逆さま少女の憐憫 |
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きっかけは日曜日だった。スーパーマーケット店に入り、幼い弟にお菓子を買って帰ろうと店内を歩いていたら、とんでもない場面を目撃した。 宮前凜花(みやまえ りんか)だ。クラスメイトだから見間違えるはずがない。ロングの黒髪に整った目鼻立ちをしている。スカートから伸びる足は細く、簡単に折れてしまいそうだった。 凜花は大きめの鞄に手を入れ、その手を抜くと、今度は商品棚の奥に手を突っ込んだ。そして、また鞄の中に手を入れ、同じ動作を繰り返した。 見間違いかな? 最初はそう思った。 しかし、どう見ても彼女は万引きしている……。動作が不自然すぎた。 店員に言うべきか? それとも注意すべき? 注意するとしたらなんて言おう? 「あっ……」 わたしが迷っていると、彼女は澄ました顔で振り返った。犯罪行為をした人間とは思えない堂々とした態度で歩き去っていく。そのまま自動ドアを抜けて外へ出た。 とんでもないところを見てしまった。そして、見過ごしてしまった……。 罪悪感がのしかかる。 彼女が手を突っ込んでいた棚のスペースには、桃の缶詰が並べられていた。 わたしは買い物を中断した。購入欲がなくなったからだ。店員の目を避けるようにスーパーマーケット店を後にした。 ■ 「へえ。だからそんな変な顔をしていたのか」 麻耶つばさが愉快そうに笑った。 昼休みだった。わたしとつばさは中庭のベンチに腰掛け、弁当を食べている。中庭には、様々な生徒がたむろしていた。皆、思い思いの過ごし方をしている。 つばさは水筒に入ったミネラルウォーターを飲んでから、こちらに目を向けた。 「それで、どうするつもりだい?」 わたしはパンを咀嚼して呑み込み、口を開いた。 「……なにが」 「とぼけるなよ。君は、クラスメイトの重要な秘密を握ったんだ。いくらでもやれることがあるだろ。脅して金をとるとか」 「どうしてそういう発想が出るかな……」 眉を顰める。 つばさに様子が変であることを指摘されたのは、昼休みに入ってすぐのことだ。妙に優しく訊き出してくるから、思わず万引きの件を白状してしまった。一生の不覚だ。 「ま、冗談はさておき」 つばさは弁当の蓋をしめて言った。 「君は嘘をつけない性格で感受性が豊かだ。凜花くんのやったことを、自分のしたことのように感じて苦しんでいるんだろ?」 言い当てられ、項垂れる。 「凜花くんは裕福な家庭だと思ってたんだけどね……。動機が気になるところだ。さて、どうやって吐かせようか」 目を輝かせて言う。 わたしはげんなりした。やはり言うべきではなかったのだ。面倒な展開になることは目に見えている。 つばさとは、高校に入ってから知り合った。 すらりとした体躯に、中性的で美しい顔。モデルをしていてもおかしくないと思った。言動はともかく、立ち振る舞いには品のよさを漂わせている。宝塚の歌劇団にいそうなタイプ、と言えば伝わるだろうか。 一方わたし――室星比奈(むろぼし ひな)は、髪を薄く茶色に染め、ポニーテイルにしている。顔には自信がなく、「もう少し鼻が高ければなぁ」とか「目が大きければなぁ」とか毎日のように鏡の前で溜息をついている。背も高くなかった。 つばさと一緒にいると目立ち、比較されるようで嫌だったから、距離を置こうとしたこともある。でも、つばさはわたしの気持ちを知ってか知らずか、離れようとはしなかった。 なぜわたしに絡んでくるのか――その点はいまだに謎のままだ。 初めてつばさに声を掛けられたのは、ゴールデンウィークが明け、梅雨が始まった頃だ。わたしが教室の隅で読書をしていると、頭上から「やあ」と聞こえた。顔を上げると、つばさがにっこりとした笑みを浮かべ、わたしを凝視していた。 「な、なんですか?」 緊張しながら口を開く。相手はクラス一の美少女だ。ほとんど喋ったことがなかった。 「私達は同級生だろ。敬語はやめてくれよ」 「あ。すみません」 「からかってるのかい」 「ご、ごめん」 つばさは近くの席に腰掛けると、体をこちらに向け、わたしの手元を見た。 「小説か。いつも読んでるね」 「うん」 「シャーロックホームズ、好きなのかい」 「そ、そうだけど……」 ブックカバーをつけているので、背後から覗き込まれたんだろう。なんとなく恥ずかしい気持ちになる。 つばさは笑みを浮かべ、唐突に言った。 「好きだ」 ……え? いきなり美人に告白された。体が硬直する。 「ミステリ小説、私も好きなんだよ」 つばさは恍惚とした表情を浮かべた。自分の勘違いに気づき、脱力する。そりゃそうか。百合要素のある小説を読んだばかりだから、誤解してしまった。 「より正確に言うと、人の本性を暴くタイプの作品が好きで堪らないんだ。そういったものはミステリに多いだろ?」 つばさは笑みを浮かべて言った。そうだね、と頷く。 「人は一日に二百回嘘をついてしまうものらしい。知ってたかい?」 「え、そんなに!」 「驚くだろ」 ふふん、と我が意を得たりとばかりに頷く。心理学者の多くがそう言っているという。知らなかった。 「どうでもいい嘘から重要な嘘まで、さまざまな嘘をつく。私は、その人間の根幹にかかわる嘘――それが暴かれた時の人間の剥き出しの感情や本質を見ることが、堪らなく好きなんだ」 「は、はあ……」 よくわからない。 つばさは、わたしの様子を見て、少しがっかりしたような態度を見せた。 「ピンときていないようだね。君にもわかるように例えるなら、そうだな。絶世の美女を丸裸にしたい欲求に似ているかもな」 「わたし、女なんだけど……」 「女だって美女の裸は気になるものだ。私の裸を見たいとは思わないか?」 言われてみれば見てみたい気が……、と一瞬納得しかけ、顔が熱くなる。なにを考えているんだ。というか、やはり自分を美女だと自覚しているのか。 「君は以前、嘘をついたね」 いきなり話が飛んだ。困惑して「えっ」と声が漏れる。 「ミステリ作家と刑事」 「……」 わたしは顔を逸らした。なぜ、という疑問と、最悪だ、という感情がうまれる。 「顔に出すぎだ。暴き甲斐がないな」 つばさは、しらけた表情を浮かべた。呆れたように続ける。 「君は以前、クラスメイトに家族の話を振られた時、父親はサラリーマンで母親は専業主婦と言っていたね。その時、明らかに顔を強張らせていた。これは何かあるな、と思った。だから気になって調べたんだ」 「え? それだけのことで?」 「ああ。気になるものは調べる主義だ。そう難しいことでもないからね」 わたしの小学校の同級生から話を訊いたらしい。 「君の父親は刑事で母親はミステリ作家だとわかった。凄いじゃないか。なぜ隠すんだ?」 わたしは胸を撫で下ろした。すべてを知られたわけではないらしい。動揺を押し隠して言う。 「素直に言わなきゃいけないことでもないし……。そんなに凄いことかな?」 「凄いことだ」 ぐっと顔を寄せてくる。いい香りが鼻孔をくすぐった。心臓に悪いから美人がそういうことをするな、と言いたい。 「凄いことだよ。刑事といったら嘘を暴く仕事じゃないか。そして、ミステリ作家は虚構という嘘の中に嘘を作り出し、嘘が暴き出される過程をスリリングに描き出す。まさにどちらも嘘のエキスパートだ。誇っていいと思う」 「あまり褒められている気がしないんだけど……」 「君はなぜ、両親について嘘をついたんだい? その理由が知りたいな」 わたしは再び視線を逸らした。目を合わせたら、自分の内面を丸裸にされる気がしたからだ。 「君は嘘をつくのが下手だ。素直に白状した方がいいよ」 諭すように言われる。 「なんでつばささんに教えなきゃいけないの?」 「決まっているじゃないか。私が知りたいからだよ!」 理由になっていない。どれだけ我儘なんだ……。 溜息をつく。たぶん、はぐらかしても無駄だろう。調べようと思えば調べられることだ。 わたしは覚悟を決めた。 「お父さん、仕事中に犯罪者に殺されたんだ」 「……」 沈黙が降った。わたしは感情を殺して続けた。 「お父さんが殺されたことで、お母さんは殺人の話を書けなくなった。だから、筆を折ることにしたの。あまり知られたくない話だから、とっさに嘘をついたんだ……」 葬儀の記憶が蘇り、胸に痛みが走る。 さぞ気まずい表情をしているだろう。そう思い、つばさの顔を見る。 ぎょっとした。つばさは頬を朱色に染め、目をぎらつかせていた。 「確かに、それはとっさに嘘をつこうと思っても無理はないね」 嬉しそうに笑う。 「本人の口から聴けて良かったよ」 「……満足してくれたかな?」 皮肉を言うと、つばさは「ああ」と頷いた。 「満足だ。君という人間を知れて良かったよ」 もはや言葉もない。まさか、クラス一の美少女がこんな変人だったなんて……。 怒りすらわいてこなかった。動物に吠えられて怒っても、意味なんてないのと一緒だ。 つばさは、再びこちらに顔を寄せ、囁いた。 「比奈くん。君とはこれから仲良くなれそうだな」 放課後。わたしとつばさは、凜花の後を追っていた。すでに四時を回っており、アーケード街には多くの学生がいた。喧噪の中を二人で歩いていく。 凜花は何度も立ち止まり、辺りをきょろきょろとしていた。明らかに挙動不審だった。何か疚しいことがあるのではないかと、万引きのことを知っているわたしは、どうしても疑いの目を向けてしまう。 万引きは常習してしまうものだ。つばさはそう主張した。たぶん、またすぐにやる。その現場を押さえようという話になった。 「押さえたらどうするの?」 「万引きの理由を聞く。現行犯で押さえれば、動機くらいは話してくれるだろ」 「それからどうするの?」 「さあ」 「さあって……」 「万引きを見つけたのは君だ。君の判断に任せるよ」 動機を知りたいだけらしい。現行犯で捕まえた後はすべてわたしの判断に委ねられる、か……。憂鬱な気分になった。すべて見なかったことにしたい。しかし、それはできない。知ってしまった以上は、無視できなかった。 「不正を、見て見ぬふりはしていけないよ」 お父さんの言葉が脳裏をよぎる。 凜花は大型書店に入った。後を追う。漫画の新刊コーナーで足を止め、平積みされた漫画を眺めている。 漫画、好きなんだろうか。そういえば、彼女がどういう人間か、わたしはよく知らない。 学校内での凜花はいつも一人だ。事務的なことしか話さない。高嶺の花といった感じで、つばさとは違った意味で人気がある。触れたら凍傷を起こしそうな雰囲気が良いと、友人や男子が話していた。なじられて踏まれたいと言っていた男子もいた。そこまでいくと単なる変態だけど。 以前、クラスメイトが彼女に話しかけている現場を見たことがある。凜花はスマホを弄る手を止め、「何?」と能面のような顔で言った。 「放課後、一緒にカフェに行かない?」 「なんで」 「仲良くなりたいから」 「話を訊きたくて」 女子二人が照れ臭そうに言う。なかなかの勇気だ。凜花は少し考える素振りをした後、 「ごめんなさい。私、誰とも仲良くするつもりないから」 「え」 「誘ってくれてありがとう。それじゃ」 スマホに視線を戻す。 あまりの塩対応っぷりに、見ているこちらがハラハラした。もう少し優しくしてあげてもいいんじゃないかな、と余計なアドバイスを送りたくなる。 クールで情に流されない。それが凜花のイメージだった。 凜花は奥に足を進め、角を曲がった。追いかける。角から先を覗こうとしたところで、 「あっ」 心臓が止まりかけた。凜花が壁に背中をつけ、こちらを見ていたからだ。待たれていたのだ。その目には、肉食動物のような獰猛さが見て取れた。 わたしは気まずさのあまり視線を泳がせた。一方、つばさは不敵な笑みを浮かべている。 「やあ、凜花くん。奇遇だね」 堂々とした態度で言った。 なんて白々しい台詞だろう。 凜花は壁から背中を放して、どういうつもり、と訊いてきた。 「はて? 私達は、本屋に来ただけなんだが……」 「つけてるでしょ」 「どうしてそう思うんだい?」 「アーケードに入ったあたりにミラーがあって、なんとなく目を向けたら、あなた達の姿が映っていた。その時はつけられているとは思っていなかった。でも、何度か立ち止まって確認したら、あなた達の姿があった。だから、ここで待ち伏せしたの。案の定、あっさり釣れたわ」 言い逃れは難しそうだった。つばさが肩を竦める。 「まいったな。今後のためにも尾行スキルは磨いておかないとね」 「認めるのね」 凜花は冷静だった。つけられていたことを知っても、まったく動じていない。 「認めるよ。君をつけていた。理由は……心当たりがあるんじゃないかな?」 「わからないわ」 「いや、わかるはずだ。言い繕う必要はないよ」 つばさはスマホを取り出した。意味深な微笑を浮かべる。 凜花は、ふっと笑った。 「やっぱりわからない。何を言っているの?」 つばさは、画面に触り、映ったものを読み上げるように言った。 「アーケード端のスーパーマーケット。桃の缶詰。ばっちり映ってる」 こちらに証拠はないが、あると思わせることで、自白を引き出す作戦か。 凜花の表情から笑みが消えた。寒々しい沈黙が流れる。 「……犯罪ではないわ」 しばらくして、凜花が呟くように言った。 「問題ないはずよ」 追いつめられてパニックになっているのか。発言に意味が通ってない。 「仕方ないことだったの」 「万引きを正当化するのか。立派な犯罪だろ」 「……」 言葉を探すように押し黙る。何か、起死回生の策を考えているようだった。もはや、言い逃れはできない状況であるというのに。 「凜花さん」 自分だけ黙っていることに気づき、我慢できなくなって話しかける。凜花は、初めてわたしの存在に気づいたように、こちらに目を向けた。脅えの色が見える。 「万引きの件なんだけど……」 唇を舐めて言う。 「わたしと一緒に謝りに行かない?」 「は?」 理解できないものを見たときの顔になる。隣のつばさからも「おい」と言われた。 「なんで万引きしたのかは、わからない。でも、悪いことをしたら、自白するべきだと思う。いずれ、ばれることだと思うし。ばれなくても、罪悪感で苦しむことになるよ」 「どうかしらね」 目を逸らして言う。焦っているようだった。 「わたしのお父さん、刑事だったんだ。悪いことをした人達のほどんどが、取調室で自供した後、自分の罪が暴かれて、ほっとしているようだったって言ってたよ。やっぱり自分の中で抱え込むのは良くないんだよ」 「刑事側からしたら、そう見えるんでしょうね」 「とにかく謝ろう。凜花さんが反省しているところを見せれば、きっと、大丈夫だから。凜花さんがこれまで万引きしたもの、返せるものはすべて返そうよ。ね?」 「……」 凜花が声にならない呻きを上げた。自白する決心がついたのだろうか。 わたし達を交互に見てから、凜花は落ち着いた声音で言った。 「証拠なんてないんでしょ。だから自白を引き出そうとしている」 核心を突かれた。 頬が強張る。 「やっぱりね」 わたしの反応を見て、ふっと笑う。 「麻耶さん、相棒は選んだ方がいいわ。彼女、嘘をつくのが下手だから」 どうやら顔に出てしまっていたらしい。自然と肩が落ちる。 「確かに、証拠はないね」 つばさはあっさりと白状した。 「でも、いまの会話を録音した。証拠になる」 「万引きしたとは言っていないはずよ。事実、私は万引きなんてしていない」 「確かに認めてはいない。でも、この録音と監視カメラの映像を組み合わせれば、君は圧倒的に不利な立場になる」 「仮に私が万引きをしたとして――もちろん、していないけれど――私が、盗む瞬間を監視カメラに撮られるようなへまをすると思う? 私が証拠を残しているとでも?」 「人はミスするものだ」 「好きにしたら? 意味ないと思うけどね」 彼女はその言葉を残して出入り口に向かった。背中が見えなくなってから、わたしは溜息をついた。いろいろな意味で自分に失望する。どうしてこう不器用なんだ。 「ごめん。わたしの下手な嘘のせいで……」 「ま、尾行にばれた時点で、ほぼ失敗は決まっていたようなものだ。落ち込むことはないさ」 「いつになく優しいね」 「私はいつだって優しいだろ。聖母と呼んでくれていい」 つばさは大真面目な顔で言ってから、さて、と仕切り直すように言った。 「これで彼女を追い込むのは難しくなった。当分万引きをすることはないだろうね。私達に疑われているわけだから」 「これからどうする? 一応、店に確認してみる?」 「それは私がやっておこう。凜花くんの名前は出さないで、在庫が無くなっていないか、監視カメラに不審な行動をする女子高生が映っていなかったかを訊いてみる。十中八九、監視カメラに決定的な部分は映っていないだろうな」 「仮に映ってたら、わたし達が名前を出せば解決だね……。でも、それはやだな……」 「同感だ。大人に引き渡したら、動機の部分がわからなくなる」 「いや、わたしはそういうことを言いたいんじゃなくて……」 説明しようと思ったが、諦める。どうせ聞く耳なんて持たないだろう。 凜花には自首してほしかった。だから、問答無用で誰かに引き渡そうという考えには抵抗を覚えるのだ。 「少し気になることがある」 つばさが顎に手を当てた。 「なぜ、証拠がないことが急にばれた」 「え?」 「彼女はこちらに証拠があると思い込み、途中から、やや投げやりな態度を取っていた。何とか言い繕うとしていた。でも、どういうわけか、証拠がないとばれた」 「直感が働いたんじゃないかな……。あと、わたしの言葉から嘘を見抜いたか」 「君は証拠に関することは何も言っていない。ただ、自首をすすめてただけだ」 つばさは、いろいろと腑に落ちていないようだった。しきりに首を傾げている。 「凜花さん、自首してくれるかな……」 つばさは自分の世界に入ってしまったようで、腕を組み、監視カメラの方を眺めている。あの無機質なカメラに、答えを求めるように。 ■ 「凜花さん」 休み時間、隣の席に腰掛けて声を掛けた。凜花は心底うんざりとした顔をこちらに向けた。 「あなたみたいに嫌がらせを楽しめる人、初めて見たわ。良い趣味してるわね」 ここ数日、事あるごとに声を掛けている件を言っているのだろう。 「嫌がらせのつもりはないんだけどね……。ただ、仲良くなりたくて」 「私は仲良くなりたくないわ」 きっぱりと言われる。なじられて踏まれたい、と言っていた男子だったら、この状況を喜べるだろうか。その領域にいけたら楽なんだけどな。わたしは心が折れそうだった。 凜花に話しかけるようになって早三日。つばさの方は独自の調査を続けているらしい。事件の解決は君の頑張り次第だ、と言われているので、自分だけ逃げ出すわけにはいかなかった。とにかく凜花と話せ、と指示を出されている。 「あなたも大変ね。相棒に言われて、私に探りを入れているんでしょ」 つばさが同情するように言った。苦笑して答える。 「うん、ごめんね」 馬鹿を見るような目を向けられた。 「素直ね」 「よく言われる。お父さんとお母さんの影響かもね。できるだけ嘘はつかないようにしなさい、って言われて育てられたから」 「……そう。どうでもいいけれど」 「親のことは好き?」 凜花が頬を強張らせた。ちょっと間を置いてから、こちらに鋭い視線を向けてくる。 「それを訊いて、どうしたいの?」 「え、いや……ただの雑談だったんだけど」 「親は好きではないわ。いろいろとうるさいから」 そうか、と悲しくなる。ひょっとしたら、万引きの理由には、家庭環境が関係しているのかもしれない。 凜花はこちらに上半身を向けた。 「なぜ、言いふらさないの?」 「え」 「追いつめるのが目的なら言いふらすのが一番手っ取り早いでしょ」 「ああ。そんなこと、考えたこともなかったな。そんなことしても意味がないからしないだけだよ。わたしは自首してほしいだけだし、つばさは動機を知りたいだけ。言いふらして凜花さんを怒らせたら、余計に説得が難しくなるでしょ」 凜花は、理解できないという顔をした。 「お節介と詮索好きというわけね。呆れる。ほんと、良い趣味をしてるわ」 「わたしもそう思う」 苦笑する。自分のしていることは、確かに余計なお世話だった。自分の欲求を満たしているに過ぎない。そう思われても仕方なかった。 本質的に、つばさとわたしは何も変わらないのかもしれない。自分の欲求を満たすために動いている。凜花のため、という正当化をおこなっているあたり、わたしの方がより悪質と言えるかもしれない。 お父さんの言葉が思い出される。 「比奈、友人が悪いことをしていると知ったらどうする?」 「うーん、わからないな……」 幼いわたしは、目をこすりながら言った。寝る前の会話だった。 「間違っていると伝えるんだ。わかってくれないかもしれない。でもギリギリまで、話し合いなさい」 「聞く耳を持たなかったら?」 「その時は平手打ちだな」 「ちょっとお父さん」 台所にいたお母さんが棘のある声を出す。お父さんは、ばつの悪そうな顔をした。小声で続ける。 「お母さんは怒るかもしれないが、時には殴ってやることも必要なんだ。喧嘩になるのが怖いって? そうだな……。だったら、蚊が頬に止まっていて、そいつを攻撃したって言い張ればいい。そうしたら角が立たなくて済むぞ」 「お父さん」 お母さんが眉尻を吊り上げ、こちらに近づいてきた。そこで記憶が途切れている。 凜花を殴るのは流石に無理だ。そもそも、まだ友達とは言えないし……。それにしても、蚊の話は少しふざけすぎていたと思う。蚊がいたから殴ったと言う方が、友情にひびが入る確率は高いだろう。 どうすれば、凜花とわかり合えるだろう。悩んでも答えは出なかった。 「あなた、気持ちが顔に出すぎよ。よくここまで生きてこれたわね」 呆れたように言われる。 「ごめん。うん、そうだね。ありがとう」 「何がごめんで、何がありがとうなのよ」 「自分でもわからないや」 「なにそれ……」 そこでふと、我に返ったのか、口を噤んだ。黒板の方を向く。 「……話過ぎたわ」 席を立って教室から出て行ってしまう。流石にこれ以上、追い掛け回す勇気はなかったので自分の席に戻った。クラスメイトに「最近、凜花さんと仲いいね」と声を掛けられ、上手い返答が思いつかず、言葉を濁した。万引き行為の追及のため、とは口が裂けても言えなかった。 この件は果たして解決するのだろうか。不安だ。 放課後、生徒達が教室を飛び出していく。そのほとんどが部活動のある人間だ。わたしは帰宅部なので、ゆったりと帰りの支度を始めた。鞄に荷物を詰め終えたと同時に、「やあ」と声を掛けられた。つばさだ。 「今日仕掛けるぞ」 「え? 急になに?」 「凜花くんの件だよ。いろいろとわかったからな」 凜花の姿は教室になかった。先ほどの会話を思い出す。 スマホで有名なケーキ屋さんのホームページを眺めていたので声を掛けると、凜花は「今日、買いに行くのよ」と言った。あまり嬉しそうな顔をしていないことに引っ掛かりを覚えつつ、ケーキ好きなんだね、と尋ねたら、彼女はつんと澄ました表情で、好きじゃない、と答えた。ではなぜ買うのかを訊いても、答えてくれなかった。 「ケーキ屋に言っている今がチャンスだからね」 凜花が言う。どうやらわたし達の会話を盗み聞きしていたらしい。 つばさの後を追って校舎の外に出る。曇り空で、天気予報によれば雨は降らないらしいが、不安になる空模様だった。 「どこに行くの?」 「それは後のお楽しみだ」 アーケードに足を踏み入れる。人混みを避けながら歩いていると、つばさが言った。 「いろいろと調べたら、面白いことがわかった」 凜花の身辺調査をしていたらしい。小学生のころは友達に囲まれながら過ごしていたが、中学に入ってからは一人でいることが多くなった。高校に入ってからはさらにその傾向に拍車が掛り、孤立するようになる。つねに人と距離を置いていた。 「父、母、凜花くんの三人で暮らしていたらしい。しかし凜花くんが中学に進学したあたりで、父だけが単身赴任を理由に引っ越している。現在は母と二人暮らしらしい。ちなみに母は、PTA会長をしている専業主婦だ。二人は郊外の一軒家に住んでいる」 「よく調べられたね……」 「彼女の同級生や元担任にいろいろと訊いた。私は男女問わずモテるから、聞き込みをすれば、それなりに情報が入ってくるんだ。美形に生まれて良かったよ。もちろん、人に話させる技術も高いわけだが」 「へえ……」 死ぬほどどうでもいいと思っていることを表情で伝える。つばさは飄々と続けた。 「もう一つ、面白い情報を得られたよ。君が万引きを目撃したというスーパーに行き、店長に話を訊いてみたんだ。ひょっとしたら友達が万引きをしているかもしれない、と言ってね」 「監視カメラはどうだったの?」 「先走るなよ。そっちは空振りだった」 肩を落とす。カメラに映っていれば、これ以上の追求はしないで済んだのに。 「桃の缶詰を盗んだ、と君は言ったな。確かなんだろうな?」 「もちろん。缶詰の棚に何度も手を突っ込んで、鞄に手を戻してたよ。間違いないよ」 「そうか。しかしそうなると、矛盾が発生するな」 「え?」 「それについては後で話そう」 つばさは意味深なことだけを言い、口を噤んだ。 突風が吹く。わたしはスカートを押さえ、頭上を見た。雲はまだ厚みを持っていて、切れ間なく空を覆っていた。 アーケードを抜け、住宅街を黙々と歩く。数分後、つばさは足を止めた。 「ここが目的地だ」 ■ 白くて大きな家だった。二階建ての庭付きで、駐車場がある。外車が停まっていた。堂々たる門構えと手入れの行き届いた庭――その部分を見ただけで、家主が経済的に恵まれ、社会的に成功している人物であることがわかった。 札には、「宮前」とある。 「ちょっと」 わたしは目を吊り上げて言った。 「なんで知ってるの?」 「昨日つけたからな」 堂々と言う。 「最初の尾行は失敗したから、再チャレンジしたんだよ。一矢報いてやった」 つばさは一切の躊躇なく、インターホンのボタンを押した。止める暇もない。すぐに応答があり、女性の声がした。つばさは「こんにちは。凜花さんのクラスメイトです」と話した。すぐに玄関の扉が開かれ、四十代ほどの女性が姿を見せた。凜花に似ている。品のあるおばさまだった。 「ごめんなさい。凜花はまだ帰ってきていないの」 「知っています。ケーキを買いに行ってるんですよね。家で待っていてくれ、と凜花さんに言われたんです」 詐欺師顔負けの嘘だった。ケーキを買いに行っているという事実を混ぜているところがいやらしい。 「そうなの。じゃあ、中に入って」 何の疑いも抱かず、家の中に招き入れてくれる。靴を脱ぎ、スリッパを履くとリビングに通された。二人でソファに座る。オレンジジュースを出してくれた。ありがとうございます、と受け取る。 わたしは内心ひやひやしていた。つばさが何をしようとしているのか、まったく見当がつかなかったからだ。凜花の部屋に侵入して証拠を探そうというのか? オレンジジュースに口をつけてから、つばさは切り出した。 「凜花さん、よく学校でお母様の話をしてらっしゃいますよ。頼りになるお母様で好きだそうです」 「え、そうなの?」 凜花の母親は笑みを浮かべた。しかし、どことなく感情が籠っていないように見えた。凜花の性格からして、そんなことを言うだろうか、と疑問に思っているのか。 つばさは凜花の学校での姿を語った。多少の脚色はあったが、おおむね、彼女が孤高であるという事実は、そのまま伝えた。 「凜花さんと最近少しだけ仲良くなれました。凜花さんは、あまり自分のことは話してくれませんが、お母様のことはよく話してくれていますよ。やはり好きなのでしょうね。二人暮らしで、助け合いながら生活しているという部分も大きいかもしれませんが」 「……どうかしらね。凜花にはいろいろと苦労を掛けてしまっていて……申し訳なく思っているのよ」 「苦労だなんて思っていないんじゃないですか。自慢しているわけですから。凜花さんがお母様を自慢したくなる気持ち、よくわかりますよ。私の母親なんて、ただの専業主婦ですからね。PTAの会長だなんて羨ましいです」 「そんなにいいものじゃないのよ。それに、専業主婦だって大変だわ」 凜花の母親は、つばさのお世辞に困惑しているようだった。なぜ、ここまで必死にごまをするのか。わたしは肘でつばさの脇腹をつついた。小声で言う。 「なにをしているの?」 「ただ会話を楽しんでいるだけじゃないか。ひょっとして二人だけで話していたから、嫉妬したのかい?」 「なに言ってるの……? 頭大丈夫?」 「いいから、君は黙って聞いてればいい」 つばさはこちらに流し目を送ってから、再び母親に向き直った。そして、真剣な表情を浮かべる。 「少し話は変わりますが――実は、私達、万引きを目撃しているんです」 「えっ」 急に話が飛んだからだろう。凜花の母親は目を丸くした。 「その万引き犯は、知っている人でした。私達は、どうするべきでしょうか?」 凜花の母親は、動揺の色を濃くした。目を泳がせ、唇を震わせる。それを見て、ぴんと来た。 彼女は知っているのだ。自分の娘が、万引きしていることを……。だから動揺している。そして、つばさは凜花本人を落とすのではなく、母親をターゲットにした。 母親は、ふっと表情を緩めた。覚悟を決めたのかもしれない。 「本当に、その人は万引きをしたのかしら? 勘違いで追及して間違いだったら、お互い気まずくなるわ。確定的な証拠がないのであれば、まずは信じてあげるところからスタートするべきじゃない?」 自分に言い聞かせているのではないか。そう感じた。娘の万引きを認めたくないのだ。 さらなる追求をするのかと思ったら、つばさは意外なことに「そうですね」と槍を下ろした。壁にある時計に目を向ける。何かを待っているようだった。 その時だった。リビングのドアが開かれる。 凜花の姿があった。わたし達の姿を確認して、能面のような表情を浮かべる。 「どういうこと?」 冷め切った声が響いた。 どう言い繕うべきか。わたしは内心で慌てる。一方つばさは、冷静に「おかえり」と言った。笑みを浮かべている。 「家に来てくれ、と言っていたじゃないか。だから来たんだよ」 凜花は無機質な表情のまま、わたし達の顔を交互に見つめてから、やがて母親に視線を移した。 「上に連れていくね」 「え、ええ」 テーブルの上に手提げ袋を置く。中の箱にはケーキが詰められているに違いない。 「ついてきて」 ソファから立ち上がった。困惑している母親を残して、三人で階段を上る。廊下手前の部屋に入った。 簡素な部屋だった。物が殆ど置かれていない。棚にはノンフィクション系の本が並べられている。 「で、どこに座ればいいんだい?」 つばさの言葉に凜花は溜息をこぼした。 「立ったままで話しましょう」 こちらに体を向けてくる。 「うちの母親に何を訊いたの」 「万引きのことだ。動揺していたよ。もう少し粘ったら、すべてを白状していただろうね」 「そう……」 凜花は肩の力を抜いた。ふっと笑みを浮かべる。自嘲しているようだった。 「あなた達のしつこさには負けたわ。たぶん、いくら言っても、つけ回すつもりでしょ。家族まで巻き込むとは完全に予想外よ」 ロングの黒髪をいじりながら、視線を窓に向ける。外は薄暗いままだった。 「あなた達の思っている通りよ。私は万引きをした」 ついに認めた……。 親を巻き込むという、つばさの作戦は成功したのだ。 「認めるか。随分とあっさりだな」 つばさが冷めた声で言う。 何とも言えない気持ちになった。本人ではなく家族を攻めるという彼女のやり方に反発のようなものを覚える一方で、凜花が罪を認めたということに、ほっとしている自分がいた。 「どうして万引きをしたんだい?」 凜花はベッドに腰掛けた。全身から力を抜いているようだった。いつもの頑なさを感じさせる氷のような表情が崩れ、自嘲の笑みを張り付けている。 「大して面白い話ではないわ。ただ、盗みたいから盗んだだけよ。それなりに裕福な家庭でも、クレプトマニア――窃盗症になることは珍しくないそうよ。何が原因で、こうなってしまったのかは自分でもわからない。ひょっとすると、これから精神科医のところに連れていかれて、そこでわかるんじゃないかしら?」 他人事のようだった。すべてを諦めた目をしている。 胸が痛んだ。凜花のしたことは犯罪で、盗まれた店側からすれば到底許せる行為ではないと思う。でも、わたしはやはり、彼女の味方になりたいと思った。 「なるほど。自分でもわからないか。まあ、そういうこともあるだろうな。ちなみに――」 つばさは言葉を切り、凜花の顔を見つめた。 「凜花くんが万引きしている姿をたまたま見たのは五日前だ。盗んでいたのは君で間違いないんだね?」 「間違いないわ」 「詳しくその時のことを教えてほしい」 凜花は憮然とした表情を浮かべた。面倒そうに口を開く。 「店に入って監視カメラの位置を確認してから、取れそうなものを物色した。その中に桃の缶詰があった。取れるタイミングで取った。それだけよ」 言い終え、溜息をつく。 「もう認めているんだから、そんなことどうだっていいでしょ。店に謝りに行けと言うのであれば従うわ」 「盗んだものはどうしたの?」 わたしが訊くと、彼女は言った。 「食べられるものは食べて、保存できるものは別の場所に保存してあるわ」 よかった。盗んだものを返せば、ひょっとしたら警察沙汰は避けられるかもしれない。食べてしまったものは現金で返すしかないだろうけど。少しだけ希望が見えた気がした。 その時だった。 ぱちぱちと拍手の音が響いた。ぎょっとする。いったい何事だと思い、振り返ると、つばさが手を鳴らしていた。凜花も目を丸くしている。 つばさは拍手をやめると、心底嬉しそうに続けた。 「凜花くん、やはり君は筋金入りの嘘つきだ」 意味がわからなかった。 「嘘? 私は嘘なんてついてないわ。全部認めているでしょ」 凜花が憮然として言う。わたしも内心で同意した。 「君の話にはおかしいところがある」 つばさはわたしを見た。 「万引きのシーンを目撃したのは比奈くんだ。凜花くんが鞄から棚へ、棚から鞄へ、手を行き来させているところを見た、と語っていた。当然、盗んでいたのなら在庫数は減っているはずだ。でも現実として、在庫数は減っていなかった」 「ええっ!」 思わず声が出た。さきほど言っていた矛盾とは、このことだったのか。 「店側に確かめてもらったから間違いない。なぜこんな矛盾が発生するのかな?」 凜花を見る。彼女は能面のような顔をしていた。 ベッドに腰掛けたまま、ふっと息をつく。そんなことか、と言外に語っているようだった。 「ごめんなさい。さっきの説明では誤解されても仕方ないわね。私は一度、桃の缶詰を盗んだ。それは事実よ。でも、そのあとすぐに缶詰を戻したのよ」 どういうことだ。首を傾げる。 「どうやらあなたは、私が鞄から棚に商品を戻していたところを見ていたようね」 青天の霹靂だった。 確かに、わたしは決定的瞬間――桃の缶詰を鞄に入れているところを直接見たわけではない。 「な、なんでそんなことを? せっかく盗んだのに」 「我に返ったのよ。別にこんなもの欲しくないってね。私、そんなに桃は好きじゃないの。だったらなぜ盗もうとしたかって思うでしょ? それはさっき話した通り。自分でもよくわかっていない。盗めるものがあったら盗みたくなるのよ」 どうやらわたしは、盗むところを見たわけじゃなく、戻しているところ目撃してしまっていたらしい。思い込みに振り回されていたわけだ。 「尤もらしい説明だな」 つばさは、そう評してから、薄い笑みを浮かべた。 「しかし、それも嘘だ」 頭が混乱してくる。 「例の本屋で私は君に揺さぶりを掛けるため、スーパーで桃の缶詰を盗んだ証拠があることを仄めかした。君は最初、まんまと騙されて動揺していたね。でも、今の話を聞いてから思い返すと、不自然な反応だったと言える」 「どういうこと?」 「君は確かに商品を鞄に入れて盗もうとした。でも、盗んだものは返している。犯罪は回避されているわけだ。仮に鞄に入れたところを撮影されていたとしても、言い繕うことはできたはずだ」 「いきなりだったから動揺したのよ。盗もうとしていたことは事実だし」 「そうかもしれないね。しかしもう一つ、おかしな反応をしている。こちらに映像の証拠がないことを君が見破った後のことだ。君は『盗む瞬間を監視カメラに撮られるようなへまをすると思う?』と言った。事実、監視カメラには映っていなかったわけだが……」 少し間を置いてから続ける。 「ではなぜ、店に問い合わせろと言わなかった?」 「……」 凜花は押し黙った。 「私達が盗撮したという可能性は君の中から消え、カメラに映っていないことも確定している。在庫数をチェックすれば、盗まれていないことは簡単に証明できた。だったら店に確認を取ってもらうのが一番手っ取り早かったはずだ。それなのに君は、いつまで経っても、『店の人に訊け、そうすれば私の無実は晴れる』とは言わなかったね。なぜだい? 私達の追及を鬱陶しいと思っていたなら、真っ先にそうすべきだった」 鋭い指摘だ。凜花が目を泳がせる。数秒の間を置いて、口を開いた。 「それについては一度考えたわ。でもあえて言わなかったのよ。あなた達のどちらかに盗む瞬間を見られていると思っていたから――仮に在庫数で盗まれていなかったことが判明したとしても、後から商品を戻したと思われるだけで、追求をやめてくれるとは思わなかった。それに、詮索好きのあなただったら私が言わなくても、店側に確認を取るだろうと思ってた。事実あなたは在庫数を調べ、在庫数が減っていないことを知った。そして、それでも追求をやめていない」 こちらはこちらで、筋の通った返答をしてくる。 つばさは愉快そうに笑った。 「論理的だね。なかなか手ごわいな。でも、すでに君は詰んでいる状態だ」 チェスの駒を進めるようなジェスチャーをする。 「まだ明らかになっていないことが残っている。なにかわかるかい?」 つばさがこちらに視線を向けてくる。何も浮かばなかったので黙ったままでいると、彼女は肩を竦めた。 「こちらに映像の証拠がないと、凜花くんに気づかれた件だよ。なぜばれてしまったのか、ずっと腑に落ちなかった。本人がいることだし答えてもらおうかな」 凜花は呆れるように言った。 「直観よ。それ以外にない。どうでもいいことじゃない」 「私はあの時の会話を録音している。ちょっと聞いてみようじゃないか」 そう言うと、ポケットからレコーダーを取り出した。追い込むための嘘をつくシーンから始まる。凜花の「犯罪ではないわ」という声が流れる。そのあと、しばらく会話が続き、問題の部分に差し掛かった。 ――わたしのお父さん、刑事だったんだ。悪いことをした人達のほどんどが、取調室で自供した後、自分の罪が暴かれて、ほっとしているようだったって言ってたよ。やっぱり自分の中で抱え込むのは良くないんだよ。 ――刑事側からしたら、そう見えるんでしょうね。 ――とにかく謝ろう。凜花さんが反省しているところを見せれば、きっと、大丈夫だから。凜花さんがこれまで万引きしたもの、返せるものはすべて返そうよ。ね? つばさはレコーダーを停止した。 「このあと君は証拠がないことを指摘した。『刑事側からしたら、そう見えるんでしょうね』という言葉までは、明らかに脅えの色が見えるから、それ以降の、比奈くんとの会話の中で気づけたとしか思えない」 落ち着いた声音で話す。 「比奈くんとの一連のやり取りの中に、証拠に関するワードは出てきていない。ただ自首をすすめているだけだ。にもかかわらず、なぜばれたのか。私は不思議に思い、何度も一連の会話を聞き返した。そこで、ある考えが浮かんだ」 「考え?」 「君は万引きした瞬間を撮られたと思った。だから投げやりになっていた。でも、『凜花さんがこれまで万引きしたもの、返せるものはすべて返そうよ』という部分を聞き、撮られているはずがないと確信して安堵したんだ」 「ど、どういうこと?」 混乱する。 凜花の方を見て、どきりとした。顔面が蒼白だった。彼女のこんな表情を見るのは初めてだった。 「一度、不自然な点をすべて並べてみようか。なぜ一度盗まれたものを棚に返したのか。なぜ店に連絡を取ってもらおうとしなかったのか。なぜ映像の証拠がないことを見破れてたのか。なぜ家族と接触しただけで露見していない過去の万引き行為まで白状したのか。これらの不自然な行動のすべてを、たった一言で説明する答えがある」 凜花が顔を伏せる。つばさは構わず続けた。 「凜花くんは万引きなんてしていなかったんだ。これまで一度もね」 「ええっ!」 思わず声が出た。 さっきの告白は、すべて嘘だった? つばさは言葉を繋いだ。 「万引きしたことがないんだから万引きシーンを撮られるはずない。簡単な理屈だ」 「で、でも。万引き犯だと最初に指摘した時、凜花さんは明らかに動揺していたよ。あれは何だったの?」 「あの時、私は『アーケード端のスーパーマーケット。桃の缶詰。ばっちり映ってる』としか言っていない」 つばさは凜花を見下ろして言った。 「誰が盗んのかは言わなかったんだ。だから凜花くんは勘違いをした」 まさか……。 つばさの言いたいことがわかり、はっとする。 「桃の缶詰を盗んだのは別人だったんだ」 つばさは笑顔を浮かべた。 「凜花くんは誰かの万引きを隠蔽するため、桃の缶詰を商品棚に戻した。しかし、私達が『盗んだ証拠がある』と言ってきて慌てた。凜花くんからしてみれば、当然、庇いたい人物の犯行が映っていると思わざるを得ないだろう。でも話を聞いていくうちに、齟齬に気づいた。『凜花さんがこれまで万引きしたもの、返せるものは返そうよ?』と、比奈くんが発言した時だろうね」 わたしはつばさの洞察に圧倒された。たぶんそれは、凜花も同じ思いだろう。 「店に確認することを提案しなかったのは心理的な問題かな。庇いたい人物が万引きしたことを示す証拠が、ひょっとしたら出てきてしまうかもしれないからね。それを考えたら、そうやすやすと提案できるものではないだろう」 そして、とつばさは言葉を継いだ。 「なぜ過去の露見していない万引きのことまで、この場で口にしたのか――それはもう、庇っている人物の犯行を隠しておけないと思ったからだ。君は、すべての罪を被ろうとしているね。その人物が誰かは考えるまでもない」 わたしは言葉を失った。彼女が罪を被ってまで庇おうとしている相手――。罪を告白したタイミングを考えると、一人しか浮かばなかった。 「違う!」 凜花は立ち上がった。つばさに詰め寄り、睨みつける。今にも掴みかかりそうだった。 「あなたの言っていることは何もかも間違っている! でたらめよ! 全部、私がやったことよ。私が盗みたくて盗んだ! それだけの話よ!」 取り乱している。こんな彼女を見るのは初めてだった。 つばさは冷静だった。平然とした顔で言う。 「そうか。であれば今から下にいる人を交えて、また一から話し合おうじゃないか」 「やめて! 母さんは関係ないでしょ!」 顔がくしゃりと歪む。 今にも泣き出しそうだった。痛々しい姿に胸が締め付けられる。 つばさは突然、扉の方を向いた。 「そろそろ顔を出したらどうですか。娘さんは、あなたの罪をすべて被ろうとしているんですよ!」 数秒後、ゆっくりと扉が開かれた。凜花の母親が後ろめたそうな顔で佇んでいた。手にあるトレーには、三人分のケーキと飲み物が載せられている。 ほぼすべてを聞いていたのだろう。表情が物語っていた。 つばさは初めから母親が犯人であると当たりをつけていたのだ。リビングでのやりとりはすべて揺さぶりのために行われていた。ひょっとしたら、今回の会話を聞かせるための誘導まで行っていたのかもしれない。 「凜花……」 母親はかすれた声で言った。 「大丈夫よ」 凜花が言う。さきほどまでの動揺が完全に消えていた。微笑を張り付けている。 「大丈夫。母さんには迷惑をかけないようにするから。万引きした店に行って、謝って、警察沙汰にならないようにする。だから安心して。全部私がやったことだから。私が何とかするから」 悲痛な気持ちになる。そこまでして庇うのか……。そこまでして。 「くだらない」 蔑んだ声が響いた。 つばさだった。 これまで楽しそうに秘密を暴き立てていた人間とは思えない、退屈そうな表情をしていた。 「三文芝居はやめてほしいな」 母親の方を向く。 「あなたが万引きしたことはわかっている。やめられないであろうこともわかっている。仮にここで娘さんにすべての罪を被せたところで、あなたの万引き癖はたぶん治らない。人間、そう簡単に性癖を矯正できるものではないですからね。娘さんの動機はわかった。次は、あなたの番です」 ここからが本題だ、というように話を続ける。 「なぜ万引きを始めたんですか? くだらない理由を言うのはなしにしてくださいね。秘密を探るのに苦労したんですから。あ、それからもう一つ。自分の娘に万引きした品を返すように命じた理由です。随分と酷ですよね。ひょっとして娘を使って支配欲を満たしていたんですか? 教えてください」 嘲るように言った。 母親は青ざめた顔を浮かべた。唇を震わせている。凜花は顔を赤くした。口を開いては閉じてを繰り返している。言い返したいのに言葉が思いつかないのだろう。 つばさは続けた。 「正直なところ私はいま非常にガッカリしています。暴く価値のない実にどうでもいい秘密しか残されてなさそうだからね。共依存している親子のくだらないドラマを見せられて辟易してるよ。こういうのは昼ドラだけで十分だ。本当にくだらない」 肩を竦める。 凜花は声にならない呻きを上げた。首を横に振る。 「否定したいなら、ちゃんと口でやってほしいね。少しくらい面白い反論をしてくれよ。そうしたら、この件に使った労力が多少は報われると言うものだ。ま、無理だろうけどな。君たちのくだらない嘘は全部――」 気づいたら手が動いていた。ぱちん、と乾いた音が響く。 つばさが、むっとした表情をこちらに向けた。 母親と凜花も、こちらを見て固まっている。 わたしは、腹の中の怒りを、溜息と共に吐き出した。それから、ふっと笑みを浮かべる。 「ごめん、蚊が止まってたんだ」 「なんだそれは……」 得体のしれないものを見る目で、わたしを睨みつけてくる。 「そんなあからさまな嘘を……」 「あ、また止まっている」 「おいっ」 「逃げないでよ」 「叩きたいだけだろ! 振りかぶるな!」 わたしから慌てて距離を取る。その姿が大袈裟で滑稽だったから、ふっ、と声が漏れた。思わず笑ってしまう。 さきほどまで顔を真っ赤にしていた凜花が、肩を落した。全身から力を抜いているように見えた。 ふふ、と彼女も声を漏らす。肩を揺すって、馬鹿みたい、と呟いた。 次の瞬間、凜花の目から涙がこぼれた。笑みを浮かべたまま、涙を溢れさせる。凜花はその場にしゃがみ込むと、身体を丸め、声を殺して泣き始めた。 母親がトレーを床に置いた。ゆっくりと娘のそばに近寄り、恐る恐るといった感じで、背中を抱いた。 「ごめんね」 辛そうな声で言った。 「こんなお母さんで、本当にごめんね……」 ■ 凜花の母親が窃盗に目覚めたのは、旦那が単身赴任をして間もなくだった。立ち寄ったコンビニでボールペンが欲しくなり手に取ってから、周りの視線や監視カメラを確認し、こっそりとポケットに入れ、そのまま店を後にした。不安は一切なく、なぜか高揚感だけがあったそうだ。 それからというもの、いろいろな物を盗むようになった。ポケットに入れられるものから鞄に入れなきゃならない大きなサイズのものまで盗む対象はさまざま。これまで誰にも見つからず捕まらなかったのは奇跡に近いという。 しかし、身内にはばれてしまった。 たまたま母親の姿を店内で発見し、凜花は声を掛けようとした。しかし商品をポケットに入れるところを見てしまい、絶句した。最初は何かの間違いだと思った。母親はきょろきょろと周囲の様子を伺い、安堵したような顔を浮かべてから店内を後にした。 すぐに追いかけ、ポケットの中を見せるように迫った。母親は拒否した。その時点で万引きしたことを認めたようなものだった。 謝りに行こう。そう懇願した。しかし母親は頑なに拒否し続けた。 自分はPTA会長で多くの人たちから信頼されている。もしも窃盗癖がばれたら、社会的地位を失い、父にも迷惑を掛ける。 それは保身ゆえの言い訳でしかなかった。しかし母親の取り乱した姿を見て、凜花は覚悟を決めたという。このことが露見すれば母は壊れてしまうかもしれない。そう思ったそうだ。自分がポケットの中のものを戻してくるからと提案した。商品を受け取ると、棚に戻した。 もう二度とこういうことはしないとその場で誓わせたが、母親は、あっさりと約束を破った。盗んだことに気づいたときは、凜花が商品を棚に戻すというのがいつもの流れとなった。娘にばれないように自宅に隠したままの窃盗品もあるという。 桃の缶詰には気づくことができた。母親が盗んだことを知り、凜花はスーパーに足を運んだ。しかし誤算だったのは、わたしの存在だ。棚に戻すところを目撃されてしまい、すべての露見に繋がった。 わたし達が母親に接近したのを知った時点で、凜花は、すべての罪をかぶる気でいたらしい。母親は嘘をつくのが下手で、ストレスに弱い。つばさの追及に耐えられるはずがないと思ったそうだ。 これが事件の全貌だった。 「満足した?」 凜花の家を離れてから、わたしは訊いた。前方を歩いていたつばさが、軽く振り返った。 「まあまあ、といったところだね」 「あれだけ根掘り葉掘り場を荒らしまくったのに、まだ満足してないの?」 「君に殴られたからね」 根に持たれているらしい。わたしは苦笑した。 「謝らないよ。だって、蚊が止まっていたんだもん」 「下手な嘘だ。暴く気にもなれない」 すっかり日は落ち、街灯が灯っている。人の姿は疎らだった。 母親は迷惑をかけた全店に一軒ずつ謝罪しに行くそうだ。警察に通報されることも覚悟の上だという。旦那とも話し合い、必要であれば治療も受けたいと話していた。 「あなた達のおかげで目を覚ますことができたわ。ありがとう」 母親は弱々しく、わたし達に向かって礼を述べた。恐縮する。感謝されるようなことは何もしていない。わたしが反応に困っていると、つばさが微笑みを浮かべて言った。 「いえいえ。当然のことをしたまでです」 突っ込みたかったが我慢した。面の皮が厚すぎる。 「私は感謝していないわ」 帰り際に言ったのは凜花だ。冷め切った表情で、わたし達を睨みつけてくる。相当怒っているようだった。当然だろう。たぶん今後、絡んでくれそうにないと思った。残念な気持ちがわく。 彼女は仏頂面のまま、わたしに近づいてきた。耳元で囁く。 「あの時、蚊がいたからってあの女を殴ったの、あれは最高に面白かったわ」 凜花を見る。堅い表情が消え失せていた。そこにあるのは、暖かな微笑みだけ……。心がぽかぽかと温まるのを感じた。 「相変わらず顔に出過ぎよ」 わたしは恥ずかしくなって視線を逸らした。耳まで真っ赤になっていたかもしれない。 ふいに空を見上げる。星がきらめいていた。あれだけ覆っていた雲は、いつの間にか流されていったらしい。つばさも空に目を向けている。 ひょっとしたら、と前方を歩くつばさを見て、わたしは考える。 つばさはわざと、悪役らしいふるまいをしていたのではないか。親子を庇い合わせ、その仲をあざ笑うことで真実の想いを語らせようとした。そうすることでしか歪な親子関係を修復することはできないと考えて……。 「考えすぎかな」 独りごちる。 仮にそうだったとして、絶対に認めないだろう。なぜなら彼女は天性の嘘つきで、天邪鬼だからだ。 以前つばさに、なぜわたしに絡んでくるのか訊いたことがある。すると彼女は、肩を竦めて言った。 「バランスを取りたいからだよ。右に重心を傾けるのが好きだとしても、たまには左に重心を傾けたくなるのと一緒だ」 意味が分からなくて首を傾げる。 つばさは、ばつの悪そうな顔をした。 「……忘れてくれ。つまらないことを言ったね」 それ以上は、いくら追求しても答えてくれなかった。 あの言葉の意味が、いまなら少し、わかる気がした。 人の嘘を暴くことは、決して褒められた行為じゃない。人を傷つけ、敵をたくさん作る行為である。しかし、つばさにとってそれは、変えようのない性癖で、やめられないものだ。 いままで、たくさんの人を傷つけてきたはずだ。嘘を暴くことで興奮を得られた一方、罪悪感を覚えることもあったと思う。少しくらいは、相手のダメージを軽減させることはできないか。そんなことを考えていた時、わたしと出会った。刑事に厳格にしつけられた娘をそばに置いておけば、自分の行動が行き過ぎた時、抑止として機能するかもしれない。バランスを取りたいからだよ、という言葉の裏には、そんな想いがあったのかもしれない。 全部、わたしの妄想だ。見当違いかもしれない。 つばさの背中を見て思う。 いつか、つばさの心の秘密を暴いてやろう。その時、いったいどういう反応をするかな。 期待で胸が膨らんだ。 |
円藤飛鳥 2022年08月14日 20時58分22秒 公開 ■この作品の著作権は 円藤飛鳥 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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