物の怪の時代の終わり

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 第一話:河童の巻

 砂利道を走る自動車に揺られながら、十二歳の桃太(ももた)は一人後部座席で瞼を下ろしていた。
 川沿いの山道である。清涼な川の流れは真昼の太陽の光を跳ね返し虹色に輝いていた。移動する景色の中で、木々が実らせる葉が創り出す影が、桃太の頬に複雑なコントラストを描いている。
 ふと、自動車がブレーキをかけ、その場で停車するのを、桃太は目を閉じたまま感じ取った。
「おい。桃太、おい」
 父の声がする。
「起きろ」                       
 いつまでも眠っていたかった。朝の四時に起こされてから、ずっとこの車に揺られっぱなしでいる。運転している父には及ばないだろうが、後部座席でただじっとしているだけというのも、これで案外疲れるものだ。
「おい桃太! 妖怪だぞ。見なくて良いのか!」
 桃太はようやく重い瞼をこじ開けて、窓の方に視線をやった。
 桃太達がいる場所から川を一本隔てた向こう側、川原に聳える大きな岩のいくつかに、数匹の人型が腰かけている。
 河童がいた。
 肌はほとんど黒のような深い藍色で、濡れそぼったその身に日光を浴びて、ぬらりと光っていた。背中一杯にウミガメのような大きな甲羅を背負っていて、長い腕と脚の先には水かきを帯びた手足があった。顔にはその下半分を覆い尽くすアヒルのようなクチバシが生え、糸のように細い目の上には、落武者のような縮れた頭髪の中央に白く大きな皿がはめ込まれている。
「本当に、ここって妖怪がいるんだ」
 桃太は興味や関心よりも、恐怖の方が上回った声でそう呟いた。
「ド田舎だからな」
 父は忌々し気な声で言った。
「妖は山奥に、人は街にそれぞれ住み生きるが、それらが交わる場所も中にはある。俺達がこれから住むのは、そんなどうしようもない場所にある、小さな村だ」
「本当に、そんなところに住めるのかしら」
 助手席に座る母が憂いを帯びた声で言った。
「ほんの一、二年の辛抱だ」
 父は吐き捨てるように言った。
「今に東京の病院に呼び戻されるよ。元々あそこは、俺がいたから回っていたようなものだからな」
「そうだと良いのだけれど」
 母の溜息。ふと、窓から川原を眺めていた桃太の視線と、岩に腰かけていた河童の内の一匹の視線が交差した。ドキリとして、思わず目を伏せる。
 自動車が珍しいのか、河童はやや腰を低くした、脚を大きく開いた独特の歩き方でこちらに近付いて来る。酷い猫背で、細く小さい瞳でこちらを見上げるようなその視線には、湿り気を帯びた卑小な敵愾心が滲んでいるかのようだ。
「気付かれたな」
 父は舌打ちをして、アクセルを踏み込む。
 桃太は遠ざかって行く車内からその一匹の河童を見詰め続けた。泳ぎもせずに、浅瀬で足を止めた河童の方もまた、いつまでも桃太の方をじっと睨み続けていた。



 碌に道路も通っていない山奥の村を、田畑の合間を縫うようにして自動車は走る。
 そして正午を少し回った頃に、目的地に到着した。
 村に一つしかないというその病院は、そのまま桃太達の住居でもあった。看板に書かれている文字も、早晩『鬼久保病院』と書き直される手筈であるらしい。病院の建物自体は大きく、酷く煤けて錆び付いていることに目を瞑るなら、この村で見たすべての建物の中でも一二を争うほど立派と言えた。
 自動車がよほど珍しいのか、桃太と同年代くらいの男児三人が、じっとこちらの方を睨むように見詰めている。その視線が粘ついた糸のように全身に絡んだような錯覚を、桃太は感じ取った。
「おい桃太。あそこの子供達に、挨拶をして来なさい」
 父はそう言って、桃太に顎をしゃくった。
「この村の子供達なら、これから一緒に学校に通うことになる相手だ。ちゃんと挨拶をして、気に入られておいた方がおまえの為だ」
 気は進まなかった。しかし桃太は父に逆らうということを知らなかった。
「……分かった」
 そう言い残し、桃太は自動車の外に降りた。途端に、生乾きの粘土を踏みしめるかのような足元の感触と、生臭さと塩臭さとが混ざり合った強烈な大地の臭気が、桃太の全身を蹂躙する。
 東京にいた頃には味わったことのない、それは田舎の臭いだった。
「気を付けてね。礼儀正しくしているのよ」
 心配げな母の声に送り出されて、桃太は恐る恐る少年たちに近付いて行った。
 三人の男児は珍しい虫を見るような視線で、歩み寄って来る桃太を観察している。そこに歓迎の様子はなく、興味と、そして嗜虐の気配とが混ざり合うかのようだった。
「は、はじめまして。こんにちは」
 少年達に向けて、桃太は言った。
「ぼくは、鬼久保桃太。今日、この村に引っ越して来たんだ。君達は……」
「なあ。おまえ。生意気だよな」
 少年達の内の一人、浅黒い肌によれて薄汚れたシャツと半ズボンを身に付けた少年が、鋭い声で桃太に言った。上背は非常に高く、百六十二センチと小学生としては長身の部類にある桃太より、拳半分大きかった。全身にははっきりとした筋肉の隆起が見て取れ、威圧感に満ちた瞳は残酷そうだった。
 屈強そうなその少年は肩に大きなハンマーを担いでいた。黒い柄と赤い槌を持つ、一メートル近い大きさの工具用のものだ。この体格でその凶器を振り回せば、大人の手にも余りそうである。
「え、な、何が……」
「車だよ、車。あんなものに乗れるなんて、おまえんちは俺らと違って金持ちだ。気に入らねぇ」
 確かに、桃太の父は医者で、家は金持ちだ。無論そんなことで生意気と呼ばれる筋合いはなかったが、桃太にはそれを口に出す勇気は持てなかった。
「何年?」
「……えっと。何のことかな?」
「学年だよ、学年。すっとろい奴だな。小学校、中学校?」
「しょ、小学校だよ。六年生だ」
「ふーん。なら、俺らと一緒だな。なら」
 にやにやとした表情で、ハンマーを背負った少年は他の二人の少年に目配せをする。
「俺達の仲間になれるかテストしてやるよ。……付いて来い」
 そう言って、ハンマーの少年は歩きはじめた。
 それについて行こうとすると、他の二人の少年が桃太を怒鳴りつける。
「バッカ。おまえは最後だよ、最後」
 桃太は思わず足を止め、最後尾に付ける。先頭を歩いているのを見るに、ハンマーの少年がリーダー格であることは明白だった。
 道中の会話で、桃太は三人の名前をそれぞれ知ることが出来た。先頭を歩くハンマーの少年が満作(まんさく)、餓鬼のようにやせ細った背の低い二番手が京弥(きょうや)、関取のようにまるまるに太った三番手が宗隆(むねたか)というらしい。
「なあ桃太。おまえ、医者の子供なら勉強はできるのか」
 満作は振り返りもせずに桃太に尋ねた。
「う、うん。得意だよ」
「得意っつっても、程度は色々あるだろ」
「東京の小学校では、いつも学年で一番だったよ」
 桃太が通っていたのは入学に受験が必要な名門小学校で、周囲は医者や政治家の子供ばかりいた。いわゆるお坊ちゃんの集まりであり、誰も彼も線が細く、満作のような粗悪な攻撃性を身に着けた子供はそこにいなかった。
「ふん。勉強ばっかしてるから、そんな青白いもやしみたいな顔になるんだ。タッパも高いけど、俺程じゃねぇし。おまえ、自分のこと二枚目と思ってないだろうな? 違うぞ。おまえなんかただ女みたいになよっとして、虚弱なだけだ」
 満作の言葉に、子分二人が下卑た声で笑う。謂れのない侮辱に、桃太はただ視線を泳がせて耐えるしかなかった。
 やがて山際の林に入り、しばらく歩くと川原が見えて来た。桃太はふと先程の河童のことを思い出して身を震わせそうになる。しかしそこにいたのはおぞましい河童の姿ではなく、背を向けた白いワンピースの少女の姿だった。岩に腰かけて、向かいの岩でビー玉を転がしている。
「瓜子の奴、いつものように一人で、またあそこでビー玉で遊んでやがるぜ」
 満作はそう言ってほくそ笑む。
「おい桃太。お坊ちゃんで都会モンでモヤシの、女の腐ったみてぇなぺえぺえの桃太」
「な、なんだよ……」
「あそこにいる白いワンピースの女が見えるか?」
「……見えるけど。それがどうしたの」
「今から行って、アイツを殴ってビー玉を奪って来い」
 その要求に、桃太は思わず唖然として、目を見開いて困惑した。
「……なんて?」
「だから。あの女をぶん殴って、ビー玉を奪って来いって言ったんだ。聞こえなかったか?」
「どうしてそんなことを……」
「良いんだ。あいつには何をしたってかまわねぇから心配いらねぇ。上手くぶん殴って奪って来られたら、俺の子分にしてやる。おまえが望むんなら、ぶん殴った後で裸に剥いて、おっぱいをしゃぶって来たって良いんだぜ? もしそこまでできたら甲種合格で、いきなり幹部待遇だ」
「そんな酷いことできるもんか」
「良いからさっさと行って来い」
 そう言われ、桃太は満作に勢いよく林から川原へ向けて突き飛ばされる。
 足を縺れさせた桃太は思わず前のめりに数歩程進み、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。
 少女からの距離は三メートルと言ったところか。うめき声を上げながらその場で身を起こす桃太に、岩に腰かけていた少女が振り向いた。
 目が合う。そして息を飲み込んだ。
 とてつもない美少女がそこにいたからだ。
 とにかく目が大きかった。顔一杯に見開かれたかのような瞳は黒目がちで、豊かな潤みを帯びて宝石のように澄み輝いていた。鼻梁は小ぶりながらつんと尖がっていて、桜色の唇は薄くそれでいて健康的に膨らんでいる。
 肌は白くきめ細やかで、形の良い小さな顔を覆う長い黒髪は、艶やかでありながら若干の広がりがあった。やや癖があるのかもしれない。ほっそりとした華奢な体から伸びる手足は長くしなやかだ。
 ひしめき合うように人が溢れていた東京にも、こんな可愛い子は見たことはなかった。いや、勉強を頑張った後にだけ見せて貰える白黒テレビの向こうにも、これほどの美人はいないと確信が持てる。確率上、数万人に一人程完璧な顔の造形を持った人間が生まれて来るという話を聞いたことがあるが、もしかしたら彼女はその類かもしれない。別種の生き物であるかのように、その容姿の美しさは同年代のどの少女達とも隔絶している。
「どうしたの?」
 鈴を転がすような声を、少女は発した。
「転んでるけど大丈夫? あなただあれ? 初めて見るね」
 無邪気な表情。桃太への純粋な興味。そこには初対面の相手への警戒は備わっておらず、言い換えれば隙だらけだった。
 体格もたくましいとは言えず、百四十センチがやっとという上背で肉付きも薄かった。東京の剣道場で散々身体を鍛えられた桃太が負ける心配はないだろう。意を決した桃太が少女に襲い掛かれば、殴り倒すことはいとも簡単に違いなかった。
「……ごめん。何でもないんだ」
 しかし桃太はそう答え、少女に背を向けて林へと歩きはじめる。
 少女は小首を傾げたまま桃太を見送った後、岩に座り直してビー玉遊びに戻った。突如現れて立ち去った桃太に対し、これと言った感慨も興味も持っていないようだった。
 林に戻り、腕を組んで待ち受けていた満作達の前に立つ。
 桃太は満作に向けて言った。
「ごめん。無理だ。女の子を殴るなんてぼくにはできない」
 満作はハンマーを持っていない方の手で桃太の頭を思うさま殴った。
 コブが出来そうな程強い殴打だった。桃太は思わずその場で膝を着き、上目遣いに睨むようにして満作を見詰めた。
「舐めたこと言ってんじゃねぇ。おまえが瓜子を殴れないのは、ただ弱虫だからだろうが」
「どっちでも良いよ。とにかく、ぼくは殴らないから」
「俺の子分にならねぇ奴が、小学校でどんな目に合うか教えてやろうか」
「酷いことはやめてよ」
「嫌ならさっさと瓜子を殴ってこい! このモヤシ野郎!」
「嫌だ」
 桃太はその場でアタマを抱えて蹲る。
「ぼくは殴らないぞ。絶対に、絶対に殴らないぞ」
 満作に逆らえば明日から学校でいじめられるかもしれなかったし、そのことを思うと恐ろしくてたまらなかった。それでも桃太は自分にはあの少女を殴れないことが分かっていたし、またそうしたいとも思わなかった。
 蹲った桃太の腹に満作の爪先が深くめり込んだ。
 腹を蹴りつけられたのだと思った次の瞬間には、今度は京弥の踵が桃太の背中に打ち付けられる。思わず息を吐き切った傍から、脇腹に象のような宗隆の足が叩き込まれた。
 後はもう人間サッカーボールのような有様だった。取り囲まれて全身のあちこちを蹴りつけられる。桃太は僅かでも痛みを軽減させる為に、身を丸くして耐えるしかなかった。
 リンチは長く、長く続いた。
 全身を痣塗れにされた桃太はそのまま山奥へと引っ張って行かれ、小さな崖から突き落とされたり、木に吊るされたりと言った虐げを受けた。少年達がいじめの対象としている相手にしていることを、一つ一つ順番に味わわされているようだった。
 桃太を虐げている間中、少年達は酷く楽しそうな様子だった。物と遊びに溢れた都会と異なり、こんな山奥では弱い者いじめでもしていないと退屈を凌げないらしかった。
 一時間近くありとあらゆる暴力に晒された後、桃太はようやく解放された。ただ解放と言っても、手厚く家に帰されるなどということはもちろんなく、最後の最後、泳げるかどうか確認された上で、川の上流から突き落とされるという仕打ちを受けた。
 ボロボロの状態で下流へと流されていく桃太のことを、少年達はあざ笑いながら見送っていた。



 水流の中を無茶苦茶に流されていると、思い起こされる記憶がある。
 実は桃太は六歳の時、一度この村に来たことがあった。戦時中軍医だった父が当時世話になったかつての連隊長であった元大佐と会う為に、家族ぐるみで訪れたのだ。
 この村は西を山脈に、東を大海に挟まれ、その隙間にある僅かな平地を、どうにか開拓して成り立っている。父が元大隊長との面会を終えた後、一家は村の東にある砂浜へと海水浴へ出かけていた。
 その日は風も弱く波は低かった。しかし母親が目を離した隙に、小さな桃太は突如現れた高波に襲われて海へと引きずり込まれた。凪の海から突如として現れた高波はまるで妖魔が伸ばした巨大な手の平のようだった。
 村の山奥に妖がいるのなら海の底に妖魔が潜んでいてもおかしくはない。海坊主か何かが悪さをしたのかもしれない。その高波は一瞬の出来事で桃太を引き込んだ直後には海は静けさを取り戻していたから、両親のどちらも桃太が攫われたことに気付かなかった。
 海の底で桃太は一人もがき苦しんだ。
 六歳ながら桃太には水泳の心得があったが、体をどれだけバタつかせても海面へと浮上することは叶わなかった。何か見えざる力が働いて、桃太の全身を海底へ海底へと誘っているかのように感じられた。桃太は絶望的な気持ちのまま、小さな肺の中の空気をすべて吐き切って、意識を混濁させていった。
 そんな桃太を救ったのは一匹の人魚だった。
 美しい人魚だった。十五歳前後の娘のような姿をした上半身に、深い緑色の魚の下半身を持っていた。海の中でその顔を凝視することは叶わなかったが、サファイアのような色をした澄んだ目をしていることと、艶やかな金色の髪が水中で豊かに靡いていたのは記憶していた。
 人魚の白い腕が桃太の身体を絡み取り抱き留めた。人魚の細い首の根本でくっきりと浮かび上がる肩甲骨と、その下にある豊かな二対の乳房が桃太の顔に触れた。
 やがて桃太は人魚によって海面へと運ばれ砂浜の上へと横たえられた。桃太が水を吐き切る前に人魚は逃げるようにして海へと戻り、深い水中へと潜って姿を消した。
 意識の混濁を振り払いどうにか体を起こした時、両親は未だにビーチに腰を下ろして桃太のいない方に視線をやっていた。桃太が波に攫われたことも、人魚に助けられたことも、どうやら一瞬の出来事だったようで、両親は一切目撃していないようだった。
 桃太がその時のことを両親に話したことはない。
 それは人魚が望まないような気がしたからだった。



「ねぇ」
 桃太が微かに目を開くと眩い青空が視界に広がっていた。雲はほとんどなく、ただ透き通るような空色が、木々に取り囲まれた視界の中央に現れていた。全身は濡れそぼって冷たく、あちこちに出来た痣から耐えず鈍痛が響いていた。
「ねぇってば。おうい。大丈夫?」
 その声によって覚醒を確かなものとした桃太が身体を起こすと、目の前にはずぶぬれの少女が、大きな瞳でまじまじと桃太を見詰めていた。先程川原でビー玉遊びに興じていた、満作達に瓜子と呼ばれていた少女だった。
 少女の瞳は桃太の眼前のおよそ十数センチの位置にあり、川の水に濡れた少女の髪の香りが桃太の鼻腔を擽った。ずぶぬれになったワンピースは少女の身体に張り付いて、その華奢な肉体を露わにしている。上半身に下着は付けていないらしく、微かな膨らみを示す乳房とその先にある薄桃色の突起までもが浮かんでいた。しかしそれを見られることへの羞恥や関心は少女には見られなかった。
「気が付いた? あなた傷だらけで流されていたんだよ?」
 どうやら自分は少女に助けられたらしかった。桃太は思わずかつて人魚に助けられた時の記憶を想起した。目の前の少女は黒い髪と目と人間の脚を持っていたが、その美しさと神秘性は人魚に劣らないようにも思われた。
「待ってて。今火を起こすから」
 少女は川原の傍にある林の茂みから藁や小枝を集め、手際良く岩の囲いを作ってその中に次々と放り込んで行った。そして岩の上に置かれていた銀色のライターで火を付ける。
 ものの数分で焚火を起こした後、少女は服を脱いで引き絞り、近くの岩へと引っ掛けて乾かし始めた。ショーツを一枚残して裸になった少女の肌は白く輝いていて、薄い肉付きの中に滑らかな体の線は艶めかしかった。その屈託のない脱衣っぷりに桃太は思わず動揺し目を伏せた。
「ほら。あなたも脱いで。風邪ひくよ」
 裸になるのは恥ずかしかったが、少女があまりにもあっけらかんと肌を晒しているのを見ると、自分一人臆しているのは情けなく無礼であることのように思われた。状況に寄らず男女が肌を見せ合うのは忌避すべきという、桃太が備えた薄っぺらな常識を、少女はその堂々たる振る舞いによりあっさりと破壊してのけた。
 桃太は服を脱ぎ、ブリーフ一枚を残して裸になる。そして少女に習って向かいで火に当たりながら、村に来て初めて味わった他者からの善意に対し心からの礼を述べた。
「助けてくれて、本当にありがとう」
「誰にやられたの?」
「えっと……満作とか、京弥とか宗隆とか」
「さっきわたしの前で転んでたのも、あいつらの差し金?」
「そうなんだ。君のことを殴って来いって言われて突き飛ばされて。できないって言ったら酷いリンチにあった」
「そっか。ありがとう」
「え?」
「殴んないでくれて」
「い、いや。そんなのは当然のことだし……」
「あいつら、よそ者が村に来た時は、まず因縁を付けていじめるんだよ。洗礼のつもりなんだと思う。でもずっと続く訳じゃないから安心して。色々試練とか言われるけどテキトウに付き合ってやれば大丈夫だから。どうしても困るようなら、わたしに相談して。あいつらに意見してあげるもんね」
 少女の態度は明朗で言動には善意があり、容姿には人を強く引き付ける魅力が備わっていた。何故こんな少女が満作らに『アイツには何をしても良い』と言われるような立場にあるのか、桃太には不思議でならなかった。
「わたしは瓜子。因瓜子(ちなみうりこ)。あなたは?」
「鬼久保桃太。今日からこの村に越して来たんだ」
「何年?」
「小学校の、六年生」
「じゃ、わたしと一緒だ。よろしくね」
 そう言って少女は無邪気に片手を伸ばしてくる。求められるままに握手をすると、少女は花が咲くような笑みを顔一杯に広げて見せた。
 思わず、ドキリとする。
「桃太はどこから来たの?」
「東京」
「お家は何やってるの?」
「医者だよ。父さんが医者で、母さんが看護士」
「お父さん、戦争には行った?」
「行ったよ。少佐だったんだ」
「え? すごっ」
 瓜子は口元に手を当てて驚きを表現した。
 第二次世界大戦は桃太達が生まれる頃既に終結した後だったが、親世代は皆戦争を経験しており、父親達の多くは出兵し軍隊生活を送っていた。
 父が少佐になれたのは医師大学校を卒業した軍医であることがすべてだった。大学を出た軍医は通常中尉として入隊し、年功によって昇進していく。少佐は入隊時の二つ上の階級にあたり、優秀でさえあれば昇進は十分に可能な序列だった。
「わたしのお父さんも結構凄くて昔は准尉だったって。今は村の討魔師やっててさ、皆から尊敬されてるんだよ。ナムールにいた時ゲリラの捕虜になって拷問されて、アタマがばかになったからちょっと変わってるけど、でも面白いし優しいからわたし大好きだよ」
 あっけらかんと語る瓜子に、桃太は上手く表情を作ることが出来なかった。
「そ、そっか……。でも良いことだよね。お父さんが大好きだなんて」
「桃太は、お父さん好きじゃないの?」
「え? ああいや、好きだよ。尊敬してるし、言うことは何でも聞くよ」
「……? 何それ。変なの」
 瓜子が起こした焚火は藁や小枝を焼きながらバチバチと音を立てていた。風が通り過ぎる度にしなる木々が豊かな音を立てる。静かな森からは鳥の鳴き声が断続的に響いていた。一定に流れる川の音の合間に、しばしば石や小枝が山から転げ落ち着水する音が混ざった。
 瓜子はそれきり沈黙し静かに掌を焚火にかざしていた。全裸で唇を結び澄んだ瞳で火炎を見詰めるその様子は見れば見る程に美しかった。思わず瓜子に見惚れる桃太の頬の紅潮は、真っ赤な焚火の前にいなければ簡単に見咎められる程だった。
「わぁっ」
 言いながら、瓜子は唐突に己の左目に手をやった。そして桃太が注目したのを見て取ると、何かを掴み取るような指の動きをしてから顔から手を話した。
 瓜子の左の眼窩から眼球が零れ落ち、砂利の上へと転がった。
「目玉が取れちゃったっ」
 桃太は仰天して「うわっ!」と叫んだ。転げ落ちた眼球は本物にしか見えず、生白い球体の中央で黒々とした瞳が桃太の方を睨んでいた。思わず瓜子の方を見るとその左の眼窩は開いていて、眼球があるはずの空間には暗い闇だけがぽっかりと広がっていた。
「きゃははははっ」
 言いながら、瓜子は砂利に堕ちた眼球を拾い上げ、川まで歩いて軽く水に浸して洗ってから、眼窩の中へと戻した。
「どう? びっくりした?」
「……ぎ、義眼なの?」
「そ。村民会の奴らにくり抜かれたの。酷いよね。痛かったよ」
 瓜子は義眼の具合を確かめるように黒目を動かして見せる。顔の筋肉の力によりその義眼は左右になら幾ばくか動かせるらしかった。
「な、なんでそんなことされたの?」
「んー? ……色々あって。また今度話してあげる。ところでさ」
 瓜子はそう言うと、桃太の方をじっと見つめながらこう問いかけた。
「ワダツミノサナギって、桃太は知ってる?」
「ワダツミノサナギ?」
「海の神の蛹って書くの。海神の蛹。上半身が人で、下半身が魚の、海のお姫様なんだ」
 その特徴を聞いて、ピンときた桃太は目を見開いた。
「そ、それって人魚のこと?」
「そうとも言うね」
「だ、だったら!」
 桃太は思わず身を乗り出して言った。
「ぼく、知ってるよ。昔会ったことがある! 昔海で溺れていた時、助けられたんだ」
「本当っ?」
 瓜子は興奮した様子で桃太に顔を近づけた。
「わたしずーっと探してるんだ。海神の蛹にはどんな生き物のケガも病気も治療する力があるから、それがあればわたしのこの目も治るし、それにこの頭の……」
 言いながら、瓜子は自分の頭部に両手をやる。艶やかな頭髪の隙間にある何かを確認するようにしばらく撫でた後、桃太の視線に気づいたように手を降ろした。
「ねぇ、それって本当だよね? その時の話をしてっ? 良いでしょう?」
 桃太は頷いた。人魚のことを話すのは人生で初めてだった。それは桃太にとって大切な思い出であり、誰にも話さないことでこそそれは桃太一人だけの宝物の記憶になっていたが、瓜子に話すのに抵抗を感じることは不思議となかった。
「じゃあ六年前に桃太は、この村の海で人魚に助けられたんだね」
「そうなんだ」
「やっぱり海を探せばいるんだっ。会えるんだ!」
 握った拳同士を胸に押し当てながら、瓜子は嬉しそうな様子でその場を幾度も跳ね回った。焚火によって乾かされた髪が瓜子が跳ねる度に艶やかに揺れた。
「その海岸なら、わたし、知ってる。ねぇ桃太。今度さ、一緒に人魚を探しに行こうよ。桃太だって、自分を助けた人魚に会いたいんでしょう?」
 そう尋ねられると、桃太は大きく頷いた。
「もちろん」
 人魚に会いに行けるかもしれないことも嬉しかったが、それ以上に、散々だった村の生活の始まりに、こんな魅力的な少女と知り合え、約束を交わしたことが何よりも嬉しかった。



 瓜子と別れ、自宅へと戻ると父親が黒電話に向けて何やら怒鳴りつけていた。
「おまえ、俺を誰だと思ってる! おまえの隊の軍医だった男だぞ! おまえの命を助けてやったことだってある! なのにそれっぽっちの金が負からねぇとはどういうことだ!」
 脇では母親が困ったような表情で父を見守っている。父はそれからしばらく電話口に怒鳴り声をあげた後、叩き下ろすようにして激しく電話を切った。
「どいつもこいつも恩知らずだ。医者を何だと思ってやがる」
 顔を紅潮させたままそう吐き捨てた。
「高価な医療器具なんでしょう? そうそう代金が負かったりはしないわよ」
 母親がとりなすような声で言った。
「だが器具を売っているのは俺の軍医時代、同じ隊だった奴なんだぞ? あいつが死にかけた時は、俺の手当てで救われたんだ! 俺に命を救われたんだから、俺に命を捧げて当然だろう! 俺があいつなら器具の値段なんてもん、タダにするね!」
 そう言って舌打ちをかましたところで、父は桃太の帰宅に気付いて視線を向けた。
「偉くボロボロにされたな」
 その口調は心配しているというより、息子の不甲斐なさを責めるかのようだった。
「ちょっとね。村の男の子達にリンチを受けちゃって」
「なあ桃太。おまえは俺に命を与えられ、ケガをした時は俺に命を救われたんだよな?」
 そう詰め寄られ、桃太は珍妙な顔付きで頷くしかない。
「その恩に報いる為に、おまえは何をしなくちゃいけない?」
「立派な医者になって、父さんの後を継ぐ。その為にたくさん勉強をする」
「勉強はまあ良い。ただ、医者ってのは弱虫になれるものじゃない。腕や足の捥げた患者を何人も見るし、そもそも処置を一つ間違えば死なせてしまう命と向き合うのには、とんでもない度胸が必要だ。いつもそう言っているな?」
「うん……」
「それがこんなド田舎の村の土臭いガキに喧嘩で負けてどうなるんだ! せっかく道場に通わせて腕っぷしを鍛えてやったんだろう? それを見せつけねぇでいったいどうするんだ! それでも日本男子か貴様!」
 そう言って父は桃太の頭を殴りつけた。桃太は思わずその場で蹲り頭を抱えた。父はそんな桃太を許すこともなくさらなる追撃を浴びせようと腕を振り上げる。
「やめてよあんた!」
 母親が間に入って桃太を庇った。
「気が優しいのはこの子の良いところでもあるじゃない。もうケガをしてるんだから、これ以上殴るのはやめてやってよ」
「男をこれしきのケガで庇ってどうする!」
 父は怒声を上げ、母の制止を意に介さず桃太を殴りつけた。吹き飛ばされた桃太は畳の上に転がった。鼻の奥に亀裂が入るような感触が走ったかと思ったら、温かい血が鼻の奥からあふれ出してくる。
「良いか桃太? おまえも父さんの子ならこんな田舎のクソガキに負けるんじゃないぞ。今度喧嘩に負けて帰ってきたら、父さんがおまえのことをぶっ殺してやる」
「……分かったよ、父さん」
 桃太は鼻血を拭いながら言った。
「じゃあ、勉強をして来い。田舎の学校じゃ碌な授業をやってないだろうから、ちゃんと独学するんだぞ」
「分かった」
 とぼとぼとその場を立ち上がり、桃太は力ない声で母親に尋ねた。
「……ぼくの勉強部屋はどこ?」
「二階の奥よ。ねぇ桃太、時には父さんの言うことに反発しても良いのよ。その時は母さんが味方をしてあげるから」
「良いんだ。ぼくは」
 桃太は首を振る。
「父さんの言う通りだと思う。ぼくの命は父さんと母さんに与えられたし、一度死にかけた時は父さんに救われた。だから、ぼくは父さんに逆らえないし、逆らっちゃいけないんだ」
 『命を救われたのだから命を捧げて当然』というのは父の口癖だった。
 軍医の価値が凄まじく戦場に置いてその考えは必ずしも否定されるものではなく、実際、緊急時には軍医を逃がす為兵達が肉の壁となり時間を稼いだらしい。日頃軍医によって傷を手当され時に命すら救われているのだから、命を捧げるくらいのことは当然と言う理屈が、軍隊では当然のようにまかり通っていた。
 当初桃太はそうした父の考えに反発していた。医者が人を救うのは使命でありそこに過剰な見返りを求めるべきではないと思っていたのだ。しかし考えが変わったのは九歳の頃、東京の繁華街で自動車に跳ねられ、生死を彷徨った時のことだった。
 酷いケガだった。へし折れたあばら骨のいくつかは肉と腹を食い破って外へ露出し、何本かは内臓へと突き刺さった。身体の内側へと滲み出した血液は桃太の喉から溢れ出し、大量の血液を口から吐き出し続けていた。骨折及び臓器損傷は全身の至るところにまで及び、桃太の全身は耐え難い苦痛に塗れ地獄の淵で声にならない悲鳴を上げ続けていた。
 己の死が近いことを桃太は深く悟った。絶望的な気持ちのまま、助けてくれるのなら何を代償としても良いと、神や悪魔、他のあらゆるものに願った。
 そんな桃太の願いを叶えたのは父だった。
 桃太が運び込まれたのは父親の勤務する病院だった。父は東京の病院で一番の救命医であり、運び込まれて来たのが息子と知るや、他のあらゆる患者を放り出し手術に向かった。他の医者の全員が助命を諦める中で、父は瀕死の桃太に頼もしい声をかけた。
『大丈夫。俺が絶対におまえを助けてやる』
 救命は成功した。奇跡的な手術だったと噂されている。
 過酷なリハビリの中で少しずつ回復していく肉体を見る度、桃太は命を救ってくれた父への恩に報いる為、あらゆる努力をせねばならないという考えに支配されて行った。
 人間にとってもっとも大切なものは当然ながら命である。その大切なものが奪われることを回避する為ならば、他の全てを代償にしても何ら悔いはないはずだった。
 桃太は残りの人生を父の為に捧げると誓った。それほどまでに死にかけるという体験は臆病な桃太にとって強烈で、命を救われるという体験は純粋な桃太にとって忘れがたいものだったのだ。
 桃太とて己の考えが少々大げさなものであることは理解している。だが父に何か言われる度、自分はあの死の淵から父によって救い出されたという負い目が強く疼き、逆らうことが出来なくなるのだった。
 それは桃太の幼い魂の根底に組み敷かれ、桃太自身にも抗えない呪いのような感覚だった。



 村にただ一つだけある小学校を見て、桃太はその校舎の小ささと薄汚さに驚愕した。
 クラスは学年に一つずつしかなく、生徒数はそれぞれ十人程度しかいなかった。全校生徒を合わせても六十から七十人程らしかったが、しかしその程度の子供を収容するのにも手狭な程、古い校舎は小さく粗末なものだった。
 一つしかない校舎は一本の廊下の左右に階段が三階まで伸びており、その隙間に桃太の自室とさして変わらない広さの教室が並んでいた。全体の敷地面積は桃太の東京の実家が二つも入れば限界だろうという有様で、その中に子供という子供が詰め込まれている為常に圧迫感があった。壁も天井も染みとひび割れだらけであり、いつ崩れ出すかも分からず歩くのに恐怖を覚える程だった。
 そんな幽霊屋敷のような校舎の三階の隅、六年生の教室で、桃太は転校の挨拶を済ませた。
「一年間、よろしくお願いします」
 教団の前で、黒板に自分の名前を書き頭を下げた後、桃太は教室中を見回した。
 生徒数は桃太を入れて十一人。その中に満作と、子分の京弥と宗隆の姿があることにまず憂鬱になる。そして最後尾では昨日とは色と形が似た別の白いワンピースを着た瓜子が、嬉しそうにこちらに手を振っていた。
 朝会を負えると訪れるのは転校生への質問攻めだ。男子も女子もなく取り囲まれた桃太への対応は満作らと比べれば比較的友好的で、礼儀正しく答えている分には威圧的な態度を取られることはなかった。
「ねぇ桃太くん。あんたどこから来たの?」
 級長であり生徒会長も務めているという須藤綾香という女子が、桃太を取り囲むクラスメイトを代表して尋ねた。
「東京から」
 桃太が答えると、「へえ」と綾香は興味を引かれた様子で唇を尖らせた。
 綾香は良く梳かされたセミロングの髪に、同世代と比べると良く発育した身体を持つ、背丈も大き目な女子である。眉が太く顔立ちも整った方で、子供にしては突っ張った胸が目についた。
「遠いね。どうやって来たの?」
「父さんの車で」
「車を持ってるなんてお金持ちね。この村で自家用車を持ってるのは村長くらいしかいないわよ」
「そうなんだ」
「テレビって家にある?」
「あるよ」
「冷蔵庫は? 洗濯機は?」
「全部ある」
「すごいわね。ねぇ、今度テレビを見に行かせてくれない? ウチの学年でテレビ持ってる子っていなくってさ。だから……」
「テレビならウチにもあるでしょ、綾香」
 そう言いながら近寄って来たのは瓜子だった。綾香は瓜子の方を一瞥しようともせず、桃太の方に視線を向けたまま。
「だから、いつも五年生の大加戸って男子の家に見に行くんだけど、こいつの家がまた散らかってて臭くてね。しかもこいつ、見に行く度にいちいち金取ろうとしてくるのよ」
「大加戸くんの家、お金持ちなんだよね」
 瓜子が綾香のすぐ後ろにやって来てそう声をかけるが、綾香はこれを無視して。
「あたしら上級生なのに生意気じゃない? だから、こないだ満作に行ってシメて来てもらったわ。そしたら大加戸の奴親に泣きついて、それっきりあたしら六年は家に入れなくなったのよ」
「大加戸くんの家ってこの辺の農家じゃ一番大きいよねっ」
 瓜子が綾香の背中により一層声を張り上げて話しかける。
「豚がだいたい六頭か七頭くらいいつもいるんだよね。畑もすごく大きくてさ、裏作でタバコなんかもやってるからすごく儲かってるもんね。もちろん大加戸君のお父さんとお母さんだけじゃ回らないから、パートの人が何人も雇われてて……」
「ユーレイがなんか言っててうるさい!」
 綾香が机を強く叩いて言った。
「ねぇ皆、ここユーレイ出るから校庭に移動しよう。転校生……桃太くんだっけ? あなたも来るわよね?」
 そう水を向けられ、桃太は恐る恐る瓜子の方に視線を向けながら。
「ぼ、ぼくには……瓜子が幽霊には見えないけれど……」
 そう言うと、綾香は聞えよがしに大きな溜息を吐く。そして他のクラスメイト達と顔を合わせて、嘲るような困り顔をそれぞれに向けあうと、桃太の方を蔑んだ目で見た。
「転校生さぁ。空気読んだ方が良いよ。……行こ行こ」
 言いながら、綾香は桃太を取り囲んでいた生徒達を連れて、教室から出て行ってしまった。
「……嫌われたなぁお坊ちゃんよ。このぺぇぺぇの弱虫野郎が」
 取り残された桃太に、近付いて来たのは満作だった。背後には、子分である京弥と満作を伴っている。
「女も殴れない弱虫が、その上嫌われたりしたら救いようがねぇなあ」
「……なんだよ。ぼくは瓜子が幽霊に見えないから見えないって言っただけだよ」
「なんだぁ。お坊ちゃんはぺぇぺぇの上にアタマまで変なのか。皆に見えねぇものが見えるだなんて、こいつは気が触れてるぜ」
 ぎゃはぎゃはと声を揃えて子分たちと共に桃太を嘲笑しながら、満作はその場を去って行った。
「……無視されてるの?」
 桃太は瓜子を心配して声をかけた。
「返事してもらえないだけだよ」
 それを無視と言う。陰湿ないじめを受けているらしい瓜子の境遇に胸を痛めつつ、桃太は自分の立ち回り方について僅かに逡巡してから。
「……ぼくは瓜子を無視したりなんかしないから」
 桃太はそう言った。
 落ち込んだ様子だった瓜子は、その言葉を聞いて表情を明るくさせた。そして感激した様子で桃太に首に抱き着くと、はしゃいだ様子で。
「ありがとうっ。じゃ、友達ってことで良いの?」
 と言いながら桃太の頭を左右に激しく振った。
「ねぇ? ねぇ? 良いよね? わたし、皆からフルシカトされてるけど桃太は友達だよね?」
 瓜子の髪の匂いを直に嗅ぎながら、桃太はどうにか赤面をこらえながら、「もちろんだよ」と答えた。
「やったーっ。友達できたーっ!」
 叫びながら、桃太を放り出しはしゃいだように飛び跳ねる瓜子を見て、桃太はそのあまりの屈託のなさに思わず面食らっていた。



 今朝の一件が尾を引いたのか、その日一日中、桃太がクラスメイトから声を掛けられることはなかった。授業も退屈そのもので、小学生向けのカリキュラムをすべて終え、中学受験に向けた勉強に取り組んでいる桃太にとっては、意味のないものでさえあった。
 しかし合間の休み時間に天真爛漫に声をかけて来る瓜子と過ごすのは楽しく、心癒されるものだった。
 そんな様子を満作達に冷やかされることを桃太は常に警戒していたが、意外にも彼らは何もしかけてこなかった。瓜子自身、常に無視されているだけで直接的な攻撃にさらされることはなく、体育でボールを回してもらえない時と給食を別けてもらえない際、悶着があった程度だった。
 何度無視をされても、瓜子は果敢に綾香達に声をかけ続けていた。根気良く話しかけ続けていれば、いつか返事をしてもらえると思っているのかもしれない。それは瓜子が級友たちに対する愛情と希望を捨てていないことを意味していた。しかしそんな瓜子をクラスメイト達は皆一様に無視し続け、その表情に嘲りと虐げられる者に対する優越感とを滲ませていた。
 放課後になり、帰る支度をしている桃太の元へ、ついにというべきか、満作が声をかけて来た。背後にはもちろん、京弥と宗隆という二人の子分を従えている。
「よお。弱虫のぺぇぺぇのお坊ちゃん」
「なんだよ」
「いい加減、弱虫のぺぇぺぇて呼ばれるのは嫌じゃないか?」
 そう言われ、桃太はできるだけ毅然とした声で。
「君に弱虫と言われたところで、ぼくが弱虫になる訳じゃない」
「へぇ。だったら、俺の子分になるテストはもう受けなくて良いんだな?」
 そう言って太々しい顔をする満作に、桃太は背を向けて歩き去ろうとする。
「待てよ。別にちょっかいかけに来た訳じゃねぇんだ。ちゃんとした試練を通過すれば、仲間に入れてやる気はあるんだぜ?」
 そう言われ、桃太は警戒しつつも満作に振り返った。
「昨日あれだけ殴ったのだってな、おまえが生意気だったのが悪いのであって、ちゃんと瓜子を殴れば京弥や宗隆と同じ扱いをしてやるつもりはあったんだ」
「ぼくは瓜子を殴らないよ」
「ああ。それはもういいよ。だから、別の試練を受けてもらう」
「ぼくは誰のことも殴らないよ」
「殴らせねぇよ。他人に迷惑をかけるようなことはやらせねぇ。ただ、ちょっとした危険をくぐって来て貰うってだけだ」
 にやにやとした表情の満作。桃太は警戒しつつも、どうするべきかを考えてみた。
 満作には虚勢を張ったが、悪口を言われバカにされるのがつらくない訳がない。このままクラスで孤立し続けるのも、決して喜ばしいことではなかった。
「……その試練っていうのは?」
「試練は試練場で行う。詳しい説明はそこでする。とにかく、付いて来いよ。無事に乗り越えればおまえは無事に俺の子分の仲間入りだ。このクラスの奴は全員俺の子分だから他の皆とも友達になれる。そしたら俺はおまえのことをぺぇぺぇと呼ばねぇし、呼ばせねぇ」
「……分かったよ」
 桃太は満作に従うことにした。
 満作を先頭にした悪ガキ三人組の後ろを付いて歩き、桃太は教室の外へと向かった。
 その途中、桃太の様子をじっと見守っていたらしい瓜子に声を掛けられた。
「……満作の試練を受けるの?」
 桃太は静かに頷いた。
「そっか。頑張ってね。それと、明日はわたしと一緒に遊んでね」
 もしかしたら今日の放課後、瓜子は桃太を遊びに誘いたかったのかもしれない。桃太は一緒に人魚を探しに海に行く約束を思い出し、胸がチクりと痛むのを感じた。
「分かった。約束するよ。ごめんね」
 そう言い残し、「早く来いよ」と顎をしゃくる満作達を、桃太は小走りで追い掛けた。



 『試練場』に向かう前に一行は山の麓にある一軒の工具店を経由した。そこは満作の両親の職場であり一家の自宅も兼ねていた。あまり繁盛していないのか店内は閑散とした様子であり、レジの前に置かれた椅子には満作の父親らしき中年の男が腰かけていた。
 桃太は店内を見て黒い柄と赤い槌を持つ大型のハンマーが売られているのに気が付いた。満作がいつも持ち歩いているのと同じ品であり、桃太は興味を引かれて問うた。
「君が昨日持ち歩いてたのって、あれ?」
「そうだ。お気に入りの武器だ。いつも持ち歩いている。試練場の前にここに寄ったのもあれを取りに行く為だ」
「売り物を使うの?」
「バカか都会モン? ちゃんと自分用のを部屋から取って来るに決まってるだろ。待ってろっ」
 満作は父親らしき男のところへ行き、帰りの挨拶とこれから遊びに出掛ける旨を伝えると、店の裏口へ移動して居住スペースの方に入って行った。
 一分もかけずに満作は黒い柄と赤い槌のハンマーを持って戻って来た。いつも持ち歩いているというだけあって、それは売り物と比べて随所がすり減り薄汚れていた。一メートル近いそれを肩に担いで大股で歩く満作の姿は得意げであり、子分二人はその姿を畏怖と憧憬の眼差しで見詰めていた。
「さっき店にいた男の人は、満作くんのお父さん?」
 桃太が尋ねると、満作は「そうだ」と頷いた。
「お母さんは今頃家の用事?」
「いいや農作業のパートに出てる。どうせ店は繁盛してなくて客は一日に何人か来るだけだ。店は父ちゃん一人でもずっと暇だから、母ちゃんは村長のトコの畑を手伝ってるんだ。あそこの畑はとにかく広くて、パートを何人雇ってもいつも大忙しで、母ちゃんも日曜以外は毎日そこで働いてる。だから俺は学校が終わっても夜になるまでずっと家で一人なんだ」
 続いて一行は山の方へと向かった。どう見ても獣道にしか見えない細い通路をいくつも歩き、大きな森を抜けると川原へと差し掛かった。昨日突き落とされた場所よりも随分と山の深いところにある川だった。
「もう少し川を下ったところに試練場がある。付いて来い」
 桃太は言う通りにした。道中、無言の時間があったので、桃太はふと思いついて満作らに声をかけた。
「ねぇ。聞きたいことがあるんだけれど、良いかな?」
「なんだぺぇぺぇ」
「瓜子のことなんだけど。どうして、あの子は皆に無視されてるの?」
「それはあいつが村で一番許されないことをしたからだ」
 満作は声に怒気を滲ませてそう言った。普段放っている嗜虐的な威圧感とは異なり、心底からの忌避と嫌悪を伴った怒気だった。
「その所為で村は大変なことになった。本当なら昨日おまえにしたみたいにボコボコにしてやりてぇんだが、アイツは女子の癖に得体の知れないところがあってやりづれぇ。だから、皆で仲間外れにすることにしてるんだ」
「得体が知れないって……。どういうこと? ああ見えて実は腕っぷしが強かったりするの?」
「違うよ。弱ぇよあんなほそっこいメス。正面から戦ったら赤子の手を捻るようなもんでしかねぇ。でも違うんだ。瓜子はアタマがイカれてんだ。イカれてるから下手に刺激すると何をしでかすか分からねぇ。相手がどんなに弱くても背中から刃物でぶっすり行かれたらおしまいだし、瓜子はそれをやる奴だ。だから俺達も直接は手を出さねぇんだ」
「イカれてる? 瓜子が?」
「ああ。……これは善意からの忠告だ」
 満作は鋭い視線で桃太を見竦めた。
「これ以上瓜子に関わるのはおすすめしねぇ。あいつはやべぇ。村の一番の掟を平気で破って、それで目玉をくり抜かれてケロっとしてる。アタマがどうかしているとしか思えねぇ」
 それっきり満作は唇を結んで黙って歩きはじめた。これまでにない剣呑な雰囲気を放つ満作に、これ以上の追及をする気は起きなかった。
 やがて一行は目的地へと到着した。そこは川の特に深まった場所で流れも速く、大きな岩があちこちに突き出て足場のようになっている場所だった。向こう岸には切り立った崖があり、そこに真っ暗な洞窟がぽっかりと開いていた。
「ここが試練場だ」
 澄んだ水の様子は白く泡立った水流の合間に川底の様子が見て取れる程だった。点在する大きな岩の合間を、大小の魚が泳いでおり釣りが出来そうだった。
「試練の内容を説明する。まず、おまえが足元に落ちている石の中から一つを選ぶ。俺がそれを向こう岸に投げる。百を数えるまでの間に、川から突き出した岩の足場を飛び移りながら向こう岸に渡って、小石を取って戻って来られたら試練は達成だ。途中で川に落ちたり、小石を見付けられなかったりしたら試練は失敗だ」
「そんな簡単なので良いのかい?」
 桃太は訝しんだ様子で言った。女子を殴るように命じられた昨日と比べると、その試練の内容は穏当かつ難易度も高そうには思えなかった。安堵や喜びを感じるよりも前に、こんな美味い話があるものかという警戒を桃太は感じていた。
「ああ。いいさ。ぺぇぺぇ様向けに優しくしてやったんだ。感謝しろよ」
 満作は嘲るような様子で言った。
 桃太は川に突き出した岩の足場を観察した。岩と岩の感覚は広いものでも一メートルに満たず、飛び越えることは難しくなさそうだった。向こう岸に放り投げられた小石を見つけ出すことに関しても、記憶力と観察力に秀でた桃太は上手く行くという自信があった。
 ただ桃太には満作達の表情が気掛かりだった。ニヤニヤと下卑た微笑みを称えたその口元は、何か邪な企みをする者特有のそれに思えた。しかしここまで来て引き返すと言う選択肢はなかった。
「分かった。やるよ」
 桃太が言うと、満作は「そうこなくっちゃな」と言ってせせら笑った。
 桃太は満作の指示通りに足元の石から一つを選んだ。満作はそれを受け取り、向こう岸まで勢い良く投擲した。桃太の選んだ石は向こう岸の小石の群れに着弾し見えづらくなった。桃太は石の落下した地点とその周囲の様子をしっかりと頭に刻んだ。
「宗隆、数えろ」
「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお」
 満作の合図で宗隆が数を数え始めた。慌てて桃太は足場となる川から突き出た岩の一つに飛び乗った。岩から岩へと飛び移る行為にはスリルがあり桃太は慎重な足取りでそれを行い、宗隆が三十まで数える前に向こう岸にたどり着いた。良いペースだった。
「そうそう。言い忘れてた!」
 桃太が小石を探し始めたところで、満作は意地の悪い声で桃太に向けて大声で叫んだ。
「そっち側、実は河童の領域なんだよ。人間が入っちゃいけない場所なんだ。だからおまえ、いつ河童に殺されても文句言えねぇぞ!」
 桃太は全身に電流が走ったような衝撃を受けた。この村に来る道中、父の車から見た異形の姿が思い起こされた。記憶にある水の妖魔の姿は不気味であり桃太は恐怖を感じた。
「そこの洞窟の向こう側は本格的に河童の社会がある。だがなぁに、安心しろ! この川は河童の社会と人間の社会の境界線だから、人間も河童も滅多には立ち寄らねぇ! だから余程運が悪くなきゃ河童に見付かることはねぇし、見付かったとしても真っすぐ逃げりゃ襲って来たりはしねぇ! だから安心して小石を探して来い!」
 桃太は恐怖と共に満作に対する怒りを感じた。河童の領域だというこちら側に桃太が渡り終えてから、改めてその事実を暴露するという満作のやり口は悪質極まりなかった。
 すぐに桃太は試練を放棄することを決意した。
 桃太が岩の足場の一つに飛び移ると、満作達は桃太達に口々に怒声を浴びせかけた。
「おいてめぇ! どういうつもりだ!」
「うるさい! 君にはもううんざりだ。付き合っていられないよ」
 忌まわしい気持ちで桃太は吐き捨てた。満作達に仲間として認められることは今後の生活にとって重要だったが、しかしそれは他者の領域を踏みにじり、命を危険に晒してまで行うことではなかった。
 桃太は黙ってその場を後にしようとした。だがそこで。
「おいおめぇら! 見ろ! 河童だ!」
 満作が指を向こう岸に突き付けて叫んだ。桃太が反射的に振り向くと、崖にある洞窟から一匹の異形が姿を現すところだった。
 大きな甲羅を背負い、縮れた頭髪の中央に白い楕円形の皿を持つその生き物は、確かに河童に他ならなかった。ほとんど黒に近いような藍色の肉体は、水に濡れたアオウミガメを彷彿とさせた。背丈はあまり高くはなく一メートルをやっと超える程度で、顔立ちにはどこかあどけなさが残る。子供の個体なのかもしれなかった。
「安心しろ。こっち側には渡って来ねぇ」
 満作は興奮した様子で言った。
「そうなの?」
「ああ。言っただろ河童の領域は向こうだけだ。仮にこっちに来たとしても、こっちは四人で武器もあるから十分撃退できる」
「撃退って……そんなことしたら」
「安心しろ脅かすだけだ。実際に殴ったりしたら例え向こうに原因があってもただじゃ済まねぇ。河童の親玉が村長のところにやって来て殴った奴を呼び出して河童の裁判にかけるんだ。過去に売り物にしようと河童を捕まえた奴がそれで死刑になった」
 そう話している間にその小柄な河童はこちらに興味を示したように川岸まで歩いて来た。その歩き方は独特で両足を大きく開いて身を屈め、猫背のまま肩と腰を大きく左右に動かしながら歩くというものだった。
 川岸まで来た河童は唐突に飛び上がって川へと飛び込んだ。そして地上での不格好な歩き方とは打って変わり、信じがたい程素早い泳ぎで一瞬にしてこちら側に渡って来た。そしてずぶ濡れのまま川原へと這い出し、興味深そうな表情で桃太達の方を見た。
「な、なんだこいつ。渡って来たぞ?」
 桃太が恐怖してそう言いながら数歩後退った。
「大丈夫だ敵意はねぇ。たまにあることだ」
「こっち側には来ないんじゃなかったの?」
「こいつはきっと子供なんだ。人間のことや両者の縄張りや掟のことを良く知らねぇんだ」
 河童の子は糸のような細い目を大きく見開きながら、のったりとした歩き方で桃太達に近付いて来る。
 そこで満作が動いた。肩に担いでいたハンマーを大きく掲げながら河童に近付き、近くにあった岩の一つに叩き下ろした。
 鋭い音がして岩が粉々に砕けた。河童は驚愕した様子で後退り顔色を変えて満作の方を見詰めた。満作はにやにやとした表情でハンマーを再び振り上げると、河童の方へと突進した。
「くきゃら。くきゃららっ!」
 河童は悲鳴を上げて川へと飛び込んだ。満作は腹を抱えて笑いながら、すぐに向こう岸へたどり着いて洞窟の中へ逃げていく河童を見送った。
「だ、大丈夫なの、こんなことをして?」
「問題ねぇ。人間様の領域に来たから追い払っただけだ。過去に二回、同じことがあったが何のお咎めもなかったから間違いねぇ」
「こんなことが前にもあったの?」
「ああ。俺の子分になりたいっていう下級生にはいつもこの試練をやらせるんだが、何度か河童に遭遇したんだ。すぐにこちら側に逃げれば何もなくて済むが、たまに追いかけて来る河童がいて、その時は今みたいに追い払うんだ」
「危険すぎるよ! そんなことがバレたらどんなに怒られるか……」
「ぺぇぺぇ様は大人に怒られるのが怖いのか! 俺は怖くねぇ! 例え瓜子の父ちゃんの討魔師のオヤジが来たって返り討ちにしてやらあ!」
 満作は桃太を大きな声で嘲笑った。背後では京弥と宗隆がそれに続いて媚びた笑いを浮かべつつ「やっぱり満作はすげぇ!」「何が来たってへいちゃらだもんな!」と口々に叫んだ。河童をも追い払う胆力を持つ満作に、二人の子分は追従あるのみらしかった。
「ま。ぺぇぺぇ様と俺の度胸には何倍もの差があるってこったな」
「……そうかい。じゃ、今日は帰らせてもらうよ。これ以上君の危険な遊びには付き合えないからね」
 そう言ってその場を後にしようとする桃太の肩を、満作が強く握りしめた。
「どうして無事に帰れると思ったんだ? おまえは失敗したんだ。これから罰を受けてもらうぜ?」
 満作がハンマーを持っていない方の手で桃太の顔面を殴りつける。
 激しい火花が桃太の眼前を舞う。尻餅を着いた桃太へと、京弥と宗隆が殺到した。



 満作は桃太に殴る蹴るの暴行を加え虫を食わせ低い崖から突き落とした後、腕を組んで挑発的な口調でこう言った。
「また試練を受けたかったいつでも来いよ。最高に楽しい奴を用意してやる。明日は用事の親父に代わって店番だから無理だけど、明後日以降店番がない日ならいつでも構わねぇ。いじめられるのがつらかったら、一日でも早く俺の子分になるんだな」
 二日連続のリンチによって満身創痍のまま帰宅した桃太を、父親は無言で殴り倒した。そしてそれ以上の叱責を行うことなく「部屋で勉強しなさい」と告げて立ち去った。
 言われたとおりに勉強をこなし、食事と入浴を経て再び深夜まで机に向かった後、桃太は布団へと潜り込んだ。
 とても上手く行ったと言い難い転校初日の滑り出しと、まったく上手く行くとは思えない今後の学校生活を想起して、桃太は深いため息を吐いた。
 明日が来るのが憂鬱でたまらなかったが、疲労困憊だった為睡魔はすぐに訪れた。翌日母親に起こされた桃太は朝食と身支度を済ませ村の学校へと出かけて行った。
「おはよう桃太」
 校門の傍で話しかけて来たのはつらい村での生活の中で唯一の救いである瓜子だった。桃太の気分は落ち込んでいたが、それでも努めて明るく「おはよう」と挨拶を返した。
「キズ増えてんね。試練、失敗した?」
「まあね」
「そっかつらかったね。でも偉いよ桃太は。そうやって酷い目にあってもちゃんと胸張って学校来るんだもん。本当は満作なんかより桃太の方がずっと凄くて偉いってわたし分かってるからね」
「そ、そうかな?」
「うん。ぎゅーしたげる」
 そう言って瓜子は桃太の頭に腕を伸ばして抱き締めた。背丈に二十センチ近く差があるので桃太の身体が大分傾く形になる。引き寄せられた瓜子の胸の温かさと柔らかさは、昨日の出来事も相まってまさに地獄の中の救いであり、桃太は幼子のようにそこに縋り付きたくなった。
「あ。満作だ」
 そう言うと瓜子は抱きしめていた桃太から手を離し、子分を連れて歩く満作達の方へとずんずんと歩き、唇を尖らせて強く抗議した。
「こら満作! もう転校生いじめはやめなさいよ! あんまり酷くすると、わたしも怒っちゃうんだからね。先生に言いつけるんだからね!」
 握った拳を地面に突き出しつつそう言う瓜子のことを、満作は軽く一瞥しただけで、すぐに子分達との会話に戻った。そしてそれ以降は瓜子の方を見向きもせずに、まったく相手にする気はありませんよという態度で、校舎の方へと歩いて行った。
「あーっもう! お得意の無視攻撃? 良いもんねーずっと後ろ付いて悪口言っちゃうもーん。満作このいじめっ子! おばかっ! まぬけっ! あほっ! すけべっ! ちんこっ! さでぃすとっ! けせらんぱせらんっ!」
 満作の無視はどこまでも徹底しており、根負けした瓜子は二人の子分達に矛先を変えた。
「京弥、宗隆、あなた達も何か言えっ。このこしぎんちゃくっ! はなたれっ! へたれっ! たこっ! さんしたっ! うんちっ! ぼけっ! あかなめこぞうっ!」
 京弥と宗隆の二人もまた親分と同様に何の反応も示そうとしなかった。ただニヤニヤとした表情を突き合わせ、必死で声をかけ続ける瓜子の様子を嘲り無視することを楽しんでいた。
「うぅ~。みんなわたしを無視する~っ!」
 瓜子は涙目になって握った拳を地面に向けて突き出したまま歯噛みした。桃太はそんな瓜子が不憫になって肩に手を置いた。
「ぼくの為に意見してくれてありがとう。大丈夫だよ」
「……そっか。ごめんね」
「今日の放課後は一緒に遊びに行くんだよね? 人魚を探しに行こうよ」
 そう言うと、瓜子は先程までの落ち込みが嘘のように、表情を目まぐるしく変えて満面の笑みになった。
「そうだったっ! あはっ。楽しみぃっ。ね、ね、約束だからねっ。絶対行こうねっ」
「う、うん」
「ふっふふーん。ふっふふーんっ」
 上機嫌に無茶苦茶な鼻歌を歌いつつスキップをし始めた瓜子のその切り替わりように、桃太は父から過去に聞かされた躁鬱病の症状を思い出した。情緒がまるで安定せず酷く落ち込んだり激しくはしゃいだりを繰り返すというものだった。
 もしかしたら、この子は少し変わっているのかもしれない。桃太はそう悟り始めていた。



 やがて放課後が訪れる。桃太と瓜子は鞄を家に置きに行く間も惜しんで人魚を探しに出かけた。
 桃太は過去に人魚に助けられた砂浜を覚えていたがその場所までは知らなかった。だから桃太の記憶する砂浜の特徴を話して瓜子に案内してもらうつもりでいたが、しかし瓜子は「そこは今日は行けないよ」と首を横に振った。
「だって遠すぎるもんね。歩いて行こうとしたら日曜かせめて半ドンの土曜じゃないと」
 桃太は残念に思ったがなら週末に行けば良いと思い直した。代わる遊びをどうするか瓜子に相談すると、瓜子は。
「いや別に海にいるとは限らないから今日は川に行くよ。人魚も妖怪だから山奥の川にいるかもしれないじゃん」
 と答えた。
「昨日桃太は満作達に河童が住んでる洞窟の前に案内されたんだよね? 実はわたしその場所知らなくってさ。ずっと前から教えてってお願いしてるんだけど、満作はわたしを無視するから教えてくれなくて。桃太は知ったんでしょ? 案内してよ」
 河童がいるからと言って人魚がいるという理屈はなく、河童に遭遇することを恐れる桃太としては気が進まない提案だったが、しかし桃太は努めて笑顔になり「良いよ」と了承した。
「わたしさー。何が何でも人魚には絶対に会わなきゃいけないんだよね」
 山へ分け入る道中、瓜子はそんなことを口にした。
「人魚の涙を飲めばどんなケガでも病気でも簡単に治る体質になるもんね。だからずーっと人魚を探して色んな水場を回ってるんだ。毎日だよ」
 桃太は瓜子のくり抜かれたという右目を見詰めた。そこには義眼がはめ込まれていたが傍目にはそう見えなかった。人魚に会って失われた右眼球を修復することが瓜子の悲願だそうだ。
「これからはぼくも協力するよ」
「ありがとう桃太。わたし人魚に会って涙を飲めるんだったら一生マシュマロもチョコもいらない。脱脂粉乳だって残さずちゃんと飲むんだからね」
 そんな話をしながら件の川原へと到着した。川は相変わらず澄んでおり水に匂いが香しかった。
「あの洞窟に河童がいるんだ?」
 瓜子が言って向こう岸に見える崖に開いた洞窟を指さした。桃太は頷いて洞窟から子供の河童が出て来た話をした。
「ふうん。じゃ、見に行ってくるね」
 そう言って、瓜子はこともなげに近くの岩場に飛び移ろうと助走をつけた。桃太は慌ててそれを制止する。
「いや、それはどう考えても危ないよ」
「でも人魚の手がかりを掴もうと思ったら、絶対妖怪のいる山奥に行った方が良いじゃんっ」
 瓜子は強い口調でそう主張した。桃太は首を横に振る。
「向こう側で河童に遭遇したら、殺されるかも。縄張りを犯されたら河童はきっと怒るよ」
「虎穴に入らずんば虎子を得ずだよ桃太。人魚に会う為だったらわたし、命くらいかけるもんねっ」
 そう言い張る瓜子の態度は強硬であり桃太は途方に暮れた。何が瓜子をそこまでさせるのかは分からなかった。片方の眼球が失われているという状態がどれほどの苦悩かは桃太には計りかねたが、命の危険を認識しながらそれでも躊躇しない瓜子の様子には、偏執的なものを感じさせられた。
「桃太怖いんだったらここで待ってて良いよ。これはわたしの問題だし、巻き込むのも悪いからね」
 そう言われ桃太は僅かに逡巡した。確かにこれは瓜子の問題であり、桃太が巻き込まれる道理はなかった。しかし向こう岸が危険だと知りながら女の子を一人で送り出すのは、度々父が桃太に言う日本男子という言葉とは程遠い行いだった。
「いや……。ぼくも付いて行くよ。危険だったら一緒にすぐ逃げよう」
 桃太が付いて来たことに瓜子は喜んだ様子だった。自分の目的に桃太が協力してくれることが嬉しく、また妖怪の出る山奥への冒険のスリルを共有することを楽しんでいるようだった。
「なんかすごいドキドキして来た」
 洞窟の前で瓜子は胸に手を当てて言う。片方の目を失って遠近感に乏しい瓜子は、岩を乗り継ぐ途中に二回程川に落ちており全身はずぶ濡れだったが気にした様子はない。ワンピースが肌に張り付いて全身が透けた様子は艶めかしく、何度見ても馴れるものではなかった。
「風邪ひかない?」
「後で火に当たるよ。焚火するの得意だもんね。しょっちゅう川に落ちるからライター持ち歩いてるんだ。濡れても使える奴ね」
 瓜子を先頭に二人は洞窟へと突入した。
 洞窟の中は暗かったが幸いにして長くはなく直線的で、反対側の出口の光が常に見えていた。それでも二人は手を握って慎重に洞窟を進んだ。水に濡れた瓜子の手はひんやりとして、信じられない程すべらかで柔らかかった。
 薄暗い洞窟の中に二人の足音だけが反響していた。一歩進むごとに響き渡る砂利の音が河童に聞かれることを思うと、桃太は全身が震える程だった。しかし前を進む瓜子の足取りは軽やかでスキップを始めそうですらあり、この少女には恐怖と言う感情がそもそも備わっていないのではないかと疑う程だった。
 その時だった。
 二人のものでない足音が聞こえて来た。それは洞窟の出口近辺から桃太達の方に響いていた。一歩と一歩の間隔が人間のそれより遥かに大きく、足音に混ざって水の雫が垂れるような音も聞こえて来た。
 出口から溢れる光に照らされて、一匹の河童の姿が顔を出す。それは昨日見た個体と比べて大きく背丈は百五十センチ程だった。アヒルのような形の黒い口ばしと細い目という特徴は変わらなかったが、しかし顔に刻まれた皺や輪郭の様子は年嵩に見えた。
「河童だっ」
 思わず叫んで桃太は瓜子の手を引いて大急ぎで洞窟を引き返した。突如腕を引っ張られた瓜子は「わっ」と声をあげ前のめりに転びかけたが、桃太に縋り付くようにして体勢を立て直すと、半ば引きずられるようにして走り出す。
「ちょっと桃太脚速いってぇっ」
「ごめんっ。でも頑張って! 多分追いかけて来てるから!」
 足音は消えることなく桃太達の後ろでずっと響いていた。これだけ走って足音が消えないのは、相手がこちらに向けて歩いてきているからに違いない。自分達の領域への侵入者を発見した個体が、桃太達を咎める為に追って来ているのは明白だった。
 だが脚は速くない。逃げ切れる。
 洞窟を出るまではすぐだったが鬼門となったのは川をどうやって渡るかだった。しかし瓜子は跳躍能力に乏しく足場をジャンプで乗り継ぐのに不安があった。
「おんぶするから乗って!」
 桃太は素早く判断して瓜子に背中を差し出す。瓜子は遠慮なくしがみ付いて来た。
「きゃはははっ。行け行け! ゴーゴー桃太!」
 必死の桃太に対して瓜子は呑気なものだった。命がかかっているかもしれない状況にも関わらず何食わぬ顔で行楽気分を持続させる瓜子に、桃太は得体の知れない恐怖を感じる。この子の頭は少しおかしいのではないかと桃太は本気で危惧を覚えた。
 瓜子の体重は見た目通り軽く、背負ったまま岩場を渡るのにさしたる支障はなかった。無事に人間の領域にたどり着いた桃太は、その場に瓜子を降ろしてから息を吐き出した。
「やるじゃん桃太。結構、男の子だね。頼もしかったよ」
「……どういたしまして」
 桃太は力なく言って洞窟の方を振り向いた。河童の姿は見えずもうこれ以上追いかけて来ないようだった。無事に桃太達を自分達の領域から追い出した為、向こうとしても目的を完遂したという訳なのだろう。
「ねぇ桃太。一応、その川岸から離れた方が良いよ」
 瓜子が声をかけて来た。
「いつ河童がやって来て足を引っ張って来るか分からないもんね。最後まで油断しちゃダメ、家に帰るまでが遠足だよ」
「流石にもう大丈夫だよ」
 桃太はため息を吐いた。河童がやって来るにしてもその姿が見えたら全力で退避するだけのことだった。もっともこんな川原からはどの道すぐに離れたかった為、桃太は緩慢に川に背を向けて村の方へと向いた。
「じゃあ瓜子。今日はもう帰ろ……」
 その時だった。
 桃太の脚にぬらりとした嫌な感触がまとわりついた。それは生き物の皮膚の感触だったが、薄めた糊を纏っているかのように信じられない程粘ついていた。その体温は低く氷のように冷たかった。
 思わず足元を見る。河童の腕が桃太の脚に絡みついていた。恐怖のあまり桃太は絶叫した。それは先ほどまで桃太達を追いかけて来ていた河童だった。桃太が少し目を離していた隙に、音もなく川に飛び込んでいたらしかった。
 河童は信じられない程の腕力で桃太を川の底へと引きずり込もうとする。
 河童が子供を川へと引き込む目的はただ一つ、殺害に違いなかった。河童の瞳には冷酷な殺意が青白く滲み桃太の方を静かに見竦めていた。
「わ、わぁあああっ!」
 思わず全身をバタつかせたが河童の腕力は凄まじくどうすることもできない。思わず近くの岩に捕まってもがいたが、河童はその怪力で持って桃太を引きちぎらん勢いで強く引っ張った。桃太は腰を中心に体が真っ二つに引き裂かれるような痛みを感じた。
 殺される! 桃太は絶望した。岩にしがみついた己の腕力が消えかかっている。この手が完全に岩から離れた時、桃太を待つのは河童に溺死させられる未来だった。それは確実に桃太に迫っているようだった。
 桃太は眼前の死が受け入れられず声にならない叫びをあげた。桃太は死を恐れていた。この死から桃太を救ってくれるなら神でも悪魔でも構わなかった。何を見返りに差し出してでも桃太は救われたかった。桃太は自分を救ってくれるなら、その後の人生の全てをその相手に差し出しても構わなかった。
 その時だった。
「桃太を離せ!」
 瓜子の声がした。次いで分厚い陶器が砕け散るような気味の良い音が鳴り響いたかと思うと、ふいに桃太を襲っていた怪力が途切れた。
 桃太は岩にしがみついて震えたまま後ろを振り向いた。
 大きな岩を手にした瓜子が血潮を浴びて立ち尽くしていた。その足元には河童の肉体が転がっている。下半身は川の水に浸した状態だったが、上半身は川岸の砂利の上に横たえている。その頭頂部にある白い皿は砕け散り、内部から大量の血とゼリー状の物質を飛び散らせていた。
「大丈夫?」
 瓜子はこともなげに言って、岩を川に捨てた。激しい音がして水飛沫が高く上がった。
「河童だから皿砕いたら死ぬかと思ってさ。やってみたら、本当に死んじゃった」
 桃太は思わず河童の頭頂部を凝視した。皿は人間における頭蓋骨の役割も兼ねているのか、砕かれたその下には脳味噌らしきゼラチン質が詰まっているのが見える。横向きになった顔からは早くも血の気が引き始めており、糸のように細かったはずの両目は大きく見開かれ酷く虚ろだった。
「ごめんねぇわたしが巻き込んだ所為で怖い思いさせちゃって。でももう大丈夫だよ。助かったから」
 思わず崩れ落ちた桃太に、瓜子が優しい声で言って近づいて来た。そして桃太の頭を抱きしめて優しく撫でた。
 死の恐怖から脱した桃太は思わず幼児のように泣き始めた。涙とは、恐怖や苦悩を感じた時より、そこから脱した時に激しく流れるのだと知った。増してその涙が優しい誰かによって受け入れられる時、人はより一層声を大きくして臆面もなく泣きじゃくるのだ。
 錯乱して涙を流す桃太の顔を胸に押し当て、瓜子はその頭を優しく撫で続けていた。



 数分間を瓜子の胸の中で過ごし桃太は顔を上げた。子供のように泣きじゃくった己に情けなさを感じたが、しかし瓜子は慈母のような笑みで桃太を優しく見詰めていた。
「……取り乱してごめんよ」
「いいよ。しっかりして見えるけど桃太もまだ十二歳だからしょうがないもんね」
 同じ十二歳児である瓜子はけろりとした表情を浮かべている。岩で皿を叩き割って河童を殺害した直後であるというのに、息一つ乱しておらず落ち着いた態度だった。そのあまりの胆力に桃太は感心を通り越して畏怖を覚えた。
 瓜子は落ち着いた桃太から離れると河童の方へと歩み寄った。そしてその死を確認するように頭を覗き込むと、割れた皿の隙間から見える脳髄へと手を伸ばし、中のゼラチン質を一掬い指先にからめとった。
「ちょっと……」
「おいしいのかなこれ」
 言いながら瓜子はえぐり取ったゼラチン質を桃太の方へと示す。血に濡れたゼリーの残骸のようだった。
「何をおかしなことを……」
「おかしくないよ全然。河童だって妖怪なんだから食べたら何か御利益があるかもしれないもんね。人魚の涙程じゃないにしろ、ケガや病気治ったりするかもしれないじゃん。食べてみるよ」
 そう言いながら脳味噌を口に入れた瞬間、瓜子は「まっず」と顔を顰めた。
「世界で一番まずい。お母さんが晩御飯に出す梅干しよりずっとまずい」
「そりゃそうだよ……。体に悪いからやめなって」
「一応、飲み込んどく。良薬口に苦しだもんね」
 瓜子は嫌そうな表情で脳味噌を飲み下した。
「後はどこかな? 手を捥いで持って帰ってミイラにするのが良いのかな? 桃太は東京でなんか聞いたことない?」
「ないよ河童の食べ方なんて。それよりさ」
 桃太は血の気を引かせながら言った。
「その河童ぼくらが殺しちゃったんだよね。まずくない?」
 人が河童を殺害することは禁忌であり河童の怒りに触れた。過去に売り物にする為に河童を捕まえた男が河童たちにより死刑になったという話を聞いたばかりだった。
「ぼくら? 違うよ。殺したのはわたし。桃太は関係ない」
 瓜子はけろりとした表情で言った。その表情に深刻さはなくいたって平常心を保っている。その様子には豪胆と言うよりも、人並の情緒が欠落したような恐ろしさがあった。
「バレたらきっと河童に処刑されちゃうね。正当防衛とか河童に言ったって聞き入れて貰えるはずないし、まずいことになったねー。どうしよどうしよ」
 呑気な声で言う瓜子に、桃太は真剣な表情でこう切り出した。
「……ぼくが罪を被って河童に処刑されるよ」
 瓜子は目を丸くして、小首を傾げながら桃太の顔を見た。
 桃太は瓜子を命の恩人だと認識していた。その恩は何を犠牲にしても返さなければならない。それは桃太が父親より植え付けられた本能的な反射であり呪いだった。桃太は瓜子によって救われた命を瓜子の為に捧げることを誓った。瓜子の為になることなら如何なる責め苦にも耐え如何なるものも投げ出すと決めた。
「嫌だよ。何言ってんの変なの」
 瓜子は呆れたような表情を浮かべている。心底から桃太の提案を不条理に感じているのが分かった。
「せっかく命助かったのになんで死のうとするの? さっきまで泣いてた癖にさ。そんなん言われたらわたし助けた意味なくね? この河童殺したのわたしなんだから、桃太が処刑されるのは絶対変だよ」
「それじゃダメなんだ」
「桃太のいうことの方がダメじゃん。本気で言ってるしさ。変わったとこあるよね、桃太って」
「瓜子は自分が死んでも良いっていうの?」
「やに決まってんじゃん。だからわたしこれから村から逃げるよ。生き延びるにはそれしかないもんね」
 この村は東を海に西を山脈に囲われており、村から逃げ出そうと思えば山をいくつも越えなければならなかった。自動車でここにやって来た桃太達一家ですら山道をいうに数時間は走り続けており、子供が徒歩でそれを乗り越えるのは無謀としか言いようがなかった。
「ちょっと待ってね。瓜子が助かる方法考えるから」
 桃太は手を頭にやり、しばし目を閉じ沈思黙考した。
「……ぼくが犠牲になるのは瓜子にとってダメなんだよね?」
「うん。や。それは絶対変」
「村の人達に正直に事情を話して河童から匿ってもらうのは無理なの?」
「うん無理。村長だって河童と揉めるくらいなら子供一人くらい平気で差し出す。妖怪との間に波風立てるのは一番ダメなことだから」
「外の警察に泣きついても同じ?」
「同じだろうね。そもそも妖怪が絡んだ事件は人間の法で裁けないから、妖怪の出る村は妖怪絡みのトラブルをそれぞれで自治・対処することになっているんだ。たいていは妖怪の注文通りになっちゃうんだけどね」
「そっか。……でも待てよ? それって逆に言うと、人間によるちゃんとした科学調査や裁判は行われないってことなんじゃない?」
 その時桃太の頭の中に一つの閃きが浮かんだ。それはまさに十二歳の子供の浅知恵であり、まともな人間の大人を相手にするなら、すかさずに看破される愚考に他ならなかった。
 しかし今回の相手は人間でなく河童だった。その知能の程度如何によっては、挑戦する価値はあるように思えた。
「証拠隠滅して逃げ切ろうっていうのは無理だと思うよ。河童はアタマ悪くて倫理観とかもあんましだから、ちゃんとした証拠がなくても疑わしかったら罰して来るよ?」
 瓜子は言う。
「河童の裁判ってどんな風に行われるの?」
「まず河童の誰かが死体を見付けたら、『ねねこ』って名前の河童の長老みたいな人に伝わって、その人が村長のところへ来るの。そして村長と話し合って疑わしい人を集めて、一晩話し合って誰が犯人かを皆で決めるの」
「一晩で犯人が決まっちゃうんだ……。『皆』っていうのは?」
「村の有力者と河童たち。でもたいてい河童が犯人だと指名した人が罪人になる。冤罪もあるけどそれは事故みたいなもんで、皆ある程度しょうがないって諦めてる」
「それで、河童の調査能力はどのくらい?」
「分かんないよそんなの。でも桃太のいう科学調査っていうのはないかも。アリバイとかは村長が聞いて回ることもあるけど、基本的に河童は人間を信頼していないから、アリバイを主張しても庇い合ってると判断するのがほとんど。基本的には状況証拠と河童たちの印象で決まるかな」
「そうか。……それは都合が良い。いけるかもしれない」
 桃太はそう言って立ち上がり、瓜子に向けて言った。
「なぁ瓜子。君は家に帰っていて欲しい。そしていつものように、何食わぬ顔で生活をしていて? なるだけ普段と違うそぶりは見せないようにね。……君ならそれはできると思う」
「……? 桃太が言うならそうするけど、なんか考えあるの?」
「一か八かの浅知恵だけどね」
 桃太は苦笑しつつ言った。
「でも、何もせず処刑されるよりは良い。そう思わない?」
 尋ねると、瓜子は自身が置かれた危機的状況など意に介さないかのように笑って、「それはそーでしょーっ」と元気良く口にした。



 瓜子を家に帰らせた後、桃太が向かったのは満作の両親がやっている工具店だった。そこは工具店であると同時に満作ら家族の住居も兼ねていた。
 昨日満作が言っていたとおり、その店内のレジには満作が一人やる気なさげな様子で椅子に腰を付けている。用事のある父親に代わって店番をしているとの話だった。一日に客は数人しか来ないとは言え、子供を労働力とするなどという戦前の如き行いが何故この高度経済成長の時代にまかり通っているのか、桃太は理解に苦しんだ。しかしそれは桃太にとって極めて都合が良いことでもあった。
 桃太は満作に気付かれないように建物の裏手に回り、木の裏に隠れつつ手にした岩を居住スペースの窓ガラスに放り投げた。
 激しい音を立てながら、窓ガラスは砕け散った。
「何しやがる! 誰だ!」
 ガラスが割れる音を聞くなり、そう怒鳴りながら満作が店を飛び出して来る。ガラスを割った不届き者をその手で捕まえようと店番を放り出して外に飛び出して来たのだ。桃太は満作が店の出入口から見て右回りに窓ガラスの方へと走るのを確認すると、反対方向から店の入り口に回り込んだ。
 満作は犯人を捜してあたりを見回し、近くの木の陰や茂みの裏を確認し始める。それを確認するなり、桃太は店の入り口から店内に入り込んだ。
 ここで桃太が取る判断は主に二通りだった。一つ目は店に売られている赤い槌と黒い柄のハンマーを一つ万引きして立ち去るというもので、これは比較的危険の少ない代わりに見返りも少ない安全策だった。もう一つは満作がしばらくこの建物に帰ってこないことに賭け、店内から居住スペースへと移動し満作の自室を物色するということだった。これは危険度は極めて高いが成功した時の見返りは莫大だった。
 そこで桃太は「ちくしょう! どこだ!」と言う満作の声と、遠くへ走り去っていく足音を耳にした。ガラスを割った犯人を捜すべく満作が走り出したのが分かった。これを千載一遇のチャンスと見た桃太はリスクもリターンも大きな行動に出た。
 桃太は店内を見回して一枚の扉があるのに気が付くとそれに手を開け放った。そこは店内から居住スペースへ繋がる扉になっていて細い廊下が現れた。桃太は靴を脱ぎ捨てると居住スペースへ侵入した。
 屋内は平屋であり桃太の家とは比べ物にならない程小さかった。よって満作の部屋を見つけ出すのも一瞬だった。小汚い四畳半に衣類や漫画本が散乱し黄ばんだ万年床の傍に丸いちゃぶ台があった。壁には野球や釣りの道具が立てかけられておりその隣には赤い槌と黒い柄のハンマーがあった。
 使い込まれた様子のそのハンマーをかっぱらい、桃太は足早に家を立ち去ろうとする。その時だった。
 桃太は床に敷きっぱなしの万年床に足を取られて転んだ。ポケットの中でバリっと固いものが砕ける音がする。それは砕けると同時に桃太の太ももに食い込んで痛みを齎したが、いつ満作が帰って来るかも分からない状況でその痛みにかずらっている暇はなかった。
 桃太は一目散に工具店を後にした。現場へこれを持ち帰りいくつかの工作を済ませた後は、運を天に任せるだけだった。



 帰宅した桃太はポケットの中から数枚の皿の破片を取り出して、自身の勉強机の上に置く。何度見てもそれは先ほど河童の遺体から持ち去った時と比べて面積を減じていた。
 河童の破片を持ち帰ったのは、いざとなればこれを差し出して「自分が河童を殺した」と嘘を吐く為だった。桃太は依然として瓜子の身代わりに裁かれるという考えを捨てていなかった。河童の裁判は勝手な印象と状況証拠により判決が決まるとのことなので、これを見せてしまえば瓜子が何かを言いだす前に自分が有罪になる可能性は高かった。
 無論それはできる限り避けたい結末だったが桃太は覚悟が出来ていた。救われた命は救ってくれた相手に差し出すものだという価値観は、桃太にとって強固なものだった。皿の破片はそれを完遂する為の大切な道具だったが、どこで数を減らしたのかすぐには分からなかった。
「……満作の部屋で転んだ時かな?」
 少し考えて桃太はそう呟いた。あの時確かに破片が割れる感覚があった。その際にポケットから破片の一部が飛び出して満作の部屋に落ちた蓋然性は極めて高かった。
 それが致命的な失敗になり得るかを桃太は考える。失われた破片はほんの少量であり、もとより散らかり抜いていた満作の部屋においてそれが発見される心配は少なそうだった。仮にそれが見付かり河童の皿の破片だと気付いたとしても、それが自分に繋がる手掛かりになることは考えづらかった。
「どちらにせよ。……なるようになるに任せるしかないか」
 呟いた桃太は机について勉強を開始した。それは家での桃太の普段の姿であり、両親に怪しまれない為にはそうしているのが一番良かった。しかし一か八かの状況を迎えている緊張感故か勉強は捗らず、鉛筆を持つ手は絶えず震え続けていた。
 それから数時間が経過し外が暗くなった頃、父に声を掛けられた。
「桃太。外ですごいことが起きているぞ」
 父は興奮した様子だった。
「どうしたの? 父さん」
「この近くに工具屋があるだろう? あそこに村の要人が集まっていて……しかも河童が何匹も押しかけている」
 桃太は己の狙い通りの展開になっていることに気付いて胸を高鳴らせる。しかしそれを悟らせないよう平常心を装って父に向き直った。
「なんでそんなことになっているのさ?」
「そこの子供が河童を殺した疑いを掛けられているらしい。とにかく、見に行こうじゃないか」
 村へ来たばかりの父にとって河童など妖怪というのは珍しいものだった。増してそれが裁判を行い子供を一人処刑するとなると大変な見せ物だった。
 満作の家の前には同じ考えの野次馬が殺到し人だかりができている。その人だかりの中央では顔を青ざめさせた満作とその両親が数人の河童に取り囲まれていた。満作ら一家と河童たちの間には身なりの良い人間が三人ほど立っており、一目でそれが村の有力者達だと分かった。
「あっ! 桃太だ。おーいっ」
 瓜子の声がした。桃太が視線を向けると、白いワンピースを着たいつもの姿で瓜子が立っていた。
「お友達か?」
 父が言った。桃太が頷いて「会って来て良い?」と尋ねると、父は静かに頷いて桃太を送り出した。
 瓜子のところへと歩み寄ると、傍らには物々しい黒い衣装を身に着けた、四十代程の男が立っていた。それは一目見て分かる程異様な人物だった。
 その男は腰に長い日本刀を帯びていた。戦前ならいざ知らず、今の時代にこんなものを持ち運べば銃刀法違反でしょっ引かれることは確実である。黒い衣装は教科書などの資料で見る軍服、それも将校等の要人が着る者に酷似していた。顔立ちは精悍そのもので鷹のような光を宿す切れ長の目と高い鼻筋はどこか東洋人離れしている。背は百八十センチを確実に上回り肩幅は広く胴から腰に掛けては引き締まっていて、まるでスポーツの選手のように理想的な体格だった。
「お父さんお父さん。この子が前に話した桃太くん」
 瓜子はそう言って桃太のことを男に紹介する。
「ど、どうも」
 桃太は恐る恐るそう言って頭を下げた。
「鬼久保桃太です。瓜子さんの友達です。……どうか、よろしく」
「貴様か……」
 瓜子の父であるらしき異様な男は、異様な程鋭い視線を頭一つ小さな桃太に容赦なく注いだ。
「我が聖姫を誑かす忌まわしき獣め……。幼き童の皮を被っているが、その実態が欲に塗れた外道の獣であることは、我が邪眼が既に看破していると知れ。愚物が……」
 異様な男は異様な表情で異様なこと宣った。その異常ぶりに桃太は心底恐怖し思わず後退りそうになった。
「あー。お父さんちょっと変わってるけど良い人だから。テキトウに相手してね」
 瓜子がそう言って父をフォローしたが桃太の恐怖は消えなかった。そもそも瓜子のような危篤な人格の持ち主がフォローに回るというだけでこの男の異常さは明らかだった。
「聖姫よ……。このような邪悪なる小鬼を庇おうとは何たる慈しみであろうか……。しかし愚物よ、我が貴様を許すことはない! 我が聖姫を誑かす者は何人たりとも地獄の業火に焼かれよう! これ以上瓜子に近寄るようならこの妖刀『首狩泡影』の錆となると覚悟せよ!」
「すいません。ちょっと何言ってるのか……」
「お父さん、ちょっとわたしのこと溺愛しちゃってて。なんか桃太くんがわたしにちょっかいかけてる悪い男の子みたいに言ってるっぽい」
「……この独特な喋り方はなんとかならない?」
「無理。お母さんが言うには、お父さんは『中二病』ってのにかかってるんだって」
 医者の息子である桃太だが『中二病』なる言葉に聞き覚えはなかった。そもそもそのような言葉はこの国この時代に存在していないに違いなかった。
「その中二病っていうのは何?」
「お母さんが作った言葉。なんか昔ゲリラに拷問された後遺症で、精神が今でいう中学二年生の時くらいまで遡って固定されちゃったんだって。ずっと中学二年生みたいになる病気ってことで、『中二病』なんだって」
 その造語のセンスは桃太には理解できなかったが、とにかくこの喋り方はどうにもならないらしいことは理解が出来た。
「今日はじゃあ、そのお父さんと一緒に河童の裁判を見に来たんだ」
「ううん違う。お父さんは見に来たんじゃなくて、仕事しに来た。わたしはその見学」
「仕事?」
「うん。お父さん、討魔師だから」
 そう言うと、瓜子の父は「くくく……っ」と得意げな表情で腕を組んだ。
「我が名は因王一郎(ちなみおういちろう)。天地に蔓延る悪鬼悪霊を滅殺し人の世に平和を齎すことが我が使命……。崇高なるその役割と我が秘めたる無限の力、そして鮮やかなる剣技は大いなる富と尊敬をもこの身に集めよう……」
「悪い妖怪をやっつけるのが僕の仕事です。僕はすごく強いので収入も多いし慕われてます。……だってさ」
「本来、我が邪悪なる力は封じられて然るべきものだ。しかし無常なるは人の世の闇。現れし妖魔の影が無辜なる童に忍び寄りし時、その邪眼は解き放たれ業火を持って影を焼き尽くすのみ」
「本来僕のような職業の人間はあまり仕事がない方が良いのですが、世の中は大変だから時には罪のない子供が妖怪によって酷い目にあわされます。そんな時僕は妖怪と戦うんです……だってさ」
「水の妖魔は同胞を失い憤怒を持って人里に降りたようだ。疑われしは赤き槌を操り悪童の長。童が真の罪人であれば泣いてその身を差し出そう。しかしそれが否である時、我は水の妖魔の手から童を救う為、禁じられし力を振い妖魔を切り裂くのだ」
「河童は仲間を殺されて村にやって来ました。満作が疑われてるようです。本当に満作が殺したんだったら死刑で良いけど、違ったら僕が守ります。……だってさ」
 複雑怪奇な父の言葉をその場で翻訳していく瓜子。桃太は表情を引き攣らせそうになりながらそれを聞き終えた。
 因王一郎(ちなみおういちろう)と名乗る瓜子の父は村の有力者らしく、刀を腰にぶら下げることが許されるのも討魔師なる特殊な職業故の特権のようだった。王一郎を見る周囲の人々の目は畏怖の念が込められており、娘の瓜子はそんな父の傍らに立ちどこか得意気だった。
「ねぇ、桃太は誰と来たの?」
「ぼく? ぼくも父さんと一緒さ。と言っても、こっちはただの見学だけどね」
「ふん……。愚物たる童の父は所詮愚物……その力量たるやたかが知れている。凡俗なる非力な小獣が身を寄せ合い僅かな安逸を手にする涙ぐましさよ。激流の中無力にもその身を焼かれ続け、やがて朽ち果て死んで行くのだ。とは言えそれも一興、一つの幸福であると言えよう」
 王一郎はそう言って不敵に微笑んだ。桃太が解説を求めると、瓜子は。
「なんか桃太のお父さんの悪口言ってる」
 と言った。
「……どうしてあなたに父さんの悪口を言われなくちゃいけないんだ」
 桃太は王一郎に不満げな視線を向けた。
「父を侮辱され怒るか……。くくく……愚物にもなけなしの矜持があるとは面白い。しかし甘いぞ! 矜持とは自ら守り抜く者! 屈辱に耐え奮起する力が貴様の血となり肉となり、やがて真に聖姫を争うその日に貴様を守る鎧となるのだ! ならば我は喜んでその礎となるべく、あえて貴様の家長を貶めよう! やーいおまえの父ちゃんでーべー……」
「桃太は俺の息子だが?」
「軍医殿失礼致しました!」
 桃太にも意味が分かる程の幼稚な罵倒を中断した王一郎は、突如としてその場で直立して敬礼を始めた。見ると桃太の父が王一郎を睨みつけながら背後に立っていた。
「……いったい誰がでべそなのだ? 応えて見よ因准尉よ」
「はっ! でべそとはこの私めのことでございます! 桃太君が軍医殿のご子息とは知らず、失礼を致しました!」
 王一郎の突然の変わりように桃太は驚愕し父の顔を見た。父の表情は十数年前軍医をしていた頃の顔立ちに戻っていた。どうやら二人は顔なじみのようだった。
「ナムールの『首狩り』が今はこんな山奥の討魔師か……。もしや連隊長殿の口聞きか?」
「はっ! 仰る通り、自分は天野連隊長大佐より誘われこの村の討魔師となったであります!」
「それはいつのことだ?」
「十五年前であります! 元より我が因家は討魔師の家系。天野大佐が村長をお勤めになる村で討魔師をやるのは本望であり喜んでお誘いを受けました。今では器量の良い妻と最愛の娘を得て幸福な暮らしを送っております!」
「そうとは知らなかった。しかし大切な裁判であるというのに、連隊長殿はお見えになっておられないな。挨拶に来たつもりだったのだが……」
「はっ! どうやら天野大佐はここのところめっきり耄碌しているらしく、碌に村長の仕事をできていないとのことであります! よって代わりに優秀なご子息である輝彦殿が裁判を取り仕切るようであります!」
「貴様連隊長殿に何を言うとるのだ」
「申し訳ありません! しかしながらどれほどの無礼を働いたところで、相手は耄碌しておられるのだから問題ないかと思われます。いかがでしょうか」
「問題大ありだバカモン。とにかく、桃太が貴様の娘と仲が良いのなら、貴様もよろしくしてやってくれ」
「了解いたしました鬼久保軍医少佐殿!」
 そう言うと王一郎は気持ちが悪い程の媚びた笑顔を桃太に向け、揉み手をしながら気色の悪い声で話しかけて来た。
「桃太君よ……よく見ると精悍な顔つきをしておるではないか。どれ、小遣いをくれてやろうではないか! 児戯には相応しき魔具が必要であろう。幼き日魔具を弄した経験こそがその繊細なる指先に宿り遠き日にて浮世を渡りし為の奥義へと昇華するのだ! 駄菓子屋でオモチャでも買いなさい!」
「桃太は小遣いは足りとる」
 桃太の父は低い声で言った。
「あっ。お父さん、お小遣いならわたしにちょうだい。マシュマロとかチョコとか買いたい」
 瓜子がそう言っておねだりをした。「母さんには内緒だぞ……」と言いながら小銭を手渡しているその様子を横目に、桃太は父に連れられて王一郎達から距離を取った。
「あんな馬鹿と一緒にいるとおまえの教育に悪い」
「……でも瓜子は良い子なんだ」
「稀に見る器量良しではあるな。東洋人離れしている。因准尉は僅かだが外国の血が混ざっているから、その影響かもしれん。……まあ、友達は大事にしなさい」
「もちろんだよ。ところで父さんは瓜子の父さん……王一郎さんとは知り合いなの?」
「昔同じ連隊にいた。だがどうも昔からあの男は好かん」
「そうなの?」
「あの男のかつての通り名は『首狩り』だ。おまえももう十二歳だから、戦争の時の話をしても問題ないな」
「うん。怖がったりしないよ」
 語りだす父の目は遠かった。
 かつて父の所属した隊はナムールにおり抗日ゲリラと日々戦っていた。その中で古株の将校たちの間では、捕まえて来たゲリラの首を若い将校や下士官に切らせる遊びが流行していた。
 ゲリラの処刑自体は正当なる軍事行動であり、必ず行われなければならないことだったが、しかし若い軍人にこれをやらせると難儀するのが常だった。ゲリラとて死にたくない訳だから、縛り付けられていても首を切られそうになると全力で身を捩り抵抗する。急所を狙い撃つのは簡単ではなかった。何より相手の命を奪うという行為は大きな緊張を必要とし、とても平常心で挑めるものではなかった。そこで若手の将校や下士官にあえてそれをやらせ、その度胸を見定めると共に、あたふたするところを見て嘲り笑うのが古株将校たちの楽しみだったのだ。
 若手の軍人の振う刀はなかなかゲリラの首に命中せず肩や腕を穿つばかりで、上手く首に命中しても一撃で切り落とすのには至らなかった。脂汗に塗れながら五回や十回は刀を振るい、ようやく首を切り落とすに至るその過程は無様であり古株たちの良い笑いものだった。結局最後まで処刑を完了させられず叱責を受ける者も少なくなかった。しかし当時新任の下士官だった因王一郎伍長だけは違っていた。
 王一郎は刀を構えると夕食の席に向かうかのような自然な足取りでゲリラの傍へと向かい、そして一撃でその首を刈り取った。それはまさに電光石火の早業であり見事と言う他はなかった。どんなベテランの将校達であってもあれほど鮮やかに首を刈り取れる者はいなかった。
 その日以来、王一郎が行うゲリラの処刑は連隊の名物となった。何度処刑を命じられても王一郎は顔色一つ変えなかった。そして常に一撃でゲリラの首を跳ねた。それを面白がったある将校が、縛り付けたゲリラを二人並べて『一太刀で二人の首を跳ねて見よ』と命じても、王一郎は涼しい顔色でそれを完遂してのけた。まさに達人の妙技と言う他なかった。
 何故そこまで刀剣に熟達しているのか。理由を訊けば王一郎は『討魔師』なる奇怪な家系の生まれであり、幼い頃から刀剣の修行を重ねているとのことだった。実際ゲリラとの戦いにおける王一郎の強さは目を見張るものがあり、戦場に出れば必ず大量の敵の首を跳ねて戻って来た。その活躍ぶりは凄まじく王一郎は異例の特進を繰り返し、ゲリラの拷問により精神を病んで除隊する頃には、准尉にまで昇進していた。
「俺は医者だ。命を救うのが仕事だ」
 父は忌々し気な表情で、娘と語らっている王一郎の後姿を見詰めた。
「だがあの男は死を振りまく。あの男が振りまく死は残虐かつ無慈悲でありとても見るに堪えるものではない。いくら軍隊と言えども実際には敵兵を殺した経験のある者の方が少なく、また殺人を経験した軍人は当分の間精神を病むのが常だ。しかしあの『首狩り』は何人を殺した後もずっと涼しい顔をして美味そうに飯を食い大いびきをかいて眠った。軍隊においてそれは美徳と言うことになっていたが、俺は嫌っていたよ」



 父の話を聞いている内に、満作の裁判の準備は完了したらしかった。
 人だかりの中央で二十代半ば程の青年が「静粛にお願いします!」と口にすると、ざわめいていた人々は一様に沈黙し注目した。
「既に噂になっていることと思いますが、我が村の大切な未来ある子供である芝木満作君が、河童殺しの疑いを掛けられております。その為亡くなった河童の家族を含む数名の河童が、この通り村へ訪れております。これより河童達との話し合いを行いますので、皆さまどうかお静かに見守ってください」
 誰かが小声で「村長の息子の輝彦殿だ」と口にした。
 輝彦と呼ばれた男は精悍な顔をした長身痩躯の美青年だった。切れ長の瞳に細い顔の輪郭を持ち、落ち着いた声と喋り方からはどこか怜悧な雰囲気も漂う二枚目だった。多くの村人の前で発言するその姿は自然体であり、こうした場で仕切りを行うことに慣れている様が見て取れた。
「彼が事実上の村の最有力者だ。顔を覚えておくように」
 父が桃太にそう耳打ちをした。
「あきゃらくきゃら。くきゃららあきゃららら。くきゃら!」
 年嵩の河童の一人が興奮した様子で発言した。
「くきゃらきゃら。くきゃらきゃらあきゃら。あきゃらら。あきゃらららら! くきゃらあきゃらあきゃらきゃら。くきゃららら。くきゃらららら!」
 それは河童の言葉であり人間の桃太には何を言っているのかとうてい理解できなかった。しかし輝彦は「ふむ、なるほど……」と何度か頷きながらその話を聞き終えると、明朗な声で。
「こちらの河童の女性は、この度亡くなった河童の伴侶であるようですね」
 と河童の言葉を翻訳してのけた。
「こちらの『らうだう』という女性は殺された『ぐうがあ』という河童の伴侶のようです。彼女は満作君を伴侶殺しの犯人と疑っています。理由としては、現場には赤いハンマーが残されており、それは満作君がいつも持ち歩いているハンマーと酷似しているからだそうです。ごく最近、河童の子供の一人がそのハンマーを持った満作君に脅かされたとも仰っています」
 桃太は驚いた。河童の世界の独自の言語に触れたことと、輝彦がそれを翻訳して見せたおとに関心を覚えていた。
 らうだうの傍らには子供の河童が立っていた。見ればそれは、昨日の放課後満作が振るうハンマーに恐れを成して逃げ出していた小さな河童だった。彼は満作を指さして激しい声で鳴き始めた。
「くきゃらきゃらわきゃらかきゃらら。がががくきゃららら。らららがきゃらら。くきゃら!」
「……彼がその脅かされたと言う河童の子供です。赤いハンマーにも見覚えはあると言っています。ではこれより満作君に釈明の機会を……」
「……待つが良い輝彦殿。その訳では不十分ではないか?」
 そう言ったのは、人だかりの中で会話を見守っていた王一郎だった。
「その少年は満作に『脅かされた』のではなく『殺されかけた』と訴えているぞ? 必死で逃げ出さなければ自分もまた殺害されたに違いなく、そのように凶暴な満作が犯人であることは間違いないとまで言っている。何故それを訳さない?」
「…………因殿。この河童の子供には興奮が見られます。よってその言動にも誇張が入っているとみられ、それに応じた翻訳を……」
「我々人に矜持があるように物の怪にも矜持がある。水の妖魔は特に誇り高く一度怒りを買えばこの程度の小さき村瞬く間に川底に沈むこと必至であろう。よってその言霊には敬意を払うがこの地を収める貴様の使命のはず。何故正確を喫さない?」
「因殿。言いたいことは分かりますがこちらにも考えがありますので、ここは一つ私に一任していただけませんか?」
「ならぬ。元より妖魔との折衝はこの討魔師である我を交えるが必然のはず。若人よ、浅はかなる腹の内は容易く見破られるのみだと心得よ」
「翻訳の不十分さについてはそこの討魔師さんの言う通りだよ」
 と、しわがれた声が聞こえて来た。
 驚くべきことに、それは河童の内の一人の口から放たれていた。腰が曲がり、しわくちゃの顔をした河童である。家鴨のような大きな唇はしわがれ、ぬめりを帯びた皮膚は光沢を失いその全身が老いていた。だがその細い瞳の奥にある光は人を含めたこの場の誰よりも老練だった。
「……が、そこの村長の息子も別に悪いことをしているとは思わないね。そこの容疑者の子供を弁護する上で、今強い言葉をそのまま伝えて動揺させるのは得策ではないと判断しただけだね。だからいちいち訂正しなくて良いよ、討魔師さんよ」
「……そうか分かった。ねねこ殿、失礼した」
 流暢な日本語を操る河童の出現に桃太は衝撃を覚えていた。そのねねこと呼ばれた老婆が河童の中でもかなりの実力者であることは、討魔師である王一郎が容易く引き下がったことからも明らかだった。
「……ではこのまま私が翻訳を行ってもよろしいでしょうか?」
 輝彦は恭しくねねこに言った。
「いいやあんたにも任せておけないね。ボケる前にゃあ、雷蔵には散々一杯食わされたもんだ。息子のあんたも信頼できない。かと言ってそこの討魔師は人柄こそ愚直だが気が触れてるのが難点だ。他に河童の言葉が分かる奴はいなそうだし、ここは一つあたしが両方の翻訳をするよ」
「しかしそれでは、あまりにも村にとって不利なのでは……?」
「ふん。あんたら人間と違ってこっちはこすっからい手は使わないよ。どの道あんたらは河童の言葉は分かっても喋れないんだし黙ってな」
 ねねこはそう言うと、満作の方に視線を向けた。
「坊や。ぐうがあの頭の前に転がってたハンマーは確かにあんたのだそうだ。ハンマーにはぐうがあの皿の破片や血や脳漿がたっぷりついていた。これについての釈明を聞かせてくれないかい?」
 桃太は満作のハンマーを川原へ持ち込んだ後、河童の死骸の頭部を何度も叩き壊し損傷していた。それはハンマーに殺害の証拠を残す為の偽造工作だった。
「し、知らねぇ。俺は今日は夕方までずっと店番してたし河童なんて殺してねぇ」
 目に涙を浮かべながら満作は言った。
「ならハンマーはどうやってぐうがあの頭元にたどり着いたんだい?」
「あ、あのハンマーは同じ奴がたくさん店に売られてるんだ。その内の一つであって、俺んじゃねぇっ」
「そうかい。人間は同じものをたくさん量産する技術を持っているんだったね。じゃあぐうがあを殺したハンマーが坊やのじゃないとして、坊やのハンマーはどこにあるか持ってきてくれるかい?」
「……それが。無くなってるんだ」
「なんだって?」
「ねぇんだよ! いつの間にか、俺のハンマーは無くなってるんだよ!」
 満作は涙ながらにそう訴えた。
「……くきゃらら。きゃきゃらくきゃらわきゃらら。がきゃら」
 ねねこがらうだうに翻訳すると、らうだうは興奮した様子で満作に詰め寄った。そして鍵爪の付いた手を振り上げて満作を威嚇しつつ叫んだ。
「くきゃららら! がきゃら! ががががきゃらわきゃらががきゃらががきゃらら!」
「沈まれ妖魔よ!」
 王一郎が満作の前に立ち、らうだうを制した。
「まだ有罪が決まった訳ではない! 貴様も誇り高き水神の現身ならば、妄挙は控えよ!」
 らうだうは尚も興奮していたが、ねねこが「がきゃーら!」と叱責すると、納得のいかない様子を見せつつも表面上引き下がった。満作は恐怖のあまり顔面を蒼白にさせ尻餅を着いた。
「……正直に言うとね。河童側としては、別に坊やがぐうがあを殺したという確証がなくたって構わないんだ」
 ねねこは低い声でとんでもないことを口にした。
「ただ河童と人間との間にある掟として、河童が人間に殺された時またはその疑いが強い時は、誰でも良いから人間の命を一つ河童に差し出さなければならないというものがある。これを守ってくれるのなら少なくとも掟上は何の問題もない。ただあたしの主義として、できる限り犯人である人間を殺した方が、河童にとってと言うより村にとって納得ができるだろうと思うから、そうしてるだけだ。そしてそれすら時と場合によって簡単に覆る。それは分かるね?」
「はい。……理解しております」
 輝彦は沈んだ声で言った。信じられないがそれはねねこにとって当然の感覚であり、またそのことに村の代表者である輝彦は納得しているらしかった。公然と交わされるそのやり取りは、河童に対し人間がどれほど無力で立場の弱い存在なのかを物語っていた。
「いくら人間が汚らしい手段で海神様に縋っていてもその掟だけは変わらないんだ。ぐうがあの妻であるらうだうが、これほど強くそこの坊やの処刑を望んでいるのなら、こちらとしちゃ処刑する相手はそこの坊や『でもいい』んだよ。そっちが納得して坊やを差し出してくれれば裁判はすぐ終わるよ。出来ればそうしてもらいたいんだがどうだい?」
「……それでは村は納得しません。日数をいただければ、こちらでできる限りの調査や聞き込みを行い、満作君が犯人で間違いないか調べられます。どうかお時間を……」
「無理だね。河童は人間ほど同じことに時間をかけないんだ。その日のことはその日に済ませるし、済ませられないならそれはしなくて良いことさ。今夜中に一人処刑しなくちゃらうだうも納得しないだろう」
「一日だけで構いません。明日の晩またここに来ていただければ、こちらもより確信を持って真犯人をそちらに突き出すことができます。我々も満作君のことは重要な参考人としていますが、しかし確実に犯人だと断定できないでいます」
 満作は「俺じゃねぇ、俺じゃねぇ」と涙ながらに訴えており、その様子は傍目にも嘘を吐いているようには思えなかった。実際それは真実だと桃太は知っていた。
「俺、工具屋に買い物に行った時満作が店番をしているのを見たぞ。時間は四時半だ」
 野次馬の一人がそう証言をした。桃太はドキリとした。工具屋に客は一日に数人しか来ないというので油断していたが、まさか証言者が向こうから現れるとは。
「ふん。人間は汚いから嘘を吐いて庇っている可能性があるね」
 しかしねねこはそう言って男の証言を一蹴した。桃太は胸を撫でおろした。
「そもそも、凶器を現場に置いて帰るのはおかしいじゃねぇか!」
 満作の父が息子を庇ってそう発言した。
「それはあたしも気になるが、しかし殺しをした後は異常な精神状態になって、信じられないミスを犯すことはありうるんじゃないのかい? 増してやそこの坊やは幼い子供だろう?」
 ねねこは悩まし気な口調で言った。
「いずれにせよ、確証はないと言うことではないのでしょうか? どうかお時間を……」
 輝彦が言う。議論は紛糾し終わりが見えなかった。
 ある時、桃太は自分の尻のポケットの中が濡れているのに気が付いた。
 思わず中に手を入れる。ポケットに入れて来ていた河童の皿の破片の中から、水が染み出しているのが分かった。
 どうやらこの皿の中には幾ばくかの水分が含まれているらしかった。問題はそれがどの程度の量かということだった。河童の破片があくまでも物理化学に従って水分を含んでいるだけならばその水の量はたかが知れていた。しかしこれは何せ妖怪が絡むことなので、この染み出した水が何か恐ろしいことの予兆でないとも言い切れなかった。
 桃太は裁判見物に夢中になっている父親から離れ、瓜子に近付いて耳打ちした。
「ねぇ瓜子」
「わっ。こそばっ」
 瓜子は驚いた様子で桃太の方を振り向いた。
「耳元ふーふーされるのこそばっ」
「そ、そんなふーふーなんてしてないだろ?」
「わたし耳敏感なの。でも気持ちいーからちょっと好き。で何?」
「河童の皿の破片ってさ、中にどのくらい水分を含んでるの?」
「ん? いっぱいだよ?」
「いっぱいって……どれくらい?」
「え? うーんとね……」
 瓜子は傍にいる王一郎の袖を引いて無邪気に尋ねた。
「ねーねーお父さん。河童のお皿ってどのくらい中にお水あるの?」
「風呂一万杯分だ」
 王一郎は瓜子の質問の唐突さを意に介さず淡々と答えた。風呂一万杯という数字に具体的な意味はおそらくなく、『とにかくたくさん』ということを子供に伝える為の表現だと思われた。
「だってさ。でもそれがどうしたの?」
「いや……河童の皿の破片、持ってきちゃってて」
 そう言うと、瓜子は目を丸くして困った声で言った。
「えーダメじゃんそれ。そんな量の水溢れてきたら大変なことになるよ!」
「そうなんだ。どれくらいの時間でそれってあふれ出すんだろう?」
「聞いてみるね」
 瓜子は再び王一郎の腕を引いて尋ね、答えを聞き出して桃太に耳打ちした。
「河童の頭に乗ってる状態の皿の水分は河童にコントロールされてるけど、破片の場合およそ五時間したら一気に水があふれて来るって。水がちょっとずつでも滲み出したらそれは予兆だから、すぐ逃げなきゃ大変だって」
「……も、もう水分溢れ出しちゃってるんだけど」
「何とかする方法聞いて来たから大丈夫。破片貸して?」
 言われるがまま桃太はポケットの中の破片を周囲に見えないように瓜子に差し出した。瓜子はそれを受け取るとひょいと口の中に放り込んだ。
「ほへへはいほうふ(これでだいじょうぶ)」
「な、何? どういうこと?」
「ふひほははほはひへっはほほほひはっははひふははふへふほほはふっへ」
『口の中とか湿ったところにあったら水が流れるの止まるって』と言っているのがなんとか聞き取れた。一先ずの対応策が取れたことで、桃太は安堵した。
 そして頭の中で一つの引っ掛かりを覚えた。確か、村にある破片は、瓜子の口の中にある一つだけではなかったはずだ。
「あんたもしつこいねぇ。たかが子供一匹どうしてそんな庇うんだい? そいつじゃなくてもどうせ誰かが殺されるのにさ」
 裁判の方に意識をやると、ねねこは心底理解できない様子で輝彦に迫っていた。その言動と主張からは、人間との価値観の違いが如実に表れていた。
「我々人間は公正さを重んじます。犯人であると確信を持てるまで誰のことも差し出したくありません。せめて自白してからでないと」
「だったら拷問でもして口を割らせな」
「尋問は致します。その為にも一日だけで良いので調査の時間が欲しいのです。どうかお願いいたします」
「無理だね。待てても夜明けまでが限界さね」
「では夜明けまででも。それだけあればできる調査はいくつかありますから」
「ねぇねぇ。なんか怪しい雲行きだけど、これちゃんと満作が処刑になるんだよね?」
 瓜子は桃太に耳打ちして来た。桃太は答える。
「……さっきの瓜子の話の通りなら、なると思うよ。っていうか、口に入れてた皿の破片はどうしたの?」
「他の湿ったところに移した」
「他の湿ったところって?」
「いやんえっち」
「え? 何どういうこと?」
 その時だった。
 満作らの背後にある工具屋兼一家の自宅の建物から、何か水の流れるような音が響いた。やがて建物の壁から大量のあふれ出し、たちまち人々の足元へと流れ出し水たまりを作り始めた
「これは……。いかんっ。皆逃げろ! 高台だ!」
 王一郎が叫び、瓜子の腕を引いてその場を逃げ出した。
「小さな子供は抱きしめろ! 命に係わるぞ早くしろ!」
 突如として足元に流れ出した水に、人々はそれぞれ訝し気な表情を浮かべていた。水の勢いは凄まじかったが現時点での水量は靴の裏を濡らす程度であり、王一郎の言葉にも機敏に反応できていなかった。
「悪童よ! 皿の破片を家に持ち帰っていたな! 愚かなり!」
 王一郎は忌々し気に言いながら、瓜子を小脇に抱えたまま近くの建物の屋根へと忍者のように跳躍した。
「わっ、わ。お父さん突然何?」
「皆! 逃げろ! 逃げろおおおおおっ!」
 その時だった。
 満作の家の建物が途端に弾け飛び中から大量の水があふれ出した。それは鉄砲水の如き勢いで人々に襲い掛かった。それはどう見ても『風呂一万杯』を上回っており、家屋を中心に津波のように広がって行った。
 発信源の間近にいた人々にとって向かい来る水流は『面』であり『水の壁』であった。迫る水に打ちのめされた人々は呼吸を失いあちこち体をぶつけながら流されて行った。
 放射状に広がる水流は徐々に水位を下げつつ一帯を巨大な泉へと変化させた。もっとも長い者で十メートル近くは流されたのではないだろうか? 満作らの家の建物は最早原型を失くし、そこから生じた壁や天井だった木片は人々の肉体にぶつかりつつ周囲一帯に散らばった。
 水の流れが収まった時、立っていたのは素早く避難した王一郎と彼に救助された瓜子の他は、泳ぎの達者な数人の河童を残すのみだった。
「……やっぱり。坊やの殺しに間違いないみたいだね」
 そう言ってねねこは横たわっている満作に近付き、水かきの先端に付属した鍵爪を向けた。
「もう話し合いの余地はないだろう。こいつの命を貰っていくよ」
 満作は水を吐き出してから、ねねこに向けて反論した。
「待てっ。本当に俺じゃない! 信じてくれ!」
「あんたの家にぐうがあの皿の破片があったんだから、あんたが犯人で間違いないだろう。河童の皿は人間にとって貴重品だから持ち帰った。そうだろう?」
「違うんだっ。助けてくれっ! これは罠だ! 誰かが俺を嵌める為の罠だっ! そうだあの時の……」
 滂沱の涙を流しながら命乞いをしたが、ねねこは意に介さなかった。
「問答無用だよ」
 ねねこは鍵爪を振り上げる。
「死にな」
 満作がそれ以上口を開く前に、鋭い鍵爪がその首と胴体を泣き別れにさせる。
 鮮血が飛び散り、意外なほど大きな音と水飛沫を立てて、満作の首が水たまりの中に沈んだ。



 後日談。
 満作の家にあった皿の破片が洪水を起こしたのを目の当たりにした村民たちのほとんどは、最早満作を犯人だと疑っていなかった。一部村として改めて捜査をやり直すべきだと主張する者も少数ながらいたが、人事上のコストの問題などからその意見が可決されることはなく、満作が店番の途中で抜け出し犯行に及んだということで事件は幕を下ろした。
 桃太はひとまず胸を撫でおろした。自分の行った偽装工作の全てが子供の浅知恵に過ぎず。綱渡りの中で運良く成功したに過ぎないことは理解していた。しかし上手く行ってしまえばどんな浅知恵も天才的策略も同じことであり、瓜子を守り抜いたことは桃太にとって輝かしき勝利だった。
 とは言え不安と罪悪感は残った。満作はいじめっ子であったとは言え、それは死に至らしめなければならない程の咎とは言えなかった。そもそも例え仮に満作が数百人を殺した殺人鬼だったとしても、桃太が己の勝手な都合で罪人に仕立て上げたことは明確なる邪悪に他ならなかった。また満作が犯人だとすると不可解な点も多いと言う事実に気付く村人も少数ながらおり、その存在も桃太にとって大きな不安材料となり眠れぬ夜が続いていた。
 しかし。
「やったーっ。処刑されずに済んだー。桃太ぁ、ありがとーっ」
 事件の翌日、瓜子はそう言って屈託なく無邪気な様子で桃太に飛びついて来た。
「生きてるって幸せーっ。もう最高! またマシュマロやチョコレートや八宝菜やけんちん汁が食べられる!」
 言いながら万歳をする瓜子の表情は喜色に溢れていた。その笑顔に一点の曇りもなくただ自らの生とそれを齎してくれた桃太への感謝が充満していた。
「そ、そう……。良かった。平気みたいだね」
「平気って、何が?」
「い、いやさ。満作に対する罪悪感とかで、悩んでないか心配してたんだけど……」
「何それ? そりゃあ満作は可愛そうだし悪いことしたけど、命が助かって嬉しいのと比べたら、そんなの全然どうでも良いよ。満作は別に死んで欲しくなかったけど、それでも自分が死ぬより百億倍良いもんね」
 けろりとした表情でそう言ってのける瓜子の表情は無邪気そのもので、桃太は少し薄ら寒かった。心からまったく悩んでなどいないことはその振る舞いから見て分かる。明日からは満作のことなど綺麗さっぱり忘れ、思い出したとしてもそこに痛痒など感じないに違いなかった。
 その様子から桃太はあることを悟った。
 この少女には確かな思いやりと親切心が備わっているが、その本質は決して善ではなかった。しかし悪であるとも言い切れず、生まれたての赤子に倫理が意味を成さないのと同様に、その魂はひたすらに無垢で純粋だった。
「でも桃太ってさぁ。結構悪い奴だよね。満作に罪擦り付けるなんてさ」
 瓜子は笑顔のままそう言った。
「……幻滅したかな?」
「え? なんで? 桃太が悪い奴のお陰でわたし命助かったんだから、そっちの方が良いに決まってるじゃん」
「まあ、そうなのかな?」
「そうだよ。わたし桃太大好きだもんね。そしたらさ」
 瓜子は桃太の腕に自分の腕を絡め、満面の笑みを浮かべて言った。
「満作死んだから今日学校休みでしょ? お葬式出るのつまんないし、すっぽかして一緒に人魚探しに海行かない? 行くよね?」
 そう言われ、桃太は若干の戸惑いを覚えつつも、命の恩人たる瓜子の言葉に逆らうということは考えられず、「もちろんだよ」と言って微笑みを返した。


 第二話:さとりの巻


 数年ぶりに訪れる海は静かだった。視界には空と海と砂浜の美しくも単調な色合いだけが広がっており、寄せては返す波の音は聞いている内に意識の内側に溶け込んで消える。五月の涼しい潮風が運ぶ海の匂いは香しかった。
「やっほーっ。海だーっ!」
 言いながら瓜子が砂浜を走り回った。白い砂浜に小さな足跡を付けながらはしゃいで回ると、柔らかい砂に足を取られて正面から転んだ。
「ぐえっ。あははははっ、あはははははははっ」
 すぐに起き上がって砂を落とすでもなく再びはしゃぎ始める。ここに来るまでに一時間を超える道程を歩き続けて来たというのに元気なものだった。
「じゃ。人魚さがそ」
「そうだね。でも、どうやって?」
「とりあえず海入らん? いるとしたら絶対海中でしょ」
「まだ五月なのにかい? 帰りも長いし風邪ひくんじゃないかな? 水着もないし……」
「裸で泳いで後で火に当たれば良いじゃん」
 瓜子は懐から銀色のライターを取り出して言った。どうやらこの少女の最大の趣味は焚火であるらしく、絶えずこのライターを持ち歩いては火のつけられそうなものを探していた。
「……今日は泳ぐのはやめておかない? 必要に駆られてやむを得ずっていうのはともかく、無暗に裸になるのは良くないと思うし。また夏になったら水着持って来よう」
「ええでもそれじゃ来た意味なくない?」
「ここは確かにぼくが人魚に助けられた海だ。それを確認しに来られただけでも意味があるよ。それにこうやって砂浜で黄昏るのも楽しいじゃないか」
「えーっ。つまんないのぉ」
 瓜子は唇を尖らせて言ったが、すぐに「まあいいや」と笑顔を取り戻した。
「じゃ。そこらの砂浜散歩しよっか」
「うん」
 海岸は異様な程に広かった。人工物がまるで設置されていない為どこまで歩けど殺風景で、単調な景色が延々と無限に続いて行くかのような錯覚に見舞われた。
 やがて、そんな水平線までの何もない海の様子の中に、異物が出現した。それは小さな島だった。何もない海の中でそれがどのくらいの距離にあるのかは分かりづらかったが、木々に覆われた小山のようなものがあるのが見て取れた。
「あそこにね。海神様が住んでるの」
 瓜子が島を指さしながら言った。
「海神様?」
「そ。海の神って書いてワタヅミ。アタマが二つあるすごく立派な龍で、体長は百メートルを超えてるんだって。嵐を起こしたり、山を消し飛ばしたりする力を持っているんだよ」
「何それ? そんなとんでもない怪物が、本当にいるの?」
「いるんだもんね。このあたりの妖怪の親玉で、村の守り神様なんだ。川に住む河童はもちろん、ずっと山奥に住む鬼の一族だって、海神様には適わないんだよ」
 河童の存在を目の当たりにしたばかりの桃太にすら、その龍の話は半信半疑だった。本当にそんな龍がいるなら拝んでみたかった。
「皆海神様を尊敬してる。でもね、わたしはあんまり好きじゃないんだ」
「どうして?」
「海神様はね、毎年のお正月に、村に生贄を要求して来るの。その年生まれた赤ん坊の中から一人をね」
 それを聞いて、桃太は目を見開いた。顔面に冷水を浴びせかけられたような衝撃だった。
「何それ? どうしてそんなことを?」
「海神様は山奥に住んでる鬼の一族から、村を守ってくれているんだよ。年に一人の生贄は、その見返りって訳」
 おとぎ話を聞いているような気分だった。桃太の感覚では人という生き物は基本的に地上における無敵の支配者であり、人間同士で戦争をすることはあっても、鬼などと言う他の生き物に脅かされたり支配されたりすることはないはずだった。
 しかし時代の発展に取り残されたこの地図の端っこの村では、妖怪の脅威に怯えるあまり毎年の生贄を龍に捧げると言う、悲惨極まりない状況が続いているようだった。都会育ちの桃太にとって、それは想像もできない世界だった。
「だから十二月の決められた日になると、その年に赤ん坊が生まれた一家が村長の家に集まって、そこで抽選をするんだ。今のこの村だと一年に生まれる子供は十人や十五人だから、結構怖いくらいの確率だよね」
「そんなことがずっと続いてるの?」
「そ。百年以上に渡ってずーっとね」
「……そんなことがこの先も続いて行くとは、ぼくは思えないな」
 桃太はつい声を落として言った。瓜子は「ん?」と桃太の表情を大きな瞳で覗き込んだ。いつもは無邪気で天真爛漫なばかりのその澄んだ瞳に、何か怪しい光が宿ったように感じた。それは知性の色をしていた。
「それってどういうこと? 聞かしてくれる?」
「いやだって……。そんな危険な抽選がある村で子供を産みたい人なんていないじゃないか。住める場所や働き口が限られた昔と違ってさ、今は高度経済成長の時代なんだよ? この村で生まれ育った人でも、どうにか山を越えて街の方へ行けば、仕事を見付けるのはそう難しくない。となると能力のある若者ほど村を離れたがるはずだし、そうすると遠からず村は滅んで……」
「とっくにそうなってない方がおかしいって、お父さん、いつも言ってるんだ」
 憂いを帯びた表情で、瓜子は言った。
「時代遅れだって。人間がそんな風に妖怪にへつらう時代はもう終わったはずだって。人間がちゃんとその力を発揮すれば妖怪なんてどうとでもなって、都会に妖怪がいないのはその所為だって。なのにこの村の人達だけが無力なまんまで取り残されてて、そんな哀れな状態は絶対に何とかしないといけないし、何とかできなかったらこの村は滅ぶだけだって。お父さんはずっとそう言ってる」
「……そうなんだ」
「桃太は賢いね。大人と同じくらい村の現実がちゃんと見えてる。学校の皆はこの村が滅ぶなんて誰も思ってない。わたし達が実感できるくらいには、人口だって減り続けてるのにさ。東西に二つあった学校が一つに併合になって、校舎が狭いって文句言ってる癖に、いつかその一つも無くなるってことに誰も気づいていないんだよ」
「……子供にそんなことを想像しろって言う方が無理なんじゃないかな?」
「桃太は想像できてるじゃん」
「そうだけど……。でも具体的にどうすれば良いのかまでは、ぼくにもさっぱり」
「それは大人だってそうだと思うよ。わたしも全然分かんないし」
「この村に生まれて来たことが、嫌になったことはある?」
 そう聞くと瓜子はあっさりと首を横に振った。
「ないよ。そんなこと考えても意味ないじゃん。この村に生まれたのが、わたしなんだから」
 正しいことを言っている。桃太はそう思った。



 砂浜は広く隅から隅まで往復するのに小一時間を要した。その間二人は小学生らしく他愛のない会話や戯れ繰り返し、最後には砂山を一つ拵えてから帰宅することにした。
 有意義な時間だったと桃太は実感した。桃太にとっての瓜子という人物は、忠義を尽くすべき命の恩人であるということが第一だったが、それと同時に、これまでに出会って来た中で最も魅力的な少女でもあった。二人きりで並んで歩いたり遊んだりするのは好ましく、勉強浸けの毎日における確かな喜びだった。こればかりは都会の暮らしにもないものだった。
 そんな楽しい帰り道も終盤に差し掛かった頃だった。
「あ。さとりがいる」
 山の麓を歩く時一匹の猿のような生き物が背中を向けて木に登っているのが見えた。すると瓜子は自分の両目に手をやって視界を封じ込めた。
「桃太も目ぇ塞いで」
「え、なんで?」
「さとりがいるから。目ぇあったら付きまとわれるから」
 それを聞き終えた桃太がアクションを起こす前に、『さとり』と呼ばれた猿のような生き物は、桃太の方へと向けて振り向いた。
 それは一目に異様な生き物だった。
 その体格や大きさ自体には通常の猿と大きな違いはない。良く見るニホンザルと比べると毛は長く色は淡く、尾が長く猿の体長を上回る程だったが、それでも通常の生き物の範疇に入るものだった。しかしそれが異形たる所以は顔にあり、なんとその猿には口が二つあった。
 顎が二つ重なっているかのように、犬歯の見える通常の口腔の下に、結ばれた唇がもう一つあった。唇は極端に薄く色は黒ずんでいた。
 さとりは桃太と目が合うと木から飛び降り、凄まじい勢いで四本足で走り寄って来た。そして歓喜の声をあげながら桃太の股下をくぐり、背後に回った。
「きゃーきゃっきゃっきゃ! きゃっきゃっきゃ!」
 その声はやけに耳障りだった。すぐに止まなかったら眩暈がしそうな程だった。
「ああ……。取り憑かれちゃった」
 瓜子が顔から手を話しながら、同情と気遣いを感じさせる目で桃太の方を見た。
「あのね桃太。先に言っとくけど、わたし、さとりから何を聞いても全部聞こえないことにするし、忘れるからね」
「何を言って……」
「できるだけ心を空っぽにするんだよ。そして真っすぐ家に帰って部屋でずっと目を閉じてるの。肉体的な害はないからその心配はしないでね。すぐにお父さんを呼んで来るから。つらいと思うけど、必ず何とかしてあげるから。どうか気を強く持って」
 瓜子の表情は深刻であり桃太は己に迫った危機を認識した。どうやら自分はこの口の二つあるさとりという猿に『憑かれ』てしまったようだ。だがそれが自分にどのような害を齎すのか皆目見当がつかなかった。
 その時だった。
「『コワい、コワい!』」
 背後でさとりが口を開いた。しかも開かれたのは二つある口の下側にある、先ほどまでは閉じられていた方の口だった。
「『コワい、コワい、気持ちが悪い。この猿は本当に醜い。僕はどんな酷い目に合うんだろう。コワい、コワい』」
「え……。ちょっと待ってこれって……」
「『どうして僕が思ったことを? もしかしてこの猿は心を読むのか? なんてことだ。気味が悪い。まずい。コワい。まずいまずいまずい』」
「さとりの上の口は普通に鳴いたり食べたりする口だけど、下の口は取り付いた人の心の中身をそのまま喋るんだ」
 瓜子がそう言って顔を顰めた。
「だからさとりの前では誰も嘘を吐けないんだ。さとりの下のお口は正直だよ。思ってること全部暴露されちゃう」
「そんな……だったら」
「『瓜子に色んな秘密を知られてしまうぞ。まずいぞ、まずいぞ』」
 桃太は自分の心の中を空っぽにすることを試みた。しかし何も考えないというのはある意味では最大の精神力を要する所業であり、十二歳の桃田がそれを可能とするのは無理があった。
「『バレたくないことばかりだぞ。さっき砂山の中で瓜子と手が触れてドキリとしたことはバレたくないぞ。ずっと瓜子のことを可愛いと思ってることもバレたくないぞ』」
「や、やめろよさとり! どうしてそんな悪趣味なことを……」
「『川原で見た瓜子の裸をずっと忘れられないこともバレたくないぞ。いけないと思っていても、あの姿を思い出す度に悶々としていることなんて絶対にバレちゃいけない。それどころか昨日なんか布団の中で裸を思い出しながら自分のちんち気絶してやるぅ!』」
 桃太は近くにあった岩に走り寄って自分の眉間を叩きつけた。それが気絶を目的としたものなのか自殺を目的としたものなのか、おそらく傍目には区別がつかないだろう勢いだった。もしかしたら桃太自身さえその二つの区別はついていなかった。
 あっけなく、そして狙い通りに、桃太はその場で意識を失った。



 目を覚ますとそこは知らない天井だった。 
 桃太は自分が白いベットに寝かされているのに気が付いた。一見してそこは誰かの寝室のようで、それもおそらくは少女の寝室だった。枕元には熊や兎のファンシーなぬいぐるみが転がり、正面には大きな箪笥の隣に微妙に柄の違う白いワンピースが何着も吊り下げてあった。使い込まれた勉強机には教科書類ではなくビー玉が数個転がっており、遊びっぱなしで放置された形跡があった。本棚には児童書と漫画本が同じくらいの量と、少量だが大人向けの小説も置かれており、それなりに空いたスペースにはぬいぐるみや少女人形の類が飾られていた。隣にある整理棚の中身は文房具なども混ざっていたが、収納物の大部分はオモチャだった。
「起きた?」
 その声は桃太のすぐ隣から聞こえ、振り向くと数センチ先に瓜子が寝転んでいた。桃太は思わず仰天する。一つのベッドのすぐ傍で瓜子が横になり桃太の様子を見守っていたらしかった。
 想像するにここは瓜子の部屋であり瓜子のベッドらしかった。鼻息がかかる程の距離にある瓜子の顔はシミ一つなく、その小ささは両手に収まる程で、顔の美しさは完璧に造形された芸術品のようだった。そしてその全体からそこはかとなく甘く香しい匂いがした。
 桃太は思わず体を起こそうとした。すると、「ああん布団めくれる」と言って瓜子が腕で制止して来た。
「なんで一緒に寝てるの?」
「桃太気絶したから家まで運んで来た。桃太細い方だけど背ぇ大きいから、運ぶのに脚引っ張るしかなかったけど、それはごめん。そんでとりあえずわたしのベッドに寝かせたら、なんか隣で寝たくなった。だからそうした」
 そして「えへへ」と言いながら布団の中で桃太の身体に腕を絡めて来た。それは単なる幼い戯れと甘ったれであり、瓜子がまだ十二歳の小学生であることを差し引いても、不埒な目的などはなさそうだった。
 この少女のそのあたりの観念が著しく未熟であることはあらかじめ承知している。しかし対する桃太は実はなかなかのむっつりであり、隙を見て父の部屋に忍び込んでは猥褻な本を熟読する程だった為、自分の今置かれている状況に少なからず動揺した。
「我が聖姫瓜子よ! 猿の妖魔の封印に成功したぞ! これしきのこと魔王たる我にとっては造作もない。ふーははははっ!」
 言いながらノックもせずに部屋に入って来たのは瓜子の父である王一郎だった。無造作に扉を開け放つその無神経さは、今は良くても、瓜子が本格的な思春期を迎えた際何らかの諍いタネになりそうである。
 それはともかく、王一郎が目の当たりにしたのは一つのベッドで乳繰り合う娘と薄汚い少年の姿である。王一郎が憤怒の表情を浮かべるのは無理からず、桃太が恐怖を感じる間もなくその大きな手で胸倉を掴み上げられ、壁に押し当てられた。
「何をしておるかこの糞尿野郎めぇええ! 無限奈落に落としてくれようかああ! 我がその禁じられし力を解放すればその薄汚い首と胴体は泣き別れになると知れぇえ」
「ちょっとお父さん! 桃太のこといじめないでよ!」
 娘の制止に王一郎は渋々桃太を解放した。そして事情を瓜子から聞いて、桃太への敵意を消し止めた。
「なるほど……。父に甘え毎夜その胸に縋り眠った、失われしあの日々のように、学友相手に無垢なる戯れを起こしたということか。しかし娘よ、其方も齢を十二を迎え心身の発育著しく、その魂は成熟に向かっている最中であろう。然るに異性への振る舞いには再考が必要であると心得よ。ようするに、その……男の子と添い寝とかお父さんそういうのどうかと思うっ!」
「良いじゃん桃太とは仲良しだもんね。ねぇ桃太、別に良いよね?」
 そう水を向けられ、桃太は「ぼくにはなんとも……」と言葉を濁した。しかし王一郎の睨むような視線を見て、「お父さんの言うことは聞くべきだと思うけど……」と蚊の鳴くような声で言い添えた。
「しかし童よ。さとりに憑かれるとは愚鈍だな。討魔師の我がいなければ、貴様はその社会的信頼を著しく損ねていたに相違ない」
「……それについては、その、すいません。というかさとりはどうなったんですか?」
「今しがた封印して来たところだ」
「ど、どうやって?」
「造作もない。ただ捕まえて檻に入れ、布を被せるだけだ」
「心を読む妖怪を、どうやって捕まえることができたんですか?」
「ふん。分かっていても避けられぬ攻撃はある。瞬劇の速さにて迫り来る魔王の腕から逃れることなど、この世に生まれしその時から既知であっても不可能だ。もっともそれは達人の腕があってこそ。並の猿を遥かに凌駕する機敏さを持つさとりを捕まえられる者など、この狭い村には我しかおらぬ」
「すごいな……」
「さとりは一度目が合った者に取り憑くが、一定時間目を合わさないことで、憑依状態から脱する。さとりは今我が秘密の地下室にて幽閉中だ。これだけ距離を取れば心を読まれることもないだろう」
「お父さんの地下室って、捕まえて来た色んな妖怪が檻の中にいるんだよね」
 瓜子が目を輝かせながら言った。
「わたし、一回で良いから見てみたいなあ。ね、ね、お父さん。やっぱりダメ?」
「娘よ……すまないがそれだけは叶えられぬ。地下室に満たされた壮絶なる妖気に耐えられる者など、魔王たる我を覗いてこの村に一人たりともいないのだ」
 そう言って高笑いをする王一郎に、瓜子は唇を尖らせて見せた。
「とにかくだ。童よ、これでもう何も心配することはない。精々、のどかなる安逸をむさぼるが良い!」
「あ、ありがとうございます」
「娘の頼みだ。気にするな。それに……さとりが手に入ったのも思わぬ収穫だったしな」
 そう言って不敵に微笑む王一郎が、桃太には恰好良くも見えた。腰に刀をぶら下げ妖怪退治に精通する彼は、まるで活劇の主人公のようだった。
「とにかく……お世話になりました」
 桃太は王一郎に頭を下げ、瓜子にも「ありがとう」と礼を言った。
 瓜子からは「ちょっと家で遊んでいかん?」と誘われたがもう帰らなければならない時間だった。親子に見送られ家を出ると、夕焼け空を眺めながら帰路に着く。
 ……さとりに心を読まれ、その内容を暴露されたことを思い出す。
 桃太は顔から火が出る程恥ずかしくなり、戯れとは言え「死にてぇ」と口を吐く程げんなりとした。



 翌日。
 学校に行くと、クラス全体で向かうことになっていた満作の葬式を無断で欠席したことについて、瓜子と桃太は教師からそれぞれ一発ずつの拳骨で制裁された。
 それなりに痛かったが、一発で済ませてくれるだけ、体罰の度合いは東京の小学校のそれと比べて緩やかだった。ネチネチと説教されるよりは潔く一発殴られれば終わりになる方がありがたく、沙汰が終わった後桃太は思った程の罰を受けなかったことに安堵していた。
 やがて授業が開始される。
 学友の葬式の翌日にも関わらずその日は抜き打ちの小テストが行われ、その日の内に帰って来た。当然のように満点を取った桃太の答案を覗き込み、瓜子が「すごいね」と目を丸くした。
「勉強は得意な方なんだ。瓜子の八十点も上出来だろう?」
「あの先生のテストで満点ってわたし初めて見るよ。絶対に満点は取らせないように難しい問題二つくらい混ぜて来るのに、桃太ってばすごいんだね」
 一瞬『これで?』と言いたくなる桃太だったが、そんなことはおくびにも出す訳にもいかなかった。名門小学校に通っていた桃太にとって、田舎の平凡な学校のレヴェルというのは未知であり、そこにある大きな差異に度々カルチャーショックを受けていた。
「へぇ。桃太くんって勉強できるんだ」
 そう言って、桃太の答案を覗き見る女生徒の姿があった。
 級長の須藤綾香だった。肉体の発育が良く百五十センチの上背を持ち、生半可な大人に匹敵しかねない程胸や尻も発達した女子だった。顔の作りも良い方で、眉の太い上品な顔立ちで、全体の雰囲気は大人びていた。
「わたしは八十五点だったわ。いつもは満点に少し届かないくらいの点が取れるんだけれど、今回のテストは難しかったから」
「綾香ってクラスじゃ一番頭良いもんね。誰かに負けたのって初めてなんじゃない? でもそれ桃太が凄すぎるだけだから、心配いらないよ」
 瓜子がそう言って口を挟んだ。綾香はぴくりと眉を動かしてから、剣呑な顔になって視線を一瞬だけ外に反らせた。
「やっぱ無視だよね。知ってるもんね。でもわたし平気だもん気にしないもーん。無視するんだったらさずぅっと耳元で悪口言ったげる。綾香のばーかばーかばーかばーかばーかっ」
「ちょっとバカバカ言わないでよ。うるさいわね」
 綾香が上品な笑みを浮かべながら、作ったような笑顔を瓜子に向けた。
「そんな何度も言わなくっても、もう無視なんかしないわよ。瓜子」
 そう言われ、瓜子は表情を消してぽかんと口を開けた。そしてしばらく肩を震わせると、感極まった様子で声を発した。
「本当に……? なんで無視しないでくれるの?」
「そりゃあそうでしょう? あんたを無視しろっていうのは満作の命令でしょ? その満作がいなくなったんだから、今更あんたを無視する理由なんてないでしょ?」
 そう言われ、瓜子はみるみる目に涙を貯め始めた。そして「わぁーいっ」と言いながら綾香の身体に飛びつくと、抱き着いてそのあちこちに頬ずりを始めた。
「やったぁ! やったぁ! もう無視されなくて済むぅ! みんなの仲間に戻れるんだぁ! やった! やったぁあああ!」
 綾香の肩に捕まって瓜子は幾度となくその場を跳ねた。そのはしゃぎようは凄まじく、見ている桃太の方にまで喜びが伝わって来る程だった。
 仲間からの無視は瓜子の心にそれだけの外傷を残していたことが見て分かり、それが解消されたことに桃太も喜びと安堵を覚えていた。同時に、これで自分は瓜子の『唯一の友達』ではなくなったことを思うと、微かな痛痒な胸の奥で響いた。



「今日さ。皆で山へ出かける約束があるんだけど、瓜子も来るでしょ?」
 そう問われ、瓜子は「うんっ」と明るく即答したが、すぐにはっとした表情になって綾香に提案した。
「桃太も連れて行って良い?」
 これは気遣いからの台詞らしかった。ここ数日の瓜子の遊び相手は桃太であり、互いに十分な愛着が生まれていることを感じていた。そんな中で瓜子がかつての級友と親交を取り戻すとなれば、未だクラスに馴染み切っていない桃太は取り残される形となる。そこに寂寥を思えないと言えば嘘だった。遊びに連れて行ってくれることそのものよりも、瓜子のその優しさが桃太の胸に染みた。
 綾香は一瞬だけ迷うようなそぶりを見せた後、すぐに笑顔を取り戻して。
「もちろんいいわよ。桃太くん恰好良いから女子の皆気になってるし、喜ぶと思うわ」
 と返答した。瓜子は「わぁい」と言って桃太の肩を掴んだ。
「と言う訳で……、桃太も来るよね?」
 正直女子の遊びに一人だけ参加するというのも気まずさがあり、上手く馴染める自信もなかったが、しかし瓜子の気遣いを無駄にする訳にはいかなかった。
「そうだね。一緒に行かせてもらおうかな」
「じゃ、一緒に行こうねっ」
 綾香の言う『皆』というのは、クラスの女子の全員ということらしかった。その総数は五人であり瓜子と綾香の他、それぞれ沙耶と梓と千雪という名前だった。
「行きましょう」
 綾香を先頭に、少女達は学校の裏山へと遊びに出掛けた。
 道中、少女達の態度がどこかよそよそしく、若干の緊張感を纏っているのに桃太は気が付いた。桃太の知る小六の少女達というのはもっとかしましい生き物であるはずなのに、口数は少なく常に桃太や瓜子の表情を伺っていた。自然体に見えるのは綾香だけで、瓜子から「ねぇもう仲間外れにされない? もう普通に一緒に遊べる?」と尋ねられるのに、まるで年上のお姉さんのように「ええ」「そうよ」と笑顔で頷いていた。
「……ねぇ瓜子」
 桃太は小声で瓜子に声をかけた。
「なぁに桃太」
「なんか、皆ちょっと様子がおかしくない?」
「確かにちょっと前と違うかも。でもわたしずっと仲間外れにされてたからそう感じるだけだと思う。それに、桃太って男子もいて緊張してるのかもね」
「クラスの男子なんかいても緊張の理由になるものなの?」
「ならないよ。見慣れてるし、モテてたの多分満作くらいだし。でも桃太って二枚目でカワイーじゃん。綾香とか結構桃太みたいのがタイプだと思うよ」
「そ、そうかな?」
 そう言われ桃太は綾香の方に視線をやった。歩く度セミロングの黒い髪と共に、小学生としてはかなり豊満な胸部が揺れた。綾香は桃太の視線に気が付くと、唇を緩めながら艶やかな流し目を送った。桃太はたまらず赤面して視線を下に落とした。
「ちぇい」
 桃太の向こう脛に若干の痛みが走った。「ぐえっ」と振り向くと、そこには脛を蹴って来た瓜子が桃太の方を見ながら含みのある澄まし顔を浮かべていた。
「な、何だよ?」
「わたしのこと可愛いって思ってるんじゃないの?」
「え、ちょっと。それは聞こえないし忘れるって言ってくれたろ?」
「忘れて良いの? わたしは忘れたくないんだけどなぁ」
「え? いや、それはその……」
 澄んだ瞳にじっと顔を見竦められる。それが続けば綾香に流し目を送られた際の数倍の赤面が訪れることは必至であり、それは年頃の桃太にとって是が非でも避けたい醜態だった。
 桃太の額から汗が滲み出そうとしたその時、瓜子は堪忍してやるとばかりに視線を反らした。型破りに見えて実は他人への情けと言うものを知っている瓜子だった。そして男女間の心の機微に対し未熟で無頓着に見えた瓜子であっても、とどのつまり『女子』には違いなく、時には自分のような青い男児を翻弄してのけるのだと桃太は悟った。
 やがて一行は山沿いの道を歩み始めた。「ちょっと行った先に山の入り口があって、そこからちょっと登ったら遊び場だよ」という瓜子の説明を聞き終える頃、先頭の綾香がふと足を止めた。
「ねぇ瓜子。あそこに何か見えない?」
 綾香の長い指が山沿いの木々の隙間の一点を指さした。そこは落ち葉がやけに散らかっている以外には殊更に興味を引く要素はなかった。
「え? 何もなく見えるけど」
「なんか落ち葉の隙間に変なのが見えた気がするの。動いてたような……小さな妖怪かしらね?」
「虫だよ」
「分からないわ。ねぇ瓜子、見て来てくれないかしら? あんた討魔師の娘なんだから、他の誰かが行くより良いと思うの」
 そう言われると、瓜子は逡巡する様子もなく「分かったっ」と言って歩きはじめた。
「ちょっと待って瓜子」
 そんな瓜子を、桃太は制止して前に出た。
「ぼくが行くよ」
「どうして? 言われたのわたしなのになんで桃太が行くの?」
「……何か変だと思わない? あそこはどう見ても何もないし何も動いてないし、気になったとしても瓜子一人を行かせるのは絶対変だ。討魔師の娘だからなんて、理由も大分強引で……」
「大丈夫だよ桃太ありがとう。でも大丈夫わたし綾香信じるから。友達だから疑ったりしないし、万一なんか騙されてたりしてもそんな嫌じゃないよ。引っ掛かってあげるもんね」
 そう言って瓜子は桃太の前に出て、綾香が指さした地点に歩きはじめた。
 その足取りに衒いはなく警戒した様子は見られなかった。桃太が心配しながらその背後を見守っていると、やがて散らばった落ち葉の上に足を降ろした。
 その時だった。
 瓜子の足元が途端に崩れだし、出現した穴の中へとその華奢な肢体が転げ落ちて言った。中は泥水になっており水の跳ねる音が激しく響く。泥の中で尻餅を着いた瓜子の白のワンピースは泥だらけで、薄汚く変色し無惨な有様になった。
「あ、あははははっ」
 そんな仕打ちを受けてなお、瓜子は怒った様子もなく、悲しんだ様子も見せず、普段と変わらない明るい笑顔を浮かべて見せた。
「ひっかかっちゃったね。ねぇ綾香落とし穴なんていつの間に掘ったの?」
「そいつらに先回りさせて、掘らせたのよ」
 そう言って、綾香が瓜子の背後を指差すと、そこには京弥と宗隆の姿があった。
 満作の取り巻きを務めていた二人のいじめっ子である。腕力・暴力性ともに満作には及ばないものの、そのいじめっ子としての残虐性は十分なものがあった。
 二人の手には太い木の棒が握られており、それらはすぐに穴の中で尻餅を着いた瓜子に振り下ろされた。頭や肩が木の棒によって殴られる鈍い音が響く。瓜子は思わず頭を下げ、両腕を頭上にやって繰り返される殴打から全身を庇った。
「やめろっ」
 桃太は京弥と宗隆の前に飛びだそうとした。すると綾香からの「沙耶っ! 梓っ!」という号令によって飛び出した二人の女子により進路を妨害される。そこに綾香が加わり両腕を取られ、三人がかりで羽交い絞めにされる。女子と言っても小学六年生時点での体格は男子とあまり差がなく、汗だくで格闘した挙句、結局桃太はその場で組み伏せられた。
「ちょっと綾香。友達に戻れたんじゃないの? 流石にこれは酷いんじゃないの?」
 瓜子は顔中を傷だらけにしながら綾香の方に縋るような視線を送る。
「……誰が誰と友達に戻ったって?」
 桃太を組み伏せるのを二人の子分に任せ、綾香はずぶ濡れの瓜子を見下ろし、端正な顔に嗜虐的な表情を浮かべる。
「良くもそんな風に思えたわね? 私の姉さんを殺しておいて」
 そう吐き捨てた綾香の表情には、残忍さの中に心底からの怒りと憎しみ、そして哀しみが滲んでいるかのようだった。
「あんたなんか一生いじめ抜いてあげるわ。皆もそれを望んでる。無視と仲間外れで済ませてた満作の時と違って、私はもっともっと酷いことをあんたにたくさんしてやるわ」
 そう言って、綾香は京弥と宗隆に顎をしゃくった。
「ねぇあんた達。今からそいつの顔に小便しなさい」
 そう言われると、京弥は「おい」と隣の宗隆を肘でつついた。すると宗隆は「ああ」と言ってその場でズボンを降ろし始めた。
「ちょっと待って。それは流石に嫌!」
 言いながら、瓜子は穴から出ようともがきはじめる。しかしその穴は瓜子の半身程もある上泥でぬかるんでおり、さらにその腕や肩に腕や肩には京弥の木の棒が振り下ろされる為、脱出は不可能だった。瓜子は最後には覚悟したように唇を結んで俯いた。
「やめろっ! やめろぉっ!」
 叫びながら、桃太はその場にあった土を一掴みし、沙耶と言われていた女子の顔に投げつけた。それに動揺した沙耶の右手の拘束が緩んだ瞬間、桃太は渾身の力で女子二人の拘束から脱出することに成功した。
 すかさずに桃太は宗隆に近寄り、ズボンを降ろし丸出しになったその股間を蹴り上げた。たまらずその場で蹲った宗隆の手から木の棒を奪うと、それを持って京弥の方と対峙する。慌てて構える京弥の隙だらけのその手首に、道場に通っていた頃の得意技だった『小手』を放った。
「ぐあっ」
 手首を一撃され木の棒を取り落とす京弥の胴を、桃太は鋭く打ち据えた。その場で蹲り動けなくなった京弥を尻目に、桃太は泥だらけの瓜子に手を差し伸べた。
「さあ。手を取って」
「う、うん」
 目を丸くして、瓜子はその手を借りて落とし穴から這い出した。その全身は泥だらけの上、裂傷を起こしたアタマからは出血が見られ、あちこち痣を作ったその姿はズタボロであるとしか言いようがなかった。
「あーあー。助けちゃうのー? つまんないなあ」
 綾香がそう言って肩を竦めて桃太の方を見た。
「でもそれで良いの桃太くん? あんたさ、クラスに馴染みたいとか思わない訳?」
「それとこれとは話が別だ。誰がどう考えたってこんなことやめさせるべきだ」
「いやさぁ桃太くん。瓜子をいじめないってことは、私の敵ってことなんだよ? ちょっとは腕っぷしもあるみたいだけど、東京のお上品なお坊ちゃんが、私達田舎のクソガキのいじめに耐えられる? 今すぐ瓜子をその穴に叩き落して顔におしっこかけてくれたら、私のお友達にしてあげても良いんだけどな?」
「君みたいな卑劣な人間の友達なんて願い下げだよ」
 桃太は啖呵を切った。それはクラスメイト達との決定的な決裂を意味していた。今日この日から級友たちは桃太の敵に回り、様々な場面で自分を苛むことに違いなかった。
 だとしても桃太が瓜子を裏切ることは考えられなかった。彼女は桃太にとって命の恩人であり、すべてを捧げても忠義を尽くすべき対象だった。
「あっそ。ねぇ桃太くんあんたそいつが何したか知らないの?」
「関係ないよ。何をしていたって構わない。瓜子はぼくの命の恩人だからね」
「何よ恩人って。もういいや。行こう、皆」
 そう言って、綾香は三人の女子を取り巻きにその場に背を向けた。一瞬だけ倒れ込んでいる京弥と宗隆に視線を向けると、「使えない。満作いなきゃ何もできない」と吐き捨てて、綾香は少女達を従えてその場を離れて行った。



 流石の瓜子もこれには落ち込んだらしかった。
 泥だらけの傷だらけにされた痛みそのものよりも、友達に戻れると思ったかつての仲間から裏切られたショックが大きそうだった。子供を泣かせるにはお菓子を与えて取り上げるのが一番良い。土色の目をしてその場に蹲る瓜子の傷ついた様子を見て、桃太はいたたまれなかった。
 数日前、満作らのリンチに合って登校して来た桃太のことを、瓜子が衒いなく抱きしめて慰めてくれたことを思い出した。一見するとそれは遠慮や礼儀のない不躾な行いのようでもあったが、それが心から落ち込んでいる人間には確かな効果がある慰めであることも事実だった。あんな風に人の心を癒してのける天真爛漫さは瓜子の大きな長所であり才能だった。対する桃太は瓜子を慰めるのにどんな言葉をかけて良いのかも分からなかった。
「ぎゅーして」
 ふと瓜子が呟くように言った。それを聞いてようやく桃太は瓜子の傍に屈み込み、その泥で湿った全身を抱きしめることが出来た。
「……ぼくは瓜子の味方だから」
「ありがと」
 次からは促されるまでもなくこれができるようになろうと桃太は誓った。
 瓜子が満足するまでそうしていると、やがて太陽は傾き青空の隅に茜色の夕焼けが現れた。涼しく肌寒くなっていく空気の中ですぐ傍にある山の匂いがした。泥水に塗れた瓜子が風邪をひかないかを桃太が心配しかけたその時、一人の少女が桃太達の正面から現れた。
「あ、あの……瓜子。大丈夫?」
 綾香の取り巻きの内、千雪と呼ばれていた小柄な少女だった。背は瓜子よりも低く、全身の色素が薄いのか髪や瞳の色が淡かった。鼻が低く頬にそばかすが目立つその顔立ちにはどこか愛嬌のようなものがあり、美人ではなくとも野菊のような素朴な愛らしさがあった。
「……千雪?」
 瓜子はつぶらな瞳で千雪を見た。
「……ごめん。落とし穴があるってことは聞いてたんだけど、あんな酷いことまでするとは聞いてなくって……」
 千雪は言い訳がましくそう言うと、視線を微かに地面の方へと落とした。
「いいよ別に千雪には何もされてないし」
 そう言われ、桃太は一瞬だけ首を傾げたが、そう言えばあの時桃太を羽交い絞めにした三人の中にこの千雪と言う少女は入っていなかった。ただどこか一歩引いたような立ち位置から、出来事を遠慮がちに見守っているだけの少女だった。
 思えばどんなグループにも一人こうした人間はいる。皆で何かをしていても、そこに上手く加われずただそこにいるだけという類だ。要領が悪いのか積極性に欠けるのか、どちらかというと桃太もその手の人間なので何となく気持ちは分かる。おそらくグループ内での地位も低いのだろうと思われた。
「というかわたしに声かけて良いの?」
「実はその……綾香と喧嘩して来たの。喧嘩っていうか、一方的に追い出されたみたいな感じかな?」
「なんでまた? 大丈夫なの?」
「さっきのはいくら何でも酷いんじゃないかみたいに抗議したら、じゃあ昔みたいに瓜子と仲良くして来いみたいに言われて。もうあたしとも口利かないみたいに言われてさ」
 そう言った千雪の表情にはバツの悪さのようなものも滲んでいた。
「だからさ、実はあたし今行くところなくて困ってるの。瓜子を落とし穴に落とすって知っておきながら黙ってたのは、本当にごめん。だけど、その……出来たら昔みたいに」
「いいよっ!」
 途端に元気になって、瓜子は泥だらけになるのも構わず千雪に抱き着いた。
 この場合の『泥だらけになるのも構わず』というのは、『千雪が』泥だらけになるのも構わずという意味である。泥水に塗れた瓜子に抱き着かれた千雪は露骨に顔を顰めたが、しかし自身の置かれた立場を加味してか、どうにか笑顔を繕って抱擁を受け入れた。
「一番の友達だったもんねっ。友達に戻れるなら嬉しいもんねっ。ありがとー千雪! きゃはっ。きゃはははははっ!」
 桃太はこの千雪と言う少女を信頼して良いのかどうか疑問に駆られた。今更瓜子と友達に戻ろうとすることにムシの良さを感じる訳ではない。しかしこれまでずっと瓜子を無視して来たのが確かなのなら、今後容易いきっかけでまた綾香派に戻りかねないと思ったのだ。
「あ、あの、それと桃太……くん? も、よろしくね」
 ふと、千雪が桃太の方を見て言った。桃太はもちろん瓜子と友達なので、その瓜子と千雪が友達に戻るなら、必然的に両者の間には交友が生まれることになる。
「え、あ、うん。よろしく」
 桃太の方を見る千雪の表情には、どこか粘ついた情欲のようなものが覗いている。
 それがいったいどういった性質のものなのかは、その時の桃太には良く分からなかった。



 翌日は半ドンの土曜だった。
 土曜日の学校には活気がある。何せ給食を食べることなく帰れる『ちゃらい』一日である訳で、しかも翌日は休みなのだ。
 桃太もこの土曜日を心待ちにしていた一人だった。学校が終わったらどこかに瓜子を遊びに誘うつもりだった。向こうから誘われてどこかへ連れて行かれる可能性も高かったが、どこへ行くのだとしても桃太は大歓迎だった。どんな展開になってどんな楽しい一日になるのか、桃太の意識は早くも放課後に向いていた。
「おはよう桃太」
 そう声を掛けられ、振り返るとそこには千雪がいた。昨日までは自分のことを『くん』付けしていたのに呼び捨てになっていた。そこにさしたる感慨を持つことはなく、桃太は努めて笑顔を浮かべて千雪に応じた。
「おはよう千雪」
「今日から友達だね」
「そうだね。……ところでさ」
 桃太は気になっていたことを尋ねた。
「千雪は昔、瓜子と仲が良かったの? 一番の友達だったって言ってたけど……」
「そうだよ。瓜子はあたしの親友だったよ」
 千雪はかすかに遠い目を浮かべて言った。
「瓜子ってさ、明るいし優しいし、どんな怖いことにも平気な顔で立ち向かえるようなところあるじゃない? だから低学年の頃とかは皆のリーダーだったんだけど……でもちょっと豪胆が過ぎたのかな? 無茶苦茶やりすぎてだんだん皆付いていけなくなって……その内ちょっと浮いた感じになっちゃったのね? 分かる?」
「ああ、うん。それはなんとなく」
 目に浮かぶようだ。桃太は恐れを知らないかのような様子で、河童の住む洞窟の中へ入って行く瓜子の姿を思い出した。そして案の定河童に追い掛けられる羽目になり、仕舞いには河童の皿に岩を叩きつけて殺害するまでに至った。桃太を助ける為だったとは言え、ああいうことを繰り返していたのなら、低学年だった学友達が付いてこられなくなるのも無理のない話だった。
「でもね、その時あたしもちょっと浮いちゃったんだ。自分で言うと卑屈になるけど、あたしって皆よりちょっとトロくてさ。何をするにも皆の一番後ろで、満作とかには『足手まとい』とか言われちゃってさ。それで仲間に入れてもらえなくなって。それで浮いた同士で瓜子と一緒にいたの。二、三年くらい、ずっと二人で遊んでたんだ」
 それは確かに親友と言っても過言ではない間柄だった。だがそんな長い付き合いの友人が無視や仲間外れに晒される状況に陥った際、この少女はそこに同調し共に瓜子を排斥していた。
 だがそれは殊更にこの少女が卑劣であることを示す訳ではないだろう。瓜子へのいじめに加わらないことは満作や綾香と言ったクラスの権力者に背くことを意味する。学校と言う人間関係の地獄のような空間でその選択を取れる者は数少なく、この千雪という少女にその胆力があるようには思えなかった。
「そうなんだね」
「うん。ところでさ、桃太って何か武道かなんかやってたの?」
「え? うん、剣道をちょっとね」
「強かった?」
「一度だけ全国大会に出たことがあるよ」
 準決勝で敗退という成績だった。死んでも優勝しろと言っていた父に殴られることを覚悟したが、それは杞憂であり、強く抱擁された上好物をたらふく食わせてもらったことを覚えている。あれは良い思い出だ。
「やっぱりっ。昨日とか、京弥とか宗隆のこと、簡単にやっつけちゃったよね。あの二人だって満作が幹部にするくらいだから十分強いのにっ」
 そう言って千雪は朱の刺した頬と湿った視線で桃太の方を見詰めた。端正ではないが素朴なその顔は熱を帯びているかのようだった。
「桃太ってさ、頭も良いよね。東京の名門小学校から来たんでしょう? テストも百点だったし、授業ではどんな意地悪な問題にも答えてる」
「う、うん。勉強は得意だよ」
「すごいなあ。なんで瓜子ちゃんは仲間外れにされてる癖に最初っからそんな子と……」
「おっはよー千雪! 桃太!」
 言いながら二人の間に飛び込んで来たのは瓜子だった。屈託のない表情は如何にも上機嫌であり、昨日綾香達に傷付けられた痛みなど既に忘却の彼方にあるらしかった。
「ねっ、ねっ、今日土曜でしょ三人で遊びに行こっ。皆で人魚探しに行くの。良いでしょう?」
「もちろんだよ」
 桃太が言うと、瓜子は楽しそうに桃太と千雪のそれぞれの肩に手を回して嬉しそうに笑った。



 どうやら自分達はこれからは仲良し三人組という体裁を取るようだった。授業が始まってからの休み時間も、瓜子は桃太と千雪に均等に話しかけ三人での遊びを提案した。
 桃太と千雪の二人は最初こそぎこちなかったが、しかし両者共に控えめなタイプの性格だったこともあり、馴れるのに時間はかからなかった。言動のペースや気の強さの程度が一致していた為、互いに警戒心を抱きづらかった。
「なんか、桃太君って意外と話しやすいよね。あたしみたいなどんくさいのと違って何でもできる子なのに、なんでか親しみが持てるっていうか」
 千雪は言って、桃太に好意的な視線を向けた。
 思えば東京にいた頃親しかった女子はたいていこのタイプだった。よって桃太は現状についてもどうにか適応は可能と言う認識を持った。千雪のことも少しずつ良いところを見付けて好きになって行けば良いと感じた。
 やがて放課後が近づいて来たある休み時間のことだった。
 桃太の机の隣の壁に、一匹のヤモリが現れた。小さく柔らかな四肢を動かして壁を這いまわるその姿と、虚ろな両眼と時折突き出される舌の様子に、桃太は強力な嫌悪感を覚えた。
「苦手なん?」
 青ざめた桃太に気付いた瓜子は穏やかな声でそう言った。
「……まあね」
 こんなのが次の授業中も隣の壁を這うことになると思うとぞっとした。雑菌に塗れたその汚らわしい身体で足元を這いまわられることを想像と鳥肌が立った。増して上履きでそれを踏みつけてしまったらと思うと意識が遠のくようだった。
「男の子でそういうの珍しいよね。だいたい皆無神経に触ったり引きちぎったりするのに」
 千雪が言った。バカにしているのではなく、その表情にはむしろ共感と親しみが込められていた。
「捕まえたげる」
 そう言うなり、瓜子はあっさりとヤモリを素手で捕まえてしまった。その手つきは洗練されており、山や森に分け入って遊ぶ中で、何匹ものヤモリやトカゲを捕まえて来たことを想像させた。
「あ、ありがとう」
 男の癖に女子にヤモリから守ってもらうという情けなさに赤面しつつ、桃太は感謝を口にした。心底からありがたいのは言うまでもない。
「瓜子ってこういうの平気だよねぇ。あたし無理だなぁ。桃太と一緒」
 千雪は言って粘ついた視線で桃太の方を見た。瓜子は無邪気に笑いながら、ヤモリを掌の上に這わせて遊び始める。
「小さいし弱いし、怖い要素何もないじゃん。お父さんなんかね、ナムールにいた頃は、ネズミとかトカゲとか捕まえて食べてたんだって」
 戦時中ならではのおぞましいエピソードである。己の指先を舐めさせるという桃太から見れば倒錯的な振る舞いに興じる瓜子に、ふと千雪が言った。
「そうなの? すごいなあ。じゃあ瓜子、そのヤモリ、食べてみてよ」
 桃太は目を丸くして硬直し、言った。
「ちょっと。何その冗談……」
 しかし千雪の表情は本気だった。どういう訳か縋るような面持ちで、千雪は瓜子の方を見詰め懇願するように続けた。
「本当に食べられるのか試して欲しいの。気になってしょうがないから、お願い、瓜子」
「……可哀そうじゃないかな?」
 瓜子はおだやかな表情を浮かべて言った。
「でも食べるとこ見てみたいし。ね、お願い」
「なんか変だよ、千雪」
「そんなことないよ。本当にお願い。あたし達、友達でしょう?」
 そう言って両手を合わせる千雪の様子は、どこか焦りを帯びているようだった。
 見れば周囲の生徒達の視線が瓜子たちの方に向けられている。取り巻きと談笑していた綾香が、纏わりつくような陰湿さを帯びてこちらに注がれていた。
「……分かった。いいよ」
 瓜子は言った。桃太は驚愕して瓜子に「やめなよ」と制止を口にする。しかし瓜子はあっけなくヤモリを口へと運んだ。
 教室は静寂に包まれていた。瓜子の小さな口がヤモリの為に大きく開かる。一口に飲み込むことはできず後ろ足から下が露出したが、指先で押し込むようにして校内へと詰め込んでしまった。
 口内で這いまわるヤモリの様子が、肉付きの薄い頬の動きで見て取れるような錯覚を覚え、桃太は眩暈を覚えた。瓜子はもごもごと口を動かすとあっさりとヤモリを咀嚼せしめ、ごくんと飲み込むと簡素な感想を口にした。
「苦くてまずい」
 教室から笑い声が沸いた。しかしそれは明るく甲高い笑い声と言うよりも、暗い歓びを称えたような静かな忍び笑いだった。
 桃太は千雪の方を見る。その表情は、安堵を帯びた媚び諂いの笑みだった。



 そんなことがあった後も、瓜子と千雪の様子は殊更に変わらなかった。
 ブランクを伴いつつも、二人には確かに確立された二人のペースというものがあった。放課後、人魚を探す為と言いながら山中に分け入り川原へ向かいつつも、すぐに二人は無関係の遊びを始めた。
 水切りや秘密基地作りなど、山中や川原でできる遊びを三人は堪能しつくした。これは桃太も十分に楽しむことが出来た。千雪に対する不信感も一時忘れてしまうほど、土曜日の放課後の遊びの時間というのは小学生にとって甘美なものだった。
 特に面白かったのは秘密基地作りだった。山の中には壊れた冷蔵庫などの大型家電が不法投棄されている一角があった。そこを秘密基地にしようと言い出した瓜子に従い、投棄物の配置を動かすなどして『秘密基地』と呼べるだけの空間を拵えた。
「この冷蔵庫、中に入ったらどうなるかな?」
 瓜子はふとそんなことを言い出した。
「危ないんじゃないかな? 出られなくなるかも」
「万一の時は外から助けてよ。じゃ、入るね」
 などと言い、横たわった冷蔵庫の扉を開けて、中へ這い入る瓜子。業務用らしい巨大な冷蔵庫は、少女の肉体を簡単に収納してしまった。
「ドア閉めて」
 好奇心が旺盛で怖いもの知らず。瓜子にはそう言った子供らしさがある。
 桃太は躊躇したが言われたとおりにした。
 その後一分が過ぎ、二分が過ぎる内に、桃太は不安になって来た。中から全く声がしないので、瓜子がどこかに消えてしまったような錯覚を覚えたのだ。
「瓜子。大丈夫? 中はどんな感じ?」
 そう尋ねてみるが、返事は一切ない。
「これ、助けた方が良いんじゃ……」
 千雪が言う。桃太が冷蔵庫のドアを開けると、瓜子が真っ青な顔で這い出して来た。
「なんで出してくれないのっ? 助けてって言ってるじゃんっ」
 瓜子は珍しく取り乱した様子だった。顔が青いだけでなく、目は充血して涙ぐんでいる。余程中が怖かったらしいことが見て取れた。
「ごめんね。外からは何も聞こえなくってさ」
「そっか。じゃあ桃太悪くないね。すっごく危ないねこれ」
「うん。危ないね」
「もう二度と入らないもんねっ。身動き取れないし暗いしで、すっごく怖かったっ!」
 言いながら桃太の胸に縋り付く瓜子。この胆力の申し子のような少女をここまで怯えさせるあたり、内部の暗闇と閉塞感は相当のもののようだった。
 やがて日も傾き、そろそろ帰ることも検討する必要が生じ始めた頃、瓜子がふと言い出した。
「ひさしぶりにさ。これ、やろうよ」
 瓜子は自宅からビー玉を持って来ていた。昔のように千雪とこれで遊びたい、桃太も一緒にどう、ということだった。桃太に断る理由はなく、三人は冷蔵庫の上に置いたビー玉を転がし取り合う遊びを始めた。
「懐かしいね。千雪ってこれすごく上手いんだよ」
 けらけら笑いながら心底幸せそうにビー玉をはじく瓜子。
「昔すごくたくさんビー玉持ってたよね? それまだ持ってる?」
 瓜子に尋ねられ、「ああ、それなら……」と言った後、千雪は少しの間口ごもった。
 桃太はそこに一瞬の違和感を覚えたが、しかし千雪はすぐに沈んだ表情になって。
「実はあれ、もうなくなっちゃったんだ」
「え? そうなの?」
 瓜子は目を丸くして、心配そうな表情で千雪を覗き込んだ。
「あれ千雪の宝物だったじゃん。どうしたの?」
「京弥の奴にね、その、盗られちゃって」
「何それ!」
 その場から立ち上がって憤慨した様子で瓜子は言った。
「それっていつのこと?」
「え? ……いつ? う、うん。それがその、昨日なの」
「昨日? じゃ、絶対まだ持ってる訳ね。いいよ、今すぐ取り返しに行こう」
 そう言って息巻く瓜子の勇敢さと友情とに、桃太は憧憬を覚える。友達が理不尽な目に合う際はただちに立ち上がるという瓜子の気質に、桃太は好ましい喜びを感じた。
「うーん。気持ちは嬉しいんだけど、でも取り返すのは無理かもしれないよ」
 千雪は言う。
「なんで?」
「京弥の奴、家で飼ってる牛に食わせたって言ってたから」
「牛がビー玉食べる訳ないじゃん。絶対ウソだよ」
 瓜子は唇を尖らせて言った。
「……え、あ、でも。実際に食べさせるとこ、あたし見さされたし」
 千雪は言った。さっきと言うことが不自然に変わったことは明らかだったが、しかし瓜子はそこに頓着することはなく。
「本当?」
「うん、餌に混ぜたら簡単に食べるみたい。ほら、牛って口、大きいから」
「本当に本当?」
「本当だよ! 瓜子は、友達を疑うっていうの?」
 いぶかしむような目をする瓜子に、千雪の答えはそうだった。すると瓜子ははっとした表情で。
「そうだね。ごめん。千雪が見たんなら本当なんだろうね」
「ううん。気にしないで。……流石の瓜子でも、牛が食べちゃったものを盗り返すのは……無理かな?」
 そう言って千雪は媚びるような挑戦するような目で瓜子の方を見る。その瞳に何か奸悪な気配のようなものを、桃太は感じ取った。しかしそれをどう口にして良いのかを桃太には分からなかった。
「京弥の奴叩きのめして弁償させりゃ良いじゃん。駄菓子屋に売ってるんだからさ」
「でも思い出の品物だから、同じものを弁償してもらっても意味がないの。ほら、昔瓜子ちゃんとあれでたくさん一緒に遊んだでしょう?」
「……そうだね。どうしようか。うーん……」
 そう言って小首を傾げ始めた瓜子の真剣な表情に、桃太は何かぞっとするものを感じた。それは悪い予感としか言いようのない漠然とした危機感だった。
「きょ、今日はもう遅いし、帰ろうよ」
 桃太はとにかくこの場を終わらせることにした。そして常識的なアドバイスをする。
「だいたい物を取った取られたのトラブルなんてさ、子供だけじゃ解決できないでしょ。それぞれの親に相談してさ、どう解決するか一緒に考えるべきだと僕は思うな」
「……そうかな?」
「そうだよ。とにかく暗くなる前に家に帰ろう。ね?」
 実際、もう夜はすぐそこに来ていた。そろそろ帰って勉強を始めなければ本格的に叱られる頃だった。
「……桃太が言うんなら」
 瓜子はそう言って自分のビー玉を片付けて立ち上がった。
「でも、京弥のことはわたし、絶対に許さないんだからね。絶対何とかして見せるから、千雪、安心してね」



 その夜。いつものように自室で勉強をしていた頃だった。
「近所でトラブルがあったそうだぞ。見に行こう」
 父親にそう言われ、部屋から連れ出されることになった。
「喧嘩だそうだ。ある家のご主人が子供に掴みかかって、それを止めに入った別の大人と掴み合いだよ。すぐ行くぞ」
「それって見に行って面白いのかな。怖くない?」
「阿呆め。野次馬根性で行くんじゃない。こういう田舎じゃな、トラブルが起きた際にとりあえずご近所さん同士で集まって、皆で事態の収拾を計るものなんだ。おまえも男ならちゃんとそうしたことにも慣れておくべきだぞ」
 勉強を中断させてでも、父はトラブルの仲裁に桃太を加えたいらしかった。争いごとからはとりあえず距離を置いてしまう息子の気質を、どうにかしようと言う意図がそこにはあった。
 父に付いて歩いて行くと、一軒の家屋に行きついた。その庭には牛舎が一つあり、人だかりはそこに出来ていた。
「どうされましたか?」
 父が声をかけると、野次馬の一人が「お医者様」と言って振り返った。
「何でも。他所の家の子供が、家畜を殺してしまったそうで」
「それは一大事ですな」
「ええ。しかもそれが村で一番の問題児だったものですから、家の主人はもうかんかんで、今にも掴みかからん勢いで。どうにか皆で抑え込んでいるところです」
 それを聞いて、桃太は腹の底に冷たいものを感じた。そして人だかりを分け入り牛舎の中の様子を伺うと、そこには案の定瓜子の姿があった。
 その手には小刀を一本帯びていた。
 瓜子は憮然とした表情で唇を結んで立ち尽くしていた。その全身は血塗れであるのみならず、脹脛のあたりには何か動物の内臓のようなものまでこびり付いていた。足元には一匹の牛が虚ろな表情で横たわっており、大きく引き裂かれたハラワタの中からは夥しい血液があふれ出している。途方もない生臭さは、胃の内容物の臭いかもしれない。
「……瓜子」
「あ、桃太」
 人だかりの中央で、血塗れの瓜子は桃太を見て手を挙げた。
「ねえ桃太も言ってやってよ。わたし悪くないってさ」
「……この牛、瓜子が殺したんだ」
「そうだよ」
「もしかして……千雪のビー玉を取り出そうとしたの?」
「うん。そう」
 言いながら、瓜子はその場でかがみ込んで、牛のハラワタの中に躊躇なく手を突っ込んだ。
「なんとか胃袋まで到達したんだけどさ。ビー玉全然見付からないの。腸の方まで見たいから引っ張り出そうとしてるんだけど、上手く行かなくて」
 胃袋を引っ張って腸を引きずり出そうと試みているようだった。そんなことをしている瓜子の腕から顔までは血を被って真っ赤に染まっていた。桃太はおぞましいものを感じつつ、とにかく今は瓜子の為に瓜子を止めなくてはならなかった。
「……やめよう瓜子。多分、こいつがビー玉飲み込んでるっていうの嘘だよ」
「なんでそう思うの? 千雪が嘘吐く訳ないじゃん」
「そうかな? ……仮に本当だとしても、瓜子がそれを胃腸の中から引っ張り出すのは、いくら何でも無茶だよ」
 良くも胃袋をこじ開けるところまでいったものだと思う。普通なら、子供が自分の何十倍の体重を持つ牛を殺害することがまず不可能だが、瓜子はどうにかしてしまったらしい。切れ味の良さそうな小刀は王一郎のものを拝借したのかもしれない。ワンピースのスカート部分には、小刀から何度も血油をぬぐい取ったような形跡が見て取れた。
 死体を尚もいじくろうとする瓜子を、別の男がすぐに引きはがした。そして容赦なく平手で顔を撃つ。
「いったっ。ねぇおじさん邪魔しないでよ。千雪のビー玉取り戻さなきゃいけないってずっと言ってるじゃん」
「黙れこの鬼っ子めっ。何を訳の分からないことをっ」
「放してよ。放してってばっ!」
 言いながら小刀を振り回すので、男はたまらず瓜子から離れるしかない。
 何故ここまでのことをしておいて瓜子が自由になっているのかと思ったら、子供とは言え武器を持っているから皆が遠巻きにしているらしい。今みたいに気骨のある者が掴みかかることもしばしばあるようだが、瓜子はすばしっこくスルリと抜け出しては、小刀を振り回して相手を遠ざけてしまう。
 桃太はそんな瓜子に近付き、根気良く宥めようと試みた。
「分かった瓜子。じゃあビー玉は後でゆっくり探させてもらえるように、後でこの家のご主人にぼくからお願いしてみるよ。だからさ、今はとにかくこの場を収める為に、その小刀を置いてちゃんと謝ろう」
「でもこれ置いたらすぐ皆に羽交い絞めにされちゃわない?」
「ちゃんと武器を捨てたら酷くはされないよ。ビー玉のこともきっと何とかするから、今はまず武器を……」
 その時だった。
 人だかりの向こうから、一人の女性が現れた。
 これまで桃太が見て来た中でも抜きん出て美しい女性である。目が大きく鼻が高く、色が白い。大人の女性の美しさを持つと同時に、どんな年代の少女より愛らしくもある。年齢は不詳という他なかった。
 桃太はその女性を見てすぐに強い既視感を覚える。思わず瓜子の方を見詰めると、それぞれがそれぞれの過去と未来の姿と言っても良いくらい、その顔立ちには無視できない相似があった。
「……お母さん」
 案の定というべきか、瓜子は女性を見てそう口にした。
「大変なことをしてくれたわね瓜子! お父さんの小刀なんか持ち出して!」
「聞いてよお母さん。わたし悪くないのっ。いや牛を殺したのは可哀想だし悪いことだけど、でもちゃんと理由があって。そもそも京弥の奴が」
 そんな瓜子の頭に、母親は容赦なく拳骨を叩き下ろした。
「い、痛い……。ちょっとお母さんちゃんとお話し聞いてっ」
「この阿呆っ」
 母親は瓜子の頬を張った。
「いつもいつもっ! おぞましいようなことばかりっ! お母さんはね、あなたの将来が本当に心配なのっ。ちゃんと反省しなさいっ!」
 一言喋る度に一発張り手が飛んだ。最初は「違うの、違うの」と言い訳を口にしようとしていた瓜子だったが、母親の折檻が続く内に徐々に目に涙を貯め始め、やがては幼い子供のように声を上げて泣きじゃくり始めてしまった。
 これだけ大勢の大人を相手にしても、動じずに牛のハラワタを引きずり出そうとする瓜子も、母親の前では年齢相応の子供だった。母親の剣幕や体罰が怖いという訳ではないのだろう。ただ、母親がこの状況で自分の味方をしてくれないことが、つらくてたまらないと言った心境であることが見て取れた。
「お母さんっ! 何で……何で……っ」
「後でじっくりと話し合いましょう。そしてじっくり考えなさい。あなたは許されないことをしたのよ」
 そう言って、瓜子の手から小刀を強引に奪い取ると、母親は牛の持ち主である京弥の父に向けて娘の頭を下げさせた。
「本当に申し訳ありません。牛はそちらの言い値で弁償いたします」
「もちろんそうしてもらいましょうか。討魔師の一家であるお宅だから容易く弁償できるでしょうが、わしらにとって牛は大変な財産ですからな。お宅が普通の一家であれば、家を売らなければならないところですぞっ」
 羽交い絞めにされたまま、京弥の父は嫌味たっぷりな口調で言った。しかしその怒りはもっともではあった。
「……存じております。娘も良く叱っておきますから」
「しかし娘がこんなことをしでかして、あの討魔師の主人はどうしてるんですかな?」
「……仕事で遠くへ行っておりまして、明日の朝まで帰りません。討魔師もどんどん少なくなっていますから、遠方からの依頼も増えておりまして」
「ふんっ。それはさぞかし儲かるんでしょうな。あんな変人、討魔師なんて仕事がなかったら、畑仕事も碌にできない気狂いの癖に。良いご身分だ」
「お父さんの悪口言うなっ」
 瓜子が涙と鼻水を垂らしながら叫ぶ。
「黙りなさいっ」
 母親が瓜子の頬を張った。
「立場を弁えるのよ。これは私達一家の過失なの。お父さんの悪口を言われたくなかったら、あなたは間違いを犯すべきじゃなかったの」
 ますます声を大きくして泣きじゃくる瓜子に、桃太は思わず顔を反らした。見ていられなくなったのだ。
「……ふんっ。こんな気狂いの娘、あの時に処刑されて置くべきだったんだ」
 京弥の父は吐き捨てる。そして牛の代金などについて、瓜子の母親といくつか言葉を交わし始めた。
 瓜子の保護者の登場により、事態は一応の収拾に向かったということで、野次馬達はそれぞれ自宅へと帰り始めていた。
「ウチも帰るぞ」
 桃太の父もそう言って桃太の手を引いた。そんな父に、桃太は「ちょっとだけ待ってくれない?」と願い出た上で、京弥の父に相対して深く頭を下げた。
「あの、お願いがあります」
「なんだ、小僧?」
「この牛がぼくの友達のおもちゃを食べちゃったみたいなんです。お腹の中を探らせてもらえませんか?」
「バカを言うな、バカを」
 京弥の父は桃太をあしらうように軽く突き返した。



 翌日の日曜日。桃太は昼の一時に、昨日作った秘密基地で瓜子たちと待ち合わせていた。
 昨日の一件で元気がないかと予想していたが、それに反して瓜子は元気そのものだった。いつものように千雪や桃太を振り回してはしゃぎ、笑った。
「昨日さ、京弥の家の牛の腹を裁いてみたんだ」
 遊びの途中で、ふと瓜子がそんなことを千雪に言った。
「そ、そうなんだ。そんなことしたんだね」
「うん。でもビー玉見付けられなかった。すぐに大人に見付かっちゃってさ。騒ぎを聞いてやって来た桃太が、お腹の中探す時間ちょうだいって京弥のお父さんにお願いしてくれたんだけど、ダメでさ」
「そ、そう……」
「うん。ごめんね」
 本気で申し訳なく思っている様子の瓜子に、千雪は引きつらせた表情で「いいよ、いいよ」と口にするばかりだ。
「ねぇ瓜子ってさ。大人から怒られたり、酷い罰を与えられたりすることって、怖くないの?」
 千雪は言う。嫌悪と恐怖が滲み出しそうな表情を、作り笑いで覆ったような顔をしていた。
「怖くない訳ないよ。すごく怖いし嫌だよ」
「……その割には、瓜子って何でもやることない? 昨日のことだってそうだし、あたしの弟が殺される時だって……」
「千雪は大切な友達だもん。千雪の為ならなんだってやるよ」
 瓜子は屈託のない笑みを浮かべている。
「また友達に戻れて嬉しかったもんね。大人に怒られるくらいは全然へーき。またなんか困ったら何でも言ってね。いくらでも助けてあげるから」
「そ、そう。……あ、だったら今度は」
 千雪はその表情にどこか下卑た視線を宿しつつ、何事か口に出そうとした。そこで桃太は。
「そこまでにしよう」
 そう口を挟んだ。
「君はまたどうして、瓜子に何かと酷いことをさせようとするのかな? ヤモリを食べさせたことと言い、牛を殺害させたことと言い、おかしいよ」
「ちょっと桃太。何言ってるの」
 咎めるような声を出したのは瓜子だった。
「別にわたしやらされてないよ。自分がしたくてやったんだよ。本当だよ?」
「でも瓜子。君だってまったくおかしいと思わない訳じゃないんだろう?」
「千雪が何考えてるのかは分かんないけどさ。でも何か事情があるんだよ」
「その事情を聞き出した方が良いと思う。だから、ちょっと持って来たものがあるんだ」
 桃太は秘密基地の大型冷蔵庫の中を開け、中から大きな布に包まれた箱のような物を取り出して、土の上に置いた。
「ねぇ千雪。ちょっとこれを見てくれないかな?」
「え? ……どうして? これは何?」
「良いから。行くよ」
 そう言うと、桃太は自分の目を閉じつつ、片手で瓜子の目を抑えた。
 そしてもう片方の手で……勢い良く箱にかぶさった布を引き剥がす。
 中に入っていたのは、さとりの化け物を入れた檻だった。
 檻は七十センチ四方の立方体のような形をしており、四面が格子となっていて中の異形の姿が外から伺えるはずだった。そしてさとりは目が合った人間に憑依する特性を持っている。この場で目が見えているのは千雪一人だ。
「何これ?」
 千雪は恐怖したような表情を浮かべた。
「これ、妖怪? もしかして……前に瓜子が話してくれたさとりの化け物なんじゃ……」
「きゃーきゃっきゃっきゃっきゃ!」
 さとりの化け物の声がした。
「『何今の声? 気持ち悪い! 妖怪なんて見たくもない! 何で? 何で桃太はこんなものをあたしに見せるの? 何を企んでいるの? あたしはどうなるの?』」
 桃太は瓜子から手を話して目を開けた。
「桃太……」
 瓜子が哀しそうな目で桃太の方を上目遣いに見詰めた。桃太は小さく首を振ると、千雪の方に向き直る。
「『あたしの心が読まれてる! ダメだ! 逃げないと!』」
 さとりは言う。桃太は背を向けようとする千雪の腕を掴んで制止する。
「暴れないでね。いくつかの質問に答えてもらったら、助けてあげるから」
「どうして桃太はウチで捕まえたさとりを持ってるの?」
 瓜子が問う。桃太は答える。
「午前中に王一郎さんに事情を話して、貸してもらえるようにお願いしたんだ」
 随分と渋られたものだったが、瓜子の為だと言ってどうにか説得した。
「じゃあ聞くよ千雪。君さ、瓜子に何か嘘を吐いているよね?」
 そう尋ねると、千雪は目に涙を貯めながら押し黙る。そしてさとりの方を見詰めながら、「やめて……やめて……」と震えた声で懇願した。
「『吐いてる』」
 さとりは答える。
「君は綾香にグループを追放されて瓜子と復縁を申し出たと言っていたよね? あれが嘘なのかな?」
「あああ……。やめてやめて。やめて……っ」
「『そうだよそれが嘘なんだよ。本当は綾香から言われて、瓜子と友達に戻った演技をしていただけなんだ。友達の振りをして瓜子に無茶な命令を聞かせて遊ぼうって言われて、そうしてただけなんだ』
「やめて……やめてよっ!」
 叫ぶ千雪。しかしそれ以上に動揺したのは瓜子だった。その場で崩れ落ちて、凍り付いたような顔で千雪を見詰める。
「う、嘘! 嘘だよね!」
「嘘じゃない。さとりは嘘を吐かない。瓜子、君はそれを良く知っているはずだよ」
 桃太は言う。そして千雪の方を向き直り、さらに問いかける。
「ヤモリを食べさせたのも、ビー玉のことを仄めかして牛を殺させたのも、そういう目的だったんだね」
「『そうだよ。上手く行って本当に良かった。皆をびっくりさせるような無茶苦茶な命令を三つ聞かせなかったら、あたしがリンチされることになっていたから。後一つ命令を聞かせたらあたしは瓜子の友達の振りから解放されて、綾香からも褒めて貰えることになっていたの』」
 千雪は涙を流していた。しかし容赦なくさとりは二つある内の下側の口で喋り続ける。
「『でも牛を殺したのは予想外。京弥の家に殴りこませるとか、糞の中身を調べさせるとか、それだけでも十分笑いものにさせられるはずだったからね。あんなことまでするとはあたしだって思わないよ』」
「……そっか。分かった。ここまでは良いよ。思っていた通りだったから」
 桃太は頷いた。そして続ける。
「ここからが重要な質問。さとりを使ってでも聞き出したかった、君の大切な本心だ」
「『何?』」
「君は本当は、綾香よりも瓜子のことが好きなんじゃないのかな?」
 泣きじゃくっている千雪の瞳が開かれる。
「君の気持ちは良く分かるよ。綾香のようなリーダー格の子に強く出られたら、逆らえないもんな。だから瓜子を騙していたのも本当は嫌々だったんじゃないかなって思うんだけど、そこはどうなの?」
「『嫌々だったよ』」
 さとりは言う。
「『誰かを騙す為に演技し続けるなんて、そんな疲れることないもん。面倒だし、嫌だったよ』」
「そっか。じゃあ、本当は綾香よりも瓜子が好きなんだよね? 綾香には無理矢理従わされているだけで、本当は瓜子と一緒にいたいんだよね?」
 この答えを、さとりを通じて瓜子に聞かせたい。そして桃太自身、それを聞きたい。
 それが桃太の願いだった。
 瓜子はバカじゃない。千雪の様子がおかしいのにはきっと気付いていたはずだった。その上で瓜子は目を瞑って千雪に接してあげていた。それは瓜子の優しさと友情だった。
 しかしそれはいつか必ず裏切られる。すべては罠であり、弄ばれバカにされていただけだと知らされる時が必ず来る。そしてそれはとてつもなく残酷で、瓜子の心をもっとも効果的に傷つける方法で暴露されるだろう。今桃太が瓜子にしていることも十分に残酷に違いないが、その何倍もむごいやり方で、綾香達は瓜子に真実を告げるだろう。
 そうなるくらいなら、桃太は自分の手で真実を暴いてしまった方が良いと考えた。そして千雪の本心を聞かせたかった。卑小な臆病者で瓜子のことを騙していた千雪だが、それでも瓜子のことは本心では好いているのだと、さとりの口から言わせたかった。
 そうでなければ……桃太自身、千雪のことを許せそうになかったからだ。
 しかし。
「『違う』」
 さとりはそう言った。
「『嫌いだよ、瓜子のことなんて』」
 瓜子の顔から完全に表情が失われる。崩れ落ちたままその場で尻餅を着き、虚ろな視線を千雪に向けるばかりだ。
「『誰が好き好んで村一番の嫌われ者と一緒にいたがるの? 瓜子とつるんでたらあたしまで皆から煙たがられて、無視されるじゃん? そんなの嫌に決まってるでしょ! そんなことも分からないでさ、友達でしょ友達でしょって付きまとってくる瓜子のことが……あたしは本当に疎ましかった!』」
 それを聞いて、瓜子はその場をふらりと立ち上がった。
 涙に濡れた顔は真っ赤になっていて、空虚だった顔には悲しみと怒りがない交ぜになっていた。そして桃太の方を睨み付けるような顔で一瞥すると、その場から背を向けて走り出した。
「瓜子! 待って!」
 思わず、桃太はそう口にした。しかし何を待てというのだろう。桃太が暴いたのは残酷極まりない真実であり、嫌がる瓜子にそれを突きつけたに過ぎなかった。いつか瓜子は真実を知らなければならないにしろ、冷静に振舞えば他にもっと傷つくことの少ない方法があるかもしれなかった。
 桃太は己の愚かさを知った。千雪の本心に瓜子に対する愛情が残っていると錯覚し、すべてが自分の思う通りに収まると傲慢にもそう思った。
 それが瓜子を傷付けた。桃太は己の未熟さに打ちひしがれた。
 今すぐにでも瓜子を追い掛けようと千雪の手を離した……その時だった。
「『でも綾香のことも嫌い』」
 さとりは言った。
「『あたしを下っ端の子分みたいに酷く扱う綾香も嫌い。嫌なことをたくさんさせて来るのが嫌い。面倒ごとを押し付けて来るのが嫌い。使いっ走りにするのが嫌い。それを見て助けてくれない他の皆のことも嫌い。嫌い嫌い。全部嫌い』」
 千雪は泣きじゃくっていた。膝を女の子座りの形にさせて、顔を両手にうずめて声を上げて泣きじゃくっていた。
「『お父さんもお母さんも嫌い。家は貧乏であたしが泣いても助けてくれないから。この村のことが全部嫌い。暮らしていて幸せだと思うことなんて何もないから。この世界のことが全部嫌い。何もかもあたしに優しくないから。どうして毎日こんなにつらいの? 苦しいの? 不幸なの? 嫌い嫌い、全部嫌い。大っ嫌い。壊れちゃえ、壊れちゃえ、無くなっちゃえ』」
 桃太は千雪を見下ろして、そしてそのちっぽけな姿に哀れみを覚えた。そしてその哀れみの中に、蔑みや嘲りと言った感情は混在しなかった。同情と、そしてどうにもならない世界への怒りと憎しみを己の内側でのみ叫び続ける、そうすることによってのみどうにか精神の均衡を保つ千雪への、一抹の共感を桃太は覚えていた。
「『それでも昔は少しはマシだったのに。瓜子と二人だけで遊んでいた頃は平和だったのに。ねぇ、瓜子は何であんなことをしたの? あんなことさえなかったら、あたしはずっと瓜子といられて、今よりはマシな暮らしを送れてたのに! 綾香なんかの子分にならなくて済んだのに!』」
 千雪はますます声を大きくして泣きじゃくり続ける。
「『あんなことをした瓜子が憎い。あんなことをした瓜子が嫌い。昔に戻りたい。瓜子と二人で遊んでたあの頃に!』」
 桃太はもう、千雪のことが見ていられない。
「『昨日は楽しかった。瓜子と桃太と遊んで楽しかった。あたしを使いっ走りにしない対等な相手と遊べて楽しかった。後から全部暴露するにしたって、あともう少しだけその楽しさが続くはずだったのに……どうしてこんなことになるの! どうしてこんなことをするの! 許さない桃太! 許さない、許さない許さない……』」
「……ごめんね」
 桃太は千雪から視線を反らしたまま、ぽつりと言った。
「ぼくは君を軽蔑しないよ。……酷いことをして本当にごめん」
 そう言い残し、桃太は千雪を残して瓜子のことを追い掛けた。



 はたして、瓜子はすぐに見付かった。
 山道の道路に腰かけて、落ちている石ころを拾っては森へ向かって投げつけていた。一つ投げるごとに「ちぇっ」「ちぇっ」とふてくされたような声でぼやいては、「もー。もぉおおお!」と唇を尖らせて脚をバタつかせた。
「瓜子」
 声をかけると、瓜子は真っ赤にした目を桃太の方へ向けて振り向いた。
「……本当にごめん。ぼくのやり方が間違っていたよ」
「いいよ。わたしも、薄々分かってたことだしさ」
 そう言って瓜子は涙を拭って立ち上がった。
「もうちょっとの間騙されてたかったんだ。だから本当のことを暴いた桃太のことちょっと睨んじゃった。でも良く考えたら桃太何も悪くないもんね」
「……千雪はさ。昔、瓜子と二人で遊んでいた頃は楽しかったって、確かにそう思ってるようなんだ」
 桃太は言う。
 瓜子は目をパチクリとさせ、桃太の話の続きを待ち受けた。
「けれど……瓜子が回りから嫌われるようになってからは、それもできなくなったって。自分が巻き込まれたくないからって。でもそうなってからの暮らしは決して千雪にとって楽しいものじゃないみたいでさ」
 桃太はさとりが口にした千雪の本心を語って聞かせた。瓜子は眉一つ動かさずにそれを聞き終える。すると。
「教えてくれてありがとう」
 そう言って、瓜子は千雪を置いて来た秘密基地の方へと向けて歩きはじめる。
 桃太は黙ってそれに続いた。瓜子もそうすることを知っているようだった。
 秘密基地に戻ると、今尚下側の口で何やら喋り続けるさとりの隣で、耳をふさいで蹲る千雪の姿があった。
「ねぇ千雪」
 瓜子が声をかけると、千雪は全身をびくりと震わせて顔を向ける。
「大丈夫。檻の中にいるさとりは何も怖くないよ。布をかけて遠ざけておけば、いずれ憑依も解けるから。持って行ってあげる」
 そう言って瓜子はさとりの檻に布を被せると、山を数十メートルほど登った場所に檻を置いた。そして戻って来る。
「ここまで離しておけば心を読まれることもないからね。もう安心して」
「……瓜子」
 千雪は涙を拭いながら立ち上がる。
「ごめんね」
「謝ることないでしょ。心の中で何を思ってようとその人の勝手なんだしさ」
「……そうじゃなくて、騙そうとしたこと」
「綾香にやらされたんでしょ。いいよ」
「…………そう。じゃあ、あたしもう行くね」
 そう言って背中を向けて山を降りようとする千雪に、「待って」と瓜子は声をかける。
「ねぇ、わたしね、千雪の中にあるの全部使わせて欲しいの」
「え? 全部? あたしの中の……何を使うの?」
「わたしとの時間とかわたしへの気持ちとか全部。何年間もずっと一緒にいてずっと一緒に遊んで、その時間の間に千雪がわたしに愛情を感じたり感謝したり、そういうことってたくさんあったと思うの。その全部をね、今ここで使わせて欲しいの。その全部を今この一回で全部使うから、一つだけお願いを聞いて欲しいの」
 そう言って千雪の顔をじっと見詰めると、千雪は目を丸くして、しかし小さく頷いた後。
「分かった。いいよ。何?」
 と尋ねて来た。



 山道から、二人の少女が、横たわった冷蔵庫に向けて歩いて来る。
 一人は綾香。現時点での村の子供社会の頂点にある少女だ。
 もう一人は千雪。おどおどと綾香の表情を伺いながら、取り繕うようにして彼女に何やら説明をしている。
「でねっ。上手いこと言いくるめて、瓜子のことをその冷蔵庫の中に入らせたんだ。一分で出すって言っておいたけど、綾香を呼んで来るのにもう三十分以上経ってる。きっと今頃怖くて泣きじゃくってるよ」
「そんなことをしたら、あなたが実は私の仲間のままだってこと、バレちゃうんじゃないの?」
「そうだけど……でも瓜子を騙して何かやらせるのは三度までで良いんでしょ? これがその三回目だから、問題ないかなって」
「それもそうかしらね。しかし本当に酷いことをやらせたものね。真っ暗で身動きの取れない場所に、数時間もいさせたら人間って発狂するんだって。昔は友達だった訳なのに、良くそんなことやれたものだわ」
「いやぁ。だって、今はあたし、綾香ちゃんの友達でしょう?」
 そう言って媚びたような表情を浮かべる千雪。綾香はそこに目もくれもせずに、冷蔵庫へと歩み寄った。
「ここかしら? もしもーし瓜子? 聞こえるかしらー?」
 そう言う綾香だったが、冷蔵庫の中から何の反応もない。
「……本当に中に瓜子がいるの?」
「いるよ? 中から声は全然聞こえないんだよ。扉が分厚すぎるのかもしれないね」
「あっそう? じゃあ、ここらで一回外に出してやってから、種明かしをしましょう。ショックを受けて泣きじゃくる顔が見ものだわね」
 そう言いながら、綾香は冷蔵庫の蓋を開けた。
 中は空だった。
「今だっ」
 そう言って、物陰から飛び出したのは、二人の会話をずっと見守っていた瓜子だった。冷蔵庫の中を覗き込む綾香の身体を、瓜子は力付くで冷蔵庫の中へと叩き込む。
 本気で力比べをしたら勝つのは体格で優る綾香だったろうが、しかし不意打ちが完全にうまく行って綾香を内部に押し込むことに成功した。その隙に、同時に飛び出して来た桃太が冷蔵庫の扉を閉めようとする。
「ちょっと千雪! どういうことなのこれは?」
 焦りに満ちた表情で、綾香は言った。
「まさか……裏切ったんじゃないでしょうね!」
「違うよ。千雪は何も知らない。わたしが外にいるのは桃太に助けられたから。あなたがここにやって来たから、仕返しの為に物陰に隠れてたんだ」
 瓜子は言う。扉を閉めようとする桃太に対し、綾香もまた内側から扉を押して抵抗しようとするが、腕力は桃太が勝っていた。扉の隙間は徐々に小さくなり、やがて完全に閉じてしまうまでもう幾ばくの時間もない。
「ねぇ綾香。どうして満作がわたしを無視はしても、直接はいじめなかったか分かる? 本気で報復を決意したら、わたしが一番強いからだよ」
 言いながら、締まりかけている扉の隙間から、瓜子は挑発するような表情で綾香のことを見詰めた。
「あなたって多分、クラスのボスって器じゃないんだよ。三日くらいしたら助けに来てあげるから、それまで中で泣いてな。そしたらそれでもうチャラにしたげる。それっきりそっちが何もして来なきゃだけどね」
「待ってっ! 許して!」
 綾香は泣き叫ぶようにして言った。
「こんな真っ暗で身動きが取れない中で、何日も閉じ込められたら死んじゃうわ!」
「その時はそれが運命だったってだけ。じゃあね」
 瓜子がそう言い終わるのを待ってから、桃太は力尽くで扉を締め切った。
 これで内部からは扉は開かなくなる。
 これから気が遠くなるような長い時間、綾香は中の暗闇でもがくこともできずにのたうち回り、泣き叫びながら苦しみ抜くのだ。何らかのトラウマを負ってしまうことは想像に難くない。医者にかかるような事態になることも十分に考えられた。
 それを相応しい罰だとか自業自得だとか、そうした表現で言い表すのには抵抗がある。報復の目的があろうとも、意図して誰かの精神を深く傷付けることは明確な悪だ。
 しかし桃太はこの行いに反対しなかった。瓜子のしたいようにやらせたかった。
「じゃあさ千雪。これからあなたはわたし達に捕まえられて、綾香を助けに行けないように夕方まで木に吊るされるってことでね」
 瓜子は千雪にそう言った。
「で、一時間くらいわたし達を説得し続けて、ようやく解放されてから、千雪は綾香を助けに行くのね。それで良い?」
「うん。いいよ。そんな感じで口裏合わせて」
 千雪は頷いた。
「……これからもあたしは綾香の仲間でいると思う。だから表向き、瓜子のことを皆と一緒に無視すると思う。多分、桃太のことも一緒にね」
「うん。それで良いよ」
 桃太も隣で頷いた。それが千雪の生きる道だった。対等な友達として瓜子と共に周りに嫌われているよりも、末端の使いっ走りとしてでも綾香の傍で多数派として生きる。そのどちらが幸せなのか、それは本人にしか決めることはできないし、千雪は自分の選択に疑いを抱いていなかった。
「でもさ……別にあたし、好きで瓜子のこと無視してるんじゃないから」
 千雪はそう言い添えた。
「あたしはこの村の誰のことも好きじゃない。あたしが好きなのはあたしだけだから。だとしてもね、同じ『嫌い』でも綾香に対する『嫌い』より瓜子に対する『嫌い』の方が、『嫌い』の度合いは小さいから。それは本当だよ? だから、綾香にバレないようにこっそり遊べるんなら、また瓜子や桃太と一緒に遊んでも良いかなって、そう思ってるの」
「ものすごくムシの良いこと言うね」
 桃太はそう言って苦笑した。
「……ダメかな?」
 千雪はおずおずとした表情で桃太の顔色を伺う。
「いいや全然。むしろ、なんというか以前より君のことを理解できた分、親しみを感じられる気さえするよ」
 この少女は多分どんな集まりに所属しても下っ端にしか属せないことだろう。気が弱いとか大人しいとかは根本的な問題ではない。芯さえ強く持てば人望は得られる。しかしこの少女は何をされても人を憎むことしかできず、とことんまで自分に包容で、だから何の進歩も成長もない。そうした点を軽蔑され侮られ、淘汰され続けることになるのだ。
 だが誰にでもそんな部分は存在している。誰だって自分一人が可愛いのだ。その自分可愛さを時には覆い隠し時には剝き出しにし、そうしたせめぎ合いの中で得をしたり損をしたりしながら、人間同士は絶妙なバランスを取って営みを形成している。この少女はきっと、少しばかりそれが下手なだけなのだ。
「さっきも言ったとおり、ぼくは君のことを何も軽蔑しないよ。友達になろう」
 そう言って掌を差し出して見せる。そんな桃太の手をぱちくりと見詰めた後で、千雪は微かに頬を染めながら、その手を握りしめた。
「よ、よろしく」
 そうしてはにかんだその表情に、桃太は不思議な愛嬌を感じる。照れた様子の千雪を見て己の頬も赤らもうとした、その時。
「ちぇい」
 背後から瓜子に向こう脛を強めに蹴られ、桃太はその場で悶絶した。


 第三話:がしゃどくろの巻


 自室で勉強をしていたある放課後のことである。台所から母親の呼び声が桃太の耳朶に響いた。
「お父さんに忘れ物の書類を持って行ってあげて!」
 その日は本来休診日だったが、特別な患者が来るということで父は職場に行っていた。桃太は鉛筆を置くと薄い鞄に入った書類を持って、自宅と併設された父の職場……村唯一の病院の方へと歩いて行った。
 老朽化した病院の廊下は壁も床も天井も白かったが、それが清潔感に結び付くことはなく、あちこちに染みやひび割れがありどこかもの悲しさがあった。普段ならまばらにすれ違う看護士達も、その日は一人たりとも見かけることはなかった。
 そうやって父のいる診察室に向かう……その最中だった。
 この村の村長の一人息子である天野輝彦が、背後に長身の女性を従えて歩いて来た。
 桃太は目を剥いてその場で立ち竦んだ。その視線は輝彦の背後にいる女性に向けられていた。その女性は『長身の』と言っても実際のそのサイズは人間離れしており、百八十センチ程ありそうな輝彦と比べても、アタマ二つ分は大きかった。
 女性の肌は白く鼻は高く、艶のある黒髪をおかっぱにしていた。とてつもない美人であることは疑いようはなかったが、その鼻先より上には白い包帯が巻かれ、美貌の上半分は覆い隠されていた。さらにその頭上には室内だというのに背の高い黒い帽子が被せられていた。二メートルをゆうに上回る長身も相まって、その帽子の先端は病院の天井を掠める程だった。
「桃太くん?」
 輝彦は立ち止まる桃太に声をかけて来た。桃太ははっとして会釈をして「ど、どうも」と返事をした。
「お父さんに会いに行く途中なのかな?」
「え……ええ。そうです」
「そうか。あの……」
 輝彦は女性の方を一瞥し、桃太の方に困ったような視線をやった。桃太はどうにか女性から目を反らそうとした。まじまじと見るのは失礼だと思ったし、それに輝彦の態度はなんともその女性に触れて欲しくなさそうだ。
「大きいでしょう? わたし」
 意外にも、女性の方から桃太へと声をかけて来た。
 桃太はなんと返事をして良いか分からなかったが、否定するのもおかしいと思ったし、またとうてい否定しきれることではなかった為、「はい」と正直に返事をした。
「驚かせてごめんなさいね。でも、どうかわたしを見たことは、あなたの胸にしまっておいて欲しいのです」
「……ど、どうして……」
「わたしは今背がとても大きくなる病気にかかっています。そして、そのことを誰にも知られたくありません」
「そうなんですか……」
「子供に秘密を作らせてしまって、申し訳ないと思っています。しかし、賢そうなあなたなら、きっと約束を守ってくれると信じています。どうかわたしのことを誰にも他言しないと、約束してくださいませんか?」
 そう言って、女性は頬を持ち上げて優し気に笑った。包帯に覆われたその瞳を見ることは叶わないが、しかし桃太はそれがとてつもなく美しい笑みだと分かった。
「分かりました。約束します」
「そう。では、指切りをしましょう」
 女性は人を刺し殺せそうな程鋭く細く長い小指を桃太の方へと差し出した。
 桃太はその半分ほどの長さしかない指先で、それに応じる。細長いその指はとてもすべらかだった。
「ありがとう。それじゃあね」
 そう言って微笑みを残し、女性は輝彦と共にその場を去って行く。
 桃太の心臓は高鳴っていた。
 自宅へと戻る。母親からの「お疲れ様」の声に頷いて自室へと戻ろうとすると、背後から。
「何か変なものを見なかった?」
 と声を掛けられる。
「別に、何も」
 桃太は目を反らす。
「どうしたの? 母さん」
「ちょっと気になることがあって。あの人、最近ちょっと変でしょう? 休みの日に少しだけ病院に行って誰かを診ていたり、因さんのお父さんと何か怪しげな売り買いをしていたり……」
「売り買い?」
「地下室でこそこそ何か話していたり……おかしなことを考えてないと良いのだけれど」
 そう言って、母は一つため息を吐いた。
「ごめんね。あなたに話すようなことじゃなかったわ」
「良いんだよ、母さん。それじゃあ、部屋に戻るね」
 階段を上る桃太の背後から、母のため息がもう一つ聞こえて来た。



 翌日。
 近所の本屋を訪れた桃太は、専門書のコーナーで日焼けして痛んだ医学書を発見し、そのページをぱらぱらとめくった。
 医学書と言っても専門性の高いものではなく、家庭用として一通りの病気について簡素な記述が行われている類の図書である。桃太はその中から『巨人症』のページを発見し熟読したが、女性が目元を隠していた包帯や頭に被っていた帽子について、何らかの合理性を見出せる記述は見当たらなかった。
「何読んでんの?」
 そう尋ねたのは、桃太をこの本屋に案内した瓜子だった。
「家庭の医学? 桃太なんか病気してんの?」
「ううん。違うよ」
 桃太はさりげなさを装って本を閉じた。それを見て取った瓜子は間髪言わずにこう尋ねる。
「言いたくないこと?」
 小さな所作一つでそれを看破した瓜子の勘の鋭さに、桃太は思わず舌を巻く。そして桃太は潔くそれを認めた。
「実はそうなんだ。ごめんね」
「いいよ。ふうん」
 桃太が図書を棚に戻すと、瓜子は漫画本のコーナーを物欲しそうな表情で見上げている千雪に声をかける。
「行こう千雪」
「あ、うん」
 千雪はそう言って、桃太と共に瓜子に続いて本屋を出た。
 あの出来事から数日経ったが、千雪は問題なく綾香達のグループに戻れたようだった。と言ってもそれは瓜子達の口裏合わせが上手く行ったというよりは、綾香が意図してそれを深く詮索しなかったのが原因と言えるかもしれない。
 そこにどういう力学が働いたのかは女子社会に疎い桃太には良く分からない。
 ともかく千雪は綾香達のグループで下っ端として過ごす傍ら、放課後にはちょくちょく瓜子や桃太とも遊ぶようになった。その挙動は半ば公然としていたが、綾香がそれを咎める気はないようだった。
 そんな三人で過ごす放課後にも桃太は馴れ、愛着を感じるようになっていた。その日も駄菓子屋を経由して川原へ向かい、水切りなどをして夕方まで遊んだ。
 その帰りの道すがらのことだった。
 中学生らしき大柄な集団が向かい側から歩いて来た。それは瓜子達の方に視線をやると剣呑な気配をそこに浮かべさせた。
 桃太は本能的に彼らを警戒した。瓜子は彼らを一瞥したが、あえて気にしない様子だった。千雪は特に何も考えていない様子で、自分が意外と水泳が得意なことや、夏になると水着を一つ買って貰えることを桃太に話し続けていた。
 引き返すか道を変えることも考えたが、両者の距離は既に数メートルというところまで来ていた。なるだけ相手を刺激せず、穏便にすれ違うのが一番だと言えた。瓜子もそうするつもりらしく、澄ました表情で中学生達の方へ向けて歩いて行った。
「おい」
 中学生の内の一人、男子が瓜子に声をかけた。
「なんか言うことないのかよ?」
「なぁに?」
 瓜子は無垢な表情で中学生の方を見た。
「あなた誰だっけ?」
 中学生の拳が瓜子の顔面を捉えた。
 一瞬の出来事だった。地面に尻餅を着く瓜子の前に出て、桃太は思わず怒声を発した。
「何をするんだ!」
「おまえはすっこんでろ! お坊ちゃんが!」
 そう言った一人の男子中学生を先頭に、ぞろぞろと瓜子の元へと殺到していく。
「お、おい。何をする気だ? やめろ。酷いことをするようならすぐ警察に通報して……」
「警察? この村の警察がそいつの為に何をするっていうんだよ!」
 中学生達はけらけらと笑った。
「何も知らねぇんだな、坊ちゃん。しかしこの女も女だよ。そんな何も知らない二枚目を誑かすなんてな」
 見れば千雪はその場を脱兎の如く逃げ出していた。助けを呼んで来てくれるのではないかという希望が頭をかすめたが、彼女の性格からしてそれは期待薄のような気もした。
「立て。因瓜子。おまえは俺を忘れたかもしれないが、俺はおまえを絶対に忘れない。俺の母親が死んだのはおまえの所為だ」
「……そうなんだ。それはごめんね」
 瓜子は痣を作った顔で、淡々とした口調で謝罪を述べた。
「悪かったよ。何回だって謝る。でもさ、いきなり殴るのは流石にナシじゃないかな?」
「うるせぇ!」
「やめろ!」
 腕を振りかぶった男子中学生に、桃太は飛び掛かって押し倒した。身長は向こうの方が五センチ程高く、体重は十キロ以上向こうが上だったが、過去の鍛えがものを言った。どうにか封じ込めることに成功する。
 しかし多勢に無勢だった。一人の男子を抑え込んだ桃太の横っ面を、別の男子が思うさま引っ叩く。鼓膜が破けるかと思うほどの衝撃と共に、桃太はその場を転がって抑えていた男子を解放してしまう。
 解放された男子は桃太の方を一睨みすると、その場を立ち上がって瓜子の方に歩いて行った。
「やめろっ」
「じっとしてろよぼっちゃん。俺はどうしても、俺の顔を忘れてやがったこいつのことが我慢ならない」
「だからって……女の子一人を相手に寄って集って。それでもあなた達は日本男子か!」
「古いんだよこのガキ! 何が日本男子だ! 何も知らない癖にでしゃばんな!」
 人数で優る相手に勝ち目がないことを悟りつつも、それでも桃太は最後まで抵抗を続けようとした。自分が決して勇猛果敢なタイプではないことを桃太は知り抜いていたが、それでもこの局面で逃げ出す程の腑抜けにはなりたくなかった。
 しかし。
「助けを呼んで来て、桃太」
 瓜子はそう言って道路の方を指さした。
「戦ったって勝ち目ないよ。大声で叫んだらきっと誰か来てくれる。早くして」
 そう言われ桃太は一瞬だけ逡巡した。瓜子が桃太の身を案じてその提案をしたことは明らかだった。助けを呼びに行かせるという名目で自分を巻き込ませないよう逃がそうとしているのだ。
 しかし瓜子の提案自体はもっともだった。暴力で解決する状況でないのに、それを認めずに勝ち目のない戦いを続けるのは間違いなく愚かだった。それと同じ愚かしさで過去に日本は戦争に負け滅びかけたのだと、桃太は父から聞かされたことがあった。
「分かった」
 桃太はそう言って身を翻し、広い道路に出て大人と言う大人に声をかけた。
「すいませんっ! 助けてください! 女の子がリンチされそうになっているんです!」
 何人かはその声に応じて駆け寄ってくれたが、しかし中学生に締め上げられている瓜子を見て首を横に振った。
「ありゃ放っとけ」
「何で!」
「何でって……絞められてるのは鬼っ娘の瓜子じゃないか。あんなのは放っておいたら良い。良い薬だよ」
 そう冷たく言って通り過ぎてしまう大人たちに、桃太は失望と絶望を感じた。そんな時だった。
「やめないか!」
 一人の大人が中学生達の間に割って入り、鋭い声で一括した。
 見ればそこにいたのは村長の一人息子である天野輝彦だった。普段の穏やかな物腰とは打って変わり、鋭く言い放つその様子には威厳のようなものが感じられる。
 その声に、中学生達は思わずと言った様子で動きを止めた。そして虐げられていた瓜子の肩を掴んで背後に庇うと、輝彦は再度中学生達を見回して一人ずつの顔をじっと見つめた。
「やめないか」
 今度は静かな、しかし重みのある声でそう告げた。
「て、輝彦さん? でも……この女は俺の母さんを」
「ああ。それは悲しい事件だった。今思い出しても、胸が痛くなるようだ」
 そう言って、輝彦は優しい瞳で中学生を見下ろした。
「だが彼女は咎めを受けた。無論、裁きが終わった後も償いは続く。周囲からの風評や冷ややかな扱いに耐えることも、もしかしたらその一部なのかもしれない。だがだとしても、それは君がその拳を汚して良い理由にはならない」
「でも……」
「苦しいのは分かる。だが君のやり方は間違っている。相手が誰であろうとも、寄って集って女の子を一人いじめる君を見て、天国のお母さんは喜ぶだろうか?」
 その言葉に納得したからというよりは、輝彦の表情や態度から真摯さを感じ取った様子で、中学生は苦汁を舐めるように「分かりました」と呟いた。そして仲間を引き攣れ、その場を立ち去って行く。
 その場には、顔に数か所の痣を作った瓜子と輝彦、そして何もできず棒立ちしている桃太が残された。



「ありがとう輝彦さん」
 そう言って頬から滲んだ血を拭いながら、瓜子は立ち去った。
「ありがとうございます」
 桃太が同じように礼を述べると、輝彦は「気にしないで」と一言口にして。
「いつもこんな調子なのかい? 困ったことがあるのなら、村をあげて注意を促すこともできるよ。何でも言って欲しい」
「いいよ別に。輝彦さんは親切にしてくれたけど、でも村民会って基本わたしの敵じゃん」
 瓜子が言うと、輝彦は被りを振ってから厳かな声で答える。
「そんなことはない。村民会はすべての村人の味方だ。もちろん、君のことだって例外じゃないよ。頼ってくれて構わない」
「それって建前でしょ。皆から嫌われてるわたしの肩持ったら人気が下がるじゃん。そのくらいのことはわたしだって分かるんだもんね」
「瓜子さん。我々が重んじるのは、あくまでも公正さだよ。人気取りの為に動く者がいたとしても、そんなのは極一部に過ぎない。本当に困った時の一選択肢として、我々の存在は常にアタマに置いておいて欲しい。いつだって力になる準備はあるんだ」
「……分かった」
 腑に落ちないような表情を浮かべつつも、瓜子は首を縦に振った。
 「無理しないでね」という言葉を残し、輝彦はその場を歩き去って行く。
「顔の傷は大丈夫? 手当が必要なら、父さんの病院に……」
 桃太が声をかけると、瓜子は「大丈夫だよ」と首を横に振って。
「それよりさ。ちょっと聞いて欲しい話があるの」
「何かな?」
「わたしが前に何をしでかしたか。どうしてわたしが嫌われているか。どうしてわたしの片目が抉り取られたか」
 それを聞いて、桃太は息を飲み込んだ。



 川沿いの道に一つベンチが設けられていた。
 桃太と瓜子は並んでそこに腰かけていた。沈みかけた太陽は宵闇の中で溶けかかっていて、朱色の光がとろとろに滲み出していた。淡くなった光を受けた細切れの雲が空のあちこちにまばらに散っている。冷ややかさを孕んだそよ風が瓜子の豊かな髪を揺らしていた。
「毎年のお正月になると、海神様に赤ん坊を一人生贄に捧げてるって話はしたよね?」
 桃太は頷いた。この時になると、桃太は瓜子からだけでなく、色んな人からその話を聞いていた。それはこの村の生活と切って切り離せない儀式として、諦念を持って村人たちに馴染んでいるようだった。
 山奥に住んでいるという鬼の一族。その略奪から守ってもらおうと、村人達は海に住む海神に助けを求めた。海神はそれを了承した。毎年一人の赤ん坊を生贄とすることを見返りに。
「わたしずっと前からそれ大嫌いでさ。確かに、生贄を捧げて海神様に味方になってもらえば、自分達で鬼と戦うよりずっと少ない犠牲で村が守れるっていう、合理的な正しさは分かるよ? でもいくら正しいからってそれが成立する訳がないし、するべきじゃないってわたしは思うの」
「それはどうして?」
「だって嫌じゃん。せっかく生まれた赤ちゃんなんだよ? 誰だって自分の子供が生贄に選ばれたら命懸けで抵抗して当然だと思う。武器を持って暴れたり、子供を連れて村を逃げたりしてさ。そしたら生贄なんて選びようがなくなるし、仕組み自体が破綻する。そうなるはずだとわたしは思うの」
「……でも、実際にはそうなっていない。確かに不思議だね。住めるところの限られた大昔ならともかくとして、今の時代、とうしてそんな仕組みが破綻しないで続いているんだろう?」
「親たちが平気で子供を差し出しちゃうからだよ。不平も言わず、暴れもせず、子供を隠しも逃がしもしないでさ。……でもわたしには、それがどうしても理解できない」
 好きで差し出している訳ではないだろう。だが、公平なくじ引きで決まったことだと言われ、圧力を掛けられれば屈してしまうものかもしれない。万に一つ生贄から我が子を逃れさせたとしても、引き換えに鬼が村を滅ぼしてしまうのだから。
「……他に方法がないってことなんだろうね」
 桃太は言った。
「誰だって他に方法があるのならそうしたいに決まってる。そしてその方法を探し続けている。けど今はそれが見付かっていないから、村は今の形でずっと続いている。そういうことなんじゃないのかな?」
「違うの。皆ちゃんと方法を考えてないの。今の状態を受け入れてるの。それが嫌なの」
 瓜子にはそう見えているらしい。だがそれを理想しか知らない子供の戯言と片付ける気には、桃太はならなかった。瓜子がそれだけ村の行く末を考えているように見えたからだ。
「こんな状態が続くくらいだったら、いっそ結託して鬼に立ち向かえば良い。鬼を滅ぼせば良い。鬼たちとの闘争に負ければ村は滅ぶけど、でもそれは今の状態を続けたって、同じことじゃない」
「……確かにそうだ。こんな村で子供を産みたがる人は誰もいないのだから、徐々に人口が減って緩慢な滅びを迎える。それは確実に訪れる運命だ」
 桃太は言った。そして、心からの意見を一つ言い添える。
「けれど、それは一番痛みの少ない滅び方でもある。言ってしまえば、この村は病床で死を待つ老人のようなものだ。痛みの伴う一か八かの荒療治を試みて苦しみの末に死ぬくらいなら、いっそ安らかにその時を待ち受けた方が、幸せだということもできる」
「……本気でそう思う?」
「思うよ。ただ、ぼくは所詮よそ者だ。いつかこの村を出ていくものだと思っている。仮にこの村で奥さんを貰ったとしても、この村では絶対に子供は産ませない。他所で家庭を作るよ」
「誰もがそう考えたらこの村はどうなるの?」
「滅びる。でも、それは自然な成り行きであって、悪いこととは違う」
 桃太が言うと、瓜子は俯いて黙り込んだ。
 太陽はほとんど沈みかけている。空は闇の部分が大半を占め、散り散りに浮かんでいた空もあまり見えなくなっていた。桃太は自然と月の存在を探し、それはあっけなく見付かった。鮮やかな黄金色の、怜悧に輝く十六夜の月だ。
「……去年の生贄は、千雪の弟だったの」
 漏らすようにして、瓜子はそう口にした。
「千雪は泣いてたの。ずっと楽しみにしていた弟だったのに、生まれてすぐに死んじゃうなんておかしいって。お父さんやお母さんがそれを受け入れているのもおかしいって。何が『仕方がないこと』なのか分からないって」
 桃太は黙ってその話を聞いていた。様々な感慨が心の中に浮かんだが、今はそれを口に出すべき時ではなかった。瓜子の話が終わるのを、ただ受け身でじっと待ち受けた。
「だからわたし達は、赤ん坊を助け出す作戦を立てた。赤ん坊は村長の屋敷に預けられていて、年明けと共に行われる儀式と共に、海神に食べられるのを待っていた。大晦日の日に、わたし達は屋敷に侵入して赤ん坊を盗み出そうとしたの」
 川の流れる音が耳朶を打つのはほんの数瞬で、瓜子は一つ息を継いだ後で話の続きを始める。
「待ち合わせの場所に、いつまで待っても千雪は来なかった。正直に言うと、そんな気はしてた。わたしも帰ろうかとちょっとだけ思ったけど……でもね、結局わたしはそれを実行した」
「……上手く行った?」
「行った。窓を割って屋敷に侵入した。赤ん坊が屋敷のどの部屋に預けられてるのかは、お父さんから聞いて知っていた。討魔師として、お父さんも儀式に参加するから詳細を知るのは簡単だった。お父さんは何でも話してくれた」
「それにしても……良く上手く行ったね」
「運も良かったよ。途中で何人か大人に出くわしたけどさ、村民会はお年寄りが多いからね。かけっこならわたしのが速かった。一度だけピンチになったけど、持って来た小刀を振り回したら、何とかなった」
「……それで。生贄を失って、村はどうなったの?」
「大変なことになった。大晦日の午前零時……つまり年明けを迎えたら海神が村にやって来るんだけれど、生贄が用意できてなかったから、怒り狂って嵐を引き起こした。洪水が起きて、儀式を見に来ていた大人二人と子供五人の合わせて七人が流されて死んだ」
「瓜子はその間、ずっと赤ん坊を連れて逃げていたの?」
「そうだよ。大変なことになったのは分かってた。抱いているこの子を差し出せば、嵐は止んで皆助かるってことも。このまま逃げ続ければ、海神様は去ったとしてもすぐに鬼が山奥から降りて来るってことも。そして略奪が起きてもっとたくさんの人が死ぬってことも、わたしは分かってたんだ」
「それでも、瓜子は逃げることを選んだ」
「そう。その時のわたしはね、赤ちゃんの手足だったの」
 瓜子は自分の選択に何の疑問も抱いていないことが分かる、しなやかな声で語る。
「村にいる大人も子供も、自分の手と足で、災厄から逃げることができる。この子以外の赤ちゃんも、誰かに抱いて貰えれば同じように逃げることが出来る。でもこの子にはそれが出来ない。自分の運命を自分で選べない。ただ何も分からず、何も知らず、何もできないまま、自分以外の誰かの都合の為に殺されて行く」
 言いながら、自分の両手をじっと見つめる瓜子の目には、そこに抱きしめられていた赤ん坊の姿が映っているようだった。
「そんなのって酷いと思った。この子にだって抵抗する権利はあるはずだと思った。この子の代わりにそれができるのはわたしだけだった。村の人達は、自分達の力で、自分達の命を守る為の行動を取れば良い。村の人達がわたしからこの子を取り上げようとするのは当然だけど、この子の手足であるわたしがそれに抵抗をするのも、また当然だってわたしは思った」
「それでどうなったの?」
「嵐の中、赤ちゃんを連れて道路を歩きながら、夜明けまではどうにか逃げ延びた。朝が来ても空には分厚い雲がかかっていて、ちっとも明るくならなかった。そんな雲の切れ間に首が二つある龍が踊っていて、それが海神様だった。わたしは歩けなくなって、木の幹に座り込んで気絶してたら、気が付いたら大人たちに囲まれていた」
「……捕まったんだね」
「一日遅れになったけど、その赤ん坊は無事に生贄に捧げられて、嵐は止んだ。来年以降も海神は変わらず村を守ってくれることになった。罪を問われたわたしは殺されかけたけど、お父さんが死に物狂いで頑張ってくれたのもあって、片目をえぐり取られるだけで済んだの」
 言いながら、瓜子は義眼のはめ込まれた己の右目に手をやった。
「大人が二人と子供が五人、洪水で死んだのはわたしの所為。だから、そのことで色んな人から恨まれている。綾香のお姉さんは死んだ子供の一人だし、さっきの中学生のお母さんも、死んだ大人の一人なんだろうね」
「顔は覚えてなかったの?」
「忘れてた!」
 瓜子は元気の良い声でそう言い放った。
「色んな人に囲まれて非難されたり殴られたりしたの覚えてるけど、でもその一人一人の顔なんて、ちゃんとは覚えてない。知ってるのは死んだ人たちの名前だけ。在原弘、末崎千尋、須藤京香、鈴木勝、西園健一、十文字廉太郎、乾奈津美! 以上!」
 そう言ってベンチから立ち上がり、瓜子は桃太の方にはかなげな笑みを向けた。
「わたしがこの話を今桃太にしたのはね、さっきの人に、『何も知らない桃太を誑かした』みたいに言われたのが嫌だったから。今、桃太は全部知っちゃった訳だけど、どう? わたしと友達やめたくなった?」
「なってないよ」
 桃太は即答した。
「君は命の恩人だし、そうでなくともとても素敵な女の子だ。過去にどんな咎を抱えていても、ぼくには関係ないよ。ずっと友達でいよう」
「ありがとう桃太」
 そう言って、瓜子は桃太の胸に飛び込んで来た。
「桃太なら絶対そう言ってくれるって、わたし、分かってたもんね」
 その言葉には何の欺瞞も孕んでいない。
 その魂に一切の歪みはない。
 真っすぐに、無邪気に、大勢の犠牲だけを置き去りにして、微かな穢れも纏わぬ笑顔で、ただじゃれついて来る。
 そんな瓜子が持つ大きな危うさを認識しながらも、しかし桃太はその暖かい身体を受け入れ、抱きしめたのだった。



 その日、桃太は瓜子の自宅へ遊びに行くことになっていた。
 瓜子の自宅は討魔師因王一郎が建てたものというだけあって、村でも指折りの規模の高級住宅だった。村長の屋敷や桃太の自宅には劣るものの、その面積は凡百の家屋とは掛け離れており、地下室までをも有していた。
 場所は山際だった。ほとんど山中と言っても良いかもしれない。討魔師である王一郎がそこに住むことは、山から妖怪が降りて来ることへの牽制として機能していた。それ故に毎朝登校する為に他の子供より遥かに早起きしなければならないことについて、瓜子は日々愚痴を募らせていた。
 「ただいま」「お邪魔します」とそれぞれの挨拶を口にして、二人は瓜子の自宅へと入る。他人の家の匂いを嗅ぎながら廊下を歩いていると、王一郎とすれ違った。
「来たか。童よ」
「……王一郎さん。お邪魔してます」
 桃太が小さく会釈をすると、王一郎は鷹揚な様子で「精々寛いで行くが良い」と告げた後、玄関から家を出て行った。
「出かけるみたいだね」
「そうみたい。……あ」
 言いながら、瓜子は王一郎が出て行った玄関の方へと走って行った。
「どうしたの?」
「地下室の鍵だ!」
 瓜子がそう言って玄関から一本の銀色の鍵を拾い上げる。
「お父さんのポケットから零れ落ちるの、わたし見逃さなかったもんね! やったぁ! これで地下室の探検ができる!」
 言いながら、瓜子は桃太の手を引いた。
「行こうよ桃太! お父さんの地下室が見られるんだよ!」
「秘密の地下室……なんてものがあるって前に言ってたよな。王一郎さん」
 過去の王一郎の発言を思い出しながら、桃太は言った。
「そんなところに入って大丈夫なの? 怒られない?」
「バレなきゃ大丈夫だよ。あのねっ。お父さんの地下室には、妖怪退治の道具がたくさんあるだけじゃなくて、お父さんが研究用に捕まえて来た色んな妖怪が檻の中にいるんだよ! そんなの見たいに決まってるよね!」
 そう言われ、桃太は胸の高まりを禁じ得なかった。捕らわれた妖怪を見に行けるなんて、まともな好奇心があれば惹かれるに決まっている。大人が鍵を掛けてまで入るのを禁じている場所に踏み込むと考えると、臆病風に吹かれないでもなかったが、しかしすっかり行く気になっている瓜子の前で弱虫な自分を晒したくもなかった。
「……そうだね。じゃあ、行ってみようか」
 普段臆病な桃太がそう言ったのも、何かと無茶をやる瓜子と接する内に、知らず知らず影響を受けていたからかもしれない。
「そう来なくっちゃね」
 瓜子は満面の笑みを浮かべて、地下室の方まで桃太の手を引いた。



 地下室の入り口は母屋の裏口から靴を穿いて外に出て、渡り廊下を一つ渡ったところにあった。薄暗い、殺風景な階段を下ったところにある重厚な鉄の扉に、瓜子が鍵を差し込んだ。
「なんだかドキドキして来た……っ」
 瓜子がそう言って目を輝かせている。よっぽど中を見て見たかったらしい。
「行くよ、桃太っ」
「う、うん」
 開け放たれた扉の向こうはやはりというか真っ暗だった。瓜子が手探りで明かりをつけると、想像していたよりも広いその空間が露わになる。冷ややかなコンクリートの壁や天井が広がり、その至るところに、鉄格子の嵌った牢が並んでいた。
「す、すごいっ。すごいすごいすごいっ!」
 瓜子がはしゃぐ。桃太も思わず息を飲んでいた。しかしそれは珍しいものを見た興奮からというより、無数に並んだ牢という情景が持つ恐ろしさ故だった。それが悪しき妖怪の為の牢であることは理解していたが、それでも冷たい鉄格子とその奥の閉塞感に満ちた牢の様子は、本能的な恐怖を呼び起こすものだった。
 牢には空のものも多かったが、いくつかにはおぞましい妖怪が閉じ込められていた。
 ある牢には直径二メートルにもなる巨大な蜘蛛の化け物がいた。その全身には、人間のそれをサッカーボール程に大きくしたような眼球がいくつもはめ込まれていた。
 別の牢には長さが十メートル程にもなりそうな巨大なムカデがいて、細長い全身を狭苦しい牢の内壁に複雑な形で張り付かせていた。
 さらに別の牢にはなんと河童が住んでいた。中には薄汚い風呂釜のようなものが設置されていて、そこに張ってある濁った水の中でふてくされた顔で河童が浸かっていた。青年程の歳恰好のそいつは、桃太達の方を見ると「ぐあらう。あぎゃらぐぎゃらがあぐう」と、縋るような声で何やら言葉を発した。
「……おぞましいな」
 桃太はついそんなことを口にしていた。妖気なる物が存在していると言われれば信じてしまいそうな程、その空間には独特の空気感があった。アイスを丸呑みした時のように体の内側から全身が冷え込み、そこにいるだけで気が触れてしまいそうだった。
 妖怪達はそれぞれの牢の中で体を捩る度に金属が触れあうような激しい音を立てた。鼻をひく付かせると、どの妖怪が発しているのとも付かない、虫の死体が腐ったかのような青臭さを感じた。天井の蛍光は冷ややかで単調でありながらけばけばしい程に明るく、見ているだけで気分を害する程だった。
 そんな中でも、瓜子は怯えた様子も見せずに地下室の奥へと歩いて行った。桃太がそれに続くと、瓜子は一つの牢の前で立ち尽くした。
 地下室の最奥にある牢である。中にいたのは体長三メートルを超えそうな巨大な人型で、狭い牢の中で如何にも窮屈そうに胡坐をかき座り込んでいた。裸の全身はやせ細っていて、胸には肋骨が浮かんでいる。皮膚の色は地下室での暮らしが長いことを思わせる不健康な青白さだった。
 性別がオスであることは、剝き出しの股間に陰茎と睾丸がぶら下がっているのを見るまでもなく、その顔立ちで判別できた。背が異様に高いことを含め、いくつかの点を除けばその姿は痩せた成人男性のそれと変わらなかった。
「……鬼だ」
 瓜子はそう呟いた。その頭上から二対の大きな角が生えていること、そして通常人が持つのと同じ眼球の他に、額に三つ目の眼球を有していることが、瓜子がそう判断した理由だろう。
「……何者だ」
 鬼は低い声でそう言って、瓜子と桃太の方を睨み付けた。
 鬼が喋った、睨み付けて来たというだけで、桃太はその場で尻餅を着きそうな程の恐怖を感じた。大きな口にはやけに鋭い犬歯が生えており、桃太の胴体など簡単に引き裂いてしまいそうだった。その痩せた表情には、桃太達人間に対する底知れない憎悪が滲んでいるかのようだった。
「そっちの女は討魔師の娘だな? 俺を閉じ込めた奴に顔が似ている」
「そうだね。わたしは因瓜子。あなたは鬼さん?」
「……見て分からないか?」
「初めて見るんだもん。確認しなきゃ分かんないよ」
 瓜子は唇を尖らせてそう言った。ごく普通に鬼と会話をしている瓜子が、何か得体の知れない存在に思えた。この子の胆力は常軌を逸していると、桃太は改めてそう感じた。
「如何にも。俺は鬼だ。おまえの父親に捕らえられた」
「お名前は?」
「十兵衛」
「人間みたいな名前だね」
「鬼は皆、生まれた時は人だ」
 十兵衛と名乗った鬼は取るに足らないことのように言った。
「俺が鬼になったのは百年以上も前だ。ある日突然、アタマから小さな角が生え始めたかと思ったら、何か月も掛けて成長して髪の毛で隠せない程になった。その次は体がでかくなり始めた。やがて人里にいられなくなって山奥へと逃げ隠れしている内に、鬼の集落に仲間として迎え入れられて、それからは山で狩りをしたり人間から略奪をしたりして暮らしていた」
 瓜子は自分のアタマに手をやると、何度かそこを撫でてから「ふうん」とこともなげに呟いて、それから十兵衛の方に向き直った。
「どうして自分が鬼になったのか分かる?」
「分からない。仲間に聞いても、鬼になる人間にこれと言った傾向はないそうだ。それまでの身分や暮らし、健康状態なんかとは無関係に、何の予兆もなく『鬼化』は始まる。強いて共通点を挙げるなら、鬼になった奴は皆、周りの人間から『あいつなら鬼になってもおかしくない』と思われるような奴だということらしい」
「何それ?」
「周りから嫌われていたり、憎まれるような奴だってことだ。俺のいた鬼の集落には鈴鹿様という頭領がおられたが、その方がこんなことを仰っていた。鬼になる者自身に鬼になる原因があるのではなくて、周囲からの向けられる憎悪や嫌悪がそいつの中に蓄積して、それがそいつを鬼にするんだってな」
「……そうなのかな?」
「実際のところは誰にも分からん。それにしても、おまえ、話しやすいな」
 そう言うと、十兵衛は痩せこけた顔に、歪ながら笑みのような表情を浮かべて見せた。
「討魔師はしばしば村の重役をここに連れて来て、俺達捕らわれの妖怪を見物させる。そいつらが俺らを見る目は二通り。俺を怖れるか蔑むかだ。しかしおまえはそのどちらでもない」
「捕まってるあなたは怖くないけど、捕まえられてるのはあなたが悪い訳じゃないから、蔑んだりもしないよ」
「捕まっているから蔑まれる訳じゃない。鬼だから蔑まれるんだ」
「どうして?」
「俺も昔は人だったから分かる。人が人以外に接する態度は、怖れるか蔑むかだ。いや、人が人と接する時の態度も、もしかしたらその二つのどちらかなのかもしれない。とは言え、それがただ悪いこととは、俺は思わない」
「なんだか難しいよ」
「そうか? 鬼の世界には子供は滅多にいないから、どういう話し方をしたら良いか分からなくってな」
「もっと簡単な話をしよう。好きな食べ物は?」
「卵焼きと、目刺の炙りだ」
「人間は食べる?」
「食う。鬼だからな。ここに来てからは、ずっと人間の死体ばかりを食べている」
「そうなの? どうやってそれを手に入れるの?」
「討魔師が持って来る。おまえの父親だ」
 十兵衛がそう言った時だった。
 扉が開かれる音が背後からした。驚いた桃太が振り向くと、そこには困り果てた表情の王一郎が立っていた。
「……娘よ。ここには入ってはならぬと言っただろう?」
 言いながら桃太達に近付いて来ると、十兵衛の方を一睨みして、一言。
「何を娘に話した?」
「悪ぃな。あんたが俺にやってるエサのこと、話しちまったよ」
「約束破ってごめんなさい、お父さん。どうしても気になって、入っちゃったの」
 そう言って、瓜子は王一郎にアタマを下げる。
「それで……人間の死体を十兵衛さんに食べさせてるっていうのは、どういうこと?」
 王一郎は深くため息を吐いてから、地下室の床に直接座り込んで、言った。
「すべて話す。その代わり、決して他言するな。……貴様もだ」
 そう言って大きな瞳でぎらりとこちらを見た王一郎に、桃太は直立不動で「はい」と答えるしかなかった。



「がしゃどくろ、という妖魔を知っているか?」
 王一郎は尋ねる。床に体育座りした瓜子と桃太は顔を合わせて、それぞれに小首を傾げた。
「……埋葬されなかった無数の人骨が寄り集まってできる、巨大な髑髏の怪物だ。その身の丈は十メートルを超え、その力は山をも持ち上げると言われている」
「お父さんは見たことあるの?」
「伝聞だけだ。討魔師の仲間の一人が言うには、単騎での討伐はほぼ絶望的と言える程、圧倒的な実力を持つという。我がそこの鬼に人間の遺体を食わせているのは、それを作り出して鬼にけしかける為だ」
 桃太は思わず十兵衛の方を見た。その場で胡坐をかいて話を見守っていた十兵衛は、小さく頷いて露悪的な表情を作った。
「如何にも。俺はその討魔師に毎夜人間の遺骸を食わされている。ただし、骨は残せという命令付きでな。生殺与奪を握られた立場なもんで、大人しく従ってる。でもなきゃあんな薬品臭い死体なんか食えたもんじゃない」
「……どうやってその、がしゃどくろというのを作り出すんですか? そもそも妖怪っていうのは人が創り出せるものなんですか?」
「……まるで逆だ童よ。妖怪が生じるきっかけには必ず人が関わっている。人間とは無関係に自然発生することはない」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。人間の信仰心がきっかけで作り出されるものもいれば、怨念や憎悪などの負の感情が寄り集まって発生する者もいる。意図して人工的に作り出される例もあれば、中には人が妖怪に変化するという例も少なくない」
「……鬼のように、ですか」
「十兵衛から聞いたか? その通り。鬼とは人が変化する妖怪の最たるものだ」
「鬼になる途中の人間は、角が生えたり背丈が伸びたりするんですよね?」
「その通り」
 桃太は病院で出会った長身の女性の姿を思い浮かべた。その背丈は三メートルを超す十兵衛には及ばないものの二メートルは越えていて、頭には黒い帽子を被っていた。
 あの女性の正体が桃太の思った通りだとして……いくつかの疑問が生じる。一つは何故彼女が輝彦と一緒にいたのか。もう一つは何故父の病院に訪れていたのか。
「……鬼になりそうな人間を、病院で治療する、なんてことはあり得るんですか?」
 桃太が尋ねると、瓜子が目を大きくしてこちらに視線を向けて来た。
「治療が行われたケースはある。だが我の知る限り、医学的なアプローチでの治療法は存在しない。呪術的な手法でなら有効な手法が存在するという話もあるが、どれも噂レベルだ。一顧だにする必要はないだろう」
「……そうですか」
 桃太が俯くと、瓜子は視線を王一郎の方に戻した。そして質問する。
「それで、がしゃどくろってのはどう作ったら良いの? お父さん」
「さっきも言ったが、がしゃどくろというのは、埋葬されなかった人骨が寄り集まってできるものだ。きちんとした供養がなされずぞんざいに扱われた人骨が怨念を発し、その怨念を媒体として融合し、巨大化する。故に、人間の遺体を大量に手に入れ、葬式を上げず火葬もせず、山奥の同じところに無造作に撒いておけば、それらはやがて結びついてがしゃどくろと化す。……と我は思っている」
 その話を聞いて、桃太は薄気味の悪さを覚えた。妖怪を作り出す実験の為に、遺体を火葬せずに山に振りまくというのはおぞましく、罰当たりな行いだった。鬼に立ち向かうという大義名分があるとはいえ、そんなことを実行している王一郎が、桃太には不気味だった。
「骨を供養せずにばらまけば、それらが融合してがしゃどくろになるっていうのは分かったけど……なんで鬼に食べさせる必要があるの?」
「良い質問だ。それこそがこの実験の最たる価値だ」
 王一郎は腕を組んで不敵に笑う。
「がしゃどくろは遺体であった自分達をぞんざいに扱った者に恨みを抱き、復讐に訪れるという。では、鬼に遺体を食われ、骨となった魂は誰を恨む?」
「……鬼を恨む、ってお父さんは考えているの?」
「如何にも! 鬼に食われ、鬼の住む山にて振り撒かれた人骨達は、鬼に対する怨念で結びつきがしゃどくろと化し、そして鬼の集落を襲うのだ! そして鬼の集落が滅んでしまえば、この村は救われるというものだ!」
 フハハハハハハ、と、王一郎は得意の高笑いを放つ。
「土蜘蛛や大百足を捕獲し言うことを聞くように調教した後、そこの十兵衛と戦わせてみたが、想うような結果は得られなかった。勝つには勝ったが、勝敗はいずれも僅差だった。痩せて弱体化した十兵衛と『良い勝負』をしてしまう妖魔が、どうして鬼の集落全体と戦えようか」
「……ま。一対一なら鬼より強い妖怪なんてざらにいるのは確かだな。しかし鬼は集団性を持つ妖怪だ。鬼の社会全体を相手に勝ち目のある妖怪なんざ存在しない。それは人間と他の動物の関係に似ているな」
 十兵衛はぼやくように言った。
「しかしがしゃどくろなら! 村一つ滅ぼしてのけるという伝承も持つがしゃどくろなら! 鬼の集落をも攻め落とすに違いない! いや攻め落とすに至らずとも、僅かでも弱体化すればそこに勝機が生まれるというものだ!」
「……どうやって、その人間の遺体というのを調達していたんですか?」
 桃太はそう尋ねるのを抑えきれなかった。
「童にはとうてい話せぬ」
「ぼくの父さんと、何やら怪しげな売り買いをしているという話を、母さんから聞きました。それは関係ありますか?」
 父は医者だ。当然、人間の遺体を扱うこともある。それは実験用に寄せられたものだったり、闘病の末亡くなって霊安室に安置されたものだったりするだろう。そして十兵衛は『薬品臭い死体』と言っていた。
「詮索は無用だ、童よ」
 王一郎は鼻息を一つ。
「貴様は幼さ故分からぬだろうが……しかし何もかもを知ろうとする者や、知っていることを無暗に話そうとする者は、排斥される運命にある。よって大人の世界にはこのような言葉が存在するのだ。すなわち……見ざる! 聞かざる! 言わざる!」
 一つ言う度に目元や耳元、口元を覆って見せる王一郎。
 桃太はそれ以上の追及はやめた。
「でも鬼と戦う為に色々考えてるのは立派だよね。やっぱりお父さんはすごいよ」
 心底の賞賛を込めた笑顔で、瓜子は言った。
「村の皆はすっかり諦めて、毎年大人しく海神に赤ん坊を差し出してるのにさ。お父さんは鬼を滅ぼすことを諦めていないんでしょう? 尊敬だよ」
「分かってくれるか我が聖姫よ。そうだとも! 人の世は人の手によって守られなければならぬのだ!」
 拳を握りしめて、王一郎は力説した。
「人が妖魔を恐れ、妖魔に諂い、顔色を伺って生きる時代は終わる、終わって行かねばならぬ! いや……もうすでにほとんど終わっているのだ! 証拠に……童よ! 貴様が生きた都会では妖魔のことなど噂も聞かなかっただろう?」
 そう水を向けられ、桃太は頷いた。東京にいた頃は、鬼や河童を恐れたことはなかったし、またその実在すら信じていなかった。
「ただこの山奥の小村だけが取り残されている……。それではいかぬのだ。人は、人の力で妖魔に立ち向かえるのだ。我は討魔師としてそれを証明したい! そして村を救った英雄となりて、その名声を村が終焉を迎える遠きその日まで轟かせるのだ! フハハハハハハ」
 おもむろに立ち上がった王一郎は、胸を張って高笑いを地下室に響かせた。
「すごいよお父さん! 本当に偉い!」
 瓜子が立ち上がって拍手をし、そのような父を称えた。
 桃太は微かに釈然としない者も感じながらも、瓜子が父を称えるのも分かるような気がしていた。海神に生贄を捧げ続ける現状を良しとせず、鬼と戦う為の相異工夫を凝らすこと自体は、この村に必要な心掛けであるに違いなかった。
 しかし同時に……桃太は一つの疑問も感じていた。
 海神に頼らず鬼に立ち向かうのは良い。その勇気は賞賛されるべきものだ。
 しかしその為に取った王一郎のやり方は、果たして褒められたものなのだろうか?
 誰かの死体を粗末に扱うのがいけない……というだけではない。王一郎はがしゃどくろという妖怪を作り出して鬼に対抗しようとしている。だがそのやり方は、結局のところ鬼と言う妖怪に対抗する為に海神という別の妖怪を頼っている村の現状と、本質的には変わらないのではないか?
 赤ん坊を生贄にするくらいなら、ホルマリン漬けの死体を活用した方がまだ良い……という感覚は、どうにか理解できる範疇だ。しかし人間の良いように妖怪を操ろうとするのなら、それは海神が生贄を欲するのと同じように、何かしらの代償を伴うのが道理なのではないか?
 桃太がそう考えた時、地下室の鉄の扉が開け放たれる音がした。
「あなた! 大変よ!」
 瓜子の母だった。青白い顔で、強い足音を立てながら地下室の王一郎に歩み寄る。そして瓜子と桃太の方を訝るような視線で一瞥する。しかしそれどころではないように。
「白い、巨大な骸骨みたいな化け物が、山に現れたの!」
「なんと! それは本当か!」
 王一郎は歓喜の表情を浮かべた。
「そうかそうか! 上手く行ったか……。ふふっ、ふはははははっ!」
「何を笑ってらっしゃるの?」
「妻よ! 恐れることはない! それは我らを救うものだ! 鬼を滅ぼすものなのだ!」
「そんなはずはないわ!」
「どうしてそう思う?」
「だってその骸骨……山を降りて来てるんだもの! 人里の方に向かってね!」
 それを聞いて、王一郎は血相を変えた。
「お願いあなた! 討魔師として……骸骨から村を救って!」



 がしゃどくろは既に人里近くまで降りて来ていた。
 それを遠くから目視できる程、その妖魔はあまりにも巨大だった。何せ身の丈は二十メートル近くにもなる。山を降りて来るその白い巨体が緑色の木々から飛び出して確認できた。
 それはまさしく巨大な骸骨であり、それ以上でも以下でもない外観だった。東京の小学校の理科室に展示されていた偽物と比べ、生々しさは遥かに上回っている。遠近感も相まって見ていると視覚が混乱しそうになる。
 村人たちの避難が完了していたのもそのお陰だった。がしゃどくろが降りて来るのと逆方向の海沿いまで、人々は村を捨てる覚悟を持って集団で逃げ出しているようだった。
「……ぼく達も逃げた方が良いですよね」
 桃太は呟いた。しかし王一郎は首を横に振った。
「いや。ことこの状況に至っては、我の傍にいた方がかえって安全かも知れぬ。がしゃどくろはもうすぐ傍まで来ているのだからな!」
 瓜子達の家はがしゃどくろが降りている山の山際にあった。ほとんど山中と言っても良いかもしれない。山から妖怪が降りて来ることへの牽制として、討魔師の王一郎がそこに住んでいるのだ。
 がしゃどくろの歩行速度自体は鈍重なものだったが、何せ一歩が大きいので移動速度は相当なものだ。それを王一郎が食い止められれば良いが、それが叶わなければ、今すぐ逃げたところでたちどころに追いつかれ獲物にされるに違いなかった。
「なんで鬼のいる山奥じゃなくて、人里の方に向かってるんだろう」
 瓜子がこんな時でも呑気に小首を傾げた。
「……人間を恨んでいるんじゃないかな? 人間を、というか……王一郎さんを」
 桃太が呟いた。
「何故我が恨まれねばならぬ?」
 王一郎は娘と同じ角度で小首を傾げた。
「いや……だって、遺体を食べたのは鬼ですけど、その遺体を鬼に差し出したのは王一郎さんでしょう?」
「骨にそんなことが分かるものか」
「実際、分かるんだからこっちに来てるんじゃないですか!」
 事実がしゃどくろは人里の方にというよりこの家の方に向けて歩いているかのようだった。両者の距離は既に百メートルに満たず、一歩で十メートル近く歩行するがしゃどくろがここに到達するのは最早秒読みだ。
「……どっちにしろ、やっつけるしかないんじゃない?」
 瓜子が言った。
「相異ない。……迎え撃つのみ!」
 王一郎は腰にぶら下げた日本刀を抜き放った。
「哀れなる妖魔め! 恨みにかられ人里に牙を向けようとするなら、この首狩泡影が両断してくれよう! ……行くぞ!」
 既にがしゃどくろは五十メートル先に迫っていた。雄たけびを上げながら、王一郎はがしゃどくろに向けて走り寄って行く。
「……勝てるのかな?」
 瓜子が言った。
「大丈夫よ。あの人、日本一の救いようのないばかだけど、剣の腕の方も日本一だから」
 瓜子の母は特に心配した様子はなかった。その胆力は流石は瓜子の母と言ったところだった。
「うおおおおおおっ!」
 王一郎は雄たけびをあげてがしゃどくろの方へと襲い掛かった。怨敵の姿を認めたがしゃどくろは、その場にかがみ込み緩慢に腕を動かして王一郎を捕まえようとした。
「甘いっ!」
 その長い腕を飛び越えるのに、王一郎は三メートル以上は垂直に跳躍して見せた。そして軽やかな身のこなしでがしゃどくろの手首に飛び乗ると、そのまま肘、肩という風に飛び移りながら、がしゃどくろの首の骨に向けて刃を振った。
 あっけなく両断された首の骨から、頭蓋骨が落下して地面に転がった。凄まじい音がして、着地した頭蓋骨に大きなヒビが入った。頭部を失ったがしゃどくろの胴体は、首を切られた生身の人間と変わらないような動作でその場で崩れ落ち、倒れ込んだ。
「やったっ」
 瓜子が叫んだ。しかし戦いは終わらなかった。
 アタマを失った胴体はその場で崩れ落ちたが、しかし頭蓋骨の方はまだ生きていた。信じられない程の高所から鮮やかに地面へと着地した王一郎に向け、頭蓋骨はその場でのたうつように転がって襲い掛かる。
「嚙み殺す気だ!」
 桃太は叫んだ。がしゃどくろの頭蓋骨はそれだけで三メートル近いサイズを誇っており、その巨大な口で噛み付かれれば絶命は免れないはずだった。
 しかし王一郎は苦も無くそれを迎え撃つ。
 無造作な腕の振りだけで、がしゃどくろの頭蓋骨はあっさりと縦に両断され、真っ二つになった。刀身よりも大きな物を斬ったようにしか見えなかったが、それは魔術の類ではなく、達人の腕が成せる列記とした剣技であるらしかった。
「造作もないっ!」
 王一郎は高らかに叫ぶと、両断された頭蓋骨が左右に転げる前に、今度は真横に剣と腕を振るった。
 四頭分された頭蓋骨はそれぞれ四方に倒れた。最初微かに震えていた頭蓋骨だったが、王一郎がその内の一つを蹴飛ばすと、観念したように動かなくなった。
 王一郎は刀を鞘に戻すと、不敵な笑みを浮かべながら腕を組んだ。
「ふんっ。噂程にもなかったな」
「お父さんっ。すごいよ!」
 感動したように、瓜子が叫んだ。
「これ、すっごく強い妖怪なんでしょう! それを一人で倒しちゃうなんて……っ」
「ふふん。まあ弱くはなかったな。確かにこれは、並の討魔師では討伐は不可能だろう。しかし我にとっては造作もなき相手に過ぎん。この魔王の手を煩わせるには甚だ役不足よ! フハハハハハハ!」
 桃太もまた感動していた。『役不足』の誤用など気にならない程に、鮮やかに妖怪を退治してのけた王一郎は恰好良かった。
 しかし同時に、桃太は危惧もしていた。
 王一郎の仲間の討魔師は、このがしゃどくろを『単騎撃破は絶望的』と称していたという。確かに二十メートルを超える巨人の首を鮮やかに跳ねるのは、通常の個人の力では不可能に違いない。それを成し遂げた王一郎が規格外だっただけだと、そう理解することも可能ではある。
 しかし……相手は妖怪だ。それも人骨の集合体、すなわち一度死んだ者達なのだ。それはすなわち、脳や心臓のような特定の急所がない。
 確かに首を跳ねられ、頭蓋骨を四等分されることで、一度は動きを止めている。だがそれで安心して良いものなのだろうか?
 興奮した様子で瓜子が王一郎の元へと走り寄って行く。瓜子の母がそれを止める様子はない。
 しかしその時……がしゃどくろの腕が動いた。
 首無しの人骨の腕の身が動いて少女の身体へと伸びていく様は、この世の光景とは思えない程おぞましかった。
「しまったっ」
 王一郎は叫び、脚を停めた瓜子の方へと走り寄った。
 一度動きを止めたがしゃどくろを相手に警戒を怠ったのは、確かに王一郎の油断だった。それでも狙われたのが王一郎自身であったなら、どんなに油断した状況からでも、それを跳ね除けて見せただろう。
 しかし狡猾ながしゃどくろが狙ったのは彼の娘である瓜子だった。彼女には何の心得もなかった。迫り来る死者の腕から瓜子を逃れさせる為に、抜刀を済ませていない王一郎に出来ることは、彼女を突き飛ばして見せることだけだった。
 それによって瓜子は救われた。しかし瓜子を突き飛ばしたがしゃどくろの白い手の平が、王一郎に絡みついた。
「うおおおっ! いだだだだだっ! いだだだだだだっ!」
 あっけなく握り潰されそうになっている王一郎に、妻は瓜子を救出しつつ文句を言った。
「バッカねぇ! 何油断してるのよ!」
「そんなこと言ったって妻よいだだだだだっ! 動かなくなったら倒したと思うであろういだだだだだっ!」
「瓜子を突き飛ばすんじゃなくて、妖怪の腕を切り落とすとかできなかったの? 刀仕舞ってたにしても、居合術とか抜刀術とかあるでしょう!」
「咄嗟のことで間に合わなかったいだだだだだだだっ! 娘を救うことが精一杯だったいだだだだだっ!」
 王一郎は精一杯腕や脚を使って握り潰されるのに抵抗していたが、山を持ち上げるというがしゃどくろの握力は凄まじいものがあるらしい。その顔色はどんどんと青白さを増して行った。
 しかし頭蓋骨を失った胴体の方も、王一郎を握り潰す以上の行動には出てこなかった。どころかその場を立ち上がることもできなかった。脳味噌を持たないただの巨大な人骨ながら、その制御のある程度は頭部に委ねられているのかもしれない。よってそれを失った胴体や手足は、人を握り潰すという単純な動きをするのがやっとなのだ。
 ならば……そこに勝機があるのではないか?
 桃太は握り潰されている王一郎の方に近付いた。そして今にも死にそうな顔で抵抗している王一郎に叫んだ。
「王一郎さん! 刀を!」
「何ぃ?」
「ぼくに刀を投げてください! ぼくは剣道一級だ! きっとがしゃどくろの腕を切り落として、あなたを救います!」
「一級とは立派だな! だが無理に決まっているだろう!」
 王一郎はその整った顔をありえない程捻じ曲げながら痛みに耐えていた。
「でもっ。最早それしか方法は……」
「諦めて死を待つよりマシという訳か! ならば……ええい! 一か八かだ!」
 言いながら、王一郎は腰にぶら下げた刀を肘で弾き飛ばした。
 その刀は見事に桃太の足元へと着地する。桃太は『首狩泡影』と呼ばれている王一郎の刀を持ち上げた。そのずっしりとした重さは竹刀とは比較にならなかった。
 桃太は見様見真似で抜刀すると、恐る恐るがしゃどくろに近付いた。人間の胴体程、いやそれ以上に太いその白い腕の骨に固唾を飲み込むと、桃太は力一杯振りかぶった刀を強く振り落とした。
 しかしそれはあっけなく跳ね返された。鋼鉄を打ったかのような感触があり、桃太の腕は激しい痛みに痺れ、刀を取り落としてしまう。
「……ダメだ。硬すぎる」
 桃太はその場に蹲りそうになりながらつぶやいた。
 骨には傷一つ付いていなかった。全力を込めた桃太の一撃も、がしゃどくろは一顧だにする気配すらなかった。これよりも大きな頭蓋骨を、無造作な腕の振りだけで簡単に四分割してのけていた王一郎の実力は計り知れなかった。そこには無慈悲な程の力量差、すなわち大人と子供の差があった。
 絶望しそうになる桃太の頭上から……王一郎の声が降り注いだ。
「……童よ。悪くない。決して悪くないぞ」
 その声に顔をあげると、王一郎は真摯な瞳で桃太を見詰めていた。
「だが妖魔を恐れるあまり基本が疎かになっている。道場にて身に着けたであろう踏み込みが活かされていない。今の位置から一歩、いや二歩下がって、腕だけでなく全身の力で持って打ってみるのだ」
 落ち着いたその声に、桃太の混乱は解けていった。そうだ。今のは自分の全力を出し切った訳ではない。普段やっていた修練の内、この状況でも活かせること、治せる部分はたくさんある。
 桃太は刀を持ち直すと、王一郎に言われた通り、骨の腕から二歩下がった位置から踏み込みながら打ってみた。腕だけでなく肩、腰まで使うことを意識して、桃太に出来る限りの一撃を人骨に叩きこんだ。
 しかしその一撃はがしゃどくろの腕に微かな傷跡を残すに留まった。再び消沈しそうになる桃太の頭上から、王一郎の声が降り注ぐ。
「格段に良くなったぞ童よ! 今度は狙いを考えるのだ! 肘にある骨と骨の継ぎ目を狙い打て!」
 桃太は王一郎の言われた通りにした。狙いを考えるだけでなく、非常に硬いものを切断するという初めての体験にあたって、二回の失敗を加味した調整を施した。より力強く、よりまっすぐに、よりしなやかに腕を振り落とす。
 それでも刀は弾かれた。しかし、桃太は今度は何も落胆しなかった。
「いいぞ! もう一度だ!」
 桃太は再び刀を振り下ろす。
「もう一度だ!」
 三度の失敗を加味したその一撃は、今度こそがしゃどくろの腕を両断することに成功した。
 刀が骨を通り抜ける感触と共に、言いようのない達成感が桃太の全身を包み込む。思わずへたり込みそうになる桃太の肩を、瞬時にがしゃどくろの手の平から脱していた王一郎が受け止めた。
「見事だ童よ。我は貴様のことを見くびっていたようだ」
 言いながら、王一郎は桃太から刀を受け取る。
「魔王たる我の瞳は既に、此奴の動きの悉くを見切っている。瞬劇の速さにて細断せしめること造作もない」
 見れば、四分割された頭蓋骨が、かすかに震えながらその場を動いて、一つに繋がり直そうとしていた。しかし王一郎は有言実行をする。あっけなく頭蓋骨は六つに、八つに、数えるのもバカらしくなるほどバラバラに砕かれて行った。
 その隙に動き出そうとした胴体の残された左腕も、今度は王一郎は自由にはさせない。いともたやすく胴体全体を真っ二つに切り裂いたかと思ったら、その四肢をあっけなく切り飛ばしそれぞれをバラバラに切り裂いた。
「……貴様らを制御しているのは集いし怨念。しかし元が人である以上、司令部を頭部に置き、その妖力をそこに集中させるのが自然。そこを切り飛ばせばそうそう胴体など動かせぬと踏んでいたが……少々の妖力は胴体の方にも残していたらしいな」
 王一郎は最早粉々と言って良い程細断されたがしゃどくろを見下ろして不敵に笑った。
「とは言え、これほどバラバラにされてしまっては、復活するのは容易ではあるまい。時間を掛ければ或いは可能だとしても、これほど力の差を見せたのだ。最早戦う気力は残ってはいないだろう」
「それで……これからどうするんですか?」
 桃太が尋ねると、王一郎は今度は油断なく刀を構えたまま。
「この状態で火を付けて火葬するなり土をかけて土葬するなりして、どうにか供養してやれば、死者の溜飲も下がるだろう。そうすればただの人骨の群れに戻るに違いない。そしてその為には人手が必要だ」
「避難してる村の人達を呼んで来るんだね」
 瓜子が言った。
「ごめんねお父さん。わたし、脚を引っ張っちゃったみたいで」
「悪いのは油断したこのトンマよ」
 行って、瓜子の母は王一郎のアタマをはたいた。
「娘を危ない目に合わせて、増してやこんな男の子の手を借りるなんて。まだまだ未熟ね」
「……甘んじて受けよう」
 王一郎は潔く言った。
「ここは我が受け持つ。村人たちを呼んで来てくれ」
「了解!」
 瓜子が元気良く言って、桃太達はその場を走り出した。



 村人たちの協力を得て、残された人骨達をどうにか火葬にすることに成功する。
 未だ微かに震えている人骨達を村人たちは恐れ、気味悪がった。しかし瓜子が平気な顔で、桃太が戦々恐々とそれを火にくべているのを見て、子供に負けじと彼らはその作業に従事した。
 どんなに細切れにされ、抵抗の術を失くしていても、それらが意思を持った悪霊の類であることに違いなかった。危険な作業だったが、村を滅ぼさない為にと臆病な村人たちもこの時ばかりは勇気を出した。
「しかし流石は因さんだねぇ」
 村人の一人が感心したように言った。
「あんな巨大な骨の化け物を倒しちまうなんて……ウチの村の討魔師は達人だっ!」
 その声を聞いて、王一郎は作業の手を止めてまで腕を組み、誇らしげに高笑いをした。
「そうだろうそうだろう! フハハハハハハハハハ!」
「しかしどうしてこんな骨の化け物なんか生まれたんだろうね? 誰かが良からぬことをした所為じゃないのかい? もしそうだとしたら、誰も死ななかったとは言え、本当に許せないねぇ」
「フハっ。ふ、フハハハハハハハハハ!」
 王一郎は作業の手を再開しながら、誤魔化すように高笑いをし続けた。
 日暮れまでにはどうにかその作業は終わり、村人達は解散して行った。
 桃太も家へ帰ろうとした時、背後から瓜子に呼び止められた。
「恰好良かったよ、桃太」
 桃太は苦笑するしかなかった。確かに自分はがしゃどくろの腕を両断してのけたが、しかし王一郎と比べればその手際には雲泥の差があった。到底誇れるようなものではなく、むしろ無様を晒したような気分すらあった。
「まことにあっぱれだ。桃太よ、貴様には剣技の才があるらしい」
 言いながら、王一郎が近づいて来て、桃太の全身をあちこち触れた。
「わ、わわ。何ですか?」
「良い筋肉が付いている。十二歳にしては身の丈もある。順調に成長すれば、屈強な体格を手にしよう」
 王一郎は顎に手を当てながら、桃太の全身を見聞するようにじっと見つめる。
「利発さは申し分ない。精神力の方も……見た目よりはあるらしい。全体としては丙種合格と言ったところか。悪くないぞ」
「いったい何ですか、王一郎さん」
「桃太よ。我が弟子となれ」
 そう言われ、桃太は目を丸くするしかなかった。
「討魔師の跡継ぎとなれ。胸を張り、世間に誇れる素晴らしい職業だ。財も築ける。貴様にはその才能があるのだ。時間を作り、稽古の為に定期的にこの家を訪れよ」
 桃太は口をぽかんと開けた。王一郎の視線は熱を帯びており、桃太が生半可に抵抗をしても意思を曲げそうにはない。隣ではニコニコと嬉しそうに笑いながら、瓜子がこちらを見詰めていた。
 助けを求めるようにして、桃太は瓜子の母の方へと視線をやる。しかし彼女はあっけなく言った。
「いいんじゃない? 私も好きよ、その子」
 大変なことになった。肩を落としながら、桃太はそのことを悟った。


 第四話:鬼と海神の巻


 桃太が王一郎の元で稽古を行うのは、週三日月水金の放課後から午後七時前までと定められた。
 これが決定するまでは因夫婦と鬼久保夫婦との間の折衝があった。週七日、時間は放課後から夜の十一時まで、日曜は終日という主張をする王一郎は、妻がアタマを叩いて黙らせていた。桃太くんには学業もあるし子供らしく遊ぶ時間も必要でしょうということで、結果的にその時間に決定したのだった。
 そもそも王一郎を嫌っているはずの父が稽古を承認したことも、桃太にとっては意外だった。何故許可をしたのか尋ねる桃太に、父はしかめっ面をして言った。
「男なのだから武道の嗜みは不可欠だ。この村にも剣道場はあるが、東京の名門道場と比べやっていることは明らかに児戯だ。まともに剣技を教えられるのが因准尉しかいないのならば、奴に任せるのも致し方あるまい」
 どうやら父は王一郎の人格よりも能力を評価して、桃太の剣術の師と認めたらしかった。事実王太郎の剣技は凄まじかった。村では腕利きの討魔師として慕われ、軍にいた頃は『首狩り』と呼ばれ畏怖されていた。桃太にとってもがしゃどくろと対峙する王一郎の勇ましさは記憶に新しいものだった。
 それからというもの、桃太の日常には王一郎による剣術の稽古の時間が加わることになった。
 決められた曜日になると、桃太は瓜子と共に王一郎のいる彼女の自宅へと帰還する。道中雑談を交わしたり、稽古の時間に遅れない程度の少々の道草を食ったりもする。
 稽古はハードワークだった。時間が足りない分質を重視するということで、王一郎は碌な小休止も与えず二時間少々の時間を全力で桃太に動き回らせた。
 王一郎は自身の稽古で剣術以外のことを一切教えなかった。東京の道場では礼儀作法や態度や言葉遣いなどへの指導も多く、剣道というよりそちらの習熟を目的に通わされている子供も多かった。しかし王一郎はそう言ったことを一切求めず、許される時間すべてを使って桃太と打ち合った。
「素振りや肉体の鍛錬と言った一人でもできる基礎的なことは、宿題として課しておく。ゆめゆめ、怠らないことだ。貴様は糞真面目だからサボったりはしないだろう」
 その合理性ぶりが桃太には心地の良いことでもあった。何よりありがたいのはそれが王一郎とのマンツーマンでの指導ということだった。東京の道場には様々な年代の人物が詰めかけていたが、その気質は主として体育会系で、荒くれ者の割合も少ないものではなかった。大人しい性格の桃太はその人間関係にとにかく苦労したものだったのだ。
「がんばれ桃太ーっ! 今日こそお父さんに勝っちゃえーっ」
 庭で行われる訓練に、瓜子は頻繁に見学にやって来た。その度に『良いところを見せよう』という気持ちに駆られる桃太ではあったが、もちろん王一郎と打ち合って勝てる訳もない。肉薄することさえままならない。精々が褒められる姿を見てもらう程度が関の山だった。
「ふふふっ。貴様やはり筋が良いぞ。難度高し秘儀奥義の数々を瞬く間に吸収せしその様まさにスポンジの如し! やはり子供は良いな。教えがいがある。ふはははははっ!」
 王一郎はそう言って上機嫌に笑った。極限まで疲弊しながら、桃太の方も自分が強くなるのを実感していた。
 ある日桃太は村に一つだけある剣道場へと連れて行かれた。門下生十数人の小さな道場だったが、京弥と宗隆を含む同年代の男子の多くがそこに通っていた。桃太はそこで一番の実力者という中学三年生の男子と試合をさせられた。
 その男は身長百七十五センチ、体重など八十キロはありそうな巨漢だった。だが大人とも互角に打ち合うというその男の太刀筋は、桃太にはあまりにも稚拙に見えた。日々桃太を打ちのめす王一郎の剣神の太刀筋と比較すれば、スローモーションの如く感じられた。
 あっけなく一本を取った桃太を、やられた本人はもちろん、道場中の大人と子供が驚愕の目で見詰めていた。驚いていないのは王一郎だけだった。腕を組み、あまりにも当然の結果だとばかりに、不敵に微笑むばかりだった。
「流石は討魔師殿のお弟子さんですな。こいつもウチのような小さな道場では望むべくもない秘蔵っ子なんですが、それでもまったく敵わないようです。まったく、いったいどこで見付けて来たんだか」
 皮肉交じりに賞賛する道場主に、王一郎は高い哄笑で答えている。見に来ていた瓜子が腕を振りながら笑い、すごいすごいと喜んでいた。強くなったことよりも勝利したことよりも、瓜子に褒められたことが桃太には嬉しかった
 確かな手ごたえを伴いつつ、稽古は連日続けられた。
 夏休みの間は稽古の時間も延長され、朝から王一郎と打ち合った。稽古のない日は瓜子と川で遊びスイカを食べ笑いあった。
 そんな夏も終わり、秋も過ぎ、桃太は明らかに強くなっていった。
 あの時果たせなかった小学生大会の全国優勝も、今なら可能だという確たる自負を手に入れていた。それは自信家にはほど遠い桃太には珍しい現象だった。それが願望でも自惚れでもないことが桃太には確信できた。以前の自分と比較して、桃太の剣は何倍も鋭く速く重く柔軟だった。かつての大会で桃太を打ち倒しその後優勝を果たしたあの選手であっても、今の桃太と比較すれば大きな開きがあるように思えた。
 相変わらず学校では瓜子以外に友達はおらず、周囲には遠慮しながら過ごしていた。それでも道場での劇的な勝利を目にした京弥や宗隆からは、どこか一目置かれた気配も感じ取っていた。女子からの評判も上がった。特に千雪はますます桃太に絡みつくような視線を向け、その度に桃太は瓜子に向こう脛を蹴り飛ばされ悶絶した。
 そんな平和で充実した日々を送っていた、十二月のある日。
 桃太は鬼に襲われた。



 鬼の出現には何の前触れもなかった。ただいつものように瓜子と共に彼女の自宅へ向かっていた最中、それは唐突に姿を現したのだ。
 二人は道中にいつものようなたわいのない会話を乗せていた。ここ最近の瓜子がするのはもっぱら人魚の話だった。以前から人魚に執着を見せる瓜子だったがここのところはよりその偏執に磨きをかけていた。
「早くわたし達で捕まえないと、他の人に先を越されちゃうよ」
 そう瓜子が熱弁するのも無理はなかった。何故ならこんな事情があった。
「海神様が人魚を探して連れて来いって言ってるんでしょ? もし村が人魚を見付けて来ることが出来たら、向こう十年は生贄を差し出さなくて良いって言って」
 そのお触れが出たのは数日前のことだった。村民会は村人たちにこぞって人魚を捜索するよう呼びかけ、見付け出した者には金一封を約束した。貧しい村人たちは目の色を変えて人魚を探しに川や海へと潜ったが、未だに発見はされていなかった。
「どうして、海神様が人魚を探しているんだったかな?」
 桃太にはその繋がりがピンと来ていなかった。瓜子は「え? 知らないの?」と小首を傾げつつも、出来の悪い生徒にも優しく授業する丁寧な教師のように言った。
「人魚の別名がワダツミノサナギっていうのは知ってるよね? というより、ワダツミノサナギの別名が人魚なんだけど」
「ああ。それは聞いたよ」
「ワダツミノサナギは海神の蛹だから、海神の幼体つまり子供なんだよ」
 それを聞いて、桃太は思わず口をぽかんと開けた。
「そ、そんなこと一度も聞いてなかったよ」
「そう言えば一度も言ってなかったね」
「なんでそんな重要なことを今の今まで?」
「わたし傷治す為に人魚には会いたかったけど、人魚がどんな生き物とか興味ないもん。興味ないことは話さないよ。でさ、その海神様の子供である人魚が、ここのところ家出したかなんかで行方不明ってことみたいなの。それで海神様はなんとしても我が子を取り戻そうとして、人間にそんなお触れを……」
 瓜子が言えたのはそこまでだった。
 瓜子の自宅は山の麓にある。ほとんど山の中と言っても良い。その木々の隙間から青白い巨躯が待ち伏せていたかのようにするりと現れ、瓜子を覗き込んでこう言ったのだ。
「おめぇ。鬼っ娘か?」
 鬼だった。体躯は三メートルを超え頭頂部には二本の大きく禍々しい角を持っていた。瞳の数は十兵衛と同じ三つ。服装は粗末であり、まさに鬼のフンドシと言った簡易的な布切れを腰に帯びているだけだった。
 その問いかけは瓜子に対して向けられていた。「鬼っ娘か?」と再度尋ねられた瓜子は、小首を傾げて「違うよ」と端的に答えた。
「そんなはずはねぇ」
 笑いながら鬼は言った。
「微かだが俺らと同じ瘴気を出してる。おめぇ討魔師の娘だな? 討魔師の娘が鬼っ娘になるとはこれは笑い話だ」
「何を訳の分からないことを言っているの?」
 瓜子は目を丸くして問いかける。
「あなた達、山を降りて来ちゃダメなんでしょう? 海神様が知ったら怒ってあなた達に罰を与えるはずだよ。告げ口はしないであげるから、山へ戻ったら」
「そうはいかねぇ。集落にあまり寄り付かなくなった鈴鹿様に代わって、頭領代理をしている宇良って奴から、鬼っ娘を連れて来るように仰せつかってる」
「だからわたしは鬼っ娘じゃないってば」
「だからそんなはずはねぇ」
「そんなはずあるもんね。もういいや桃太。行こっ」
 そう言って桃太の手を取って歩き出す瓜子の細い腰を、鬼はその大きな手でつかみ上げた。
「きゃあっ」
 あっけなく持ち上げられた瓜子は思わずと言った具合で悲鳴を上げる。そこで桃太は、咄嗟に竹刀を抜き放ち鬼と対峙した。
 最近の桃太は帰りに王一郎の元へ寄る為に竹刀を常に携帯していた。
「何だ坊主?」
 片手に瓜子を持ち上げたまま、鬼は桃太の方を睨み付けた。
「う、瓜子を離せっ!」
 なけなしの勇気を振り絞って桃太は啖呵を切った。鬼は心底から桃太をバカにしたように腹を抱えて笑い始めた。
「おい坊主。まさかその棒っ切れで俺と戦おうっていうんじゃないだろうな?」
「ぼ、ぼくは討魔師の弟子だ。瓜子を浚うんなら、ゆ、許さないぞ」
 鬼は桃太の二倍程の身の丈と十倍近い体重を持っているはずだった。華奢な少女とは言え、瓜子をこけしのように持ち上げるその腕力にも凄まじいものがあった。そんな相手に形勢不利は明らかだったが、それでも逃げ出すわけにはいかなかった。助けを呼んで来る暇があったら、この鬼は瓜子を山へと浚うだろう。
「そういやあ最近、人を食っていなかったなあ」
 鬼は挑発するように桃太に言い放った。
「前までは鈴鹿様にうるさく言われて人は食えなかったが、宇良の奴ならまあ怒らないはずだ。どれ。おまえを食ってやろうじゃないか」
 身を屈め鬼は桃太の身長程もありそうな腕を伸ばした。その青白い腕にはたくましい筋肉の隆起が見られ、指の一つ一つには鋼のような鋭い爪を備えていた。そんな手で掴まれればたちまち引き裂かれるか、全身の骨を握り潰されるに違いなかった。
 鬼の腕の動きは俊敏であり、もし桃太が咄嗟に身を躱そうとしても敵わなかった可能性が高い。だが桃太はそうはせず、鬼の懐に向けて踏み込んでいた。そして竹刀の切っ先を、身を屈めた鬼の右の眼球へ向けて差し入れた。
「ぐああああっ」
 本来小学生の剣道の指導要綱に『突き』は含まれていなかった。試合で使えば反則を取られる動きだった。だがあくまでも実践を重視する王一郎は桃太にそれを伝えていた。
『良いか桃太。相手が人でも動物でも妖魔でも、殺すには『突き』だ。急所を一突きされれば如何に強大な妖魔も平伏すのだ』
 王一郎の指導の通りだった。眼球を一突きされた鬼はたちまち瓜子を手放した。放り出された瓜子の身体は宙を舞い、地面に向けて尻餅を着きながら着地した。
 ……やった!
 自身の剣技が狙い通りの効果を発揮したことに、桃太は歓喜した。しかしそこまでだった。
「いてぇっ! いってぇええっ!」
 鬼はその場で無茶苦茶に両手をバタつかせた。鋼の切れ味を誇る爪で虚空を闇雲に切り裂いたのだ。当然、鬼の懐に潜り込んでいた桃太はその攻撃に晒されることになる。
 以前と比べ、桃太は確かに強くなっていたが、それでも所詮は子供だった。もし王一郎ならそれしきの攻撃簡単に身を翻すか、竹刀の一撃で叩き落してしまっただろう。だが実戦での『突き』の後隙で一瞬動けなくなっていた桃太は、その一撃をもろに貰った。
 鋼の如き硬さと日本刀の如き切れ味を持ったその爪は、桃太の全身を真っ二つに切り裂いた。
 腰を境に上下に泣き別れになった桃太の肉体は、それぞれが宙を舞って離れた地面に叩き伏せられた。激しく吹き上がる血飛沫で周囲は真っ赤に染まり、桃太の上半身は意識を失い、虚ろな視線を虚空へと彷徨わせた。



「そんな……」
 真っ二つになった桃太を見て、瓜子は思わず蒼白で叫んだ。
「そんなっ!」
 鬼は既にその場を逃げ出していた。片目を潰されたショックと恐怖によって、当初の目的など忘れて踵を返していたのだ。それはまさに敗走と言ったみっともない姿だったが、しかし失った物は勝者であるはずの桃太の方が遥かに大きかった。
 ……このままでは桃太は死ぬ。
 ……そうでなくとも、胴体から泣き別れになった下半身を失う。
 そのことは瓜子にとっても明らかだっただろう。後者はもちろん、前者についても最早手の施しようがないことが察せられただろう。
 しかし瓜子は諦めなかった。桃太の上半身と下半身をそれぞれ両脇に抱え、地面に夥しい血の跡を引きずりながら、えっちらおっちらと泣きながら後ろ歩きを始めた。
「桃太っ。お父さんのところに連れて行くからねっ。きっと助けてもらうからね」
 そう言って、瓜子は桃太の父……村唯一の救命医のところへと彼の肉体を運び始めた。
 上半身と下半身に分かれた桃太の肉体を引きずる瓜子の姿は、目撃した村人たちにとって奇異の目を持って受け止められた。
 村の名士である討魔師王一郎の娘であったとしても、村人たちの瓜子の扱いは決して良いものではなかった。瓜子の為に王一郎の名誉が霞むことがあったとしても、王一郎の為に瓜子の功罪が少しでも薄められることはなかった。
 よって村人達は瓜子に駆け寄ってまずこう言った。
「おまえ。鬼久保先生のお子さんを何に巻き込んだ?」
「良いから先生を呼んでよ!」
 瓜子は泣き叫んだ。潰れた花のようにくしゃくしゃにした顔で、激しい嗚咽を漏らしながら助けを呼んだ。
「早く病院に運んで! 桃太が死んじゃうの!」
「ああ運ぶとも。何がどうしてこうなった?」
「桃太はわたしを鬼から助けてくれたの! 鬼を追い払ってくれたの! ああああんっ。ああああああっ。ふぁあああああっ! あああああああっ!」



 桃太の父はその本名を鬼久保文明と言った。
 病院へと運び込まれた我が子を見た文明は、それが最早血の流し過ぎで助からないことを一目で見抜いた。今更止血や輸血を行ってもどうにもならない。そもそもこの村にこれほど悲惨な出血をした子供を助ける程の血液はなく、救命の為の数々の設備もまったく足りていない。
 だがそれはまともな医療行為をした場合の話だった。
 文明はまず桃太を担架で病院に運び込んだ屈強な男達を一喝し帰らせると、自らの手足となって動く看護士を使って息子を地下室の前まで運び込ませた。しかし地下室の中に入らせることまではせず、そこへ息子を運ぶ役割は自身の手で担った。
 地下室には簡易的な手術台と最低限度の医療器具、そして一台の水槽があった。
 水槽は大きかった。高さは二メートル、幅は一メートルを上回っていた。その中にいたのは艶やかな金色の髪をした十五歳程の娘だった。サファイアのような透き通った大きな瞳と白い肌、人形のような高い鼻筋を持ったその美しさは人間離れしていた。事実その少女は人間ではなかった。
 その少女の腰より下は、深い緑色をした魚の半身だった。水槽の中で折りたたむように丸められたその下半身の、鱗の一枚一枚が宝石の如く光り輝いている。体をまっすぐに伸ばせば、人のような上半身よりも、魚の下半身の方が幾ばくか大きな長さを持っているだろう。
 そう、少女は人魚だったのだ。
 文明が水槽に向かって怒鳴りつけると、人魚は怯えた様子で縮こまった。文明はその様子を見てさらに強い口調で怒鳴りつける。人魚は怯えながら水槽の上から顔を出した。
 脚立に上った文明は人魚の顎を強い力で持ち上げると、その顔に向けてビーカーを突き付けた。そして人魚の顔を何度か強く殴打すると、人魚の目からあふれ出した涙をビーカーへと移した。
 人魚の涙を入れたビーカーを持って、文明は息子である桃太の方へと歩み寄った。
「助けてやる。助けてやるぞ……」
 その必死の表情だけは、息子の死に怯え、息子を愛し、息子を救おうとする父の真摯な願いに満ち溢れていた。



 目を覚ます。白い天井だった。
 そこが病室であることを桃太はすぐに感じ取った。そして思った。自分はどうしてこんなところにいるのだろう?
 瓜子と共に下校しながら鬼と遭遇したところまでは覚えていた。そこで鬼と出会ったことも。鬼との闘いで真っ二つに引き裂かれ、そして意識を失ったことも。
 あれから自分は死んだのではないか?
 記憶を整理するとそう考えるのが一番しっくりくる。全身を二つに切り裂かれるという体験をして生き残ることは不可能に思えた。仮に生きていたとしても、あの時奪われた腰より下が、戻って来ることはありえないだろう。
 桃太は自分の下半身を確認した。
 驚くべきことに、桃太の下半身はこれまで通りに桃太の身体にあった。太ももや膝、足の指に至るまでが通常通りに付随していて、それらは桃太の意のままに動かすことが出来た。
 さらに驚くべきことに、あれほどの負傷を受けながら桃太の全身には確かな活力があった。大きな負傷を乗り越えた後の苦痛や倦怠といったものは無縁であり、今すぐ竹刀を取って王一郎と稽古が出来るという程だった。
 桃太は混乱した。自分は今どういった状態にあるのだろうか?
 まず桃太は自分の下半身が切り飛ばされたのだという記憶を疑った。あれがすべて夢であり自分がここにいる理由が別の物だとすればとりあえずの説明は付いた。だが鬼と対峙した記憶は明瞭なもので、あれが嘘だとは桃太にはどうしても思えなかった。
 その時だった。
 病室の扉が開かれ、一人の少女が姿を現した。
「桃太っ」
 瓜子だった。瓜子は身を起こす桃太の姿を認めると、声を上げてその胸に飛び込んだ。
 あれからどれくらい時間が経つか分からなかったが、それでも久しぶりに瓜子に触れたような気がした。自分よりも十五センチ程は背の低い瓜子のぬくもりに、それでも桃太は寄りかかりたい気持ちになった。
「瓜子……あの、ぼくはどうなったんだ?」
 桃太が尋ねたのはそれだった。瓜子は目に涙を貯めながら顔を上げ、桃太の顔をじっと見つめると、感極まったような声で言った。
「桃太は鬼に殺されかけたの」
「腰から真っ二つにされて?」
「そう」
 桃太は愕然とした。あの出来事は夢でなく現実に起きたことらしかった。そんな状況から何事もなかったかのように復活している自分の肉体が不思議でならなかった。
「桃太はわたしの為に鬼を追い払ってくれたの。ありがとうね」
「それは良いんだけど……瓜子は不思議に思わないの?」
 尋ねると、瓜子は小さく小首を傾げた。
「不思議って何が?」
「ぼくの身体のことだよ。どうしてあんな目に合った状態から蘇生出来たんだろう?」
「言われてみれば不思議だね」
 瓜子はちょんと頷いて。
「でも桃太が生き返ったの嬉しいから何でも良いよ」
 あっけらかんとそう言った。
「まあそっちの不思議はまたいつか話せば良いんじゃない? 桃太だって自分が生きてたって嬉しさの前では、何で生き返ったのかとかどうでも良いでしょ? 手当をしたお父さんにでも聞けば良いじゃない。わたしは今は桃太が生きていてくれたのが嬉しい」
 そう言って桃太の胸に顔を埋め、頬ずりをする瓜子。言われてみると、そんな気もした。
「じゃあ桃太。わたしそろそろ行くね」
 瓜子は顔をあげて窓の方へと視線をやった。
「実は入っちゃいけないって言われたのに忍び込んで来ちゃったの。そろそろ桃太のお父さんが追っかけてくるころかもしれない。だから窓から逃げるね」
「あ……うん」
「じゃね。桃太」
 そう言って瓜子は窓から外へと消えた。
 窓を乗り越えた後に瓜子が行った挙動は『落下』だった。窓の向こう側の景色の高さや、歩き去る瓜子が見えないことなどからそれは明らかだった。
 思わず桃太は窓辺に歩み寄り外を見た。そこは明らかに二階であり桃太は愕然とした。思わず下を見ると、どのようにしてか無事に着地を果たした瓜子が、手を振りながら地面を走り去っていくところだった。



 桃太は学校へ復帰した。
 奇跡の生還を学校中の子供が驚愕し、そして訝しんだ。千雪など涙を流しながら桃太に縋り付きわんわん泣いた後、「でもなんで生きてるの?」と不躾なことを口にした。
 一番不思議だったのは他でもない桃太だった。真っ二つにされて瓜子に村を引きずり回される桃太の様子を村中の誰もが目撃していた。村人達も桃太が助かるとは思ってはおらず、それ故桃太の復活に皆胡乱な視線を向け時には質問攻めを浴びせかけた。こんな風に。
「おめぇ。なんで生き返ったんだ? おまえの父ちゃんはもしかして妖怪か?」
 桃太は何も言えない。桃太自身どのように自分を救命したのか父に問いかけたことがあったが、父はあくまでも「俺の腕のお陰だ」と答えるだけだった。
「おまえの命は助かったんだ。その理由について詮索する必要なんてどこにもないだろう?」
 それ自体は確かにその通りだと納得することが出来る。何より桃太にとって父は重ね重ね自身の命を救ってくれた大恩人である訳だし、その父が語ろうとしないことを無理に聞き出すことは桃太の本位でない。
 しかしそうもいかない理由があって、それはやはり瓜子に関わっていた。
 失われた自分の片眼球を取り戻す為、瓜子は人魚の捜索を続けていた。金一封を狙って海神の子である人魚を捜索する貧しき村人達よりも、その意思と情熱には強固なものがあった。
 そんな瓜子は、後から桃太に言ったものだ。
「桃太が助かったのって、多分人魚の涙のお陰だよ」
 瓜子は人魚の流す涙にあらゆる傷や病を治癒する力があると信じていた。しかも瓜子は真っ二つになり死にかけた桃太を誰よりも間近に目撃していた。そんな桃太が何の後遺症もなく復活を遂げる為には、何か超常的な現象にでも頼ったと考えるより他はなく、それが行方不明になっている人魚の涙によるものと考えるのは、彼女にとってあまりにも自然な通りだった。
「……ぼくも可能性はあると思うんだけどね」
 桃太は俯いてそう答えるしかなかった。
「覚えてないの?」
「流石にね。ずっと気を失っていたものだから」
「お父さんに聞いてみた?」
「聞いた。でも何も答えてくれないんだ」
 そう答えると、瓜子はこれ以上桃太に質問攻めを浴びせることはなかった。
 桃太の心は揺れていた。父は明らかに何かを隠している。その隠し事の正体が人魚であるという可能性は十分に考えられる。
 それを本当に隠し通したかったのなら、誰の目にも死ぬはずに見える程負傷した桃太を、人魚を用いて治療することは悪手だったはずだ。そうと知りながらそれでも桃太を治療したのは、それは明確に医者として父親としての使命感や責任感、愛情と言ったものが理由だったはずだ。
 ならば桃太の方もそんな父の想いを汲み取り、感謝をして詮索を行わないのが、然るべき振る舞いだと理解している。人魚に会いたくて仕方がないはずの瓜子が、それでも桃太をあまり追及しないのは、桃太のそうした心中を察してのことだろう。
 だが桃太は瓜子のことも助けたかった。
 瓜子の人魚への執着は偏執の域に達していた。鬼に攫われかけるという経験をしてさえ、冬の川を渡って山へ分け入った。『人魚は河童に囲われている』と言い出せば河童の集落に行こうとしたし、『村長の家に閉じ込められている』と言えば窓を割って村長の家に侵入しようとした。
 体の一部を失うという体験が、どれほどのショックなのかは、桃太には完全には理解できない。だとしても、それは周囲の大人達に叩きのめされ、子供達に蔑まれてでも人魚を追い求め続ける程のことなのだろうか?
 何か他に理由があるのではないか?
 そんな疑問をぶつけても、瓜子はすました顔で首を横に振るだけだった。
 瓜子にどんな狙いがあるにしろ、桃太は友達として彼女の前に人魚を連れて来てあげたかった。その為の鍵を父が握っていそうなのは間違いがなかったが、しかし桃太は父のことも裏切ることはできなかった。



「桃太。春が来る前にはもう東京に戻るぞ」
 ある日の夕方だった。遊びから戻った桃太に父が端的にそう告げた。
「え?」
 桃太は驚愕した。そして大きなショックも受けた。いつかは東京に戻るのだという父の話は理解していたが、それはもう一年後か二年後か、子供にとっては遥かな未来とも言える期間を経ての話だと思っていた。
「そ、それっていつ?」
「正確には分からん。とにかく東京の方で再就職先を見付けてからだな」
「前にいた病院に戻れる訳じゃないんだね?」
「そうだな。向こうに戻れるから戻る訳じゃなく、この村にいられなくなったから戻るんだ」
 父はそう言って小さくため息を吐いた。
「おまえが鬼に襲われて大けがなんかして来るからだ。ただでさえ悪い噂を立てられていた中で、身体が真っ二つになったおまえを治療しちまった。俺は他所では妖怪扱いだよ。何か隠しているんじゃないかと、色んな奴に詰め寄られるのはもううんざりだ」
 それはつまり桃太の所為ということだった。その為桃太は何も言えなくなった。
 こちらでの生活は必ずしも快適なものではなかった。学校の授業のレベルの低さを補う為、自主学習の頻度と時間を高めなければならなかった。来たばかりの頃は満作を初めとする田舎の悪ガキ達からリンチを受けたし、その満作が亡くなってからは亡霊に怯え眠れない夜を送ることも少なくなかった。学校では瓜子と共に常に排斥され何かと遠慮させられた。日常に妖怪の影が浸透し常に怯えていなければならないのも苦痛だった。
 それでも。
 桃太には大切な女の子が出来ていた。それは瓜子だった。彼女のように、可憐さと純粋さを併せ持った素晴らしい少女は他に出会ったことがなかった。口には出さないが桃太は彼女に憧れていたし好いていた。一緒にいられることが幸せだった。離れ離れになるのはたまらなくつらかった。
「……具体的な日時はまだ決まらん。だが、そう遠くないと思え。学校の友達にも挨拶しておけよ」
「……分かった」
 桃太は頷いて、それから自室に戻って少し泣いた。それから気持ちを切り替えて、ひんやりとした冬の窓に手を付いて、瓜子のことを思った。



「桃太よ! ついに我も自動車を買ったぞ!」
 翌日。冬休み期間中ということで、正午を回る頃に稽古に出かけた桃太を、王一郎は高らかな笑いと共に出迎えた。
「ふふふ……っ。苦しい道のりだった。自動車教習というものはかくも難解であり常に挫折との隣り合わせであった。しかし我は不屈の信念を持って道路規則や運転技術を習得し、こうして免許を得るに至った! その苦渋の道のりたるや、波乱の限りを尽くした兵役期間に勝るとも劣らない!」
「何をバカなことを言っているのよ」
 隣で妻がそう言ってため息を吐いた。
「単にアタマがバカになってる所為で筆記試験なかなか通らなかっただけでしょう? 良かったわねここのところ村が平和で。お陰で教習に行く為に山を越えて遠くの教習所に通うことができたんだから」
 王一郎が自動車免許を取る為に苦労していたのは知っていた。王一郎は往復で八時間を掛けて徒歩で教習所に向かっていたが、それ自体が過酷な修行であるかのようだった。そうして帰って来たその足で桃太に稽古を付けるその体力には目を見張るばかりであった。
「さて桃太よ! 今日は我が自動車を購入した記念すべき日だ。弛まぬ鍛錬の日々にも時には憩いは必要である。どうだろう! 今日は我が一家と共にドライブに出かけるというのは!」
「ああ。……それは良いですね」
 桃太は頷いた。本来ならそれはとても嬉しい申し出であるはずだった。実際瓜子は諸手をあげて喜んでいたし、瓜子の母もどこか上機嫌だ。王一郎など先ほどから哄笑が止まらないでいる。その輪の中に桃太も入るべきなのは知ってはいたが、昨日父に言われたことを思い出すと気持ちは沈み込むばかりだった。
「どうしたの桃太? 行きたくないの?」
 洞察力に優れた瓜子はそう言って見上げるように小首を傾げて来た。桃太は努めて笑顔を作り「ううん。嬉しいよ」と返事をした。
 残された時間は少ないからこそ、この少女と共に過ごせる僅かな時を大事にするべきだ。桃太はそう思い直し、王一郎の買った車に乗り込んだ。



 瓜子とは隣同士で後部座席に座った。王一郎が得意げにハンドルを握り、運転操作を開始したが、その運転技術は桃太の父とは比べるらくもなかった。すなわちヘタクソだった。
 碌に整備されていない田舎の道路のことだ。あちこち走り回る子供達が前に出るなり、王一郎はいちいち急ブレーキをかけた。その度に瓜子は楽しそうにはしゃぎ回ったが、桃太にとってそれは恐怖でしかなかった。
 派手に急ブレーキをかけるだけでなくハンドルを大きく横に切ろうとするので、いつあたりの建物に突っ込むのか分かったものではなかった。それでも尚王一郎は自身が弟子や家族を乗せて運転しているということに興奮し得意そうだったし、瓜子もまた楽しそうに笑い続けていた。
 到着したのは海だった。
 いつか瓜子と共に歩いて来たことのある海岸である。だだっ広い田舎の海の景色に、一つだけ小島が浮かんでおり、それは海神の住処だった。そこにある祠に海神が住んでおり今この瞬間も中に眠っているはずだった。
 ドライブと言えば何かしらの目的地が必要であり、咄嗟に選ばれたのがここだった。山を越え隣の町へ行く計画もあったそうだが、王一郎の運転技術を考慮して妻がやめさせたのだ。
「寒中水泳をするぞ」
 そう言って桃太を極寒の海へ誘おうとする王一郎は妻によって制止された。「いつでも加わるが良い」と言って一人裸になって海へ飛び込む王一郎に、桃太が続く気は毛頭なかった。
「冬の海も良いね」
 砂浜を歩きながら、瓜子が言った。
「そうだね。静かだし」
 潮風は冷たかったが不思議と乾いた感じはしなかった。波の音は豊かで飛沫と共に海の匂いが弾けた。
 海から上がって来る王一郎の為に木材を集めて焚火をしようということになり、それは瓜子の得意なことだった。素晴らしい手際で木々を積み上げると、持ち歩いているライターで瞬く間に火を付けてしまう。
「あったかいね」
「そうだね」
 バチバチと音を立てて静かに燃え続ける炎は、見ているだけで心安らいだ。冷たい冬の海の中で、そこだけが特別な聖域となった。そこに二人並んで腰かけながら、寒中水泳に耽っている王一郎やそれを腕を組んで眺めている妻の姿を観察していた。
「ねぇ瓜子」
「なあに桃太」
「大事な話があるんだ」
 そこまで行って、桃太はつい言い淀んだ。しかしそれはいつかは言わねばならぬことであり、また話すなら早い方が良いような気もしていた。
「なあに?」
「実はぼく……この村を去らなくちゃいけなくなったんだ」
 そう言うと、瓜子は目を丸くして、桃太の方をまじまじと見詰めた。凍り付いたようにずっと桃太の顔色を眺めていて、彼が嘘など吐かないことを吟味するようにしばし沈黙し、それから表情に哀しみを溢れさせた。
「そっか。いつ?」
「分からないけど、春が来るまでに。多分、一緒に中学生にはなれないと思う」
 瓜子は目に涙を貯め始めた。そして桃太の胸にしがみ付いて顔をうずめると、しゃっくりをあげて泣きはじめた。
「泣かないで」
 桃太はついそう言った。泣かれると桃太もまた、引き裂かれるように哀しかったのだ。
「でも……せっかく友達になれたのに」
 瓜子は嗚咽を漏らす。
「たった一人の……心から信頼できる……本当の友達だったのに」
 それは桃太にとっても同じだった。過去のどの友人と比べてもこの少女程親密ではなかった。お互いがお互いを強く求めあっていることを感じていたし、この村で起こる幸福なことのほぼすべてはこの少女がいるからこそ叶うことだった。
 しばらくの間、二人はそうして抱き合っていた。この時間を大切にするべきだと桃太は思っていた。今生の別れではないにしろ、自由に会えなくなることに違いはなく、子供にとって耐え難い程の隔絶が間もなく二人には訪れる。そうなる前に、少しでもお互いの存在を貪っていたかった。
 そんな時だった。
 突如として海が割れた。思わず顔を上げると、静かだったはずの冬の海に大きなうねりが起きていて、その渦の中央から一つの巨大な異形が顔を出していた。
 それは龍の姿をしていた。
 青い鱗を全身に身に纏った、首の二つある龍だった。
 その龍の異常だったのはまずはその巨大さだった。桃太の視界を覆い尽くす程の巨躯を誇っている。その巨体の多くの部分はまだ水中にあり覆い隠されているが、顔を出している部分だけでも、五十メートル以上はあるだろう。横幅も大きく、頭一つ一つが二階建ての建物くらいの大きさがあった。豊かな鬣を生やし、喉の当たりに二本ずつの腕を伸ばし、その先端には鋭い爪を帯びた三本の指が生えている。その姿はまさに伝説上の東洋の青龍だった。
 さらにその龍は龍としての二つの頭部の上に、人間の女性の上半身を生やしていた。向かって左の頭は金色の、右の頭は銀色の、それぞれ艶やかな長い髪を有している。金髪の方は海のような深い水色の、銀髪の方は血のような深い紅色の瞳を持っていた。髪と瞳以外はほぼ同じ姿をしていたが、その両方共が凄まじい美貌を秘めていた。
「海神様……」
 瓜子が思わずと言った様子で口を開いた。
 桃太は思わず圧倒されていた。されない方がおかしい。ただ強大であるという一点で、その異形はこれまでに見たどの異形よりも異形だった。
 海神は人のもの二つと龍のもの二つ、都合四つのアタマと八つの瞳で桃太の方をじっと見つめる。そして、金髪の女性の上半身が高い声を発した。
「おいあんた。そこの人間の子供や。男の方や」
 意外にもその声は人間の女性そのものの声だった。それも高く瑞々しい楽器の如く美しい声だった。
「あんた。そう遠くない過去に一回死んどるやろ? 魂にまだ癒えとらんキズが入っとる。普通魂にキズが入るのは入れ物の方がダメになった時や。魂にだけそんなキズが入ることはありえへん。つまりあんたは一度入れ物がダメになった後で、入れ物だけが綺麗に修復されたっちゅう訳やな」
 桃太は震えながら返事をすることができなかった。強大な存在が自分の方を向いて詰問をしているという事実がただ恐ろしかった。それに構うことなく、金髪の女性の頭は喋り続ける。
「そなけど魂がそんなに傷つく程入れ物の方が壊れたのなら、あんたがまだ生きとることに説明がつかん。あんた、人魚の涙を飲んだんとちゃうんか? ウチらの大切な娘っ子から涙を貰って、それを飲んだんとちゃうんか?」
 金髪のアタマがそう言い終える頃には、寒中水泳から上がって来た王一郎が、裸のまま桃太の傍へと戻って来て間に立ちふさがった。
「海神殿! それはいったいどういうことだ?」
「討魔師か?」
 金髪のアタマは言う。
「そいつはあんたの何や?」
「弟子にあたる。この少年が大けがを負ったというのは確かなことだ。そこから奇跡的な生還を遂げたということも。だがそれは腕利きの医者の手当てによるもので……」
 王一郎はそれを信じていた。王一郎は桃太の負傷を実際にその目で見た訳ではない。そして彼は人の噂も信じない。よって彼だけは桃太が父文明の手術によって無事に生還したのだと信じていた。それは如何にも瓜子の父らしい、瓜子とは別のベクトルの、無垢なる純粋さ故のことだった。
「そんなことはありえへん。なああんた、答えてみぃ?」
 そう言われても、桃太は舌と歯が震えて何も答えることができない。
「なあ! なんとか言え!」
「良ぅないよ、びゅうびゅう」
 ……と。
 声を荒げる金髪のアタマを、窘めるように隣の銀髪のアタマが言った。
「……しとしと?」
「この子はまだちいちゃい子供や。おっきなあたしらがおっきな声で詰問したら、怯えて何も言えれんようになってまう」
「しとしとの言うことも分かるけどな。でもこれはウチらの大切な娘の問題やんけ?」
「せやからこそ慎重に質問をしてあげるんが大切なんや。怯え警戒した人間は嘘を吐く。それで騙されてもうたことは、びゅうびゅうには一度や二度のことではない訳やん?」
 しとしとと呼ばれる銀色のアタマは、びゅうびゅうと呼ばれる金色のアタマと同じ姿と声をしていたが、しかしその喋るペースはびゅうびゅうと比べて穏やかで暖かみがあった。
「なあ坊や。びゅうびゅうはこう見えて、あたしよりずっと優しい子なんや。坊やのことも、別に怒っとる訳やない。ただ、焦っとって余裕があらへんだけなんや」
 しとしとは言う。桃太はそのおだやかな声に微かに余裕を取り戻し、「はい……」と力ない声で答えることに成功した。
「あたしらの大切な娘っ子が行方不明になっとることは知っとる?」
「ええ。……人魚ですよね」
「そう。人魚。君、人魚と会うたことある?」
「……記憶にはありません」
「記憶にはないだけで、会うたかもしれん心当たりはあるってことなんかな?」
 優しい声音で言うしとしとの声に、「どうなんや?」という威圧的なびゅうびゅうの声が添えられた。
 桃太は困惑しつつも、どう答えるべきかを考えていた。
 もし父文明が人魚を所持しており、故にその涙を用いて桃太を蘇生させることが出来たのだと仮定すると、それを正直に打ち明けるのは海神の怒りを買うことに間違いはない。
 だが相手が神の如き強大さと、人間と会話や契約を交わすだけの知能があると知りながら、嘘を吐き父親を庇うこともまた得策とは思えなかった。桃太が知っていることを黙っている場合と正直に打ち明けた場合とで、どちらがリスクの小さな選択なのか、計りかねていた。
「……桃太よ。何を知っているのだとしても、ここは正直に口にするが良い」
 王一郎が言った。
「他の低級の妖魔と異なり、海神に腹芸は通じない。びゅうびゅうの眼力は貴様の微かな表情や態度の違いも一目に見抜くし、しとしとの頭脳は貴様の言動の微かな矛盾も見逃さない。素直にすべてを語ることだ」
「……はい」
 師にそう言われ、桃太は決断した。そしてすべてを語った。
 鬼に襲われて身体を真っ二つに切り裂かれたこと。誰もがそんな桃太の死を確信したが、しかし実際には桃太は命を救われたこと。桃太を治療した医者は父であり、どんな手段を用いてそのような大手術を成功させたのかについては、一切口を開こうとしないこと。
「なんやそれ! 絶対その父親が怪しいやんけ!」
 びゅうびゅうはそう言って声を荒げた。
「その先生をここに連れて来てもらえへん? 討魔師さん」
 しとしとは静かな声でそう言った。
「いやしとしと! こっちから直接出向いて吊るし上げんかだ!」
「そんなことしたら村の人達を驚かせるよ? 変に怯えさせたら人間は何をしでかすか分からへん。娘っ子がどこにおるかも分からんまま姿を隠されたら、それがいっちゃん困るやん?」
「そんなんここに連れてこさしても一緒やろ! 娘っ子連れて逃げられたら最悪や!」
「そうならへんように討魔師さんにお願いするねん。あたしらが出向いたら絶対にその医者は何事か察して逃げるけど、討魔師さんが連れて来るんやったら素直に従う可能性はある。そうやろ?」
「…………ウチにはよう分からんけどもやな」
 びゅうびゅうは腕を組んで唸った後、しとしとの方を見て言った。
「まあ。しとしとの考えることで、間違っとることはそう滅多にない。ここはおまえの言うことに従うかな」
「ありがとうびゅうびゅう」
 この二つのアタマはそれぞれ異なる人格と思考を有しているらしかった。それでいて互いを尊重しあい、相談も交わしつつ一つの肉体を分け合っているらしかった。
「あの。海神さん、ちょっといい?」
 そこで無邪気に口を開いたのは瓜子だった。
 桃太は驚愕した。討魔師であり妖怪と人間の折衝役である王一郎が海神と口を利くのはある種当然のことだった。しかし瓜子はただの子供に過ぎず、そのやり取りに口を挟むというのは無謀極まりない行いと言う他なかった。
「なんや嬢ちゃん」
 びゅうびゅうは鷹揚に答えた。
「桃太のお父さんをここに連れて来て、もし娘っ子を捉えていたら、あなた達はどうするの?」
「そんなもん八つ裂きに決まっとる!」
 びゅうびゅうは吠えた。
「あかんでびゅうびゅう。そんなはっきり言うてもうたら」
 しとしとが窘める。
「けども……まあそんなことをしとるんが発覚したんなら、何の罰もなしっちゅう訳にはいかんわな。あたしらと人間とは契約によって対等な関係にある訳やけど、せやからこそ片方が片方を裏切るようなことをするんなら、裏切った方が罰を受けなあかんのは当然のことや」
「でも桃太はお父さん殺されたくないでしょ?」
 瓜子は桃太の方に視線をやった。
「う……うん」
「お二人は人魚が自分達のところへ戻ってきたらそれで良いんじゃない?」
 そう問い掛けられ、びゅうびゅうは唇を尖らせ、しとしとは小首を傾げた。
「何が言いたいねん?」
「そうや。どんな狙いがあっての問いなんかな、それは?」
「わたしが人魚を連れてここに来る。そしてあなた達に人魚を差し出す」
 瓜子は言った。
「それでも問題は解決するよね? あなた達は村民会を通じて村人達に人魚を探させていたんでしょう? だったらわたしがきっと人魚を見付け出す。そしたら桃太のお父さんを尋問する必要もどこにもなくなるよね?」
「……それはまあ、そうなんかな?」
 びゅうびゅうが納得したように言った。
「あかんでびゅうびゅう。それやと娘っ子を浚った人間は罰を受けないままになるで」
「でも、人間に娘っ子を探すよう頼んだんは確かなんやろ? それで娘っ子がどこから見付かったとしても、人間に罰則を与えんことにしたんはしとしとの方やろ?」
「確かにそうや。もし人間が娘っ子を捕まえて閉じ込めとるような場合、そこを明らかにしとかんと、人間はその捕まえとった人間を庇って娘っ子を差し出さん可能性がある。せやから人間が何をしとったとしても、娘っ子を差し出しさえするんなら全部不問や。そういうことにした」
「この子は邪悪な人間から娘っ子を取り返して来てくれるらしい。それなのに人間を罰したらそれは、最初の約束に背くんとちゃうんか?」
「人間に娘っ子を見付け出させること自体、人間に平伏するようなものであって、あたしらで娘っ子を探し出せるんならそれが一番ええことなんや。その子供に娘っ子を連れて来させること自体、あたしは反対や」
「ウチらの手で娘っ子を探し出す為に、まずは娘っ子を捕らえとる医者をここに連れて来させると? しとしとはそう考えとるんやな?」
「そうや。そんで尋問して居場所を吐かせたんやったら、それは人間やなしにあたしらが娘っ子を見付けたことになる。その場合約束も何もない。堂々と八つ裂きに出来る」
「人間はそれで納得するんか? 討魔師に言うてその悪い医者を連れて来させるんなら、どっちにしろ人間の助けは借りてもうたことにならへん? その癖して人間を処罰するんは、どうなんや?」
「うう~ん」
 しとしとは腕を組む。びゅうびゅうの言い分の正当性を吟味しているようだ。
「そこの坊やが娘っ子の涙で蘇ったことを見抜いたんはウチや。そこから人間に命令して色々捜査して娘っ子を見付け出したいうんなら、それは人間だけの手柄ではない。けれど、捜査に人間を使うとる以上、ウチらだけの手柄でもない。こういう微妙なケースにおいては、人間の利益に判断してやるんが、高潔な神性たるウチら龍族としては正しいような気もするんよ」
 びゅうびゅうは言う。しとしとはしばし腕を組んで黙り込んだ後、「確かにそうやなあ」とおっとりとした声で言った。
「……納得してくれるんか?」
「うん。ええよ。そもそもびゅうびゅうの方があたしより先に生えとった首や。明らかに間違ったことを言うとるのでもない限り、意見が分かれた時はそっちが優先されるのが本来や。ここはお姉ちゃんを立てとくで」
「すまんなあ」
「ええんやで」
 そのやり取りの後、向かい合っていた二つのアタマは、再び瓜子の方を向いた。
 先に口を開いたのはびゅうびゅうだった。
「でもなあお嬢ちゃん。ウチらかて、無限に待ってやるつもりはないで」
 次にしとしとが口を開く。
「せやな。人間の捜索を待つのももう限界や。待てるんは今夜の夜明けまでっちゅうことにしとこか。その時を過ぎたらあたしらの方からその医者のおるところに出向く。それで医者が既に逃げ出しとったり、娘っ子が見付からんかったりしたら、あたしらはとことんまでの強硬策に出させてもらう。それでかまへんな?」
「分かった。いいよ」
 瓜子は答えた。それはどう考えても子供が安請け合いして良いことではなかったが、瓜子が躊躇するはずもなかった。王一郎もここでは口を挟まないようだ。
「絶対に人魚をここに連れて来るもんね。安心して待っててよ、海神さん」
「よっしゃ。ほな任したで」
 そのびゅうびゅうの声を最後に、海神は海の底へと消えていった。



「……すごいな瓜子は」
 思わず呆然としながら、桃太は言った。
「……? 何が?」
「いや……あの大きな龍の怪物を相手に、あんなにしっかりと交渉をしてのけるなんて」
 桃太は心底感心していた。桃太にとって目の前のあの龍の異形はひたすら恐れるだけの存在であり、自身の主張を通したり、有利になるよう交渉したりなど不可能な相手だった。それを自分と同じ歳のこの小さな華奢な少女がやってのけたということは、あまりにも信じがたいことだった。
「……海神は最高位の妖魔だ。品位の高さも相当なものがある」
 王一郎は言った。
「だが高潔で知能の高い存在でもある。怒らせると大変なことになるが気性自体はそう荒くない。しとしとは冷徹な合理主義者の面が強く穏やかに見えて気位も高いが、びゅうびゅうはやや感情的だが公正かつ寛大であることを是とする鷹揚な性格だ。そして両者の意見が衝突する時は、しとしとの方が譲ることが多い」
「他の妖怪と比べると、遥かに話がしやすい相手なんですね」
「その通りだ。輝彦殿はその特性を知り抜いて交渉を仕掛け、人魚を発見すれば向こう十年生贄は取らないなどという、破格の条件を勝ち取って来た。他の妖魔が相手ではそうもいくまい」
 そう言って腕を組み物思いに耽るような表情を浮かべる王一郎。そんな亭主のアタマを引っ叩き、妻は衣類を差し出して「服を着なさい」と一喝した。何を隠そう、この瞬間まで彼は股間を丸出しにしていたのである。
 ドライブはそこで中断となった。何せ明日の夜明けまでに人魚を差し出さねば桃太の父は大変なことになってしまう。どのようにして人魚を確保するか、四人は議論を交わした。
「父さんに事情を説明して、人魚を返してもらうのは?」
 これは桃太の意見だった。「いや」と王一郎は首を横に振る。
「鬼久保軍医殿はここに来て日が浅い。海神は一度約束したことをそうは破らないが、そのことを軍医殿は納得されないだろう。人魚を捕えていることを白状すれば、それだけ自分が不利になると考えるに違いない。そうした性格のお方だ」
 そう言われるとそんな気がした。戦場と言う極限の状況で、父がどのように振舞っていたのかを王一郎は知り抜いている。王一郎の見立ては正しい、と桃太は判断した。
「こっそり人魚を盗み出すのは?」
 瓜子は言った。「それが良い」と王一郎は鷹揚に頷いた。
「軍医殿には事後承諾で十分だろう」
「……本当に事情を説明しなくて大丈夫なんですか?」
 桃太は言う。
「ああ。大丈夫だ。それにはっきり言うと我はあの軍医殿が苦手なのだ。真正面から舌戦を制し人魚を差し出すことを承諾させるなど考えるだけで胃が痛む。ならばこそ泥にて人魚をかどわかし、すべてが終わってから一発ぶん殴られる方が遥かに気楽だと言えるのだ」
 口調こそ偉そうだが言ってることは情けなかった。
「で? いつ盗み出すの? そもそも人魚はどこにあるの?」
 これは瓜子だ。
「いや……人魚がいるとしたら多分地下室だと思う。ぼくはもちろん、一番信頼している看護師長すら入れない秘密の地下室があるんだ。治療の際、そこにぼくを運び込むのを、何人もの患者や看護師が目撃している」
 桃太は言う。「そこで決まりではないか」と王一郎は頷いて。
「では今すぐにそこに向かおうではないか」
「バカねぇ。鬼久保さんは今病院でお仕事中の時間でしょう? 見付かるに決まってるじゃないの?」
 これは瓜子の母の意見だった。
「なら深夜に忍び込もうではないか。家人たる桃太の助けを借りれば簡単だ。そうだな?」
 水を向けられ、桃太は大きな葛藤を飲み込みながら「はい」と答えたのだった。



 その日の深夜、桃太は自室を抜け出して病院の建物の前にいた。
 桃太にとってそれは大変な冒険だった。桃太の家は子供に厳格であり夜遊びなどまず許されることではなかった。しかもその日は王一郎達を伴って父の秘密を暴きに行くのだ。それは桃太にとって明確な悪事であり今も膝が震え続けていた。
 父親の秘密を探り裏切ることに対する後ろめたさはあった。だがしかしそれは他の何よりも父の為だった。父が人魚を捕らえているのが確かなら、今夜中に人魚を海神に返せなければ海神の逆鱗に触れ父は八つ裂きにされることになる。秘密の地下室に侵入するのもその為なのだと桃太は自分に言い聞かせていた。
 やがて自動車の音がした。
 病院の建物の前に止められた自動車から、王一郎と瓜子が顔を出す。
「ふーはははははっ。待たせたな我が弟子よ!」
 桃太は「静かにっ!」とつい叫びそうになったが、師を相手にそんな物言いをするのは咄嗟に堪えた。代わりに瓜子が「お父さんうるさい」と一言窘め、それから桃太に向き直った。
「寒いね桃太。待った?」
「いいやあんまり。時間通りだしね」
 来ていたのは王一郎と瓜子だけだった。王一郎が来るのは当然として、桃太がいなければ病院の建物には入れない。瓜子は来なくても良かったのだが、人魚を一目見て可能ならば涙を入手する為居合わせたいという、彼女のわがままが通った形だった。
「……病院へはこちらから」
 桃太はいったん王一郎達を自宅へと招き寄せると、渡り廊下を通って病院の建物へと侵入を果たした。そこから地下室の扉の前まで来るまではすぐだった。
「ですが……ここの鍵がどうしても手に入らなくて……」
 桃太は俯いて言う。しかし王一郎は「くくくっ」と不敵に微笑んだ後。
「これしきの扉造作もない。見ているが良い」
 そう言うと王一郎は懐に刺した刀に手をやると、瞬きする程の時間もなくそれを抜き放ち、そして懐に戻した。その間僅か一秒未満でありまさに目にもとまらぬ早業と言う他なかった。
 たちまち扉は縦に真っ二つに両断されそれぞれの面が左右に開かれる。そのあまりの秘技に桃太は愕然と師を見詰めた。王一郎はにやにやとした得意げな笑みを浮かべつつ、ちらりちらりと桃太の方を見やっていた。
「お父さん、すごいっ!」
 あまりの凄さに何も言えないでいる桃太の代わりに瓜子が褒めた。王一郎は「そうだろうそうだろう」と呟いては哄笑し、その哄笑のうるささを「お父さん、うるさい」と指摘されていた。
 そのまま三人は並んで地下室へと入る。
 そこには簡易的な手術台といくつかの医療器具が置かれていた。王一郎の地下室と比べると遥かに清潔に保たれておりスペースも広く天井も高かった。そして何より目を引くのが中央の台に置かれた縦長の水槽だった。
 縦に二メートル、横に一メートル少々のその水槽の中には、緑色の魚の下半身を持った金色の髪を持つ美少女が入っていた。その顔立ちはどこかびゅうびゅうとしとしとに似ており娘と言われれば納得が出来た。もっとも両者は母娘というには外見的な年齢の開きが少なく、びゅうびゅうとしとしとは精々二十歳程度なのに対し、この人魚の外見年齢的には十五歳程に見えた。
「これが……人魚」
 瓜子が感動した様子で水槽に近寄った。見たことのない来客に人魚は戸惑った様子でこちらをじっと見つめている。そんな人魚に、瓜子が声を掛けた。
「ねえ人魚さん。わたしを助けて欲しいの」
 人魚は小首を傾げて瓜子を見詰めた。
「この目ね。義眼なの。人から抉られて本当は空っぽなの。これを治したいのと、後もう一つ、それよりもっと大事な理由もあって……。とにかくあなたの涙が欲しいの」
 人魚は変わらず戸惑ったような表情を浮かべていたが、しかし瓜子の真摯な嘆願により水槽から身を乗り出した。水槽の前に置かれた脚立に立った瓜子の開かれた両手に向けて、人魚は涙の雫を落とし始める。
 瓜子がそれを一口飲むと、「わ、わわっ」と言いながら自分の右目を手で覆った。そして覆っていた手を開くとそこには先ほどまではめ込まれていた義眼があった。
 瓜子の右目は完全に修復されていた。義眼が外れたことでただの空洞があるだけのはずのその目には、瓜子自身の確かな右目が復活していた。それは現代の医学を超越した出来事だった。
「わあっ。あ、ありがとう人魚さんっ」
 狂喜した様子で瓜子は己の頭髪を触り始めた。そして「あれ?」と表情を凍り付かせて、「……こっちは変わってない」と小さく呟いた。
「良かったな瓜子」
 そんな娘の仕草にも気づいていない様子で王一郎は言った。
「だが眼球が復活した話は決して村人達にするでないぞ。その目を失ったことで溜飲を下げている村人達も決して少なくはない。義眼がはまっていると言い張り続ければおそらくバレることはないだろう」
「う……うん。そうだね」
 瓜子は視線を反らしながら王一郎に頷いた。
「では手筈通り……この人魚を寝袋に詰め込んで自動車に運ぶ。桃太、手伝うが良い」
「はい……王一郎さん」
 桃太は頷いて王一郎の作業を手伝い始めた。



 水槽の外に出すまでが苦労したが、それを乗り越えれば人魚は存外に大人しかった。
 喋ることは出来なかったがこちらの言葉は理解しているようだった。どこまでも大人しく人間に対し従順で、それでいて瓜子の傷を治してくれたような優しさも兼ね備えていた。そのような性質から、いざ人間に見付かれば捕らえられ良いようにされてしまうのも無理はなかった。「軍医殿はどのようにして人魚を捕らえられたのだろうな?」
 王一郎は帰りの車中でそう口にした。
「あんなに大人しいんだから、簡単に捕まえられるんじゃない?」
「どのようにして見付け出したのかが問題なのだ。それに、大人しいと言ってもそれは陸上での話。水中での人魚はどんな魚よりも素早く泳ぎまわる。捕らえることは熟練の漁師でも並大抵のことではない。余程大人数でなければ捕獲はできないはずなのだが……」
「このまま海神様のいる海の祠まで向かうんですか?」
 桃太は尋ねた。それであらゆる問題が一度に解決するはずだった。父文明は海神の怒りを免れ村は向こう十年間の生贄を必要としなくなる。王一郎は村を救った英雄となり、それに加わり父を手助けしたということで瓜子の名誉も幾ばくか回復することだろう。
「いいや。その前に一度我が家の地下室に運ぶ」
 王一郎は言った。
「どうしてそんなことを?」
「天野輝彦殿を自宅に呼んである。もし人魚を見付けたら自分達で祠に返したりはせず、一度村民会を通せというのがお達しでな。まあ同じ海神に人魚を返還するにしろ、きっちりと村長なりその代理となるものの手を通すのが作法というか、海神に約束を守らせる上でも大切なことなのだ」
 それはおそらく、大人の世界では良くある手続きの問題なのだろう。桃太は納得した。
「良かったね瓜子」
 桃太は助手席に座る瓜子に声を掛けた。
「……うん」
 しかし瓜子の表情は浮かないままだった。桃太は先程からの瓜子のこの表情が気がかりだった。あれほど悲願としていた眼球の復活を果たしたのならもっと手放しで喜んでも良いはずだった。いったい何が瓜子を落胆させているのか、桃太の推理は及ばなかった。
 やがて王一郎の自宅へと帰りつくと、三人で地下室へ移動し人魚を寝袋から出した。
 見れば見る程美しい人魚だった。桃太は思わず目を見張る。流れるような金色の長髪は絹のようで良く通った鼻筋や微かに朱の刺した白い頬は、西洋人または混血児のそれだった。大きなサファイア色の瞳は海のように深く美しかった。
「これが……あの大きな青龍になるんですね。しかも双頭の」
 桃太は言った。髪と目の色はびゅうびゅうと同じだから、将来はやはりあのような姿に成長するのかもしれない。しかしどうしてびゅうびゅうとしとしとが、二つの頭を持つ一匹の青龍であるのかは不思議だった。
「……龍族には首を複数持つ個体もいる。伝説には、八つの頭を持つ龍が、豪傑英雄により討伐されたというものもある」
 王一郎は言った。
「……そうなんですか」
「ああ。もっとも伝説はあくまでも伝説だがな」
「どうしてアタマが複数に?」
「青龍の一族は肉体がいくら損壊しても瞬く間に再生可能であるという特徴を持つ。そこで問題だ。頭部のみに縦に真っ二つに切り込みを入れられた青龍は、果たしてどうなると思う?」
「……え? それはえっと……切り込みを入れられたことで二つに分かれたアタマが個別に再生して……あっ」
「そういうことだ」
 王一郎は腕を組んで何度も頷いた。
「だがその際魂までは二つに分裂しなかったのだろう。元々あった魂はびゅうびゅうの方に宿り、もう片方のアタマには新たにしとしとという魂が宿った。両者は対等に尊重しあう関係ではあるが、時にしとしとの方がびゅうびゅうに遠慮するところがあるのには、そうした序列関係あってのものかもしれない」
「なるほど……」
 そんな話をしていると、やがて地下室の扉が開かれ輝彦が降りて来た。
「……討魔師殿」
「おおっ。来たか輝彦殿!」
 王一郎は待ち焦がれたとばかりの表情で顔を上げた。
「見るが良い! この通り人魚を確保したのだ! これを海神に返還すれば向こう十年、村は生贄問題から解放される! その十年の間に必ずや我が鬼の頭領を仕留めて見せよう! そうなれば村は妖魔の恐怖から解き放たれ人口の低下にも必ず歯止めが……」
 輝彦は懐から複数の札束を取り出して、王一郎に差し出した。
 桃太は目を疑った。それは希少な一万円札の束だった。金持ちの子である桃太でさえたった一枚でも手を触れられることは稀であるのに、それが三束も王一郎の前に差し出されている。それは異様な光景だった。
「……輝彦殿?」
 王一郎は胡乱そうな視線を輝彦に向けた。
「これはどういう意味だ? 何の冗談だ?」
「冗談ではありません」
 輝彦は深刻な表情で王一郎を見詰めた。
「……海神への釈明はこちらで考えます。あなた方に危険が及ぶようなことがないよう上手く交渉します。私がすべての責任を負いますので……どうか人魚をこちらに引き渡してくれませんか? そしてすべてを黙っていて欲しいのです」
「何故だ!」
 王一郎は拳を握りしめて言った。
「この人魚を返還せねば十名の母親が我が子を失い、十人の赤子が食われるのだぞ!」
「分かっています」
「貴様それでも時期村長か! 我は賄賂になど屈さぬ!」
「これでは不足というのなら、もう三束までなら用意できますが」
「くどい!」
 王一郎は怒り狂った口調で叫ぶ。
「何故だ! 貴様何故人魚を欲する? 村民たちを生贄の恐怖から解放し、村の未来を守るという大義を見失う程、貴様は何のために人魚を求めているのだ? 言って見ろ!」
「……愛する者の為」
「は?」
「交渉は決裂した。……鈴鹿、降りて来てくれ」
 そう言うと、王一郎達のいる地下室の扉が再び開かれ、二つの人影と三つの異形が姿を現した。
 二つの人影の内の一つは桃太の父文明だった。怒りを堪えるような表情でじっと桃太の方を睨んでいる。桃太はついすくみ上りそうになりつつも、どうにかその顔を見返した。
「桃太。貴様何をしている」
「そっちこそ。どうしてここにいるんだ、父さん?」
 もう一つの影はいつか病院で見た、輝彦と連れ立って歩いていた背の高い女性だった。その身の丈は二メートルを上回り頭には何かを隠すように帽子被り、鼻先より上にはやはり何かを隠すように包帯を巻いていた。口元だけしか見えないがその顔が美しい女性であることは疑いようもない。
 そしてその二人を守るようにして取り囲むのは……三匹のオスの鬼達だった。
 何故輝彦が鬼を従え、そしてその輪の中に父文明が混ざっているのか、桃太の混乱は止まらなかった。鬼達の身の丈は三メートルを上回り、地下室の天井にアタマを擦り着けないぎりぎりだった。肌の色は皆青白く眼球の数はそれぞれ一つ、三つ、そして数えきれない程無数と言った具合だった。彼らは従者のように女性の背後に回り、王一郎の方に鋭い、油断のない視線を送っていた。
「坊や」
 女性は言った。
「久しぶりですね。約束は守っていてくれたようで、そのことは感謝します。でもね、その人魚はあなた達には渡せないの」
「鈴鹿。そこの討魔師は腕利きだ。その三人で勝てるかな?」
 輝彦は心配そうに背の高い女性に尋ねた。
「何とかやってみましょう。いいですね、おまえ達」
「はっ。鈴鹿殿」
 鬼達は声を揃えて言った。桃太は『鈴鹿』という名前に聞き覚えがあった。それが何なのか記憶から引っ張り出す前に、地下室の最奥の牢から「鈴鹿殿!」という声が発せられた。
「十兵衛」
 鈴鹿と呼ばれた女性は小首を傾げた。
「鈴鹿殿! ああ! お会いしとうございました! 鈴鹿殿」
「こんなところに囚われていたのですね、十兵衛」
「ええ。山の麓を歩いていたところ討魔師相手にしくじりました。それにしても、鈴鹿殿。どうしてそう小さくなっておいでで? それではまるで『人間病』ではないですか?」
「まさにその人間病にかかったのです。十兵衛」
 鈴鹿は無念がるような口調で言った。
「鬼が人間に戻ってしまう、鬼にとって最も忌むべき病……。それを治す為、万病を治癒する力を持つ人魚の涙が私には……我々鬼社会には必要なのです。そちらの鬼久保先生に人魚を預けて置けば、必ずや人間病に効く薬を開発してくれるに違いありません」
「愚かな!」
 王一郎は叫び、輝彦を、そして桃太の父・文明を睨み付けた。
「鬼に魂を売ったな! この人間のクズ共め!」
「なんとでも言うが良い」
 輝彦は鋭い目をして言った。
「しかし討魔師殿。あなたなら分かるのではないか? 人間も鬼も妖怪も、すべて同じ心を持ち、血の通った尊い魂であるのだと。そのことを互いに理解し相互に尊重することこそが、この妖怪と人の交わる山奥の田舎町で生きる一番の術であるのだと」
「人を食う鬼と分かり合うことなどできるものか!」
 王一郎は叫んだ。
「なるほど鬼共が人を食うのはあくまでも生きる為だろう! それは我々が家畜にしていることと同じだ。しかし我々は我々の村の人間を誰一人として鬼に食わせたりはせん! そこで利害が対立している。ならば自分の都合を押し通せるのはどちらかだけ。両者の意思は永遠に交じり合うことはない!」
「しかし私は鈴鹿に惚れたのだ!」
 輝彦は強い意思を持った声で言い放った。
「知るか! 貴様村民を庇護する立場にある村長の息子であろうが! それが鬼の娘に肩入れするが為に、海神の子を浚うなど言語道断!」
「誰が好き好んで村長の息子になど生まれたかったか! だが私は愛に殉じ愛の為に戦う! その為に有利なら喜んで村長の地位を引き継ごう! 不都合ならば討魔師殿、貴様のことも抹殺するのみだ!」
 輝彦は王一郎に指先を突き付けた。
「殺せ!」
 その声を合図に、鬼達は一斉に王一郎に飛び掛かった。



 王一郎は刀を構え、鬼達と対峙する。
 殺気立って王一郎に突進する鬼達の様子に桃太は恐怖を覚えた。しかしそれはあくまでも生理的な恐怖に過ぎなかった。戦いがどう展開しても王一郎が殺されるとは露程も思っておらず、腹をくくって見守ってさえいれば、どちらが倒れ伏すことになるのかは明らかに思えた。
 実際王一郎の身のこなしは凄まじかった。鬼が伸ばした鋼の爪を帯びた手を王一郎は容易く掻い潜り、鬼の側面に回ってはあっけなく首を跳ね飛ばした。迸る血潮が地下室の天井を濡らし、付着した血液がぽたぽたと床へと垂れ落ちた。
 仲間の一人が絶命したことで鬼達ははっきりと動揺した。それを見て取った王一郎が次なる獲物に狙いを定め飛び掛かる。それをしっかりと迎え撃ったのは流石は戦鬼と言ったところだったが、しかし鬼が殴りかかろうと手を振り上げる頃には、その胴体を王一郎の刃が両断していた。
「雑魚めが」
 王一郎は鼻を鳴らして刀を構え直した。残ったのは一つ目の鬼だけだった。その最後の一匹は既に王一郎に恐れを成しており、震えあがりながら一歩ずつ後退りをするだけだった。王一郎は油断なく一歩ずつ距離を詰め、確実に首を跳ねようと間合いを伺っていた。
「待ってください」
 鈴鹿の声がした。
「もう決着はつきました。降参です。これ以上同胞を殺さないでください」
「悪鬼にかける情けなどあるものか!」
 王一郎は吠え、鈴鹿を睨み付けた。
「討魔師殿! 戦意を失い、両手を挙げた相手を切り飛ばすのが正義か! 」
 輝彦が口を挟む。「黙れ黙れ!」と王一郎は首を横に振り。
「そもそもこれは掲げ合う目的を折衝する為の戦いではない! 討魔師による鬼の駆除だ! そこに投了の有無、命乞いの有無など関係がない! 殺す為に殺すのみなのだ!」
 王一郎は怯える鬼に向けて刃を突き付ける。
「投了したというのなら首を差し出せ! せめて苦しませずにあの世に送ってやる!」
 鬼は怯えてすくみ上るばかりでその場を動けそうにない。桃太には無敵のように思えた巨躯の鬼が、戦意を失って恐怖にむせび泣くその様に桃太は戦慄した。王一郎の強さは知っていたが、改めて戦う姿を目の当たりにすると全身が震えるものがある。
 王一郎は一瞬にして三匹の鬼を制圧してのけた。本当にこの人は強い、強すぎるのだ。
「……もういいんじゃない? お父さん」
 そこで瓜子が口を出した。
「降参したんだったら山に返してあげたら良いでしょ? そりゃ先に殺しに来たのは向こうだけどさ。命を取る意味ってそんなないでしょ?」
 そう言われ、王一郎は全身にみなぎっていた鬼よりも鬼のような闘気を微かに緩める。
「しかし娘よ。殺しに来ておいて、叶わぬと見たら『手を引かせてくれ』は、都合が良いというものではないか? それに鬼を一匹でも殺しておくことは、今後村が自由を勝ち取る為に有益なことだ。ここで情けを掛けたばかりに、助けた鬼が村人を殺めるということもあり得る」
「でも」
「娘よ。分かってくれ。これも討魔師の宿命なのだ」
 竦み上がる鬼に向けて王一郎は刀を持って一歩を踏み出す。その時だった。
「春雨!」
 鈴鹿が叫ぶと突き付けた指先から桜の花びらのような破片を飛ばした。それはまさに魔法としか言いようのない現象であり、桃色の花びらは意思を持ったかのように王一郎に向けて飛び掛かって行く。
「妖術を使うか! 流石は頭領鬼だな!」
 王一郎は身を翻すと、鬼の一撃共々それらを回避する。桜の花びらは見えない風に吹かれているかのように、滑らかな動きで王一郎を追尾して向かっていく。
「カミソリの切れ味を持つ花弁の群れ! とくと味わいなさい」
 言いながら、鈴鹿は激しい咳をしてその場に蹲った。術を使って消耗したのかもしれない。輝彦がそこに駆け寄って肩を抱き、崩れ落ちそうになる身を支える。『人間病』とやらにかかり明らかに他の鬼よりも背の低い鈴鹿には、本来こうした術を使う体力は残されていないのかもしれなかった。
 しかしその最後の力を振り絞った妖術も、王一郎は容易く対応して見せた。カミソリの切れ味を持つという桜の花弁を、一枚一枚丁寧に、そして目にも止まらぬ速さで切り裂き、粉々にして床へと舞わせた。
 こうなると、最早一つ目の鬼を守る者など何もない。
 とうとう背を向けてその場を逃げ出した鬼にも、王一郎は容赦をしなかった。一瞬にしてその背後まで距離を詰めると、ただの一撃であっけなく首を落とした。弾き飛ばされた首は壁へ床へと跳弾し、最後には桃太の足元へと鈍い音を立てながら転がった。
 鬼の虚ろな、それでいて怖気を振うような形相が、まだ生きているかのように桃太の方へと向けられる。桃太は恐怖して思わず目を反らした。
 しかし目を反らした先にあったのは鬼の亡骸とそこから夥しく流れる血液だった。既に地下室の床は血の海と化しており、赤く染まっていない場所を探す方が難しかった。新鮮な血と臓物の臭いからは生命力のようなものも感じさせられたが、しかしそれらが生きた生物が発さない物であることも事実だった。
 その血の海の中央で、それを作り出した殺戮の王者が哄笑をあげていた。全身が返り血に塗れながら、身体を動かして爽快だとばかりの顔で高笑いを続けるその姿に、桃太はどこか相容れないものを感じさせられる。
 神妙な顔で黙りこくっているのならもちろん理解できるし、殺しの愉悦に屈折した興奮を放っているのでも、もしかしたら理解できるかもしれない。だが王一郎のその姿はあくまでもいつも通りで、いつも通りに狂っていた。
「……化け物め」
 鈴鹿を支えながら、輝彦が忌まわし気な表情で言った。
「それは貴様が抱いているその女の方だ」
 王一郎は上手いこと言ってやったとばかりの笑みを浮かべながら、刀を構えつつ一歩ずつ鈴鹿に近付いていく。
「やめろ」
 輝彦が王一郎の前に立ちはだかる。
「どけ」
「嫌だ。鈴鹿を殺すなら、まず私を殺してからにしろ」
「そうしてやっても良いのだぞ?」
 王一郎は刀を輝彦に向けた。
「討魔師は人間を殺さない。しかしその職務を妨害しようとするなら例外もある。何よりも、貴様は村民を率いる身分でありながら鬼に魂を売った。万死に値してもおかしくはない」
 脅しをかけるように告げる王一郎に、輝彦は一歩も引かなかった。両手を広げ、歯を食いしばりながら、王一郎の進軍を妨げている。武器一つ、戦う術一つ持たないまま。
 しばし沈黙の時が流れた。額に汗を流し鈴鹿を守る為に立ちはだかる輝彦の覚悟には、流石の王一郎も手を焼くらしかった。人間を殺したくないというのは偽らざる本心なのだろう。人情と職責の間で葛藤している様が見て取れる。
「……輝彦くん」
 口を開いたのは桃太の父、文明だった。
「やめておけ。その男は鬼よりも鬼だ。いよいよ痺れを切らしたら、相手が誰であろうと容赦はしない。そうやって民間人を手に掛ける姿を、俺は戦場で何度も目にして来た」
「鬼久保先生……しかし」
「この男はすべてを明らかにするだろう。破滅だ。恋人だって失う。しかし、君はまだ若く能力もある。命を繋げば今後成し遂げられることもあるだろう。恋人だってそれを望むはずだ」
「しかし」
「春雨」
 鈴鹿は手を伸ばし、指を突き付けて呟くように口にする。
 しかし、その指先からは最早何も出てこなかった。
「……は、無駄でしょうね。あなたは既にそれを完全に見切ってしまっている」
「潔いな。鬼の頭領よ」
 王一郎は油断なく刀を構えながら言った。
「私が首を差し出せば、輝彦殿は傷付けませんか?」
「そのつもりでいる。社会的な罰則はあるだろうが、それに関しては我の関知するところではない」
「海神の怒りには触れませんか?」
「人魚さえ戻るなら咎めはしないと言っていた。討魔師として、約束は守らせて見せよう」
「ならば首を跳ねてください」
 鈴鹿は立ち上がり、王一郎に首を差し出した。
「鈴鹿! やめろ!」
「良いのです。輝彦殿、あなたには今まで本当に良くしていただきました」
 鈴鹿は口元にはかなげな笑みを作る。瞳を覆い隠す包帯の隙間から、涙があふれ出していた。
「人間病にかかって弱くなった私が土蜘蛛にケガを負わされた時、あなたは私を屋敷に連れて行き介抱してくれた。そこであなたの優しさに触れ、心通じ合っていく時間は幸せでした。私の人間病を治す為、村をあげて人魚を見付け出してくださった時は本当に嬉しかった」
「なるほど。それで鬼久保軍医殿を巻き込んで人間病の治療薬など作ろうとした訳か」
 王一郎は言う。
「ええ。集落には私の力がまだ必要でしたから。人間に戻る訳には行かなかったのです」
「だろうな。統率力のある貴様さえいなくなれば、鬼の集落を滅する難度は格段に落ちる」
「あなたは集落を滅ぼすつもりなのですか?」
「討魔師ならば当然のことだ」
「容赦はしないのですね」
「悪鬼にかける情けなどない」
「そう。でも、皮肉なことね」
 鈴鹿はそこで嘲るような笑みを浮かべた。
「そんな鬼に容赦のない討魔師の一人娘が、鬼になろうとしているのだから」
 その言葉に、皆の視線が鈴鹿の方から瓜子の方へと一斉に動く。
 瓜子はあくまでも澄ました顔をしていた。無表情のまま皆の視線を受け止めて、そして小首を傾げて見せる。
「なんか意味の分かんないこと言ってる」
「ごめんなさいね。瓜子さんと言ったのかしら? あなたも鬼の仲間に加えてあげたかった。でもそれ以上に、私はこの討魔師が憎いのよ。少しでも苦しめてからあの世に逝きたい」
「……戯言を」
 そう吐き捨てて、王一郎は刀を構えた。
「ならばこちらも冥土の土産をくれてやる。貴様らは人魚の涙を用いて人間病の薬を作ろうとしたが、しかし貴様ら鬼にとって人間に戻ることは病ではない。鬼化こそが人の病だからだ。つまり貴様は集落での暮らしに満足して憑き物が落ち、鬼化という病が治っていたというだけだ。万病を治す人魚の涙と言えども、これはどうしようもない」
 そう言い終えた後、鈴鹿の表情が捻じ曲がるのを待ってから、王一郎はその首を跳ね飛ばす。
 あっけなかった。吹き飛んでそこらに転がった鈴鹿の首に、輝彦が縋り付いて泣きじゃくり始めた。
 その王一郎の行いは常軌を逸していた。相手の嫌がる事実を殺す前にわざわざ聞かせ、それに相手が絶望したのを見届けた後に首を跳ね飛ばす。情け容赦がないだけではない、死にゆく相手を明確に憎んでいなければしない行いだった。
 それほどまでに、瓜子を鬼と呼ばわった鈴鹿のことが、王一郎の気に障ったのだろう。娘を溺愛し、妖魔を憎む王一郎にとって、それが逆鱗に触れることだったのは間違いはない。
「さて瓜子。鈴鹿の戯言を確認しておこう」
 言いながら、王一郎は瓜子の方へ近づいていく。
「アタマを見せなさい」
「なんで?」
「鬼になりかけているのなら、角が生えかけているのなら、目視で確認できる。見せるのだ」
「鬼の言うことを信じるの?」
「信じていない。死者の戯言を笑い飛ばす為にそうするだけだ」
「やなんだけど」
「何故だ?」
「なんか恥ずかしいし」
「我慢せよ。これは確認だ」
「だからやだって」
「くどい!」
 王一郎は強く一喝した。
 娘にはとにかく甘い王一郎に、それは珍しい行いだった。瓜子も驚いたのだろう。目を見開いて硬直し、父の方をぱちくりと見詰めることしかできないでいた。
 王一郎はそんな瓜子の頭に手を伸ばす。瓜子は嫌がって両手で頭を覆ったが、王一郎のバカ力はそれを強引に開かせてしまう。
「やめて! お父さんのエッチ!」
 王一郎は容赦をしない。瓜子の長い黒髪をかき上げ、持ち上げ、その頭皮を衆目に晒す。
 そこには小さな……しかしはっきりとした二本の角が生えていた。



 王一郎は絶句した。その場にいた全員が絶句した。
「……あーあー」
 王一郎から介抱され、かき乱された髪を治しながら、瓜子は他人事のように言った。
「ずーっと黙ってたのにな。もうすぐ髪じゃ隠せなくなるところだったから、どの道だったかもしれないけどさ」
 桃太は驚愕しつつも、どこか納得するようなものを感じていた。
 この村に越して来たその日、川原で出会ったその時から、瓜子には自身の頭部を気にするように触る癖があった。人魚の涙を飲んで片目を治療した時も、目的を完遂した悦びのようなものは感じられなかった。おそらく瓜子は鬼になって行く自分を感じ取り、それを恐れるがあまり人魚を追い求めていたのだ。
 十兵衛は言っていた。周囲からの悪意や憎悪がその人間の内部に蓄積し、それによって人は鬼へと変えられると。この村で瓜子程多くの人の悪意に晒される人間はいなかった。瓜子はいつもぴんぴんしたように笑っていたが、内心では多くの悲しみを抱え込んでいたに違いなかった。
「……娘よ。なんということだ……」
 王一郎は愕然とした様子で視線を落とし、歯を噛みしめながら肩を震わせた。
「いやお父さん。そんな深刻になんないで欲しいなって」
 瓜子は言う。
「だってさ。ここに人魚がいるでしょ? 鬼化って人間にとっての病気なんでしょ? だったら人魚の涙を使えばわたし完全な人間に戻れるんじゃなあい?」
「……戻れる可能性はあるだろうな。人魚の涙を毎日少しずつ、何か月も何年もかけて接種し続ければ」
 王一郎は視線を俯けた。
「鬼化とは複雑怪奇な病だ。人魚の涙を用いても一時押しとどめることしかできん。だがそうやって進行を防いでいる最中に、多くの人々から適切な愛情を受け幸福を実感し続ければ、やがて鬼化は停止し頭部の角が引っ込んでいくということはあり得る」
「そ、そうだっ。瓜子は人間に戻れるはずだ」
 桃太は強く訴えた。
「父さん! 父さんなら何とかできるんじゃない?」
「……人魚の涙は俺の最大の研究テーマだ。どうにかしようではないか」
 父・文明は言う。
「東京に再就職先を求めた後も、俺は輝彦殿から人魚の涙を輸送してもらい、それを用いて万能薬の開発に努めるつもりだった。それを開発し学会に発表すれば、医者としての俺の地位は上昇し以前の職場にも戻れるはずだった」
 文明は王一郎の方を向いた。
「因准尉よ。利害は一致している。俺に人魚を預けて見ないか?」
「聡明な軍医殿のお言葉とは思えないな」
 王一郎は瓜子に近付き、そして刀を構えた。
「娘よ。我はおまえの父として……。いや。かけてやれる言葉などない」
「お父さん。何を……」
「せめて安らかに、人である内に眠れ」
 王一郎の刃が瓜子の心臓を貫いた。
 桃太は今日一番強く驚愕した。瓜子の心臓に王一郎の刀が貫通した状態で突き刺さっていた。娘を刺したショックに、王一郎がたまらずと言った様子で刃を手放すと、突き刺さったままの日本刀が瓜子の胸で揺れた。
「お父……さん?」
 自分の胸から露出した父の刃を見て、瓜子は信じられないような表情を浮かべ、そして血を吐いた。
「なんで?」
 瓜子の肉体は真正面から倒れ伏す。背中から生えた王一郎の刃を中心に、夥しい血液が瓜子の全身を染め上げていた。
「う、瓜子っ!」
 焦燥で桃太は瓜子に取りすがった。「瓜子っ、瓜子っ」と泣き叫びながら体を抱いてみるが、瓜子の華奢な全身からは血と体温が失われるばかりで一向に返事をしそうにない。心臓を貫かれて絶命して行く親友の姿を、桃太は涙を流しながらただ見詰めることしかできなかった。
 桃太は絶望した。瓜子はもう二度と自分の前で笑わない。自分の手を握らないし自分と言葉を交わすことはない。その命と存在は永久にこの世から失われ、桃太の前に戻ることは二度とないのだ。
「……鬼だな」
 言ったのは、地下室の奥の牢の中で、事態を見守っていた十兵衛だった。
「その子に鬼化が始まっているのは気配でなんとなく分かったが……だとしても娘を殺すか? 普通?」
「そうだ因准尉! 何を考えている! その子を助ける方法はあったはずだろう!」
 文明が叫んだ。王一郎は視線をかつての上官から反らしながら、様々な感情を堪えるような声でこう言った。
「娘を鬼にする訳にはいかない。ここで死ぬのと鬼として生きるのと、どちらが瓜子にとって幸福だったのかは我には分からぬ。……しかし我は宿命の討魔師なのだ。これまでも、そしてこの瞬間も」
「だから、助けられただろうと言っているんだ! 人魚の涙を使い、時間をかけてでも治療をすれば!」
「それができるならどんなに良かったことか!」
 王一郎は、誰よりもその心が引き裂かれつつあるのが分かるかのような、悲痛の叫びをあげた。
「海神は人間が人魚を捕らえていることを察していた! 人魚を捕え続ければ、海神の逆鱗に触れることになっただろう! そうなればこの村はもう終わりだ! 討魔師としての宿命を捨て、村を守る責務を放棄して、娘一人を救うことが何故できよう!」
 血の涙を流さんばかりのその声に、誰も口を挟むことができなかった。王一郎は自分の刀の突きささった瓜子を見詰めた後、その場にしゃがみ込みたいのを堪えるかのように背を向けた。
「最早この子は我を父とは認めぬだろう。ただ我の行いへの不理解と、憎悪の念で一杯だろう。化けて出るのなら、霊となって我を取り殺すのなら、そうするが良い。そうしてもらえた方がどれだけ楽か」
 刀を引き抜くこともせず、王一郎はその場で呆然と事態を見守っていた人魚を寝袋に詰め直し、それを担いで地下室の出口へ向かい始めた。そして扉を開けて外に出て、おそらくは海神のところへ向けて、桃太の前から消えていった。
「……娘を手に掛けるというのに、なんという決断の早い男だ。それが正しいことなのだとしても、俺は奴のことが理解できない」
 文明は恐れを成したかのように言った。
「だがさしもの『首狩り』も、自分の娘の首を跳ねる気にはならなかったようだな。心臓を貫いて殺したのはその為か」
 瓜子を抱きしめ続ける桃太に近付き、文明は慰めるような声を出した。
「桃太。お友達は丁寧に埋葬しよう。父親に殺されたその哀れな娘っ子の葬式を、俺達で盛大に上げてやろう」
「父さん……ぼくは……」
 王一郎が憎い。そう思った。彼のやることの全てが間違っているとは思わないが、それでも自分から瓜子を奪ったという事実は桃太に激しい憎しみを齎した。
 本当は分かっている。今もっとも悲しみに心をひび割れさせているのは、娘を手に掛けざるを得なかった王一郎の方だろう。しかしだとすれば王一郎は、討魔師の立場も村のことも金繰り捨てて、父親として娘を守る選択をすれば良かったのではないか?
 それが出来ないというのなら、それが職責であり大人であるということなのなら、桃太は大人になんてなりたくない。ただ瓜子と野山を駆け巡り笑いあった子供時代を、永遠に生き続けていたかった。それを奪ったのが王一郎という大人なのなら、桃太はそれを心の底から軽蔑し憎悪した。
 ……その時だった。
 瓜子の身体がもぞもぞと動き出した。
 桃太は最初、何が起こっているのか分からなかった。桃太の腕の中で震えるように動き出した瓜子は、捻じ曲げていた首を据えて、そのまつ毛の長い大きな目を開ける。そして桃太の方を見て、血まみれになった顔で言った。
「……泣いてるの?」
 驚愕と共に訪れたのは歓喜だった。瓜子は自分の胸に王一郎の刀が刺さりっぱなしなのを確認すると、「お父さんのだ」と悲し気な声で言ってから、それを引き抜こうと手を振れた。
「い……痛い。ぬ、抜こうとすると痛い」
「待てっ。下手なことをするな」
 文明が駆け寄り、そして傷口を診察するように注視する。
「……おかしい。確かに心臓を貫いている。だというのにこうして生きて、喋れるというのは理屈に合わない。医学を超えている」
「生きてるんだから何でも良いじゃん!」
 両手をあげてそう言い放つと、瓜子はその場を立ち上がって尚も刀を引き抜こうとし始める。
「待てっ。どう考えても刃の方から押すのは非効率的だ! 束の方を持って引き抜いた方が良い。手伝え桃太」
「え、でも父さん。こういう時刺さってるものを抜くのは血が出て危険なんじゃ……」
「最早そういう次元の話ではない! 良いから手伝え!」
 父の声に従い、桃太は瓜子の背中から刃を引き抜いた。
 自由の身になった瓜子は、血まみれになった白いワンピースをめくりあげ、傷口の状態を文明に見せた。血塗れの白い肌を診察し終えた文明は、「……塞がっている」と信じがたいものを見たようなように声を震わせた。
「やったーっ。お父さんに殺されたと思ったけど、生きてるーっ!」
 屈託のない、満面の笑みを浮かべて、瓜子は両手をあげてはしゃぎ回った。
「き、貴様驚かんのか? どう考えても貴様は死んでいたというのに」
「そりゃ不思議に決まってるよ。でも自分が生きてたのと比べたら、そんなのどうでも良いもんねっ」
 いつもの瓜子だった。「やったやった」と桃太の両手を握って飛び跳ねる瓜子に、桃太は先程とは別の涙を流していた。瓜子が生きかえって本当に良かった。それだけで世界は暖かく明かる色合いを取り戻し、全身は幸福に打ち震えた。
「きっと人魚の涙の効果だよ」
 桃太は言った。
「死にかけのぼくを蘇生させたのも、その人魚の涙なんだよね? 瓜子はここに来る直前、人魚の涙を摂取していたんだ。その効果がきっと残っていたんだよ」
「……確かに。人魚の涙を摂取した者は、あらゆる外傷が治癒するが……」
 文明は眉をひそめた。
「摂取した時の外傷を治すだけでなく、摂取後当分の間外傷に対し無敵となるような効果さえ、人魚の涙は持っているらしい。妖怪の持つ力というのは本当にすさまじいものがあるな。しかし王一郎もらしくない。人魚の涙の効力を侮っていたか」
 その通りだった。王一郎は瓜子が人魚の涙を飲んだことを知っていたはずだ。であれば瓜子を殺害しようとしても蘇生する可能性には思い至ってもおかしくないはずで、そこは妖怪に対して深い知識を持つ討魔師らしからぬ失態と言える。
「まあ言ってもあの人、結構おっちょこちょいだから。戦時中にゲリラの拷問にあってばかになったの。昔は賢かったそうなのにね」
 瓜子は言う。「いいや」とそこで文明が首を横に振った。
「不覚を取りやすいのは軍隊にいた時からそうだったぞ? 勇猛さと剣の腕は誰からも認められていたが、良く寝坊などして上官にぶん殴られていた。一騎当千の実力を持ちながらゲリラに捕まったのはその為だ」
「……というかわたし。お父さんに殺されかけたんだよね」
 そこで瓜子は暗い表情を浮かべて俯いた。
「どうして殺そうとしたのかは理解できるよ。大嫌いな妖怪にわたしがなるのが嫌だったんだね。それは分かるけど……でも、それでもわたし、とっても悲しいな」
 言いながら、瓜子は自分の顔に両手をやりながらぼたぼたと涙を流し始めた。父に命を奪われかけた、いや一度は奪われたのだという事実を改めて実感したものらしかった。そんな瓜子が哀れで仕方なくなり、桃太はその肉体を強く抱きしめた。
 しばらくそうしていて……桃太はふと、今しかできないことがあることを思い出した。
 桃太は瓜子の肩を抱きながら立ち上がると、父親の方を向いて言った。
「……ねえ父さん。ここへはどうやって来たの?」
「なんだ桃太? ……家の車だが? 夜中に突然輝彦殿から、人魚を因から取り返すから一緒に来いと言われてな。それぞれの車でこの地下室の前まで来たのだ」
「そうか。じゃあ……王一郎さんをそれで追い掛けることはできるね?」
「なんだと?」
 文明は目を見開いた。
「今から因を追いかけて……どうするというのだ?」
「人魚を取り返すんだ」
 桃太は言う。王一郎は息を飲み込んだ。
「……ぼくは元々、父さんを海神に処刑させない為に、人魚を海神に返すつもりでいた。でも、もう事情は変わった。ぼくは瓜子を人間に留める為に、今から人魚を奪いに行きたい」
「身勝手な。あの『鬼狩り』から人魚を奪い返すだと? 無茶を言うな」
「でもね父さん。人魚がないと困るのは父さんも一緒でしょう? 人魚を研究して万能薬を作り出せれば、その研究結果を引っ提げて元いた病院に戻れるんでしょう? その為に人魚を取り返したくはない?」
「しかし……」
「父さん頼む。ぼくは瓜子が好きなんだ。好きな女の子を助ける為に、父さんの力を借りなくちゃいけない。お願い!」
 そう言って深く頭を下げる桃太を、文明はじっと見詰め続ける。
 瓜子はぱちくりと桃太を見詰めていた。眉間に皺を寄せる文明は、ふと優しい表情を作ると、桃太の頭に手をやってこう口にした。
「分かった。男になれ、桃太」
 言って、床に転がっていた王一郎の愛刀、『首狩泡影』を桃太に手渡す。
「これはおまえが持ちなさい。因に教わって、少しは強くなったんだろう? いざとなったら、これを持ち主に突きさしてやれ」
「ありがとう。父さん」
 父から刀と心意気を受け取った桃太は、決意を込めた声でそう返事をした。



「王一郎さんの運転技術はへたっぴだ。父さんならば追い付けるよ」
「……ん。分かった」
 文明は力強くエンジンを踏み込んだ。瓜子と共に後部座席に乗り込んだ桃太は、緊張を伴いながら、移動する夜の景色を見詰めていた。
 ここから海までの道はほぼ一本しかない。昼間海に行った時も王一郎はこのルートを使っていたから、文明がぶっ飛ばせば追い付くことはどうにかなるはずだった。桃太は来る決戦に備えて心臓を高鳴らせていた。
「桃太」
 その時、瓜子の普段通りのフラットな、捉えようによってはお気楽な声が響いた。
「なあに瓜子?」
「さっき、わたしのこと好きって言ってなかった?」
 桃太は思わず吹き出しそうになった。そして今日一番の戦慄を覚えながら瓜子の方を見ると、瓜子はニコニコと幸せそうな表情で桃太を見詰めていた。
「いやあ。でも良かったよ。ちゃんと言ってもらえて。それをいつ言ってくれるのか、そもそも言ってくれるのか、わたしずっとひやひやしてたもんね」
「そ……そう」
 桃太はつい赤面をして俯いた。
「わたしも桃太が好き。桃太が都会に帰っちゃった後もずーっと。大人になるまで二度と会えないのだとしても、それでもずっとずっと好きでいる。また一緒に会えるまで、必ずね」
 そう言われると桃太はますますの赤面を禁じ得ない。最強の師であり無敵の討魔師である王一郎との決戦を間近に控えているというのに、今はただ瓜子の言葉に胸を高鳴らせ、その一挙一動に魂を揺さぶられ続けるしかなかった。それは類まれなる幸福な体験でもあった。
「……おまえ達。それは今する話じゃないだろう?」
 文明が呆れたように言った。
「こういうのにはムードやシチュエーションというものがある。俺が母さんにプロポーズをした時なんかはな、一から十まですべて綿密に計画してからだな」
「だからっ。今する話じゃないでしょそれ」
 桃太は顔を覆いながら父に抗議した。
「別にいつでも良いでしょそんなの。今したいってわたしが思ったらそれはその時なの。ねっ、桃太もずっとわたしが好き?」
「好きだよ」
 桃太は答えた。それは都会に帰った後何があったとしても変わらないに違いなかった。自信があるとかないとかではない。それは客観的で普遍的な確信だった。
 その答えを聞いて満足したように、瓜子は笑顔を浮かべて正面を向いた。これで気持ちは完全に通じ合う形となった。桃太は想いの成就に安堵と幸福を感じると共に、瓜子の為に何をしてでも人魚を手にしたいという思いを新たにした。
 やがて王一郎の車の背後が見えた。
 複雑な田舎道を王一郎はのろのろとした運転で進んでいた。彼は慎重とは程遠い性格だったが、こと車の運転と言うのは思い切りだけで素早くできるものではない。ベテランのドライバーである文明に追い掛けられれば、その背中を捕捉できるのは当然のことでもあった。
「ここからどうするの?」
 瓜子は言った。
「ふんっ。まあ見ていろ」
 文明は言い、全速力で王一郎の車を追い越した。困惑した表情の王一郎を桃太が窓から見送った後、自動車は急旋回して王一郎の自動車の方へと真っすぐ突っ込んで行った。
「わっ。わぁあああっ」
 桃太は絶叫した。しかしそれ以上に恐怖したのは、突如として真正面からの体当たりを仕掛けられた王一郎だろう。王一郎の度胸は相当なものだったが、車に乗っているという状況下での冷静さでは、文明と比べて大きく落ちた。
 ブレーキが間に合わないと判断した王一郎は、とにかくハンドルを横に切ることで危険を回避することを試みたようだった。だがそれにより、完全に道路をそれた王一郎は山肌に衝突する羽目になる。
 激しい音がした。真正面から山肌へと減り込んだ車体は大きくへこみ、煙を上げながら停車していた。
「狙い通りだ」
 文明は鼻を鳴らしてそう言った。
「桃太のお父さん、すごーいっ!」
 瓜子は両手をあげてきゃっきゃと喜んだ。
「流石桃太のお父さんだねーっ。勇気あるー」
「……こういうのは、勇気というか、無茶じゃないのかな……?」
 桃太には疑問でならなかった。運転中想定外のことが起きた初心者ドライバーの王一郎が急ハンドルを切る癖があることは、確かに事前に伝えていたことだった。しかしそれを織り込んだとしても、この作戦は無茶にも程があり狂気と紙一重の蛮行だった。
「因程の男を出し抜くのに、無茶の一つや二つせずにどうする」
 文明は鼻を鳴らした。
「これでも戦争をくぐり抜けているからな。味方が全員負傷した時は、軍医自ら軍用車の運転席に乗り込んで敵地からの脱出を図ったこともある。あの極限のチェイスと比べれば、免許取りたての王一郎など端から相手にならんな」
 言いながら、文明は得意げに車両から降りる。桃太と瓜子がそれに続いた。
 煙を上げ続ける車両の中で、王一郎はどうやら気絶しているらしかった。ハンドルに顔を俯せて微動だにせず、沈黙するその様子は、眠れる獅子を見るような恐怖感があった。
「大丈夫。確実に失神している。医者としてそう診断する」
「……お父さん、大丈夫かな?」
 瓜子が父を見て言った。
「心配するな。殺しても死ぬような男じゃない。この事故の状況からしても、こいつは脳震盪で気絶しているだけだ」
 言いながら、文明は桃太にあごをしゃくった。
「王一郎の刀を持って来い。念の為、タイヤをパンクさせておこう」
「破裂させるのは危険じゃないの?」
「下手なやり方をすればな。やり方は教える。おまえでも出来る」
 桃太は『首狩泡影』を持ち出して、父に教わったコツを元にして、王一郎の車のタイヤを一つ一つパンクさせていく。
「あったよっ! 人魚だ」
 そうしている内に瓜子が後部座席から人魚の入った寝袋を発見する。それを引っ張り出し、持ち上げた文明が感触を確かめて言った。
「確かに人魚が入っているな。尾鰭の感触があるから間違いない」
 文明はトランクの中に人魚を詰め込んだ。
「これからどうするの?」
 と瓜子。
「因はその内復活する以上、人魚を浚ったことが村に知れるのは免れんな。ここは一度自宅へ帰って母さんを連れ、人魚と共にこの田舎の外へ逃げてしまうしかあるまい」
「だったらわたしのお母さんも一緒に連れてってもらえる?」
 文明に向けて、瓜子は両手を合わせてしなを作った。
「もうすぐ海神と約束した夜明けの時間なんだ。それまでに人魚が戻らなかったら強硬策に出るって海神は言ってた。村が嵐に飲まれるかもしれない。お母さんをそこに巻き込みたくないの」
 そう言われ、桃太ははっとした。確かに今はもう午前の五時近い時刻になっている。そして完全に夜が明けた後、人魚が連れ去られたと知った海神がどれほどの荒れ狂うかは想像したくもない。
「……そうだね。ぼく達はこれから海神を裏切るんだ。村人達からのリンチを掻い潜るよりも、そっちの方を警戒した方が良いかもしれないね」
 桃太は頷いた。自分達がどれほど大それたことをしているのかを改めて実感する想いだった。
 桃太達の蛮行によって危険に晒されるのは、何も桃太達自身の生命だけではない。この村の村人すべての命、ひいてはこの村そのものだったのだ。
 だがそれを理解しながら桃太は人魚を連れ去ることを止める気にはならなかった。人魚がなければ瓜子が鬼になってしまう。村を救う為に娘である瓜子を見捨て、殺害した王一郎の逆を行くのならば、それしきのことは覚悟していなくてはならなかった。
 桃太は明確に瓜子一人の為に村を捨て村を滅ぼす。それだけのことをしていると知りながら、引き返すという選択は自分たちにないのだ。
「……俺達がこの村を去った後、この村は海神によって滅ぼされるという訳か」
 そう言って文明はニヒルに笑った。
「だがまあ、生きるというのはそういうことだ。戦場で生き残る為には、自分一人の為に、敵はもちろん、味方の命をも損なわせ続けなける必要がある。俺は俺の人生の為に人魚を手にする。その後村が滅びようと知ったことではない」
 心底から文明はそう言っているようだった。だがそれは桃太の知る強欲なエゴイストの父の姿と何ら相違しなかった。息子の願いの為、そして医者としての自分の将来の為、村を見捨てる覚悟を文明はとっくに決めているようだった。
 そうだとも。桃太は思う。自分達はそもそもが善意の集団ではない。あくまでも自分や自分の愛する者の為に必死の戦いに臨んでいるに過ぎない。だがそれは究極的には村の誰しもに言えることであって、誰しもが自分や自分の愛する者の為に他者を犠牲にしながら生きているのだ。河童の裁判を乗り越える為に満作を犠牲にした桃太達や、綾香を敵に回さない為にかつての親友をも騙していた千雪や、恋した鬼の為に村を騙し村を利用した輝彦のように。
 この村に正義の味方と呼ぶべき者がいるとしたら、それは村を守る為に我が娘を手に掛けることを躊躇しなかった、王一郎一人くらいのものだろう。
 その王一郎を放置したまま、それぞれのエゴイズムを乗せた自動車を、文明は静かに発進させた。



 桃太達の母親は、亭主の言うことをすぐに理解して車に乗り込んだ。しかし、瓜子の母は違った。
「どうして村を捨てて逃げ出さないといけないんですか? それに私、あの人が娘を殺そうとしただなんて、信じられません」
「でも実際殺そうとしたんだよ」
 瓜子は母親に向けて両手を合わせ、付いて来てくれるよう懇願する。
「もう少しで村に海神がやって来ちゃうの。だからお母さん、一緒に逃げて」
 説得には苦心したが、血まみれの瓜子や王一郎の愛刀である『首狩泡影』の血に濡れた姿を見て、王一郎が娘に手を掛けようとしたことは理解したようだ。よって瓜子の母親は「これが本当に正しいことだと納得した訳ではありませんからね」としつつも、桃太や瓜子と共に後部座席に乗り込んだ。
「人魚がないと娘は鬼になってしまうんですね」
「その通りだご婦人」
 瓜子の母の疑問に、文明は言う。
「でもその為に村を見捨てるだなんて……」
「では村と娘とどちらが大切かね? あなたの旦那様は村を選んだようだが、ならばこそ女親の方だけでも娘を選んでやらないと、あまりにも哀れだとは思わないかね? 夫婦というのは、バランスを取る為に二人いるのだ」
 その言葉に瓜子の母は黙り込み俯いた。大きな葛藤を抱えながら顔を覆って身を震わせた。そして「あなた……どうしてっ」と絞り出すような声を放った。
「お母さん、大丈夫?」
 瓜子が心配げに声をかけると、母親は泣き笑いを浮かべながら「大丈夫よ」と言って頷いた。
 とにかく瓜子の母親を連れ出すことに成功した後、自動車は村の外へと走り始める。時刻は既に午前六時を回り、今は冬とは言えそろそろ夜が明けようという時間だった。
「……間に合うかしら」
 一つ目の山を越える途中、桃太の母が助手席で心配そうに呟いた。
 車の外では既に雨が降り始めていた。昨日の天気予報では雨が降るという報せはなかったことから、それは海神が嵐を起こす前兆であると読み取ることが出来た。時刻は七時に近付き夜が明け始めている。人魚を連れて来るという約束に背いた桃太達に怒り、風雨を従えた海神が村へとやって来ていることが伺えた。
 風がびゅうびゅうと強く吹き始め、しとしとと垂れ落ちる雨は勢いを増した。その風の一筋が、雨の一粒が、早く人魚を連れて来いと急かす海神からのメッセージのようだった。
「……人魚を連れて来るか、できなかったのなら謝りに祠に来い、って海神は言いたいんだね」
 後部座席の中央に座った瓜子が、窓を見ながらそう呟いた。
「だと思う。このまま行くとどうなるのかな?」
 桃太が答える。
「きっと嵐になるね。村がそれに飲み込まれる。早く逃げなきゃ」
 この真冬の季節の中でも、雨は雨のまま地上へ降り注ぎ続けた。濡れそぼった山道をなめらかなハンドル裁きで進んで行く。どんどん悪くなる視界の中で、ワイパーがせわしなく動いて水を弾き続けていた。
 そんな時だった。
 前方から一つの人影が現れて、夜叉の身のこなしで、自動車へと飛び付いた。
 それはあまりに一瞬の出来事だった為、桃太には何が何だか分からなかった。人影は自動車の正面へと飛びつくなり、信じがたい程のバカ力でフロントガラスを殴打した。たちまちひび割れるガラス。
「きゃあ!」
 桃太の母の悲鳴。自動車のフロントガラスというのはちょっとやそっとの衝撃に耐えられるようにできている。それを既による殴打で砕いてしまうなど、人間には不可能であるに違いなかった。
 桃太は鬼の形相でガラスを砕いている人影を見詰めた。
 それは王一郎だった。王一郎は再度拳を振り上げると、ひび割れたフロントガラスへ叩き付ける。その鋼の拳はたちまちガラスを貫通し文明の鼻先、その寸前まで突き刺さった。
「この……化け物がっ!」
 文明が悪態を吐いた。三度目の殴打によって完全に粉砕されたフロントガラスから、王一郎が車内へとなだれ込んで来る。そして血走った目で文明の首筋に手刀を叩きこむ。
 悲鳴を上げる暇もなかった。目を剥いて泡を吹いた文明の制御外に置かれた自動車は、扇を描きながら山道をスリップして進んで行く。
「あなた……やめてっ!」
 瓜子の母が悲鳴を上げた。王一郎は文明を押しのけるように正面から運転座席へと侵入すると、体勢を整える間も惜しんでブレーキペダルを手で押した。
 それによって辛うじて交通事故は避けられた。王一郎は戦慄する桃太達を見回すと、「降りろ」と告げて顎をしゃくった。
 いう通りにするしかない。
 気絶している文明を残し、一同は王一郎と共に山道へ降りた。
 足元は既に靴の中が濡れる程の水でぬかるんでいて、吹き荒ぶ風が木々を揺らして不気味な音を立てていた。そんな嵐の中央で、頭髪そして衣類を靡かせながら立つ王一郎は、どんな妖怪よりも恐ろしい妖怪に見えた。
「それはなんだ、桃太」
 王一郎は桃太が携帯している『首狩泡影』を指さして言った。
「あなたの刀だ」
 桃太は答える。
「返してくれようというのか?」
「まさか」
「ふん……っ。我とて娘を手に掛けた刀など持ってはいたくない。それより……」
 王一郎は目を細め、複雑な感情を称えた視線を瓜子に送った。
「生きていたのか」
「うん。人魚の涙のお陰」
「油断したな」
「して良かったと思わないの?」
「思わない。おまえを浚って人魚の涙の効力が消えた後改めて殺害する。父を憎むなら憎んでも構わない。どんな悪罵も甘んじて受けよう」
「何故娘の為に村を見捨てようとは思わないんだ」
 桃太は言った。彼には王一郎が理解できなかった。王一郎の行いが公正であり、冷徹に見えたとしても、確かな信念に支えられた一つの正義であることは理解している。対する桃太の想いが子供ならではの未熟な我が儘の類であることも。だとしても、桃太の心は真っすぐに王一郎と対立していた。
「……あなたは父親失格だ。瓜子を悲しませた。瓜子を殺そうとした。ぼくはあなたを許さないぞ」
「子供だからと言って純粋さが全てではないぞ。だがあえて言わせておこう。我が父親としての資格を投げ打ったことは、他でもない我が一番理解している」
「お父さんをお父さんじゃないなんて思わないよ」
 瓜子は言った。
「全部許すよ。だからさ、今からでも元のお父さんに戻って。討魔師の身分なんて捨てたって良いじゃない。村のことなんて捨てたって良いじゃない。人魚と一緒に都会へ逃げて、そこで一緒に仲良く生きようよ」
 それは瓜子の嘘偽りない真実だった。ほんの数時間前に殺されそうになっておいて、瓜子は父親のことを何一つ憎んではいなかった。心の深いところに大きな傷を負いながら、それでも彼女は王一郎を許す勇気を持っていた。
「ならぬ。村は救わねばならぬ」
「あなた。瓜子を殺すのは考え直して」
 妻が王一郎に呼び掛けた。王一郎は「ならぬ」と切り捨てて。
「貴様も討魔師の妻なら相応の覚悟を持て」
「あなたの妻である以前に、わたしはこの子の母親よ。子供を見捨てる覚悟なんて持ちたくない」
「……良き母だな。惚れた甲斐がある。が……例え貴様がなんと言おうと、討魔師として我は絶対に退く訳にはいかんのだ!」
 王一郎は咆哮を上げた。
「人魚と瓜子を渡してもらうぞ! 人魚を海神に返し、鬼の娘の首を跳ねるのだ!」
「嫌だっ!」
 桃太は刀を構えて王一郎の前に立ちはだかった。
「何のつもりだ!」
「あなたと戦う!」
「刀を捨てた丸腰の我になら勝てるとでも思っているのか?」
 王一郎は微かな優しさすら込めた視線を桃太の方に注いだ。
 桃太はそれを睨み返した。不利は百も承知だった。例えどのような悪条件に王一郎を追い込もうとも、桃太がどれほどの凶器を所有しようとも、二人の力の差が埋まることはないはずだった。
 しかしだとしても桃太は戦わなければならなかった。このまま安々と瓜子を失う訳には行かなかった。最早状況は進退窮まり、有利だとか不利だとか勝ち目があるだとかないだとか、そんなことは考えるだけ無駄だった。
「…………たわいもないな」
 だが王一郎は慈しみすら感じさせる表情を桃太に向けるだけだった。
「だが容赦はせぬぞ! 我は我の目的の為、今ここで弟子を粉砕し滅殺する! 戦地すら知らぬ小僧が相手とて一切の容赦はないと思え!」
 そう言って、王一郎は桃太へと飛び掛かって来た。
 桃太はそれを横っ飛びに交わすのではなく、むしろ踏み込んで刀を横に振って迎撃した。桃太の踏み込みと斬撃は王一郎により鍛え抜かれており、王一郎の肉体が人間のそれである以上、回避せぬ限り両断は免れない。
 それを察知し、王一郎は垂直方向に刀より高く飛び上がるという超人技を見せた後、桃太から少し離れたところに着地した。そして一瞬の暇も置かずに再び飛び掛かって来る。
「人魚を渡せ! 今降参するなら命は取らぬ!」
 王一郎は威嚇するように吠えた。
「嫌だ!」
 桃太は王一郎に懐に入られないよう素早く的確に刀を振った。リーチの長さを活かして、丸腰の王一郎が容易には踏み込めない自分の領域を構築しようとした。それは成功した。王一郎は慎重に間合いを取ることを余技なくされ、桃太の剣技の成長ぶりに目を細めつつも口を開いた。
「このままでは現実に村は滅びる。貴様らが人魚を浚うことによってだ。貴様は本当にそのことを現実に肌で感じられているのか?」
「……滅びれば良い」
 桃太は言った。
「この村は死に行く村だ。……既に死んだ村かもしれない。誰もが便利な家電を持ち自動車に乗って、煌びやかなネオンを纏った店を利用しながら快適に過ごす街の様子は、最早発展した都会だけのものじゃない。どこだってそうなるんだ。そしてそこには妖怪の影なんてもちろんない! そこから取り残されたこんな古い村……いつかなくなって消えるだけだ。早いか遅いかの違いしかない!」
「身勝手な! それは貴様が決めることではない! この村を営み、この村の日々を必死に生きる村人達が、長い年月をかけて決断するものだ! 滅びに抗う村人達の権利を踏みにじる権利は貴様のような童にはない!」
「ここの村人達がどれほどまともに抵抗をしているものか! ただ死んだような村で死んだような毎日を、惰性でただ生きているだけじゃないか!」
「だから! それを追わらせる権利は貴様にはないと言っているのだ! 確かに村人達は愚かで脆弱だ。しかし自分の為家族の為、明日の為に、少しでも村を続けようと必死にもがいて生きているのだ!」
「薄汚い田舎者共の薄汚い生や明日に価値なんてない」
 桃太は自分でも驚く程冷ややかな声で言ってのけた。
 王一郎は思わずと言った様子で絶句するが、桃太は自分が失言をしたのだとはどうしても思えなかった。
 桃太はこの村に来てから味わったいくつもの不便や迫害を思い出していた。
 自動車から降りて来た桃太を寄って集っていじめた満作ら村の子供。その満作を不当な裁判で処刑する河童共と、それを何もできずただ見ていた愚かな民衆。自分達の仄かな安寧と保身の為に、綾香に迎合して寄って集って瓜子を迫害する女子達。海神に子供を奪われ続けながら抵抗の意思すら見せず、滅びゆく村の劣悪な暮らしを、怠惰のままただ続けていた腐った田舎共達。
 そこにあったのは深く強い閉塞感と、不便さと居心地の悪さだった。子供には何の権利もないから耐えるしかなかった。だが大人達はどうしてこの村を出て行かない? この村を捨てない? この村を救う気もなければ良くするつもりもない癖に、この村の外に行こうともせずただ生きる。そんな彼らのこの村での暮らしにどれほどの価値があるというのか!
「これから村には嵐が来る! 洪水で村は沈む。そうなったら村人は皆止むを得ず村の外に出るだろう。そして発展した世界を間近に目の当たりにして、彼らはようやく目覚めるんだ。自分達が腐りきったカスみたいな暮らしを送っていたことに気付くんだ! 今は高度経済成長の時代で、いくら村人達が能無しだって何かの仕事にはありつける! そうやってまともな街でまともに暮らすことが、村人達にとって一番幸せなことなんだ!」
「話にならぬ!」
 王一郎は憤怒の声を上げた。
「その為に何人が嵐で死ぬと思っている? 腐っているのは貴様の方だ! 何も分からぬ童が! 子賢しいばかりの青瓢箪が! 裕福な都会の暮らしは、貴様をそこまで傲慢にさせていたのか!」
「うるさい!」
 確かに桃太にはある種の傲慢さがあるかもしれなかった。都会での暮らしは何不自由なかった。何より桃太は桃太自身に何不自由のなさを感じていた。勉強も運動も良くできる勤勉な努力家で容姿にも家の経済力にも恵まれ、何一つ満たされないもののない中で、どうして皆が自分のようではないのかと首を傾げて生きて来た。
 そこへ来てのこの田舎暮らしだ。この村に生きる者達は大人も子供も、桃太には信じがたい程みじめだった。住む場所や暮らしがみじめなだけではない。土色の目をして貧困や不自由を噛みしめながら、何一つ前に進もうとせず苦しみを受け入れ続けるだけの彼らの、その在り方が何よりもみじめだった。
 綺麗に見えたのは瓜子だけだ。誰よりも優れた容姿を持ち、周囲に迎合せず自らの意思を貫き通したが為に迫害され、それでも笑顔を絶やさず前向きに生きる彼女は高潔に見えた。彼女は明白に間違いを犯していたがそんなことは些細なことだった。美しく高潔な瓜子がこのようなクソ田舎に埋もれていることが桃太には耐えられなかった。
「ぼくが傲慢なんじゃない。この村の人達が卑小なんだよ」
 戦闘の興奮の中、桃太の心の奥底に閉じ込められた、どろどろとした屈折が止めどなく口からあふれ出す。それは桃太自身も認識していない、無意識の心の闇の発露だった。
「こんな腐ったクソ田舎を滅ぼして、ぼくは瓜子と都会に向かう。そこでぼく達は便利に、豊かに、清潔に暮らすんだ。あなたみたいなオヤジに、それは絶対にジャマさせない」
「この…………クソガキめがぁああああっ!」
 王一郎は怒りに身を任せて飛び掛かって来る。桃太は、刀を正面に構え、極限まで集中してそれを迎撃しようとした。
 神経を戦いに向けて集中させることで、桃太には周囲の景色がスローモーションになったように感じられた。垂れ落ちる雨粒の一つ一つは愚か、本来は目視出来ないはずの吹き荒ぶ風の流れすら、今の桃太には感じ取れるような気がした。
 それはまさに極限の領域であり、そこに至れることは桃太の戦士としての才能の発露でもあった。類稀なる才気に恵まれた桃太が王一郎という最高の師を得て覚醒したその感覚は、迫り来る王一郎の動きを的確に捕らえる。桃太はその脳天目掛けて、過不足のない完璧な動きで刃を振り下ろした。
「遅い」
 刃は粉々に砕かれた。
 この時桃太は通常の感覚へと回帰した。そして愕然とした。王一郎に向けて振り下ろしていたはずの刀は哀れにも粉砕され、刀身の半分以上は雨のぬかるみの中に沈んでいた。
 一瞬のタイムラグの後、桃太は王一郎の絶技を辛うじてでも理解することが出来た。王一郎は振り下ろされる桃太の刃の側面を、握った拳で正確に叩いたのだ。刀身の急所を適格に捕らえたその一撃は、丈夫な金属の刃をあっけなく粉砕せしめ、桃太の攻撃を消し去った。真剣白刃取りにも勝るそれは、まさに奥義中の奥義であった。
「愛刀よ。これまでの貴様の働きに感謝する」
 王一郎はそう言った後、愕然とする桃太の手から、折れた刃を叩き落とした。
「素晴らしい面打ちだった。貴様は最良の弟子だ。悪かったのは相手だけだな」
「こ……このっ」
 桃太は王一郎に掴みかかった。刀を失ったが戦えなくなった訳ではなかった。最早引き返せぬところに来ている桃太は、どんなに勝ち目が薄くとも王一郎に立ち向かうよりどうしようもなかった。
 しかし対等な条件での格闘での勝敗は、火を見るよりも明らかだった。
 桃太はたちまちの内に王一郎に組み伏せられた。水浸しの山道に組み伏せられた桃太はずぶ濡れのままもがいたが、王一郎の力は強すぎてどうにもならなかった。
「降参しろ。首の骨を折るのは容易いが、我にも慈悲はある」
「……離せっ。クソっ。離せっ」
 桃太にはもがき続けることしかできなかった。王一郎はそんな桃太に憐れむような視線を注いだ後、腕を振り上げて目を閉じた。
「許せ。桃太」
 王一郎はその鋼の拳を桃太の首筋へ向けて振り下ろそうとする。
 その時だった。
 雨音に混ざって、柔らかいものを貫くような音が響いた。
 王一郎の腕が止まった。どころか、その背中を伝って桃太の頬へ、温かい血が滲み出していくのが分かった。
 思わず目を閉じていた桃太が目を開けると、背後では砕けた刃の先端を握り、王一郎の背中を刺し貫いた瓜子が、その手を血塗れにしながら唇を結んで立っていた。
「桃太をいじめるな」
 瓜子は刀の破片、その切っ先のある部分を拾い上げ、王一郎の背中心臓部へと差し込んだのだ。雨音があったとは言え王一郎がそれに気付かなかったのは、それだけ桃太との闘いに神経を傾けていたからこそだろう。
 彼にとっても、桃太は周囲に気を配りながら戦える程の弱者ではなかった。王一郎の全神経を自分に集中させ得たということ、それこそが桃太の実力であり、瓜子の不意打ちへの突破口を開くに足る確かな貢献だった。
「娘よ……良くやったな」
 心臓を貫かれ、口から血を破棄ながら、王一郎は目を細めながら娘の顔を見ようとした。
「貴様は貴様の生を掴んだ……。この父を殺すことによって。貴様らの勝ちだ」
「……お父さん」
「生きよ。娘よ。子供達よ。おまえ達は我を制した。戦いを制したのだ。ならばおまえ達は何にも憚ることはない。大手を振って堂々と生き、成長して大人になり、幸福を掴め」
「お父さん!」
 瓜子の目から涙があふれ出した。刃の破片を握りしめたその手は負傷して血塗れだったが、それすらも人魚の涙はすぐに癒してのけるだろう。しかし父親を失い、父親を手に掛けた心の傷は、そう簡単に癒えない物だろうと思われた。
「泣くな娘よ。我は喜んでいる。これでおまえを殺さずに済んだのだから。我はここで村と共に沈む。死体は捨て置いておけ。それが良い」
 そう言い残すと、王一郎は息を失って絶命した。
 瓜子は高く泣き声をあげた。それは桃太がこれまでに見て来た瓜子の哀しみの中で最大の哀しみだった。雨粒に晒されながらの長い慟哭は、いつまでも鳴り止むことはなかった。



 エピローグ



 やがて気絶させられていた文明の回復を待ち、桃太達は自動車で山を越え、村を去った。
 嵐は強まり続けていた。洪水は村人達のくるぶしまで村を水で埋め、突風は村の木々をしならせ脆弱な順にへし折って行った。雷鳴の音が昼も夜もなく鳴り響き、人々の耳朶を震わせては多大な恐怖を齎した。
「娘っ子はどこや!」
 突風を従えて村を訪れたびゅうびゅうが、村人達に恫喝した。
「娘っ子を探しなや!」
 洪水を従えて村を訪れたしとしとが、村人達に命令した。
「「娘っ子を差し出すまで嵐が鳴り止むことはない! 貴様らが人魚を見付け出すか、我々がこの村を嵐で沈めるか、どちらかや! 命を賭けて探せ! たかだが五十年や百年、気まぐれで守ってやっていただけで、本当はこんな村どうなろうとどうだっていいんやぞ!」」
 声を揃えて海神は咆哮を上げた。恐怖した村人達は必死になって人魚を探した。
 村人達はまずは村民会に助けを求めた。その実質の長である輝彦を探し出し、人魚捜索の指揮を取るよう求めた。
 しかし輝彦は鬼と思わしき体躯の大きな死骸に抱き着いて泣き叫ぶばかりだった。その慟哭は深く村人達の声など届かないようだった。
 ようやく輝彦を見付け出した討魔師の家の地下室で、無数の鬼が倒れ輝彦が泣き続けているという状況に、村人達は混乱するよりどうしようもなかった。その状況を正しく推理し解き明かす能力を村民たちが有しているはずもなく、村人達は使い物にならない輝彦をさっさと捨て置いて、それぞれに捜索活動を開始した。
 しかし指導者を失った村人達の捜索活動は闇雲としか言いようのないものだった。ただでさえ嵐で視界が悪く、足元が思付かない中で、村人達は生ける屍のようにただ村中を徘徊するだけだった。そんな中で誰しもが自分以外の誰かが人魚を見付けると心のどこかでは信じ、どこかでは絶望していた。
 日を追うごとに嵐は強まって行った。脆弱なものから順に建物が倒壊し始め、弱い者から順に洪水に飲まれて死んで行った。こうなって来てようやく村人達は村がもうダメであることを悟り始めた。
 比較的現実的で賢い者から順に、村人達はぬかるんだ山を越える為の行軍を始めた。嵐の中徒歩での脱出はまさに命懸けであり、ここでも何人かの弱者が脱落した。
 そんな折、誰かが山の麓まで流されて来た王一郎の死体を発見した。
 王一郎の全身は水に浸されてぶよぶよになっており、衣類を見て判断しなければ彼であると判断するのが難しい程だった。その死因が背中の刺し傷であることなどおよそ判別がつかない状況だった。
 発見者は王一郎を見て憤怒の表情を浮かべると、その死体を何度も蹴りつけて、濁り切って流れを強くした水路へと蹴落とした。
「姿を見せないと思ったらこんなところでくたばっていたのか! 何をしていたんだ討魔師の癖に! 村が大事な時には、何の役にも立ちはしない! 嵐に飲まれてくたばるばかりか! 情けない!」
 発見者は王一郎を水路へ叩き落したことに一先ず満足すると、息を吐き出して誰に聞かせるでもない皮肉を述べた。
「キチガイの親は所詮キチガイか。ああ、もう村は終わりだ。俺もどうするかな? 家族を連れてさっさと逃げるが吉か……」
 王一郎の遺骸は埋葬されることもなく、洪水の中に沈み、他のいくつかの死体と共に、闇へと消えた。



 やがて、最後の一人が村を脱出するか死ぬかして、村は滅びた。
 総合的には十数名の脱落者を出したものの、ほとんどの村人達は脱出に成功し生きながらえた。自らの生を掴む為苦しみ抜いた村民たちを助ける為、村を訪れた者は一人もいなかった。
 人々が去った後、事後処理の為に自衛隊がようやく村を訪れた。海神の庇護を失った村では落穂拾いの為鬼や河童などが闊歩していた。それらは訪れた自衛隊を見て警戒したが、一部の無謀な者が彼らに挑みかかっては、このための特殊装備として支給された機関銃により、全身をハチの巣にされ落命していった。
「やれやれ。話には聞いていたが、本当にこの村には妖怪が出るのか」
 若い自衛隊員は火器を構えながらそう呟いた。
「今の内に目に焼き付けて置けよ? 妖怪がはびこる時代はとうに終わっている。もう何十年もすれば、こんな田舎村にすら妖怪は住み付けなくなるんだからな。滅びる前の見納めってところだ」
 年嵩の自衛隊員が鬼の死骸を蹴りつけながら言った。
 そんな様子を山の影で見詰めながら、会話を交わす二つのアタマがあった。
「なあびゅうびゅう。これ、もう逃げた方がええかも分からんで」
 海神だった。しとしとが酷く哀しそうな表情でびゅうびゅうにそう問いかけている。
「あかんでしとしと。まだ娘っ子が! ウチらの大事な娘っ子が見付かってない!」
「でも人間の軍隊が来とる。あんなんに出て来られたら、あたしら龍族でも流石にお手上げや」
「なんでや? 人間なんてちょっと賢いだけの虫けらやろ? 歯向かってくるなら八つ裂きにすればええだけやんか!」
「ところがそうはいかんのや。ええか? 人間共はその気になったら山一つ森一つ、国一つ消し飛ばす力を持っとる。ほんの十数年前この国に落ちた二つの大きな爆弾のことは覚えとる? ああいうものを作り出せて、しかも同じ種族の同胞に打ててしまえるような、愚かしくも恐ろしいのが人間なんや。甘く見とったらあかん。ここらで諦めんとどうしようもないよ」
「じゃあウチら、娘っ子とは二度と会えんのか?」
 泣きそうな顔をしているびゅうびゅうに、しとしとは近付いて肩を抱きしめた。
「それは違うで。ウチらの寿命は長い。娘っ子の寿命も長い。両方が生き続けてたら、この広い世界のどこかで、必ず会えるよ」
 その説得に、びゅうびゅうは涙を拭いながら「分かった……」と呟いて頷いた。
 二つの頭を持った龍は、示し合わせることもなく一つの方を向いて天を舞った。そして人間にとって途方もなく長い期間、彼らにとって何てこともない期間を庇護し続けた村から去って行った。
 その雄大な姿は自衛隊員達の目に焼き付いた。彼らは思っていない。この強大な生き物は確かに自分達を恐れて逃げ出したのだと。彼らは人間を恐れるあまり人間の前から姿を消し、人間と関りを持たなくなっていくのだと。
 そうして人と妖の交わる時代は終わりを告げ、人々は自分達の力で確かな発展を遂げていく。
 一つの小さな村の滅びを、些細なことと置き去りにして。



 やがて日々が過ぎ、三月も終盤というところまで来た。冬の寒さもほとんど終わりを迎え、微かに涼しさの残るうららかな気候の中、桜の花びらがあちらこちらで舞い落ちる。
 元いた都会の小学校に戻った桃太は、その日、卒業式を迎えていた。最優秀生として皆の前で壇上に上がり、賞状を受け取って頭を下げた。
 その一連に桃太はやはり緊張を感じた。晴れの舞台であることは確かだったし、自らの努力で勝ち取ったものだという自負もあったが、だからこそここで粗相をして台無しにしたくはなかった。そう言う意味では胸を張り心弾ませるのは程ほどに、ロボットにならない程度に気を張って、桃太はどうにかそれをこなした。
 保護者席で涙を流す両親の姿を一瞥した後、桃太は静かに席に着いた。淡々と消化されていく卒業式のプログラムをこなしながら、桃太はこれまでの小学校生活を振り返っていた。
 やはり一番強く印象に残っているのは、あの田舎村での日々だった。
 あの一年近い月日程、濃密な日々はないと言って良かった。何せ桃太はそこで河童に出会いさとりの怪物と出会いがしゃどくろと出会い鬼と出会った。人生と師と言える人間と出会い心身ともに鍛えられ、最後はその師匠と殺し合い、村を一つ見捨てて、逃げ延びた。
 沈みゆく村のことを考える度、桃太は罪悪感に打ちひしがれるようだった。しかし流される家々や人々の様子を思い浮かべても、それを齎したのが自分の選択だと痛感し続けても、罪の意識こそあれ後悔と呼べる感情は何一つ湧いて来なかった。
 村を一つ滅ぼし、多くの人を死なせたのだという事実は、生涯に渡って桃太を苛む。だがこの苦しみを予感できていたとしても桃太は同じ選択をしただろう。故に、どれほどの悪夢に苛まれどれほど苦悩しても尚、今この現実こそが桃太の勝ち取った桃太にとっての最善なのだ。
 卒業式が終わり、学友たちとしばしの別れの挨拶をする。中等部からも同じ学び舎で過ごすのだから、別れの悲しみはない。しかし、それぞれの子供時代が次のステージへと進むことに対する感慨は、皆が感じていた。
 身の丈を同じくして対等に語らうごく普通の友人たちを持てるのは、幸福なことだと理解している。だから、人魚の涙の研究結果を引っ提げて、以前勤めていた病院で以前勤めていた以上のポストに父が返り咲いたことも、桃太は強く歓迎していた。
 学友たちからの遊びの誘いを断りつつ校門に向かう。
 二度と戻らない、戻れないあの田舎村での日々を瞼に描く。
 そしてあの村で出会ったただ一つの宝物……好きになれた女の子の輪郭が頭の中にくっきりと浮かび上がった時、桃太が幻視した通りの姿が現実に現れた。
「桃太」
 瓜子が校門の前で桃太を待ち受けていた。
「やあ瓜子。おまたせ」
「ううん。わたし桃太待つの好きだよ。それにこっちの小学校もう春休みに入ってるから、暇だし」
 瓜子は満面の笑顔を浮かべて両手を上げる。
「東京って本当にすごいね! あっちこっちに楽しいお店がある! 夜でも建物のネオンが明る! 道は綺麗、人も綺麗、どこに行っても何をしていてもすっごい便利! こんな素敵な場所だったなんてわたし思わなかった!」
 あれから共に都会に逃げ延びた瓜子は、桃太の家の近くに母親と共にアパートを借り、暮らし始めた。
 瓜子の鬼化を食い止める為には人魚の涙を日常的に摂取する必要があった。しかし人魚の涙は桃太の父・文明が所有することになっていた為、必然的に近くに住む必要が生じる。
 そのことを桃太と瓜子が喜んだのは言うまでもない。瓜子の母は文明が務める病院で受付の仕事を初めた。器量良しではきはきとした性格の彼女の働きぶりは評判で、それに伴い稼ぎの額も増えていく見通しだった。山奥の家から持ち出した王一郎の貯金額も相当なものであったことから、母子二人の暮らしぶりはなかなか良い。学業面も実はそこそこ優秀な瓜子の進学費用も、問題なく工面できそうだった。
「学校は楽しい?」
「楽しい! お友達一杯出来た! こっちだとわたし前の学校と比べて全っ然『変な子』扱いされないの! むしろ人気者なの! すごいでしょ!」
 瓜子は拳を振りながら学校での自身の人気ぶりを語る。ずっと田舎暮らしだった瓜子にとって都会での暮らしは新鮮で楽しく、退屈とは無縁でいられ、それが故に生来の過剰な好奇心や冒険意欲も満たされていた。そうしていると瓜子は理想の児童と化した。明るい性格で屈託がなく親切で心優しい、誰よりも優れた容姿と凄まじい胆力を兼ね備えた、そんな少女に見えていることだろう。
 それがいつまで続くかは分からない。その類稀な程のトラブルメーカーぶりが露呈すれば、またしても瓜子から人が離れて行く可能性はある。しかし山奥と違ってこの街には人も多くそれだけ多様性もある。そんな瓜子とも上手く付き合ってやれる友人に巡り合える可能性もないとは言えず、またそうなって欲しいと桃太はずっと思っていた。
「もう本当……毎日がなんだか夢みたい! 桃太と同じ学校に行けないのは残念だけど、でもこうして放課後は一緒に遊べるし、都会には楽しい遊び場がたくさんある! 学校では誰からも無視されないし嫌なこと言われないし、こんな素敵な毎日があるなんて、本当に幸せ!」
 満面の笑みを浮かべ自らの幸福について謡い続ける瓜子。その満たされた様子に桃太は目を細めつつも、こう尋ねることを自制しなかった。
「瓜子はさ。滅んでしまったあの村について、考えてしまうことってある?」
 尋ねられ、瓜子は出会った時よりさらに背の伸びた高い目線を見上げつつ、桃太に向けて小首を傾げて見せる。質問の意図を計りかねるように少しの間、そうしていて……それから答えた。
「あるよ。楽しかったこともたくさんあるもんね」
「そうだね。でも、ぼくが言いたいのは、村の皆が可哀想とか、村の皆に申し訳ないとか、そう言う考えに侵されてつい泣きたくなったり、夜眠れなかったりしないのかなって?」
「桃太はそういうことあるの?」
「あるよ。それで時々、とてもつらくなる」
 桃太がどれほど葛藤しても、思い悩んでも、それが桃太の罪悪を少しでも薄めることはあり得ない。そうと知りながら、いや知るからこそ桃太はのたうち回るのを禁じ得なかった。どれだけ気持ちを整理してもあの日の選択を後悔することだけはなかったが、そのこととこの胸を穿つかのような罪悪感は別の問題だ。
「わたしはないよ。だって、そうしなかったらわたし鬼になってたもん」
 言いながら、瓜子は自分の頭皮に手をやった。
「もうほとんどね、引っ込んでるの。こっちでの暮らしが毎日楽しいのが原因だって、先生も……桃太のお父さんもそう言ってる。そうなれたのはやっぱりあの村を捨ててここに来たからで、それを後悔することはあり得ないかな」
「後悔と罪悪感は違うんじゃない?」
「まあね」
 悪いことと思いながらそれでも後悔しないという態度と、後悔してないから罪悪感もないという態度と、どちらがより邪悪なのかを考えてみる。結論はすぐに出る。どちらも変わらないのだ。
 だというのに桃太は日々を苦しみながら生きていて、瓜子はけろりとした様子で笑い続けている。それを羨まないと言えば嘘になる。瓜子のそうしたある種の天衣無縫さは彼女の恐ろしさであると同時に、何よりの強さでもあった。それは繊細潔癖な桃太にはない部分だ。
「……あの村が滅んだって話、こっちではほとんどニュースにもならないよね」
 瓜子は言った。
「新聞にも小さくしか乗らなかったって、お母さん、言ってた」
「……あんな山奥の小さな村のこと、村の外の人達はほとんど関心を持たないんだろうな。だからこそ、海神がどれだけ暴れたところで、事後処理の段階になるまでは、自衛隊だって出動しなかった。あの村は、日本と言う国からも、完全に見捨てられていた」
 高度経済成長の時代。日本と言う国は当時と比べ遥かな発展を遂げたが、その恩恵の手があの山奥のような辺境にまで伸びるまでには、もうあと何十年かの時間がかかりそうだった。国の隅々にまで救いの手が伸び、忘れられた土地を作らず、全ての人々があらゆる理不尽な悪意や災害から守られる程の良い時代では、今はまだない。
 だがそれが叶うような理想の時代が来るよりも前に、妖の住まうような村は全て、滅びゆくのではないだろうか? 桃太達がしたのと同じように、見捨てられ消えていくのではないだろうか?
 人々が快適さや便利さを求める限り、不自由で不便な土地は次々と滅び捨てられて行く。それには良い面もあるのだろうと、都会と田舎の両方で生きた桃太は思う。しかし完全にそれが正しいとまで言い切ることは、桃太にとっても難しいことだった。
「……思い悩んでいるんだね」
 瓜子が慈しむような表情で言った。
「まあね」
「色々大変だったもんね」
「うん」
「わたしも流石にお父さんを殺した時のことは夢に見るな。でも、目が覚めたら『考えてもしょうがない』って、いつも思える。今ある幸せを考えれば良いし追い求めれば良い。お父さんもきっと、天国でわたしにそう願ってくれていると思うから」
 桃太は瓜子のこうした前向きさが大好きだった。しかしそれはきっと余人には理解されないだろうなとも考えていた。自ら手に掛けた父が死後も自らの幸せを祈り続けていると、心の底から信じられてしまうのは、誰よりも真っ直ぐな魂を持つが故だ。しかしそのことを、桃太以外の誰に分かるというのだろう?
 人間はたいていどこかしらで歪んだ心を持っていて、だからこそ真っ直ぐな瓜子に違和感を持ち、却って歪みを感じてしまうのだと、桃太はそう理解している。
「浮かない顔の桃太に、それどころじゃなくなるようなこと言っちゃおうかな」
 瓜子はそう言って悪戯っぽい表情で桃太を見上げた。
「何? それどころじゃなくなるようなことって?」
「飛び上がってすっころばないでよ? わたしね、わたしの学校の卒業式で男の子から告白されたの」
 桃太は飛び上がってすっころびそうになった。というよりほとんど飛び上がっていたしすっころんでいた。尻餅さえつかなかったものの体制を崩しかけ硬直した桃太を、瓜子は愉快そうに見つめて笑い転げるのだった。
「ど……どういうこと? なんでそんな……」
「高橋って言って、結構良い奴だよ。都会っ子だけあって垢抜けてる感じ。中学に入ったら髪の毛染めるんだって。自分の髪の色変えられるなんて今時は本当すごいよね。わたしもしようかな」
「や、やめてっ。瓜子は絶対そのままでいてっ! そんな軟派な男に染まらないで! 行かないで!」
 瓜子はますます声を上げて笑い、愉快でたまらないと言った様子を見せる。
「冗談だよ、冗談! 告白されたのは本当だけど、ちゃんと断った。わたしは桃太が大好きで、桃太は一番だもーん!」
 そう言って、動揺する桃太の腕にしがみ付き、身体を押し当てて挑発的な表情を浮かべる。桃太は自分の感情が計算づくで弄ばれたことを悟った。そのことにはまったく不満を覚えないでもなく、よって顔を押し当てながらしてやったり顔をする瓜子に、桃太は唇を尖らせて見せた。
「ね? 嫉妬した? ねぇ、嫉妬した」
「……正直に言うと、したよ。いや、酷いことをするもんだな、瓜子は」
「ごめんってばぁ。でも、これでもうそれどころじゃなくなったでしょ?」
 そう言われ、桃太は自分の心に問いかける。瓜子に自分以外の思い人が出来たかもしれないという衝撃は、種明かしをされた後も桃太の全身を貫いたままだった。これから立ち直るのには一定の時間が必要で、それが経過するまではあの村のことなど考えられそうもなかった。
「そうだね。まだ動揺しているし、この動揺からはそう簡単に逃れられそうもない。うん、気分転換にはなったかな?」
「アハハそれは良かったっ。じゃ、これからどっか遊びに行こう?」
「良いね。今日はぼく、道場も塾もないから、一緒にたくさん遊べるよ」
「わぁいっ!」
 そう言って二人は自然に手を握り合い、桜の雨の中を肩を近付けて歩きはじめる。
 幸福な笑顔を浮かべあう若き二人の頭の中からは、滅び終え消えた山奥の村のことなどは、露一つ残らず消え失せていた。
粘膜王女三世

2022年12月25日 21時53分09秒 公開
■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:子供達は村を殺す。時代を殺す。
◆作者コメント:最近やってみたかった和風ファンタジー。
 枚数をふんだんに使えるということで、かなりのびのびとした文章の書き方をしました。特に終盤はその傾向が顕著です。
 はたしてこれが良い方に働いたかどうか。とは言え一度実験してみる価値はあったと思います。感想どうぞよろしくお願いします。

2023年01月14日 11時59分26秒
+30点
Re: 2023年01月27日 04時35分39秒
2023年01月12日 19時12分39秒
+20点
Re: 2023年01月27日 04時26分36秒
2023年01月11日 23時24分30秒
+30点
Re: 2023年01月19日 23時09分38秒
2023年01月08日 21時52分49秒
+30点
Re: 2023年01月19日 22時46分21秒
2022年12月31日 14時02分59秒
+40点
Re: 2023年01月19日 21時59分23秒
合計 5人 150点

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