兎とタンポポ |
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俺は真昼の太陽の下でキンと冷えた冬の夜空を見た。 四つの星が菱形に並ぶ冬菱。右の星が見切れているが、間違いない。 一瞬にして汗が引く。鼻の奥にピンと澄んだ雪の匂いすら感じた。 だが、それは一瞬の幻だった。 冬空は本物の夜空ではなく、端切れに過ぎない。それに気づいた瞬間、暑さが再び俺を蒸し上げる。 思い出したように吹き出る汗をぬぐいながら、俺は冬空に追いつくべく人混みを縫うように歩き始める。 冬空は星空の柄をした手のひらほどの端切れであり、端切れはパッチワークキルトの一部だった。キルトは手提げ袋であり、少女の腕の下で揺れる。 「ちょっと、お嬢さん」 声を出してはみるが、ここは市場だ。『お嬢さん』の該当者も沢山いる。目的の手提げ袋の少女は足を緩めもせず、露店の婆さんがニヤリと笑って手を振ってくる。あんたじゃない。 ちょっと焦れてきたので、無理やり足を速める。なんとか少女の前に回り込めた。近くのレストランの給仕だろうか。エプロンドレスが可愛らしい。 「私は」 一瞬、言葉が切れる。その間を不自然に思わせないように、胸に手を当てて礼をする。 「レオンという旅商人です。ちょっとお話を聞かせていただきたくて」 「ふぅん、旅商人さんですか」 彼女の値踏みするような視線が、主に俺の耳のあたりをさまよう。エルフの長耳を見慣れないだけかもしれないが。 「あたしはとっても忙しいので」 耳から離れた視線はすぐ傍の屋台で止まる。 屋台の親父はとびっきりの笑顔を浮かべ、竹のジョッキに魔術で作った氷を放り込んだ。 「よーく冷えた茉莉花茶を飲む間ぐらいしかお話は出来ないですね」 「御馳走しましょう」 こちらも丁度、喉が渇いたところだ。 〇〇〇 それから七日。俺は草を枕に夜空を見上げていた。 明け方に近いが、まだ陽の光がさすほどではない。夜露に濡れた春の花の香りが心地よい。 伝手を使って帝国行きの快速船に飛び乗って四日、最北の港ムルマクから商業都市までが半日。さらに北の街までは乗合馬車で二日。 そこで聞いた話では、ここより北は小さな村が点在している程度で行商人すら滅多に行かないらしい。乗合馬車はないのかと聞いたら、なんであんな所に行きたいんだと聞き返された。 商人がどこかに行く理由なんて売るためか買うためかに決まってる。 とはいえ、茉莉花茶の少女から聞けたのは、あの冬空の端切れは夜空絹という高級品である事と、帝国の北の方の特産品だという事だけだった。 「あの辺が見栄えがするかな」 両手の指で四角を作り、夜空を切り取る。 冬の空の澄んだ感じこそ無いが、春の夜空も趣がある。月が大分痩せてきているから、星も見やすい。 昔、母に無理矢理教え込まれた星座を思い出す。たしか、あの三角が白兎座だったはず。 結婚を機に放浪を止めて定住を選んだ母とは、もう十年ほど会っていない。 見た目はともかく実年齢は俺より若い人間の義父と上手くやれる気もしないし。 そんなことを考えていると、近くの茂みがガサリと鳴った。 本物の兎だ。 夜になって閉じたタンポポの花をかじっている。 兎は嫌いじゃない。 エルフは人間から時々兎のあだ名で呼ばれるから親近感がある。 それに農村では害獣扱いだし、数が多いから専業猟師と取り合いになる事もない。あちこちにいるし味も癖が無くて安定しているから、旅人がちょっと狩って腹を満たすには最適なのだ。 そういうわけで、早速投石紐を取り出す。 『兎を狩ってはいけない時が三つある』 ふと、母の教えが頭をよぎった。星座の事なんて思い出していたせいか。 『一つ目は、リボンや首輪をしている場合』 農村では害獣だが、一部の金持ちはペットにしている事もある。 そんなのを狩ってしまうと後々面倒だが、そんなものは見えない。 石を投石紐のポケットに据え、音をたてないようにそっと回し始める。 『二つ目は、前歯が妙に鋭い時』 首狩りと言われる兎型の魔獣はかなりの強敵だ。 前歯が刃物になっているので、見分けるのは簡単。 この兎の歯はごく普通だ。 だが、兎はゆっくりとこちらに振り向こうとしている。 気づかれる前に石を放とうとしたのだが―― 『三つ目は、その兎の瞳が月の色をしている場合』 まさに、そうだった。 ほとんどが黒の瞳なのだが、左下に少し青みがかった黄色がある。空の月と全く同じ欠け具合。 「ほ、これは望外。アイリスの子ではないか」 兎に話しかけられ、俺は投石紐を回すのをやめた。 兎が人の言葉を話したことに驚いたのか、母の名が出たことに驚いたのかは分からない。 回転をやめた紐は力なく垂れ、石が足元に転がり落ちる。 「アイリスの子よ。名はなんという」 「俺は」 一瞬、言葉が切れる。 相手に名乗りを求める前に自分が名乗れよとか、そんな思いを飲み込んで答える。 「レオンだ」 「レオンか。真の名はどうした」 兎のくせに、一発で偽名を見抜いてくるとは。 少し驚きはしたが、母に押し付けられた本名を名乗る気はない。 「名前ってのは、自分と他人が認識してれば十分なんだよ」 俺がレオンと名乗り、相手が俺をレオンと呼ぶなら、それは名前として機能する。 本名は、会ったことも無い親父に因んだらしいが、大の男に似合わない名だ。兎に鼻で笑われるのはごめんこうむる。 兎は不満げに足を三度踏み鳴らしたが、何も言わずに話題を変えてきた。 「レオンよ、ワシを手伝え」 「なんでだよ」 「月の瞳の兎に出会ったら、大人しく言う事を聞けってママに教わらなかったかの?」 「うるせぇ。夜空絹を仕入れに行くのに忙しいので謹んでご辞退申し上げます」 母の事を持ち出され、思わず妙な言い回しになりつつもきっぱり断る。 だが、兎はめげるどころか笑い出す。 「夜空絹、夜空絹だと」 何がおかしいのか、タンポポの上をひとしきり転がりまわりながら言葉を続ける。 「だったらやはりワシについてくるしかないの。あれは、単に金貨をジャラつかせれば買えるものではない」 そもそもジャラつかせるほど豊富に金貨を持っているわけでもない。首尾よく夜空絹の産地を見つけたとして、仕入れられる金額なのかということは危惧していた。 しかし、金銭での仕入れができないとなると、どうしようもない。 「じゃが、ワシの頼みを聞いてくれるなら、二,三枚譲ってもらえるよう話をつけてやる」 話としては美味しい。美味しすぎると言ってもいい。 兎の言う事なんか信頼できるのか、なんて言い出したらそもそも兎と話していること自体がバカバカしい。 「……タダなんだろうな」 「労働への報酬じゃよ」 どんなに気に食わない兎でも、言う事を聞くしかないようだ。 〇〇〇 「荒事をやらせたいなら、旅商人じゃなくて冒険者に声をかけろよ」 俺のつぶやきに、兎がタンタンタンと足を踏み鳴らす。 この兎、夜の間しかしゃべれないとのこと。昨夜のうちに決めた合図では、二回足踏みが肯定、三回足踏みが否定だ。 「へいへい、とにかく何とかしろって事ね」 兎が欲しいものはキノコ。丸く青白い傘を持つ、親指ほどのサイズのキノコが両手に余るほど要るのだという。 街道から少し外れて、そのキノコが生えているという洞窟までは来たのだが、入り口前でゴブリンが見張りをしているのだ。 俺だって護身用の小剣ぐらいは持っている。不意をつけば、見張りの一人は簡単に倒せる自信がある。しかし、洞窟の奥にいるであろう、もっと多くのゴブリンと戦って勝つのは無理だ。 ここは、商人風のやり方で行く方が良いだろう。干したアヤメの花びらを口に含む。花の香りが鼻に抜けたところで、俺は身を隠していた茂みから出る。 小剣は鞘の中だし、歩みもゆっくり。普通に散歩に来たような雰囲気を出す。出しているつもりだ。 「やあ、お友達」 「……何の用だ」 ゴブリンは怪訝そうな表情で俺を眺める。まずは第一段階クリアだ。 話をしやすい距離まで近寄り、兎からもらったキノコを見せる。 「このキノコを探してるんだ。君の巣穴にありそうなんだが」 「あるな。でも、タダじゃやれない」 「これでどうだい」 キノコに代わって取り出したのは、干した果物だ。ムアンといって、南国の特産品だ。しかも、これは拳二つ分ほどの大ぶりなやつ。 「知らない果物だな」 「うまいぜ。味見してみろよ」 端の方を少し千切って渡してやる。自分用にも少し千切って口に放り込んだ。 甘みが口の中に広がる。生だとスッキリした酸味があるのだが、干すと甘味の方が強く出るようだ。 北の原野に生きるゴブリンにはコレが良かったらしい。表情から警戒が消え、目がまん丸に見開かれる。 「四つよこせ」 「デカいんだし、二つでいいだろ。二つと、この袋一杯分のキノコを交換だ」 ゴブリンはちょっと考えていたが、ニタリと気味悪く笑って頷いた。 「いいだろう。ついてこい」 ◯◯◯ ゴブリンの巣穴から出た後、街道に戻ってしばらく歩いた辺りで日が暮れてきた。もうちょっと頑張れば次の村があるが、あえて野営の準備をはじめる。 日が沈んだ途端、兎はくつくつと笑いだした。 「〈魔女の舌〉とは、中々立派な魔女ぶりではないか」 〈魔女の舌〉は言葉が通じるようになる魔法だ。放浪生活に便利だからと母に教え込まれた。魔女の魔法を使っているのがバレると色々問題だから、こっそりやる必要があるが。 「しかし、運が良かったの。あのゴブリンどもがもうちょっとあくどい奴なら、巣穴の奥で殺されておったぞ」 「違ぇよ」 俺が使ったのは、〈魔女の舌〉ではないし、あのゴブリン達は多分十分にワルだ。 洞窟の奥で俺を殴り殺せば、果物も他の商品も手に入れられる。そんな悪巧みをしている笑みだった。 それをしなかったのは、俺が改良した魔法のせいだ。 言葉を通じるようにするだけでなく、商談が成立したら互いにそれを誠実に守る、そんな魔法だ。 だから、ゴブリンが俺を殺してもっと果物を得ようと思う事は無いし、俺が出来心でキノコを二袋取る事もできない。いやまあ、よく分からないキノコをもう一袋欲しいなんてそもそも思わないが。 「後は、何がいるんだ?」 「火酒を壺に二つ分ほど」 「飲むには多すぎだろ」 壺一つあれば、兎を丸ごと酒に漬けられる。美味いかどうかはさておき。 「夜空絹を作るのに使うんじゃ。忘れじ茸をつけた火酒に絹を浸し、軽く絞ってから一昼夜の間夜に晒す。それで絹が夜空を覚えるのよ」 忘れじ茸とやらがゴブリンから得たキノコの事だろう。貴重な物の割には簡単な作り方だな、と思ったところで違和感に気付く。 「一昼夜の間夜に晒すっておかしくないか?」 昼の間は夜ではない。ごく当たり前の話だ。 しかし、兎は足を三度踏み鳴らす。 「この辺りでは、おかしくない」 「……まさか、夜が明けないのか!」 「冬祭りの前後数日だけだがの」 冬のど真ん中の頃、北の果ての方では全く日が登らなくなる事があるのだと聞いたことはあった。そんなところまで来ていたとは。 「ん、冬祭り? じゃあほぼ一年待てってのか?」 冬祭りは三ヶ月ほど前に過ぎ去り、今は春だ。普通に昼が訪れる。 「本来はそうなんじゃが、今回は事情があってな。なんとかしてやるから、大人しく着いて来い」 何をなんとかすれば昼を来なくできるのかはまるで分からないが、今更手を引いても仕方がない。 ◯◯◯ 目的の村は村と呼ぶのもためらわれる程度の規模だった。五軒の家を申し訳程度の柵が囲っている。一軒だけはかなり大きいが、それも豪華とえるものではない。 飾り気と言えるのは、足元を覆い尽くす勢いで生えているタンポポぐらいだ。 そんな集落の柵の前で女が一人、俺を待っていた。 「お久しぶりです、兎様」 訂正。兎を待っていた。 多分20歳そこそこの人間で、気の強そうなしっかりした目鼻立ちをしている。衣服はこの地方特産の厚い毛織物。その服の紋様と、首から下がるペンダントの意匠に見覚えが会った。 内心警戒する俺と対照的に、兎はねぎらうように前足で彼女のスカートを叩く。日暮れは近いが、まだしゃべれないらしい。 「お付きの方もお疲れ様でした。まずは、家の中で少し御休憩を」 お付き扱いされるのに不満が無いわけではないが、休めるのはありがたい。 ついていこうとして、足元にタンポポがあったのでそれを避ける。 その動きが、彼女の目には妙に映ったらしい。 「何か?」 「いや、随分寒いこの辺でも、生えてるんだなと思って」 「昔、旅人が植えてったんだって。可愛いよね」 敬語が崩れて、素直な笑みがのぞく。 そうしていれば中々可愛らしい、と思いながら一番大きな家に通された。 入った途端、いくつもの視線が俺に向けられる。大広間に集う子供たちの視線だ。ザッと十人ほど。家の数からすると、妙に多い。 「アレが兎様?」 「どうみてもエルフだろ」 「デカい荷物!」 「顔はアリだと思う」 「ヒョロすぎでイマイチ」 好き勝手言われているが、とりあえずは無視しておく。 荷物を下ろして勧められた椅子に座る。兎はヒョイと机に飛び乗った。 「兎様だ!」 「かわいいー」 「モフモフー」 こちらはずいぶん好評だ。 どうだと言わんばかりの顔でこちらを見てくるが、無視無視。茶を入れてくれた彼女の方を見る。 「あたしはエレノア。この村の代表をしてる、しています」 使い慣れていない敬語が初々しい。が、敬語で話し続けるのも肩がこるので、あえて砕けた言葉で返す。 「俺はレオンだ。旅商人をしている」 兎がタンタンタンと足を踏み鳴らした途端、エレノアの顔が曇った。 「噓でしょ」 「名前は通じればそれでいいだろ」 「偽名ってことね。しかも旅商人だなんて」 敬語が取れたのは良いが、かなり不審な目で見られてしまった。周りの子供たちの目も痛い。 まぁ、旅商人にとってはよくある事なので、対処の仕方は知っている。 「旅商人なのは本当さ。お近づきの印に……これを」 あえて間をおいて注目を集めた上で、干した果物を取り出す。 大ぶりな果物は目を引くし、甘味が嫌いな子供はいない。わぁ、と子供達から歓声が上がる。 エレノアすら、反射的に目が輝いた。が、すぐに警戒の色が戻る。 「いくらで売りつけるつもり?」 「これはオマケ。金を取る気はない。今回作る夜空絹を分けてもらう事で兎と話がついてるからね」 兎が二回足踏みしたのと、子供たちの食欲満載視線に負けて、エレノアが頷く。すると、子供の中でも一番背の高い女の子が俺に近付いてきた。 「はい、どうぞ。みんなで分けるんだよ」 「ありがとうございます!」 果物を受け取り、頭を下げる女の子。 その瞬間、帽子が落ちた。 慌てて帽子を拾って被り直し、女の子は子供たちの輪に戻っていく。 「なるほど。そういうことか」 女の子の額、右目の上の方には細い角があった。部屋の中でも帽子をかぶっているから妙だとは思っていたのだ。 そのつもりで子供たちを見ると、包帯を巻いていたり、背中に不自然な盛り上がりがあったりが目につく。 「他言無用。漏らしたら、呪う」 エレノアの脅しが推測を裏付ける。 この村は、異形ゆえに排斥された子らの隠れ里だ。 警戒が強まったのはこれが理由だろう。偽名を使う旅商人なんて、どこで隠れ里の秘密を言いふらすか分かったもんじゃない。 「呪うってことは君も魔女か」 「シャーマンよ。魔女とは似てるけど、ちょっと違う。……も?」 「コイツはアイリスの子じゃよ」 兎が急に割って入る。まだ日暮れは先のはずだが。 「じゃあ、儀式も?」 「手伝わねーぞ」 儀式が何なのかは分かっていないが、これ以上妙な事に巻き込まれる前に釘を刺しておく。 「手伝うなら、分前は四枚。手伝わんなら、二枚じゃ」 兎が交渉を仕掛けてくるが、俺は決然と首を左右に振った。 「二枚でいい」 エレノアが怒って何かを言おうとしたところで、子供たちの歓声がさえぎる。 「うまーい!」 「あまーい!」 「レオン、もっとないの?」 果物を食べた子供たちが、もっとよこせと俺にまとわりつく。 「あるけど、売り物だ。金を出せるか?」 「金はないから、家でいいか? 猟師のおっさんが使ってた家が余ってるんだ」 「よそ者に使わせる家なんてないよ」 ピシャリというエレノア。まあ、こちらもこんなど田舎の隠れ里に家をもらっても意味ないが。 「果物の話は後じゃ。さっさと儀式の準備をするぞ」 兎の言葉に、子供達が一斉に頷いた。 ○○◯ 黄色い花畑の上に草を編んだ大きなマットを広げ、太鼓や酒が載せていく。 マットの四隅にかがり火が置かれ、その外側に木で組まれた台が十二個。 酒で濡らた絹を、子どもたちと一緒に台の上に広げていく。 火酒はキノコを漬けこんだ後も無色透明で、それで濡らした練絹も真っ白なままだ。これが本当にあの夜空の色になるのだろうか。 「では、始めるとしようかの」 「はい、兎様」 皆がマットに車座に座り、兎がその中央に立つ。 俺は少し離れて見物しているつもりだったのだが、子供たちによって強引にエレノアの隣に座らされた。 エレノアは酒を一口飲んで、太鼓を手で打ち始める。 初めて聞くような、聞いたことがあるような、そんなリズム。 子供たちの何人かは、同じように太鼓を打ち始める。 あまり慣れていないようで、エレノアの太鼓より少し遅れ気味だ。 しかし、そのズレすらも取り込んで、エレノアの太鼓が変奏する。 子供たちが続ける単調なリズムの上に、より複雑玄妙な第二のリズムが重なり、音に深みが増した。 それを待っていたかのように、兎が踊り始める。 はじめは四足で走り回ったり転がったり。 草の穂を持って伸びあがるような動きを何度かした後は、二足で立ちあがる。 もはや、尋常な獣ではないことを隠そうともしない。 完全な黒となった瞳で、俺の方をチラリと見てくる。 そして、歌が始まる。 エレノアが低く作った声で短く歌い、兎が甲高い鳴き声で返す。 まるで知らない言葉のようで、だがなんとなく意味が取れる。 おそらくは、男女の逢瀬であろう。 はじめは仲睦まじいが、ふとした事からすれ違いが始まり、やがて喧嘩が始まる。 そう、天地を巻き込む大ゲンカだ。 おぼろげな記憶に突き動かされ、俺は空を見上げた。 山際近くまで下りてきている、赤い太陽。 兎のひときわ甲高い鳴き声とともに、その端が欠けた。 黒い領域はどんどん太陽を侵食していく。 同時に、周囲も暗くなる。 日食、そう呼ばれる現象の事は聞いたことがあった。 まだ母と旅をしていたころ、学者崩れから聞いた話だ。 昔は魔物が太陽を喰らうからだと言われていたが、そんなことはない。単に太陽が月の影に入るだけだと自慢げに言っていた。 それを聞いた母は、どんな顔をしていた? 全てを分かったうえで、あえて訂正しない。そんな笑みをしていたのではないか。あの兎のように。 もはや太陽は影に消えた。 夜闇が空を覆い冬菱が瞬くのが見える。 見れば、子供たちもどこか不安げに周りを見回している。 それでも兎は踊る。かがり火に照らされて。 俺は喉の渇きを感じ、傍にあった木のマグから液体をあおった。 火酒だ。 喉の奥がかあっと熱くなり、胃の奥からキノコが香る。 エレノアの打つ太鼓が、再び変調した。 喧嘩を表していた激しさがふっと消え、ゆっくりとしたうねりを持ち始める。 子供たちも再度太鼓を鳴らし始める。だが、先ほどまでとは違い各自がてんで勝手にやっているようだ。 お互いに顔を見合わせて笑いながら。 時には共に響くように。 時には互いに競うように。 そんな様を見ていたからか、歌が始まっているのにも気づかなかった。 今度の歌はもっと分からない。 いくつもの大地、無限に無限の星々。 かろうじて拾える単語の意味がつながらない。 酒を口にしたせいかもしれないが、それにしては頭の奥が妙に冴えていた。 歴史を歌っているのだ、と俺の中の母が言う。 表立って語られることはない、魔女がシャーマンが口伝えする歴史を。 重なり合う街と街、無限は混沌に飲み込まれる。 頭がグラグラするのは酒のせいに違いない。 星の動きが妙に遅いのも。 まだ八分の一も動いていないのに、子供たちの幾人かはもう眠り始めている。 本来なら、ようやく日が暮れた程度のはずだ。 眠さは既に夜半に近いが。 エレノアがこちらに手を伸ばしたので、マグを渡してやる。 だが、飲む時間を見つけられないようだ。 混沌の中から秩序が生まれる。一つではない。 無数の秩序はぶつかり合って新たな混沌を生む。 星が三分の一動いたころ、最後まで起きていた片角の子供も太鼓を離し、横になった。 兎はまだ踊り、エレノアもまだ太鼓を叩いて歌っている。 既に徹夜明けほどに育った眠気。 俺は別のマグからちびりちびりと火酒を喉に流し込む。 喉奥の熱さと、キノコの香りに頼って意識を保つ。 重なり合いがほどけ始める。混沌は終わる。秩序も終わる。 すべてが終わり、無限は無限に戻る。 重なっていたことすら夢であったかのように。 エレノアの身体が傾いだ。 歌が、太鼓が、途切れる。 それはいやだ。 エレノアの身体を片手で抱き留め、もう片手で太鼓を叩く。 俺の口が自然と歌を紡ぐ。 一粒の種が叫ぶ。 エレノアはすぐに目を覚ました。 俺は彼女に体を起こさせ、太鼓を奪い取る。 兎が笑うのが見えた。母のように。 種は芽吹き、秩序も混沌も取り込み始める。 星の動きはますます遅くなり、俺は知らない歌を歌う。 エレノアはキノコ酒を口に含み、ゆっくりゆっくり飲み下す。 芽は大樹となり、街を囲む。 何もない無限にさせないために。 手に入れた全てを抱きしめるように。 ○○○ 夜が明けた。長い長い夜が明けた。 エレノアと二人交代しつつとはいえ、一晩中太鼓をたたいて歌を歌い続けたのだからたまらない。やっているうちは何故か平気だったのだが。 起きだした子供たちに夜空絹の回収を任せ、俺はエレノアと二人並んで熱く黒い茶をすすっていた。 「うっすら苦いけど、なんだこの茶は」 「タンポポの根を炒ったやつ」 「何の意味が?」 「ほんとは貧血防止とか色々。今は気つけになるなら何でもよかった」 二日酔いと睡眠不足だ。エレノアも酷い頭痛を共有しているに違いない。 夜空絹がちゃんと出来た事だけが救いだ。遠目で見ても、白かった練絹が夜闇の色に染まっているのが分かる。 「あんたの取り分、四枚でいいよ」 「いいのか?」 「あたし一人じゃ途中でぶっ倒れてたに違いないし。それに」 子供の一人が夜空絹の一枚を広げてこちらに駆けてくる。先導するのは、一晩中踊り明かした割には元気な兎だ。 「あれは、あんたの分でしょ」 絹には星空の下で太鼓を叩いて歌う男が映っていた。 なんと評するべきか言葉が見つからないが、なるほど、確かに俺の分だ 「売れない在庫だな」 商人としては不動在庫はよろしくないのだが、まあ仕方ない。 子供の頭をひとしきり撫で、片角に絡んだ毛をほどいてやってから、絹を受け取る。 「もらうのはこれ含めて三枚で良い。一枚分で、お前から買いたいものがある」 「何?」 「家を一軒。余ってるって言ってたろ」 反応は、子供の方が速かった。 「レオン、この村に残るの?」 「拠点の一つにするだけだ。時々旅して、時々戻る」 ちゃんとそう説明したのに、子供は目を輝かせる。レオンが村に残るって、と叫びながら他の子供たちのところに走って行った。 エレノアはしかめ面をやめて神妙な表情を作る。その奥にニヤニヤ笑いがちょっと透けているが。 「村の安全を預かるシャーマンとして、本名を知らないような奴を、村には置いとけないね」 「俺の本名か」 周囲に広がる黄色い花畑に向けて顎をしゃくる。 「そこらにやたらと咲いてるだろう」 兎が二回足踏みをする。 どこからか風にのってきた白い綿毛が、ふんわり花畑に着地した。 エレノアが笑う。野に咲く花のような、心のどこかが少し温まる笑みだ。 「中々いい名前じゃないか」 今は俺も、そう思う。 |
ただのネコ JL2b9/UVEM 2023年04月29日 23時32分50秒 公開 ■この作品の著作権は ただのネコ JL2b9/UVEM さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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