蟻地獄では不自然すぎる

Rev.01 枚数: 25 枚( 9,989 文字)

<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部

「今時、ブルマはねえよな。おっさん趣味すぎんだろ」
 長谷部義彦(はせべ よしひこ)が溜息交じりに言った。好きなAV女優の新作がコスプレジャンルで、出来があまりよくなかったらしい。憤っていた。
 僕は曖昧な返事でお茶を濁した。得意な話題ではなかったからだ。人の目もある。
 案の定、近くの女子達から「きも~」と言われる。義彦は鼻を鳴らした。
「……ま、そういうことだ。一応言っておくと、バニーガールはよかったぞ。今日はこれでいいや、と思えたからな」
 小声で言い、口を噤む。意外と小心者だった。
 義彦とは小学校からの付き合いだった。悪友と言っていい。今ではお互い、陰キャグループに属していて、オタク活動に精を出している。
 義彦は常に寝不足気味だった。授業中によく寝ている。高校生でありながらアパートで独り暮らしをしているから、生活が乱れ、つい夜更かしをしてしまうのだろう。一年前、彼の家を覗かせてもらったことがある。誰に着せるつもりなのか、バニーガールや婦警のコスプレ衣装が壁に飾られていた。自分で着ているのかもしれないと思い、触れないでおいた。
 生きた蜘蛛のコレクションを見せられた。多趣味な奴で羨ましいと感じた。親が金持ちだからできることだとは思うけど。
 友達の一人が口の端を釣り上げて言った。
「AVよりうちの女子のがよくないか?」
 神奈千里(かみな せんり)に自然と視線が向かう。
 ウェーブの掛かった髪、柔らかな表情、スタイルのいい体つき。ほんわかした空気を発していて、笑顔が愛らしかった。誰とでも分け隔てなく接し、優しくしてくれるから、クラスの大半が彼女に好意を抱いている。
「昨日、俺は彼女と寝たぜ。おっぱいを揉みまくった。夢の中で」
「おい、俺の女に手を出すなや」
 劣情を抱いている奴も多いようだった。
 僕はそっと黒板近くの席に目を向けた。
 黒沢かのんが友達と話している。笑みを浮かべていた。
 ロングの黒髪、白い肌、少し吊り上がった目。顔の造形は整っていて、神奈さんと並んでも遜色のない美少女だった。しかし不思議と、男子達からの評判を聞かない。ちょっときつい印象があるからだろう。実際は社交的で友達が多く、可愛らしい見た目をしていた。
「見過ぎちゃうか?」
 耳元で囁かれる。義彦だった。ふっと息を吹きかけられ、ぞくりとした。
「気持ち悪!」
「俺とお前の仲じゃねえか。なんだ、黒沢かのんのことが好きなのか?」
 直截すぎる……。顔が熱くなった。
 義彦が急に押し黙る。何事かと彼の視線を目で追う。
 黒沢さんが立ち上がり、こちらに向かって歩いてくるところだった。
 え? なんだ?
 ひょっとして締められるんだろうか。
 なに見てんだコラ、とか言われちゃう?
 それはそれで……なんて妄想をしていると、黒沢さんが僕らの前に佇んだ。
 僕ら陰キャグループの誰よりも背が高かった。強い圧を感じる。
 黒沢さんが僕に視線を固定する。
「田辺くん」
「は、はい。なんでしょう」
「なんで敬語?」
 苦笑された。
「同級生なんだからため語でいいよ」
「わかりました」
「おい」
 はは、と笑い声があがる。さすが陽キャだった。空気を緩和させるのが上手い。
 黒沢さんは、こほんと咳払いした。
「昨日、田辺くんのお母さんとコンビニで会ったんだ。夜の十一時くらい」
「え、そうなんだ」
 母さんは弁護士事務所で働いている。基本、帰りは遅いから、不思議なことではなかった。
「いろいろと田辺くんの話を訊かれたよ。適当に答えておいた」
「そ、そっか……」
 反応に困ってしまう。
 絡みが殆どないから、僕のことを訊かれても困っただろう。
 なんて質問され、なんて答えたのか……。妙に気になる。
「で、なにを訊かれたんすか?」
 義彦が手を上げて質問した。女子との会話に混ざりたくて仕方なかったのだろう。ナイスだ、と心の中で感謝する。
 黒沢さんは、すんっと表情を消した。怠そうに自分の肩に手を置く。。
「うーん……それ、義彦くんに関係ある?」
「え」
「今、田辺くんと会話してたんだけど」
 一瞬で場が静まった。
 普段はお調子者の義彦も、さすがにショックを受けたのだろう。言葉を失っていた。
 黒沢さんは、ふっと表情を緩めた。
「ま、そういうことだから。一応、会ったことだけ伝えておこうと思ってね。お母さんのこと、一人で深夜に歩かせちゃだめだよ」
 自分の席に戻っていく。
「……また俺何かやっちゃいました?」
 義彦が口の端を歪ませて笑った。ネタにしようとしているが、痛々しさを隠しきれていない。
「あれはお前が悪いだろ」
 友人の一人が言った。
「は? なんでだよ?」
「童貞だからだよ。美少女は童貞と話したくないんだ」
「童貞じゃねえって! 昨日も女抱いたもん!」
 わいわいと盛り上がる。
 ふいに視線を感じて横を向く。黒沢さんと目があった。
 なぜか、泣き出しそうな目をしていた。

 ■

 その日以来、黒沢さんに声を掛けられる頻度が増えた。僕が一人でいる時を狙って話しかけてくるのだ。
 話す内容は他愛なかった。この間は、好きな料理の話をした。
「……どういうことだよ」
 体育の授業が終わり、教室に向かっている最中だった。義彦に肘鉄を喰らった。
「なにS級美少女で童貞卒業しようとしてんだよ。この裏切り者が」
「言いがかりすぎる……」
「ワンチャン狙ってるやろ?」
「それは……」
 僕は煩悩を振り払って言った。
「ただの気まぐれで話しかけてきてるんだと思うよ。母親との会話で興味を持ってくれたんだろうね。かなり特殊だからね、うちの母さん」
「それは……そうだな。めっちゃ特殊だ」
 苦虫を嚙み潰したような顔で言う。トラウマが蘇ったのかもしれない。
 うちの母さんはかなり優秀で、大手の弁護士事務所に所属していた。昔から舌鋒鋭く論理的で、誰も論戦では太刀打ちできなかった。義彦が小学生の頃、何度かうちに来ていたのだが、その際、母さんの注意を受け、苦手意識を持ってしまったという話だった。
「お前んちのおばさんの話はいいよ。黒沢かのんの話をしようぜ」
「私の話?」
 振り返ると、黒沢さんが立っていた。心臓が止まるかと思った。
「あ、俺、あっちに用があったんだった……」
 独り言を残して去っていく。黒沢さんにも苦手意識を持っているらしい。塩対応されたのだから当然か。
「あの……どうして義彦のことを嫌うの?」
 思い切って尋ねてみた。黒沢さんは「別に嫌いじゃないよ」と答える。
「ただ、生理的に受け付けないだけ」
「そ、そう……」
「見ていると虫唾が走るの。嫌ってはいないよ」
 義彦……お前の好感度はマイナス一億くらいありそうだぞ……。
 距離を詰めてくる。体育後なのに良い匂いがした。
「お母さん、夜遅くのコンビニに行く習慣ってある?」
「え……どうだろう。仕事終わりにほしいものがある時しか寄らないと思う」
 そういえば、と思い返す。
 黒沢さんに声を掛けられた翌日、母さんにコンビニでのことを訊いた。すると、長い黒髪の可愛い子から声を掛けられた、と答えてくれた。
 学校での僕のことをいろいろと訊いてみたらしい。逆に、黒沢さんからも家での僕の様子を訊かれた、と話していた。
 社交辞令で質問を返しただけ――最初はそう思った。しかし、ここ最近の黒沢さんの言動を見ていると、淡い希望を抱きそうになる。
 黒沢さんが自分の髪を弄りながら言った。
「夜、コンビニに行くたび、会えないかなって期待するんだ。あの日以来、会えてないけどね」
「なんでそんなに会いたいの?」
 目を逸らしながら口を開く。
「うち、両親が揉めててね。なんか、どっちかが浮気したっぽくて……」
 僕は言葉を失った。なんて返すべきか、見当もつかなかった。
 黒沢さんは苦笑した。
「ごめん、こんなこと急に話されても困るよね。わたしが言いたかったのは、ひょっとしたら田辺くんのお母さんって弁護士だから、相談に乗ってもらえるんじゃないかって、勝手に期待してたって話」
「そ、そう……。そっか……」
 ちくりと胸が痛んだ。
 黒沢さんの目的はやはり母さんだったのだ。僕のことは眼中になかったのだろう。
 逃げたくなった。しかし、急に歩き去るのは不自然だ。ぐっと表情に力を入れ、平然を装う。
「田辺くんちって、両親の仲ってよかったっけ?」
 僕は軽い調子で答えようと、口を開いた。
「……どうだろう。たぶん、いいんじゃないかな。父さんは尻に敷かれているだけで幸せそうだし、母さんは絶対不貞を働かないで現状維持しようとするタイプだからね。逆に何もなさすぎて、子供としては心配になるくらいだよ。浮気の一つ二つしてほしいレベル」
 言い切ってから、はっとする。
 両親の浮気問題に悩んでいる黒沢さんの前でしていい話ではなかった。そこまで頭が働いていなかった。
「ふーん、そう……」
 黒沢さんは冷めたトーンで言った。距離を置かれる。
「うちは浮気しちゃったから、もう取り返しがつかないよ。仲直りしてほしいけどね。たぶん、無理だろうけど」
「ご、ごめん」
 黒沢さんが歩き出す。僕は彼女の背中が見えなくなるまで動けなかった。ようやく見えなくなったところで溜息をつく。
「田辺さん」
 びくりとする。神奈千里さんが背後に立っていた。体操服姿なので、胸の大きさが強調されている。一瞬、そちらに目がいき、慌てて逸らした。
「今のはあまりよくありませんでしたね」
「え、あ、ごめん……」
 しどろもどろになる。
 神奈さんは、眉を吊り上げた。
「黒沢さん、ショックを受けてたみたいでしたよ。わたしではなく黒沢さんに謝るべきですね」
 あ、そっちのことか……。
 神奈さんは、ぽわぽわとした笑みを浮かべた。表情がころころと変わる。見ているだけで心が穏やかになった。
「そんなに落ち込まないでください。きっと許してくれますよ。わたし、お二人のことを応援してますから」
 僕は曖昧に微笑んだ。踵を返そうとしたところで、神奈さんが言う。
「何か相談事があれば、いつでも文芸部室に来てください。お待ちしています」

 ■
 
 その日以来、黒沢さんから距離を置かれた。挨拶は返してくれるが、雑談をしようとすると、適当な理由をつけ、逃げられるのだ。
 友人達から「童貞卒業失敗!」とさんざん揶揄われた。本当に友達なのかと疑いたくなる。そろそろ敵として認定すべきかもしれない。
 自室のベッドの上で過去の言動を後悔していると、扉をノックされた。母さんが入ってくる。
 真っ直ぐに切り揃えられた髪、理知的な表情、黒スーツ、ふちなしの眼鏡。すべてがいつも通りだった。ひょっとしてこの人はサイボーグなのではないか。そう思うことがたまにある。
 母さんは無表情で言った。
「昨日、黒沢さんとコンビニで会ったわ」
「あ、そうなんだ。それで?」
「深夜のコンビニに女子高生が来てはいけないわ、と注意した。前回も注意してはいたのだけど――彼女、ここ数週間ずっと深夜のコンビニに来ているらしいわ」
 たぶん、コンビニ近くに黒沢さんの家があるのだろう。
「あの子とは距離を置いた方がいいわ」
 突然の言葉に驚く。母さんは無表情のまま続けた。
「あの子、かなりのストーカー気質よ。気を付けた方がいい」
 友達を選びなさい、と過去にも言われたことはある。ただ、直接名前を出されて言われたのは初めてだった。
 頭に血がのぼった。
「僕が誰と仲良くしようと、母さんには関係ないでしょ」
「関係あるわ。子供は親の言うことを訊くものよ」
 冷めた目で言われる。交渉は無駄だ、と悟った。
 母さんに感情論は一切通じない。わかっていたことだ。脱力感に襲われる。
「私のことを毎日、コンビニ前で待っているのよ。蟻地獄みたいでしょ。それに、夜の街をぶらついていると話していたわ。何か、よくないことをしている可能性が高い。最近、若い女の子で、そういうことをする子は多くなっていると聞くわ。彼女もそうなんじゃないかしら」
 体を売っているのではないか、と疑っているのだ。
 僕はもう、どうでもよくなった。
 母さんのことは嫌いではない。頼りになる存在だと思っている。格好いいと思うところも多い。でも、これはラインオーバーだ。
 僕はベッドから起き上がり、母さんを部屋から追い出した。

 ■

 翌日の昼休み、事件が起きた。
 黒沢さんが階段から転落して頭を打ったのだ。大きなたん瘤ができて、早退する流れとなった。
 誰かに押されたのではないか。そんな噂が流れた。倒れている黒沢さんを抱き起したクラスメイトの証言によると、黒沢さんは怯えた顔で誰かの名前を囁いたらしい。声が小さすぎて聞こえなかったので、誰、とクラスメイトが訊くと、黒沢さんは表情を消して、「なんでもない」と答えた。
 教師や周囲には、足を滑らせたと語っているようだった。
 午後の授業は集中できなかった。
 放課後、義彦と教室を後にする。廊下を歩きながら、義彦が暗い表情で言った。
「なあ、言いたいことがあるんだけど」
 いつになく真剣な目をしていた。足を止めて「何」と訊く。
「実は俺、黒沢が転落したところを見たんだ。覚悟を決めた顔をしてから、わざと飛び降りてた」
「え? な、なんでそんなことを……?」
 義彦は肩を竦めた。
 ひょっとしたら、と思う。
 両親の浮気の件がストレスとなり、自傷行為に走ったのかもしれない。
 義彦は言った。
「もう一個、話しておきたいことがある」
 以前、黒沢さんと二人きりで会話をしたのだという。その時、僕の話を根掘り葉掘り聞かれたというのだ。あまりの熱心さに、引いてしまったらしい。
「情緒不安定だと思ったよ。冗談めかして、『お前、ストーカーかよ』って言ったんだ。すると黒沢は、大声をわめきたてて、ストーカーと一緒にするな、と俺をなじりまくった。凄い剣幕だったぜ」
 想像がつかない。どちらかといえば、クールな印象の人だからだ。
「青い春を売っている、なんてことも言われてるだろ?」
「え」
 義彦は意外そうな顔をした。
「知らないのか? 深夜、よく一人で街をうろうろしているらしいからな。お金をくれそうな人を物色しているらしいぜ」
「まさか……」
 母さんの話を思い出す。深夜うろついているというのは事実だろう。しかし、援助交際しているなんて……。
「周囲に訊いてみろよ。皆、陰で噂してるぜ」
 そんなことを訊けるわけがなかった。項垂れる。
「今回わざと階段から落ちたのは、お前の気を引きたかったからかもしれないな。蟻地獄みたいに、お前が自分のところに来てくれるのを待ってるんだよ」
「それは……どうだろう。僕は違うと思う」
 家庭が荒れていることを話す。具体的には話さなかった。人のプライベートのことを話すぎることに躊躇いを覚えたからだ。
 義彦は目を丸くした。それから、顔を歪めて言った。
「それはおかしいぜ。黒沢の両親、高校一年のときに離婚してるからな」
「えっ、本当?」
「ああ。間違いない情報だぜ。一年の時、黒沢と同じクラスだったからな。女子達が話していたのを訊いた。本人もそれを認めてたぜ。割とカラッと話していたから、そんなに離婚のことを気に病んではいないと思ったが……」
 すべて嘘だったのか。母さんに接触した時、すでに両親は離婚していたのだ。
 ふいに気づく。
 そもそも黒沢さんは、なぜ僕の母さんに声を掛けることができたのか。互いに面識はなかったはずだ。
 母さんに接触したのは、計画的なものだったのではないか? 
 家での僕を探るための行動だった?
 肩をぽんと叩かれる。
「親友として言わせてくれや。黒沢とは離れた方がいい。もう関わるな」
 下駄箱まで歩いた。いつもは二人で帰路につくところだが、僕は用事があるからと来た道を引き返した。
 胸がざわついた。いったい、黒沢さんはどういう人間なのか。本当に、情緒不安定なストーカーで合っているのか。
 気づいたら、文芸部室の扉の前に辿り着いていた。扉をノックすると、中から「どうぞ」と声を掛けられた。

 ■

 神奈千里さんがお茶を入れてくれた。ありがたく頂戴する。
 文芸部室には彼女一人しかいなかった。他のメンバーは全員、幽霊部員とのことだ。
「嬉しいです。悩み相談に来てくれたのですね」
 目を輝かせて言う。女子らしく、恋愛のことが聞けると思ってワクワクしているのだろう。
 僕はこれまでの経緯を事細かにすべて話した。彼女なら、肯定的に訊いてくれると思ったからだ。
 神奈さんは顎に手を当て、ふむ、と頷いた。
「田辺さんは、黒沢さんのことをどう思っているのですか?」
 唇を舐めてから言う。
「正直、僕は黒沢さんのことが好きだよ。ストーカーだとか援交だとか、信じられない。信じたくない……。でも、証拠が多すぎる。否定する材料がない」
 僕は握りこぶしを固めた。
「でも、真実には目を向けなきゃいけないと思っている。僕は、黒沢さんと向き合いたいんだ」
「なるほど、そうですか」
 神奈さんは微笑んだ。それから、すっと表情を殺した。目を細めて僕を見つめる。
 室内の温度が下がった気がした。
「田辺さん、あなたは真実から目を逸らしています」

 いったい何を言っているのか。呆然としていると、神奈さんは続けた。
「田辺さんの話を聞いていて引っかかったポイントがいくつかあります。一つに、黒沢さんがストーカーで、なおかつ青い春を売っていると。そう主張しているのは、義彦さんとお母様のお二人のみ、という点です」
 そういえば確かにそうだ。僕はその手の話を、他の人から訊いたことがなかった。
「でも、嘘をつく理由がないからね……。たまたま考えが一致しただけだと思うよ。事実を並べていくと、その解釈に行かざるを得ないからね」
「確かに。それが事実だとしたら、そうかもしれませんね」
 神奈さんは落ち着いたトーンで続けた。
「一度コンビニで会話をしたのは事実でしょう。黒沢さん、お母様、両者が認めていることですから。一年生の時、両親が離婚していたというのも本当みたいです。黒沢さん本人が言っていたのを訊いたことがあります。しかし、それ以外の会話は、本当にあったかどうか、まだ確定させることはできません。義彦さんとお母様が一方的に『そういう会話をした』と言っているだけですからね」
「え、ちょっと待ってよ。さっきも言ったけど、嘘つく必要がないよ」
「それがあったとしたら?」
 唇の端を吊り上げながら言った。
「さきほど、田辺さんは、たまたま二人が同じ解釈をした、とおっしゃいましたよね。しかし、もう一つ一致があるのです。『蟻地獄みたいな』というワードです」
 僕は手と手をこすり合わせた。なぜか体全体が汗ばんできている。
 神奈さんは口を開いた。
「黒沢さんはストーカー気質で援助交際をしているような子であるとお二人はおっしゃっています。さらにお二人は、黒沢さんを『蟻地獄のようだ』と評しました。しかし、蟻地獄のような、という比喩は、そこまで一般的ではないように思われます。狡猾な人に対しては狐のようだと言い、操ったり罠を張ってくる人に対しては蜘蛛のようだと言うのが一般的です」
「ど、どうだろう。そうは言い切れないんじゃないかな。たまたま表現が似ちゃうことだってあると思うし……」
「義彦さんは家で蜘蛛を飼っているそうですね。だったらなおさら、蜘蛛という表現を使うのが自然ではないでしょうか? 人間は普段から使っているものや、興味があるもので、何かを例えがちです。無意識に言葉を選んでしまうのが人間なのです。にもかかわらず、わざわざ『蟻地獄』で例えた。不自然と言わざるを得ないでしょう。つまり、二人はそれをどこかのタイミングで、共通言語として使ったことがあるのです。でなければ、黒沢さんの話題の中で、ピンポイントで黒沢さんのことを『蟻地獄』と例えることはまずないでしょう」
 なぜか吐き気を覚えた。だが、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。
 神奈さんは淡々と続けた。
「二人は黒沢さんのイメージを悪くしようとした。二人には接点があります。あなたです。田辺さんという接点を介して、二人は会い、黒沢さんのことを話し合ったのです。どちらが先に言いだしたのかはわかりませんが、その中で、『蟻地獄』というワードが使われたのでしょう。だから、どちらも田辺さんとの会話の中で、黒沢さんを『蟻地獄のようだ』と例えてしまった」
 さまざまな余白が埋められていく。僕は戦慄した。
 母さんは仕事でいつも帰りが遅かった。しかし、本当に仕事で帰りが遅くなっていたのだろうか?
 義彦の家に行っていたのではないか。彼は高校生でありながら一人暮らしをしている。誰を呼ぼうとバレることはない。うってつけの根城だった。
 義彦はいつも寝不足気味だった。母さんと夜遅くまで関係を持っていたからではないか。母さんの名前が出た時、気まずそうにしたのも、僕に対しての罪悪感の表れだったのかもしれない。
 神奈さんは続けた。
「黒沢さんは、お二人が深夜に歩いてるところを見てしまったのかもしれません。田辺さんのお母様だとわかったのは、会話を盗み聞きしたから、と考えられますね」
 秘密を知った黒沢さんは、僕に浮気の事実を教えようとしてくれたのではないか。現在進行形で両親の浮気に悩んでいると嘘をついたのは、僕に気づかせるためだったのだ。
「直接言わなかったのは、田辺さんが受けるダメージを配慮してのことでしょう。普段絡みがなく、どれくらい耐性があるか、そもそも信じてくれるかどうか、何もわからない状況でした。自分が他人の家族の問題に関わっていいのかという葛藤もあったのかもしれません」
 義彦に対して塩対応だった理由が今ならわかる。黒沢さんは、自分の家庭が壊れたきっかけとなった浮気という行為を憎悪している。浮気とわかっていながら、僕の母さんと関係を持つ義彦のことが許せなかったのだろう。
 黒沢さんが母さんに会おうとしていたのは、浮気をやめるよう説得したかったからだ。そして、実際に説得をおこなった。結果は失敗。二人は情報共有をして、黒沢さんの信用を落とす計画を立てた。実行して今に至っているというわけだ。
「もしかして、黒沢さんのことを突き落としたのは……」
 嫌な光景が脳裏に浮かんだ。
「一応言っておくと、今話しているのは、ある側面から見た真実です。また別の真実が隠されている可能性は大いにあるでしょう。断定はよくありません」
 神奈さんは超然と言った。しかし、彼女の考えに隙はなかった。僕はすべてを受け入れてしまっている。
 これからのことに想いを馳せる。
 義彦との関係はどうなってしまうのだろう。僕は彼を友達だと思っていた。しかし向こうは、そういうふうに思っていなかったのかもしれない。母親を取られていることに気づかない間抜け。そう思われていても不思議はなかった。
 母さんはどうだろう。息子の友達と関係を持ち、そのことに罪悪感はあったのか。僕や父さんのことを、どう考えていたのか。
 なにより、黒沢さんのことが気にかかる。
 黒沢さんが行動を起こしたのは、自分の家庭が浮気によって崩壊したからだろう。黙ってはいられなかったのだ。僕が浮気を茶化すような発言をして、距離を置いてからも、僕のために母さんを説得しようとしてくれた。
 僕はスマホを取り出した。
 クラス替えの時、黒沢さんとは連絡先を交換している。彼女はいま病院だろうか。
 逡巡していると、通話画面が表示された。黒沢さんからだ。
 前を向くと、神奈さんが微笑んでいた。
 僕は通話をタップした。
「急にごめん。実は、田辺くんに言いたいことがあるんだ。君のお母さんと義彦くんのことで……。重要な話だから、会って話をしたいんだけど、いいかな?」
 声に覚悟が滲んでいる。僕はすぐに了承した。
 会う時間と場所を確認してから通話を切る。
 神奈さんを見た。まっぐす見つめ返される。
 真相を知らないまま会えば、僕はきっと動揺して、黒沢さんの話を受け入れられなかっただろう。信じたい。そう思いながらも、彼女の話をはねのけていたと思う。母さん、義彦との関係性の方が長く濃かったからだ。
「ありがとう」
「感謝する相手はわたしではありませんよ」
 僕の中で何かが吹っ切れる感覚があった。
 黒沢さんは、大して関係のない僕のために動いてくれた。
 今後、二人と敵対するかもしれない。一筋縄で解決する問題ではないだろう。
 険しい旅が始まろうとしている。一度進めば、もう後には戻れない。ゴールにたどり着ける保証はない。そもそも、ゴールなんてないのかもしれない。
 でも、構わなかった。もう何が真実か、僕の中で固まっているからだ。
 何を守りたいか。僕自身のスタンスも固まっている。
 僕はもう一度礼を述べると、文芸部室を後にした。
 
円藤飛鳥

2023年04月30日 20時27分38秒 公開
■この作品の著作権は 円藤飛鳥 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:真実は無意識に表れる

◆作者コメント:文字数制限との戦いでした。参加できて嬉しいです。よろしくお願いします。


2023年05月14日 15時46分48秒
作者レス
2023年05月14日 15時38分55秒
作者レス
2023年05月14日 14時06分40秒
作者レス
2023年05月13日 15時51分54秒
+20点
Re: 2023年05月14日 22時54分38秒
2023年05月13日 02時47分12秒
+20点
2023年05月12日 23時52分40秒
+10点
2023年05月12日 19時41分30秒
2023年05月12日 12時54分31秒
0点
2023年05月10日 00時40分19秒
0点
2023年05月09日 22時56分26秒
+20点
2023年05月06日 13時18分20秒
0点
2023年05月04日 22時26分50秒
+10点
2023年05月04日 20時21分43秒
-30点
2023年05月03日 20時55分48秒
+30点
合計 11人 80点

お名前(必須) 
E-Mail (必須) 
-- メッセージ --

作者レス
評価する
 PASSWORD(必須)   トリップ  

<<一覧に戻る || ページ最上部へ
作品の編集・削除
E-Mail pass