「海のばかやろー!」って叫ばれても西条海は怒れない |
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温かな春の日を表す言葉に「うららか」ってのがあるけれど、ここ幾日かの陽気はまさに「うららか」って表現がぴったりだった。 そんな陽気が続けば、この小さな海辺の町にも桜の便りが届くわけで、花が咲けばおとな連中は桜の木の下で飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを真っ先に思い浮かべるのだろうけど、子どもにとってみれば騒々しい花見よりも、卒業式とか、入学式とか、そっちの方に情緒を感じるところである。もっとも、俺、西条海(さいじょう うみ)的には、湿っぽい卒業式よりも、入学式の方がスタートラインに立ったって感じがして好きなわけで、桜舞い散る中、緊張しながら入学式に臨む新入生とか、その新入生を迎えるこれまたちょっと緊張した在校生とかに、好感を持つのだった。 折りしも今日はこの町に一校しかない中学校の入学式。 わくどきが止まらない新入生たちが眠い目をこすりながらベッドから起き上がる頃合いのAM6時半。けたたましい勢いで、はす向かいの瀬戸内(せとうち)さんちの玄関がガラリと開いた。 「いってきまーす!」 元気な声とともに姿を見せたのは、真新しいセーラー服に身を包んだ女の子、瀬戸内渚(せとうち なぎさ)12歳。瀬戸内さんちの一人娘で、いわゆる俺の幼馴染みだった。 全く、今日から中学生だってのに、朝っぱらから騒々しいヤツだ。 今にも駆け出そうとする渚に、しかし、家の中から待ったがかかる。 「ちょっと、渚、入学式にはまだ早いでしょ! お母さん、まだ用意できてないんだから」 渚のヤツ、相変らずせっかちだな。 「お母さんたちは後から来て! いつものコースひとっ走りしてそのまま学校行くから」 おいおい、入学式前だぜ。 「今日ぐらい、走らなくったっていいでしょうに」 そうそう。新調したセーラー服を汚したら大変だぞ。 「ダーメ! 海(うみ)と毎日走るって約束したんだから!」 はぁ? 俺のせい? いや、でも、あれは、「海のタイムを越えるまで、毎日走る!」って、一方的に渚が宣言したんじゃないか。 「もう、この娘ったら」 渚って昔からガンコだからね。 とは言え、毎朝元気な声を聞かせてくれるのは、小っちゃかった俺たち二人を可愛がってくれた、うちのじいちゃんもばあちゃんも喜んでくれてるんだけど。 「車に気をつけるのよ!」 「はーい!」 「寄り道して入学式に遅れないでよ」 「わかったー」 「本当にわかってるのかしら」 元気と言うよりは能天気に近い返事に、おばさんがぼやく。一度言い出したら渚が聞かないのを、おばさんはよく知っている。母娘だからね。 だからと言って、娘のことを心配せずには入れないのも、また、母娘だからだろう。 おばさん、安心してよ。渚のことは俺が見守ってるから。 玄関の奥から聞こえるおばさんのため息混じりの声に、「お母さん、いってきます!」と返した渚の声と、「ガラガラピシャッ!」と引き戸が閉る音が重なる。 瀬戸内さんちの玄関って、ちょっと建て付けが悪くて、静かに閉めるのにはコツがいる。ちょっと浮かせてやれば、スッて閉まるんだけど、俺が何べん教えても渚のヤツってば力任せに閉めるもんだから、「ガラガラピシャッ!」って大きな音がする。おかげで、道を挟んではす向かいの俺んちからでも、渚が出かけるのが丸わかりだ。 もう、この娘ったら。 朝の空気はひんやりとして、しかし、肌に刺す冬のそれとは違って柔らかで心地いい。 薄青い空をしばらく見上げた後、渚は平手で両頬をパンと叩いて気合いを入れた。 「今日こそ海の記録、抜いてやるんだから」 毎朝、2人で走った岬までの約3キロのコース。 あの日、俺はいつもより調子が良くて、途中、3つある信号も運良く引っかからず、初めて11分を切った。 10分59秒82。 5年生のときに出した俺のベストタイムだ。 まあ、あれは入院する前の記録で、その後タイムトライアルしたことはないんだけどね。 あの日も、こんな風に晴れていたっけ。 「行くよ、海!」 おう! 来やがれ、渚! 俺のベスト、抜けるもんなら抜いてみろ! ストップウォッチモードにした腕時計のスタートボタンをカチリと押す。と、同時に渚が走り出す。 腕時計のデジタル表示が見る間に時を刻む。 その腕時計、律儀にまだ使ってるんだ。 俺がしてたときでも腕に余って若干走りにくかったんだから、女子の細腕じゃ尚更だろう。いい加減、専用のストップウォッチを買えばいいのに。 なんてことを考えている間に、渚が徐々にスピードを上げた。速くなる歩調に合わせ、赤いゴムで結ったポニテがぴょんぴょん跳ねる。 序盤にスピードを上げすぎると、後で辛くなってペースダウンする。ゴール前の登り坂でラストスパートなんてできたもんじゃない。 渚も前はそうだった。 俺と最後に走った持久走大会で2分も差をつけられたのが、よっぽど悔しかったんだろう。以来、毎朝岬まで走るなんて言い出して、なぜか俺まで一緒に走るハメなって。 お陰で、渚は順調にタイムを縮めたんだけど、一緒に走ってる俺の方も記録を伸ばして俺と渚の差は一向に縮まらなかった。 それがまた渚の闘志に火を着けて、毎朝俺と2分差で遅れてゴールする度、岬から海に向かって、「海のばかやろー!」って叫ぶのが日課になった。 本当は持久走苦手なくせに、渚のヤツ、負けん気だけは強いからな。 毎朝のランニングは俺が一緒に走れなくなってからも続いて、その甲斐あって、序盤である程度スピードを上げても、ゴール前で失速するようなことはなかった。 うん、いいペース。 でも、こっからが問題だ。 「あら、渚ちゃん、おはよう」 「おはようございます!」 パン屋のおばちゃんに、笑顔で挨拶する。 「今日もかけっこ? 精が出るわね」 「ありがとう!」 朝が早いパン屋さん『ベーカリー小松』の前を通ると、気さくなおばちゃんがいつも声を掛けてくれる。おばちゃんとこのコロッケパンは絶品で、俺も渚も大好きだ。なので、パン屋のおばちゃんに声を掛けられれば、挨拶のひとつも返さずにはいられないのだけど、おばちゃんのおしゃべりに捕まるとタイムトライアルどころじゃなくなる。 それで、ベーカリー小松のおばちゃんには、「おはようございます」と「ありがとう」と「がんばります」の三言だけ返すようにしようって二人で決めていた。多少やり取りが不自然になっても、元気な声を出しておけばなんとかなるもんだ。 まあ、それでも捕まっちゃうことはあるんだけどね。 「車に気をつけてね」 「がんばります!」 後ろ手に渚がぶんぶんと手を振る。 どうやら今日は切り抜けられたようだけど、おばさんにぶんぶん手を振ったせいでフォームが乱れてペースダウンする。 こういうとこが、渚らしいっちゃあらしいんだけど。 ベーカリー小松の前を通り過ぎると、200メートルほど先に、ひとつ目の信号が見える。岬までのコースに3つある信号全てで信号待ちに引っかからないようにするには、ひとつ目の信号が青に変わった直後に渡るのがベストだ。 フォームが乱れたせいで、今日は少し遅れている。ちょっとだけペースを上げた方がいい。 それは渚も感じてたようで、少しスピードアップする。 いい判断だ。これなら3つの信号を全て青で渡れるだろう。 ピッチを上げるのにシンクロして、ポニテのぴょんぴょんもペースが上がる。 その髪、随分と伸びたな。暑苦しいし、走るのに邪魔そうだし、いい加減切ればいいのに。願掛けなんて、とっくに必要ないんだし。なんてことを考えながら後ろから渚のポニテを眺めていると、交差点の20メートル手前で信号が青に変った。 よし! 今のうちだ! 信号が変わらないうちに! って、ちょっと待てーーーーーっ! 駆け抜けようとした渚の左手首を、咄嗟に掴む。その拍子に、腕時計のベルトの金具がパチンと外れた。 「あっと、外れちゃった」 急ブレーキでその場に立ち止まり、渚が落ちそうになった腕時計を押さえた。と、同時に―― 「え?」 目と鼻の先を信号無視した乗用車が猛スピードで走り抜けて行った。 渚は信号にばかり気を取られていて、車が来ているのに気づいていなかった。もし、あのままのペースで走っていたら、大変なことになっていたことだろう。 確かに、この時間だと自動車なんて滅多に通らない。ましてや、信号無視するような車に出くわすなんて、お正月におみくじで大凶を引くぐらいの確率だ。だからと言って、信号を渡るときは、自動車が来ていないか注意しなきゃ。 一つのことに集中すると周りが見えなくなる、渚の悪いところだ。 「ひょっとして、守ってくれたの?」 左手の腕時計を愛しそうに眺め、渚は外れた金具をパチンと止めた。 「ありがとう、海」 礼には及ばないさ。渚んちのおばさんに、俺が見守るって言ったからね。 その間にも、腕時計のデジタル表示は刻々と時を刻んでいた。 「いっけない、タイムロスしちゃった。急がないと!」 信号が変わっていないのを確かめ、今度は車が来ていないのを確認すると、渚は再び走り出した。 大丈夫、まだ序盤だし、ロスったってほんの数秒しか経ってないから、渚ならすぐ取り返せるよ。 すると、交差点を渡切ってしばらく行った先、アイスクリームの自販機の手前10メートルで、次の信号が赤に変わった。 やっぱりちょっと遅れてる。次の信号に引っかからないようにするには、アイスの自販機を過ぎてからじゃないとダメなはずだ。 渚のペースが徐々に上がり、ポニテのぴょんぴょんも勢いを増す。 はあ、はあ、はあ、はあ。 吸って、吐いて、吸って、吐いて。 はあ、はあ、はあ、はあ。 朝のひんやりとした空気の中、渚の吐く息だけが熱い。 晴れた空に雲が薄くたなびいていた。 はあ、はあ、はあ、はあ。 そして、50メートル手前で信号が変わった。 マズイ。今のペースだと確実に信号に引っかかる! しかし、渚なら、全力疾走すれば、ギリ行ける距離だ。今度の交差点は、さっきよりも交通量が少ない上に見通しもいい。うまい具合に、付近には車も見当たらない。 行け、渚! ダッシュだ! 信号まで、40メートル、30メートル。 渚のギアが上がる。 20メートル、15メートル。 トップまでスピードが増す。 そして、ラスト10メートル、5メートル。 歩行者用信号が点滅を始める寸前で横断歩道に踏み入り、渚は一気に駆け抜けた。 いいぞ! その調子だ! ダッシュで交差点を渡り切ってから、少しずつペースを落とす。岬までの残りの距離を考えると、トップスピードでゴールまで走り切るのなんて不可能だ。 それに、次の信号まではなだらかな登り坂で、おまけに道なりに右にカーブしていて、しばらくは視界に入らないと来ている。うまくペース配分しないと、赤信号で待たされることになる。 そこのところが一番難しいんだけど、最近の渚は攻略しつつあって、2回に1回は、3つ目の信号にひっからずに走ることができた。 野球だと勝率5割はうまくいけばAクラスだけど、運に左右されることもあるし、さて、今日はどうだろう? 恐らく俺と同じことを考えているはずの渚は、淡々と歩を進めた。 一歩一歩、緩やかなカーブへと足を前に進めるにつれ、ポニテがぴょんぴょんと跳ねる。 やがて、三色の不自然に眩しいLEDの光が見えてくる。 信号機まで約200メートル。さっき赤に変わったから、なだらかな登り坂が続くこの道を、今までのペースを崩さなければ、充分青で渡れる。 渚のヤツ、成長したなあ。以前は、ペースが遅過ぎて、この時点で焦ってダッシュして、最初の頃は全然間に合わなくて、間に合ってもその後失速して、ラストスパートなんて夢のまた夢で。 一緒に走った入院するまでの2ヶ月を含めると、1年と8ヶ月走ってるんだもんな。そろそろ俺の記録も抜かれるかもな。 一定のペースで、ポニテがぴょんぴょんと跳ねる。 退院するまでは切らないって言った渚の髪。 もう願掛けは必要ないのに。 そして、わずか4歩、距離にして3メートル手前で、3つ目の信号が変わった。 緑色のLEDが眩しい。 渚はペースを崩さず、自動車も自分以外の歩行者もいない交差点を渡った。 よし、いいぞ! その調子だ! 最後の信号を無事に通過してしばらく行くと、岬へと続く遊歩道へと入って行く。 ここからは、登り坂が続く。 けれども、渚のペースは落ちない。 「今日こそ、抜くんだから。海の記録、抜くんだから」 息も絶え絶えのくせに、こんなことをつぶやきながら走る。渚のヤツどんだけ負けず嫌いなんだよ。 でも、今日の調子なら、本当に抜くかもな。 10分59秒82。 5年生の時のベストタイム。 俺の最後の記録。 遊歩道は墓地の入り口を通り過ぎて、最後の直線へと入る。 ゴールの岬へと続く登り坂。ここが最後の難関、踏ん張りどころだ。 「行くよ! 海!」 来いや! 渚! 気合を入れ、渚はピッチを上げた。 ポニテのぴょんぴょんが、激しさを増す。 右手に墓地を見ながら、岬へと続く登り坂を疾走する。 ゴールまで、あと20メートル。 潮の香りがする。 10メートル。 波の音が聞こえる。 5メートル! 視界が開けて、 ゴーーール! 海を臨む岬に着いたところで、腕時計のボタンをカチリと押す。 苦しい息を数回の深呼吸で整えて、渚は時計のデジタル表示を凝視した。 11分10秒03。 うん、まあ、がんばったよ、渚。 5年生のときは、2分も差があったんだもん。それを1年と8ヶ月で10秒ちょっとまで縮めたんだから、たいしたもんだよ。 もし、俺が今でも一緒に走れたら、こんなにタイム縮められなかったんだけどな。 一緒に中学生になれてたら。 元気なままでいられたら。 健康診断で精密検査を受けた方がいいって言われたのが5年生の春だった。 別にどこも痛くなかったし、具合が悪いってこともなかったから、一学期は遠足にも行ったし、持久走大会にも出たし、みんなと普通に過ごして、検査に行ったのは夏休みに入ってからだった。 検査して、病気が見つかって、すぐに入院することになった。 渚は俺が退院するまで髪切らないって言って、お前願掛けとか大げさなんだよって笑って。俺がいなくても毎朝岬まで走るって言うから、じゃあ、ストップウォッチになる俺の腕時計貸しといてやるよって貸して、あのときはすぐに元気になって退院するつもりだったのに、5年生のまま冬を迎えることが出来ないなんて俺も渚も思ってなかった。 2ヶ月後、貸した腕時計は、そのまま俺の形見になった。 西条海 享年十一歳。 岬にある墓地の一番端っこの海に臨んだ西条家の墓石には、そう刻まれていた。 中学生どころか、俺は6年生にもなれなかった。 小学校に上がる前に亡くなったじいちゃんとばあちゃんが眠る墓に、今は俺も一緒に入っている。 「くっそーーー! もうちょっとだったのに!」 渚は腕時計のデジタル表示を見て心底悔しがった。 もう中学生なんだから、女の子がそんな言葉使わない方がいいぞ。なんて言っても、俺の声なんて生きてるお前には聞こえないか。 それから渚は口をへの字にして、海を臨んだ西条家の墓石を悔し涙を浮かべた目で睨んだ。 打ち寄せた波が岩にあたってザッパーンと弾ける。 すると渚は両手をメガホンの形に口に当て、墓石ごしに海に向かって叫んだ。 「海のばかやろーーーっ」 一層高い波が打ち寄せて、ザッパーンと岩に砕け散った。 渚が「ばかやろう」って叫んだのが、弾けた大波になのかそうじゃないのかわからないけど、俺は一人だけ中学生になった幼馴染みに怒ることが出来なかった。 了 |
へろりん 2022年05月01日 21時05分28秒 公開 ■この作品の著作権は へろりん さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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合計 | 8人 | 110点 |
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