| あけてはいけない |
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| ※性的表現並びに暴力的かつ残酷な描写があります。 従姉妹（いとこ）が死んだ。 そう聞かされたのは昨日のこと。小さい頃からずっと、実の姉妹のように付き合ってきたのに、こんな形で別れることになるなんて思いもしなかった。 彼女の名前は鮫島亜紀。今年で十八歳になるはずだった。 亜紀ちゃんは私より一つ上のお姉ちゃんで、とても優しい子だった。髪が長くて、綺麗で、頭もいい。話す声は透き通り、語る内容には人の心を動かす説得力がある。そんな彼女に、私が憧れるのは当然のことだった。 私も亜紀ちゃんみたいになりたい、そう願っていた時期もあった。結局は叶わなかったけれど。 憧れは憧れのまま、綺麗な思い出として昇華されるように、彼女はこの世を去った。 最後のお別れを言う機会は与えられなかった。葬儀は家族とごく限られた親戚しか参列できなかったからだ。一人娘の彼女を溺愛していた両親だから、娘の無惨な姿を衆目に晒したくなかったんだろう。 無惨な姿。 人づてに聞いた話では、彼女の遺体は人としての形を成していなかったらしい。詳細は分からないけれど、並の神経なら見るに耐えない状態だったそうだ。 私としては、そんな姿であっても彼女に会いたかった。今となってはもう遅いと解ってはいるものの、彼女の家まで足を運ばずにはいられなかった。 蝉の声が響く真夏の昼過ぎ、うだるような暑さの中を歩いてきた私は、ハンカチで汗を拭いながらインターホンのボタンを押した。 しばらくして、弱々しい応答の声。亜紀ちゃんの母親だ。 「佳奈です。亜紀ちゃんのことで」 ほどなくして、亜紀ちゃんの母親――友子伯母さんが家の中から出てきた。 「どうしたの？」 作り笑顔なのが丸わかりだ。私はこの女の本性を知っている。世間体を気にする夫の言いなりで、周りに過剰なほど気を遣う。今は『一人娘を失った哀しみを耐えて気丈に振る舞う母親』を演じている。本当は亜紀ちゃんの死に触れて欲しくないから、私の用件を察していながらもこうしてとぼけた聞き方をしてくるのだ。 だからはっきりと用件を言ってやる。 「亜紀ちゃんにお別れを言いたくて。いいですよね」 「え、ああ……」 曖昧に返事する伯母さんの脇をすり抜け、開けっ放しの玄関から中に入る。線香の匂いがした。 リビングの片隅に仏棚が置かれ、その上には遺影と骨箱。線香は火を点けたばかりのようだった。 その前に正座して両手を合わせる。 「ありがとう。きっと亜紀も喜んでるわ」 伯母さんが後ろから話しかけてきた。口ではそう言いながら、本心は早く帰って欲しいに違いない。 伯母さんの神経を逆なでするのは本意でないから、私は早々に次の用件を口にした。 「亜紀ちゃんの部屋に入らせて下さい。思い出の品が欲しいんです」 「それは……構わないけど」 腹の内を探るような目だ。この子、何を考えているのかしら。そんな心の声が聞こえてきそうだ。いくら勘繰っても、私の本心なんてわかるはずないのに。 「じゃあ、失礼します」 亜紀ちゃんの部屋は二階にある。階段を上がって一番奥の左側。日当たりのいい、ベランダが南向きの部屋だ。 ドアを開けると部屋は暗く、遮光カーテンが引かれていると分かる。シンプルな作りの机とベッド、あとは本棚。女の子の部屋にしては簡素だ。無駄なことが嫌いな父親の干渉が、僅かに見て取れる。 ベッドの位置が壁に対して少し歪んでいた。誰かが動かして雑な戻し方をした感じ。何でこんな風になったのか、私は知っている。 ……いけない。余計なことは考えるな。伯母さんが入ってくる前に、目的の品を回収しなければ。 備え付けのクローゼットを開く。そこには私の探していた物が、以前と変わらない位置に隠してあった。 ● ――やめて、おとうさん！ ――ごめんなさい！ ごめんなさい！ ――いいこになるから、ゆるして!! 目を開くと、見慣れた天井がそこにあった。目元を拭うと涙の感触、どうやら泣いていたらしい。 亜紀ちゃんの家を訪問した後、私は自宅に帰ってきた。思い出の品を抱きしめながら自室のベッドで横たわるうち、眠ってしまっていたようだ。 胸元には硬い感触。エアコンをきかせたこの部屋では、ひんやりと冷たい金属製の箱だ。クッキーの詰め合わせを入れるような大きさの箱で、蓋には楕円形の額縁とその内側に綺麗な風景が描いてある。私達が幼稚園ぐらいの頃に、亜紀ちゃんのお父さんが海外旅行のお土産として買ってきたお菓子の箱だと聞いている。 私と亜紀ちゃんは、この箱を宝箱として使っていた。 お互いに書いては送り合った手紙を入れたり、公園で拾った綺麗な石を入れたり、記念写真なんかは数えきれないくらい入れた。二人にとって大切なものを、ありったけ詰め込んだ宝箱だった。 表面はざらついて、錆が少し出ているけれど、凹みや傷はない。それだけ亜紀ちゃんが大事に保管してくれていたってことだ。 アラーム音。 亜紀ちゃんとの思い出に浸ろうとしていたのに邪魔が入った。時計から耳障りな機械音が流れている。設定した覚えはないのに。 時刻は午後九時。思ったより長く眠っていた。夕食もお風呂もまだだけど、今の家には誰も文句を言う人がいないから気楽でいい。 父親も、母親も、今頃は各々の愛人と過ごしている頃だろう。我が家には団らんのひとときなんてものは存在しないのだ。 原因は私。私が両親の思う通りに育たなかったから。私が言いなりにならなかったから、母親が私に愛想を尽かした。それを見ていた父親は、妻に愛想を尽かした。そして寂しさを紛らわそうと近づいてくる父親を、私が拒否した。こうして今はみんな散り散りになっている。だからこの家は『ホーム』ではなく『ハウス』。つまり、ただの箱ってわけだ。 箱。 抱えていた金属製の箱を、そっと床に置いた。中身を確認しておこう。今は手紙や写真ではなく、別のものを入れてある。それは私だけの宝物だ。この中身を知る者は私以外に誰もいない。 箱の蓋に手を掛け、開こうとした。 カンッ。 音が鳴った。今のは箱の中から？ 注意して聞いていなかったからよく分からない。 箱を持ち上げて耳を近付けてみる。 何も聞こえない。 いや、そもそも。中に音を出すようなものは入れていなかった。 知らないうちに虫が入り込んだとか？ そんなはずはない。蓋の端に爪をかけてやっと開ける密閉性だから、虫が入れる隙間は無い。そして私は、中に生き物は入れていない。となると、中のものが動いて音が鳴ることは有り得ない。 なのに。 音が、もう一度鳴った。 「ひっ⁉」 思わず床に落としてしまった。部屋にけたたましい音が鳴り響く。その後にはエアコンの風の音が聞こえるだけ。エアコンの電源ランプが部屋の中をぼんやり照らし、薄闇の中に金属製の箱を浮かび上がらせる。なんだか得体の知れない物がそこに存在しているようだった。 寒気がする。エアコンの温度設定を低くし過ぎたからじゃないのは明らかだった。 床に落ちた箱を凝視した。動きはない。今は音も聞こえない。だけど蓋を開けた途端に何かが飛び出してきそうな気がして、とても触る気にはなれなかった。 ……きっと何かの原因があるんだろう。今は分からないだけで。そう思うことにした。 ベッドに潜り込み、布団を頭からかぶる。シャワーは明日にしよう。今はこの部屋から出るのも怖い。 この家には私以外、誰もいない。 ● 結局、朝まで眠れなかった。 一人で家にいるのも嫌だったから、学校へ行くことにした。 私が通う高校は偏差値が平均的な公立高校。私立の進学校へ通っていた亜紀ちゃんとは大違いだ。 公立高校だから色んな人がいる。優秀ではないけど真面目に勉強するのが取り柄の人、部活でそこそこの結果を出す人、それから中途半端に悪ぶっている馬鹿な男子。 「よう、佳奈。面白くなさそうな顔してんな」 朝から不愉快なことを言ってくれる。ホームルーム開始直前にそんな無神経を平気でやってのけるのは、同じクラスの大和田拓海だ。髪を金色に脱色した明らかな校則違反。教師が注意しないのは単なる事なかれ主義なのに、彼は自分が教師から恐れられていると勘違いしている。本当に馬鹿だとしか言いようがない。 「昨日、何で学校休んだんだ？」 私の机に腰掛けて聞いてくる。どうでもいいから、そこをどけ。 「何だっていいでしょ。あんたには関係ない」 あからさまに不機嫌な顔をしてやった。なのに拓海は食い下がる。 「んなこと言うなよ。俺たち、もう、なぁ？」 そう言って周りに目を配る。私達の間にあったことを他の生徒に知られたくないらしい。アウトローを気取っている割には、そういうところが童貞くさいというか。もう童貞ではないけれど。 「付き合ってるなら、彼女の心配ぐらいするだろ？ 何か悩みがあるなら聞くぜ？」 ……はっ、馬鹿馬鹿しい。 「誰が彼女だって？」 幾分、低い声を出した。この男には勘違いだと解らせてやったほうがいい。 「一度や二度ヤったぐらいで彼氏ヅラするんじゃない。私はあんたのことなんか何とも思ってないから」 「……なっ⁉」 よほど意外だったらしい。拓海は目をむいた。 「誰でもいいからヤりたかっただけでしょ？ で、私がたまたま初めての相手だっただけ。言っとくけどね、あんたが好きだから相手したわけじゃないよ」 「お前……！ 俺にあそこまでやらせといて、それはないだろ⁉」 拓海が気色ばむ。底の浅いワルは少し強気に出れば相手が引き下がると思っている。 「知らないって。あれはあんたが勝手にやったことでしょ？」 反論してきそうなところへ話題をすり替えてやる。 「そんなことより。こないだ私の中で出したよね」 「それは、勢いっていうか……」 「あんたが出したもの、うちで冷凍保存してるからね。何なら無理矢理犯された証拠として警察に渡してやろうか？」 「そんなの、合意の上だって言えば」 「馬鹿ね。その言い分を信用して貰う前に、警察はあんたを連れて行くよ。そしたら根掘り葉掘り聞かれるかもしれない」 反論はなかった。 「あんたのことだから、ビビって自分の悪事を全部吐いちゃうかも。そうなったら一番困るのは誰？」 この男に、刑事と対等にやり合えるほどの度胸はない。抱かせてやった時に本性はもう見たから解る。表向きは強気に振る舞っていても、実は気の弱い甘えん坊だ。普段の態度は虚勢でしかない。 「あんたは私の言うこと聞いてればいいの。余計なこと考えるんじゃないよ」 「……わかったよ」 結局、拓海はすごすごと自分の席へ戻っていった。 これでいい。馬鹿を相手にするのは疲れる。 とはいえ、馬鹿も使いようだ。拓海だけでなく、男はみんな馬鹿。体を許してやれば簡単に言うことを聞く。勘違いの恋愛感情を利用してやるか、無理矢理犯されたから刑事告発すると脅してやるかの違いがあるだけで。 本当に、男は馬鹿。そんな相手に恋愛感情なんて生まれるはずがない。 ● 授業が終わってしまった。私は部活をやっていないから、学校に残る理由がない。かといって家に帰る気にもなれなかった。帰ればまたあの箱に何かが起こるかもしれないから。 箱はなぜ音を鳴らしたのか？ 中に虫が入り込んだのでなければ、気圧の変化が原因というのはどうだろう。 ペットボトルの中にお湯を入れて蓋をし、そのまま放置しておくと、お湯が冷めて水になり、それに伴って気圧が低下する。そうしてペットボトルはベコベコと音を立てて凹んでいく。昨日の晩も、それと似たような現象が起こったのかもしれない。 ……いや。だったら箱が凹んでいないとおかしい。今朝見た時には、箱に凹みなんてなかった。それに、『私が中に入れた物』は、お湯のように冷めたら気圧低下を引き起こすようなものじゃない。 もしかして。 そう考えて、すぐに打ち消した。そんなはずがない。箱の中の物が、外へ出ようとしているなんて。そもそも自力で外に出られる生物ではないのだから。 考えながら校門へ向かっているところへ、突然声を掛けられた。 「飯田佳奈さん、だね？」 振り向くと、半袖ワイシャツにスラックス姿の男性。私の父親より少し若いくらいか。仕事帰りの会社員と言うには目つきが悪すぎた。 「何か？」 初対面の相手を邪険にあしらうほど私は馬鹿じゃない。不必要に愛想よくすることもないけど、こちらの名前を知っているということは、それなりの用意をしてから私に会いに来たんだろう。下手な態度を取って足元をすくわれるのは避けておきたい。 「俺はこういう者でね」 と言いながら、男性は他の生徒の目を避けるようにして手帳のようなものを私に見せた。そこには〈警部補 木場純一〉と書かれていた。 「君に聞きたいことがある。少し、時間を貰えるかな」 面倒な相手だ。初対面だから弱みに付け込んで断ることもできない。 「未成年ですけど、いいんですか」 「お母さんの許可は取ってあるよ。『好きにしてください』だとさ」 内心、舌打ちした。あの母親なら言いかねない。私の身に何が起ころうと我関せずの女だ。 「こちらも下手な真似はしないさ。君が捜査に協力してくれるならね」 協力、の部分が強調されていた。この分だと、この刑事は何かを知っている。下手に断れば疑われるに違いない。そうなると後々やりにくくなる。 「わかりました。で、どこまで行けば？」 「近くにいい喫茶店があるんだ。そこにしよう」 そう言って木場刑事は歩き出した。 ● 「鮫島亜紀さんのことは知ってるね」 テーブルまでアイスコーヒーとアイスティーが運ばれてきた頃に、木場刑事が切り出した。 私たちが来たのは学校からほど近い商店街にある純喫茶。こういうのを風情があると言って好む人もいるけれど、私にしてみれば古臭くてタバコ臭い喫茶店でしかなかった。 「はい、従姉妹ですから」 それくらいのことは調べがついているだろう。 「生前、彼女とは仲が良かったそうだね」 こくりと頷く。相手がどんなカードを持っているか分からないから、下手に発言しないほうがいい。 私に構わず、木場刑事は続けた。 「彼女が亡くなった日、君が一緒にいたという情報があるんだけどね」 「それっていつですか？」 かまかけに引っかかるものか。亜紀ちゃんが亡くなった日を知っているかどうか、探りを入れてきたんだろう。 「五日前だよ。一緒にいたんじゃないの？」 日付は割とあっさり教えてくれた。私が亜紀ちゃんと一緒にいたかどうかが重要らしい。ここで嘘をついて後でバレたら疑われる。認めておいたほうが良さそうだ。 「一緒にいました。遊ぶ約束をしていたもので」 「行き先は君の家だね？」 「はい」 やはりここまで調べがついていた。家の周りを散々嗅ぎ回ったんだろう。 「君の家で何をしていた？」 「別に。喋ったり、スマホ見たり。普通だと思いますけど」 「そうか」 木場刑事の表情は揺るがない。その余裕が少し気に障った。 「ていうか何なんです？ 私、亜紀ちゃんがどうなったか知らないんですけど」 「知らない？ 本当に？」 その聞き方は、私を犯人だと疑っている聞き方だ。 「知らないのか。てっきり俺は……いや」 木場刑事はコーヒーを一口飲むと、テーブルの上で手を組んだ。 「なら教えるけど」 身を乗り出すようにして、私の目を覗き込んでくる。 「鮫島さんの遺体はバラバラにされ、一斗缶に詰め込まれた状態で発見されたんだ」 店内の空気が澱んでいくのを、私は確かに感じた。 ● 木場刑事によれば、亜紀ちゃんは何者かに殺された疑いがあるそうだ。殺人と断定されたかどうかまでは聞かされていない。とにかく、無惨な姿で緑地公園の片隅に放置されていたのは間違いないという。 だから警察としては死体損壊及び遺棄事件として捜査している。被害者の身辺を調べるのは基本中の基本で、そんな中、浮上したのが生前親しかった私というわけだ。 当初、私が犯人と疑われていたらしい。でも、私のアリバイは他の場所の防犯カメラが証明してくれた。今の私は参考人に過ぎないと木場刑事は言っていた。 結局あのあと、厳しい追及はなかった。私から重要な証言が引き出せなかったから、打ち切ることにしたんだと思う。 この際はっきり言うけど、私は亜紀ちゃんをバラバラになんかしていない。あの綺麗な肢体を切り刻み、窮屈な一斗缶に詰め込むなんて真似、私にできるはずがない。 犯人が亜紀ちゃんの体を解体し、一斗缶に詰め込む様子を想像する。途端、自宅に置いてきた金属製の箱を思い出した。あの箱にも、私が詰め込んだ物がある。 帰れば、あの箱が私を待っている。あるいは、待っているのは箱の中身のほう。オカルトの類は信じない方だけど、実際あんな事が起こった後だと気味が悪い。今日は帰るのをやめようか。帰らなくたって誰も文句は言わないし。 となると行き先は自然に決まる。 夜の街。 あそこには一晩の食事も、宿も、提供してくれる人がいくらでもいる。 ● 「ねぇ、おじさん。私、今日、帰れないんだぁ」 眠ることを知らない夜の街で、名前も知らないおじさんに声を掛ける。今日は金曜日だから、酔いどれ達の数は多い。それはその分だけ獲物が多いってことだ。 「あー、お断りだね」 高級そうなスーツを着たおじさんがヒラヒラと手を振り、私の横を通り過ぎていった。成金っぽかったから期待していたけど、高望みし過ぎたらしい。 これで三人目だ。やっぱり大物狙いはよくない。豪華なホテルとディナーが欲しいわけじゃないから、もっと確実なのを狙おう。 チャラい奴はパス。あいつらヤリ目だから引っ掛けやすいのは確かだけど、暴力振るわれたらたまらない。 スケベそうなオヤジも嫌。だってなんか汚い感じするし。 狙うなら、真面目そうだけど気が緩んでる会社員あたりがいい。 そうそう、ちょうどあんな感じの。 おあつらえ向きの男が、駅前をうろついていた。くたびれたスーツにダサい眼鏡。歳は四十過ぎくらいか。顔がほんのり赤い。終電にはまだ早いから、二軒目を探しているんだろう。見たところ気が弱そうで、日頃からストレスを溜めていそうだ。だから週末に酒の力を借りて気を紛らわせたい、そんなところだろう。 さて、こいつはどんなもんか。 私はスマホの画面を見ながら歩く。通行人のふりをして獲物に近づいた。相手は周りの飲食店に気を取られているから、私に気付いていない。 「あっ……⁉」 おじさんと肩をぶつけて転ぶ私。ミニスカだから脚を多少は擦りむくかもしれないけど、まあ仕方ない。 「ごっ、ごめん！ 大丈夫？」 おじさんが血相変えてしゃがむ。この反応からしてアタリを引いたみたいだ。 「ごめんなさい。私も前をよく見てなくて」 キレるのは逆効果。こういう相手にはしおらしくして、罪悪感を植え付けてやるのがいい。 「大丈夫です。すいませんでした」 と言って立ち上がろうとする。 ここから先が腕の見せどころだ。 「立てる？」 そう聞かれたのに合わせて、脚に力が入らない演技。痛みを堪える表情も忘れない。 「無理しないで。救急車呼ぼうか？」 おじさんはスマホを取り出した。その手を掴み、私は首を横に振る。 「駄目。私、お金持ってない」 「お金なら何とかなるよ。それより脚が心配だ。骨って、意外と簡単に折れちゃうから」 こういうところが変に真面目というか。ますますいい獲物だ。とはいえ救急車を呼ばれるわけにはいかない。 「本当にやめて。救急車きたら、親を呼ばれる。それだけは絶対に駄目」 腕を掴む手に力を込めた。 「私、帰れないんです。帰ったら親に殺される……！」 迫真の演技だ。ここで涙を流してやれば、否が応でもワケアリだと察する。あとはこのおじさんの優しさに付け込めば、ミッション成功だ。 おじさんは困った様子で腕を下ろす。どうしていいか分からないみたいだ。 「少し休めば大丈夫だから……」 「休むって、こんな場所じゃ」 繁華街の往来ど真ん中で、ワケアリそうな女子高生と四十過ぎのサラリーマン。嫌というほど視線が集まってくる。 「と、とにかく人が少ないところへ」 おじさんが肩を貸してくれる。歩き出す先は人が少ない裏通り。 ――かかったな。 ラブホテルの看板が、私達に手招きしていた。 ● 休憩時間は六十分。お金はおじさんが払ってくれるという。 二人で部屋に入ってから、私は自分の身の上話をした。 うちの両親は自分の理想を娘に押し付けて、娘がその通りに振る舞わないと怒り狂う。従順でいれば優しい親でいてくれるから、幼い頃は親の言う通りにしてきた。それが正しいことだと思ってた。 でも年齢が上がってくると、他の家庭の話題や教育者の論説が耳に入るようになる。それらを聞いて私が思ったことは「うちの両親が異常」だった。 あんたら間違ってる、親なら子に何してもいいのか、私はあやつり人形じゃない――何度言ったことか。 いいようにされるのが我慢ならなかったから、私はとことん反発した。 そうすると今度は暴力に訴えてきた。幾多の痛みを経て、ようやく私がたどり着いた結論は、うちの両親にあるのは愛情なんかじゃなくて、娘への支配欲だけだったということ。十六年生きてきてやっと見えてきた真実だった。 ――という話をしたら、おじさんは信用したらしい。親身になって聞いてくれた。まあ半分くらい嘘なんだけど。 おじさんは、君の力になれなくて申し訳ない、と言っていた。これも普通の人なら当たり前のことだろう。今日知り合ったばかりの女子高生を救おうだなんて、よほどの馬鹿じゃなきゃ考えもしない。 それでも私は気が晴れたような顔をして、「聞いてくれてありがとう」なんて心にもないお礼を言うのだった。 こうやって同情を誘いながら、健気な自分を更に演じた。ここから先が本題なのだ。 今、おじさんはシャワーを浴びに行っている。私が体を擦り寄せて、せめてお礼がしたい、人肌の温もりが欲しいなんて言ったら、すっかりその気になっちゃって。 親切な大人のふりをして、結局は他の男と考えることは同じだ。 おじさんが浴室から出てくる前に、手荷物を調べておく。 ビジネスバッグには大したものが入ってなかった。それならズボンのポケットは？ あった、財布だ。お金は、まあまあ入っている。こっちのカード入れには免許証と、これは……保険証かな？ 私のと違う。ええと、共済？ これってもしかして―― ● いい年したおじさんが、小娘相手に必死で腰を振ってたのが無性におかしかった。 やることやらせたなら、今が好機。 「おじさん、教師なんだって？」 服を着る途中で聞いてやると、相手が血相を変えた。 「どうしてそれを……⁉」 「駄目だよ、遊ぶときにはこういうの持ってきちゃ」 私は保険証を投げ渡す。発行元は公立学校共済組合。おじさんの顔は蒼白になっていた。 「教師が未成年と淫行。酒の勢いがあったにしても、色々とまずいんじゃないのー？」 「君、それと分かってて」 「バッチリ録画したからね。あんたの顔も映ってるよ」 私はスマホの画面を見せる。 「変な気起こさないでね。ラブホって部屋に隠しカメラあるらしいよ」 「……どうすればいい？」 懸命な選択だ。暴れて警察沙汰になるよりは、従ったほうがマシだと考えたらしい。私にとっては狙い通りの展開。胸の内がスッキリする。 「休憩を宿泊に変えてくれる？ あとはお金をあるだけ置いてってくれたらいいよ。言う通りにしてくれたら、動画は消してあげる」 従わなければネットで公開してやる、と言外に含ませた。 「……わかった」 屈辱に満ちた顔で、おじさんはそう言った。私が動画を消す保証なんて無いけど、従わなかった時のリスクが大きいから言いなりになるしかない。 おじさんはフロントに電話を入れた後、財布からお札を抜いて、ベッドの上に置いた。その後はそそくさと服を着て、ドアの方に歩いていく。退室間際にこんなことを言っていた。 「こんなことを続けてたら、いずれ自分に返ってくるよ」 優しそうだった目が、恨みのこもった目になっていた。悔しいけど仕返しできない、そんな人間が見せる独特の表情。そんな顔を見せられて、優越感に浸る私だった。 ドアが閉まる。 遠ざかる足音を聞いているうちに、笑いが込み上げてきた。 最後のは捨て台詞？ 負け犬の遠吠えじゃないか。 まんまと騙されたくせに。 親切なふりをして、結局はヤりたかっただけのくせに。 どの口があんなことを言うんだろう。 「馬鹿じゃないの」 あまりにもおかしかったから、ベッドの上で笑い転げた。 いい大人が、たかだか十六の女子高生にいいようにあしらわれて。私が逆の立場だったら、恥ずかしくて表を歩けない。 しかも教師。日頃から生徒に綺麗事を言って聞かせているだろうに、その裏では倫理に反したことをする。これだから大人は信用ならない。特に男は。 さて、笑うだけ笑ったら、シャワー浴びて休もう。朝になれば怖くない。帰ったらまずやることは―― カンッ 金属音が聞こえた。 この音は嫌でも覚えている。 私の部屋に置いてきたはずの、箱が鳴る音だ。 まさかと思って周りを見渡すと、ソファの上にそれがあった。 誰が、いつの間に運んだのか。少なくとも私じゃない。というか、誰だろうとこの部屋に運ぶ理由がない。 どうして？ もしかして、自力でここまで来たのか？ 一体どうやって？ さっきまでの可笑しさが急激に冷めていく。心臓が高鳴り始めた。これは多分、『よくないもの』だと直感した。 逃げなきゃ。そう思うが早いか、私はベッドを降りた。 急いで下着を身に着けているうちに、音がもう一度。さっきより大きい気がする。 更にもう一度。だんだん間隔が短くなってきている。 音に追い立てられるようにして、私は服を着ていく。早くこの部屋から出ないと、箱の中から化物が飛び出してくるような気がした。 早く、早く。 焦りから上手くジッパーを閉じれない。まだあと靴下もあるのに。 音がうるさくなってきた。踏切の警報器みたい。焦りが加速していく。 右の靴下は何とかはいた。あとは左を―― すると突然、部屋が真っ暗になった。 音も消えた。 まるで異世界へ引きずり込まれたような 「……あけて」 声だ。 女の声。 どこから？ 暗くて分からない。 私は悲鳴を上げ、ドアのあった方へと駆け出した。 ● 部屋から出るには相当な労力を要した。 ドアの横にある自動精算機にお金を入れないと、ドアが開かない仕組みになっていたのだ。 真っ暗な部屋の中で、私はスマホの明かりを頼りにベッドの上のお金を掴み、精算機に投入した。恐怖で手が震えてたから、お札を上手く入れられなかった。そうしている間にも、女の囁き声が私にどこかを「あけて」と要求するのだった。 請求された金額を投入し終えると同時に、ドアロックが解除された。お釣りを取る余裕もなく、私は部屋を飛び出す。 廊下を走り抜け、なかなか来ないエレベーターにしびれを切らし、外階段を駆け降りた。そうして私は、夜の街へと身を踊らせた。あとはよく覚えていない。気付けば電車の駅に来ていた。 「はあっ、はあっ……」 駅構内の柱に手をつき、息を整える。逃げるのに必死で、自分の体力を度外視していた。 「あけてください」 その声に、体がビクリと震えた。 見ると、自動改札機が閉じている。今のは乗客か駅員の声だったらしい。 緊張が解け、私はその場にしゃがみ込んだ。もうあの声は聞こえてこない。 あの声は何だったんだろう。 ……いや、心当たりならある。 亜紀ちゃんの声だ。死んだはずの亜紀ちゃんが、私に訴えている。あの箱を開けて欲しいと。中に閉じ込めたものを返さないと、亜紀ちゃんはあの世に行けないんだ。 あの箱の中には、私が亜紀ちゃんから奪ったものを入れてある。彼女のことが妬ましくて、けれどそれ以上に愛おしくて。だから私は奪ったのだ。 彼女から奪ったものを返せば、この恐怖から解放されるかもしれない。だったらあの箱を回収しなければ。 今、あの箱はどこにあるんだろう。私の部屋に置いてあったはずのものが、何故かラブホの部屋にあった。物理的なものは考えないとして、あの箱は私を追いかけてくるようになっているのかもしれない。 周りを見渡した。今この瞬間にも、あの箱が私の近くに来ているかもしれないからだ。 目を皿のようにして探したものの、見つからない。近くには来ていないのか。それとも、箱が出現するには何か条件があるのか。 条件。 考えてみて思い出したのは、私が部屋の中に一人でいた時に箱が鳴ったということ。 もしそうだとしたら。 第一に、私が一人でいること。 第二に、私がどこかの部屋に入っていること。 この二つの条件が揃っていれば、箱が私の元に出現することになる。実際、いま私は一人でいるけれど、近くに箱は来ていない。それはさっき考えた第二の条件を欠いているからじゃないのか。 とにかく、条件を揃えて箱を出現させ、中のものを亜紀ちゃんに返そう。でないと私はいつまでも追い回される。 「佳奈、そこで何してるんだ」 いきなり声を掛けられた。 振り向くと、そこには拓海が立っていた。 ● 「何であんたがここに」 アウトロー気取りの弱虫だから、背伸びして夜遊びでもしているのかと思ったら。そうでもないらしい。表情が普段と違っていた。何かに絶望したような暗い顔、自殺を決意した人のような思い詰めた空気を纏っていた。 「お前の後を尾（つ）けてたんだよ」 「……は？ 気持ち悪いことするね」 けなされて反論してきたら、また今朝みたいにやり込めてやるつもりだった。 「俺はもう、お前しかいないんだ」 「何それ？ 好きだから、ってやつ？」 こいつ、ストーカー気質なのか。面倒な奴に関わってしまった。 「さっき、知らないおっさんとラブホ入ってったろ」 舌打ちする。見てたのか。しかも私が出てくるまで待ち伏せするとか。本当に気持ち悪い。 「で？ 私が誰とヤろうが勝手じゃん。また彼氏ヅラすんの？」 「俺は彼氏だと思ってる。でなきゃあんなことまでしねぇよ」 こいつはまだ解っていないらしい。私がこいつと体の関係を持ったのは、こいつを利用する為でしかない。勘違いさせて恋愛感情を抱かせれば、私の言いなりになると思っていたから。 実際、こいつは私の為に動いた。だけどあれはやり過ぎだ。 亜紀ちゃんの体をバラバラにするなんて。 「お前が『助けて』って言うから、あの女を始末したんだ。缶に詰めて捨てたのも俺だ。なのに『ありがとう』の一言もないのかよ！」 「そこまでやれとは言ってない！ あんた頭おかしいんじゃないの⁉」 「お前の為にやったことだ。なのにお前は俺を捨てようとする。そんなの、堪えらんねぇよ……！」 拓海の目が血走っていた。 「どのみち俺たちは警察に捕まる」 「私は捕まらない。全部あんたが勝手にやったことって警察に言うからね」 「そうくると思ったぜ。だったらいっそのこと」 拓海がポケットの中に手を入れる。出したその手に握られていたのは、折り畳み式のナイフだった。 「俺と一緒に死んでくれ」 息を呑んだ。代わりに通行人が悲鳴を上げる。それを合図に、私のフリーズが解けた。 走る。改札口めがけてまっすぐに。 自動改札機にカードタッチする間も惜しい。私は強行突破した。 「待てッ！」 拓海が追いかけてくる。彼の持つナイフを見て、周りの人々が離れていった。誰も私を助けようとしない。 目の前の階段を駆け下りた。この先はプラットホームだ。視界が開けたら、ちょうど停車している電車が見えた。「ドアが閉まります」のアナウンスが聞こえると同時に、私は車内に飛び込んだ。 拓海は追いつかなかった。ドアの向こうで悔しそうに壁を殴りつけている。私への怒り、悲哀、そして絶望……そういったものが複雑に混じり合った表情だ。 電車が動き出し、拓海の姿が遠ざかる。声は聴こえなかったけど、何かを叫ぶ様子が見えた。 かと思えば、拓海は反対側のプラットホームへ向けて駆け出した。電光掲示板によると、次に来る電車は特急。この駅では通過する予定の電車だ。 間もなく電車が通過すると告げられていた。 拓海は止まらない。 そして彼は。 線路に飛び込んだのだった。 ● ✕✕駅で人身事故発生。 そんなニュースをスマホで見ながら、私は反対方面行きの電車に揺られていた。 拓海は警察に捕まることよりも、死ぬことを選んだようだった。刑事責任を負わされるのが怖かったのか、それとも罪の意識に苛まれてのことだったのか。私に見限られたのが決定的だったのは間違いないだろうけど。 亜紀ちゃんの遺体を切り刻んで捨てたのは、拓海だった。 私がそのことを彼から知らされたのは四日前。つまり亜紀ちゃんが亡くなった日の翌日だ。 確かに私は、亜紀ちゃんのことで困り果て、利用しやすい拓海に電話を架けた。そして『助けて欲しい』と頼んだ。 すると彼はすぐに私の元へ飛んできて、「あとは俺に任せろ」と言い、亜紀ちゃんをどこかへ運んでいった。そのとき拓海は具体的にどうするのか話さなかったけど、翌日、ニュースになったことでようやく分かった。後で電話したら、得意げに「俺がやった。お前の為だからな」なんて。 助けて欲しいとは言ったけど、平然とあんなことをする神経に、さすがの私も引いた。だからあいつを見限ることにしたのだ。 でも、あいつは簡単に引き下がらなかった。あいつの本性を知っているつもりだったけど、まさかここまで馬鹿だったとは。私の人を見る目もまだまだだったようだ。 スマホの電話帳から、拓海の携帯電話番号を消した。送受信したメッセージも全部消去。あいつと関わった痕跡は、できるだけ消しておかないと。警察に調べられた時に言い逃れできなくなる事態は、何としても避けたい。 一緒に撮った写真や動画も消しておこう。そう思ってアルバムのアプリを開くと、別の動画が目についた。 この動画が全ての始まりと言っていい。これを見てしまったから、歯車が狂い出したのだった。 私は当時の心境を思い出す為に、動画を再生することにした。 ● 私は亜紀ちゃんが好きだった。 従姉妹として、というよりは一人の女性として。 きっかけは私と母親の親子喧嘩だった。 私の母親はコンプレックスの塊だ。それはきっと優れた姉――友子伯母さんのことだ――と幼い頃から比較され続けてきたからだろう。お互い結婚した後も、母親は優等生の亜紀ちゃんを娘に持つ友子伯母さんを羨み続け、実の娘である私を亜紀ちゃんに可能な限り近づけようとしていた。 私も亜紀ちゃんみたいになりたかったから、自分を理想の姿に近づけようと努力したけれど、生まれ持った能力だけはどうにもならない。結局、私は亜紀ちゃんの足元にも及ばなかった。全てにおいて。 私が亜紀ちゃんの模造品にすらなれないと知るなり、母親は私を見限った。「あんたみたいな欠陥品、生むんじゃなかった」とまで言われた。 それを聞いた当時の私は怒り狂い、母親と掴み合いの喧嘩をした。その後で亜紀ちゃんに慰めて貰いに行ったのだ。 亜紀ちゃんはいつもと変わらず優しくて、「佳奈は佳奈のままでいいの。私は今の佳奈が好きだよ」とまで言ってくれた。母親に存在を否定され、心に傷を負っていたところへ、亜紀ちゃんの一言は効果覿面だった。単なる憧れから、唯一の理解者になって貰えた気がして、それが恋愛的な意味での好意に変わるまでには、それほど時間を要しなかった。 これが中学二年の頃の話。以来、私は亜紀ちゃんを慕うようになった。彼女から拒否されるのが怖くて本心を打ち明けることはできなかったけど、一緒にいられればそれでよかった。 いつも隣に居たい。彼女のことをもっと知りたい。高校一年生の時には、そんな気持ちがより強くなった。これは別々の高校に通うようになったからだと思う。 亜紀ちゃんへの想いを募らせた私は、ある時ふと思いついた。 亜紀ちゃんの部屋に、隠しカメラを取り付けよう。 機材や方法はネットで調べた。お金はバイトで稼いだ。親密な仲だったから彼女の部屋には自由に出入りできた。なので彼女がいない時を狙って、クローゼットの中にカメラを取り付けたのだ。 そう。きのう私が亜紀ちゃんの部屋から回収したのは隠しカメラ。宝物を入れた箱は、もっと前に持ち帰っている。 毎日のように、電波に乗ってスマホに送られてくる亜紀ちゃんの姿。自分の部屋で過ごす彼女の姿を観察するのが、私にとっての楽しみだった。 隠しカメラを取り付けてから一年余りが過ぎた頃、私は異変に気付いた。時々、亜紀ちゃんが酷く怯えた様子で部屋に戻ってくるのだ。初めはホラー映画でも観たのかと思っていたけど、同じようなことが続くとさすがに違和感があった。彼女の腕に真新しい傷が見えたことで、犯罪的なものだと私は直感した。 その原因について、それとなく聞いてみたことがある。だけど彼女は優等生の笑みを浮かべて「大丈夫、心配しないで」としか答えてくれなかった。 悶々としたまま、送信されてくる動画を観続ける毎日。真実は思いもよらないタイミングで明らかになった。 あれは亜紀ちゃんが亡くなった日の前日。いつものように動画を見ていたら、彼女の部屋に伯父さんの姿があった。 伯父さんは都市銀行の役員で、忙しさのあまり家を空けがちだと聞いていた。その伯父さんが亜紀ちゃんの部屋にいること自体珍しいことだけど、それよりも異常な出来事が起きていた。 伯父さんが、亜紀ちゃんに暴力を振るっていたのだ。 ――やめて、お父さん！ ――ごめんなさい！ ごめんなさい！ ――いい子になるから、許して!! 幼児返りしたような台詞を叫ぶ亜紀ちゃんに、伯父さんの執拗な折檻は続く。やがて従順になった亜紀ちゃんは、ベッドに横たわった。そこへ伯父さんが覆い被さり――だからベッドの位置がズレたのだ。 行為の最中、伯父さんは亜紀ちゃんに言い聞かせていた。 今の生活ができるのは誰のおかげだ。お前達は私の言うことを聞いていればいい。決して私に恥をかかせるな。選ばれた人間に相応しい妻と娘であれ……大体そんな感じだった。親戚で集まった時に見せる姿と違って、亜紀ちゃんを蹂躙する伯父さんの姿は魔物のようだった。 ● 亜紀ちゃんは実の父親に虐待されていた。 そして彼女が優等生だったのは、そう在ることが唯一、自分の身を守る方法だったからだ。 そうと分かった時、私は思った。 亜紀ちゃんも他の大人と同じように、仮面をかぶって理想の姿を演じていただけなのだと。 親に反発して仮面を捨てた私だから、伯父さんの言いなりになる亜紀ちゃんが理解できなかった。 きっと彼女は、親にマインドコントロールされているに違いない。だったら私が助けてあげなきゃ。あのとき私は、本気でそう考えていた。 だからあの日、私は亜紀ちゃんを家に呼び寄せ、説得することにした。 あんなことまでされて、親の言いなりになる必要はない。証拠の動画があるから、警察に行こう。そう言うと、亜紀ちゃんは予想外の反応をしたのだった。 ――何で佳奈が知ってるの？ ――それにその動画、どうやって撮ったの？ ――私の恥ずかしい姿を、ずっと観察していたの？ はっきりと示されたのは疑念、続いて不信感、そして拒否だった。 ――信じられない！ ――嫌、気持ち悪い！ 恥辱に堪えかねた表情で帰ろうとする彼女を、私は引き止めようとした。でも亜紀ちゃんは、こちらを睨みつけて言った。 ――佳奈なんて知らない！ ――あんたなんかと知り合わなければよかった！ その言葉で、母親に自分の存在を否定された時のことを思い出した。 あとは感情のまま、私はキッチンへ走り、包丁を持って―― そう。亜紀ちゃんを殺したのは、私なのだ。 ● 結局、家に帰ってきた。 深夜に明かり一つない一戸建ては、まるで住む人を必要としない巨大な箱のようだった。 鍵を開け、中に入る。電灯のスイッチを押したのに、明かりが点かない。亜紀ちゃんの亡霊は近くまで来ているようだ。 仕方なく、スマホの明かりを頼りに自分の部屋まで行く。中に入り、ドアを閉めると、エアコンを点けてもいないのに冷気を感じた。 カンッ。 その音に、私は反応する。ベッドの上に、例の箱があった。私がこの部屋に、一人で入ったから、姿を現したのだ。 「亜紀ちゃん、いま返すからね」 箱の蓋に指を掛け、開けようとする。 この中に入っているものは、『亜紀ちゃんの顔』だ。 親の言いなりで、かぶり続けた仮面。誰よりも美しく、誰よりも清らかな、作り物の顔。これをかぶれば、私も亜紀ちゃんになれる。かつて憧れ、叶わなかった、最愛の彼女に。 亜紀ちゃんの亡骸から、刃物を使って丁寧に剥いだ、彼女の顔の皮。返すのは惜しいけど、私の日常を取り戻す為には仕方ない。 蓋を開けると、異臭が鼻をついた。もう腐ってしまったらしい。黒ずんだ皮に蛆（うじ）が湧き、ミチミチと喰（は）む音を立てている。羽化したハエが羽音を立て、私の周りを飛び回る。 あまりの酷さに、私は窓を開けた。あんなに綺麗だった亜紀ちゃんの顔が、ただの汚物になってしまった。 こんなもの、もう要らない。 窓から、箱を外に放り投げた。ガランガランと耳障りな音が深夜の住宅街に響き渡る。 「ほら、返したよ。だから許して」 亜紀ちゃんが望む通りに、箱を開けてやった。そして顔を返した。これで私は普段の生活に戻れる。 これからも自由自在に仮面を駆使し、馬鹿な男を利用して、親の支配から解き放たれたおもいのままのせいかつを 「やっと開けてくれたね」 開けた窓から、黒い影が滑り込んできた。 流体のようなそれは私の前で滞留し、少しずつ人の形を成していく。 「あ、亜紀ちゃん？」 人影は私に近付く。次第に服や髪といった細部が形成されていく。手が届きそうな距離まで来た時には、彼女の顔がはっきり見えた。 在りし日の美しさは見る影もなく、腐りきった皮を貼り付けただけの無惨な顔。しかし、目だけは異様な光を宿している。 「ゆ、許してくれるよね……？」 亜紀ちゃんは答えない。 代わりに、凄絶な笑みを浮かべた。それはあたかも、自分の思い通りに事が進んでいる時の策士のような。 唐突に理解した。 亜紀ちゃんは箱を開けて欲しかったんじゃない。 私が一人でいる部屋の、窓やドアを開けて欲しかったんだ。 周りの目を意識して生きてきた亜紀ちゃんだから、人目を気にせず私と対峙できる状況が欲しかったに違いない。私が部屋に一人でこもっていたら、あとはその部屋に入れて貰うことが出来さえすれば、望み通りの状況が完成する。亜紀ちゃんはこれを狙っていたんだ。 私の考えていることが分かったのか、亜紀ちゃんはますます顔を笑みの形に歪める。 そして黒ずんだ口から白い歯を覗かせ、こう言ったのだった。 「許さない」 ● ● ● 「ねえ、あなた。聞きました？ 佳奈さんのこと」 「知らないな。どうした？」 「昨日、自宅で亡くなったんですって」 「……亜紀のことといい、不幸が続くな」 「ええ。今朝も警察の方が来ていましたよ。確か、木場とかいう」 「あの無礼な刑事か。で、何と？」 「『おたくの娘さんの事件と無関係に思えない。何か知っていることはないか』と」 「お前、余計なことを喋っていないだろうな」 「……はい、何も」 「それならいい。また来たら、何も知らないと言っておけ」 「わかりました」 「ん？ 誰か来たな」 「あらそうですか？ インターホンのモニターには誰も映っていませんけど。故障かしら？」 「そんなはずはない。確かに『開けて』と言う声が聞こえたぞ」 「ちょっと玄関の外まで出てみます」 「ああ、そうしてくれ」 ［了］ |
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庵（いおり） 2022年08月14日 23時50分08秒 公開 ■この作品の著作権は 庵（いおり） さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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