優しい魔女と拾われた小鬼

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 ここに一つの軍事国家がある。エスキナという国だ。
 国土面積の大きな国ではないし、人口もそう多くはない。資源もなければ、技術水準も決して高いものではない。それでもエスキナが周辺の国々から恐れられていたのは、そこに属する軍隊と戦士が、他国と比較して遥かに高い練度を誇っていたからだろう。
 エスキナでは、戦士として生まれた男児は、七歳から親元を離れ、訓練所の宿舎へと送られる。そこで行われる訓練は過酷の一言で、大半が途中で脱落し、教官や先輩の訓練生、時には同輩達によるリンチなどで死亡する。
 そこに一人の訓練生がいる。タロウという十三歳の少年だ。
 幼い子供であることを差し引いても、彼は決して屈強な部類ではない。むしろ貧弱と言って良いだろう。同じ宿舎で訓練を受けている二十七名の同期の中でも、身長は一番のチビで、体重も下から二番目だった。体力にも乏しく、一日のほとんどを占める運動訓練の時間では度々教官から叱責と暴行を受け、同輩達に迷惑をかけていた。
 その日もそうだった。二百回連続で行われる腕立て伏せを完遂できず、倒れこんだその小さなアタマに、教官から武骨な棍棒が降り注いだ。
「貴様それでもエスキナの戦士か! これしきのことができないのなら、死んでしまえ!」
 この『死んでしまえ』という言葉は叱責でも脅かしでもない。エスキナで行われる軍事訓練に落伍した者の運命は死だった。教官は課題を突破しない者に容赦のない暴行を加え続け、能力のない者はやがて身体を壊して死んでいく。自ら首を吊る者も珍しくない。宿舎を逃げ出す者もいるが、その先に待つのは野垂れ死にだった。
「全員で最初からやりなおーし! はい、いち、にぃ!」
 タロウは歯を食いしばって再度の腕立て伏せを始めるが、最後まで課題を完遂することはままならない。その度に連帯責任を負う同輩達も、一人また一人と体力が底を突いて倒れ伏していった。
 万事がそんな調子だった。棍棒の素振りでもマラソンでも、タロウは課題を完遂することができなかった。連帯責任を負わされる同輩達の憎しみの視線は、自分達にそれを強いる教官の方ではなく、タロウの方へと向けられていた。
「今日の貴様らは本当に情けない! 生まれて来た価値のないウジ虫どもめ!」
 訓練の最後、半死半生で立ち尽くす訓練生達の一人を指さして尋ねた。
「何故今日の貴様らが課題を完遂できなかったかを言え!」
「はっ! タロウの奴が脚を引っ張るからであります!」
「分かっているなら何故どうにかしようとしない! 何故、どうすれば自分達の状況が少しでも良くなるか、どうすれば自分達が課題を達成できるようになるか、自分達で決断して行動しようとしない!」
 教官が訓練生のアタマを棍棒で叩きのめす。叩きのめされた訓練生は、泡を吹いてその場に倒れこんだ。
 タロウは身の危険に気付いていた。他の訓練生にとって、自分は邪魔な存在である。屈強な肉体と精神性を得るという名目で、訓練生同士のいじめやリンチはこの宿舎において許容されている。これまでも足を引っ張る同輩の何人かが、同輩によって排除されていた。
 予感は的中した。同輩達のリーダー格のレオという少年によって宿舎裏へと引き摺られたタロウは、仲間達のリンチを受けた後、首に縄を掛けられて木に吊るされていた。
「……おまえが悪いんだからな。俺達の脚を引っ張りやがって」
 レオは屈強な少年である。十三歳にして大人顔負けの背丈があり、筋骨隆々とした戦士の肉体をしていた。その顔立ちは静観で、鋭い目付きで睨み付けられると同輩はもちろん先輩訓練生さえ震え上がる程だった。残忍な性格でも知られ、これまでも同じ手口で二人の同輩を排除していた。
「おまえみたいなひ弱な奴が、良く十三歳まで生き残ったもんだ。兵法の座学の成績が抜群だからって、教官達も情けを掛けたんだろうが、それも今日までだ」
 タロウは焦ってはいなかった。自らの首を締め上げるロープに手で撫でると、そこに一筋付いていた切れ目を見付けて指を食い込ませた。そして身体を大きく揺すってロープをしならせる。
 切れ目が大きく広がって、ロープはあっけなく真っ二つに切れた。
 どさりと地面に落ちたタロウに、レオは顔をしかめて近付いた。
「運の良い奴め。おい、誰か次のロープを持って来い!」
 タロウは何も言わない。ただ地面に倒れ伏したまま、ぴくりとも動かずに静止している。
「気絶しているのか? まあ、結構な高さから落ちたからな」
 油断を感じ取ったタロウは、懐に忍ばせていた短刀を取り出して、レオの右足の甲に深々と突き刺した。
「ぐあああっ!」
 レオが仰け反って尻餅をついた隙に、タロウはすかさずに立ち上がってその場を逃げ出した。リーダー格のレオが思わぬ反撃にあったことで鼻白んでいた同輩達は、彼を追いかけることが適わなかった。
「……やれやれ。なんとか助かったのだ。こんなこともあろうかと、あらかじめレオの部屋のロープに切れ目を入れておいて良かったのだ」
 タロウはレオの血で汚れた短刀を粗末な布で拭き取り、懐へしまい直した。
「この短刀はもう手放せないのだ。おいら、生きてこの宿舎を出られる自信がないのだ」
 溜息を吐いたタロウが向かうのは訓練宿舎にある図書室である。ここを利用する子供は多くない。訓練所で行われる座学は兵法だけであり、読書の習慣などあるはずもなく、なので本を読むのは同輩でもタロウ一人だけだった。
 図書室には老いた男性司書がいる。脚にまともに歩けない程の負傷して軍を引退し、今は余生を送る身だった。
「おうタロウ。良く来たな」
「おっちゃん。おいら、今日レオの奴に殺されかけたのだ」
「ここでは良くあることだ。だが、タロウを殺すのは簡単ではないと思うよ? 腕っ節のあることは確かに厄介だが、命のやり取りとなるとありとあらゆるものを駆使するのが通常だ。大切なのは、ここと、ここだ」
 司書は自分のアタマを指さして、続いて心臓を指さした。頭脳と胆力。司書はいつもその二つが命綱だと貧弱なタロウに言い聞かせていた。
 タロウは本棚から政治書を一冊取り出すと、司書が座るのと向かいの席に腰かけた。
「ねえおっちゃん。このエスキナはいつ滅びると思うのだ?」
「そんなことをもし教官が聞いていたらぶっ殺されるぞ?」
「でもおっちゃん。このまま平民に重税を課し続けたら、やがて反乱が起こると思うのだ。エスキナには戦士の十倍以上の人数の平民がいるのに、それをないがしろにするのはまずいのだ」
「平民が戦士の十倍の数いるなら、戦士一人一人が平民の十倍強くなれば良いことだ。その為に訓練を積んでいるんだろう?」
「でもその為に大人になっても訓練ばかりさせられていたら、どれだけ平民から搾取しても豊かであるとは言えないでしょー。平民も戦士もみな不幸なのだ。そもそも生身の人間の強さには限界があるんだから、きちんと計画を練られたら物を言うのは人数なのだ」
「その計画というのを練られない為にも、平民には愚かであって貰っているんだろう。エスキナの平民階級には学校教育もないし、識字率だって一割を下回っている。そんな連中が国家転覆を成功させるだけの計画を練られると思うか?」
「思わないのだ。でもそんなんだから技術水準で他国に取り残されてしまうのだ。おいら達がどれだけ身体を鍛えても、機関銃でハチの巣にされておしまいなのだ」
「鍛え抜かれた屈強なエスキナの戦士が、鉄砲ごときに遅れを取るものか」
「本当にそう思うのだ?」
「思わない。思う訳がない。だがこの国は今までそのやり方で続いて来た。それが通じなくなるのなら、その時はただ国が亡びるだけだ。タロウ、おまえの言う通りにな」
 頷いたタロウは本に目を落とし、読書に没頭し始めた。この時間だけは、タロウは日々の訓練のつらさも忘れ、学問と思索の世界で自由な魂を手に入れられるのだ。
 やがて本のページ数もわずかになった頃、司書がおもむろに口を開いた。
「……山を二つ、平野を二つ越えた先にある、耳の長い連中の国のことは知っているか?」
 タロウは瞼をピクリと震わせ、司書の言葉に答えた。
「グロウズマウル国のことなのだ?」
「どこで知った?」
「何冊かの本で読んだのだ。おっちゃんが選んで入庫した本でしょー?」
「まあな。なら、魔法のことも知っているか?」
 タロウは頷いた。手を触れずに物を動かす力、道具を使わずに火を起こす力、タロウの読んだ本にはその一つ一つが説明されていた。
 とはいえ実際に魔法を使う原理についてまで描かれていた訳ではない。その技術はナガミミと呼ばれる色の白い、体の細い、尖った長い耳を持つ種族によって秘匿されていた。
「そのグロウズマウルがこのエスキナに進攻して来るという噂があるんだ」
「根拠はあるのだ?」
「敵状視察に来たナガミミの何人かが捕縛され、拷問されてそう白状した」
「何の為に攻めて来るのだ?」
「そこまでは俺は知らないな。何でだと思う?」
「技術的に未成熟なエスキナにはまだ掘り起こされていない資源が多く眠っているから? 地政学に言えば、ゾーオやエタジュールにここを取られると脅威になるから、先に抑えておくっていう話もあるのだ」
「そのいずれかだろうな。エスキナは四六時中どこかの国と小競り合いをしているから、その程度の噂はいつものことだが」
「でもナガミミは魔法を使うんでしょー? そんなところと戦争して大丈夫なのだ?」
「実際に魔法を目にした訳でもないのに、過度に恐れても仕方がない。第一、魔法が本当に万能なら、グロウズマウルは今頃もっと栄えているよ」
 その通りだった。グロウズマウルはエスキナと比較しても尚小さい。山に囲われた辺境の合間を縫うようにして作られた国だ。ここ数十年で行われたいくつかの大戦にも参加せず、かと言って他国の方から攻め入られる程の資源や魅力がある訳でもない。
 住人の耳が長いことと魔法とやらが使えることが、そこはかとない神秘性を放っているだけ。そんな取るに足らない国が、同じくらい取るに足らないとはいえ戦士だけは屈強なエスキナに適うかと言われると、それは自分の生まれた国を蔑んでいるタロウにも頷けなかった。



 十四歳を迎えた訓練生にはある試練が課せられる。
 短刀一つと一式の衣類のみを持たされた訓練生達は、山を一つ越えた先の平野を追放される。そして丸一年賀経過するまではエスキナに帰ることは許されず、不毛の冬と灼熱の夏を乗り超えて、生き延びることを要求されるのだ。
 当然、路銀など与えられるはずもない。食料や金銭は自ら手に入れるよりどうしようもない。しかし隣国中に嫌われる荒くれ国家であるエスキナの子供は、『小鬼』と呼ばれて迫害の対象となる。施しを与える者など一人もいないし、職業に就くなど絶望的だ。
 よって生きる為には略奪を行うしかない。エスキナから解き放たれた小鬼達は、旅人や小集落を襲っては、食料や路銀を確保するのだ。
 出発の日、同輩の訓練生達は焼きごてを持った教官の前に列をなし、その左手の甲にエスキナ人の証である焼き印を順番に刻まれていた。
「良いかクズ共! この焼き印を施されたからには、他国の連中が貴様らに情けを掛けることはないと思え! 生き延びたければ、金と食べ物は人から奪え! そして一年経つまで帰ってくるな! 無事に生きて帰れば貴様らはエスキナ国の掟に従い成人を迎え、一人前の戦士として認められるのだ!」
 この最後の試練が開始される日まで、タロウはどうにか生き延びていた。
 足をケガさせられたレオは回復した後それまで以上に執念深く命を狙ったが、タロウはその一つ一つを躱して見せた。レオの側近の一人に袖の下を渡して密かに味方に付け、襲撃の予定を聞き出しては姿を眩ませた。思わぬ襲撃があった際は逃げ出すか、どうしても交戦せざるを得ない時は、上手く油断させて短刀で奇襲した。
 やがて全員に焼き印が刻まれ終えた。タロウはその忌々しい火傷の痛みと、これでもう自分は生涯エスキナ人であることから逃れられないことに苛立ちを募らせた。
 行進が開始される。二日二晩かけて山を一つ越え、平野の中央に差し掛かった時に、教官はタロウ達に宣告した。
「ではこれより最終試験を開始する! 自分達の力でまる一年、生き延びて見せろ!」
 雪の降る寒い冬の夜だった。平野には雪が分厚く積り、ここまで行進して来るだけでも、タロウの乏しい体力は限界を迎えていた。おまけに空腹で喉の渇きも酷かった。ここに来るまでの二日二晩の行進中、与えられた水や少量はほんの僅かだった。だがこれからはそのほんの僅かな糧も与えられず、何を得るにも自分達で何とかしなければならないのだ。
 エスキナの小鬼達は一先ずの飢えを凌ぐ為に徒党を組み始めた。三々五々のグループに分かれ平野を探索し、小集落などを発見すれば知らせ合い、皆で襲うのだ。
 だがそんな徒党の中にタロウは含まれていなかった。同輩達のリーダー格であるレオがタロウのことを嫌っていたからだ。
 長い目で見れば内部崩壊が目に見えているそんなグループであっても、この序盤の最難関を潜り抜けるには必要なことだ。そこから漏れたことはタロウの生存率を著しく低下させていた。
 それでもタロウは自らの生を諦めることなく、月明かりを頼りに雪道を必死で歩いていた。たとえ冬であっても、野ウサギなどは捕らえられるかもしれない。血をすすり、肉を食らえば生き延びられる。タロウは星を見て方角を確認しながら、動物のいる山の方へと歩いていた。
 一人の旅人が向かいから歩いて来た。
 フードを深くかぶっていたが、その華奢な体格は女性のものに見えた。エスキナではまず見ないような滑らかな素材の、灰色のローブを身に着けている。背は自分より高そうだったが、それはタロウと比べれば女性を含めたほとんどの大人に言えることだった。
 すれ違う時、タロウは脚を止めて旅人を呼び止めた。
「あの。お姉さん」
「はい?」
 旅人はフードから僅かに顔を出して、タロウに向けて小首を傾げた。
 その顔を見て、タロウは思わず息を飲んだ。
 雪の中に埋もれれば見えなくなってしまいそうな程白い肌をしていた。瓜実のようなほっそりとした小さな顔で、良く通った細い鼻筋をしている。顔いっぱいに開かれたような目は瞳の割合が大きく、血のような赤い色をしていた。何より特徴的なのは、大人の中指程もある長く尖った耳が、漆のような長い黒髪から覗いていることだった。
 『ナガミミ』だ。
 耳が特異なだけでなく、目と肌もタロウ達とは違っていた。エスキナの人は皆黒い目と薄橙色の肌をしている。ともすれば妖精か魔女の類にも見えたが、いずれにしろ息を飲むほど美しかった。
「……どうかしましたか?」
 ナガミミの女性はタロウに警戒心を抱いていない様子だった。魅了されたように絶句していたタロウは、やがて澄んだ赤い瞳に覗き込まれているのに気付いて、我に返った。
「……ここいらにエスキナの小鬼が放たれたばかりなのだ。注意して進まないと襲われるから、気を付けるのだ」
「まあ」
 女性は一度目を丸くして、次に笑顔を浮かべて頬に手を当てた。
「そういうあなたもエスキナ人ですよね? 手の甲に刻印があります」
「それがどうかしたのだ?」
「あなたはわたしを襲わないのですか?」
「襲わないのだ。でも、もしお金か食べ物に余裕があるなら、分けて貰えると嬉しいとは思うのだ」
「嫌だと言ったら?」
「どうもしないのだ」
 女性はしばし薄い桃色の唇を尖らせて考え込んだかと思ったら、懐から乾パンと干し肉を取り出して、タロウに渡した。
「これをどうぞ。親切な方」
「……本当に良いのだ?」
「警告をくださったお礼です。受け取ってください」
「ありがとうなのだ」
 タロウは深々とアタマを下げる。女性は小さく会釈を返すと、信じられない程に可憐な笑みを一つ残して、タロウの元から消えた。
 女性は美しいだけでなく心優しかった。ナガミミは誰もがそうなのか、あの女性が特別素晴らしいのか。それは分からなかったが、いずれにせよエスキナにあんな人がいないのは間違いなかった。
 空腹に倒れそうだったタロウは乾パンを半分だけ食べるつもりで、その場に座り込んだ。その時だった。
「きゃあああっ!」
 先ほどの女性の悲鳴が聞こえた。
 思わず振り返り、悲鳴のした方へと走り出す。するとそこでは、タロウの同輩の何人かが先ほどの女性を取り囲み、今にも襲い掛かかろうとしていた。
 取り囲んでいる同輩の中にはレオの姿もあった。女性はフードを深く被って自分の身を抱き、卑小な笑みを浮かべる小鬼達に怯えていた。
「やめるのだっ!」
 タロウは思わず前に出ていた。怪訝そうな顔で、同輩達がタロウの方を見る。
 レオが言った。
「なんで邪魔をするんだよ?」
「そんなことしてる場合じゃないのだ」
「何がだよ!」
「この女一人襲ったところで、この場にいる全員分の食糧なんて手に入るはずがないのだ。それよりも、もっと良いものをおいらは見付けたのだ」
 怪訝な顔をするレオに、タロウは尚も語り掛ける。
「西の方に五人組くらいの旅人がいたのだ! 誰かに取られる前に、ここにいるメンバーでそいつらを襲うのだ。人数が多い分、金も食べ物もたくさん持っているはずだから、そっちの方が良いに決まっているのだ」
 タロウの吐いた嘘に、同輩達の瞳に期待の光が宿るのが見えた。
「……本当か?」
 レオは声を低くしている。タロウは緊張を顔に出さないよう注意しながら頷いた。
「……そうか。分かった。じゃあ、今すぐに女の身ぐるみを剥ぐから、その後で案内しろ」
「そんなことしてる時間はないのだっ。そいつらだって待っていてはくれないのだっ。早く行かないと間に合うかどうかは分からないのだ」
「そのくらいは大丈夫だろ? それに、今すぐ行ったところで略奪に成功する保証はないなら、なおさらこの女の身ぐるみは剥いでおくべきだ」
「でもその女の身ぐるみはおいらがもう剥いじゃったのだ」
 タロウは懐から乾パンと干し肉を取り出して見せた。
「これがその女から奪ったものなのだ。だからもうその女から何か奪おうとしても無駄なのだ。さっさと五人組の方へ行くのだ」
「……待て。どうも怪しい」
 レオは眉間に皺を寄せてタロウを睨んだ。
「おまえのことは信用できない。宿舎にいた頃もそうやって何度も一杯食わされて来た。上手いこと言って俺達をその女から遠ざけておいて、隙を見て独り占めするつもりじゃないだろうな?」
「その女はとっくに身ぐるみを剥いだ後だと言っているのだ。信じてくれないならもう良いのだ。一人でもその五人組を襲うだけなのだ。一対五は不利だけと、おいらだって屈強なエスキナの戦士なのだ」
 そう言ってレオから背を向けるタロウ。するとレオは焦った様子でその背を追いかけて来た。
「待て待てっ。案内しなくて良いとは言ってないだろ」
「だったら早く来るのだ」
「分かった。だがその前にこの女の両足を刺しておく。おまえが身ぐるみを剥いだ後とは言え、着ているものや、この女自身が売れるかもしれないだろう? 待っていろ」
 レオは懐から短刀を取り出して女性に近付いた。逃げ出そうとする女性に、同輩の一人が襲い掛かり、羽交い絞めにする。
 タロウは自らの短刀を取り出して、レオの無防備な背後に飛び掛かった。そして太腿を素早く切り付けた。
「ぐああっ!」
 悲鳴を上げるレオ。反撃しようと身を捩るが、太腿を切り裂かれた痛みに立ち上がることもできない様子だった。
「その女から離れるのだ!」
 タロウは同輩達に向けて吠え、女性を羽交い絞めにしていた少年に切りかかる。少年は女性を捨ててタロウに襲い掛かるが、タロウの短刀の方が速かった。低い身長を活かして、こちらも太腿に深々と短刀を差し入れる。
「こいつ! 案外強ぇぞ!」
 見ていた同輩の一人が怯えた様子で叫んだ。
 貧弱なタロウだが、身のこなしと短刀の扱いならほかの同輩にも負けていなかった。短刀を突き入れるのに最低限の力と技術があれば、他より多少腕力が劣っても関係がないという、司書のおっちゃんの助言を受けて練習した成果だった。
 同輩達が自分を取り囲んだのを見て、タロウは女性に向けて叫んでいた。
「逃げるのだっ!」
 女性は一目散にその場から逃げ出した。それで良い。
 残されたタロウはその場にいる同輩達に全身のあちこちを刺し貫かれ、血まみれになって雪の上に倒れこんだ。その場にいる全員を倒す程の技能はタロウにはなかった。レオともう一人の同輩を短刀で刺せたのも、運が良かったからとしか言いようがないだろう。
 息ができない程の激痛がタロウの横たわる全身に響き続けている。立ち上がることは愚か、うめき声をあげることさえままならない。同輩達はタロウから乾パンと干し肉を奪った後、殴る蹴るの暴行を加え続けた。
「殺してやる! もっと早く殺すべきだったんだ! こんな訳の分かんねぇ奴!」
 流血する太腿をかばいながら立ち上がったレオが、短刀を深々とタロウの胸に突き刺した。
「女は逃がした! 手傷は負った! 他に入れたのはしょぼいパンと干し肉だけ! こいつの所為で散々だ! クソ! 地獄に落ちろ!」
 レオはタロウに向けて唾を吐き捨てた後、よろよろとした足取りで同輩達を連れてその場から去った。
 白い雪の中にタロウの鮮血が滲んでいた。霧散しかけている意識の中で、タロウは最後の思索に耽っていた。
 自分はもうすぐに死ぬのだろう。そのことには混沌とした恐怖と絶望を感じる。しかし原始的な死の恐怖を除けば、タロウは自分の過去と未来に大きな悔いを感じていなかった。
 嘆くことがあるとすればエスキナの戦士として生まれたことだ。貧弱に生まれたが為に誰からも愛されず、常に邪魔者扱いをされ続け、ただ犬死には嫌だというその一点の為に生き続けて来た。自分がエスキナ人であることから逃れられない以上、そんな苦しみに満ちた生はこの先も続くに違いなかった。
 それと比べれば、これは良い死に方だ。
 信じられない程美しいあの女性から、生まれて初めてと言って良いくらいに親切な施しを受けて嬉しかった。その恩に報いる為にレオ達と戦い、死にはするが女性を逃がすことに成功した。
 これは犬死じゃない。
 心の中で繰り返した。これは犬死じゃない。
 タロウの生命がその場で霧散しようとしていた時、温かい掌が頬に触れた。
「……良かった。急所は外れていますね」
 鈴を鳴らすような声。
「でも死にかけています。助けてあげなくてはいけません。その義理はあるでしょう。ですが、あなたはたぶん、ただ助けてあげたとしても、きっとエスキナには帰れない。野盗のように人を襲う奪う暮らしにあなたは耐えられない。悲しいことです」
 女性が懐から取り出した杖が、タロウの血塗れの背中に触れる。
「あなたのような親切な方を巻き込むのは忍びないですが……他に方法はないようです。なので、決めました」
 月明かりに彩られた白銀の雪の世界で、女性の杖がそれ以上に白く輝く。
「あなたにします」
 魔法にかけられたタロウの身体から傷が消え、命が戻る。
 女性はその痩せた背中に小さなタロウを負うと、降り注ぐ雪の合間に消えていった。



 ×



 ベッドの上で目を覚ます。清潔な白い布団がタロウにかぶせられていた。それは宿舎の粗末な寝台に備わるざらついた布切れとは異なり、肌触りが良く柔らかで信じられない程温かかった。
 タロウは身を起こす。どうやら自分は建物の中にいるらしかった。部屋にはベッドの他には木製の本棚と一対の文机と椅子があり、どちらも良く整頓されている。装飾こそ簡素だがいずれも高級な品に見えた。
 ここはどこだろう?
 戸惑っていると部屋の扉が開いた。警戒して思わず懐に手をやったが短刀はなくなっていた。仕方がなく素手で身構えていると、やって来たのはローブを身に着けたナガミミの女性だった。
「起きられましたか?」
 タロウに乾パンと干し肉をくれた女性だった。女性はタロウを安心させる為の微笑みを浮かべると、こちらへどうぞと部屋の外へと手を差し出した。
 言う通りにする。
 部屋の向こうにあったのはテーブルと簡素な台所の備わった空間である。テーブルに備え付けられた椅子の一つを勧められたタロウがそこに腰かけると、女性はパンとミルク、そしてソーセージに温かいスープと言ったメニューの載った盆を差し出して来た。
「どうぞ」
 それを見た途端にタロウは空腹を思い出した。空っぽに近い胃の中で粘膜がヒリヒリと疼くかのようだった。たまらずにパンを齧ると仄かな甘さがありたまらなく美味であり、流し込むミルクとスープは腹だけでなく全身に染み渡るようだった。
 朝食を平らげるタロウを女性は微笑みを浮かべて見守っていた。それに気付くとタロウは照れ臭くなり微かに視線を落とした。女性の赤い瞳に浮かぶ母性的な優しさには、全身の力がとろけるかのようだった。
「ごちそうさまなのだ。おいしかったのだ」
「いいえ。こちらの方こそ、襲われているところを助けていただいてありがとうございます」
「いいのだ。おいらはタロウ。エスキナ国の訓練生で、今は最終試験の途中なのだ」
「わたしはマリアと申します。グロウズマウル国の魔導士です」
 そう言ってマリアはぺこりと頭を下げる。揺れる黒い髪の隙間に大人の中指程の長さの尖った耳が見えた。白い肌と赤い目を持つ美貌は何度見てもタロウ達人間とはかけ離れていた。立ち振る舞いは大人びていたが顔立ちにはあどけない可憐さも残り、十代と二十代の境界程の年齢に見えた。
「この御恩は一生忘れませんのだ。ところで、おいらの短刀はどこなのだ?」
「念の為預かっています。失礼でしたか?」
「全然。普通はそうすると思うのだ。でももうこの家を出ていくから返して欲しいのだ」
「あら? どうして」
「これ以上お世話になる訳にもいかないでしょー」
「そう言わず」
 マリアは瀟洒な笑みを浮かべてじっとタロウの顔を覗き込んだ。
「せめて雪の降る間だけでもこの家にいれば良いのです。わたし達、お友達になれそうでしゃないですか?」
 タロウは逡巡した。部屋に備え付けられた窓を眺めると、外は一面の銀世界で見ているだけでも凍えそうだった。昨日までの疲労は不思議な程に癒えていたが、タロウの乏しい体力で平野を超えて街まで辿り着けるかは疑問なところだ。
「それに今から外に出てあなたはどうやって生きていくというのです? こんな冬には食料となる動物もほとんどいません。街に行っても仕事なんて貰えませんから、野盗になって誰かから略奪をして生きるしかないのではないですか? 」
 その通りだった。
「そうやって誰かから奪って、誰かを傷付けて生きるくらいなら、ここにいる方が神様もきっとお喜びになるのではありませんか? せめて冬を越すまではここで暮らしてください」
「でもおいらマリアさんに何もしてあげられないと思うのだ。ただ食い扶持を減らすだけの人間が家にいて良いのだ?」
「構いませんよ。それにここには定期的に水も食料も届くので、食い扶持の心配はいらないのです。代わりに、話し相手はひたすらに不足しています」
「ここは何なのだ? マリアさんはいったい何者なのだ?」
「結構な身分の者なのです。ね? 良いでしょう?」
 そう言ってほほ笑むマリアに、タロウは一瞬の躊躇の後、頷いたのだった。



 平野に立つ家でのマリアとの暮らしは、タロウには信じがたい程幸福なものだった。
 苦痛と屈辱と生命の危険に塗れた軍事訓練はなく、代わりに限りない平穏だけがあった。寝て起きて三度の食事をし家事を手伝う以外にはすることがなく、余った時間はひたすら思索に耽ったり、マリアと会話をしたりした。
「ねぇマリアさん。グロウズマウルがエスキナを襲おうとしているっていうのは本当なのだ?」
 ある日タロウが話しかけると、マリアは小首を傾げて答えた。
「いいえ。わたし達はむしろ、エスキナがグロウズマウルを狙っていると聞いています」
「そうなのだ? でも、エスキナでは敵情視察に来たナガミミが捕まって、戦争を仕掛けるつもりだと吐いたという噂があるのだ」
「確かに我々エルフはしばしばエスキナに偵察に行きますが、それはそちらも同じはずです。おそらく互いに出方を伺っているのでしょう。ただ、捕まった同族がエスキナを襲うつもりだと吐いたというのは、信じがたいですね。エスキナによるプロパガンダの準備だと思われます」
「それは本当のことなのだ?」
「分かりません。それぞれに真実があるとも言えますし、両方が誤りであるとも言えます。最早どちらが先に相手の国を襲おうとしていたのか、どちらにも分からなくなっているのだと思われます。いずれにせよ、長い緊張状態があることは確かです」
 雪の降らない日には家の外に出て遊んだ。雪の玉を作って投げ合ったり、大きなカマクラを二人でこさえたりした。
「楽しいですね。人生でこんな風に友達と無邪気にはしゃぐなんてありませんでしたから」
「それはおいらも同じだけれど、マリアさんもそうなのだ?」
「ええ。魔導士になる為に、毎日必死で勉強をするだけの日々でしたから」
「今もしょっちゅう机に向かっていると思うのだ」
「大した時間ではないですよ。一時期は今の何倍も勉強していましたから。ところでタロウさん、あっちを見てください」
「え? なんなのだ?」
「えい」
 マリアはタロウの首筋に雪玉をこすりつけた。震え上がるタロウから、マリアは無邪気に笑いながら走り去っていく。
「こ、このっ。やったのだっ! し返してやるのだ!」
 同じくらいに満面の笑みを浮かべながら、タロウは雪玉をもってマリアを追い掛けた。
 一面の銀世界の中央で、タロウはマリアとの日々に幸福を噛み締めていた。



 ある日のことだった。
 タロウは退屈していた。マリアはどこかへ出掛けていて家に一人だった。暇な時はたいてい一人で思索に耽っていれば事足りるタロウだったが、連日の平穏の中で考え事のタネも摩耗していた。
 そこでタロウは最初に目覚めたマリアの寝室兼書斎に侵入し、本棚に手を伸ばした。ここの本はタロウの知らない字で書かれている為読むことはままならないが、絵や図を眺めながら内容を想像するだけでも楽しいものだ。
 このようにしてマリアの本を覗くこと自体はタロウの生活で良くあることだった。時にはマリアに文章を音読してもらうこともあった。記された絵や図とマリアによる解説を組み合わせることで、タロウは何冊かの本については内容をおぼろげに理解していた。
 それは魔術の教科書であるようだった。
 あの日レオによって胸を貫かれた自分がどのようにして助かったのかを、タロウは既に理解していた。まともな医療では様態の絶望的な人物を助け出せるマリアの魔法に、タロウは深い賞賛と敬意を抱いていた。これほど素晴らしい力を扱えるグロウズマウルに攻め入るなど、エスキナは愚かな国だと思うようになっていた。
 同じ長い時間をかけて習熟するにしても、宿舎で闇雲に肉体を鍛えるくらいなら、自分もマリアのように魔法を勉強したかった。
 ほんの戯れのつもりだった。壁に立てかけられた杖を手にして、タロウは目を閉じて精神を集中させた。そして魔導書に描かれた手順に従い、マリアの真似をして口の中で呪文を唱えた。
 途端、大気中に存在する目には見えない何かしらの動体が、タロウの身体の芯に集まるのを感じた。それはタロウの知るあらゆる原子とも分子ともかけ離れた存在であり、その振る舞いは生命のようですらあった。
 マリアは言っていた。大気中には四つの元素を司る精霊がいて、世界中を覆うそれらは一つの生き物のように繋がっている。そして彼らの言葉で語り掛ければ、我々に力を貸してくれるのだと。
 タロウは自分が今から魔法を使おうとしているのだと理解した。まさか本当に成功とは思わず焦燥した。
 動揺して詠唱をやめると、身体の芯に集まっていた動体がタロウの中からあふれ出した。その振る舞いはタロウの身勝手さに怒るようであり、闇雲に飛び出したそれらは周囲の色んなものを吹き飛ばしながら大気へと帰った。
「ぎゃ、ぎゃあっ」
 タロウの持っていた魔導書と杖が壁へとぶち当たった。魔導書のページのいくつかが破け、杖は真っ二つに破損して床に転がった。タロウの身体も弾き飛ばされたが、肩を痛打した以外は目立った外傷はなかった。
「……どうしましたかっ?」
 ちょうど家に帰って来ていたマリアが慌てた様子でタロウのところへ駆け込んだ。そして状況を目の当たりにするなり、信じられないといった表情で口元に手を当てた。
「まあ」
「ご、ごめんなさいなのだ! 本と杖を壊して部屋を散らかしちゃったのだ!」
 タロウは痛む身体を引き摺って立ち上がるとマリアに詫びた。マリアは目くじらを立てて怒るのを見たことはなかったが、初めてそうなってもおかしくはない状況だと感じた。
 しかしマリアの行動は意外なものだった。
 マリアは感動したように真っ赤な瞳をきらきらと輝かせると、笑みを浮かべてタロウに歩み寄った。そして細い腕を伸ばしてタロウの背中に回すと、柔らかな身体をタロウに押し付け、抱き締めた。
「の、のだ?」
「驚きました! 最高のサプライズです!」
 マリアの心臓の鼓動を感じた。タロウは何が何だか分からないまま、ただ突然のことに沸騰しそうなアタマを抑えるのに必死だった。
「良いのです。杖はそもそも消耗費ですし、本だって貴重なものではありません。それよりも、何よりも、あなたが魔法を使ったことが重要なのです。本当に頭が良いのですね。あなたは本当に素晴らしい」
 マリアはタロウの肩を掴んで、ガラス玉のつもりで拾ったのが価値ある宝石だった時のような、満面な笑みでじっと顔を覗き込んで来た。
 最早タロウにはどうして良いか分からなかった。



 散らかった部屋を片付ける時も、夕飯を作って二人で食べる時も、マリアは普段よりも上機嫌だった。就寝前のおしゃべりもいつもより遥かに楽し気であり、その上明かりを消す時間になるとこんなことを言い出した。
「ねぇタロウさん。今日はわたしの布団で一緒に寝ませんか?」
 タロウは最早恐れおののいた。女性と同衾するなどとタロウには生まれて初めての経験だった。そもそもタロウの青春時代はむさくるしい男所帯の宿舎生活にあり、女性と一つ屋根の下にいるこの状況も異常中の異常であると言って良かった。なので当然マリアに対する感情にも生臭く湿ったものがあった。それは恩人への感謝と敬意に、男児としての情欲をある面では複雑にある面では単純に交えた、混沌としたものだった。そんなマリアと同じ布団で寝るなどこの世の出来事とすら思えなかった。
「ででででもそんなことしたらだだだだめだめだめ」
「良いですから。来てくださいタロウさん」
 流されるままに同じ布団に入った。マリアの体温はタロウよりは低かったが、それでも同じ布団の中で感じるぬくもりは生々しかった。
 マリアは遠慮なくタロウに抱き着いて来た。抱き枕か人形にでもするように柔らかな力を込め、その全身をぎゅっと押し付けて来た。この家においてタロウがマリアに果たしている役割の一つが、愛玩具的なそれであることを薄々察していた。とは言え不躾に撫で回されて傷付くようなプライドは持ち合わせていなかった。むしろ気持ち良かった。タロウはひたすらされるがままになるに任せていた。
「あなたって本当に可愛い顔をしていますよね。女の子みたい」
 タロウは線が細くあどけない顔立ちをしていた。背丈の低さも相まって幼い印象を人に与えた。それは宿舎では嘲りの対象であり、『女の腐ったような顔』という揶揄は聞き飽きる程だった。それを好意的にとは言えマリアに指摘されてタロウは羞恥を感じていた。
 しかしその羞恥を上回る程の事態がタロウに生じた。タロウの頭を抱き締めていたマリアが、今度はその耳に息を吹きかけて舌を這わせて来たのだ。突然のことにタロウは慄いて逃げ出しそうになったが、マリアが全身に絡みついていてそういう訳にもいかなかった。
「まさか、本当に一緒に寝るだけなんて思ってないですよね?」
 まずい状況だと思った。何がまずいのかは女のことも性のことも何もしらないタロウには良く分からなかったが、とにかくとてつもないことが起きようとしているのは理解が出来た。頭は状況を理解していなかったが肉体の方は何かを感じているようで、全身の血が沸騰するような興奮が主に下半身を中心に渦巻いていた。
 そこからタロウの身に起きた混沌について具体的に記すのは憚られる。
 翌日、朝日と共に目を覚ましたタロウは、隣で眠っている半裸のマリアの寝顔を眺めていた。全身を異様な倦怠感が包み込むと同時に、精神のある部分は奇妙な程にさっぱりとしていた。マリアの長いまつ毛や整った鼻筋を見ていると、昨日この布団の中で起こった出来事が生々しく思い出された。
「……起きられましたか?」
 マリアが目を開いて言った。タロウが頷くと、マリアは笑顔を浮かべてその鼻先を細い指先でつついた後、挑発的に問いかけて来た。
「もうすぐ春になりますけど、どうです? この家を出ていくつもりはまだありますか?」
 タロウは震えながらどうにか首を横に振った。
「ならずっと一緒にいてください。春になってからも、一年経ってエスキナの最終試験が終わってからも、ずっとずっとわたしの傍に」
「だ、ダメなのだ。おいらの手の甲にはエスキナの刻印があるのだ。これがある限りどこにいっても鼻つまみ者。あそこ以外では生きられないのだ」
「ならば。わたし達の仲間になれば良いのです」
 マリアはタロウの小さな体を絡めとるように抱き締めて来た。
「グロウズマウル国の一員になってください。わたし達はあなたを歓迎します。あなたはきっと役に立ちます」
「ど、どういうことなのだ? 役に立つって、どうすればよいのだ?」
「あなたはエスキナに生まれ、エスキナの刻印を施され、エスキナの戦士としてやがて成人を迎えます。そんなあなたがエスキナに潜り込めば、誰も警戒することができません。あなたは賢いですから国の中枢にも食い込むことが出来ます。そこで得た情報をわたし達に伝えてください」
「す、スパイになれということなのだ?」
「その通りです。一緒にエスキナを打倒しましょう。そして戦争に勝った暁には、あなたはグロウズマウル女王の勲章を授与され、正式に国民として受け入れられるのです。そうしたらまた、いつまでも一緒に暮らしましょう」
 宝石のような赤い瞳がタロウに決断を迫っていた。タロウは迷っていた。しかしその迷いはタロウの精神の変遷の始まりでもあった。
 タロウはエスキナに何の愛着も抱いていない。宿舎では毎日のように虐げられ同輩からは生命すら狙われた。教官もタロウを助けなかった。むしろ言外にタロウに間引きをするよう同輩達に促していた。あの国ではタロウは生きていることさえ咎められる存在だった。
 愛する者もいない。両親はいるが父はいつもタロウに暴力を振るい、何故こんな軟弱な男が自分から生まれたのかを嘆いた。母は優しくしてくれることもあったが、七歳になった時には泣き喚くタロウを容赦なく宿舎に放り込んだ。それは掟であり仕方のないことだったが、幼いタロウの実感としてそれは裏切りであり、確かに備わっていたはずの絆と愛情の終焉を意味していた。姉もいた気がするが、今では良く覚えていない。
 そうだ。タロウは思う。自分はエスキナのすべてを憎んでいる。エスキナに復讐したいと願っている。そしてその為の方法は、世にも美しい女の形をして、タロウの眼前に横たわっているのだ。
「……分かったのだ。おいらはグロウズマウルに忠誠を誓うのだ」
 一瞬だけ司書のおっちゃんの顔が瞼に浮かんだが、タロウはそれを注意深く心の奥底にしまい込んだ。そして仰向けに寝転んでから、冷ややかでも温かくもない声で言った。
「最初から、スパイにする為においらを連れて来たんでしょー?」
 マリアは眉を動かすと、微かに傷付いたような表情を作った。
「でも、別に良いのだ。一緒にエスキナを倒して、ずっと一緒に暮らすのだ」
 タロウは体の向きを変えてマリアの胸に顔をうずめる。
 エスキナに復讐をしてマリアと共に生きる。
 それが、タロウの人生の目標となった。



 スパイになる為の学習が始まった。
 諜報活動には単純な軍事訓練とは違う鍛えが必要だった。エスキナで行われたような体力的な訓練とは異なり、座学が中心となる。しかしそれはタロウの得意とするところであり、毎日机を挟んでマリアから教わるうちに、みるみるうちにそれらを習得していった。
「こうやって毎日この家で座学しているけど、それで良いのだ? 何か専門的な訓練所のようなところで、実践的な訓練を受ける必要はないのだ?」
 マリアの用意したテキストで学習をしながら、タロウはそのような疑問を口にした。
「それが必要になるのは最後の一か月か二か月だけです。そもそもあなたの軍人的な素養はエスキナで十分に鍛えられていますので、座学以外でそこまで真剣に教えることは多くないのですよ」
「でも今やってる座学がスパイ活動に有用だとは思えないのだ」
 タロウの知る文字で描かれたテキストに描かれているのは、グロウズマウルの歴史についてだった。平行して他に勉強させられているのはグロウズマウルの政治や法律の他、普遍的な倫理や哲学の授業もあった。どれもスパイ活動とは直接関係のなさそうなものばかりだ。
「今のあなたに必要なのは、スパイとしての能力云々よりよりも、グロウズマウルに対する忠誠心を養うことです。その為に、まずはグロウズマウルについて学んでいただきます。我々の国の文化や成り立ちについて学ぶことで、これまで住んでいたエスキナという国がどれだけ愚かであるかを、実感していただく必要があるのです」
 それは洗脳教育という奴なのではないかと思ったが、口には出さなかった。エスキナが愚かな蛮族の国であることは、洗脳されるまでもなく明白だった。グロウズマウルという国の実態も、このテキストに描かれている内容が真実である保証はないが、それでもエスキナに劣る国が他所にあるとは思い難かった。
 そう言った座学をみるみる吸収する傍ら、タロウはマリアから魔術も教わっていた。それは本来、スパイ育成のカリキュラムにはないことだとマリアは言った。
「本来、魔法はエルフ以外には扱えるものではありません。体質がどうとかそういった理由ではなく、そもそもアタマの作りが異なるのです」
「それって、ナガミミの頭がおいら達より良いって意味なのだ?」
「どちらかがどちらかより優れている訳ではありません。わたし達の何もかもが人間に勝るなら、あんな辺境の山奥に押し込められる道理はないと思いませんか? 数学が得意な人がいれば言語学が得意な人がいる。それと同じように、魔法の原理を理解するのに、適した者とそうでない者がいて、我々エルフは適した側だというだけのことです」
「でもおいらは魔法が使えたのだ。使えそうになったのだ」
「その通りです。ただ、それはあなたがエルフに近い思考体系を持つ、特殊な人間であることを意味しません。不向きな人間でありながら魔法を使えてしまう程、単純にアタマが良いだけなんですね」
 マリアはタロウに気に入りの家具を見詰めるような視線を向けた。
「それはあなたの光り輝く長所です。長所なら伸ばしておくべきです。諜報活動でもきっと有利に働きます。何よりも、人でありながら魔法が使えるあなたは、グロウズマウルに新しい風を吹き込むに違いありません。わたしはそれを確信しています」



 数か月の修練により、タロウはいくつもの魔法を習得していった。それはマリアが瞠目する程の早さであり、タロウ自身自らの成長に戸惑う程だった。
 手を触れずに物を動かす。燃料を使わずに火を起こす。傷付いた身体を癒す。風や水を操り、空を飛び、時には天候を書き換えてすら見せた。
 術を一つ習得する旅に、マリアは心からの賞賛と共にタロウを抱き締めてくれた。子供扱いのようにも思えたが、虐げられて来たタロウにはその単純な優しさが染みた。
 日々学習に励むタロウの元に、マリアの上官を名乗る女性が訪れた。
「やあやあ。この子が報告にあった魔法を使える人間かな?」
 金髪碧眼の女性だった。細身のマリアと比べるとメリハリの効いた体格で、胸や尻に付いた肉が豪奢な青いローブを盛り上げていた。信じられない程高く尖った鼻を持っていて、切れ長の瞳は女性でありながら精悍かつ怜悧で、見ているだけで自然と畏怖の感情が呼び起された。
「ええ。タロウさんというんです」
 マリアの視線を向けられると、タロウは立ち上がって頭を下げた。
「タロウと言いますのだ。今の身分はエスキナの訓練生だけれど、やがてグロウズマウルの国民となる為に頑張ってますのだ」
「それは良いことだね。それじゃ、少しだけ話をさせてもらえないかな?」
 エレナと名乗った女性は向かいの席に腰かけて、口元だけに笑みを浮かべ、冷ややかな程落ち着いた瞳でタロウを見すくめた。
「エスキナをどう思う?」
「平民に重税と過酷な労働を強いて、その反乱を抑え込む為に四苦八苦しておりますのだ。その為の方法は戦士階級を肉体的に強くすることと、平民を無学なままにしておくことですのだ。戦士にも平民にも学問を収める時間もその機会もなく、よって技術的政治的に他国に後れを取っておりますのだ。やがて亡びる国ですのだ」
「ではグロウズマウルをどう思う?」
「魔法の技術が素晴らしいと思いますのだ。おいら自身胸を短刀で刺された状態から救われたことがありますのだ。これほど素晴らしい技術を扱えるエルフという種族には敬意を覚えますのだ」
「君は何故グロウズマウルに忠誠を誓うんだい?」
「エスキナに復讐をする為ですのだ。おいらは身体が貧弱で、エスキナの軍事訓練では、教官にも同輩にも何度も殺されかけました。あの国で戦士としてこの先生き延びられるとは思えないし、またそうしたいとも思えませんのだ。それに比べると、グロウズマウルで魔術や文化を学びながら生きる方が、遥かに素晴らしい人生ですのだ」
「マリアをどう思う?」
「人生の恩人ですのだ」
「君の習得した魔術をいくつか見せてくれないかな?」
「分かりましたのだ」
 タロウは机の上に置かれていたペンを触れずに持ち上げてみせ、ノートに字を書いて見せた。自ら空を飛んで見せ、家の外に出てから掌から火炎を放って見せた。
「信じがたい。人間が魔法を使えることもそうだが、勉強を始めて数か月でここまで練度を高めるのは、より大きな驚きだね」
 エレナの表情は変わらなかったが、その声には確かに驚愕が滲んでいるようだった。
「ありがとうございますのだ。これもマリアさんの教え方が良いお陰なのだ」
「彼女が立派に君を教育していることは確かなんだろう。でもね、何よりも君に才能があるんだよ。マリアはとんでもない拾い物をしたね。お手柄だよ」
 エレナが視線を向けると、マリアは恐縮ですと口にして瀟洒に頭を下げた。
「タロウくん」
「はいのだ」
「君が順調にスパイとして育っていることは理解が出来た。この調子で励んでもらいたい。君ならばグロウズマウルの国民になった後、魔導士にだってなれるかもしれないよ?」
「その魔導士というのは何ですのだ?」
「優れた魔法を使える者に与えられる称号さ。私やマリアがそれに該当するが、グロウズマウルのエルフでもその称号を与えられるのは一握り。人間の身で魔法を使えるだけでも極めて珍しいのに、魔導士にまでなれば間違いなく歴史に残るだろうね」
 口元に微笑みを浮かべたエレナはそう言うと、マリアの方を向き直った。
「教育が順調に進んでいることが良く分かった。来月から国の軍事施設で最終調整が始まるけれど、マリアもタロウくんも頑張りなさい。それが終わればとうとう諜報活動が開始される。仲良くやってるようだけど、お別れの日に泣くんじゃないよ?」
 言い残し、エレナは颯爽と立ち去って行った。



 最後の数か月、タロウはマリアと共にグロウズマウルに渡った。軍事施設でスパイとしての最後の訓練を受ける為だ。
 グロウズマウルの風景は教科書で見た通りだった。山奥の自然そのもののような空間に、驚くほど簡素な家々が並んでいる。技術的な意味ではエスキナとどっこいどっこいだったが、エスキナのような粗野さはなく、むしろ自然と調和した清貧さを感じさせるものだった。
 軍事施設で行われる最終訓練では、これまでのような座学は少なく、実践的な訓練が中心となった。諜報の対象となる施設や空間に入り込む為の身のこなしや、効率的な破壊工作の技術、本国であるグロウズマウルと円滑かつ秘密裏に通信を取る方法などを学んだ。
 それらの中には苦手な体力を使う課題も多かったが、マリアの励ましによって乗り越えられた。タロウは懸命にそれらの課題をクリアし続け、やがて一人前のスパイとして認められていった。
 そしてついに、その日がやって来た。



 ×



「お別れですね」
 エスキナに送り出される時、マリアは沈痛な面持ちでタロウに告げた。
「また会えるのだ」
「そうですけど」
 マリアは目に涙を溜め込んでいた。まるで今生の別れであるかのようだった。確かにスパイ活動には危険が伴うが、それでもタロウに死ぬつもりはなく生きて帰ることを約束してもいた。だからこんな表情をする必要はないと思ったが、それは送り出す者と出される者の違いかと思い受け入れた。
「あの、タロウさん。わたしは最初、スパイにするというそれだけの動機でエスキナの訓練生を選別しました。選ばれたのがあなたでした。しかし同じ家で寝起きし触れ合う内、あなたという人に愛着を覚えるようになったのです。わたしとあなたの関係はスパイとそれを育てた教官ですが、今となっては、わたしがタロウさんのことを心から愛していることもまた事実なんです。……信じますか?」
「信じるのだ。おいらもマリアさんが大好きなのだ」
「お気をつけて」
 マリアは目元を覆ってタロウから顔を隠すように背を向けた。タロウもまたマリアから視線を反らしてエスキナの方角を向いた。
「必ず帰るのだ」
 それが別れとなった。丸一年を共にした最愛の女性と離れ離れになるのはつらかったが、しかし今のタロウには大義と、そして夢があった。必ずやエスキナを滅ぼし、グロウズマウルの国民になってマリアと共に暮らすのだ。
 マリアと別れたのは二人が共に住んでいた家のある平野だった。二日掛けてエスキナに帰り着いたタロウは、最終試験のいわばゴール地点である宿舎へと向かった。
「帰還しましたのだ」
 現れたタロウに教官は驚いたような表情を浮かべた。
「貴様が生きて帰るとは思わなかったぞ」
「軟弱者にも意地がありますのだ。これも教官の指導のたまものですのだ」
 調子の良いことを言うタロウ。教官は深く頷いた。
「一人でも多くの戦士が帰還するのはめでたいことだ。胸を張ると良い」
 教官への挨拶を済ませたタロウは、司書のおっちゃんに顔を見せるべく図書室に向かった。
「ひさしぶりなのだおっちゃん。元気にしてたのだ?」
「おおタロウ! タロウじゃないか!」
 司書は瞳に満面の喜びを讃えていた。感動した様子で椅子から立ち上がると、タロウの肩を掴んでそのむさくるしい胸元に抱き寄せた。
「お、おっちゃん。大袈裟なのだ」
「何が大袈裟なものか。良く生き延びたぞタロウ。これでおまえも一人前の戦士だっ」
 目に涙を浮かべる司書がタロウには遠く感じられた。名目上タロウはエスキナの戦士となったが、それでも心はグロウズマウルに、より具体的に言えばマリアの傍にあった。そうでなければこの再会もより感動的に覚えたかと思うと、一抹の寂しさが微かに胸を過った。
「おっちゃんにまた会えたのは嬉しいのだ。今日まで生きられたのはおっちゃんの教えがあったからなのだ。ありがとうなのだ。これでもう同輩から殺されるようなことは滅多にないのだ!」
 成人したタロウにはある種の人権が備わるようになり、これまで程は命を粗末に扱われることはなくなる。当分の間エスキナで諜報活動に努めるタロウにとって、それはありがたいことだった。
「いいや。生き延びたのはタロウが頑張ったからだ。タロウ、おまえは国王付きの近衛師団に入れ。俺が推薦する」
 タロウは思わず目を丸くした。一人前の戦士となった後の若者の進路には様々なものがあるが、国王付きの近衛師団と言えば訓練成績が抜群な者だけが入れる、言わばエリート部隊だった。
「そんなところにおいらなんかが入れるのだ?」
「入れるとも。近衛師団に配属されるのに必要なのは、勇猛さや体力と言った前線の兵としての素質ではない。将来の軍の幹部・司令官候補として、氷のような頭脳と冷静さと言った素質が求められる。兵法の成績がずば抜けているおまえにはぴったりだ」
 タロウは考える。近衛師団の仕事は宮城の内外の警備および、神官達の手足となって戦争関連の公務を行うことだ。となれば国家や軍に関する重要機密に触れる機会も多くなる。また近衛師団員はそのまま高級将校の候補生でもある。働きが認められれば、戦線における重要な任務に司令官として参加する機会も得られるだろう。それらはすべて、タロウの行うスパイ活動に対し極めて都合の良いことだった。
「確かに、近衛師団になれれば光栄なのだ。でも本当に、近衛師団に入れるのに、おっちゃんの推薦が役立つのだ?」
「おいおい生意気を抜かすな。今はこの図書室の司書をしているが、かつては俺も高級将校としてかなりの地位があったんだぞ? おまえの頭脳なら俺が推薦すればきっと近衛師団に入れるさ。体力はネックだったが、最終試験を潜り抜けたのならばなんとかなる」
 そこまで言って、司書は声を低くして鋭い視線をタロウへと向けた。
「ただ当たり前だが近衛師団の訓練は生半可なものではない。肉体的な訓練はより過酷になるし、座学の方でもおまえと同等の才気の持ち主がゴロゴロ入って来る。その中で競争に勝ち抜かなければ将校として身を立てることは不可能だ。おまえにそれができるか?」
 以前ならここで怖気付いたかもしれないが、しかしエスキナへの復讐を誓うがあまり不屈の精神を手に入れたタロウは、力強く頷いた。
「やってみせるのだ。おいら、元帥になってエスキナ軍をまともな軍に変えて見せるのだ」
「良く言った」
 司書は力強くタロウを抱擁した。



 エスキナとグロウズマウルの緊張状態は数年に渡り続いていた。
 いつ戦争が起きてもおかしくない状況だった。互いに出方を伺いあい、探りを入れ合っては、薄氷一枚隔てたギリギリの平和が続いていた。その中でタロウのようなスパイが何人も育成され、両国の至るところに潜伏していった。
 中でもタロウは極めて上手くやっていた。近衛師団員として宮城に潜入したタロウは、いくつもの機密書類を窃視し、上官同士が行う機密会議を傍聴した。そうして得られた情報は暗号化され、派遣された通信兵を介してグロウズマウルの作戦本部に伝えられた。スパイとしてタロウは少なくない成果と実績を上げ、グロウズマウルの上官からの信頼も獲得していった。
 そうして得た情報によると、確かにエスキナはグロウズマウルに戦争を仕掛けようとしているようだった。目に入る国は片っ端から征服して植民地にしたがるエスキナのことだから、次のターゲットをグロウズマウルに定めるのは理解のできる話だ。しかしグロウズマウルは山奥の謎に包まれた異人の国家であり、その国力には不透明な部分が多かった。よって喧嘩っ早いエスキナも、自分から仕掛けるには慎重になっているようだ。
 それでもいつか必ずエスキナはグロウズマウルを襲う以上、グロウズマウルとしては防衛の為先制攻撃を仕掛けたいところだ。その為には、エスキナ本土の周辺にある三つの砦のいずれかを落とす必要があるのだが、いずれも防衛拠点として多くの兵力を保有しておりままならなかった。
 以上を持って均衡状態を保っていた両国だったが、それはいずれ破られるべき均衡だった。タロウがスパイとして近衛師団に潜入してから三年後、エスキナ軍はグロウズマウル国の本土への侵攻を行い、街一つを制圧し領土の一部を我が物とした。



 ある日、タロウは宮城の神官室に呼び出されていた。そこで神官と共に待ち受けていたのは近衛師団における上官で、彼は厳かな表情でタロウを見詰めると低く威厳のある声を発した。
「タロウ中尉」
「はいのだ」
「グロウズマウル国への侵攻が始まった。これには多くの軍事力が必要となる。よって近衛師団で育成した青年将校の内の何人かを戦線に送ることが決定した。タロウ中尉、貴様はその一人に選ばれたのだ」
「光栄の至りですのだ」
「貴様は肉体的には貧弱だが兵法への理解に優れ、数か月前に起きた平民約二千人による反乱においても、中隊約百五十名を指揮してものの見事に鎮圧せしめた。弱冠にして中尉に特進したのもその実績と手腕の成せることである。今こそその力を戦線にて発揮するのだ」
 戦線は過熱していた。軍事侵攻を受けたグロウズマウルは、奪われた領土に軍を差し向けるのみならず、エスキナ領土周辺の砦のいくつかに反転攻勢を仕掛けていた。三つある砦は現状ではいずれも揺らいでいないが、一つでも突破されればたちまちエスキナ本土が危険に晒される。
「タロウ中尉に課せられた任務は、三つある最重要防衛拠点の一つドロスピュレー防衛基地、通称『愚者の砦』の防御への参加だ。砦の防衛責任者であるクレオメニス中将に配下に就き、中隊約二百名を指揮するのだ」
 タロウは内心でほくそ笑む。防衛に参加した暁には、諜報活動の限りを尽くして砦の情報を丸裸にするつもりだった。またグロウズマウル軍が攻めて来るのに合わせて破壊工作を行うことで、防衛にあたる連隊全体を混乱に陥れることも可能だった。
「グロウズマウル軍は今この瞬間も砦へと迫っている。明朝には中隊と共にエスキナを出発し戦線へと参加するのだ。良いな」
「了解しましたのだ」
 神官室を出たタロウは将校に与えられる高級住宅へと帰り着くと、愚者の砦に配属されたことについての報告書を暗号文にて作成する。そして城下町に出ると尾行に警戒しながら潜伏中の通信兵に接触した。
「これを」
「はいよ」
 エスキナ市民に成りすましている通信兵に手紙を渡すと、自宅に戻ったタロウは明日以降戦いに備え寝台にて休息した。
 スパイとしての本懐を遂げる日が近づいていた。



 愚者の砦はエスキナ本土の周囲に聳える山の中腹にある。到着したタロウが最初に行ったのは砦全体の見回りだった。それは防衛を成功させる為ではもちろんなく、砦の弱点を丸裸にしグロウズマウル軍に伝えることが目的だった。
 愚者の砦は、技術的に未成熟なエスキナ軍の作成した物だけあって、杜撰な要塞だった。先進的な国家なら五十年前には見切り付けたような脆弱な素材が外壁に使われ、上級の魔術師に火球を立て続けに浴びせられれば、簡単に穴が開くように思われた。塔の場所も悪く見通しが不十分で、ルートを工夫すればかなりの近距離まで気付かれずに接近することが可能そうだった。
 砦のあちこちを回りながら、タロウは懐に忍ばせておいた紙を小さく切り裂き、握りこんで丸めてから各所に落として行った。
「タロウ中隊長殿」
 振り返ると、下士官となったレオがいた。地元の小隊に入隊した彼もまた、上官に連れられ砦の防衛に参加していた。
「連隊長殿がお呼びです」
「分かったのだ」
「ところで、あの……」
「どうしたのだ?」
「つかぬことをお伺いしますが、中隊長殿はその、どうやって最終試験をくぐり抜けたのですか? 確かあの時、俺はその、中隊長殿を」
「屈強なエスキナの戦士たるおいらを殺すのに、おまえなんかのヘロヘロな短刀じゃ無理なのだ。ざまあみろのだ」
「……はあ。そうですか」
「というのは冗談で、たまたま急所を外れたのを親切な旅人に手当されたのだ。もっとも、その旅人は回復したおいらに身ぐるみを剥がれたんだけどね」
 そういうことにしてあった。なおも怪訝な顔をするレオに下がるように告げると、タロウは連隊長室に向かった。
 砦の防衛の責任者であるクレオメニス中将は、額に大きな傷のある大柄な人物である。背丈はタロウよりアタマ三つは大きく、体重は三倍近くありそうに見えた。顔は整っているとはとても言えなかったがそれ故の凄みがあり、信じがたい程大きな形の悪い鼻の上には、残忍さが嫌でも滲むような三白眼があった。
 これまで難しい作戦をいくつも成功させている実力者だった。連隊からは大きな信頼と畏怖を寄せられており、このクレオメニスを暗殺せしめれば、砦は大きく混乱するに違いなかった
「貴様がタロウ中尉か?」
「はいのだ」
「噂通りのチビだな」
「はいのだ。しかしエスキナの戦士として不屈の魂を持つと自負していますのだ」
「貴様に与える任務は砦へと続く山道の警備だ。ここに示す地図の範囲に隊を散会させ、敵軍を発見次第襲撃するのだ」
「はいのだ」
「貴様の割り当て区域は比較的広い。命懸けで防衛し、エスキナ戦士の誇りを証明してみせよ」
「はいのだ。あ……ところで連隊長殿。おいら、とても珍しい葉巻煙草を持っていますのだ」
 タロウは懐から取り出した小箱をクレオメニスに差し出した。そこには高級将校でも簡単には手に入らない貴重な葉巻煙草が数本詰まっており、クレオメニスの目を丸くさせた。
「こんなものをどうして貴様が持っているのだ?」
「砦に配属されることを話したら部下がくれましたのだ。そいつの家系はエスキナ戦士の中でも名門らしく、故郷から度々こうした物品が届きますのだ。おいらはもう何本か楽しんだので、残りは連隊長殿に差し上げますのだ」
 そう言ってタロウは揉み手を作り、媚びを孕んだ表情を浮かべ口元を歪める。配属されたばかりの若い将校が、連隊長に気に入られようとここぞとばかりに貢物をしたように見えるはずだった。クレオメニスは分厚い唇をにやりと持ち上げてタロウから小箱を奪った。
「ようし貰っておく。タロウ、貴様のことは覚えておいてやるぞ」
「光栄の至りですのだ」
 連隊長室を出たタロウは、ただちに自分の中隊を呼び寄せ、指定された区域へ行進を開始した。



 タロウは要領良く中隊を山道に散開させる。この時点で何か勘繰られると良くない為、兵の配置は完璧にやった。割り当ての区域のどこにグロウズマウル軍が攻めて来ようとも、ただちに反撃が可能だった。
 指揮官としてタロウは比較的安全な後方で如才なく兵に指示を出し続けた。勝手な国の都合で命を賭けさせられているにも関わらず、不服な態度一つ取らず唯々諾々と指示に従い続ける兵達が、タロウには遠く感じられた。彼らは大義も忠義もなく、ただ戦士であることから逃げ出せないというその一点で、エスキナを憎みながらエスキナの為に死んでいくのだ。
 自分はこいつらとは違う。内部からエスキナを食い荒らし、復讐を遂げるのだ。
 心の中でそう呟く度、タロウの中に甘美な優越感が広がった。そしてその優位性を与えてくれたグロウズマウルと、人生の恩人であるマリアに感謝した。
『タロウさん。聞こえていますか?』
 突如としてタロウのアタマの中に声が響いた。
『マリアさん?』
 タロウは声に出さずに答えた。言葉を介さず直接アタマの中に話し掛ける魔術は、スパイ訓練の序盤の段階で教わったものだ。それは高位の魔術でありエルフの中でも使える者は限られていたが、人の身でありながら才気溢れるタロウは苦も無くそれを会得していた。
『マリアさん! ずっと会いたかったのだ!』
『わたしもですタロウさん。こちらは今部隊と共に近くの森に潜伏し砦を攻める機を伺っています。タロウさん、そちらの情報を教えてください』
 タロウは砦の防御について知りうる限りの情報と、中隊長として自分の持ちうる裁量と可能とする破壊工作の詳細について、要領良く説明した。
『分かりました。ではタロウさんは自分の部隊を速やかに撤退させてください。その後砦へと戻り可能な限りの破壊工作をお願いします』
 タロウが中隊を連れて持ち場を放棄すれば、砦までの道は素通りになる。さらに破壊工作で砦を混乱に陥れれば、到着したグロウズマウル軍はたちまち砦を制圧できるはずだった。
『了解なのだ。マリアさん、愛してるのだ』
『わたしもです、タロウさん』
 マリアとのテレパシーによる通信を終えたタロウは、自らの中隊に向けて声を張り上げた。
「散開した兵を呼び戻すのだ! 今すぐに撤退を開始するのだ!」
 部下の一人が驚いた表情でタロウに詰め寄った。
「中隊長殿! 何故そのようなことをするのですか?」
「連隊長殿の指示なのだ。先ほど本部から来た通信兵がくれた手紙に、そうしろと描いてあったのだ!」
「しかしそれではこの山道はがら空きになりますよ?」
「それは今さらなのだ! 既に他の区域の守りが突破され敵部隊が砦に張り付いている状況なのだ! 全戦力を砦に集中させての防衛戦が始まっているのだ! 急ぐのだ!」
 その権幕に、部下達は速やかに兵を一か所に集め整列させた。そしてタロウを先頭に砦への撤退を開始させた。
 しかし部隊が砦に帰り着くことはなかった。タロウがわざと道を誤ったからである。見知らぬ森の奥地へと来さされた兵達は、皆動揺した表情でタロウの方を見た。
「中隊長殿。これは道を外れているのではないですか?」
「わざとだから大丈夫なのだ。それより、今からこの紙を兵の一人一人に配るのだ」
 タロウは懐から大きな紙を取り出して小さく切り取って部下達に回した。紙はエスキナのどの職人が作った者よりも滑らかで白く、指が切れそうな程に鋭利だった。
 困惑するのは部下達だった。軍隊にとっての上官命令が如何に絶対の物とは言え、タロウの言動は奇怪そのものだった。数名が恐る恐るその意図を尋ねたがタロウは答えなかった。
「中隊長殿。これをどうするのですか?」
「こうするのだ」
 タロウは指先をパチンと弾いた。
 隊員全員に行き渡っていた紙片は突如として眩い炎を吹き上がらせた。真っ赤な炎は戦士達の全身を包み込む程に膨らみ、やがて全体で一塊となって激しく燃え続けた。
「……こりゃ燃やし過ぎたのだ。山火事になってマリアさんの隊の方まで届かないと良いけど」
 重なり合う悲鳴を耳にしながらタロウは肩を竦めた。戦士達は熱さから逃れようと身を捩りのたうつが、大きすぎる炎から脱出できる者は外側にいる僅か数人だった。またそうやって炎の塊から逃げ出しても自らの身体を纏う炎は消しようがなく、燃え盛る火を背負い木々の合間を走り回るその様子は滑稽ですらあった。
 全身を黒く焦がしながら炎を共に踊る部下達を見ても、タロウの心には何の痛痒も生じなかった。タロウの忠誠心はグロウズマウルにあり、敵軍たるエスキナ人をいくら焼こうと暗い歓びが沸くだけだった。
 かつての優しさはマリアの為に捨てたつもりだった。だがそれほどまでに割り切れる自分の変化を目の当たりにして、タロウは小さな驚きと、不思議な頼もしさを己自身に感じていた。



 己が部隊を全滅させたタロウは急いで本部である砦へと戻った。そして連隊長室の扉を叩くと、焦燥に満ちた表情で倒れこむ様に中に入った。
「連隊長殿! 大変です! おいらの部隊が全滅いたしましたのだ!」
 連隊長であるクレオメニスは憤怒の表情でタロウを迎えた。タロウは隊を全滅させたことの責を問われていると解釈し、怯え切った表情で申し開きを始めた。
「申し訳ございません。ナガミミ共の魔法はまるで回避不能で、部下達は前触れもなく突如として燃え上がりましたのだ。逃げ出せたのはおいらを含めほんの数人で、そいつらとも逃げる途中ではぐれてしまいましたのだ」
 言い訳をするタロウの背後から数人のエスキナ戦士達が襲い掛かった。肉体的に脆弱なタロウは一瞬にしてその場に組み伏せられた。
「下手糞な嘘は良い。貴様がグロウズマウルに通じているのは分かっている」
 クレオメニスが鋭い三白眼でタロウを睨んだ。浮き上がる眉間の皺は深く激しい怒りが感じられた。それはまさしく鬼の形相であり並の戦士ならたちまち震え上がる程の迫力があった。
「そりゃどうしてなのだ?」
「貴様が命令になく割り当て区域を放棄し隊を外に出したのを、見回りの兵が発見したのだ」
「へぇ。ま、そりゃそうなるのだ。分かってたことだしどうでも良いのだ」
「ならば何故ここに戻った? 拷問されて洗い浚い白状させられた上殺されるのは明らかではないか?」
「こうする為なのだ」
 羽交い絞めにされたタロウが指を鳴らすとクレオメニスの懐で炎が吹き上がる。それは先ほどタロウが渡した葉巻煙草から発されていた。魔力を込めておけば術者の好きな時に発火させられる魔法の紙片が、葉巻煙草の一つ一つに仕込まれていたのだ。
「悪くてもせいぜい毒入りと思って油断して持っていたのだ? 残念、魔法がかけられていたのだ」
 炎はたちまちクレオメニスの全身を包み込む。最初に喉を焼かれたらしくクレオメニスは悲鳴すらあげられず炎の中でのたうっていた。
「貴様! 何をした!」
 タロウを羽交い絞めにする戦士の一人が怒声を発した。
「何って魔法なのだ。君達も早く離れないと酷い目に合うかもよ?」
 そう言い終える前にタロウは次なる魔法を放っている。タロウの身体を掴んでいた戦士達は、突如としてその場を吹き飛ばされ全身を壁に叩きつけられた。自分に触れている者を遠くまで弾き飛ばすという魔術だった。
 壁に叩き付けられた衝撃で、兵達は全身のいずれかの骨が折れ倒れ伏していた。肉体的にどれほど鍛え抜かれた戦士でも、マリアに教わった魔術の前には容易く屈すると思うと清々しかった。これほど素晴らしい技術を操るグロウズマウルが戦争に勝利することを、タロウは確信していた。
 タロウは掌から直接火球を放ち兵達にトドメを刺した後、砦内を闊歩し始めた。
 魔法を込めた紙片は砦のあちこちに仕込んであった。タロウが歩き回りながらそれらを順に起爆させると、眩い炎が吹き上がり砦は火の海となった。戦士達は突如として吹き上がる正体不明の炎に焦りものの見事に混乱しながら、火を消すために奔走するあまり統制を乱した。
 火の手が上がる度近くにいたタロウは当然疑われることになる。身柄を抑える為に襲い掛かる戦士達だったが、タロウには歯が立たなかった。戦士達は魔法によって弾き飛ばされ、火球を浴びせかけられ、風の刃で首を断ち切られた。
「なんだこいつは! ナガミミでもないのに、魔法を使うぞ!」
 このまま無双の活躍と行きたかったがタロウも無敵ではなかった。魔力には限りがあり、使い続けているとガス欠を起こす為、継戦能力には限度があった。四方から襲い掛かられれば武器による被弾は免れず、治癒魔法によって肉体を回復させる度魔力的な消耗は蓄積していった。
 タロウは限界を感じていた。襲い掛かるエスキナ人達は皆筋骨隆々として獰猛だった。戦士の練度が高いというその一点で周囲の国々を恐れさせるエスキナ軍は、結局のところ脅威だったのだ。
 僅かに残った魔力で周囲の何人かを蹴散らしたタロウは、そのまま背を向けて砦からの逃走を図った。クレオメニスを失った上タロウの大暴れもあり砦は十分に混乱していた。そろそろ自分の命を優先して行動しても良い頃合いだった。
 その時だった。
 タロウではない者の放った火球が目の前を過り、近くにいたエスキナ兵に着弾した。火球の来た方を見ると、そこにはローブを着用した耳の長い男性が杖を掲げて立っていた。
「グロウズマウル軍! ついに来たのだ!」
 タロウが歓喜の叫びをあげる。エルフの男はタロウににじり寄ると、敵を見る表情で杖を掲げた。
「ちょい待ちちょい待ち。おいら、味方なのだ。魔法を使ってたの見たでしょー」
 男が尚も杖を振って魔法を放とうとしていた為、タロウは落ち着いて次のように口にした。
「『二つの欠けた太陽は沈まず。恵みと灼熱が共に民へと降り注ぐ』」
 それを聞いて男は微かに眉を歪ませた。それはグロウズマウルに寝返ったスパイにのみ教えられる合言葉だった。
「……貴様、本当に我が国のスパイか?」
「そうなのだ。合言葉だって言ったでしょー?」
「それだけでは不十分だな。だが今すぐに命を取るには値しなくなった。手を上げて降伏しろ。捕虜になるなら命までは取らない」
 鋭い両眼がタロウを睨む。タロウは溜息を吐いて大人しく両手を上げた。
 こうなる可能性は予想していた。考えてみればどこから漏れるとも分からぬ合言葉の信用度はたかが知れている。味方であることを証明するには、エレナやマリアと言ったタロウを知る者とコンタクトを取ってもらうしかなく、それまでは大人しくするよりどうしようもなかった。
「後で話は聞いてくれるんだよね?」
「ああたっぷりと聞かせてもらう。だから、今は大人しくしていろ」
「分かったのだ」
 タロウはグロウズマウル兵に連れられて行く。
 火に包まれた砦には何人もの魔術師が殺到していて、あちこちにエスキナ人の死体が散らばっていた。最早勝負は着いたことが明らかだった。



 ×



 タロウはグロウズマウルの捕虜となり、平野にある作戦基地に連行された。それは愚者の砦の攻略の為に建てられたであろう即席の建物であり、中には耳の長いエルフの軍人たちが長靴を鳴らしながら闊歩していた。
 基地には地下牢がありタロウはその中へと押し込められた。その扱いは乱暴であり、スパイとして危険な諜報活動を潜り抜けた同胞への対応とは思えなかった。早く味方であることを理解してもらい、その働きをグロウズマウル軍に、そしてマリアに認めてもらいたかった。
 牢にはタロウの他にも無数の捕虜が収容されていた。あちこちに魔法による手傷を負い、血と汗の臭いに塗れ冷たい牢の床にひしめくエスキナ人達はむさくるしかった。タロウは宿舎の大部屋の様子を思い出し不快に感じた。一刻も早くここを出たかったし、また自分はこんなところにいるべき人間ではないと繰り返し思った。
「タロウ。おまえ、裏切ってたんだな」
 声に振り返るとレオがいた。どうやら先程の戦いを生き残り捕虜となったらしかった。とめどなく出血する脚が痛いらしく両腕で抱き締めるように庇っている。精悍な顔はタロウへの憎しみに苦々しく歪んでいた。
「だから何なのだ? 牢の中で昔みたいにおいらをリンチしようったってそうはいかないのだ。負傷したおまえらと違っておいらはぴんぴんしているし、魔法だって使えるから返り討ちに違いないのだ。だからみんな、おいらが憎くても手出しできないんだよね?」
「何故エスキナを裏切った?」
「何故って復讐なのだ。おいらを虐げて毎日ボコボコにした教官や、命を奪おうとしたおまえらのことが許せなかったのだ。グロウズマウルに離反しエスキナを陥れることで、おいらはおいらの苦痛と恥辱に塗れた青春時代に復讐を果たしたのだ。ざまあみろのだ」
「くだらねぇ。そんなガキの頃のことまだ言ってんのかよ」
 タロウは思わず眉を潜めた。十八歳のタロウにとって、七歳から十四歳までの七年間は過去ではなかった。あの苦しみに満ちた日々を思い出さぬ日は一日としてなかった。
「やった方は忘れても、やられた方は……」
「自分だけが被害者だと思うなよ? 教官にボコボコにされたのも命の危険があったのもおまえ一人じゃない。エスキナが憎いのだっておまえ一人じゃない。誰だってこの国はクソだと思いながら、それでも生きていく為に必死で訓練に耐えていたんだよ。そうやって一人前の大人として認められれば、少しでもマシな人生があると信じてな」
「それじゃエスキナの思う壺なのだ。どうしてエスキナに復讐しようと思わなかったのだ?」
「偉そうにするんじゃねぇ。おまえが復讐を掲げられたのも、グロウズマウルの誰かに拾われた結果だろ? それはおまえの力じゃないし、意思でもない」
 そう言われタロウは絶句した。タロウはレオのことを見下していたが、それでもこの言葉に的確に反論するのは不可能のように感じられた。
「つうか復讐なんて別にしたくねぇよ。俺はもう一人前の戦士であの苦しい宿舎生活も終わったし、贅沢もできるし家族だって持てる。憎しみに囚われて何人もの仲間を焼き殺したおまえと違って、俺達は現実の中で少しでもマシに生きようと歯を食いしばって、自分達なりの幸福を追い求めていたんだよ」
「でもそれじゃエスキナは何も変えられないのだ!」
「変えられるね。時間はかかるけどな。俺達下っ端だって長老世代になれば少しくらい政治に口を出せるようになる。近衛師団から将校になったおまえは猶更だ。それが正攻法って奴じゃないのか? エスキナを変えようとせずに、みじめな復讐心で滅ぼそうとしたのはおまえの方だろ!」
 レオは声を荒げ、血まみれの両手でタロウに掴み掛った。
「おまえ、元帥になってエスキナ軍を変えるんだと司書のおっさんに言ったそうだな? 何故そうしなかった? あのおっさんはおまえを推薦したことで首を跳ねられるんだぞ! おまえなんかにあれだけ良くしてくれた人がよぉ!」
 ぎりぎりと首を絞められる。魔法を使えばどうとでも撥ね退けられるはずだったが、あまりの権幕でそれが出来なかった。レオの精悍な瞳にはタロウへの怒りと侮蔑が強く滲んでいた。
「おまえはエスキナから多くのものを受け取ったはずだぞ? 俺達のことだって十分に見返したし、将校用の酒も女も住む家も思うがままだ。出世して神官にでもなればエスキナだって変えられたかもしれない。それを投げ打ってまでやることが子供時代のちんけな復讐だ? 本当にくだらない奴だなおまえは! 分かっているか? 大昔俺がおまえをいじめていたのは、弱くて足を引っ張るからじゃない。現実を見ずに国と人を憎んでばかりいる、その腐った根性が気に食わなかったからだよ!」
 吠えたレオはタロウを床に叩き付け、それから息を切らしたように蹲った。
 鈍い痛みが走った。肉体的な痛みよりも、これまで見下して来たレオに精神的に打ちのめされた衝撃の方が大きかった。レオ如きに自分がまともに反論できなかったことが信じられなかった。
 自分の心の中が微かにひび割れ、光り輝いていた目の前の道に薄っすらとした靄がかかるのを、タロウは感じていた。この先グロウズマウルで生きることが出来たとしても、その靄は振り払うことが出来ずにタロウを苛み続けるに違いなかった。



 長い時間が経ったが、タロウが牢から出されることはなかった。
 タロウは焦りを感じていた。考えてみれば勤めを果たしたタロウは既に用済みでもあった。このまま他のエスキナ人と共に処刑されるのかもしれなかった。捕虜を処刑するのに、一人一人スパイでないかどうかを丁寧に判別するだけの時間を惜しむというのは、冷酷な軍隊では十分にありうることだ。
 大きな不安の中で、タロウが絶叫しそうになっていた頃だった。
 牢の中に一本の鍵束が投げ込まれてタロウの目の前に落ちた。金属で出来たそれは、持ち上げると見た目以上に重たくずっしりとした感触があった。
 思わず顔を上げると牢の外側にマリアが立っていた。三年の時を経たがその美貌はタロウの知る当時の姿から何ら相違ないものだった。エルフは歳を取るのが遅いと言われており、外見的な年齢だけなら十八歳になったタロウが追い付きつつある程だった。
「マリアさん!」
 タロウは狂喜した。最大の理解者であり味方であるマリアが自分を確認したからには、最早タロウの生命は保証されたも同然だった。鍵束を持ってマリアの近くまでにじり寄ると、牢の格子から手を伸ばしてマリアに触れようとした。
「ずっと会いたかったのだ。ここからはもう出て良いのだ?」
「いいえ。少し待ってください。せめてわたしが立ち去るまでは」
「なんで?」
「ヘレナはあなたを殺そうとしています。この基地の最高責任者であるあの人がそう決定しました。逃げてください。この廊下を右側に進み階段を上れば出口はすぐです」
 ヘレナはマリアの上官でありグロウズマウルの高級将校だった。タロウも何度か会ったことがあった。威厳を讃えた一筋縄でいかない人物だったが、タロウには期待して目を掛けてくれていた。諜報活動が上手く行っていることも知っているはずだった。
「ちょ、ちょっとどういうことなのだ? おいらはグロウズマウルに忠誠を誓ってスパイとして多くの成果を……」
「あなたは一度裏切りました」
「グロウズマウルを裏切ったことなど一度もないのだ!」
「あなたが裏切ったのはエスキナです。どういう理由であれ自分の国を一度でも裏切った人間は、別の国でもまた同じことをします。あなたをグロウズマウル国民に加えることはできません。用済みだから処刑されるのです。だから早く逃げて」
「おかしいのだ! 裏切るように言ったのはそっちのはずなのに、一度裏切ったから信じられないなんて意味が分からないのだ!」
 タロウは思わず吠えてから、冷静になって大きく息を吐きだした。マリアは軍の決定についてタロウに淡々と事実を伝えているだけであって、彼女に文句を言ったところで何ら意味はなかった。
「怒鳴ってごめんなのだ」
「いいえ。無理のないことです」
「マリアさんはおいらを逃がそうとしてくれてるんだよね?」
「そうです。ただしわたしが逃がしたことは知られないように、牢の中の人達には忘却の魔法をかけておいてください」
「分かったのだ。それとマリアさん、だったらおいらと一緒に逃げるのだ」
「どうして?」
「何故っておいら達は愛し合っているはずなのだ。グロウズマウルの国民になれないのは悲しいけれど、マリアさんと一緒にいられるならそれで良いのだ。くだらない戦争から逃げ出して、どこか平和なところで一緒に暮らすのだ」
 タロウは満面の笑みを浮かべた。それは幸福な逃避行であるように思われた。グロウズマウルに裏切られた衝撃は心を強く打ちのめしたが、マリアが手に入るならタロウは何でも良かった。
 しかしマリアは首を横に振った。
「……できません」
「なんでっ? おいら達愛し合っているはずなのだ?」
「わたしにも国に未練があります」
「こんなにも多く尽くしたおいらを処刑するような国に? また一緒に暮らそうって誓い合ったはずなのだ! そのおいらを放り出してまでどうしてこんな国を選ぶのだ?」
「分かってください」
「分からないのだ! おいらマリアさんと一緒じゃなきゃ嫌なのだ! マリアさんに捨てられるくらいならこのままここで処刑されてやるのだ!」
 本気で言っていた。それを態度で示す為にタロウは鍵をマリアに投げ返した。
 タロウは混乱していた。自分が何よりもマリアを愛しているようにマリアも自分を愛しているはずだった。ならば国を捨てるくらい何でもないはずだった。それなのにマリアは国と軍に固執してタロウを放り出そうとしていた。何もかもを失ったタロウをたった一人で。
「おかしいのだ! マリアさんはおいらを愛しているはずなのだ! おいらの為なら国だって捨てて良いはずなのだ! その愛を信じていたからおいらはエスキナを裏切って何人もの仲間を血祭りに……」
「……わたしがあなたを愛したことなど一度もありません」
 マリアは宝石のような赤い瞳でタロウを見竦めた。
「あなたをスパイに仕立て上げるのに有利だから、そのように振舞っていただけです。身体を許したのもその方が手っ取り早かったからです。女も愛も知らない薄汚れた子供であるあなたをたぶらかすのは簡単でした」
 タロウは絶句していた。床が崩れ去り天井が落ちて来るような衝撃を覚える。限りない暗闇の底に落ち続けるようだった。その闇に終わりはなくタロウはどこまでも深い絶望に打ちのめされ続けていた。
「わたしはグロウズマウルの軍人です。スパイを一人仕立て上げるのにそのくらいのことはするのです。あなたは本当に良く働いてくれましたが、それだけです」
「そんな……マリアさん、そんな……」
「しかし情がない訳ではありません。用済みになったからと言って命まで取りたい訳ではない。一人で逃げてください。わたしの気が変わらない内に、早く」
 マリアは改めて鍵束を放り投げると、タロウから目を反らして立ち去って行った。
 タロウは深い絶望の中で座り込んでいた。



 打ちひしがれていたタロウだったが、やがてマリアに渡された鍵束を手に取ると、地下牢の鍵を開け格子の外に出た。
 しかしタロウは基地からの脱出を図ることをしなかった。マリアに言われたのとは逆方向に基地内部を探索し、エルフの軍人を発見するとたちまち襲い掛かった。
「貴様捕虜の人間だな! どうやって牢を出た!」
 エルフは魔法を放とうとしたが詠唱速度はタロウの方が遥かに早かった。タロウの放った風の刃に膝を大きく切り裂かれたエルフは、苦悶の表情を浮かべてその場に座り込んだ。
「おいおまえ。マリアさんがどこにいるか教えるのだ。でないとおまえの首と動体は泣き別れなのだ」
 訝しむエルフだったが、タロウが口元で次なる魔法の詠唱を開始したのを見て白状した。
「へ、ヘレナ様のお部屋にいる。捕虜を逃がそうとした疑いを掛けられ、呼び出されたところだ」
「へぇ。……じゃ、助けに行かないとダメなのだ。」
 タロウはエルフからヘレナの部屋の場所を聞き出した後、杖を奪って歩き始めた。杖なしでも魔法を使うこと自体に支障はなく、実際エスキナではそうして来たが、それは例えるなら箸を使わずに食事をするようなもので、勝手と心地が悪いものだった。
 ヘレナの部屋は一階の最奥にあった。道中で何人かのエルフに遭遇したが、その一人一人をタロウは打ち倒して行った。模擬戦以外で魔法使いと対峙するのは初めてだったが、しかしタロウの魔術は並外れており、雑兵では相手にならない程だった。
 たちまち部屋の前まで辿り着いたタロウは無遠慮に開け放った。
「おやおや。外が随分と騒がしいと思ったら、君の仕業だったのか」
 ヘレナは泰然とした表情でタロウを待ち受けていた。豪奢な椅子に腰かけ、手にした杖の先端をもう片方の手に絶えず叩き付けるその様子は、状況を面白がっているようだった。同時にその表情には一寸の油断も感じ取れず、タロウを見竦める蒼い瞳の揺るぎなさは、これまでに出会った敵味方含めた全ての軍人の中で一番だった。
 傍らにはマリアが立っていた。マリアはタロウが現れたのを認めると、嘆きと落胆の滲んだ表情で大きく肩を落とした。
「ああタロウさん。どうして来てしまったのですか」
 責めるかのような口調だったがそれも無理もなかった。危険を冒してまで逃がそうとしてやったタロウが、事態をややこしくしにやって来たのだ。軍人としてのマリアの地位は絶体絶命だった。
「マリアさん。迎えに来たのだ。おいらと共にこの基地から逃げるのだ」
「一人で逃げてと言ったはずです」
「嫌なのだ。おいらマリアさんがいないとダメなのだ。この基地の人間を皆殺しにしてでも絶対に連れて行くのだ」
「……愚かな人」
 マリアは天を仰いだ。頭に手を当てて首を横に振る様子からは、心底タロウに呆れているのが伝わって来た。
 そのやり取りを見たヘレナは嗜虐的な笑みをマリアの方に向けた。
「語るに落ちたようだね、マリア。やはり君はこの捕虜を逃がそうとしていたんだ」
「申し訳ございませんヘレナ様」
「薄汚れた子犬を躾けてる内に情を移したといったところかな? 軍法会議に掛ければ不名誉除隊は免れないだろうね。君は優秀な部下だったから残念でならない。だがそれよりも」
 ヘレナは立ち上がりタロウに向けて杖を掲げた。
「この愚かな捕虜を処分しなければ」
「待つのだ。おいら捕虜じゃないのだ。マリアさんに教育されたグロウズマウルのスパイなのだ。作戦が成功したら仲間にしてくれるって言ったのに、なんで約束を破るのだ?」
「まだそんなことを言っているのかい? 高貴なエルフたる我々が、君のような人間を仲間と認める訳がないだろう」
「でもおいら魔法を覚えたのだ。強いのだ。何人もエルフを倒してこの部屋に来たのだ。きっとあんたらの役に立って見せるのだ」
「雑兵をいくら倒したところで威張られても困るんだよ。役に立つというのなら、私に手傷の一つでも負わせてみなよ。できるものならね。そうしたら、仲間に入れてやらないでもない」
「マリアさん、危ないからこっちに来てるのだっ!」
 言われたとおりにマリアはタロウの背後に回った。ヘレナはそれを咎めることもせず、微動だしないまま泰然とした余裕を見せ付け、タロウの出方を伺った。
 タロウは杖を掲げて渾身の詠唱を始めた。目には見えずとも大気中に確かに存在する精霊達が、タロウの呼びかけに答え集まって来るのが感じられた。今やタロウはその動きを自在に操ることが出来た。
 精霊達はタロウの魂を構成する魔力を貪り空中に火球を形成した。最初は拳程度だったそれは魔力を注ぎ込む度にみるみる内に巨大化し、やがて部屋の面積のおよそ半分を埋め尽くす程になった。未だ放たれていない火球の熱は室内の空気を陽炎のように歪めていた。
「おいらをグロウズマウルの魔導士にするのだっ。マリアさんをおいらに寄越すのだぁあああっ!」
 血走った目でタロウは叫んだ。それに呼応するようにして放たれた火球が、表情に余裕を浮かべるヘレナの全身に襲い掛かった。
 部屋中が燃え上がり大きな爆発音を響かせた。爆ぜるような熱風に晒された壁は粉々に吹き飛び、家具や調度品の類は燃え上がり消し炭になった。熱と炎による破壊は二つ隣の部屋にまで波及し基地の建物は大きく損壊した。
 吹き上がる煙の中でタロウは息を切らせて膝をついていた。全身全霊を掛けた最大の魔法はタロウを大きく消耗させていた。これほどの一撃を受ければ、どんな高位の術者も一たまりもないはずだった。
 それなのに。
「へぇ。これはなかなかどうして、ちょっとしたものだと言えそうだね」
 崩壊して外の平野の景色を覗かせる壁を背にして、ヘレナは立っていた。半透明の球形の結界がヘレナの全身を覆っている。あらゆる魔術による攻撃を遮断する最高位の結界魔法が、タロウの一撃を防御したらしかった。
 タロウは驚愕していた。流石に無傷とはいかず結界はあちこちひび割れて崩れかけており、部分的に破損した箇所から流れ込んだ熱と炎がヘレナのローブを微かに焦がしていた。
「少しばかり火傷したよ。手傷を与えたとは言える。お見事だったね。人間にしておくのは惜しいくらいだ」
「そ、そう思うのなら、約束通りおいらをグロウズマウルの仲間に入れ……」
「無理だ。軍人は誰との約束も守らない。君は初めから、そのことを知っておくべきだった」
 ヘレナが杖を鋭く振ると氷の槍が放たれてタロウを襲った。美しい程に透き通るそれはどんな彫刻品よりも鋭く尖り抜いており、タロウの扱うどの魔術より素早く己が身に到達した。
 大技を放って消耗していたタロウは回避は愚か碌に身動きすることも出来なかった。迎撃する手段もない。タロウは最早、ヘレナの放つ氷の槍に刺し貫かれるしかなかった。
「危ないタロウさん!」
 近くにいたマリアが叫んだ。そして反射的な動きで前に出てタロウの身体を突き飛ばす。
 鮮血のほとばしる音がする。
 床に倒れていたタロウにその血が降りかかった。思わず振り返ると胸を貫かれたマリアが血塗れで横たわっている。血に濡れた澄んだ氷の槍はマリアの胸を貫通し、杭のように床に突き立っていた。
「マリアさん! マリアさん、マリアさんっ」
 思わずにじり寄ろうとするタロウにヘレナは容赦なく氷の槍を放った。思わず身を翻して間一髪で回避すると、ヘレナの方を血走った目で睨んだ。
「ヘレナ……貴様ぁっ!」
「おやおや。今度はちゃんと避けたようだね」
 睨まれたヘレナの表情は涼し気であり、部下を手に掛けたことに対する痛痒など感じさせなかった。頬に笑みを浮かべたままさらに杖を振り、今度は二本の槍を同時にタロウに放った。
 それらを回避してからタロウは力の限り叫んだ。
「おいらを襲ってる場合じゃないのだ! この人に治癒魔法を撃たせるのだ!」
「どうしてそんなことをしなければならないのかな?」
「あんたの部下でもあるのだ! おいらはどうなっても良いから助けるのだ!」
「何の得もない。そいつは君という捕虜を逃がそうとした背徳者に過ぎない。進んで首を跳ねる程悪趣味ではないが、わざわざ手間を割いて回復する価値はどこにもないさ」
 次々と襲い掛かる氷の槍をタロウは素早い身のこなしで躱して行った。苦労の限りを尽くしたエスキナの肉体的な訓練が、タロウにそれを可能にさせていた。
「そいつを助けたいのなら私を倒して見せることだ。残された僅かな命が失われるまでの間にね」
 タロウはマリアの方を見た。完全に命が失われるまでは全力の治癒魔法でどうとでも蘇生できるが、死者の魂を蘇生する魔法はこの世のどこにも存在しておらず、胸を貫かれているマリアに残された猶予は幾ばくもなかった。
 彼女を助けるには無茶をするしかない。
「死なせてあげるよ。愚かなそいつと一緒にね」
 ヘレナは続け様に杖を振るって氷の槍と風の刃の波状攻撃を放った。限界を超えたスピードで詠唱すれば火球を使って氷の槍を打ち消すことは可能だったが、そうすると風の刃が身体を切り裂くはずだった。全力で避ければ両方を回避することも出来るが、その先にタロウの勝機があるとは思えなかった。
 タロウは口元で素早く詠唱し火球を放ちながら、体半分だけ身を反らし、ヘレナに向けて襲い掛かった。
 それは愚かな突進と言えた。目論見通り火球は氷の槍に衝突し蒸発させたが、しかし風の刃は容赦なくタロウに浴びせられる。
 タロウの左腕を風の刃が貫通する。ほくそ笑んだヘレナの頭上に、構わず突っ込んだタロウの杖が力強く振り下ろされた。
 ……ギリギリまで引き付けて躱す、なんて甘いことではヘレナは倒せない。仮に半身を切り落とされてでも、残る半身で相手を滅する覚悟こそが、この状況では求められていた。
 エスキナの軍事訓練で培われた棍棒術は、どんな屈強な大男でも一撃で昏倒させる威力を持っていた。頭に杖を叩き付けられたヘレナがその場で倒れ伏すのと同時に、切り裂かれたタロウの左腕が鮮血をまき散らしながらあたりに転がった。
「マリアさん!」
 気絶したヘレナにも切り離された左腕にも目もくれず、タロウはマリアの方に走り寄った。
 氷の杭で床に貼り付けにされたマリアは人形のように静謐だった。長いまつ毛を讃えた瞼は閉じられており、投げ出された細い手足はいつにも増して青白く、その全体が血液に塗れていた。
「今助けるのだ! 待っているのだ!」
 タロウは杖を掲げてマリアに治癒魔法をかけ続けた。しかしマリアの身体の傷はほんの僅かにも回復することなく、無慈悲にもその場に横たわり続けていた。
 本当は分かっていた。レオに刺されたタロウが蘇生した際は急所は避けていたが、あの時とは違いマリアを穿つ氷の槍は完全に心臓を破壊している。ヘレナとの戦いの中でマリアの命はみるみる失われ、今では完全に死亡して蘇生も不可能になっていた。
「マリアさん、マリアさん……。うわぁああああ!」
 最愛の人の亡骸を抱き締めたタロウの慟哭が、いつまでも鳴り響いていた。



 タロウはマリアの亡骸に縋りながら打ちひしがれていた。
 エスキナを裏切りグロウズマウルに裏切られたタロウにとって、マリアは最後の幸福であり、残された希望そのものだった。それを死なせてしまったタロウは、最早何も残されていないと言って良かった。
 切断されたタロウの左腕からは無尽蔵に血液が溢れ出している。このままでは自分も死ぬことは明らかだった。これをそのままにしてマリアと共にここで死ぬか、治療してここを出て放浪するか、最後までタロウは悩み続けた。
 血まみれのマリアの顔を覗き込む。
 死して尚彼女は世界で一番美しかった。タロウにはそう見えた。この美しい女性は自分を愛しても共に生きようとしてもくれなかったが、それでも最後の最後まで生かそうとしてくれた。小汚いエスキナの小鬼であり罪深いタロウを、自分の命を賭してまで。
 この人は単に優しかったのだろうとタロウは今では理解している。自国の為タロウをスパイに仕立て上げつつも、温かく豊かな心を持つあまりタロウに移った情を捨てきれず、逃がし生かそうとするあまり、最後には咄嗟の行動で心臓を貫かれ死んでいった。
 もしあの時、雪の平野で拾ったのが自分ではなく別の小鬼だったとしても、この人は同じことをしたに違いない。タロウはそう確信した。それはある意味でとても残酷な想像だったが、マリアという人を考える時それは疑いの余地もないことに思えた。何の因果か軍人になり、スパイを育てる責務を負ったことが、彼女にとって最大の不幸だったのだ。
 タロウは自分の左腕に治癒魔法を掛けた。それでも腕を再生することはままならず、ただ傷口を塞ぐだけになったがそれで良かった。切り取られ転がった左手の甲にはエスキナ人であることを示す刻印が施されており、それを再び身に纏うのが許されないことを、タロウは理解していた。
 タロウは立ち上がる。マリアの亡骸に別れを告げて、よろめいた足取りで、自分で瓦礫にした壁の隙間から外に出た。
 あの人は自分の為に死んだのだ。自分の所為で死んだのではない。自分の為に、自らの意思で、望んでその身を捧げてくれたのだ。ならばこの命はマリアに与えられた命であり、この身体はマリアが命を捨てでも守ってくれた身体だった。
 生きようと思った。生きなければならないと思った。罪深い全身を引き摺って平野を歩き、放浪の生を送ろうと思った。きっとまともな幸福を掴むことは出来ないし、遠からず世にもみじめな最期を迎えることは分かっていた。それでもタロウは命ある限り生きようと思った。
 杖を突いてあてもなく平野をさ迷っていると、あたりが暗くなりつつあるのに気付く。
 タロウは天を仰いだ。深い曇天が今にも雨を降らそうとしている。湿り気を孕んだ風は冷ややかで、微かに雨粒を纏っているようだった。タロウは分厚い雲の向こう側に傾きつつある太陽を探そうとしたが、見付けることが出来ずに肩を落とした。
 やがて水滴が降り注ぎタロウの全身に打ち付けられる。
 暗い夜がそこまで迫っている。タロウは歩みを止めなかった。水滴に濡れた手で杖を握り直すと、ぼろ靴を泥濘に濡らしながら霧雨の中に消えて行った。
粘膜王女三世

2023年08月12日 21時56分25秒 公開
■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:暗い男。愚かな男。
◆作者コメント:数年ぶりにハイファンタジーを描きました。
 描き終えてみて、相変わらずこの手の剣と魔法の世界観のことは好きになれませんでしたが、それでもこの作品のことは好きになれた気がします。

2023年08月25日 19時16分59秒
+20点
Re: 2023年08月28日 03時12分34秒
2023年08月25日 06時22分28秒
+30点
Re: 2023年08月28日 03時04分16秒
2023年08月24日 19時24分35秒
+30点
Re: 2023年08月28日 02時59分02秒
2023年08月23日 20時13分31秒
+30点
Re: 2023年08月28日 02時33分38秒
2023年08月22日 10時49分06秒
+20点
Re: 2023年08月28日 02時29分06秒
2023年08月20日 22時53分49秒
Re: 2023年08月28日 02時13分00秒
2023年08月15日 14時30分25秒
+40点
Re: 2023年08月28日 02時11分16秒
合計 7人 170点

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