お化けトンネル |
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夏の焼けつくような日差しは、教室の窓ガラスを通してもまったく和らぐことがなかった。ただ耐えるだけの補修授業は、けして終わることがないのだと感じられた。眠気との絶望的な戦いが果てしなくつづき、忍耐の時が、一刻、また一刻とすぎてゆき、ようやく放課後になった。 ホッとした瞬間だった。 「武雄君、お化けは苦手かな?」 声を掛けてきたのは、南野陽子(みなみの ようこ)。近所に住む幼馴染みの同級生で、いわゆる腐れ縁の相手だった。 「い、いや、全然、まったく、少しも、苦手じゃないよ!」 「そりゃあ、そうだよね。武勇を誇る大英雄で、その名も西野武雄(にしの たけお)を名乗る君が、お化け如きを怖がるなんて有り得ないものね」 陽子は、教室にいる皆に聞こえるように言うと、輝くような笑みを浮かべた。いかにも清純そうに見える飛び切りの笑顔だった。 (この名は親がかってに付けたものだ。俺が名乗ってるわけじゃないぞ) 陽子の家は工務店を営んでいる。だから、社長令嬢ということになる。クラスの男子たちからは高く評価されている。だが、騙されてはいけない。この無邪気そうな笑顔の裏には、何か邪悪な企みがあるに違いなかった。 (お化けなんて恐くないさ。こんなに太陽が明るく輝いている真昼間なら、怪談を聞かされても大丈夫に決まってる。たぶん、ではあるけれど……) 「平坂トンネルを見にゆこうと思うの。付いてきてくれるわよね」 「平坂トンネル……?」 平坂トンネルは、町の北にある割と大きなトンネルだ。対向二車線で、片側に一段高くなった広い歩道がある。そのおかげで、自転車や歩行者も安全に通行できる。ただ、交通量はけっこう多い。 「かまわないけど、排気ガスが多いから中をとおるのは勧められないぜ」 「大丈夫よ。このごろは使う人なんてまず居ないから」 (なんだか話が変だぞ) 俺は陽子の顔をまじまじと見つめた。 陽子は、イタズラっぽく笑ってつづけた。 「山の上にある平坂トンネルだから」 (旧道のトンネルかよ) 「親たちが私だけじゃ心配だからダメだと言うの。でも、武雄君が一緒なら、行ってもいいって!」 (俺と一緒なら、いいのか) 「そりゃ、しかたないな。付いてってやるよ」 「ありがと。それじゃあ、十時半に家まで迎えに来てね」 (明日の午前中には授業があるだろう。 それに、十時半では中途半端……) 「ちょっと待て。十時半って、今日の夜中にか!」 「ええ、もちろんそうよ。ありがとね」 (やられた…… 真夜中に山道を行くのか。 そりゃあ、親御さんが心配するわけだ) 「俺がついて行くなら、行っていいのだな。でも、キツネなんかが出たら、陽子を置いて逃げ出すかもしれないぜ」 (夜中のケモノは、眼が光っていて恐いからなあ) 陽子は、ニヤリと悪戯っぽく笑った。 「大丈夫だって。何かが出ても、武雄が腰を抜かしてるあいだに私は走って逃げるから」 「俺は、置いてきぼりが確定かよ」 「人里に着いたら、助けを呼んできてあげるわよ」 (かなわないなあ。でも、この年になって、いつまでも暗闇を怖がってばかりじゃまずいからなあ) 「わかった。がんばって行ってみるぜ」 「ありがとう。よろしくね」 そんななりゆきで、俺は深夜の旧平坂トンネル見学旅行に同行することになった。 自宅に戻ったら、陽子の親御さんからうちの親にお礼の連絡が入っていた。 今夜のトンネル見学旅行は、あちらの御両親も公認した二人旅だ。俺は能天気にも、そう思って舞いあがっていた。これでもう俺には止めることができない、完全に退路を断たれてしまったという可能性については、考えつきもしなかった。 さらにうかつなことには、俺はまだこれが陽子のしくんだ肝試しだということに、まったく気が付いていなかった。 八時になっても、西の空では落日の名残が山の稜線をかすかに彩っていた。夜が更けてゆくにつれて、山向こうの町の明かりが雲を下から照らして、西の山々の黒々とした影を浮びあがらせる。隣町は大きいので、西の空はけっこう明るかった。 もうすぐ十時半となったので、俺は大型懐中電灯のサーチライト、ペットボトルのスポーツ飲料、それにスポーツタオルをナップサックに入れて、通学用の自転車に乗った。 「陽子ちゃんが付いてるから心配ないと思うけど、あまり無様なところを見せないでね」 「いまさら格好をつけても手遅れだから、気楽にいけよ」 「ハ~イ、ハイ」 心温まる両親の言葉に送られて、俺は近所にある陽子の家に向かった。 まだ十時半になっていないのに、陽子とご両親は玄関の前で待っていた。『みなみの工務店』の小型トラックが家の前に止まっている。 陽子はフードの付いた長袖パーカーを着ていた。 「暑くないか?」 「山蛭にたかられたら嫌だから」 陽子は涼しい顔で言った。 「わがまま言ってすみませんね」 「よろしくお願いします」 ご両親につづいて陽子が言った。 「じゃあ、途中までよろしく」 お父様は、二人の自転車を小型トラックに乗せ、手際よくロープで固定した。 (自動車で送ってもらえるとは聞いてなかったなあ) ただの夏の冒険、俺はまだそう思い込んでいた。 路地裏をとおって車道にでる。しばらく進んだ先には自転車専用道が車道に併設されている。街並みがつづき街灯が整備されているので周囲は明るい。 町の南には自動車製造業の子会社、孫請けの工場がたくさんある。このため北に向かってる道は、朝晩の通勤時間帯にはかなり渋滞する。自転車通勤する工員もずいぶんと多いので、自転車専用道がしっかりと整備されている。 いまは空いている道路をゆっくりと走って北をめざす。 「トンネル工事は、事故が多いの?」 陽子がお父様にたずねる。 「昔は多かったな。落盤やガスの噴出、発破のタイミングの間違いとか。だけど粉塵で肺をやられて死ぬ人が一番多かった」 陽子は続きを促した。 「先輩たちが現役だったころは、年齢が十六歳から二十八歳くらいで、みなずいぶんと若かったそうだ。特攻崩れの班長が指揮をしていて、死ぬつもりだったのに生き残った人だから、『お国のために』、とダイナマイトが爆発してすぐに、一メートル先も見えないほど粉塵が舞う中へと全員を突貫させたり、タオル一枚を顔に巻きつけただけで瓦礫を外に運び出したりするのが当たり前だった。鼻の中まで真っ黒になったし、身体的にはすごく大変だったが、とても充実していたそうだよ」 お父様の口から言葉があふれる。 「そんな無茶をしていて無事にすむはずがない。班長が真っ先に命を落とし、四十歳を越えるころには、同じ職場で働いていた人のうち半数が胸を患って死んでいたそうだ。生き残った者も、同僚たちがどんなふうに死んでいったか知っていたので、自分があとどのくらいで、どんなふうに死ぬのか分かっていたそうだよ」 お父様はかなりの話し好きのようだった。 「先輩たちが命を削りながらトンネルを素早くたくさん造ってくれたおかげで、すべてを失った戦後の日本は、全国どこでも活発な物流を確保できた。だから日本は奇跡の復興をとげ、高度成長経済が可能になったのだよ」 一向に話が止まらない。 「工事をする人たちは、『トンネル』ではなく、『隧道』と呼んでいたなあ。『隧道』には『すい道』という読み方もある。でも、先輩たちはかならず『ずい道』と呼んでいた。自分が行きたい場所へ、希望に満ちた明るい未来へと続いている道。『ずい道』という呼び方には、自分たちは自由にどこにでも行ける『随道』を造っているのだ、という思いが込められていたのじゃないかな」 俺は、肝試しがすでに始まっていることに、まだ気づいていなかった。 十分ほど北上したところでT字路に突き当たった。左折して西に向かう。すぐに北へと向かう本道があったが、そのまま通り過ぎる。道路わきに『平坂道』の表示がある。このまま進めば平坂トンネルだ。 「ここまででいいわ」 陽子が言った。 「トンネルの入り口まで送るよ」 「そろそろ暗さに目を慣らしておかないと危ないから」 陽子はお父様の提案を断った。 「気をつけてな~!」 お父様のお言葉を背中で聞いて、陽子が先行、俺がしんがりとなって、二台の自転車隊は冒険の旅に出発した。道路はわずかながら上り傾斜となっているから、本番の山登りに備えて体力を温存しておく。 道路わきの人家が減ってゆき、街灯の数が少なくなる。道の先に小さな一軒家がまばゆい光に照らされて闇の中に浮かび上がっている。喫茶店だった。客はいないようだ。 目の前で、フッと照明が消えた。店の奥にわずかな明かりを残して、建物は周囲の闇にとけこんだ。 それを最後に、人家は見えなくなった。 道路にかなり起伏がある。自転車だとはっきりわかる。 ときおり、高速で脇を通り過ぎる自動車があるほかには、人通りも絶えている。ごく狭い範囲だけが自転車のライトに照らされている。周囲は闇にとざされ、すぐ近くまで山が迫ってきているのが感じ取れてきた。 黙々と自転車をこいで、平坂トンネルにたどり着いた時には、十一時になっていた。 トンネルの手前には、道路をはさんで広々とした未舗装の空き地がある。トンネルの工事車両や重機が使用していた場所だ。その後はトラック運転手の仮眠場所として利用されているが、到着したときには利用者はいなかった。 制限速度を無視してぶっ飛ばしてくる自動車に気を付けながら一気に道路を横断して、空き地の奥にある旧平坂道の入り口に到着した。アスファルトで舗装され、小型トラック一台が通れるくらいの幅がある。周囲にはヒノキ林が造林されている。造林作業の自動車が入れるように、いまでも道路はこまめに整備されているようだった。 「先頭、よろしくね」 陽子にうながされて、俺が先頭になった。 すこし進んだだけで周囲は高い木々に囲まれて深山に分け入ったような雰囲気になった。すぐに坂が急になったので、自転車から降りて二人並んで坂を進んだ。 「うちの父が、あんなに昔の事を話すのは珍しいわ」 「そうなのか……」 (工務店の仕事がどんなものか、跡取りに知ってほしかったから……。考え過ぎだよな) 「夜中に山の中を歩くのは、小学校の合宿以来ね」 「うん、……」 陽子はさりげなく俺の黒歴史に触れてきた。 暗闇が怖かった俺は、あの時…… いや! 忘れろ。 黒歴史は時の彼方に葬り去るべきだ。 クラスの連中は、陽子と俺が幼馴染みなのをうらやましがる。だが、幼馴染みだからといって良い事ばかりではないぞ! 「そろそろ十一時ね」 陽子が話題を変えてきた。 「真夜中の十二時ころ、十一時から一時くらいまでを昔はネの刻と言ったそうね」 「そうなのか……」 「ええ、それから北はネの方角」 (これは、…… 怪談の語り口だ!) 「そして、ネの国は地底深くにあって、この世とは別にあると考えられた世界のこと。死者がゆくとされ、ヨミのくに(黄泉の国)とか、ネのかたすくに(根の堅洲国)とも呼ばれたわ」 (間違いない。これは怪談だ) 「北を、ネの方角を死者と結びつけるのは、そのせいかしらね」 (お前のせいで、お前のせいで、お前のせいで。 小学生の俺は怖くてトイレに行けなかったのだぞ!) 俺は反撃を試みた。 「小さかったころ、俺は眠るのが恐くてしかたなかった」 陽子は、だまって聞いている。 (よし! 話の主導権を手に入れたぞ) 「眠れないでいると、死んだばあちゃんが『寝たらネの権現さんにゆくから大丈夫だよ』と言ってくれた。だから『ネの権現さん』は、心から安心できる所だと思っていたんだ」 「ネの権現さんかあ。そうよね。ネの国にいたら怖い物なんてないわよね」 山中には町の明かりは届いていなかった。道路の真上に星空が見えていた。アスファルトの道路は星の光をうけて、かすかに蒼白く浮びあがって見える。そびえ立つ木々に囲まれているため、周囲は闇に閉ざされていた。 登っても登っても道はどこまでもうねりながら続いているように感じられた。路肩がしっかりしているのが有難かったが、山肌はかなりの急斜面だった。 ふくらはぎの筋肉がこわばり、膝がガクガクし始めてしばらくたった時に、急に視界が開けた。 眼下に町の灯が広がっている。深夜になったため明かりの数は多くなかったが、満天の星空と見事な対比をなしている。天上の自然と地上の人の営みがおりなす絶景と感じられた。 「思った通りだわ」 陽子は自転車から降りて、懐中電灯でトンネルの入り口を照らしていた。トンネルの入り口には工事用の柵が置かれ、『進入禁止:崩落の危険あり』と書かれた札がさげられている。自転車をとめて近づいてみると、トンネルの入り口に古びた石板が埋め込まれていた。『平坂隧道』という文字が刻まれている。 「同じ場所に同じ名前のトンネルが二つあるのは変だと思っていたの。下にあるのが平坂トンネルで、このトンネルの本当の名前は平坂隧道(ずいどう)だったのね」 「ずいどうかあ。そういえば、お父様もトンネルのことを『ずいどう』と呼ぶと言っていたなあ」 「『あなみち』とも言うわよ」 「同じならトンネルでいいのじゃないか?」 「隧道には別の意味もあるの。お墓の中に斜めに掘り下げた通路も隧道と言うの。『はかみち』という言い方があるわよ」 俺は、これが肝試しだと、ようやく気付いた。陽子は、このために周到に準備をしていた。最近、陽子に聞かされた話を思い出す。 神代の時代に、イザナギ、イザナミの二柱の神が日本の国を造るように命じられた。二柱の神は力を合わせて次々と国造りに励んだ。しかしイザナミは、火の神を産み落としたときの火傷がもとで黄泉の国へと旅だってしまう。 イザナギは妻こいしさの一念から地の底へとくだってゆく。だがイザナミはすでに黄泉の国で調理された食物を口にしていたために、生きた人の住む国へは戻れなくなっていた。それでもイザナミは黄泉の国の神々にイザナギの元に戻る許しを願うことにした。 「ただくれぐれも、そのあいだにわたしの姿をごらんになってはいけません」 イザナギは、あまりいつまでも待たされるので、とうとう待ち切れなくなって、この世との境目をつくっている扉をあけてイザナミのいる御殿の中へ入っていった。 イザナギは、髪にさした櫛の歯の一本を折り取ってそこに火をつけ、辺りを照らした。そして、死んで腐った妻のからだを目にすると、いっぺんにふるえあがり、あっとばかりに一目散に逃げ出した…… (イザナギの神が地の底へとくだっていった道は隧道だったのか) 陽子が平板な声で語りかけてくる。 「隧道は、地中を掘って通した道だから、死者がゆくとされたネの国の近くを通っているし、お墓の中に斜めに掘り下げた通路なら、まちがいなく死者の国へ通じているわよね」 俺は反撃を試みた。 「でも、現世とは別の世界なのだろう」 「ええ、そうね。でも、ネの刻にネの方角にある隧道を通ったら、ひょっとするとネの国にゆきつけるかも知れないわよ?」 肝試しをするときには、きまったやり方がある。まず、怪談などによって怪異がありうると印象づける。そして、その怪異が存在できる舞台を用意する。最後に、相手を驚かせるための仕掛けを用意しておく。 さんざん驚かされてきたから、すこしは手の内が分かっている。 陽子は、日本神話によって冥界の存在を俺に受け入れさせた。そして、冥界に通じる可能性のある隧道を実際に用意した。 あとは、どうやって俺を驚かすかだ。 これまでにやられたのは、…… 懐中電灯で顔を下から照らす。 不気味な、まったくの無表情から、ゆっくりとニタリとした笑みを浮かべるのを見せられた時には、本当にチビった……、いや、ビビったぜ。 だんだんと声をひそめてゆき、突然に大声を出す。 「ばっ! とふすまが開いて女の首が部屋の中にぬうっと入ってきた」 あの時は、悲鳴をあげて逃げ出しそうになったなあ。 人体模型の腕で、だれもいない側の肩をたたかれる。 理科の先生にひどく叱られたっけ。なぜか、驚かされた俺の方が…… 首筋に冷やしたコンニャクを当てられた時には、さすがに叫び声をあげてしまったなあ。 腹話術で、誰もいない方向から人の泣き声や声を聞かせる。 誰がしゃべっているか分かっていても、充分に怖かったなあ。 お化けの出るトンネルが舞台なら、壁からはえたマネキンの腕とか、壁からしたたる血とか、助けを求める死者の声が聞えてくるとか、そんなところかな。 身構えていれば大丈夫だろう。 よし、なんでも来い! それから俺は、自分の膝がこまかく震えているのに気がついた。 「武雄君、どう思う?」 陽子が隧道の天井を懐中電灯で照らしている。天井のコンクリートにはひび割れが走り、その一部は下に向かって突きだしている。少し力を掛ければ落下するだろう。その下の床には砂が落ちて二十センチほどの山になっている。 「崩落しかけてるな」 いったん崩壊が始まれば、一気に広範囲で崩落する恐れがありそうだ。 陽子が尋ねてくる。 「中に入るのは、止めた方がいいかなあ」 天井や床は乾燥している。このまましばらくは保ちそうに思える。 「通り抜けるだけなら、大丈夫そうだ。向こうまで行きたいのだろう?」 「うん!」 陽子は大きな声で応えた。 俺がナップサックからサーチライトを取り出すと、陽子が猛然と抗議した。 「せっかくの雰囲気がぶちこわしじゃないの!」 「トンネルの崩落を監視するならサーチライトの方が向いてると思うぞ」 しかし、俺のまっとうな意見は陽子の巻き起こした嵐に吹かれて粉々になり、黄泉の国へと吹き散らされてしまった。 衝撃を与えないため、という口実で、俺たちはことさらゆっくりと隧道の中を進んだ。陽子の持つ小さな懐中電灯でも、隧道の中は意外なほど明るく照らされて、天井や壁に危険そうな凹凸がないことが確認できる。 隧道は、途中で大きく曲がっていた。 ようやく出口が見えた。意外と遠くにある。 ほっとしたとたんに、脚の力がぬけた。 ひどく目まいがする。 立っていられなくなって膝をつき、手で体を支えた。目まいが治まらない。体がガクガクする。 「地震よ、大きいわ!」 陽子の叫びは、つづいて起きた凄まじい轟音に呑みこまれた。 すこし気を失っていたかもしれない。あたりは真っ暗だった。 陽子に呼びかけてみる。 「大丈夫か? どうやら隧道は無事みたいだけど」 ざわりと周囲の闇が動いた。しかし、返事はない。 ナップサックからサーチライトを出して点灯する。周囲がほとんど見えない。ひどい土埃のせいだ。乾いた土の臭いが鼻を強く刺激する。 立ち上がろうとした手が、陽子の腕に触れた。そのまま陽子の手を握り、引っ張りながら立ち上がった。 隧道の壁は石組みがむき出しになっていた。表面のコンクリートが剥げ落ちたようだ。 石組みの隙間から、挟まれ潰された人の体から浸みだす血のように、赤黒い物が湧き出てくる。 山ミミズだった。体長は四十センチ以上ありそうだ。別の場所からも這い出してくる。 これをみて、壁から浸みだす血の怪談を思いついたヤツがいたかもしれないな。 一瞬、ギョッとした。 サーチライトに照らされて、崩れ落ちたコンクリートの塊と山ミミズが、潰れたヘルメットをかぶった男の顔に見えた。 陽子の手を握ったまま出口をめざした。いつ揺り返しがあるか分からない。途中から走り出していた。 急にガクッと膝の力が抜けそうになる。突然に目まいが襲ってくる。地震の余波なのだろう。 サーチライトの光は濃い土埃にはばまれて先が見通せない。光がどんどん弱ってゆくような気がする。 俺の心の中で、陽子の仕掛けた怪談が炸裂する。 「醜(しこ)は、強くて頑丈な、という意味なの。お相撲さんの名前は醜名(しこな)よ。四股名は当て字なの。 イザナギの神を追いかけるのは、黄泉の醜女たち。選りすぐりの強大な鬼女たちなの。さらにイザナミの神の体から生まれた八体の雷神が追っ手にくわわる……」 足元が震える。地面がゆれる。 恐ろしい鬼の大群が、地響きをたて大地をゆるがせながら自分たちを追いかけ攻め寄せてくる。その情景がありありと心に浮かぶ。恐怖で心が満たされる。 サーチライトに照らされると、石組みのひとつひとつに痩せこけた人の顔が浮かび上がる、そんな風に見えるときがある。 轟音のせいで耳鳴りしているようだ。 ゆけ。 ゆけ。 ゆけ。 そんな声が聞こえているような気がする。 しかし、周囲は異様な静寂につつまれていた。陽子の声も、息遣いも、ジャリを踏んで進む音も、まったく聞こえない。轟音のせいで一時的に音が聞こえなくなっているのかもしれない。 走りながら、陽子の腕に重さが感じられないことに気がつく。俺は、千切れた陽子の腕を握ったまま走りつづけている。そんな考えが心に浮かぶ。でも、それが真実だと知りたくなかったから、前だけを見て走りつづけた。 陽子の仕掛けた怪談は、まだ続いていた。 「ギリシャ神話に語られるオルフェウスの妻、エウリュディケは、蛇に咬まれて死んでしまうの。オルフェウスは、すぐれた竪琴(リラ)の腕前によって冥界への門を守るケルべロスの心すら動かし、生者の身でありながら冥界へと妻を迎えに赴くことに成功する。でも、妻を地上に連れ帰る途中で、言い付けに反して後ろを振り向いてしまったために、永久に妻を失うのよ」 振り向いてはだめだ。前だけを見て走れ。 先の見通せない中でずいぶんと長く上り坂を走り続けたような気がする。でも、それほどの距離であったはずはなかった。 俺たちは出口にたどり着いた。 入り口にある大量に積もった土砂を乗り越え、前をふさぐ垣根をまたいで、道路に足を踏み出す。 はあ、はあ、はあ。 陽子の激しい息遣いが聞えてきた。 はあ、はあ。 「ありがとう、引き出してくれて。土に埋もれた時には、もう助からないと覚悟したわ」 (そんなはずは無いだろう。トンネルは石組みで造られているから、崩れ落ちたなら、岩の下敷きになっていたはずだぞ) 「武雄は、命の恩人よ」 陽子が抱きついてくる。 俺は思わず陽子を突き放した。 陽子の体は異様に冷たかった。生きている人間では、ありえない冷たさだ。 「なんだよ、その冷たさは!」 お前は、本当は死んでるのじゃないのか? 口にすれば、そのとおりになるという予感があった。だから、俺はその言葉を呑みこんだ。 「あはは、ごめん、ごめん。パーカーを着てると暑いから、水冷ジャケットも着ていたのだった」 (霊感……、じゃなくて冷感グッズか。 今回の仕掛けは、これだったのだな) 「驚かせてごめん!」 (驚かせるつもりで着て来たのだろうが!) 自転車は、下りでスピードが出過ぎるから、二人で押しながら帰った。がけ崩れしている場所で止まれなかったらまずいからな。 さいわい、倒木で道がふさがれたり、道路が大きく壊れている場所は無かった。 ふもとの平坂トンネルは真っ暗だった。停電してるようだ。 トンネル手前の未舗装の空き地に『みなみの工務店』の小型トラックが止まっていた。エンジンはかけっぱなしでライトがついてる。 「結構な地震だったけど、大丈夫だったか」 お父様のほっとした声が聞こえた。 「トンネルが崩れ落ちたから危なかったわ。でも、武雄君が助けてくれたの」 「頼れるナイトがいてくれて良かったな」 「俺は、そんな立派な者じゃないですよ」 お父様は、俺たちをまじまじと見つめた。 「二人とも砂まみれじゃないか。土砂崩れに巻き込まれたのか?」 陽子はだまっている。代わって俺が答えた。 「トンネルの中が凄い土埃だったのですよ」 「そりゃあ、大変だったなあ」 お父様は、二人の自転車をトラックに乗せ、ロープで固定した。陽子を真ん中にして座席に乗り込み出発する。 陽子が腕をからめてくる。体をあずけてくる。冷たかった。まるで俺の体の温もりを欲しているかのように感じられた。 「平坂隧道は、石組みだったのですね」 俺の言葉に、お父様が応える。 「そうだよ。平坂隧道は、入り口の崖が崩れたので、ボクが子供のころに掘り直されたんだ。途中で大きく曲がっていただろう? 古い部分は石組みで、あとから造った部分がコンクリート張りだ。使わなくなった所は埋められたはずだよ。戦後すぐだったから、セメントの質が良くなかったし、海砂を十分に塩出しせずに使ったからすぐ劣化してしまってね。それで新しく今のトンネルが掘られたのさ」 戦後すぐに多くの人たちが命を削って掘った『隧道』には、お墓の中に斜めに掘り下げられた『はかみち』という意味もある。そして、自由にどこにでも行けるようにという願いがこめられた『ずい道』でもある。 平坂隧道の掘り直された部分は、戦後すぐだったので、手抜き工事で造られていた。使用されたコンクリートはすぐにもろくなったし、岩壁との間には砂が流しこまれただけだった。そんなことも充分にありえただろう。 さらに、使われなくなり廃坑となったトンネルは、板張りの表面にコンクリートが塗られて塞がれ、入り口にだけ土が積まれていたのかもしれない。 陽子の上に崩れ落ちたのは劣化して砂になったコンクリートで、俺たちが乗り越えた土砂は地震の前には入り口を塞いでいた。たぶん、それが真実なのだろう。 でも、俺たちは、すでにこの世からなくなっていた廃トンネル、すなわち本物のお化けトンネルを通ってこの世に戻ってこれた。そんな気がしてならないでいる。 |
朱鷺(とき) 2023年08月11日 08時55分56秒 公開 ■この作品の著作権は 朱鷺(とき) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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