暗闇よりも暗い青 |
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砂埃を被った細い道路の両脇で、黄金色の田畑が土のにおいを漂わせている。張り巡らされた水路は太陽の光を跳ね返し眩しく輝いていて、流れと共に涼し気な音を立て続けていた。四方八方を深緑の山々が取り囲む景色は、道路をどこまで歩こうと何の変化もない。 ウチは山奥の田舎に住んどった。 学校は村に一個、小中一貫のがあるだけで、生徒は全部で五十人もおらん。一学年に付き、人数は四人とか、五人とか。三学年くらいが一つの教室に纏まって、主に自習形式で勉強をしとる。 ウチは中学一年生なんやけど、同学年に他に一人も女子がおらんのが不満やった。 そりゃ、他学年に女子の友達も何人かおる。男子と混ざって遊ぶんも、それなりには楽しい。 でも、ウチの村は長幼の序には特に厳しくて、歳が違うとお互いに気を遣う場面は多い。男尊女卑の考え方も、都会と比べると少しだけ残っていたから、男子との間にも壁があった。 やからウチには、完璧に対等な親友みたいな存在が一人もおらんくて、そのことをとても寂しく感じていた。 でも昔は、五十鈴(いすず)ちゃんって名前の素敵な親友がおったんや。 同じ歳で色が白くて可愛くて、とにかく人当たりが柔らかい子やった。本が好きで、村の方言を嫌っていていつも大人びた敬語を使って喋っていたけど、勉強ができて、大人の言うことをよく聞いて、おっとりしていた。 でもその子は小学五年生の時に親の仕事の都合で都会に行ってしまって、残されるお別れの日には何度も泣いた。五十鈴ちゃんもたくさん泣いてくれた。 一番大切な友達を失ってからのウチの暮らしは味気なくて、ド田舎の山奥の退屈な暮らしがとてもばからしいものに思えた。そして毎日寂しかった。都会に行った五十鈴ちゃんのことを、想わない日は一日たりともなかった。 〇 やけど、中一のある夏の日に、五十鈴ちゃんは唐突に村に帰って来た。 二年ぶりに会う五十鈴ちゃんは背も伸びて、身体つきもすごく女の子らしくなっていた。やけど、その大きくて潤んだ瞳や赤ちゃんみたいに柔らかい唇にはあどけなさも残っていて、信じられんくらいに可愛らしかった。 大人達は戻って来た五十鈴ちゃんのことを胡乱な目で見詰めているようやった。過去に数年間この山奥で住んでいたけど、五十鈴ちゃん一家は元々都会の人で、実際父親はようやく戻れた東京の本社でバリバリ仕事をしとるというのに、どうしてまた母親と娘っ子だけが、こんな田舎に来るんやろう? そこには何か、複雑で良くない理由があるのだと、村中で噂していた。 でも、五十鈴ちゃんが戻ってきてくれるんやったら、ウチにはそんなんはどうでも良かった。 ウチと五十鈴ちゃんは当たり前のように、また昔と同じように遊び始めた。二年も都会におったら向こうの考え方も変わっとるはずやけど、そんなんは大した問題やないと、ウチらには良く分かっていた。 夏休みになると、自転車を何時間も漕いで、街の方まで遊びに行ったりもした。 五十鈴ちゃんは流石都会帰りだけあって、街の歩き方を良く分かっていた。見慣れぬ街に戸惑うウチを、カラオケとかショッピングモールに案内してくれた。 「人も建物もいっぱいで、ここでもウチにはすごい場所に感じるけど、やっぱり、五十鈴ちゃんが住んどった都会って、もっとすごいんやろいな? 東京やろ?」 街を歩きながら、ウチはそんなことを五十鈴ちゃんに尋ねた。 「そうですね。色んな遊びがあって、色んな人がいて、刺激的なところでした」 「それやったら、やっぱり田舎に戻って来て、五十鈴ちゃんはつまらないんとちゃうんか?」 「そんなことはないですよ。だって、奈津子ちゃんがいますから。向こうにも何人か友達はいましたけど、奈津子さんほど親しい相手は、できませんでした」 そう言うて五十鈴ちゃんは微笑んで、ウチの手を取った。 「もちろんわたしだって田舎は嫌ですよ。お年寄りが幅を利かせていておかしな風習もたくさんあるし、産業もほとんど死に絶えている。終わりゆく村です。終わった村です。でもそんな場所でも、一人の親友が傍にいるというだけで、素敵な場所になるんです。これからもたくさん一緒に遊びましょうね」 ウチは幸せを取り戻していた。 〇 最初に違和感を覚えたのは、近所の定食屋兼居酒屋みたいなお店に、二人で来ていた時のことやった。 午後六時やった。ウチも五十鈴ちゃんも、それぞれの理由で夕食を家では取らず、外でテキトウに食べて来るように言われていた。二人は話し合って、山で林業や工事の仕事をする人たちが良くやって来る、村で一番賑わっているそのお店に行くことにした。 ウチはここに来るといつも食べているからあげ定食を、五十鈴ちゃんはオムライスをそれぞれ頼んだ。 料理が届く頃、如何にも労働帰りのシャツを泥塗れにした汗だくの若者たちが、肌から熱気を漂わせながら現れて、ウチらの隣に座った。 その中には、スグルの兄ちゃんもいた。 「よう奈津子ちゃん。五十鈴ちゃん、久し振り」 ウチらはそれぞれに挨拶を返した。スグルの兄ちゃんはウチの一つ下の晴美ちゃんの兄ちゃんで、ウチらとは四つ離れていたから、二年前に中学を卒業していた。その後スグルの兄ちゃんは、高校に行く為に都会に出るということはせず、村で林業を営んでいる会社に入って働き始め、木を育てたり切ったりする仕事に毎日汗を流していた。 そして若者たちは酒を頼んで騒ぎ始めた。スグルの兄ちゃんも、まだ未成年なのにウチらに見せつけるように飲酒をして、ウチらに自分が大人の仲間入りをしたことを示していた。 五十鈴ちゃんはオムライスを半分くらいまで食べたところで、ふと目を丸くして口元を抑えた。それから真っ赤な舌を出して、そこから何かを摘まみ上げる。 それからあたりをきょろきょろと見回すと、何も言わずに立ち上がり、厨房の方へと歩いて行く。 一分ほどして戻って来た五十鈴ちゃんは、顔を俯けて表情を暗くしていた。 「どしたん?」 様子のおかしくなった五十鈴ちゃんに、ウチは声をかける。すると、五十鈴ちゃんはふとウチの手を取って耳打ちした。 「ちょっと、面白い遊びをしませんか?」 遊びと聞くとウチは黙っていない。「なんや?」と目を輝かせるウチを、五十鈴ちゃんは店のトイレまで連れて行った。 ウチを同じ個室に連れて行き、「汚いトイレ」と顔を顰めた五十鈴ちゃんは、すぐに含み笑いをしながらスマートホンを取り出して見せた。 「見ててくださいね」 そう言うて、これ見せよがしに五十鈴ちゃんは、『1』『1』『0』の三つのボタンを押した。 絶句するウチに悪戯っぽい表情を向けて、五十鈴ちゃんはお巡りさんを相手に話し始めた。 「すいません匿名で通報します。未成年飲酒の現場に遭遇しました。今も飲んで騒いでいるようです。場所は……」 テキパキと通報を終えた五十鈴ちゃんは、最後に「今すぐに来て止めさせてくださいね」と口にしてから、ウチの方を見て頬を捻じ曲げた。 「これで未成年にお酒を出したお店には指導が入り、何らかの営業的なペナルティは免れません。すぐ警察がやって来て、ちょっとした騒ぎになりますよ。見物しましょう」 「……なんで?」 ウチは五十鈴ちゃんに言うた。 「なんでそんなことするん? この店、友達の親が経営しとるし、スグルの兄ちゃん達も皆知り合いの兄弟とか親戚で……」 「これを見てください」 そう言うて、五十鈴ちゃんは指先で摘まみ上げた髪の毛を、ウチの前に差し出した。 「オムライスに髪の毛が入っていました。この店の奥さんのものでしょうか? それはたまにあることだとしても……言っても取り替えてくれないなんて。信じられません」 こんなこと、都会ではあり得ない話だ……と五十鈴ちゃんは顔を顰める。 「潰れてしまえば良いんです。こんな店。大しておいしくもない」 〇 別に五十鈴ちゃんは悪くない、とウチは思いたかった。 だって、二十歳未満がお酒を飲むのは、この村では当たり前に行われとることやとしても、法律違反に違いなかった。二十歳未満と知りながらお酒を出す店に処分が下るのも、当然のことではある。 ただ、行為に悪がないということと、気持ちに悪意があるかどうかは、別のことやとウチの姉ちゃんは言う。 「五十鈴ちゃんは髪の毛の入った料理を取り換えてもらえんかったから、合法的に反撃したんやな。中一とは思えんくらいキツいやり方やんねぇ。前の五十鈴ちゃんはおっとりしとって、何か嫌なことされても泣くだけで、反撃とかできん子やったのに……。何があったんや?」 三つ上の姉ちゃんは都会の高校に寮から通っていたけど、今は夏休みということで家にいた。優しいし、ウチの知る誰よりも豊かに色んなことを考えられる人やった。 「せやけど、それが五十鈴ちゃんの新たな一面なら、しょうがないんちゃうかなあ? 友達の性格の何もかもが、不変かつ自分好みかっちゅうたらそんな訳ないし、そうであるべきでもないけんなあ」 姉ちゃんはそう言う。でも、五十鈴ちゃんの新たな一面を知って、ウチは若干、ブルーな気持ちやった。 感情には色が付いているとウチは思う。嬉しいのは黄色っぽくて、怒ると赤っぽくなるし、落ち着いたり癒されていると緑色になる。 気持ちを色に例えている……のではなくて、ウチには本当にそう感じるのだ。お腹の奥にある自分の心の中から、もやもやとそういう色が湧きだしているのをウチは時々感じる。それは強い感情を覚えた時や、或いは自分の心とじっくり向き合う時とかに、いつもそうなる。 青っぽいのは哀しみとか憂鬱の色で、ウチは今そういう状態にあった。このことで五十鈴ちゃんを嫌いになったりはもちろんしない。けど、都会から帰って来た五十鈴ちゃんがちょっとだけ別人になっていたことが、ウチには少しだけショックやった。 〇 その日、ウチと五十鈴ちゃんは、日に数度しかやってこないバスに乗り、そこからさらに電車に乗り継いで、街に出ていた。 そこでウチらは、田舎の下品な店とは違う(と五十鈴ちゃんは言う)、ちゃんとしたカフェに入った。 ただ、ウチは少しばかりお金に困っていた。街に行きたがる五十鈴ちゃんと遊ぶようになってから、交通費や遊行費でかつかつやった。ウチの小遣いは月二千円で、お金持ちの五十鈴ちゃんに付き合うには、お年玉貯金を切り崩していくことを余技なくされた。 そんなんやから、カフェで何も頼まなかったウチに、五十鈴ちゃんは訝るような目を向けた。 「何も頼まないのですか?」 「お金ないねん」 五十鈴ちゃんは同情してくれて、自分が払うから好きなものを頼めと言うてくれた。 ごちそうしてくれたケーキはおいしかったけど、毎回そうしてもらう訳にはいかないとウチは思った。正直、街には行かずに、山の中で昔みたいに駆け回って遊びたかったけど、それを言うと所詮は田舎者と思われそうで嫌やった。 それから、ウチらは山奥の田舎に帰る為に電車に乗った。電車は満員の時間帯で、ウチらは立っているだけでもしんどかった。 二人で電車を降りると、五十鈴ちゃんは少し怒ったような声で言うた。 「お尻を触られました」 ウチは目を丸くして、思わず「大丈夫?」と尋ねた。 「平気ですよ。都会ではたまにあることでしたし、それに、報復もしました」 そう言うて、五十鈴ちゃんは懐から一つの財布を取り出した。 「何それ?」 「スリました」 「えっ?」 「得意なんです。都会にいた時に、付き合っていた男の人に教わって。すぐにわたしの方が上手になって」 「あかんやん!」 ウチは言うた。 「あかんやんそれ。泥棒やん!」 「……そうですけど、でも、奈津子さんだって前に、学校の前に落ちていた千円を届けなかったことがありましたよね? それとどう違うんですか?」 そう言われ、ウチは答えに窮した。感覚としては全然違うような気がしたけど、でも言葉にしてどう違うのか説明するとなると、どう言うて良いのか分からなかった。もしかしたら、あんまし違わないのかもと思った。 「これ、あげます」 そう言って、五十鈴ちゃんは財布の札入れを翻して中の三枚の一万円を取り出し、ウチに差し出した。 「前に奈津子さんが千円拾った時、半分あげるって言って、自分の財布から五百円をわたしにくれましたよね? そのお礼です」 差し出された三枚の一万円札を見て、ウチはどうしたらええか分からなくなった。 スーパーで五十円のお菓子を買うのか百円のお菓子を買うのか悩んだり、一着服を買うのに何か月もお金を貯めて我慢したり、お小遣いの値上げや前借を巡ってお母さんと大喧嘩したり、それがウチにとっては当たり前の日常やった。 そんなウチにとって、三万円というのは途方もない金額やった。 「これで、しばらくはお金のことは心配せずに、また一緒に遊べますよね?」 そう言って微笑む五十鈴ちゃんが、とても恐ろしいものに見えた。お金持ちのこの子は小遣いなんていくらでも親から貰えるのに、スリをする。今回は痴漢にあった報復やけど、でも普段は多分、何でもない相手からもスっている。盗られた人がどうなるのかとか、考えない。 もしかしたら、この子はウチと、ちょっと違うのかもしれない。違うようになってしまったのかもしれない。 「……いらないんですか?」 そう言った五十鈴ちゃんの声はいつもより低かった。ウチは五十鈴ちゃんのことが怖くなって、思わずそのお金を受け取った。 それからこちらをじぃっと見つめる五十鈴ちゃんに、ウチは振り絞るような声で言うた。 「……あ、ありがとう」 五十鈴ちゃんは満足して微笑んだ。 〇 その後、バスに乗って家に帰る途中、五つ年下の佳代(かよ)ちゃんと会うた。 佳代ちゃんは小学校の頃からの友達……というか面倒を見ている子で、ウチにとても懐いてくれていた。佳代ちゃんはウチの方に気付くと、スキンシップを求めていきなり飛びついて来た。 「奈津子ちゃん。どこ行ってたん?」 「うん。バスと電車で、街の方へ」 「すごーい。奈津子ちゃん、流石、大人やなぁ」 「そんなこと、ないよ」 ウチは言うた。大人と言えるほどちゃんとした意思を持っていたら、五十鈴ちゃんから三万円を渡された時、もっときちんとした振る舞いができたはずやった。 「あたしも街に行きたいな。ねえ奈津子ちゃん、今度は五十鈴ちゃんじゃなくて、あたしを連れてってよ」 「うん。もう少し、お姉さんになったら行こうね」 五十鈴ちゃんはただ傍で立ち尽くしていた。そして、ウチが佳代ちゃんの相手を終えるのを見ると、立ち去って行く佳代ちゃんの小さな背中を見ながら、ウチに耳打ちする。 「今からあの子を追い掛けて、泣かせて来てください」 ウチは絶句して五十鈴ちゃんの方を見る。 「そうして来てくれたら、もう三万円あげますよ?」 五十鈴ちゃんは様子を見るようにじっとウチの顔を覗き込んでいる。 ウチは何も言うことができない。 やがて佳代ちゃんが見えなくなると、つまらなさそうに顔を背けて歩き出した。 〇 ウチの胸は張り裂けそうやった。自分の部屋の引き出しに隠した三万円のことを考えると、気が狂いそうな気持ちになった。 浮かない顔で、家族と一緒に食べる夕食を押し込んで、自分の部屋に戻る時、姉ちゃんに声を掛けられた。 「なんかあったん?」 迷ったけれど、ウチは姉ちゃんに打ち明けることにした。ウチは姉ちゃんの部屋にいって、すごく時間を掛けながら、泣きながら今日起きたことをすべて話した。 「まず最初に、お姉ちゃんに打ち明けてくれて本当にありがとう」 姉ちゃんはそう言うてから、困ったような顔で俯いた。 「佳代ちゃんのことを泣かして来い言うたんは、多分嫉妬やねぇ。五十鈴ちゃん、独占欲むっちゃ強いで。あの子自身東京帰りで村の人達と微妙に距離があるし、またこの山奥に来た理由についても、色々噂されとるみたいやし……」 五十鈴ちゃんには東京で悪い年上の友達と何人も付き合い、様々な非行に手を染めたという噂があった。 本人もそれらしきことは口にした。とは言え幼い子供でしかなかった五十鈴ちゃんは、悪い仲間達の中でも強い立場にはなかったようで、色々とつらい思いもして、一時は病院でカウンセリングも受けていたという。 「どうするかは奈津子ちゃんが決めることやから、その三万円のことはお姉ちゃん、誰にも言わんで。せやけどな」 姉ちゃんはウチの目をじぃっと見つめながら、優しい声で言うた。 「五十鈴ちゃんは都会で色んな悪い人達と付き合うて、今みたいになってしもうたんやろ? それと同じことが、今度は奈津子ちゃんに」 「……どういうことなん?」 「悪いお金を、平気な顔で自分の為に使えるのは、豪胆なんやなしに想像力がないだけや。そういう人間はいつか破滅する。せやから、悪いお金のことをお姉ちゃんに打ち明けられたんは、今の奈津子ちゃんが賢くて心が豊かな証拠なんよ。せやけど、五十鈴ちゃんと付き合い続けたら、今の奈津子ちゃんはおらんようになってまうかもしれへん」 「…………」 「奈津子ちゃんに勇気があるんやったら、お父さんやお母さんにことを言うたらええ。そしたら後のことは、奈津子ちゃんに一番良いように二人がしてくれるで」 〇 ウチは姉ちゃんの言う通りにした。 警察に連絡が行って、ウチはお巡りさんの前で五十鈴ちゃんのしたことを話した。五十鈴ちゃんもお巡りさんの追及の為に事実を話し、それなりの報いを受けたらしかった。 残りの夏休み、ウチは五十鈴ちゃんと連絡を取ることができなくなった。ウチは五十鈴ちゃんを裏切ってしまったのだから、当然やった。向こうからも電話がかかって来たり、家まで遊びに誘って来たりはせんかった。それもまた当然のことやとウチは思うた。 夏休みが明けてからも、ウチらはあまり話はせずに疎遠になった。五十鈴ちゃんの顔を見るのは怖かったし、ウチには佳代ちゃんとか他の友達もおったから、そっちと付き合った。 五十鈴ちゃんの方は、教室でちょっとの間浮いたけど、年上の男の子達に愛想良く振舞うことで居場所を作った。中学生達の教室で、五十鈴ちゃんはすぐに色々な男子達を虜にした。その中には、ウチが憧れていた先輩も含まれていた。 そのようにして、それからの学校生活、ウチは年下の子の面倒を見たり一緒に悪戯をしたりして遊んで過ごし、五十鈴ちゃんは年上の子に混ざって何かしていた。 〇 それから時が経ち、ウチらは中学二年生になり、十四歳になった。 相変わらず、五十鈴ちゃんとはあまり話さなかった。 五十鈴ちゃんは学校にいる間は先生の言うことを良く聞く優等生で、勉強も学校で一番やったけれど、裏では色々と良くないことをしているようやった。 五十鈴ちゃんは、村のあらゆる事業を事実上取り仕切っているヤクザみたいな事務所で働く半グレの若者と出会い、交際を始めた。そいつの車の助手席に乗って街に繰り出し、夜の街を遊び回ったことを自慢した。 外面は変わらず清楚で上品で可愛らしいお嬢様やったけど、その内面は昔一緒に山を駆け回っていた頃からかけ離れていくようやった。学校を休むことが多くなり、街で良く補導もされていた。 そんな五十鈴ちゃんのことを、街中の大人たちは問題児として良く噂をした。山奥の田舎ではどんな出来事も、一瞬にして噂として村の隅々まで染み渡る。それはもちろん、ウチの耳にも頻繁に届いた。 しかしウチは何も言えず、何もできなかった。 〇 五十鈴ちゃんが警察に追われ、逃げ回っている。 そんな噂を聞いたのは、中二から中三の間の春休みのことやった。 話はこうや。五十鈴ちゃんがカレシである半グレの男と共謀し、ヤクザの事務所から金を盗もうとして失敗。その後ヤクザから逃げ回った二人だったが、すぐに捕まり、男と一緒に五十鈴ちゃんも事務所へ連行された。 ヤクザの組長としては、男の方はともかくとして、所詮中学生である五十鈴ちゃんを必要以上にどうこうするつもりはなく、テキトウに脅かして解放するつもりやったらしい。しかし五十鈴ちゃんはそうは考えず、自分を守る為に隠し持った刃物で抵抗して、組長の腹にナイフを突き立て、窓から逃げた。 組長は一命をとりとめたようやったけど、行為としては立派な殺人未遂。通報を受けた警察が五十鈴ちゃんの身柄を追っている。 その日は雨が降っていた。ざあざあぶりの強い雨は、窓を開けると騒音のように部屋中に鳴り響いた。窓を閉じても、滲み出るような雨のにおいは、ウチの全身に張り付くようやった。 春休みの平日で、両親は共に出かけていた。都会から帰省していた姉ちゃんだけが台所で家事をしていて、ウチは一人、湿った部屋のベッドに横になり、物思いに耽っていた。 部屋のチャイムが鳴り響いた。 姉ちゃんに言われて、ウチは玄関に出た。 ずぶぬれになった五十鈴ちゃんが、そこに立ち尽くしていた。 五十鈴ちゃんは酷い有様やった。長くて黒い髪は雨でずぶぬれで、ぐしょぐしょの服には汚れやほつれがあちこちにあった。顔には疲労と恐怖がと張り付いて、ボロボロの全身は今にも崩れ落ちそうやった。 「……匿ってください」 五十鈴ちゃんは言うた。 「助けてください。奈津子さん。助けて……」 ウチは五十鈴ちゃんを家に入れた。 〇 姉ちゃんは何も訊かんと五十鈴ちゃんにシャワーを勧めた。そしてウチに着替えを用意するように命じた。 「大丈夫なん?」 シャワーから出て来た五十鈴ちゃんに、ウチはそう尋ねた。 「大丈夫だと思います?」 五十鈴ちゃんが困ったような顔で言うたので、ウチは「ごめん」と言うた。 「奈津子ちゃんが謝ることじゃないですよ」 そう言って、五十鈴ちゃんはウチのベッドの隅に腰かけた。そこは、昔仲が良かった時、遊びに来るといつも五十鈴ちゃんが座っていた場所やった。 「ホンマ、ごめんな」 五十鈴ちゃんは顔をあげて、微笑む。痛々しい笑顔やった。 「何がです?」 「助けてあげれんでごめん」 「こんな状況から助けられる人なんていません」 「そうやなくて……。五十鈴ちゃんがこんな状況になるまで、一緒にいて守ってあげたり、叱ってあげたりとかできんかったこと、ごめん」 そう言うと、五十鈴ちゃんは仮面の笑みを崩して、目を丸くした。 「姉ちゃんに言われたんや。ウチは今のままでおらなあかんって。付き合う相手によって人間は変わってまうって。でも、せやったらそれは逆に、ウチが五十鈴ちゃんと一緒におることで、五十鈴ちゃんの方の人生を変えてあげることができたはずやったんや。……助けてあげられたはずなんや。それができんで、ごめん。ごめんな……」 気が付けばウチは泣きじゃくっていた。それを見た五十鈴ちゃんは表情をくしゃくしゃにする。そしてウチと同じように涙を流し始め、縋りつくようにしてウチの身体に抱き着いて来た。 それっきり、静かな時間が流れた。お互いに言葉を交わすことはなかったが、しかし相手の体温を感じていた。 「……そろそろ行かないと」 雷の音が一つした時、五十鈴ちゃんはそう言って立ち上がった。 「奈津子さんのお姉さんが警察を呼んだはずです。ずっとここにはいられません」 歩き出した五十鈴ちゃんは玄関に向かう途中、ウチの方を振り向いて言うた。 「最後に、少しの間友達に戻ってくれて、嬉しかったです。あなたのことは、永遠に忘れません」 五十鈴ちゃんは雨の降る外に出て、ウチの前から消えた。 ウチは五十鈴ちゃんを追うことはしなかった。自室に引き返し、ベッドに寝転んで天井を見上げた。 心の奥から悲しみの色があふれ出して来る。その色はウチの全身を包み込んで離さない。 ウチは目を閉じる。そして、瞼の裏で時を遡った。 あの時、あの夏の日に、電車の外で差し出されたあの三万円を、誰にも打ち明けなかったらどうなっていただろう? 或いはその場で五十鈴ちゃんを引っ叩き、手を握って一緒に鉄道警察のところへ行けていたら、どうなっていただろう? ウチはウチの中にいる過去の五十鈴ちゃんと、妄想の中で様々に遊び、様々に喧嘩し、色々話して、様々な道を歩んだ。その道は決して、今この瞬間にたどり着くことはない。 けれどそれはただの願望で、ただの後悔で、本当の二人には今この瞬間しかなかった。 ウチは五十鈴ちゃんに想う。妄想の中の過去のどの五十鈴ちゃんにでもなく、今もどしゃぶりの雨の中をずぶぬれで歩いている、現実の中の五十鈴ちゃんに。 ウチのことを許すな。 想うな。 嫌って憎め。叫んで罵って、忘れてしまえ。 |
粘膜王女三世 2022年04月30日 01時32分25秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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