遺書は捨てても蘇る |
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黒見雫が死んでいた。ドアノブで首を吊り、顔が青白くなっている。舌が伸びきっていた。 僕ら三人は顔を見合わせた。誰も何も言わない。何か言葉を発したら、すべての責任を負わさかねない。そんな空気を感じていた。 最初に口を開いたのは速水ケンタだった 「本当に死んでるのか、これ? ドッキリじゃねえか?」 ケンタは、がっつりとした体形のスポーツマンで顔は二枚目だった。いつも表情に余裕を浮かべているが、今は口の端を引きつらせていた。 沢森あかねが眉を吊り上げる。 「どう見ても死んでるでしょ。今、そういうのいいから。マジで笑えないから」 「別に笑わせようと思ってねえよ」 「なら黙ってなよ」 あかねはセミロングの髪を茶色に染めている。顔の造形は整っているが、目尻が吊り上がっていて、気の強そうな印象を受ける。実際、その通りの性格をしているのだが、今はいつも以上に刺々しさを剥き出しにしていた。 僕は二人から視線を逸らした。呼吸に意識を集中する。 僕は雫の死体を見下ろしながら二人に言った。 「警察と救急車を呼ぼう」 二人がこちらを向く。 あかねは腕を組み、むすっとしていた。 ケンタは口をもごもごとさせている。何か反論があるのかもしれない。しかし、咄嗟には出てこないようだった。 二人の気持ちはわかる。この状況を作り出したのは僕達だ。警察を介入させたら、責任を問われる可能性がある。 しかし、隠蔽は現実的ではなかった。 ケンタが肩を竦める。 「……そうだな、そうするしかない。だが、ちょっと待ってくれ」 「何を待つのよ」 あかねが突っかかる。 「遺書を残しているかもしれないだろ。調べよう」 三人で部屋を手分けして探すことになった。スマホの中も調べた。遺書らしきものは見つからなかった。 自分のスマホを取り出す。そこでふと、視線を感じた。 雫がこちらを見ていた。濁った瞳を向けられ、ぞくりとしたものを感じる。 もとは長い黒髪の芋っぽい女だった。最近はあかねの影響で、垢ぬけてきていた。 まさか、こんなことになるとは……。数ヶ月前は想像もしていなかった。 雫をイジるようになったのは、彼女がオタクだと判明してからだった。高校時代、深夜アニメや女児向けアニメをたくさん見ていたらしい。セーラームーンのフィギュアを集めている、と自分から言い始めた。 最初は、軽いイジリで済ませていた。しかし、ケンタが、執拗にオタクイジリをした際、雫が切れて「やめてよ!」と激しい拒絶を示した。場はしらけた。そのことに気を悪くしたケンタが、事あるごとに、雫とオタクを結び付け、馬鹿にする発言を繰り返した。 僕らのグループは、ケンタを中心に回っていた。ケンタは体育会系のイケメンで、常に皆の中心だった。多少喧嘩っ早いところはあるが、信頼のおける奴だ。僕とケンタの出会いは大学からだが、思想的な部分が一致していて、すぐ仲良くなれた。あかねも、ケンタにつんけんしているように見え、実は気があるのだ。だから僕ら三人はケンタ側についた。三人で雫をイジることが増えた。 しかし僕は、二週間前からイジることをやめていた。これ以上は、完全なイジメと思ったからだ。 雫に個人的に声を掛け、「自分は二人のようなことはしないから」と言った。たぶん、心強く感じてもらえていただろう。 昨夜、二人は案の定、雫を笑いものにした。雑談が終わり、部屋に戻ろうとする雫を捕まえ、「僕だけは味方だからね」と伝えておいた。 あれだけでは足らなかったのだ。もっとわかりやすく、味方であることを示すべきだった。 しかし、今更、後悔しても遅い。生きている僕らの身の振り方を考えるべきだ。 雫から視線を逸らして廊下に出る。ラウンジに足を運んだ。二人が遅れて着いてくる。 なんとなく雫の目のないところで通報したかったのだ。 ふと、テーブルの上に白い便箋が置かれていることに気が付いた。 昨夜はこんなもの置かれていなかったはずだ。 近づいて中身を取り出す。A4サイズの紙が数枚入っていた。一枚目に書かれた文章を読む。 『私、黒見雫は、これから首を吊って死にます。速水ケンタ、沢森あかね、春木友則の三名から精神的な攻撃(イジメ)を受け、立ち直れなくなってしまったからです。尊厳を踏みにじられ、生きていくことが辛くなりました。二枚目以降、具体的に彼らに何をされたか、記していこうと思います』 全員で顔を見合わせた。 理解不能だった。 遺書が書かれていたことに対して言っているのではない。 なぜ僕の名前が書かれているのか。 雫をイジメていたのは、ケンタとあかねの二人だ。僕は味方と伝えていたはずだ。 以降の紙には、僕ら三人に対しての恨みつらみが書かれてあった。僕に対して、雫はこう思っていたらしい。味方のふりをして陥れようとする卑劣な奴。 歪んでいる。そう思った。そうなってしまうほど辛く感じていたのかもしれないが、これはあまりに酷い。酷すぎる。 「処分するか?」 ケンタが言った。返事を聞く前にキッチンに足を運んだ。 僕達は遺書を燃やした。 ▼ ケンタの別荘で雫が死んだ。当然、その話は大学全体に広まった。様々な憶測を生んだが、ケンタは交友関係が広く信頼されているので、すぐに噂は収まった。官僚の息子であることも有利に働いた理由の一つだろう。二週間程度で雫のことを噂する人間はいなくなった。 警察に事情聴取を受けた時は不安だったが、全員で切り抜けることができた。僕らが自殺に関与した証拠は何一つ出てこなかったのだ。 胸は痛むが、人生は長い。雫のことは、ちょっとした事故と考えることにした。 四月中旬、雫の葬式が開かれた。僕らは三人で参列した。会場には、雫の笑顔の写真が飾られていた。死体は穏やかな顔をしていて、そのことがせめてもの救いに思えた。 つつがなく葬儀は終了した。 三人で帰ろうとしたところで、雫の母親に声を掛けられた。野暮ったい女性だった。目が虚ろで、がりがりにやせ細っていた。 「雫の友達よね。ありがとね、最後まで雫の友達でいてくれて」 「いえ、そんなこと……。当然ですよ」 あかねが恐縮しながら言う。 「あなた達には感謝しなきゃいけないわ。雫の最後を看取ってくれたんでしょ?」 実際は死体を見ただけだ。しかし、雫の母親の中では、そうなっているらしい。 「雫は友達に見送られて幸せだったはずよ。気持ちよく旅立てたと思うわ」 いたたまれなさから視線を逸らす。ケンタも同じ気持ちだったらしい。床に目を落していた。アカネだけが真っ直ぐ雫の母親を見つめていた。 「実はね、雫、高校時代イジメられていたのよ」 「え、そうなんですか?」 「ほとんど不登校みたいになってた。趣味に打ち込むことで、精神を安定させてたの。友達なんていらない、アニメだけあればいいって言ってたのよ。だから、あなた達に会えて幸せだったと思うわ。初めて心から信頼できる友達に出会えた、って電話してくれたわ」 僕は手をこすり合わせた。じんわりと背中に汗が滲んでいくのを感じた。 雫の母親は微笑んだ。虚ろな目で続ける。 「でも、どうしても許せないのよね。雫と同じように旅立つべきだと思うのよ」 「え?」 理解できなくて思考が停止する。 雫の母親は微笑んだ。 「イジメてた連中よ。あいつらにされたことの心の傷が完全に癒えてなかったのよ。だから雫は旅立った。そうよ、そうに決まっているわ。あいつら、許せない」 ぶつぶつと恨み言を呟く。完全に僕達を見ていなかった。背中に氷を当てられたような感覚に苛まれる。 「お母さん、ちょっと……」 ツインテールの女の子が近づいてきた。雫の妹・司だ。 「すみません、いろいろとご迷惑をおかけして」 反応に困り、僕らは顔を見合わせた。 司は僕達を凝視した。 「お姉ちゃんが自殺した理由に何か心当たりはありませんか?」 疑うような目つきだった。 雫の死体を思い出す。 彼女の死体と一緒だった。嫌な目をしている。 「し、知りません、な、何も」 口が回らなかった。動揺は二人にも伝播した。全員でよくわからないことを話してしまう。 「そうですか」 司は感情の読めない顔で頷いた。 三日後、雫の母親が逮捕された。 娘の元同級生を刺し殺したのだ。 ▼ 雫の話題は禁忌と化した。最悪の記憶をわざわざ掘り起こそうというような酔狂さを、僕らは誰も持っていなかった。 半年が過ぎ、ようやく雫のことを忘れ始めかけていた頃。 あかねが青白い顔をして告げた。 「最近、付けられているの」 「誰にだよ」 ケンタが興味なさそうに訊く。 ケンタは雫の事件以降、サボりがちだったサッカー部に顔を出すようになった。今ではレギュラーで副キャプテンをしているという。 一方、僕は新しく後輩の彼女を作っていた。それなりに幸せな日々を送っている。 あかねは溜息交じりに言った。 「雫の妹だよ」 沈黙が落ちた。 雫の名前は禁句ワードだ。しかし、事態が事態だった。 「本当なの、それ?」 僕が訊くと、あかねは眉を吊り上げた。 「嘘つくわけないでしょ。つまらない質問しないで」 「なぜそんなことをされてるんだよ?」 「知らないわよ。向こうは、ただ黙ってついてくるだけ」 「聞けばいいじゃねえか。何のご用ですか、って」 ケンタがスナック菓子に手をつけながら言う。 「あんただったら訊けるわけ? じゃあ、私の代わりに訊いきてよ」 「怒るなって……」 二人のやりとりを聞きながら、僕は焦燥感に駆られた。嫌な予感がしたのだ。 数日後、彼女とデートをしていたら視線を感じた。振り返ると、制服姿の女の子が後ろを歩いていた。司だった。葬式で会った時より大人びて見えた。表情を観察して、ぞわっとした。感情の色が何一つ見えなかったからだ。 結局、その日は一日中つけ回された。 ケンタもストーキングされたらしい。 「司ちゃんのこと、どうしたらいいと思う?」 大学の食堂で僕ら三人は小声で話し合った。 「どうするもこうするも……無視するしかねえんじゃねえか」 ケンタが言う。目が充血していた。ストレスのせいか、単なる寝不足か、判断はつかないが、良好な健康状態とは言えなかった。それは僕ら二人にも同じことが言える。 「もう嫌……」 あかねが言った。憔悴しきった顔をしている。 「雫のことを、イジメなければよかったのよ……」 「おい!」 ケンタが声を荒げる。 「今更、そんなこと言っても遅いだろうが。終わったことをぐちぐち言うな」 「でも、私達のせいで、三人が死んだ。妹もおかしくなってる」 「俺達は悪くねえ。ちょっとしたイジリで死ぬ奴がおかしいんだ。あんなの、社会でやっていけるわけなかった。メンタルがもろ過ぎる。俺達はきっかけに過ぎない。遅かれ早かれ、あいつは自殺してたよ」 ケンタは声を潜めて言った。目がぎらついている。反論は一切許さない。そう告げているようだった。 「そんなの、自分を正当化したいだけでしょ!」 あかねが大声を出す。周囲の視線が集まった。 「わ、私はもう無理よ! 耐えられない! だから、全部ぶちまける。真実を言う。妹さんに本当のことを言うわ」 「落ち着きなって」 僕は慌てて立ち上がった。肩に手を置こうとする。 「触らないで! 一番気に食わないのはあんたよ! あんた、自分は被害者側だと思ってるでしょ! 知ってるのよ!」 「そんなことない」 「もういい! あんたらとは終わりよ! 全部ここでぶちまけてやる!」 ケンタが動いた。 あかねの頬に拳を叩きつける。あかねは床に倒れた。背中を丸めてむせび泣く。 人が人を殴るところをリアルに見るのは初めてだった。唖然とする。 悲鳴があがった。 ケンタは落ち着いた動作で、あかねに近寄った。髪を掴み、頭を持ち上げる。耳元で何かを囁いた。あかねは泣き止んだ。唇を震わせ、視線をあちこちに向けている。感情の処理が追い付ていないように見えた。 警備員がやって来る。 僕が事情を説明した。雫の名前を伏せ、単なる喧嘩だと伝えた。 ▼ あかねはおかしくなった。常に人目を気にしながら背中を丸めて行動するようになった。ケンタが殴り、何かを囁いたせいだろう。 相変わらず、司は僕らを付け回した。いい加減、こちらから、何かアクションを起こすべきではないか。ケンタに相談したが「放っておけ」と一蹴された。吹っ切れたのかもしれない。あかねに暴行を働いた後、ケンタはサッカー部は退部した。今は女遊びに明け暮れている。 僕は後輩の彼女に別れを告げた。肉体の相性がよくなかったのだ。 三年の春。大学近くのカフェに入ると、あかねが窓際の席に座っていた。何かを書いているようだった。心配になって近づく。 「なっ……」 怖気が走った。 雫の遺書とまったく同じことをA4の紙に書いていたのだ。 「あかね!」 声を掛ける。しかしあかねは、遺書を書き続けた。 ペンを奪い取る。 あかねは、はっと我に返ったようだった。僕を見てから、慌てて紙を隠す。 「これは違うのよ」 「何が違うんだ?」 「私の意思じゃないの」 彼女の言い分はこうだった。 ここ一週間、ルーズリーフやノートに、雫の書いたものと全く同じ文を書いてしまうというのだ。まったく意識はなく、気づいたら文章ができあがっているという話だった。 「このことはケンタに言わないで……殺されるから……」 懇願するような目で言われた。恐怖に震えていた。囁かれた内容を思い返しているのだろう。 昔の、つんけんしていた頃のあかねとは別人のようだった。 ふいに視線を感じて振り返る。入口近くの席に、司が座っていた。いつもの制服姿で、僕らを見つめている。その顔には、やはり感情の色がなかった。 あかねの話が本当なら、まずい事態だ。約束を守れそうにない。 僕は紙を奪い取り、くしゃくしゃに丸めると、ポケットの中に押し込んだ。 ▼ 「あかねを殺そう」 ケンタが言った。 大学近くの公園だった。すでに日は沈みかけ、人気が無くなっている。 僕は苦笑した。冗談だろ、と言い掛け、口を閉ざす。 ケンタは目をぎらつかせていた。激しく貧乏ゆすりをしている。 「あかねはリスクだ。俺達の秘密がばれちまうぞ」 僕は溜息交じりに言った。 「あかねはおかしくなっている。このままにしておくのは確かにリスクだ。でも、逆に言うと、チャンスでもあるんじゃないか」 「どういうことだよ?」 「頭が変になったんだ。誰もあかねの言うことなんて信じない」 ケンタは天を仰いだ。近くの電灯にたかった虫を眺める。 ケンタは唇を歪めて言った。 「だが、信じる奴はいる、あのイカれた妹だ」 確かに、彼女なら信じるだろう。 「遺書の文面を書いているってことは、暴かれたいってことだ。遅かれ早かれ、あかねは口を割る。このままにはしておけねえだろ」 「そうだけど……」 「お前」 睨まれる。 僕のことかと思った。しかし、違った。 ケンタは立ち上がった。 「お前! 見てるだろ! そこのお前だよ! こっち来いや!」 草むらに叫んだ。どう見ても、人影はない。 僕は唖然とした。 ケンタは腰を落とした。クソが、と呟く。 「最近、司が人を雇ってる。俺がなんでサッカー部を辞めたと思う? スパイがいたからだよ。一人じゃねえぞ。何人も。何人もいやがった。金を渡して懐柔したのか、それとも、元からスパイだったのか……どちらにしろ油断できねえ」 視線が合う。 肌が粟立った。 雫の死体と一緒の目をしていた。濁った目に覗き込まれ、肝が冷える。 「お前、大丈夫だよな?」 「え」 「スパイじゃないよな?」 ポケットから何かを取り出す。サバイバルナイフだった。 血の気が引いてくのを感じた。 「そ、そんなわけないって」 「だよな。なら、それを証明しないとな。明日、あかねを始末する。一緒にやるぞ」 「それは……でも……」 ナイフの切っ先を向けてくる。僕は頷いた。わかった、わかったから、と繰り返した。 ▼ 逃げることを危惧したのだろう。お前の家に泊まる、と言われた。断れなかった。断ったら何をされるか、わからなかったからだ。 眠れないまま一夜を過ごした。何度、逃げようと思ったか。朝になると、ケンタは大きく伸びをした。体調は良好のようだった。 思い直してくれるかもしれない。そんな期待を持っていたが、「やるぞ」と言われた。 二人であかねの家に向かった。郊外の小さな一戸建てだ。表札が出ている。 ケンタがインターホンのチャイムを鳴らした。数分後、七十代ほどの老婆が姿を現した。ケンタが、あかねの部屋に通してくれと話をする。 通したら二人が死ぬ。あかねが殺されるのは確実だ。目撃者を生かしておくとも思えないから、老婆も死に、合計で二人が死ぬ。断れば目の前の老婆だけ死に、あかねは助かるかもしれない。 どちらが自分にとって得だろうか。寝不足の頭で考える。 老婆は、警戒心がまるでなかった。あっさりと入れてくれる。考える暇などなかった。 三人で足を進める。廊下の突き当りの部屋のふすまを老婆が開けた。 あかねがドアノブで首を吊っていた。 黒見と同じ自殺方法だ。 老婆が腰を抜かして倒れる。頭を打ったのか、ぴくりとも動かなくなった。 僕らは老婆を無視して、あかねに近寄った。いろいろと試して、死んでいることを確認した。 僕は内心、ほっとしていた。これでさまざまな厄介事から解放される。 まずは遺書を探した。彼女のズボンのポケットから見つかった。便箋を開け、中身を読む。。 『もう限界です。私達は許されないことをしました。沢森あかね、速水ケンタ、春木友則の三名で、黒見雫を自殺に追い込んだのです。以下、これまでの経緯を細かく記します』 だらだらと事実が書き綴られていた。 僕らは紙をびりびりに破いてトイレに流した。その後、警察と救急車を呼んだ。 老婆は無事だった。救急車が来てすぐ、目を覚ましたのだ。たんこぶ程度で済んだらしい。 僕らは警察の事情聴取を受けた。前回より厳しくされた。二度同じような場面に遭遇しているから、疑いの目を向けられたのだろう。しかし、乗り切れた。 ケンタの父が手を回してくれたのかもしれない。 しかし、そんなことはどうでもよかった。 すべて終わった。 僕らは生き残れたのだ。 ▼ 大学四年の春。 僕は月野うさぎという子と付き合った。これまで出会った中で最高の女性だった。美人で優しく頭がいいのだ。僕にはもったいない女性だった。 僕は人をどこか見下し、常に自分が正しいという傲慢な考えを持っていた。しかし、それは昔の話だ。うさぎとの交流を経て、過去の自分の幼稚さに気づくことができた。 うさぎと公園に出かけた。自然の中を歩く。ふいに視線を感じて振り返ると、司がいた。僕らを追いかけてきている。司は、僕らと同じ大学に進学していた。僕らに執着することで、家族を失った苦しみを埋めようとしているのだろう。 二人でベンチに腰掛ける。 「ケンタくんとは最近会ってるの?」 「三日前に会ったよ」 ケンタは出家して寺で生活している。権力者の父と絶縁して丸坊主となった。あの欲まみれだったケンタが、寺の生活に順応できるとは最初、到底思えなかった。しかし、一歩ずつ前に進み、今では住職の信頼を勝ち得ているらしい。 僕らは成長している。過去の自分の過ちと向き合いながら。 「ストーカーさん、まだいるね」 うさぎが言う。 「ま、いずれ飽きるんじゃないかな」 うさぎには、雫の件を話していた。 流石に刺激が強いので、脚色はしている。遺書を二度処分したことも話したが、どちらも、根も葉もないことを書かれていたから仕方なくやった、ということにしてある。 「そういえば、ちょっと気になったことがあるんだ」 うさぎが小首を傾げながら言う。彼女の耳につけられた長いイヤリングが風に揺れる。 「何かな?」 「告発系の遺書って普通、加害者の人に読ませないようにするよね。処分される可能性が高いから。でも、雫さんは、加害者の別荘で自殺して、その別荘の目立つところに遺書を置いた。それって変じゃない? 読まれたら処分されるに決まってるんだから」 変なことを気にするな、と思う。 「ま、確かに変かもね。ただ、被害妄想で書かれた遺書だし、そんなの書いちゃうくらいおかしくなってたわけだから、整合性を気にする余裕なんてできなかったんじゃないかな」 「なるほど~」 うさぎは満面の笑みを浮かべた。 「でも、遺書を読んでみたら、ちゃんと整合性は取れてるんだよね。事実ばかりが書かれていた。裏どりしたから間違いないよ」 「……え?」 困惑する。 いったい何を言っているのか。 うさぎは笑いながら言った。 「ケンタくん、毎日のように、雫さんの遺書を書いちゃうみたいなんだ。ほら、死んだ沢森あかねさん。彼女と同じ状態に陥ってるみたい。恐怖から逃れようと坊さんになろうとしているのに、ご愁傷様って感じだよね。処分したものを、こっそり読ませてもらったんだ」 理解が追い付かなかった。え、な、と意味不明な言葉を繰り返してしまう。 「なんで?」 ようやくまともな言葉を返せた。 「なんでって……。それは、気になったからだよ。わたし、好奇心が強いからね」 うさぎは頬を染めて言った。楽しくて仕方ない、という顔だった。 怖気が走った。 「わたし、実は探偵をしているんだ。司さんに雇われてるの。月野うさぎ、っていうのは偽名。雫さんの好きな漫画から取った名前なんだ」 「な、なにを言って……」 「あの時はびっくりしたな~。草むらに隠れてたら、ケンタくんに『そこのお前!』みたいに声を掛けられて。君も一緒にいたよね」 そんな前から、僕達のことを調査していたのか……? 「これってどういう……」 うさぎは立ち上がった。僕を見下ろす。 「正直、君らを法的に罰することは難しい。雫の代わりにおしおきよ、ってことをしたかったんだけどね。でも、今回は超常的な何かが働いているっぽいから、わたしや司さんが手を下すまでもないかもしれないね」 「何を……」 「さっき、遺書をなぜ目立つところに置いていたのか、謎だって話をしたよね。私が思うに、あれは告発のための遺書じゃなかったんじゃないかな。君らに、遺書を隠蔽させるための罠だった」 「罠?」 「そう、罠。君らに罪悪感を植え付けるための罠であり呪いだった」 呪い? 何を言っているんだ、この馬鹿女は。 うさぎは頭がいいと思っていた。しかし、それは勘違いだったのだ。 腸が煮えくり返る。なぜ自分は、こんな女を信用してしまったのか。 うさぎを名乗る女は得意げに続けた。 「実際、あかねちゃんは罪悪感に押しつぶされて死んだ。今ケンタくんも罪悪感という呪いによって、壊れかけている」 僕は握りこぶしを固めて言った。 「僕はあかねやケンタとは違う。罪悪感なんかに潰されるほど弱くない」 「君は罪悪感が一番薄いよね。他人に責任転嫁する能力がめちゃくちゃ高いからかな。そのおかげか、かなり抗えた」 でも、と続ける。 「そんな君もそろそろ限界みたいだ」 「なんだと?」 「ノート、読んでみないよ」 心臓が早鐘を打った。全身から汗が噴き出る。 鞄からノートを取り出した。適当なページを開く。 絶句した。 遺書が書かれていた。 雫のもの、あかねのもの、交互に書かれている。ノートの半分以上が、遺書の文面で埋め尽くされていた。間違いなく僕の筆跡だった。 ノートを投げ捨てる。あまりのおぞましさに、吐き気を覚えた。 「ぼ、僕はこんなの書いてないぞ……。仕込んだノートだろ……え?」 うさぎの姿がなかった。司の姿も見当たらない。 気づいたら、薄暗くなり、電灯がついていた。午後二時だったはずだ。何が起きているのか。 さきほど投げたはずのノートが手元に戻っていた。さきほどよりノートを消費している。新たに遺書が書き込まれていた。 「うわあああ」 気が狂いそうだった。 雫が体を操っているのか? そんな馬鹿な……。 僕は立ち上がった。腹に力を込めて口を開く。 「僕はおかしくない! 僕はおかしくない!」 周囲の視線がこちらに向く。小学生たちがくすくすと笑った。高校生のカップルが、顔をしかめて僕から遠ざかった。スマホを向け、撮影してくる若者を、視界の端に捉える。 見るな。僕を見るな。 雫の死体を思い出す。 彼女の目は、僕を責めていた。 自分をいま狂おうとしている。しかし、まだ理性は残っていた。 僕は雫から恨まれていた。イジメを止めなかったからだ。本気で味方になるつもりがなかったからだ。 あの時に戻れたら、絶対に助ける。だから許してくれ。 そう訴えかける。 同時に、理性は確信していた。 もうすべて手遅れだということを。 |
円藤飛鳥 2023年04月30日 23時53分09秒 公開 ■この作品の著作権は 円藤飛鳥 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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