでしょ行くよ」 パレードは終わっていた。赤錆は青空の手を引いて歩きだす。「次何乗るー?」などとのんきに言っている赤錆の後ろで、青空は頭の中に思索を渦巻かせていた。 あれが本当に緑川かどうかは分からない。だが大切なのはここに本当に緑川がいるかどうかではなく、日本にいる限りどこにいても自分達はどこにいてもその存在を周知され、いつだって追手がやって来るかもしれないという事実だった。明白だったはずのそのことに着目せず、今この瞬間まで遊び惚けていたことへの、感じるべき危機意識だった。 「あの赤錆さん。今日一日遊んで、明日はちゃんと海外に逃げるんですよね?」 「んー。どうかなあ」赤錆は呑気な表情で言う。「わたしパスポートないし。ハイジャックは流石にやり過ぎって感じするしね。どうしたら良いか良く分かんないし、当分は日本のあちこち回って、今日みたいに色々遊ばない?」 そんな悠長な。青空は思い知っていた。こいつがしたいのはただの現実逃避であり、くだらない家出ごっこに過ぎない。そんなことをしている内に捕まってしまうことは明らかだったし、捕まったら命の危険があった。 黄地は言っていた。戦わなければ青空を殺すと。青空は怪獣と戦う貴重な力を持った戦士なのだから、実際にそんなことをすれば困るのは黄地自身のように思えるが、実は違う。 戦士としての力は伝達可能なのだ。互いに殺し合うことによって。 そうであるとしか思えなかった。黄地が自分に襲い掛かった時、傍で緑川がけしかけていたのを覚えている。『殺しなさい』と。『藍沢さんの時のように、その子の力を奪うのよ』と。 黄地は強い。青空や赤錆のちょうど二倍分くらいには確実に強い。何故それほどの力を持っているのか、緑川の言葉はそのままその問いへの答えなのではないか? 緑川はいざとなれば黄地に青空を殺させることを躊躇しないし、そのつもりでけしかけられた黄地に対抗するだけの戦闘力は青空にはない。 「どうしたの青空?」立ち尽くす青空に赤錆が言った。「早く来なって」 「……今日はもう帰りませんか?」青空は震えた声で言う。「さっきのは多分本当に緑川さんです。黄地さんも近くにいるかもしれません。早く逃げないと……」 「心配し過ぎ。もしそうだとしても、テキトウに謝っといたら大丈夫だよ」 「本当にそう思いますか? 黄地さんに殺されるかもしれないって分かりませんか?」 「なんで殺す必要があるのよ?」 「それは……。その、あの……」 「……分かるわよ。わたしだってバカじゃないし」赤錆は溜息を吐いた。「『戦士』同士で殺しあったら、勝った方に力が伝達されるんでしょう? わざわざ言わなかっただけで、そのくらいわたしにも分かるわよ」 青空は目を見開いた。知っていたのか。知っていて青空を連れて来たのか。 そうか。だったら。 「でもさ。いざとなったら降参すりゃあ大丈夫でしょ? そりゃわたし達投げ出して逃げ出してここに来てるけど、黄地の性格考えたら命奪うことはして来ないはずだよ。わたし達はまがりなりにも、共に命を賭けて怪獣に立ち向かった戦友で……」 青空が放つ弾丸が赤錆の胸を貫いていた。 何が何だか分からない様子の赤錆に、青空は続けざまに引き金を引いた。その度に赤錆の身体に風穴が穿たれて、あふれ出す鮮血が服を濡らしテーマパークの地面に迸った。 周囲は騒然となる。あちこちから悲鳴が上がり続けている。 青空は容赦なく弾を撃ち続けた。全身に穴を開けられた赤錆は、それでも倒れることなく二本の脚で立ち続けている。動揺しきった表情のまま、驚愕と恐怖のあまり自身の武器である弓矢を生成することもままならず、弾丸をその身に浴び続けている。 気が付けば青空の目から涙が溢れていた。 赤錆を殺すのがつらいのではない。 反撃が来るのが怖いからだ。対等な相手との命を賭けた戦いが、恐ろしいからだ。 「死ねっ。死ね死ね死ねっ。死んで! 早く死んで!」青空は吠え声を上げた。「死んでください! 早く、早く、早く……! 良いからさっさと死んでよぉおおおっ! うぁあああああああ!」 泣き叫ぶ。赤錆が弓矢を生成して襲い掛かって来れば勝負は分からない。相手が死ぬまで絶えず撃ち続けるしかない。つい先ほどまで仲良くテーマパークを遊んでいたことや、歪ながら確かに積み重ねて来たはずの友人としての日々など、青空の頭には露程も残らず消えていた。 息が切れる頃、ようやく赤錆はその場で崩れ落ち、尻餅をついた。赤い髪を額から垂らしながら俯いているその姿に、青空は安堵と歓喜をその身に感じた。 倒れた。私の勝ちだ。 会心の笑みを浮かべながら赤錆の方に近付き、トドメを刺そうと銃をアタマに突き付ける。これで決着するという確信の元、引き金に力を込めたその時。 「……なんで?」 赤錆がか細い声を発した。 「……なんで……わたしを殺すの? わたしの力が欲しいから?」 「違いますよ」青空は答える。「あなたがわたしの力を欲しがるかもしれないからです」 「何を言って……」 「選択肢として心の片隅に置いてなかったとは言わせませんよ。二人分の力を持つ黄地さんに対抗するには、こちらも二人分の力を持つしかない。私を殺せば、いつでもそれは手に入る。そのことを少しでも考えなかったとは言わせませんよ」 問題はどちらが先にそれを思い立ち、どちらが先に実行するかということだ。 青空は赤錆の力など欲しくはない。怪獣とも黄地とも戦うつもりはないからだ。海外のどこか遠く、怪獣との戦いが対岸の火事と思えるところまで、逃げられるのなら青空はそれで良い。 だが赤錆は日本に留まろうとしている。この小さな島国の中で黄地からの追跡を逃れ続けようと考えるなら、それは黄地と同等の力を持つしかない。青空の持つ力を奪うしかない。 赤錆がそこまで考えているかは分からない。だが、何を考えるか分からない相手ではある。青空としては最悪を想定して行動する必要があった。 「わたしとあなたの力は互角です。先手を打った方が勝つでしょう。それは間違いありません」青空は言う。「あなたが決断する前に、私が決断しなければならなかった。私は死にたくなかったんですよ」 引き金を引こうとする青空だったが指が震えて上手く行かなかった。生まれて初めて人を殺すのだという忌避感に胃の中がしくしくと痛む。生物が種の繁栄を目的に存在している以上、同種を殺すのに生理的な抵抗がないはずもない。 「……どれだけ無暗に人を殺しても、わがままやりまくっても、渚、あんたわたしから離れて行かなかったよね」赤錆は声を震わせる。「てっきりわたし、あんたのこと自分と同類か何かだと思ってた。根っこのところが似た者同士なんだと勘違いしてた。でも違ったのね。あんたはもっとおぞましい何かよ」 青空は何も言わない。震える指先にどうにか力を込めようとする。 「でも友達だと思ってたのは本当だった。だから殺さないで。お願い渚」 青空は引き金を引いた。 〇 青空はジェットコースターの車体の上にいた。 大勢の前で人が殺されたことにより、人々は逃げ惑い、テーマパークは閉園に向かっていた。アトラクション内の職員も既にいなくなって久しく、辛うじて明かりが点いているだけで、青空一人が車体に座って待っていてもジェットコースターは動き出そうともしない。 どうしてこうなったのだろうかと考えて、自分が赤錆を殺したからだと思い至った。 青空はかつて姉とこのテーマパークにやって来た際、帰る前にもう一度だけこれに乗りたいと主張して叶わなかったのを思い出していた。パークの目玉とも言える大型ジェットコースター。数時間前赤錆と一緒にこれに乗った時は思い出さなかったその記憶が、青空の瞼の裏に瑞々しく蘇るようだった。 さっきこれに乗った時は心から楽しかった。。赤錆と肩を寄せ合い同じくらい声を張って悲鳴を上げ、降車した後はその興奮を分かち合った。同じ楽しさを共有する二人の間には確かな一体感があったし、それはこれまでに味わったことがない程心地良い感覚に思えた。 もう一度あれを味わいたかった。すぐ傍に友達がいる幸せを感じたかった。青空は車体を動かそうと身体を揺らしてみたが、当然ながらびくともしない。 こんなことをしても何の意味もないと理解している。しかし青空はここに来て車体に座ることをこらえられなかった。愚かだと思いながらもテーマパークから出ることが出来なかった。大昔姉を相手に駄々をこねた時の幼い自分が、今も尚青空の中にいるかのようだった。 足音が響いて来た。 恐怖は感じなかった。何が来たとしてもどうでも良いとすら、その時の青空は思っていた。 「青空さん」 緑川だった。 青空は車体に乗ったまま緑川の方を見た。局員として働いている時のスーツ姿とは異なり、このテーマパークに来るのに相応しいめかした装いだった。この人もまた若い女性なのだと感じさせられる。 「言っておくけれど、連れ戻しに来た訳じゃないわよ」緑川は機先を制するように言った。「もっと言えば、局員として来た訳でもない」 「じゃあ黄地さんもいないんですか?」 「ええ。彼女は遠く離れた支部で怪獣が来るのを待っている」 「緑川さんはそこにいないんですか?」 緑川はいつ休んでいるのか分からない程常に青空達の傍にいた。青空達を管理する為だ。怪獣が現れるのをたった一人待っている黄地の傍に、彼女がいないのは不自然だった。 「怪獣対策局から外されたのよ」緑川は肩を竦める。「あなた達二人に逃げられたからって、いきなりクビよ」 青空は少し同情した。対策局は厳しい職場であるらしく、公務員の中でも選りすぐりのエリート達が凌ぎを削り合っていた。緑川はその中でも有望株らしく、精力的に青空達の監督係を務めあげていた。ドロップアウトさせてしまったことを申し訳なく思おうとしてみたが、それは欺瞞であるようにも感じた。 「ねぇ青空さん。あなたはどう思う?」 「何をですか?」 「誰が一番命を賭けたと思う? 誰が一番この国の為に戦ったと思う?」緑川は口元に退廃的な笑みを浮かべた。「あなた達じゃないわよね? いくら前線で戦ったと言っても、無敵に近い力を持つという保証が、あなた達にはあった。いざとなればすべてを投げ出して逃げることだって出来た。今あなたがしているみたいにね。だからあなた達は誰からも気を使われて特別待遇で……でもね、そんなあなた達よりよっぽど健気に奉仕した人が、この国にはいるの」 「誰ですか?」 「この私よ」緑川は自分の胸に手をやった。「どれだけ怖かったと思う? どれだけ大変だったと思う? あなた達が怪獣に負ければ、戦いの途中で怪獣から逃げ出せば、戦場から近い支部にいる私は必ず殺される。戦う手段も逃げる手段もない。私は常にそういう危険な状況にいて、あなた達の機嫌を取るという戦いを続けていたのよ」 確かにそうだった。この人は本当に大変な立場にいた。だが青空はそのことを考えたこともなかった。自分を怪獣と戦わせようとする敵だとしか思ったことがなかった。 「私の実感としては、怪獣なんかよりあなた達の方が余程怖かった。赤錆さんは気に入らない局員を手に掛けることもある。受験ノイローゼでヒステリーを起こしたあなたに、殺されかけたことだってあったわよね? 私のいた場所が本当の『最前線』よ。それがどれだけ胃の痛む、危険で過酷な任務だったか、あなたには想像できるかしら?」 できない。出来るはずもない。他にどんな責め苦を受けることがあったとしても、青空はこの人にだけはなりたくなかった。 「それでも耐えたわ。国の為人類の為、何より自分自身の為にね。やがて怪獣を全滅させれば、国を救った誇りある裏方の一人として胸を張ることが出来る。その実績はこの先の人生で必ず付いて回る。そう思ってそう信じてずっと一人で戦い続けて来たのに。それなのに!」 緑川は声を荒げた。この冷静だった女性が見せたことのないような、どころか青空の知る全ての大人が見せたことのないような、そんな激しく気持ちの籠った喚き声だった。 「どうしてクビになるのよ! 確かに私はしくじった。あなた達のケアに失敗して、二人も『戦士』を逃がしてしまった。でもそれは私一人の責任なの? 私一人に全部押し付けられるの? これまでの実績と貢献が全部忘れられて? なかったことになって? 対策局の職員ですらなくなるの? 国を救ったメンバーのリストから、私の名前はなくなってしまうの? そんなのってない! そんな理不尽はありえない! だったら私は、私はこれまで何の為に! 私は! 私は……」 激しい口調でそこまで言ってから、緑川はふと息を吐いて、肩を竦めて静かになった。これまでほとんど錯乱したように騒いでいたのが上質な演技であったかのように、瞬く間にずんと元の静かで冷静な表情に戻った。 そのことに青空は戦慄していた。どれ程の嘆き悲しみや怒り苛立ちを抱えていても、一時それを爆発させても、そんな自分をこの人はコントロール出来てしまうのだろう。自分はこんな大人にはなれないと思うと共に、気が付けばいずれなってしまうのではないかという不安も感じた。 「そんな風にかなり傷心したものだけれど、嘆いている内にやがて心の整理も着くものでね。色々考えて、私も国を捨てることにした」 「……そうなんですか?」 「ええ。だってこの国はもう終わりでしょ? あなた達、逃げたんだから」緑川は微かに露悪的な表情を浮かべた。「少しの間ぶらぶらして、母国に別れを惜しんだら、その内出国するつもり。私だって優秀な人間だし、アメリカに親類だっている。日本でしょぼい役人をやっているより、余程まともな人生を築ける自信があるわ」 緑川は青空から背中を向ける。 「さようなら青空さん。あなたのことは嫌いだったわ」 色々と胸中を吐露したが、結局のところ緑川が言いたいのはそれだった。 青空とて誰かを嫌悪することはある。緑川が自分を嫌悪する理由も分かる。しかし虫けらのように自分を殺せる力を持つ相手に、わざわざそれを言いに来る程の嫌悪というのが、青空には理解できなかった。 「黄地さんは……黄地さんは、今どうしていますか? 私のことを追って来ると思いますか?」 「そりゃあ来るでしょう?」緑川はわざわざ振り向いて、蔑んだような表情を青空に見せた。「あの子は本気で国を守る戦士のつもりでいる。そしてその責務は、あなたの持ってる力がなければ果たせないものよ。死に物狂いで奪うでしょうね」 緑川は足音を鳴らして青空から去って行った。 〇 青空の自宅は近所で一番の広さを誇っており、屋内は豪華な家具が散りばめられていた。それらを誇らしく思えたのは小学校に上がる頃までで、姉と手分けして掃除しなければならなくなってからは、闇雲に大きなこの家の存在が煩わしく感じられたものだった。 青空は自宅の前にいた。あまり良い思い出があるとは言えないが、それでも久しい我が家には違いなかった。ガレージを見て両親が共に外出しているのを確認すると、青空は鍵を差し込んで家の中に入った。 家の中はいつものように静かだった。 ここに来ることももうないのだろうと思いながら、長い廊下を青空は歩いた。屋内は意外にも清潔に保たれていた。両親が時々帰って掃除をしているのだろうか? 少しばかり感慨に浸っても良い気分だったが、あまり長居するのもリスクがある。青空は速やかに整理棚の移動し、書類を漁り始めた。 「渚」 声を掛けられた。 うんざりするような声だった。誰よりも聞き飽きた、誰よりも身近だった、誰よりも尊敬し誰よりも軽蔑した一番の身内の声だ。 「何?」青空は振り返りもせずに答える。「何? お姉ちゃん」 「何しに帰って来たの?」姉は青空の態度を咎めることなく尋ねる。 「そっちこそ何で実家にいるの?」 「ただの帰省よ。あんた全国巡ってるんだったら、私が時々帰って来て掃除しないと家の中がダメになる」 「そう。なんでお手伝いさん雇わないんだろうね、お父さんもお母さんも」 「知らないわよ。興味ないんじゃない、この家に。ほとんど病院で寝泊まりしてるような人達だから」 「前から言いたかっただけどさ、私達ってネグレクト受けてたんじゃないのかな?」 「そうかもね。それで渚」姉は僅かに声音に剣呑な感情を忍ばせる。「なんで帰って来たの?」 「お姉ちゃんには関係ないじゃん」 生意気な口を利いているなと自分でも思う。しかも生意気なだけで意味のない口である。今生のかはどうかは分からないが、それなりに大きな離別になるのかもしれないのだから、別れを惜しんで置けば良いと分かっているのに、青空はそうした態度を取り続けていた。 「欲しいのはこれ?」 姉は闇雲に書類を漁っている青空の隣に立ち、あっさりとパスポートを見付けてしまう。そしてぞんざいな態度で青空に手渡した。 「ありがとう」 「ねぇ渚。あんた嫌なことあったでしょ」 「まあね」 青空は頷いた。だからと言って不機嫌を剥き出しに出来るのは、それだけ姉に甘えていることの裏返しでもあった。 「パスポート取りに来たってことは、怪獣と戦うのはやめるのね?」 「うんまあ。お姉ちゃんも早く国外脱出しなよ。親と一緒にさ」 「あんたはどこに行くの?」 「どっか外国」 「具体的な計画は?」 「ない」 「嘘でしょ?」 「英語圏に行くのは確かだと思う。外国語で話せるのそれだけだから。まあアメリカかな。その英語にしたって現地の人からしたらカタコトだろうし、まずは語学学校通いながら向こうで高認取って、それが終わったら受験勉強して。二十歳までにどっか理三よりマシな医大に滑り込めれば上々って感じ」 「行き当たりばったりね」 「お姉ちゃんはどこに行けば良いと思う?」青空は姉の方に身体を向けた。「私がどこに行こうと別にチクったりしないよね? 相談乗ってよ。ねぇ、どこに逃げれば平和に過ごせると思う?」 「あんたはどこに行っても平和になんか過ごせないわよ」姉は肩を竦めた。「戦士としてのあんたの境遇がどうとかじゃなくて、性格の問題でね。どこまで逃げても、あんたは逃げ切ったなんて感じられないわ。どこに行ってもどう生きても、あんたは永遠に怯え続けるのよ」 嫌なことを言う。青空は意識的に姉のことを睨んでいた。それがきちんと相手を睨むというよりも、拗ねてむくれるような表情に見えることは何度も指摘されていたが、それでも青空はその顔を姉に向けて見せた。 「どうしてあんたは逃げ続けることになると思う? どうしてあんたは怯え続けることになると思う?」 「知らないよそんなの。逃げ続けたり怯え続けたりすることになる理由じゃなくて、お姉ちゃんにそんな風に言われなきゃいけない理由を、私は知らない」 「それはね渚。あんたが自分の意思で立ち向かったことがないからよ」 説教をする口調だった。青空はうんざりした気分にさせられる。昔は拗ねた心地になりながらも一応耳を貸す気構えはあったが、今ではそれも摩耗し切って久しかった。 「海鳴中学を受けるよう親に言われた時だってそう。私にはそんなとこ無理だってずっと言ってたわよね? 受験から逃げようとしたの。だから私がしばき回して勉強するように仕向けなくちゃいけなかった」 「いつの話? それ。そりゃああなたは厳しいお姉ちゃんだったよ。それに鍛えられたと言ってあげないでもない。海鳴に入れたっていう成功体験と、私は勉強出来るっていう自信を与えてくれた。でもさ、そんなのは本当に大昔の話であって、今の私はちゃんと自走して勉強してる訳だし……」 「でも理三は諦めるんでしょう? それは逃げでしょ?」 「事情が事情でしょ? 怪獣が出る国の大学になんて通ってられますか?」 「怪獣なんて倒せば良いじゃない」 「バカ言わないで」青空はいっそ呆れたような気持ちになった。「百人いて九十九人、あんなのからは逃げるに決まってる。中には逃げない奴だっているけど、そんなのはただアタマが悪いだけ。戦い続ければ死ぬと分かってて、それでも戦い続けるなんてバカなんだよ。熱に浮かされたヒロイン気取り。真っ当に自己実現して来られなかった、夢も希望も能力もない雑魚が、物語の主役になれるチャンスに飛びついていただけ」 青空は露悪的な気持ちで肩を竦めた。姉の前でもなければこんな態度を青空は取らないし、こんなことを思いもしないだろう。それはとどのつまり、目上の身内に甘えるばかり、軽薄な本性が露呈していることを意味していた。 そんな青空を、姉は慈しむでもなく突き放したような目を向けた。 「賢い振りするのを身に着けたわね。なまじ勉強出来る弊害だわ」 「高慢なのはお姉ちゃん譲りでしょ?」青空はああ言えばこう言った。 「私譲りってのはともかくとして、高慢である自覚あるんだ?」姉はニヒルに笑う。 「流石にね。そのくらい自省出来てるよ。私は高慢なインテリ予備軍ですよ。それが何か?」 そういう風にならなければ自我を保てなかった。勉強しか取り柄がないことに青空は自覚的だ。しかしその一点は輝かしい長所だとも青空は思っている。自身を虐げ軽んじるバカ共より秀でていることの証明に成り得ると信じている。だから青空は勉強を頑張れてきたのだ。 「本当に自省出来てる? どんなに賢ぶって自己正当化したところで、あなたがただの無責任な臆病者、ある種の敗北主義に違いはないってことも?」 流石にむっとした。青空は反論しようとして口を開きかけたが、気の利いた言葉が見付からなくて床を睨む。ただの口喧嘩やディベートとしてなら何とでも言えそうだったが、しかし自分自身で納得できる欺瞞のない言葉となると捻り出せない。 「逃げちゃダメよ、渚」姉はかつての厳しかった保護者の口調に戻っていた。「他の誰の為でもない。国の為でも人類の為でもない。そんなものは私だってどうでも良い。他でもないあなた自身の為に、あなた自身の人生の障壁を打開するのよ。それをせず逃げ出して、立ち向かった時より幸福で胸を張れる人生があるなんて、あなたも本当は思っていないんでしょう?」 「お、お姉ちゃんは、逃げなかったから。立ち向かい続けたからっ」青空は幼い声で吠える。「だから引き籠った! 医者になれなかった! 人生を四年も台無しにした! それで良く妹にそんなことが言えるよ!」 青空は頬を紅潮させた。姉にとって最も突かれたくないだろう部分を必死になって攻撃したが、しかし姉は表情一つ変えずにそれを受け止めている。 「お姉ちゃんこそ逃げなくちゃダメだったっ! 逃げなかったから大切なものをたくさん失った! 負けると分かったならとっとと逃げた方がずっと良い! その方がずっと失わない! 痛みも少ない! 後悔だってしない! 命だって繋げるんだ!」 「私は浪人して理三を受け続けたことを後悔していないわ」 「嘘吐かないで! 言いくるめられるなら何だって良いの?」 「本心よ」姉は涼し気な笑みを浮かべる。「あの日々があったから、今の私があるんだもの」 何を抜かす。高卒のただの事務員風情が。負け惜しみも大概にしろ。 いや、負け惜しみくらいいくらでも言えば良い。それに付き合う度量くらいある。優しく肩を叩いてそうだその通りだと微笑んで、僅かでも溜飲を下げさせてやるくらいの優しい心は持っている。だがその負け犬根性で青空を破滅に導こうというのであれば、青空は全力でそこに敵対する。 「大切なのは今の自分に胸を張ること。自分でそれが出来ているのなら、過去のすべては間違いじゃない」渚は誇らしげな口調で言う。「ここで逃げ出して、あなたは自分に胸が張れるの? ここで逃げたら、後はもう逃げ続けるだけよ。責任から、目標から、恐怖から。安心も誇りも手に入らず、荒野の中をただ逃げ惑うだけよ」 「うるさい!」青空は頭を抱えた。「何が誇りだよ! 死んじゃったら元も子もないでしょう?」 その時だった。 青空のポケットでスマートホンが震えた。 煩わしく思いながら相手を確認する。知らない番号なら無視するつもりだった。知っている名前でもたいがいは無視しただろう。 しかしその着信は赤錆のものだった。青空は悄然とする。彼女は青空自身が殺害したばかりだ。とても電話など掛けてくるはずがない。 亡霊などいない。そんなことは言いきかせるまでもない。それでも青空はその着信を無視することが出来なかった。 青空は電話に出た。「もしもし」 「あたしだ」黄地だった。「おまえ、赤錆を殺したんだってな」 思わず息を飲む。黄地はどういう方法を使ってか死んだ赤錆のスマートホンを入手したらしい。通話を切るべきだという警鐘が全身に伝わるが、指が震えて上手く行かない。 「今すぐ戻って来い。でないと」はっきりとした殺意が感じられる声だった。「どこへ逃げても、あたしは地の果てまでおまえを追い掛けて……」 効き終える前に、青空はどうにか通話を切った。 真実、黄地は青空を見付けだすだろう。青空を捕らえ、殺害してその力を奪うだろう。強い恐怖と共に青空はそのことを確信した。 「渚。どうしたの? 誰から?」 「……ねぇお姉ちゃん」青空は震える顔で姉の方を見る。「お姉ちゃんの言う通りかもしれない」 「何が?」 「逃げ回っても平穏なんて手に入らない」青空は唾を飲み込む。「立ち向かい打開しないと、幸福は訪れない。敵は倒さない限りずっと追い掛けて来る」 「渚……?」 「良い教えだよね」 青空は退廃的に笑った。 〇 8 〇 試しにそこらのビルを撃ってみた。 これまでにない程の射程と威力が出た。目を細めなければ確認できない程遠く離れたビルを貫通した弾丸は、そのまま突き進み近くにあったビルをさらに二つ三つ破壊してから消滅した。 運動能力も凄ぶる上昇している。垂直に跳躍すれば以前の三倍は高く飛びあがりどんなビルでも飛び越せたし、握った拳を地面にぶつければ大きなクレーターが生成された。自分なりに定めた距離を何秒で移動できるか計測したところ、その時速は三百キロをゆうに超えた。 赤錆から奪った戦士の力は確実に青空に根付いているらしかった。ますます人外めいていく自分自身に哀れみも思えたが、しかしこれほどの力を持ってしても不十分である可能性は高かった。 青空は怪獣の現れる非難区域にやって来ていた。その中の一つのビルの屋上に腰かけて、遠くで行われている怪獣と黄地の戦いを観察する。 黄地は押されていた。怪獣が放つ拳が身をかすめる度、数百メートル吹き飛んで近くのビルに衝突していた。ぶつかったビルは粉々に砕かれ、瓦礫と共に墜落した黄地の肉体は、数秒程痛みをこらえるように震えた後で不屈の意思と共に立ち上がる。 今度の怪獣は土と岩で出来た巨大な人形のような姿をしていた。西洋のいわゆるゴーレムだ。男の子の良くやるビデオ・ゲームにも、モチーフにした怪物が度々登場する。岩を粘土で繋いで作られたような手足と動体は粗末であり、アタマの部分に一応両目のようなものが描かれていたが、暗い空洞を開けられただけのそれは虚ろで何の感情も読み取れなかった。鈍重そうな印象も受けるが、実際には人型というだけあって精密に立ち回り、岩で出来た肉体は強靭で黄地の槍を持ってしても傷一つ付けることはままならなかった。青空はそれを『土人形怪獣』と呼称することに決めた。 その土人形怪獣の岩の拳が、またしても黄地の肉体に炸裂する。地面に叩き付けられた黄地はクレーターの中央で蹲っていた。 そこに土人形怪獣の追い打ち、踏みつけ攻撃が黄地に迫る。 避けるかと思ったが、叩き付けられたダメージが甚大であった為か間に合わなかった。あっけなく踏み躙られた黄地の姿が見えなくなる。 これは死んだかと青空は歓喜しかけた。しかし信じがたいことに、しばらくして黄地は岩で出来た足の裏を持ち上げながら立ち上がった。そのまま力一杯肘を伸ばして足の裏を跳ね上げると、土人形怪獣は大勢を崩してその場を倒れこんだ。 そして黄地の反撃。飛び上がって胴体に力強く槍を突き下ろすが、微かに岩が削り取られただけで効果的なダメージは与えられない。そのまま身を捩った怪獣に跳ね飛ばされるようにして、再び地面に着地した。 青空は驚愕していた。土人形の踏みつけ攻撃から自力で脱出した黄地の腕力と精神力は、畏怖に値すると言って良いだろう。あれほどの攻撃を受けて動けるということも驚異的だ。 このまま怪獣と戦っていても、黄地は死んでくれない可能性が高い。 やはり自分が出て行かねばならない。 青空は拳銃を握りしめてビルから飛び立った。そしていくつかの摩天楼を乗り継いで戦場へと接近すると、槍を構える黄地の背後に着地した。 「青空か」黄地は身体は怪獣に向けたまま振り返った。その表情には喜びと安堵が滲んでいる。「来てくれたのか」 窮地において、離脱していた仲間が増援として現れたのだと感じているのが分かった。しかし青空は拳銃を取り出して黄地に向けた。 「違います」引き金を引く。「あなたを殺しに来ました」 放たれた弾丸は黄地の背中に容易く命中する。黄地は青空に背を向けていて、しかも自分を味方と思っている。良い不意打ちになったと青空は思った。 以前までは皮膚に近いところで停止して、簡単にほじくり出されていた弾丸は、今度は肉体を容易く貫通して確実なダメージを黄地に与えた。 「何のつもりだ!」黄地は叫び、弾丸の貫通した腹を抑えながら青空から逃げるようにその場を飛び上がった。「なんであたしを攻撃する必要がある!」 「あなたがわたしを脅すからです。地の果てまで追いかけるなんて言うからです!」青空は銃を乱射する。「あなたを殺して、わたしはようやく平穏を手に入れるんです! 脅威からは逃げるのでなく打倒するんです! お姉ちゃんにそう教わったんです!」 逃げ続けていては安心はない。立ち向かって打破しなければ恐怖は消えない。日本を去る前に、青空は黄地という脅威を確実に排除しなければならなかった。 その為に青空はここを訪れた。怪獣との交戦中を狙ったのも作戦だ。同じ二人分の力でも、黄地には青空を遥かに凌ぐ経験値がある。真正面から戦ったとしても勝ち目があるかは怪しいところだ。ならば怪獣の攻撃を受けて疲弊したところを不意打ちで下そうとしたのだ。 「バっカだろおまえ!」黄地は心底呆れ返った声で叫んだ。「安心したいんだったら怪獣の方を倒しゃ良いだろ!」 「どっちか倒せばそれで済むんならあなたの方狙いますよね?」青空は弾丸を放ち続ける。「怪獣は無限に現れますがあなたはそこにいる一人だけです」 黄地は腹から血を流し続けつつも、どうにか青空の銃撃を避けて行く。その動きは鈍い。土人形怪獣から受けたダメージと、青空が貫通させた弾丸によるダメージとで、既に瀕死に近い状態にあることは明らかだった。優勢だ。 「おまえは自分一人の為に卑劣な手段で仲間を殺す外道になりたいのか?」黄地は吠える。「自分を情けないとは思わないのか? どうして人類の為に怪獣と戦う英雄になろうと思えないんだ!」 いがみあっている間にも、土人形怪獣は拳を振り上げて青空達を攻撃して来る。青空はそれを躱しながらも黄地への攻撃を継続した。弾幕に気を取られた黄地が怪獣に殺されるのなら、それも青空の作戦通りだ。 「私は私の生命と人生を守るだけです! それの何がいけないんですか!」青空は高らかに吠え返す。「何が英雄ですか! 何が人類ですか! 最初からずっと……こんなことに付き合うのは嫌だったんです。国を亡ぼす怪獣とそれと戦う若者なんて、そんな愚劣な筋書きに身を置いていることが苦痛でした。責任や重圧と、自分の人生との間で苦悩する英雄だなんて、そんなくだらない役を演じさせられるのは嫌でした!」 青空は心からそう叫ぶ。自分に降り注いだバカげた運命のすべてを憎悪した。そんな運命を受け入れるよう迫る世界のすべてを深く呪った。 「落伍者ならばそんな空想も時にするでしょう。そんな空想だけを頼りに生きることもあるでしょう。でも私はそうじゃない! 現実の中をただの生身の人間として、地に足を踏みしめて毎日必死で生きて来た! これからもそうやって生きて行く! それを守る為ならあなただって殺す! 勇者になんてなりたくもない!」 青空は黄地を追いながら銃をぶっぱなし続ける。その弾丸には深い殺意が宿っていた。 「知っていますか? たいていの人は、自分が安全でさえいれば、世界だの人類だのは、心底からどうだって良いんです。世界の危機なんてのを救うよりもずっとずっと前に、まずは自分の安全を確保するんです。その為に全力を尽くすんです。赤錆さんみたいなのは極端な露悪主義に過ぎずとも、私なんてのはどこにでもいるただの普通人で、おかしいのはやっぱりあなたの方だ!」 心から思う。黄地はイカれている。何が人類の危機だ。そんなものに自分から望んで巻き込まれて英雄なんかになろうとして、その脳味噌は幼稚園児以下だ。この物語を仕組んだ者が愚劣なら、ヒロイズムに浸りながら主人公を務めあげている黄地も愚劣だ。 そんなものは青空の人生から排除しなければならない。 「なんで戦うんですか? なんで命なんて賭けるんですか? なんで夢を叶えることを諦めるんですか! 戦いなんて拒めば良いし、それも無理なら逃げれば良い。拒んで逃げることに一生懸命になるのが当然なんじゃないですか? それなのに!」 「…………操」 黄地は漏らすようにしてその名を口にした。 「……操がな、死んだんだ。あたしが殺した」 気が付けば土人形からは遠ざかっていた。 逃げ続ける黄地を追っている内に距離が出来ていた。黄地からすれば、青空と怪獣の二面作戦を強いられるくらいなら、怪獣から離れて青空一人と対峙することを望んだのだろう。土で出来た身体は精密に立ち回りはするが、その動き自体は敏捷ではなく、本気で離れようと思えばどうとでもなった。 ビルの屋上で青空は黄地と対峙している。突き付けた拳銃はいつでも撃つことが出来たが、しかし黄地もまた槍を掲げており互いに出方を伺っていた。 「……知ってるか? 藍沢操」 「え、ええ」青空は油断なく銃を構えつつ言った。「藍沢という苗字だけは。私が来た時にはすでに病気で亡くなっていた『戦士』ですよね」 戦士として目覚めるタイミングには違いがある。その藍沢という人物は青空より早くに力に目覚め、青空が目覚めるより前に病気で死亡した。 「ああ。おまえに会うほんの三日前だ。あたしがこの槍で突き殺した」 「それが何か?」 「病床で眠るアイツの傍に、あの赤ん坊を抱いた女が現れて言うんだ。『そいつを殺せばそいつの力が手に入る。一人で死なせれば力は失われる』ってな。あたしはどうして良いか分からなかったが、操は目を覚まして言うんだ。『殺せ』ってよ」 「それが何か?」 「あいつは死ぬ寸前まで戦士として戦っていた。余命一か月と宣告されていた中でだ。残されたたった一か月、家族や友達と過ごしたり、やりたいこともたくさんあっただろう。それを投げ打ってあいつは戦い続けていたんだ」 「だから?」 「そんな奴をあたしは殺したんだよ! その遺志と力を受け継ぐ為に!」黄地は咆哮をあげる。「あたしだってあいつが死ぬまでは、将棋や学校と両立しながら戦うことも考えたさ! でもそんなのはもう無理だ! あいつはあたしに命を差し出した! そうやって世界を救えと、自分の分まで英雄になれと願ったんだ! そんな奴の力と遺志を受け取ったあたしが、どうやって逃げ出せっていうんだよ! 言ってみろ!」 喚くような言葉を聞いて青空の心は急速に冷めていくようだった。 「チープなんですよね。いちいちが」 「……なんだと?」 「多分怪獣作ってる人と私達に力を与えた人って一緒ですよ。あらかじめそういう動機を与える為に人選したか、たまたまそうなったかは分かりませんが、狙ったとしたら浅はかですよ。非常に陳腐です」青空は思わず肩を竦める。「その一方で、私や赤錆さんみたいなのを主要人物に配置したのは、逆張りなのか何なのか。どっちにしろくだらないです」 「おまえ……何を言って……」 「その藍沢さんってのは余命一か月しかないのに頑張って偉いんじゃなくて、余命一か月しかなかったからそのくらいしかやることなかっただけじゃないんですか?」青空は冷笑的な口調で言った。「いよいよ後一か月しか生きられなくなったって、人が変わる訳じゃないんだからやれることなんて知れてますよ。夏休みの最後の何日かと同じです。気が付けばスマホゲームでもして時間を浪費して、後悔しながら終わるのがオチです。余命に迫られながらそれでも戦う英雄になれるだなんて、そんな素敵なの用意されたら、人によっては飛びつきますよね?」 黄地は絶句していた。青空もまた自身の言いようを意外に感じていた。態度こそ温厚かつ慇懃ながら内面にある種の軽薄さを潜ませている青空だったが、その思考をこうまで露悪的に言語化することは、気心知れた姉が相手でもない限りこれまでなかった。殺し合いを演じるにあたって、奇妙な興奮状態に陥っていることは明らかだった。 「藍沢さんは死ぬ前にあなたに呪いを掛けたんですね。あなたはその呪いに蝕まれるあまり、自分自身を犠牲にして命を賭けた戦いに臨まざるを得なくされた。酷い話です。死んだ他人より生きている自分の方が、遥かに優先されるに決まっているのに。そんなことも分からなくされただなんて、なんと恐ろしくおぞましい呪いなんでしょう。ぞっとしますよ」 黄地の顔から表情が消えた。目には見えない怒りが全身から噴き出しているような錯覚を覚える。震える全身には殺意に満ちた力が漲り、鮮やかな金髪は風が吹く度逆立つかのようだ。 「おまえはもう救えない」黄地がぞっとする程低い声を出した。「手足を捥いででも動きを止めてやる。容赦しねぇぞ」 槍を構えた黄地が青空に迫る。青空は後ろ向きに飛び上がって数十メートル離れたビルに着地しつつも、黄地に向けて弾丸を放ち続ける。黄地はその全てを槍で弾いた。 「私を殺せばもっともっとあなたは主人公らしくなれますねぇ」青空は滅多に言わない皮肉を口にしていた。「過去に仲間を手に掛けたことを悔いる戦士が、今度は裏切った仲間を手に掛けるだなんて、本当に戯作的な悲劇です」 黄地は青空を追い掛けながら激しく槍を突き出して来る。真正面から打ち合えば適うはずがない為、青空はひたすら距離を取ることに徹しながらも、絶えず発砲し弾幕を張り続けた。互いにとって有利な間合いを図りながら、二人はずるずると移動しながら戦い続ける。 戦いの中で、青空は黄地の動きを良く観察した。攻め方や立ち回りの法則など、戦いに活かせるものがないかを考えた。そして一つの癖を発見した。 弾丸を避ける時など、右か左かどちらかに身体を向けなければならなくなると、黄地はほとんどの場合で左を選択する。右を向くことはまったくと言って良い程ない。 何故そうしているのかを考えて、過去に緑川から教わったことを想いだした。黄地は過去に自動車事故で脚に障害を負い、打ち込んでいた剣道を諦めた経験がある。戦士として目覚めた後のケガは簡単に治癒するが、目覚める前に変形治癒でもしていたならば、未だその障害は何らかの形で残っている可能性がある。 左脚に障害があるから、咄嗟に右を向けないというのは考えられた。青空はその仮説に基づいて攻撃を行う。弾丸を避けようとする黄地の動きを予知しながら、左へ左へと弾幕を張るように弾を放つ。 その狙いは通じた。逃げ損ねた黄地の腹部に、さらに一発の弾丸が被弾する。 「どこまでもどこまでも……」 黄地は痛みをこらえる様に腹に手をやりながら青空を睨む。青空の卑劣さを咎めるかのようだった。崩れるように膝を着き、全身を震わせながら肩で息をし始める。狙い放題だ。 勝利の予感がした。確実に殺害せしめる為、黄地の頭部に照準を絞る。 その時黄地が目を見開いて叫んだ。 「待て! 待て青空!」 待つものか。あなたを殺さない限り私に平穏はない。この死と隣合わせの最悪の筋書きから完全に逃れる術はない。命乞いなど青空にとって雑音と同じだ。 「そうじゃない! 後ろ!」 背中に強烈な衝撃が炸裂した。 青空はビル群のいくつかをなぎ倒しながら吹っ飛ばされ、地面に何度も身体を叩き付けられながら転がり、徐々に勢いを減じて骨折と打撲だらけになりながら停止した。強烈な痛みに息も絶え絶えになりながら立ち上がると、背後から自分を殴りつけて来た土人形怪獣の姿が目に入った。 追い付いて来ていたのか。いつの間に。 青空の方に狙いを定めるように、一歩ずつ距離を詰めて来る土人形。恐怖を感じた青空だったが、全身がボロボロで上手く力が入らない。これまでに怪獣に受けて来たどんな攻撃よりも、それは凄まじい威力を誇っていた。 最早立ち上がることもままならなかった。土人形は着実にこちらに近付いて来る。あんな一撃をもう一度食らえば死は免れない ……死ぬのか。青空は絶望を感じた。土人形怪獣はもう自分の鼻先まで迫って拳を振り上げている。これが振り下ろされるまでに回避できるだけの体勢を取り戻すのは無理だ。青空の意思と力でこの窮地を脱する可能性はどこにも残されていない。 青空は何もかもを呪っていた。怪獣が現れるというバカげた現象、それとの戦いに自分を引き込んだ緑川達対策局、暴力と脅しで青空に戦いを強いて来た黄地。これまでに自分を虐げて来たありとあらゆるものへの呪詛を心の中で吐き散らしながら、命を奪う最後の一撃を青空はただ待ち受けた。 「危ない! 青空!」 何者かに蹴り飛ばされた。 尻を掬い上げられるようにして蹴り上げられた青空はたちまち宙を舞った。宙を舞いながら、これまでに自分が倒れていた場所を見る。そこには脚を振り上げた黄地がいて、死地から離れて行く青空の方を目を細めながら見守っていた。 「黄地さん……?」青空は混乱し切っていた。「どうして……」 その一瞬だけは青空は自身の命が助かったことよりも、黄地の不可解な行動のことを考えていた。自身を殺そうとしていた青空を助ける為に、死地に飛び込んだ黄地の行動について考えていた。 土人形の拳が振り下ろされる。 青空を生かそうと蹴り付けた直後の黄地は、それを躱すことが出来なかった。巨大な拳が地面にめり込み、その隙間に挟まれるようにして黄地の姿は見えなくなった。 青空は地面に着地する。そして一つ二つ大きく息を吐いた後、身体を引き摺るようにしてどうにか立ち上がった。 「黄地さん!」 青空が叫ぶと、怪獣が地面にめり込んでいた拳を上げた。そこには両腕があらぬ方向にねじ曲がった黄地が寝転んでいて、青空の方に首だけを向けると、口から血を吐いてからこう言った。 「……コボセ」 「……は?」 「コロセ……殺せ。あたしを殺せ……」死に向かっている人間が放つ声だということが一瞬で理解できるような、力なく震える声だった。「あたしの力を受け取れ……。そしてこの怪獣を倒せ」 土人形怪獣は緩慢に青空の方に視線を向ける。二つの暗い空洞が青空の方を冷たく見据える。 「大丈夫だよ、青空」今際の際で、黄地は頬を持ち上げて笑った。「おまえすっげー根性あるよ。だからきっと、あたしの代わりに……」 青空は黄地に銃を向け、発砲した。 弾丸は正確に黄地の頭を捉えた。その瞬間、絶命した黄地の手から持っていた槍が霧散し、輝く光の粒のようになって青空の方へと殺到する。 粒子は青空の拳銃へとたちまち到達した。それはまさに光の速度であり目で追えるはずもない程高速だったが、しかし飛んで来たそれが己の得物に備わるのを、青空は確かに感じることが出来た。ほんの一瞬にも満たない出来事だった。 黄地の持っていた力が自身に宿ったことを、はっきりと青空は認識した。 土人形が咆哮を上げながら、今度こそ青空に向けて拳を放ってくる。 それが到達するよりも前に、青空は拳銃を土人形へと向け、発砲する。 四つの獲物の力を束ねた拳銃から放たれた弾丸は、土人形怪獣の全身を粉々に破壊せしめた。 瓦礫と化した怪獣の肉体があたりに飛散し、人気のない街を破壊して行く。そうして降り注いだ大量の岩石の一つが青空の頭部に被弾したが、それは最早青空にとって何一つ痛くも痒くもないものだった。 〇 怪獣の拳が砕いたコンクリートの中に沈む黄地の姿は静謐だった。 粗暴な言動や表情の作り方、振り乱した髪の所為で気付きづらいが、良く見れば整った顔立ちをした少女なのだ。青空が額に穿った風穴から鮮血を垂れ流して尚も、その姿は役目を終えた戦士のように気高いものに見えた。 だが実際のところ、この少女は怪獣との戦いに必ずしも真摯だった訳ではないのだろう。青空はそう評価している。真実怪獣を撲滅することを何よりに考えていたのだとすれば、黄地はもっと早く青空のことを殺さなければならなかった。赤錆のことだってそうだ。ああも身勝手に人を殺し続ける彼女の命を、その力ごと奪わなかった所為で、いったい何人が死んでいったというのか。 何があっても仲間を手に掛けたくない、死なせたくないという黄地の姿勢を、青空は批判までするつもりはない。その姿勢が為に多くの犠牲が出たが、だとしても人にはやりたくないことと言うのがある。それは青空が自らの時間や生命を惜しむあまり怪獣との戦いを拒んだのと、基本的には同列のことだ。 「でもだからって……自分が死んでどうするんですか」 青空は開き切っている黄地の瞼を閉じさせた。 言葉遣いや態度は粗暴で、時には暴力で脅しにかかる気質こそあったが、根は確かに優しい少女だったのだと思う。勇気という芯の備わった、しなやかな優しさだ。その優しさがあったからこそ黄地は怪獣との戦いに全力を尽くせたが、その優しさ故に青空を庇って怪獣の拳を受け、最後には青空に殺された。 今や全ての力が青空に託されていた。その青空が逃げ出せば、この国は今度こそ怪獣に滅ぼされることは間違いない。それをせず青空が戦うことを黄地は望んでいたし、それを信じたから彼女は笑いながら死んでいったのだ。 「……だから何だっていうの」 青空は蒼天に目をやった。透き通るような空にはくっきりとした白さの雲が浮かんでいた。眩い太陽に思わず青空は目を細める。日光の降り注ぐ無数の瓦礫の内の一つに飛び乗り、青空はこれから自分が去ることになる荒廃した街を見下ろした。 黄地には申し訳ないが青空の戦いはこれで終わりだ。どんなことがあろうとも、例え命を差し出されようとも、黄地の為に心変わりしてやる程青空は愚かではない。命が繋がったからには青空は逃げる。命を捨てて青空を救った黄地を裏切って、黄地が守ろうとしたこの国から、自分一人の為に青空は逃げるのだ。 「知らないよ。そんなの」青空は首を横に振る。「さようなら」 青空は別れを告げた。黄地の死体から、この国から、自分を苛んだ過酷な運命から。全てを置き去りに立ち去ることを決意した。 その時だった 「だぁあああ。ああああああ」 鳴き声がした。 赤ん坊を抱いた少女が青空の前に立ちはだかっている。瞬きすらしていない青空は、いつの間にか出現したその少女に瞠目した。そして深い憎悪を込めた表情で少女を睨んだ。 「全ての力は一つになった、と主は申しています」 少女が言う。赤ん坊は鳴き声を上げる。 「だぁああ。あああああ」「我を殺せしめる力がそこに宿った、と主は申しています」 「あうらうだう。だああああ」「悲願は達成された。さあ、我に死を与えよ。破壊と殺戮に血塗られた闘争に終止符を打て」 「うるさいですよ」 青空は少女に拳銃を突き付けた。 仰々しい言い回し。裸の赤ん坊を抱いた少女という外連味を求めた姿。不確かな目的。超然とした態度。全てがうんざりだ。 「戯作家はあなただ。あなたが全て仕組んだんだ。そうでしょう?」 「だあああ」「そうだ、と主は申しています」 「あうらうだう」「怪獣をけしかけたのも我ならば、貴様らに力を与えたのも我だ」 「だぁあああ。あああ。あああああ」「すべては我が悲願の為。我を殺害し得る力を持つ武器を育てる為。貴様は良くやってくれた。これで我には永遠の眠りと安らぎが手に入る。……と、主は申しています」 青空は血走った目から涙を流している。腹が立ってたまらなかった。自分から様々なものを奪ったこの二人組が憎くて憎くてたまらなかった。 こいつさえいなければ青空は戦わされずに済んだ。逃げずに済んだ。赤錆と黄地を殺さずに済んだ。血塗られた自分の両手を眺め、この汚れが生涯付いて回ることに絶望せずに済んだのだ。 こいつがいるから悪いのだ。こいつが怪獣なんか作るから悪いのだ。それを青空にけしかけるから悪いのだ。そうでなければ青空はこんなに苦しまなかった。こんな思いをしなくて済んだのだ。 戦わなかったことも逃げたことも殺したことも、こいつを差し置いて青空が責められる謂れはない。こいつがここで死ぬべきだ。青空の全ての至らなさと情けなさと罪を背負い、それらと共にここで葬り去られるべきなのだ。 青空は引き金に力を籠める。震える指先で引き金を引こうとする。 少女の胸の中で赤ん坊が微かに口元を持ち上げる。 それを見て……青空は途端に癪を感じて銃をおろした。 「だぁあああ」「どうした、と主は申しています」 「あうらうだう」「我が悲願を果たせ、と主は申しています」 「だぁああ。ああああああ」「我は死が欲しい。貴様らが持っていて、我だけが持っていない、永久の安らぎを与えて欲しい。主は強くそう申しています」 「……違いますよね」青空は言う。「あなたは死なんか望んでないですよね?」 確信があった。根拠はないが青空は全身でそれを感じていた。 「だってあなたは何でもできます。それだけあまりにも何でも出来るんだったら、死ぬ為の方法なんて他にいくらでもあるはずです。こんな持って回ったことをするのなら、相応の目的があるはずですよね」 「だああああ」「その通りだ、と主は申しています」 あっさりと少女は認めた。意外でも何でもなかった。認めようと認めまいとどうでも良かったに違いなく、よってどう答えても何もおかしくなかった。 「あなたはお話が作りたかった。女の子が怪獣と戦って、その中で葛藤したりいがみ合ったりしながら、それでも最後には世界を救う。あなたに死を与える。そんな物語を描きたかった。それを眺めて楽しんでいた。違いますか?」 「あうらうだう」「その通りだ、と主は申しています」 「いいやそれも違う」 言ってみて、認めさせてみて、しかし青空は首を横に振る。 「あなたが本当に物語を作ることに真摯だったのなら、こんな稚拙な内容になるはずがない。全ての要素が陳腐だし、設定はぞんざいで作り込みなんてものはなくて、何より主人公の人選が無茶苦茶だ」 赤ん坊も少女も何も言わない。ただ青空の言葉を待ち受けている。 「黄地さんが葛藤しながら私を殺して、それで得た力で世界を救うならともかくとして、どうして生き残るのが私なんですか? こんな臆病なだけの卑劣な人間なんて、どう逆張りしても主役に相応しくない。残すに値する優れた物語を作りたいなら、私なんかを主人公にするのはあり得ない。ただの悪ふざけみたいなもの」 赤ん坊は笑っている。 「つまり……あなたはまるで真剣にストーリーに取り組んでいない。必死だったの巻き込まれていた私達だけ。私や黄地さんや赤錆さんが必死だっただけで、あなたにとってこれはただの手遊みで、暇つぶしの人形遊びだ。いいや暇を潰そうだなんて具体的な目的すらきっとない。これは何の意味も価値もないただの空想で、言ってしまえば……」 青空は満を持してその言葉を口にする。 「『気まぐれ』だ」 「あひゃ」 赤ん坊は甲高い笑い声をあげた。 「あっひゃひゃひゃひゃ。あひゃひゃっ。あっひゃひゃひゃひゃ。あひゃひゃひゃっ!」 それは確かに赤ん坊が放っている声だった。赤ん坊にしか出せない高く幼く柔らかで、無邪気で愛らしい笑い声だった。それだけにとてもおぞましかった。この小さな肉体にどれほどの超常的な力と悪魔のように悪意のない悪意が詰まっているのか、それを想像する度に青空はどこまでもうすら寒かった。 「あひゃあひゃ。ひゃひゃひゃひゃ」「その通りだ、と主は申しています」 「だぁああ。あっひゃひゃ。あひゃひゃひゃ」「こんなことに何の意味もない、と主は申しています。 「あうらう。あうらうだうあうだうあう! あひゃあひゃ」「この世界の全ては我の意のまま思うがまま。全ては我が思い浮かべた通りに生み出され、我が望んだとおりに変質し、破壊される」 「だぁあああ。ああああ。あだああああ」「証拠にこの通り」 世界が暗転した。一縷の光も感じられない常闇に青空の身体が浮かんだかと思うと、途端にどこかへ飛ばされるような感覚が襲う。 気が付けばそこは見たことのない平野の真ん中だった。荒涼としたそこは砂埃がそよ風と共に舞っている他、不自然な程に同じ景色が延々と続いている。ただ青空を挟んだ左右には、剣と盾を構え鎧をまとった戦士らしき男達が数百数千人と並び、にらみ合っている。 「だぁああ。ああああ」「異世界の戦場だ。ここで活躍する異能の強者を生み出すこともある。他に」 再び世界が暗転する。暗闇の中をしばし漂った後、次に青空が降り立ったのは平和な学園だった。窓辺からは柔らかな夕日が射しこみ、オレンジ色になった教室の中央で、冴えない風貌の男子が見目麗しい少女にまとわりつかれているのが、教室の隅に現れた青空に見える。 「あうらうだう」「現代の学園だ。愛らしい少女達に囲まれて幸福な日々を過ごす男を生み出すこともある」 暗転。暗闇に揉まれた青空は、元いた世界へと舞い戻った。青空は粉々になった摩天楼の中央で、瓦礫の頂点に立って陽光に照らされながら赤ん坊を抱いた少女と対峙している。 「だぁああああああ」「すべては我の思うがままだ」 「あうらうだうあう」「それだけの力が我には備わっている」 「あああ。だあああ」「これは何も特別な力ではない」 「あひゃあひゃひゃ。あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」「これは誰しもに備わる普遍的な力だ。貴様にだってあるだろう。自在となる世界で神の如く振る舞い、気まぐれに思い描いたものを現出させ、かと思えばそれを気まぐれに壊して見せることが。気まぐれに繰り返される無意味なその行為は経験により微かずつ上達するが、それでも価値ある物語を成すことはついぞない」 青空は何も言わない。この赤ん坊の言わんとしていること、成そうとしていることは理解していたが、あまりの愚かしさに声を出すことも出来なかった。 この赤ん坊が結ぼうとしている終焉はどう考えても最悪のそれで、何もかもが台無しになる禁忌中の禁忌に他ならなかった。これまでの全てがこの一点に収束することを想うと、そこに巻き込まれて来た青空は呆然とするあまり眩暈がする程だった。 「あひゃひゃひゃひゃひゃっ。あーひゃひゃひゃひゃっ!」 「誰もが自身が神となれる世界を持っている。例外はない」 「あひゃひゃひゃひゃ。あひゃひゃひゃ。あひゃ。あひゃ」 「その世界で描かれるあらゆる物語は杜撰で稚拙で陳腐だ」 「あーひゃひゃひゃ! あーひゃっひゃっひゃっひゃひゃ」 「如何にも全ては我の気まぐれ。貴様の運命もその存在も」 「だぁああああああああ。ああああああああああああああ」 「しかし我は貴様が気に入っている。ここまでの貴様の奮闘に報いてやっても良い。異なる世界を生きて見ないか? 貴様の望む、貴様の空想してやまない物語の中を、貴様の望む貴様として、思うがままに活躍させてやることが我には出来る。貴様がそうと望むのなら、どんな勇者にでも……」 青空は引き金を引いた。 赤ん坊を抱いた少女の額にそれは命中した。血を流しながら仰向けに倒れ、その腕から赤ん坊が零れ落ちる。 「ふざけないで。私達は人間だ。あなたのオモチャじゃ決してない」 青空は血走った目で赤ん坊を睨み、涙の混じった声で言った。 「私も赤錆さんも黄地さんも、自分の意思で生きていた一つの魂だ。少なくとも、ここに確かに存在する私達にとっては。元通りこの世界で青空渚として生きさせて欲しい。私の望みはそれだけなんだよ。神様の癖に、そんなこともあなたには分からないんだね」 少女の腕から脱した赤ん坊は、無邪気な笑みを浮かべながら、這うようにして青空に近付いて来る。青空は赤ん坊に銃口を向けた。 「だからあなたは赤ん坊なんだ。ちっぽけなアタマしか持たないただの赤ちゃん。そんな可愛い女の子にいつも抱っこされて、嬉しかった?」 「だぁああああ」 赤ん坊は鳴き声を上げる。額に穴が空いて血まみれで倒れる少女の口元から、言葉が漏れる。 「我を殺せば良い。それで平穏が戻る。物語は終わる。主はそう申しています」 「だぁああ。ああああ」「しかし覚えておけ、主はそう申しています」 「あうらうだう。だあああ。あああああ」「我は神ではない。神はこの世界いない。神がどれほどそれを望もうと、神がこの世界に降り立つことは出来ない。我の持つ力は貴様に与えた力と同様に仮初のもので、我自身もまた、神の気まぐれに翻弄される小さきものに過ぎないのだ」 「知ってるよ」青空は引き金を引いた。「でも二度と私の前に現れないで」 赤ん坊の顔面に弾丸が炸裂する。 吹き飛んだその頭は血肉を吹き飛ばしながら四散して、まるで跡形も残らなかった。 〇 エピローグ 〇 それっきり、怪獣はもう二度と現れなかった。 仕掛け人であるあの赤子がいなくなったのだから当然だろう。それに伴い青空に備わっていた超人性は消失し、銃の生成も不可能になった。青空には、世界には、待ち望んでいた平穏が訪れたのだ。 赤錆と黄地を殺した件についての咎めはなかった。そのことについて、東大法学部卒の緑川は、青空にこう説明した。 「怪獣と戦っていた時のあなたは超法規的な存在だったし、英雄であるあなたが殺人犯になるのは困るという利権的な話もある。そもそも犯罪というのは科学的にその方法を立奏しなければ裁けない以上、科学を超えた存在だったあなたを起訴する方法なんてどこにもないのよ」 怪獣が出なくなってからも対策局の存在と青空との関りは消えていなかった。大人の世界には様々な事後処理があったし、そこには青空も少なからず協力を求められた。そのサポートには緑川が指名された。 「何で私を指名してくれたの?」 「一番気心が知れてますし、何より」青空は小さく照れ笑いをする。「そうすれば緑川さんの地位や評価も回復するかなって。緑川さんに一番迷惑かけてたことは、私自覚してますから」 「本当よ」緑川は肩を竦めて笑った。「でもありがとう」 やがて事後処理も落ち着き、世間の関心も少しずつ薄れて行った。世間的には英雄視される青空に群がる者は依然として存在していたが、それらも緑川達が適切にガードしてくれた。 暮らしの邪魔をされることも徐々に減り、青空は一介の受験生として勉学に集中する日々に戻ることが出来た。 休学していた分の出席日数は政府がどうとでもしてくれた。それでも周囲との遅れを取り戻すのには苦労はしたし、毎日顔を真っ青にしながら死に物狂いで勉強しなければならなかったが、最後の最後はどうにかなった。 「理三合格おめでとう。元々東大模試で八位を取るような秀才で相応の貯金があった訳だから、君なら受かって来るだろうとは思ってはいたよ。立派なものだ」 銀緑塾に合格報告に訪れた際、同じ理三に主席合格を果たしていた紅林に出会い、そんな言葉を掛けられた。 「来年からは東大の同級生だね」 「そうですね」 「黒岩さんや白石さんも喜んでいるんじゃないのかな? あの二人、君がBクラスに落ちた時は、本当に心配していたものだから」 青空は思わず鼻白んだ。忘れそうになっていた二人だったし、自分が赤錆止められなかった所為で亡くなった二人と考えれば忘れていたくもあった。しかし東大には銀緑塾の生徒が何人も進学することを考えれば、そういう訳にもいかないのかもしれなかった。 「白石さんは軽薄そうでいて一本芯の通った頑固者だったし、黒岩さんは個人主義に見えて周りを良く見て思いやれていた。優秀だったし、好ましい二人だったと思う。一年の時からずっとAクラスで、しょっちゅう大声で喧嘩してる癖にとても仲良しだったから、ここの名物みたいなものだった。今も思い出すよ。そして寂しい気持ちになる」 「紅林くんでもそんなことを思うんですか?」 「思うよ。どうして思わないなんて感じるんだい?」紅林は苦笑する。「僕は別にドライな訳でもそれを気取っている訳でもないよ。人並みには感傷的な人間のつもりでいる。天国から見守っていてくれるかな、くらいのセンチメンタリズムに浸ることもあるし、それもまた死者を悼むということの一つだと思っているよ。君はどう思う?」 「死んだらそれでおしまいじゃないでしょうか?」意見を求められた青空は遠慮がちに口にした。「生きている人がそれをどう捉えるのかはもちろん自由です。でも真理は真理として、普遍的です」 「君は本当にドライだね。君こそ本当に個人主義だし現実主義だ。それは長所でもあるな」紅林は苦笑した。「ところで怪獣との戦いで命を落とした赤錆さんは、僕のことを何か言っていたかな?」 青空は息を飲んだ。赤錆を殺したのが青空だということは、もちろん世間には認知されていない。殺害の現場を目の当たりにした人間も数多いが、その口はもちろん厳正な情報統制によって封じられていた。 「いえ。特には」青空は首を横に振る。「ただ、男の人の好みについて聞かされた際、『アタマの良い人が好き』とは仰ってましたよ。将来性があるのが良いとか何とか。以前付き合っていたという彼氏さんも、赤錆さんの通う高校では成績優秀者だったそうですし……」 「だったら、亡くなる前に追い掛けて、アタックを掛けていれば脈はあったかな?」 赤錆とは友達だったと、彼女を殺してしまった青空は今でも思っている。赤錆は最後青空のことを『自分よりおぞましい何か』と罵ったが、実際のところは単なる似た者同士ではなかったか。 自分も赤錆も、結局はいわゆる『平凡な高校生』に過ぎなかったのだと、青空は今では思っている。超常的な力をと運命を与えられた時、平凡な子供ならたいがい、調子に乗るか怯えるか、どちらかの反応は示すように思う。その中で赤錆はとことん調子に乗り、青空はとことん怯えてふさぎ込んだというだけだ。 ベクトルこそ違ったが、同じ平凡さで二人は繋がっていた。それは絆だったようにも青空は思う。だから赤錆の暴虐をどれだけ目の当たりにしても、青空はそれを受け入れられた。怪獣との戦いから逃げ回る青空を見ても、赤錆はその臆病さを蔑んだり無責任さを咎めたりしなかった。何とも生温い相互理解だったが、その生温さが心地良かったのだ。友達だった。彼女を殺した時のことを思い出す痛みは、怪獣騒動で負った最大の心の傷と言って良かった。 銀緑塾への報告を終えて、家に帰ると姉がいた。彼女は青空の帰宅を待ち受けていたかのように立ち上がると、正面から抱擁して祝福の言葉を述べた。 「おめでとう。渚」 暖かい気持ちが青空の中で広がった。怪獣が出なくなった時に感じたのは徒労感と精々安堵だったが、しかしこの瞬間だけは確かな幸福があった。様々な面で人生で一番つらく大変だった高三の一年間が、この抱擁だけですべて報われたような気さえした。 「正直言ってね、悔しい気持ちもないではないの」 「そうなんだ。……そうだよね」青空は頷いた。ただその言葉を聞いても溜飲が下がるということもなく、ただ姉に対する労しさのような気持ちが沸いて出るだけだった。 「ええ。でもね、それ以上に嬉しい気持ちなの。昔はたくさん厳しいことをしてごめんね。親が滅多に家にいない分私がちゃんとしようって力んでたけど、今にして思えば、そんなことをしなくてもあなたは海鳴に受かったし、今も同じ合格通知を受け取ったんじゃないかと思う」 「……そんなこと」ない、と口にしようして、青空は躊躇した。今は素直な妹でいたかった。 「胸を張りなさい。あなたは立派よ」姉はそう言って青空に笑い掛ける。「怪獣のことも受験のことも、あなたは自分の力で乗り越えたのね。あの時の私を追い抜いて、これからは自分の人生を築きなさい」 「うん。あの、なんかごはん連れてって」 「ええ。何でも食べさせてあげるわ」 大学の内定を得た後も、高校生活はほんの少し、残っていた。姉と食事をした翌日卒業式のリハーサルに出る為に海鳴高校に通学すると、廊下で桃園と目が合った。 「ねぇ青空」 声を掛けられる。青空は怯えながら脚を止めた。 「あんたさ。本気でウチに復讐しなかったよね。あれだけの超人性と特権があったんだからどうとでも出来たはずなのに、あんたをいじめてたウチに、本当に何もしなかった」 「はあ……」青空はへどもどとした笑みを浮かべる。 「マジでそう言うの興味ないんだね。ウチにはとても真似できない。あんたをすごい奴とも良い奴とも微塵も思わないけど、でもその点だけはちょっとしたもんだよ。それについてはウチの負け」桃園はぴらぴらと手を振りながら立ち去って行く。「あんたがクズなのには違いはないし、負けは認めても謝る訳じゃないけどね。つか、ムカ付く」 その日から何度かのリハーサルの後に卒業式が行われ、青空は三人選ばれる学業賞の一人に選ばれ、檀上で賞状を受け取った。 これは本当に誇らしい気持ちだったが、しかし式に両親は来なかった。怪獣退治が終わった数日後と、受験が終わった数日後にそれぞれ一緒に食事をした以外、たまに家ですれ違う以上の接触は持たなかった。 あの二人も決して娘に愛情を持たない訳ではないのだろう。要所要所で親の努めは果たしているし、経済的にも何不自由なくさせて貰っている。ただ二人には病院を大きくするという使命があり、そうした個人の目標は周囲や家族より優先するものだという価値観があった。そうした考え方は青空にもどうやら受け継がれていた。 「渚ちゃん」 卒業式を終え、証書を持って一人校門を後にする青空に声がかかった。 「学業賞に選ばれてたねぇ。渚ちゃんは本当に立派だ」 しわがれた老婆。黄地の母親だった。怪獣騒動が片付いた後、交流が生まれた相手だった。 ゴタゴタがある程度片付いたある日、黄地の母は青空の家に現れ、『娘はどんなふうに戦ったか』と尋ねて来た。勉強に専念したかった青空はそれを煩わしく感じたが、しかし青空は自分自身ではそれほど無慈悲でも残酷でもないつもりだった。状況がそれほどひっ迫していないなら、受験の息抜きに少しくらい話をするのも良い。それほど頻繁でないのなら。 青空はだいたい『娘さんは誰よりも勇敢に戦った』というようなことを話した。それ自体は本心だったし、相手が喜ぶよう黄地のことを褒めていても、それほど白々しくはならなかった。もちろん、青空が手を掛けて殺したということは省き、世間に公表されている通り、最後の怪獣と戦う過程で命を落としたと話した。 「卒業式、見てらしたんですか?」 名門たる海鳴高校の卒業式には、マスコミを含む多くの見物客で賑わう。今年は青空がいるから猶更だ。その中にこの老婆もいたのだろうか。 「そうだよ。渚ちゃんは本当に立派だねえ。そんな子が娘と一緒に戦ってくれてたなんて、本当に感謝してるよ」 「いえ。そんな……」青空は僅かに表情を引き釣らせる。「私なんて、黄地さんには助けられてばかりで。私が生きているのも、本当にあの人のお陰なんです。感謝しています」 黄地は苦手な人物だった。暴力的で責任感を他人に押し付け、その上で自分が誰よりも身体を張って、傷つきながら戦い続ける。青空からすると、近くにいるだけでげんなりするような相手であり、人生で出会うもっとも相性の悪い人間だとかなりの確信を持ってそう思う。 しかしそんな彼女がいたからこそ人類は怪獣に勝利したのだ。あの人は確かに世界を救ったのだし、その為に命を投げ打っていた。黄地こそが真の勇者であり英雄であることを、世界中の誰よりも青空は知っていた。それを忘れまいと青空は黄地の為に誓っていた。 「大学に行くのなら、会うのはこれが最後かもしれないね」 「そうですね」青空は老婆に会釈した。「お元気で」 青空は老婆の前から立ち去った。 これと言った感傷は残らなかった。 〇 自宅へと向かう道すがら、青空は歩道橋の上で立ち止まる。 何でもないような景色があった。薄っすらとした雲に覆われた空は白色に近い灰色で、鈍らに降り注ぐ太陽光に照らされるビルは無機質だった。足元を行き交う車の流れは穏やかというより窮屈そうで、イバラめいた寒さの消え去った三月の空気は、東京の街の埃と錆臭さを纏って気温以上に冷ややかだった。 これが誰かの妄想だって? こんなにくっきりとした確かなものが? そんなはずはない、と思う。一方で、そうかもしれないとも思う。 どちらでも良いのと青空は感じた。例え何が事実だとしても、この世界は確かに今目の前あって、それは青空が勝ち取った青空のものだ。事実はどうあれ愚劣な物語は終わりを遂げたし、それが確かである以上、青空は他に何もいらなかった。 青空は世界の真ん中にいる。信じられない程爽やかな気分だった。 赤ん坊は言った。青空を望むがままの世界に住ませてやると。そこで青空を望んだとおりの青空にして、望むがままに活躍させてやると。 あの誘いを断らなかったら、青空は今よりも爽やかな心地でいただろうか? ありえない。お話なんてものは外側から俯瞰して見るので十分だ。誰かが作った出来の悪い物語の渦中に放り込まれ、葛藤と苦悶の中で戦い続け、世界を救うだなんてうんざりとする。 そんなものを心から望んでやり切る人間なんて、この世に本当は一人もいないのではないか? 皆本心では人類や世界のことなど意にも介さないし、戦い傷付くことを全身で恐れている。そんな彼らがそれでも戦うとすれば、それは与えられた物語に抗えず屈したからに過ぎないはずだ。 だから青空は、あの赤ん坊の成したことを心から軽蔑した。今も尚数多くの赤ん坊によって成されているその行いを、徹底的に憎悪した。そこに巻き込まれる程不幸なことはないと感じたし、それが終わりを告げたことに全存在で感謝した。 戦いを終えた青空には、連綿と続く現実の日々だけが待っている。それはおそらくどんな空想よりも理不尽で、苦難と恥辱に苛まれ続け、何度も膝を着いて挫折と絶望を繰り返すものだ。そこには誇りに満ちた戦いも、理想に溢れた正義も、英雄的な勝利も何もない。 だがそれで良い。 何があっても青空は決して、勇者になんてなりたくもない。 |
粘膜王女三世 2023年12月29日 04時16分46秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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