狂気と友愛の指切り

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 〇1〇

 土手に腰かけると土と緑の匂いを感じます。伸ばした足元を揺れるコセンダングサは今はまだ黄色い花を覗かせていて、引っ付き虫の心配はなさそうでした。
 小学校が終わったある水曜日の放課後、青い空に浮かぶくっきりとした白い雲を仰ぎながら、わたしは来るかどうかも分からない喧嘩中の友達を待っていました。
「ねぇ北原」
 背後から声がして、わたしは剣呑な顔を作って振り返ります。
「さっきは酷いことしてごめん。許してよ」
 クラスメイトの音無(おとなし)がそこに立っています。大きな目に赤い淵の眼鏡をかけて、絹のような長い髪を二本のゆるい三つ編みにして左右に垂らしている少女です。眼鏡も三つ編みも正直ダサいのですが、しかしその鼻は高く、肌は白く、唇は瑞々しいのでした。
 どこかおろおろとした様子の彼女の右手に、自販機で買ったらしきミルクセーキとブラックコーヒーが握られているのを見て、わたしは話をする気になりました。
「あのねぇ音無。わたしは何も、あなたがわたしのケツにカンチョーをしたから怒ってるんじゃないんですよ?」
 そう言うと、音無は小首を傾げて「違うの?」と言いました。
「違いますよ」
「普段のお子様なカンチョーと違って、マジの強烈なカンチョーをしたから怒ってるんじゃないの?」
「違いますよ」
「人差し指の第二関節まで深々と突き刺したから怒ってるんじゃないの?」
「違いますよ」
「怒る北原に向かって、『指とパンツがこんなに深く食い込んだんだから、北原のパンツ、多分ウンコで茶色くなってるね』って言ったのに怒ったの?」
「それも大いに遺憾です。でも違いますよ」
「その後であたしが自分の指先を嗅いで、『でもこれ臭いよー』って笑ったことに怒ってるの?」
「思わず顔を引っ叩いてしましましたね。でも違いますよ」
「じゃあじゃあ、その後保健室から教室に戻った北原に、『あ、やっぱりパンツ交換して来たんだ』って言ったことに、怒ってるの?」
「そうですよ! それなんですよ! 一番腹が立ったのは!」
 わたしは音無に人差し指を突きつけて、顔を赤くして喚きました。
「クラスの皆の前ででかい声で言いやがりましたよね! それまでのパンツにウンコ云々はまだ戯言で済みましたけど、その発言の所為で皆に事実として認識されちゃったじゃないですか!」
「男子にムッチャ『けつあな確定』って言われてたもんね」
「わたしはそういうくっだらないネットスラングが何より嫌いなんです!」
「で、本当に確定だったの?」
「違います! 確定してません! 単にケツが痛かったから保健室に行ってただけなんです!」
「切れ痔だったんだ……。大変だねまだ小五なのに」
「誰の所為ですか! まあそれはクスリですぐ治るそうだから良いですけど……でもバカな男子からからかわれるのは我慢なりません」
「まあまあ。男子なんてバカだから、明日になれば北原が確定されたことなんて、すぐに忘れるよ」
 笑顔でそう言いながら、音無はわたしの肩を掴んで、ミルクセーキを差し出しました。
「お詫びの印に買って来たからさ。一緒に飲もうよ」
「飲みます」
 許してやることにして、わたしは土手に座り込みました。決してミルクセーキに釣られた訳ではありません。
 音無は時折こうしたバカをやらかしてわたしに迷惑と実害を与えます。互いにからかい合ったりどつき合ったりすることが、親しい友達同士の健全なノリだと思っている節が、音無にはありました。
 わたしは友達とはもっと穏やかな関係性を構築したいと思っているのですが、このバカはそんなこと気にしちゃくれません。わたしが怒ればちゃんと謝りに来るので、今のところ、親友だと思ってやっています。
 土手に並んで腰かけて二人で缶を傾けていると、背後を通りかかった同級生たちに、「おっ、仲直りしたんだ」などと声を掛けられます。それらに笑顔で応じる音無を見ていると、自分で始めた喧嘩がすんなりと幕を下ろしたことへの安堵のようなものが、胸に広がりました。
「ねぇ北原。殺人鬼『指切り』って知ってる?」
 ふと、音無がそう口にします。
「知ってますよ。昨日もその話をしたじゃないですか」
 この友人は、何かの話をしたいとき、『知ってる?』という切り出し方しか知りません。
「また被害者が出たんだってね。六人目だって。怖いよね」
 『指切り』とは、わたし達の住まうこの地域に度々出没する殺人鬼の通称です。
 その犯行手口は極めて猟奇的です。凶器は鋭利な刃物のようなもの。最初は滅多刺しという殺し方でしたが、ここ最近は心臓を一突きするという鮮やかさも見せるようになっていました。
 『指切り』と呼ばれる所以は、殺害後被害者の指をいくつか切り取って持ち帰ることに由来しています。さらに『指切り』のおぞましいところは、自分で作った遺体を撮影し、インターネットの巨大掲示板にアップロードするところにありました。ある種の恣意行為と言う訳でしょう。
「今日の朝、六人目の被害者の遺体が見付かったってニュースがあったんならさ、今頃はもうネットに画像上がってる頃だよね。北原、一緒に家に見に来ない?」
 こいつは小学生の分際で個人用のパソコンを持っていました。スマホも所持していますが、そっちはあくまでも連絡用だそうで、ネットを見るのにはあまり使いたがりません。
「嫌ですよ。なんで死体なんてわざわざ見たがるんですか?」
「グロいの嫌い?」
「嫌いですよ。なんか最近、そういうグロいの見るのが恰好良くて大人みたいな風潮ありますけど、わたしは付いて行けませんよ。一周回ってガキって奴です、そんなのは」
「アハハハ合ってるよ北原。でもさ、あたしは何も、グロいもの見たさで死体見ようって言ってるんじゃないんだよ」
「じゃあ何でですか?」
「犯人の謎を解く為」
 さらりと言った音無に、わたしは絶句しました。
「『指切り』は死体の画像をアップロードすることで、世間の人に何か訴えかけてるんだって、あたしは思ってるんだ。どう思う?」
「……殺人鬼の訴えなんて知ったこっちゃありませんよ。無視してやらないからつけ上がるんです。警察が粛々と捜査して捕まえるのを、黙って待ってりゃ良いんですよ」
 わたしのこの主張に、音無は「合ってるね」としつつも、構わず話を続けました。
「『指切り』はね、被害者一人一人、切り取る指が違うんだよ。そこには何かしら法則があって、それを持って『指切り』はあたし達に何か伝えようとしてるんじゃないのかなって言うのが、あたしの考えてる説なんだけど……どうかな?」
「何かしらの法則って何ですか?」
「分かんない。一緒に考えてよ、北原」
「……明日にしませんか。今日はもう遅いので、あんまり遊べないじゃないですか」
 水曜日は授業が六時間目まである日です。おまけに、喧嘩の仲直りに少々の時間を費やした為、時刻は既に四時の後半でした。門限の六時に家に帰りつく為には、今から行ってもほとんど遊べません。
「分かった。じゃあ明日、約束ね」
「良いですよ。……それにしても、こんなに同じ地域で立て続けに犯行を犯して、『指切り』はどうして捕まらないんですかね? 日本の警察は優秀ですから、連続殺人なんてそうそう成立しないように思うんですが」
「そこはこう、天才的な頭脳の持ち主だとか? それか、もしかしたら……」
 音無は空を仰ぎ見ました。
「『中二病』なのかもしれないね」



 『中二病』、正式名称を『少年期異能力現出症候群』とする謎の病魔が世界に広がったのは、今からおよそ二十年前になります。
 ある時ある学校に通うある中学二年生の男子が、自分の手の平から火炎を生み出せることに気付きました。その力は当時子供達の間で流行っていたコミックスの主人公のそれを模したものであり、直に放てば、人間一人を焼き尽くすだけの威力がありました。
 その中学二年生の男子がその力を隠さなかった為、彼の両親はすぐに当局に相談しました。彼は政府の研究施設に送致されましたが、如何なる科学的アプローチを持ってしても、その力の正体を解き明かすことはできませんでした。それはまさに異能であり、超能力としか言いようのないものでした。
 間を置かず、同じような超能力を持った子供が、世界各地で発見されることになりました。人によって使える能力は様々で、彼らは空を飛び、風を操り、未来を予知し、心を読みました。
 彼らの人種、性別は様々でしたが、共通していることは皆子供であること。それも中学二年生を中心として、十歳から十八歳くらいまでに分布していることが、調査によって判明していました。
 『中二病』という通称の由来もそこにあります。つまり中学二年生の時に一番多く起こるから、そう呼ばれているという訳なのでした。
「中二病の『発症』には、思春期の多感な心が影響していると言われています」
 五時間目の保健体育、担任の空先生が、わたし達生徒の前で授業を行っていました。
「若い人の中には、自分が何か特殊な能力に目覚めるかもしれないということを、本気で信じている人は珍しくありません。どんな能力が欲しいとか、それをどんな風に使いたいとか、そんな空想を重ねている内に、どういう訳か現実にその力が使えるようになってしまう。それが『中二病』です」
 空先生は若くて綺麗な人でした。優しくていつも笑顔を絶やすことなく、小学生の生徒にも敬語で応じます。先生達の中ではあまり背は大きくなく、男子で一番背の高い増岡くんなどには、既に身長で抜かれていました。太っている訳ではないのに、どこかふんわりと柔らかい印象があり、胸がとても大きいことを一部の最低男子には気付かれてしまっていました。
「じゃあ先生。例えば『世界を滅ぼす力』なんてのを妄想してたら、それが本当になってしまうんですか?」
 生徒の一人が手をあげずに質問しました。先生によっては叱責の対象になるその行為にも、しかし空先生は笑顔を絶やしません。
「いいえ。想像するだけなら誰しも無敵の、何でもできてしまう力を想像しますが、実際に『発症』する力はそれよりスケールダウンしているそうです。力の強さには限界があるんですね」
「あまりにも強すぎる力は『発症』しないんですね」
「そう考えられています。とは言え『症状』は『進行』しますので、長く使い続けていると強化されることも分かっています」
「どうすれば中二病になれますか?」
 男子の一人が、手をあげるなり目を輝かせながら質問しました。クラスでもアホな男子です。
「『中二病』になりたいなどと、考えてはいけません。しかしどうすれば『なってしまうか』というと、自分が特殊な能力を得るという空想に浸りすぎた場合、さらには……」
「誰か身近に『中二病』の人間がいる場合……ですよね先生?」
 目立ちたがりの女子が、教科書を先読みして得た知識を持って先生に口を挟みました。
「そうですね。特に、精神的な結びつきが強い人間に、『中二病』の患者がいる場合、より『伝染』しやすくなることが分かっています」
「ウィルスみたいなものなんですか?」
「『中二病』は得意な精神状態に陥った子供に特殊能力が発現する精神病の一種です。菌やウィルスは関係ありません」
「じゃあなんで伝染するんですか?」
「皆さんにも、親しい友達や家族から、何か精神的な影響を受けるということはありますよね? いつも一緒にいると、物事の好き嫌いや、考え方が似て来ることはあると思います。それと同じだと思って下さい」
「中二病的な精神状態の人と一緒にいると、自分も同じような精神状態になって来るってことですか?」
「その通りです」
 それから空先生はわたし達生徒を見回して、真剣さを込めた声で言いました。
「ただ、どんなに気を付けていても、例えば周りに誰も中二病の人がいなかったり、特殊能力を得る空想をほんの少ししかしていなかったりする場合でも、中二病にかかってしまうケースは存在します。中二病はとても珍しい病気ではありますが、決して他人事とは考えずに、正しい知識を持って向き合うことが大切です。分かりましたね?」
「分かったのだ、お母さん」
 と。
 いう声が聞こえて来て、クラスの空気が一瞬固まりました。
「ところで質問なのだ。もし『中二病』になってしまったら、いったいどうすれば良いのだ?」
 独特の喋り口調で質問をしたのは、クラスでも特にぼんやりした性格の時川正午でした。それを聞いて、クラスの皆は腹を抱えて爆笑しました。
「な、なんなのだ? 何がおかしいのだ?」
「時川くん。先生はお母さんではありませんよ」
 空先生は慈しむように微笑します。時川くんは自分の失言に気付いて赤面しました。
「間違えることは誰にでもありますから、あまり笑わないであげてくださいね。さて、今の質問の答えですが……簡単です。決して中二病の『症状』を『発作』させないようにして、お父さんやお母さん、先生や周りの大人に相談しましょう」
「で、でもうそれをしたら隔離施設に送致されるのだ! それは嫌なのだ!」
 時川正午は赤面したまま言いました。
「お兄ちゃんやお姉ちゃんたちとも会えなくなるのだ。そこで『中二病』の症状がなくなるまで、何年も何年も隔離されてしまうのだ。そんなつらいことはないのだ」
 自分が中二病にかかった訳でもないのに騒いでいる正午は、クラスで一番幼い性格をした奴だとみなされていました。喋り方も何か子供っぽいですし、先生に敬語も使えません。
 外見は結構な美少年なのです。上背はそこまででもありませんが、端正でくっきりとした目鼻立ちをしています。まるでハリウッド映画に出て来る外国の子役みたいな雰囲気がありました。実際、幾ばくか外国人の血が入っているという話も聞きます。坊ちゃん狩りの髪は滑らかで、澄んだ瞳共々、わたし達よりほんの少し淡い色をしていました。
「落ち着いて、時川くん。『中二病』はとても珍しい病気だから、滅多にかかるものではありません。注意していれば、きっと大丈夫ですよ」
 空先生が落ち着かせるような声で言うと、時川も「のだ……」と俯いて喋らなくなりました。
「ですが、万が一中二病にかかっても、治らない訳じゃないから安心してください」
「どうやって治すんですか?」
 これはわたしです。普段あまり授業中に発言する方ではないですが、今日はなんだか皆が積極的に授業に参加する為、ついつられてしまったといったところです。
「医薬品などによる治療法が確立された訳ではありませんが、カウンセリングが有効だと言われています」
「カウンセリング……ですか」
「ええ。中二病はそもそも精神病で、特別な力を持ちたいという子供の心が引き起こすものです。なので、根気強くカウンセリングして、そんな特別ななんてなくても、あなたは価値のある素晴らしい人間なんだと理解させてあげることができれば、必ず中二病は完治します」
「……でも二十年前に発症した最初の中二病患者は、未だ離島の隔離施設から出られてないんだよね」
 そう言ったのは音無でした。
 挙手もせず敬語も使わず発言した音無を、しかし空先生は叱ったりしません。しかしいつもの柔らかな微笑みがそこにある訳ではなく、若干の緊張感を持って音無を見ているようにも、それは思えました。
「治療にかかる時間には個人差があります。何年もかかる人もいれば、数か月で出て来られる場合もあって……」
「『症状』を悪用して他人を殺したり、迷惑をかけた人もいれば、そうじゃない人もいるんでしょ? 普通に生きてただけなのに、ただその病気にかかっちゃったってだけで、家族と離れ離れにされて何年も監禁されるなんて、酷い話だと思うなあ」
「ですがそれは……」
「音無。空先生が困ってますよ」
 わたしがそう言って音無をいさめました。
「あなたの言うことはもっともだと思います。でも、それは空先生の所為じゃないでしょう」
「……確かにそうだね」
 音無はそう言ってあっさり引き下がりました。
「……そうね。でも今音無さんが言ってくれたような問題を、ずっと議論している人達だっています。これから世の中がどう中二病とどう向き合っていくのかは、現代社会における大切な課題の一つと言えるでしょう」
 そう言って、先生は中二病についての話をまとめました。
「さあ。中二病についてのお話はここまでです。次のページを……」
 わたし達は先生の指示に従って、『中二病』の単元が書かれたページを見送り、紙をめくりました。



 その日の放課後のことでした。
「お母さん」
 時川でした。腕を組んでむっつり黙り込むわたしの隣でおろおろとしている音無に、そう言って声をかけました。
「お母さん、何を喧嘩しているのだ?」
「あははは」
 それを聞いて、音無はおかしそうに笑いました。
「ちょっと時川くんまた言い間違えてるよ。先生のこと『お母さん』は分かるけどさ、クラスの女子にそれいうのはまずいでしょ?」
「あっ。また間違えたのだ」
 時川は顔を青くして口元に手を当てました。
「女の人なら誰でも『お母さん』と呼んでしまうのだ。本当に恥ずかしいのだ」
「注意しないとダメだよ時川くん。ねえ、『お母さん』」
「誰がお母さんだ!」
 音無にお母さん呼ばわりされて、わたしは憤慨しました。
「っていうか今時川にお母さん呼ばわりされてた音無ですよね?」
「え? そうだっけ?」
「いや絶対そうでしたよ。そうですよね時川くん」
「え、いや、わ、忘れたのだ」
 時川はそう言って視線を泳がせました。こいつは本当にウスラトンカチです。美少年の外見に反して、クラス一の天然おバカキャラなのでした。
「それより、二人ともどうしたのだ? またいつもの喧嘩なのだ?」
「そうなんだよ時川くん。北原ったらまた怒っちゃって」
 そう言って困った顔を浮かべる音無に、わたしは顔を赤くして叫びます。
「あなたが怒るようなことをするからでしょう!」
「ごめんって北原。何が嫌だった?」
「はん。自分で考えてみてください」
 わたしが唇を結んでそう言うと、音無は「うーん」と逡巡するような声で。
「さっきの保健体育の授業で、大人に近付くとおまたに毛が生えて来るって話をやってて……」
「それで?」
「で、あたしが最近おまたの毛が生えて来たことを北原に自慢したよね? それで怒ったの?」
「違います」
「じゃあ、その後それが本当だって証明する為に、教室の隅でパンツ降ろしてスカートちょっとだけめくって、北原におまたの毛を見せつけたこと?」
「それも正直思い出したくもない記憶ですが、違います」
「じゃあ、その後で北原に『北原は生えてるの?』ってしつこく追及したこと?」
「違います」
「生えてるって言い張る北原に、『でも前一緒に温泉行った時生えてなかったよね?』ってからかったこと?」
「それもムカつきますが、違います」
「それで『最近生えて来たんです~』って尚も言い張る北原に、じゃあ見せてよって言ってトイレ連れて行こうとしたこと?」
「違います」
「それも拒否するもんだから、『はーい北原にはやっぱり生えてませーん。お子様でーす! みなさーん、北原はお子様おまたですよー!』って教室中に大声で言ったこと?」
「それですよ! それなんですよ! わたしが怒ったのは」
 わたしは音無のアタマを引っ叩きました。
「い、痛い。痛いって北原叩かないでよ」
「叩かれるくらいのことはしてるって自覚してください! このアホ!」
 わたしは音無のアタマを尚も引っ叩きました。
「……それは音無が酷いのだ。皆に言いふらすのはちょっとダメなのだ」
 時川がそう言って公平な審判を下しました。
「わ、悪かったよ北原! 別に良いと思うよパイパンだって」
「パイパンとか言うな!」
 わたしは音無の頭をさらに引っ叩きました。
「ま、まあまあ北原。何度も叩くのはやり過ぎなのだ。音無はちゃんと反省してると思うのだ」
 時川はそう言って間に入りました。こんな子供っぽい奴に仲裁されるだなんて屈辱です。わたしは尚も声を荒くして。
「わたしだって今に生えてきますもん! そしたらお子様じゃないですもん!」
「わ、分かったよ。分かったってば北原。ごめんって」
 そう言って頭を庇いながら謝る音無の頬にはこらえきれない笑みが浮かんでいました。
「今日約束してたじゃん。ウチのお菓子全部食べて良いからさ。機嫌治してよ」
「治します」
 わたしは許してやることにしました。決してお菓子に釣られた訳じゃありません。
「二人は今日音無の家で遊ぶのだ?」
 時川が小首を傾げてそう言いました。
「そうだよ時川くん。一緒に来る?」
 音無はそう言って時川を誘いました。レベルが低い者同士なのか、この二人は性別が違う者同士としてはかなり仲が良い方でした。
「いや、遠慮しとくのだ」
「え? 来ないんですか。別に良いですけど」
 わたしは目を丸くしました。こいつは声を掛けるとだいたい付いてきます。
「別に嫌な訳じゃないのだ。ただ、他の友達にサッカーに誘われてるのだ」
「ああ。先約があるなら仕方ないですね」
「のだ。今日は五時間で授業が終わる日だからたっぷりできるのだ。出来たらキーパー以外をやりたいけど、キーパーでも別に良いのだ」
「なら頑張って来てください。じゃあ……行きましょうか音無」
「そうだね。じゃあね時川くん」
 そう言って、わたし達二人はランドセルを背負って歩き出しました。



 学校の敷地外に出る際、運動場の近くを通り過ぎます。そこで声が聞こえてきました。
「ねぇあなた? 今何を意識して素振りをしているの?」
 空先生でした。運動場の隅に設置されたテニス場で、ラケットを握る男子に何やら剣呑な声を発しています。
「さっき先生に指摘されたことはちゃんとアタマにあるの? ぼーっとただ振ってたら良いって訳じゃないでしょう? 漠然とやってるってことは、見てたら簡単に分かるんだからね!」
 叱られた男子生徒はしょんぼりとした表情で俯きますが、先生はフォローすることもしません。涙ぐんだ様子で再び素振りを始めた彼を、腕を組んでじっと見詰めているのでした。
「なんか……教室にいる時と違いますよね」
 わたしは音無にそう呟きました。
 五年生、六年生の授業が五時間で終わる火曜日と木曜日は、テニスクラブの練習日で、空先生はその顧問でした。
 小学校でテニスをやっているところは珍しいです。その中でも我が校のテニスクラブは強豪で知られており、大会では毎年何かしらの結果を出します。そしてそう言った実績は厳しい練習から生まれるものです。優しい空先生も、この時ばかりは心を鬼にするようでした。
「まあ、元々怒ったら怖い人ではあるしね」
 音無が言います。
「でも良いよね。あんな風に真剣に向き合って貰えるなんてさ」
「……本気で言ってます?」
 わたしが言うと、音無は一瞬、透明な瞳でわたしを見詰めると、いつものとぼけた笑顔になって。
「ウソウソ。ちょろい方が良いに決まってるよね」
 そう言って真っ赤な舌を出しました。
「じゃ。ウチ行こっか」
 音無の家は学校から徒歩で十五分程の、二階建ての小さなアパートにありました。
 古びた建物は茶色い塗装があちこち剝がれていて、鼠色のコンクリートを晒していました。住人だったという柄の悪い高校生が描いた卑猥な落書きが、もう何か月も消されずに放置されています。
 かなり人の出入りが流動的で知られるアパートで、音無家がここに来たのも、実は去年の四月だったりします。今でこそクラスに馴染んでいますが、こいつも昔は転校生だったりしたのです。
 鍵っ子の音無は扉を開くと、意外にも行儀の良い仕草で靴を揃えます。そしてわたしを部屋に案内しました。
「じゃ、お菓子とジュース持って来るから、部屋でくつろいでて」
「了解です」
 音無の部屋には何度も入ったことがあります。そこはもちろん散らかり放題の魔境……という訳では決してなく、部屋の隅にジグソーパズルの箱や額が積み上げられている程度で、基本的には整頓されたものでした。机にはパソコンが一つと、だいたいは作りかけのジグソーパズルが置かれています。部屋の壁には、所狭しと大小様々なジグソーパズルが飾られていました。
 わたしが壁に掛けられたパズルを見学させてもらっていると、音無がおぼんにお菓子とコーラとコーヒーを持って現れました。
「おまたせ。じゃ、画像見ようね」
 音無はノートパソコンを机から持ち上げて畳の床に置きました。音無の勉強机は大人が仕事に使うデスクみたいなデザインでしたが、如何せん椅子が一つしかないので、ここにパソコンを置いては二人では見られません。
 今日は、殺人鬼『指切り』がネットにアップロードしたという、被害者の遺体の画像を見ることになっていました。
「またあのグロいのを見るとなると、ちょっと緊張しますね」
 わたしはそう言って息を飲みました。
「気分悪くなったら言ってね。すぐ閉じるから」
 言いながらも、音無はパソコンを立ち上げました。
 良いパソコンを買って貰っているのか、パソコンの立ち上がりはスムーズです。音無はパソコンのパスワードをすべらかにタイプすると、フォルダに整理した画像を表示させました。
「はい、これが今回の被害者」
 それはやはりというか、おぞましい光景でした。
 胸を一突きされて殺害された、三十代くらいの男性です。夥しい出血がシャツを真っ黒に汚していて、コンクリートの地面にまでその鮮血は広く及んでいました。
 何より特徴的なのは、殺人鬼『指切り』の所以でもある、その切り取られた両手の指でしょう。今回は両手共に三本ずつ、左手からは親指、中指、人差し指が。右手からは中指、薬指、小指がそれぞれ切り取られていました。
「いつも思うんですけど……これってネットから削除されないんですか?」
 わたしが問うと、音無は答えます。
「すぐ消されるよ? でもそれより先に皆自分のパソコンに取り込んじゃうんだよね。そしたら後は、簡単に手に入れる方法なんていくらでもあるよ」
 確かに、ネットに詳しそうでもないクラスの男子が、スマホに表示させたのを見せびらかしているのを、前に見かけました。空先生も、あの時ばかりはクラスの生徒を厳しく叱っていました。
「でもこの画像、『指切り』が直接アップロードしてるんですよね? 発信元を辿ったら警察だってすぐ見付けられるんじゃないですか?」
「海外のプロバイダをいくつも経由して、辿れなくしているみたい。それ自体は別に高度な技術とかじゃなくて、TORとか専用のソフトを使えば誰でもできるね」
 音無は今度は別の画像を表示させます。それは電子化された新聞記事でした。
「被害者の名前は久方達郎、三十三歳の自衛隊員。殺された時間帯は一昨日の夜八時で、場所はバス停の近くの路地だってさ。大通りからは少し外れるけど、グーグルマップで見た限りだと、そこまで人通りがない場所って訳じゃなさそう。かなり大胆な犯行だね」
「自衛隊員……ってことは、強いんですよね?」
「かなり強いね。柔道三段で、大学時代、大きな大会で入賞もしてるんだってさ」
「……良くそこまで調べましたね。大したものです」
 わたしは真剣に感心していました。無地の1000ピースを完成させられるくらいですから、一つのことに集中する音無の力には凄まじいものがあります。
「ふっふっふ。北原よ、もっと褒めたまえ」
「その集中力を勉強にも使えたら、せめて平均点くらいは取れるんじゃないですか?」
「北原よ、余計なことを言うのはやめたまえ」
 次に音無は、エクセルファイルを一つ表示させました。
「で、これがこれまでの被害者の情報に、今回の被害者の情報を加えた文書だよ。殺された日付と、被害者の名前と性別、それに切られた指だね」

 4月6日 安西真琴 21歳女性※
 左手:親指、薬指、小指
 右手:小指、中指、人差し指、親指
 4月7日 吉本幸助 26歳男性
 左手:人差し指、薬指
 右手:中指、人差し指、小指
 4月13日 工藤昭雄 53歳男性
 左手、親指、人差し指、中指、薬指、小指
 右手:中指、人差し指、小指
 4月17日 中津川敦子 18歳女性
 左手:親指、人差し指、薬指
 右手:小指、薬指、親指
 4月20日 伊藤隆 18歳男性
 左手:中指、薬指、小指
 右手:薬指、中指、小指
 4月23日 久方達郎 33歳男性
 左手:親指、中指、人差し指
 右手:中指、薬指、小指

「で……興味深いのが、最初の被害者なんだよね」
 音無は言います。
「安西真琴さんですか? この米印の」
「うん。この人に限ってだけ、指を切られるだけじゃなく、口の中の歯を抜かれてるんだ。それも、小臼歯だけを八本とも全部。口の中の画像までアップロードされてるよ」
 小臼歯というのはいわゆる『小さい奥歯』のことで、犬歯の隣に上下左右に二本ずつ、合計八本ある歯のことでした。
「安西真琴は最初の被害者でかつ、『指切り』だけじゃなく『歯抜き』を行われた唯一の被害者なんだ。これには何か、重大な意味があるに違いないよ」
「犯人からのメッセージ……とか言ってましたよね?」
 そんな噂があるのはわたしも知っています。音無が騒ぐから……というだけでなく、普通に暮らしていれば家族やクラスメイトから耳にします。お陰で『見立て殺人』という言葉も覚えました。
「犯人である『指切り』がネットに死体の写真をアップロードするのは、その『見立て』について、日本中の皆に考えて欲しいからなんだろうね。警察だけじゃなくってさ」
「それなんですが」
 わたしは常々思っていたことを言いました。
「警察が今日この日に至るまで解き明かせていないその『見立て』を、一般人に解き明かせるとは思えないんですよね」
「確かに日本警察は優秀だよ。それでもあたしは、これを解くとすれば一般の誰かだと思ってるね」
「それはまた、どうして?」
「単純に人数の違いだよ。こんな大事件なら相当大きな捜査チームが出来てるだろうけど、それにしたって精々数十人とかじゃん? でも日本人は全部で一億人以上いるんだよ? どっちが先に真相にたどり着くかって言ったら、そりゃ一億の中の誰かじゃない?」
 そう言われ、わたしは思わず答えに窮しました。こいつが言うと屁理屈に聞こえますが、しかしいざ反論を試みるとなると、どこから攻めて良いのかどうか戸惑ってしまうのでした。
「そしてその一億人の中の誰かとは、このあたし音無夕菜ちゃんなのでした!」
 それはあり得ません。と、ぴしゃりと言ってやりたい気分でしたが、音無が真剣にこの謎に取り組んでいるのを目の当たりにすると、どうもそれを口にする気にはなりませんでした。



 その後、わたしと音無は二人でこれまでの情報を元に議論を行いました。
 しかし当然ながら、その議論が有益な閃きを生み出すことはなく、「やっぱり難しいなあ」という結論を共有するにとどまりました。
 やがて話も尽きた頃、音無はファイルを閉じてからあっけらかんとこう言いました。
「ねえ。一緒にアニメ見ない?」
 内心話にも飽きていたわたしは賛成しました。
 ここ最近、音無と一緒に見ているのは、十五年程昔に放送を終了した推理アニメです。洞察力に長けつつもどこか無気力な少年が、刑事の娘で好奇心旺盛な幼馴染に振り回されながら、様々な事件の謎を解くというものでした。
 三年間放送されたそうですが内容は正直パッとせず、特にキャラクターの魅力には乏しいものが感じられてしまいます。十五年前の作品ということで、映像なんかの技術が今と比べると相当劣っていることも、そのパッとしなさに拍車をかけているようでした。
 おまけに。
「ここっ、ここっ。この『着ている水着で本人を判別した』っていうのが大切な伏線なんだよねっ! 顔のない死体は疑えって言って、つまりこの死んだことになってる競泳選手が事件の犯人……」
「だーっ。ネタバレしないでくださいよ!」
 わたしは憤怒して音無に抗議しました。
「このアニメ、推理部分の脚本の良さだけが取り柄なのに、そこネタバレしたら何も面白くないじゃないですか?」
「ごめんごめん。でも普通にキャラも良いじゃん。主人公とか格好いいしさー」
「どこがですか! こんな斜に構えた無気力野郎のどこが良いんですか? ヒロインだって、如何にも男子が喜びそうな媚び諂った萌えキャラじゃないですか!」
「そうかなー。あたしは良いと思うんだけど」
「面白いと思うんなら黙って見ててくださいよ!」
「だってあたしこれ三周してるんだよ? ストーリー全部覚えてたらネタバレしたくなって当然じゃん」
「するな! ああもうっ、これじゃもうおもしろくないじゃないですか!」
「じゃあ見るのやめる?」
「見ます!」
 そう言ってむっつり黙り込んだわたしの横から、「北原も結局これ好きなんじゃん」と面白がるような声が聞こえます。わたしは無視しました。
 画面の中では、さっき音無がネタバレした通りの推理を、主人公が面倒くさそうに披露しています。人の命が奪われた後でもこの主人公はいつだって面倒臭そうにしていて、そうした不謹慎さと自分本位さがどうにも鼻に付くのでした。
 しかし、そんな彼だからこそ、この物語は面白いのだと思う瞬間もあります。
 彼は自身の高い推理力に関心を持ちません。平穏に生きられればそれで良いというポーズを取っていますが、そんな彼を周囲はいつだって持て囃しています。そんな彼をライバル視する相手は何人かいますが、それらを一顧だにする様子もなく、しかしいざ対決となればけだるげな態度でいともたやすく退けてしまうのです。
 動画を視聴する内に、そんな嫌な奴であるはずの彼に、自己投影して楽しんでしまっている自分に気付くのです。まるで自分が超推理を披露し、周囲から持て囃され、ライバルを悔しがらせているような、そんな錯覚に陥る瞬間があるのです。それはとても甘美な体験なのでした。
「ううむ……」
 これは案外、計算されたキャラクター造形なんだろうと思います。活発で明るいタイプではなく、無気力で冷淡なタイプであることも、これを視聴するであろう年齢層には合致しているのかも……?
「見入ってるじゃん」
 音無のからかう声がします。
「うるさいですね」
 言いつつも、わたしは妄想の世界に旅立っていました。もしもわたしに、どんな難解な事件も解き明かしてしまう力が備わったら……という妄想です。
 もちろんわたしにはこの主人公のような超推理はできません。ですが例えばそう、一目見るだけで殺人犯が誰か分かってしまう、なんて能力が備わったらどうでしょうか? そうなったらわたしはきっと色んな犯行現場に引っ張りだこで、色んな人から持て囃されて……。
「いやいや」
 わたしは首を横に振ります。くだらないことを考えていました。
 冷静になったわたしは、画面の方へと向き直ります。
 その時。
 ふと目に入った音無の頭上に、『1』と書かれた数字が漂っているのを目の当たりにしました。
「……は?」
 わたしは目を擦り、音無の顔をまじまじと見ます。
 どんなに目を擦っても、その『1』という数字は消えてくれません。空中を漂うそれに思わず手を伸ばしますが、それはまるで蜃気楼か何かのように手指を突き抜け、掴むことができないのでした。
「何やってるの北原」
「あ、いや、すいません」
「あたしの頭上になんかあったの?」
「いやその……ものすごいアホ毛がですね」
 そう言うと、アホな音無は「え? 本当?」と言いながら、自分のアホ毛を探して髪の毛をわちゃくちゃとやり始めました。
 わたしは早鐘のように心臓が鳴っているのに気が付きます。気が動転して、とても自然体に振舞うことなどできそうにありません。このまま音無とい続けるのは危険でした。
「そろそろ帰ろうと思います。お菓子おいしかったです」
「まだちょっと早くない? もう一話くらい見えると思うんだけど」
「それがその……ちょっと画面を見過ぎてる所為か、気分が悪くなっちゃって」
「そっか。じゃあ家に帰って休んだ方が良いかもね」
 そう言ってわたしを玄関まで見送る音無に背を向けて、わたしはアパートを飛び出しました。
 全身からはたっぷりと汗が吹き出します。まだ完全に温まり切っていない四月の風は、そんな汗ばんだ身体に冷たく吹きました。相変わらず心臓は高くなり続けていて、お腹の中までもがきりきりと痛み始めます。
 視界では、すれ違う人々の頭上に、『0』という数字がずらりと並んでいるのが見えました。それは錯覚ではなく確かな視覚情報で、そしてわたし一人にしか見えていないようなのでした。
 そんなはずはない、と思いました。
 何かの間違いだ、と思いました。
 わたしはただアニメを見ながら、ちょっとした妄想を楽しんでいただけだ。それがどうして、『中二病』なんかに発症しなければならないのか!
 わたしは空先生の言葉を思い出しました。
 『どんなに気を付けていても、例えば特殊能力を得る空想をほんの少ししかしていなくても、中二病にかかってしまうケースはあります』
 理不尽に思えて仕方ありませんでした。わたしよりももっと、この病気にかかるのに相応しい人がいるはずなのです。なのに!
 当てもなく闇雲に走り回り、ほとんどが『0』と表示される人々とすれ違う内、夕闇が傍まで迫っていることに気が付きました。
 わたしはとぼとぼと、自宅である一軒家と帰ります。そして一つの仮説を立ててリビングのテレビの前に座り込み、ニュース番組にチャンネルを合わせました。
 ニュースキャスターの頭上には、しっかりと『0』が表示されています。画面越しの人にも効果は適応されるようです。
 ニュースを見ていると、強盗殺人を起こして逮捕された男についての報道が始まりました。
 その頭上には……『1』という数字がありました。
 わたしはそのままニュースを見続けました。遠くの国で行われている戦争についての報道では、何人かの兵士の頭上に1や2、3と言った数字が浮かんでいました。大昔に殺人罪で死刑宣告をされたものの、冤罪の疑いから再審が行われ釈放されたという男の頭上には、その事件の被害者と同じ『3』という数が浮かんでいました。
「霧子ちゃん」
 背後から声を掛けられて振り返ると、心配そうに顔を覗き込む母がいました。
「どうしたのニュースばっかり見て。顔も青いわよ?」
「な、何でもない」
 わたしは答えて、動揺を悟られないように、二階の自室へと引っ込みました。
 ベッドにもぐりこみ、布団を顔に被ります。そして考えます。
 この力は……過去にその人が殺した人数を明らかにするもののようです。
 わたしの身体から何か出るとか、何かしらの超常現象を引き起こすとか、そういった類ではありません。つまり、わたしの方から誰かにこの力のことを打ち明けない限り、バレる心配はないということです。
 ……誰かに話すか黙っているか。結論は明らかでした。
「……黙っていよう」
 誰かに話せば中二病なことがバレて、離島の隔離施設へ送致されてしまいます。戻って来られるのに何年かかるか分かりません。そんなことは嫌でした。
 わたしは布団から顔を出して天井を仰ぎ見ます。
 結論を出してみると、全身を包み込んでいた動揺が霧散し始めました。そう、バレるようなことはないのです。音無には多少不自然な態度を見せてしまいましたが、よしんばそれで何かしらの訝しさを感じたとしても、わたしが中二病だという証拠は何もないのでした。
「霧子ー。もうごはんよーっ。降りて来なさい!」
 母親の声がしました。「はーい」と返事をしておいて、わたしは先ほどよりは落ち着いた気持ちで階段を降ります。
 食卓に着くまでの道中、わたしはふと音無の顔を思い出し、考えます。
 何故、彼女の頭上に、『1』という数字が浮かんでいたのかということを。
 彼女に対し、今後どのような態度を取るべきか、ということを。

 
 ×2×

 登校中、いつもの土手を歩いていると、近所の小学校の制服を着た少女が向かいから歩いて来た。
 頭上の『数字』を確認する。五十五年十か月二十四日十五分四十秒。
 三十九秒、三十八秒……と数字は下降していく。何ともなしにすれ違おうと思ったのだが、少女はどういう訳か俺の顔……正確には頭上を見て立ち竦み、息を飲んだ。
 「ひっ……」
 顔面を蒼白にさせて硬直しているのは、肩程までで綺麗に揃えられたおかっぱ頭の、小学校の高学年くらいの少女だった。眉がやや太く、目鼻立ちは端正な部類で、どこか日本人形のような雰囲気があった。
 俺は少女の胸元の名札を見る。『北原』とあった。
 ついまじまじと見詰めていると、少女ははっとした様子で視線を反らし、脇を通り抜けて怯えたように立ち去って行った。
 ……まさかな。と思う。
 とは言え、警戒しておいた方が良いことも事実だった。
 今の出来事と、北原という少女の特徴をアタマに刻み込んだ上で、俺は通学している私立海星高校へと歩みを進めた。
 ちなみに『海星』は『かいせい』と読む。『ひとで』ではない。



 「時川くん」声をかけられる。「おはよう」
 クラスメイトの西宮だった。薄く脱色したセミロングの髪にボリュームを出し、やや釣り上がり気味の利発そうな目を持つ少女である。メリハリの付いた体付きをしたなかなかの美人で、クラスでも特に目立つ中心人物だった。
 「おう西宮。おはよう」俺は笑顔で応じる
 「あのさ時川くん。わたし、他とは違う特別な人を見分ける力があるの」
 なんだよ唐突に。「『力』って……それ『中二病』か」
 「違うよ。それだったら隔離施設に入れられちゃうじゃない」西宮は苦笑する。「そうじゃなくってね、本当にただ、その人の持つオーラというか、他とは違う何かを漠然と感じ取れちゃうの」
 「それが中二病なんじゃないのか?」
 「だから違うって。単なる第六感みたいなもの」
 「そうなのか。それはすごいな」俺は乗っておいてやる。「で、その第六感とやらはどんな風に働くんだ?」
 「第六感が働くとね、その人だけが、何だか周囲の凡人よりも、くっきりとした輪郭を持っているように感じられるの。同じようにそこに立っているだけなのに、その人の存在だけが明瞭で、周りの人をぼやけさせちゃう、みたいな」
 「そういう奴って、いるよな」俺は腕を組んで何度か頷いてやる。「何もしなくても目立つ奴っていうのかな? 存在感の濃い薄いっていうのはある。中には特別なオーラみたいなのを放ってる奴も時にはいるよな? なんとなく、言わんとしていることは分かるよ」
 俺は話を合わせておいた。不思議少女ぶっているだけなのか、本気で自分にそんな第六感が備わっていると信じているのか、どちらなのかは分からない。ただどちらの場合であっても対処の方法は明らかだった。テキトウに聞き流す。
 「それでね、この学年の生徒で、そうした第六感が働いた、特別なオーラの持ち主は五人」
 「それは誰なんだ?」俺は相手の求めていそうな合いの手を返す。
 「一人は隣のクラスの渡辺くん。あのぽっちゃりした男の子ね。彼からオーラを感じた理由は簡単だと思う。何せ学年で一番の成績なんだからね」
 「ああ。あいつの学力は別格だよな」
 俺は頷く。我が私立海星高校は日本屈指の名門校で、東大はもちろん海外の名門大学にも数多くの生徒を輩出するが、渡辺はその中でも特出した学力を持った生徒だった。何せ全国模試でトップを何度も経験しているというのだからすごい。
 「もう一人は内のクラスの椎名さん。彼女も分かりやすいよね? 何せあの容姿なんだもの。あれだけ綺麗なだけじゃなくて、理事長の娘のお嬢様で、性格は優しくておしとやか」
 そう言った西宮と共に椎名の方に視線を向ける。おっとりとした大きな垂れ目の、とんでもない美少女が席に着いている。彼女は俺達の視線に気づくと、瀟洒な笑みを浮かべて会釈をした。男なら誰しもが心臓を射抜かれる微笑みと仕草だった。
 「そうした特出した能力の持ち主から、特別なオーラを感じるってことか?」と俺。
 「そうね。それで隠れた才能を発掘したことだってあるのよ。例えばそう……三組の木曽川さんとかね」
 「あいつ、なんか特技あるのか?」
 一年の時同じクラスだったが、やせっぱちの目立たないチビという印象が強い。声を掛けてもたいていはもごもごとした返事を返すだけで、昼休みになるとトイレにこもる。そういうタイプの女子だった。まあ陰キャだな。
 「あの人、油絵の才能があるのよ。コンクールで一番良い賞を何度も取ったこともある。東京芸大を目指してるそうよ」
 「へえ。そんな特技があるんだな」
 「四人目は……これも意外だと思うけど、六組の佐々岡くん」
 「佐々岡って言ったら……あの貫禄のある」
 俺は自分の額に手をやった。
 「そう。あのハゲね」
 佐々岡は薄毛の男子で、高校三年生にして既に前髪の後退が始まっていた。並びの悪いボロボロの歯をしていて、いつだって放置した虫歯が痛いと喚いていた。成績はいつも赤点ギリギリだったがテスト対策はせず、試験期間中でも放課後はいつもゲームセンターに吸い込まれ、他校の柄の悪い仲間達とはしゃいでいた。
 「アイツになんか取り柄とかあんのかよ?」
 「そうね。わたしも不思議だった。だから徹底的に調べてみたんだけど……どうも彼、中学の頃カードゲームの大会で日本一になったことがあるそうなの」
 「マジで?」俺は目を丸くする。
 「ええ。本人は今すぐ高校を中退してでもアメリカに行って、そのカードゲームのプロになりたいそうなんだけど、ご両親には反対されてるらしいわ」
 「ふーん」
 得意げに語る西宮。俺はテキトウに聞き流しつつも、彼女の言い分にある一つの仮説を立てていた。そしてそれを口にする。
 「聞いてみて思ったんだけどさ。西宮のその第六感って……もしかしたらスピリチュアルなものじゃないんじゃないのか?」
 「どういうこと?」
 「つまりだよ。何か特別な才能を持った人間って、特有の振る舞い方があると思うんだよ。自分の能力に対する自信や自負が、自然と態度に現れるっていうことはあるじゃん? 西宮はさ、そうした態度や物腰から滲み出すものを感じる力が、人より強いってことじゃないのか?」
 「それ、単なる自惚れくんも探知しちゃわない?」
 「本当の自信と虚仮の自惚れは違う。それは本人の振る舞いにも表れる」
 「なるほどね。確かに、そうした仮説も立つかもしれない」西宮はうんうんと頷いた。「この力は別に『中二病』の症状とかじゃないしね。それで、ここからが本題なんだけど……わたしの第六感が働いた五人目の人って、誰だと思う?」
 「さあな。分からん。溝口とかか?」
 「晩年学年二位の? 違う違う。あの程度じゃダメなんだよ」
 「じゃあ生徒会長の辻本とか? ユーチューバーやってる岸田は? 数オリ出た海老澤も候補かな? 真壁とかも実はダークホースかもしれないな。FPSが得意でさ、世界ランキングの常連で将来はプロゲーマーを……」
 「全部違う」
 「じゃあ誰なんだよ」
 「それはね……」西宮は俺の頭上に指先を突きつける。「あなたよ、時川くん」
 「俺かあ」
 つい満更でもない笑顔がこぼれた。こいつの『第六感』とやらを信用する気は毛頭ないが、それでも評価されるのは割と嬉しい。
 「ええ。その『第六感』っていうのは初対面でいきなり働くものじゃなくって、接している内にじわじわとオーラを感じ取れるようになる具合なのね? 時川くんの持つオーラも、三年になって同じクラスになってから、初めて感じ取れるようになった」
 「ふーん。で、俺にはいったいどんな才能があるんだ?」
 「それが分からないのよ」西宮は小首を傾げる。「あなたの放つオーラっていうのは、今紹介した四人の誰よりも強いくらいなのね。質が違うとすら言っても良い。なのに、あなたをずっと観察していても、ちっともその秘密が分からないのよ」
 「俺の取り柄が分からないってことか」失礼な奴だな。
 「ええ。時川くん、何か心当たりはない?」
 「俺、成績は良いぜ? 理三志望だし」理三とは東大の医学部のことである。
 「時川くんって、時川病院の御曹司だもんね。医者になるんだ」
 「ああな」俺は頷く。「将来のスーパードクターかも知れんぞ」
 「でも時川くん。成績は良いって言っても学年で五番とか十番とかだよね? そりゃあ海星で十傑に入っていたら理三にも受かるだろうけど、でもそれだけじゃあなたの放つオーラの根拠には弱いのよ」
 「俺、結構動ける方だぞ? 実は中学の頃はテニスで全国行ったんだ」
 「それはすごいわね。どこまで行ったの?」
 「初戦敗退」
 「じゃあダメよ」
 「勉強でも運動でもないなら……顔か?」俺は自分のツラを指で示す。
 「それ、自分で言ってて恥ずかしくない?」
 「うるせバーカ」失礼だなこいつマジで。
 「ごめんごめん。でもイケてると思うよ? 背も高いしスタイルも良いしね。そうね、総合力っていう意味なら、時川くんはちょっとしたものだと思う。モテるしね」西宮は頷いて見せる。「でもね、それじゃ説明が付かないのよ。何か隠し持ってなあい?」
 「ないな。おまえの知ってる俺が、俺の全て……とは言わないまでも、まあだいたいだよ」
 俺は答えた。
 西宮訝しむような視線をじっと俺に向け続ける。俺が飄々とそれを受け流していると、西宮はぷいと視線を反らしてから。
 「絶対、解明するんだからね」
 と言って自分の席に帰って行った。



 一日の授業を終え、帰宅しようとしたところで、西宮に声をかけられた。
 「帰りどっかで話さない?」
 「いいぞ。喫茶店かどっか行くか」
 西宮は美人な方なので、一緒にいるのは気分が良くないでもなかった。クラスで誰か狙うとすればやはり椎名だが、アイツの性格は掴み所がなさすぎる。
 「どこの店にする?」
 「どこでも。時川くんの好きな場所で良いよ」
 「そうか。じゃあ付いて来てくれ」
 俺はアタマの中で街の地図を描いた。残り時間を考慮して、どこを目標にすれば良いのかを概算する。女の脚に合わせることを考えれば、少し近めの場所を選んだほうが良さそうだった。
 西宮と隣り合って、見慣れた街を二人で歩く。一歩進む度、西宮のセミロングの髪が微かに揺れる。微かにシャンプーの香りがした。
 てっきり俺の『才能』について話すのかと思ったが、実際には二人の会話はとりとめのないものとなった。日常生活の些細な発見や愚痴、庭に蛇が出て弟が噛まれたという笑い話、将来はアナウンサーになりたいということ、などなどの話を西宮は俺にした。
 西宮の笑顔は純粋なもので、真剣に俺との時間を楽しんでくれているのが分かった。そのことが俺にとっても嬉しく、自然と俺の顔からも笑顔がこぼれた。
 近所で有名な廃墟である三ツ木小学校跡の前などを通り、やがて二人は人気のない道に足を踏み入れた。車が一台通るのがぎりぎりの、無骨な白いコンクリートで塗装された道だ。右手側は水路を挟んで林になっていて、左手側にはコンクリートの壁を挟んで閉鎖中の工場の建物があった。
 まず人は通らない。
 「ねぇ時川くん。この近くに喫茶店なんかあったっけ?」
 「もう少しだよ」俺は笑顔で答える。「ところでさ、西宮。おまえ、俺の才能が気になるんだってな。それについて話そうと思う。これを見てくれ」
 俺はそう言って、鞄の中に入れておいた一本の瓶を取り出した。
 そこには切り取られた人の指が入っていた。
 西宮は絶句する。滴り落ちた血液は瓶の底に沈んでいた。六本の指は血まみれで瓶の中で絡み合い、あふれ出す瘴気が瓶の中をどす黒く満たすかのようだった。
 「な……何それ」西宮は顔を青くして震えあがった。「どういうこと? 冗談でしょ?」
 俺は懐から堂々とガムテープを取り出して、切れ端を作って西宮の唇に手を伸ばした。西宮は悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、ただちに追い掛けて組み伏せ、口を封じてしまう。
 「声を上げても誰も来ないよ。おまえが死ぬ運命は決まっている」俺はせせら笑いながら、西宮の頭上の数値を指さした。「あと一分四十二秒、一秒、四十秒……」
 西宮は何やらもがもがと騒いでいる。俺はそれを一顧だにせずに話を続けた。
 「俺は『中二病』なんだ。人間の寿命が見える。おまえは後一分三十秒で死ぬ。そして俺にはおまえを殺す意思があるから、まず間違いなく俺に殺されるんだろう」
 西宮は相変わらずもごもご言いながら抵抗を試みるが、俺は組み伏せ続けるだけだ。
 「殺人鬼『指切り』の正体は俺だ。そしてそれこそが、おまえが俺に感じていた『オーラ』……『才能』の正体だ。『中二病』は才能じゃなくて病魔だと俺も思う。だが殺人鬼であることは実績だし才能だと俺は思っている。国を救った英雄も国を脅かした悪党も同じように歴史の教科書に載る。それと同じで、成したことの大きさに、善悪は関係ないんだ」
 西宮の目から大粒の涙が零れ落ちる。その表情から恐怖と絶望が滲んでいる。
 「言っとくけど、おまえが死んだ後俺が捕まって死刑になるってこともないぞ。俺は自分の寿命だって見えるんだが……八十二まで生きることになってるんでな」
 俺は今年の四月四日に十八歳になって、その二日後に殺人行為を開始した。
 もうすでに六人、殺しているから、もし捕まったら確実に死刑になる。しかし俺の寿命は後六十年以上残っている訳だから、少なくとも俺が警察に捕まることはないのだろう。
 「さて。寿命まであと一分切ったな。準備をしないとだ」
 俺は西宮の太ももにナイフを突き刺た。西宮は声にならない悲鳴を上げてもだえ苦しんだ。
 ナイフを刺しっぱなしのまま、俺は立ち上がって鞄の中からレインコートを取り出して着用し始めた。返り血を浴びない為の処置だった。ナイフを太ももに刺したのはこの間に逃げ出されないようにする為だ。ガムテープで縛るより、余程効率が良い。
 レインコートを着終えると、西宮の寿命は残り十秒足らずになっていた。片脚を引きずって逃げようとしている西宮にあっけなく追い付いて、俺は太ももからナイフを抜いた。飛び出る鮮血。
 「じゃあな西宮」
 俺はナイフを西宮の胸に突き下ろす。
 この時この瞬間、俺は確かに死神の気分を味わえる。
 死を予知し死を下す、死の運命を司る、俺は人を超えた究極の存在なのだ。



 俺がこの能力を『発症』したのは、中学二年生の時だった。
 発症した際に感じたのは喜びと落胆だった。『中二病』にかかってみたいという願望が叶ったのは嬉しかったが、しかしその能力は強力とは言い難いものだった。
 何せ寿命が数値化されて見られたところで何がどうなる訳でもない。何と言っても、俺の見る寿命はどうしたって書き換え不可能なものだった。
 一度、寿命が僅かな酔っ払いが道路をふらふらと歩いていた時、俺は車に轢かれると思って大きな声で注意を喚起したことがあった。実験の為だ。それで何が起きたかというと、そいつは俺の声に驚いてその場で立ち竦み、立ち竦んだことによって走って来た車に轢かれて死んだ。
 中学の時、寿命が僅かなクラスのいじめられっ子が自殺を仄めかしていたので、実験の為にそいつを庇ってやったこともあった。だがそいつが女だったことからあろうことか俺のストーカーと化し、はっきり突き放してやったところ気色の悪い遺書を残して首を吊って死んだ。
 どうやら、俺が予知した寿命を元に誰かを救おうと行動をしたところで、そいつの寿命は変わらないらしかった。どころか、俺が予知を元にして行動することすらも孕んだ上で、その数値は設定されているようなのだった。
 とどのつまり……俺は運命を知ることはできても、運命を変えることはできないのだ。
 そもそも運命なるものが存在すること自体、俺には衝撃的だった。ラプラスの悪魔という思考実験(現代の総括が未来なのだから、現代を観測すれば未来は完璧に予知できる。したがってあらゆる未来は既に決定されている)も知ってはいたが、本気にしたことは一度もなかった。
 それなのに。
 俺がどんな行動を取ろうと、心の中で何を思おうと、それはあらかじめ決定された運命に従っているに過ぎない。ならば俺に自由はあるのか? 意思はあるのか? 意思とはなんだ?
 分からない。
 が……そうした哲学的思考を通り過ぎるのはすぐだった。そんなことは考えても意味がないということに気が付いたのだ。いや最初からそんなことは分かっていたのだが、感情の部分で納得するのに少し時間がかかったのだ。
 俺は俺の知る運命を俺の利益に結び付ける方法を考えた。俺がそうすることすらも決定された運命の一部分だったが、そんなことは気にならなかった。
 様々な考えが俺のアタマに浮かんだ。優秀な経営者の寿命がいつかを把握して株で大儲けする。上手く身を隠しながら情報屋になる。自分がいつ死ぬか分かっていれば、それ以前の段階では多少の無茶ができる。などなど。
 そして気が付いた。
 この力を利用すれば、俺は死神になることが出来るのだと。
 誰がいつ死ぬかを分かっているということは、殺そうとして殺し切れる相手が誰なのかを分かっているということだった。寿命が後五十年ある奴を殺しにかかったところで失敗するのは目に見えているが、十秒後に死ぬ相手を殺しにかかれば、まずそいつを殺し切れるということを意味している。
 俺が殺しを失敗することは、絶対にない。
 それは殺人鬼になる上で絶対的なアドバンテージだった。
 さらに俺はあることに気付いて鏡を見詰めた。俺が死ぬのは八十二歳。つまり、死刑になる十八歳になってからとっとと二人殺してしまえば、俺は絶対に捕まらないことが保証されるという訳だった。この精神的安心感は、殺人鬼活動にとってかけがえのないものだ。
 俺は世界でもっとも偉大な殺人鬼になることを決意した。俺は来る十八歳に備え、何年も前からターゲットを選定し始めた。十八歳の誕生日から間を置かずに死ぬことになっている人間を洗い出し、その行動習慣を調べ、殺害方法をシミュレートする。
 運命のバースデイがやって来たのは、今からほんの一か月前のことだった。



 その後塾に寄って家に帰りハウスキーパーの作った夕飯を食った後、俺は自室へ引っ込んで、鞄の中から西宮の指入りの瓶を取り出した。
 西宮のイニシャルは『N』なので、左手の小指以外の四本と、右手の小指と薬指の二本、合計六本を切ることになった。
 女の指は細くて綺麗だ。俺にはある程度以上の容姿の女を殺した時は、その指を咥えて血を啜るという習慣があった。出来ることなら、校内でも特出した美少女と西宮の第六感が認めた椎名の指をしゃぶり倒したかったし、何ならレイプ殺人をしたいところだったが、奴は105歳まで生きることになっているので諦めていた。
 瓶から出した西宮の人差し指を口に咥えながら、西宮の遺体の写真をインターネットにアップする。専用のソフトを使って海外のプロバイダを複数経由しているので、警察に探知される心配はない。
 最初の頃は、殺人鬼『指切り』という言葉もなかったので、猟奇殺人とはまったく無関係な何でもない掲示板に画像を投下していた。しかし今では『指切り』には『指切り』の専門のスレッドが無数に存在していた為、その内の一つに画像を投下するようにしていた。
 当然、反響は凄まじいものがある。
 俺はこの時間が何よりも好きだった。ネットの奴らは俺の偉業に悲鳴を上げ、或いは称え、俺の残したメッセージについて死に物狂いで知りたがる。写真の隅々まで見渡して些細なことまであーだこーだと議論を交わす。そんな様子を見ていると、全身が震えあがるような快感に支配される。
 最高の気分。
 正直俺の生活は結構キツかった。親や周囲の期待が重圧になるタイプではなかったが、しかし俺自身の中に強いエリート意識みたいなものがあって、何でも人より上手くできないと納得いかなかった。しんどいと思いながらも努力はしたが、どんな分野でも秀才止まりで、トップには立てなかった。だから何か心の底からスカっとするような、強烈な勝利感を常に求めていた。
 そこへ来て俺が志したのが『殺人鬼』だ。『指切り』は令和最大にして最凶の猟奇殺人鬼となるのだ。そして誰にも捕まることなく事件は迷宮入りし、俺は社会や警察に対する強烈な勝利感を胸に抱きながら、兄姉を退け親父の病院を継いで裕福な人生を送る。俺は優秀だし、寿命が見えるという力は医者にとってチート級のアドバンテージだから、きっとそっちの方でも成功することだろう。
 順風満帆。
 一通り気分が良くなったところで、俺は東大受験の為の勉強を始めた。まだ三年生の四月だし、模試ではずっとA判定が出ていて余裕もあったが、しかし俺の見える運命は寿命だけだ。合格通知を受け取る自分の姿を見た訳じゃない。コツコツと努力をすることが大切なのだ。
 その後十一時半くらいまで勉強を続けていると、俺は腹が減って来た。
 自然と、俺は三階にある部屋を出て一階の方へと脚を向けていた。もうひと頑張りするにしろ寝るにしろ、今はなんか食いたい。
 そんな思惑を胸にダイニングへ向かうと、そこでは兄貴と妹がラーメンを食べていた。
 「何食ってんだよ」と俺。
 「みそラーメンだよ。目ぇ付いてんのか」これは兄の深夜。
 「未明お兄ちゃんも食べる?」これは妹の朝日。「ネギは台所に出てるよ。買い置きの焼き豚も」
 確かにキッチンには袋ラーメンを作ったらしき残骸が置かれている。ネギや焼き豚を切った包丁に加え、鍋が二つも出ているのは片方で卵でもゆでたのだろうか? きっとそうだ。二人のラーメンに半熟の茹で卵が乗ってることからして、間違いはない。
 ダイニングには味噌ラーメンの強烈な匂いが充満している。向かい会って席に着く深夜と朝日がラーメンを啜る度、非常に美味そうな音が耳朶に響いた。俺も食いたい。
 「食うに決まってんだろ」
 そう言って俺は買い置きの袋麺を取りに棚へと歩き出す。すると妹の朝日が「じゃあ、正午も呼んで来るね」と言って席を立った。
 「なんでだよ?」
 「未明お兄ちゃんも食べるんなら、あいつだけ仲間外れは可哀想でしょ?」
 「寝てんじゃねぇの?」
 「『なんで起こしてくれなかったのだ!』くらい言うでしょ」
 「食わねぇのは姉ちゃんも同じなんだから、仲間外れにはしてないだろ」
 「夕日お姉ちゃんは今日家いないんだから当たり前でしょ」
 そう言って腰に手を当てて唇を尖らせる朝日は四つ年下の十四歳。今年から中学二年生になったばかりだ。背は百六十センチに少し届かないくらいで、テニスをやっていることからやや日に焼けている。兄妹共通の色素薄めの髪を寝る時以外はポニーテールにしていて、顔がかなり可愛いので俺はこいつを男兄弟より贔屓している。態度はやや生意気なところがあるが、性格自体はかなり優しく、そう言う意味ではツンデレ気質とも言えた。
 それから朝日は末っ子の正午を呼びに階段を上って行く。俺は弟妹が戻って来るのを待つことにして、何となく兄の深夜の隣に座った。
 「やっぱ夜中に食うラーメンは最高だよな」深夜はそう言ってスープを啜る。
 深夜は俺の四つ上の二十二歳で、百八十センチを超える大柄で顔立ちも精悍そのものだった。身分は四浪目を迎える浪人生ということになっていたが、実態はただのニートであり、予備校にも通わず遊び惚けている。昔は寛大な性格で憧れの兄だったのだが、最近では随分とやさぐれて性格も横柄になっていた。取り柄が残っているとすれば、天気予報が上手いくらいだろう。
 「なんかこのラーメン味濃いからメシも食いたくなって来たな。おい未明、おまえ冷凍庫に米あるか見て来いよ。あったら解凍して持ってこい」
 自分でやれよ、と言いたいところだが、口論すんのも面倒臭い。
 「分かった。俺も食いたいから良いよ」
 こう言っておくのが平和だ。俺はレンジで米を解凍し始めた。
 そうしていると、やがて朝日が正午を連れて、階段を降りて戻って来た。
 「お姉ちゃんに皆でラーメンを食べると聞いて起きて来たのだ」十一歳で小学五年生の正午はどこか舌ったらずな喋り方をする。「あれ? 深夜お兄ちゃんはもう食べてるのだ?」
 「ムッチャうめぇぞ」深夜はラーメンの器を十一歳下の弟に見せびらかす。「つか未明、米まだかよ。ラーメン伸びるだろうが早くしろよ」
 「無茶言うなよ」俺は息を一つ吐く。電子レンジを急かしてもしょうがない。
 「あれ? お兄ちゃん達ごはんまで食べるの? 太るよ?」とこれは朝日。
 「じゃあおまえは食わねぇんだな?」とこれは深夜。
 「そんなの……」朝日は葛藤する。「食べるに決まってんじゃないの!」
 「太るんじゃないのかよ?」と半笑いの俺。
 「わたしは運動部だから多少は大丈夫なの!」朝日は言い張る
 「そうかよ。じゃあ正午、おまえの分は俺が作るから待ってろ」
 「ありがとうなのだ。ぼく、ネギはいらないのだ。それから焼き豚は多めに欲しいのだ」
 と正午。末っ子め、わがまま言いやがる。つうかネギなしか。いつも麺と一緒に茹でてるから別けるのは面倒臭いことになるな。どうすっか。
 考えた挙句、俺が自分の分のネギも諦めることにして二人分の袋麺を鍋に出すと、深夜から「おい未明俺のおかわりの分も作れ」という命令が下った。言う通りにする。棚には袋麺の買い置きは無数にある。ないと深夜がハウスキーパーにキレるので、俺と朝日とで小まめに補充していた。
 すぐにラーメンは完成し、米は解凍され、兄妹全員に行き渡る。「わぁいなのだっ」と言って食い始める正午に続いて、俺はみそラーメンを啜り込んだ。美味い。
 「お母さ……夕日お姉ちゃんは呼ばなくて良いのだ?」
 今更気付いた様子で正午は言う。『お母さん』と言い間違えたのは、母親を早くに失くした正午の母親代わりを、長子の夕日がしばらくの間務めていたからだ。
 「うん正午。お姉ちゃんはお仕事で今日いないの。だから大丈夫だよ」と弟にはかなり優しい口調の朝日。
 「あいつが仕事なんかしてるもんかよ。ずっと遊んでんだよ姉貴はよ」と深夜。
 「は? それ言うんだったらお兄ちゃんだって毛ほども勉強してないじゃん。今のお兄ちゃんに出来る尊いことなんて天気予報くらいなんだからね」と兄にはまあまあきつい口調の朝日。
 「ああ? るっせ黙れ。ぶん殴るぞ朝日」
 深夜は腕を振り上げる。本気で殴られるとは思っていないだろうが、それでも怯えた顔で竦んだ様子を見せる朝日。
 「やめろよ兄ちゃん」
 俺は窘める。深夜は「けっ」と吐き捨てて拳を降ろす。
 夕日というのは俺達五人兄弟の長子にあたり、二十七歳の精神科医だった。精神科医としては『中二病』についての研究を行っており、離島にあるという中二病患者の隔離施設にも度々出入りし、カウンセリングなども行っているそうだ。……のだが。
 「そんな言うほど仕事してねぇのか? 姉ちゃん」と俺。「今精神科医を休業してるのは知ってるけど、別の仕事が忙しいって言ってたぞ? 事業主をしているとかなんとか」
 「ありゃあとても仕事と呼べるようなもんじゃねぇ。おめぇは知らねぇだけだよ」と深夜。
 「引き籠ってゲームばっかしてる深夜お兄ちゃんに何が分かるのー?」と白い眼の朝日。
 「うるせぇなバカガキが!」
 「バカじゃないもん。わたし今のガッコだとちゃんと成績良いもんっ」
 「俺だって未明と同じ高校にいた頃は学年十傑に入ってたんだぞ? 俺が受からねぇのはただの浪人差別だ! 不法だ! いつか訴えてやる!」
 そう言うと深夜はラーメンを食い終えると、容器を流しに運ぶこともせずに席を立った。
 「あ、お兄ちゃん待ってよ。片付けしなさいよ。お兄ちゃんが片付けするっていうから、わたしお兄ちゃんの分もラーメン作ったんだからねっ」
 「うるせぇ。しーらねっ。どうせ置いといても明日家政婦の誰かがやるだろ」
 時川家の母親は既に他界しており、家事一切はハウスキーパーを数人雇っている。この時間はもう業務を終了して帰ってしまっていたが、明日の朝になったら来るはずだ。
 「さあ腹も膨れたしゲームすっかな。やっぱボイチャでガキ煽り散らかしながらするFPSは楽しいわぁ」
 そうして深夜は本当に部屋に帰ってしまう。「信じらんない!」と憤る朝日を、俺はどうにか宥めようとする。
 「洗い物は俺がするからよ。兄ちゃんは受験に挫折して傷心中なんだ。大目に見てやってくれないか」
 「皆甘やかしすぎだっての。あーあ。深夜お兄ちゃんも昔はあんなに優しくて格好良かったのに」朝日は唇を尖らせる。「良いよ未明お兄ちゃん。わたしも洗い物手伝うから。正午もお皿拭くのはできるよね? やってくれる?」
 「のだ。一緒にやるのだ」
 そしてラーメンを食い終えた俺達三人は、食器の後片付けをしてから、それぞれの自室へと帰って行った。



 「さて……」
 部屋に戻った俺は、夜食後の眠気をこらえて再び机に向かっていた。
 正直言って、食った後は満腹感に包まれながら布団にダイブしようと思ってなくもなかった。しかし、かつての憧れの兄のあの体たらくを見ていると、ああはなるまいという気持ちが湧いて来る。受験勉強において寝不足は禁物だったが、やる気がある時にしっかりやっておくと言う考え方も、この時期なら決して間違いではないだろう。
 が、そんな俺のやる気に水を差すものがあって、それはシャー芯切れだった。普段なら買い置きを切らすような俺ではないが、どういう訳かその時の引き出しの中は空だった。
 さては朝日の野郎、また勝手に持って行きやがったな。文句を言って可能なら取り返すつもりで二階にある朝日の部屋を訪れたが、奴はクイーンサイズのベッドで涎を垂らしながらピンク色の布団にくるまっていた。しゃあねえ、明日泣かそう。
 兄弟とは言え女が寝てる部屋を漁るのは気が引けるし、正午はまだ鉛筆を使っている上多分寝ている。一応浪人生ということになっている深夜の部屋を訪ねたが、「んなもんねぇよ!」と言いながら画面の中で銃をぶっ放すのに夢中であり救いようがない。
 しょうがなく、俺はコンビニに出掛けることにする。
 夜中のコンビニには独特の雰囲気があり、俺は好きだった。スナック菓子コーナーに惹かれるものを感じたが、これ以上なんか食ったら流石に太るので自粛。おとなしく文房具コーナーに脚を運んだ。
 そこに、見るからに双子と分かる、同じ顔と服装の少女が二人いた。
 年齢は正午と朝日の間くらいだ。共に桃色のパジャマを着用していて、同じ長さのセミロングの黒髪をしている。上背は百五十センチくらいあるが全身は骨ばったやせっぱちで、これは体格の成長に肉付きが追い付いていない成長期特有のものだ。
 「こんな夜中に外歩いてて本当にいいの?」「びびることないで。どーせ今日ママもパパも帰ってけぇへんねん」「危なくないかなあ」「心配症やなあ。いけるいけるいける」
 顔をくっ付け合う程近付けながら、会話に夢中と言ったその様子は、見ていると微笑ましくなって来る。幼さを大きく残したその顔立ちも、かなり可愛らしい部類のものだった。
 しかし悲しいかな……二人の寿命には大きな差があった。一人は後六十年生きることになっていたが、もう一人の寿命は十日先だ。姉と妹、先に死ぬのがどちらなのかは分からないし、そもそもどちらがどちらなのかも分からなかったが、俺は心の中で哀れみを送った。
 もう少し寿命が短かったら、俺のターゲットにされていたかもしれない。たまにであれば、妹より年下のロリの指を舐めるのも悪くはないではないか。
 実はというと、数年かけて用意していたターゲットは、既に全員殺し終えてしまっていた。計画では八人殺すところを、余裕を持って九人用意していたのだが、あろうことか一人は行方不明になり一人は俺の目の前で車に跳ね飛ばされていた。
 やがて双子姉妹は店を出て行った。俺は勉強の息抜きにとジャンプを軽く立ち読みした後、シャープペンの芯を持ってレジへと向かった。
 そこには既に並んでいる女がいた。
 大人にしちゃ背の低い、どこかふんわりした印象のある若い女である。二十七の姉ちゃんと同じ歳くらい。太っている訳ではないのにふんわりした印象があるのは乳が張っているからで、さらにその横顔はかなりの美人だった。
 女はこんな真夜中に何かの手続きをしていて、やる気なさげな店員の差し出す用紙に名前を書き込んでいた。思わず覗き見る。名前は『空桜』。そらさくら? 空が名字で名前が桜か?
 そういや正午が言ってたっけな。担任の先生に『空』という珍しい苗字の人がいるって。それがこの人なのか?
 「ありがとうござっしたー」
 店員の声がして、弟の担任教師かもしれない空桜は背を向けてその場を立ち去って行く。背後に俺がいるのに驚いた様子を見せた空先生の頭上に漂う数値を、俺は見た。
 四日と二十時間と三十二分数十秒。
 空桜が立ち去って行くその背中を見送り、レジ台にシャー芯を置いて清算を済ませる。
 ポケットに手を入れて帰宅しながら、俺は決意した。
 次なるターゲットは、空桜だ。

 △3△

 ここ数日の松本零歌の朝は憂鬱に彩られていた。
 幸せな時間もある。起床して歯を磨いて身支度をして朝食の席に着く前に、双子の姉、唯花を起こしに行くところまでは幸せだ。唯花は零歌のそれよりも散らかった部屋の乱れたベッドで、見る度に毎回違う体勢で眠っている。零歌はこれを名前を呼ぶ、ほっぺたをつつきまわす、添い寝して体の各所を揉んでみるなどして起床に導く。
 寝ぼけ眼で歯を磨きながら意識を失う、かと思えばトイレに漫画を持ち込む、ベッドに舞い戻ろうとして叱られるなどしてだらだらしている唯花を、食卓で待っているのも幸せだ。母親は「お姉ちゃん待ってないで早く食べなさい」と急かしてくるが、零歌は生返事を返すだけで聞いてはいない。
 ようやく食卓に着いてもごもごとパンを口に詰め込む唯花を見ているのも幸せだし、その後並び立って今年から通い始めた中学校に登校するところまでも、まだ幸せだ。双子姉妹はいつも仲良しで、登校中も顔を引っ付け合わんばかりに近付けて、とりとめのないやり取りに耽る。姉とのそんな関係を零歌は何よりも愛している。
 でもそんな幸せも、その後に待ち受ける憂鬱を思うと、どす黒い濁りに満ちているかのようで、かつてのようには楽しめないでいた。
「どしたん零歌ちゃん。なんか最近元気ないけど」
 近所で有名な廃墟である三ツ木小学校の前を通る時だった。唯花はそう言って、心配そうに零歌の方を見る。この姉はかつて地方に住んでいた時の影響から脱しきれず、未だになまりが抜けないでいた。
「いやその……お姉ちゃんと違うクラスになっちゃったから」
 対する零歌は姉に先んじて喋り口調を修正していた。こちらに移り住んだのはもう三年も前になるので、唯花の方はずっと喋り方を変えないままなのかもしれない。適応力がない訳ではないのだろう。適応力がないのはむしろ零歌の方だ。
「小学校の頃は学年一クラスしかなかったから、ずっとお姉ちゃんと一緒だったじゃん? 学校でもそれでいけてたけど、実は今私あんまり友達いないんだ」
 実態は『あんまり』などと言うものではなく、話し相手の一人もいない状態が続いていた。自己紹介でしくじったとか、不良と揉めたとかそういう訳では決してない。小学校六年間を姉とべったりで通して来た為、他の子供との仲良くなり方を知らないだけだ。
「いけるよ零歌ちゃん。零歌ちゃん優しいし良い子やから、普通にしてたら友達できるよ。それに、まだ五月にもなってへんやん。焦るような時期ちゃうと思うで」
 優しい口調で諭すように言う唯花。
「でも……お姉ちゃんの教室行ったら、お姉ちゃん友達一杯出来てるし。なのに私」
「そんなんは人と比べるようなものとちゃうんよ。寂しいんやったら、今日昼休み零歌ちゃんの教室行くよ。おしゃべりしよ?」
「う、うんっ」
 そう言われ、零歌は少し元気になった。
 それから二人の会話はとりとめのない方向に舵を切った。両親の不在を縫って姉と夜中の街をふらついた痛快な思い出について反復した。コンビニの中ですれ違ったハーフ顔の高校生くらいの少年が、かなりのイケメンだったこと。その後コンビニを出た後で、小学校時代テニス部の顧問だった空先生とすれ違いそうになって焦ったこと。姉の機転で物陰に潜み、難を逃れた時の爽快な気分……。
 いつまでも通学路が続けば良いと零歌はどれほど思ったか分からない程だが、しかし非情な現実は中学校の校舎の形を持って、やがて目の前に現れた。



 廊下で姉と別れてそれぞれの教室へ向かう。
 席で自習……をする振りをして時間を潰そうと考えていると、自分の席を他の生徒が使っているのが見えた。あたり一帯の机をくっ付けて、朝っぱらからトランプに興じている。
 最近できた女子のグループだった。そう言えば昨日の放課後、『大富豪』の小学校ごとのローカルルールの違いについて盛り上がっていた気がする。零歌は姉と下校する為に早く教室を出たので最後まで話を聞けていないが、多分あの後、明日早く来てトランプをしようとなったのだろう。
 だがとにかく困るのは零歌だった。ぼっちの零歌にとって、机とは一日を乗り切る上で重要不可欠な城であり、教室内唯一の自分の居場所だ。机がなければ寝たふりも自習の振りも読書の振りもできやしない。
「あ、あの……」
 零歌は一世一代の勇気を出すことにした。自分の席に座っている柏木という少女……多分このグループの、というかクラスの中心人物……に声をかけ、自身の権利の主張と席の返還要求を零歌なりに展開した。
「その机、私の、です。あの、どいて、くれませんか?」
「でも今トランプしてるから無理」
 一刀両断だった。勇気を振り絞ったなけなしの抗議を、理屈も道理もない無茶苦茶な一言で葬り去られた零歌は、その理不尽さに打ち震えるあまり被害者意識一杯にその場を去った。
 ……が、その後教室の真ん中で立ち尽くしている時間が三十秒ほど続いて、零歌はそのいたたまれなさに耐えかね、半ば暴発気味に改めて立ち向かうことにした。
「あの……私席ないと、困ります」
「しつこいって。さっき納得してたでしょ何でまた来るの?」
「だって、だってぇ……」
「ああもう分かったよ。ほら」
 と言って柏木は近くにあった別の誰かの机を引っ張ってくっ付けると、そこを指で示した。
「仲間に入れてあげるから。一緒にトランプしよ。それなら良いでしょ?」
 どう考えてもそれは受け入れるべき申し出だった。それは、誰の席であろうと自分の座っている間は自分のものであるという崇高なる柏木の主義との折り合いを付けた上で、ぼっちである零歌を遊びに混ぜてやるという素晴らしい落としどころと言えた。柏木はクラスの中核を担うに相応しい度量を発揮したと言える。
 ここで『ありがとう』と言える零歌なら、ここまでの学校生活ももう少しマシだっただろう。しかしそうではないからこそ今の零歌があり、よって返事はこうだった。
「や、やです」
「は?」
「これ……私のじゃないので。席……返してください」
 零歌が返して欲しいのは誰にもはばかることなく堂々と座っていられる自分の席なのだ。何より零歌は今のやり取りで既に柏木が嫌いになっており一緒に遊びたくなかった。
「……やだよ。もうどっか行って」
 柏木は呆れた様子で剣呑な声を零歌に発する。そこにはもう先ほどまであった捨て犬に対するような情けはどこにもなく、害虫を退けるような冷酷さだけが滲んでいた。
「でも……」
「いいからどっか行けよ! うっさいんだよ!」
 それで零歌はすくみ上ってしまう。何なら目に涙が滲みそうになった。だが簡単に泣く程卑怯ではなかったので、どうにかそれを堪えて零歌はその小競り合いに敗走した。
 零歌は自分が客観的にどう見られているかを理解していた。それは席の取り合いなどというくだらないことで上位カーストのグループに反抗し、あっけなく退けられた弱ければ空気も読めないみじめな陰キャだった。教室中が自分を蔑んでいるように感じられ、零歌は消え入りそうな気分になった。
 こんな時頼りになるのは姉の唯花しかいなかった。朝礼まであと五分程しかないが話を聞いてもらい慰めてもらいたかった。そう思い零歌は姉の教室に向かう為廊下に出た。
 そこを歩いている一人の教員の姿を見付けた。
 零歌はその姿に救いを見出した。
「あ、あのっ」
「ん? どうしたの?」
 教員は半泣きの零歌を見て優し気な顔を浮かべた。中学生と言えども一年生の四月ともなれば多少の甘やかしがあり、べそをかいて被害を訴える彼女の話を教員は優しく聞いてあげた。
「分かった。じゃあ、先生がその子に言ってあげるね」
「はい……ありがとうございます」
 その後教員を連れてやって来た零歌を見て、教室中の空気が悄然となった。まさかあの程度の小競り合いで教師にチクって連れてくるとは思わなかったのだろう。ぽかんとした表情の柏木に、教員はやや剣を帯びた声で言った。
「それはこの松本さんの席じゃないの?」
「……ちょっと借りるくらい良いでしょ?」
「本人が困っているならダメよ。それに、学校にトランプなんか持ってきたらダメでしょう? 没収します。帰りに職員室に取りに来なさい」
 それから教員は柏木達に固められた机を元に戻すよう命じた後、一分足らずの短い叱責をして教室を去った。無事に自分の席と、何より尊厳を取り戻した零歌は、安堵感を覚えつつ席に座った。
「……うざいよね、松本。普通チクるかな?」
 松本達の聞えよがしの陰口の声が耳朶に響く。
 この出来事が、今後の零歌の受難を招くことは言うまでもない。



 そして受難は最速で零歌を襲った。具体的に言うと、朝礼直後の休み時間に女子トイレに連れて行かれ、締め上げられるという目にあったのである。
 柏木に胸倉を掴まれて壁に叩きつけられた零歌は、およそ無抵抗のまま罵声を浴びせかけられた。
「こんなことでチクんなよ卑怯者!」
 柏木は鋭い三白眼の持ち主であり顔立ちも派手で迫力があった。さらには背後に無数の仲間も従えてもおり、零歌は恐怖してすくみ上ってしまっていた。
「あたし仲間に入れてあげるって言ってやったじゃん! いっつもぼっちで本ばっか読んでるあんたの為にさ! 思いやりのつもりだったんだよ分かってる? 素直に一緒に遊べばよかったじゃん! それをあんたが自分で嫌だって言ったんじゃん! それなのになんで先公を呼んで来るの? 何? あたしのこと嫌いな訳? 嫌いだから嫌がらせしたの? どうなの?」
 零歌はとにかく「ごめんなさい」「ごめんなさい」を繰り返して嵐が過ぎるのを待つしかない。取り巻き達から「ちゃんと答えなよ!」「ごめんなさいじゃなくってさぁ!」などと言われても、そもそも柏木の主張からは論理性の欠片も感じ取れず、何を言っているのかすら零歌には良く分からず答えようがなかった。
 その後も「卑怯者」だの「死ね」だの「調子に乗るな」だの口々に罵声を浴びせかけられ、その上トイレの汚い床に向けて突き飛ばされる羽目になる。生徒が掃除しているような学校の汚いトイレなど、用を足しに来るのすら苦痛だというのに、散々にも程がある仕打ちだった。
「もういい。あんたみたいなトロくて何考えてるのか分かんない奴と話しても時間の無駄だし。もうほっとくわ」
 床に転がった零歌を汚い足裏で蹴り飛ばす柏木。痛みの少ない臀部がチョイスされたが、威力はそれなりであり零歌は苦痛に顔を歪めた。
「これでチャラにして欲しかったら、もうチクったりすんなよ?」
「あ、えっと……ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃなくって、分かってるの?」
 それはつまり、零歌の方が教師を巻き込むなどして話を大きくしないのなら、こっちもチャラにしてやるという意思表示でもあるのだが、零歌には何も分からなかった。そして何も分からないまま返事をする。
「あ……はい」
「……今度調子乗ったらそこの便所に顔沈めるんだからね。ほら……もう行って良いよ」
 零歌は肩を落としてとぼとぼとその場を去って行った。



 その後の授業で、零歌は胸の奥に重たい石を詰め込まれたような心地を味わっていた。
 この世に神がいるとは思えない理不尽な仕打ちに打ちひしがれると共に、今後も柏木とその仲間達と同じ教室で過ごさなければならないという憂鬱が、零歌の全身に重くのしかかった。
「松本ってああいう奴みたいだから。もう放っておいてやろう? ムカつくけど視界に入れなきゃ良いだけだし。うん? シカトするかって? しないしない、そんな価値もないよ。ちょっと顔良いだけの陰キャだしさ……」
 合間の休み時間にはそんな陰口も聞こえて来る。何も悪いことをした訳じゃないのに、何故ここまで嫌われなければならないのか。蔑まれなければならないのか。零歌は嘆くばかりだった。
 しかし捨てる神あれば拾う神あり。姉が来るということで待ち望んでいた昼休みに……零歌に話しかけて来た存在があった。
「ねえ。松本さんって、美人なのにぼっちだよね」
 そう、機嫌を取るように言ったのは、柏木程ではないが派手な顔立ちの女生徒だった。名札には『春山』とある。
「は……はあ」
「『はあ』って……カワイイ! 自覚ないんだねー。ウチのクラスじゃ柏木なんかよりずっとずっと飛び抜けて美人だよ? ねえ松本さん、今朝は散々だったでしょ? 松本さん、何も悪くないのにさー!」
 ねっとりとした媚びを含んだその声に、流石の零歌も察する。この人は柏木さんが嫌いで、自分と悪口を言いに来たんだ、と。
「小学生の時からさ、ずっとクラスで威張ってるんだって。ヤバくね? なんかそれっぽい顔してるもんねー? 性格悪い女王様みたいなさー。あいつがいなかったら、このクラスももっと平和だと思わない?」
 零歌はどう答えて良いのか分からなかった。この春山の言動に賛同する部分はないでもないが、しかし悪戯に肯定して共に悪口を言い募らせてしまえば、零歌の中の何か大切なものがすり減ってしまうことも予感していた。それは道徳や倫理というよりも品性の問題だった。
 「あたしさぁ、最初柏木に声掛けられて同じグループにいたんだけど、全然イケてないから抜けて来たんだよねー? あいつらブスだし、みたいな? それでミッキーとかちぃちゃんとかと一緒にいるんだけど……松本さんもどう? 仲良くしない?」
 零歌は目を白黒させた。友達は欲しかったが春山と一緒にいたいかと言われると否だった。中学から常には姉といられないことはどうにか受け入れていたが、だとしても零歌には自分とペースの合う相応しい相手が他にいるような気がした。
 その時、開けっ放しの教室の扉から、唯花が現れて元気良い声を発した、
「零歌ちゃーん。遊びに来たでぇ? おや?」
 唯花は零歌が春山に詰め寄られているのを見ると、堂々と歩み寄って衒いなく声をかけた。
「誰と話しよるん? あ、ウチ松本唯花。この子の双子の姉で……」
「お姉ちゃん!」
 零歌は席を立ちあがって姉の手を取った。
「待ってたよ。じゃあ、お話しよう?」
 春山からはそれは零歌が強引に話を打ち切ったようにも見えたはずだが、実際には姉が来てくれて嬉しくて春山どころじゃなくなっただけである。「お、おおう?」と困ったような顔をする唯花は、春山の方を一瞥してから苦笑を浮かべて。
「この人と話っしょったんちゃう? いけるん?」
「いいよ。お姉ちゃんと約束してたもん。……あ」
 はっとして、零歌は春山の方に視線を向け、そして若干の気まずさを覚えながら。
「その、約束、してたので……」
 春山は虚仮にされたような顔になって何か言おうとしたが、唯花が小さく両手を合わせて言外に謝罪していたのを見て、そっぽを向いて。
「好きにすれば?」
 とその場を立ち去って行った。



「ホンマに良かったん?」
 唯花は心配げに零歌の顔を覗き込んだ。その言葉に『友達ができそうだったのではないのか?』という問いかけが含まれるのは分かったが、しかし零歌は「うんっ」と迷いなく笑顔で答えた。
「いいよ。お姉ちゃんと約束してたもん。お外行こっ。お話しするとこ探そっ」
 教室は零歌にとって針の筵だった。せっかくの昼休みということもあり、学校内を冒険しつつどこか二人にとって楽しい場所を見付けたいという気持ちもあった。そうした冒険心はまさに先月まで小学生だった人間の発想だったが、しかし唯花は。
「そやなあ」
 優しく微笑んで、零歌に手を引かれながら教室を出た。
 『二人に相応しい場所』と言っても、そんな良い場所はそうそう見付かるはずもなかった。自然とただ散歩をしながらとりとめのない会話を交わすという恰好になり、二人はやがて運動場の前の渡り廊下へ脚を踏み入れた。
「ほら。あれ。テニスの」
 そう言って唯花が指をさしたのは、運動場に併設されたテニスコートだった。
「あそこ、テニス部が使う」
「……おっきいねテニスコート」
「せやな。この如月中は、ウチらの西小学校からテニス上手いのが入って来るから、テニス部の扱いがええらしいねん。そんでムッチャ強いんやって!」
「ふうん……」
 零歌は表情を俯けて言った。その沈んだ表情から零歌の意思を感じ取った唯花は、ふと寂し気な表情で。
「やっぱ、テニスは小学校でやめるん?」
 と尋ねた。
 零歌は頷くのを保留した。
 唯花と零歌の二人は小学校時代強豪とされるテニス部に所属していた。
 小学校でテニスをやっているところは珍しい。二人の通学する西小がそんな珍しい小学生テニスの強豪であることを知った母親は、幼い時分から二人にテニスのラケットとボールを買い与え、庭に簡易的なコートを設置して毎日遊ばせた。
 姉との遊び道具としてのテニスを零歌は愛していたが、しかし四年生になった時、実際にテニス部に入るとなると二の足を踏んだ。練習は厳しそうだったし、自由時間を奪われるのも嫌だったからだ。しかし唯花の方はかなり強い入部意欲を示していた為、姉と一緒にいたい零歌としては、半ば渋々共に入部することを決めた。
 そこから先は地獄の日々……とまで言うと大げさだが、かなりしんどい思いをした。顧問の空先生は担任のクラスの生徒などには優しいが、テニス部の面々には愛情の裏返しの厳しさを発揮したのだ。
 空先生は『テニスは遊びではない』などという、零歌にはとうてい信じがたい主張を叫んだ。そんなはずはなかった。おかしかった。スポーツの日本語訳は『余暇運動』であり余暇にする運動つまり遊びのはずだった。それは屁理屈でも何でもなく、実際もし零歌が『スポーツは楽しく、仲良く、笑顔で遊ぶものです』と口にすれば、周囲の大人は皆その通りだと頷いてくれるはずだった。つまり空先生の主張はバカげており一顧だにする必要もなく破綻しきっていて、狂気にすら彩られた戯言中の戯言のはずだったが、そのテニスクラブにはまさにその狂気が蔓延していた。空先生によって。
 零歌はどやされる為に外周を走り、怒鳴られる為に素振りをし、説教を受ける為にサーブやスマッシュを放った。しかしそのお陰で零歌の手足の筋力や反射神経やテクニックは鍛えられ、県大会の準決勝に進むまでになった。その準決勝の相手は姉だった。負けた。
 空先生には『なんで手を抜いたの!』と最後の最後で最も理不尽に、激しく怒られた。いつか殺してやると誓う程人を憎んだのはその時が初めてだった。
「一緒に塾が良いなあ」
 零歌は言う。放課後にも自分を鍛える時間を作りなさいという母親の方針により、部活動に参加するか学習塾に通うかのどちらかを零歌達は求められていた。
「ええでもウチ勉強苦手やしなあ」
「でも将来役に立つよ」
「そやけどなあ。ううん、ウチはテニスかなあ」
 四月も残り僅かとなり、そろそろ本格的に部活動を決定する時期に差し掛かっていた。唯花の方にも出来たら零歌と共にテニスをやりたいという意思があり、そこにある齟齬から二人は身動きが取れないままでいた。
「お姉ちゃん別に勉強苦手じゃないじゃん。みせっこした新入生テストの成績、二百二十人中で四十二番じゃん」
「でも好きやないもん。それに零歌ちゃんは十七番やったやろ?」
「そうだけど……。塾で一緒に勉強してたら一緒くらいの成績になるよ」
「それいうたらテニスかて、零歌ちゃん十分上手いやん。あの準決勝も零歌ちゃんやる気なかっただけでホンマにやったら絶対……」
「違うもんっ。手なんて抜いてないもんっ」
 零歌は珍しく声を乱した。手を抜いたつもりはなかった。それを空先生はともかく、唯花までもが信じてくれないのは悲しいことだった。ただその時の唯花が自分を妹にも対戦相手にも見ておらず、単なる敵としてただただ倒しに来たのがつらくて、ふてくされながらプレイしたその態度が誤解を生んだだけなのだ。
 二人にしては気まずい時間が流れる。本当は分かっていた。双子とは言え、中学生にもなれば色んな事についてずっと足並みを揃えることは不健康で、不可能なことでもあるのだった。
「ウチな……。明日の土曜、友達と遊びに行くんや」
 唯花が口を開いた。零歌はおもしろくもない気分で「そうなんだ」と俯いたまま答えた。
「それに……零歌ちゃんも誘いたいんや」
 零歌は顔をあげた。あっけなく食い付いた零歌に、唯花は顔を綻ばせながら話す。
「一緒に遊ぶのは皆、テニス部に入部するつもりだったり、もう入部しとる子でな。零歌ちゃんのクラスの子ぉも、一人来とるで」
「そうなの?」
「せや。ムッチャ良い子でな。クラスちゃうけど、ごっつ仲ええんや。零歌ちゃんとも、仲よぅしてくれると思うで」
「そうなんだ。なんて子なの?」
 尋ねた零歌に、唯花は明るい、屈託のない笑顔でこう答えた。
「柏木さんって子」



 土曜日の遊びの誘いは断った。
 唯花とも上手く口を聞けなかった。表向き自然体で振舞おうとしてはいたが、母親の腹の中にいた頃から一緒の姉が、零歌の動揺を見抜けぬはずもなかった。何かあるのかと問う唯花に、零歌は「別に」と白を切り続けるしかなかった。
 土曜日は中学への進学祝いに買って貰ったばかりのスマホで遊んだ後、気まぐれのつもりで押し入れからテニスの道具を引っ張り出し、壁打ちをしてみたりして過ごした。母親からは「お姉ちゃんと一緒の部入るの?」と尋ねられたが、顔を伏せて「別に」と答えておいた。
 翌、日曜日。この日は家族で出かける予定があった。あるNPB球団の本拠地でもあるドーム併設のテーマパークに、連れて行ってもらえることになっていたのだ。
 その日は日曜日としては珍しくナイトゲームということもあり、昼間子供達をテーマパークで遊ばせた後は、ドームに向かうことになっていた。父親が野球観戦を楽しみたいのだ。
 家族で楽しむテーマパークは素晴らしかった。この時ばかりは零歌は、姉に対して感じていた微かな軋轢も忘れ去ることが出来た。一緒になってはしゃぎ、姉の無邪気な笑顔を見る内に、何も問題ないのだと思えて来た。根拠は特になかったが、ないなりにそれは良いことのはずだった。
 やがてドームに移動する時間になった。野球観戦には興味のない零歌だったがわがままは言わず、プレイボールに間に合わせる為に自動車に乗り込んだ。
「え? 嘘やんっ。やった」
 ドームに向かう自動車で、後部座席の隣に座る唯花がスマートホンを見詰めて言った。
「なあにお姉ちゃん?」
「一昨日話した柏木さんな、野球見にドーム来とるって。一緒に見ようって」
 そう言われ、零歌は思わず顔を引き攣らせた。
「そ、そんなの無理だよ。だって、席は決まってるんだし……」
「こっちの親さえいいんだったら、向こうの親が移動して、一緒に見れるように調節してくれるらしいで」
 そう言って、唯花は懇願するような声で両親に言った。
「なあママ、パパ。ちょっと話聞いてくれへん? ドームに柏木さんが……」
「ああ。柏木さんね。だいたい、話は分かったよ」
 父親は訳知り顔で言った。
「し、知ってるの?」
「ああ。柏木さんのお父さん、パパが働いてる病院の技師の人だし」
 知らなかった。
「じゃあちょっと柏木さんのお父さんと話してみるね」
「うん。やったぁっ」
 諸手をあげて喜んでいる唯花を見て、零歌は絶望的なまでの疎外感を覚える。何度も見て来たはずの姉の明るい、はしゃいだ笑顔が、まるで別人のように感じられる。
 いや、もしかしたら別人なのかもしれない。
 自分をいじめた相手と会えることを明るく喜ぶ唯花など、それは唯花ではないはずだった。



 両親に連れられて来た柏木は、唯花の方を見るなり屈託のない笑顔で走り寄って来た。それは教室では見せたこともない程無邪気で、未だ強く残る本来の幼さをむき出しにしたような顔だった。
「奇遇だねぇ唯ちゃん! ラッキーだね」
「ホンマやな! 会えて嬉しいで」
 手を取り合ってはしゃぎ合う二人から距離を置いて、唯花は灰色の瞳でそれを見詰めた。
「子供だけで観戦させるなんて……危険じゃないかしら?」
 零歌の母親が苦言を呈した。もっと言ってやれと零歌は心の中で応援した。
「大丈夫! 向こうのお母さんが一緒に付いていてくれるらしい。……そうですよね?」
 父親が言うと、柏木の母らしき女性は「はい」と笑顔を浮かべた。甚だしく余計な気遣いだった。
 姉妹と柏木の三人の子供は柏木母に連れられて、本来は松本一家が使うはずだった四つ並びの外野席に向かう。
 その道中、柏木が零歌の方を振り向いて言った。
「なあ松本」
「はい?」
 零歌は力なく顔をあげた。柏木は教室で零歌を見る時の胡乱な表情で、しかし若干の妥協を込めたような声で言った。
「春山にさ、あたしの悪口に誘われた時、あんた乗って行かなかったよな?」
「はあ……」
「それ、聞いてたから。それだけな」
 そう言って、柏木は唯花に飛びついてはしゃぎ始めた。同じくらい明るい表情ではしゃぎ返している唯花を見て、零歌の心はますます沈んで行った。
 やがてプレイボールの時が来た。当然の成り行きとして、零歌と柏木は唯花の左右に座った。
 唯花は零歌と柏木の間にあるわだかまりのようなものを感じ取りつつも、巧みなバランス感覚で両方と均等に会話をすることを心掛けているようだった。零歌としては、拗ねた感情を唯花に悟られはしても困らせはしないよう、最低限度の受け答えを振り絞っていた。
 それでも放置されるよりマシだった。柏木と心底楽しそうにはしゃぎつつ、思い出したように自分に声を掛けてくれる唯花のその優しさ……憐れみに、零歌は縋り付くしかなかった。
 自然、零歌はぼんやりとただ試合を見ている時間が多くなった。と言っても野球はルールも良く知らないので、ただ打ち上げられては捕球されたり着地したりするボールを漠然と眺めていた。
 そうしている内に、零歌は小学生時代にたまにしていた妄想を思い出した。
 テニスで上級生と打ち合うように命じられ、一ゲームでも零歌が勝つまで休息なくそれを続けろと言われたことがあった。相手はクラブ一の実力を誇っていた時川朝日という女子で、彼女は申し訳なさそうな顔をしつつも先生の手前手を抜けず、零歌を叩きのめした。
 打っても打っても的確にボールが帰って来た。一刻も早く休みたかった零歌は、自分がボールの軌道を超能力のように操れたら良いのにと強く感じた。ラケットに打たれて飛び交うボールの着地点を自由に操作できれば、時川朝日が放つ強力なスマッシュは打ち返しやすい位置に飛んで来て、打ち返したボールは相手のラケットの届かないところに着地するのだ。
 妄想の中で、零歌はその超能力を用いて様々な相手を翻弄した。その力を持ってすれば、空先生が相手だとしても圧勝することは容易かった。
 その時。ドーム中に歓声が響いた。高く打ち上げられたホームラン・ボールがドームの天井を掠めつつ外野席へと向かっていった。打った四番バッターは鮮やかにバットを投げ捨て、一塁ベースへ脚を進める。
 零歌にはどうでも良かった。周囲の歓声や歓喜に少しでもつられるような性格はしていなかった。そして零歌はぼんやりとした……悪く言えば『とろい』正確の持ち主でもあった。ぼーっとしている時に危機が迫っても、たいていは気付かない。反応しない。
「零歌ちゃん! 危ない!」
 唯花の叫び声がした。そこで初めて唯花ははっとしてあたりを見た。どういう訳か、周囲の視線が上空の一点に向いているのが分かった。
 その一点とは外野席に迫り来るホームラン・ボールである。それは零歌の顔に向けて真っすぐ飛んで来ており、着弾までは後一秒もない程の距離に迫っていた。このまま身動きを取らなければ、それは零歌の身体のどこか……おそらくはアタマに被弾しそうだった。
 零歌は動けなかった。体が竦んでしまっていたのだ。硬式の野球ボールが石のように固く、命中すれば大きなケガに繋がることは、父親から事前に注意喚起を受けていた。当たり所によっては、最悪死にかねない。
 それは回避されるべき事態だった。
 そうだとも、そんな危険なものが降り注ぐのなら、それは自分の頭上ではない。
 もっと相応しい場所がある。そのはずだ。
 そう思った瞬間……飛んで来るボールはその軌道を僅かに変化させた。それはボールの軌道全体からすると恐ろしく微妙な変化であり、カメラ越しに見たとしてもおよそ感じ取れるようなものではなかった。
 零歌のアタマに着弾するはずだったボールは、外野席二つ分ずれて着弾する。
 姉の悲鳴が上がる。
 頭部にホーラムラン・ボールが命中した柏木が、激しく出血しながら意識を失い、その場に倒れ込んでいた。

 △4△

 事情を聞いて駆け付けた零歌達の父が、出血して倒れ込む柏木を診察する。そして言った。
「……頭蓋骨が陥没している。一刻も早く病院に送らないと、命に係わるな」
 父は外科医だった。唯花は真っ赤な目をして「死んでない? 死んでないよな?」と泣き叫んでは、父に縋り付かんばかりだった。
 騒然としたドーム内で、零歌の心は意外な程冷静にものを考えられていた。
 自分の意思がホームラン・ボールの軌道を動かし、柏木に命中させたのは確かだった。何かしらの『力』が自分の中に芽生え、それを行使したという感触が確かにある。零歌はその能力について冷静に思考し、それがなんなのかをすぐ理解した。
 これは『中二病』の『症状』なのだ。
 思春期の子供が行う偏執的な妄想が実体を帯び、その子供に超能力染みた力を発現させるという病魔は、二十年前からこの世界を蔓延している。中二病にかかった子供はただちに身柄を拘束され、離島にある隔離施設へと送致されることになっていた。
 そんなのは嫌だった。零歌はボールの落下点を操作して柏木の頭部にぶつけたことを、隠し通すことに決めた。表情にも態度にも一切出さない。それはできる、と零歌は思った。自信があった。
 やがて担架がやって来て柏木が運ばれて行った。ドームにはこうした事態に備えてドクターが勤務していた為、父の役割もここまでだった。
「大丈夫です。陥没は深いものではありませんでしたし、出血が多いのは人間の頭部は皮膚が弱いからです。こういうところの事故は速く対応できますから、助かる希望はあるはずです」
 半狂乱になっている柏木の両親を、父はそう言って宥めようとする。
「唯花も。大丈夫だから。な? 落ち着いて」
 過呼吸寸前で泣き叫ぶ唯花の顔は見たこともない程ボロボロになっていた。目の前で友人が血をまき散らしながら倒れ運ばれて行ったのだから、中学一年生としては当然の反応だった。だがその様子を見ていると、零歌の心はどこまでも暗く冷たく沈み込んでいく。
 試合は続行されたが、零歌達は家に帰ることになった。野球観戦は退屈だったので嬉しかった。
 帰りの車で、唯花は何度となく「助かるよな? 助かるよな?」と父に確認し、その一つ一つに「ああ」「ああ」と父は優しく返事をしてやっていた。泣いている姉が可哀想だった。
 帰宅した姉妹は「もう寝なさい」と父から命じられた。「お風呂は?」と尋ねた零歌の冷静さを訝しむ様子を微かに見せつつも、すぐにそれをかき消して「シャワーで済ませなさい」と命じた。
「お姉ちゃん、一緒に入る?」
「ウチ……シャワーええ」
 唯花はそう言って零歌から背を向けた。
「このまま寝る」
「くさくなっちゃうよ?」
「ええけんそんなん」
 そう言って唯花は自室へ帰って行く。よっぽどショックだったんだな、大丈夫かなと零歌は姉を心配した。とは言え一晩くらいシャワーを省略したところで、然程体臭が強まることはなさそうだなと思い直した。
 一人でシャワーを浴びた後、リビングで沈痛な顔で話し合っている両親に向けて、零歌は「ごはんは?」と尋ねた。
「あ、ああ。お夕飯、まだだったわね」
 本来なら外食して帰って来る予定になっており、どちらかというと零歌はそれが楽しみだった。なので「ありもので良いかしら?」と言う母に若干の落胆を覚えたが、それを面に出さず「うん」と小さく頷いた。
「お姉ちゃん呼んで来るね」
「零歌、お姉ちゃんは今は……」
「でも食べた方が良いよね」
 零歌は姉の部屋をノックして「ごはんだよー」と告げた。普段姉は部屋でゲームしたり漫画を呼んだりしていて、食事の時間になってもなかなか現れない。だから自分がこうして呼びに来るのだ。いつも通りだ。
 返事はなかったので「入るよー」と告げて勝手にドアを開けた。これをやっても怒られたことはなかった。
 唯花は布団の上で手足を丸めて団子になっていた。零歌が「お姉ちゃん、ごはん」というと、真っ赤になった目と顔をあげて零歌の方を見た。
「ごめんな。お姉ちゃん今食欲ないねん」
「そう、大丈夫?」
「うん。ごめんな。ちょっとそっとしといてな」
 やんわりとしていたがそれは拒絶であり零歌は少し悲しかった。そっとしといてくれと言うのではなく、慰めてくれと言って欲しかった。零歌に縋り付いて泣く唯花が見たかった。
 姉の部屋を去ると、母は「ダメそう?」と零歌に尋ねて来た。ちょんと頷く。
「そっか……。明日は学校を休ませた方が良いかもね?」
「え」
 それなら自分も休みたい、と言いだそうかと思わないでもなかった。単に土日明けの学校が嫌だったからなのだが、それをする為には柏木が死んでショックを受けている演技をしなければならなかった。それはまさに心にもない感情であり、故に演技も上手くいかないことは明らかだった。零歌は学校を休むことを諦める。
 冷凍の唐揚げと昨日の残りの味噌汁と買い置きの漬物、解凍したごはんという食事を両親と共に済ませる。ごちそうさまをして歯を磨いて自室に引っ込むと、零歌はスマートホンを起動した。
 動画投稿サイトを開く。目当ての動画はすぐに見付かった。
 ホームラン・ボールが少女を直撃し、担架で運ばれて行くというショッキングな出来事を撮影したテレビの映像は、既に投稿サイトに無数に投下されていた。その一つ一つを零歌は慎重に見聞し、コメント欄までも隅々まで読む。
 それらの中に、ボールが不自然な軌道をしているのが分かる映像や、ボールの軌道の不自然さを指摘するコメントがないことを確認し、零歌は安堵のため息を吐く。
 あまりに疑う者がいないので、零歌は一瞬、ボールの軌道を自分が捻じ曲げた事実はなかったのではないかと、錯覚を覚えた程だった。試しに零歌は、枕元に置いてあるぬいぐるみの一つ……ポケモンのニャオハ……を、部屋の隅に放った。
 部屋の隅に着弾するはずだろうぬいぐるみに、自分の手の平へ来いと念じてみる。
 するとどうだろう、ぬいぐるみの一点と自分の手の平の一点のそれぞれに、不可思議な力が作用したのを感じる。手の平の一点はぬいぐるみの一点をなめらかに引き寄せ、ぬいぐるみはあらかじめそこに向かうのが当然の物理法則であるかの如く、零歌の手の平に着地した。
 間違いない。零歌は中二病患者になっていた。



 試合を最後まで見ることなく早く帰って来られたことにより、就寝時間まで若干の余裕があった。それを利用して、零歌が自分の『症状』について実験を始めたのは当然の流れだった。
 実験の結果、零歌の症状を一言で表すと、『浮遊する物体の着地点を自由に決定できる』というものだった。対象となるのはあくまでも『浮遊する物体』であり、棚などに置かれていたり、どこかから吊り下げられている物体については、どれだけ高所にあっても『症状』の作用対象外だった。
 尚、物体と着地点の間に障害物がある場合、物体は障害物の方に着地する。障害物を避けたり、突き破ったりと言ったことは起こらない。
 そして便利なことに、この能力は対象となる物質がどの部分を下にして着地するのかも設定出来た。対象物の全体から一点を指定すると、引き寄せる力はその一点に対して作用する。すると自然、着地する向きはその一点を真下になるというものだった。サイコロ賭博で負け知らずだな、と零歌は思った。
 尚、設定できるのはあくまでも『着地点』であり、対象物よりも高い場所や同じ高さの場所には設定できない。あくまでも物体を『落下させる』力であるようだった。
 また、『着地点』に設定できるのは床や地面に接している物体、或いは床や地面そのものに限られた。逆に言えば床や地面に接して続けてさえいれば、その物体が移動中であっても何ら問題はない。途中で『着地点』が地面から離れ浮遊した場合、その瞬間に、『症状』の効果は消滅するようだった。
 一時間程かけてそれらのルールを零歌は理解した。すると、何度も何度も症状の発作を起こさせていた反動か訪れる。気力でも体力でもない、しかし零歌の中に備わっている何らかの資源が、底をついたような感覚があった。もうしばらく『症状』は使えそうもない。
 ようは使いすぎれば疲れてクールタイムを必要とするということだろう。テレビゲームでいうところのMP切れだ。
 だとすれば寝て休めば回復するに違いない。零歌は明かりを消して布団に潜り込む。
 目を閉じて寝る前の思索に耽る。自分の身に降り注いだ奇跡的な運命について考える。
 ホームラン・ボールが身体に当たる確率は宝くじに当たるようなものだという。いや、あのまま『中二病』にかからずボールの軌道が変わらなかったとして、ボールが自分に当たったかどうかはもちろん分からない。しかしあそこまで接近すること自体かなりの低確率に違いない。
 それに加え奇病中の奇病である『中二病』をあのタイミングで発症するなどと……とんでもない確率だ。『中二病』は身近な人間から伝染するというから、もしかしたら誰か卑近な人間に中二病患者がいるのかもしれない。
「まあだとしても。その人もきっと名乗り出ないだろうな」
 色々あって疲れていたのもあって、眠りはすぐに訪れた。



 翌日、姉は学校に来られなかった。
 一人で登校した零歌はまず、教室に柏木がいないことに喜びを覚えた。零歌は柏木のことが嫌いだったし、自分に牙を向く厄介ないじめっ子がいなくなるという安堵と解放感は、気弱な人間にとってとても、本当に大きなものだ。
 出来れば戻って来なければ良いな……と考えて、それがつまり『死ねば良いのにな』という意味だと気付いた。それは流石に可哀そうだなと思おうとしてみたが、柏木が自分の日常に戻って来ることを思えば、死んでくれないと困ってしまうことも確かだった。自分をいじめた癖して自分から唯花を奪おうとする柏木にうろちょろされたら、苦痛であることこの上ない。
 一日の授業は静かに過ぎて言った。唯花のところに遊びに行けないので、その日は特に退屈だった。柏木がいない分教室が平和になるということもなく、他の生徒が威張り始めたのも憂鬱だった。
「ねえ松本さん。あなた、本当にあたしと仲良くしなくて良いの?」
 いつものように文庫本をちまちま読んでいると、春山が声を掛けて来た。嵐が過ぎ去るまで、零歌は乏しい会話力でどうにか受け答えを絞り出す。
「は、はあ……」
「はあ、じゃないのよ。ねぇ、松本ってさ、ちょっと、いやかなりトロくない? 何考えてるか全然分かんないし……」
「それは……ごめんなさい」
「いやさ……。もういいよ。そういう受け答えしかできないんだもんね。つまんないわ、あんた。一人で本読んでれば?」
 腹立たし気に去って行く春山を見送り、零歌は胃がしくしくするものを感じていた。目を付けられただろうか? もしそうなら厄介だ。怖い、苦しい。助けて欲しい。この教室に唯花はいない。つらい。悲しい。
 『中二病』にかかり『症状』として特殊な超能力を獲得したとしても、生活は何も変わらないんだなと、零歌は察した。その上、隠し続けなければ致命傷になる程の危険な秘密を一つ抱えることを考えると、中二病とは才能ではなく病であり、かかるのはやはり不幸なことなのだと実感させられた。
 どうにか一日を過ごし切り、放課後、零歌は気まぐれを起こしたつもりでテニスコートを見に行った。ここ数日の気分としては唯花に対する依存心が高まっており、そのことが唯花の入部したがっているテニス部の見学に零歌を駆り立てたのだ。
「あれ。零歌ちゃんじゃん」
 そう言って近づいて来たのは、小学生時代、同じテニス部に属していた一つ年上の時川朝日だった。東洋人離れした彫りの深い顔は日に焼けていて、色の淡い髪をポニーテールにまとめている。美人の先輩だ。テニスだってものすごく上手い。勉強も良くでき名門海星中学を志望していたが、そっちは残念ながら滑ってここに来たようだ。
「朝日ちゃん」
「小学生ぶり? 唯花ちゃんとは何度か会ってたんだけど、零歌ちゃんとは久しぶりかな」
「はあ」
「ははは。治ってないね、その『はあ』って言うの」
「ごめんなさい」
「謝んなくて大丈夫だよ。最近どう、中学生活はおもしろい?」
「あ、あんまり。お姉ちゃんとクラス離れちゃって」
「ああそっか。べったりだったもんねー」
「うん。すごく悲しい」
 朝日とはそこそこ付き合いがあり、零歌にしては話の弾む相手だった。元々彼女は目下には優しい性質で、会話力に乏しい零歌を相手にしても、膝を折って目線を合わせて話してくれるようなところがあった。
「でも朝日ちゃん。こんなに話して大丈夫なの? 部活中なのに怒られない?」
「あーそれね」
 朝日はコートを振り返り、そして言う。
「今日顧問来てないの。わたしももう二年だし、だからまあ……大丈夫じゃないかな?」
「そうなんだ。……ねえ、中学のテニス部ってどんな感じ?」
「んー? ……まあ、小学校と比べたら、ちょっとしんどいね」
 それを聞いて、零歌は思わず青ざめた。
「小学生の時の空先生さ、結構優しかったじゃん。滾々とお説教はするけど反論の機会も与えてくれたしさ、零歌ちゃんも結構口答えさせてもらえてたもんね。でも中学の顧問は怖いばっかで、イエスかノー以外で喋るなとか言われてね。後ね、やっぱ先輩付き合いとか大変。小学生の頃はお兄さんお姉さんが優しく振舞う感じだったけど、中学になるとさ、こう、ハッキリ上下関係って感じになってさ」
「は、はあ」
「マッサージとかさせられるし、使い走りもあるし。道具出しとか雑用もね、全部後輩がやるの。後、プレイや練習態度について、コーチや顧問みたいに怒鳴って来たりね。コーチや顧問はまだ大人だから、こっちがちゃんとしてたらどうとでもなるけど、先輩は所詮一個上二個上の子供だからさ。理不尽な時も多いよ。わたしも二年になって大分楽になったけど、大変だよ。生意気してると締め上げられて、殴られたりする子もたまに……」
 青ざめていた零歌がその上震え出したので、朝日は苦笑しつつ優し気に言った。
「ごめん。脅かすつもりはなかったの。零歌ちゃんはそうだね……確かに気が強い方じゃないけど、その分謙虚にしてられるのは良いところだと思う。何より、テニス上手じゃん。県大四位でしょ?」
「はあ……」
 かくいう朝日は全国大会も経験している。唯花も行けなかった全国大会だ。そのフットワークの軽さとスマッシュの鋭さに、零歌も唯花もずっと翻弄されっぱなしだった。唯花などは憧れの上級生と呼んで憚らない程だ。
「まあ、ゆっくり考えて決めなよ。ところで、今日唯花ちゃんはどうしてるの?」
「お家にいます」
「なんで? 風邪?」
「友達が死ん……入院しちゃって。ショックで」
「そっか。大変だね。ウチの病院かな?」
 朝日は零歌達の父が勤務する時川病院の院長の娘だ。とは言え家族ぐるみの付き合いがある訳ではなく、朝日の他に四人いるという兄弟にも会ったことはない。
「零歌ちゃんは大丈夫なの?」
「うん。大丈夫」
「そっか。なら良かった。でも無理はしないで」
 朝日は元気づけるように優しく微笑み、そして背を向けつつこちらに手を振った。
「じゃあ、そろそろ先輩になんか言われるかもだから、戻るね」
「うん。あの、ありがとう」
「ううん。こっちから声掛けたんだし、ひさしぶりに話せて良かったよ。じゃあね」
 そう言って立ち去って行くしなやかな背中を見送ってから、練習に励むテニス部員たちをじっと眺める。
 そうやってしばらく呆然としてから、「やっぱ塾が良いな」とふと呟いてから、零歌は帰路についた。



 帰り道、公園の前を通り過ぎると、「松本さーん」と声をかけられた。
 近所の小学生である音無夕菜だった。赤い縁の眼鏡をかけて、絹のような黒髪を三つ編みにして左右に垂らしている。顔立ちはものすごく整っているが、どちらかというとそのファッションスタイルは、彼女の素材に似合っていないと零歌は思っていた。
「音無さん、こんにちは」
 小学生時代係り活動が同じだった程度の間柄だが、マンガやアニメの趣味が合って仲良くなった。音無は上級生にも壁を作らず人懐っこい性質で、零歌は実は目上や同輩より年少者を相手にした方が自然体で振舞えるタイプである為、相性も良かった。
「また殺されたね」
 音無は言う。
「はあ?」
 この『はあ?』はいつもの弱気な『はあ……』とは違う調子の短い『はあ?』である。相手の言葉が聞き取れなかったり、意味が分からなかったりする時に使う方だ。
「『指切り』だよ」
 他にあるのかと言いたげな口調で音無は言った。
「ああ。『指切り』ね」
 音無は連続殺人鬼『指切り』のファンである。事件として面白いと思っているだけで、『指切り』自身を敬愛している訳ではないと本人は言うが、その違いは零歌には今一つピンと来なかった。
「また被害者の指、切られてたね。どういう意味なんだろうね?」
「多分暗号だよ」
 音無の問いに、零歌は言う。零歌もこの件にまったく興味がないという程でもなかった。
「やっぱそうなのかな?」
 小首を傾げる音無。
「だと思うよ。だいたい推理の方向性は見当付くしね」
「え? そうなの」
「うん。こういうのはパターンとかあるから」
「でもネットの人達も答え分かってないみたいだよ」
「そうなの?」
「うん。特に意味はない説が今の主流になってて、皆ほとんどそこについては議論しなくなってるっぽい。自説を披露しても、すぐに否定されちゃう空気っていうか」
「そっか。じゃあわたしが思ってるのも違うのかな?」
「松本さんが思ってるのって何?」
 そう訪ねられ、零歌は答えるかどうか一瞬、悩む。そして言わないことにして。
「へへへ。ひ、秘密だもんねー。ふっふっふーっ」
 零歌は意地悪気に笑っておいた。年少者を相手にしている時でもなければ、決して見せないような挑発的な態度だった。目下は然程怖くないから比較的自然体が出るのだ。音無は「えーっ」と抗議の視線を向けつつも、しかしなかなかの敏さですぐに気付いたように。
「なんで? あ……分かった! もし外れてたら恥ずかしいから言いたくないんだ」
「ち、違うよ。そんなことないもんっ」
 零歌は思わず顔を赤くして否定したが、それが嘘であることは音無にはバレバレだったようだ。頬に笑みを刻み込みつつ、零歌がしたのと同じくらい挑発的な態度で
「ふーん? じゃあ教えてよ。自信あるなら教えられるでしょ? ね? ねぇってば!」
 そう言って縋り付いて腕を身体をゆすられる零歌。
「大丈夫だよ。松本さんアタマ良いからきっと良い線行ってるって」
「べ、別にアタマ良くなんか……」
「でも推理漫画とかの答えだいたい当てられるって言ってたじゃん。毎週やってる探偵アニメのトリックとかも、事件編だけで当ててたこと何度もあるし……」
「そういうのは得意だけど……でもこれは言いたくないのっ。自信なくなったのっ」
 あっさり白状した零歌に対し、音無は「むぅ……」と頬を膨らませつつ、妥協点を探るかのように。
「じゃあヒントだけ教えてよ。それなら良いでしょ?」
「ええ……それ同じことじゃない?」
「いいじゃん別にさ! 思わせぶりな態度取って何も教えてくれないのは酷いもん!」
 それはまあその通りだ。零歌は目下を相手には自然体が出るような小市民の小物ではあるが、しかし根が意地悪な訳でも無慈悲な訳でも決してない。要望に応えヒントを出すことにした。
「そうだねぇ……。音無さんは、わたしの下の名前って憶えてる?」
「覚えてるよ。零歌ちゃんでしょ?」
「どんな漢字書くか覚えてる?」
「ゼロのウタ」
「私に双子のお姉ちゃんいるの知ってるよね?」
「唯花ちゃんでしょ? しょっちゅう話題に出すもんね。寝坊助で忘れっぽくて零歌ちゃんより勉強できなくて、でも優しいんでしょ?」
「そうそう。で、その唯花の漢字をどう書くか覚えてる?」
「タダのハナ」
 音無はすべらかに答えた。『唯花』を説明する時に、即座に『タダのハナ』という言い回しが思い付くあたり、案外賢い子なのかもしれない。……学校の成績は壊滅的だそうなのだが。
「これも松本さん言ってたじゃん。お父さんが数学がすっごく好きで、だからそういう名前になったんでしょ? ゼロとユイでこの世の全てのことはキジュツできるからって。……意味良くわかんないけど」
「覚えてたんだ、その話」
 零歌は感心した。きっと忘れてしまっていると思っていた。話したのは一度だけだし、自分にとってはともかくとして、音無にとって然程印象的な話だとも思えない。
「今の会話がヒント」
 唇に指先を当てて、零歌は微笑みを称えてそう言った。
「え?」
「考えてみて」
 そう言って零歌は思わせぶりにその場を去ることにした。こういう小癪な演出を目下を相手に得意げにやって喜んでいるあたりも、零歌の小市民の小物ぶりが表れてしまっていた。
「分かった。じゃあ、考えてみる」
 音無はそれ以上食い下がらなかった。考えてみるというのは本当なのだろう。「うーん」と腕を組んで唸ってみたり、自分の指を出して、被害者の切られた指を模して追ってみせたりし始める。
 零歌はふと思いついてスマートホンを開いた。そして殺人鬼『指切り』についてまとめられているサイトの内の一つを表示して、自分が考えていた説を検討する。ところが。
「……外れてんじゃん」
 零歌説に従ってメッセージを紐解いても意味のある文章にはならなかった。そのことを伝えて帰ろうかなと思いつつも、多分バレないだろうと思い直してスマホを仕舞った。
 あのヒントだけで零歌説の全容を把握するのは、小学五年生には難しい。的外れなことを言ってしまったが、どうせバレないだろうと思い直した。



 帰宅する。鞄を置いて早速姉の部屋に向かうと、唯花はベッドに腰かけてぼんやり天井を見詰めていた。
「零歌ちゃん。おかえり」
 唯花は笑顔で零歌を迎えた。昨日と比べると元気そうに見えた。
「ただいまお姉ちゃん。調子はどう?」
「ちょっとさっぱりしたわ。ごめんな心配かけて」
「全然」
 零歌は微笑みを返した。姉が元気になって良かったと思った。柏木のことなんて忘れてしまえば良いんだと思った。
「なんかして遊ぼう」
「ええよ。ゲームする?」
 リビングには家庭用ゲーム機が置いてある。姉妹の大切な遊び道具だ。譲り合って仲良く使っているが、一緒に遊ぶ以外の時間はどちらかというと零歌が使っていることの方が多い。
 両親は共に仕事に出かけていた。しばらくゲームで遊んで和やかな空気を作った後、零歌は自然な調子でこう切り出した。
「驚かないで聞いて欲しいことがあるんだけどさ」
「なんや零歌ちゃん」
「私、昨日『中二病』にかかったの」
 唯花は目を丸くしてコントローラーを取り落とした。そしてまじまじと零歌の顔を見る。最初の内は冗談として一笑に付して来るかと思っていたので、それは意外な反応だった。
「それ、ホンマなん?」
「う、うん。本当だよ。見ててね」
 零歌はポケットにあったハンカチを取り出すと無造作にリビングの隅に投げた。するとハンカチは物理法則を超越した動きで空中を旋回し、零歌の手元へと戻って来た。
「これ、サイコキネシスに見えるけどね、ただ飛んでるものが『どこに落ちるか』を決めてるだけなんだ。だからそんなに……いや、全然万能じゃなくってね。例えば……」
 零歌は昨日の実験で判明したことを解説・実演しながら自身の能力について語った。唯花は呆然としつつも、零歌の言葉の一つ一つに頷いていた。
 『中二病』にかかったことを唯花に話すことは決めていた。姉妹の間に隠し事はなしにするつもりだった。『二人だけの秘密』と言っておけば、唯花はきっと他の人には黙っていてくれるはずだった。
「……なあ零歌ちゃん」
「なあにお姉ちゃん」
「話聞いてて思ったんやけど……もしかしてなんやけどな。昨日柏木さんの頭にボールが当たったんって、もしかして零歌ちゃんがその力を使って……」
「そうだよ」
 零歌はこともなげに答えた。
 唯花の両手が零歌の肩に置かれ、前のめりな力が強く加えられた。零歌は思わずその場で押し倒されそうになる。その表情は深刻でまるで零歌を責めるかのようだった。
「……何?」
 零歌は唯花の顔をじっと見つめる。
「零歌ちゃん……それは……」
「私悪くないもん。咄嗟に自分に飛んで来るボールの落ちるとこ変えたら、それがたまたま柏木さんのアタマだったってだけだもん」
 それを聞いて、唯花の腕から力が抜けた。大きく息を吐き出して、額に塗れている汗を拭うと、零歌から手を放してへなへなと項垂れる。
「……ごめん。そうやな。絶対そうよな。零歌ちゃんがわざとにそんなことする訳ないもんな」
「そうだよ」
「ホンマごめんな、疑ったりして」
「ううん。良いよ」
「咄嗟のことなら事故やと思う。零歌ちゃんは何も悪くないで。運が悪かったんや。柏木さんにとっても零歌ちゃんにとっても……それだけのことなんや」
「うん。私もそう思ってるよ」
 零歌は笑顔で頷いた。
「だからさ……この話は誰にも秘密にしてね。お姉ちゃんにだから話しただけで、他人に言ったら隔離施設に送られちゃうんだもん。お姉ちゃんだって私がそうなるの絶対やでしょ?」
「嫌や。それとな零歌ちゃん、それはウチよりも零歌ちゃんの方が余計に心に刻んどかなあかんことやと思う」
 唯花は人差し指を立てて真剣な顔で口にした。
「人前で……いや、例え一人の時だとしてもその力は絶対に使ったらいかん。ウチと二人だけで話す時も、その力のことはなるだけ話題にせんほうが良い。誰が聞いとるか分らんからな。絶対にバレんようにするには、その力を使わず、その力のことを忘れたまんまで生活するんや。ええな?」
「うん。分かってるよ」
 心配してくれてるのが分かって零歌は嬉しかった。説諭するような言い方には圧力も感じたが、自分を思いやるからこそだと思えば受け入れられた。
「信頼してくれたこと自体は嬉しいよ。ありがとうな。『中二病』にかかってもうたら、その人にしか分からん重圧がある。それを打ち明けられる相手を一人もっとくことは、多分大事なことやと思うで。何でも頼ってな」
「うん。ありがとうお姉ちゃん」
 零歌は幸せな笑顔を浮かべた。
 そうしてカミングアウトは終わり、零歌達は再びテレビゲームに戻った。
 言ったらすっきりした。零歌は心の底からゲームを楽しむ。秘密を共有する相手を持てたことの頼もしさと素敵感が、零歌の全身を喜びに震えさせた。
 しばらくそうやって遊んでいて、どこか上の空で普段よりゲームが弱くなっている姉を半ば淡々とやっつけている内……ふと唯花のスマートホンが鳴り響いた。
 その画面の表示を見て、唯花はすぐに立ち上がった。そして「ごめんな」と口にして、自分の部屋へと向かっていった。
 自分に隠れて電話をするような相手がいるのだろうか? 零歌は退屈な気持ちで画面のポーズボタンをじっと眺める。
 そうしていると、唯花が顔を青くして戻って来た。そして、心底申し訳なさそうに、振り絞った声で言う。
「……ごめん零歌ちゃん。零歌ちゃんのこと、組織にもうバレてもたみたい。招集がかかってもうとるわ」
「……? 招集、組織って何?」
「これから零歌ちゃんには、ある人に会いに行ってもらわんとあかん。ホンマごめんやけど、ウチにはどうにもならんのよ」
「ある人って……」
「空先生」
 零歌は唯花の言う意味が分からなかった。
「なんで? なんであの人に会わなきゃいけないの? 組織って何?」
「実はこの街には、『中二病』にかかった人間同士が、秘密を共有して助け合っとる秘密組織がある。政府から捕まりそうになっとる中二病の子供を匿ったりな」
 息を飲むような衝撃。
 そんなバカな話があるはずがないと思った。中二病患者同士の秘密組織があるという空想はありふれたもので、それを題材にしたフィクションも無数に存在する。だが実際にそんなものの存在を政府が許すはずはないし、よってそんなものありえないと零歌は断じていた。それがどうして。
「で、空先生はそこのメンバーの一人なんや。ウチもようけお世話になっとる」
「どういうこと……?」
「『中二病』は身近な人間に感染する。逆に言えば、自分が『中二病』になったらそれは、周りに『中二病』の人間がいる確率が高いってことや」
 そう言って、唯花は立ち上がって、床に仰向けに寝転がった。そして足の裏を壁にくっ付けると、握った拳に一瞬だけ力を入れた。
 唯花の身体が浮き上がる。……いや、そうじゃない。浮いてはいない。まるで重力の向きが変わったかのように、唯花は壁に脚を付けて歩いているのだ。
 呆然とする零歌の前で、唯花は今度は天井付近まで歩いて、今度は壁に背中を付けて寝転がった。そして天井に足を付けると、さらに重力の向きを変えて今度は天井を歩きはじめる。
 そうして天井を歩き、重力の向きを変えながら再び床まで戻って来てから……唯花は罪悪感に沈んだ声でこう告げた。
「……零歌ちゃんに『中二病』を移したのはウチや。ごめんな零歌ちゃん」



 唯花に連れて行かれたのは空先生の自宅だった。
「いらっしゃい」
 そう言って空先生は上品な笑みを浮かべた。初めて入る空先生の家は中の上くらいのマンションで、一人暮らしをするには十分と言った規模だった。
 「お邪魔します」と言ったが靴を揃えなかった唯花と、言わなかったが靴は揃えた零歌は、共にダイニングへ通される。その両方を歓迎するように席に座らせ、暖かい飲み物を出した後で、空先生は。
「ここに来てくれてありがとう。零歌さん」
 そう言うと、零歌は思わず「はあ」と返事をして俯いた。
「その『はあ』はやめなさいって言ったでしょ」
 早速釘を刺され、零歌はますます俯いた。自分はもうあなたの生徒じゃないんだから、それしきのことは放っておいてくれと言いたかった。どういう訳かこの人は、他の生徒には優しい癖して、テニス部の部員にだけは風当たりが強い。そういうところは好きじゃない。差別だ。
「お姉さんから話は聞きました。柏木さんという女の子のことは、不幸な事故という側面もあると、私も思います」
「はあ……はい」
 柏木のことについては、自分が良いとか悪いとかではなく、ただ柏木が消えたという事実だけで認識していた。そしてその事実だけを認識する限りにおいて、自分にとってそれは凄まじく好都合なことだった。柏木はいじめっ子で、唯花を奪おうとする。嫌いだった。
「あなたの症状に関する説明はいりません」
「……それもお姉ちゃんが話したからですか?」
「いいえ。見れば分かるからです。それが私の症状です」
 空先生は自分の瞳を指さした。
「私の目は『中二病患者』を見分けることができます。最初は誰が中二病なのかを見分けるだけの症状でしたが、今では随分と『進行』して、見るだけでその人の『症状』がどういうものなのかまで、詳しく知ることができるようになりました」
「はあ。……はい」
「今朝あなたとすれ違った際に、この『症状』によってあなたが中二病に罹患したことに気付きました。それで、お姉さんを通じてあなたとコンタクトを取ったのです」
「……私達、すれ違ったりしましたか?」
「しましたよ。気付きませんでしたか?」
 気付かなかった。日頃ぼんやりとしている零歌だが、昨日色んなことがあった所為で、今朝は特に上の空だったのだ。
「ウチが先生に声かけられたんも、零歌ちゃんと同じ様な経緯や」
 唯花が口を挟んだ。
「ウチのこの力、『自身または触れたものの重力の向きを自在にする』力な、実は小六の時には既に発症しとったんや。誰にも黙っとこうと思ったんやけど、空先生にはバレて。そんで声かけられてな……」
「……てよ」
「え?」
「話してよ、私には……」
 零歌はふてくされていた。隠し事などしないで欲しかった。何でも話し合える関係でありたかった。自分はそうしているのに唯花がそうしてくれないのは酷いと思った。
「ご、ごめん。でも、それは空先生から言われ取ったことでもあるんや」
「……そうなの?」
「そうです。『中二病』にかかったことを話して良いのは、同じ『中二病』にかかった相手だけです。いいえ……それさえも可能な限り控えた方が良いでしょう。何でか分かりますか?」
 空先生に尋ねられ、零歌は俯いたまま答えた。
「……誰かが捕まった時、芋づる式にならない為……」
「その通りです」
「じゃあ……こうやって空先生に話すのも、良いこととは思えないです。中二病患者同士が結託して組織を作るなんて、政府からしたら、一網打尽にしてくれと言っているようなものじゃないですか」
 つい本音が出た。零歌は最初から『組織』なるものについて胡乱な視線を向けていた。
「皆で力を合わせて何かする……革命でも起こすのなら別かもしれませんけど、でも静かに生きていくなら打ち明け合わない方が絶対に良い。先生の組織って、何を目的にしているんですか? 私は何に巻き込まれるんですか?」
 空先生は顧問としては怖い人だったが、何度も怒られている内に口答えの仕方も分かっている相手だった。どこまでが許されるラインなのかが薄っすら見えるのだ。それは生徒と円滑にコミュニケーションを取る為に、空先生自らが提示して来たラインでもあった。
「……元々、私達は異能結社『アヴニール』という過激派組織に属していました。……表向きには、今でも」
 空先生は言う。
「『アヴニール』は中二病患者の解放を求め、その手段として政府への武力行使を想定する、危険な組織です。政府とは長く小競り合いを続けていますが、最近では地下に潜り、秘密裏にその勢力を拡大しています。最近では中二病患者の隔離されている離島の施設にスパイを置き、収容されている患者を解放する計画を立て、今尚それは進行中です」
「先生は、その組織の立ち上げに関わってますよね。じゃあ幹部以上で……もしかしたらリーダーなのかも?」
 零歌がそう指摘すると、唯花は目を丸くして零歌の方を見た。空先生は動揺こそしなかったものの、やや鋭くした視線で零歌の方を見やった。
「……何故そう思ったのです?」
「はあ」
「『はあ』はやめなさい。質問に答えて」
「……だって。中二病の人同士が組織を作ろうと思ったら、まず仲間を集めないといけませんよね? でも中二病の人は普通それを隠そうとするし、自分から中二病だって言いだすような人はすぐ捕まっちゃうじゃないですか? 普通だったら政府にバレないようにコンタクトを取り合うなんて不可能なはずで、つまり立ち上げの段階で先生のその力が使われたっていうこと……だと思うんですけど」
「だから、空先生は組織の立ち上げメンバーで、幹部以上やっちゅうんか?」
 唯花が言う。気付いてなかったのか?
 否定しても疑惑は拭えないと思ったのか、微かに苦々しい表情になりながら空先生は言う。
「……そうですね。先生は『アヴニール』の立ち上げメンバーの一人です。しかし、リーダーではありません」
 嘘は吐いてなさそうだ。
「話を戻します。今、アヴニールが襲撃しようとしている離島の隔離施設は警備が厳重で、攻め入るのは困難です。そのことは、隔離施設に収容されている患者達が、その『症状』を持ってしても、滅多には脱獄を成功させられないことからも明らかです。それを強引に攻めようとなると……数多くの血が流れることは間違いありません。また成功したとしても、政府は私達を一掃危険視し、根絶やしにしようとするでしょう。全面戦争に突入してしまうのです」
「はあ」
「…………先生は、そんなことはやめようとリーダーを説得しました。穏健派の仲間を集めて、抗議を繰り返しました。しかしリーダーはそれを聞き入れることなく、強引に計画を進めているのです。そこで……我々穏健派は秘密裏に組織から分裂し、アヴニールに対するレジスタンス組織を立ち上げました」
「はあ」
「そのレジスタンス組織の名前を『サテライト』と言います」
「……良いんですか、その名前で」
 そう言うと、唯花が「どうしてあかんの?」と零歌の顔を覗き込んだ。
「だって、サテライトって、『空』じゃん」
「そうなん?」
「うん。先生がリーダーなのバレバレだよ」
 おめでたい名前だと思った。異能結社アヴニール共々、本質がただのおままごとなのは明白だ。イデオロギーは後付けで、結局はストレス解消に暴れたいだけ。そんなものに巻き込まれ矢面に立たされるなんて理不尽極まりない。
「……アヴニールのリーダーには、レジスタンス組織の存在自体バレていないので、問題ありません。この名前にしたのは、レジスタンス活動がバレたらまずは私が矢面に立ち、責任を取るという覚悟を示す意味合いもあります」
 先生は肩を若干震わせながら言った。
「先生は、私を『サテライト』の構成員にするつもりなんですか?」
「正構成員になって欲しいのではなく、一時的な助力を願いたいのです」
「どっちにしろ、怖いことには巻き込むんですよね?」
「悪いとは思っています。しかし、サテライトと関わらなかったとしても、この街の中二病患者というだけで、どの道『アヴニール』の陰謀とは無関係でいられないのです。この近辺の中二病患者のほとんどは『アヴニール』に把握されていて、いつでも声を掛けられるように準備がされているのですから」
「そうなんですか?」
「ええ。異能結社アヴニールはあくまでも中二病患者の為の組織です。患者達の平穏な生活を守る組織です。なので、高校生以下の子供に対しては、原則として声を掛けることはしません。大学生以上でもスカウトに値しなければ放置します。アヴニールの存在を知る中二病患者は、極僅かなのです」
「じゃあなんで私に……お姉ちゃんに声をかけたんですか?」
「あなた達の力が必要だから。あなた達のような強力な『症状』を持った中二病患者が、レジスタンスには必要なのです。それに、あなたは私の身近な知人……大切な生徒でもあります。話も分かってもらいやすいし、何より信頼できると思ったんです」
 勝手な話だ。ようするに、手駒として動かしやすいというだけのことではないか。
「異能結社『アヴニール』が政府に戦争を吹っかければ、きっと世界中が不幸になります。それは食い止められなければなりません。私達の組織はあくまでも迷える『中二病』の子供を陰ながら見守り、必要な時に必要なだけの力を貸し与える存在でなけれなならないと思います。それこそが、私達『サテライト』の理念なのです。……分かりますね?」
「……はあ」
「その崇高な理念を、あなたのお姉さんは理解してくれました。そしてある任務を請け負ってくれました。唯花さんの症状なら容易な任務のはずですが、今のところ遂行されていません」
「……すいません先生」
 唯花は俯いた。零歌はそれを、姉は無茶な任務を要求されて困っていると受け取った。それは許しがたいことだった。零歌は思わず空先生を睨む。
「先生。お姉ちゃんを巻き込むのはもうやめてください」
「『中二病』にかかった以上、あなた達は『アヴニール』とも『サテライト』とも無関係でいられません。これは仕方がないことです。私達でアヴニールを止めなければ、より過酷な戦争にあなた達は巻き込まれることになる。そっちの方が嫌でしょう?」
「先生は、私達の情報をアヴニールに伝えているんですか?」
「いいえ。自分の生徒の情報は伝えていません。でも、私程ではないけれど、近いことならできるという人はアヴニールにもいます。今はまだ大丈夫みたい抱けれど、いずれあなた達だってアヴニールに捕捉されてしまう。分かるかしら?」
「……それは分かってます」
 唯花が言った。
「でも先生、ウチ、やっぱり零歌ちゃんを巻き込むのは……」
「あなたが任務を完遂していたら、そう主張する権利もあったでしょう。でもね、あなた一人じゃ無理なんでしょう?」
「……そうですけど」
「じゃあ零歌さんに手伝って貰うしかないでしょう。……大丈夫。あなた達のような子供に、そういくつも重大な任務を任せるつもりはありません。この任務をこなしてくれたら、もうそれっきりよ。そっとしておいてあげるわ」
 嘘だと思った。と言うより、後からいくらでも反故にできる約束だった。
 突っぱねてどうにかなるかは分からなかったが、少なくとも姉は既にその任務を請け負ってしまっているらしい。唯花が関係しているのならば、零歌も無関係ではいられなかった。
「それで……その任務というのは?」
 空先生は、一枚の写真を取り出して、零歌の前に置いた。
「この子を殺してください」
 零歌は絶句した。
「そしてもちろん……警察にも捕まらないで。多少しくじったとしても、私達が上手く処理しますが、それでも絶対にしくじらないで」
 零歌はその写真をまじまじと見詰める。漆のような色をした二本の三つ編みの髪。赤い縁取りの眼鏡をかけた大きな瞳。白い肌、高い鼻、瑞々しい唇。
 その姿は零歌の年下の友人である、音無夕菜そのものだった。

 ×5×

 その日は塾がなかった。さりとて、遊び相手も捕まらなかった。しょうがなく俺は家で勉強でもするつもりで帰途についていた。
 「おっ?」
 自宅の前に着いて、俺は驚いた。自宅のガレージに夕日の車が停めてあったからだ。
 俺の目の前で夕日の車はエンジンが止まり、扉が開いて中から一組の男女が降りて来る。運転席からは兄の深夜が、助手席からは姉であり俺達五人兄弟の長子である、夕日が。
 「世話になったね、深夜」
 夕日が言う。すると運転を務めていたのだろう深夜が「けっ」とダルそうな声を発して。
 「まあ貰えるモン貰えりゃあ良いさ。寄越せ」
 「ああ。そうか小遣いだな」
 夕日が財布から一万円札を取り出すと、深夜はそれを引っ手繰るように受け取った。
 「姉貴免許持ってる癖によ。運転くらい自分で出来ねぇのか」
 「つまらない冗談だな」
 夕日は不敵に微笑む。確かに今の姉ちゃんに運転は無理だった。深夜はそんな夕日に背を向けて、ガレージから立ち去って行く。
 「家には入らないのか?」
 「ああ。この金でパチ屋行く」
 「もう少しおまえと話したかったんだがな」
 「車で十分話しただろ。じゃあな。そのメガネだせぇぞ」
 そう言って深夜は俺の方には見向きもせず徒歩でパチンコに向かって行った。ガレージには深夜が使っても良い車が何台かあるはずだったが、奴は渋滞や信号待ちがダルいという理由で車の運転を嫌っており、行動はもっぱら徒歩だ。小遣いをちらつかされでもしない限り、運転手など引き受けたがらない。
 まあそんな深夜のことなどどうでも良かった。俺は嬉しい気持ちで夕日に近付き、「やあ姉ちゃん」と声を掛けた。機嫌は三割マシだ。俺はこの姉ちゃんが好きだったのだ。
 「未明か。久しぶりだな」 
 夕日は笑顔を返し、玄関へ向けて歩き出す。俺はその後ろに続いた。
 「最近帰ってねぇよな。仕事忙しいのか」
 「そんなところだ」夕日は言う。「流石に精神科医の方が休業しているから、今忙しいのは私が事業主をしている副業の方だ。今日も夜になったらまだそっちに出掛けなければならん。家にいられるのは三時間くらいだな」
 「そんな忙しいのに、兄ちゃん使ってまでわざわざ帰って来たんだな」
 「ああ。弟妹と会っておきたくてね」
 そう言って、夕日は俺の方に不敵な……しかし優し気な視線を送る。
 「会えるかどうかは賭けだったが、おまえが帰って来て良かったよ。支障がなければ、コーヒーでも淹れて話をしたいんだが」
 「もちろん構わないさ」俺は笑顔を浮かべた。



 コーヒーは夕日が淹れてくれた。疲れているだろうに優しいものだ。
 夕日の淹れてくれるコーヒーは信じられない程良い匂いがしてパンチの効いた濃厚さで、店で飲むのより美味いくらいだ。ブラックで味わう。酸味も好みちょうどだ。
 ……が、しかしそこには夕日ならではの茶目っ気もあった。コーヒーの中には妙なものが入っていて思わず俺はむせた。その拍子にコーヒーを取り落とす。テーブルが汚れた。
 ひっくり返ったコーヒーの中には俺が小さい頃に失くした指人形が入っていた。懐かしきピカチュウ。探し回って泣いた思い出がある。
 「……なんだよこれ」
 テーブルに出来た湯気を放つ茶色い池もどうにかしなければならなかったが、俺はその前にピカチュウの人形を指で示した。
 「それはおまえが小さい頃に失くして泣いていたものだ」夕日は不敵な笑みを浮かべて答える。「おまえが七歳で朝日が三歳の頃のことだ。当時高校生だった私が部屋でパズルをしていると、朝日が困り切った様子で入って来た。三歳児特有の支離滅裂な話を聞いたところ、未明がどうしても貸してくれない指人形を、朝日はとうとう盗んでしまったのだという。未明は半泣きになって指人形を探し回っているが、正直に打ち明けると叩かれる。何とかして欲しい、という相談だった」
 「……それで?」
 「盗んだのは良くないが、兄の為に罪悪感に駆られている朝日の様子は、三歳児にしては立派なものだった。こっそりお兄ちゃんに返しておいてあげるからと約束して、それっきり人形は預かっておいたのだ。今日までな。それがこの人形だ」
 「いやすぐに返せよ」
 「単純に忘れていてね。忘れている内にはおまえはその指人形を諦めた。朝日の方も所詮は三歳児だから出来事自体をすぐに忘れたようだ。後からその指人形のことを思い出した私だったが、今更だったので握り潰したという訳だ」
 「酷い姉だな」
 「だが朝日との約束は今果たしただろう。指人形はおまえに帰って来た」
 「無理があるぞ」
 「そう思うかい?」夕日は悪役のような含み笑いをした。「私もそう思う。悪かったね」
 「どうするんだ、このテーブル。いや、片付けるけど……」
 そう言って、席を立った俺に対し、夕日はその手の平を差し出した。
 「いやいい。私の『症状』でなんとかしよう」
 そう言って夕日がコーヒーで汚れたテーブルに手を触れると、まるで逆再生したかのようにコーヒーはカップへと舞い戻った。テーブルに染みついていたコーヒーも完全に跡形もなくなる。俺の指にあったピカチュウも、いつの間にやら消えておそらくはコーヒーの中にあった。
 「これで良い」
 夕日は『中二病』患者だった。
 それも、『この世のあらゆるものの時間を巻き戻す』という、かなり強力な症状を罹患している。医者である夕日がその力を自在に行使すれば、ありとあらゆる難病を治療できるのは明白だったが、しかしそれは許されないことだった。バレたら隔離施設に送られるからだ。
 夕日がそのことを嘆かない日はなく、また中二病とは本来素晴らしい力で才能なのだと言って憚らなかった。中二病患者が自由にその力を振い人の役に立つ社会が本来あるべき姿だと訴えていた。俺は完全には同意しかねていたが、今の政府の対応もまた正しいとは思っていなかった。
 コーヒーの片付けが済んだ後も姉弟はとりとめのない話をし続けた。夕日は自宅に趣味の為にもう一部屋欲しいという要望を口にした。だが我が家は三階建ての大きな屋敷とは言え、多趣味な姉の為だけに三部屋も四部屋もは使わせられず、主に深夜に阻止されているようだった。こればかりはあの愚兄にも感謝しておく必要がありそうだ。
 その内部活から朝日が帰って来る。朝日は夕日の顔を見て、兄である俺や深夜の前ではややつんけんとさせているその顔を、喜色一杯に綻ばせた。
 「あ! お姉ちゃん! 帰ってたんだぁ!」
 そう言ってはしゃいだ様子で駆け寄る。子供みたいな仕草……いや子供か。目は輝いており顔は綻んでおり駆け寄る足取りは幼子のようだ。朝日は俺が夕日を好きな以上に夕日が大好きだった。心酔していると言っても過言ではない。
 「やあ朝日。会えて嬉しいよ」夕日はそう言ってコーヒーカップを掲げる。「おまえも飲むかい?」
 「飲む飲む! 自分で入れるねっ」
 そう言ってぱたぱたとコーヒーメーカーへと歩いて行く朝日。それを見ていたハウスキーパーの一人が「私が淹れますが……」と声を掛けるが、朝日は断っていた。自分のことは自分でやりたがる奴だ。
 席に着いた朝日は、俺のことなど視界にも入らない様子で、夕日に学校や部活の話などを聞いてもらいたがった。夕日もまたそんな妹に笑顔を向けながら寛大に話を聞いてやっていた。
 「もうね先輩ったら酷いの監督の目を盗んでサボってばっかでさ自分が勝手に下手になるだけならどうでも良いけどそいつわたしとダブルス組んでるんだよ本当やんなっちゃうそれで怒ってやったら生意気だとか言われてさこっち来いとかって倉庫の裏に連行されたから反対にぶちのめしたんだけど何故かわたしが悪いことになってそりゃあ手を出したのはわたしが先だしそれは反省してるけどでも顧問も大分一方的でさ別に大したケガじゃないんだし両成敗が普通でしょなのにそもそも」
 朝日のマシンガントークにも気圧される様子なく笑顔で頷き続ける夕日。我が家の母は既に他界していて兄弟に女は夕日と朝日しかいないので、この二人には女同士の特別な絆があるようだった。名前似てるし。そこに疎外感を覚える程ガキではないが、しかし俺はなんとなく口数が減っていた。
 三時間は一瞬だった。主に朝日が夕日に話すのを聞いていただけだったが、それでも楽しい時間だった。午後七時を回ったあたりは夕日はおもむろに立ち上がると、名残惜しそうな顔で言った。
 「そろそろ仕事に戻るよ」
 「え、行っちゃうの?」
 朝日はショックを受けたようだった。そう言えばこいつ、今日は三時間しか家にいないって知らなかったか。
 「相談したいこととかもあったんだけど……」
 「すまない。また時間を作って帰るから」
 「うん。分かった。今日は楽しかったよ」
 「私もだ。じゃあな、未明も」
 「ああ。正午にも送らせるか?」
 俺は言う。正午は茶会に参加せず部屋で一人で勉強しているか遊んでいるはずだった。俺が尋ねると、夕日は「いや、いい。あの子とはどうせ……」と首を横に振った。
 「じゃあねお姉ちゃん」
 そう言って去って行く夕日を見送る朝日。夕日は朝日に軽い抱擁を交わした後、小さく手を振ってひさしぶりの自宅を去った。
 有意義な時間に感じられた。



 その日の夜、俺は自室で『指切り』として使っているナイフを砥いでいた。
 空先生殺害の決行日は明日だった。あの細い腰を掴み、でかい胸を貫いて心臓を一突きにすることを空想すると、俺のアタマは冴え渡り殺人に対するやる気が漲った。
 殺人鬼『指切り』としての殺しは明日で完結させる予定になっていた。暗号メッセージがそれで完成するのだ。これまでに積み重ねて来たことがようやく形になると思えば、俺は興奮を禁じ得なかった。その興奮は遠足の前の幼児のように、わくわくで夜も眠れない程だった。
 寝る前にナイフを砥いでいたのはその興奮を鎮める為だった。全身のあちこちに発散しそうになっている俺の気が、ナイフを研ぐという一点にしなやかに形を成して行く。殺害決行前夜に良くやっているこの儀式を、俺は殺害行為の一部であるかのように愛していた。
 その時。
 部屋がノックされ、「お兄ちゃん、起きてる?」というか細い淡い声がした。朝日だ。
 しかしこの『お兄ちゃん、起きてる?』というのは普段よりどこか甘い声だった。別に妹に度を超えた劣情は持っていないつもりだったが、それでも妹が『お兄ちゃん、起きてる?』と部屋を訪れるシチュエーションには、兄としての役得を覚えざるを得ない。世の中にはリアルの妹などウザくてブスなだけだと口にする可哀想な兄も多くいるが、俺は自分がその中に含まれないことを知っていた。朝日はカワイイ。
 俺はナイフと砥石を引き出しに片付け鍵を掛けてから、「いいぞ入れよ」と口にした。
 青いパジャマの朝日が、やや俯いた姿勢で入って来る。
 寝る前ということでいつもポニーテールにした髪は降ろされており、それはどこか朝日の幼く無防備な姿のようだった。姉妹だから当然だが、そうしていると、かつて俺が憧れていた昔の夕日の姿に少し似ていた。
 「あのね。お兄ちゃん、わたしね……」
 そう言いながら、何かを言おうとして言う勇気がないと言った様子で、俯けた瞳で声を震わせる朝日。いつもは俺や深夜には生意気な態度を取りがちな朝日には珍しい様子だった。
 「まあ座れよ。ほらベッド」
 朝日がベッドに腰かけるので俺は自然とその隣に腰かけた。普段なら『キモいから離れて』と言われかねない近距離に陣取ったが、その時の朝日は拒まなかった。
 漂うシャンプーやボディソープの匂いに俺は興奮を禁じ得ない。俺は朝日の肉体を間近に観察した。女子なら中二くらいで誰もがそうなるが、身長の伸びが緩やかになって来たことで、摂取した栄養は肉付きの方に回され始めたようだった。と言ってもそれはデブるという意味では決してなく、尻や乳が発育して女らしい身体になるという意味だった。少し前までやせっぱちだったのが、テニスで付けた筋肉と必要最小限の脂肪とで程好いハリが出ている。ずっと成長を見守って来た胸は、発育途上ながらなかなかに膨らんで、青いパジャマの下でしっかりと突っ張っていた。
 今度留守中に下着でもパチろうかな? どうせ深夜が疑われるだろう。女には特に困らないがそれだけに妹は別腹だ。
 「言いにくいことならゆっくりで良いからな。なんだ?」
 俺は笑顔で朝日に優しい声をかける。肩でも抱いてやろうかと思ったが加減は肝心と思い我慢した。
 「お兄ちゃん。わたしね」
 「ああ」
 「中二病になっちゃったみたいなの」
 それを聞いて、俺は朝日に覚えていた劣情を微かに萎えさせた。そして苦笑する。
 「そりゃあ大事だな」
 「なんで笑うの! 本当なんだよ!」
 「疑ってねぇっての。心配すんな、誰にも言わない」
 これと言った衝撃は覚えなかったのは、いや衝撃を覚えつつも動揺するまでに至らなかったのは、それが十分に予想しうることだったからだ。
 中二病とは伝染する類の病魔だった。実際、俺の『中二病』も多分夕日に移されたんだと思う。深夜の『天気予報』だって、口に出したことはないが正直怪しいものだ。
 だとすれば俺達時川五人兄弟は『クラスター』の渦中にいることになる。昔っから俺達の中の誰かが風邪を引けばだいたい全員に蔓延していた。それと同じだと考えるとちょっと滑稽で、納得感と共に俺は苦笑を浮かべてしまったのだった。
 「で……、どんな『症状』なんだ?」
 「…………これ」
 言って、朝日は一枚の紙を取り出して俺に差し出す。
 見慣れたルーズリーフの切れ端だった。朝日の体温で少しぬくもっている。そこには大きく『契約書』という文字が躍っていた。その下は完全に白紙であり何とでも書けるようになっていた。
 「これに書いた内容を、皆守らなきゃいけないみたいなの」
 「ふうん……。これ、おまえが描いたのか?」
 「そう。そういう特別な紙を作り出せるのがわたしの力みたいなの。これを作った瞬間にそれが分かった。実際にこの紙でした約束を破ったらどうなるのかまでは、実験しないと分からないけど……」
 試しに俺達はその紙に『四月二十九日零時二十五分、時川未明は時川朝日の前で盆踊りを踊ります』と書き、それぞれの署名を用紙の一番下に書き記した。その後、俺は盆踊りをしないようにしていたが、時間が来ると猛烈にアタマが痛くなり始めた。
 「痛い痛い痛い痛い痛い!」
 その激痛はまるで目玉が抉られるようであり俺はたまらなくなった。これに耐えることはおよそ不可能なのではないかと思われた。耐えていれば耐えている程痛みは強まりやがてアタマが破裂しそうになった。おそらくそのまま耐え続けていれば本当にアタマが破裂して死んでしまうのだろう。俺はおとなしく盆踊りを朝日の前で踊った。
 「……どうやら本当みたいだな」
 ワンフレーズで頭痛は収まり、俺は額に汗しながらその場で蹲った。
 「大丈夫お兄ちゃん?」
 「ああ大丈夫だ。それにしても、どうしてこんな力に気付いたんだ?」
 「パチンコで大負けに負けた深夜お兄ちゃんがお金を借りに来てさ。もちろん断ったけどしつこすぎるから、来月には絶対返しますって契約書作ったの。で……作った瞬間、それが特別な契約書だって、わたしには分かった。理屈じゃなく、直観的にそのことがそれが感じ取れたっていうか……」
 中学生の妹に金を借りに来るかつての憧れの兄に俺はアタマを痛めた。どこまでしょっぱい男なんだ、深夜よ。
 「深夜は気付いていたか?」
 「気付いてない。その効用を知ることができるのはわたしだけみたい」
 その契約書の強制力を知ることができるのは朝日だけということか。何も知らない相手と契約を結ばせて、破るつもりの相手を引っ掛ける、なんて使い方もできそうだ。
 「良く話してくれたな。ありがとうな」俺は妹には頼もしく見えそうな笑顔を意識して言う。
 「いや別に……」朝日は若干目を反らす。「本当は夕日お姉ちゃんに相談したかったんだけど、いなくなっちゃったから」
 俺は控えかよ。正直に言いやがる。でもまあ親父はほとんど家に帰らないし夕日も似たようなもんだし、正午は幼いし深夜は論外だから、相談するとしたら俺だわな。
 「ねぇお兄ちゃん……わたし、どうしたら良いのかなあ?」
 「誰にも言わなきゃ大丈夫だろ。使いさえしなきゃ誰にも分かりようがない症状なんだし」
 使わなきゃバレないような力というだけで、中二病の症状としてはそこそこ当たりだ。何もしなくても駄々洩れになる類の症状は、すぐに捕まるので悲惨なのだ。
 「でも……わたしだっていつか魔が差して悪用するかもしれないし……」朝日はベッドの上で体育座りをして顔を膝に埋めた。「自分のことも、わたしそんなに信用できないし……」
 「おまえなら大丈夫だよ。それに、離島の隔離施設に行くのは嫌だろ?」その弱っている様子を見て、俺はとうとうその華奢な肩に腕を回してしまう。「おまえ、中学でもテニスで全国行けるように頑張ってるんだろ? 顧問にも期待されてるみたいじゃないか。そんなおまえが夢を絶たれるなんて話があるかよ」
 「でも……良いのかな?」
 「姉ちゃんだって相談したら同じことを言うはずだ。それは分かるだろ?」
 「そうだよね。それは絶対そう言うよ」
 朝日もまた夕日の『中二病』を知っていた。それを隠して生活していることも。その上で自分はどうしようと相談に来るあたり、真面目な妹だ。
 「だろ? あの人は中二病患者が隔離される今の社会はおかしいっていっつも言ってる。俺も同じ意見だ。黙ってりゃ良い。中二病患者はほとんどそうしてるそうじゃないか」
 実際のところ、中二病にかかった人間のどれくらいが正直に申告して施設に行くのかを俺は知らなかったが、そう言っておいた。朝日はそんなに賢くないのでそれで納得した。
 「そ、そうなのかな? そうだよねっ」朝日は涙を溜めた瞳で俺を見上げる。
 「そうそう。隔離施設に行くのは悪用してバレた奴だけで十分だ。政府だって本当はそのくらいに考えてる。軽々に名乗り出て後悔するのが、一番バカらしいぞ」
 「……分かった」
 そう言って朝日は決意したように頷いた。実際のところこいつの心は最初からこれに決まっていたと思う。何せこいつの心酔する夕日だってそうしているのだ。俺のところに相談しに来たのは、誰かに自分の判断を肯定して欲しかったのと、負担を共有してくれる相手が欲しかっただけだ。
 「ありがとうねお兄ちゃん。その、だからくれぐれも……」
 「ああ黙ってるよ」
 そうして朝日が自室に戻って行った為、俺はベッドに置きっぱなしになっている『契約書』を手に取った。
 「……さて」
 俺は『契約書』の裏面にこう書きこんだ。
 『さらに、零時四十分、時川未明は一人でコサックダンスを踊ります』
 そしてそのすぐ下に自分の署名を施す。そして時間が来たにも関わらず俺がコサックダンスを踊らないでいると、さっきの頭痛が俺を襲った。
 「……しめた」
 どうやら間違いない。この紙は余白がある限り一枚で何度でも使える。
 バカめ、朝日め。こんな大切なものを部屋に置きっぱなしにするなどと、天然ボケっぷりには毎度助けられる。深夜からしょっちゅうカモにされているだけはある。あいつの間抜けさは兄弟一だ。
 万が一後から「返して」と言って来られたとしても、「捨てた」と言い張ればどうとでもなる。良いものを手に入れたと思いながら、俺は一人で、なるだけ音を立てないようにコサックダンスを踊るのだった。



 明日から五連休となる今日という火曜日を、『明日からゴールデンウィーク』と取るか、『もうゴールデンウィークに入っていて、その途中で登校しなければならない面倒くさい日』と取るかは、その人個人の感性に委ねられるところではある。
 だがそんな感覚もニー浪人生である深夜には関係がない。朝までゲームをやっていた深夜は、「寝る前におまえらの朝飯食うわ」と告げて朝食の席に着いた。
 「良い身分よねぇ」と嫌味ったらしく朝日。
 「黙れバカガキが。あーうめぇぜ。働かずに食うメシはうめぇ。うんめぇええ!」言いながらガツガツと朝飯を頬張る深夜。
 「良い食べっぷりなのだ」と正午が言った。「ところで深夜お兄ちゃん、お願いがあるのだ」
 「あんだよガキんちょ? 俺はもう寝るぞ」
 「時間は取らせないのだ。寝る前に、明日の天気予報をして欲しいのだ」
 明日、久し振りに父親に休みが取れるということで、家族でテーマパークに遊びに行くことになっていた。夕日は仕事で来られないらしく、そのことを深夜を除く兄弟三人が残念がった。
 「あー? そういや明日はガキ臭いところに連れて行かれることになってたなあ」面倒臭そうな深夜。
 「嫌なら来なくて良いんですけどー」白い目をした朝日。
 「久々の一家団欒なんだから来いって親父がゴリ押して来るんだよ。うぜぇことにな。雨でも降ってくれりゃいいんだがなあ」
 深夜は横柄なニート気質だが、それは主に俺達下の兄弟とハウスキーパー達に発揮されており、親父や夕日にバシっと言われれば聞き分けざるを得ないことも多い。そういうところも実にダサくて情けないと言える。
 「雨は嫌なのだ」と正午。「一応、天気予報は調べて晴れだったけど、お兄ちゃんの天気予報があれば尚のこと安心なのだ」
 深夜の天気予報は百発百中で知られていた。とは言え、深夜に気象予報士の素質があるという訳ではない。その方法は占術的かつ原始的だった。
 「でも正午。おめぇ楽しみにしてるんだろ? もし雨って予報が出たらどうするんだ?」
 「そしたら事前にちゃんと覚悟できるのだ。やって欲しいのだ」
 「じゃあ雨降っても泣かねぇな?」
 「のだ。ぼくももうそこまで子供じゃないのだ」
 正午がそう言うので、深夜は食事の途中だったが「わーったよ」とけだるげに口にして、近くのスリッパを脚に引っ掛けた。そしてそれを蹴り飛ばしながら、言う。
 「あーした天気になーれ」
 宙を舞い、何度か回転して着地するスリッパ。それは裏側を向いていた。雨の予報だ。
 「の、のだ!」正午は動揺した様子を見せた。「ま、まずいのだ。雨が降ってしまうのだ。これじゃテーマパークに行けないのだ」
 「だ、大丈夫だって」朝日は慰めるように弟の肩に手をやる。「天気予報でも、晴れの確率は百パーセント、降水確率ゼロパーセントって言ってたじゃない」
 「ゼロパーセントとレイパーセントはちげぇぞ」深夜はけらけらと笑う。「残念だったな正午。俺の天気占いは百発百中だ。あー済々した。行かなくて済む」
 言いながら早々と食事を終え、当然食器を流しに運ぶことなどせず、深夜は寝る為に部屋に戻って行った。
 「元気出して正午。まだ雨と決まった訳じゃ……」
 「良いのだ。覚悟するのだ。深夜お兄ちゃんの占いは外れないのだ」
 その通りだった。深夜はたまに機嫌が良い時などに、スリッパなどを使って天気占いを披露する。それが外れたことは一度もない。
 事前に天気予報を見てそれに合わせた結果になるようスリッパを蹴っている、なんて、姑息な手を使っている訳ではないのだ。証拠として、今回のように天気予報とは真逆のことを予知することも多い。だというのに、奴は予報を絶対に外さないのだ。
 項垂れる正午と慰める朝日の二人を見ながら、俺はかなりの喜びを感じている。
 俺にとっても、家族で遊園地というのはダルめの予定だったのだ。



 通学し、一日の授業を終える。今日は塾もない。帰りにゲームセンターに寄らないかという仲間の誘いに乗り、リズムゲームや麻雀ゲームを学生らしくおおいに楽しむ。
 その後テーブル付きのベンチに腰掛け、自販機で買ったアイスを食いながら、駄弁に耽る。志望校についての話題、今年は何人が東大に行くのかの予想、その中に自分は入れるのかという不安、GW前日の今日くらい羽目を外したのは正解だという言い訳、などなど。
 そうしていると、学年一の美少女で理事長のお嬢様である椎名が、何故か一人ゲーセンにやって来る。ずっと狙っているが取れていないクレーンゲームの景品があるという。アホな男子共は皆口々に『代わりに取ってあげる』と言って椎名に群がる。俺も参加する。俺が千五百円を無駄にする中で、見事に景品と椎名の笑顔を射止めたのは若ハゲの佐々岡だった。糞が。
 「皆さん、本当にありがとうございます。皆さんとの思い出として、このぬいぐるみはずっと大切にしますね。ごきげんよう」
 貰うだけ景品を貰ってニコニコと帰って行く椎名。とても良い匂いだけがそこには残った。
 景品を取って得意げな佐々岡に、「僕は彼女を良いとは思わない」と自説を述べたのは、学年一位の天才である渡辺だった。彼はその優れた頭脳で椎名の本質を高度に分析し、明瞭かつ簡潔に以下のような持論を述べた。
 「だって彼女、立体だろ」
 その後ゲーセンの併設されているモールを皆でふら着くと、この前美術コンクールで大賞を取り表彰されていた木曽川が、何故か男子トイレから出て来るのが見える。おいおいあいつ女子だよな、そうだよだってスカート穿いてるじゃん、何してたんだ? 的会話の後に。
 「ちょっとトイレ見に行こうぜ」
 という結論が出る。すると、男子トイレの個室の壁一杯に、嫌に写実的に描かれた木曽川本人の裸の鉛筆画が描かれていた。両腕を首の後ろに回して毛の生えてない股を突き出すポーズ。芸術家ってアタマがおかしいんだね。鑑賞後、木曽川が停学になるといけないので、皆で消しておいてやる。
 そんなこんなで遊んでいる内に午後七時を回る。まだまだ遊ぶぜと息巻く仲間達に断って、俺は遊びを抜けた。
 鞄の中に手を入れ、中に入っているナイフの感触を確かめる。
 もうそろそろ、空桜を殺しに行く時間が迫っていた。



 あれから調べたところ、俺がコンビニで見た巨乳のお姉さん空桜は、弟の担任である『空先生』で間違いないようだった。既に住所も突き止めており、行動パターンも調査済みだ。
 小学校の教師は忙しいらしく、自宅へ帰るといつも八時を回っていた。通勤及び帰宅手段は電車及び徒歩。そして空先生は自宅アパートに帰る前、アパートの背後にある細い、人気のない路地を利用する。不用心だね。そこに待ち伏せてじっとしていれば、いずれ現れる空先生を殺せるはずだった。
 『症状』が予知した空先生の死亡時刻は今日の八時四十五分と数十秒。その数分前には彼女はここにやって来る。あまり長時間の待ち伏せは目撃される危険があるので、八時三十五分に俺はその場所に向かった。
 時間通りに、俺はその場所にたどり着いた。そして待機する。殺人の興奮と達成感がもうすぐそこにあるということで、俺の心臓は期待に強く高まって行った。
 やがて三分が過ぎ、五分が過ぎる。もし椎名とホテルに行く約束をしていても、こんなに胸が高鳴りはしないだろう。今か今かと、空先生の到着を待ち受ける。
 やがて八分が過ぎた頃に俺は不安を抱きはじめる。九分が過ぎる。十分、十一分。
 「……嘘だろ?」
 スマートホンの時計は八時四十五分を回っていた。本来なら、空先生は既に死んでいるはずの時間だった。
 俺は困惑したが、すぐに事態を飲み込んで冷静さを取り戻す。
 簡単なことだ。空先生は俺に殺される運命になかった。事故に合うとか、何か他の方法で死亡したのだ。それだけのことだ。
 俺は大きな落胆を全身に感じた。ぶら下げられた大きなケーキを目の前で引っ込められた気分。行き場のない哀しみと怒り。俺は舌打ちをしたが、気持ちはなかなか収まらなかった。
 ……まあ良い。ターゲットは新たに選び直すだけだ。
 そう思い直し、帰途についていた……その道中だった。
 別の狭い路地を通る時、月明かりに照らされた空先生の遺体を発見した。
 俺は驚いた。それは死体そのものに驚いた訳ではなかった。俺の予知は絶対に外れないのだから、空先生が死んでいるのは当たり前のことだった。
 しかし問題だったのは、俯せられた死体から背中には深々とナイフが突き刺さっていて、それが他殺であることを明確に示していたこと。そして……。
 その死体の指の数本が、まるで俺がしたように切り取られていたことだった。
 死体の指は切り取られたまま無造作にあたりに転がっていた。きちんと根本から切っている俺とは違い、切り口の位置はまちまちだった。
 俺は一応指紋は残さないようにしつつも、その内の一本を思わず手に取る。控えめなネイルを塗った若い女の指。これを肉体から切り離すのは、俺にしか許されない神聖な儀式のはずだった。なのに。
 どういう訳か現場には血まみれの一万円札が転がっていた。それを拾い上げることはせず、俺は切り取られた指の方をまず確認する。左手の人差し指、小指、そして右手の人差し指以外の四本だった。それはまさに、俺が空先生から切り取ろうとしていた指と全く同じだった。
 「……嘘だろ」
 俺はその場で跪きそうになった。
 空先生が殺された。それは良い。
 俺の模倣犯が空先生を殺した。それもまあ、良い。
 だが模倣犯は俺の紡ごうとしていたのと同じ暗号をここに紡いだ。俺に代わって、俺の芸術を完成させたのだ。それは俺が仕掛けた謎を完璧に解き、次に俺がどうするかを先読みしていなければできないことだった。
 俺はとにかく、その場を離れることにした。とっとと家に帰り、夕飯も食わずにパソコンを開く。そしてネットを見ると、恐れていたことがそこに起きていた。
 空先生の死体の画像が、そこにはアップロードされていた。当然、多くの反響が寄せられている。それも普段を大きく上回る大反響だ。その理由は明らかだった。
 『INITIAL』
 『THE END』
 俺も書くつもりもなかった三つの言葉が、アップロードした何者かによって書き込まれている。それらの意図は俺には明らかだった。『THE END』はもちろん、もう一つの単語の意図も。
 「糞っ! 糞! 糞がぁっ!」
 俺は部屋の壁を蹴る。隣の部屋の深夜のキレ出す声が聞こえたが、そんなのはどうだって良かった。
 全身が屈辱に震える。これは敗北感だ。これまでに紡いで来た絵の最後の最後、画竜点睛の一筆を見ず知らずの誰かに奪われた。こんなに人を虚仮にしたことが、他にあるものか!
 俺は爆発しそうなアタマで誓っている。
 空先生を殺した犯人を絶対に見つけ出し、地獄を見せてから殺してやると。
 俺は微かな手掛かりを探して穴が開く程その死体の写真を見詰めている。直接見た被害者の遺体の様子はそれなりに記憶していたが、それでも今すぐに直接見に行きたい衝動にかられた。
 どうにかそれを我慢しながら写真を見詰めていると、あることに気付く。それは被害者の手の平にこびり付く血潮に刻まれた、一本の肌色の線だった。
「……糸か?」
 被害者の手の平に釣り糸のようなものを張り付けて、その上から血を掛け、後から糸を回収したらこうなるだろう。乾きかけた血の中に、血の付着していない部分が線状に伸びて下地にある肌色を晒している。どうしてこんなものが?
 現場に落ちていた血濡れの一万円札共々、これは手がかりになり得るだろう。俺は模倣犯への執念にかられながら、昔落ちた数学オリンピックの予選問題に挑んだ時のように、空桜の写真を見詰め続けていた。

 〇6〇

 ゴールデンウィーク二日目のその日。わたしは一人、部屋で膝を抱えていました。
 身近な人間が亡くなるというのは初めての体験でした。空先生とは、一か月弱の時間を教室で共に過ごしたというだけの関係でしたが、にも拘らずわたしの心はずっと曇天で、今にも消え入りそうになってしまうのでした。
 もう小学五年生。人の死というものにもしっかり向き合える賢しさとしなやかさは、とっくに手に入れているつもりでした。実際、去年の冬にわたしを可愛がってくれたお祖母ちゃんが亡くなった時も、わたしは二晩泣いただけでどうにか立ち直ることが出来ていました。
 なのに今のわたしはベッドの傍で膝を抱えて、沈み込んでいく自分の気持ちを、どうすることもできずに俯いているしかないのでした。胸が張り裂けそうで、アタマが割れそうで、気が狂いそうでした。
 そしてこの気持ちは単に、大切な人を失くした哀しみだけではありません。
 大切な人を死なせてしまったことに対する、罪悪感です。
 空先生の死の責任の一端は、わたしにもあるのですから。
 チャイムの音がしました。わたしが緩慢に応対すると、友人である音無が立っています。
「や」
 つい先ほどまで、空先生のお葬式に共に参加していた学友でした。その頭上には変わらず『1』という数字が漂っていて、そのこともわたしの気分をかき乱します。
 わたし達は焼香だけ挙げて午前中で帰ったので、今は正午過ぎでした。わたしは音無を自室へ案内しました。
「先生……死んじゃったね」
「はい」
「『指切り』に殺された」
 わたし達の担任の先生である空桜を殺したのは、近所に度々出没しているシリアルキラー・『指切り』でした。
 『指切り』は他の被害者にしたように空先生をナイフで殺害し、空先生の指を数本切り取って、その遺体をネットにアップロードしました。ネットの人達は他の人の時と同じようにその写真を見て狂喜し、はしゃいだように議論に明け暮れています。
 これまでわたしは、『指切り』とそのサポーター達のそんな様子を見る度、まるでドラマや漫画の世界のようだと思っていました。お遊戯のようだし、おままごとのようだと。しかしそこには実際に殺された人がいて、その死を悲しむ人がいるという当たり前の事実を、わたしはこの時初めて実感していました。
「信じられないよね、こんなことになるなんてさ」
「…………」
「でも考えてみれば、別に変なことじゃないんだよね。これまでも人が殺されて来たってことは、これからも人が殺されるってことだし、その殺されるのがあたしやあたしの知り合いであることもあり得たんだもんね。信じられないなんて思ったのなら、それはそう思うあたしの方が傲慢だったってことかも知れないね」
「…………」
「人って死ぬんだね。いや、それは知ってたんだけどさ、身近な人もちゃんと死ぬんだね。あたし、それ知らなかったよ。知ってたけど、でも知らなかったんだ。子供だったね」
「…………」
「北原?」
「はい?」
「落ち込んでる?」
「落ち込んでます」
 わたしは膝に自分の顔をうずめて言いました。
 それを見た音無は数秒思案するように小首を傾げた後、ろくでもない類の笑みを浮かべて部屋を出てきます。
 そして十数秒後に戻って来てわたしの背後に立つと……わたしの背中、服の中に氷の欠片を放り込みました。
「きゃんっ」
 それはわたしの家の冷凍庫で冷やされていた氷でした。その冷たさは刺すような衝撃を持ってわたしに変な声を出させました。思わず立ち上がり、憤怒の表情で振り向いたわたしに、音無はさらに禄でもない所業を行いました。
「えいっ」
 音無は手を伸ばしてスカートの上から指を突っ込み、あまつさえパンツと腹部の隙間に差し入れます。そして大きく指を引いて間にスペースを作ると、そこに氷の破片を放り込みます。
「いぎゃああああっ!」
 本気の悲鳴をあげました。けたけたと笑い転げる音無の顔面に……わたしはどうにか取り出した氷の破片を投げ返しました。
「何するんですか! 音無!」
「あははははっ。おかしい! きゃんっ、だって! いぎゃああああ、だって! あはははっ」
 こいつは本当に……わたしは怒りにかられて黙り込みます。
「ねえ見てこれ北原のパンツに入ってた氷だよ? 北原のつるつるおまたの上に引っ付いてた氷だよ? どんな味がするかな? ねえねえ」
 わたしは音無に背を向けて、腕を組んで座り込んで口を利いてやりません。
「ごめんごめん北原。怒っちゃった?」
「……怒ってますよ」
「何に怒った?」
「知りませんよ。自分で考えてみてください」
「わたしが北原の家の冷蔵庫勝手に開けたこと?」
「違いますよ」
「勝手に取って来た氷を北原の背中に放り込んだこと?」
「違いますよ」
「それで驚いて立ち上がった北原に対し、あまつさえ今度はパンツの中に氷を放り込んだこと?」
「それも本当に遺憾ですが、違います」
「じゃあその後北原が投げつけて来た氷を手に取って、『これ北原のつるつるおまたに引っ付いてた氷だよ? どんな味がするかな?』ってからかったこと?」
「そうですよ! それですよわたしが怒ったのは!」
 わたしは力一杯振り上げた手の平で音無の頭を引っ叩きます。
「こいつはっ! 本当にこいつはっ! もうっ! もうっ!」
「あはははははっ。ごめんって北原、ごめんっ、ごめんって。これ仲直りの印にジュース持って来たから許してよ」
 そう言って音無は懐からオレンジジュースの缶を取り出します。
「それわたしの家の冷蔵庫にある奴じゃないですか! お母さんがなんかで持って帰った奴!」
「そうなの? でも、飲むでしょ?」
「飲みます!」
 そう言ってわたしはプルタブを引いてオレンジジュースを飲み始めました。
 お葬式の間もずっと何か飲むのを忘れていたことを思い出しました。落ち込んでいた身体に甘い味が通り過ぎていきます。
 わたしは途端、自分のアタマが冴え渡り、気持ちが少し落ち着いていたことに気付きました。音無をしばいたことで、比較的いつも通りのテンションに戻ったというか、落ち込んでいたことを忘れていたというか……。
「元気になった?」
 音無が笑顔を浮かべてそう言いました。
「……はい。お礼は言いませんよ」
「あははは良いよ別に元気になったんなら。……じゃ。行こうか」
「行こうかってどこに?」
「空先生を殺した『指切り』に近付きに」
 言いながら、音無は懐から一枚の紙を取り出しました。
「あたしね。分かっちゃったんだ。『指切り』が残していた暗号の答えが。その暗号が、どの場所を指し示していたのかが」
 わたしは目を大きくして、まじまじと音無を見詰めます。
「そこにはきっと、『指切り』の手がかりが残されているはずだよ。必ず『指切り』を突き止めて、警察に捕まえてもらうんだ。……行くよね」



 数日前……わたし通学路で殺人鬼『指切り』とすれ違いました。
 その殺人鬼は名門・海星高校の制服を来た長身痩躯の少年でした。色の淡い髪とキャラメルみたいな瞳をした、とてつもない美少年です。ただ普通にすれ違うだけでも必ず記憶に残るようなその少年の頭上には、『6』という数字が浮かんでいました。
 わたしが発症した中二病の『症状』は、『その人が過去に殺害した人数を知ること』です。わたしが彼とすれ違った時の『指切り』の被害者数は六人でしたから、彼が犯人である蓋然性は極めて高いと言えそうでした。
 わたしは葛藤しました。わたしが彼を告発しなければ、彼は『指切り』としてこれからもたくさんの人を殺すに違いありません。しかし彼を告発するということは、わたしが中二病患者であることを、打ち明けなければいけませんでした。
 深い葛藤がわたしを襲いました。いいえ、本当はわたしは葛藤などしていませんでした。ただ、葛藤をしているということで自分を僅かでも正当化しようと、卑怯にもそう考えていたに過ぎなかったように思います。眠れぬ夜をいくつも乗り越え、授業も見に入らず、訳もなく泣きじゃくる時間を過ごす内に……『指切り』がさらに二人を殺し、ネットに最後のメッセージを残しました。
 『THE END』
 わたしは向き合わねばいけません。自分が見捨てた二人の人間と、『指切り』であるあの少年、そして、この罪深い自分自身と。
「それで……どこなんですか? その、『指切り』の暗号が指し示す場所っていうのは。どういう推理で、その場所になるんですか?」
 音無に案内され、街を歩いている道中、わたしは彼女にそう訪ねました。
「良くぞ聞いてくれました」
 言いながら、音無はさっきからずっと握りしめている紙をわたしの前で広げます。
「まず、これがこれまで殺された被害者達の名前と、切り取られた指の情報ね。見て」

 4月6日 安西真琴 21歳女性※
 左手:親指、薬指、小指
 右手:小指、中指、人差し指、親指
 4月7日 吉本幸助 26歳男性
 左手:人差し指、薬指
 右手:中指、人差し指、小指
 4月13日 工藤昭雄 53歳男性
 左手、親指、人差し指、中指、薬指、小指
 右手:中指、人差し指、小指
 4月17日 中津川敦子 18歳女性
 左手:親指、人差し指、薬指
 右手:小指、薬指、親指
 4月20日 伊藤隆 18歳男性
 左手:中指、薬指、小指
 右手:薬指、中指、小指
 4月23日 久方達郎 33歳男性
 左手:親指、中指、人差し指
 右手:中指、薬指、小指
 4月26日 西宮涼子 18歳女性
 左手:親指、人差し指、中指、薬指
 右手:小指、薬指
 4月30日 空桜 27歳女性
 左手:人差し指、小指
 右手:小指、薬指、中指、親指

「『指切り』はこれまで、遺体の写真だけをネットにアップロードして来た。画像だけを張り付けて、他の書き込みは一切行わなかったんだね。でも、空先生の時だけが例外だった」
 『INITIAL』『THE END』の二つの言葉がネットに書き込まれていたことは、わたしも知っています。そしてそれくらいの単語の意味なら小学五年生のわたしにも分かります。『頭文字』そして『おしまい』。
「犯人は空先生で犯行はおしまいだと言っている。暗号は完成したってことだ。さらに犯人はヒントを提示して来た。『イニシャル』つまり被害者たちの頭文字に注目しろってね」
「……なるほど。それで、そこからどう推理するんですか?」
「ねぇ北原。知ってる? この世の全てのものは、ゼロとユイだけで全部キジュツできるんだ」
 そう言って、音無は得意げに人差し指を立て、したり顔を浮かべます。
 その言葉の意味が分からなくて、わたしは「は?」と素っ頓狂な声を発した。
「二進数ってのがあるんだよ。算数の教科書の隅っこにコラムとして乗ってたよね? 1と0しか使わないで数字を現す方法」
「ああ……あの非効率そうな」
 1の次に2が来るところを、ここで既に繰り上げて10とし、それに十進数の『2』と同じ意味を持たせるという数記法です。11が3で、100が4、101が5という風に続いて行きます。これを使えば片手の指だけを使って31まで数えられるというところまで、そのコラムは乗っていました。
「零と唯ってのは0と1のこと。この二つの数字があれば……正確には何かしらの二種類の記号があれば、あらゆる数は表すことが出来る。で、数を表せるってことは、文字も表せると思わない?」
「数で文字を表す? ……ああ。ありますねそういう暗号。1がAで2がBで……みたいな奴。友達に出されたり出したりしますよね」
 北原霧子ならKITAHARAKIRIKOで、『11』『9』『20』『1』『8』『1』『18』『1』『11』『9』『18』『9』『11』『15』となります。子供同士で交わされる暗号遊びの一環として、もっともありふれたパターンの一つと言えます。とは言え初めて出された時はそれなりに解くのに苦戦しました。
「そうそう。で、ここからが重要。『指切り』は死体の指を切り取ってネットに画像をあげている。当然、この死体の指が重要な意味を持つと考えられるよね?」
「そうでない方がおかしいでしょうね」
「賢いあたしはここで閃いた。犯人は、被害者の指を切り取ることによって、二進数で表した数字や文字をあたし達に見せていたのではないか、とね」
 そう言われ、わたしは微かに目を大きくしました。
「……あり得る、かと思います。そうですか。二進数ですか」
 二進数を使い、片手の指を使って31まで数えられるという、教科書のコラムを思い出します。右手親指だけを立てて『1』、人差し指だけを立てて『10(2)』、親指と人差し指を立てて『11(3)』……という訳です。
「片手が表せる数字の限界は31。0入れて32種類だよね? これなら五十音は無理でも、アルファベットなら記述できるよね? つまり、『指切り』が切り取った被害者の片手が、一つのアルファベットを現している。それを繋ぎ合わせることで、文章が作れると思ったの」
「なるほど良い推理だと思います。でも、人間の手は見る向きによって、親指が右側になったり左側になったりしますよね。あと、右手は自分から見て右だけど相手から見たら左だったりもします。そこはどうするんですか?」
「ふふふ大丈夫なのだよ北原くん。何故なら、整理すればそんなにパターンは多くないからね。自分の見る手の平、相手の見る手の平、自分の見る手の甲、相手の見る手の甲、の四通りだけだし、全部試して意味の通る文章を探せば良いだけだから」
「まあそうですか。で、どんな文章になったんですか?」
「普通にやっても何の文章にもならなかった」
 音無は言う。わたしは「は?」と言って、つい胡乱な目をしました。
「全パターン試したけど意味のある文章作れなかった。あたし困った。自分の推理の方向が大外れなんじゃないかとすごく不安になった」
「……でも、最終的には分かったんですよね?」
「そう。犯人の残したヒントによってね」
 犯人の残りしたヒント……。わたしはアタマの中でその言葉の意味を探ります。そして、すぐに思い付きました。
「……『INITIAL』ですか」
 空先生の死体をアップロードすると共に、『指切り』が残したメッセージでした。これが何らかのヒントであることは疑いようもありません。
「そう。つまりこれは、被害者のイニシャル、頭文字を利用しろってことだと思ったの。そうすると最初に思い付くのは……」
「『ずらし』ですね。暗号の基本です」
 これも小学生の間で交わされる暗号の1パターンです。北原霧子なら『くてひりくるさ』というように、文字を一つずつずらして表記する手法。ずらす文字数を大きくするなどすれば、初見ではそうそう読めなくなります。
「そう! 最初の安西さんならイニシャルが『A』だから、指を三本切られた左手が表す数値は『01100』つまり『12』。だから、Aから12ずらして『M』と読み取れる。この要領で解読していくと、出た答えが……」
 音無は紙を裏向けました

 MI TU KI SY OU GA KK OU
 三ツ木小学校

 それは近所の有名な廃墟の名前でした。アホな男子がたまに冒険遊びをしているのを目にします。とは言えヤンキーもたまに出入りしてますので、君子たるわたしは危うきに近寄りません。行くと怒られる場所でもあります。
「全パターン試したけど、自分向きの手の平を左手から右手に呼んでいくのが正解! まあ、それが一番分かりやすい、考えやすいパターンだから、ある意味親切だったんじゃないかな? ちなみに『INITIAL』の意味は名前じゃなくて名字みたいだね」
「しかし本気で調べようと思ったら8パターン全部調べなきゃいけない訳でしょう……? なんというか、お疲れ様でした。正解おめでとうございます」
 誰にともなくそう言った後で……いや音無に言ったんですけど……わたしは重大な欠陥に気付いてそれを指摘します。
「ここまでの推理は当たっているとわたしも確信しています。でも音無、それだと出て来ていない要素がありますよね?」
「うん。あるね。最初の被害者の歯の写真だよね?」
 最初の被害者である安西さんは、八本ある小臼歯をすべて引き抜かれて持ち去られていました。犯人が小臼歯フェチだという推理を採用しない限りにおいて、これにも何か意味があるに決まっているのです。
「あれは何か分かってるんですか?」
「考え方は同じで良いと思うけど、まだ分からない。でも、多分それは」
 音無は真剣な顔で言った。
「これから明らかになるんだよ。三ツ木小学校の廃墟でね」



 わたし達は三ツ木小学校にたどり着いていました。
 『立ち入り禁止』のテープを踏み越える時、わたしの胸の中を冷たい禁忌感が駆け巡りました。昨日振っていた土砂降りの雨は既に止んでいましたが、今も天気は曇りで、灰色の空が褪せた校舎を見下ろしています。足元はぐちょぐちょで、コンクリートは濡れた臭いを放っていました。割れた窓ガラスがなんとも不気味です。
「……じゃ。探索だ」
 音無は気持ちわくわくした調子を声に混めて言いました。小四の四月に転校して来たっきり、こいつがこの小学校を探検したいと言い出すことはしばしばでした。夢が叶ったとか思ってないでしょうね?
「闇雲に探すのですか。気が進みませんね」
「まあ正直ね。非効率だし。でもしょうがないでしょ、他に手がかりないんだし」
「男子なら、中に何か変なものを見付けているかも。たまに冒険してるみたいですし」
「ああなるほど。じゃあ、ちょっと待ってね」
 言いながら音無はポケットからスマートフォンを取り出しました。クラスメイトの時川に電話を掛けるとのことです。
「えっと……時川くん? うん? そうそう今はこっち。で、聞きたいことがあるんだけど……三ツ木小学校って入ったことある? あるんだ。なんか変なもの見付けなかった?」
 こいつが親しい男子と言えば時川でした。転校して来てすぐの時から仲良くしています。アタマの足りない同士仲が良い……とは、『指切り』の暗号を見事に解き明かした音無には、最早言うことはできないでしょう。時川も、ああ見えて実はテストはいつも満点のタイプだったりします。
「校舎の正門にある金庫が怪しい? 誰にも開けられないし重くて大きくて運べない? ……そうなんだ。分かった。ありがとう。じゃあ、行ってみるね」
 そう言って電話を切りました。
「なんかね、校舎の正門……入ってすぐ目の前にある、真ん中の大きな建物の玄関口に、大きな金庫があるんだってさ」
「そうですか。どうして学校の校舎にそんなものが?」
「つまり怪しいって訳。行ってみようよ」
 その場所に行くと、確かに大きな黒い金庫がそこにはありました。と言ってもわたしの背くらい巨大な訳ではなく、百四十二センチのわたしにもなんとか椅子に使えなくもない、というくらいのサイズでしたが。
 それは玄関の隅、生徒の靴ではなく来賓用のスリッパなどが並べられていたのだろう下駄箱の隣に、さりげなぐ置かれていました。持ち上げようとしてみましたがその金庫は微動だにせず、重たいだけでなく何かの方法で床と接着されているようでした。
「うーん。ううううーん! 開かない! ぜんっぜん開かない」
 音無は力一杯扉を開けようとして失敗しています。こういう姿はやっぱりアホです。
「……そりゃあ力尽くで開く訳ないでしょう。暗証番号入れないと……」
 それは金庫ですから暗証番号を入力する為のダイヤルボタンが設置されています。鍵穴はないようでした。
 わたし達はくまなく金庫を観察しました。そして、金庫の真上に白いマーカーで『TOOTH』と書かれているのに気づきます。それを見て閃いたように。
「ああなるほど。そうか! ここでアレの出番なんだね!」
 音無はスマホを取り出して何やら操作し始めます。
「何を思い出したんですか?」
「あの歯だよ。最初の被害者の。小臼歯だけを持ち去られていた」
「小臼歯が何かあるんですか?」
「ここでも二進数だよ。人間の歯って32個あるでしょ? つまり32桁の二進数に見立てられるんだよ。それを十進数に直すんだ。この金庫にも『TOOTH』って書いてあるから、間違いないね!」
「『TOOTH』って歯なんですか」
「そう。歯。はぁあああ!」
 言いながら音無は白い歯をむき出しに唇を持ち上げます。歯を磨く子らに虫歯の影はなし。
 ……っていうか良くそんな英単語知ってたもんですね。絶対習ってないと思うんですけど。
 音無はネットにあるというツールを使って、二進数を十進数に変換します。持ち去られた小臼歯の位置が『0』、それ以外が『1』で、『11100111111001111110011111100111』となるはずです。歯はシンメトリーなので、よっぽど変なことをしなければ、どっち側からどう読んだところで同じになります。
 やがて音無は変換作業を終え、ダイヤルボタンに指を当てました。
「3、8、9、0、7、3、5、0、7……そしてきゅーうっ!」
 ガチャリと音がして金庫は開きました。
「やったぁー! 名・推・理! ねぇねぇ、あたしちょっとすごくない?」
「あー……すごいですね。いや本当に。ちょっと見直したかもしれません」
 わたしは本気で感心しました。これまで多くの大人たちがこぞってここにたどり着こうとして出来なかったのを、こんなアホそうな小五のガキが一番乗りしてしまうとは。信じられません。もしかしたらこの音無は外側だけで、中になんか入ってるんじゃないでしょうか?
 早速、わたし達は金庫の中を見ます。
 大きな金庫の中に金銀財宝がたっぷり詰まっている……かと思いきや、そこにあったのは一本の瓶と一枚の紙きれでした。
 紙きれの方は何の変哲もない紙きれでした。まだ読んでいませんが、学校のプリントみたいに無機質に文字が踊っているだけです。しかし音無が手にした瓶の方は、明らかに異質でした。
「……やっぱり、この金庫を設置したのは『指切り』みたいだね」
 そこには引き抜かれた八本の小臼歯が入っていました。音無が悪戯にそれを左右に振るなり、からからという音が響きます。わたしは「やめなさい」とそれを制止します。
「……被害者の安西の物じゃない方がおかしいですよね」
「そうだね。どうする? 土に埋めとく?」
「いや乳歯じゃないんだから……どう考えても警察に持って行くべきでしょう」
「……そうしなきゃいけないっぽいね。で、その紙何書いてあるの?」
 そう言われ、わたしは音無と二人でその紙を見ました。

 LOGAN COOK 2023年5月2日19時37分19秒
 ETHAN RUSSELL  2024年3月3日2時35分59秒
 財部鑑三 2025年5月2日16時42分7秒
 ALRKSEY EGORCHEV 2025年12月24日0時02分15秒
 MAXI ZIPSER 2026年と9月30日5時16分22秒
 王字正 2027年8月31日12時19分8秒
NICOLAS WEIS  2027年9月18日23時57分13秒
 DANILO BARGNANI 2028年7月11日6時20分01秒
 金保成 2029年1月2日22時3分38秒
 ……。

 そんな具合に、名前と日付とが、A4用紙一杯に四十行程に渡って書き綴られていました。日付は下に行くほど未来になっており、一番下の人物に添えられた日付は、2055年となっています。
「……? 何ですかこれ? 人の名前? ……と、日付と時間」
 わたしは紙を見詰めながら困惑して言いました。ちなみに言っておくと今は2023年の5月1日なのですが、この紙に描いてある意味はまったく分かりません。
 呆然とするわたしに対して、音無の方は興味深げにその紙をまじまじと見詰め……小さな声で「まさか」と呟きました。
「何ですか?」
「あ、いや」
 音無は首を横に振って、それからふと思いついたように。
「これさ、知ってる名前ない?」
「知ってる名前……? あ、この財部鑑三ってのなら分かります。今の日本の総理大臣ですよ」
「そうだね。他も英語ばっかりで難しいけどさ、知ってる名前多いよ。金保成とかさ。後一番上の名前とか……アメリカのクック大統領じゃない?」
 わたしは音無の指さした箇所を見詰めました。金保成は某国の今の独裁者の名前ですし、LOGAN COOKは確かに小学五年生の英語力でもローガン・クックと読めそうです。今のアメリカ大統領の名前でした。
「これ世界中の有名人の名前だよ。それも、首脳クラスの政治家とか、そのレベルの超有名で超重要な人達ばっかり」
「世界でも特に重要な人の名前を羅列したって感じなんですか?」
「そういう訳でもないっぽい。だとすれば、他に書かれてなきゃいけない人がたくさんいるから。だから、この人たちには何か共通点があるんだとは思う」
「……その共通点っていうのは?」
「さあ。上の方程高齢の人が多く見えるけど、完全な法則って程じゃないもんね。分かんないな」
「この日付も何なんですかね」
「全部未来の日付で、しかも結構最近だね。一番先でも三十数年後まで。クック大統領に至っては、今夜の七時だ」
「……これが何だというんでしょうね。新しい暗号とか?」
「分かんない。けどさ、もしここに書いてある時間に、ここに書いてある人達に何かが起きたら、面白いと思わない?」
「何かって……何なんですか」
「さあ。例えば……」
 音無はそこで微かに、偽悪的な笑いを頬に浮かべました。 
 それは同級生離れした怜悧で妖絶な笑みです。ダサい眼鏡を掛けられた彼女の顔が、本当はとても美しいのだと思い知らされる、そんな表情でした。
「殺されるとかね」
 わたしがあっけにとられる内に、音無はその写真と瓶を自分のスマホで手際よく撮影してしまいます。そして金庫の扉を閉めると、わたしの肩に手を置いて言いました。
「じゃあ、これ。警察に持って行こう。大事な手掛かりだ。空先生を殺した犯人、きっと捕まえてくれるよ」



 三ツ木小学校跡を出て、警察所に行って瓶詰の歯と紙を警察に手渡しました。
 そこからは、慌ただしい時間が続きました。
 得意げに自説を披露する音無に、警察の大人たちは胡乱な目を向けていました。しかし金庫の扉が開いたという事実、そして瓶詰の歯の存在からその話を無下にはできず、メモを取りながらきちんと耳を傾けていました。
 やがて整合性が取れていることに気付くと彼らは愕然としました。その後わたし達は少し待たされた後、金庫のある現場へと連れて行かれたり、より階級が上そうな刑事と対談させられたりした後で、五時過ぎに解放されました。
「なんか疲れたねー」
 そのまま連れ立って家に帰る途中、音無は伸びをしながら言いました。
「でもさ、あたし結構すごくない?」
 わたしは頷きました。そうです。信じがたいのですがこいつは謎を解いたのです。誰も解けなかった指切りの暗号の謎を。それはとてつもないことでした。
「まああたしくらいの頭脳の持ち主ならこれくらいは朝飯前ってところかな? むしろこんなに時間を掛けてしまったことが不覚っていうのかな? 北原も遠慮なくあたしのことを尊敬してくれて良いんだよ? 手始めに給食のタマネギをあたしに食べさせようとするのをやめるところから……」
「ま……まあ……大したものだと思いますよ。これは本当に」
 金庫の中にあった手がかりが『指切り』を捕まえうるものなのかどうかは、わたしには分かりません。それでもどちらかというと、それは難しいのではないかとも思っていました。
 『指切り』は狡猾な殺人鬼です。そんな彼が自分から残して行った物の中に、彼自身に繋がる何かがあるようには、どうにも思えないのです。
 やはりわたしが自分の『症状』を打ち明けなければならないのでしょうか……。
 そう考えていた時でした。
「あ、そうだ。北原、ちょっと電話するから待っててね」
 そう言って、音無がポケットからスマートホンを取り出します。
 わたしが大人しく立ち止まって待っていると、音無は通話口に向かって明るい声で話しかけます。
「もしもし松本さん? 合ってたよ。いや『はあ……』じゃなくってさあ。ほらヒントくれたじゃん『指切り』の。……そうそう、『ゼロとユイで世界の全てがキジュツできる』って奴」
 その声を聞いて……わたしは目を大きくして音無を凝視しました。
「うん? そうそうそこから先は自分で解いたんだよ。犯人からのヒントが特に大きかったね。すごい? うん。えへへありがとう」
 そんな話をする音無に、わたしはつい白い目を送ります。しかし音無は意に介した様子もなく、はしゃいだ様子で。
「でも本当すごいよね松本さん。犯人からヒントが出る前の段階で、全部分かってたってことでしょ? えー? 謙遜しなくて良いよ。全部分かってたからヒント出せたんでしょ? いやいや、そんなこと言っちゃってさー。シショーと呼ばせていただきますぜ、シショーと。えへへへ。うん、うん。じゃあね。」
 そう言って、最後に電話の向こうには見えないことが残念な程の愛らしい笑顔を見せた後、音無は電話を切りました。
「お待たせ。じゃあ、行こうか北原」
「……ちょっと待ってください音無」
 わたしは胡乱な目を音無に送ります。
「なあに北原」
「今の電話なんですか?」
「友達と話してただけだよ? 二個上の松本さん。良い人なんだ」
「あなた……今の人からヒント貰ってたんですか?」
「そうだよ。二進数ってのを示唆してくれたの。この世の全てのことは零と唯で記述できるって」
「そうですか。……って、それって」
 わたしは声を張り上げました。
「いっちばん大事なとこじゃないですか! そこを人に教えてもらっておいて、良くもあんなに手柄顔できましたね! すごいのあなたじゃなくてその松本さんじゃないですか!」
「うーん。まあ松本さんがすごいのはそうだけど、でもあたしもすごくないって訳じゃないよ? 同じヒント貰ったとしても、あたしみたいに解ける人ばかりかは分かんないでしょ?」
 と音無は胸を張って主張しました。それはまあ……そうかもしれないんですけどね。
 とにかくこれで腑に落ちました。そうです。こいつが一人で解いた訳がないのです。裏にブレインがいて当然なのです。本当にすごいのはその人の方なのでした。
「でもヒント貰ってるんだったら最初っからそう言って下さいよ! わたし全部あなた一人で解いたのかと思って、つい尊敬しちゃったじゃないですか!」
 わたしが言うと、音無は頬に手を当てて照れを表現しました。
「尊敬だなんて……照れる……」
「もうしてないです!」
 それからわたし達はいつものようなテンションで会話を交わしつつ、警察署から自分達の街の方へと歩きました。そうしていると、音無との道が分かれる場所が来ます。
 音無はわたしの方を見て、頬に少しだけ不敵な笑顔を刻みながら、言いました。
「元気になったみたいだね」
 そう言われ、わたしははっとしました。
 確かにわたしは元気になっていました。空先生が死なせたという罪悪感がなくなった訳ではありません。ただ、その罪悪感を直視したまま、苦しみながら、それでも真っすぐに立っているだけの気力が湧いていたのです。
「やっぱりさ。色んな事乗り越えるには、目を反らすより直視した方が良いんだよ。先生の死がつらいのなら、先生の死を調べてるのが一番の薬って訳」
「そうですか。で、誰かの受け売りですか?」
「さあどうでしょう。じゃ、またね」
「はい。また今度」
 わたしは手を振ります。そして少し考えて、付け足しました。
「ありがとう」
「水くせぇこと言うんじゃねぇ、相棒。……じゃまた」
 そう言って立ち去って行く音無の背中と軽い足取りを、わたしはしばらく、見詰めていました。



 その後、家に戻るなり、音無と共に手柄を立てたはずのわたしは、何故だか母親に叱責されました。
「そんな危ないところに子供だけで行くなんて何考えてるの? 殺人犯に目を付けられたりしたらどうするの? お友達が言い出したにしたってね、危険な目に合うのはあなたも同じ……」
 わたしは甘んじて拝聴しました。聞いている内に愛のお小言だと分かったからです。
 そしてお風呂に入って夕飯を食べて、リビングで漫画を呼んでいると、ニュースを見ていた父親が叫びました。
「大変だ!」
 わたしは振り向いて尋ねます。
「何があったの?」
「アメリカのクック大統領が銃で撃たれた」
 思わず、わたしはその場を立ち上がりました。
「暗殺事件だって言ってる……。今は病院に搬送されている途中で、命が足すかどうかは分からないらしい。詳しいことはこれから報道されるそうだけど……これは大事件だ! 首脳暗殺だなんて……今のアメリカでそんなことが起こるだなんて、信じられない」
 わたしは自分の部屋に駆け込みました。そして音無が作ってくれた、例の金庫に入っていた紙の写しを凝視します。

 LOGAN COOK 2023年5月2日19時37分19秒

 わたしは部屋にあるテレビをつけてニュースを確認しました。クック大統領に発砲した犯人の男の顔が、画面いっぱいに映し出されています。パトカーに乗せられて得意げな笑みを浮かべるその表情は、暗殺を成功させたと確信している狂気の国賊そのものでした。
 その男の頭上にある数字を、わたしは確認しました。今はまだ『0』です。
 わたしは時計を見ます。今は19時37分の17秒、18秒……19秒。
 男の頭上にある数字がぐにゃりとねじ曲がり、『1』という形を取りました。
 わたしの身が震え、胃の中がしくしくと痛み始めます。そのまま呆然とテレビを眺めていると、やがてクック大統領が死亡したという報道が始まったのでした。

 △7△

 ベッドでくつろいでいた零歌は時間を確認してスマホを閉じた。
 起き上がり、零歌は外出の準備を始めた。まずは部屋着から外出着に着替えを行う。選んだのはこの間父親に買って貰ったばかりの白いワンピースだった。鏡の前に立って見ると、そこに映る顔が大好きな姉とそっくりなことに、思わず頬が綻んだ。零歌は鏡を見る度に幸せを感じられる少女だった。
 近くに置いてある鞄を手に取り、昨日詰め込んだ教科書やプリント類を改めて見聞する。忘れ物がないことを確信してチャックを閉じると、時計を見てから姉の部屋に向かった。
「お姉ちゃん。じゅくーっ」
 これだけで要件は伝わった。ベッドに寝転んでスマホを触っていた唯花はその一言で「うん?」と小首を傾げ、「あっ」と言ってからいそいそと立ち上がった。
「そうやった。今日からや」
「そうだよー。一緒に行こうね」
 零歌は幸せいっぱいの笑顔を浮かべる。唯花は同じ笑顔を返してくれた後、困ったような顔をして。
「ごめん。全然支度済んでない」
 そうだろうと思った。零歌は改めて時計を見る。まあ、何とかならないでもない時間だ。
「手伝うから大丈夫だよー。ところで記入物ってもう済んでる?」
「記入物……あ! まだや!」
 今日が塾への初登校ということでいくつか存在する記入物がある。しかし案の定それはまだらしかった。
「書き方教えるね。さ、席に着いて」
 散らかった机の上で、零歌のそれよりも粗雑な字を書く唯花のすぐ近くに立ち、書き方を教えていると、零歌は自分の全身に何か甘ったるい喜びが滲むのが分かった。
「書き方はこんな感じだからね。大丈夫かな? 鞄の中はわたし詰めとくから、ゆっくり書いててね」
「うん。ありがとう」
 妹を頼りながらあくせく記入物を埋めていく姉を見詰めていると、零歌は幸せを噛み締める。
 一緒に塾に行けて良かったと心から思った。



 塾の時間は午後の六時から八時半までの二時間半。月水金の三日間に渡って行われる。
 普通クラスと進学クラスがあったのだが、入塾テストの結果、二人は共に進学クラスに行けることになった。講師の振る舞いは多少厳しいそうだったが、しかしやることはとどのつまり授業であり勉強だ。居眠りやお喋り、提出物の不履行などをやらかさない限り、勉強の得意な自分が叱られる心配はないだろうと、零歌は判断していた。
 若い男性講師はホワイトボードに連立方程式の解説をするのを、零歌は生真面目に写し取って行く。指名を受けて問題を解かされる展開も何度かあったが、そのすべてで零歌はバッチリ正答して見せた。対する唯花の方は打率七割と言ったところだったが、隣で零歌が教えてあげると、自分で考えたかのようにハキハキと得意げに答えた。
 上機嫌で勉強する零歌と違い、唯花は授業中も退屈そうにしていた。ノートはちゃんと取ってはいるが、先生の話をちゃんとは聞いていなさそうな時間もあり、ちょくちょく隣の零歌に話しかけて来る。
 怒られるのやなんだけどなあと思いつつ相手をしていると、案の定怒られて零歌はしょんぼりとする。噂に違わず怒り方も結構きつい。意気消沈する零歌の背中を、けろりとしている唯花がこっそりと撫でてくれた。嬉しかった。
 やがて塾が終わり、解放された零歌達は、塾の建物から出て行った。
「勉強つまらん……」
 唯花は唇を尖らせて言った。
「えーでもやっとかないと。同じ高校行けないよ」
 零歌は言った。海星高校は流石に雲の上にしても、第一高校かせめて西高校くらいには一緒に行きたい。零歌は既に大学まで姉と一緒に通うプランを脳内に思い描いていた。
「今からコーコー受験とか考えたあないやぁん! 宿題多いしぃ……零歌ちゃん手伝ってぇ」
「いいよぉ。帰ったら一緒にやろうね」
「ややわぁ。帰ったらごはん食べてゲームに決まっとるやん! こんなしんどい思いしたのに、寝る前の貴重な一時間宿題するとか嫌過ぎる!」
「じゃあいつやるの?」
「いつかや!」
 どうも根本的に意欲がないんだなあと零歌は姉を評価する。やらせないとやらないのだ。塾に行くのはどう考えても大正解である。これでテニスなんかしていたら、アタマ空っぽ脳味噌ゆるゆるお姉ちゃんになってしまっただろう。
 勉強を終えて夜の街を一緒に帰宅し、道中でたわいもない会話に耽る。零歌は幸せだった。塾なら自分のが優位である点と言い、怒られてしょんぼりしたら姉らしくちゃんと慰めてくれた点と言い、解放感を味わいながら肩を並べて帰宅するこの時間と言い……すべてが思い描いた通りに進行している。後は宿題を貯め込んで泣きついて来た時に、たっぷり甘やかしてあげれば完璧だ。早くも零歌はその時が楽しみだった。
「ところでな零歌ちゃん」
 唯花は真剣な表情で切り出した。たわいもない幸せな会話からの切り替えが上手くできていなかった零歌は、微笑んだ表情のまま「なあにお姉ちゃん」と返答した。
「空先生……殺されてもうたやん」
 その話かと零歌はがっかりした。そんな嫌な奴の話は唯花とはしたくなかった。
「うん。まあそうだね」
「ウチ、『指切り』のことがどうしても許せれん。人のことを自分のオモチャみたいに殺してしまうなんて、そんな身勝手なことはないと思う」
 唯花は優しいからそう思うだろう。零歌だって自分や家族を何者かに殺されたりしたら、同じように感じたに違いない。
「でもさ。良かったじゃん」
 零歌は言った。すると、唯花は妹の発言が信じがたいと言った様子で、目を丸くした。
「え……? ど、どういうこと?」
「あ、いや。誤解しないで。空先生が死んで良かったって言いたいんじゃなくってね。ただ、空先生が死んだお陰で、音無さんを殺すっていう任務も宙に浮いた訳でしょう? それが良かったなって言いたいの」
 唯花は優しいから音無を殺す任務を遂行することに躊躇していた。もう一か月以上前から課されていたその任務を、ずっと放置して来たのだ。頻繁に呼び出されては『あなたには無理なの?』と詰められていたそうだから、そこから解放されたのは嬉しいはずだった。
「……確かにウチも、ナンボ世界平和の為とは言え、こんな小さな子ぉを殺すのには躊躇があったよ」
 唯花は絞り出すような声で言った。様々な感情が、そこには込められているようだった。
「せやから実行できんかった。そら、空先生のことは信頼しとったし、あの人がどうしてもというんやったら、それは世界平和の為に必要なんやという確証もあった。やとしても……ウチにはどうしてもできんかったねん」
 実際のところ、唯花は二つ返事でその任務を引き受けた訳ではないらしい。
 何度も何度も『できない』と訴え、どうして殺さなければならないのかと理由も聞いた。しかし空先生はそれらに応じず、政府と中二病患者との間で戦争が起きても良いのかと怒って見せたり、あなたしか頼れないのよと泣き落として見せたりした。
「何でその子を殺さなければならないかって、本当に聞けなかったの?」
 零歌はずっとそれが不思議だった。零歌から見て音無はただの子供だった。ああ見えて敏いところもあるようだったが、それだけだ。考えられるのは、『アヴニール』が重要視する程の強力な『症状』を持つ、中二病患者なのではないかということだった。
「聞けへん。知ったらウチらにとってむしろ危険やって言われた。粛々と殺せば良いと」
 零歌も同じことを聞いた。だが人を殺せという極大のリスクを背負わせるのに、事情を説明しないというのにはモヤモヤとした。何故この優しい姉が人を殺さされなければならないのかと思うと、今は亡き空先生に対する怒りが湧いて来るようだった。
「そんなの言う通りにする必要なかったよ」
 零歌はそう言って、優しく姉の肩を掴む。
「もう殺さなくて良いんだよ。空先生ももういないんだ。『サテライト』だって、とっくに私達を利用することは諦めてるよ。リーダーを失って、それどころじゃないだろうしね」
「……そうかなあ」
「そうでしょ。空先生は、私達が自分の元生徒で言うこと聞かせやすいからって、手駒扱いしようとしたんでしょ? だとしたら、何の接点もない他の『サテライト』メンバーが私達を使う理由なんて、きっとどこにも……」
 唯花のスマートホンが鳴り響いた。
 家族からの連絡だろうかと零歌は思った。そんなにもたもたと帰っている訳ではないのになと思いつつ、姉がスマホを取り出すのをじっと見つめる。
「……知らん番号や」
 零歌は胸騒ぎを感じた。そして言う。
「無視しよ」
「……それしたら余計怖ぁなる」
「でも!」
「出て、何も関係ない電話だったら、それが一番ええよ」
 唯花は握り潰された花のように笑った。
「ごめんな零歌ちゃん。ウチみたいなんが一番臆病なんやと思う。怖いものから逃げたいのに、目を反らす勇気もないんやから」
 言って、唯花はその電話に出た。
「……はい」
 良く聞こえないが、電話口からはどこか粗暴な声が響くかのようだった。唯花は最初から最後まで怯えた態度で応対し、最後には「分かりました。明日の朝行きます」と言って、電話を切った。
「お姉ちゃん……」
「『サテライト』の人やった」
 零歌は絶望的な気分になった。
「妹と二人で来いって。でないとウチらが『サテライト』に消されるっていよる。どこまでホンマかは分からんけど……でも行くしかないと思う」
 そして、唯花は泣きそうな顔になって零歌の胸に縋り付くと、振り絞るような声でこう言った。
「……ごめんな零歌ちゃん巻き込んで。お姉ちゃん、どう罪滅ぼしをしたらええか分からんわ」



 早朝。学校に行く前に、姉妹は空先生が死んだ路地に面したビルの廃墟に向かっていた。
 近所で廃墟と言えば三ツ木小学校かこの剣一宇ビルかのどちらかだ。やんちゃな男子達の探検遊びの餌食になるのはいつも三ツ木小学校の方で、こちらの剣一宇ビルは不人気で人はほぼ入らなかった。殺風景な会社ビルと小学校と、どちらを探索したくなるかを思えば、それは妥当と言えるかもしれない。
「……どこにいるのかな?」
 零歌は言った。姉妹を呼び出した何者かはこのビルを指定しただけで、ビルのどこかとまでは言わなかった。しかし1フロアに付き部屋は一つしかないので、一階一階見ていけばすぐに見付かるはずだった。
 だが手こずった。何故ならそいつがいたのは屋上だったからだ。出入口に向けて背を向けてタバコを吸っていたそいつは、零歌達が現れたのに気付くと「おせぇよ!」と声を荒げて振り向いた。
「いつまで待たせるんだよメスガキ共がよぉ! 任務も遅けりゃ来るのもおせぇ! とにかくおせぇ! こっちはこの後糞面倒な予定があって時間も押してるんだよ! 一秒たりとも待たせるな! クズ共が!」
 精悍な顔をした二十歳そこそこの青年である。長身痩躯の体躯は筋金のように引き締まっていて、やさぐれたような鋭い瞳は鷹のようだった。染色しているのか元々なのか髪の色は淡く、その粗暴な口ぶりも相まって、かなり柄の悪い雰囲気があった。
「……お待たせしてすいません。屋上にいると思わなかったものですから、探したんです」
 唯花が小さく会釈しながら言った。
「いいよ理由とかどうでも! おまえらは俺を待たせたっつーそれだけだろうがよ!」
 青年は口からタバコを吐き出して、つま先でグリグリと火を消し止めた。
「まあいいや。で、おまえらどう思ってるの?」
「ど、どういう意味でしょうか?」
「空が死んだことについてだよ!」
 青年は地面を強く蹴りつけて、血走った眼で言った。
「おまえらがたらたらしてるから死んだんだよな? そのあたりのこと分かってんのかよ! まさか本当に、空を殺したのが『指切り』だと思ってはしねぇよな? ああ?」
「……違うんですか?」
「違ぇよ脳味噌詰まってんのかよ! 写真見てねぇのか、写真!」
「見てません。その、怖いので」
 唯花は困ったように言う。
「あーそうかよ。じゃあいいわおまえは。そこのおまえは? 見てねぇの?」
 指名され、零歌は隠れていた姉の後ろから顔を出すこともせずに、いつものように答える。
「はあ……」
「なんだよその『はあ……』ってのは! どっちなんだよ」
「はあ……」
「どっちだっつってんだろ! 聞こえねぇのか!」
 どうしてこの人はいちいち怒鳴るんだろう? どのように生きれば品性というものをこれほどまでに削ぎ落すことができるのか、零歌には甚だしく疑問だった。
「み、見ました……」
「それで? 何も思わなかった訳?」
「し、死んでるなあ、って思いました」
「そりゃ死んでるよ! 死体なんだから!」
 青年は床を蹴り飛ばし、そして吠えた。
「いいかおまえら! あれは『指切り』の仕業じゃねぇ。『アヴニール』の殺し屋が空を殺したんだ! 無慈悲にもな! 証拠は写真に残っていた指の切れ端だ!」
「それが何なんですか?」
 唯花が問うと、「分かんねぇか!」と青年は怒声を発する。
「これまで『指切り』は遺体から指を持ち帰っていたが、空を殺した奴は指を放置して行った! しかも! 『指切り』は指を必ず根本から切るが、空を殺した奴の切り口はまちまちだ!」
 事実か否かに関わらず根拠のとても弱い推理だ。それでは誰も納得しないだろう。自分の洞察力が高いと思いたいから、些細な疑問点をひけらかしている。そんな印象すら零歌は受けた。
「偏執狂的な殺人鬼である『指切り』が、そんな雑な仕事をするとは思えねぇ。つまりこれは『アヴニール』の誰かが『指切り』の仕業に見せかけて空を殺したってことなんだ」
「それ、空先生がレジスタンスを率いていることが、アヴニールにはバレてるってことですよね?」
 そこで零歌は口を開いた。見ず知らずの相手には委縮する零歌だが、何故かこうした指摘だけはコロリと口を吐いてしまう。他は何も言わないのに、言われたくなさそうなことだけは言ってしまう時があるのだ。それは零歌の対人関係を著しく悪化させる致命的な悪癖だった。
 しかし青年は激昂しなかった。怜悧な瞳で零歌の方を見据えると、「確かに、必ずしもそうとは言い切れん」と静かな声で言った。
「が……確率は高い。あの殺しが模倣犯のものだっていうのは、ほぼ間違いないと思う。とは言え無差別犯の可能性もあるし、組織絡みとは別のところで恨みを買っている可能性も否定できない。が、蓋然性で考えた時、空が殺される理由があるとすれば、やはりアヴニールにレジスタンス活動がバレたと考えるのがもっとも自然だ。そう考えないのは危険とも言える」
 それは確かに、この青年からしたらそう考えるべきなのだろう。
「……実際、いつバレてもおかしくない状態ではあった。だからこそ、一刻も早く音無夕菜を殺害する必要があった。なのにおまえらと来たらタラタラタラタラと……」
「どうして音無さんを殺す必要があるんですか?」
 これは唯花だ。
「おまえらが知る必要はない」
 青年は鋭い視線を零歌達に向ける。
「空が死んだ以上、これからは俺がおまえらとコンタクトを取る。俺の素性や組織での地位や『症状』を探るんじゃねぇぞ? おまえらがやることは一秒でも早く音無を殺して来るだけだ。それがおまえらの為でもある」
「それは……」
「嫌です」
 零歌はハッキリと口にした。
「……は?」
「い、嫌です。私達、音無さんを殺しません。きょ、今日は、それを言いに来ました」
 昨日一晩姉妹で話し合って、その結論を共有したところだった。
 それは当然の権利ではあった。どんな理由があろうとも人を殺すよう要求される筋合いなどなかった。それでも唯花が迷っていたのはその指令が空先生からのものだったからなのだが、その空先生は既にこの世から去っている。
「……おまえらな。俺から逃げ切れるとでも思っているのか? 嫌でもやらせるだけだぞ?」
 青年は鋭い視線を零歌達に送る。
「わ、私達にそれを強制できる程の力があるのなら、その力で音無さんをどうとでもできるはず……です。そうしていないのは、あ、あなた達にそれだけの力がないから……じゃないですか」
 この害虫を姉から遠ざける為、零歌はなけなしの勇気を振り絞って訴えた。でもなければこんな粗暴な人間にまともな意見を言う等、零歌にはできるはずもない。頑張れるのは姉の為だからだ。
「わ、私達だってそれくらい、分かります。だから、言う通りにはしません。もう……か、関わらないでください。失礼しますっ」
 言って、姉の手を引いて屋上を去ろうとする零歌。
 青年の動きは素早かった。
 一瞬にして零歌に走り寄ると、その首元を掴んで地面に引き倒した。そして喉笛を掴んで信じられない程の力を咥える。
 自然、零歌は息が出来なくなった。青年の表情は無慈悲であり殺気も敵意も感じなかった。ただ操作の利かない機械を直すのにとりあえず叩いて痛めつけてみるような、そんな冷淡さだけがそこにあった。
「やめぇや!」
 唯花がそう言って青年に吠える。青年の両腕を掴み、零歌を解放しようとしながら声をかける。
「分かったっ。もう帰りません。話をします。だから、いったん零歌のことは離してください」
 その声に青年が耳を傾けることはなかった。零歌は意識が飛びそうになる。気絶するまで……いや死亡するまで青年はそれを続けるだろう予感が、巨大な恐怖となって零歌の腹の底から湧き上がって来た。
 こうなると、零歌は最早手段を択ばない。
 ここは屋上であり、仰向けに倒されて首を絞められている零歌からは青い空が見えた。そこに飛んでいる一匹のカラスに目を付けると、零歌はそれに向けて『症状』を作用させた。
 飛んでいたカラスは突如としてその飛行能力を失って、真っ逆さまに青年の方へと落下して行く。着地点として設定したのは青年の脳天だった。あの高さから急所に降り注げば、ダメージは計り知れない。
 死んでしまえ。
 だが青年はすぐにそれに気付いた。そこで青年が愚かにも身を躱そうとしたら、軌道を変えたカラスが執拗に青年の脳天を穿つだけだっただろう。しかし青年の対処は完璧だった。
 青年は身を低くしつつ、首を絞めていた零歌の身体を高く持ち上げた。そして降り注ぐカラスの盾とする。青年の頭上に降り注ぐはずだったカラスは零歌の背中へと着弾した。強い痛み。
「舐めんじゃねぇよ。そんなもんで……」
 そう言いながら零歌を持ち上げ、青年はさらに力を込めて締め上げた。カラスの命中した背骨が痛んだが、それ以上に息が苦しかった。
「よくも零歌を!」
 そこに唯花が突進して来て、その指先が青年に触れた。
「……なんのつもりだ?」
「ウチの『症状』は知っとるやろ? 妹を離せ。でないと殺すぞ」
 唯花には『触れた者の重力の向きを自由にする』という力がある。触らなければならない制約があるが、逆に言えば指一本でも触れた物なら、重力を逆転させ『空に落とす』ことが可能だった。強力無比の一撃必殺攻撃だ。
 青年は頬に挑発的な表情を頬に刻みながら、零歌を締め上げる手を休めずに唯花に言った。
「脅しだろ? 俺を空に叩き落そう経ってそうはいかない。妹を道連れに出来るからな。どう考えても俺の方が体重は重いから、しがみ付いて離さなければ、上と下で引き合って落ちていくのは空の方へだ」
「…………」
「最初から分かってて脅してるだけだろ? それとも、やってみても良いんだぜ? なあ、どうするよ?」
 唯花は歯噛みする。脅しが通じないことを理解した唯花は、「こ、この!」と言いながら青年に掴みかかった。
「勝てるかよ!」
 零歌を掴み上げた状態の青年に、それでも唯花は敵わなかった。脚を振り上げて脇腹を一撃すると、それだけで唯花はその場で蹲ってもだえ苦しみ始めた。
「俺を空に落とす度胸があるのなら、その力を使って音無を殺せ。簡単なはずだ」
 言いながら、青年は片手で零歌を締め上げながら、脚では唯花を足蹴にするという行動を取った。姉妹どちらにとっても許しがたいその所業に、ハラワタの煮えくり返る思いをしながらも、零歌達は何も出来なかった。
「でないと、俺がおまえ達を殺す。分かったか?」
 青年は唯花のアタマを踏みにじりながら言った。
「分かったか!」
「……はい」
 唯花はか細い声で答える。青年の汚い靴の裏が唯花の白い頬に押し当てられていて、零歌は強い殺意を覚えたが何も出来なかった。
「何を分かったんだ? 言って見ろ」
「……音無夕菜を殺します。だから、妹を離してやってください」
 青年はふうと鼻息を一つ鳴らすと、無造作に零歌を床へと放り投げた。
 ようやく息が出来た。しかしそこに解放感はなくただ苦痛と屈辱と絶望だけがあった。見れば唯花は泣きじゃくりながらその場で蹲って震えている。零歌も同じような表情を浮かべてしまっているだろう。『症状』を駆使して二人がかりで立ち向かってもどうにもならなかった青年の暴力性に、姉妹は完全に屈してしまっていた。
「良いだろう。期限は……そうだな。一週間やる。それで殺せなかったら、こっちからおまえらのところに言ってヤキを入れてやる。分かったな……おまえの方も」
 青年が視線を向けると、零歌は思わず「ひゃい……」と力なく頷いた。
「音無さえ殺せばもうおまえらの前には現れない。自由の身になれるということだ。だからしっかり殺って来い。……悪いな。じゃあな」
 足音を立てて青年はその場から去っていく。
 姉妹はしばらくの間、その場で何もできず、ただその場で苦しみにもだえていた。



 お互いの傷を手当して、零歌達はとりあえず学校へ向かった。
 昨日でゴールデンウィークはおしまいだった。正直休んでしまいたいくらいには疲弊し意気消沈していたが、休むことへの上手い言い訳も思い付かなかった。
 目立つところに大きな傷はなかったとはいえ、傷害罪で訴えてやれば勝訴は間違いなさそうだった。しかしそれをする程の気力も姉妹には残っていなかった。ただあの青年が恐ろしく、恐ろしさのあまり抵抗する術を失っていた。とことんまで叩きのめされればたいていの子供はそうなることを、青年は熟知してあのような行動に出たらしかった。
「ごめんな零歌ちゃん。ごめんな」
 登校中、唯花は何度も何度も零歌にこれを言った。
 ただ先に症状を発症し声をかけられていたというだけで、唯花は自分が零歌を巻き込んだものだと思っているようだった。それは違うということを何度も論理的に説明した零歌だったが、それで唯花の気が収まりはしないようだった。
 廊下で分かれ、それぞれの教室で時間を過ごす。
 やがて午前中の授業が終わり、昼休み、零歌は姉のところには行かずに一人で屋上を訪れた。
 常に解放されている屋上には、今日は零歌しかいなかった。柵に両腕を置きながら街の様子を見詰めていると、そこに音無が通う小学校が目に入る。それは零歌の母校でもあった。
 零歌は音無を殺す、死なせるということを考えてみた。実のところ二つ年下である彼女は零歌にとって唯一の友達でもあった。それがいなくなるということは、零歌にとって都合の良いこととは言い難い。端的に言って、悲しいことだ。
 だがそれは天秤の片側の重さに過ぎなかった。あの恐ろしい青年から縁を切れるというメリットがもう片一方に乗るのならば、はたしてどうだろうか?
 零歌は唯花のことを思い浮かべる。首を絞められている自分を助ける為に戦ってくれた唯花。敗北し青年に腹を蹴られ頬を踏みにじられている唯花。思い出すだけで胸が張り裂けそうになる、苦悶に歪んだその泣き顔。
 唯花は優しい。決して音無を殺せはしないだろう。だから手を下すとしたら自分の方だと思う。そしてそれが出来なければ、一週間後、唯花は自分と共に、先ほどのような暴力にまたしても晒されることになるのだ。
 それは避けられなければならない。
 零歌は腹をくくった。
 空を仰ぎ見る。今すぐでなくても良かったが早い方が良かった。それはすぐに見付かるだろうと思っていた。
 ここから空港まではそう遠くはない。幼い頃家族で沖縄旅行をしようと訪れたこともある。車で三十分ほどの距離だ。だが、土壇場になってあんな鉄の塊が空を飛ぶことが信じられなくなり泣き叫んだ零歌の為に、旅行は中止となった。唯花は残念がっていたが、それでも零歌を責めたりはしなかった。
 零歌は思う。飛行機の安全性は今となっては理解しているが、それでも落ちることはある。
 やがて飛行機は見付かった。白と青の細いフォルムのその飛行機は、見事な飛行機雲を吐き出しながら、鮮やかに蒼天を飛翔している。
 零歌はその飛行機に向けて『症状』を作用させた。飛行機の中の一点と、音無が通っている小学校の校舎の一点を、対象物と着地点としてそれぞれ結びつける。
 その瞬間、零歌の全身に巨大な負荷がかかった。零歌のようなPSY系の症状には使用制限のようなものもあり、重く大きなものを落とす程消耗は大きい。だがしかし、やって出来ない程ではなかった。鼻血を吹き出しそうな程全身に力を籠める。
 すると、矢のように空を突き進んでいた飛行機は、突如としてその場で動きを止めた。そして、飛行機は動力も慣性も失って青い空の中力なく落下し始める。あらゆる物理現象を置き去りにした、それはあまりにも不可解な現象だった。
 オモチャのように落下した飛行機はオモチャのように小学校へ着地すると、それがオモチャでない証拠に激しい音を立てながら校舎を瓦礫に変え、最後には爆発炎上した。
 その瞬間、街中の人間はそのあまりの自体に騒然としていたことだろう。ただそれを引き起こした零歌だけが、黒飴のような瞳で冷徹に事態を見守っていた。
 ……これで音無は死ぬはずだ。
 その事実だけを胸に抱きながら、零歌は重くもなく軽やかでもない足取りで、静かに階段を下りて行った。
 廊下では生徒達が窓辺に群がりながら炎上する校舎を見詰めている。自分の引き起こした事態が多くの注目を浴びていると思えば、まったく愉快でないという程でもなかった。
 自分の教室の前まで来ると、廊下では唯花が一人、顔を真っ青にして右へ左に視線を向けている。なんとなく、自分を探しているのだろうことが零歌には察せられた。
「お姉ちゃん」
 そんな彼女に声を掛けると、唯花は目に涙を浮かべながら零歌に飛びついて来た。
 零歌の華奢な胸に唯花が飛び込む。そして一瞬だけ、粉々に損壊した大切な宝物を見るような目を零歌に向けると、唯花は大声で泣きじゃくりながら縋り付くように妹を抱きしめた。
「……零歌ちゃん。零歌ちゃん……どうしてっ。どうして……」
 その声はまさに慟哭だった。強い力で妹を抱きしめ、震えながら半狂乱の泣き声をあげる唯花に、零歌はただただ困惑していた。

 〇8〇

 余所行きの服をわたしはあまり持っていません。何かをねだれる機会があればたいていはゲームソフトを選びますし、小遣いの使い道もそれは同様です。十一歳という年齢相応にファッションに対する興味も芽生えてはいますが、そこは取捨選択という奴なのでした。
 なので、学校を休んで学友達と遊園地に行けるという機会を得て、着るものには少し困ることになりました。
「どうせ誰も見てないわよ」
 母親は言います。そういう問題ではありませんが、言っていることはそこまで間違いではありません。わたしはとりあえず一番マシそうな上下を選んで着用しました。
「本当に、学校休んで良いの?」
 わたしが尋ねると、母親は悩まし気に小首を傾げながら答えます。
「ええ……。本当は反対したかったのだけれど、時川くんの保護者の方から強くお願いされちゃって。何でも、そもそもの企画の趣旨の一つが、近ごろ元気のないあなたを励ますことだっていうじゃない? だからまあ、たまには良いのかなって」
 確かにここ最近のわたしは色んな原因で沈みがちです。あのアホの時川にも見抜かれてしまうくらいには。心配してくれる友人に感謝をし、気遣いを受け止めるべきでした。
 わたしを送り出す時に、お母さんは最後にこんなことを言いました。
「それにしても、時川くんのお姉さま、声若いのね。わたし最初、あなたのお友達かと思っちゃったわ」
 待ち合わせ場所は時川の家のガレージでした。子供から見ても、街を走っている有象無象の車とはデザインのベクトルが異なる高級そうな自動車の数々が、そこには並んでいました。
「おはよう北原」
「おはようなのだ」
 そこには音無と時川が先に来て待っていました。わたしは努めて笑顔になり片手を挙げます。もう一人、時川の親友である渡辺という男子がいるはずでしたが、奴は開いた後部座席で時川のスマートホンでゲームに夢中であり、わたしの方には見向きもしませんでした。
「これで全員揃ったのだ。じゃあ、遊園地に向かうのだ」
 時川がはしゃいだ様子で言いました。
「雨とお葬式の所為でゴールデンウィークに行けなかったから、楽しみなのだ」
「お休み一日延長できるんでしょ? 本当だったら、今頃朝の会始まってるくらいの時間だよね? はしゃぐよねぇ」
 今日は本来、ゴールデンウィーク明けの登校初日となるはずの日でした。休みを一日延長できるというのは音無の言う通りで、そのことにはわたしも喜びを感じないでもありません。
 時川は助手席に、わたしと音無は後部座席に乗り込みました。中央の座席に座るわたしの隣で、ふとっちょな身体で時川のスマホを抱え込んでいた渡辺は、わたしの方を見て『一応』と言った雰囲気で。
「よお」
 と挨拶をしました。
「おはようございます渡辺くん。それ、面白いですか?」
「んーまあそこそこ。ゲーム性に目新しいところはないけれど、キャラデザが良いから」
 なんかムカつく口調でそう言った渡辺は、小学生としては信じられない程太い指を小学生としては信じられない程大きな鼻腔にねじ込みました。そして小学生としては信じがたい程巨大な鼻くそを穿り出すと、隣に女子が二人もいることを思い出したようにはっとしました。
 ……これどうしよう、的な表情をして鼻糞片手に凍り付く渡辺に、黙殺という最大の気遣いを実施しつつ、わたしは運転席の男の人に声を掛けました。
「今日は、一日お世話になります」
 お母さんから言えと言われていたことをそのまま言いました。すると運転席の男は「ああ」とわたしの方を振り向いて、皮肉と倦怠の混ざった口調でこう言いました。
「金は全部姉貴が出すから気にすんな。俺も小遣い貰えることになってるしな」
 時川の兄・深夜でした。二十歳そこそこの、精悍な顔の青年です。時川に聞けば、今は学校に行っておらず、仕事もしていないとのことでした。なら何をしているのかと尋ねたところ、『何もしてないのだ』という解答を得ていました。しかし時川の兄らしく大変なイケメンで、長身痩躯のハーフ顔でした。ヒモかホストにならすぐなれそうです。
「運転お願いするのだ、深夜お兄ちゃん」
「おねがいしまーす」
「しゃーっす」
 他三名の子供達がそれぞれ礼儀正しく(?)挨拶をします。
「あーな」
 そして深夜は車を発車させました。「あーダりぃ」と言いながらエンジンをかけ、「あー眠ぃ」と言いながらアクセルを踏み、「あー帰りてぇ」と言いながらハンドルを動かします。
「ねぇねぇ。その人って時川くんのお兄ちゃんなんだよね?」
 音無がそう言って時川に話しかけます。時川は目を丸くして振り向きます。
「う、うん。そうなのだ」
「ふーん。格好良いね、時川くんのお兄ちゃん」
 からかうような視線を深夜に向けながら、音無はそう言います。
「……ちっ。良くいうよ白々しい」
 心底忌々し気に深夜は言いました。音無はそれを面白がるように追撃を浴びせます。
「そんなつれないこと言わないでよー、深夜お兄ちゃあん」
「黙れクソアマ。俺はおまえのお兄ちゃんじゃねぇ」
 道中は和やかなものでした。気だるげな態度とは裏腹に深夜は子供達には親切で、随所でわたし達を気遣ってくれました。
「おうおまえら。これから高速入るが準備は良いか?」
「いいでーす」
 音無は笑顔で手をあげて答えます。
「本当か? ションベンは澄ませたか? こまめな水分補給の用意は? 車酔いする奴の酔い止め薬の準備はOK?」
「うんこ」
 渡辺が端的に己が生理的欲求を申告し、うんこ休憩の後に車は再び走り出します。
「おうガキ共。俺はなぁ、これでも昔は泣く子も黙る超名門海星高校に通っていてなあ。成績良かったんだぞお?」
 そこで始まったのは深夜の昔の自慢話です。海星高校なら県内どころか全国的にも有名な超進学校なので、確かにそれはすごいことでした。しかし驚いたのはわたしだけのようで、音無は澄ました顔でそれを聞いていましたし、渡辺は鼻くそを穿りながら。
「そこ、俺の兄ちゃん通ってる。しかも、学年主席」
 こう切り返しました。『おおっ』と全員の視線が渡辺の方に集中します。
「俺もそこの中等部行く予定。正午もだろ?」
 水を向けられ、時川は頷いて答えます。
「のだ。夕日お姉ちゃんも未明お兄ちゃんも、中高ともに海星なのだ。ぼくも行きたいのだ」
「でもそしたら滑ったの朝日だけになっちまうぞ?」
 深夜は面白がるように言いました。
「でも朝日お姉ちゃんはテニスが無茶苦茶上手いそうなのだ。長所や個性は人それぞれだから良いと思うのだ」
「上手いっつっても未明程じゃねぇだろ。朝日に全国行けんのかよ? あ?」
「行けるかもしれないのだ。行けなかったとしても、そういうのは人と比べるのだけが正解じゃないと思うのだ。ところで、深夜お兄ちゃんの長所は何なのだ?」
 そんな和やかな雰囲気を乗せて、自動車は遊園地へと向けて高速道路を突き進むのでした。
 無事に遊園地に到着し、皆はそれぞれわくわくした気分で駐車場へと降り立ちます。引率で深夜も付いて来るのかと思いきや、彼はわたし達一人ずつに二万円ずつ配った上で。
「これでフリーパスポート買って好きに遊んで来い。おまえら子供料金だから三千円かそこらで入れるだろ? 昼飯代土産代もろもろ込みでそんだけありゃ十分なはずだ。余った金は懐に入れて良い」
 それは願ってもない申し出でした。深夜とは打ち解けてますがそれでも子供だけで回る方が楽しいですし、それに『余った金は懐に』というのは実に甘美な響きです。わたしのお小遣いは月に二千円なのでした。
「ゆ、夕日お姉ちゃんはそれを許すのだ?」
 時川は出資者である自らの長子の名を出し、やや焦りを帯びた表情で兄に言いました。すると、隣から音無が歩み寄り、時川の肩に手をやりながら言います。
「まあまあ良いじゃない。深夜お兄ちゃん昼夜逆転ニートだから、いつもならもう寝てる時間なんだよ。車で寝かしててあげようよ」
「そういうこった」
 言いながら、深夜は座席を倒し始めます。
「正午と音無がケータイ持ってるから、持ってない組はどちらかと一緒に行動しろ。なんかあったら電話して来い」
「でもぼくナイトパレードも見たいのだ。子供だけだと六時には追い出されるのだ」
 正午は頬を膨らませます。
「黙ってりゃバレねぇだろ。職員だってどっかに親がいると思うんじゃねぇの? 良いから寝かせろや。ダルぃ」
 そう言って目を閉じた深夜の目に、音無が自前のハンカチを被せました。そして、話を強引に打ち切るかのように。
「よーし。じゃあ入園ゲートまで競争だ! 行くぞーっ!」
 我こそはリーダーと言った様子で人差し指を突き付けて、危険にも駐車場を走り出しました。そうされると子供の本能が働き、わたし達はそれに続きます。
 一位は時川でした。トロそうな割には運動神経抜群です。二位は十人並の体力のわたしで、ふとっちょの渡辺が巨体を揺らしながら三位に続きました。
 フライングした癖に最下位だったのは音無です。体育をちょくちょく休むくらいには、こいつの体力は実のところ脆弱でした。息を切らしてゴールするのを、三人は乾いた拍手で迎えたのでした。



「ねぇ北原」
「…………」
「ねぇ北原。怒ってる?」
 遊園地内のベンチに腰掛けながら、わたしは音無に背を向けていました。
「……怒ってますよ」
「何に怒ってるの? チョコレートのソフトクリームを食べる北原に、あたしが『うんこだっ。うんこ食べてるっ』って言ったから?」
「違いますよ」
「嫌がる北原に対し、あたしが尚も『ねぇ北原うんこどう? うんこおいしい?』ってからかったこと?」
「違いますよ」
「食べ終わった後トイレに行こうとした北原に、『うんこ食べたからうんこしたくなったんだっ』って大笑いしたこと?」
「違いますよ」
「じゃあ、近くのトイレが分からなくって困ってる北原を、あたしがソフトクリーム屋さんに連れて行って『ほら北原! ここでしなよここで! うんこ屋さん! うんこ屋さん!』って言ってはしゃいだこと?」
「そうですよ! それなんですよ! わたしが怒ったのは!」
 わたしは音無の方を振り向いてアタマを引っ叩きました。
「こっちは下痢っ腹抱えてたんですよっ! どうしてわたしがあなたの冗談の為に尊厳の危機を迎えなければならないんですかっ!」
「下痢っ腹抱えてたんだ……。確かに妙に済ました顔してるなとは思ってたけど……そういうことは隠さず申告した方が良いよ」
「だからトイレに行くって言ったんでしょうが!」
 わたしは音無のアタマを尚も引っ叩きます。
「こいつは! こいつはもう! もうっ!」
「アハハハっ。ごめんって北原。謝るから許してよ。アハハハっ」
 そう言って尚も頬に笑みを浮かべている音無。反省しているようには見えません。
「本当にごめんって北原。ほら、これお詫びの印」
 そう言って差し出したのは……サクランボをモチーフにした、このテーマパークのキャラクターの髪飾りでした。
「……何ですかこれ?」
「北原がトイレ行ってる間に、近くで売ってたの。一個ずつ友達と共有したら、ずっと親友でいられるんだって」
 そのサクランボのキャラクターは、ヘタのところで一つに繋がった親友同士という設定でした。それを一個ずつ二つに分けて所有することで、友情の証とするというコンセプトの商品のようです。その片割れを音無は差し出しました。
「ね……北原。これ持っててよ」
 そう言うので……わたしはそれを受け取って、自分の額に取り憑けました。
「似合ってるよ」
「……ありがとうございます」
 わたしは許してやることにしました。わたしのおかっぱ頭に顔付きのサクランボが似合うかは分かりませんが、しかし友情の証と言われてプレゼントを貰うは嬉しかったのです。それを受け取りながら喧嘩を続行する気にはなりませんでした。
「しょうがないですね。今回は許してあげましょう」
「ありがとうっ」
 言って、音無は自分の額にサクランボを付けました。
「じゃ。次のアトラクション行こっか。今日は楽しいね」
「そうですね。それは否定しません」
「うん。割と人生最良の日」
「そこまでですか」
 わたしは驚きました。この年中春休みみたいな性格の友人ならば、他にいくらでも楽し気な思いをしていそうなものなのに。
「うん。昔は年下の子の面倒見てばっかで、対等な相手とは遊園地ではしゃぐとかなかったし」
「……転校して来る前のことですか?」
「まあそんなとこ」
 一人っ子のこいつに何故『年下の面倒』なんて機会が生じるのか、わたしは気になりました。こいつとは親しい友人なのだし聞いても良いだろうと思い、口を開きかけた時でした。
「あ! いたのだ。おーいっ!」
 時川が渡辺を伴ってこちらに手を振って歩いてきました。そう言えば、お化け屋敷行く派と死んでも行くか派で別行動をしていたことを、わたしは思い出しました。
「お化け屋敷、楽しかったのだっ。そっちはどうだったのだ?」
「北原がチョコア……うんこ食ってた」
「おい」
 わたしは音無の額にデコピンを食らわせました。
「糞食は危険だぞ。成分の多くは水分で他は食べカスとか腸内細菌とかだけど、危険な細菌も含まれているし、寄生虫の卵なんかが混ざってるケースもある。胃の粘膜はもちろん、肝臓なんかへのダメージも尋常じゃないからな」
 最早鼻くそをほぜるのを隠すこともしなくなった渡辺が言いました。こう見えてアタマの良い渡辺は語彙も知識も豊富です。
「だってさ北原。やめといた方が良いってさ」
「だから食ってねぇわ!」
 わたしは音無と渡辺のアタマを続けざまに引っ叩きました。音無と渡辺はおかしそうに笑い合っています。
「ま……まあまあ。下品な冗談はやめるのだ。それに友達をからかうのだって、二人がかりだといじめっぽくなるから良くないのだ」
 時川が冷静に場を勇めました。
「二人がかりじゃなくてもやめてください」
 わたしはうんざりして言いました。
「悪ぃ悪ぃ。いや、北原って優しい割に嫌な時はちゃんと怒るから、からかいやすいんだよ。怒れないから許すしかないんじゃなくて、怒りたいだけ怒った後で、ちゃんと本心で許してくれるのが、良いんだよな」
 渡辺は言います。
「あー分かる。だから後腐れないんだよね。北原の良いところだ」
 音無は納得したように頷いています。
「何ですか急に二人とも……。いや、良くないんですけどね。こっちもそれなりに寛大さになってやってるんですけどねっ」
「頬赤いけど照れてる?」
「照れてませんよ!」
 それから四人で次のアトラクションを目指して歩きはじめます。和やかな空気。心地良い一体感。楽しい時間。それらはここ最近沈みがちだったわたしの心を癒すかのようでした。
 その時でした。
「ご来場のお客様にご案内します。音無夕菜様、時川正午様、渡辺高広様、北原霧子様。保護者の方がお待ちです。入園ゲートまでお越しください。繰り返します……」
 わたし達はそれぞれに顔を見合わせます。楽しい時間に水を差されたという気分は共有していましたが、行かない訳にもいきませんでした。
 やがて入園ゲートにたどり着くと、深夜が用意してもらったらしいパイプ椅子に腰かけていました。
「大変なことになっている。おまえらの小学校に、飛行機が墜落したそうだ」
 それを聞いて、わたし四人は絶句して顔を見合わせました。
「良かったなガキ共。おまえら、今日学校行ってたら今頃お陀仏だぜ。ははあ」
「いったい何を言っているのだ! バカな冗談を言うのはやめるのだ」
 正午が憤慨した様子で言いました。
「それが嘘じゃない。事実としておまええの小学校には飛行機が落ちて、校舎は瓦礫になっていて、人がたくさん死んでいる」
「だから、バカなことを言うのは……」
「これ嘘じゃないよ時川くん。この人、多分本当のことを言ってる」
 音無は冷静な声で言いました。「でも……」と口にする時川に、音無はスマートホンを操作してニュースサイトを表示させました。
「ほらやっぱり。早速ニュースになってるみたい。戦後最悪の飛行機事故って……見て」
 わたし達は食い入るようにしてその画面をのぞき込みました。
 確かに音無の言う通りでした。上空から撮られた破損した校舎の写真はまさしく私達の小学校のものでした。校舎を枕に横たわる飛行機の機体のあちこちからは炎と煙が噴き出しています。見ているだけで胃が痛くなってくるような、それはおぞましい光景でした。
「マジかよ……。マジでこんなことになってんのかよ。信じらんねぇよ……」
 渡辺はその場でアタマを抱え、沈み込むような様子を見せました。時川くんはわなわなと震えながら呆然としており、わたしは気が遠くなるのをどうにかこらえていました。
「で……遊んでる場合じゃなくなった感じ?」
 音無はただ一人冷静な顔をして言いました。
「悪いがそんなところだ。ケータイ持ってない組の親から鬼のように電話がかかって来る。学校休んだってことは当然親も知ってはいるが、それでも声を聞きたくてたまらないんだそうだ。つー訳で、ほら」
 言って、深夜はまずは渡辺にスマホを差し出しました。渡辺はそれを受け取って、おそらくは両親どちらかの番号を打ち込み始めました。そして真っ青な顔で「ああ。俺は無事だよ。なあ、そっちどうなってんの?」と話始めました。
「で……そうなるともう、おまえらも遊ぶどころじゃねぇよな?」
 わたしは頷きました。何ができる訳ではないにしろ、せめて街に帰って傍で事態を見守りたいと思いました。目を背けてはいけない、とそう思いました。
「つー訳でこれから家に帰る。おまえら、車に乗り込め。早くしろ」



 帰路の空気は重いものでした。渡辺は友達の名前を順番に口にしては嘆くように拳を握りしめています。時川は呆然とした様子でどこへともなく視線を漂わせ、音無は結んだ唇でじっと窓を眺め続けていました。
 やがて自動車はわたし達の街に帰り着きます。時刻はまだ午後の四時過ぎで、日は高いところにありました。
「このあたりで解散で良いか、おまえら」
 だからという訳でしょう。深夜はわたし達を一人一人家に送ってくれたりはせず、街のテキトウなところに放り出しました。このあたりはいい加減なものでしたが、わたし達は文句を言いませんでした。
 「自分はこっちだから」と言った渡辺と別れ、わたしは音無と二人で街を歩きだしました。
 空気は重たいものでした。街中を駆け巡る救急車のサイレンの音が、それを加速させていきます。小学校の方まで様子を見に行くことを提案しそうにもなりましたが、瓦礫の山と化した校舎を見て冷静さを保てる自信もありませんでした。
「あ……。松本さん」
 音無が気付いたように言いました。すると、公園のベンチに腰掛ける、中学校の制服を着た痩せた少女の姿が目に入りました。
 それを見て……わたしは絶句しました。
 少女はその頭上に『254』というおぞましい値を持っていました。わたしが目を擦ったその数瞬の間にも、その数字は『255』『256』と大きくなっていきます。どこかで誰かが今も息絶えていることを、示すかのように。
 わたしの『症状』は『その人がこれまでに殺した人数を数値化する』というものです。しかしもし彼女を見たのがこの時この瞬間でなければ、わたしは自分の能力に対する認識を疑うことになっていたでしょう。何故ならその数値はあまりにも大きすぎ、わたしと二つ三つしか違わないだろうその少女が持つには、あまりにも信じがたい値だったからです。
 ですが今なら分かります。
 小学校に飛行機を墜落させた犯人は……彼女でした。
 何らかの『中二病』の症状を使って、この少女はそれを実行したに違いありません。
「松本さん。おーい!」
 音無が声をかけると、松本と呼ばれた少女はその白貌を上げました。いとけない、整った顔でした。松本はぎょっとした様子で音無の方をまじまじと見ると、幽霊にでも出会ったかのような表情で肩を震わせました。
「お、音無さんっ? ど、どうして……?」
「どうしてって何? ……あ、分かった。死んだと思ったんでしょ、墜落事故で」
 そう尋ねられると、松本は一瞬だけ視線を泳がせると、「あー……」と胡乱な声を発した後、音無の方に向き直って引き攣った笑顔を返しました。
「そ、そうなんだよー。良かったよ音無さん生きてて。心配したんだよ」
「そっかそっか。……で、どうしたの? なんで外にいるの? 学校は?」
「墜落事故の影響で、中学校も途中で終わったの」
 松本は言います。
「生徒達の動揺が大きくて、授業にならないんだって。そりゃそうだよね、小学校に弟妹がいる人もいるだろうから。ラッキーラッキー」
「そっか。で、今何してたの?」
「実はお姉ちゃんと喧嘩しちゃって。それで家飛び出して、拗ねてたの」
 松本はそう言って唇を尖らせました。
「へえ。珍しいね」
「うんそう。私も私の言い分たくさん説明したんだけど、全然理解してくれなくってさ。お姉ちゃんずっと泣きながら私を責めるばっかで……なんか立て板に水なの。平行線上って感じ。こんなこと、今まで一度もなかったんだけどなあ……」
 そう言って唇を尖らせる松本からは、瓦礫に埋もれ今尚救助活動中の小学校への興味や関心など、一切感じられませんでした。二百人を超える人間を殺しておきながら、唇を尖らせて姉妹喧嘩の愚痴をこぼしているその姿に、わたしは憎しみよりも恐ろしさを感じます。
「……まあでも、ずっと拗ねてても仕方ないよね」
 言いながら、松本は立ち上がりました。
「もう一回話してくるよ。多分、ちゃんと話せば分かってくれるから。お姉ちゃん、優しいもん。きっと大丈夫に決まってるよ」
「そうだと良いね。……じゃあね」
「うん。ばいばい」
 言いながら、音無と手を振り合って立ち去って行く松本。その表情には、既におだやかな微笑がありました。
「……今のが、わたしに『指切り』の暗号のヒントくれた松本さん。すっごいアタマ良いんだよ」
「……そうですか」
 わたしは視線を俯けて言いました。
「……どうしたの北原? なんかさっきより浮かない顔だね。嫌なことでも考えた?」
「嫌なことっていうか……」
「話したかったらいつでも言ってね。あたし達、親友だもんね」
 言いながら、音無は自分の額にある、サクランボのキャラクターの片割れを指さしました。
 わたしは音無の顔をじっと見詰めます。そうです。音無はわたしの親友でした。付き合いは一年と少しと言ったところですが、十一歳のわたしにとってそれは何も短くない、とても長く濃密な時間でした。わたし達はくだらない喧嘩をしつつも色んなことで笑い合い、喜び合い、互いのことを理解しながら、ずっと肩を並べて来たはずでした。
「あの……音無。ちょっと言っておきたいことがあって」
「うんうん。何でも言って」
 音無は屈託のない笑みを浮かべます。わたしが何を言っても、音無は同じ笑顔のままで、しなやかに受け止めてくれる確信がありました。
「実は……あの、わたし……」
「うんうん」
「中二病患者なんです」
 音無はその一瞬で表情を消し、そしてわたしの手を引いてこう言いました。
「分かった。詳しく聞こっか。ここじゃ誰かが聞いてるかもしれないから、場所変えよ」
 わたしは小さく頷きました。



「……じゃあ。北原には、松本さんが二百五十六人を殺したっていうことが、その『症状』のお陰で見えたんだね?」
「……はい。そうなんです。わたし……怖くて」
 いつか誰かに話さなければならないことのはずでした。わたしの目は誰がどれくらい罪深い殺人犯であるのかを見抜くことが出来ました。そして『指切り』の正体も知っていました。もっと早くそのことを誰かに打ち明けられていれば、空先生は死ななくて済んだはずでした。
「わたし……この『症状』のこと、お母さんにも言おうと思うんです」
「どうして?」
「だって……わたしは松本さんが飛行機落としの犯人だと知っています。松本さんはきっと『中二病患者』です。その症状で飛行機を落としました。わたしが言わなかったら、彼女の犯行は誰にも知られないままかもしれません」
 罪には罰が与えられなければならないという以前に、このまま松本を放置しておくのは危険すぎました。二百五十六人を殺して平気でいる人間ならば、この先何千人でも殺す可能性があります。大勢の人が死ぬと分かっていながら小学校に飛行機を落とせるような人を、野放しにしておく訳にはいきませんでした。
「それだと北原が隔離施設行きになっちゃうよ?」
「……それが当然なんです。むしろ遅すぎました。中二病患者を隔離することの意味が、わたしには今日、やっと分かりました。松本さんのような危険な中二病患者を野放しにしない為、そして別の誰かに中二病を移さない為」
 わたしは顔を俯けて言いました。
「わたしは『指切り』の正体も知っていました。それをすぐに打ち明けていれば、空先生は死ななくて済みました。空先生を殺したのはわたしなんですよ」
「それは違うよ。空先生を殺したのは北原じゃない」
「でも……わたしが打ち明けられなかった所為で」
「だからそれは北原が悪いんじゃなくて、今の社会制度が悪いんだよね? 中二病ってだけですぐに隔離施設に送られるから、誰にも言えなかった訳じゃん。空先生は社会制度の犠牲者だよ。北原もね? あたしはそう思うなあ」
「……そんなはずは」
「ないことないよ。北原は何も悪くない。何も悪くない北原が隔離施設に行くことなんてない。ところでさぁ……」
 音無は、そこで自分の頭上を指さして、こう言いました。
「あたしの頭にも数値見えてるよね? やっぱ『1』って出てる?」
 そう訪ねられ、わたしは沈んだ声で答えました。
「……はい」
「そっか。訳とか聞く?」
「……話したくないのなら、良いです。墓まで持って行けと言われれば、そうします」
 それは友達相手の依怙贔屓なのでしょうか? わたしは自問しました。ただわたしは音無のことを信頼しようと思ったのです。音無が過去に人を殺したのが事実なのだとしても、それはきっとやむを得ない事情で、よって音無の数値がこの先増えることはないのだと。そう確信できているのなら、それ以上その数値について掘り下げる必要はないのだと、わたしにはそう思えたからなのです。
「あははありがとう。それは本当に助かる」
 音無は「よっ」と声を出してベンチから立ち上がりました。
「北原の中で、すべてを打ち明けて隔離施設に行くっていう気持ちは、変わらない?」
「……そうですね。少なくとも、松本さんの数値を見てしまった以上、黙っている訳にはいかないと思います」
「そっか。分かった。じゃあ、そうする前に……最後に一つだけお願い、聞いてくれる?」
 わたしは顔を上げました。そこにはわたしの前に立ち、いつになく慈愛に満ちた表情の音無が立っています。膝に手をやってわたしを見下ろすその表情は、どこか年上のお姉さんのようでした。
「最後のお願い?」
「そう。ちょっと来て欲しいところがあるんだ。そこで話をしよう」
「……それってどこなんですか?」
「行けば分かるよ。……良いかな?」
 断る理由はありませんでした。わたしが頷くと、音無は笑顔を浮かべて、それからスマートホンを取り出して操作をし、耳元に当てました。
「もしもし? 深夜お兄ちゃん? うん? そう、今は『こっち』。ちょっとさ、今から言うところに車持って来てほしいんだ。お礼はするからさ」
 そう言ってしばらく会話を交わすと、音無はポケットにスマートホンを仕舞い込みます。
「もうすぐ迎えが来るから。ちょっと待っててね」
「……なんで深夜さんが、あなたの言うことを聞いてここに来るんです?」
 今日一日を共にしたと言っても、まるでタクシーのようにいつでも呼び付けられるような関係は、二人の間にないはずでした。二人は今日が初対面のまったくの他人で、何か事情があって運転を頼むにしても、もっと事情を説明したりだとかの手続きがあるはずでした。
 わたしの当然の疑問に対し、音無は
「細かいことは気にしないのー。ハゲるよ?」
 そう言ってわたしの額をつついたのでした。



 本当に車はやって来ました。深夜はわたし達の前に車を止めると、「入れよ」とでも言いたげに後部座席に顎をしゃくりました。
 わたしと音無が車に乗り込むと、深夜は「どこまで?」と音無に冷たい声で尋ねました。
「本部」
「……おい。おまえ何言って」
「良いから」
 そう言うと、深夜は憮然とした顔で運転を開始します。音無のその様子に年長者に対するものとは思えない横柄さを感じたと同時に、それに素直に従っている深夜にも違和感を覚えました。
 連れて行かれたのは、この地域一帯を支配すると言っても過言ではない大病院・時川病院の建物でした。わたしも何度か医者に掛かりに行ったことがありますが、それは一目見て記憶に残る程の建物でした。病院としてはそこは大きすぎ、階層も高すぎるのです。無機質な白い建物が静かに街を見下ろすその様子は、気味の悪い摩天楼のようでした。
 深夜の運転するスポーツカーは、『職員用』という看板の隣を悠々と通って地下駐車場へと侵入し、『これより専用駐車場 一般職員立ち入り禁止』と書かれた看板の下をくぐり抜けました。そしてこれまでの駐車場と比べて高級車ばかりの駐車場に車を停止させました。
「おらよ」
「ありがとう。深夜お兄ちゃんも来る?」
「来ねぇよ。後、その深夜お兄ちゃんってのやめろ。おちょくんな」
 音無は答えることなく後部座席から降りて、わたしの手を引いて駐車場を歩きました。
 薄暗い駐車場は気圧も独特で、唐突に連れて来られた緊張も相まって、独特の閉塞感がありました。わたしは不安げに音無の顔を見ましたが、音無は涼しい顔で歩き、そして地下駐車場に設けられた病院の建物の入り口の前に立ちました。
 そこには鉄製の大きな扉がありました。扉には一枚のタッチパネルの傍に、マイク機能を持つらしい小さく無数の黒い風穴がありました。
 音無はタッチパネルを操作してから、呟くように言います。
「私だ」
 扉は自動的に開かれました。静かな足取りで、音無はわたしを連れて建物内へと入って行きます。
「音無……これって」
「良いから良いから」
 音無はいつもの笑顔でした。わたしの手を引いたまま白い廊下を進み、一枚の扉をあけ放つ素……そこには事務室めいた空間がありました。
 二十代くらいの人達が、パソコンのモニターを前にして何やら仕事のようなことをしています。人はまばらなのに対し部屋の面積は大きく、モニターの数も多く、大きな会社の綺麗な事務室と言った様子でした。
 仕事のようなことをしていた人たちが、一斉に音無の方を向きました。彼らは小さく会釈をする、親し気に片手を挙げる、視線だけを向けて声だけを発するなどして彼女を迎えました。
「こんにちは総統」
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
「やあやあ」
「ちわーっす」
 それら一つ一つに頷いた後、音無はわたしが聞いたこともないような大人びた声で答えます。
「皆お疲れ。今日は、新しい仲間を連れて来たんだ」
「その子ですか?」
 仕事のようなことをしていた一人……眼鏡をかけたラフな格好の青年が言います。年恰好も服装も、如何にも大学生と言った容姿です。
「若いっすね。若いっていうか、子供? もちろん中二病患者なんすよね?」
「ああ。くれぐれも言っておくが、彼女は私の親友だ。小学校のね。扱いは最大限丁寧にお願いする。何か要望を口にするようだったら、たいていのことは叶えてやって良い。……ただし、もちろん、私が良いというまではここから出すな」
「了解ーっす。で……どうしましょうか?」
「教育部門の連中に、一番良い部屋に一番良い設備を用意させておけ。分かったな」
 そう言って、音無は「ふう」と息を吐いて、いつも編んでいる緩い三つ編みを二本とも解きました。これまでに編まれていたということで、漆のような髪はふわりと若干の癖を持って広がります。さらに音無は縁の赤い眼鏡を取って、その大きく澄んだ瞳を晒しました。
 そうしていると音無は別人のようでした。普段の少々ダサめな、野暮っためなファッションに掠められていた、本来の美貌が露わになります。
 若干のボリュームのある長い黒髪が小さく細い顔を覆い、黒目がちの大きな瞳には、宝石のような輝きが宿りました。まつ毛は瞬きでそよ風を起こせそうな程に長く、小ぶりの鼻はつんと高く尖り日本人離れしています。音無が妖絶な微笑みを浮かべながらこちらをそっと見やると、あまりにも怜悧なその美貌に思わずわたしは身が震えてしまいました。
「……眼鏡は伊達なんだ。変装用でね。万が一昔の知り合いに出くわしたら、私だとバレてしまわないとも限らないから」
 音無は言います。わたしには言っている意味が何も分かりませんでした。
「髪を黒く染めて三つ編みにしたのも同じ理由だよ。と言ってもこれは趣味も少しある。私は本来の栗色の髪が嫌いでね。他と違うというだけで随分とからかわれて来たものだから。弟妹がまったく気にしないようにしているのを見ると、かえってみじめな気分になった」
「何を言って……」
「髪の癖は元々強いんだ。三つ編みにすればあまり目立たない。ナチュラルにウェーブがかかっていると言えば良いが……整髪料なんてない隔離施設にいた頃は、随分と苦労したものだったよ。それで編むようにしていたんだ。もっとも今の時間軸にそれを知る者はいないがね。あ……ちなみに瞳の色は自前だよ? 隔世遺伝で、兄弟の中でわたしだけ目が黒い」
「音無さん。あなたはいったい……」
「私? 私は君の親友だ。それだけは絶対に何も変わらないよ。君が望むのなら、音無夕菜として振舞うことはできるんだが……どうしたものかな?」
 そう言って、困ったような微苦笑を浮かべる音無。その表情や仕草は、どこまでも妖艶で大人びています。まるで同級生の音無夕菜が、どこか遠くに行ってしまったかのように。
「違和感を覚えなかったかい? 確かに、私は意図して幼く振舞ってはいたが、それでも随所でボロは出たはずだ。素直で人を疑うことを知らない君だから、多少気を緩めても気づかれる心配はないだろうと、思ってはいたが」
「どういうことなんですか! 説明をしてください!」
 わたしはそこで声を大きくしました。自分の中に生じている混乱と困惑を、感情のままに音無にぶつけます。
「言われるがままに来てみれば……いったいここはどこなんですか? あなたは何者なんですか!」
「心配しないでくれ。君を悪いようにするつもりはないんだ。むしろ私は、君にとって一番良いことだろうと思って君をここに連れてきた。話を聞いて欲しい。きっと納得してくれるはずだよ」
「質問に答えてください!」
「もちろんさ。ここは異能結社『アヴニール』の本拠地だ。世界中の中二病患者を政府の弾圧から守り、中二病患者が堂々とその力を有効に活用する社会を作る為の、秘密結社だ」
 わたしは返事も出来ません。一体何を言っているのでしょうか?
「今この瞬間も、政府に対して革命を起こす為の準備を進めている。世界中の中二病患者をリストアップし、適宜コンタクトを取りながら勢力を拡大する。必要ならばスカウトした中二病患者に適切な教育を施して、結社員としての成熟を促す。やがて戦力が整った暁には、離島の隔離施設を襲撃して、そこに囚われている中二病患者を救い出し、自由にするのだ」
「そんな無茶なことを……」
「それはもうすぐに成し遂げられることだ。その瞬間は、最早目の前まで迫っているのだよ」
 音無は自信に満ちた表情を浮かべました。自分の言っていることに何の疑いも抱いていない、それはある種の異常者の顔でした。
「さて。もう一つの質問に答えよう。私が何者かというと、第一には君の親友なのだが、それでは君の疑問は晴れないだろう。だからはっきりと単刀直入に言わせてもらうと……私はここのボスなんだ」
 わたしは愕然とするあまり全身から力が抜け、その場で倒れそうになりました。
 あまりの世界の変わりように、わたしは気が遠くなるかのようでした。音無はそんなわたしの肩を抱き、優し気に微笑みながら腕を背中に回しつつ、じっと顔を合わせて来るのです。
「音無夕菜というのは本名であって本名ではない。本当の名前は夕日という。時川夕日。君の友人である時川正午の、実の姉だ」
 息のかかるような距離で、音無はわたしの瞳をじっと見据えます。音無の瞳は吸い込まれそうに黒く、澄んだ深海のような闇の色をしていました。
「歳は二十七。空桜とは同級生だ。君の二倍以上は生きている。……とは言え、君とは対等な関係でいたいから、それを気にする必要はない。今まで通り接して欲しい」
「……わたしはいったいどうなるんですか?」
「これから君は軟禁状態に置かれる。なあに、怖がることはない。欲しいものは何でも取り寄せてあげるし、外から見て分かるように、この建物は広いから何も窮屈ではない。この中で君は結社員となる為の教育を受けてもらうが、それも然程大変じゃない。そしてカリキュラムが終了すれば、君は晴れて異能結社アヴニールの結社員となる。私は君を贔屓するから最高幹部の待遇を約束しよう」
 わたしが何も答えずにいると、音無は寂し気な笑みを浮かべつつも、わたしの肩を抱いたまま続けます。
「まさか君が中二病患者になるなんて思わなかった。夢のようだ。世界を変える為共に戦おう。……愛してるよ親友。永遠にね」
 静脈が浮くような白く細いその腕に、わたしは自分が絡めとられたのを感じていました。

 ×9×

 仕事で忙しい夕日だったが、たまには帰って来て俺達弟妹の相手をしてくれる。
 ただし、その姿は昔とは違っている。幼いのだ。
 中二病患者である夕日は、『あらゆるものの時間を逆行させる』という『症状』を持っている。その強力無比さと言えば凄まじく、指先一本触れた相手を、キンタマの中の精子と同じ姿に変えて殺害せしめる程だった。
 その力を使って夕日は今、小学五年生の姿に戻っている。何故そんなことをしているのかと言えば、ハッキリ言ってそれは道楽らしかった。
 『私にはあまり楽しい学生時代はなかったからな。一度子供時代に戻ってやり直してみたいと思っていた。それが叶うだけの力を持っているなら、実行しない手はないだろう』
 そうやってロリ化した実の姉を、朝日なんかは『カワイイ!』と言ってわやくちゃにしたものだ。だが深夜はドン退きだったし俺も似たようなもので、正午に至っては母親代わりだった姉が同級生になった事実を受け入れるのに、三日間寝込まねばならなかった。
 音無夕菜という名前と戸籍は、適当な負債者夫婦の娘から借り受けたそうだ。本物の音無夕菜は家に引き籠りで学校に行っていなかった為、都合が良かった。候補は他にもいたそうだったが、成り代わる相手をその子に決めた決定打となったのは『名前』らしかった。
 「『音無』という名字は珍しいし印象的だ。それに、私は自分の名前の『夕』の字が好きなんだ。マストだと思ったよ」
 そんな訳で、音無夫婦は多額の報酬を得る代わりに娘の戸籍を夕日に売った。そして本物の音無夕菜を知る者が存在しないこの街まで引っ越させ、新しい生活を始めさせた。
 夕日は音無家のアパートに自分の部屋を用意させ、そこから小学校に通うことになった。時川家の屋敷と家長である父の顔は街中の人間に知れ渡っている為、『友達と家で待ち合わせて学校に行く』『友達を家に招く』『友達に両親を紹介する』と言ったシチュエーションに支障が生じる。だから、夕日は『音無夕菜』としての仮の家、仮の家族を必要としたのだった。
 「楽しいのかよそんな道楽。俺には分かんねぇな」
 夕日が時川の屋敷に帰った今日という日に、俺はそんな疑問を口にした。
 「そう思うのは、未明が充実した子供時代を送ったからさ。私は散々だった。他と違う髪色をからかわれたり、自毛だというのに先生に怒られたり、身体が弱い所為で友達と上手く遊べなかったり、放課後も母さんにずっと勉強をさせられ友達付き合いも制限されたり……やり直したいと思うくらいの時代ではあったよ」
 今の時川家に母はいない。正午を産んですぐ死んでしまったからだ。しかし夕日の子供時代には母親の存在が色濃く存在しており、俺も覚えているが厳しい、というかかなり酷い人だった。兄弟の中で唯一体の弱い夕日は、欠陥品と言われ虐待されていたのだ。
 「そして私は何だってやり直すことが出来る。だったら望むだけやり直すだけさ」
 コーヒーカップを傾けながら、夕日は満足げな表情で言った。
 「そんなに身体を小さくして、消耗とか大きくねぇの?」
 「年単位時間を逆行させるとなると、まあそれなりにクールタイムは必要だったな」
 「どんくらいなの?」
 「私の主観時間で数時間程」夕日は妙な言い方をして、それから立ち上がった。「それじゃあ私もそろそろ『学校』だな。と言ってもいったん自動車で音無の家の方にランドセルを取りに行ってからだが。徒歩でこの屋敷を出るところを目撃されては厄介だ」
 「学友として、正午とパジャマパーティしてた、じゃダメなのか?」
 「一度や二度なら問題ない。だが何度もは使えない言い訳だ。ではな」
 そう言って夕日は家を出ていった。深夜ではない運転手を、下のガレージに待たせているようだ。
 夕日は小学生としての生活を趣味として楽しむ傍ら、怪しげな事業も営んでいる。その両立は忙しいようで、帰って来る時間は限られる。今日も無理をして早朝に三十分間だけ家に来てくれたのだが、深夜は外をふら付いているし朝日は部活の朝練で、正午は毎日学校で夕日と会っているから家で会う為だけにわざわざ早起きしない。よって話が出来たのは俺だけだった。
 夕日が来たのは朝の六時とかだったから、今はまだ身支度をする時間には早い。俺はテレビをつけた。
 小学校に飛行機が墜落した事故についての報道が続いていた。担架に乗せられて救急車に乗せられる小学生の頭上に、数時間後の寿命が表示されている。手当の甲斐なく死ぬのだろう。俺はそれを面白がりながら夕日の淹れてくれたコーヒーを啜った。
 人の寿命の見える俺にはこの事故は概ね予知できていた。いや飛行機事故とまで分かっていた訳ではなかったが、それでも地元の小学生が大勢死ぬことは、すれ違うガキ共の寿命を見て理解していた。
 夕日や正午のことを心配しなかった訳ではない。だが彼女らの寿命は共に数十年後だと表示されていたし、それはつまり上手いことやって生き延びられるということだ。無論事故に巻き込まれれば大ケガくらいする可能性もあったが、しかし彼らにそれを知らせるということは、俺が中二病患者であることをカミングアウトすることに繋がる。
 俺は夕日のようには自分の症状を家族に明らかにするつもりはない。己が異能を誰にも秘密にしているからこそ味わえる背徳感というものはある。そのことが彼女らに大ケガをさせうるのだとしても構わなかった。確かに俺は夕日が好きだし正午が好きだが、それは自分の重大なポリシーに反する程のことではなかった。
 また実際、夕日と正午は奇跡的に遊園地に行っていて助かった。カスリ傷一つ受けなかったのだ。そのことを俺はとても喜んだ。俺は姉と弟を深く愛している。俺が俺を愛するのには遠く及ばないまでも。
 自分だけが予知できた惨劇を眺めつつ、コーヒータイムに耽っていると、甘美な全能感が体中を駆け巡る。こうした瞬間、俺は確かに、あらゆる死の司る死神の気分になれるのだ。
 「……そろそろ行くかな」
 十分満足にその時間を満喫した後、俺は鞄を取りに立ち上がった。
 死神の時間は終わり、学生としての時間を謳歌しに行く。これはこれで貴重であることを、俺は理解している。夕日のように、俺の時間はやり直しが利かないのだ。



 一日の勤めを終え、今日もしっかり勉強出来たという満足感を伴い学校を出る。目前に控えた中間テストで良い点を取る為、俺は塾の時間まで自習するつもりで、行きつけの喫茶店に向かっていた。
 その時だった。
 一台の平凡な自動車が俺の眼前で停車した。見覚えのない車だった。脚を停めた俺の前で窓が開くと、顔を見ても夕日や弟妹のようには安らがない身内が姿を現す。
 「おう未明。乗れよ」
 深夜だった。俺は「なんだよ」と目を丸くして深夜に答える。
 「いや兄ちゃんその車何? 見覚えないしウチの車じゃないよな」
 「ああ。友達から借りたんだ」
 「兄ちゃんに友達とかいんのかよ」
 「いるよたくさん。無職友達とかパチンコ友達とかネトゲ友達とか」
 「それは何友達の車だよ」
 「駅前の階段にたむろして女子高生のパンチラを覗き友達だ」
 「ダルい冗談はやめろっての。で、何の用?」
 「だから乗れよ」
 「何のために?」
 「いいから一端乗れ」
 「だから何のために?」
 「いいから」
 「理由言ってくれないと乗る気になんねぇ」
 「せっかく車借りられたんだから軽くドライブ付き合えってだけだよ。たまにゃ男同士の話をしようぜ」
 「嫌だね」
 「何で?」
 「怪しいんだよ。車の運転嫌いなら俺のことも嫌いな兄ちゃんが、友達の車借りてまで俺とドライブとかありえねぇ。別に怪しくなくてもこれから自習のつもりだから乗るつもりないけど、怪しいから尚のこと乗りたくねぇ」
 「俺別におまえのこと嫌いじゃねぇよ」
 「嘘だ。兄ちゃんは朝日と正午のことは別に普通だけど、俺と夕日姉ちゃんのことは嫌いなはずだ」
 「言ったことねぇだろそんなこと」
 「態度で分かる。ニートな自分へのコンプレックスで優秀な身内疎んでるとかじゃなくて、人間としてガチ嫌われてるのが分かる。夕日姉ちゃんはそれでもおかまいなしだけど、俺は一応上手いこと気ぃ使ってんだよ。険悪はやだしな」
 「仮にそうだとしてもたまには気が向くことだってあるだろうがよ。嫌われてると思われてんなら尚のこと話しようや。誤解を解いておきたい」
 「兄ちゃんがそんな細やかな人間関係のケアをする訳ねぇだろ」
 「良いから乗れよ」
 「しつこい男は嫌われるぞ。駆け引きの出来ねぇ奴だな。顔も頭も良いのにモテねぇのはそういう不器用なとこだぞ? 人生上手くいかねぇのもな。なんかあって俺を乗せてぇんなら、家の車で来て家の用事でっちあげるんだったな」
 「それやったらおまえ、親父なり姉貴なり電話して裏取るだろ」
 「そりゃそうさ。しれっと『乗れ』とだけ言ったのは作戦として悪くねぇと思うけど、それが通じるのは朝日までだな」あいつアホだし。「俺には通じねぇ」
 「じゃあどっちにしろ無理じゃねぇか。しゃあねぇ無理矢理攫ってくことにするわ」
 そう言って、おもむろに扉を開けゆっくりと車体から降りる深夜。俺が逃げないと思っている。さてどうするか。
 格闘でこの兄に敵うかどうかを検討する。中三の時一度ぶちのめされたことはあるが、それは過去だし年齢差もあってのことなので参考にしない。あの時より俺は身長も伸びたし腕だって上げた。あの時の雪辱を果たすには良い機会と捉えるべきなのだろうか?
 俺は喧嘩は嫌いじゃない、実は好きな方だった。腕前にもかなり自信があった。しかし車には乗らずとも格闘の誘いには乗ると思っている深夜の思惑に、ただ従うのも癪だった。
 結局俺は身を翻して逃げることにした。俺の内なる好戦性を見抜いて格闘を持ちかけていた深夜はこれに驚いたようだ。
 「待てや未明!」深夜は俺を追い掛けて走り出す。「逃げんじゃねぇ! ぶっ殺すぞ!」
 「ぶっ殺す言ってる奴に立ち止まってりゃ世話ねぇよな」俺は笑いながら逃げまくる。
 互いに勝手知ったる街だ。路地を縫い大通りを抜け裏道も使い、俺達はしばらく追いかけっこを演じることにした。深夜の体力は衰えておらずぴったり俺に付いて来た。
 しかし困った。体力ならともかくアタマで負ける訳がないと思っていたが、実際には俺は路地裏に追い込まれ、壁を背にして追い詰められていた。かつての憧れの兄とのチェイスに敗れ、俺はいっそ清々しい気分で、じりじりと距離を詰めて来る深夜の前に両手を晒した。
 「参ったよ。分かった。格闘に応じる」俺は飄々と言って、鞄を投げ捨てた。「ああ、気が進まねぇ」
 「嘘を吐け」深夜はうんざりとした様子だった。「本気で腕付くが嫌だったんなら、人気のある場所に留まれば良かったじゃねぇか? それをしなかった癖に良く言うよ」
 「俺がどこで何を叫ぼうと、兄ちゃんは無理に連れて行っただろ?」
 「そうでもねぇ。俺にだって恥や外聞はある」
 「それこそ、嘘吐け」
 「恥や外聞はなくても都合や思惑はある。それを潰したいだけなら、大声出して交番に駆け込めば一発だったろうがよ。そのチャンスはあったはずだぞ?」
 俺はへらへらと笑って言う。「しばらくぶりに兄ちゃんと鬼ごっこで遊びたかったんだ。逃げ切れると思ったし逃げ切りたかったんだが、まあ負けても十分楽しいよ。だけど、次の戦いごっこじゃ負けねぇよ?」
 「正午と遊んでろ」深夜は吐き捨てるように言った。「おまえ、やっぱムカつくわ。人間として糞ムカつく。ぶっ殺すわ」
 そう言うと深夜は俺の方へと力強く踏み込んで腕を伸ばして来る。掴み合いとか放棄して、いきなりグーパンだ。それも顔面に。
 そんなもん食らう訳にはいかないので俺は体を捻って回避する。この時最小限度の動きで対応するのがかなり大きな喧嘩のコツだ。大きく逃げれば相手に追撃の余地が生まれるが小さく避ければ逆にこっちが反撃できる。分かっていても簡単にできることじゃないが俺だって場慣れはしている。
 俺は深夜の懐に踏み込んで腹にパンチをお見舞いした。しかし深夜は最初のパンチを躱されるのを予期していたのか、両腕を前に出して上手くガードする。攻勢から守勢への切り替えの早さスムーズさは俺のこれまでの敵の中で一番だった。思わず舌を巻く。衰えてない。
 その後も一進一退の攻防が続く。深夜のパンチは重く、どうにか拳や腕で受けても、痺れ返ってかなり痛い思いをする。しかしフットワークでは俺も負けてはおらず、守勢に回り続けていればそうそうクリーンヒットされはしない。
 「ちょろちょろ逃げんな」
 深夜の放つ蹴りを、俺はしっかり身を退いて躱す。ぎりぎりまで引き付けようとして失敗し、カス当たりを貰うという展開が何度かあったのだ。深夜の攻撃は速く鋭く、クリーンヒットでなくてもそこそこ痛い重さがある。多少大げさに回避しないと危ないと気付いたのだ。
 「そっちこそ受けんな」
 俺が踏み込んで右手でパンチを放つと深夜は片手でそれを払いのける。左手でもう一発。払いのけられる。そして最後にストレートを放った。ジャブ二回とストレートのお決まりのコンビネーション。お決まりなのはそれが有効なテクニックだからで、自信もあったのだが、深夜が回避に徹した為にカス当たりに留まった。
 しかしカス当たりとは言え俺の攻撃が深夜にヒットしたのは初めてのことだった。距離を取った深夜は「いってぇな」と忌々し気に吐き捨てる。
 「わあい。お兄ちゃんに攻撃が当たった」俺はおちょくるように言ってはおくが、実際には息も絶え絶えである。
 「おめぇみたいな青瓢箪、もっと簡単に畳めると思ったんだがな。粘りやがる」深夜は皮肉と倦怠の混ざった声で言った。「しゃあねぇ。その気はなかったんだが、奥の手を出す」
 「なんだよ奥の手って」
 「チビる思うぞ?」
 「へえ。中二病の症状でも使うのかい? お天気お兄さん」
 「そんなところだ。気付いてたか? 俺が中二病患者だって」
 「気付かねぇ訳ねぇだろ」俺はけらけらと笑う。「百発百中の天気予報なんて気象庁でも出来やしねぇ。俺や夕日は確信してたし正午だって薄々感付いてて黙ってるだけだ。疑ってもねぇのは朝日くらいなもんだ」
 「そうか。マジであいつアホだよな」
 「ああアホだ。で、お天気お兄さんに何ができるんだ? 明日の天気が雨だったらどうやって俺に勝つんだよ」
 「こうするんだよ」
 言って、深夜は靴を脱ぎ捨てて、その片方を拾い上げて以下のように叫んだ。
 「未明に雷おーちろっ!」
 そして靴を正しい向きで地面へと叩きつける。何をアホなことを言っているのかと思っている俺の頭上に、眩い蒼天から雷が降り注いだ。
 本日は快晴で落雷確率は零パーセントのはずだった。増してそれが俺の頭上に降り注ぐなど天文学的な確率だった。しかし深夜の天気予報は成就して、俺は雷を貰ってあまりの衝撃にその場で崩れ落ち倒れ伏した。
 「あひゃひゃひゃひゃっ! どうだすげぇだろう!」深夜は腹を抱えて笑いながら言った。「俺の天気予報は百パーセント当たる! だから俺が予報したことは全部現実になるんだよ!」
 「こ……こ……こんなのっ」俺は立ち上がる為に地面に手を着こうとするが上手く行かない。「……こんなの予報じゃないっ!」
 雷が落ちたような衝撃という比喩があるが、まさか本当に体験するとは思わなかった。その衝撃は骨が砕けるようであり首筋や肩は焼けただれ服は破れ、帯電した電気の所為で今も全身は痺れ続けている。喋れているのも奇跡に近かった。
 「安心しろ。雷に打たれる奴は日本にも何人もいるが、生き延びる確率の方が遥かに高い」死亡率は精々10パーセントってところらしい。おまえの場合、喋れるくらいだから心肺停止もないし、絶対に大丈夫だよ。タフだな」
 「だとしても……10パーセントは死ぬんだろ」俺は恨み言を言う。「おまえ……弟を殺す気だったな」
 「死なねぇだろ? もし今死ぬ運命だったらおまえはそんな平気な顔で過ごしてねぇ。自分の寿命だって見えてるんだろう?」
 「何を……言って」
 「おまえだって中二病患者だろ? 人間の寿命が見える能力者だ」深夜はゆっくりとこちらに近付いて、勝ち誇るように俺を見下ろす。「空桜っつってな。おまえが殺し損ねて、代わりに模倣犯に殺された女がいただろう? そいつが一目で他人の症状を見抜く中二病患者で、俺ら『アヴニール』の結社員は既におまえの症状を知っていたって訳だ」
 「訳分かんねぇこと……言いやがって」
 俺は息も絶え絶えながらどうにか思考する。
 空桜が他人の症状を見抜く中二病患者だったのは良い。どっかで俺とすれ違った時にでも症状を見抜かれたんだろう。深夜がそれと繋がっていて、俺の症状を知っていたことも、まあ偶然で済ませられる話だ。『アヴニール』とか結社員とかおめでたい言葉も聞こえて来たが、今のところそれは黙殺しておいてやって良い。
 しかし深夜の口ぶりは俺が『指切り』だと知っているものだ。何故バレている? どうやって深夜はそれに気付いた?
 「『指切り』の残した暗号を解き明かすと、『三ツ木小学校』という言葉が完成する」深夜は俺の前でしゃがみ込んだ。「そこに置いてあった金庫を開けてみると、中には各国の有名人達の命日がかかれた紙が入っていた。くだらない景品だ。おまえの症状を知ってる方からすれば、おまえが犯人だって言ってるようなもんだ」
 「おまえ……あの暗号解いたのかよ……?」
 「俺が解いた訳じゃねぇ。解いたのは夕日だよ。俺はそのデータを勝手に盗み見ただけだ。そしておまえが『指切り』だと気付いて殺しに来たんだ」
 「……姉ちゃんが俺の暗号を解いた?」俺は息も絶え絶えに言う。「なるほどな。確かに姉ちゃんならあれも解けるだろ。だが、待てよ……。それって、空を殺したのは姉ちゃんってことにならねぇか?」
 「空を殺したのは、やっぱりおまえとは別の奴か? 見立てが雑過ぎるから、そうだろうとは思っていたが」
 「ああ。それは模倣犯の仕業だ」俺は血液の混ざった咳を吐く。糞、医者に行きてぇ。「そいつは俺の暗号を解いて俺が記すはずだった符号を先回りして施しやがった。おまけに余計なヒントまでネットに書いてやがる。忌々しい奴だ。殺してやりてぇ」
 「俺もそいつの正体は分からねぇんだ」
 「暗号を解いたのが姉ちゃんなら姉ちゃんじゃねぇのか? 暗号を解いた奴にしか、空を殺す時あそこまで俺の犯行を模すことはできない」
 「俺もその可能性は濃厚だと思っている。なんせ動機がある」深夜は口元に手を当てながら思慮深い口調で言う。「……が、夕日の仕業にしては仕事が雑過ぎるのが気になるところだ。指の切り飛ばし方も雑なら指を持って帰ってねぇのも気になる。ああいうところで夕日が雑な仕事をするとは思えねぇ。だからやったとしたら夕日自身でなく、手先だろうな」
 「なんで姉ちゃんに空を殺す動機があるんだ? おまえらどういう繋がりなんだ?」
 無視して深夜は懐からスマホを取り出すと、何やらメッセージを打ち始めた。それを終えると、今度はタバコを取り出して火を付け始める。もう俺は立ち上がれないから実際問題ないのだろうが、忌々しい程にそれは余裕の態度だった。
 「おい。質問に答えろ」
 「……夕日は異能結社アヴニールっつーおめでたい名前の組織の創始者で、トップだ」深夜はタバコの煙を吐き出す。「俺はそこのナンバー2。空もまた最高幹部の一人だった。中二病患者が大手を振って歩ける社会の実現の為に、政府に立ち向かう正義の組織だ。立ち上げ当時高校生だった俺は、それなりに夢中になってその組織活動に邁進し、勉強を疎かにした結果東大に落ちた。その後、色々あって夕日や組織の活動にも失望しやさぐれて、今に至る」
 「そりゃ不器用なおまえらしいな」俺はせせら笑う。「つか深夜、おまえ煙草吸うのかよ」
 「吸うよ。夕日が煙草嫌いだから、家じゃ吸えねぇってだけだ」
 俺は生前の母さんが良く夕日の顔にタバコの煙を吐きかけていたのを思い出した。あれを食らった時の夕日の、嫌悪感と憎悪に満ちた顔と言ったらなかった。
 「そうかよ。だが空はそのアヴニールの幹部だったんだろう? 仲違いでもしたのか?」
 「夕日率いる過激派のやり方に付いて行けなくなった空達穏健派は、水面下で分裂し『サテライト』という抵抗組織を立ち上げた。俺はそっちでもナンバー2だ。表向き夕日に服従しつつ、裏ではメスガキ二人を使って夕日を殺し、『アヴニール』を乗っ取る計画を立てていたんだ」
 「内ゲバかよ」
 「だが鋭い夕日のことだ。俺達が裏切りを企てていることに勘付いていてもおかしくない。だからと言って大っぴらに空を粛正したんじゃあ、空を慕う穏健派が黙っていない。よって夕日は『指切り』の犯行に見せかけて空を殺したんじゃないか……と俺は睨んでいる訳だ」
 どうだろう? 俺は深夜の見方に疑問を感じた。
 夕日は冷酷そうでいて実際冷酷な時もあるが身内にはかなり甘いところがある。裏切ったとは言え、一度幹部にした人間なら命までは取らないんじゃないだろうか? 本当に夕日が殺したのかどうか、俺には若干の疑問が残る。
 「……さて。俺の話はここまでだ。何も知らずに閉じ込められては可哀想だから、話せることは話してやった」深夜はタバコの火をもみ消しながら言う。「もうすぐ『サテライト』の仲間が車を持って来る。おまえはそこに乗せられて、『サテライト』の用意した牢屋で残りの人生を送ってもらう」
 「……なんで俺がそんな目に合わなくちゃいけないんだ? そんなことをしておまえに何のメリットがある?」
 「おまえという人間が害悪だからだ、殺人鬼」深夜は心底軽蔑した目を俺にくれた。「政府にとっても中二病患者にとっても、もっとも害悪な存在は、おまえのように症状を悪用する中二病患者だ。どうせ寿命見て殺す相手を選んでたんだろ? おまえのような存在がいるから俺達は世間に認められない。そんな人間を『サテライト』は野放しにしない」
 「だからって生涯監禁かよ。殺された方がまだマシだ」
 「本気でそうして欲しいなら人思いに殺っても良い。いつでも殺ってやる。……が、実際はそうならないことは、他でもないおまえ自身が分かってるんじゃないのか?」
 確かに鏡で見る俺の頭上には六十数年後の数値が浮遊している。ということは、少なくとも俺はこいつには殺されないということだ。
 「おまえの言う通り、俺はおまえのことが嫌いだよ」深夜は忌まわし気に俺から視線を反らした。「だが弟と思わない訳じゃない。監禁はするが拷問して苦しめるつもりは一切ない。おまえが暴れなけりゃあ、まともな食べ物とそれなりの暇つぶしは用意してやる。捕まって死刑囚になるのと比べりゃ幾ばくかマシな待遇だ」
 俺は考える。どうやってこの場を切り抜ける? 
 長話をして時間を稼いで体力の回復を待ってはいるが、未だに立ち上がることもままならない状態が続いている。深夜の仲間がやって来るまでに、この状況を逆転する為の体力を蓄えるのはどう考えても無理だ。
 きっとどこかでチャンスはあると自分に言い聞かせてはいるが、内心で俺は絶望を感じ始めている。そして絶望は受容の前段階。心のどこかで、俺は深夜に負けるのならしょうがないと思いつつもあった。
 やがて自動車の音がした。待ちくたびれたように深夜が顔を上げると、さっきまで深夜の乗っていた車が別の誰かに運転されて、この路地裏に侵入して来た。
 その時だった。
 その自動車は空を飛んだ。何がなんだか分からないし信じられないが、本当にそれは俺の目の前で起こっていた。
 突如として浮遊した自動車は、空中で前転し上下逆になると、中で悲鳴を上げる運転手をお構いなしに、逆向きのまま地面に叩き付けられた。
 轟音と衝撃。
 俺と深夜はあっけに取られていた。呆然とした顔を見合わせるこの瞬間だけは、互いが今敵対しあっているということを忘れ、ただの兄弟に戻っていたと思う。
 呆然とする俺達の前に、二人の小さな人影が姿を現す。
 それは時川兄弟の長子と末弟にして、肉体年齢小学五年生コンビである、夕日と正午の姿だった。



 「ナイスだ正午。何度見てもおまえのサイコキネシスには惚れ惚れとする。PSY系の症状としては、まさしく原点にして頂点と言えるだろうな」
 夕日は言った。似合っていないと不評の眼鏡と三つ編みを解除し、誰よりも大きな目とややボリュームのあるストレートヘアを露わにしている。そうしているとロリな身体も相まって、人形めいた妖しい魅力を放つかのようだった。
 「待たせたのだ。未明お兄ちゃん、大丈夫なのだ?」
 そう言ったのは正午だった。夕日の隣で両手を前に差し出し、如何にも超能力を使っていた直後のような雰囲気を醸し出している。いや、状況から見て自動車をひっくり返したのはこいつで間違いなさそうだった。俺は思わず弟を指さして言った。
 「正午、おまえ中二病患者だったのか」
 「のだ。深夜お兄ちゃん以外には知らせないように夕日お姉ちゃんに言われてたのだ。だから未明お兄ちゃんには今日が初めてのお披露目なのだ」
 なんてこった。これで兄弟全員中二病患者だ。完全にクラスターだ。バイオハザードだ。
 「正午の『中二病』は空前のものでね。何せ八歳の時には手を触れずにものを動かせたというのだから、規格外だ」夕日は正午の肩に手を置いて、弟というよりは我が子を誇るかのように言う。「生まれてすぐ母親を失ったこの子の母親代わりは私だった。だから、一歳でも早く、しかもできるだけ強力な症状を発症するよう、この私が付きっ切りで英才教育を施したのだ。正午は私の最高傑作にして最強の能力者なのだよ」
 初めて知ったぞ。つか八歳で発症って……確かにそれは空前の記録だ。前例がない。
 しかも手を触れずに、自動車のような重たいものまで動かせるだなんて、確かにそれは最強の能力と呼んで差し支えない。超能力として見た時にサイコキネシスはありふれているが、それが何故ありふれているのかというと、それだけ便利かつ強力であるからだ。
 「母親代わりとして愛情を注ぎ、強力な能力まで芽生えさせてくれた私に、正午はとても忠実だ。私も弟妹の中で一番愛しているのは実は正午でね。その愛し方は同学年の子供となって学校でも間近に成長を見守る程だ」そう言うと、夕日は微かに挑発的な表情を俺達に向ける。「おっと、正午が一番などと言ってはジェラシーを感じてしまうかな? 弟諸君?」
 「まあちっとはな」と俺は素直に認めて目を反らした。
 「黙れアラサーロリ女」深夜は吐き捨てた。
 「そのアラサーというのは25と34を一括りにする酷い言葉だと私は常々思っている。もっともそれは私が27だからそう感じるだけで、34になればむしろその言葉に縋り付くことになるのだろうか?」夕日は真顔で言って首を傾げた。
 「歳なんて誰でも取るんだから一緒だよっ。死ねっ」深夜は舌打ちをした。「くだらねぇお喋りはやめろ。夕日、おまえ、なんでここに来た。何のつもりだ?」
 「最近のおまえには不審な点が多すぎたのでな。尾行を付けさせて貰っていた。未明と殴り合いを始めたという報告だけなら兄弟喧嘩と放っておいたが、天気予報の症状を使い落雷を浴びせたとなっては、訳を聞かない訳にはいかないだろう。そう思い駆けつけたところだ。……何をしていた?」
 「姉ちゃん姉ちゃん! こいつ姉ちゃんの組織を裏切ってるらしいぞ!」俺はここぞばかりに姉ちゃんに兄ちゃんの悪行をチクった。「ベラベラ喋ってたの俺聞いたもん! しかもなんか子供を二人使って姉ちゃんのことを殺そうとしてたんだって! こいつヤベぇぞ!」
 「あー! 未明こいつ! チクりやがったな!」深夜は憤慨した様子で俺を睨んだ。「せっかく話してやったらこれだ! チクショウ! 二度とおまえに秘密は話さねぇからな!」
 いがみ合う弟二人の様子に、夕日はおかしくてたまらないとばかりに笑う。
 「ああ薄々察していたとも。その男が私を裏切っていたことくらいはね。だからこそ尾行を付けていたわけなのだから」
 深夜は忌まわし気に舌打ちをした。俺はこいつに敵わないが、こいつもまた夕日には敵わないようだ。
 「察していたと言えば未明、おまえが殺人鬼『指切り』の正体であることも、私は把握している。それについては姉として火遊びを強く叱責するが、警察に突き出す訳にはいかない。二度とするなと約束させればそれでおしまいだ」
 「分かったよもうしない」俺は頷いた。「ところで姉ちゃん俺の仕掛けた暗号を解いたんだってな。だったら空を殺したのって姉ちゃんなのか?」
 「いや違う。空は私の海星時代の親友だ。どうやら私を裏切っていたようで、そのことについては傷心のどん底だが、やるとしても精々一生涯監禁する程度のことだ」
 人を一生涯監禁するのは、俺の兄姉共通の性癖らしい。嫌過ぎる性癖だ。
 「ところで未明。海星高校の名前について言いたいのだが、この『海星』は『ひとで』とも読めてしまうな? 正直ネーミングとしてどうかと思うんだが、これについてOBとして現役生に意見を求めたい」
 「知らねぇよそんなの。それより俺の身体を治してくれ。姉ちゃんの能力なら一発だ」
 「それは無理なのだ」と、そこまで兄姉の話を黙して聞いていた正午が言った。「さっき聞いたんだけど、夕日お姉ちゃんは最近すごく大きな力の使い方をしたそうなのだ。そのクールタイムはとても長いのだ。だから未明お兄ちゃん、雷に打たれてつらいだろうけど我慢するのだ」
 何だよそれ。アテが外れて俺はがっかりした気分になった。自分で言うのも難だが卓越した精神力で平気を装ってはいたが、俺はもうこの苦痛に満ちた身体から出ていきたいと思うくらいに、つらくてたまらなかったのだ。モルヒネでも何でもガンガンぶち込んで、とっとと治療して欲しい。
 「それだけ喋れるのなら命に別状はないさ。医者である私が言うのだから間違いない」死にかけの弟に夕日は言った。「ところで深夜……おまえにはたっぷり話を聞かせて貰わなければならないな」
 「糞っ! 一か八かだ!」
 言いながら、深夜は夕日に殴り掛かる。俺にしたように落雷を使わないのは、クールタイムが解けていないからだろう。
 「正午」
 夕日は身動き一つしなかった。末の弟に一言そう命じるだけだ。すると正午は「のだ」と返事をして手の平をかざした。
 深夜の身体がその場で浮き上がった。尚も暴れる深夜の手足を、正午は強引に折りたたんでいく。骨をへし折りこそしてはいないが、固結びの体育座りのように丸め込まれたその体勢は苦痛そうだった。
 「ちくしょう! 離しやがれ正午!」深夜は喚く。
 「ダメなのだ。夕日お姉ちゃんの命令は絶対なのだ」正午は勝ち誇ったように言う。「良くもお姉ちゃんを裏切ったのだ。たっぷり反省すると良いのだ」
 「何も分からねぇ癖に良いように使われやがって! おまえなんかイデオロギーも糞もないただの暴力装置だ!」
 「良くやった正午。持ち歩いているロープがあるから、このままふん縛って、傍に停めてある車のトランクにでも放り込んでおこう。裏切り者として本部に連行する」そう言って、次に夕日は俺の方を見た。「未明も来い。傷の手当てをしてやる。おまえのことは結社員に加えて悪いようにはしない。時期尚早だと思ってずっと声は掛けて来なかったが、おまえも深夜から聞いて色々知ってしまったようだしな」
 「拒否権ねぇんだろ? 従うよ」俺はため息を吐いた。秘密を知った以上、仲間になるか消されるかだ。「だが傷の手当するなら病院に連れて行ってくれねぇか? そりゃあ姉ちゃんだって医者だけど精神科医だろ? 専門の外科医に見てもらわねぇと命に関わると思うんだけど」
 「心配せずとも、これから行く『アヴニール』本部は時川病院の地下にある。運転手を待たせてしまっているから急ごう。正午、未明はおまえが念動力で運んでくれ。傷付いた弟に肩を貸してやりたくてしょうがないところだが、先ほどの落雷が全身に帯電しているだろうからな。直接触れるのは危険なのだよ」

 △10△

 朝起きる。
 身支度をしていても唯花は起きて来ない。いつもの寝坊だ。
 しかし零歌は、ベッドで微睡んでいる姉を以前のように起こしに行く気にはならなかった。起こしに行っても、零歌を幸せにしてくれるような優しく愛らしい態度を取ってはくれないことが、分かってしまっていたからだった。
 唯花は自分を無視したり、冷ややかな態度を取ったりしないものの、しかし以前のような親愛に満ちた笑顔を向けてくれることはなくなった。こちらから話しかけても上の空か、必要最低限の相槌しか打ってくれない。唯花の方から話しかけて来ることはなくなり、どころか目を合わせることさえしてくれない。
 朝食が終わる時間になってようやく母親に叩き起こされ、何も食べずに無気力な朝を通過して一人で学校に向かった姉に、追い付いた零歌は早速文句の声を上げた。
「ねぇお姉ちゃん。お姉ちゃんが私のしたこと嫌だったんなら、それはちゃんと謝るし、謝ったじゃん」
 唯花は脚だけは止めてくれた。振り返らないその背中に、零歌は声をかけ続ける。
「まだ私に怒ってるんなら、ちゃんと怒ってくれたら良いじゃん。向き合ってよ。そうやってだんまり決め込むのはズルいよ。つらいよ……寂しいよ! 今までこんなことなかったじゃん!」
 そうだった。確かに二人は仲良しと言えど、十三年間一つの屋根の下で生きて来て、ただの一度も喧嘩がなかった訳ではない。テレビのチャンネル争いだとかおやつの取り合いだとか、そういう姉妹らしいことだって何度もやって来た。だがそれらはすべて通り抜けることが出来た喧嘩だ。唯花は優しいからたいていの場合は自分が譲ってくれたし、零歌の方から謝罪をする時もすんなりとそれを受け入れてくれた。今回のように、これだけ謝って仲直りを持ちかけているのに、つれない態度が続くのは初めてだった。
「ごめんってば。それとも、ちゃんと原因まで理解して反省しなきゃダメ? 音無さん殺す為とは言え小学校に飛行機落としたのがダメだったんでしょ? 違う? それともちゃんと相談しなかったのがダメだった? 私分かんないからさお姉ちゃん教えてよ。ねぇ……何か言ってよ」
 言いながらぐずぐず涙を流している自分に気が付く。どうして最愛の姉にこんな冷たい態度を取られなければならないのだろうか? 零歌は生まれて初めて自分の全身が消え行ってしまうかのような気分を味わった。
 やがて唯花がこちらを振り向いて、零歌の方をじっと見詰めた。
 その瞳はどこか虚ろだった。
「お姉ちゃん……?」
 そう言って恐る恐る姉に近付いて行く。これほど表情の消えた姉を見るのは初めてだった。
「なんでそんな顔をするの? なんで笑ってくれないの? ねぇ、酷いよ。もしかして私のこと嫌いになった?」
「なってへんよ」
 唯花は答えた。表情にも声色にも暖かい物は何一つなかったが、それでも零歌は嬉しかった。返事をしてくれたことが。自分を嫌いになった訳ではないと言ってくれたことが。
「ウチはな零歌ちゃん。自分がちょっと情けない」
「……? どうして?」
「零歌ちゃんを嫌いになれん自分が情けない。あんなことをやらかしてずっと平気な顔をしとって、いつもと何も変わらんとアホな言い訳ばっかしよる、そんな恐ろしい零歌ちゃんのことが、それでも嫌いになれん自分が情けない」
 なんでそんな寂しいことを言うんだ……? 愕然とする零歌に、唯花は尚も言い募る。
「嫌いになれんだけやなくてな、やっぱり嫌いになりたくもないねん。何なら嫌われたくもない。突き放すことも責めることもつらいからやりたくない。今まで通り仲の良い幸せな姉妹でおりたいとすら思う。だけど……それは本当に罪深いことやと分かるから、ウチは自分がどうすれば良いか分からんのや。零歌ちゃんとこの先どういう風に生きたら良いのか、分からんのや」
「なんで?」
「ほなって……ウチらの足元には、あの飛行機事故で亡くなった二百人を超える人達の屍があるんやで? そのことを知りながら、ウチはどんな顔をして零歌ちゃんと仲良くしたらええねん? 幸せに生きたらええねん? 亡くなった人達に、どう償ったらええねん?」
 そんなことは……零歌は思う。
 どうでも良いことなんだよ。
「別に良いじゃんそんなの」
 零歌は正直に自分の胸の内を表現した。
 すると、唯花の無表情に、困惑と、そして恐怖が滲み出る。
「別に良い……って、零歌ちゃん。ホンマに言うとるん?」
「え……うん。だって、確かにたくさん人は死んだけど、それ私達に関係ないじゃん?」
「は?」
 唯花は微かに肩を震わせてすらいる。
「れ……零歌ちゃんが殺したんやで?」
「うん」
「うんやなくて……」
「でももうそれ終わったことでしょ? 過ぎたことでしょ? 今更私にどうすることもできないでしょ? だったらそれもう無関係ってことでしょ? 今あるのはその人達が死んだっていう単なる事実だけで、その事実が私達の暮らしに何か影響するかって言ったら、しないでしょ?」
「あんた……殺された人の立場や気持ちを、ほんの少しでも考えんのか?」
 唯花の表情に微かな苛立ちが滲んだのを見て、零歌は気圧されてつい「ごめん」と口にする。しかし続けて。
「そりゃあ自分が被害にあったら嫌に決まってるよ。つらいし憎いし、犯人の人格だって非難するよ。でも私は今回被害にあった側じゃないもん。関係ないじゃん」
「……本気で言っとるんか?」
「うん。だって自分の主観以外の何かを観測するなんてそもそも無理じゃない? 観測できない以上それは存在しないのと同じことじゃん。自分がされるのは嫌だけど他の人がされるのはどうでも良いなんて、誰だって同じことでしょう?」
「違うで零歌ちゃん。みんながそんな考え方だったら、世の中はものすごく冷酷なことになってまうで? それでええんか?」
「世の中は既に冷酷だよ。戦争も暴力も差別もあるし、格差も貧困もいじめもある。虐待も搾取も凌辱も。怖いこと嫌なことばっかりだよ。それは『良い』とか『悪い』とかじゃなくて、『事実そう』ってだけの話なんだよ」
「違う。人は皆少しでも周囲や社会と調和して、より良い方向に向かっていこうという意思を持っとる。時には魔が差して悪いことをしてしまうことはあるけれど、そうした人間は戒められ正されながら、全員でちょっとずつ進歩していきよるはずなんや」
「だったら今まで私がたくさんの人に意地悪されて来たのはどう説明するの? 『魔が差した』で済むレベルじゃないよね? そりゃあ全員が全員倫理とか道徳とかを遵守できればユートピアだけど、そんなこと不可能だって私幼稚園を卒業する頃には十分すぎる程分かってたよ」
 零歌は思い返す。虐げられ搾取され、バカにされ続けたこれまでの生涯を。男子からは下品なちょっかいをかけられ女子からは排斥され無視された。そしてその両方から侮蔑や罵倒の対象とされた。優しかったのは姉一人だ。
「この世界は冷酷なディストピアだよ。それはちゃんと理解して、適応しなくちゃダメなんだよ。降りかかる火の粉は払うんだよ。私達は私達の平穏の為に戦わなくちゃいけないんだよ。自分のことだけが可愛いだなんて、世界中の皆一緒だよ? 私達も同じようにできないと、大変な目に合っちゃうって分からない?」
 話せば話す程、零歌は己が正当性を確信するかのようだった。零歌は賢いから頭の中には常に筋の通った真理が整然と刻み込まれている。しかし従来の口下手故、それをこうまで理路整然と口にできることは珍しかった。それだけに零歌は喋れば喋る程勢いを増して、立て板に水の如くひたすらに捲し立てる。
「だから私はあの怖い人にこれ以上殴られないように飛行機を落としたんだよ音無さんを殺す為にねそれはお姉ちゃんの為になのにお姉ちゃんは私に嫌な態度を取って何でなの意味が分かんないお姉ちゃんってお人よし過ぎるのかなそれともアタマ悪いだけなのきっとそうだよ勉強できないもんね朝も一人じゃ起きられないしずぼらだしだらしないしやっぱばかなんだよこの先絶対苦労するよたくさん私を頼ることになるよそれちゃんと分かって謙虚にしないとダメだよね相互扶助なんだからさこっちにも限界はあるよ色々フォローしてあげてんだからさ優しくする以外何もできないのにそんな嫌な態度ばっか取るんだったらお姉ちゃんがお姉ちゃんの意味なんてないじゃんねえ! ねえ! 分かってんの!?」
「ああ分かるとも」
 聞き覚えのある声がした。
「今君が口にしているのは、倫理観が形成されて行く中で、誰もが直面し通り過ぎていくべき考え方だ。そうした考えを持つこと自体は、何もおかしくはない。健康な思春期における実りある通過点だな」
 振り向くと音無がいた。だがいつもと違うのは三つ編みの髪が解かれていることと、赤い縁の眼鏡を掛けていないことだった。そうしていると、音無は普段より格段に美少女に見え、さらにその表情の作り方には子供離れした怜悧さがあった。
「言っていること自体は可愛らしい程に年相応なのだがね。だがそうした考え方をこれほどまで一貫させ行動にも表せてしまうのは、あまりにも希少かつ危険な精神性と言わざるを得ない。精神鑑定を要すると診断させてもらおう」
「……音無さん?」
 見れば、音無は背後に二人の人物を従えている。一人は音無と同世代程の子供で、淡い髪の色をした美少年だった。もう一人は見覚えのある顔で、いつか唯花と真夜中のコンビニに行った時に遭遇した、長身痩躯の美青年だった。
「そこの彼女が校舎に飛行機を落とした真犯人だ。正午、未明、おまえ達は彼女のことをどう見る?」
「ヤ、ヤバいのだ……。ものすごく自分勝手でアタマがおかしいのだ……」
 正午と呼ばれた美少年は震える声で言った。
「キモいな」
 未明と呼ばれた美青年はそう切り捨てた。
「可哀そうになあ。誰にも優しくしてもらえなかったんだなあ。こんなに性格悪いんだったらしょうがねぇよなあ。周りが全部敵に見えてるもんだから、自分から全部敵に回しちまって、そうやって孤立して淘汰されていじめられる。そうなるのは自分がバカな所為だってことに気付けなくって、考え方は極端から極端にねじ曲がって、最後の最後は碌でもない暴発をやらかして周りを巻き込んで破滅する。典型的な陰キャの末路だ」
 未明が言うと、音無は窘めるように。
「そうやって理解したつもりになるのは危険だぞ。何せしでかした行為が行為だ。常人にはない何らかの闇がこの少女の精神には根差しているのだ。精神科医として非常に興味深い」
 零歌は困惑した。目の前にいる音無は零歌の知っている音無ではなかった。彼女は一人っ子で『姉ちゃん』と呼ばれるような相手がいるはずもなかった。そもそも彼女は小学生であり未明のような十代後半の弟がいるはずもなかった。
「そろそろ待機中の運転手が苛立ち始める頃合いだな。無駄話はここまでにしておこう。未明、数日前に雷に打たれた外傷は癒えた頃だな? 最初の仕事だ。この子達を畳んで車のトランクへ放り込め」
「了解。人通りがない内にやっちまおう」
 言いながら、未明は衒いのない足取りで一歩ずつ零歌に近付いて来る。
「逃げるで零歌ちゃん」
 唯花は零歌の手を引いて走り始めた。しかし。
「させねぇよ」
 未明は信じられない程素早い動きで唯花と零歌に肉薄し、その胸元に腕を回して拘束した。その両手には白いハンカチが握られている。
 ハンカチからは嗅いだことのない刺激臭がした。何かの薬品が染み込ませられているのだろう。その臭いが一度鼻に入った瞬間零歌の意識は混濁した。
 視界が暗転する。



 目を覚ますと病院の一室にいた。廊下側にしか窓のないおそらくは地下室だったが、壁と床と天井、そして白いベッドは間違いなく病院のそれだった。ただ一つ気味が悪いのは、廊下に面した窓に牢獄を彷彿とさせる鉄の格子がはめ込まれていることだった。
 周囲を見回す。隣のベッドには横たわる唯花、はす向かいのベッドには、数日前零歌達を暴行した『サテライト』の青年がいた。零歌に音無殺しを要求した張本人だ。彼はふてくされたような顔でベッドの上に膝を立てて座っていた。
「起きたか?」
 『サテライト』の青年が言った。
「……ここは?」
「『アヴニール』の本拠地だ。病院の地下室を改造した部屋で、ここは元々精神科の病室だった場所のようだ。音無夕菜……夕日を殺害しようとした咎で、俺達はここで囚われの身という訳だ」
 青年は退廃的な笑みを浮かべると、零歌を投げやりに咎め始めた。
「っていうかおまえ。やりすぎなんだよ。サイコパスかよ。夕日一人を殺すのに飛行機を落として小学校を炎上させるなんざ……アタマおかしいんじゃねぇのか?」
「あ……あなたがそうしろっていうからっ。私とお姉ちゃんを殴る蹴るした癖にっ」
 零歌は思わず逆上した。恐ろしい相手のはずだったが、状況が状況だった為怖さが麻痺していた。
「……ちっ。まあそりゃあそうだな。飛行機の乗客と小学生共が死んだ責任は俺にもある」
 そう言って青年は自分の懐を漁ったが、そこに何もないことに気付いてさらに舌打ちをした。
「クソっ。夕日の奴、煙草まで取り上げやがって。どんだけ煙草嫌いなんだ。徹底してやがる!」
「その『夕日』ってのは誰なんですか?」
「ああん? ……俺の姉貴だよ。おまえらが『音無夕菜』と呼んで殺そうとしていた相手で、正体は『アヴニール』の総統だ。奴は好きなだけ若返られる『中二病患者』なんだよ」
 零歌は絶句した。
 零歌は青年から様々な話を聞いた。青年の本名が時川深夜であり、五人兄弟の第二子であること。姉である夕日に誘われ、中二病患者が政府に対し正当な権利を主張する為の組織の立ち上げに関わったこと。『アヴニール』と名付けられたその組織のナンバー2として活動するものの、考え方の相違から夕日と袂を分かつことを決意したこと。空と共に水面下で様々な工作を行っていたが、すべてがバレて今は囚われの身で生命すら危うい状況ということ。空とは恋人同士であったということ。
 しばらくすると唯花が目を覚ました。深夜は唯花にも同じ説明を軽く復唱した後、「おまえらは多分殺されない」と一言添えた。
「どうして?」
 唯花は言った。その言葉に希望よりも疑問を感じているようだった。
「夕日の性格ならそうする。俺はあいつが嫌いだが、人生のほとんどすべての期間一緒にいて、うんざりする程濃密な時間を過ごして来たから良く分かる」
「だから、それはなんで?」
「君達が優秀な中二病患者だからだよ。松本姉妹」
 音無夕菜……時川夕日の声がした。
 見ると夕日は窓にはまった鉄格子の向こう側から、嘲弄するような表情でこちらをじっと見つめていた。背後には相変わらず二人の弟達を従えている。未明と正午。
 四人いる兄弟の内の三人を深夜は敵に回しているらしい。彼らの性格と『症状』についても零歌は既に聞き及んでいる。特に未明は、殺人鬼『指切り』の正体だというのだから恐ろしかった。
「君達が私を殺そうとしたことは、その男への尋問で既に把握している。君達の身柄は当分の間我々『アヴニール』に拘束され、正規の結社員となる為の教育課程を受けることになる。我々の崇高なるイデオロギーを理解し、総統であるこの私に忠誠を誓うのだ」
「良いのかよ姉ちゃん。こいつら姉ちゃんを殺そうとしたんだろう? 許してやって、しかも仲間に入れてやるのか?」
 未明が胡乱そうな声で言う。正午もまた、「のだ。反対なのだ」と呟いていた。
「私を殺そうと飛行機を落としたことは、むしろ高評価の対象と考えている」
「なんで? そんなことが出来る高位の能力者だからか?」
「それもある。……が、症状が強力というだけなら珍しいと言っても知れている。大切なのは、その症状を己の目的の為冷酷に行使出来、その結果何が起きても動じないことだ。これが一番難しい」
 夕日は零歌の方に視線を向けると、慈しむような表情で言う。
「君は深夜から殴る蹴るの暴力を受け、それから逃れる為に飛行機を落としたのだそうだね? つまり暴力による支配に染まりやすいということだ。そんな人間なら教育も容易いというもの。実のうってつけの人材ではないか?」
「……すぐ裏切るぞ」
 深夜が嘲るような声を発した。夕日は肩を竦めて。
「だろうな。それを見越して相応の使い方をすれば良いだけのことだ」
「……私達、本当に殺されずに済むんですか?」
 零歌は希望に満ちた声を発した。今零歌がもっとも気がかりにしているのはそれだった。
「生きられるんですか? ずっとお姉ちゃんと一緒にいられるんですか?」
「ああ生きられるとも。教育課程が終わるまでは地下に軟禁だが、君が真面目に取り組めば半年もせずに修了する。姉の方も同じくこの地下でその教育を受けることになるから、一緒にいたいという願望だって叶えられる。訓練生の寝室は個室であることが原則だが、訓練の成果が芳しければ、相部屋だって検討してやる」
「訓練課程ってつらいんですか?」
「そうでもない。教官は皆優しい。軟禁生活は退屈だろうが娯楽もある。遊戯室にニンテンドースイッチが置いてあり漫画や小説も私のオススメが棚にズラリだ。将棋やトランプなんかもあるから存分に姉と遊びなさい。ただし訓練生は君達以外にもいるから規律を持って仲良く使うように。困ったことがあったら気軽に教官に相談しなさい。私は学生時代いじめられっ子タイプだったから、君のような気の弱い人間は贔屓しようじゃないか」
「……ふざけんなや」
 漏らすように言ったのは唯花だった。
「半年間監禁とか……犯罪やぞそれ」
「そうした態度を取り続けるなら監禁は長引くぞ。『アヴニール』に真なる忠誠を誓ったどうかを判別するのは容易い。それができる症状の持ち主はいくらでもいる」
「そうやって人を監禁して洗脳して……結社員とやらに仕立て上げるちゅうんを、あんたらはずっと続けて来た訳か?」
「それに近いことはしている。だが某国のように無理矢理誘拐した子供を工作員に仕立て上げるようなことはしないぞ。君達はあくまでも例外で、訓練生は基本的には志願者なのだ。政府に捕まりそうになっているところを保護し、結社員として勧誘し育成するのだ」
「何が『志願者』や。他に選択肢のない子供を囲っとるだけやんけ!」
「そうとも言える。穏健派の中にはそうした我々のやり方に反発する者も多くいるが、しかし大義の為なら多少の蛮行は必要悪だと思わないかね」
 夕日はいけしゃあしゃあと口にする。それに対し。
「黙れこのイカれテロリストもどきが。方法を見誤れば大義も糞もねぇよ。志願してようがしてまいが、ようは子供を戦場に送るんだろうが。政府は糞だが、今のアヴニールも同じくらい糞だ。おまえが消えねぇ限りそれは変わらねぇ」
 そう言ったのは深夜だったが、夕日はそんな弟を取り合うこともせず、おだやかな口調で。
「取り調べはまだまだ続くから、訓練生としての個室に案内するのはもう少し先のことにはなる。それまではこの不便な牢獄から出られないが、取り調べに協力的なら早く出られる」
「は、はい。何でも聞いてください」
 零歌は言う。ことこの状況に陥ってはそれしかない。きつい尋問や拷問はごめんだった。
「よろしい。ならば聞こう。空を殺したのは零歌、君か?」
 その質問には、零歌はすぐには答えられなかった。だから零歌は逆に質問を返した。
「どうしてそう思うんですか?」
「質問しているのはこちらなのだが……咎めはすまい。音無夕菜として小学生生活を堪能していた私にとって、君は友人の一人だったね。その中で、君が私に『指切り』の暗号についてヒントを齎したことがあったのを、覚えているかね?」
 確かにそうだ。零歌は『音無夕菜』との他愛もない会話の中で、『指切り』の暗号に付いて話したことがある。
「君は暗号を解く為の要が二進数であることを私に示唆した。あんなことができるからには、あの段階で君は『指切り』の暗号を解いていた。そうでなくとも、正解にかなり近いところまで肉薄していた。……違うかね?」
「はあ……」
「そうなのか違うのか、どちらなのかね?」
「あの時点では……ちょっと当たりを付けた程度でした。実際、あの直後でスマホで死体の画像を見て自分の仮説を検討した段階では、二進数説は外れだと思ったくらいです」
「まあそうだよな。二進数は暗号の基本だからすぐにたどり着くだろうけど、簡単に解けてしまわないよう、そこから一捻り入れておいたからな」
 未明がそこで得意げな声を発した。誇らしげに絶えず首を縦に振る様子は、自分の考えた暗号の出来栄えに満足するかのようだった。
 夕日はそんな弟を尻目に零歌への質問を募らせる。
「では君は『指切り』の暗号を解いてはないと?」
「いいえ……そうではないんです。あの後私は本格的に興味を持って、『指切り』の暗号に取り組みました。二進数説も再度検討して……最後には自力で解くことが出来ました」
 別に暗号に興味があった訳ではない。それでも解いたのは、『音無』が次なるヒントを求めて来た時に、見栄を張れると思ったからだ。『音無』は零歌にとって、姉を除けば唯一の友達だった。簡単な謎を一つ解いただけで頼りになるお姉さんぶりを見せ付けられるのなら、そうするのは何でもないことだった。
「マジか?」
 未明は驚いたように零歌を見た。
「こんなトロそうなお嬢ちゃんに解けるような暗号かよ? ネットの奴らが束になっても無理だったんだぞ? 信じらんねー」
「こう見えて能力の高い少女なのだよ。意欲や積極性に欠けるというだけで、たいていのことはやる気のないまま上澄みになれる。一意専心するものを見付けられればちょっとしたものだろうな。そしてどうやら名探偵の素質もあるようだ。自覚はほとんどないようだがね」
 そんなことはない。あんな暗号さして難しくもない。それまでに解かれなかった方が偶然なのだ。零歌は自分を人より少しは賢いと思ってはいても、逸脱した賢さではないと自己評価している。ただ、彼女の周りには何故かバカが多い。それだけのことだ。
 二進数で表した数値がアルファベットに対応しているのは間違いないと、ひとまず零歌は仮定した。それをそのまま文章に出来ない以上、何かキーとなる数値が別にあって、その分文字をずらして考えるのだとあたりを付けられる。
 問題はそのキーがいくつかということだったが、所詮は5ビット以内の情報だと思い、まずは総当たりで一つずつずらして考えてみた。そのすべてで意味が通らないとなれば、これはもう被害者一人ずつに異なるキーが設定されているとあたりが付けられる。
 ならばそのキーとは、被害者の名前や身分に関係するに違いない。
 そこまで辿り着けば、イニシャルというキーを導くまではすぐだった。
「では、解き明かした暗号の続きを予想して、模倣犯として空を殺したのは、君か」
「そうです」
 零歌はあっさりと白状した。
 場の空気が悄然となったのが分かった。特に唯花などは、身を震わせながら表情を消して零歌の方を見詰めている。こうなることが分かっていたから言いたくはなかったが、この状況で嘘を吐くリスクの方が大きいので、仕方がなかった。
「おまえかよ」
 未明は唇を尖らせた。一瞬だけ忌まわし気な表情になったかと思ったが、すぐに肩を竦め、称賛するように口笛を吹いた。
「俺の芸術を虚仮にしたのはどこのどいつだ、ぶっ殺してやると思ってはいたが、いざそいつの前に立つと怒りより関心が先に来るな。いいや、正直ちょっと見直したわ。おまえ、陰キャの割にはアタマも度胸もちょっとしたもんだな」
 殺人鬼に褒められても何も嬉しくはない。零歌はこんな奴とは違うのだ。
 ふと、自分の肩が何者かにゆすられるのが分かった。振り向くと、目を真っ赤にさせた唯花が、信じがたいものを見るように零歌に詰め寄っているのが分かった。
 その様子を見て、零歌は不安に思うとか戸惑うより前に、うんざりとした。
「ホンマなん?」
 ため息を堪え、零歌は答える。
「うん。本当だよ」
「……なんでそんなことをしたんや?」
「ウザかったから。嫌いだもん私。あの先生」
 それ以上でも以下でもない。怨恨による殺人など世にありふれている。その後の顛末は捕まったり捕まらなかったり様々だが、とにかく今のところ零歌は捕まっていない。
 小学校四年生から六年生の三年間、零歌が感じ続けた深い憂鬱は、すべてテニス部の顧問である空の為にもたらされていたものだった。真面目にラケットを素振りしていれば『工夫がない』と怒られたし、トレーニングをちゃんとこなせば『もっとできる』と怒られた。試合に勝てば『慢心した勝ち方だ』と怒られたし、負けたらもちろん『練習が足りない』と怒られた。
 もしかしたらこの人は自分が悪いから怒っているのではなく、怒ることそのものが目的でその為の理由を探しているのではないかと、常々零歌は思っていた。嫌な思いをさせ続ければ人は従順になる。そして心から従順な人間というのは指導者にとって鍛えやすい。だから指導者は部員に怒る。取り立てて怒る理由がなければ、でっちあげる。
 実際、零歌は指導者に反抗したり練習をサボったりタイプではなかった。確かに零歌は試合に勝ちたいと思ったことはないし、練習に対する意欲もなかった。だが勝ちたいと思わないだけでちゃんと勝ったし、意欲はないだけでちゃんと練習していたのだ。にも関わらず、他にたくさんいる負ける人やサボる人を差し置いて、怒られるのはいつも零歌だった。
 そのことへの不満を口にすると、零歌に期待をしているからだという理屈が帰って来たが、そんなのは空先生側の都合であって零歌には関係がなかった。ただ何も悪くない自分だけが理不尽に怒られているという事実だけが零歌にはあった。憎かったし、嫌いだった。殺してやりたかったのだ。
「けど、私がまともにやったって、隠蔽はもちろん殺しきることだって上手くいかない。だから、ずっと我慢してた。そんな時……私はこの力を手に入れたんだ」
 柏木を意図的に殺害せしめた時、零歌は空のことも同じように殺せないものかと考えた。零歌はあらゆる落下物を人間の頭部に確実に命中させる力を持っている。それを用いて、大きな石なり植木鉢なりを落下させることが出来れば確殺だ。
 今にして思えば他にもっとスマートなやり方があっただろう。『音無』を殺す作戦に空を巻き込んでやることだって出来た。しかし零歌は殺人初心者で、だからこそ妙に奇を衒った作戦を考えてしまった。
 まず、空が帰宅する時間に、空のアパートのすぐ傍にある剣第一ビルの屋上に待ち伏せる。姉妹が深夜にボコられた件のビルである。そしてビルの前を通りがかった空が、あらかじめ仕込んでおいた一万円札を拾おうとかがみ込んだ拍子に、ナイフの刃を彼女の心臓をめがけて放り投げた。
 零歌の『症状』はナイフがどこに落ちるかはもちろんどこを下にして落ちるかも操れる。ナイフの全身の内、どこかの一点を指定して症状を発作させることで、その一点を確実に着地点に被弾させられるのだ。高所から落下したナイフは十分な運動エネルギーを得て空の心臓に突き刺さり、あえなく彼女を絶命させた。
 現場に何一つ痕跡を残さないまま、零歌は空を殺害してのけた。突き刺さったままのナイフにももちろん証拠は残していない。警察だってまさかナイフがビルの屋上から落ちて来たとは思わないから、そっちが調べられる心配はないだろう。
 さらに零歌は捜査のかく乱の為、新たなる工作を行った。もう一本用意しておいたナイフに釣り糸を付け、空の指先に向けて落下させる。零歌の投げるナイフは百発百中で空の指を切り落として見せ、その度に釣り糸で屋上まで引き戻されては、再び空の指へと降り注いだ。
 作戦はすべて机上の空論の上で成り立っていたが、零歌の『症状』は正確無比だった。最後に、スマホのカメラのフォーカス機能を用いて屋上から空の遺骸を撮影すると、インストールしておいたTORというアプリでIPを偽装しつつ、写真をネットにアップロードした。
 この時、『THE END』の方はともかく、『INITIAL』というヒントまで残したのは、ある種の稚気に過ぎなかった。こんな簡単な謎解きに四苦八苦するネットの連中……というより、『音無』にヒントをくれてやるつもりになったのだ。
 空の死骸がある路地とは反対方向の出口からビルを降り、零歌は帰宅する途中に自販機でファンタのグレープ味を二本買った。帰りが遅かったことに対する両親の小言を聞き流した後、何も知らない姉を自室に招いて殺人の成功をファンタで乾杯した。美味しかった。
 ……そこまでのことを、零歌は夕日らの前で語り終えた。
 反応は様々だった。深夜は怒りに震えるように目を見開いており、正午は顔を真っ青にして怯えた様子を浮かべている。未明は腕を組み殺人行為の先駆者として零歌の手際を評価するように頷いており、夕日はフラットな表情で静かに話を聞いていた。
「……言っておくが、空を殺したことに対する咎めを負わせるつもりは、こちらにはない」
 夕日が口を開いた。
「彼女はアヴニールの幹部だったが、しかし同時に抵抗組織のトップでもあった。殺す気まではなかったとは言え、仇討ちをしてやる義理はないからな」
「あの紐の跡と一万円札はそういうことかよ。いや何。大したもんだと思うわ」
 未明は上機嫌そうに微笑み、頷いている。
「俺はただの残酷非道だけど、あんたは冷酷の上に外道だよ。評価を上方修正せざるを得ない」
 零歌は恐る恐る唯花の方を見た。沈黙し下を向き、震えたまま話を聞いていた唯花は、突如として激昂したように立ち上がると、平手で零歌の頬を叩いた。
 乾いた痛みと衝撃が響く。
「あんたが死ねば良かったんや! この人でなし!」
 痛みよりも、唯花に殴られ罵倒されたという事実に対するつらさや哀しみが、零歌の全身を深く貫いた。思わず零歌は涙を流し始める。幼い頃のような激しい嗚咽を伴った涙だった。
「……あーらら。姉妹喧嘩だ」
 面白がるように未明は言った。
「妹泣かしたらいけないんだ。俺も昔それで良く姉ちゃんに怒られたもんだわ」
「それはおまえが悪いだけなのだが、この場合は果たしてどうだろうな。……さて、これで聞きたい話は一端聞き終えた。今日はもう遅い。そろそろ横にならせてもらう」
 そう言って、夕日は鉄格子から背を向けてその場を去ろうとする。
「家帰らねぇの?」
「ああ。小学校の親友がこの本部の教育施設に入っていてね。今は寝室で一人で過ごしている。寂しがってるに違いないから様子を見に行ってやらねばなるまい」
 そう言って夕日は視界から消えた。
 唯花は表情を消して立ち尽くしている。零歌は、いつまでも一人泣きじゃくり続けていた。

 ×11×

 俺は一人、『アヴニール』本部である病院の地下を歩いていた。
 父親の病院の地下にこんな施設があるとは思いも寄らなかった。夕日は随分と好き放題にしているものだと思う。俺ら兄弟にとってあまり顔を見せない父親は影の薄い存在で、夕日こそが家長という印象めいたものも抱いていたが、それは印象ではなく事実そうであるのかも知れなかった。何かしらの方法で、夕日は父親のことを掌握している。
 だがしかし……ここはいつか俺が継ぐことになる病院だ。ロリ化した夕日でもニートな深夜でもなく、増してや愚かな弟妹達でもなく、この俺が。好き放題してもらっては困るのだ。
 なるだけ足音を立てないようにはしたが、真夜中の廊下を歩いていると特有の足音が響き渡る。牢屋に閉じ込められた深夜らも、きっとこの音は聞いているはずだった。
 感じているのは緊張か恐怖か。
 しかし事実としては、俺の足音は彼らにとっての福音なのだ。
 「おい兄ちゃん。気分はどうだい?」
 牢屋の前に立ち、窓に取り付けられた鉄格子から、中の様子を覗き込む。
 「最悪だ」深夜は吐き捨てる。「なんせ空気が重い。この双子、お互いに一言も口を利きやしねぇ。べたべたされても鬱陶しかっただろうが、これはこれで一緒にいるとしんどいもんよ」
 「部屋を別けて貰えよ」
 「そうして欲しいもんだが、牢なんて役割の部屋、この本部にそういくつもねぇ。無理だろうな」
 「そりゃ残念。ところでさ兄ちゃん。ここから出してやろうか?」
 深夜の瞳が見開かれた。
 同時に、興味を持ったように、双子の視線が俺の方を向いた。初めてコンビニで会った時に見た通り、二人の寿命には大きな差があった。
 「……何のつもりだ」
 深夜が慎重な目付きで俺を睨んだ。
 「手を組もうって言ってるんだよ。どうやら俺はここの結社員にならなくちゃいけないらしい。学校もあるから通いで良いとは言うが、教育課程とやらも受けなければならないそうだ。この大切な受験期にだぞ? 俺は優秀だから大丈夫とか言ってくるが、冗談じゃねぇ」
 「おまえは要領良いから大丈夫だろ。俺の二の舞にはならないと思うぞ」
 「バッカおまえ。遊びの時間ほぼなくなるじゃねぇか。塾帰りにゲーセン寄ったり、女と遊んだりできなくなる。猛烈な受験勉強中、息の抜ける時間っていうのは、平常時では味わえない程の悦楽だ。それもまた受験の大込みよ。分かるだろ?」
 「分からねぇ。知りたくもない」
 「まあそれもあるけど……一番嫌なのは殺人をやめなくちゃいけないってことだ」俺は腕を組んだまま小さく息を吐く。「姉ちゃんは俺にこれ以上の殺人娯楽を禁止しやがった。でも俺には『指切り』とはまた別の劇場型連続殺人第二弾の構想だってあったんだ。東大に進んで授業にも馴れたら実行するつもりだったんだよ。諦めきれねぇ」
 「……おまえが結社員になりたがっていないことは良く分かった。だがどうするよ」
 深夜は立ち上がり、俺の立っている格子窓の傍に立つと、真剣な表情を浮かべ始める。俺はかつてこの兄と結託して行ったたった一回の悪戯を思い出した。冗談でなく現実的に電車を脱線させる為の最強の置き石。それを作ろうと小遣いを出し合い、ホームセンターでコンクリのブロック等を買い込んだところで、夕日に見付かって怒られたっけ?
 「仮に俺達をここから解き放ち、松本姉妹も入れた四人がかりで正午という暴力装置を掻い潜り、夕日をぶちのめせたとする」深夜は言う。「だがそこからどうするんだ? 夕日を殺しても『アヴニール』はなくなったりしないぞ? 誰かが後を継ぐだろう。おまえの追われる立場は何も変わらない」
 「ところがそうじゃないんだ」俺は懐から一枚の紙きれを取り出した。「これを見ろ」
 それはいつぞや、朝日が『症状』を用いて作った『契約書』だった。
 深夜は目を丸くする。俺は気持ち胸を張り得意げな口調で解説する。
 「おまえが知ってるかどうかは分からんが、俺達のエロ可愛い妹は中二病を発症していたんだ。で、その症状はというと……『不可逆な強制力を持つ契約書の作成』という訳だ」
 俺は深夜に朝日の症状を詳しく解説する。この契約書に書かれた内容にサインをしたが最後、その内容を絶対に放棄できなくなるということ。放棄しようとすると、凄まじい頭痛に襲われるということ。その頭痛は到底我慢しうることではなく、耐え続ければおそらくは死に至るということ。
 「アホの朝日はこれが俺の手元に残っていることを忘れて部屋に帰っちまった。そしてこの紙は余白がある限り何度だって作用する」
 「……それをどう使うつもりだ?」
 「姉ちゃんをぶちのめした後、この契約書に『私、時川夕日は、時川未明の奴隷となり永遠の忠誠を誓う』と綴ってサインをさせる。そうなったもう姉ちゃんと『アヴニール』は俺のオモチャだ。アヴニール総統としての全権を使わせ俺の殺人行為をバックアップしてもらう他、色々と楽しませてもらおうって寸法よ」
 俺は幼い頃から夕日の誰よりも優れた容姿に憧れていた。それは女に困らなくなってからも変わらなかった。かつての憧れの姉の、しかもロリ化した肉体を自由自在にできることを思えば、俺は勃起が収まらなかった。女には困ったことはないが、それだけに妹と姉は別格だ。背徳感という希少なスパイスが味わえる。
 深夜は心底軽蔑した表情を浮かべた。「おまえの考えは分かった。だがどうやって正午のサイコキネシスに立ち向かう? どうせアイツは夕日の傍にいるだろう? 四人がかりで挑んでもあの暴力装置には勝てる気がしねぇぞ」
 「本気で言ってんのか? 正午なんてガキは端っから脅威とは思わねぇ」
 「何故だ?」
 「アイツは十一歳のガキだし俺はあいつの兄貴なんだぞ? いくらサイコキネシスが強力でも発動させなきゃ何でもねぇ。不意打ちでナイフで刺し殺すのはいとも簡単だ」
 「それはやめろ。気を失わせるだけで留めておけ」
 「優しいねぇお兄ちゃん」俺はせせら笑う。もっともナイフで刺すつもりはない。あいつの寿命は七十年は先だから、死なせるようなやり方は通用しない。「……で、問題なのはむしろその後。今はもう夜の十時だからほとんどの結社員は既に帰宅しちまっているが、それでも教育生を夜中見張ってる為の『教官』とやらが二人残ってる。教育生の暴走を食い止める役割を担うそいつらは、どうやら手練れらしくってな。無論、そいつらがやって来る前に一瞬で勝負を決めるのが理想だが、交戦せざるを得ない展開も十分にあり得る」
 「……その為の戦力として俺達をここから出すと?」
 「あーな。兄ちゃんの喧嘩の腕は買ってるし、冷血な『飛行機落とし』の度胸はもちろん、姉の唯花の重力操作も汎用性なら妹に勝る。このチームで『アヴニール』を乗っ取ろうじゃないか。そして全員で自由の身となろう」
 何より重要なのは、ここのナンバー2だったという深夜から得られる情報アドバンテージだ。それを深夜も分かっているのか、勝算の度合いを測るかのように少し黙考すると。
 「……今日の宿直の教官の名前は分かるか?」
 「もちろん調べた。田島と貴志だ」
 「ツイてるな。田島は『サテライト』のメンバーで俺の仲間だ。しかも貴志よりもはるかに腕が立つ。俺が一声かければ瞬殺してくれるはずだ」
 「ますます有利じゃねぇか」
 「そうでもない。まだ一人一番厄介なのが残ってる」深夜は視線を反らした。「夕日だ。あいつは最強の中二病患者だ。指一本触れるだけであらゆる物質の時間を巻き戻す。俺らの身体の時間を生まれる前まで巻き戻すことだって、いよいよとなったら躊躇しない」
 「その心配はないと思う」
 「何故だ?」
 「正午が口を滑らせていただろう。夕日は今能力を大きく使って長いクールタイム中だ」俺は頬に笑みを刻み込む。「そこの零歌ちゃんが引き起こした飛行機事故のことは当然覚えているな? 本来なら、姉ちゃんはあれに巻き込まれて死ぬはずだった。しかし実際には、姉ちゃんたちは都合良く遊園地に遊びに行っていて命を拾った。これは何故だと思う?」
 「……いや未明。おまえ……それはいくら何でも」
 「可能だよ。飛行機事故で死ぬ寸前、姉ちゃんは『自分の記憶以外のこの世界全て』の時間を巻き戻した。そして安全な時間帯に戻って来ると、弟の正午と友達を何人かを連れて遊園地に出かけ、難を逃れたという訳だ」
 時間を巻き戻すという能力は究極的にはそうしたことが出来る。時を遡り、自分に都合の良い未来を選択できる。それはまさに神の如き振る舞いだと言える。チートそのものだ。
 「……確かに俺も、事故を回避したのは都合が良すぎるとは思っていた」深夜は額に手をやった。「しかし、それほどまでに夕日の症状が進行していたとは。にわかには信じがたい」
 「世界そのものの時間を巻き戻すなんて無茶をやっては、その消耗は計り知れない。クールタイムは極大だ。今の姉ちゃんはオイルのなくなったライターみたいなもんだろうよ」
 「……そうとも限らんぞ。PSY系の患者にとって、クールタイムなんてのはダムに水が溜まるのを待つような時間だ。満タンになるまでは時間がかかるが、少量で良いならすぐに溜まる。ごくわずかになら能力行使は可能かもしれない」
 「それでもフルパワーを発揮できないのなら大分マシだ。勝負をかけるなら今日この瞬間しかない。乗ってくれ兄ちゃん」
 そう言って、俺は契約書に文章を綴り、深夜の前に差し出す。
 そこには、『私、時川深夜は、生涯に渡り、時川未明の殺人行為を妨害するようなことはしません』と書かれていた。
 「これにサインしろ。そしたらここから出してやる」俺は深夜にボールペンを差し出した。「ことここに至れば大義がどうたらより、大切なのは自分の身の上だろう? 選択の余地はないはずだ。……ほら。このペンで」
 深夜は苦汁を飲み込むように頷いた後、格子から腕を出して契約書にサインする。
 サインの成された契約書を俺は懐に片付ける。そして、ちょろまかして来た鍵で、深夜たちを部屋から解放した。
 俺は深夜に片手を差し出す。
 「やろうぜ兄ちゃん」
 深夜は乱暴に、しかしその手を握り返した。



 唯花と零歌の姉妹は付いて来た。
 そっちの説得にはあまり時間は使わなかった。零歌の方は根本的に何を考えているか分からない奴だったが、それでも唯花が「ここはこの人に付いて行こう」と口にすると俯いたまま頷いた。
 俺達は夕日と正午が宿泊している個室の前に来ると、深夜たちをその場に待機させた。
 「ここは俺が行って来る。黙って近付いて首に肘でも打ち込めば正午の奴は瞬殺だ。その後合図を出すから、入って来てくれ」
 これが成功するなら深夜達はそもそも必要ない。必要と思って保険をかけたまでだが、それでもここで勝負を決められるに越したことはなかった。
 俺は部屋をノックして中の二人に呼び掛けた。
 「……おい正午。起きてるか? 話があるから扉を開けてくれ」
 ここで正午の方を呼ぶのは奴の方から近くに来てもらう為だ。俺は現れた正午を一撃で葬り去れるよう心の準備を始めた。
 その時だった。
 扉が開け放たれると同時に、俺は正午のサイコキネシスによって宙に浮かされ、廊下の壁に叩き付けられた。
 見えない力によって全身を拘束され、あまつさえ壁に叩き付けられるというのは、尋常じゃない恐怖と苦痛を俺に齎す。見れば手を前にかざした正午と共に、表情を消した夕日が部屋から出て来た。
 「……お姉ちゃん。これで良かったのだ?」正午は夕日に言う。
 「ああ構わない。良くやった正午。さて」夕日は俺の方に視線をやる。「未明。いったいなんのつもりだ?」
 「いや……こっちの台詞だろそれは。何のつもりだよ。早くやめさせてくれ」
 俺は辛うじて動かせる唇でそういう。手足は完全に拘束され身動きはほとんど取れなかった。
 「ドアを開けた正午をおまえはいきなり殴り倒して気絶させた。私は訳も分からず、残っていたすべての力で五秒だけ時間を遡行させた」夕日は俺を見上げながら一歩ずつ近づいて来る。その表情には微かに哀しみが見て取れた。「そして過去に戻ると、まだ無事でいる正午に、『ドアを開けて未明を拘束しろ』と命じたという訳だ」
 「おい嘘だろ……。まだクールタイム中じゃなかったのか?」
 「クールタイム中だとも。だからたったの五秒時間遡行するのがやっとだった。限界を超えて力を使ったから、今度こそ完全にガス欠だ」夕日は息を吐き出した。疲れているようだ。「さあ。目的を話してもらおうか? 何故おまえは正午の気を失わせようとした?」
 俺は敗勢に立たされていた。これこそが時間を巻き戻せる相手との戦いだった。こちらの成功はすべてなかったことにされ、向こうに不都合なことはすべてやり直しにされる。
 俺は昔わがままだった幼い朝日としたトランプやオセロを思い出す。『待った! それなし! やり直させて! 三手前からね!』ふざけるなというものだ。
 「さあ話せ。おまえは何を企んでいた?」
 宙に浮かされながら俺は逡巡する。話さなければ正午に首を折られるが、しかし話したら話したで、どっちにしろ首を折られるような気がしてならない。やはり俺は夕日には勝てないのかと諦めかけたその時。
 「おいバカ未明! 何いきなり失敗してんだ殺すぞ!」
 事態を察した深夜が飛び込んで来て正午に殴り掛かった。正午は思わずと言った様子で俺を拘束から解除し、深夜の方を宙に浮かせ壁に叩きつけた。
 「未明! そして双子共! こうなったら破れかぶれだ! 四人がかりで正午を倒す!」壁に押し当てられながら深夜は叫ぶ。「こいつの力は凄まじいが一度に一つのものしか持ち上げられない! 四人で突っ込めばなんとかなる! 所詮はガキだ囲んでぶん殴れ!」
 その声に呼応して、戸惑う唯花を尻目に、勇敢にも零歌が正午の方に走り寄った。正午は恐怖に顔を歪めながら、今度は零歌の方を壁に叩きつける。これによって深夜が解放された。
 「何故だ未明! 何故そいつらと共に私を裏切った!」夕日は泣き叫ぶかのようだった。「弟だろう! 可愛がってやっただろう! 何故私の味方でいてくれない! 何故だ!」
 「悪いな姉ちゃん」俺は言う。「俺は姉ちゃんの部下の結社員なんて心底ごめんなんだ。殺人をやめるのもな」
 「……くっ」夕日は懐からスマートホンを取り出して操作をし始めた。増援として、宿直の教官とやらを呼ぶのだろう。「おい正午! 何を手ぬるいことをしている! 壁に何度叩きつけたってダメだ! 脚の骨をへし折ってしまえ!」
 「の、のだっ。分かったのだ!」
 飛び掛かる深夜を宙に浮かせると、正午は容赦なく両脚をへし折った。「ぐおおおっ!」という悲鳴の後に、深夜は床へと落下して悶絶し始める。
 「わ、わわわわっ」正午は涙目になって震えはじめた。「い、痛そうなのだ。怖いのだ……こんなことしたくないのだっ」
 「戸惑うなっ。正午、おまえは殺されかけたんだぞ! 容赦はするな!」
 「おい零歌!」俺は叫び、懐から常に持ち歩いている三本のナイフを正午の頭上に闇雲に放り投げる。「頼む!」
 零歌は頷くこともせず症状を発作させる。放り投げられたナイフの全ては切っ先を下にして、正午に向けて降り注いだ。
 もちろん正午はそれらを一本ずつ念動力で遠ざけようとするが、正午を着地点に自然落下するナイフは、遠ざけても遠ざけても正午の方へと落ちていく。
 「正午! 前や上に遠ざけてもダメだ! 床に叩き落すんだ!」
 「の、のだっ!」
 叫ぶような夕日の指示に、正午は言う通りにする。そうやって床へと叩き付けられて停止したナイフを、即座に唯花が足で蹴飛ばした。
 唯花の脚が触れたことで『症状』の作用対象となったナイフは、重力の向きを逆転させて天井へと飛び上がって行った。そしてナイフが天井へと着地する前に、唯花は症状の発作を解除する。ナイフは正しく床へと向けて落下し始めた。
 「零歌ちゃん!」
 「うんっ」
 喧嘩中とは言え流石は双子。息はぴったりだ。三本のナイフは零歌の症状の作用を受けて、正午の急所めがけて降り注ぐ。正午は念力を使う余裕もなく逃げ回ろうとするが、ナイフは執拗に正午を追い掛けた。
 「逃げるな! ナイフは叩き落せ!」夕日は叫ぶ。
 「の、のだっ」正午はナイフを一本ずつ床に叩き落し始める。
 「そしてナイフにばかり固執するな! 隙を見て相手を倒せ! 攻撃は最大の防御だ! 全身の骨をへし折れば症状を使う余裕などなくなる!」
 正午は所詮子供だった。自分一人の判断では的確と言える行動には出られない。冷静な夕日が勝つ為に必要な指示を出しても、年齢相応の臆病さ故、残酷な行為には躊躇してしまう。
 その隙を突くのは簡単だった。双子が尚も連携して降り注がせ続けているナイフの処理に慌てる正午に、俺は後ろから飛び掛かった。
 「……! 危ない正午!」
 夕日は叫ぶが、もう遅い。正午がこちらを向いて念力を行使する前に、俺は正午の後頭部に全力で肘を叩きつけた。
 小学五年生の弟を俺が全力で殴ればそりゃあ気絶する。泡を吹きながらその場で倒れ伏す正午を踏み越えて、俺は夕日に言った。
 「俺達の勝ちだ。姉ちゃん、言うことを聞いてもらおう」
 俺は懐から取り出した『契約書』を夕日に突き付けた。



 夕日は苦虫を噛んだかのような表情で身を震わせる。
 「糞っ。援軍はまだか。田島は? 貴志は?」
 「……残念だが田島は俺の『サテライト』の仲間だ。未明の携帯で連絡を取ってある。貴志の方は、今頃田島に無力化されたところだろう」
 両足を折られ、激痛に脂汗をかきながらも、深夜は勝ち誇ったように言った。
 「未明の言う通りだ。夕日、おまえは負けたんだよ。おまえのアヴニールはもう終わりだ。そいつの言うことを聞いてやれ。命までは取らないそうだ」
 「奴隷契約書にサインさせるんだから訳ねぇけどな」
 言いながら、俺は契約書を持って夕日に一歩ずつにじり寄る。夕日は恐怖したように言った。
 「……なんだその紙は?」
 「これか? ……朝日が作った契約書だ。これで結んだ契約は誰にも破れないという特性を持っている。姉ちゃんにはこれで俺と主従の契りを結んでもらう。そうしたら、殺しはしない」
 「……朝日まで中二病に罹患したのか? そして何故おまえに協力している?」
 「協力したんじゃない。これはあいつが俺の部屋に忘れて言ったのを貰っただけだ」
 「……糞っ。朝日め迂闊な真似を……」
 夕日は歯噛みする。
 「別に悪いようにはしねぇよ。姉ちゃんのことは好きだしあえて苦しめるような気はまったくない。『アヴニール』の活動だって続けさせてやる。活動内容は俺への奉仕にすり替わるがね」俺はあまりの痛快さにたまらず哄笑した。「色々と楽しませてもらおうじゃないか」
 怖気を振ったように夕日は首を横に振った。
 「弟と思って警戒できていなかった。油断した。おまえのような狂人に、大切な組織と自分自身を自由にされるくらいなら、ここで死んだ方がまだマシだな」
 「いいや姉ちゃんは死なねぇ。俺が一番分かってる。さあ投降しろ。俺のものになるんだ、姉ちゃん!」
 絶望した表情の夕日は破れかぶれに懐から拳銃を取り出した。そんなものを持っていたのかと感心する俺を他所に、夕日は闇雲に俺達に向けて発砲して来た。
 「……危ない零歌ちゃん!」
 その声を聞いて、俺は納得した。……そういう風になるのかと。
 銃弾がそのまま零歌に被弾することを俺は半ば確信した。しかしそうはならなかった。
 唯花は零歌に危機を知らせるだけでなく、妹の身体に飛び掛かり覆い被さった。そこへ銃弾が迫り来る。
 「ぎゃあっ!」
 悲鳴。唯花の肩にぶち当たった銃弾は流血を生ぜしめる。俺がついそっちに視線をやった一瞬の隙に、夕日は身を翻してその場を逃げ出してしまった。
 「……お姉ちゃん?」
 姉の方の血で血塗れになったまま、抱き合う姉妹の片割れが言った。
 「わ……私を守ってくれたの?」
 「…………うん。そうやで」
 「私のこと、嫌いになったんじゃなかったの?」
 「……何を……いうとるねん」唯花は息も絶え絶えに言った。「何があっても……零歌ちゃんを嫌いになったりせぇへんよ。ウチはお姉ちゃんやから……何があっても零歌ちゃんを守るよ……」
 見たところ唯花の外傷は死に至る程には思えなかった。肩は急所ではないし、出血の量もさしたるものではない。素人が手当てしても十分歩けるようになるだろう。それは俺の予知の結果とも一致していた。
 「……そっか。良かったあ!」
 そのことを理解しているのかいないのか、零歌は場違いな程に満面の笑みを浮かべて、血まみれの姉に抱き着いた。
 「てっきり嫌われちゃったと思ってたよ! でもそりゃそうだよね! お姉ちゃんが私を嫌いになるはずなんてないんだもの」
 息も絶え絶えの姉にしがみ付き、お気に入りのぬいぐるみにそうするように、幸せそうに顔をうずめる零歌。唯花の痛みや危機などどうでも良く、ただ姉が自分を庇ってくれた、嫌っていなかったという悦びのみに耽溺している。姉の血にまみれた零歌のその顔に、俺は狂気のようなものすら感じ取っていた。
 「あ……でも、いくら喧嘩終わっても、お姉ちゃん死んじゃったら意味がないのか」零歌はようやく思い至ったという顔で未明の方を見る。「ねえ未明さん。分かるんですよね? お姉ちゃん、死んじゃいますか?」
 「いいや死なねぇよ」俺は答えながら、床に散らばったナイフを一本拾い、自然な足取りで零歌に近付いた。「唯花の方はな」
 俺は零歌の背中にナイフを突き立てる。
 的確に心臓を貫通した。零歌は信じがたいものを見るように俺の方に視線をやると、すぐに全身の力を失って姉の胸の中で息絶えた。
 「おい未明! おまえ何やってんだ!」
 深夜が叫ぶ。唯花は何が何だか分からないとばかりに表情を凍り付かせている。俺は肩を竦めた。
 「何って……空を殺すの横取りされたのがムカついてたから、殺したんだよ」
 俺は言う。それは運命によって定められていたことでもあった。
 初めてコンビニでこいつらに会った時……双子の片割れの寿命が十日先を示しているのが見えた。その時はどちらが姉で妹か分からなかったが、今なら分かる。死ぬのは妹……零歌の方だ。
 今朝再会してからというもの、零歌の残りの寿命が数時間先に迫っているのが見えていた。どうやって死ぬのか気になりつつ成り行きを見守り続け、やがて残り僅かとなった時、夕日が拳銃を取り出した時は合点したが、実際にそれが被弾したのは唯花の方だった。
 こうなるともう、零歌の死因について、可能性は一つしか残らない。
 俺が直接手を下すのだ。
 「運命とは世界が始まった瞬間から決していて、変わることはない。他にこいつが死ぬ理由がないのなら、それは俺が殺すということだ」
 「いやおかしいだろう……」深夜は言う。「おまえに殺す気がないなかったのなら、そもそも『症状』はおまえにこいつの死を予知しない。『症状』による予知がおまえにこいつを殺す気にさせたのだとしても、だったらそもそもその予知はどこから来たものなんだ?」
 「さあな。知らねぇよそんなもん。古典SFの世界だな」
 「おまえには予知を無視することだってできるはずだぞ? この状況、おまえが手を下さない限りそいつが死ぬ理由はどこにもない。おまえは運命を変えられたんだぞ!」
 「だが実際に俺は手を下した」俺は両手を晒して首を横に振る。「それだけのことだ。予知は成就し続け、運命は正しく作用し続ける。これまでも、そしてこれからもな」
 零歌の頭上にある数値がゼロを迎える。ご臨終。今回も俺の予知は外れなかった。
 「……貴様。良くも、良くも零歌を……」
 肩に銃創を負った痛みに身動きが取れないまま、憎悪に満ち溢れた視線を俺の方に向ける。
 俺は哄笑しつつ言った。「いやあおまえの妹は幸せだったと思うぜ? 大好きな姉貴の愛を感じながらその胸の中で逝けたんだ。今頃天国で満足してるに決まってる」
 「……地獄だろ」深夜は吐き捨てるように言った。「俺は因果応報を信じない。が……空を殺したこいつの死に同情もしない。思うのはただ、未明、おまえはやはり糞野郎だってことだけだ」
 俺は小さく鼻を鳴らすと、一つの死体を含む横たわる四つの人影を背に歩きはじめた。
 「夕日を追うのか?」
 「もちろんだ。姉ちゃんを奴隷にするまでこの戦いは終わらねぇ」
 「早めに済ませろよ。夕日のことだ。外部から応援を呼んでいるに決まっている」
 「あーな」
 いい加減に返事をしておいて、夕日の逃げて行った廊下の方へと歩きはじめる。半ば勝利を確信しながら。

 〇12〇

 『教育生』としてのわたしに与えられた個室は、病室を改造したであろう十二畳ほどの広々とした空間でした。
 わたしが何も言わずとも、音無……時川夕日は色んなものをこの個室に運び込みました。わたしが欲しいと漏らした新型のゲームハードとソフト、飼いたいと漏らした熱帯魚の水槽、キングサイズのベッド、ぬいぐるみ、ポスター、我慢していた可愛らしい衣服やアクセサリーの数々……。
『こんなにも尽くしているのだから、そろそろ親友たる私の愛が伝わっても良いとだと思うのだがね』
 部屋にオモチャを運び込みながら、夕日はふと寂し気にそんなことを漏らしていました。
『わたしが求めているのはオモチャじゃないんです。分かっていることじゃないですか』
 わたしは夕日に言ったものでした。
『あなたのやっていることは間違っています。子供を監禁して、自分と同じ考えになるまで教育するなんて、そんなのおかしいですよ!』
『私は私の考えを君に分かって欲しいんだ』
『だったら普通に話してくれれば良かったんです! 耳を貸すつもりはありました。こんな地下に幽閉するのは、もうやめてください!』
 いくら私がそう訴えたところで、夕日は首を横に振りませんでした。
 夕日の確かにわたしの親友の音無でした。姿だけでなく、喋り方は違えどその話す内容や仕草や考え方などにも、音無の片鱗は見受けられます。だから私も、夕日のことを音無と同じように接し続け、音無と同じように怒り、音無と同じように喧嘩し続けました。
 諍いの後、夕日はいつも落ち込んだ様子で部屋を去って行きました。私は自分の意思を変えないまま部屋で蹲り、唇を結んで色んなことを考え続けました。
 一つは、自分が監禁されている事実について。家族が心配することがないように計らうと夕日は言いましたが、そんな方法が本当にあるのでしょうか?
 もう一つは夕日(=音無)と、その思想について。
 彼女は『アヴニール』という組織の総統……ボスをやっているとのことでした。そのイデオロギー(思想という意味だそうです)は囚われの中二病患者を政府から解放し、彼女らが大手を振って暮らせる社会を実現すること。
 わたしはさらなる回想を開始します。
『私はかつて、中二病患者であることが母親にバレ、政府に突き出されて離島の隔離施設にいたことがあった』
 ここに閉じ込めたその日、夕日はわたしにその話をしました。
『母親は兄弟の中で私だけを冷遇する人だった。それでも母親である以上、すべてを打ち明けた上で味方になってくれると私は信じていた。否、信じたかったんだな。信じようとしたんだ。しかし現実は違った。私は政府に突き出され、隔離施設で一年ほど過ごしたよ』
『……そうなんですか』
『そこは酷い環境だった。反逆を防止する為だろう、隔離施設の大人達は私達に厳しかった。症状の行使はもちろん、些細な規則違反でも苛烈な折檻を加えた。肉体的精神的な暴力はもちろんのこと、食事にありつかせないなどということも珍しくはない』
『そんなに酷いんですか』
『ああ酷い。しかしただ酷いだけならまだ良い。本当につらいのは、そこに生きる中二病患者達からは、あらゆる未来が剝ぎ取られているということだ。隔離施設には学校もなく、学べることも限られていて、ただ生かされ続けるだけに近い場所だった。そもそも中二病は滅多に完治しないから、そこから出られる子供はほんの一握りなのだ。ただ抑圧されるだけの生が延々と続くその場所に、誰もが絶望していた』
 その話を聞いた時、私は自分が閉じ込められているということを忘れ、ただ夕日や施設にいる患者達への憐憫と、自分が同じ中二病患者であることへの恐怖のみを感じていました。
『だが私にだけはそこで生きる希望があった。私の症状ならば、この世界そのものの時間を巻き戻し、この施設に来る前の時間帯まで回帰することも可能かもしれない。私は己の症状の進行を待ち続け、やがてそれは叶った』
 夕日はそれを語る時、拳を握りしめさえしたものでした。
『施設の仲間達に私は約束した。過去に戻った後、私は必ず仲間達を助けに行くと。一刻も早くそれは成し遂げると。世界の時間を巻き戻すことで仲間達は私を忘れることになるが、それでも必ず自由な地上で再開を果たし、手を取り合おうと。そう誓ったのだ!』
 強い口調でそう言い終えると、夕日は息を切らしながら私をじっと見つめます。
『過去へと舞い戻った私は、進行し強化された『症状』を用いて母を葬った。実の母をだ。胎児となった母を踏み潰す時、私が感じたのは深い安堵だったよ』
『……額の数値はその時の……』
『ああ。私のキルスコア『1』は、その時記録されたものだ。母がいなくなった家庭で、私は将来の手足にするつもりで弟妹を可愛がりつつ、勉強をして大人になって行った。大学を卒業した頃、私は親友の空と弟の深夜と共に、とうとう『アヴニール』を立ち上げた。最初は小さな組織だったが、症状を駆使して父親の不祥事の証拠を掴み病院ごと支配できるようになってからは、こうして地下に立派な本部も持てている』
『子供の姿を取っているのはどうしてなんですか?』
『政府の目を欺く為だ。こんな子供が頭目だとは、向こうも思わないだろうからな。色々と都合が良いんだ。これまでに積み重ねたキャリアを破棄することにもなってしまうのはつらいところだが、私には散々だった少女時代をやり直したいという願望も強かった。偽装云々を無視しても、道楽として子供化したい程だったから、支障はなかった』
 そこで夕日は親愛に満ちた表情で私を見たものです。
『やはり27歳が11歳の中に混じれば、それなりに上手く立ち回れるものだね。身体は弱いままだったが、それを感じさせないくらいには、明るい少女として振舞うことが出来た。総統としての仕事がどれだけ忙しくても、学校だけは休めなかったのは、君達と過ごす時間があまりにも楽しすぎたからに尽きる。何より嬉しかったのは、君という親友を得られたことだ』
『良く一緒にいる時川くん……時川正午はあなたの弟なんですよね?』
『ああ。他の弟妹には、子供化はただの道楽だと言ってはいるが、深夜と正午にはすべての事情を話してある。正午は幼いからたまにボロを出しそうになるのが困りものだがね』
『……あなたの考えは分かりました。ただ、本当にそのやり方で良いのかは疑問です』
 私は夕日(=音無)に言い聞かせます。
『私以外にも、監禁され洗脳教育を受けている子供はたくさんいるんでしょう? そして彼らは兵隊として隔離施設のある離島に送られて、そこにいる患者達を救うため自衛隊と殺し合う羽目になる。よしんばそれに勝利したとしても、アヴニールが政府を打ち倒すまで戦争は続く。そのやり方に、正義と呼べるものが本当にあるのか』
『大義の為には手段を選んではいられない。それを分かって欲しいんだ』
『……分かりません。わたしには何も分かりません』
 回想終了。
 地下の個室での夜はゆっくりと過ぎていきます。私は物思いに耽り、この世界と己が病魔と親友の過去と現在について自問自答しながら、夕日の用意した清潔で大きなベッドの上で横たわっていました。
 その時でした。
 外から足音が響いてきました。その足音は慌ただしいものではありましたが、大きさは然程でもなく、聞くだけで子供のそれと分かりました。
 わたしはその足音の主を知っています。
 部屋がノックされました。いつもの穏やかなノックではなく、焦燥に満ちた強く激しいものでした。わたしは扉を開けました。
「助けてくれっ」
 夕日でした。夕日は逃げ込むように部屋の中へと飛び込むと、すぐに扉を閉めて鍵を掛けました。
「……何ですか音無……いや、夕日」
 どちらの名前で呼ぶかは結構悩みましたが、本人が『夕日』が良いというのでそうしていました。その夕日は真っ青な顔をして、息を切らして壁に寄りかかっています。その額には汗と共に、強い恐怖が滲んでいました。
「……弟に裏切られた」
 絞り出すような声で、夕日は言いました。
「未明という二人目の弟で……とても可愛がっていた弟なんだ。向こうも私のことを慕ってくれていた。そのはずなのにっ」
「……裏切られて、今どうなってるんですか?」
「私を奴隷にしたいらしい。そういうものを作れる『中二病患者』に作らせた、不可逆な強制力を持つ契約書を持って、私にサインを迫っている。それで逃げて来たんだ」
「大丈夫なんですか?」
「今この本部に動ける味方はいない。外部から援軍は呼んだが来るのに時間がかかる。それまで籠城する必要がある。私は今マスターキーを持っていないから、鍵のかかる部屋で一番安全なのは、北原、君のいるここだ。匿って欲しい」
 息を切らしながら夕日がそう言い終えた直後、新たなる足音が私の部屋に迫ってきました。
「……ここだな」
 賞ねんの声でした。
「教育生の部屋だな。ということは、誰か知らんが子供がいて、夕日を匿っているんだろう。おい、頼むからここを開けてはくれないか? 開けてくれたら、おまえを外に出してママやパパに合わせてやるぞ」
 わたしは覗き穴からその少年を盗み見ます。
 それはいつか出くわした……殺人鬼『指切り』の姿でした。
「ひぃ……」
 その額には『8』という数値が描かれていました。その数値の内訳が『指切り』の被害者八人なのかそうでないのかは分かりませんが、とにかく危険な殺人者である事実に違いはありません。まさか夕日の弟だったとは……。
「ゆ、夕日、こ、この人……」
「……ああ北原。向こうにいるのは殺人鬼『指切り』だ」
 汗にまみれたまま、夕日は壁に預けた尻をずるずると床へと降下させます。
「昔から何をするのか分からない奴ではあった。それでも可愛がっていたんだが、牙を向こうことになるとはな。油断したよ」
 額を両手に埋めて、夕日は嘆くかのように声を絞ります。
「……どうして誰もかも私を裏切るんだ。深夜も未明も空も、私はずっとずっと献身的に接して来た。大切な弟で友達だと信じて来たんだ。それがどうして……」
「おい聞こえているぞ」
 未明という名前らしい殺人鬼指切りは、そう言って扉を蹴飛ばしました。
「この扉を開ける方法なんていくらでもある。教育生のガキの部屋を開ける鍵なんざすぐに見付かる。北原とやらに警告するが、俺が殺人鬼だと察したのなら、逆らわない方が身の為だ。時間がもったいないからここで扉を開けてもらいたい。そうすれば命は助けるし、ちゃんと親元に返してやる」
「騙されるな!」
 夕日は叫んだ。
「口封じに殺すに決まっている! そんな口約束に騙されてはいけない!」
「まあ普通だったらそうだわな。だが、今回に限っては、ただの口約束じゃ済まないんだ」
 そう言って、未明は懐から『契約書』と書かれた紙を取り出し、ペンを走らせます。そしてその紙を覗き穴へ向けて突き付けました。
 そこには『もし北原が扉を開けてくれたなら、時川未明は北原に直接的危害を加えず、平和な日常に回帰できるよう尽力します。ただし、北原が時川未明を警察に突き出したり突き出そうとしたり、時川未明の殺人行為について吹聴したりするのを察知した場合は、この限りではありません』と書いてありました。
「サインも済ませてあるからこの契約書は有効だ。何が一番自分の為になるのかはもう分かっただろう? さあ、安心して扉を開けるんだ」
「……き、北原」
 夕日は捨てられた子犬のような目で私の方を見ました。
「考えるまでもないことだろう? お互いに利益のある取引だって分からないか? こんな息苦しい地下から抜けて、ママやパパの元へ帰れるんだ。素晴らしいだろう?」
 へらへらとした声。夕日は縋るような目をわたしに向けつつも、その瞳に貯めた涙をあふれ出させていました
「……何を泣いているんですか?」
 わたしは夕日に問いました。
「だって」
 夕日のその声は、肉体の年齢と相違ない程に弱々しいものでした。
「これで全部おしまいだと思って。北原は監禁を嫌がっていた。だからきっとわたしを裏切る。深夜や夕日や空が、わたしを裏切ったように」
 漏れ出した涙が滴となって床へと滴ります。
「……いや、それは裏切りでも何でもない。閉じ込めた私が悪いんだから……。ごめんね北原。本当にごめん……許してよ。ねぇ、許して……」
 なんとみっともない。わたしは小さくため息を吐きます。
 犯罪を積み重ねながら進めて来た計画が瓦解することより、殺人鬼の奴隷にされてしまうより、これからわたしに裏切られるのだということに、心を痛めている夕日。その許しがたい親友の震える肩に、わたしは手を置きました。
 そして扉の向こうの殺人鬼に、わたしは啖呵を切りました。
「やなこった!」
「……は?」
「やなこった、って言ったんですよ!」
 わたしは扉の向こうに向けて吠え続けました。
「殺人鬼の言うことなんて聞くもんですか! 夕日はわたしの親友です! 救いようのないアホチンですけど、それでも裏切ったりするもんですか!」
 夕日がぽかんとした目でわたしを見たのが分かりました。
「……北原。でも、私は君を監禁して……」
「嫌がってるって分かってるならするなこのアホチン!」
 わたしは夕日の頭を引っ叩きました。
「でもね夕日。わたしは決して、単に監禁されたのが嫌だったから、怒っている訳じゃないんですよ。いえ、監禁されるのはもちろん嫌ですけど、ことはそんなに単純じゃないというか……」
「……そうなのか。じゃあ何で怒ってるんだ?」
「さあ。一人で考えてみてください」
「……私が危険なテロ組織のリーダーだから?」
「違います」
「君以外にも何人か子供を監禁して洗脳教育をしているから?」
「違います」
「政府相手に戦争を企て多くの血を流すことを許容しているから?」
「違います」
「……君を仲間にしたいと思った時、自分の事情や考えを打ち明けて理解を求める前に、まずは閉じ込めるという方法を取ったから?」
「合ってます。ただ、もっと端的な言葉で言えませんか?」
「私が……君を信じなかったから?」
「そうなんですよ! そこなんですよ私が一番ムカついたのは!」
 わたしは両腕を振り上げて「ムキーっ」と叫びました。
「組織に入る入らないを私の自主性に任せてくれないのはまあ良いですよ。いや良くはないですけど、あなたの強引さやわがままさは受け入れて友達やってるつもりなんです。でもね、私の自由を奪ってからしか正体を明かせなかったのは、正体を明かす為に私の自由を奪ったのは、私が政府に告げ口すると思ってたからってことでしょう? その水臭さは、どうしても許すことができないんです」
「ちょっと……無茶を言わないでくれ」
「何が無茶ですか! あなたは普通に外にいる状態で、わたしに何もかも打ち明けなければならなかった! そうしてから正々堂々と勧誘行為をすれば良かった! それができないのはわたしを信用していなかったからでしょう?」
「だから待て。私の正体なんてのは至上機密で、とてもじゃないが監禁後でもないと打ち明けられな……」
「それが卑怯だって言いたいんですよ! バカにしてもらっちゃあ困ります! あなたのやってることは間違ってると思いますけど、だからって政府に告げ口して止めさせるなんてやり方はしません! 全力であなたを説得してやめさせてから、自首でも何でもさせるに決まってるでしょう!」
「……結局やめさせるんじゃないか」
「そうですよ。間違ってると思うことに迎合はしません。相手が悪いと思ったのなら、正々堂々口喧嘩します。それが友達って奴じゃないですか」
 わたしは鼻息を鳴らして夕日を見下ろします。
「あなたがあなたを正しいと思うのであれば、それを真正面から伝えれば良かった。私を監禁などせずにね。それでわたしが理解しなければ、理解するまで言い合えば良かった。それが『ぶつかり合う』ということです。もちろんそれは覚悟がいることですし、そう毎回はやってられません。それでも……本当に大切なことならやるべきなんです。信頼しあっているなら、できたはずのことなんですよ!」
 尻餅を着いたまま圧倒されている夕日に対し、わたしはしゃがみこんで目線を合わせました。
「……まあ。あなたがアホチンなんて今に始まったことじゃないですし、わたしもあなたを責められる程立派な訳じゃありません。あなたがしていること、背負って来たものの重さを考えれば、真正面からわたしにぶつかる勇気がなかったのも、仕方がないのかもしれません。それでも……その勇気をもって欲しかった、信頼を持って欲しかったとは思いますけど、でも、なかったとしてもわたしはあなたの親友です。言うだけ言ってすっきりしたので、今回ばかりは、不甲斐ないあなたを許そうじゃないですか」
 そう言って、わたしは扉の方を指さしました。
「この扉の向こうの殺人鬼は、『契約書』なんてくだらないものを使って、わたしに約束を迫りました。でもね夕日、本来約束なんてのは、そんな紙切れがなくてもできるはずのことなんです。……友達同士ならね」
 わたしは夕日に向けて小指を差し出しました。
「『指切り』をします」
 わたしが言うと、夕日は息を飲み込みました。
「約束の内容は……これが終わったら、話し合いをすることです。あなたがこれまでして来たこと、これからすることについてね。お互いが本当に心から納得するまで、何時間でも何日でもです。そしてそれで決まったことは何があっても守る! 分かりましたか!」
 わたしが息を切らしてそう言い終えると、夕日は涙を拭いながら立ち上がり、そして小指を差し出しました。わたしはそれに自分の小指を絡めましす。
「指切り……」
 夕日のか細い声が部屋に響きます。
「げんまん」
 わたしがそれに合わせます。
「「嘘吐いたら、針千本、飲ーますっ。指切った!」」
 絡み合っていた二本の小指が解き放たれます。
 小指同士を絡めて行った約束が、確かに二人の魂に宿ったのを、わたし達は感じ取りました。夕日は約束を守るでしょう。徹底的に話し合った結果であれば、例えそれが組織の解体でも自首でも何であろうと、命を賭けて最後まで守り抜くに決まっています。
「……やれやれ。子供ならではの無茶だな」
 夕日は唇を歪めて笑いました。
「『互いが納得するまで話し合う』なんて、子供にしか出てこない発想だ。大人同士なら、例え親友同士でも、互いに譲れないことはあると知っている。だからパワーゲームが必要なんだ。大人のわたしはそれを君に仕掛けた。しかし子供である君はそれを良しとしなかった」
「……大人も子供も関係ありませんよ。話し合えば分かり合える。当たり前のことです」
「もし本当にそうならどれだけ良いことかな? 何があっても理解し合えない相手はいる。理解し合った上でどうにもならないこともある。君のその幼さ純粋さには老婆心を擽られるばかりだ」
 夕日は乾いた風な笑みの中にわたしへの信愛を滲ませました。
「それでも今回ばかりは君と向き合おう。そして向き合った結果を享受しよう。それが君との友情に報いる手段なら。だが私は手強いぞ? 君の倍以上生きて来て培って来たこの信念と対決しようというのなら、それなりの苦戦を覚悟したまえ。必ずや君を説得し、こちら側へと改心させてしまおうではないか」
「……何でも良いけどよ」
 扉の向こうから、未明の忌まわし気な声が聞こえてきました。
「そっちがその気ならこの部屋の鍵を取りに行かせてもらう。バリケート作って籠城するんなら好きにしろ。ぶっ壊してやる」
 そう言い残し、未明はその場から立ち去って行きました。鍵を探しに行くのでしょう。
「……この部屋の鍵、あるんですか?」
 わたしは夕日に問い掛けます。
「ああ。教育生が鍵を閉じて中に籠城するような展開に備えてな。奴はアタマが良いから見付けるのはすぐだ。牢屋の鍵もあっさり発見していたことだし……」
「だったらちんたらとはしてられませんね」
 わたしはベッドの端を持ち上げてから、夕日に言います。
「反対側は持ってください。バリケート作りますよ」
「よし来た」
 幸いにして、夕日が何のかんのと持って来た雑多な物品のお陰で、部屋には物が多くありました。
 ベッドを土台に、部屋中のものを扉の前に積み上げました。夕日がわたしが喜ぶと思って持って来た数々のものは、まさに子供の夢を積み重ねたかのように扉の前で山を成します。そしてそれらの頂上に、子供のような大人と子供のような大人の二人が飛び乗りました。
 それが完成した直後……扉の向こうから未明がやって来て、扉に鍵を差し込みました。
「死神のお出ましだぞ」
 殺人鬼は言い、そして扉を押しました。
 それは物凄い力というしかありませんでした。未明が全力で扉をこじ開けようとした途端に、壁とベッドの間には小さな隙間が生じ、バリケートの上に載っていたわたし達はその衝撃で転げ落ちました。
「うわっ」
「わわわっ」
 尚も扉を開けようとする未明に、わたし達はベッドを全力で押し返すことで抵抗します。しかし未明の力はすさまじく、二人がかりでもじりじりと押され続けていくのでした。
「力が足んねぇぞちびっこ共!」
 未明は嘲笑をわたし達に浴びせかけます。
「こりゃあ時間の問題だな! ここが開いたら奴隷契約書にサインだ! 姉ちゃんは優しかったし好きなんだけど、朝日をいじめたとかで結構折檻もされたからな! サインをするまで徹底的に拷問してやる! そして自由の身になった暁には、これまで以上に快楽殺人を繰り返すのさ!」
 その言葉にわたしは身も凍るような悪意の放射を感じます。この人はどうしてこんなに歪んでいるのでしょう。とうてい理解が出来ません。先程夕日が言った言葉も分かるような気がしました。
 こんな奴に夕日を奴隷にさせる訳にはいきませんでした。わたし達は歯を食いしばり、脚を踏みしめて抵抗し続けます。わたしは夕日の「押す時息を合わせるぞ!」の言葉に従い、夕日と呼吸を合わせて力を籠めます。すると力は拮抗し、互角の時間が続きました。
 時間はわたし達の味方です。もうじき援軍がやって来るはずでした。
「……糞っ。粘りやがるなチビ共」
 未明は忌まわし気に言いました。
「いい加減に諦めろ。特に北原だ。おまえこのままこの扉が開かれたらどんな目に合わされるか分かってんのか? さっきの契約書の効果はまだ持続してるぞ? 扉を開けたらおまえ一人は助かるんだからな!」
 わたしは無視して扉を閉じる為力を籠め続けます。
「おまえら勝ち目があるとでも思ってんのか? 先に体力が尽きるのはチビのそっちだろ? このままじゃ大変なことになるぞ? 分かってんのか?」
 わたしは無視して力を籠め続けます。
「扉が開いたら俺はおまえを拷問してからぶち殺すぞ? 生まれて来たことを後悔する羽目になる。友達だか何だか知らないが、そんなものの為に殺されるなんてなんてバカらしい選択をしたんだと、後から痛めつけられながらおまえは思うんだ。それを回避するには今しかないぞ? 分かってんのかこのクソガキ! 開けろ、開けろ! 開け……け……」
 突如、扉に込められていた力が緩み、無くなりました。
「や、やめろおまえっ。いてぇじゃねぇか! やめ……や……。……っ」
 興奮したような何者かの息の音と共に、何かが何かに突き刺さる鈍い音が続いています。さらには、何か液体が飛び散るような音が響き渡りました。
 扉越しにも、わたしにはそれが、刃物で滅多刺しにされて血液が飛び散る音に聞こえます。わたし達が呆然としていると……少女の金切り声が扉の向こうから放たれました。
「良くも妹を!」
 それは悲痛な叫び声でした。
「良くも零歌ちゃんを殺したな! この殺人鬼が! 殺す! 殺してやる!」
 わたし達は代わる代わる覗き穴から扉の向こうを覗きます。
 そこには肩に血のにじんだ包帯の巻かれた中学生くらいの女の子が、背後から未明をナイフで滅多刺しにしていました。その顔つきは、飛行機を墜落させた松本零歌に酷似していました。
 背中にたくさん穴が開いて血の海の中に沈む未明の姿に、わたしはおぞましさよりも安堵を感じます。そんな己の思考回路に驚くこともしません。それほどまでに未明という死神は恐ろしく、それから友を守ったという事実を喜ばしく感じました。
「……開けるぞ」
 夕日が言います。わたしが頷くと、夕日は扉を開けて少女の前に出ました。
「やめるんだ唯花」
 そう言うと、唯花と呼ばれた少女は顔をあげて夕日を見ました。
「その肩の傷は私が闇雲に発砲した時のものだね? ……すまないことをしたな。誰に手当てしてもらった?」
「……田島さんに。この地下にいた深夜さんの仲間です」
 唯花は振り絞るような声で言いました。
「あの……殺させてください」
「……ふふ。流石はあの零歌の姉だ。過激なことだ」
 夕日は優し気に笑いました。
「しかしそんなことをしても零歌は喜ばない……とは言わないが、しかし例え相手が殺人鬼であろうとも、人を殺した事実は生涯君を苛むことになる。それを君に背負わせるのは忍びない」
「でも……こいつは零歌ちゃんをっ!」
 唯花は泣き叫ぶように言います。
「確かにウチはあの子が疎ましいと思うこともあった! お姉ちゃんやと思って何でも我慢して来た! そなけどちゃんと優しいに接してあげたら、あの子は誰よりも純粋に笑うねん! 注いだ以上の愛情が必ず返って来るねん! それは確かに人より歪んどったかもしれん! そんでもウチにはあの子が必要やったんや! それをこいつはゴミみたいに!」
「心配するな。この殺人鬼は私が生涯に渡って閉じ込める。二度と悪さができないようにな。こいつにとってそれは死刑になるよりつらい罰と言えるだろう。必ず報いは受けさせる」
 そう言って夕日が唯花の肩を掴むと、唯花は大人しく未明の上から引き剝がされました。夕日がナイフを指さしてから手を開くと、それにも夕日は従います。大人しくナイフを手渡したのでした。
「さて……未明。背中は穴だらけで全身は血塗れだが、それでもおまえは助かるのかな?」
 夕日が未明の前にしゃがみこむと、未明は微かに唇を震わせます。そして言いました。
「……けろ」
「ほう?」
「助けろ」
 未明の身体を診察するように見詰めながら、驚いた顔をする夕日。
「この出血量で良く喋れるものだな。確かに所詮少女の力。滅多刺しにしたと言っても、ちゃんと刺さっているのは四、五か所だけ。それも内臓を抉るような位置と深度の傷はないとはいえ、意識があるのは凄まじい精神力。おまえという人間には戦慄させられるばかりだな」
「……うるせぇよ」
 未明は苦痛に満ちた声で言います。
「助けろよ。姉ちゃん医者だろ? 手当できるだろ?」
「しても良い。だがその前に」
 夕日は未明の手から血まみれの『契約書』をはぎ取り、ペンを拾ってさらさらと何か書きとりました。そして未明の前に置きます。
 そこには『時川未明は二度と姉に逆らいません』と書かれていました。
「これにサインしてもらう。そうすれば助命してやる」
「……従うと思ってんのか?」
「従わなければ手当はしない」
「俺の寿命はまだ先だ。放っておかれても死なねぇぞ」
「いいや死ぬさ。おまえが助かるのはここで従うからこそなんだ。それこそがあらかじめ定められたおまえの不変の運命だ。おまえだって分かっているんだろう?」
 夕日は頬に笑みを刻みました。
「確かに私は医者だ。だから今すぐに応急措置を始めないとかなり危ないと分かる。さあどうするんだ? おまえに命を捨てる程の誇りはないだろう。泥水を啜り腐肉を食んで、さあ、生きろ。生きるんだ未明」
「……ちくしょう」
 未明はペンを持ち、震える指で自分のフルネームを書き込みました。
「良い子だ」
 夕日はそう言って手当を始めます。か細い声で、未明は「ちくしょう……ちくしょう……」とうなり続けていました。



 やがてそう間を置かずに夕日の援軍がやって来ました。
 滅多刺しになった殺人鬼と両足を負った深夜が、それぞれ担架で上階の病院へと運ばれて行きます。心臓にナイフを刺されて絶命した松本零歌は、しがみ付いて離れない唯花を説得して、丁寧に埋葬する為に一度組織に引き取られました。
「ありがとう北原。お陰で救われた」
 夕日はわたしに言いました。
「君が協力してくれなかったら、唯花が未明を襲いに来るまで持ちこたえられなかった。君が私の友でなければ、私は殺人鬼に突き出されて奴隷にされたことだろう」
 私はそっぽを向いて「礼には及びません」と言いつつも、友達に感謝されるのはこんな状況でもやはり嬉しいのでした。
 脳震盪で倒れていた時川正午は、夕日による簡単な応急措置の途中で目を覚まし、私の顔を見て口を開きます。
「……今まで騙しててごめんなのだ」
「何を騙していたのです?」
「夕日お姉ちゃんとは友達じゃなくて姉弟だったのだ。それをずっと黙ってたのだ。お姉ちゃんと一緒に北原を騙してたのだ」
「……謝罪を受け入れましょう。『ごめんね』『いいよ』という奴です」
「のだ……。それと、ありがとうなのだ」
「何がです?」
「夕日お姉ちゃんと仲良くなってくれて。本当に喜んでいたのだ。きっと大好きだと思うのだ」
「……それこそ例には及びません。さあ、念のため病院に行くんでしょう? お大事に」
 運ばれて行く時川正午を見送った後、夕日が声を掛けてきます。
「……『話し合い』はいつするかね?」
「いつでも。あなたの望む時、望む場所で。いつでも受けて立ちますよ」
「そうか? なら落ち着いたらすぐに電話を掛けよう。その時に備えてお互い理論武装を完了させて置こうじゃないか」
「……口に上手さを競う訳じゃないんですよ? 分かってます?」
「分かるとも。だとしても言いたいことや考えをまとめるのは大切なことだ。適切にイデオロギーを伝えるのには相応しいレトリックが不可欠だ。そこはディベートのテクニックにも通ずるものがある。そう思わないかね?」
「何言ってるのか分かりません。こっちが小学五年生だと思ってからかってるんですか?」
「少し稚気を起こしただけだ。許したまえよ」
 夕日は音無を名乗っていた時のような笑い方をします。
「さて。君のことはこれから結社員に家に送らせる。私も同乗しよう。互いにシャワーを浴びた後でね」
「分かりました」
 シャワーの後、わたし達は同じ車に乗り込んで、夜の街を走り始めました。



 やがて自動車は私の家の前に到着します。
 両親はきっと心配していることでしょう。何と言い訳するか、そもそも言い訳するかどうかはわたしに委ねられることになっていました。どうすれば良いか未だに決めかねているわたしですが、とりあえず両親の胸に飛び込んでから、後のことは流れに身を任せようと思っています。
「大変なことに巻き込んですまなかったな」
 わたしを車から降ろす時、夕日はそう言って頭を下げました。
「……それはまあ百回でも二百回でも謝ってもらいたいですが、まあ許しますよ」
「君以外の他の『教育生』のことも順次解放することを約束する。君や松本姉妹のような例外を除き、教育生達は皆自ら志願して『アヴニール』に助けを求めた者達であるが、それでも説得して帰る場所がある者は帰らせる。居場所のない者については、何が最善なのか本人を尊重して検討し決定しよう」
「……良いんですか? まだ話し合いもしていないのに」
「この一点に関しては君だって譲らないだろう? 客観的に判断して君が正しいと思ったから、従うまでさ」
「……そうですね。それで良いと思います」
「ああ。では最後に」
 そう言って、夕日は車から降りて、わたしに正面から抱き着いてきました。
 先ほど一緒に浴びたシャワーの匂いがしました。夕日の身体は柔らかく幼く華奢です。寄りかかって来るようなその華奢な体重をしっかりと受け止めて、わたしはその身体を抱き返しました。
「どうしたんですか?」
「いいや。こうしたかっただけだ」
「そうですか」
 わたしはそれを受け止めます。わたしはこの子の友達でした。この子の弱さを受け止め、この子の過ちと共に向き合い、この子を支えながらこの子を導き、正しい道を共に歩むべき友達でした。それがどんなに茨の道であったとしても、わたしはこの子を見捨てないのです。
「……怖いよ」
 夕日は言います。
「わたしは必ず中二病患者達を解放する。その為の革命を起こす。君が望むならテロという手段は放棄しても良い。しかし、それでもそれは、いつか必ず成し遂げられるべきことなんだ。私か、私以外の誰かによって」
「ええ」
「でもね。それは強大な敵を相手にするということなんだ。これまで手段を択ばなかったのは、それが怖かったからなんだ。恐ろしかったからなんだ」
「分かります」
「だがそれは間違ったことだと今なら分かる。いや、本当は分かっていたんだ。暴力で強引に手にした勝利は長く続かない。それは本当の勝利ではなく、別のもっと強い暴力によって容易く奪われる、泡沫の勝利だ。それが分からないくらいには、わたしは深く怯えていて、焦っていたんだ」
「はい」
 わたしは夕日の熱い体温をじっと抱きしめながら言います。
「でも大丈夫です。もう怖がる必要はないんです。わたしが共に戦います。わたしがあなたを守ります」
 この小さな身体で、足りないアタマで、いったいわたしに何ができるというのでしょう? それでもわたしはそう口にすることを躊躇しませんでした。心の底からそれを誓うことに迷いませんでした。その気持ちこそが彼女には必要であることを、わたしは理解していたのです。
「ありがとう」
 夕日は花を握り潰したような笑みをわたしに向け、そっと身体から離れました。
「来る話し合いの日まで、暫しのお別れだね。親友。では、また今度」
「ええ……。また今度」
 夕日を乗せて去っていく車を、わたしはじっと見詰めます。
 夕日。わたしの親友。多くの中二病患者達の未来を背負い、余裕を失って強硬なテロリストになりかけていた夕日。数多くの友や家族に裏切られ、傷だらけになりながらそれでも戦い続けていた夕日。やがて自らの過ちに気付き、改心への道を歩み出そうとしている夕日。優しい夕日。困った夕日。大好きな夕日。
 やがて車が豆粒のように小さくなって、完全に消えてなくなりました。そうなってからも、いつまでもいつまでも、わたしは夕日の去った夜の暗闇を見詰め続けていたのでした。
粘膜王女三世

2022年12月25日 19時41分32秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:それは病魔か才能か。
◆作者コメント:あんまりバトルしませんが異能力もの。
 推敲していて「こういうのをB級というのかな?」と思いましたが、それはB級に失礼である可能性もありそうです。
 感想よろしくお願いします。

2023年01月14日 20時57分10秒
+20点
Re: 2023年02月15日 16時03分19秒
2023年01月14日 11時31分46秒
Re: 2023年02月15日 15時55分22秒
2023年01月05日 23時33分57秒
+30点
Re: 2023年02月15日 15時53分49秒
2023年01月02日 12時37分31秒
+20点
Re: 2023年02月15日 03時55分21秒
2022年12月30日 01時27分20秒
+50点
Re: 2023年02月15日 03時26分00秒
2022年12月29日 20時03分58秒
+40点
Re: 2023年01月30日 22時12分12秒
2022年12月29日 20時03分09秒
+40点
Re: 2023年01月30日 21時58分08秒
合計 6人 160点

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