死ね子と宝探しの夏 |
Rev.08 枚数: 100 枚( 39,952 文字) |
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1 〇 俺の名前は南方純(みなみかたじゅん)。 現在、小学六年生だ。 一週間前、今の学校に転校して来たけど、未だ誰とも口を利けてないぜ! ぼっちなんだぜ! そんな俺だけど、今はとってもハッピーな気持ちなんだ。何故なら……。 「えー……さて。皆さんは明日から夏休みということで、それについて先生からお話があります」 教壇の前に立ち、担任の黒岩先生が夏休みの心得を話し始める。 そう! 明日から、俺達小学生は晴れて夏休みなのだ! 「良いですねぇ、四十連休。皆さんは明日から夏休みなのかもしれませんが、先生は明日も普通に出勤し、何一つ可愛いと思えない生徒(クソガキ)達の為の職務に励まなければなりません。そんな中皆さんが無邪気に遊び惚けている様を想像すると、胸糞が悪くなります。どうしてこんな気持ちになる為に教師なんかになってしまったのか。人生、どこで間違えたのか。自分を責めたくなります」 二十代後半程の男性である黒岩先生は、張り付けたような笑みを浮かべながら、淡々とした声で語り続ける。 「とは言え、皆さんが遊んでいられるのも今の内だけです。いずれは先生と同じ大人になって、悔恨と苦渋に満ちた毎日を送ることになるでしょう。先生なんかよりよっぽど悲惨な境遇に置かれる人も決して少なくないはずです。ざまあないですね。精々、限られた子供時代を無益に浪費し、悔いのある夏を過ごしてください」 「さっきから何を言ってんだよこの教師!」 にこやかな顔でクレイジーなことを言う担任教師に、俺は思わず声をあげた。 「うるさいですねぇ南方くん。生徒の分際で先生の話に口を挟むようなら、激しい体罰を加えますよ? 授業で教えたことはいくら忘れても構いませんが、先生がその気になれば君なんていつでも五体満足でなくなることは、どうか忘れないでくださいね?」 「い……イカれてる……」 今の時代にそんなこと言って許されるのか……。 「では最後に。くたばりやがれクソガキ共。先生からは以上です。皆さんさようなら」 「いやっほー! 夏休みだー!」 クラスメイト達は黒岩先生の大問題発言に意に介さないように、夏休みを目前に、重めの精神病院から抜け出した患者のように狂喜乱舞し始めた。 「ひゃははははははー! 夏休みだー!」 「夏休み夏休みー! うっほほーい! うっほうっほ! そいやー!」 「海に行くぞー! 山にも祭りにもいく! でもプールには行かない! 虫唾が走る!」 「ああああああ嬉しすぎる! 嬉しさのあまり失禁してしまうぅうう!」 「うっわ! 松崎が漏らした! えんがちょ! えんがちょ!」 「胴上げだ! 胴上げをしようぜ! おい辻岡! おまえ宙を舞えよ!」 「嫌だよ! それでこの間三階から投げ捨てたじゃないか! お陰で半身不随なんだぞ!」 「ナイフで滅多刺しにしてやろうか!」 「死ねプール作った奴、死ね! 一族郎党皆殺しの目に合え!」 「うっひょっひょーい! 夏休みだ! 夏休みだー!」 薬物を投与された猿のようにはしゃぎ回るアホ共にドン引きしつつも、ぼっち転校生の俺は一人静かに帰宅することにする。 騒がしいのはだいたい男子である。その場の思い付きで不謹慎な冗談を叫びながら、絶えず飛び跳ねている。対する女子はというと、そんな男子を尻目に談笑したり、夏休みの予定を話し合いながら教室を出たりしていた。 そんな女子達の一角が、ふと目に入った。 頬に少々のそばかすのある、目の大きな一人の女子を、数人の女子が取り囲んでいた。女子達の手にはいくつかの手提げ袋や鞄、鉢植えなどが握られており、それらをそばかすの女子に押し付けるような形で差し出していた。 「ねぇ死ね子。うちらこれから遊びに行くからさぁ、これ、代わりに持って帰ってくれない?」 死ね子と呼ばれているのはそばかすの少女だ。死ね子というあだ名に特に由来はなく、ただ死ねということで死ね子らしい。 あまりにも死ね子死ね子と呼ばれている所為で、俺はこの子の本名も知らない。あだ名からも分かる通り、日ごろからいじめにあっている生徒のようだ。給食を別けてもらえなかったり、掃除を押し付けられたりするのを良く目の当たりにする。 「で……でも、こんなにたくさん一度に持って帰れないよ……」 「往復すりゃいけるだろー。じゃ、死ね子、頼んだよ」 そう言って、死ね子の足元にたくさんの荷物が置かれ、少女たちは背を向けていく。 一人残された死ね子は途方に暮れたように俯く。その姿は今にも消え入りそうだ。 「待てぇい!」 日頃死ね子へのいじめに対する義憤を溜めていた俺は、そこに首を突っ込んだ。 「自分の溜め込んだ荷物なんだから自分で持って帰れよ! 人に押し付けにするのは良くないぞ!」 「はあ? クラスのこと何も知らない転校生が、黙ってくれない?」 「おまえ達がこの子に荷物を押し付けて帰るというなら、俺がそのことを先生に言いつけてやるぞ! きっとおまえ達の家に注意の連絡が届くだろうなあ!」 そう言って睨み付けると、少女達は眉をひそめて、怯えた様子で顔を見合わせた。 「そ、それはヤバくない? あの担任イカれてるから何するか分からないよ……」 「体育の後の女子の体臭を嗅ぐのが教員唯一の楽しみだって公言してるもんね……」 「弱みを握った女子の腋に、罰と称してハチミツを塗り付けることもあるって噂が……。あんな奴に大義名分を与えたら、何をされるか分かったもんじゃないよ!」 やっぱイカれてんだなあの教師……。何であんな奴が許されるんだろう。 「そ、そうとも! おまえらもそんな目に逢いたくなかったら、自分の荷物は自分で持って帰るんだ!」 「お、覚えてろー!」 言いながら両腕や肩、首や耳にまでたくさんの手提げ紐を引っ掛け、さらには口にまで荷物を咥えてえっちらおっちら帰って行くいじめっ子達。 気が付けば、騒いでいた男子たちも皆教室から出て行ってしまっている。 残されたのはいじめられっ子の死ね子と俺だった。 目を丸くして俺の方を見詰めている死ね子。その小さな唇が僅かに動く。 「あ、あり……が……とう」 「大丈夫だったか死ね子? ……あ、死ね子じゃダメだな。ええっと……」 この子に限らず、俺はクラスメイトの名前をまだほとんど知らない。名札を確認しようと、俺は死ね子の胸元を注視した。 「だ、だめ……」 死ね子は自分の名札に手をやって、自身の名前を覆い隠した。 そして小動物のような仕草で、上目遣いに俺を見詰める。 「死ね子で良い……」 死ね子は百六十センチの俺より十センチ程背が低い。身体つきも華奢で手足など今にも折れてしまいそうだ。肌は信じられない程白く、良く澄んだ色素薄めの瞳は大きいだけでなく潤みを帯びていて、長いまつ毛はまばたきでそよ風を起こせそうなほどだ。 よく見ると、死ね子の目鼻立ちが無茶苦茶整っていることに俺は気づく。鼻は小ぶりだが筋が通って高くて薄桃色の唇は赤子のように柔らかげだった。やや面長で顎のラインが整っており、瞳と同様に色素の薄い栗色めいた長髪はポニーテールにまとめられ、白いうなじが覗いている。少々の頬のそばかすも良いチャームポイントだった。 クラスでも地味めな存在だからこんなに可愛いこと気付かなかったぞ? い、いや、だからどうしたって話なんだけど……。べ、別に俺可愛い女子に興味とかないし! 本当だし! そういうの……キモいし! エロいし! 「と、とにかく! 何かあったら人を頼るんだぞ! 分かったな! ……死ね子!」 そう言って、俺は強引に死ね子から視線を切って、背中を向けて教室を出た。 ……それにしても。 なんで死ね子は、自分の名前を見られるのを、あれほど嫌がったのだろう。 〇 終業式を終えた解放感を目いっぱい味わう為、近所のブックオフやスポーツ用品店と言った子供が喜ぶ店を冷やかすなど、若干の寄り道を楽しんだ。 一人で。 そうして帰宅した俺を出迎えたのは、玄関先の廊下で起きていたちょっとした騒動だった。 「うおおおおお! やだやだやだ! 買って買って買って!」 一つ下の妹の霧香が、幼児のように廊下に背を付けて手をバタつかせながら、両親にわがままを言っている。 「ニンテンドースイッチ買ってくださいよぅ! わたしには夏休みマスターとして最高に楽しい夏休みを過ごす義務があるんです! その為にはニンテンドースイッチが必要なんですよ! 分かってください母さま!」 「ダメよ! 夏休みは友達と過ごしなさい」 母さんは厳格な表情で娘を窘めた。 「しかし母さま! 転校して来たばっかりで友達なんていませんよ!」 「ならラジオ体操やら子供会やらに出て作りなさいよ。今の内にちゃんと友達を作って、将来の借金の伝手や就活や婚活のフィールドを確保しておかないと、今後の人生に差し支えるわ!」 小学生の内からそんなこと考えさせるなよ……。 そんなシビアな母さんに対し、温厚な性格の父さんは「まあまあ」ととりなすように。 「霧香の言うことにも一理あるじゃないか? 俺の急な転勤で前の友達と離れ離れにさせてしまった負い目もある。寂しい夏休みにしない為にも、せめて遊び道具くらいは良いものを与えてやりたいじゃないか。……なあ純?」 突如として水を向けられ、俺は「え、ああ。まあ」と。 「このままだと暇を持て余しそうだしな。俺も霧香もゲームは好きだし、スイッチあったら楽しい夏になるかも……」 「そうだとも。このままだと鼻糞をほぜっては練り、ほぜっては練りを繰り返すだけの悲惨極まりない夏になってしまいかねない。霧香は女の子だからそんなことはしないだろうが、純の場合は暇を持て余して、一か月分の鼻糞をため込んで何か芸術的な作品を練り上げてしまわないとも限らないだろう」 いやしねぇよいくらなんでもそんなことはよ。鼻糞をほぜらないとは言わないけど、それは霧香も同じだからな! たまに隠れてやってるの、見てるからな! 「何せ、私の中学三年間の夏休みがそうだったからな……」 父さん……。 「お父さんがなんと言おうとスイッチはダメです! 欲しいんだったら自分達でお金を出し合って買いなさい! それを禁止するまでは私もしないわ。いいわね?」 母さんはにべもなくそう言い渡す。霧香は『やっぱりダメか』的な表情で駄々っ子を止め、太々しく唇を尖らせて立ち上がる。 そして、父さんと共に俺達の前を立ち去る直前、母さんは俺の方を振り返って言った。 「それと純」 「何?」 「本当に、空手をやめて塾で良かったの?」 そう言われ、俺は視線を一瞬だけ床に落としながらも。 「うん」 と答えた。 「そう。……分かったわ」 母さんは今度こそリビングへ消えた。 〇 玄関の前で二人取り残されて、俺と霧香は顔を見合わせた。 「おねだり失敗しましたね、兄さま」 「そうだな。……つか、いつまでその喋り方続けるんだよ」 「HAHAHAお兄さま、一体何を言いますやら。わたしは物心ついた頃からずっとこの喋り方じゃないですか」 「んな訳ねぇだろ」 ネットのキャラか何かに影響されたらしく、ここ数か月の霧香は変な敬語で喋るようになっている。両親も、今のところはほったらかしているようだ。 こんな喋り方さえしなければ本当に可愛い妹なのだ。霧香は背が低く体重も軽い幼児体系で、年齢を考えても幼い顔付きで、くっきりとした黒目がちの瞳と丸っこい顔を持っている。座敷童みたいな肩までのボブカットも相まって、黙っていると本物の日本人形みたいに見えた。 その上、昔は無口で臆病で兄に頼ってばかりだったので、本当に可愛らしかった。それが今では変な喋り方をして、生意気を言ってばかりだから、困ったものだ。 もっとも、仲が良いのには変わりはないのだが。 「しっかりスイッチかぁ。言われてみると確かに欲しかったかもな」 「どうせ今年の夏は兄さまと家で遊ぶしかありませんしね」 「俺は別におまえと外で遊んだって良いんだけど」 「この酷暑の中兄さまと野球やサッカーで暑苦しく遊べと? HAHAHAご冗談を」 「おまえインドア派だもんなあ。家で遊ぶんなら、やっぱスイッチくらい欲しいよなあ。買ってくれりゃあなあ」 「ですね。とは言え、最初から母さまには期待してません。駄々こねたのもダメ元です。手に入れる本命の手立ては、他にありますから」 得意げにそんなことを言い出した霧香に、俺は目を見開いた。 「え? 何それおまえ。他にスイッチ手に入れる手立てとか、そんなんあんの?」 「お? 食いつきましたね? 知りたい? 知りたいですか?」 「何だよそのウザい態度は」 「知りたくば相応の態度がありますよねぇえええ。跪いて足を舐めなさい。このわたしの若干の汗と砂埃が付着したフローラルなおみ足を! さあ、早く!」 俺は霧香の前に跪き、足を裏返すと、下痢をするツボを全力で親指でぐりぐりと押した。 「いたたたたたたたたた! やめてください。やめてくださ、やめ、やめてくださいお兄さま! ごめんなさい、ごめんなさい兄さまぁああああ! ごめんなさいぃいいいたたたたたたぁ!」 涙ぐむまで下痢ツボを刺激する。兄との力の差を分からされた霧香は、息も絶え絶えに一枚の用紙を差し出して来た。 「……? 何だ、これは?」 「これは……ぜい、ぜい……。家に帰る時……ぜい、ぜい……。謎の黒尽くめの人物がくれた紙です」 霧香は息を整えてから。 「何でも、この紙に書かれた謎を解くと、この街のどこかに隠されたニンテンドースイッチの在り処が書かれているのだとか」 「誰だよ、その黒尽くめの人物って」 「謎です。ちょっと寄り道してから帰ったらなんか家の前でハアハア言いながら待機してました。顔は覆面で、男か女か、子供か大人かも分かりませんでしたね」 「不審者じゃないのか?」 「なんか汗だくになりながら、裏返った声で『み、み、み。南方霧香ちゃんだよねぇえ。はあはあはあはあ。これさぁとっても良いことが書いてあるからさぁ。はあはあはあはあ。お兄さんと読んでみてぇええ』って言ってました」 「不審者じゃねぇか。受け取るなよそんなもんをよ」 「まあまあ。実際に害がなかったから良いじゃないですか」 憎たらしい顔でそう言う霧香。俺は顔を顰めながら紙を開いた。 「言っときますけど、その謎解き、ドチャクソに難しいですよ?」 「は? おいおいバカにすんなよ。この一週間というもの、一人ぼっちの休み時間を少しでも潰す為に、学級文庫にあった謎解き本の類を読み漁った俺だぜ? ちょっとやそっとの謎じゃあびくともしねぇんだよ!」 「寂しい自信ですねぇ。でも、本当に難しいんですってば」 「まあおまえには難しかったんだろうさ。ま、俺とおまえは生きた時間が一年違うからな。その年季の違いってやつを見せてやるよぉ」 俺は紙に書かれている謎に視線をやった。 〇●●〇〇 ●〇●●〇 〇●●〇● ●〇●●〇 〇●〇●● 〇●〇●〇 〇●〇●● ●〇〇〇〇 〇●●〇〇 〇〇●●〇 ●〇〇〇〇 ●〇●〇〇 ●●●●〇 ●〇〇〇● 『〇〇●〇〇〇●〇●』 ●●●●〇 ●〇〇〇● 「……は?」 俺は目が点になった。 何だ……この黒丸と白丸の羅列は……? オセロかなんかか? 意味不明すぎる。 「ちなみに、もう二枚目の紙にヒントというか、解き方みたいなのが乗ってますよ?」 紙は全部で三枚あるようだ。俺は二枚目の紙を見る。 そこには、白い円形の肉体に、直線と曲線だけで構成された顔と手足の付いた、製作者のやる気及び画力のなさを感じさせられるキャラクターが書かれていた。 以下はそのがっかりなキャラクターの言動である。 『やあ、僕の名前はビットくん。よろしくね! 今日は君に、教えたいことがあるんだ!』 そう言って、ビットくんと名乗るやる気のないキャラクターは体をくるりと回し、真っ黒な背中を示して見せる。 白い表面と黒い裏面。本当にオセロのようだ。 『ぼくの身体の表側は白、裏側は黒で構成されている。これはつまり、ぼくが前を向いているか後ろを向いているかで、二種類の情報を現せるということだ』 次にビットくんは、くるくる回転して白黒の前後ろを見せながら、前触れのなく二つに分裂する。 『なら、ぼくが二人いると何通りの情報を現せるか分かるな?』 鬱陶しいことに、ビットくんはさらに増殖し、三人に、四人に、そして五人になっていく。 『三通りなら? 四通りなら? 考えてみて欲しい! それが謎を解く鍵になっている! 一枚目の紙に書かれている白と黒の丸は全部、表か裏のどちらかを向いたぼく、ビットくんだ! さあ、ぼく達は、一体どこの何を指し示しているか、分かるかな? 分かったら、その場所に行ってみよう! ※ヒント ●●●●〇の五人組ビットくん達は、アルファベットの『A』を現しているよ!』 「……意味が分からん」 俺はそう言って紙の前で呆然とした。 「なあ? 本当にこの紙に書かれた謎を解いたら、ニンテンドースイッチが手に入るのか?」 「そうらしいですよ。三枚目の紙を読んでください」 俺は三枚目の紙をめくった。 南方純様、南方霧香様へ 謎を一つと次の謎の描かれた紙が手に入る。 謎は全部で二つ! 二つ目の謎の答えが、この街のどこかに隠された、ニンテンドースイッチの場所を現している! 探してみよ! ナシモトカズミより 最後には差出人だろうナシモトカズミという署名もしてあった。しかし。 「意味が分からん。何でこのナシモトカズミとかいう黒尽くめの人物は、こんな暗号を解かせてまで、俺達にスイッチをくれようとしてるんだよ」 「さあ? 案外父さまだったりするかもしれませんよ? 直接スイッチを買ったら母さまに怒られるから、自分達の力で謎を解いて手に入れたことにしてくれる……とか」 「うーん……。どうかなあ。なさそうだと思うけど」 「まあどっちにしろ大人だと思います。背も結構高かったですし、この文字や文章も大人が書いたっぽいです」 確かに字は綺麗だし大人っぽい。 「百三十センチそこそこのおまえからすれば、誰だって背が高いよ」 とは言え大人なのは確かだと俺も思う。ニンテンドースイッチをポンとくれるだなんて、子供の財力なら絶対にありえない。 ……スイッチが手に入る、というのが事実だとすればの話ではあるが。 「とにかく……わたしが考えてもちっともわからなかったので、一回兄さまに預けても良いですか?」 「分かった。考えてみるよ」 どうせ暇だし。 実際にスイッチが手に入るかどうか、というのは一先ず捨て置こう。ただ、目の前に解けない謎があるのをそのままにしておく、と言う状態が、謎解き好きとしては許せないのだ。 「期待してますよ! 兄さま。謎を解いて、二人でスイッチのある最高の夏休みを過ごしましょう!」 謎を解けばスイッチが手に入るとすっかり信じ込んでしまっている妹が、鼻息荒くそう言った。 〇 前に住んでいた街でやっていた空手の習い事をやめた俺は、新しい街で塾に通うことになっていた。 本日は、二回目の出席日である。 こっちでもまだ友達はできていない。塾の教室の机で授業の開始を待っている間も、俺は一人、霧香に貰った謎解きの紙とにらめっこしていた。 しかしまったく歯が立たないまま、一人で頭を悩ませていると……おずおずとした声が、席に座っている俺に振って来た。 「あ、あの。南方くん」 顔を上げる。 死ね子が俺の席の前に立っていた。 俺はドキりとして、そしてドキマキとした。どうして塾に死ね子がいるのか? 「さっきは、ありがとうね。じ、実は、あたし、南方くんと一緒の塾、なんだ。知らなかった?」 そうだったのか。前回出席した時は気付かなかった。 俺が黙っていると、死ね子は「あ、えっと、その……」と照れた様子で、不安と期待の混ざったような顔で、俺の前に立ち尽くしている。 その様子が妙に可愛かったのと、そう言わないと死ね子はずっともじもじしていそうな気がしたので、俺はつい。 「隣、座る?」 と声をかけた。かけてしまった。 言ってしまってから愕然とする。俺はなんで女子に隣に座るように促しているんだ? 普通男子は男子同士隣に座るもんだろ? たまたま一緒になるのならともかく、自分から女子を誘うなんて……その、なんというか、エロいし! キモいし! ああ! こんなところを他の奴に見られていたらと思うと……、恥ずかしい! なんて嘆く間もなく、目を輝かせた死ね子が、「ありがとう」と言ってはにかんだ笑顔を浮かべ、俺の隣に座った。 小さくだが「えへ」という声が聞こえたような気がする。 俺の隣に座れて嬉しいのだろうか? さっき助けてやったからだろうか? ……それにしても。女子が隣に座っていると、あたりの空気が途端に華やかに、甘酸っぱいものになったように感じられる。 な、何をキモいことを考えているんだ! 俺は! っていうかなんかお互い黙りっぱなしだぞ? やばいぞ気まずくなるぞ? なんか心臓がバクバク言ってるし、変な汗が出て来た。このままだと妙な気分になりかねない。 いや、妙な気分って、どんな気分だよ! 「あああのさ、死ね子」 俺はとにかく死ね子に話しかけることにした。死ね子は、「う、うん」と若干緊張した面持ちで返事をする。 「死ね子は、テレビとか何が好き?」 バカかと思うほど無難な話題のチョイスである。 まあ小学生のトークなんてそんなもんである。いや、大人がどんなトークをするかとかは、知らないけどね。政治の話とかすんのかなー? 「……あ、ええと。ニュースとか。良くお父さんと、政治の話とかするんだ」 こいつ……マジかよ……。 「まあ、あたしはいっつも教えてもらう側なんだけどね。どの党のどの政治家がどのくらい立派かかとかさ。南方くんは?」 「お……俺も……ニュー……じゃなくてアニメ。ドラえもんとか」 何を見栄を張ろうとしたんだ。俺は。 俺は政治の話題はできないけど、しかしドラえもんは面白いから皆大好きだし、きっと共通の話題になるはずだ! そう思い、俺は尋ねる。 「死ね子はドラえもん見る?」 「見ない」 死ね子はどこか遠い目をして言った。 「絶対見ない。何があっても見ない。あんなものを見ると虫唾が走る。全身に不快感が駆け抜けて強力な嘔吐感を覚えて気が狂いそうになる。あんなものを見るくらいなら死んだ方が絶対にマシ」 なんか変なスイッチ入った! 何? 何でドラえもんをそんな嫌悪してるの? 別に嫌いになる理由ないよねドラえもん。面白いよね! 「特にあのピンクの服着た女、あの子が出るとテレビを叩き割ってしまいたくなる。この世の全てが憎くなる」 過去にしずかちゃんに親でも殺されたのだろうか、この子は……。 「あ、ご、ごめん。変なこと言っちゃって……」 自分の豹変に気付いたのか、死ね子は顔を赤らめて、必死の様子で取り繕った。 「アニメは嫌いじゃないし、藤子・F・不二雄もすごいと思うけど、ドラえもんだけはどうしても苦手な訳があって……」 「ま、まあ好みはそれぞれだよな」 「う、うん。ごめんね。……そ、それより」 死ね子はドラえもんの話題から逃げたがるかのように、取り繕うような口調で言った。 「ところで南方くん。いったい何をそんなに真剣に見つめているの?」 そう言われ、俺は持っていた謎解きの紙を死ね子に見せ、事情を説明する。 「……ってことなんだ」 「へぇ。スイッチが手に入るだなんて、すごいね」 「本当かどうかは分からないけどな。とは言えこういう謎解きは嫌いじゃないし、妹はその気になってる。俺も一応、挑戦してみようかなって。……死ね子はどう? この紙見て、何か思いつく?」 「え? そ、そうだねぇ……」 死ね子は暗号の描かれた紙をじっと見詰め、……やがて口を開いた。 「これ、二進数じゃない?」 俺は思わず小首を傾げる。 「二進数?」 「えっと……知らない?」 「う、うん。すまん、分からん」 「そっか。でも簡単だよ。あらゆる数字を、1か0の二つだけで表すっていう方法なんだ。つまりねぇ」 死ね子は自分のノートを取り出し、丁寧な文字で素早く時を描くという、いつも字の汚さをなじられる俺には考えられないことをした。綺麗だし、大人っぽい字だった。 1 1 2 10 3 11 4 100 5 101 6 110 7 111 8 1000 9 1001 「こんな風に、1と0の二つの数字だけを使って、あらゆる数を表現する方法なの。例えば、1の次に普通は『2』と書くところを、繰り上がって次の位になって、『10』と書く。『3』なら『11』で、『4』ならそこからさらに繰り上がって『100』になる。分かるかな?」 「な……なんとなく。分からん……でもない?」 「この『〇』か『●』っていうのは、それぞれ二進数における『0』か『1』のどちらかに対応しているんじゃないかなって思ったんだけど……どうかな?」 そう言われ、俺は考えてみる。 「死ね子の言う通りなら、この『ビットくん』の五人組は、二進数で表記された五桁の数字ってことになるよな?」 「そうだね。そうだと思う」 「……『●●●●〇』はアルファベットの『A』ってヒントに書いてあるよな? だったら、『〇』が『1』で『●』が『0』だ。『●●●●〇』は、二進数の『00001』だと思う」 どう考えてもそうだ。『●●●●〇』は『11110』か『00001』のどちらかだけど、最初のアルファベットである『A』がどちらにふさわしいかと言われると、これはもう絶対に『00001』だと思う。『00001』ってのはつまり『1』のことだからだ。 「『A』が『1』ってことは、『B』は『2』の可能性が高いよな? 1が『A』で2が『B』でZが『26』……っていうのは、暗号の定番なんだし、その線で考える価値はあるよな」 俺がこれまでに読んで来たたくさんの謎解き本にも、この手の問題は五万とあった。アルファベットを数字に対応させる。典型的な出題パターンに過ぎない。 「そうだね。じゃあ、その線で考えて……まずはこの『ビットくん』たちをまずは数字に直して、それからアルファベットに直してみようか」 死ね子は二進数を十進数に直す計算方法を教えてくれる。俺と死ね子は、前と後ろから手分けしてその作業を進めていった。 〇●●〇〇 ●〇●●〇 〇●●〇● ●〇●●〇 〇●〇●● 〇●〇●〇 〇●〇●● ●〇〇〇〇 〇●●〇〇 〇〇●●〇 ●〇〇〇〇 ●〇●〇〇 ●●●●〇 ●〇〇〇● 『〇〇●〇〇〇●〇●』 ●●●●〇 ●〇〇〇● ↓ 10011 01001 10010 01001 10100 10101 10100 01111 10011 11001 01111 01011 00001 01110 『110111010』 0001 01110 ↓ 19 9 18 9 20 21 20 15 19 25 15 11 1 14 『442』 1 14 ↓ SIRITUTOSYOKAN『442』AN 「答えは『市立図書館』! そして『あ』と『ん』! ……だけど、間の大きい数字が分からないぞ?」 すらすら計算して『110111010』を『442』に直したのは死ね子である。その死ね子は一瞬、小首を傾げ、小さな声で 「442……そして『あ』と『ん』か」 そう呟いて、すぐに閃いたように目を見開いた。 「そうだ! これは多分、本の分類番号だ!」 「分類番号? ……そうか!」 図書館に行くと、本の背表紙に、数字と著者の名前の頭文字二文字が書いた紙が貼ってある。 それは図書館における本の住所のようなものだ。前の街の図書館でたまにハリーポッターとか借りていた俺は、それを参考に目当ての児童書を探した経験があった。 「つまり、市立図書館にある『442アン』の本を調べれば、次の謎解きが書かれた紙が手に入る……ってことじゃないかな? と、あたしは思うんだけど、どうかな……?」 おずおずとした口調。そして俺より十センチ低い背丈からの上目遣い。色素の薄い大きな目。 俺は思わず死ね子の両手を握りしめて、興奮した声でこういった。 「おまえ……すげぇな!」 死ね子は驚き、戸惑った顔で……「え?」と目を丸くして俺の方を見た。 「無茶苦茶アタマ良いじゃん! すごい奴だったんだな死ね子って! 初めて知ったよ」 本当に感動していた。あの訳の分からなかった暗号が分かるだなんて、天才だ! もしかしたら、この暗号も俺が子供だから苦戦しただけで、大人からしたら一目見たら分かるようなものかもしれない。しかし同じ歳の俺が何時間もにらみ続けて、何一つ分からなかった暗号には違いはない。そんな俺をすらすらと正答に導いてくれた死ね子を、俺は心底から尊敬していた。 「なあ死ね子、市立図書館なんだけど、明日一緒に行ってくれないか?」 俺は勢いのまま、そんなことまで口にしている。 それはつまり、女子を遊びに誘うという行為に他ならない。 しかし、最早そんなことはどうでも良かった。それだけ、死ね子がすごくて、今の謎解きが劇的だった。その頼もしさを前にしては、女子と二人で遊びに行くのが何だか恥ずかしいなんて気持ちは、霞んで分からなくなっていた。 「う、うん。分かった」 死ね子の頬には朱が刺していた。しかしどこか嬉しそうな表情を浮かべ、心臓を打ち抜かれそうな程魅力的な笑みを浮かべながら、明るい声で言った。 「一緒に行こう。え、えへへ。楽しみだね」 〇 2 〇 翌日。 昨日は勢いで死ね子を図書館に誘ってしまったが、よくよく考えてみると女の子と二人っきりで遊びに行くというのが実は無茶苦茶恥ずかしいことだと、俺は気が付いた。大焦りした俺は慌てて霧香を拝み倒し、一緒に付いて来て貰うことにした。 見返りに朝食のミートボールを三つも取られた。 暇な癖に。 「もう時間がないぞ? 暑いからって、そんなだらだらと歩くなよ」 待ち合わせ場所への道中である。空は雲一つない晴天で、カンカン照りの太陽が、突き刺すような日差しを放っている。どこを歩いても激しいセミの音が俺達を取り囲み、そこに時折、生ぬるい風が木々を揺らす音が混ざった。 「こんな暑い日にまともに歩けませんよぅ」 霧香は汗をぬぐいながら文句をけだるげな声で言った。 「おまえがちゃんと早く準備をしてくれりゃもっとゆっくり行けたんだよ」 「ズボラ男子の兄さまには分からないでしょうが、女の子の身支度は時間がかかるんです」 「嘘吐け。服なんかまるで選ばない癖に。九分九厘ウンコの時間だったじゃねぇか」 「昨日下痢ツボ押しまくったのはいったいどこの誰ですか」 なんてやり取りをしていると、待ち合わせ場所にたどり着く。 塾の前にある公園である。図書館の場所を知らない俺を案内してもらう為に、ここで死ね子と待ち合わせることになっていたのだ。 ベンチでに腰かけていた死ね子は俺達の到来に気付いて笑顔を向けた。 「暑い中待たせて悪かったな。死ね子」 「ううん。今来たとこだよ。……その子は?」 「ああすまん。妹だ。スイッチをゲットしたがってる当事者だから、連れて来たんだ。割とこういうの強い方だから、戦力にもなると思って……。勝手に連れて来てごめんな」 「ううん。それは全然良いよ」 「おい霧香。自己紹介しろ」 そう言うと、俺の後ろに隠れ気味だった霧香は、死ね子の顔を見てどこか安堵した様子で一歩前に出て、胸を張って声を張り上げた。 「わたしの名は夏休みマスター・霧香! 誰よりも夏休みを楽しむ者!」 年上のお姉さん相手にふざけた自己紹介だった。軽めに窘めておくべきか逡巡していると、死ね子が。 「霧香ちゃん、お久しぶり」 と親し気な笑顔で応じた。 「兄さまに女の影と思い、人見知りをこらえて視察しに来てみたら……よもや死ね子さんでしたか」 そう言う霧香に、俺は目を見開いて尋ねる。 「知り合いなのか?」 「ええ。数日前、馴れない土地で道に迷っていたところを、自宅まで案内していただきました。色々とお話もして、仲良くなりました。死ね子さんは親切なお姉さんです」 そんな関係があったのか。というか。 「年上のお姉さんに『死ね子』はまずくねぇか?」 「本人がそう呼べっていうんですもん。それは兄さまも同じでしょうに」 「そうだけど……。まあ良いや。とっとと涼しいところに行っちまおう」 そう言って死ね子に視線を向ける。死ね子は微笑んで立ち上がる。 「そうだね。すぐ図書館に行こう。ここからそんなに遠くないし、とっても涼しいよ」 〇 死ね子の推理はやはり当たっていた。 『442アン』の番号を持つ本は市立図書館に一冊だけあり、タイトルは『超解説・モールス信号』とある。その本の隙間に、二つ目の謎の描かれた紙が挟まっていた。 「しかし、ナシモトトカズミさんもいい加減ですね」 挟まっていた紙を取り出しながら、霧香が言った。 「そ、そうかな?」 「そうですよ死ね子さん。別の誰かが借りてたり、紙を捨てたりしてたら、どうするつもりだったんだか」 そんなやり取りを尻目に、俺は霧香から受け取った紙の一枚を開いた。 26 13 15 003 01 23 「ううむ……」 白丸と黒丸の次は、数字の羅列か。 これだけだと情報が少なすぎて、俺の知り得る限りの謎解き知識では、とても法則性は見いだせない。 ヒントを求めて、俺は二枚目の紙を開いた。 そこにはビットくんが登場しており、吹き出しで何やら宣っている。 『今回の謎にはどこにもぼくたちビットくんが見当たらないね。どこにいるのかな? 謎を解くカギは、君が今持っている本に書いてあるよ! この謎を解いたらスイッチが手に入る! 頑張ってみて!』 「今持ってる本って……これか」 俺は『超解説・モールス信号』をぱらぱらとめくってみる。モールス信号について、子供がネットでも余裕で手に入れられる程度の、初歩的な知識が書かれていた。 「とりあえず、この本は借りて帰るとして……。この暗号について話し合わなきゃな。どこか席に着いて話そう。あそこの四人掛けが空いて……」 「待ってください。それはまずいでしょう。どこか外で議論をすべきです」 霧香が眉をひそめて言った。 「え? なんで? ここ涼しいのに……」 「図書館で議論なんかしたら司書さんに八つ裂きにされますよ? 静かにしていないと首の骨をへし折られ、見せしめとして図書館の前に吊るされるって習わなかったんですか?」 「そこまで過激じゃないだろ」 「前の学校の図書室では、わたしの友人の内の三人がそれで英霊になりました。……本を積み上げてお家を作って遊んだばっかりに……恐ろしいことです」 「自業自得なんだよなあ……」 「とにかく、そんな恐ろしい場所で話なんかできません。場所を変えるべきです!」 大げさな。しかし図書館だと声量に気を使うから議論しづらいってのは確かだ。そう思い、死ね子に良い場所はないかと尋ねると。 「近くにイオンモールあるよ」 と言う。「えマジですか?」と霧香が目を輝かせたのもあり、そこに向かうことにした。 〇 「ゲームセンター行きたいです」 モールに着くなり、霧香がそう言った。 「謎解きをしに来たんじゃなかったのか?」 「まあ良いじゃないですか。せっかく夏休み初日なんですから、遊びましょうよ」 本来の目的とは異なるが、死ね子はどうやら優しい性格で、俺も妹には甘い方だ。霧香の希望が通り、俺達はイオンのゲーセンにいた。 「うぉおお! 広くて良いゲーセンですね」 霧香は興奮した様子である。 「そんなにか? 前の街にあったのとそんな変わらないぞ?」 「ははは兄さまの目は節穴ですね。概算にしておよそ1.1278倍程広いじゃないですか」 「細かすぎて誤差だわ」 絶対にテキトウに言っている。どうやらはしゃいでいるらしい。 はしゃいだまま、霧香は一目散に千円を崩しに両替機へと向かっていく。夏休み序盤に小遣いを使い果たして泣きを見ないか、お兄ちゃんは心配である。 「付き合って貰ってすまないな、死ね子」 俺が声をかけると、死ね子は首を横に振って。 「ううん。霧香ちゃんの言う通りだよ。夏休みの初日なんだから、遊ばないとね」 と、そこで。 「そうですねぇ。何せあなた達は今日を含めて四十連休。この世の楽園にいるかのような解放感でしょう。羨ましさを通り越して妬ましい気持ちです。いっそ殺意すら湧いてきますね」 唐突に、にこやかでありながら淡々とした声が、俺達の耳朶に響いた。 振り返る。担任教師の黒岩が、ベンチに腰掛けながら、いつもの張り付けたような笑顔を向けていた。 「しかしこの場所は決して楽園などではありません。子供達からなけなしの小遣いを毟り取るべく、資本主義社会が生んだ悪魔の施設なのです。見てくださいクレーンゲームの筐体の数々を。山のように詰め込まれた魅力的な景品の数々が、あなた達の財布の中身を搾取しようと愛嬌を振りまいているではありませんか。どうかあなた達が散財を積み重ね、小遣いを失くしてひもじい夏を送ることを、先生は神に願ってやみません」 「不吉なことを言うなよ!」 俺は吠えた。 「つか、なんであんたがこんな場所にいるんだよ!」 「おやおや先生に向かって随分な口の利き方ですね? 休みの日は一秒たりとも生徒の為に働かない先生ですが、しかし激しい体罰を行使するという教師の権利は常時フル活用するスタンスだということを、どうか忘れないでくださいね」 「体罰は教師の権利じゃねぇ!」 何で夏休み初日からこんな奴に会う羽目になるんだ! つか仕事はどうしたんだよ! 今日は平日だろう? 「何故先生がここにいるか? 簡単なことです。『有給』を取ったのですよ」 「……そ、そうなのか」 「ええ。夏休みは、なんだかんだ仕事も少ないので、有休もとりやすいですからね」 「それで……何でまたゲーセンに?」 「先生だってゲームセンターくらい行きますよ? 何せ、夏休みのゲームセンターには女児がたくさんいますからねぇ。学校ではいつも同じ制服を着ている女児の新鮮な私服姿を、思う存分『視察』できると言う訳なのです。神聖にして高貴な休日の過ごし方と言う訳ですね」 「キモいじゃなくて気持ち悪い……」 太陽系で最低の教師に一票入れたい気分だった。 そんな大問題教師黒岩からはとっとと離れるに越したことはない。尚も訳の分からない話を続けようとする黒岩を無視して、俺達は霧香の方へと向かった。 霧香はクレーンゲームの筐体の一つの前で、ぼんやりとした表情で立ち尽くしていた。 「何してるんだ? 霧香」 「あ、兄さま」 霧香はそう言って、筐体を指さす。 「この筐体が目当てなのです」 「だったらすぐに遊べば良いじゃないか」 「しかし中の景品は今にも落ちる寸前です。ここまでやって諦める人は少ないでしょうし、誰かがやっている途中で両替などで離れたのかもしれません。少し様子を見てから遊ぶのがマナーというものでしょう」 この辺のモラルは身に付いている子供である。と言うか、根が臆病なので出来るだけトラブルは避けたいのだろう。 もっとも、備わっているキープ機能も設定されていないし、場所取りの為のものが置かれていたりはしないので、別にすぐ遊んじゃっても問題なさそうには見える。それでも霧香は少しの時間をおいて、周囲の両替機に人がいないのを確認した後、筐体の前に立った。 「これが欲しいの?」 死ね子が訪ねる。 「ええ。カービィは大好きなキャラクターです。この景品もずっと欲しくて。……しかしブックオフでもネット通販でも見かけませんし、これはまたとないチャンスなのです」 カービィのオルゴールである。『夢の泉』というカービィの世界にある神聖な泉をモチーフにした台座の上で、カービィが笑顔で星形の杖を掲げている。 二本の棒の上に乗せられた四角い箱を、クレーンで動かして落下させるという仕組みの筐体だ。しかし箱は斜めにずり落ちかけており、適切に動かせば数百円で手に入りそうである。 実際、霧香は上手く景品を取った。四百円と小学生にとってはそれなりの金額がかかったが、それでも最後はアームの腹で押すような形で、上手く落とすことに成功したのである。 「霧香ちゃん、すごい! 上手!」 死ね子は拍手をしてやっていた。 「こいつ上手い方なんだよ。良かったな霧香」 俺もそう言って祝福した。霧香は照れ笑いを浮かべながら、大事そうに景品を抱きしめている。 「えへ」 カービィは本当に好きだから嬉しいだろう。スイッチのソフトも動画投稿サイトでしょっちゅう視聴して、いつも遊びたそうにしている。 こいつの為にも、スイッチを手に入れてやらなきゃいけない。 今日と言う日も、良い思い出になりそうで、それも良かった。 そう思った時だった。 「ちょっとぉ。それ、俺らが取ろうとしていた景品なんですけどぉ?」 如何にも下賤な声が響いて、俺達の前に三人組の男女が現れた。 男二人、女一人の組み合わせである。年齢は中学生程で、男は二人とも俺よりでかい。 「ハイエナ行為やめてくれる? 誰かが良いところまで進めたのを横取りするなんてのはさぁ、卑怯だろう? 俺らが取るはずだった景品なんだから、返してもらえる?」 そう言って大人と子供程身長の違う霧香に凄む坊主の中学生男子。卑怯だ。後ろでは金髪の中学生男子が牽制するように俺を睨み付け、威圧することで後方支援している。 さらにその背後にいる紅一点の女がにやにやとした顔で言った。 「そうだよ。それ、ウチらのだから。持って帰ってメルカリで売りまーす。キャハハハハ」 「待てよ!」 怯えて顔を蒼白にする霧香を背後に庇い、俺は前に出た。 「あんたら筐体の近くにいなかったじゃないか! 三人いるんだから、誰か一人が筐体の前で場所取りをしてたら良かっただろ? それにこの台にはキープ機能もあるのにそれも使ってなかった。それで横取りされたってのはおかしくないか?」 俺は三人組の落ち度を指摘する。しかし。 「おい! 敬語使えよ!」 中学生男子(坊主)は問答無用だった。 「俺らがそこまで動かしたんだからそれは俺らのだっつーの! とっとと寄越せ!」 そう言って、霧香の腕からオルゴールの箱を強引に奪い取る。 俺は目の前が真っ赤になり、激しい怒りに支配され、我を忘れて叫んだ。 「何をしやがる!」 その時だった。 「お客様。店内でそのような行為は困ります」 店の店長らしき男がそう言って、中学生に声をかけた。 「……なっ」 中学生(坊主)は絶句して店員を見詰めた。 見れば死ね子がびくびく震えながら、数人の店員に囲まれて立っている。どうやら騒ぎの途中で、店員に助けを求めに行ってくれていたらしい。 アタマに来て口論していただけの俺などよりも、遥かに冷静で適切な行動だった。 名札に『店長』とある年嵩の男が先頭に立ち、背後ではアルバイトらしき若者数人が中学生達ににらみを利かせている。二十歳前後だろう彼らは体格も良く、中学生達よりも肝の据わった態度だった。 これでは三人組はたまらない。中学生達は不承不承という表情で霧香にオルゴールの箱を返却すると、ふてくされたように立ち去って行った。 「ありがとうございます」 ぺこぺこと、死ね子が店員達に頭を下げている。店長が安堵の息を漏らし、若者店員達は「大丈夫だった?」と死ね子や俺達に優しい言葉をかけてくれた。 俺は適切に職務を全うしてくれた立派な店員達と、冷静に彼らを呼んでくれた死ね子に深く感謝した。 〇 「ありがとうな死ね子。店員を呼んできてくれて」 モールからの帰りがけ、俺がお礼を言うと、死ね子は「ううん」と首を横に振った。 「こんなことしかできなかったから……。オルゴールが取られずに済んだのは、南方くんが堂々とあの人達に立ち向かってくれたからだよ」 あのままモールにいるのは何となく怖いという霧香に配慮し、俺達は再び炎天下の中を歩いていた。 モールのある国道沿いから離れ、ドブ川と田んぼに挟まれた閑散とした脇道を、少しつんとしたにおいを嗅ぎながら進む。ヘドロだらけで脂ぎったドブ川だったが、それでも水の流れる音だけは、妙に涼し気に俺達の耳朶に響いた。 人がいない。脇道だからだ。どこかテキトウな場所に腰を落ち着けて、本来の目的である謎解きを始めよう、と話し合ったところで。 物陰から先ほどの坊主の中学生達が現れて、俺達を取り囲んだ。 俺達三人は絶句する。にやにやとした表情で、坊主の中学生が頭上から下卑た声を俺達に降り注がせた。 「さっきは、良くも恥をかかせてくれたな」 逆恨みしてやって来たらしかった。どうやら、俺達が人気のない場所まで来るのを、後ろから付けて来ていたらしい。恥をかかされたと言って、執念深い。 「恥をかかせたって……。悪いのはあんたらじゃないか!」 俺が言うと、坊主は俺の胸を掴んで、俺の肩を続けざまに二回、殴った。 それなりに痛かったが、動揺する程のダメージじゃない。俺が坊主を睨み付けると、「ガンくれんなよ!」と睨み返して来た。 紅一点の女が居丈高な声で言った。 「謝んなよー。元はと言えばさ、あんた達がウチらの景品を横取りしたのが悪いんじゃんさー」 「あんたらは諦めてたんだろ!」 俺は吠える。 「だから台から離れてたんだろ! それを俺達が取ったもんだから、横取りされたみたいでムカつくってだけなんだろ! 通るかよそんな自分勝手な理屈! ふざけるな!」 「黙れ!」 吠え返されて今度は頬をどつかれる。唇を切って、少し血が滲んだ。 しかしこんな痛みなど何のことはない。俺はあくまでも毅然とした態度で、じっと坊主のことを睨み返す。 動揺しない俺を見て、坊主達は苛立ちと困惑を募らせた様子だった。どうやら、押しているようだ。俺はさらなる反論をする為に口を開きかけた。しかしその時。 「あ。あの……その……」 霧香が俺の前に出て、震える手でオルゴールを差し出した。 「ごめんなさい。これ……」 「あ?」 坊主がそう言って霧香を睨み付ける。 「返すから……。だから、お兄ちゃんを殴るのはやめて……」 「おい霧香! 渡すことないぞ!」 「だ、だってお兄ちゃん。殴られて。だって。わたし、怖い……」 幼い頃と同じ口調でそう言って、霧香はその場で顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまう。 霧香は、滅多に泣くことはない。 こいつは臆病な性格だが同時に我慢強く打たれ強い。自分が脅かされるだけならいくらでも耐える。屈服しない。大切なおもちゃを差し出したりしない。脅かされたからと言って、そこから逃れる為に自分の何かを差し出すことが、とてつもなく愚かな行いであると知っている。 バカじゃない。 でも霧香は優しいのだ。自分が何をされるよりも、俺が殴られることの方が遥かに怖くて嫌なのだ。それを避ける為ならば、せっかく手に入れたオルゴールも手渡してしまうのだ。 「ふん。別にこんなガキみたいなもん、別に欲しくはねぇよ」 そこで坊主の取った行動は卑劣の一言だった。 坊主は霧香からオルゴールを引っ手繰ると、あろうことか傍のドブ川に捨ててしまった。ドブ川の緩やかな流れはそれでもオルゴールを巻き込んで下流へと運び、瞬く間にオルゴールは見えない程遠くに行ってしまった。 「キャハハハハ! 良い気味!」 紅一点の女が、その様子を見て下品な笑いを上げる。 「あーすっきりした。おい、行こうぜ、おまえら」 そう言って、三人組は俺達を嘲笑しながらその場を立ち去ろうとする。 俺は目の前が真っ赤になった。 こいつらは卑劣だ。クズだ。悪党だ。今すぐ八つ裂きにしてやりたい。 だが俺が殴りかかって喧嘩になったら、死ね子や霧香にも危険が及ぶだろう。そう思ったから、どれだけ肩や顔を小突かれてもじっと耐えて来たのだ。 だったら……それを貫くべきなのだろうか? 今は歯を食いしばって耐えなくてはならないのだろうか? それが本当の勇気なのだろうか? 俺はふと霧香の顔を見る。 泣きじゃくっている。怯えて泣いて、震えている。本当はこの卑怯な三人組よりも遥かにまっすぐでしなやかな魂を持っているのに、ただ歳や体格が上だと言うだけの糞野郎どもに怯え、理不尽に泣かされている。 ……それを見て、俺は決めた。 どうするのが正解か、じゃないのだ。 俺がどうしたいか、でもないのだ。 この場で最もつらい思いをしている霧香が、兄である俺にどうして欲しいかなのだ。 「てめえらあああああ!」 そう言って、俺は坊主頭を血祭にすべく、拳を振り上げて突進した。 突然の反撃と俺の剣幕に、坊主頭は怯む。武道的心得もなければ大して喧嘩馴れもしていないのだろう。卑小な精神性を現したような面食らった顔で、坊主頭は反撃の構えもできずに、ただただ俺に殴られるのを呆けて待ち受けていた。 その時だった。 「そこまでです。止まりなさい南方くん」 鋭い声が響いた。 俺は思わず振り上げていた拳を下した。 「本来ならば、勤務時間外に子供同士が如何にトラブルを起こそうと、そこに介入するような主義を先生は持ち合わせていません。何故ならそんなことをしても一文の得にもならないからです。しかし……」 大問題担任教師・黒岩だった。近くに止めてある車から降りて、一歩ずつ俺達に近付いて来ている。 「今回は例外です。何故なら、私はあなた達のようなKUSOGAKIが、心の底から大っっっ嫌いだからです」 「きゃ……キャァアアアア!」 中学生三人組の紅一点である女が、黒岩の顔を見て悲鳴を上げた。 「こいつ……こいつ……黒岩ぁ! あ、ああ……ああああああ! いやぁああああ!」 怯えを通り越して絶望した表情で顔をくしゃくしゃにして後退る顔面蒼白の女。な、何をいったいそんなに怯えているんだ……っ。 「お久しぶりですねぇ田辺さん。あなたが卒業してから一年と数か月と言ったところでしょうか。せっかく先生が『愛情』を持って『矯正』して差し上げたというのに、すっかり悪ガキに戻ってしまったようで。嘆かわしい限りですねぇ」 田辺と呼ばれた女はその場で腰を抜かし、子供のように大声で泣きじゃくり始めた。全身を震わせながら「助けて、助けて……」と悲壮極まりない声で呟いている。 「嫌だぁ……もう水飴は嫌ぁ。アワビも嫌だしピンポン玉も嫌ぁああ。助けてぇええ。助けて神様ぁああ。神様ぁあああ!」 そう言って滂沱の涙を流す田辺。……い、いったいこの二人の間に何があったんだ……。 「な……なんなんだ田辺。このおっさん、そんなにヤバいのか……?」 「こいつは……黒岩は……あたしの尊厳の全てを奪ったの……。思い出すだけで……吐き気が……。う、うぅうう。うぅううおおおおえぇえええ。ゲロゲロゲロゲロ!」 顔を白黒させながらその場で吐き始めてしまう田辺。 マジで何なのこの担任教師? いったい何をやったの? 法には触れてないの? 大丈夫? 「心配しなくても先生が『愛』を込めた『指導』をするのは、あなた達のようなKUSOGAKIの中のKUSOGAKIだけです。さて、今のやり取りはすべて録音・録画させていただいています。先生は警察署の少年課ともパイプがありますから、これを使ってあなた達を『どうとでも』することができます。さあどうしますか? きちんと非を認めて、先生の特に大切でもない生徒(クソガキ)達に謝るか。或いは逆らって先生に『どうとでも』されてしまうか。選んでください。先生はどちらでも構いません」 「謝ります! だから、だから水飴だけは! アワビだけは! ピンポン玉だけはぁああ!」 田辺は俺達に向かって激しく鳴きながら土下座を始めた。 坊主と金髪はドン引きしてその様子を見守っている。そこだけ切り取ると俺と同じである。 黒岩は坊主と金髪に向けて、張り付けたような笑みで淡々とした口調で言った。 「さて坊主頭くん。金髪くん。あなた達はどうするつもりですか?」 「て、てめぇ……偉そうに」 二人は不良としてのプライドからか、恐怖に震えつつも謝ることを躊躇していたが、しかし黒岩の能面のような微笑み面に臆したかのように、やがて苦悶の表情で俺達に頭を下げた。 「ごめんなさい」 完全勝利だった。形勢逆転にも程があった。 それから黒岩は三人組から電話番号を聞き出してそれぞれの親に連絡を入れ、さらには俺達の親にも連絡を入れ、「改めての謝罪や賠償は当然として、お子さん達と話をして、被害者側が納得行くように収めてください」と迅速に話をまとめてしまう。 そうしてようやく解放された三人組を見送った後……「さて」と黒岩は俺の方に向き直った。 「ところで南方くん。あなたは、前の小学校で空手をやっていたと聞いています。それも、かなり強かったと」 そう言われ、俺は思わず「……はい。そうです」と返事をした。 敬語である。 「君は先ほど不良たちに殴りかかろうとしていました」 「はい」 「それは何故ですか?」 そう言われ、俺は先ほどの自分の決断について思いを馳せる。 あの時、不良共は、もう満足して帰ろうとしていた。だから殴りかかったのは、自分や霧香達を守る為でなく、結局はただ俺がそうしたかったからに過ぎない。 だがあそこで坊主をぶん殴ったとしても、霧香のオルゴールは戻って来ない。 殴りかかってトラブルが大きくなったら、霧香や死ね子にも危険が及ぶ。 だったら、あそこは我慢して、後から親に事情を話して警察にでも行くことも、間違った対処ではなかったような気はする。 だがしかし。 「……あそこで霧香の為に立ち上がれないようなら、兄貴である意味がないような気がしたんです。自分を鍛えた意味が……ないような気がしたんです」 「そうですか。まあ、気持ちは分かります」 黒岩は相変わらず張り付けたような笑みを浮かべて、淡々とした声で語りかける。 「基本的に、無暗に暴力を振うのは卑怯なことです。しかし、人には戦わなければならない時があることも、また確かです。そうなった時に、戦いからは決して逃げてはいけません。ですが、その戦わなければならない時というのは、実は一生の内に一度あるかどうかなのです」 「一生の内、一度あるかどうか……」 「ええ。その一回が来るまでは、とことんまで暴力以外の方法を考えましょう。逃げるのでも、他人に頼るのでも構いません。しかしその一回を見極めた時は、遠慮をする必要はありません。戦って下さい。それは勇気です」 「…………」 「その一回の為に鍛えた君の力は価値のあるものです。だから、その時が来るまで、その拳は大切にしまっておきましょう。良いですね? 南方くん」 「先生……」 思わず、俺は感銘を受けていた。 こんな大問題教師に、こんなちゃんとした教えを説かれるなんて……。 とんでもない人ではあるけれど、少し認識を改めるべきなのだろうか。 そう思っていた俺に、黒岩が言う。 「……と、いう一連のお話は、先生の好きなエロゲーに出て来た台詞のほぼ丸パクリです」 台無しだよ! 「もちろんロリ系です」 余計に台無しだよ! 〇 その後俺達はそれぞれの両親からの呼び出しで自宅へ戻り、今回のトラブルに対して今後どうするのかを話し合った。 オルゴールを弁償してもらえればそれが一番良かったが、しかしゲーセンの景品という性質上、金を出せば手に入るというものでもない。ネット通販でも出品はないようで、改めての謝罪と賠償はそれはそれとして、オルゴール本体は戻って来なさそうな雲行きだった。 「残念だったな」 俺が心底同情してそう言うと、霧香は。 「仕方がないことです」 と様々な感情をこらえたような顔で言った。 そんな妹の様子に心を痛めつつも、どうしてあげることもできない。 暗い気持ちのまま、翌日、俺は塾に行った。 なんとなく死ね子が隣に座るだろうと思いながら授業の開始を待っていると……やがて異臭を漂わせながら死ね子が現れた。 ドブのニオイである。 足元がなんかすごいことになっていた。靴はどす黒い泥で汚れ、白い靴下は完全に変色してゴミ布のようになっている。スカートも淀んだ水で濡れ、その他体のあちこちに泥が付着していた。 漂わせる異臭に、塾の連中からは「臭いぞ死ね子死ね!」との悪口が飛んだ。 俺は連中の言い様に嫌悪感を覚えつつ、死ね子に尋ねた。 「どうしたの? 大丈夫なのか?」 死ね子は全力で走って来た直後のように、息を切らしながら俺の前に立った。そして。 「これ」 と言って、俺に乾いた泥が若干こびり付いた箱を手渡して来た。 それは霧香の、捨てられたカービィのオルゴールだった。 「死ね子……おまえ……」 「もしかしたらドブを探せば見付かると思って。下流の方まで遡ったら、塾の時間ギリギリで見付かったの」 「いや、その恰好なら休めよ」 俺は突っ込みを入れた。 「つか、遅れて来いよ」 そう言われ、死ね子ははっとした表情で。 「そそ、そうだね、そうすればよかったね。ごめんねこんな臭い恰好で近付いたりして」 「い、いや、そういうことじゃなくて」 「思いつかなくって。早く南方くんに渡さなきゃって、そればっかり考えて……」 「い、いいって。あの、塾の先生には俺から説明しとくから、死ね子は家でシャワーを……」 「そ、そうだね。すぐに行ってくるよ」 そう言ってそそくさ立ち去ろうとする死ね子の背中に、俺は大慌てで「ま、待って!」と声をかける。 死ね子はその場で立ち止まって振り返る。 危ないところだった。 今すぐ言いたかったのに、言わなくちゃいけないのに、言えないところだった。 「一日中これを探してドブを浚ってくれたんだな。本当にありがとう」 感謝で胸が一杯になる俺に、死ね子は「良いよ」と微笑んだ。 「霧香ちゃんのことはあたしも好きだもの」 その微笑みには、死ね子の優しさが強く滲んでいる。 どれだけ自分が汚れても、悪口を言われても、霧香の玩具を取り戻せたことに満足して笑っている死ね子のその表情に、俺は胸を打たれて釘付けになっていた。 〇 3 〇 夏休みと言えば、忘れてはならない『アレ』がある。 宿題である。 もっとも、夏休みは長いのだからその気になれば片付けることは容易である。 堅実な者なら、七月中にも完了させるだろう。 しかし怠惰な者にとっては、その余裕こそが、取り掛かる上での深刻なハードルとして立ちはだかる。つまり、『今日一日くらいサボっても……』的心理状態を招くということだ。そしてその積み重ねで、宿題に手を付けないまま夏休みの日々はどんどんと過ぎていってしまう。 そんな訳で、今現在、俺と霧香の宿題はまったく手付かずだった。 「糞ーっ。全然進まねぇ……」 「本当です。どうしてわたしがこんな目に合わなくちゃいけないのか、理解に苦しみます」 二人とも、手を付けていないということが母親にバレたところであった。今日の内にしっかり宿題を進め、その成果を提出するように言い渡されてしまっている。 しかし前の学校との授業進捗の違い等により各教科のワークはどれも難しく感じられ、その進行は遅々としたものとなってしまっていた。 塾もまだ四、五回しか行ってないので、学力も全然上がってないし。 「ああ糞。誰か教えてくれる人いないかなー」 「本当ですよ。自分一人じゃちっとも進みません」 「なら俺が教えてやっても良いぞ? ……明日の掃除当番と引き換えにな!」 「いえ、兄さまのオツムには期待しません。教え方も下手ですしね」 「じゃあどうすんだよ」 「そうですねぇ。……ちょっと死ね子さんのお家に行って来ようと思います」 そう言って、霧香は勉強道具を片付け、身支度の為か自室へと歩きはじめた。 「ま、待て!」 俺は思わずそんな霧香に駆け寄った。 「おまえ、死ね子の家知ってんのか?」 「……? え、ええ。一回遊びに行ったことがあります。大きくて綺麗でしたよ」 「なんで遊びに行ったの?」 「いや普通に電話で誘われただけですけど……」 「どうして俺は誘われないの? つかおまえどうして俺も一緒に連れてかないの?」 「は、はあ……。しかしその日は兄さま、床でずっと一人で人生ゲームしてて忙しそうだったじゃないですか? 何周もプレイして稼いだ額のハイスコアに挑戦する姿が必死そうでしたから、なんか誘いづらくって」 「誘えよ! 全然忙しくねぇよ! むしろ極限まで暇してんだよそれはよ!」 「死ね子さんの方にも似たようなこと何回も言われましたよ。『お兄さんは来ないの?』『お兄さんは誘わなかったの?』って何回も何回も訊かれました。なので、家での兄さまの様子を話して聞かせてあげると『そう……』と色々残念そうにしてました」 話すなよそんなことをよ! 恰好悪いじゃねぇかよ! 糞! 糞! 「そんな訳で、ちょっくらアポ取ってから死ね子さんの家行って来るんで」 「待てっ。今日は俺も行く。俺も行くって死ね子に伝えろ」 「は? 別に一緒に行くのは良いですけど、それなら兄さまが電話してくれません? 実はちょっとスマホで遊び過ぎて今日一日取り上げられてまして。固定電話で掛けるの面倒臭いんですよ」 「じゃあ俺のスマホ貸すからおまえ電話しろ」 「え? なんでそんなことするんですか?」 「良いから!」 「でもなんで?」 「良いから!」 〇 そんな訳で、俺と霧香の二人は死ね子の家に遊びに行くことにした。 やって来た霧香の後ろに俺がいるのを確認すると、死ね子は嬉しそうに表情を明るくさせた。そして若干緊張したような表情で「は、入って……」と俺達を自室へと案内する。 「じゃ、じゃあ、お茶とか取って来るから……」 そう言って俺達を自室へ残して死ね子は台所まで歩いて行く。 死ね子の部屋は十畳程とかなりの広さで、あちこち綺麗に片付けられていて、ちょっと良い匂いがした。大きな本棚には児童書を中心に少々の漫画と大人向けの本が混ざり合っている他、ピンク色のベッドは綺麗にベットメイクされていて、整頓された勉強机は俺らが使っているものよりも桁一つ分高そうだ。 子供部屋にテレビがあるだけでもすごい。しかも大きい。 中流の上の方のウチと比べて、随分と金持ちの家の子の部屋に見える。実際、家の建物は霧香の言う通り大きいし、綺麗だった。 「死ね子さん、前にわたしが一人で来た時より機嫌が良さそうでしたね」 と霧香がそんなことを呟いた。 「そ、そうか?」 「ええ。まあ三人だと二人より色んな遊びできますからね。楽しいんでしょう」 「遊びに来たんじゃないだろうが」 やがて戻って来た死ね子が用意してくれたお茶とお菓子を堪能しつつ、勉強タイムが始まった。まだ七月も終わっていないにも関わらず、宿題のほとんどを終わらせているという死ね子の教え方は丁寧で、俺と霧香は取り合うようにして教えを乞うた。 「死ね子姉さま。この問題はどう解くんですか?」 「この問題はねぇ、ええっと……。まずはこの円の直径を……」 「なあ死ね子。この時の作者の気持ちってのが俺にはまったく分からないんだが」 「貴子の繊細な恋心に読者に共感してもらおうと情緒溢れる文章を書いた、みたいに書けば良いと思うよ」 宿題をしている際、最も多く時間を使うのは分からない問題について調べている時である。それを一言質問すれば速攻で答えが返って来る死ね子の存在は、あまりにもありがたかった。 正直、甘えすぎたと思う。 やがて夕方までかけて、およそ母親を納得させられるだけの進捗を得た。 家に帰る時間にはまだいくらかあったので、三人でトランプで遊んだり、例の暗号文について検討をしたりした。塾で死ね子と会う時も暗号についての話はしていたが、賢い彼女でも謎を解くとっかかりは見付かっていない様子だった。 しかしそれもやがて行き詰って来て……それぞれ考えるのをやめてだらだらと雑談をするような空気になって来たところで、死ね子が口を開いた。 「そう言えば……明日明後日と、夏祭りの花火大会があるよね?」 「ああ……。そういやそうだっけな」 と言いつつ実はハッキリ覚えていたイベントだった。 何なら楽しみにしていた。 夏休みが始まってからというもの、死ね子と知り合って謎解きをしたりモールに行ったり、塾で色々お喋りして楽しかったけど、未だに『夏』って感じのことはできていない。 その点、夏祭りなら申し分ない。こうしたイベントごとは大好きだ。行かないと言う選択肢はない……ないが、一緒に行く相手には困っていたところである。 となると、やはり死ね子と。 一緒に行くべきだろう。誘いたい。 こっちに来て初めて出来た友達なのだし。向こうから話題を持ち出して来たからには、死ね子の方にも誰かと行きたい気持ちはあるはずだ。脈はある。 しかし何だか、こちらからストレートに誘うのは照れる。恥ずかしい。 というか、女子を誘って二人だけで夏祭りなんて、ハードルが無茶苦茶高い。 だってそんなのほぼデートじゃん。なんかそういうの……エロいし! キモいし! ここはやはり霧香をクッションにすべきだろう。霧香と死ね子の二人は仲良しだし、霧香と俺は兄妹だ。霧香を中心に三人で出かけるという体裁なら自然。うん。そうしよう。 「死ね子は一緒に行く相手いるの?」 「え、うん。いないよ? 南方くんは」 「俺もいないなあ。強いて言うなら、こいつだけれど……」 と言って、俺は霧香の方を見る。 「霧香。おまえは行くのか? 行くよな?」 こいつだって楽しいことは大好きだ。きっと行きたがるに違いない。 となれば三人で行く流れになるのは必定……俺は霧香の二つ返事の答えを期待した。しかし。 「わたし、今年は夏祭りに行きません。明日明後日、両方ともにです」 霧香はにべもなくそう言った。 「なんで!?」 「決まってるじゃないですか!」 霧香は得意げな様子で語り始める。 「明日明後日はスマブラの世界大会があるんです! その様子はユーチューブでも配信され、本場日本からももちろん精鋭たるプロゲーマーが何人も参戦します! 明日にはスマホも返してもらえますし……これを見逃す手はありませんよ!」 「いやアーカイブで見りゃ良いだろそんなのよ!」 俺は吠えた。 「つかアーカイブで見てくれ。見ろ! 見てくださいお願いします何でもしますから!」 「……? なんでそんな必死なんですか? ……ははーんさてはさては、この可愛い可愛い霧香ちゃんと一緒にお祭り行きたくてしょうがないんですか? ん? ん?」 調子に乗った顔でにやにやと俺を見る霧香。 ちくしょう! そうだけどそうじゃないんだよ! 「その気持ちは分かってあげたいですが、やっぱり生が一番良いですからね。兄さまは死ね子姉さまと二人で行ってくれば良いじゃないですか?」 素直にそれが出来りゃ苦労しないんだよ糞ったれぇ! 俺はアタマを抱えたくなった。 ……これ、俺一人で死ね子を誘って良いのか? 二人っきりで夏祭りなんて。キモがられないか? 向こうにも男と二人きりは恥ずかしいって気持ちは絶対あるよな? 増して死ね子はいじめられっ子なんだし、クラスの奴と会って冷やかされたら……とか考えてるはずだよな。 俺は別にそんなの我慢するんだけど、死ね子はやっぱり嫌なのかな? どうしようかな? 「な、夏祭り」 死ね子はもじもじとした声で言った。 「ど、どうしよう、かな?」 「お、俺も、ど、どうしよう、かな?」 「ま、まあ。いけたら行こうかな、なんて」 「お、俺も、そんな感じかな。なんて」 「あ、あははは」 「あははははは。はははは」 そんなぎこちないやり取りをして……その日の会話はおしまいとなった。 〇 結局、一緒に夏祭りに行くかどうかは最後まで宙に浮いたまま、俺は翌日を自室で干からびたように過ごしていた。 死ね子を電話で誘おうか逡巡し、スマホに手を伸ばしては引っ込めると言うことを繰り返した。我ながらまったく男らしくないと思うが、しかし結局、俺は羞恥心が強く駆け引きにも弱い、決断力にも欠ける年齢相応の小学生だった。 何せ、未熟なのだ。 そうしたことを否応なく自覚させられ、自分の情けなさに打ちのめされている内に、やがて夕方になっていた。 もうとうに出店は始まっている。 条例的にも、俺達小学生が祭りに参加できる時刻は制限されている。たっぷり遊ぶなら、そろそろ出ないとまずい。 時間的にも精神的にも追い詰められた俺は、とうとう腹をくくった。 ……ここは一つ、当たって砕けてみよう。 そう決意して電話に手を伸ばした時……家のチャイムが鳴り響いた。 「……なんだよ」 両親は仕事だ。霧香はスマブラの大会を見る為のお菓子とジュースを揃えにお出かけだ。 俺は玄関に出た。 見覚えがあるようなないような、やっぱりあるような少年数人が、そこに立っていた。 「やあ南方くん」 先頭の、ひと際背の高い、白い歯と日焼けした肌を持つ少年が爽やかな声が言った。 「夏休みは満喫しているかな? 今日は君を夏祭りに誘いに来たんだ」 確かこいつ、クラスメイトだ。名前は……そう。池田面太郎。クラス委員か何かだったと思う。 日焼けした肌と白い歯、切れ長の瞳に整った顔立ち。爽やかな短髪と、サッカー部の主将かなんかやっている、しなやかな筋肉。高い身長。 爽やかイケメンである池田は、男子のリーダー格みたいな奴だった。運動も勉強もばっちりできるようだし、女子受けもさぞかし良いだろう。そもそも、転校して一週間しか学校に通っていない俺が、ここまでパーソナリティを把握している時点で、池田はそれだけ強い存在感を持つ人気者なのだ。 「な、なんでまた、誘いに来てくれたんだ?」 「おいおい南方くん。水臭いことを言うんじゃあないよ。僕達はクラスメイトじゃないか」 池田は爽やかな声で言う。 「というより、そもそも僕達は、転校して来たばかりの君に対する配慮に欠いていたんじゃないかと、そう思ってね。もっと早くこちらから声をかけてあげるべきだったと反省したんだよ。すまなかったね」 紳士的な態度。柔らかい物腰。人気者なのも頷ける男だった。 「い、いや……俺は別に。そんな風には思ってないし、その。今日誘ってくれて、嬉しいよ」 本心だった。 転校してからずっとぼっちで、俺は本当に寂しい思いをしていた。 自分から上手く声を掛けられなかったのもつらかった。男友達だってもちろん欲しい。だから、こうして誘いに来てくれて心から感謝していた。 「もちろん、一緒に行くよ。今日は一日、よろしくな」 「こちらこそ。皆、南方くんは誘いに乗ってくれたぞ。新しい友達を歓迎しよう」 池田が言うと、背後で控える数人のクラスメイト達は、大いに沸き立った。 〇 祭りの街は賑やかだった。遊んでいる内に太陽は傾きかけて、空は鮮やかな夕焼けに彩られている。 昼間と比べると気温自体は涼しくなっていたが、しかしすれ違う大勢の人達の熱気と、料理を作る為の鉄板の音と香ばしい匂いが、熱い夏の祭りを演出していた。 「うっひょっひょっひょーい! 夏祭りだ!」 「うぇーい! うぇうぇうぇうぇーい!」 「林檎飴買うぞ! 綿菓子買うぞ! でもベビーカステラは買わん! 死んでも買わん!」 「ああ楽しい! 楽しすぎて漏らしてしまいそうだ! うぅ! 漏らす……っ!」 「うっわ! 松崎が漏らした! えんがちょ! えんがちょ!」 「ベビーカステラ考えた奴! 死ね! 死んで俺に詫びろ! でなきゃ家族ごと呪う!」 「乾杯だ乾杯! ジュースで乾杯だ。激しく乾杯だ! おい辻岡おまえ音頭取れよ!」 「嫌だよ! そうやって瓶を粉々にした破片が目に入って、ずっと盲目なんだぞ!」 「ナイフでめった刺しにしてやろうか!」 「うっひょっひょっひょーい夏祭りだ! 夏祭りだぁひゃっはー!」 重めの精神病院から抜け出して来た患者達のように、クラスメイト達は無茶苦茶な冗談を言いながら騒ぎまくっている。 もちろん、失禁とか盲目とかいうのは嘘でありジョークである。彼らそれぞれの持ちネタのようなものらしい。騒ぐ時の言動がそれぞれ決まっているのだとか。 なんでこの猿共のリーダーが、爽やかイケメンの池田なんだろう。 「げへへへへへっ。いやあ、騒がしくてすまないね、南方くん」 そんな池田は、騒ぎまくる同級生を眺めながら、俺に微笑みかけた。 「な、何だ今の『げへへへ』って」 「……? 笑い声だけど?」 「いやなんだよその小物悪役みたいな笑い方。おまえのキャラ的におかしいだろ」 もっと爽やかに『あはははは↑』みたいに笑えよ。 「そんなものは僕の自由だろう」 「ま、まあ。それはその通りだな。ごめん、俺が変なこと言ったわ」 「げへへへへっ、気にしないでおくれ。ところでさ、君に一つ聞きたいことがあるんだ」 そう言うと、池田は自然な態度と涼し気な口調で、とんでもない爆弾を俺に投げ込んで来た。 「君は、死ね子と付き合っているの?」 俺は心臓が破裂しそうな思いをした。 「ど、ドキイィイイ! そ、そんな訳ないじゃないかあああ!」 「そうかい? 噂を聞く限り、てっきりそうだと思ったんだが……」 「う、噂って、一体なんだよ!」 「いや、君がしょっちゅう死ね子と行動を共にしているという噂があってね」 「そ、そうなのか。それはまあ、最近良く一緒にいるけど……。っていうかさ」 俺は散々本人に訊きたくて訊けなかった質問を池田にぶつけた。 「そもそも、死ね子はどうして『死ね子』なんて呼ばれているの?」 そう言われ、池田は「うん?」と、頬に若干の笑みを刻み付けながら。 「特に由来はないよ。ただ単に、死ねということで死ね子って呼ばれてるのさ」 池田が言うと、背後のクラスメイト達は『ウケ』たようにギャハハハハと笑う。 死ね子をバカにするその笑い声に、俺は腹が立った。思わず、彼らを睨み付ける。 クラスメイト達は動揺したような表情を浮かべると、すぐに黙り込んだ。 「おいおいどうしたんだ南方君。そんな怖い顔をして」 「……なあ、本当に教えてくれ。どうしてそう呼ばれるようになったんだ?」 「五年の時のリレー大会。勝てそうな雲行きだったのに、死ね子がバトンを落としてね」 池田は言う。 「元々死ね子はいじめられ気味ではあったんだ。本名が笑えたし、性格も地味で暗くてね。おまけに結構綺麗な顔をしてるし、成績優秀で金持ちの家の娘っていうのも鼻に付いたのか、小島って女子のリーダー格に特に嫌われていた。……女は怖いねぇ」 「それが……リレーの件をきっかけに、あだ名が『死ね子』に?」 「まあそんなところさ。もっとも、それは死ね子自身が望んだことでもある。バトンを落とした死ね子を、皆が『死ね、死ね死ね。おまえのあだ名、今日から死ね子な。死ね子死ね』と罵っている内に、死ね子自身が『死ね子で良い。ずっと死ね子って呼んで』ってお願いして来てね」 「そりゃまたどうして?」 「そりゃああんな笑える名前してたら、『死ね子』で良いから、何かあだ名をつけて欲しくもなるさ」 池田はそう言って「げへへへっ」と笑い飛ばした。 「次は僕から質問させてもらうけど……君はどうして死ね子と一緒に良く行動しているの?」 「……一緒に謎解きをしているんだよ」 「どういうことだい?」 俺は話したくなかったが、のらりくらりと追及する池田が鬱陶しく、とっとと話を終わらせようとすべてを話した。 死ね子が人数分コピーしてくれて、肌身離さず持ち歩いている暗号の描かれた紙も、池田に見せた。 「こういう暗号を解いてるんだよ。謎は二つあるけど、一つ目の謎はほとんど死ね子が解いた。あいつ、アタマ良いんだぜ。他にもドブに捨てられた妹のオモチャを一日中かけて探してくれたこともあって、優しくて良い奴で、いじめられて良いような奴じゃ……」 「この暗号文なんだけど」 池田は頬を捻じ曲げながら言った。 明らかな嘲笑が滲んだ顔だった。 「これ、死ね子が書いた暗号文だよ?」 「はあ?」 俺は信じられずに、池田の方をぽかんとした表情で見詰めた。 「そもそも死ね子はこういう暗号文を考えるのが、得意というか好きなんだよな。昔今ほどいじめられてなかった頃は、こういう暗号や謎解きを自作して人に見せて来たんだ。この『ビットくん』ってキャラも、死ね子の持ちキャラさ」 「そんなはず……」 「字だって一緒だよ。君だって死ね子の字は見たことがあるだろうから、分かるんじゃないか?」 そう言われ、俺は暗号文をじっと見つめる。 綺麗な字だ。それに大人っぽい。 死ね子の字も、同じくらい綺麗だ。そして綺麗な字というのは癖がなく、つまり特徴がない。硬筆の先生の字が皆同じに見えるように。 だから、それが同じ人物が描いた字ということに、俺は今まで気づかずに来た。 いや、そもそも疑ってこなかった。死ね子は人を騙すような奴じゃない。 担ぐような奴じゃない。 今までは、ずっとそう思っていた。 ふと視線を感じて振り返る。祭りの屋台の合間に立った少女が、呆然とした表情で、哀しみと絶望に満ちた様子で、こちらをじっと見つめていた。 ……死ね子だった。 死ね子は俺の視線に気づいたようだった。そして、自分がずっと俺達の話に耳を傍立てていたことに俺が気付いたことにも、死ね子は気付いたようだった。 「し、死ね子。何で……」 なんでたった一人でお祭りに……と言おうとして、俺は気付く。 きっと死ね子は、俺のことを探していたのだ。 行くか行かないかを明言していなかった俺を、それでも死ね子は探していたのだ。 どこかにいるかもしれないと思って。 会えるかもしれないと思って。 そして俺と死ね子は出会った。しかし、それは死ね子が期待した形ではなかった。 死ね子はその場で俺に背を向けて、逃げるかのようにその場を走り出す。 「死ね子!」 俺は一緒にいる池田達のことを意に介さず、死ね子を追いかけて走り出す。 人ごみに何度もぶつかりながら、消えてしまった死ね子を探す。 楽し気な喧噪の中を汗だくになって走り回る。やがて夕日は沈み、夜が来ても、俺は死ね子を見つけ出すことが出来なかった。 〇 『ナシモトカズミ』と名乗る手紙の差出人は死ね子なのだろうか? あの時の死ね子の態度は、それを物語っているようだった。 実際、ナシモトカズミが死ね子であると考えると、いくつかのことに辻褄が合う。 ナシモトカズミの目的は俺達が謎解きをしているのを眺めて楽しむことのはずで、ならば俺達に近しい人物が容疑者になる。俺達と行動を共にして、時に有益なヒントを出して見せる死ね子がそのポジションと言うのは、あまりにも納得できる話だった。 どうして死ね子が、俺達がニンテンドースイッチを欲しがっていることを知っているのかという疑問は、霧香への質問で簡単に払拭できた。 「初めて死ね子姉さまと会った時に、どんな話をしたかですか?」 「ああ。兄貴である俺のこととか、スイッチが欲しい話とかしたか?」 「ええまあ。しましたけど……それがどうかしたんですか?」 それだけ聞くと俺は自室へ引っ込んでしまった。霧香はいぶかし気な表情を浮かべつつも、追及はせずただ心配そうに見送るだけだった。 俺は考え込み、そして結論を出す。 ナシモトカズミは死ね子だ。 俺達に謎を解かせて、それを見て楽しんでいた。 〇 翌日。昨日の夜中まで考え事をしていた所為で朝どうしても起きられず、昼過ぎまで寝ていた俺を起こしたのは、スマートホンの着信音だった。 「……もしもし?」 「やあ南方くん。僕だよ。池田だ」 あまり聞きたい声ではなかった。憂鬱だ。 「僕はねぇ南方くん。君のことを仲間に迎えたいと思っている。でも残念なことに、それにあたって、一つ重大な問題が君にはあってね。それについてじっくりと話し合いたい。今から言う場所に来てくれるよね?」 鬱陶しい話だった。しかし俺にも夏休み明けの生活がある。どんな展開になるにせよ、待ち受けるものから逃げてはならない。そう思った。 呼び出されたのは近所の川原だった。山沿いにある清涼な川で。水泳や魚釣りやキャンプなどの川遊びにも使えそうだった。実際そこを、池田ら小学生たちは遊び場の一つにしているらしい。 そんな川原で。 死ね子が池田の手下達に羽交い絞めにされて、川の水でずぶぬれにされて、しかも服を脱がされて下着姿にされていた。 「……は?」 俺は呆然とした。桃色の下着を身に着けた死ね子の肉体は女性としての発育が始まっていて、胸の膨らみやウェストのくびれが出来ていて、俺達男子の身体とは全く違っていた。 裸同然のその姿を俺に見られることがつらくてたまらないように、死ね子は顔を背けて歯を食いしばっている。 傍らには、大きな岩に腰かけて足と腕を組んでいる池田の姿があった。 「やあ南方くん。良く来てくれたね」 自分達が少女に対して行っている卑劣かつ残酷な仕打ちなど感じさせない、気さくでいて自然体な態度だった。 「汚い光景を見せてしまってすまないね。街を歩いていた死ね子を捕まえて、川に突き落として遊んでいたんだが、そうすると当然ながら服が濡れてしまってね。乾かしてやろうということで、服を脱がせてやっていたんだ」 俺は怒りを覚える前に困惑していた。 死ね子は寄って集る男どもによって、その腕を、脚を、押さえつけられて砂利の上に横たえられている。全身が砂埃に塗れている他、膝を擦りむいて目元を出血している。暴力も振るわれたのかもしれない。 そして下着姿にされ、その姿をたくさんの男子に見られている。 これ以上どんな仕打ちが待っているのかと怯え、逆らうこともできず、思うがまま傷付けられるみじめさに打ちひしがれている。 ……どうしてこんな酷い仕打ちができる? こんなむごいことをして平気で笑っていられる? 俺には理解ができなかった。 「まあそんな呆けた顔をするなよ。南方くん、ここは君にとって運命の分岐点なんだぜ?」 池田は普段通りの芝居がかった口調で言った。 「……どういうことだ?」 「僕らの仲間になる為に死ね子の最後の服を脱がせてやるか、何もせずに踵を返すか……どちらにするか、ということだ」 池田は岩から立ち上がり、朗らかな様子で両手を開き、俺に語り掛ける。 「教室が何故いじめられっ子を必要とするか分かるかい? 『こいつよりマシ』と思える存在を誰もが欲するからだ。弱い人間ほど、アタマの悪い人間ほどその傾向は強い。そして往々にして、ほとんどの環境で大半を占めるのはそのタイプの人間なんだ」 子供とは思えない程、すらすらと良く回る舌だった。 「だからねぇ南方くん。僕はそういう人間の為に、その『こいつよりマシと思える存在』を用意してやるんだよ。冷遇し排斥し侮辱し、攻撃を仕掛け、その精神や尊厳を無茶苦茶にするんだ。そしてどんどんみじめになってく姿を見て……人は安心するんだよ。そして『安心』を与えてくれる存在に、人は従うんだよ。南方くん」 ……なんて奴だ。 「言うなればこれは『一人いじめられっ子政策』さ。たった一人死ね子を犠牲にすることで、僕を中心に纏まって素晴らしいクラスになる。安心していられる。……その美しい協調の輪の中に、僕は君のこともいれてあげたい」 「……だから一緒に死ね子をいじめろと?」 「その通りさ。クラスメイトの一人でも死ね子と仲良くすると、美しい協調の輪が崩れてしまう。せっかく僕の王国を作り上げたのに、綻びが生まれるのはあまり良くない」 「断ると言ったら?」 「それは僕達と敵対することを意味する。教室全体を敵に回すということだ。どちらが良いかは明らかだが、決断は君にお任せしよう」 池田が言うと、死ね子が蚊の鳴くような声で、顔を背けたまま俺に声をかける。 「ねぇ南方くん、短い間だったけど、一緒にいてくれて嬉しかった」 「死ね子……」 「とっても楽しい夏休みだった。もう十分だよ。ありがとう。だから……」 俺は死ね子から目を背け、池田の方を睨みつけながら言う。 「……こんなことをしてただで済むと思っているのか?」 「済むさ。いや、もちろん親や警察に連絡されたら、困ることは困る。注意を受けるからね。でもそれだけさ。ただでさえ小学生という身分の上……僕のパパは近所の警察署の所長で、PTAの会長も兼ねている。どうとでも揉み消してもらえるさ」 「…………」 俺はその場で拳を握りしめ、脚に力を入れる。 「だから、ここで踵を返して大人を呼んで来たって大した意味はないよ。それどころか……僕らは大人がやって来るまでの間、君に対する腹いせとして死ね子に出来得る限りの仕打ちをするだろう。どのみち君に選択権はないんだよ」 俺は微かに膝を畳み、全身のバネを意識して姿勢を正す。 「大丈夫。大人しく軍門に下ればそれなりの待遇は保証するよ。僕は仲間には優しいからね。パパに頼んで、一緒に海外の避暑地に遊びに行こう。テーマパークをハシゴしよう。キャンプ場で高級焼肉を食べまくろう。最高に楽しい夏休みをお約束する。それに比べりゃその地味な女と過ごす夏なんてカスみたいなもゲボァア!」 言い終える前に、助走を十分に付けて飛び掛かった俺の拳が、池田の顔面に炸裂している。 全日本空手道大会小学生部門で準優勝を果たした俺の一撃は、池田の爽やかなマスクを粉砕し、その体をまるまる一秒間宙に舞わせた。そして頭から砂利の上に叩きつけられた池田は、困惑しきった様子で俺の方を見詰めた。 そんな池田に……俺は表情を消して一歩一歩にじり寄る。 ……暴力は卑怯だ。 ……喧嘩が強いことは卑怯だ。 暴力に秀でていて喧嘩に強いから、色んな事が思うがままになった。気に入らない奴や、嫌な奴をどうとでもできた。前の学校で霧香をいじめていた連中や、万引きを自慢する友達の兄貴、面白半分に鶏小屋を襲撃する高校生などを、俺はどうとでもした。することが出来た。 でもそれは勇気ではないと母さんは言った。強さではないと父さんは言った。 ……アタマに血が上った時は、そこで相手を殴ることが本当の勇気かを考えなさい。葛藤しなさい。今が本当に戦うべき時なのかどうかを、とことん自分に問いかけなさい。 ……そして、自分がそれをできない、怒りに任せて暴力を振るうような、『弱い』人間だと思うのであれば……。 ……空手なんて、やめてしまった方が良い。 それでも今は。 「待てっ! 待ってくれ! 落ち着いてくれ!」 池田はその場で尻餅を着いたまま、必死の形相で俺に両手を差し出した。 「何が待てだよ!」 「何って喧嘩なんだろう? だったら不意打ちは卑怯じゃないか! 正々堂々とタイマンをやろう。一回体勢を整えさせてくれ」 「……そのタイマンってのに俺が勝ったら、もう死ね子をいじめるのはやめるんだろうな?」 「ああそれで良い。良いから、俺が立ち上がるまで攻撃するのはやめてくれ!」 言いながら、池田は足を縺れさせながらどうにかこうにか立ち上がる。そしてさりげなさを装っているのだろう足取りで一歩ずつ後退ったかと思ったら、唐突に子分共の後ろに隠れて俺を指さして叫んだ。 「一万円ずつやるからそいつを殺せ!」 子分共は抑え込んでいた死ね子を解放して、一斉に俺に飛び掛かって来た。 ……どうして力の差が分からないのか。金に目が眩んででもいるのか。それとも、群れてさえいれば無敵だと勘違いしているのか。 技も度胸も体格もない素人共を蹴散らすことなど、俺にとっては何でもない。と言ってもこいつらは所詮池田に付き従っていただけの連中だから、可能な限りケガはさせずに一人ずつ丁寧に無力化していく。 膝を蹴られたり、脇腹を小突かれたりしてその場に蹲って行く子分たち。やがて半数が倒れたところで「まだやるのか?」と声をかけてやると、残る半数は青ざめた顔でその場を逃げ出した。 「お、おい待て! 僕も……」 そうって一緒に逃げようとする池田の襟首を掴み、強引にこちらを向かせた。 池田は絶望した。 その場に座るように促すと、池田はその場で跪いて媚びた笑みを浮かべながら言った。 「げ、げへへ……。ま、参りました。二度と死ね子のことはいじめません」 「死ね子にちゃんと謝れ」 「げ、げへっ。お、仰せのままに……」 池田は呆然とした表情を浮かべる死ね子に、手を付いて土下座をした。 「そしておまえの子分や、クラスメイトにも死ね子をいじめさせるな。女子にもだ。クラスのボスなんだからそれくらいできるだろう」 「げへ、げへへっ。ら、楽勝っすよ。南方さん。任せといてくださいげへへへへへ」 なんかキャラ変わってるなこいつ……。自分が優位だと気持ちよさそうに大人びた口調で演説ぶるけど、追い込まれるととことん小物ってタイプらしい。 つまりはお山の大将で内弁慶って訳だ。ようするに、ここでしっかりと脅かしてさえおけば、俺や死ね子に報復して来る度胸はないだろう。 「今言ったことが守られている間は、俺はおまえに何もしない。だが、約束を破った時にどうなるのかは……分かっているな?」 「そりゃあもう。僕が南方くんとの約束を違える訳ないっすよ。げへへっ」 「なら良い。俺や死ね子と無関係のところで、好きに子分と遊んでろ。……失せろ」 「了解っす。げへげへげへ」 げへげへ笑いながら立ち去って行く池田を見送って……俺はそこらに捨ててあった死ね子の服を拾い上げると、死ね子の方に差し出した。 「……大丈夫だった? 向こう向いてるから、服着なよ。濡れてるだろうけど、裸よりマシだろ?」 そう言うと……死ね子は感極まった様子で立ち上がり、涙を浮かべながら俺の方へと飛び込んで来た。 「ありがとう南方くん。あたし……怖かった! 怖かったよぉっ」 我を忘れた様子で俺に抱き着き、子供みたいにわんわん泣きじゃくる死ね子。 川の匂いに混ざって女の子の髪や肌の匂いがしたし、裸同然の同級生の感触は十二の俺にはあまりにも刺激が強すぎる。 俺はアタマがどうにかなってしまいそうだった。 〇 「……それで、前に習ってた空手はやめちゃったんだね」 死ね子の家である。あのまま死ね子のことを自宅まで送り届けたのだが、両親がいないということもあり、しばらく傍にいてやることを申し出たのだ。裸で抱き着かれた死ね子の顔を見るのは照れ臭かったが、傷ついた女の子を放っておくのは勇気ではない。 その後、服を着替えて来た死ね子が俺の腕っぷしの強さについて言及したので、俺は前の学校で空手をやってやめた話をした。 「ああ。本当の強さって何だろう、みたいなことを考えるようになってから、なんか虚しくなっちゃって。それっきり喧嘩は控えてるんだけど……今日みたいにたまにアタマに来ちゃうこともあるんだ。まだまだ修行が足りないのかな?」 「ううんそんなことない。だって、ご両親が南方くんに言ったことは、あくまでも『戦う前に葛藤しなさい』って話なんだもの。そんな風に言って貰えるってことは、南方くんには自分の力を使うべきか使わないべきか、状況によってちゃんと判断できるようになれると、信頼されていたんだと思う。そうじゃなかったら『どんな時でも暴力はダメ!』って言われてると思うよ」 ……そう言う考え方もある訳か。俺は感心する。やっぱり、死ね子は賢い奴だ。直接聞かされた俺が分からなかった、言葉の真意を汲み取っている。 「先生だってさ。『一生に一度くらいは戦わなきゃいけない時がある』って言ってたじゃない? それが今日だったんじゃないかな? 実際、あそこで南方くんが戦わなかったら、あたしどんな目に合ってたか分からないもん」 そうなのだ。 あの状況、親や警察、教師の名前を出してもどうにもならない。もちろんいくら池田の親が偉い人だからって、何をしても許される訳ではないだろう。しかしバカな池田は自分の万能性を信じて疑っていなかった。 いじめをやめさせるには、力付くしかない。 そう思ったから喧嘩をしたのだ。 「ちょっとだけ気持ちが楽になったよ。ありがとう死ね子」 「うん。それと……ずっと騙していて、本当にごめんなさい」 そう言って、死ね子は深々と頭を下げた。 「……やっぱり、ナシモトカズミってのは、死ね子のことなんだよな」 「うん」 「でもさ。ようするに、死ね子は俺や霧香と遊びたかったんだろう? 自分の好きな暗号や謎解きでさ。それで霧香にあんな手紙を渡したんだな」 霧香に手紙を渡した覆面の黒尽くめは死ね子だった。息が上がっていたのは酷暑の中でそんな恰好をして、しかも下校する霧香に先回りしようと走った後だから。声が裏返っていたのは、本来の声を隠す為だろう。 「うん。前に道案内してあげた時、霧香ちゃんはとってもあたしに懐いてくれた。とっても優しくて、可愛らしい子だった」 霧香は臆病で人見知りだが、しかしその妹気質さ故か、本当に優しい人間のことは嗅ぎ分ける本能がある。そのレーダーで死ね子を安全と判断したのだろう。 「南方くんは……いじめられてるあたしを初めて助けてくれた人。今まで味方になってくれる人なんて、一人もいなかったから……」 「なるほどなぁ」 「……そ、それでもねっ。だ、騙した訳じゃないの。い、いや、だ、騙したことには変わらないんだけど……でも本当にスイッチは用意していてね」 「そうなのか?」 「うん。なんかくじ引きで当たっちゃって……。でもゲームとかやんないからさ、景品にしちゃったんだ。南方くんにあげるよ」 そう言われ、俺は首を横に振った。 「いや、それは受け取れない」 「え? ど、どうして?」 「俺にはまだ受け取る資格がない。だって……まだ謎を解いていないんだから」 俺はいつも持ち歩いている謎解きの描かれた紙を取り出した。 「これから謎を解いてみせるよ。昨日の夜、真夜中まで考えて来たんだ。……ぜっかくの死ね子との宝探し遊びだ。最後までやり終えたいもんな」 俺は死ね子の前に紙を広げて見せた。 26 13 15 003 01 23 「謎を解くカギがモールス信号であることは間違いない。だから俺はずっと『超解説・モールス信号』を読んでいたんだけど、この数字を直接それに結び付けることはできなくてな」 「そうだね。どうすべきなのか、分かったの?」 「ああ。ビットくんの台詞を見て閃いた。『今回の謎にはどこにもぼくたちビットくんが見当たらないね。どこにいるのかな?』。最初は特に気にも留めなかったんだけれど……これはもしかしたら、ビットくんが見付かれば謎の答えに一歩近付くってことじゃないかと思ったんだ」 「合ってるよ南方くん。それで、どうやって見付けたの?」 「このビットくんっていうのは二進数における『0』と『1』をキャラクターにしたものだ。ならばこの十進数の数字の羅列を二進数に直せば良い。前回の逆だな」 11010 1101 1111 0011 01 10111 「そして、二進数にしてしまえば、後はモールス信号と結び付けられる。『0』と『1』のどちらが『トン』でどちらが『ツー』かを両方試したところ、『0』を『トン』、『1』を『ツー』としたら意味のある言葉になった。そして、その言葉っていうのは……」 ――・―・(シ) ――・―(ネ) ――――(コ) ・・――(ノ) ・―(イ) ―・―――(エ) 「『シネコノイエ』、死ね子の家だ! 二番目の謎の答えは、スイッチの在り処は今ここだ!」 「正解! すごい南方くん! お見事だよ」 死ね子は本気で感心した様子で手を叩いている。自分の作った謎が見事に解き明かされたことが、心底から嬉しいようだった。 俺が謎を解いたのを見て、死ね子は押入れを開けて、奥から新品のニンテンドースイッチの箱を取り出した。『景品』と書かれた紙が巻き付けてある。 「じゃあ、満を持して南方くんにニンテンドースイッチを進呈するよ。霧香ちゃんと一緒に、これで楽しい夏を過ごしてね」 「ああ。ありがとう、死ね子」 ずっと欲しかったスイッチだ。喉から手が出る程だった。持って帰れば、霧香の奴もさぞかし喜ぶだろう。こんなもので遊べるなんて、夢のようだ。 死ね子は笑顔で俺にスイッチを差し出している。それを手に取って……俺はスイッチを死ね子の家の床に置いた。 死ね子はきょとんとした表情を浮かべる。 俺は言う。 「ここに置かせてくれ。霧香と一緒に、毎日遊びに来るから」 「な、なんで? 持って帰らないの?」 驚いた様子の死ね子に、俺は答える。 「なんでってこれ本来はおまえのもんだろう? そんな何万円もするものをやり取りしたら、親に怒られるわ!」 「う、ウチは大丈夫なんだけど……。お父さんにも、友達にあげたいって言ったら快諾だったし。ゲームとかあんまり好きじゃない人だから……」 「ウチの親は納得しないよ。母さんにぶん殴られるっての! 親父さん説得して、部屋にこれを置かせてもらってくれ。頼むよ」 実際のところ、本気で説得すれば『友達に貰った』で納得してくれる可能性は低くない。無理矢理ぶんどったと思われないくらいの信頼は余裕であるし、死ね子やその親に話を通してもらうと言う方法もある。 しかしそれでも、俺は死ね子の家にこれを置きたかった。 高価なものだから貰うのが気が引けるのも事実だったが、本当の理由はそこにはない。 何故なら……。 「あの……本当に、ウチに置いたんで良いの?」 「ああ。置いといてくれ。やりに来るから」 「毎日、遊びに来てくれるの?」 「もちろん行くよ。つか、行かせてくれ」 「霧香ちゃんはそれで納得する?」 「俺が説得する。こうするのが一番良いって分かるくらいの分別はある」 「そっか。それじゃ……今年の夏はずっと一緒だね」 そう言われ、俺は照れ笑いを浮かべながら、「だな」と答えた。 「楽しい夏になると良いね」 「なるに決まってる。何せスイッチだ! 今から何のソフトを買うか楽しみだ! ああ、お年玉貯金引き出さなきゃなあ。霧香とも相談して……」 「あたしの家のものだからソフトとかコントローラーはあたしが揃えるよ」 「それは悪いだろ」 「ううん気にしないで。人よりお小遣いずっと多いんだ。貯金なんか三十万円くらいあるし、全然平気。……その代わりにさ」 死ね子は少しの間唇を結び、やがて意を決したような表情を浮かべ、俺に言った。 「夏祭りの花火大会、今夜もあるよね?」 全二日の日程である。俺は頷いた。 「南方くん……あたしのこと、それに誘ってくれない?」 死ね子の頬が赤らんでいる。上目遣いに俺を見詰めるその瞳は、大きいだけでなく潤みを帯びている。もじもじと動く桃色の唇を見ていると、俺はどうにかなりそうだった。 早鐘のように鳴り響く心臓の音が、耳朶を撃つセミの鳴き声をかき消していく。 死ね子はずっと俺の答えを待ち受けている。俺は息を一つ吐き出すと、死ね子が振り絞ったのと同じ勇気を出してこう言った。 「一緒に行こう」 死ね子との夏は始まったばかりだ。 |
粘膜王女三世 2022年08月12日 00時00分20秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2022年09月04日 04時02分07秒 | |||
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Re: | 2022年09月04日 04時01分50秒 | |||
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Re: | 2022年09月04日 04時01分27秒 | |||
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Re: | 2022年09月04日 04時01分05秒 | |||
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Re: | 2022年09月04日 04時00分43秒 | |||
合計 | 11人 | 260点 |
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