病中二

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※ 人によっては不快に感じる表現が多々あるかもしれませんのでご注意を。


 顔や言葉から立ち上る個々人様々な危うい気配、知性と野蛮性の入り交じった喧噪。
 そんなものに満ちた教室で、私は今日もまた授業をする。
 授業に注意を向けてくれているのは、せいぜいクラスの半分くらいだろうか。
 ちょっとした苛立ちと不満を、教師の仮面で覆い隠し、口では人類の偉大で愚かしい歴史を語り、手に握ったチョークでそれを記していく。
 こっそりクラスメイトとメモを交わしたり、スマホをいじったり、別の教科の勉強をしたり、何か別のことを考えたり。時々、そんな生徒達に質問をかけたり、横を通ったりして注意を授業に向けるよう促す。
 あなた達が受ける授業には色んな人による色々な負担の上に成り立っているんだよ、そして今の頑張りはあなた達の将来に繋がるんだよ。そんなことをちょっとした苛立ちを感じながら思う私だったけど、一方でそんなことに思いを寄せず、今の時間を楽しむことに血道を上げる生徒達に愛おしさや、うらやましさを感じていた。
 悩みなく時間を貪る。
 それはとても幸せなことだ。
 そして、悩みに時間を貪られるのはなんと不幸なことだろうと、とある生徒を見ながら思った。
 私が担任を務める二年C組の教室の中程の最後列で、荒木ショウは今日もじっと机に視線を落としていた。にきびの浮いた青白い顔には、気味の悪いくらいに表情というものがない。時折、ノートに何事か書き付けているのが見えるが、それが授業の内容ではなく、脳裏に浮かんできた滅裂な思考か、クラスメイトへの恨み言であることを、私は知っている。


「これ、なんですけど」
 ある日の夕方、私のもとを訪れた荒木ショウの母親はそう言ってスマホの画面を見せてきた。
 そこに映されていたのは、A4サイズのノート一面にびっしりと書き込まれた文字。死ね、死ね、死ね。殺す、殺す、殺す……筆跡はどれも同じように見えた。
「ショウの字です。あの子がいない時に掃除で部屋に入ったら、学校用のノートがこうなっているのを見つけて……」
 何かに常に怯えている、そんな目つきの母親はそう言い、私を見つめてくる。
 死ね。殺す。
 スマホに表示された無数の字の筆圧の強さに思わず息を呑んでしまった私は、心の中でそっとため息をついてから口を開いた。
「去年、友達とトラブルがあったのは伺っていますし、担任になってから、私も注意はしてきました。最近トラブルはないと思っていたのですが……お母さんはショウ君から何か聞いてますか?」
「いいえ、何も……というかあの子、何も話してくれないんです。学校のことに限らず、ここ最近ずっと、私達と口をきいてくれないんです」
「いつ頃からですか?」
「去年、友達にケガをさせてしまった頃から、徐々に話をしてくれなくなって、今年に入ってからは全く何も話さなくなりました……昔から気難しいところのある子ではあったんですけど、最近は、親の私でも恐いと思うようになってしまって、それに……」
「それに?」
 それまで堰を切ったように早口に話していた母親は、そこで言葉を止める。生徒指導や保護者との面談で使う小部屋には、確認するまでもなく私と彼女しかいない。それでもなお不安な母親は、少し周囲を見まわしてから私に顔を寄せてきた。彼女が久々に身に着けたらしいスーツからは防虫剤の匂いが漂ってきた。
「ナイフを、買ったみたいなんです」
「ナイフを」
「はい、果物ナイフとかじゃなくて、軍隊とかで使われているような」
 その、軍隊で使われているようなナイフのきらめきを、私は想像してしまう。取り乱してしまいそうになるのを必死に抑え、顔を覆った荒木君のお母さんの肩に手を乗せる。彼女の涙が収まるのを待ってからハンカチを差し出すと、すみません、と言い、母親はそれを受けとった。
「恐いです、あの子が」
 母親はそう、はっきりと言う。
「何か辛いことがあるんだろう、悩みがあるんだろうとは思います。ただそれを私にも、先生にも、誰にも言わずに、暴力的になっていくあの子が恐いんです。どうしたら良いのか、分からないんです。親失格だとは思うけど、あの子がどこかに行ってくれたら、なんてことも最近は考えてしまって……」
 荒木君のお母さんに、心底からの同情を感じたいと私は思う。荒木君のことを、心配したいとも思う。ただ、彼女の話を聞く私の脳裏を埋め尽くしたのは、緊張と恐怖だった。
 眼前に包丁の切っ先が光る様が見える。
 私の鼻先に突きつけられた包丁は、それを握った父親の手の震えに従って小刻みに揺れる。さびの浮いた刃が近付くごとに、頭の中が滅茶苦茶になるようだった。狂いそうだ、と思った私に、父親は何事か言い続ける。怒気を満面に注いだ父親の大声は、私を責めていることだけはよく分かった。ただ内容は全く分からない。ただ、私が悪い、何もかも全て私が悪いと脳髄に刻みつけるだけの音の連なりを発し続けていた父親は不意に、私の顔をはたく。痛みよりも、衝撃と熱を私は感じる。床に倒れ込んだ私は頭をそのまま床に擦り付けたまま、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと叫ぶように言う。そんな私に父親はなおも何か言い続け、そしてふと怒鳴り止んだと思ったらタバコに火を点けた。そして私の髪を掴んで起き上がらせると
「先生?」
 その声で、私の目の前から父親が去り、代わって荒木君のお母さんが現れる。
 怪訝そうな顔で私を見つめる彼女に、すみません、と小さく詫び、私は軽く咳払いをする。
 服の下が汗で濡れるのを感じる。心配そうで、でも誠実な、そんな教師の顔を貼り付けるのに全神経を集中しながら、私はお母さんに向き直った。
「お母さん、ショウくんのことと、お母さんが辛いことはよく分かりました。あらためてクラスメイトとのトラブルがないか調べて、ショウ君にも悩みがないか聞いてみます」
 今日日珍しい、子供の異常を教師のせいにしない母親は、私の手を取って、よろしくお願いします、と言ってきた。

 その後、調べた範囲では荒木ショウは他の生徒からいじめられたりはしていないことが分かった。ただ、一年生の頃、からかってきたクラスメイトにカッターを掴んで襲いかかった一件以降、ほとんどの生徒が彼のことを避けるようになったことが、あらためて分かった。いじめという行為が容易に加害者へのペナルティになる今時分では、人への敵意は無関心という形をとることが多い。そしてそれは時に、具体的な加害よりも人に与える影響は大きくなる。
 人の狂気は孤独の中で形作られるからだ。


「最近どう?」
 放課後、人気のなくなった教室に呼び出された荒木ショウは、私に、何を考えているか分からない、そんな顔を向けてくる。それは、相対する私をどうしようもなく不安にさせた。
「何のことです?」
 そう答えた荒木君の声音は、甲高く神経質で、どこか怯えているようにも聞こえた。
 私は微笑みをなんとか繕い、荒木君に答える。
「学校生活のこと。何か心配ごとや、悩みごとは
ない? 荒木君、あんまりクラスメイトとも話してないようだったから、先生ちょっと心配になっちゃってさ……」
 私のそんな言葉のどこかが、荒木君の心の柔らかいところをひっかいたらしい。
 彼の口元から表情が消える。
 得体の知れない表情がさらに不明なものになった様に、彼が怒ったことが私にはよく分かった。
「別に」
 そう言いながら、彼は足元に置いたバッグを引き寄せる。

 ナイフを、買ったみたいなんです。

 果物ナイフとかじゃなくて、軍隊とかで使われているような。

 気弱そうな荒木君の母親の言葉が脳裏にこだまする。
 なんとか取り上げてみます、と母親は言っていたけれど、あの様子では実行するのは難しいだろう。ナイフはまだ彼の手元にあり、そしてもしかしたら、今もこのバッグの中にあるのかもしれない。
 包丁を握った父親が目の前に蘇る。
 服の下で肌が粟立ち、そしてびっしりと汗が浮かぶのを感じる。
「何もないですよ」
 そう言う荒木君の手は、バッグを取り上げその取っ手をぎゅうと掴む。
 これ以上僕のプライドを傷つけるようなことを言うな、という威嚇なのか、それとも無意識の内の反応なのか。
 もう少し、私が不用意なセリフを投げかければ、彼はジッパーを開け、バッグの中から軍隊で使われているようなナイフを出し、それで私を刺すのかもしれない。
 体が冷えていく。汗が肌をびっしりと覆い、気持ちが悪い。心臓が滅茶苦茶なリズムを刻み、頭の芯の方が全身に滅茶苦茶な指示を飛ばし出す。
 逃げよう。
 もしくは頭を抱えて許しを請おう。
 そんな提案が頭のどこかから飛んでくる。僅かに残った教師としての理性がそれを留めるけれど、ふと、こんな考えも浮かんできた。
 他人と交われない自分にコンプレックスを感じ、それが自分、そして他人への暴力性となっている荒木君。そんな彼を苛立たせる言葉は、私ならいくらでも思い付く。
 その中でもとびきりのやつを、言ってしまえ。そして彼の中で煮詰まった暴力性を解き放ってしまえ。
 自分がどうしてそんなことを考えているのか、よく分からない。ただよく分からないくせに、自分の口元が奇妙に歪み、口の中では挑発の言葉を転がしていることに気付く。
 言ってしまえ。混乱する頭の中で、そんな声がもう一度聞こえた。でも
「そっか」
 と言って、私は小さく頷いた。密かにため息をつく。頭の中の異常な熱を抑え、口元の歪んだ笑みを余裕ある教師らしい微笑みに替え、私は荒木君に言う。
「もし何かあったら遠慮無く言ってね」
 探るように、私を見てから、荒木君はバッグの取っ手に込めていた力を緩めた。
「はい、そうします」
 そう言うと、荒木君はおもむろに立ち上がり、そして早足で教室を出て行く。
 人気の失せた廊下を、荒木君の足音が遠ざかっていく。遠くに部活動にいそしむ生徒達の喧噪を聞きながら、私は机に突っ伏した。ブラウスの下の胸を掻きむしりながら、私は嗚咽する。誰かに聞こえてしまうかもと思って、腕を噛んで声を抑えるけれど、死にかけの動物のような耳障りな音が出てしまう。
 訳の分からない荒木君が、どうしようもなく恐かった。
 それを為す術なく恐怖するしかない自分が情けなかった。
 そして何よりも、自分の中の制御しきれない自分が、私は恐かった。

   *

 父親が私に暴力を振るうようになったのは、私が中学二年生の頃だった。母親が家を出たことも、仕事でも上手くいかなくなったのも、全て私のせいだ、そう言って身体的、精神的な虐待を加えた父親とは、児童養護施設に入所してからは一度も会っていない。
 全て私が悪い。
 父親によって脳髄に染みこまされたその信念は、カウンセラーの先生が粘り強く付き合ってくれたおかげで、心の奥底にそっと仕舞われたはずだった。それはふとしたとき、特に仕事の中でストレスを感じたときに、どうしても心の表層に浮かんできてしまけれど、それと相対する術を私は学んできて、そして上手く対処できていたはずだった。
 今回の荒木君の一件でも、私は自分の中に湧き上がるそれをなんとかしようとした。自分を責める思考を書き出し、その根拠を検討し、適応的な思考を生み出す作業……認知療法に基づいた思考の再検討を試してみた。
 その過程の中で、気分の一時の落ち着きを得ることはできた。
 ただ、私は自分の中に何か異様なものが沸き立っていることに、気付かざるを得なかった。


 荒木君が学校に来なくなったのは、あの面談から二週間後のことだった。それには何のきっかけもないように見えた。
 同級生に襲いかかることもなく、逆に誰かから不快な言葉を投げかけられたこともなく。ただいつものように、無表情のまま授業を受け、死ね殺すとノートに書き、誰とも関わることなく休み時間を過ごす、そんな日常を続けていたあるときふと、家から出てこなくなったのだ。
 荒木君の母親とは何度か電話で話したものの、それは彼女の嘆きをただ聞くだけに終わってしまった。ショウは本当に突然部屋から出なくなった、無理に入ろうとすれば怒鳴り、暴れ、物を壊す、引きこもるようになった理由も何も分からず、夫は子供のことに何も関わろうとしてくれない……そんな彼女の話からは荒木君が引きこもったきっかけは分からなかったし、おそらくそんなものはなかったのだろう。
 孤立に耐えることはできる、ただそれは限られた時間だけ。募る孤独と自己不全感はあるときふと心の縁から溢れ、行動となる。荒木君の場合、そのタイミングが今であったというだけという話だったのだろう。


 恐い、避けたい。
 そんな考えを押さえつけ、私は放課後に何度か、荒木君の家を訪れた。
 憔悴した様子の母親と一緒に、部屋の中の彼に声をかけても大方は無視され、良くてドアを殴られるだけに終わる。
「荒木君、こんにちは。先生だよ。元気? ちょっとお話しないかな?」
 震えそうになるのを懸命に抑え、私はドア越しの荒木君に言う。
 それで何もないか、一度ドアを蹴られて何事もなかったとき、私は深く安堵する。
 ただ、一方で、私はこんなことも、思っていた。密閉され、淀んだ空気の中で発酵しているだろう、荒木君の自我。暴れたがっている彼の心が、解き放たれたとき、何が起こるのだろうか、と。


 一ヶ月近く訪問を続けたものの、荒木君は私達と関わろうとはしなかった。
 仕事を休み、荒木君につきっきりだったお母さんも精神的に限界が近くなり、私や、スクールカウンセラーが薦めたこともあって仕事を再開した。そうして日中は荒木君一人だけになった家へ、私は通い続けた。
 一年生の頃に荒木君がしでかしたこと、そして最近の彼の様子を見知っていた上司や同僚からはもちろん、荒木君の母親からすら止められたものの、私は訪問を続けた。
 教師としての義務感や、お母さんや、荒木君の苦境をなんとかしたいという気持ちがあったのは間違いない。
 ただ、私が訪問を続ける理由は、それだけではないのかもしれなかった。


 ごく普通、それこそ住宅街を一〇分歩けば何軒も見るようなありきたりな家のチャイムを一度鳴らしてから、私は母親から預かった合鍵を使ってドアを開けた。
「荒木君、お邪魔しますね」
 そう二階にいるだろう荒木君に聞こえるように声をかけてから、玄関に上がる。
 いつもなら、几帳面に整頓された廊下を通り階段を昇り、真正面の荒木君の部屋に行ってノックするのだが今日はそうならなかった。
 廊下の途中に、荒木君がいた。
 足を止めた私を、荒木君はじっと見てくる。
 右手にナイフを握り、その切っ先を私に真っ直ぐ向けた彼の顔が引きつるように歪んだ。
 それはどうやら、笑顔らしかった。


 荒木君は私の背中をナイフで突きながら前に進ませ、今まで一度も開いてこなかった自分の部屋に私を招き入れた。
 む、とした中学二年生の体臭が詰まった部屋は、一言で言ってしまうと酷い有様だった。
 部屋は遮光カーテンで締め切られて真っ暗で、唯一の光源はSNSの画面が表示されたPCのディスプレイだけだった。その僅かな光源によって、ぐしゃぐしゃに乱れたシーツと布団、それを中心に巻き散らかされた漫画、弁当、服、本、ゴミ、そして丸まったティッシュ。無数に転がるティッシュを見て、私は鼻をつく強烈な臭いのもとが汗だけでないことに気がついて、ぞっとする。
 シーツの上にまで私を進ませた荒木君は跪くように言い、そして後ろ手に私を縛る。ビニールテープらしいもので荒々しく私の手を縛った荒木君は前に回り、ナイフを私に突きつけた。
 ナイフを向けられたときから、私の頭は緊張と恐怖で一杯だった。
 荒木君を見る。
 ニキビの浮いた顔で私を見る荒木君の鼻息は、酷く荒い。その荒い息づかいは、私と目が合うとひゅ、と止まり、そしてナイフの切っ先が私の肩を裂く。
 衝撃と熱、そして遅れてやってくる痛み。
 シャツごと裂かれた私の肩から血が流れてくるのを感じながら、私は言う。
「荒木君やめて」
 うるさい、と荒木君は早口に言う。ナイフを握り、私は縛られ自由を奪われているというのに、その口調はどこか怯えているようにも聞こえた。
「うざい黙れ見るな」
 荒木君は肩にねじ込んだナイフをぐい、と動かす。
 ぎ、と自分のものではないような呻き声を発した私の頬を、荒木君は思い切りはたいた。シーツの脇に積まれた本の山に、私は倒れ込む。そんな私を見下ろしながら、荒木君は言う。
「いつもいつもうざいんだよ。ほっておけよ俺のこと、あとお前ちょっと恐いんだよ。その目がさ」
 自分の感じている苦しみを上手く言語化できていない。短い文節で矢継ぎ早に発せられる荒木君の言葉を聞いて、私はそう感じた。
 荒木君の次の行動に身構えていたものの、いつまで経っても彼は蹴ろうとも拙い言葉でなじろうともしなかった。
 横向きになった姿勢から、おそるおそる、顔を彼に向ける。ナイフを片手に握ったまま、荒木君は私をじっと見つめていた。
 その視線はどうやら、私の胸に向けられているようだった。羽織ったカーディガンが少しかかった、シャツの下の膨らみに視線を縫い付けられていたらしい荒木君は、私が見ていることに気付くと、私の腹を思い切り蹴ってきた。
 二度、三度。衝撃と苦しさに、私が床に向かって嗚咽と嘔吐を始めると、荒木君はうざいうざいと言って、そしてまた私をじっと見るだけになる。
 顔を伏せたままでも、彼の視線が自分の全身に注がれているのが分かった。嫌悪と恐怖に服の下で肌が粟立つ私に、荒木君はしばらく何もしようとしなかった。
 ただ、不意に彼は私の傍らに膝を突く。そしてそっと、私の胸に触れてきた。
 ブラの固さに、少し戸惑った様子だった荒木君の手は、ブラに包まれていないところに行き当たった途端に、遠慮無く力を込めてきた。
 自分の肉が潰される感覚、ひしゃげたブラのワイヤーが食い込む痛みに、私は呻く。お腹から突き上げる苦しさと吐き気と荒木君の手によってもたらされる痛みに、私の頭は訳が分からなくなる。
 ただ耳だけは、荒木君の荒い息づかいを聞いていた。胸やお腹やお尻を触ったり掴んだりする荒木君の息はますます荒く、早くなる。荒木君は私の髪を掴んで仰向けにさせると、シャツに手をかけた。
「やめて!!」
 あらんかぎりの声で私は言う。でも荒木君の耳にそんなものは届いていないようだった。
 見られてしまう。
 頭の中を埋め尽くしていた緊張と恐怖に、そんな羞恥が入り交じった次の瞬間、シャツがまくられ、私の醜い腹が外気にさらされた。
 それまでうるさかった荒木君の呼吸が止まった。
 息を止めた荒木君が、じっと私のお腹を見ているのを、気配で感じる。
 見られてしまった、という羞恥で、自分の顔が熱くなるのを私は感じる。顔を上げて自分のお腹、そして荒木君の方を見ると、ふと顔を上げた彼と目が合った。
 PCの青白い光に照らされて、私のお腹、そこに刻まれた無数の傷が真っ暗な部屋の中に浮かび上がっていた。一円玉にも満たない大きさの、皮膚のひきつれ、タバコによって刻まれた醜い火傷傷を見ていた荒木君は、ひどく狼狽えているようだった。
 私と目が合うと、彼は目を背けた。私が恐る恐る体を起こしても、何もしなかった。
 こんな体の女は、レイプする気にもならないのか、それとも暴力の痕に怯えたか。
 そんな風にどこか冷静に考える自分に奇妙な感じを覚える。
 体を起こした私は、後ろ手に縛られた姿勢のまま、私から逃げるように距離を置いた荒木君を見る。
 荒木君の息はもう止まっておらず、彼は肩で息をしていた。まだ興奮しているだろう彼を、私はどうしてかもう恐れていなかった。そして、私の口が勝手に動き出す。
「父親に、やられたんだ。ちょうど私が今の荒木君と同じ歳だった時に」
 口が、微笑みに似た奇妙な歪みを作る。
「父親がどうしてこんなことをしたのか分からない。多分、色んなことが上手くいかなかったり、自分が嫌いになったりで、訳が分からなくなってたんだと思う。
 父親とは、もう十年以上会ってないし、これから会うつもりもない。もしかしたら、彼は私にこんな傷を残したことを後悔するかも知れない。でも、私の傷は消えない」
 荒木君は床に視線を落としたままだ。ただ、私の言葉を聞いていることは分かった。私の口は動き続ける。
「荒木君も、色々なことが嫌になってたんじゃないかな。だから私を殺して、そして他にも色々な人を殺そうと思った。そんなことをすれば、自分は死刑になる。だったら、何でもしてやろうと思ったんじゃない? 違う?
 私には分かるよ。父親にぼろぼろにされて、私も自分が嫌いになった。どん底にあったとき、私もそう考えていたから。自分も他人も誰も彼も、滅茶苦茶になってしまえ、って。でも一つ分かって欲しいのは、滅茶苦茶にしたら、こんなことになるっていうこと」
 私はお腹を、彼に突き出す。
「暴力の結果は、こんな醜いものになる」
 そこで、私の口は動きを止めた。
 荒木君は、私と視線を合わせようとしない。手放したナイフは床に転がったままだ。彼が何を考えているのか分からない。そして私の口が勝手に動き出す。
「それでも私を殺したいなら、そうして良いよ」
 荒木君が、はじめて私を見る。
 その顔は驚き、そして怯えているようだった。
「私を好き勝手にして、殺せば良い。
 これを見て、まだそうしたいと言うなら」
 口が微笑みを浮かべる。
 それは慈愛のように満ちているように、私は感じた。
 荒木君は血走った目で私を見る。だらりとしていたその手がぎゅ、と握られる。一端落ち着きを取り戻したように見えた息が再び荒くなった。
 そして

   *

 荒木君の家から出て、私は深く息を吐いた。
 ふり向いて、二階の荒木君の部屋を見る。
 窓のカーテンは再び閉められていて、彼の姿は見えない。もしかして、自分を傷つけていないだろうか、と思ったものの、また玄関を通る気にはならなかった。


 荒木君は、私を殺すことはなかった。
 私の言葉を聞き、再び目を逸らし、じっと床を見ていた荒木君は、不意に涙を流した。
 肥えた大きな体を丸め、ぐずぐずと泣きながら彼は涙混じりの声で言う。もうだめだ、これでおしまいだ、もう死ぬしかない。
 その言葉を聞いて、私の体から力が抜ける。
 大丈夫、荒木君が本気でそんなことしようと思ってないことは、先生よく分かってる。ここであったことは誰にも言わないよ。おしまいなんてことはないよ。
 そう言った私の方を見ずに、荒木君は顔を自分の肉に埋めたまま、んなことねえよ、もうおしまいだよおれ、とぶつぶつ言う。
 そんな彼に拘束を取らせるまでに、結構な時間がかかった。
 ビニール紐の拘束を解かれた私は、荒木君が取ってきた救急箱で傷の処置をし、同じく彼が持ってきたお母さんのシャツを身に着けた。そして、今もなおもぐずぐずする彼を必死になだめすかす。
 この肩の傷は、訪問した私が転んで怪我をした、それを、荒木君が助けてくれた、っていうことにしよう、ね?
 襲われ、レイプされかけたというのに私は何やってるんだ、と少し思ったものの、私はそう言い、なおもぐずぐずする荒木君を残して、家を出たのだった。


 闇に堕ちるのか、抜け出すのか。
 人生の中でその分水嶺は何度も訪れるだろうけど、最初に差し掛かるのが中学二年生くらいだと私は思う。
 願わくば、彼らが闇に堕ちないことを私は願っている。
 堕ちた人間に、私は苛まれ、そして私自身堕ちかけたのだから。
 ただ、私は本当に堕ちていないだろうか。
 過去を乗り越え、教師としての使命感に支えられて真っ当に生きているつもりだけど、それは表面上の話でしかないんじゃないだろうか。
 もう一度、ため息をつく。
 荒木君はまだ、父親のような怪物にはなっていなかった。そのことにほっとしながら、私は丸まり、ぐずぐずと泣き言を言っていた荒木君のことを思い出す。
 結局思い切らず、自分の殻にこもった彼に、私は拍子抜けしたような、怒りのような、そんな気持ちを抱いてしまっていた。
 もう一度、荒木君の部屋を見る。
 心の中の憤りに任せて、彼を殺してしまおうか、と私は思ってしまう。

 私を好き勝手にして、殺せば良い。
  
 荒木君の部屋で、私はそう言った。
 私はもしかしたら、今も闇にいるのかもしれない。そして自分も他人も害したい、と思っているのかもしれない。
 今心の中に渦巻くこの暴力性は、そう考えるしかない。そしてこれがどうしようもないものならば、それに身を任せてしまっても良いかもしれない。そうすることで、自分に破滅が訪れたとしても、少なくとも暴力的な衝動とそれを押さえつける苦痛からは解放されるのだから。もっとも、衝動から逃れられるのは、一時的かもしれないが
 ……そこまでで、私は考えることをやめた。
 そして荒木君の部屋から視線を外し、肩の痛みに顔をしかめながら、夕日の中を歩き始めた。
赤木

2022年12月25日 12時50分35秒 公開
■この作品の著作権は 赤木 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:病んだ中二、あるいは中二で病んだ私。
◆作者コメント:ちょっとアレな内容ですが出てきちゃったものは仕方ないので投稿します。

2023年01月16日 11時08分10秒
Re: 2023年01月16日 22時08分07秒
2023年01月05日 04時22分53秒
+20点
Re: 2023年01月15日 21時17分55秒
2022年12月30日 15時04分35秒
+10点
Re: 2023年01月15日 21時14分30秒
2022年12月29日 20時34分49秒
+40点
Re: 2023年01月15日 16時40分45秒
2022年12月28日 20時00分26秒
+10点
Re: 2023年01月15日 16時16分51秒
合計 5人 80点

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