朽ちた廃墟のハーミット |
Rev.27 枚数: 100 枚( 39,970 文字) |
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※ちょっとエッチです。 審美眼の培われた大人と違い、俺達中学生にとって、人の容姿の優劣などは、半ばイメージや自己申告によって決まってしまう。 本人の精神的な気質やクラスでの立ち位置なども必要だが、容姿に気を使う素振りを見せつつ、自信満々にふるまい、追従を求め続ければ、実際の容姿を無視したイメージが出来上がるものなのだ。そしてイメージさえ作られてしまえば、アホな中学生は本気で騙されてしまうものなのである。 我が三年一組においては本郷とか辻岡となんかがそれに当たる。奴らはブスだ。 せいぜい十人並だ。とは言え魅力的に思われたいというのは健全な欲求だし、その欲求に基づいてあらゆる努力をするのもまた健全に違いない。そして努力をしたのなら、仮初にでも賞賛を受けるのも、やはり悪いことではないだろう。 だが本当の美人とは、そうした勘違いしたブスの影に隠れているものなのである。 授業中、俺は隣の席の山上のことをじっと見つめている。 綺麗だ。あまりにも綺麗な顔だ。 山上の顔はマネキン人形のように整っていて、引っかかるような特徴がどこにもない。目が人よりも大きいことと肌が白いことと顔が小さいことを除けば、鼻や口のサイズも普通くらいだし、髪型だって普通のセミロングだ。 本当に優れた容姿というのはあらゆるパーツに特徴のない、普通の顔のことを言う。 あるいは、そう見える。 人の顔の目につく特徴とは、言いかえれば短所のことである。故に本物の美人に相対した時、よほどまじまじと見ない限りはこれといった印象を残さないものだ。その為、審美眼を持たない中学生などには、その美しさに注意を払わないという嘆かわしい事態も起こりうる。 だが俺は山上の美しさを理解している。その大きな黒い瞳は宝石のように澄み渡り、瑞々しい唇は赤子のように柔らかそうで、肩の下までの黒髪は絹のように艶やかだ。背は高くも低くもなく、体もどちらかというと痩せているという程度。ただ第二次成長期の恩恵を受けてか、乳や尻などには女性らしいメリハリが効き始めているのが見える。 これほどの容姿を持つ山上の美しさを誰も噂しないのは、クラスメイト達の目がそれだけ腐っているのも一つの理由ではあるが、多くは彼女のクラスでの立ち位置にあるだろう。 何せ目立たない。朝登校して席に着いたら、用向き以外では立ち上がらず一言も発さず、休み時間は本を読んで過ごすようなタイプだ。友達はいなさそうで、グループ別けの時などは取り残されていつも困っている。私立進学校の我が校でも成績は抜群に良いようなのだが、かと言って孤高というのには程遠く、本郷(のクソ)なんぞには良く掃除当番などの雑用を押し付けられていた。押し出しが弱く、いつも損ばかりさせられている。 どうやらバカどもには、山上がどれほど尊い価値を持った人間なのかが分からないらしい。 だが俺は山上の美しさを知っている。俺は山上の美しさの一端を自分のキャンバスの中に表現しようと、放課後の美術部の時間を利用して彼女の人物画を描く作業を始める。 それが上手く行かない。 俺は油絵が得意で人物画など重ねれば天井に届く程描いて来た。そのいくつかのコンクールで賞を取ったりもした。しかし真に美しい存在を描き切るには技術不足であるらしかった。 俺は何度目か分からない書き直しの果てに、顔以外の個所を塗り終えた絵を前に途方に暮れていた。 「手が止まっているね」 背後から絵を覗き込み、そう言ったのは美術部の顧問の来栖(くるす)だった。 来栖は三十代の半ばから後半程の背の高い痩せた男だった。線の細い顔立ちで、やや三白眼気味の色素の薄い瞳に眼鏡をかけている。 「今回は完成しそうかい?」 「いえ、どうにも」 「そうかい。僕もどうしても満足するものが描けないモチーフの前に立ち止まることは多々あるから、青柳(あおやぎ)くんのつらさは良く分かるよ」 「そういう時、先生はどうしてるんですか?」 「僕かい? そうだなあ。自分の技量がまだそれに届かないと割り切って、一度離れて別の絵を描いてみたりもするんだが……」 「一度離れるって、それはどのくらいの期間?」 「……それはどうしても、年単位にならざるを得ないことが多いよね。腕前なんて、そのくらい時間をかけないと絶対に上がらないんだから」 来栖は困ったような顔をした。 「でも僕と青柳くんは違うからなあ。青柳くんは若いし才能もある。僕みたいな凡人と違って、ほんの何日かモチーフから離れていれば、何かきっかけを掴めることも……」 「ないですよ」 控えめに言う来栖に、俺は首を横に振った。 「先生の言う通りです。腕前なんて劇的に変えるには何年も手を動かし続けるしかないんだ。モチーフから数日離れるだけで掴める『きっかけ』なんて、所詮錯覚みたいなもんで、甘ったれと妥協から来るクリシェですよ」 「厳しいことを言うね」 「それに、先生は凡人じゃないですよ。先生の画集、見ました。すごく良かったです」 来栖は二十代の頃一度だけ売れた時期があって、その時に出した画集が残っていた。 絵にはどれも迫力があり、特に、二匹の悪魔に引き裂かれる少女の姿をしたぬいぐるみの絵は愁眉だった。動いている様子もなく無表情なのに、そのぬいぐるみは確かに生きているように見え、引き裂かれる姿は取り返しがつかないことのようで悲しかった。ぬいぐるみの中には綿の代わりに、無数の煙草が詰め込まれていて、あちらこちらに弾き飛んで宙を舞っていた。 「それはありがとう」 来栖は本当に嬉しそうだった。 「今はああいう絵は描かないんですか?」 俺が言うと、今度は来栖は胸を詰まらせたような表情を見せると、目を伏せて黙り込んだ。 「……すいません。でも、先生には本当に才能があると思いますよ」 来栖は力無く、生徒である俺を気遣ったように「ありがとう」と微笑みを浮かべると、他の生徒の絵を見る為にその場を去った。 俺は山上の絵に見切りを付けて帰り支度を始めた。 〇 翌日。 授業を終えて美術部に向かおうとしていると、隣から甲高い声が響いて来た。 本郷(ほんごう)だった。 「ねえ山上。あたし今日日直なんだけど、これから用事があるの。放課後の仕事やっといてくれない?」 そう言って山上に絡んでいる。山上は困ったような表情を浮かべつつも、本郷のニヤニヤとした嗜虐的な微笑みに屈するように、「いいですよ」とへどもどした笑みで答えた。 本郷(のクソ)は髪をうんこ色に染めた派手な容姿の女子だった。派手な容姿というのは優れた容姿というのではもちろんない。瑞々しいはずの十五歳の肌の上に粉臭いファンデーションを塗り固めるという暴挙を犯し、歪に盛り上げられた大量の睫毛は妖怪のようだ。 もともとの顔立ち自体は悪くはないにしても、周囲が美人と持て囃すのには胡乱なものを感じざるを得ない。こんな粉と粘液を塗りたくった顔面塗装女の何が良いんだ? おまけに髪はうんこ色だ。何より心が醜い。俺はこいつを内心で『クソ』と呼んでいた。 「おい待てよ本郷。おまえ、いつもいつもじゃないか」 俺はクソに抗議をした。 「は? 別にいつもじゃないし。つうか、おまえに『おまえ』とか言われる筋合いないんですけど? あたしは今日用事があるのよ」 「あんまり酷いと教師に言い付けるぞ? 前だって用事があるとか言っといて、普通にまっすぐ美術部に来てただろ。いい加減にしろよ」 本郷は眉間にしわを寄せて剣呑な顔をする。自分に理がないとなると怖い顔をして恫喝するのがこいつの常だ。俺はしっかりと腹をくくって、本郷が何事か吠えるのを待ち受けた。 「い、良いんです青柳さん。わたし、やるので」 そこで口を出したのは山上だった。おろおろとしたその様子は、目の前で争いが起こるのをただ恐れているのが伺えた。 「わたしは放課後暇ですから。大丈夫です」 「ほらこう言ってるでしょう?」 そう言ってニヤニヤと、勝ち誇った目をする本郷クソ。 「こっちはこっちで話し付いてんだから、横から臭い息で割り込まないで頂戴。キショいわよ」 俺が何も答えないでいると、本郷は鼻を一つ鳴らして教室から背を向けた。 残された山上は媚びるような笑みを俺の方に向けて、へどもどした声で言った。 「す、すいません。せっかく助け舟を出していただいたのに」 気まずそうな顔。どうもこいつは、自分が損をしても、その場をやり過ごせればそれで良いと思っている節がある。すぐに謝るのもそれが高じての習性だ。 「山上が謝ることじゃないだろ」 「でも嫌な思いをしたと思います」 「それも本郷の所為だろ」 俺は日直の仕事を手伝おうと、粉をはたく為に黒板消しを手に取った。 「あ、良いんです良いんです。これはわたしが引き受けた仕事ですから」 「そうか?」 「ええ。……青柳さんは美術部に行かれてください。有望なんですよね?」 有望なんて次元じゃなかったが、手伝うくらいなんでもなかった。しかしそう言われて無理に手出しするのも気が引ける。本当に一人でやりたいのかもしれない。こいつの性格を全部知っている訳じゃないが、いつも一人でいるのは自分から人を遠ざけているのもあるのだろう。 「分かった。じゃあな」 「ええ。あの、ありがとうございました」 この控えめな態度が美しい心から来るものかは分からない。もしかしたらただトロいだけなのかもしれない。だとしても俺はそれを好ましいものに感じていた。少なくとも、自分から積極的に人を傷つけたり、利用したりする態度とは正反対ではあるからだ。 教室を出て美術室にたどり着くと、そこには騒然とした様子があった。 俺の書きかけのキャンバスの前に人だかりが出来ていた。何事か察した俺は、自分でも意外な程落ち付いた、しかし冷ややかな気持ちでそれに近付いた。 「どうした?」 「……青柳くん。すまない」 そう言って頭を下げたのは、顧問教師の来栖だった。 「良く分かりませんが、たぶん先生が謝ることじゃないと思います」 「いや。僕の所為だ。僕が目を離したから……」 来栖の脇を抜けて、俺は自分の絵の前に歩み寄る。山上の姿を描いた人物画だった。 手を付けていなかった山上の顔に、マーカーで『へのへのもへじ』が描き込まれていた。 「僕がこの部屋の鍵を開けた時は何ともなかったんだ。気が付いたらこうなっていた。多分、誰かが隙を見て悪戯をしたんだな」 俺が本郷の方を見ると、奴は自分のしたことを隠しもしない様子で嘲りの笑みを浮かべていた。そしてこれみせよがしに「おっと」とポケットからマーカーを落として見せる。 「あらごめんなさい。でも、これはたまたま持ってただけ。あたしがやったんじゃないわよ」 俺は無視して自分のキャンバスから背を向けた。来栖がそれを追いかける。 「青柳くん。待って……」 「別に良いですよ犯人捜しとか。後、さっきも言いましたけど、先生は何も悪くありません」 俺は美術室から出た。 〇 学校から出るために一人で中庭を歩いていると、わざわざ追いかけてきたのだろう本郷が、背後から声をかけて来た。 「良かったわね上手に仕上げてくれて。誰だかは知らないけど、感謝しときなさいよ」 返事をする義理もその価値もない。俺は黙って歩き去ろうとする。 「ちょっと何とか言いなさいよ! 言い返す度胸も怒る勇気もない訳?」 それからも本郷は何かと悪態をつき続けていたが、俺は答えなかった。客観的にこれが敗走に見えるというならそうだろう。しかしそれでも俺は相手にする気になれないのだ。 「……あんたのそういうところが嫌いなのよ」 本郷は歯を噛み締めるようにしてそんなことを言い始めた。 「なんで? なんで大事な絵を傷付けられてそんなどうでも良さそうな態度取れるの? ……あたしのすることなんて眼中にないみたいに出来るの? そういうとこ本当にムカ付く。どうしてそんな奴が来栖先生にも認められて、コンクールでも毎回のように賞が取れるのか、マジで意味が分かんない」 「……別にあんなの大事な絵でもなんでもねぇよ」 俺は立ち止まらずに口にする。 「あんなの美術部にいる間の暇つぶしに描いてただけだよ。仕上げるつもりもなかったし、どうでも良い絵なんだ。描き直そうと思えばすぐだけど、別にそんな価値もないしな」 別に強がりではない。暇つぶしに描いていたというのは流石に嘘だが、仕上げる気がないのも価値がないのも本当だ。 あれは失敗作だからだ。 来栖が暗に諭した通りだった。俺には山上というモチーフを描く能力がまだ備わっていない。俺はあの絵から離れるべきだったのだ。 「ねぇ。ちょっと……。あたし、かなり一線超えたことしたよね? 絶対やっちゃいけないこと、やったよね?」 本郷は目を赤くしてさえいる。唇を震わせて、俺の態度が忌々しくてたまらないとばかりに睨んでいる。 「あんなトロい女にちょっと絡んだくらいで突っかかって来る癖に、なんであんなことをされてあたしに怒りもしないの? あんたにとって絵って何なの?」 「何でもないよ」 俺は溜息を吐いて振り返った。 「絵なんて別に得意だからやってるだけだ。将来の飯のタネになるくらいには考えてるけど、落書きされてキレるようなもんじゃない」 本心だった。 俺の両親はともに世界的な芸術家で、母親は自分で画商もやっている。 そしてどうやらその才能は俺にも遺伝しているらしく、幼い頃通わされた絵画教室でもずっと神童扱いだった。 父親からも直接手解きを受けた俺は腕前をメキメキと上達させ、世界的なコンクールでいくつかの賞を取る程だった。描いた絵の内の何枚かは母親のコネで競売にかけられては、一千万を超える値段で金持ちに買われていく。だから俺には、親が預かっている資産が数億程あった。 とどのつまり俺は天才だったが、しかしそれは絵を描くことが好きだからそうなった訳じゃない。絵画をやらされたのは半強制的なものだったし、続けたのも惰性だ。自分に才があるのなら、それを腐らせるのが何となく怖かっただけだ。学生の内に一度くらいスポーツをやってみたいとか、将来は映画を撮ってみたいだとか、絵の他にやりたいことは山のようにある。 「……だったらなんであんたは絵を描くのよ」 心底忌まわし気な表情で、本郷は言った。 俺は鼻でも鳴らしたいくらいの気持ちで答える。 「本当にやりたいことを出来ている人間なんて世の中一握りだろ? 自分がそうなれる確率は低い。だったら得意なことをやるまでさ。テキトウな絵を描けば何億も稼げて世間の人も喜んでくれるなら、そりゃあ、そうするよ」 「……その程度の気持ちなのね。そうやって斜に構えるのはあんたの勝手だけど、口に出すのがどういう意味を持つか分かってる? あたし達がどういう気持ちで絵を描いているか、あんた一度でも想像したことがあるの?」 ここまで来ると、俺は呆れる程の気持ちになって、本当に余計なことまで口にしている。 「知らん。どんな気持ちでいようと手を動かせば上手くなるし、動かさなきゃ下手なまんまだ。そうやって不平をこぼしてる暇があったら、帰って絵ぇ描けよ」 「うるさい! そんな正論聞きたくない!」 本郷は吠えた。吠えて、目に涙を浮かべながら俺の胸倉をつかもうとにじり寄って来た。 その時。 「やめろ本郷! みっともない真似をするな!」 張りのある低い声がした。 屈強な体格をした長身の男がそこにいた。クラスメイトで、級長も務めている佐々木だ。坊主頭の偉丈夫で、眉の太い鼻の高いその顔立ちは、山上程ではないが整っていた。 「で、でも佐々木くん。こいつがくだらないことを……」 「くだらないことをしたのは本郷だろ? おまえらの間に何があるのか知らないが、話を聞いていた限り今日の諍いは本郷が全面的に悪い。青柳に謝るんだ」 佐々木は鋭い視線を向けながら本郷に対し素晴らしい正論を言った。やはり顔の美しさには知性や品性が表れる、ような気がする。母親の影響で、俺にはルッキズムの気があった。 「ここで謝れないのなら、俺は本郷を少し軽蔑する」 相手が佐々木でなければ怒鳴りつけても良さそうな場面だが、本郷はそうしない。何故か。有名な話なので俺でも知っているが、本郷はどうやら佐々木に惚れているようなのだ。 「でも、だって……。佐々木くん、あのねっ」 「あのねじゃない。どうなんだ? どうするんだ本郷」 佐々木に低くそう言われると、本郷は顔を真っ赤にして拳を握りしめながら、俺の方を向いて絞り出すような声で言った。 「……ごめんなさい」 そして涙を流すのを隠すようにしながら、その場から背を向けて逃げるように走り去った。 「……本郷が悪かったな。青柳」 「いや」 俺は首を横に振った。 「いつから聞いてた?」 「割と最初から。あいつ、ここのところ結果が出なくなってイラついてるみたいなんだ」 「知ってるよ」 本郷は中一の時小さなコンクールの一番下の賞に引っ掛かったのをきっかけに、将来は美大に進むことを決めて絵を描き続けているようだった。顔と言動と品性こそクソな本郷だが、その努力と熱意だけは俺も理解していた。 だがその熱意も、最近ではひん曲がって俺に突っかかるようになったのだから困ったものだ。本郷クソ! 「最近のあいつがカリカリしてんのは分かる。去年の今頃くらいまでは、殊勝な態度で俺に絵を教わりに来たし、弱い者いじめもしなかった。髪もうんこ色じゃなけりゃ、顔も粉と粘液まみれじゃなかったしな」 「おまえその『うんこ色』とか『粉と粘液まみれ』ってのやめとけよ。女子に聞かれたら大事になるぞ?」 「……生物はありのままが一番キレイだ。人間だって例外じゃない」 「おまえの主義は自由だが、口に出して人を怒らせたらおまえが悪いぞ」 「……そうだな気を付ける。つうか、今日は野球部はないのか?」 「前の練習試合で勝ったから、一日オフがもらえたんだ。一緒に帰るか?」 「ああ」 俺と佐々木の家は近く、小学校時代から交流があった。しかし野球部のキャプテンである奴は忙しい体であり、俺も絵を描くのに時間を取られることもあり、こうして一緒に帰るのは数か月ぶりですらあった。 俺達はとりとめのない話をした。実のところ、特に共通の趣味もないので、その会話の内容は上滑りをしたものになる。 そこで俺は意見を聞きたくてというより間を埋める為に、こんなことを口にした。 「なあ佐々木。人はやりたいことと得意なこと、どっちをやるべきだと思う?」 佐々木は「ふむ」と真剣な表情を浮かべてこう答えた。 「どっちでも良いと思う。大切なのは、選んだ方でちゃんと頑張ることだ」 それは、まあ、そうなんだろうが。 「おれがどうしてるかって話をするなら、得意なことをしている。俺は小学校の頃からピッチャーをやるのが好きで、中学でもエースになるつもりでいた。それがおれのやりたいことだった。だが実際にはおれには投手の才能はなく、球のスピードでもコントロールでもおれより上の奴はいた。だからおれは監督の勧めもあって外野手に転向し、今では強肩強打の名センターとして地域に名を馳せている」 「それで良かったと思うのか?」 「ああ。四番を打たせてもらえているし、キャプテンマークも身に纏えた。好きなことに執着せず、自分の得意分野を探った成果だ。投手を諦めたことが悔しくない訳じゃないぞ? その悔しさを飲み込んだ上で、今得た結果に納得しているという意味なんだ」 「俺は野球をやりたかった」 俺は言う。 「小学生の頃、俺は絵画教室なんか行きたくなかったし、佐々木と一緒に少年野球チームに入りたかった。俺は野球はヘタクソだったけど、頑張ればきっと上手くなれると信じていた」 「だが許されなかった。それで、今はどうなんだ? 野球をやりたいと思うのか?」 佐々木は問う。 「学生のうちにスポーツの一つも経験したい気持ちはある。じっとキャンバスの前で座り込んでいたら嫌になる。俺だって若い間に、飛んだり跳ねたり、走ったりしてみたいんだ」 「結構しんどいぞ」 「それも含めて楽しみたい。しんどさをこらえて、それぞれの理想に向かって体を動かして、日々逞しくなっている奴らは心身ともにキレイだと思う。なあ、野球部に入るのに、高等部からでも遅くはないと思うか?」 画家として結果を出している今ならば、両親に多少のわがままは通るだろう。帰ってからちゃんと絵を描くのなら、放課後の時間くらい身体を動かして良いはずだ。 しかし佐々木は悩みこむように一瞬、黙り込むと、小首をかしげてからこう言った。 「おまえができると思うかどうかだな。だが、もしおまえに自信があるのだとしても、それは絵を描くことで得た成功体験がそう思わせているだけかもしれないな」 そこで佐々木はT字路の前でふと立ち止まり、体の向きを変えながら言った。 「ここまでだな」 「ああ。またな」 「おう」 手を振って立ち去っていく佐々木の逞しい背中を見る。服の上からでも分かる程筋骨隆々だ。 俺は絵は描き続けるだろう。しかし同時に、自分も佐々木のようになりたいという気持ちも、依然として俺の中にあった。 〇 自宅に帰る道すがら、黒猫の遺骸を見付けた。 明らかにそれが自然な死に方ではない証拠に、その腹は縦にパックリと切り裂かれて中の内臓が覗いていた。猫の『開き』と言った趣だ。 最近多いんだこういうのが。街のあちこちから動物の他殺体が発見されるのみならず、立て続けに三歳と八歳の子供が行方不明になっている。すべてが同一犯による犯行かどうかは不明だが、ある種の危険人物が一人以上、街にいるのは間違いない。 俺は猫の遺骸を凝視する。血と砂に汚れ今にもハエが集りそうなそれは美しかった。 当然のことだが、命というものは生きて動いている姿がもっとも美しい。 しかし絵画というのは物事の静止した一瞬を描写するものだ。遺骸というモチーフの方が、絵にするには案外向いているのかもしれない。 「描いてみるか」 俺は絵を然程愛してはいないが、しかしメシの種の為の練習を欠かすことはない。 だがここで描く訳にはいかない。俺は猫の遺骸の首根っこをつかんで持ち上げた。腹からはいくつかの内臓がまろび出るが、それらは地面にまで達することなくぶら下がった状態を維持した。 俺は遺骸を持って家の近所にある廃ホテルを目指した。 その廃ホテルは住宅街に普通に鎮座する、白く高い建物である。ペンキの剥げた古い壁はまさに心霊スポットの趣だ。俺は猫の遺骸を持ったまま、廃ホテルの内部に侵入した。 まだ昼間ということで、窓から差し込む光で内部は薄明るかった。 床には割れた窓ガラスや、洗面台のガラスの破片が散乱している。天井からは木片がこぼれ落ち内部の骨組みがむき出しになっていた。 ここに来るのは数年ぶりだ。昔は佐々木なんかと一緒に中を探検したこともあったのだが、そんな馬鹿な遊びはやがてしなくなるものだ。 つまり今俺は数年ぶりの馬鹿をやっている。そのことに自嘲しながら、幼少期のお気に入りの場所だった二階のエレベーター前のスペースに辿りついた。 俺は驚愕した。 山上がいたのだ。 全裸だった。 しかも股を突き出していた。若い陰毛の乗った白い股間を突き出しながら、両手を頭の後ろで組んでいる。朱の刺した頬で、大きな瞳をとろりと興奮させて、挑発的な形に唇を歪めている姿は信じられないくらいに煽情的だった。白い肢体は微かに汗ばんで輝き、香り立つようなセミロングの髪が肩のあたりに張り付いていた。 「すげぇ……っ」 その状況の不可解さを問う前に、俺は思わずそう漏らしていた。そして山上の姿ににじり寄り、手を触れる。 どう見ても柔らかい肌と肉を持っているはずのそれの感触は、冷たい廃ホテルの壁だった。 「なんて絵だ……」 それは壁に描かれたただの鉛筆画だった。しかしその完成度は凄まじかった。 絵というのは静止した一瞬を描いたもののはずだった。しかしその絵はそうではなかった。そこにいる山上は確かに今この瞬間まで動いていたし、そして次の瞬間には動き出し、声を発することさえするのだ。 真に生命を描き切った絵とは、そんな印象を人に抱かせることができるのだ! 自分が到達したことのない境地に、俺は確かに叩きのめされていた。 「誰が描いたんだこんな絵を……。誰が描けるんだ、こんな絵を!」 俺は言いながら猫の遺骸を放り出していた。こんなものはどうでも良かったからだ。陶酔したまま絵の前に立ち尽くしていると、自分の股間が膨らんでいるのに気が付いた。 この下半身を燃やすチリチリとした火のような感触。明らかにその絵は男を性的に挑発する目的で描かれていたし、俺がその魔力に掛けられるのはあまりにも自然な成り行きだ。 ズボンとパンツを下ろし、そそり立つ陰茎に手を触れる。そして我を忘れて手淫に耽っていた、その時。 「あのぉ」 声がした。 振り返る。山上がいた。 全裸だった。 陰茎を放り出した俺は二人の全裸の山上に挟まれていた。しかも声を掛けて来た方の全裸の山上は、壁に描かれた絵などでなく、実体を伴った本物の山上だった。 本物の山上は俺の陰茎に興味津々の視線を向けると、頬を限界まで赤らめながら、「ふひっ」と独特の笑い声を発して。 「あの。わたしの絵で興奮してくれたん、ですよね。うれしい……」 興奮しきった様子で笑う山上。その視線は俺の陰茎を向いて固定されている。 山上はその後も卑猥な感じの笑い声を続けた後で、「あ、ごめんなさいどうぞ続けてください」と呂律の回らない声で言った後、顔を覆って滑らかな背中と突き出た尻を俺の方に向けた。 「す、すごいすごいすごい。ふひひっ、わたしの絵で、男の人が、わたしの絵で……」 呆然とその場で沈黙していた俺は、ようやく我に返って陰茎をしまい込む。そして興奮した様子で口元を覆っている山上に接近し、その頭を容赦なくパチンと叩いた。 「あいたっ」 「どうぞ続けてられるかボケナスっ!」 シコっているところをクラスの女子に見られた! しかも気になってた子に! その状況に俺は思わず身もだえるような羞恥を感じ、それを誤魔化すように声を荒げた。 「ふざっけんなよおまえ! 何やってんだよ! 一体何なんだよこの絵はよ!」 「す、すいません声を掛けちゃってっ。恥ずかしいですよねっ。そうですよねっ。あの、だったらわたしいったん席を外すのでどうぞ続きを……」 「だから続けられる訳ないだろうがっ。つうか何なのおまえ? なんで裸なの?」 そう言うと、山上はようやく自分の裸を直に見られているのに気付いた様子で。 「きゃ、キャーっ!」 と普通に悲鳴を上げて己が体を両手で隠した。 「すいませんすいません。お目汚しでしたよねっ。こんな粗末なものをっ!」 粗末ではない。むしろ彫刻のように均整がとれていて鮮やかに美しかった。想像以上に胸や尻に肉が付いていたし、生白い肌にはシミ一つなく頬擦りしたくなるほど滑らかだった。 「それは良いからなんで裸なの? バカなの? アタマおかしいの?」 「バカじゃないですよぅ。ただわたしは、廃墟の中を全裸でうろついていると性的な興奮を覚えることに気付いたから、そうしていただけなんですぅっ!」 「変態じゃねぇか! バカじゃねぇか!」 「壁の絵でちんちんしごいてた人に悪口言われたぁっ。えーんっ」 そう言って傷ついた様子で涙を浮かべる山上。 まずい。清潔で大人しい俺の中の山上像が崩壊していく。 俺は頭を抱えながらこう尋ねた。 「なあ山上。おまえ、この絵自分で描いたのか?」 「グスグス……、え、ええ。そうです。わたしが描きました。……下手ですか?」 「下手な訳ないだろ! ふざけんな! 上手いよ無茶苦茶上手い。世界で一番上手い」 俺は思わず激しい声で怒鳴りつけた。 怯えた様子の山上。まずい、女子に怒鳴ってしまった。 「あ、ああすまん。ついカッとなって。上手だよ、無茶苦茶上手い。世界で一番上手い」 俺が本心からそう言うと、山上は「ぷっ」と噴き出してから。 「世界で一番って……ふひひっ。そんな訳ないじゃないですかあ。リップサービスもいい加減にしてくださいよぅこの包茎ちんちんっ。余った皮で空飛べますよねそれふひひひひっ!」 「殺すぞ」 「すいません」 俺が目のハイライトを消して睨むと涙目の山上は直立して謝った。 そして怒られたことを怖がって媚びるような上目遣いを向けて来る。何だろう、ちょっと俺、こいつのことが良く分からない……。 「ごめんなさい傷付いちゃいましたよね。ああでも大丈夫ですたかしもそんなもんですから。たかしってのはわたしの弟でですねほんとすごい皮カムリでもう先っちょの皮が筒みたいになってるんですけどそれが鳥のクチバシっぽく尖ってておっかしいんですよ今度見ますか?」 なんか言ってるがこんな奴が無名なはずがない。俺は興奮しつつ山上にこう尋ねた。 「なあ、おまえ、誰に付いて修行している? 個人か? 教室か? 贔屓されてる画商とかいんのか? これまで取ったコンクールの賞は? なんかあるだろ?」 「え? 何ですか急にまくし立てて。こわ……」 山上は困ったような表情で目を丸くした。うん。たぶんあんま性格良くないなこいつ。 「そんなのないし良く分かんないです。絵はずっと一人で描いてきましたし、人に見られたのも今日が初めてです」 それを聞いて、俺は「は?」と呆然とした。 「ちょっと待て。おまえ、それはどういう性質の悪い冗談……」 「本当にそうなんですよ?」 山上はきょとんとして小首をかしげる。 「こういう廃墟とか公衆トイレの壁の隅とか、すぐじゃないけどいつか誰かが見るかもしれない場所に、鉛筆画で裸の自分を描く趣味を、去年くらいから続けてるんです。もし男の人が見たら、ひょっとしたらその、わたしでオナニーしてくれるかもしれないって、そう妄想して」 そう言って、自分の言ったことに興奮したように、「ふひっ」と一つ笑みを漏らした。 どうやらただの変態だった。それもド級の。そのロックなリピドーがこいつに優れた自画像を描かせるのだから、芸術というのは奥が深い。 「でも実際にやってるところを見られたのは初めてです。ねぇ青柳さん。その……わたしってエッチでしたかねぇ?」 淫靡な瞳で俺を見上げる山上。頬を赤らめたその表情と、絡みつくような熱い視線に耐えられなくなった俺は、山上から目をそらして一言口にした。 「良いから服を着ろ。ずっと裸で、恥ずかしいんじゃないのか。この変態」 〇 服を着た山上と陰茎をしまった俺は連れ立って廃墟を出た。 俺が抱えたままの黒猫の遺骸を見て、山上が言った。 「そう言えば青柳さん。その猫ちゃんの死体はなんですか? 殺したんですか?」 率直な質問。喋る時は本当に素直に喋る奴だと思うが、疑問は当然だ。俺は答える。 「いや俺が殺したんじゃないよ。見付けた時はすでにこうなってて、じっくりスケッチしようと持って来ただけなんだ」 「えっなにこわっ。うわぁ……やっぱり芸術家の人ってアタマおかしいんだ……」 「おまえにだけは言われたくねぇわこのド変態がぁ!」 「わわっ、ご、ごめんなさいごめんなさいっ」 俺が声を荒げたのに怯えて縮こまる山上。こうした様子はいつもの気弱な山上の姿だ。 学校ではだいたい黙っていて事務的な受け答えしかしない山上だったが、こいつにとってそれは正しい処世術なのだと理解した。何言っても災いしか生まないんだから黙ってた方がずっとマシだ。そのことを、これまでの短くない学生生活でこいつは学習したんだろう。 まあ美術部での俺も正直似たようなものなんだけど。何言っても顰蹙買うもんだから、ほぼ顧問としか話さないもんなぁ。 「いいよ。怒鳴って悪かったな」 「は、はいごめんなさい。で、その猫ちゃんは?」 「テキトウに供養しとくよ。墓でも立てとく」 「そうですか」 山上は満足したように頷く。それからその完璧な造形の顔を微かに顰めて。 「でも何でこんな酷いことをする人がいるんでしょうね? 最近、ほとんど毎週のように見かけるじゃないですか。わたしもう可哀そうで可哀そうで……」 「そうだな。酷い奴もいるよな」 正直そこまで関心はないが、それを口に出すのは露悪であり偽悪だろう。俺はテキトウに合わせておいた。 「青柳さんのようなアタマのおかしな芸術家の人が絵の参考に殺してるんでしょうか?」 「ねえあなたちょっと失礼じゃない?」 「地獄変ですよ、地獄変! 殿様が地獄の絵を描かせる為に、画家の父親の前で娘を焼き殺す話! 燃え死ぬ娘を見た画家は完璧で恐ろしい地獄の絵を完成させ、その翌日に首を吊って死ぬんです! あー怖い! 芸術って怖い! 人を狂わせるんですねぇ!」 「俺はおまえが一番怖いよ……」 言いつつも、俺は山上の推察に一理あるものを感じていた。 立て続けに発見される猫の遺骸。その殺され方のバリエーションは豊富で、どこか猫の身体を使って遊んでいるかのようでもあった。アタマのおかしな奴にもそれなりに行動の理由があるのだとすれば、なるほど絵を描く為と考えれば辻褄が合う。 「となると行方不明になっている二人のお子さんも危ないですね。同一犯とは限りませんが、何をされているかとても心配になります」 「まあそこは警察に任せるしかないだろう。……ところで山上」 俺は山上の目をまっすぐ見詰めながら、できるだけ誠実さを込めてこう言った。 「もし良かったら……俺のために一枚絵を描いてくれないか?」 「え? はあ。絵ですか」 「そうだ。絵だ」 「さてはシコる気ですね!」 山上はくわと目を見開いて迫真の表情を浮かべる。でけぇんだよなあ、声がよお。 「良いですよ良いですよ! ふひひっ、なんだぁやっぱり好きなんじゃないですかぁふひひひっ。ふひひひひひっふひっふひひひひっ。ふーひっひっひっひっ」 ……キモいなぁ。 「いや別に裸の自画像じゃなくても良いんだけど……」 こいつの技量と才能は本物だ。俺自身学べることがたくさんあるし、父親や母親が見てどんな感想を持つかも聞いてみたかった。 「そんな遠慮しないでくださいよぅふひひひひひっ。青柳さんは生まれて初めて出会ったわたしの絵の理解者です。きっと最高の絵を仕上げて持ってきますねっ」 嬉しそうにニコニコとしている山上。癪ではあったが、実際に裸の自画像を持って来られると、正直シコってしまわない自信はなかった。 芸術家にはこちらから注文を付けるより、その時々のそいつに描ける一番のものを描かせるのが一番良い。こいつが裸の自画像しか描かないのなら、自由にやらせるのが礼儀だし、俺にとって一番良いことでもあるのだろう。断じてシコりたい訳ではない。 「じゃあ俺。そろそろ家に帰って絵の練習する時間だから」 「え? そんな時間があるんですか」 「ああ。時間決めて毎日やってる」 「そうですか。偉いですね」 「偉いか?」 「ええ。毎日手を動かして練習してるのは偉いです」 「普通だろ? とにかく、その。つまりお互いに」 「ええ秘密ですね。青柳さんはわたしの趣味を、わたしは青柳さんがシコってたことを」 「……まあそういうことだ。約束だぞ」 俺は山上から背を向ける。 山上は己の絵の鑑賞者を得たのが余程嬉しいのか、微笑みを浮かべながら、お互いの姿が小さくなっても控えめに手を振り続けていた。 その姿だけは、見た目通り、可愛い奴だとそう思えた。 〇 翌日の放課後。 俺がまっすぐ帰宅しようとしていると、廊下で来栖とすれ違った。 「青柳くん。今日はその、……美術部には来ないのかな?」 会釈して通り過ぎようとすると、来栖が控えめに声を掛けて来た。 「ええ。もう来ないと思います」 「そうか。すまない。あんなことがあったからしょうがないよね」 「昨日も言いましたけど、先生は何も悪くないですよ。だいたい絵は家でも描けますし、美術部は来栖先生が良かったから通ってただけで、俺にとってどうしても必要な場所って程じゃなかったですし」 そう言ってから、俺はふと思いついて来栖に問いかけた。 「ところで先生。山上の絵ってどう思います?」 来栖は我がクラスの美術も担当している。当然山上の絵を見たことはあるはずだ。 「どう思うも何も……素晴らしいだろう。写実性は天才的だし、何よりモチーフの魅力を引き出す観察力が卓越している」 「先生ならそれが分かると思ってましたよ。でもじゃあなんであんな奴を放っておいてるんですか? あいつの絵を見出せるとしたら、先生でしょうに」 「おいおい青柳くん。僕が彼女を美術部に勧誘しなかったとでもお思いかい? だが本人がまったく美術に興味がないというので……もったいないことだ」 嘆くかのような来栖。 あれほどの絵を描けるにも関わらず、それを廃墟の壁にしかぶつけない山上。自分の能力を誰にも知らせようとしない山上。自分の内側にしか自分に情動を発揮できない山上。バカな山上。 そのことを思うと、俺は苛立ちすら覚え始めている。 人は自分の得意なことをやるべきだ。得意なことで成功するべきなのだ。それが本人にとっても世の中にとっても一番のプラスになる。それは責任であり、ある程度の努力義務ですらあるだろう。そう思うから、俺は好きでもない絵画の能力を磨き続けて来たのだ。 それなのに。 「じゃあ。僕はそろそろ美術部に行くから。気持ちが変わったら、いつでも戻っておいて」 来栖は身を翻して俺のもとから去って行った。 それを見送った後、俺が帰宅するために身を翻すと、そこには山上の姿があった。 「うおっ」 結構な至近距離にいた。身を翻すと鼻がかすりそうな位置に山上の異様な程整った顔がある。思わず距離を取った俺に、山上は悲しそうな表情を浮かべて。 「わ、わたしに触れるのそんなに嫌ですかね……?」 「いやまあ近過ぎたから……」 黙ってる時のこいつって物静かで存在感ないんだよな。来栖も気付かなかったようだし。 「つかどうしたの? なんでそんなとこに立ってるの?」 「いえその。……青柳さんが気になって」 「ああ、来栖先生とおまえの話をしてたから……」 「それもあるんですけど……。今日はなんだか青柳さん自身が気になって。話したくて」 その綺麗な顔で気を持たせるようなことを言わないで欲しい。変態なのが発覚して尚、未だに俺は、容姿(だけ)は良いこいつという女子に惹かれているのだ。 「なら、教室にいる時普通に声かけてくりゃ良いじゃないか。席近いんだし」 「それがその。わたしみたいなのが教室で話しかけたら迷惑かなと思ってしまって」 自意識過剰かよ。しかしそういう俺も実は似たようなもんだった。教室にいる間、何度かこいつに絵の話なんかを振ろうと思ったが、一人で本を読み続けるこいつに何だか遠慮をしてしまっていた。黙って大人しくしている時のこいつは何というか神聖な雰囲気すらあって、声を掛けるのを躊躇させる犯しがたさがある。 しかし一度口を開くと……。 「それより青柳さん聞いてくださいよっ。実はわたし今朝からずっとおしっこ我慢してるんですよおしっこっ! なんか癖になるんですよねっ。ふとした弾みに股間が暴発しそうになるスリルがもうたまんないんです! 一度なんて朝から晩まで我慢できたことがあるんですよっ。すごくないですか? 青柳さんも一度やってみましょうよ楽しいですよ?」 「二度と話しかけるな」 「ひどぉい!」 目に涙を浮かべる山上。一生黙っててくれないかな、マジで。 思いつつも、俺は山上を伴って学校を出た。 「そういえば、頼んでいた絵はどうなんだ? 流石に着手はまだか?」 俺が問いかけると、山上は。 「いえ。もう描き始めてます。進捗、見に来ますか?」 「おお良いな。どこで描いてるんだ?」 「例の廃墟です。あの後家から画用紙持って来て作業しました。あんな絵を家で描いてたらお母さんに何思われるか分かりませんからねぇ」 あそこは山上のアトリエらしい。不法侵入だし危険でもあると思うのだが、それを指摘してやるほど思いやり深い男では俺はない。 それっきり俺達の会話が続かず沈黙が訪れた。それを気まずいと感じる性質ではなかったが、しかし廃墟までは歩いて十数分の時間がある。単純に退屈だ。しかしこちらから振りたくなるような話題もない。というか、ここまでの感触からすると、こいつの方が自分から喋るのには向いている気がする。 そこで俺は山上にこう言った。 「なあおまえ。なんか面白い話しろよ」 「無茶ぶりだっ!」 山上は弱った顔で目を見開いた。 「大丈夫だろ? おまえ、如何にも距離感バグってて内弁慶だし。普段びくびくして無口だけど、一度気を許した相手には自分勝手にグイグイ行くじゃん? 話くらいできるだろ? しろよ。あ、つまんなかったらまつ毛引きちぎるからな」 「酷すぎるっ!」 山上は涙目になりながらも、「えーと、うーんと……」と話す内容を考える素振りを見せる。 「……あっ。じゃあそうですね。たかしの話でもしましょうか」 「たかしって弟だっけ」 「ええ小四です。可愛がってるんですよ」 そう言って山上は笑顔を浮かべた。 「で、この間そのたかしの部屋で漫画読んでたんですけど、なんかゴミ箱からものすごくくさいにおいがしてたんです。で、漁ってみたらなんかくしゃくしゃのティッシュの塊がいくつか、詰め込まれてたじゃないですか」 「なんか嫌な予感がするぞ」 「これなにってたかしに聞くんですけど、触んなとか言われて部屋を追い出されるじゃないですか。気になったわたしは後で、たかしがリビングでアイス食べてる隙を突いて部屋に侵入して、ティッシュの中身を開いてみたんです。そしたら……」 「もうやめろおまえ黙れ」 「白くてネバネバとしたものがですね! ティッシュの中にくるまれていてですね! どう見ても精子です本当にありがとうございました! 精通してんですよ! 精通してんですよたかし! 弱冠九歳にしてっ! ふひひひひっ! ねぇ、おっかしいでしょ!」 「おかしいのはおまえのアタマだよ……」 「大喜びしたわたしはリビングのたかしにそれを見せて、ねぇねぇたかしこれなぁにって聞いてみたんです。そしたらたかしなんて言ったと思います? それは特殊な鼻水だからってっ! 自分は花粉症が酷いとそういう鼻水が出るんだって! そう言うんですよふひひひひっ。そんな訳ないですよねっ。もう言い訳がおバカすぎてっ。ふひひっ、ふひひひひひっ!」 「おまえマジ一度怒られろ!」 たかしが可哀そうだ。本当に可哀そうだ。 「まあ、実際、その後怒り狂ったたかしに顔を思いっきり蹴られて青痣出来たんですけどね。かなり痛かったです。喧嘩したらそろそろ負けますね。しかもその後何故かわたしの方だけがお母さんにものすごく怒られたんだから、理不尽な話だと思いませんか?」 「当然なんだよなぁ……。つかそんなことしてたら嫌われてるだろ」 「別に嫌われてないですよ? 仲良しです。最近だと外では話しかけるなとか言われますけどね。ふひひっ、外でお姉ちゃんと話すの恥ずかしいなんて、年頃ですよねぇ」 「おまえがキモいだけだと思う」 「ひどいっ」 キモいと言われた山上はショックを受けた様子で目に涙を浮かべた。 「キ、キモいって言わないでくださいよぅっ。わたしその言葉にトラウマあるんですっ」 「いやだって……。おまえの場合、ちょっと本当にキモいっていうか。相手を傷付ける為の幼稚な悪口としてのキモいじゃなくて、心底の嫌悪感を表す語としてのキモいっていうか」 「そこまで言われたことはかつて稀ですっ。ちょっとは容赦してくださいよっ!」 そんな話をしていると、やがて俺達は廃ホテルへとたどり着いていた。 山上のアトリエがある二階のエレベーターホールに向かう。そこには画板にセットされた画用紙に、全裸の山上がデッサンされていた。両手を首の後ろに回して股を突き出したポーズ。 「おまえこのポーズ好きなの?」 「またまたぁ。好きなのは青柳さんの方じゃないですか? 前にわたしのこのポーズの絵でオナニーしてたの一生忘れないんですからねふひひひひひっ」 殴って良いかなぁ? そう言いながら山上は自身の制服を脱ぎ始めている。……自身の制服を脱ぎ始めている? 「おいおまえ何やってるんだよ!」 「ふぁっ」 怒鳴りつけると、既に下着姿になっていた山上は怯えた様子で俺の方を見た。 「な、何ですか……? わたしはただ、廃墟の中を全裸でうろつくと性的に興奮するから、そうしてるだけなんですけど……」 「それでも昨日はまだ俺に見られて恥ずかしがってくれたよな? あのなけなしの理性はどこに行ったんだよ!」 「ですが、青柳さんには既にもうすでに一回見られてますし……。何なら見られてる方が興奮するので、別に良いかなって……」 山上は下着を脱ぎ去って生まれたままの姿になると、「んん。んふぅっ」と妙な吐息を漏らしながらその場で股を開いて腰を屈めた。 「ちょっとそろそろ我慢できなくなって来たんで。ここで思いっきりおしっこしますね」 「やりたい放題だな君は……」 「だって全裸ですると本当に気持ち良いですし」 「そうか。じゃあちょっと他所に行っとくからさっさと済ませろよ」 相手にするのが疲れた俺は、山上との今後の付き合い方について一人深刻に苦悩するつもりで、その場から背を向けた。 「待ってくださいっ」 山上は俺の肩を掴んで強く引いた。 「なんで見ててくれないんですか!」 「なんでそんなにイカれてるんだよ……」 「だって見られた方が絶対気持ち良いですもん。わたしは青柳さんのお願いを聞いて絵を描いてるんですから、青柳さんだってわたしのお願いを一つ聞かないとずるくないです?」 極めて不本意ながら、俺は彼女の放尿を見守るという地獄を巡ることになった。 「んふぅ。んふっふぅううっ。ふひひひひっ、見られてる見られてる! ああ~気持ちぃ~!」 山上は半日中我慢していたという大量の尿をまき散らす。内心憧れていた女子が綺麗な顔を陶然とさせながら汚いものを股からぶちまけている。あまりの情景に俺の汗腺からは妙な汗が激しく噴き出した。……夢に見るなこれ。 心底心地良さそうに放尿を終えた山上は、カバンから取り出した清潔そうなタオルで自分の股を拭い始めた。そうか、女子は小便したら、股を拭かなきゃいかんのか。 せめて使い切りのなんかで拭いて欲しいところだが、今ないんだろう。そう思いながら呆然と山上を見詰めていると、彼女はきょとんとした様子で汗だくの俺を見る。 「どうしたんですか青柳さん。汗びっしょりで」 「おまえの所為なんだよなぁ……」 「拭いとかないと風邪引きますよ。はいタオル」 「やめろ! 山上の菌が付く!」 俺は山上の差し出したタオルから全力で距離を取り、悲鳴さえ上げそうになった。 「……今の傷付きましたよ? 小学生の頃ずっと『山上菌』とか言われて避けられてたトラウマが蘇ったんですけど」 「目に浮かぶんだよなぁ……。でも今のはおまえが悪いだろ。誰がおまえの股拭いたタオルで顔なんか拭くか!」 「これは別のタオルに決まってるでしょおっ。そのくらいの常識はありますよぅっ」 傷心した様子の山上。別のなら良いかと思い、俺はタオルを受け取って自分の汗を拭い始めた。 「あ。間違えました。それおまた拭いた奴でした」 俺は真っ青になって山上のタオルを激しく床に投げつけた。 「嘘です。わーいひっかかったひっかかったっ。ふひひひひひひっ」 そう言って大喜びで腹を抱え始める山上。俺はタオルを拾い上げ、鞭のようにしならせて山上の顔面に繰り返し何度も叩き付けた。 「ぎゃ、ぎゃんっ。暴力反対! 暴力反対!」 廃墟のアトリエで、山上の悲鳴がどこまでもこだましていた。 〇 その後山上が絵の続きを描くのをしばし眺めた後、俺は自分の絵を描く為に家に戻ることにした。 「今日はもう帰るわ。そろそろ絵の練習しないとだし」 「本当に頑張り屋さんですねぇ。毎日どのくらいやってるんですか?」 「家に帰ったら寝るまでだよ」 「え? すごいなぁ。ちょっと尊敬しちゃいます」 「そうかあ?」 「そうですよ。なら、わたしもちょっと頑張ることにします。もう少しここで作業しますね」 山上と別れ、俺は一人で帰途に着く。 俺の家はこの高級住宅街の中でも一際背の高い赤い屋根の高価な屋敷だ。俺は昔から物質的に豊かだったし、中学だって学費の高い私立に入れてもらっていた。 父親は望むだけ丁寧に絵を教えてくれるし、家には自分のアトリエがあって、画材やらも最高のものがいつでもいくらでも手に入る。これほど何不自由なくされているのだから、絵の勉強をするのは快適そのもので、好きではない代わりに苦労に感じたことは一度もない。確かに俺は持ちうる時間の多くを絵画に注いでいるが、それは尊敬されるようなことでも何もないのだ。 俺が家に近付くと、玄関の扉が開いて、中から見知った人物が現れた。 来栖だった。布に包まれた大きな四角形を脇に抱えている。たぶん、絵だろう。 「先生?」 目が合うなり、来栖は気まずそうな、そして儚げな微笑みを浮かべた。 「君のお母さんに、僕の絵を見てもらっていたんだ」 有名な画商である俺の母親には、多くの画家から絵の批評を依頼される立場だ。母親の大学の後輩でもある来栖はその中の一人で、時々会って絵を見て貰っているようだ。 「そうですか。それで……」 「ダメだった。大不評だったよ」 来栖は俺に何か言わせる前に先回りしてそう言った。 「昔は懇意にしてもらっていたんだけれど、最近じゃあまり相手にもされない。まあ、ヘタクソな絵しか描けない、僕が悪いんだけどね」 「でも売り物にならない程じゃないはずでしょう? 母さんは人当たりが良い癖に無慈悲だから、ぴしゃりと言われたら落ち込むのは分かります。でも、今の先生の絵だって、たぶん母さんが言う程悪い訳じゃ」 「二束三文でしか売れない絵を何枚描いたってしょうがない。分かっているだろう?」 俺は答えることが出来ない。その通りだったからだ。 「大丈夫。覚悟してきたから、そこまで落ち込んではしないんだ。また一から頑張れば良いのだからね」 「そうですね。先生だって、昔みたいな絵が描ければきっと……」 「それが出来れば苦労はしない」 そう口にした来栖の声は、普段よりもずっと低く感じられた。 「……すまない。でも、君もいつか分かるようになるよ。いや、ずっと分からないのかな? いずれにせよ、僕には関係のないことだ」 言い捨てて歩き去って行く来栖の姿を、俺は目で追うことが出来なかった。 〇 それから数日。 山上はじわじわと、俺の依頼した絵を仕上げていった。 その作業工程を、俺は毎日のように覗きに訪れた。放課後になれば連れ立って廃墟に向かい、彼女が絵を描いているのをじっと眺める。その手さばきから何か盗みたいという意図もあったが、山上が絵を描く姿は美しく、ただ見ているだけでも意味があった。 廃墟の外でも、俺と山上は交流を持ちながら、様々な話をした。 「えっ? 野球のピッチャーって、打つ人の味方じゃないんですか?」 ある日の帰り道だった。運動場の前を通る時、他校を招いての野球部の練習試合の光景を前に、山上はそんなことを言った。 「は? おまえそれどんなギャグだよ」 「いえ。ギャグじゃなくって……打つ人と投げる人って同じチームじゃないんですか?」 「んな訳ないだろ。なんでそんな勘違いしてるんだよ?」 「だってよく考えてみてくださいよ。投げる人が敵だったら、絶対に打てないような遠いところに投げたら、試合にならなくなりますよね?」 「ストライクゾーンって概念があるんだよ。ここからここまでの幅と高さに投げるって枠があって、そこから四回漏れたらペナルティなの」 「はぇ~。目からうろこが出るようです」 「つかおまえ、そんな認識で体育のソフトボールはどうしてたんだよ。味方ならもっと打ちやすいように、ゆっくり投げてくれるはずだとか、思わなかったのか?」 「それはその、いじわるされてると思ってました。時々そういうことされるので勘違いしてましたけど……そうですか。それは誤解だったんですねぇ」 「何で文句言わないんだよ? 言えば誤解は解けてただろうに」 「言えませんよぅ。黙ってたらやり過ごせるんなら黙ってますよ」 「なんだよそのスタンス。おまえ、日頃他人からどういう扱いを受けてるんだよ」 その時、気味の良い音が運動場に響いた。思わず視線を向けると、我が校の四番バッターでキャプテンでもある佐々木が、強烈なフルスイングで相手エースの球を高く打ち上げていた。 打ち上げられたボールはぐんぐん上昇して、眩い青空の中で数秒見えなくなったと思ったら、運動場のネットの限界近い高さの位置にぶつかった。 「ホームラン!」 グラウンドルールに基づき、ホームランが宣告された。「よっしゃっ!」俺は握り締めた拳を突き上げて、友人の放つ特大のホームランに歓喜の表情を浮かべる。 ベースを回る時、佐々木は俺が見ているのに気づいて小さくサムズアップをした。憧れの友人の晴れの姿に、俺の全身は興奮に震えている。自分もこうなりたいと、心の底からそう思った。 「青柳さん青柳さん。ホームランって何点ですか?」 山上は相変わらず馬鹿を言っていたが、我が校の得点を称えるのに夢中の俺は無視をした。 その後も「ねぇ、ねぇ青柳さん何点ですか。ねぇ、ねぇ」としつこく袖を引っ張って来る山上にキレて泣かせかけたりしていると、やがて味方の攻撃が終わり、佐々木ではない背番号1の選手がマウンドに登る。ホームランを打った佐々木は帽子を取って声援に応えつつ、センターの守備に就いた。 「そろそろ行くか」 ちょうど佐々木の打順だったのでそこだけ見ていくつもりだったが、結構しっかり観戦してしまった。山上は「はい」と素直に答えて、俺の隣を付いて来た。 「なあ山上。おまえは、人間はやりたいことと得意なこと、どちらをやるべきだと思うか?」 気が付くと俺はそんな空虚な質問をしている。山上は小首をかしげながら。 「はあ。もしかして青柳さん、野球がやりたいんですか?」 「あ? なんでそう思うんだよ」 「そんなの見てたら分かりますよ。たかしがテレビで野球見てる時と一緒の顔なんですもん。あれはきっと今年中にも少年野球チームに入りますね」 「別に俺が何を好きだろうとどうでも良いだろ。で、どっちなんだよ?」 「やりたいことか得意なことかですか? 別にどっちもないので分かりません」 「んなことないだろ。おまえ、絵は得意じゃないか」 「人よりは得意かもしれません。でも、美術部に入るとかはしません」 「なんでだよ?」 「わたしの絵を人に見せられる訳ないでしょう? 同じ変態である青柳さんならともかく!」 こいつ変態である自覚あったのか。……という小さな安心はともかく。 「おまえ俺を変態呼ばわりしたな、こら」 「い、痛い痛いギブギブっ! アタマをぐりぐりしないでくださいっ!」 握った拳を額にぐりぐり押し付けるという制裁を終えると、山上は目に涙を浮かべて上目使いになった。 「うぅう。この人、将来奥さんにDVとかするタイプだ……」 「しねぇよ。で? やりたいことも得意なこともないなら、おまえはじゃあどうする訳?」 「たくさん勉強をして良い大学に入り、良い企業に入るのです。ふひひっ」 そう言って山上は気持ち胸を張った。それが何より優れた考えであるかのように。 俺は一つ深いため息をついた。 「なんかおまえらしいわ」 「そうですか? まあ、わたしは成績優秀ですし、堅実で賢明ですからねぇ。ふひひひっ」 「……ちげぇよ。そんなのそれだけなら別に何でもない。まあ中三って年齢考えたら、本来それで何の問題もないんだと思う。でもおまえの場合、いわゆる堅実な人生、絶対向いてないと思うんだよな」 「え? そうですかね?」 「ああ。だっておまえ、就職全般向いてないっていうか、社会不適合者だもん」 「悪口だっ!」 「いや割とガチで言ってる。良いか? 人は自分の一番得意なことをやるのが、そいつにとっても世の中にとっても一番収まりが良いんだ。やりたいことがないのなら猶更だ。おまえは画家になるべきなんだよ、山上」 俺が結構真剣な気持ちでそう言ってやると、山上は俺の言葉を吟味するでも受け流すでもなく、ただ戯言を跳ねのけるかのような態度で。 「またまた画家なんて。そんなのは青柳さんのようなごく限られた人にしかなれない、特殊な職業でしょう? わたしには無理ですよぅ」 「おまえはその一握りの中の一握りなんだよ! 分かれよ山上!」 「一握り一握りって……。そんな訳ないじゃないですか。握るのは自分のお稲荷さんだけにしてくださいよぅふひひひひっ」 そう言って、いつものようにおよそ救いようのない下ネタを飛ばし、笑う山上。 俺は頭を抱えそうになる。どうしてこいつは自分の才能に懐疑的なんだ? 他でもないこの俺がこれほど褒めてやっているのに、何も理解しないのは腹立たしい。 どうにかしてこいつに自分の絵の価値を分からせてやらねばならない。 俺は心にそう誓った。 「なあ山上。確か、絵はもう今日にでも完成するんだよな」 「え? ええ……もう後は最後の仕上げだけです」 「なら今日はおまえが仕上げるまで見てることにするわ」 「そうですか。なら、べちゃっとやっちゃいますね」 「べちゃっとって何だよちゃちゃっとやってくれ」 こいつのボケってなんでこんなにしょうもないんだろう。そんなことを思いながら、俺たちはいつもの廃ホテルへと侵入した。 〇 その日の夕暮れ、山上の絵は完成した。 時間をかけただけあり、それは素晴らしい出来栄えだった。 朽ち果てた廃墟のエレベーターホールの真ん中で、全裸の山上が股を突き出したポーズで煽情的な表情を浮かべている。両手を頭の後ろに回し、美麗な肉体を強調したそのポーズには、確かな自己顕示の喜びを感じさせる。しかし反面、荒れ果てた廃墟でたったの一人、虚空に向けて己の存在をアピールするその姿には、空虚さと、そして誰よりも深い底なしの孤独が感じられるようだった。 完成したその絵をまじまじと見詰めながら、俺は改めて身震いしていた。信じられない程の手間で細部まで書き込まれたその絵は、卓越した技術力のみならず、山上の抱える精神的な屈折までもが叩き込まれているかのようだった。確かにこの美しい少女はこうしているのがたまらなく嬉しいのだろう。しかし同時に、蠱惑的なその表情の裏で、自分自身にすら気付かない悲しみの涙を流してもいる。そしてその喜びも涙も、その美しく高貴な姿ごと、誰にも気付かれずただ朽ちていくのだ。 誰かがこの少女の価値に気付かなければならない。 「どうですか? 青柳さん」 山上が無邪気な笑みを浮かべて問いかける。俺は生唾を飲み込んでこう答えた。 「……世界一の絵だ」 「え? またまたぁ世界一なんてそんな。たかしだってそんな子供みたいな言い方そうはしませんよ。青柳さんはいちいち大げさなんですよねぇ。ふひひひひひっ」 「黙れ!」 心底アタマに来た。 「こっちは本気で言ってるんだよ! 何で分かんねぇんだ、このバカっ!」 俺がこれまでで一番大きな怒鳴り声を発した。 山上は思わず竦み上がった様子で縮こまる。こいつがびくびくするのはいつものことだが、しかし今の山上は普段とは違い、心底の困惑と恐怖を表情に浮かべていた。 「え? あ、あの、ごめんなさい。な、何でそんなに冷たい目をするんですか……?」 「別に? おまえが分からないんなら、もうそれで良いよ」 「すいませ……あ、あの。なんでそんなに怒ってるんですか? わたしまた何か余計なこと言いましたか? 青柳さんって話しやすいからいつも口が滑るんです。その、ごめんなさ……」 「いいよ。とにかく、この絵は貰っていくぞ。描いてくれてありがとうな」 「は、はいこちらこそ。欲しがってくれて本当に嬉しいです。あの……」 俺が万一にも絵を破損しないよう丈夫な額に丁寧に保存していると、山上は恐る恐ると言った様子で声を掛けて来た。 「なんだよ?」 「あの……絵は出来上がりましたけど、わたし達、明日からも……」 「明日からも……何だ?」 「いえ……なんでもありません」 その時の山上がどんな表情を浮かべていたのかは分からない。 ただ、俺はその時山上の絵に夢中で、山上自身にてんで興味を持てなかった。可能な限り丁寧に絵を保管し、大事に抱えて背を向ける。 「青柳さん。あのっ、また明日」 そう言った山上に、俺は返事をしたのかしなかったのか。 気持ち足早に帰宅した俺は、カバンを部屋に置くのももどかしく、母親を探して廊下を歩いた。向こうから歩いて来た使用人に母さんはどこだと尋ねると、仕事の為外出中だと帰って来る。 それを聞いた俺は、普段なら絶対にやらないことだが、仕事中の母親に電話をかけた。 コール音一つで母親は素早く電話に出た。 「要件をどうぞ」 鈴を鳴らすような声。丁寧で柔らかだが、どこか人間味のない口調。俺の母親だ。 「……母さんの名を関したでかい賞が一つあったよな? 大賞の賞金が確か五千万の」 「ええ」 「あれに一つねじ込んで欲しい絵があるんだ。できないか?」 「……あれはもう募集が終わり、選考期間中です。さらに言うなら、その選考もすでに終了しており、あとは来月刊行される雑誌で受賞作を発表し、受賞者を呼んでパーティと賞金の授与を行うだけです。この段階で新たに絵を選考するなど前例がありません」 「そこを何とかねじ込めないか? 絶対に母さんに損はさせない」 「あなたの絵ですか? それなら……」 「いいや俺のじゃない。でも、必ず大賞を取る絵なんだ」 俺が言うと、母親は何も断らずただ一分程沈黙し、そして唐突に言った。 「なら絵の写真を送ってください」 そして電話が切られる。 絵を送った三秒後には、母親から折り返しが掛かって来る。 「……今すぐに部下にその絵を取りに行かせます。半時間ほどお待ちください」 そう言って再び電話が切られた。 母親のそんな態度にも、俺は今さら驚くことも呆れることもしない。ただ山上の絵を抱きしめながら、大きな期待と充実感だけに全身を震わせていた。 〇 それからの約一か月間、俺は山上とあまり口を利かなかった。 もはや言葉は不要に思えたのだ。山上の方は時折不器用に学校でも話しかけて来たが、俺はテキトウに生返事を返すに留まった。 そうしている内に席替えが行われ、俺と山上は隣の席ではなくなった。そうすると向こうも声を掛けるタイミングを失ったようで、何日も一言も口を利かないということも珍しくなくなった。 「あの。青柳さん、良かったら、その、次の絵を描きましょうか?」 ある日の放課後。山上が意を決した様子で俺を呼び止め、勇気を振り絞った表情で、媚びを孕んだ声でそんなことを訪ねて来た。 俺は薄笑いをして答えた。 「俺一人の為に絵を描こうって言うんなら、おまえはもうそんなことはしなくて良い」 「え? ……あの、どういう意味ですか?」 「今に分かるさ」 内心で腹を抱えて大笑いしながら、俺は山上から立ち去った。 俺が相手をしなくなると、山上は以前のように教室で誰とも口を利かない状況になった。そして時たま本郷のような女子に雑用を押し付けられたり、紙の礫を投げつけられたりしているようだ。その一つ一つを、山上は媚びるような笑みで曖昧に受け入れ、やり過ごしていった。 俺はそこに助け舟を出すことはしなかった。そんなことをしなくても、今に山上はバカどもを見返すことになるのだから。 そしてとうとう、その日はやって来た。 「あのっ」 朝、教室に入った俺に気付いた山上が、必死の形相でこちらに近付いて来た。 「あの青柳さん。実は昨日、わたしの家に変な電話が掛かって来たんです」 「お? 何だ? どんな電話だ?」 「いえその……わたしの絵が五千万円の公募で大賞を取ったって……。でもわたし、絵なんか送った覚えがないんです。何かの間違いだって言ったんですけど……。何か知らないですか?」 「知ってるさ」 俺は腹を抱えそうになるのを堪え切れなかった。 「俺が一番知ってる。もう誰にも、おまえの絵が世界一じゃないなんて言わせない」 目を見開いた山上が何事か口を開こうとした、その時。 「ねぇねぇ山上。これってあんたよね?」 甲高い声が覆いかぶさった。振り返る。本郷がいた。 本郷はその手に開かれた雑誌を持ち、山上に向けて掲げている。 『青柳憩賞・大賞受賞作』の文字の下に、ページ一杯に全裸の山上の絵が印刷されていた。山上が描いた全裸の自画像は、プリントされた状態でも悲しくも妖しい魅力を放ち続けている。 「××県在住:山上遥香(15)って……これあんたが描いたの? 変態じゃん!」 そう言って、本郷は嘲りの中に嫉妬に彩られた憎しみを滲ませて、攻撃的な表情で山上に笑いかけた。 「良かったわねぇ。これ、世界的な権威のある賞よ? 自分の裸を世界中に見て貰えて嬉しい? あたしだったらもう生きていけないわねぇ……。キャハハハ!」 本郷は世にも品性下劣な笑みを浮かべながら、その絵を回りの生徒達に見せて回る。 「見てよこれっ。変態の山上チャンが描いた全裸の自画像よ! おっぱいもまんこも丸出し! アタマおかしくない? おかしいよね? 変態だよね?」 生徒達は皆引きつった表情を浮かべるだけだ。それだけ本郷のその様子が痛々しいからだ。ただいじめっ子が山上の恥を吹聴しているというには、本郷のその姿はぎこちなく切羽詰まっていた。そうやって山上をバカにして貶めていないと、ただでさえクソのような自分の価値を、保てないとでも思っているのかもしれなかった。 世界的な賞を受賞した同じ歳の山上に、美大を目指す本郷は打ちひしがれているのだ。数年前に小さな公募の一番下の賞を受賞しただけの自分を、日頃見下していた山上が遥か遠くまで追い越して行ったのだから、そのショックは計り知れないに違いない。 周りに振り回され自分の努力に集中できず、成功者を攻撃する。みじめだった。 だがそんな本郷のみじめなさえずりなど、俺と山上にとってカミクズのように軽い。 コバエの羽音のような雑音を無視して、俺は顔面蒼白になっている山上に笑い掛けた。 「どうだ山上。これが俺のサプライズだ」 「青柳さん……」 「黙っていたのは悪かった。だが、これで分かっただろう。おまえの才能は世界一だ。この世の誰よりも、この俺よりも、おまえは優れた絵を描ける」 山上は眩暈を起こしたようにその場に膝をついて、近くの机に寄り掛かるようにしてその場に座り込んだ。 「なんでこんなことを……」 言いながら、山上は自分の顔を両手で覆う。 「……だからサプライズだよ。おまえに言ったって絶対に反対されるんだから、黙ってやって驚かせるしかないだろうが。だが良かっただろう? おまえは五千万円を手に入れて、世界的な画商である俺の母さんに才能を見出される。ここまで来たらおまえだって観念して、くだらん卑下は捨てて画家として大きな一歩を……」 山上は泣いていた。 それに気付いた俺は思わず絶句している。顔を覆った山上の両手から垂れ落ちる涙の雫が、教室の冷たい床に垂れ落ち続ける。山上の華奢な体は今にも消え入りそうに儚く震えていた。 「……いよぅ」 微かな声で、山上は何か言った。 「なんだよ?」 「……怖いよぅ」 そして、山上は頭を抱えて激しい声で嗚咽を漏らし始めた。 それは尋常ではない慟哭だった。これまでの静かな泣き方とは異なり、その絶望を全身全霊で表すかのように嘆き悲しんでいた。 誰も山上に近付くことはできず、誰も山上から目を離すことが出来なかった。本郷が間抜けな表情を浮かべて、山上に視線を固定させたまま硬直している。自分の顔は見えないが、俺も同じくらい間抜けな顔をしているのではないだろうか? やがて泣き声が止むと、山上は俯いたままふらりとその場を立ち上がった。そして鞄を拾うこともなく、俺の方に目をくれることもなく、足をもつらせながら逃げるような足取りで教室を飛び出して行った。 〇 それっきり、山上は学校に戻って来なかった。 俺は当惑していた。俺の行いによって、山上が驚くことこそあれ泣き出すなど予想していなかったからだ。驚愕と困惑の後、少しくらい怒ったりするかもしれないが、最後には自分の絵の価値が評価されたことに喜ぶに違いないと思っていた。 それなのに。 山上の狂乱の話を聞きつけた教師から何事か聞かれたが、何を答えたかも覚えていない。その日の授業にも身が入らないまま、俺はふらふらとした足取りで帰途についた。 帰り道の途中、見慣れた巨躯が背後から俺を追い越して、目の前に立ちはだかった。 「おい青柳。ちょっと来いよ」 佐々木だった。精悍な顔をした野球部のキャプテンは、表情を消して俺を見下ろしている。 「おまえ。野球をやりたがってただろ? だからおれが稽古をつけてやる。ノックだ」 「急になんだよ? どこでやるんだよ?」 「グラウンドの隅でやる。今日は顧問も来ない。良いチャンスだ」 「いや俺、帰って絵を描かないと……」 「こんな時まで絵か? 呆れたものだな。良いから来い」 そう言って有無を言わせず俺の肩を掴み、連行するようにしてグラウンドに引っ張り込まれた。 ノックが始まった。 グローブを持たされた俺の身体に、佐々木の放つ軟球が容赦なく襲い掛かる。俺はそれを取る為に、というより体を守る為にグローブを出すが、ほとんどのボールには触れることができずに身体のどこかにぶつかった。強い衝撃。 「どうした? そんなんで高校から野球ができると思っているのか? 歯を食いしばれ!」 歯を食いしばろうと無理なものは無理だった。佐々木の放つ軟球は距離・威力共に野球部が普段受けているノックと同様のものだそうだが、迫り来るボールは俺の目で追えない程速く、体にぶち当たる度に息が出来なくなるような痛みが全身を襲った。 「いいか青柳! おれ達はこれを毎日受けている! 全員がミスをせずにすべてのボールをキャッチできるまで、これは終わらないんだ!」 佐々木が怒鳴りつけて放ったボールが俺の肩にぶち当たる。俺はその場でうずくまり、動けなくなる。 「立たんか! なあ青柳。どんな分野でも、本気で取り組もうと思ったら、誰かと競おうと思ったら、こんなに苦しいんだ! つらいんだ! それは才能があろうがなかろうが関係ない! 軽々しい覚悟で足を踏み入れられるものじゃないんだよ!」 よろよろと立ち上がった俺の顔面に新たなボールが衝突する。火花が散るような感触。 「それを分かっていたから……山上さんは誰にも絵を見せなかったんじゃないのか? 本気で絵の世界に足を踏み入れようとせず、一人でひそやかに楽しんでいたんじゃないのか? それは賢明で、先人への敬意に満ちた、正しく美しい態度だ。おまえはそれを踏みにじった。おまえは間違ったことをしたんだよ!」 地面を一度バウンドしたボールが、グローブを出すこともできない俺の腹に突き刺さる。俺は胃液を吐き出しそうな程の衝撃を覚えて、その場で蹲った。 「いくら才能があるからって、本気の努力をするのは苦しい。人と競うのは苦しい。おまえだって絵を描き始めたばかりの頃は、嫌がって泣いてばかりいた頃があっただろう? おまえの最低なのはそれを忘れてしまったことだ。そんなんだから、高等部から絵との二束草鞋で野球をやりたいなんて気軽に言えるし、山上の絵を勝手に公募に出したりできるんだ。違うか?」 佐々木はノックの手を止めて、俺を見下ろしながら怒鳴り続けている。俺はその場で蹲りながら、どうにか顔だけを佐々木の方に向け、蚊の鳴くような声で言った。 「……やめるよ」 「何をだ?」 「……高等部から野球をやるのはやめる」 俺がそう言うと、佐々木はふっと表情から険しさを消した。そして普段の優しい物腰に戻って、俺に肩を貸して立ち上がらせた。 「分かってくれると思っていたよ。きついことをして、悪かったな」 「ああ……いいよ」 俯いたまま、力なく俺はそう言うしかなかった。 「大丈夫だよ青柳。誰だって間違えることはあるんだから。さあ手当をしてやる。こっちのベンチに来るんだ」 佐々木は献身的に俺の前身の擦り傷に消毒を施し、ガーゼやテーピングを施した。そしてよろよろと立ち上がった俺を送り出す時、肩をぽんと叩いて。 「おれにできることがあったら何でも言ってくれ。おれはおまえの味方だよ青柳」 と明るく言った。俺は呆然と頷いて、ふらふらとした足取りでグラウンドの外へ向かう。 校舎の影を通る時、様子を見守っていたらしい本郷が、目を真っ赤に腫らした状態で立っているのが見えた。どうやら先ほどまで泣いていたらしい。 「……なんだよ?」 問いかけると、本郷は俺の方に憐憫を込めた視線を向けた。 「……あたしも佐々木くんに叱られたのよ」 どういう叱られ方をしたのかは分からないが、こいつが打ちひしがれているのは伝わった。こいつは心底から佐々木に惚れている。それがどういう部分になのかは、良く知らないが。 「あんたは山上にムカついてたの?」 本郷に尋ねられ、俺は頷いた。 「そうかもしれん」 「そう。その感情を何百倍にもしたのが、あたしのあんたへの感情よ」 それを聞いて、俺は鼻を鳴らしてこう答えた。 「俺ごときにそんなことを感じてるようじゃダメだな」 「そうかもね。でも、絵を描くことはやめないわ」 それだけ言うと、本郷は俺から背を向けてその場を立ち去った。 〇 痛む体を引きずりながら歩いていると、やがて日は傾き掛けて来た。 家で絵の練習をする時間が迫っていた。俺は近道をする為に、普段は通らない路地裏に足を向ける。 するとそこで、見知った顔が座り込んでいるのが見えた。来栖だ。 「……先生?」 距離があるので何をしているのかは良く見えない。来栖は驚いた様子で俺の方に視線をやると、何かを持っていた右手をするりとカバンの中へやってから立ち上がった。 「君か」 「ええ。何をしているんですか?」 「これを見てくれ」 歩み寄った俺に、来栖が自分の足元を指し示す。猫の遺骸が落ちていた。 前脚の一つを何者かに切り取られた猫の遺骸である。しかもその切り取られ方が尋常ではなく、足先から根本までを数センチごとに寸刻みにされている。猫の遺骸の周囲には、そうして輪切りのようにされた腕の破片が血溜まりの中に沈んでいた。 俺が絶句して何も言えないでいると、来栖は沈痛な表情で振り絞るように言った。 「……酷いことをする人がいるよね」 その言葉を聞いて、俺はかすかな安堵を心に浮かべながら答えた。 「そうですね」 見付かった遺骸はもう何体目になるだろうか? さらに言えば、三歳と八歳の子供に続いて、新たに十二歳の少年が、先週行方不明になったそうだ。酷い治安状態。山上が廃墟に入り浸るのもいい加減危険かもしれない。 「ところで青柳くん。あの絵は本当に山上さんが描いたものなのかな?」 来栖にそう尋ねられ、俺は胸の痛みを覚えながらも小さく頷いた。 「見たんですか?」 「毎月欠かさず購読している雑誌だからね。それで気付いたんだが、あの絵の舞台になっている廃墟って、近所の××ホテルだろう?」 来栖は見て来たように言う。この人もあの中に入ったことがあるのだろうか? あるのだろう。あそこはなかなかに美しく印象的な廃墟だから、不法侵入を犯してでも中を見てみたくなるのは理解ができる。 「まあ、そうですけど」 「彼女、しょっちゅうあそこに入り込んでいるのかい?」 「それは、その……」 口籠った俺に、来栖はたわいもないものを見るような微笑を浮かべた。 「別に彼女に注意するつもりじゃないさ。美術教師なんて世間体と収入の為にやっているだけだ。そんなことでいちいちうるさくして、僕に何の利益があるっていうんだ?」 「それはまあ、そうなんでしょうけど」 「それで、どうなんだい? 良く入り込むのかい?」 来栖のことを信頼していた俺は、特に相手の意図を考えることなく、さらりと答えた。 「入ってるみたいですね。最近はどうだか知りませんが、あの絵を描いている間は毎日でした。実はあそこ、あいつのアトリエなんですよ」 「そうなのか」 「まあでも最近は治安も悪いですしね。俺に言えたことじゃないですけど、たぶん、やめさせた方が良いんでしょう。先生からも言っといてくださいよ」 「そうだね。それじゃあ、またね。美術部にはいつでも戻ってきて良いからね」 「はい。……ありがとうございます」 そう言って、俺は来栖と別れた。 〇 その後帰宅した俺は、一人アトリエで絵を描いていた。 必死で手を動かしていても、アタマの中に浮かぶのは山上の泣き顔だった。 自分の絵の唯一の理解者として信頼していた俺に裏切られ、彼女の姿は心を引き裂かれたかのようだった。無力にただ泣きじゃくり、文句の一つも言わず身を翻して逃げ出した小さな背中が、俺の網膜に焼き付いて離れなかった。 どうして俺はあんなバカなことをしたのだろうか? 自分がバカなことをしていると、俺は何故気付くことができなかったのだろうか? 嘆きながらも、自分の絵を描く手を止めることができない俺の耳朶を、スマートホンの着信音が揺さぶった。電話を取る。学校からだった。 「おい青柳。私だ。担任の……」 「要件はなんですか?」 「……山上が家に帰っていないそうなんだ。連絡もつかないそうで。なあ青柳、彼女と交流があったよな? 何か知らないか?」 時計を見る。時刻は既に九時を回っている。中学生が外にいるのは、すでに非行の範疇と言って良い。 山上は狂人だが、校則や親の言いつけの類を無暗に破ることはない性質だ。それが家に帰っていないとなると……俺は腹の底が冷えるような心地を味わった。 「おい青柳。聞いているのか? もしもし、もしもーしっ」 俺は電話を切って立ち上がると、普段ならまずありえないことに、描きかけの絵を放り出して家の外に出た。 廃墟に向かう。 〇 夜の廃墟は完全な暗黒だった。 懐中電灯の明かりを頼りに、足元に気を付けながら廃ホテルを進む。 誰かに誘拐されたなどの剣呑な事情を除き、山上がいるとしたらこの廃ホテルしかないと思った。ここは彼女の聖域だ。傷心した彼女が自分の殻に閉じこもるのに、ここを上回る場所など思い付かない。 二階のエレベーターにたどり着く寸前、廊下を歩く俺に耳に、反響して来るような声が届いた。 「だからぁっ! 暴れるなっつってんだよ! 大人しくしとけやこのクソガキ!」 あらゆる品性や理性を封じ込めたような、ヒステリックな恫喝。それは確かに知っている声であり、同時に聞いたことのない声でもあった。 「暴れずにじっとした方が楽に死ねるっつってんだろ! 叫んだって無駄だぞ? こんな廃墟誰も来ねぇんだからな! 大人しくしやがれ!」 そして身体を殴りつけるような鈍い音が響く。 「きゃあっ」 短い悲鳴。その声が山上のものであることに気付いて、俺は思わず前に出た。 信じられない光景がそこにはあった。 顔に痣を作り、制服を着た腕から出血した山上の上に、大きなナイフを持った来栖が覆いかぶさっていた。切り付けられでもしたのか? 床に置かれている大きなライトに照らされた来栖の顔は、普段以上に青白く、表情には壮絶な悪意が滲んでいた。 「山上っ!」 俺が叫んで来栖の方に走り寄る。はっきり言って無策だったが、しかしナイフを持った暴漢を前に、何かを考えている時間などあるはずもなかった。 来栖の判断は素早かった。抵抗する山上から手を離すと、すかさず俺の方を向いて鋭い踏み込みと共にナイフを突き出して来た。 すんでのところで避ける。そして、ナイフを持った右手の動きをよく見ながらカウンターを浴びせようとした俺の腹部に、来栖の左の拳が激しく突き刺さった。 すさまじい衝撃。俺は上下も分からなくなりながらその場を吹き飛び、床を転げてあっけなく伸びた。 あまりの痛みに息ができない俺に、解放された山上が走り寄る。 「青柳さん青柳さんっ! 大丈夫ですか?」 バカかおまえ今の内に逃げろや……などと思っていると、ナイフを振りかざした来栖が突っ込んで来る。 ぎりぎりで身を起こした俺は、手にしていた懐中電灯を来栖に向けて振りぬいた。油断していた来栖の顔面を叩くことに成功する。 「ぐあっ」 短い悲鳴。来栖の眼鏡が砕けながら弾け飛んだ。 痛みと衝撃に顔を覆う来栖に、俺は追撃を浴びせようとして懐中電灯を振り上げた。しかし来栖は顔を覆ったまま大きく後ろに下がって距離をとると、体勢を立て直して俺の方を見た。 「青柳か……」 「来栖先生! 一体これはなんのつもりですか!」 「何のつもりも何も! そこの女を殺して絵の題材にしようとしてたんだよ! おまえ地獄変って知ってるか? 若い女がむごたらしく死んでいくのを目に焼き付ければ、画家は地獄の絵を描けるんだよ! あーひゃひゃひゃひゃっ!」 金切り声のような高笑いをする来栖。 「おまえが教えてくれたよなあ……。山上がしょっちゅうここに来てるって! こんな廃墟の中でなら何をしようとバレるこたぁねえ! 死体の処理にさえしくじらなきゃあ良い! そう思って早速見に来たら……最初でいきなりビンゴって訳だ!」 言いながら、じりじりと間合いを詰めるように、一歩ずつ近付く来栖。 どうする? 身を翻して逃げるか? しかし俺達は二人とも傷だらけでボロボロだ。碌に走れまい。背中を向ければどちらか一人は確実に後ろから刺される。 「近所の猫を殺してたのはあんたか? 子供を浚って行方不明にしてたのは、あんたか?」 「どっちもオレだよ! 最高の絵を描くには最高の題材がいるんだ! 分かるだろう? そうやってきっかけを掴まねぇと……オレはこのまま一生浮かびあがれねぇままなんだよ!」 来栖は俺に向けて大きく踏み込んで来る。俺は山上を後ろに突き飛ばしてからそれを躱し、そして叫んだ。 「山上! おまえ隙見て一人で逃げろ!」 「えっ。でもそんなことしたら青柳さんが……」 「バッカおまえ助けを呼んで来るんだよ! 早くしろ!」 自分で言いつつも、それは作戦として怪しいなと思っていた。来栖は俺達二人ともを逃がさないように立ち回っていたし、仮に山上一人を逃がせたとして、助けが来るまで俺が持ちこたえられるとは思えない。 あらかじめ警察を呼んでおくべきだったか? いや、そんな時間があったとは思えない。 「おいおい青柳くんよ! 絵しか描けねぇタロイモ野郎の癖に! オレからその女一人逃がせると思ってんのかよ! こう見えてこっちは空手二段だぞこらぁ!」 自信満々に吠える来栖。その言にたがわず、来栖は巧みな足裁きで回り込み俺達二人にこれ以上の反撃も逃走も許さなかった。ナイフを振り回す来栖に、俺達二人はあっけなく壁際に追い込まれてしまっている。 獲物を追い込んだ来栖は嗜虐心をたっぷりにじませた表情で、壁を背にした俺達に迫る。 「なんでこんなことをするんだ……。俺はあんたを信頼してたのに!」 俺は嘆くように言った。俺の知る物腰の柔らかな来栖は偽物だったのか? 「信頼だぁ……? ああそうだろうさ! おまえみたいな捻くれたガキ、ちょっと優しくしてやれば手懐けられることは分かっていたさ! 友達なんて一人もいねぇんだからなぁ! あーひゃひゃひゃっ!」 来栖の言葉に、こんな時でも確かに心が傷ついたのを感じつつも、俺は言い返す。 「確かにあんたはくすぶっていたよ! だとしても、それでも理想と向上心を失わないあんたを俺は好きだった! 何もかも満たされた環境にいる俺と違って、現実の中で画家としてもがいているあんたを、俺は尊敬していたんだ! それなのに!」 そう言った俺に、来栖はナイフを持って突っ込んで来る。俺は右手の動きを良く見てそれを躱そうとするが、しかし来栖は巧みにフェイントをかけた。ナイフを持った右手を出すと見せかけて、来栖は足元を薙ぎ払って俺を転ばせた。そして左手で胸倉を掴んで床に激しく押し倒す。 「ぐああっ!」 「何が現実だ! 分かったような口を聞くな! 今まで一度もリアルな苦しみなんて感じたこともねぇ癖に!」 来栖はナイフを捨てて両手で俺の首を締め上げる。血管の浮くような来栖の手の力は、深い憎しみが伝わるかのように無慈悲に強い。 「おまえには分からねぇだろうなあ? 教師っていうのがどれだけ割に合わねぇ過酷な環境か。それでも生きていく為にはそれをやるしかないみじめさが。薄給でなんとか維持していたアトリエも、好きでもないのに結婚させられた女に反対されて手放す羽目になった、このオレ様の気持ちがよお!」 来栖は俺の首を激しく締め上げ続ける。血走ったその瞳に浮かぶのは、駄々を捏ねる子供のような剥き出しの嘆きと悲しみ、そして怒りだった。 「忙しさの中、限られた時間で絵を描いても、自分の腕がなまっていくことの確認作業にしかならない不安が分かるか? それでも絵を描き続ける苦しみが分かるか? かつて輝いていたオレを知る人達から、次々と見放されていく絶望が、おまえなんかに分かってたまるかよ!」 分からなかった。分かるはずもなかった。そして分かるはずもない自分自身を、俺は激しく嘆いていた。 そうだ。俺は何でもない。何者でもない。自分のやりたいことはすべて諦め、ただ敷かれたレールの上を歩いて来た。何の苦労も知らずに、何の決断もせずに、恵まれた環境で惰性のまま絵を描き続けて来ただけだった。 佐々木は言った。どんな分野であれ、本気の努力をし、人と競うのは苦しいと。 その苦しみは人をこうまで狂わせるのだと、俺は目の前の殺人鬼の形相で思い知らされた。こいつには勝てないと俺は絶望した。確かに目の前の来栖は卑劣な暴漢だったが、同時に現実の中を必死に生きて存在を賭けて俺を殺しに来てもいる。対する俺は強くも賢くも優しくもないガラクタで、器用に絵具を塗り付ける手を持つだけの無力な子供だった。 「おまえを殺して、オレは人生最高の絵を描くんだ」 爛漫とした目で来栖は俺の首を締め上げ続ける。 「そしてあの人に……オレはもう一度認められるんだ! 誰にも邪魔はさせな……っ」 来栖の手から力が抜けた。 俺の顔面に真っ赤な血が降りかかる。来栖の血だった。 見れば、山上が拾い上げたナイフを来栖の右肩に突き刺している。そこから溢れ出した鮮血がしたたり落ちて、俺の顔面に垂れ落ちていた。 「ああああああっ! おいクソガキ! 肩はやめろ! 手が動かせなくなったらどうするんだよ! 腕がっ腕がっ……また腕が落ちるだろうがよおおお!」 怒り狂う来栖。鬼の形相で、山上の胸を拳で激しく打ち据える。華奢な身体は、それであっけなく床に転がった。 「てめぇも絵ぇ描くんなら分かるだろうが! 芸術はすべてに優先するんだろ! オレは絵が上手くなる為にこれをやってるんだ! てめぇみたいなクソガキにそれを邪魔する権利はどこにもねぇえ!」 「……違いますよ。そんなことをしても、あなたの絵はちっとも上手くなりません」 咆哮を上げる来栖に、山上はどうにか身を起こしながら、静かな声を発した。 「絵が上手くなろうと思ったら、絵の前で手を動かし続けるしかありません。人を殺せば絵が上手くなると思うのならば、それは真っ当に腕を磨くのを諦めたあなたの、妄想以前のただの甘ったれなんですよ」 透き通るようなその声は、その場にいる俺と来栖のハラワタを確かに貫くようだった。 山上は正しいことを言っていた。誰もが知っている程、誰にでも言える程、それは当たり前で正しいことだった。俺ですら過去に似たようなことを放言したことがあった。だがそれを今この時この極限の状況で、ナイフを手にして怒り狂う来栖にぶつけて見せたことに、俺は震え上がるような戦慄を覚えていた。 「面白い題材を手に入れれば、一時的には面白い絵が描けるかもしれません。でもそれだけです。根本的な腕前を磨かなければ何の意味もない。そんなことはやめて、あなたは自分を信じて手を動かすべきなんですよ。……青柳さんがやっているように。あなたがかつてやっていたように」 「黙れ黙れっ! 何を今更! それに青柳はオレ達とは違う!」 激しく首を横に振る来栖。 「そいつは言ったそうだな? 人は好きなことと得意なことのどっちをやるべきかだと! 答えてやる。好きなことだろうが! どれだけ挫折してもどんな運命を前にしても、何に手を染めても好きなことを貫くのが全てだろうがぁっ!」 来栖は廃墟の天井に、或いはこれまでの己の人生全てに咆哮した。 「そんなことも分からない癖に! 親や周りにやらされるままに描いてるそいつは、芸術家でも何でもない単なるクズだ! 違うか?」 「違います。どんな姿勢で、どんな動機で絵を描こうとも、手を動かした時間の価値は同じなんです。努力を続けるならそれは偉いんです。わたしは尊敬します。青柳さんは横柄だしすぐ怒鳴るし性格なんて最悪ですが、それでも世界中の誰よりも頑張っているんですよ!」 山上は俺の方を一瞥する。 「だからわたしは青柳さんが大好きなんです。そんな人がわたしの絵に価値を見出してくれたのは、本当にうれしいことだった。それですべてが報われたかのようにすら感じられた。それを、それを……誰にもバカにされたくありません!」 「黙れぇええっ!」 咆哮を上げ、殺すためというより黙らせる為に、来栖は山上に襲い掛かる。 だが来栖は冷静さを失っていた。俺に背中を見せたのだ。 傍に落ちていた懐中電灯を拾い上げ、俺は来栖に襲い掛かる。山上の胸倉を掴んだ来栖の後頭部を、俺は力一杯殴打した。 「がはっ!」 来栖の後頭部が裂けて、噴き出した鮮血が俺の全身を濡らす。 激しい音を立てて床へ倒れこむ来栖。その身体が起き上がることはなかった。 決着だった。 〇 エピローグ 〇 やがて俺が呼んだ救急車と警察がやって来て、来栖と俺達は病院へと運ばれた。 俺も山上も大したケガではなかった。来栖も目を覚まし治療を受けた後警察へ連行された。廃墟への常習的な不法侵入についてそれぞれの親と警察に注意された後、やがて数日を経て、来栖に襲われたことの事後処理のおおむねが大人達の手に回った頃。 俺に遅れること数日、山上がケガから復帰する日がやって来た。 朝学校へ向かう途中、俺は山上を迎えに行く為に、彼女の家に向かった。 するとその玄関に、意外な人物が立ち尽くしている。本郷だった。 「何よ、青柳。何しに来たのよ」 本郷は俺の方に気が付くと、眉をひそめてこちらに問いかけて来た。 「そっちこそなんだよ」 「雑誌に載った絵について吹聴したことを、山上に謝りに来たのよ」 「だったら早くそれをしろよ」 「……今にするわよ。ちょっと待って心の準備が」 もごもご言っている本郷を無視して、俺は山上の家のチャイムを鳴らした。 「ちょっ……バカっ」 十秒ほどの時間を経て、「はーい」と笑顔の山上が顔を出した。 「来てくれたんですね青柳さん。いやぁわたし友達と一緒に登校するなんて人生で初めてでしてね。昨日からもう楽しみで楽しみで……ってええぇっ」 ニコニコとした様子だった山上は本郷の顔を見て怯えたように身を竦ませた。そして俺の方に駆け寄って小声で「なんでいるんですか?」と袖を引っ張りながらささやいた。 「おまえに言いたいことがあるんだとさ」 俺が促すと、本郷はしばし顔を俯けつつ、上目遣いで山上をうかがった。 山上は緊張した面持ちで本郷の出方を待ち受けている。 数秒の沈黙の後、本郷はようやく口にした。 「ごめんね」 「ふぇ?」 「雑誌に載ったあんたの絵のこと。悪口言いながら色んな人に吹聴しちゃって。本当にごめんなさい」 そう言った本郷に、山上は「あ、ああ」と困ったような笑みを浮かべた後、媚びを孕んだ口調で言った。 「き、気にしてないです。あの、本当、大丈夫ですので……」 そう言ってちらりちらりと、緊張感の抜けない表情で本郷の顔を見詰める。そしてぺこりと頭を下げると、本郷を追い越して逃げるように歩き始めた。 「ちょ、ちょっと……」 謝罪が受け入れられたのか不安がるような表情で、本郷が追いすがろうとする。俺はそれを制するように、山上の隣に並んで声をかけた。 「あいつ、本気で反省してるようではあるけどな」 すると山上はきょとんとしたような表情を浮かべた。 「はあ。それは分かりますし、別に許してますよ?」 「だとしても、ちょっとは自分の気持ちとか話してやったら? あれじゃ向こうも消化不良だろ」 「大丈夫だと伝えたし、問題ないんじゃないですか? わたしあの人苦手なんで、ちゃんと話すの怖いんですよね」 そういう感じなのか。しかしそのコミュニケーション不良の所為で、本郷は今だドギマギした様子だった。せっかく勇気を出したのに相手が今だ自分に怯えた様子を見せているのでは、消化不良で不安に違いない。 自業自得とは言え本郷に同情した俺は、「見ろよ」と本郷の髪を指さして山上に耳打ちをした。 「なあ山上。あの色、なんかに似てないか?」 「……本郷さんの髪の毛がですか? さあ、良く分かんないですけど」 「うんこの色に見えないか?」 そう言ってやると、山上は思わずといった様子で「ふひっ?」と口元に手をやった。 「な、な? 完全にうんこ色に見えるよな?」 「ちょ、ちょっとやめてくださいよ青柳さんふひっ、ふひひひっ」 「良いから笑えよ。何に笑ってるかなんて向こうからは分からないんだから」 「いやいや笑えないですよふひひひひひっ! うんこ色って! うんこ色ってなんですか確かに茶色いですけどうんこ色ですけどっ! 完全にうんこ色なんですけどでもそんなのでいちいち笑う訳ないじゃないですかふひひひひひひっ。たかしでも言わないですよそんなくだらないことっ! ふひひひひひ本郷さんの髪はうんこ色っ。ふひひひっっ、ふひっ、ふひひひひひひぐぇえええっ!」 思った通り、近くに本人がいることを忘れて笑い声を大きくした山上の胸倉を、こめかみの血管を浮き上がらせた本郷がキリキリと掴み上げた。 「……だぁれの髪がうんこ色だってぇ?」 「ぐぇえええっ。ごめんなさいごめんなさい! これは青柳さんがっ! 青柳さんが言ったんです許して許してっ!」 目に涙を浮かべながら、全力で俺を指さして責任転嫁する山上。その山上から手を離した本郷は「死ねっ」と言いながら俺のアタマをかなりの勢いでひっぱたく。 「じゃあ先行くわね。あたし、あんたにも負けないからね。必ず追い付くんだからね!」 そう言って山上に指を突き付けた後、先ほどより多少すっきりした顔で俺達から去った。 「えーん胸倉掴まれたぁ。わたし、やっぱりあの人苦手ですよぅ」 「心配せずとももう絡んで来ないから。それよりおまえ、身体はもう大丈夫か?」 「ええ大丈夫です。あの、あの時は助けてもらって、本当にありがとうございました」 「そのお礼はもう何度もしてもらった。それに、元はと言えば俺が来栖におまえと廃墟のことを言っちゃったのが原因だからさ」 「関係ありません。何度でもお礼を言いたいです」 それから二人、肩を並べて共に通学路を歩き始めた。 俺達は本当にたわいもない話をした。山上の特殊な嗜好にも、絵画にも関係ない、普通の中学生の男女がするような何でもない話だ。だが山上のくるくる変わる表情を眺めながらするその会話は、体の芯から痺れ上がる程楽しく幸福に満ちた時間に思えた。 「ねぇ青柳さん。青柳さんは、来栖先生のことを、今ではどんな風に思われてますか?」 会話に没頭する中で、ふとした瞬間に山上はそれを口にした。 俺は真剣に考えてから、答える。 「いかれてた。それでもきっと、程度の差はあれ誰もがああして狂いうるんだと、そんな風にも思う」 本郷が俺の絵に悪戯をしたように、俺が山上の絵を勝手に公募に出したように。どんな分野にあっても、命懸けの競争は時にその人の人格を蝕み、狂わせ、本来なら考えられないような暴挙に陥れることが必ずあるのだ。その為に人生を踏み外すことも。 俺は来栖のことを愚かだともみじめだとも思わない。だがだとしても、その罪と責任は来栖自身が一人で背負い、その命を持って償うしかないことなのだろう。 「そうですね。だからわたしは絵を人に見せないんです。誰かと競うのは嫌なんです。誰かをそんな風にすることも、自分がそんな風になることも、わたしは怖くて仕方がないんですよ」 「それは本当にすまなかった」 「いいんです。こちらの方こそ、臆病なわたしでごめんなさい。でも、その代わりに」 黒飴のような瞳が俺に向けられる。信じられない程澄み切ったそれには、写った俺の全身をそのまま飲み込んでしまいそうな魔力があった。 「またわたしの絵を見てくれませんか? 何枚でも何枚でも、一生の内わたしが描き続けるすべての絵を、青柳さん一人に見守って欲しいんです。自分の絵がそこにあって、ずっとあなたに見てもらえるのなら、わたしにはそれが一番の幸せなんです」 山上は微笑む。世界中の誰よりも純粋な、完璧で美しい笑みに思えた。 空は眩い蒼天だった。麗らかな朝の陽ざしの中を、一陣の風が吹き抜ける。俺は心からの決意と、喜びと共に笑みを返した。 「ああ。約束するよ」 「うれしい」 そう言って山上は俺の手を取り、制服の腕に幸福そうに頬を押し付けた。 |
粘膜王女三世 2023年08月12日 01時32分51秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2023年08月29日 02時10分25秒 | |||
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