漆黒のアンリウォーディド・ガーディアン

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※一部に残酷な表現があります。




 このまま自分は死ぬかもしれない。
 オーロラがゆらめく夜空を見ながら、イーサーンはそう思った。
 体が瓦礫に押し潰されている。胸から下の感覚はとうに消え失せた。凍えるような冬の寒さは容赦なく体温を奪っていく。命の灯火が消えるのも、時間の問題だ。
 辛うじて動く首をひねり、辺りを見渡すと、戦場のような光景が広がっていた。
 今にも崩れそうなほどに破壊された屋敷。至るところで火の手が上がり、焦げ臭い匂いを漂わせている。激しい破壊音は未だ鳴り止まず、人々の悲鳴と共に不協和音を奏でていた。
 なぜこんなことになったのだろう。
 原因は分からない。分かるのは自分の生活拠点が襲撃を受けていることだけ。気付けばこんな有様だ。
「よお。気分はどうだい?」
 誰かが傍らにしゃがみ込み、こちらの顔を覗き込んでくる。暗闇の中でひときわ目立つ白い顔。黒髪を伸ばし放題にした、まるで死人のような風貌だ。
 ……こいつが死神か。最近の死神はレザージャケットを着て、大鎌の代わりにギターケースを背負っているらしい。
「言っとくが、死神じゃないからな」
 こちらの思考を読んだらしく、相手が言う。何がおかしいのか、死神もどきは気味の悪い笑みを浮かべて話し始めた。
「俺はザモス。お前たち人間が言うところの〈悪魔〉ってやつだ」
 途端に話が胡散臭くなる。今ので自分は顔をしかめたかもしれない。
「チープな作り話だと思うだろ? けどな、これは現実だ。どうせ相槌うつ余裕もないだろうから、勝手に進めるぜ」
 ザモスは視線を外し、焼け落ちていく建物を見た。
「この襲撃は〈天界〉の仕業だ。お前たちが〈神〉だの〈天使〉だのとありがたがってる連中が、〈歌姫〉を攫いに来たのさ」
 軽い混乱を覚えた。にわかには信じられない話だ。想像の産物が姿を現わしたのもさることながら、〈歌姫〉を攫いに来た理由とやらが解らない。そもそも〈歌姫〉とは誰のことなのか。
「お、集まってきやがったな」
 ザモスが天を仰ぐ。つられて視線を移すと、白く輝く羽虫の大群が見えた。
「下級天使だ。〈歌姫〉を見つけたらしい」
 羽虫に見えたそれは、イナゴによく似ていた。違うのは人の顔を持っていることだ。白目をむいた感情のない人面が、頭部に貼り付いていた。
 下級天使たちは、破壊された屋敷の一角に集結しつつある。あそこは確か、『彼女』の寝室があった場所だ。
 イーサーンは胸に火が灯るのを感じた。体の感覚は既に失われているはずなのに。
 あいつらが連れ去ろうとしているのは『彼女』なのだろう。この自分を荒んだ人生から救い出してくれた恩人にして、今では家族同然の存在。
 そして、自分が生涯をかけて護ると誓った相手だ。〈天使〉だろうと〈神〉だろうと、彼女を連れて行かせるわけにはいかない。
「細かい話は後だ。お前に提案がある」
 早くしろ、と言いたかった。
「俺と契約しねぇか? いくらか制限はあるが、あいつらをブッ殺す力は手に入る」
 ザモスは笑みを浮かべながら、深遠の闇を湛えた瞳で問いかける。まるでこちらを試すように。
 〈悪魔〉との契約は破滅を招く。古くからの言い伝えだ。欲に目が眩んだ人間は、みな〈悪魔〉に騙されて、不幸な結末を迎えるのだという。
 ――だとしても。
 今は力が欲しい。羽虫の大群を薙ぎ払い、『彼女』を護り抜くのに充分な力が。
 僅かに残った力を振り絞り、答えを声に出そうとする。しかし潰れた肺は呼吸を拒み、幼いころ父親に潰された声帯は思うように動かなかった。
 だから頷く。瞳に強い意志を宿らせて。
「契約成立だ」
 ザモスは嬉しそうに顔を歪ませた。かと思えばギターを手にし、爪を長く伸ばした指で器用に六弦を弾く。
 マイナーコードを多用した、不安を煽るようなメロディ。歪ませた音が重なり合い、鼓膜を痛いほどに震わせる。
 と同時に、イーサーンの体が炎に包まれた。視界は燃え盛る炎で遮られ、肌が焼けただれていく。生きながら火葬されている気分だ。不思議と苦痛は感じない。それは炎がまやかしだからか、それとも体の感覚が失われているからか。
 気付くと両足で立っていた。場所は変わらず、変化があったのは自分だけのようだ。
 潰された体が再生し、感覚も戻っている。何なら喋ることもできそうだ。
「武器はあるか」
 酷くしわがれた声。元々つぶれていた声帯は再生しなかったようだ。
「武器は望めば無限に出る。そのコートさえあればな」
 ザモスはイーサーンが着ている上着を示した。裾が引き千切られたようにボロボロで、光を反射しない漆黒のロングコート。この中から武器が出てくるという。
「イメージしな。お前が武器だと思うなら、木の枝だろうがミサイルだろうが何でも手に入る」
 ザモスが言い終わらないうちに、袖の中から何かが滑り落ちてくる。反射的にキャッチすると、それは使い込まれて傷だらけになったオートマチック式の拳銃だった。
「お前はそれを『他者を抑圧する道具』だと認識してるんだな」
 他者を抑圧――そういえば、怒り狂った父親にはいつも銃口を向けられていた。幼い頃の記憶だ。
「使ったことがない」
「構わねぇさ。ぶっ放せばなんとかなる」
「だが……」
 迷う。銃の扱いに関して素人の自分が下手に使おうものなら、護るべき相手に弾が当たってしまうかもしれない。
「くだらねぇ」
 気分を害したようにザモスが吐き捨てる。
「俺は『お利口さん』が大嫌いでな。人間が作った道具の構造や使い方なんざどうでもいい。当たれと思えば当たるし、当たらねぇと思えば当たらねぇんだよ」
 つまり、意志の力が物理法則を凌駕するということか。
「お前はもう『こっち側』の住人だ。今までの常識は捨てることだな」
 常軌を逸しているといえば、今この状況が既にそうだ。
 ザモスは考える暇(いとま)を与えない。
「それより、早くしないと〈歌姫〉が連れて行かれちまうぜ?」
 振り向くと、下級天使の群れが『彼女』を担ぎ上げていた。長く伸びた金色の髪とナイトガウンが風に揺らめいている。今にも飛び立ちそうな様子を見て、髪が逆立つほどの怒りを覚えた。
 ――行かせるものか。
 銃を握り締め、イーサーンは駆け出した。





 今夜は特に寒い。
 一ヶ月ほど前に、気象庁が本格的な冬の到来を告げていた。日照時間は日ごとに短くなり、今ではせいぜい六時間程度。太陽光の当たらない街は冷え込み、夜闇に包まれて、冬眠しているように静かだ。
 首都から車で一時間程度の距離にあるこの街は、大企業や中央省庁で働く人々にとってのベッドタウン。主要な大通りを見下ろすように建ち並ぶ集合住宅は、三角屋根の古い煉瓦調で統一されている。歴史ある街並みを残そうという行政の意図が反映された結果だ。アンティーク好きが多いこの国において、由緒ある建物に住むことは一種のステータスとなっている。だから人通りが少なくとも、室内灯の明かりが漏れている窓は数多く見られた。
 そんな集合住宅群に挟まれたメインストリートを、一台の黒いセダンが走っている。普段ならもう少し早い時間帯にここを通るのだが、今日は午後九時を過ぎていた。年末の公演を間近に控えた『彼女』のレッスンが、いつもより長引いたせいだろう。
 ふと、気配を感じた。自分はこの感覚を知っている。
 建物の屋根からライフル銃のスコープを覗くと、案の定『奴ら』が見えた。走行中のセダンを監視するように三体。一体が車の真上、残りの二体はその両脇を飛行している。昆虫を思わせるフォルムに無表情の人面。下級天使が、また性懲りもなく〈歌姫〉を攫いに来たのだ。
 銃を構え、意識を集中させた。遠距離からの狙撃を成功させるには、自身の呼吸はもとより、地形や風向き、コリオリ力に至るまで注意を払わなければならない。
 だが自分に関して言えば、それらを無視することができる。スコープを覗いて照準を合わせているのも、単に気分の問題だ。きっと両目を閉じていても命中させることができるだろう。
 引き金を引いた。弾丸が空気を切り裂き、標的に吸い込まれていくイメージ。想像と違わず、最初の一体を撃ち抜いた。
 続いてもう一体。ボルトアクションは必要ない。常識外れのライフルから射出された弾丸は、下級天使の眉間を貫いた。
 そして最後は。こちらの居場所に気付いたらしい。一直線に飛んでくる。だが問題はない。冷静に引き金を引くと、相手はスコープの向こうで爆散し、風に吹かれて塵となった。
「手慣れたもんだな」
 横から話しかけてきたのはザモスだ。この〈悪魔〉とは契約関係にあるが、こちらのやる事には一切手を貸さない。特殊な力を貸し与えるところまでが契約内容なのだという。つまり傍観者として高見の見物を決め込んでいるわけだ。
「拳銃一丁であたふたしてた頃が懐かしいぜ。もう五年になるか?」
 白い顔の〈悪魔〉が言う。初めて契約した夜の出来事を揶揄しているのだろう。
「気が散る。黙ってろ」
 イーサーンはライフルをコートの中に収めると、何事もなかったように走り去るセダンを目で追った。
 車の進行方向に下級天使の気配は無い。このまま行けば、車は『彼女』の家に着く。彼女を取り巻くスタッフが安全確保の為に送迎しているのだが、そのセキュリティは人間を対象としたもの。人外の存在から彼女をどれだけ護れるか怪しいものだ。
 ――もう少し、様子を見てみるか。
 イーサーンは三角屋根を駆け下り、軒先で跳躍した。隣の建物の屋根に着地し、再び駆け出す。人間離れした身体能力をザモスから貸し与えられてはいるものの、どうせなら飛行能力も寄越して欲しかった。以前にそう話したら、あの〈悪魔〉はいけしゃあしゃあと「契約内容の追加か? なら対価は何だ」などと言うのだった。
 結局自分に与えられたのは、人並み以上の身体能力と耐久性、あとは無尽蔵に武器を供給してくれるコートぐらいなもの。無敵の不死者(アンデッド)には程遠かった。
 疾走と跳躍を繰り返し、月明かりの綺麗な夜空が陰ってきた頃、目的地が見えてきた。『彼女』の自宅だ。
 街を出て車で更に十五分ほど行くと、針葉樹の森へ至る。その森の中にある広大な敷地は、かつて彼女の父が所有していたものだ。
 黒塗りのセダンが正門を潜り抜け、その先にある屋敷の前で停車した。運転手が先に降車して、後部座席のドアを開く。間もなく、一人の女性が姿を現した。
 タルヤ・ライタネン。それが彼女の名前だ。音楽一家の令嬢として生まれ、成人した現在では『マリア・カラスの再来』との呼び声高い世界随一のソプラノ歌手である。
 タルヤはイーサーンと一緒に暮らしていた頃に比べて更に美しく成長していたが、溢れるようだった生命の輝きには陰りが見える。金色だった髪は白色化が進み、表情も葬式帰りのように暗い。それに、少し痩せたようだ。
「おお、本日も麗しの〈歌姫〉よ」
 ザモスが冗談めかした調子で言う。こいつは影のようにつきまとう上に、人の神経を逆撫ですることばかり口にする。契約関係になければ撃ち殺しているところだ。もっとも、物理法則が曖昧な『この世界』で、この〈悪魔〉にどれだけダメージを与えられるかは分からないが。
 イーサーンはザモスを無視し、木の陰に隠れたまま周囲に意識を巡らせた。
 やはり下級天使の気配は無い。先程の三体は、偵察の為に寄越された捨駒だったようだ。
 となれば、おそらく今夜の襲撃はないだろう。そう結論づけて、長い息を吐き出すのだった。
「タルヤ……」
 白い息と共に彼女の名を呟く。今はもう、どれだけ叫ぼうとも声は届かない。彼女と自分は、透明な薄皮一枚隔てた別々の世界に生きている。



 五年前の冬。イーサーンはザモスと契約を交わし、この世の人ならざる存在となった。それまで住んでいた物理世界に別れを告げ、今では物理世界と精神世界の狭間にあるという〈亜世界〉に身を置いている。
 以下はザモスから聞いた話だ。
 世界は〈天界〉〈魔界〉〈人間界〉の三つに分かれている。このうち〈天界〉と〈魔界〉は精神世界、〈人間界〉は物理世界に分類されるという。精神世界に住まう〈天使〉や〈悪魔〉といった存在は、本来なら物理世界である〈人間界〉に干渉できないが、精神世界と物理世界の狭間にある〈亜世界〉を通してなら干渉することが可能となる。たとえば下級天使が〈人間界〉から人間を連れ去るように。
 〈亜世界〉の可視性は一方通行で、この世界に身を置く者は〈人間界〉の様子を見ることはできるが、その逆は有り得ない。だから〈亜世界〉を通して物理世界つまり〈人間界〉に干渉した場合は、〈人間界〉側からは不可視の力が作用しているように見える。いわゆる心霊現象というやつだ。
 〈亜世界〉の住人となったイーサーンは、いわば幽霊のようなもの。故にタルヤの様子を見ることはできても、彼女に知覚されることは無い。いくら声を上げても、彼女には聞こえないのだ。
 五年前、タルヤを連れ去ろうとした下級天使どもを殲滅した後で、初めて〈亜世界〉のことを知らされた。選択の余地が無かったイーサーンをザモスが言葉巧みに騙したことに違いなかったが、契約を交わしてしまった以上は取り消すことができない。かの〈悪魔〉に一杯食わされたというわけだ。
 ザモスに対してはほとんど不満しかないが、タルヤを連れ去ろうとする下級天使どもを倒す力を得たことは有益だったと思う。たとえそれが〈悪魔〉の思う壺であったとしても。
 月日の経過はイーサーンを諦めの境地へと導き、やがてタルヤの守護者(ガーディアン)としての自覚を確立させた。
 自分は彼女を影ながら守護し続ける。それでも構わない。
 そう自分に言い聞かせて早や五年、今ではタルヤの周辺をうろつく下級天使を始末するのがイーサーンの日常となっていた。
 これでいい。そもそも自分と彼女は、生い立ちから周りの環境が違っていたのだから。
 昔を振り返る。
 イーサーンは貧民街の出身だ。世界的に見れば、国民の幸福度が高いと言われるこの国でも、生活水準が地の底並みの人間は間違いなく存在する。国民の幸福度とは結局、極端に幸福な者と極端に不幸な者を平均化した結果でしかないのだ。
 イーサーンの肉親は、酒と薬物に溺れた父親だけだった。母親はどこかのストリートで娼婦をしていたそうだが、夫の度重なる暴力に耐えかねて逃げ出したという。イーサーンがまだ物心つく前の話だ。
 安酒を浴びるように飲みながら、父は言っていた。
 ――あの女、厄介なモンを置いていきやがって。
 厄介者が自分のことだと解ったのは、七歳の頃だ。思い返せば、父から温かい言葉を掛けられたことは無かったし、抱きしめられたこともない。あるのは暴力と罵倒だけだった。
 そんな日々の中で唯一の楽しみといえば、ゴミ捨て場で見つけたギターを弾くことぐらい。ボディは傷だらけで、弦は四本しか無かったが、掻き鳴らすと日常生活では聞くことのない組み合わせの音階が聞けるので、それが好奇心をくすぐった。
 父の言いつけで酒や食料の調達――大半が物乞いや盗みによるものだが――に出かけると、決まってギターを隠していた場所まで行き、路上で時間の許す限り弾き続けた。楽譜というものが存在することすら知らなかったから、弾く時はいつもデタラメだ。しかしそれで充分だった。
 ある時ふと、思い浮かんだメロディを弾いてみた。やってみるとこれが実に楽しい。すると次々に新しいメロディが浮かんできて夢中になった。
 帰りが遅いと父は怒り狂った。どこで何をしていた、早く酒と食い物を寄越せ、何だこれだけか、役立たずめ。怒鳴られるのはいつものことだ。これに慣れてくると、父が放つ言葉にも音階があることに気付いた。この音階をどうやって組み直したら、さっき思い付いたメロディに繋げられるだろう。そんなことを考えていたら、銃口を向けられていた。
 今にして思う。きっと父は不安だったのだ。日常的に銃声が響くこの街で、一人になることが。愛情や尊敬が人を引き付けることを知らず、弱い者を力ずくで繋ぎ留めることしかできない。だから我が子に銃を構えたのだ。
 結局その日は、殴られただけで済んだ。殺してしまっては後の処理が面倒だ、父はそう考え直したのだろう。
 ごみ溜めの底を這うような生活は、イーサーンが十歳の誕生日を迎えるまで続いた。この頃になると父は病に体を蝕まれ、歩くこともままならなくなった。以前のように殴られることもなくなったから、これ幸いとしてイーサーンはギターの演奏に没頭した。教師はおらず教科書もない。日々の生活で聞こえてくる音階を拾いながら、内なるメロディを纏め上げていく。いつしか長いフレーズを演奏するようになっていた。
 ――それ、何ていう曲? 聴いたことないけど、素敵なフレーズね。
 路上に座り込んでギターを弾いていたら、いきなり話しかけられた。見上げると、同じ年頃の少女が立っていた。
 彼女はタルヤと名乗った。作曲家である父親に付いて近くを通りかかったら、イーサーンの演奏が聞こえたのだという。
 ――続きを聞かせて。
 タルヤは目を輝かせてそう言った。興味深いと感じたのだろう。生命力に溢れた笑顔が、イーサーンにとっては眩しかった。
 続きと言われても曲として完成させたわけではなかったから、それはできないと断った。
 するとタルヤはこんなことを言い出したのだ。
 ――じゃあ、こんなのはどう?
 彼女は即興でメロディを口ずさんで見せた。
 透き通るような声で、美しい音階を組み上げていく。気づくとイーサーンは、彼女に合わせてギターを弾いていた。
 今までにない感覚だった。自分の内なるメロディが、他者と溶け合っていくような。
 いつの間にかイーサーンとタルヤの周りには人だかりができており、その中には彼女の父親も含まれていた。タルヤの父は、弦が二本欠損し、調律の狂ったギターで正確な音階を奏でるイーサーンに驚いたという。しかも独学で作曲していた十歳の少年に、天賦の才を見出したとのことだった。
 ――そんなに言うなら、この子をお父様の生徒にすればいいのよ。
 タルヤにそう言われ、彼女の父は笑顔で頷いた。
 ――それは名案だ。君さえよければ、私の元に来ないか。最高の環境を約束しよう。
 その申し出はイーサーンにとって魅力的だった。音楽に関して高等な教育を受けられることよりも、この荒んだ街から抜け出せるという意味で。
 答えを躊躇うことはなかった。二つ返事で受け入れたら、タルヤの父の行動は早かった。イーサーンの父を説得し、要求された金額を小切手で支払った。イーサーンの父は当面の生活が保証されたことに気を良くし、喜んで一人息子を手放した。この時にはもう、正常な判断力は失われていた。
 こうしてイーサーンは、ライタネン家に引き取られたのである。
 あの時、タルヤの一言がなければ、自分はあの街を出ることはなかっただろう。その意味で、彼女は恩人なのだ。



 ライタネン家は、古くから音楽一家として名を馳せていたようだ。タルヤの父、ユーロニは先祖に恥じることなくクラシック音楽の作曲家として高く評価されていた。
 その娘、タルヤはというと、ソプラノ歌手として成長の階段を昇り始めたばかり。しかしその優れた声質と表現力から、将来は逸材になると確実視されていた。
 ユーロニはイーサーンに、あらゆるジャンルの音楽と楽器に触れることを許した。古いものも、新しいものも、王道も、異端も、全て受け入れる。それが彼の信条らしかった。その他には、楽譜の読み方を一から教えて貰い、音楽理論を徹底的に叩き込まれた。おかげでイーサーンは、自分が意図せずに行なっていたことを体系的に理解することができた。
 ユーロニによる講義はタルヤも同席していたから、自然に彼女とは同期生のような扱いになった。音楽は他者との関わりから新たな境地に至ることができる、その教えに従い彼女とはよく議論を交わしたものだ。
 ――ねぇ、ここはCメジャーにしたほうがいいのじゃなくて? そうすれば次の楽章がより高揚した雰囲気になると思うのだけれど。
 ――いや、それだと墜落から急上昇するような浮遊感を表現できない。だからこのままでいいんだ。
 彼女とは作曲に関して、よく話し合った。イーサーンが曲を考え、タルヤがそれに意見する。読んだ書籍の感想や身なりに関する話題よりも熱心に語っていたように記憶している。
 ――あなたって、頑固ね。その頑固さがより良い曲を生み出す秘訣なのでしょうけど。
 ――君こそ。歌手にしては作曲に口出しをよくする。自分の意見をしっかり持っている証拠だ。
 ――え? 私のこと口うるさい女だと思ってない?
 ――そんなことはない。
 ――じゃあ、どう思っているの?
 ――大切な人だ。
 ――それ……どういう意味?
 ――貴重な意見をくれる人という意味だ。君の考えは傾聴に値する。
 ――ああそう。そっちの意味ね。
 ――どういうことだ?
 ――もういい!
 そんな会話が昨日のことのように思い出される。当初はただの同期生だったのが、共に学ぶうちに友人となり、思春期を迎えれば互いが異性であることを意識するようになり――タルヤはイーサーンよりも早く意識していたようだが――やがて二人の絆は強固なものとなった。
 そしてイーサーンが十八歳の誕生日を迎えた日。この日をもって自分は法的に成人として認められた。自分の責任で権利を行使できるようになったから、イーサーンはそれまで密かに考えていたことをタルヤに伝えた。
 すなわち。
 ――君のことは恩人だと思っている。だから生涯を賭けて、君の恩に報いたい。
 ――そういう回りくどいのは止めて。
 ――解った。では、これからも君と共に歩みたいと思っている。
 ――不器用ね。でも、あなたらしいわ。
 ――この先、俺は何があろうと君を護り続ける。だから……。
 ――待って。気持ちは嬉しいの。だけど少し考えさせて。
 そう言ってタルヤは自室に引き上げていった。イーサーンの決意を受け入れるか否か、その回答を保留にしたままで。
 その晩に、下級天使からの襲撃を受けたのだった。



「過去の思い出にでも浸っているのですか?」
 いきなり背後から話しかけられた。反射的に銃を構え、即座に発砲する。銃口の先に居た相手は頭部を粉々に破壊され、周囲に肉片と血液を撒き散らした。
 胸がざわめく。物思いに耽っている間に、背後を取られていた。もし相手がその気だったら、自分は気付く前に消滅させられていただろう。
 背後に立っていた相手は、首から上を失っていた。しかし瞬く間に頭部が再生していく。口元が出来上がったところで、相手は話し始めた。
「いきなり攻撃とは感心しませんね」
 頭が吹き飛ばされたことを全く意に介していない。イーサーンの姿が見えているところからすると、人間でないことは確実だ。
 頭部が元通りになる。相手は頭から黒いウィンプルを被った修道女の姿をしていた。静かな笑みを浮かべ、イーサーンの反応を観察している。
「ロウエラか。天使長の使いっ走り、ご苦労なこったな」
 話しかけたのはザモスだ。
 ロウエラは一瞬だけ鋭い目をしたが、すぐに元の余裕を取り戻す。
「黙りなさい、穢らわしき〈悪魔〉よ。私は崇高なる目的の為に行動しているのです」
「何言ってんだ。知能のない虫どもを操って人間を攫おうとしてるだけじゃねぇか。やってるこたぁ人間の屑どもと変わらねぇぜ」
 ザモスが相手を小馬鹿にして言う。ロウエラは黙り込み、少しして長い息を吐いた。
「……やはり〈悪魔〉には理解できないようですね」
 声が震えていた。怒りを押し殺しているようだ。
「そもそも、あなたがた〈悪魔〉が人間に悪い知恵を与えるから、〈人間界〉は誤った方向へ進んでしまったのです」
「違うな。人間を作った奴の見通しが甘かっただけだろ」
「聞き捨てなりません。我らが善神を冒涜するのは止めなさい」
「嫌だね」
 鼻を鳴らしてそっぽを向くザモス。ロウエラは相手をするのも馬鹿馬鹿しいといった様子で、イーサーンに視線を移した。
「そこのあなた」
「……何だ」
「〈悪魔〉に騙されてこんなことをしているのでしょう?」
 こんなこと、とは〈天使〉たちの計画を阻止しようとしていることだ。
「同情します。あなたに罪はありません」
 ロウエラの目は憐れみに満ちていた。弱者に寄り添う態度にも思えるが、それは自分がより高位な存在だという傲慢さの裏返し。イーサーンは胸の内に黒い火が灯るのを感じた。
 修道女姿の〈天使〉は、聞かれもしないのに語り出す。
「我々は善神に仕える者として、幾年もの間〈人間界〉を見守ってきました。しかし今や人間達の行いは目に余ります」
 ロウエラは芝居がかった身振り手振りを加え、話し続ける。教会で子供たちに神話を語る聖職者さながらだ。
「同じ種族同士で争い、幾度となく過ちを繰り返す。何と愚かなことか」
 〈天使〉と〈悪魔〉が人間よりも永く争い続けていることは棚上げして、ロウエラは益々自己陶酔していく。
「この事態を重く見た天使長様は、我らが善神に進言なさいました。〈人間界〉を浄化すべき時が来たのではないかと」
「で、その天使長の差し金でお前は〈歌姫〉を連れ去りに来たんだろ? その話ならもうしたぜ」
 面白くなさそうに欠伸をしながら、ザモスが口を挟んだ。
 イーサーンは既に〈天使〉が立てた計画の全貌をザモスから聞いている。語るロウエラに横槍を入れなかったのは、単にそうするだけの手間が惜しかっただけだ。
 〈天使〉の計画とは、〈歌姫〉を〈天界〉に迎え入れ、その歌声にて〈人間界〉を浄化すること。ここで言う浄化とは、精神的な意味に留まらない。物理世界である〈人間界〉を解体し、他者との区別を要しない世界に再編するという意味だ。例えるなら、個々の氷を砕き、溶かし、気化させて容器に密閉するようなものだ。
 ロウエラたち〈天使〉は、増えすぎた人間を一個の精神体に作り直したいのだろう。個々が区別されるから、互いにいがみ合う。区別の無い一個の精神体であれば、争う必要もない。
 聞く者によっては理想的な世界かもしれないが、少なくともイーサーンには受け入れられない。自分の心に土足で踏み込まれるような気持ち悪さがある。気を許した相手ならばそれでも構わないが、見ず知らずの人間と自分が溶け合い、一個の『自分』になるなどと考えるだけでも寒気がする。
 ただでさえ気に入らない計画なのに、ロウエラたち〈天使〉が人間を〈歌姫〉に仕立て上げようとしているところも気に入らない。
 〈歌姫〉は誰もがなれるものではないらしい。世界最高峰の歌手を〈天界〉は欲している。人々の感情を揺り動かし、精神に強く影響を与える者でなければならないのだという。
 そうして選ばれたのが、タルヤだった。五年前は成長途上だった彼女が、今や世界的なソプラノ歌手にまで上り詰め、〈天界〉としては嬉しい限りだろう。
 〈歌姫〉として世界の再編に携わる。あたかも救世主のような役割だが、その実、ただの道具に過ぎない。〈天界〉の望みを叶えるためだけに利用される歌唱装置、それが〈歌姫〉なのだ。
「計画を知っているなら話は早いです。あなたも馬鹿なことを止めて、我々に協力しませんか。争いのない理想郷の創出に参加できるなんて、光栄なことだと思いますが」
 ロウエラは自身の行いが正しいと信じて疑わない。それだけに見えない刃がイーサーンに突き刺さる。
 ――馬鹿なこと、だと?
 胸の内の火が、炎に変わった。黒く燃える、憎悪の炎。
「……もし〈歌姫〉になったら、タルヤはどうなる?」
「歌声に肉体が耐えきれず、いずれ消滅するでしょうね。しかし彼女の尊い犠牲は、〈天界〉で永遠に語り継がれることでしょう」
「そうか」
 今のでイーサーンの腹は決まった。もう何も言うまい。
「俺はゴメンだ。あなたも僕も、みーんなまとめて『私』になります――そんな世界、気持ち悪いったらありゃしねぇ」
 ザモスが顔をしかめる。
「だから俺はこれからも邪魔させて貰う。こいつが消滅しても、また別の奴と契約してな」
 こいつ、とはイーサーンのことだ。ここまではっきり道具に過ぎないと言われたら、却って清々しい。
「あなたがそのつもりなら我々も容赦はしません。〈人間界〉を浄化したら、次は〈魔界〉の番です」
「そうくると思ったぜ。だったらこっちも尚更、手は抜けねぇな」
 睨み合う〈天使〉と〈悪魔〉。元・人間であるイーサーンは蚊帳の外だ。
 ――いや。
「おい」
 声を掛けると、ロウエラが振り向いた。
「何です?」
 瞬間、イーサーンはグレネードランチャーをぶっ放した。至近距離からの弾撃を受けて、修道女姿の〈天使〉が粉々に飛び散る。
 火薬と肉片の焼ける匂い。実体を持たないはずの〈天使〉を爆散させられるのも〈亜世界〉ならではだ。この世界では意志の在り方次第で、いかなる結果も思いのままになる。
 武器をコートの中に仕舞いながら、イーサーンは白い息を吐き出した。
「これが俺の答えだ」
 冷たい風が吹く。と共に、飛び散っていたはずの肉片は煙と消えた。
 ――結構です。では、あなたも我々の敵と見なしましょう――
 風の吹く音に混じって、そんな声が聞こえた。姿は見えない。体の割合を、肉体から精神体に寄せたのだろう。そうすれば物理干渉できない代わりに、物理的な攻撃を受けにくくなる。
「好きにしろ」
 イーサーンは暗い夜空を見上げた。あの先に〈天界〉がある。タルヤが連れ去られるという、遥か遠い世界が。
 雪が降り始めた。凍えそうな夜が、今年もまたやってくる。



 あれから数日。
 街に降る雪の量は増えたが、下級天使たちの姿はまるで見なくなった。奴らを操っているというロウエラも、まったく気配を感じさせない。大人しく手を引いてくれたならいいが、そんなはずはない。きっと裏で何かを企んでいるのだろう。
 動きが見えないという点では、天使長の存在も不安材料だ。タルヤを〈天界〉へ連れ去る計画の首謀者が、どこで何をしているか分からない。おそらく何体かの〈天使〉を使役しているのだろうが、具体的なものが一切見えてこない。探りごとが得意なはずのザモスをもってしても、天使長の行方は分からないままだという。
 しばらく襲撃が無かったから、そろそろ動き出す頃かもしれない。そんな漠然とした予想が、イーサーンを行動させ続けていた。
 今は国立歌劇場に来ている。年末にこの場所で、タルヤの公演が行われる予定なのだが、音響装置のテストに彼女も参加することになっている。彼女に付き添っていれば、いずれ〈天使〉たちは何かしらのアクションを見せるだろう。
 タルヤは普段着のまま舞台の上に立ち、客席を見渡していた。人前で歌うことには慣れているはずなのに、病人のように浮かない顔をしている。世界最高峰の歌手と称される彼女だが、今は音楽祭に初めて出演する新人歌手のようだ。
「さて、始めよう」
 マイク越しに告げたのは、メインプロデューサーのシャグラットだ。まだ四十代にも満たない彼だが、五年前に家族を亡くしたタルヤの支援者も務めている。家族を亡くした彼女を引き取った点では美談と言えるが、豊富な財力にものを言わせて天才歌手の興行権を買い取ったのだと非難する声もある。
 タルヤが無言で頷くと、スピーカーから楽曲の前奏が流れた。国立歌劇場の内装は、歴史を感じさせる意匠となっているが、その裏には最新設備が隠されている。本番で使うオーケストラの生演奏に負けないほどの演奏を聞くことができた。
 歌が始まる。
 曲はジュゼッペ・ヴェルディによるオペラ〈椿姫〉から。その内容は高級娼婦と純情な青年貴族との恋愛を描いたものだが、主人公は周りの人々に反対され、愛する人と結ばれることなく最後には死を迎えるという悲劇である。
 タルヤは主人公のヴィオレッタを演じることになっていた。今は第一幕の終盤にある〈ああ、そは彼の人か〉という曲を歌っているのだが、ここでは高級娼婦として享楽的な人生を歩んできたヴィオレッタが、真実の愛に気付く自分に戸惑いを覚えている場面を表している。静かな演奏に合わせて歌い上げるので、タルヤの声が鮮明に聞こえた。
 ドラマティックな声質ながら、軽やかなコロラトゥーラ(歌声を転がすようにして装飾する技法)を駆使する彼女は、ソプラノ歌手の中でも稀有な存在だ。力強く、しかし繊細に。タルヤの歌声は耳ではなく、直接心に響く。こうして聴いていると、物語の登場人物が、血肉を持った人間であるように感じられた。
 舞台の上で一人、輝くような存在感を放つタルヤを、イーサーンは見入っていた。
 ――あの惨劇から、よくここまで持ち直してくれた。
 五年前の出来事は、彼女から幸せな家庭を奪い、歌うことを拒むほどのトラウマを植え付けた。マスコミは『悲劇の歌姫』などというキャッチコピーを彼女に押し付け、世間の同情を煽った。
 好奇の目で見る者は数多あれど、真にタルヤを救おうとする者は皆無だった。彼女の支援者として名乗り出たシャグラットですら、金の卵を生むカナリアを買い取ったとしか考えていないだろう。
 もし自分が彼女と同じ世界で生きていたなら、何かしら力になれたかもしれないのに。だがイーサーンは別世界の住人となり、世間的には謎の爆発事故で亡くなった大勢のうちの一人でしかなかった。
 自分も、彼女の支えになりたかった。そう思えば思うほど、自分の無力さが歯がゆかった。自分は下級天使を殺すことでしか、タルヤの力になれないのだ。
 イーサーンが拳を握り締めていると、舞台の上で異変が起こったようだった。
 次の曲にさしかかる直前、タルヤが突然倒れたのである。
「中断だ。担当医を!」
 シャグラットの声が場内に響く。周りのスタッフが一斉に動いた。
 その様子を、イーサーンは客席の最後列で眺めていることしかできなかった。誰よりも早く駆け寄りたかったが、自分には出来ることが何も無いと解っていたから。
 イーサーンは奥歯を噛み締め、歌劇場を後にした。タルヤのことはスタッフに任せておけばいい、そう自分に言い聞かせて。



 その晩、イーサーンはタルヤの部屋を訪れた。覗きの趣味は無い。純粋に、彼女の様子が気がかりだったのだ。
 間接照明だけが灯された部屋の片隅に佇み、無言の時を過ごす。そうしている間に、タルヤが目覚めたようだった。左肘の内側に残る点滴の痕が痛々しい。
 ベッドから身を起こすなり、彼女は深い溜息をついた。両足を床に下ろしてベッドに腰掛け、そのまま両手で長い髪を掻き上げる。苦悩している時に見せる彼女の癖だった。
 両膝に視線を落としたまま、タルヤは動かない。舞台での出来事を思い出しているのだろうか。プロ意識が高い彼女のことだ、歌唱の最中で倒れた自分が許せないのだろう。
 世界最高峰の歌手であり続けるには、常にプレッシャーと戦わなくてはならない。観客が最高のパフォーマンスを求める以上、その期待を裏切ってはならないのだ。楽しく歌えていれば良かった子供時代はとうに過ぎ去り、今や彼女は人々の理想を叶える為だけに歌い続けてきた。たとえ心身が悲鳴を上げていたとしても。
 タルヤがサイドチェストに視線を移した。そこには写真立てがある。
 入っているのは見るに耐えない写真だ。イーサーンは敢えて視線を外す。見てしまえば居ても立ってもいられなくなるのは解りきっていたから。
 写真には、タルヤとイーサーンが並んで写っている。気恥ずかしそうに視線を落とした自分に、彼女が太陽のような笑顔で腕を絡めていた。彼女が先に成人を迎えた記念日に撮ったものだ。
 この日に交わした約束は、今でも覚えている。
 ――いつか、貴方と一緒に歌いたいわ。
 ――一緒に? 俺とか?
 ――そうよ。
 ――この声では、歌どころではない。
 ――それでもいいの。歌は声じゃなくて、心で歌うものだから。
 ――そういうものなのか。
 ――そうよ。貴方も曲を作る時は、楽器で作るんじゃなくて、心で作るでしょう? それと同じことよ。
 ――なるほど。
 ――だから、ね?
 ――ああ。その時が来たら、な。
 遠い日の思い出。二人で交わした約束は、叶うことがなかった。
「イーサーン……」
 タルヤが立ち上がった。彼女はそのまま、サイドチェストに手を伸ばす。
「今、どこにいるの」
 彼女は写真に触れ、震える声で問いかける。間接照明の光が、頬を伝う涙に反射していた。
 イーサーンは胸が締め付けられるようだった。
 俺はここにいる、そう言いたかった。だが口に出そうとも、いくら叫ぼうとも、声は届かない。こんなにも近くにいるのに。
 物理的に干渉できないことはない。しかし物を動かしたとしても、彼女にとっては不可視の力が働いたようにしか見えないはず。それでは恐怖心を与えるだけではないのか。その柔らかな頬に触れたとて、得体の知れない何かが室内に存在するとしか思えないだろう。故に、触れることができない。
「貴方が居ないと、私……」
 タルヤは写真立てを抱きしめ、床に崩れ落ちた。寂しさに耐えかねた子供のように、彼女は嗚咽を漏らす。
 そんな愛する人の姿を、イーサーンは見ていることしかできなかった。



「どうした? 最近やけに大人しいじゃねぇか」
 国立歌劇場の屋根に腰掛け、ザモスが聞いてくる。先週からずっと、胸にわだかまりを抱えていることに気づかれたらしい。人の弱い心につけ込む〈悪魔〉だから、人心の変化には敏感なのだろう。
「一つ、聞いていいか」
「契約の範囲内なら」
 ザモスはギターの弦を弄びながら答える。
「俺の姿をタルヤに見せることはできないのか?」
 弦が切れた。白い顔の〈悪魔〉は舌打ちして、ヘッドのネジを回す。
「契約内容の追加なら、いつでも受け付けるぜ」
「できるのか?」
「対価さえくれたらな」
 結局、そういうことだ。対価なしに現状を変えることはできない。
「何が対価になる?」
 この際だから聞くことにした。〈悪魔〉と契約を結ぶ際の対価とは、言い伝えによれば魂であることがほとんどだ。しかしザモスとは既に契約を結んでいるので、追加となれば魂の他に対価となるものが思いつかない。
「何でも。自分が大切だと考えている物ならな。片腕だろうが、片目だろうが」
「それなら……」
 自分の体の一部を差し出そうとして、イーサーンが言いかけると、ザモスが先手を打ってきた。
「お前は貴重な戦力だ。五体満足でなきゃ〈天使〉どもとはやり合えねぇ。体のどこかを対価にするってんなら、俺はお断りだ」
 どうやら、あちらにはあちらの事情があるらしい。契約とはそもそも、互いの合意があって成り立つものだった。
「ま、お前の考えてることは解るよ。けどな、俺は慈善家じゃない。過大な期待は禁物だ」
 弦の交換が終わったらしい。ザモスは再びギターを鳴らす。やけにメランコリックなフレーズだった。
「所詮は〈悪魔〉か」
「そういうこった。お前も所詮は〈人間〉ってところだけどな」
「どういう意味だ?」
「そうやって感情を押し殺そうとしてるが、抑えきれずに溢れそうになってるところがな」
 イーサーンは口をつぐんだ。あんな姿のタルヤを見た後だからか、ここ最近は感情の制御が難しくなっている。それをザモスに見透かされていたらしい。
「それよりも、今日は大仕事になりそうだぜ。微かだが、ロウエラの気配を感じる」
 〈天使〉どもの実働部隊が動き出したらしい。
 よりによって、タルヤの晴れ舞台があるこの日に。今日は、彼女の年末公演初日だった。
 ――ふざけるな。
 はらわたが煮えくり返るようだった。今日まで準備してきた彼女を思うと、それが台無しにされることに激しい怒りを覚える。
「いつ来るか、俺にもわからねぇ。気をつけな」
 珍しく、ザモスが忠告する。それだけ、今回の襲撃は格別なのだろう。
「ああ」
 イーサーンはコートの内側に手を入れた。戦う準備は、いつでも出来ている。



 開場は夕方。この頃になるともう、日は沈んでいる。やけに早い夜の始まりだ。
 世紀の歌姫による公演を一目見ようと、観客は続々と集結してくる。今回を期に、タルヤの国内公演はしばらく観られなくなる。来年からは国外での公演が中心になるからだ。そんな事情もあって、客席が埋まるのにそれほど時間は要しなかった。
 イーサーンはというと、観客席の最後列に配置していた。ここからなら全体が見渡せるし、周りの客に気を取られることもない。微細な変化に神経を尖らせながら、開幕の時を待った。
 屋外での降雪に関わらず、場内の熱気は凄まじかった。古くからオペラを嗜んでいる客は静かに開始の時を待っているが、大半の客は話題の歌姫を一目見ようという動機で来場している。それだけに開始前の会話が収まらず、自然と場内は騒がしい雰囲気になっていた。オペラをより身近なものにと考える普及派にとっては好ましい状況だが、保守派にとっては苦々しい状況であるに違いない。
 そうして様々な思惑が行き交う中、ついに幕が開いた。
 〈椿姫〉の第一幕。主役のヴィオレッタが住む屋敷で開かれたパーティーの場面から物語は始まる。
 真っ暗な舞台にスポットライトが灯り、舞台袖からヴィオレッタ役のタルヤが現れる。その瞬間、観客たちが息を呑む気配が伝わってきた。
 タルヤはパールホワイトにゴールドの装飾が施されたドレスを着て、髪をアップに整えていた。美しくも儚げで、しかし高級娼婦らしい妖艶さも持ち合わせている。彼女が放つ存在感は、一目で観客を魅了したようだ。
 前奏が入る。静かに、緩やかに、どこか哀愁を感じさせるメロディだ。やがて舞台の照明が点灯、きらびやかなパーティー会場が現れる。そこへドレスやタキシードで着飾った招待客役の演者が続々と入ってくる。
 音楽は一転して弾むようなテンポになった。日夜、享楽に酔いしれる貴族の社交界を表現しているようだ。
 オペラでは、演者の台詞は全て歌として表現される。舞台上ではタルヤが、他の演者が、洗練された歌声で物語を進めていく。
 来客がヴィオレッタに友人を紹介する場面。その友人とは、後にヴィオレッタと恋仲になる青年貴族だ。青年貴族は他の来客に勧められるまま、難色を示しつつも歌い始める。そこへヴィオレッタが歌声を重ね合わせ、最後には来客の合唱が加わり、舞台の雰囲気を豪華絢爛に仕上げていく。この場面は〈椿姫〉における最初の見せ場だ。初めて観賞する客であっても、興奮が抑えられず物語に引き込まれることだろう。
 曲が終わると、ヴィオレッタ役のタルヤがその場で倒れる。先日のように体調不良からではなく、病に倒れる演技だ。
 場面が移り変わり、ヴィオレッタがソファに横たわっている。そこへ青年貴族が訪れ、体調を気遣う。青年貴族は心からヴィオレッタを案じているようだった。
 ――貴女を愛している!
 ヴィオレッタに求められるまま、青年貴族は何度も、何度でも愛の言葉を告げる。イーサーンはタルヤに一度も伝えられなかったというのに。演技だと解っているのに嫉妬心を覚えてしまう。見るに耐えず、舞台からしばし目を逸らした。
 舞台の上ではタルヤ扮するヴィオレッタと、テノール歌手が演じる青年貴族が再会の約束を交わし、そこで照明が落ちた。
 僅かな幕間に、イーサーンは細く息を吐き出した。自分が演目に気を取られていたことに気付き、首を左右に振る。
 これでは駄目だ、集中しろ。自分に言い聞かせ、舞台の周辺を観察した。不審な影が無いか探す為だ。ザモスによれば、高位の〈天使〉は姿を自在に変えられるという。場合によっては実在する人物になりすまし、しかも声色や仕草、記憶に至るまで完璧にトレースするのだそうだ。これではたとえ肉親であっても、見破ることは困難に違いない。
 舞台の上では、タルヤによる独唱が行われている。先日、テストが行われた時の曲だ。彼女の周囲に不自然な動きはない。
 ならば客席はどうか。観客は、朗々と歌唱するタルヤに視線が釘付けなようだ。違和感を覚えるような人物は、今のところ確認できない。
 ふと思った。今日の襲撃は無いのかもしれない。そこには多分に希望的観測も含まれている。タルヤの晴れ舞台がこのまま平穏に終幕を迎えて欲しいと自分は願っている。
 自分が神経を尖らせているのは、ザモスがロウエラの気配を感じたと言っていたからだ。だが自分には何も感じられない。下級天使の気配ですら。ロウエラは、作戦実行を前に下見をしに来ただけではないのか。
 そこまで考えた時――異変が起こった。



 最初は地震かと思った。
 国立歌劇場全体が揺れたのだ。しかし揺れは小さなもので、タルヤは意に介さず歌い続ける。この程度で中断していては、観客に申し訳ないと考えたのだろう。
 しかし次の瞬間、第二波が来た。
 地面をスライドさせるような横揺れが来たかと思うと、歌劇場の壁に亀裂が走った。亀裂の進行は止まらず、美麗な彫刻の入った柱や、宗教画の描かれた天井にまで及ぶ。激しい物音と悲鳴は観客によるもの。場内は混乱に見舞われた。
 イーサーンは下級天使の気配を探るが、判然としない。何故だ。
 壁の一部が崩落。そこから外の様子が見える。
 イーサーンは目を見開いた。建物の外に、下級天使の群れがびっしり貼り付いていたのである。まるで農作物を食い荒らすイナゴの大群だ。
 おそらく、建物そのものを下級天使の群れが覆っているのだろう。数が多すぎて、個体としての気配を感じにくくなっていたのだ。
 悪態をつく。
 気が緩んでいた。これでは守護者失格だ。
 すぐさまイメージし、コートの中から拳銃を取り出す。両手に一つずつ持ち、一迅の風となってタルヤの元に駆けていく。他の客や演者は後回しだ。
 下級天使どもはイーサーンの行く手を阻む。次々に飛来し、進路を塞ごうとしていた。
 ――邪魔をするな。
 走りながら銃を構え、発砲。照準を合わせるまでもない。煩わしい昆虫どもを撃ち殺すイメージさえ鮮明に思い描ければ、〈亜世界〉ではそれが現実となる。
 弾け飛ぶ下級天使の欠片を腕で払い、客席の通路を一直線に進んだ。
 舞台上のタルヤには、イーサーンの姿も、下級天使も見えていない。突然の天変地異が起こったように感じているはずだ。その場から離れようとするが、足元が覚束ない。彼女はすぐに座り込んでしまった。
 〈亜世界〉からでも、物理干渉することはできる。彼女を抱き上げ、建物の外に脱出することが可能だ。彼女にしてみれば不可視の力で体を持ち上げられることになるから、恐怖しか感じないだろうが。
 床を蹴り、客席を踏み台にして、更に高く跳躍した。体を捻り、追いすがる下級天使どもを撃ち殺す。空中で姿勢を修正、舞台の上に降り立った。
 タルヤの顔が青ざめている。今の着地が、化物の接近に思えたのだろうか。胸の痛みを覚えつつ、イーサーンは彼女の元へ。思い悩んでいる暇など、今は無いのだ。
 ――止まりなさい――
 どこからか、声が聞こえた。すると突然、イーサーンの両足が床に縫い付けられたように動かなくなった。
 声の主は、タルヤの正面に出現した。
 ロウエラだ。
 イーサーンを縛り付けたのは、こいつだろう。意志の力が物理法則に優先する〈亜世界〉で、他者の動きを束縛するには、より強い意志で命じればいい。この世界の特性を知っているのは、〈天使〉も同じなのだ。
 ロウエラはイーサーンに背を向け、両手を広げていた。座り込んだタルヤと正対している。
「だ……誰……?」
 タルヤにはロウエラの姿が見えているようだった。〈天使〉が体の組成を物理世界に合わせて可視化させたのだろう。
「私はロウエラ。我らが〈歌姫〉よ、お迎えに上がりました」
 修道女姿の〈天使〉が恭しく一礼する。
「では参りましょう」
 その一言と共に、下級天使がイーサーンの背後から一斉に飛来してきた。視界が真っ白に染まる。吹雪に巻き込まれたようだ。
 視界が開けた時にはもう、タルヤは白い昆虫の群れに担ぎ上げられていた。
 五年前の記憶が蘇る。イーサーンは奥歯が折れんばかりに噛み締めた。
 ――行かせてたまるか!
「貴方に、我らが善神ウォルフェス様のご加護がありますように」
 ロウエラはイーサーンの前で両手を組んだ。祈りを捧げる姿ながら、その顔は残酷な笑みを浮かべている。
「ではごきげんよう。罪深きイーサーンよ」
 ロウエラが天を仰ぐ。周囲に旋風が吹き、修道女姿の〈天使〉が上昇を始める。一瞬の間を置いて、地上から垂直に飛び立った。
「……イーサーン? そこにいるの⁉」
 タルヤの目が驚きに見開かれている。
 その問いに答えることはできなかった。彼女を担ぎ上げた下級天使たちが、ロウエラと共に飛び立ったからだ。
「タルヤ!」
 名を呼んでも声は届かない。伸ばした手さえ、彼女には遠かった。
 天井に空いた穴から、ロウエラとタルヤは歌劇場の上空へ飛んでいく。ややもすると、イーサーンの足が自由を取り戻した。術者が遠ざかったことで束縛が解除されたのだろう。
 息をつく暇(いとま)もあらばこそ。
 イーサーンめがけて、歌劇場に残った下級天使たちが殺到した。ロウエラから足止めをするよう命じられたのだろう。
 両手の拳銃で片っ端から撃ち落としていくが、数が多すぎる。やむなくコートの中から、ショットガンを取り出した。目前に迫っていた一体を至近距離で撃ち、すぐに次弾を装填、広範囲に向けて散弾を射出した。
 横殴りの雹がごとく向かってくる下級天使たちは、いっこうに減少する気配がない。この場で足を止めていては、やがて手詰まりとなるだろう。それにタルヤを奪還するには、ロウエラたちを追わねばならない。
 イーサーンは走った。散弾で進路を作りつつ、目指すは建物の外だ。
 崩落した壁の隙間から、外に出た。外壁には場内よりも遥かに多い数の下級天使たちが貼りついている。
 歌劇場が傾いていた。下級天使たちは建物そのものをひっくり返そうとしている。ただ一人、イーサーンの足止めをする為だけに。
 揺れる。外壁の突起に辛うじて掴まるが、気休めにしかならない。
 歌劇場の基礎が悲鳴を上げた。外壁から剥がれ落ちるようにして崩れていく。それに伴い、下階から上階に向けて樹枝のような亀裂が迸った。
 上へ。斜面と化した外壁を駆け上がると、下級天使の群れが追ってきた。白く輝く昆虫が、荒波のように迫ってくる。
 コートの袖から手榴弾をばら撒いた。次々と炸裂し、水しぶきのように大群を爆風で吹き飛ばしていく。
 手榴弾は多少ながら効果があったようだ。黒焦げになった下級天使の残骸を尻目に、イーサーンは外壁を一気に駆け上がった。
 ロウエラとタルヤは、指先ほどの大きさにまで遠ざかっている。まだ目視できる範囲内だ。追いつけないことはない。
 ――飛ぶことさえできれば、の話だが。
「クソッ!」
 イーサーンは足元に拳を叩きつけた。人並み外れた身体能力は持っているが、飛行能力までは無い。ザモスと交わした契約では、ここまでが限界だった。
 曇天の彼方へ消えていくタルヤを見ながら、イーサーンは考えた。自身に飛行能力が無いのなら、空を飛ぶ乗り物があればいいのでは。
 気球、ヘリコプター、ジェット機……そんなものでは生ぬるい。そもそもどこから調達すればいいのか。
 武器としてならどうか。このコートは、自分が武器だと思う限り無尽蔵に調達することができる。
 思い出すのは五年前の記憶。確か、ザモスはこう言っていた。
 ――お前が武器だと思うなら、木の枝だろうがミサイルだろうが何でも手に入る――
 そうだ、その手があった。
 イーサーンはイメージする。人類の叡智にして最大の兵器を。
 はためくコートの背中側から、巨大なものが出てくる。
 大陸間弾道ミサイルだ。これなら飛行距離、速度ともに申し分ない。
 巨大兵器が完全に姿を現すと、イーサーンはその先端に立ち、頭上を睨んだ。
 相手が〈天使〉だろうが〈神〉だろうが、タルヤを護り抜く。この誓いを違(たが)えることは、絶対に無い。
 ロケットエンジンが点火。イーサーンは轟音と共に天空へ飛び立ったのだった。



 耳元で風が鳴っている。物理世界であればミサイルに乗って空を駆けるなど、非常識もいいところだ。しかしイーサーンが居るのは〈亜世界〉。物理法則は意志の力で抑え込めばよかった。
 見えた。ロウエラとタルヤは、下級天使どもに囲まれるようにして〈天界〉へ向かっている。
 ――速く。もっと速くだ!
 イーサーンの乗るミサイルは速度を上げ、瞬く間に距離を詰めていく。
「愚かな!」
 ロウエラが気づいた。
「なぜ解らないのですか⁉ 我々は人類を救う為に〈歌姫〉を――」
「黙れ!」
 イーサーンは叫んだ。
 人類の救済だと? 〈天使〉どもによる自己満足の間違いではないのか。そんな事のためにタルヤを犠牲にしようなどとは傲慢にも程がある。
「我らが善神に楯突く不届き者よ、悔い改めなさい!」
 言い終わるなり、下級天使たちが向かってきた。イーサーンの乗るミサイルに取り付き、無力化しようとする。
 馬鹿なことを。イーサーンは空中に身を踊らせた。
 爆発。科学の炎が、〈神〉の遣いたちを炭化させる。
 これで飛行手段を失ったが、問題はない。風ではためくコートの中から、新たなミサイルを呼び出した。一基だけではない、今度は複数だ。
 ――焼き尽くせ!
 イーサーンが心で命じると、数十のミサイルが一斉にロウエラたちを襲う。
 最初の一基が着弾。
 閃光が瞬き、黒々とした煙が視界を覆った。その煙の中へ、残りのミサイルが連鎖的に吸い込まれていく。
 誘爆が始まった。耳が痛いほどの轟音が大気を震わせる。これが地上で起こったことなら、都市の一つや二つが消し飛んでいてもおかしくはないだろう。
 日没後の星空が、黒い雲で覆われていた。イーサーンが乗っている一基を除き、全てのミサイルがその役目を果たしたからだ。
 注意深く〈天使〉の気配を探る。今ので殲滅できたとは思っていない。たとえロウエラが消滅したとしても、タルヤを担ぎ上げていた奴らが生き残っているはずだ。
 悪寒がした。
 とっさに身を捻るが、僅かに遅かったらしい。脇腹を、人の腕ほどもある錐(きり)が貫いていた。
「……ここまで愚かだとは。やはり人間は救いがたい」
 背後から攻撃を仕掛けてきたのはロウエラだった。焼けただれた顔が再生している途中だからか、凄絶な表情になっている。これが〈天使〉だとは誰も思うまい。
 イーサーンは錐を引き抜く。ザモスと契約していなかったら致命傷になるところだ。ロウエラほどではないが、時間をかければ傷は塞がる。
「生憎だな。俺は元・人間だ」
 五年前に下級天使どもの襲撃を受けなかったら、自分は人間のままでいられたのだ。そう皮肉を込めて言ってやった。
「同じことです」
 ロウエラが向かってきた。イーサーンには物理攻撃のほうが有効だと考えたらしく、一呼吸で間合いを詰めると、錐に変化させた腕を突き出してきた。
 躱す。が、今度は下から。首を捻ってやり過ごすも、錐が頬をかすめていく。
「止まりなさい!」
 こちらの動きを封じようと、ロウエラが命じる。歌劇場で同じことをやられた。
 しかしこう来ることは予測済み。より強い意志でもって跳ね除ける。不意を突かれさえしなければ、恐るるに足らない術だ。
 反撃。コートの中から滑り出した自動小銃を両手に一丁ずつ構え、フルオートで射出する。残弾は気にしない。思う存分ぶち込んでやるだけだ。
 慣れない肉弾戦に持ち込んだのが運の尽きだ。物理的な攻撃を仕掛ける為には、自身も体の組成を物理世界に寄せなければならない。それが徒(あだ)となって、ロウエラに無数の弾丸が突き刺さった。
「こっ、この……!」
 攻撃を受けながらも、敵は前進する。憎むべき相手をこの手で殺したいと考える復讐鬼のように。
 イーサーンは足元に仕掛けを施し、後退した。
 弾幕で視界を覆われたロウエラは、そのまま追ってくる。あと一歩でイーサーンの首に手が届きそうなところで、足元をすくわれた。
 地雷が炸裂したのである。
 続いて両者が乗っていたミサイルも爆発。ロウエラの悲鳴が掻き消された。
 炎に身を焼かれながら、〈天使〉は堕ちていく。
 ――まだ終わっていない。
 放っておけば、またロウエラの体が再生する。そうなる前に決着を付けなければならない。
 イーサーンは落下しながら、火炎放射器を構えた。
 ――滅びろ。
 ありったけの憎悪を込めて、ロウエラに炎を浴びせる。
 純粋なまでに黒く、殺意を剥き出しにした炎を。



「いいいいやぁァあアァァ天使長様ァぁァァアあぁあアアああァァッ!」
 ロウエラの断末魔は、壊れたスピーカーから流れる音声のようだった。絶命の声は耳障りなノイズとなってフェードアウトする。後には風を切る音だけが残った。
 一息つく。
 が、余韻に浸っている場合ではない。タルヤを取り返さなければ。
 イーサーンは空中で体勢を変えると、新たなミサイルをコートの中から呼び出した。それに乗り、遠ざかるタルヤの元へ飛んでいく。
 彼女を担ぎ上げた下級天使どもは、ロウエラが消滅したことを意に介さず、目的地を目指していた。元からそうするよう、命じられていたのだろう。
 行く手に視線を移すと、眩い光を放つ門が見えた。
「〈天界〉の入口だ」
 いつの間にか姿を現したザモスが言う。
「お前、今までどこに」
 普段からつきまとっているくせに、戦闘中になると姿を消す。そして気づけばまた、すぐ近くに戻っているのだ。傍観者としての立場を徹底している。
「んなこたぁどうだっていいんだよ。それより、あそこを通ったら〈歌姫〉を取り返すのが難しくなる」
「どういうことだ」
「あそこから先は、純粋な精神世界だ。お前のやり方じゃ〈天使〉どもを殺せない」
 つまり、銃器や兵器を使っての戦い方では相手にダメージを与えられないということか。
「〈亜世界〉でなら物理法則も使えるが、精神世界での戦い方は『あっち』に分がある」
 精神体である〈天使〉のほうが有利だというのは解った。
「だったらお前がやればいいだろう」
 〈悪魔〉も〈天使〉と同じ精神体だったはずだ。
「うるせぇ。俺は見てるのが仕事なんだよ」
 どこまでも他人任せな奴だ。もし自分がここで倒れたら、平然と別の人間を騙して戦わせるに違いない。
 ……まあいい。あの門をくぐる前に、タルヤを取り返せばいいだけの話だ。
 イーサーンはミサイルの速度を上げ、下級天使の群れに接近した。袖の中から拳銃を取り出し、彼女を担いでいる奴らから撃ち落としていく――つもりだった。
「おいおい……ここで御大の登場かよ」
 珍しく、ザモスが戦慄している。その理由はイーサーンにも解った。
 今までに感じたことのない気配が、現れたのである。
 〈天界〉の門の前に、人影が見えた。状況的に、普通の人間とは思えない。それにこの気配は、ロウエラと同質の……いや、それ以上のものだ。
「君か。私が育てた〈歌姫〉を奪いに来たのは」
 相手が語りかけてくる。男の声だ。どこかで聞いた覚えがある。
 逆光になっていた顔が、接近することで視認できた。
 イーサーンは言葉を失う。
 そこに居たのは――ユーロニだった。



 タルヤの父、ユーロニ・ライタネン。彼は五年前の襲撃で命を落としたはずだ。
「おっと、今はこちらの姿のほうが適切かな」
 相手が言うなり、姿が変化した。今度はタルヤのメインプロデューサーを務めるシャグラットだ。
 目の前で起こっていることが信じられない。こんなことができるのは〈天使〉ぐらいなものだ。
「お前が天使長だな。無能な部下にしびれを切らしての御降臨かい?」
 ザモスが牙を剥き出した。
「無能な部下……ロウエラのことか。確かにあれは、少々視野の狭い奴でね」
 天使長――シャグラットは静かな表情で答える。
「何も知らず、私の目的とは離れたところで暴走していたようだ」
「お前の目的、だと?」
 タルヤを〈人間界〉から連れ去り、〈歌姫〉に仕立て上げることではなかったのか。
 シャグラットがイーサーンに視線を移した。
「君もだ。何か勘違いをしているようだね」
「どういう意味だ」
 銃口を相手に向けて問う。
「君がタルヤと呼んでいる〈歌姫〉は、元々〈天界〉の住人だ」
 彼女が人間ではない? それはどういう意味か。
「〈歌姫〉は〈人間界〉を浄化する為に、我らの善神が生み出したもの。人間の感情を理解させる為に〈人間界〉で転生を繰り返させ、私が手を加えて成長させたのだ」
 シャグラットがユーロニの姿に戻る。
「この男は、随分と〈歌姫〉を可愛がってくれたようだ」
 その話しぶりからすると、ユーロニは実在する人物らしい。高位の〈天使〉は自由に姿を変えられるそうだから、イーサーンが知らないうちに成り代わっていたのだろう。
「おかげで効率よく育てることができた。もっとも、彼が君を引き取ったのは余計だったがね」
 余計、とは遠慮のない言い方だ。
「君のせいで〈歌姫〉は、本来の役目を忘れてしまったようだ。だから修正する必要があった」
「それが、彼女の屋敷を襲撃した理由とでも?」
 イーサーンの脳裏を五年前の光景がよぎる。
「そういうことになる」
 相手は肯定した。
 つまりあの時、タルヤは連れ去られるところだったのではない。『連れ戻される』ところだったのだ。
 ユーロニの姿をした天使長は、シャグラットの姿に戻る。
「その後は、この男の姿でいるほうが都合が良かった。おかげで今や〈歌姫〉は、最高の状態に仕上がりつつある」
 世界最高峰の歌手として活動する場を与え続けられたことが成長の糧となった。しかしそれは、本当に彼女が望んでいたことなのだろうか。
「彼女を解放しろ」
 気づけばそう発言していた。
「おかしなことを言うね、君は」
 シャグラットは首をかしげる。
「私は、君が生まれる遥か昔から〈歌姫〉を育てていたのだ。彼女にとって君は、転生を繰り返す中で出会った幾億のうちの一人に過ぎない。そんな君に彼女を解放しろなどと、言われる筋合いは無いな」
 残酷な物言いだ。銃を構えた手が僅かに下がる。
 シャグラットはその隙を逃さなかった。指を鳴らすと、周囲の雰囲気ががらりと変わる。新緑の美しい森の中へ迷い込んだようだった。
「吐き気がする景色だな」
 ザモスが鼻に皺を寄せる。
「君がロウエラを滅ぼす様子は見ていたよ。少々厄介に思えたのでね、場所を変えさせてもらった」
 どうやら、一瞬で〈天界〉に転移させられたようだ。ここは純粋な精神世界、一切の物理法則が通用しない。
 発砲。
 イーサーンが放った弾丸は、シャグラットの体をすり抜ける。
「これで解ったかな?」
 天使長の言葉には、嫌味も、優位性の誇示もない。当然のことを口にしているようだった。
「君が居ると面倒だ。悪いが、ここで消えて貰うよ」
 確定事項のように告げられた。次の瞬間、シャグラットの姿は消え、イーサーンは暗い闇の中に取り残された。



 遠くに光が見える。目を凝らすと、モノクロームの映像だと分かる。ゴミ箱をひっくり返したように雑多な街並み。朽ちたビルや路上で寝ている浮浪者。その向こうでは世間知らずの旅行者が、粗悪品の銃で頭を吹き飛ばされていた。
 イーサーンはこの光景を知っている。自分が生まれ育った街の日常だ。
 途端に映像が色彩を伴う。場面が切り替わり、憤怒の表情を浮かべた男の顔が大映しになった。
 思わず目を背けたくなる。これは、父親の顔だ。
 イーサーンの父は唾を撒き散らし何かを喚いていたが、まるで耳を塞いだように言葉が聞こえない。そういえば子供の頃、父からの罵声に耐えられなくなると、そこから先は聞き流すようになっていた。正面から受け止めれば心が壊れると、子供ながらに解っていたから。
 映像の父は、ますます顔を怒りの色に染めていく。罵声を浴びせている相手――イーサーンのことだ――が少しも堪えていないように見えたのだろう。親に屈服する様が見たかったのに、そうはならなかったから、面白くないのだ。
 父が両手を伸ばした。何かを掴み、力を込めている様子。
 思い出した。これは父に首を締められた時の光景だ。
 あの時は呼吸ができなくなり、必死でもがいた。父の両腕に爪を立てても、いっこうに力は弱まらない。たかだか七歳の子供が、大人の力に対抗できるはずが無かった。そうするうちに、喉の奥で何かが裂けたような気がした。鉄の味が込み上げてきて、口の中から血が溢れ出た。それ以来、自分の声は酷くしわがれたものになった。
 忌まわしき記憶。日々の暴力に耐えていた子供時代。壊れたギターだけが、現実を忘れさせてくれた。
 映像が切り替わった。今度はギターを弾いている自分が見える。さっきより少し、背が伸びたようだ。
 裕福そうな身なりの少女が前を通りがかった。十歳の自分は彼女に声を掛け、演奏を聞くよう勧めている。だが少女は首を横に振り、こう言うのだった。
 ――酷い雑音だわ。
 少女の顔が映し出される。嫌悪感を露わにしているのは、幼いタルヤだった。
 タルヤの言葉は続く。
 ――勘違いしないで。あなたは私の何なの? 薄汚れた野良犬のくせに!
 ――護って欲しいなんて、ひとことも言ってないわよ。
 ――私達は元々、住む世界が違うの。だからもう、つきまとわないで。
 ――あなたなんかに私の何が解るの!
 容赦なく浴びせられる言葉は、現実味を帯びていた。それは心のどこかで、彼女の本音かもしれないと恐れていたから。
 この五年間、タルヤを護ることだけを考えてきた。しかしそれは単なる自己満足に過ぎなかったのだろうか。〈歌姫〉として生きることが、実は彼女にとっての幸せなのではないか。だとしたら自分が守護者でいる意味とは――
 イーサーンは頭を振る。危うく心が折れるところだった。
 長めの瞬きをすると、元の場所に戻っていた。
「ほう? 今のを耐えたか」
 シャグラットは珍しいものを見たように目を丸くする。
「君の精神に干渉してみたのだが、なかなかに強靭な意志を持っている。ただの人間ではないな」
 当たり前だ。〈天使〉どもを殲滅する為に、普通の人間であることを辞めたのだから。
 今日まで、殺してきた下級天使は数知れない。手先となって動く雑魚をいくら倒しても意味は無かったが、ようやく目の前に首謀者が現れた。五年間、一心不乱に戦ってきた甲斐があったというものだ。
「……お前を滅ぼせば、タルヤは〈歌姫〉にならなくて済むんだな」
 イーサーンの問いに、シャグラットは僅かな戸惑いを見せる。
「今まで何を聞いていた? 理解しかねる」
「解らなくてもいい」
 一方的に対話を打ち切ると、イーサーンはザモスに問いかけた。
「対価されあれば、契約内容の追加は可能だったな」
「そうだ」
「だったら追加だ。お前の力を貸せ」
「いいぜ。じゃあ対価は何を?」
「何でもいい。好きなものを持っていけ」
 この際、自分の命を持っていってくれても構わないと思っていた。あるいは、自我を剥ぎ取り、操り人形にしてくれても。タルヤを解放できるなら、その後の自分などどうでもよかった。
「ほう……」
 白い顔の〈悪魔〉は目を細める。
「そういうことなら――『記憶』はどうだ?」
 ザモスの要求は意外なものだった。相手はこう付け加える。
「お前の原動力はどうやら、〈歌姫〉と過ごした日々の記憶らしい。人間がすがりつく『思い出』とやらに、俺は興味がある」
 ぎりっ、と奥歯が鳴った。よりによってこの〈悪魔〉は、自分の命よりも大切なものを差し出せと言ってきたのだ。
「それでもいいなら、いくらでも手を貸すぜ?」
 五年前のあの時と同じだ。選択の余地が無いイーサーンに、ザモスは深淵の闇を湛えた瞳で問いかける。
 タルヤとの思い出を失えば、たとえ彼女を解放したとしても、自分は何の為に戦っていたのか解らなくなるだろう。自分が消滅するよりも辛い未来となりそうだ。
 だが――
「構わん」
 イーサーンは決断した。
 自分で立てた誓いを果たすべきだと思ったからだ。何がどうなろうと、タルヤを護り抜く。これは自分が今日まで戦ってきた意義そのものだ。
「いいだろう。契約成立だ」
 ザモスが上機嫌でギターを掻き鳴らす。歓喜の歌にも似たクラシカルなフレーズだった。
 イーサーンはザモスの演奏を聴きながら、コートの中から新たな武器を取り出す。
 ここ〈天界〉は精神世界であるから、物理世界や〈亜世界〉のような物理法則に頼った戦い方はできない。精神に直接ダメージを与える攻撃が必要だ。
 その為にはどのような方法が有効か。
 ヒントはシャグラットがくれた。
 すなわち、相手の心を抉るような攻撃をすればいい。感情を激しく揺さぶり、精神を破壊せしめるような。
 イーサーンが取り出したのは、幼い頃に弾いていた傷だらけのギターだった。これが自分の『武器』なのだ。
「いいか、一度しか言わないからよく聞け」
 白い息を吐き出し、イーサーンは告げた。
「チューンはスタンダード、Eマイナーがメイン、イントロの後はトレモロリフでついてこい」
 ついでに序盤のコード進行も教えてやる。ここまでやれば、後は聴きながらでも合わせられるはずだ。
 矢継ぎ早の指示に、ザモスは面食らったようだった。
「お前、即興でやるつもりか? 狂ってるぜ」
「契約したなら従え。それとも、そのギターは飾りか?」
 仕返しのつもりでそう言ってやった。契約した以上、できないとは言わせない。
「……解ったよ」
 契約に忠実なのは流石に〈悪魔〉だ。ザモスは契約する相手を間違えたと言いたげな顔をしてギターを構える。
「それでいい」
 イーサーンは脳内に楽譜を描いた。ユーロニによる指導の賜物だ。作曲に関してタルヤの父は、最高の贈り物をくれたと言える。
 弦を弾く。
 自分にしかできない『攻撃』の開始だ。
 イントロは静かに。哀愁を感じさせるコード進行を選択した。ザモスも遅れて音色を合わせてくる。そこにうねるようなリフを加え、次第に不安定な印象に変えていく。
 イーサーンは、コートの内側から別の『武器』を出現させた。
 ベース、ドラム、キーボード、スピーカー、アンプ……そうして演奏の環境を整えていく。他の楽器は黒い影が演奏している。全てイーサーンのイメージから生み出されたものだ。
「何をする気だ?」
 突如として始まった演奏に、シャグラットは真意を計りかねているようだった。
 ――黙って聴け。
 人間の住む世界には、〈神〉を賛美し、感謝の気持ちを伝える為の楽曲が数多く存在する。
 しかしそれとは真逆の、〈神〉を穢し、冒涜する為の楽曲もまた存在する。
 その最たるものが〈ブラック・メタル〉と呼ばれるものだ。このジャンルでは徹底した悪魔信仰(サタニズム)に基づき、〈神〉を貶める内容の楽曲が演奏される。
 〈歌姫〉がその澄んだ歌声にて人々の感情を揺さぶり、〈人間界〉を浄化するならば、〈神〉を呪い殺すがごとく楽曲で〈天使〉を屠ることも可能なはず。イーサーンはそう考えたのだ。
 ――苦しめ。
 憎悪の感情を込めた。テンポを急変させ、高速のピッキングによるトレモロリフとブラストビートで曲に攻撃性を加えていく。
「これは……!」
 シャグラットが顔色を変えた。こちらの狙いに気付いたようだ。
 イーサーンの視界が暗転する。目の前に突きつけられたのは、幼い自分が父親から暴力を受けている場面。シャグラットが反撃してきたのだ。
 父親から殴られるごとに、重低音のような振動が腹の底に響く。幼い頃は何が起こっているのか理解できなかったが、こうして第三者的視点で見ると相当に凄惨な光景だ。子供の自分は鼻や口から血を流したまま、部屋の床に転がされる。すると今度は、空き缶のように蹴飛ばされた。小さな体躯が折れ曲がり、壁に激突する。
 体が疼いた。刻み込まれた虐待の記憶。頭では忘れていても、肉体は覚えている。この記憶を消し去ってしまいたかったが、自分が大切なものと考えない限り、契約の対価として消費されることはない。
 その代わり、このやるせなさを曲に込めてやる。あの頃の無力感、誰も助けに来ないという絶望感、そしてそんな毎日が続くのだという悲哀感も含めて。次第に曲は慟哭の色を帯びていく。
 場面が切り替わった。路上で十歳のイーサーンがギターを弾き、同い年のタルヤが歌っている。輝かしき最初の思い出だ。
 自分はあの時、笑っていたのだろうか。彼女は無邪気な笑みを浮かべていたように思うが、今ではもう、どんな笑顔だったのか忘れてしまった。
 対価としての記憶が、消費され始めたようだ。路上で歌う子供時代のタルヤは、顔が黒塗りになっていた。
 場面はユーロニに引き取られた後の光景に切り替わる。
 伴奏に合わせてタルヤが歌っているのを、当時十歳の自分が見ている。その裏では、ユーロニの親戚たちが小声で話していた。
 ――『あの街』から連れてきたんですって。
 ――随分と汚い野良犬を拾ってきたものだな。
 ――見て、あの顔を。傷だらけでしょう。どんな環境で育てられたのかしら。
 ――あんな街で育った子供が、我々の音楽を理解できるものか。
 ――さぁ、どうかしら。お手並み拝見といきましょう。
 そんな陰口を叩かれていることは知っていた。だが自分には関係なかった。内なるメロディを形にする方法を教えてくれる師がいたし、共に学ぶ友もいた。それだけで充分だった。
 共に居てくれた二人を誇らしく思う感情が込み上げてくる。その想いをスローパートに組み込み、楽曲の一部にする。
 どんな精神攻撃が来ても、それを楽曲に組み込んで跳ね返す。それがイーサーンの策だった。
 次に見せられたのは、自分が作った曲に関してタルヤと議論する場面。互いに譲らず、喧嘩になっていた。感情的になった自分は、彼女に酷いことを言ってしまった。
 ――恵まれた環境で育った者が俺に意見するな。何も知らないくせに。
 この一言は、今でも後悔している。言葉を浴びせられたタルヤは目に涙を浮かべ、部屋を飛び出していった。
 あの時、彼女はどんな顔をして泣いていたのだったか。二度とあんな顔をさせないよう覚えていたはずなのに、もう思い出せなくなってしまった。
 そういえば、同じように議論を交わしていて、タルヤを大切な人だと言ったことがあった。
 そう言われた時の彼女の表情が、魅力的だったのは覚えている。ただ、どんな顔をしていたかまでは上手く説明できない。この記憶も薄れてきている。
 記念写真を撮った時もそうだ。二人で並んで撮ったのは覚えているが、果たしてタルヤはどんな表情をしていたのだったか。
 彼女との思い出が、少しずつ失われていく。アルバムの写真が、一枚、また一枚と燃えていくように。灰となった記憶は、二度と元に戻らない。あの輝かしい日々が、自分の中で再生されることはもう無いのだ。
 消費されていく記憶。いずれ自分は、タルヤの名も忘れてしまうだろう。そう考えたら、荒涼とした感情が体内を吹き抜けていくのを感じた。まるで極北から来た冷たい風にさらされている気分だ。
 ――これが喪失感か。今、理解した。



 寂寥(せきりょう)とした想いを曲に込めているところへ、新たな場面を見せられた。
 暗闇の中に、現在の姿のタルヤが立っている。
 彼女の周りに、下級天使どもが群がり始めた。四肢の自由を奪われ、助けを求める彼女。しかしイーサーンは何もすることができない。目の前で彼女が、無数の白い昆虫に蹂躙され、呑まれていく。やがて姿は見えなくなり、悲鳴も聞こえなくなった。
 代わりに、こんな問いが聞こえてくる。
 ――なぜ貴方は助けてくれなかったの?
 ――私がこんなにも辛い思いをしていたのに。
 ――貴方は今まで、どこで何をしていたの?
 ――共に歩もうと言っていたくせに。
 ――嘘つき。
 今のはシャグラットが見せた幻影だ。タルヤの声を使ってイーサーンに無力感を突きつけたかったのだろう。
 しかし、これは逆効果だ。
 イーサーンは、腹の底で黒々とした殺意が精製されていくのを感じた。
 ――お前は、触れてはならないところに触れた。
 今日までずっと無力感に苛まれてきた。大切な人を護ると誓っておきながら、自分は下級天使どもを倒すばかりで、彼女に寄り添ってやることができなかったから。自分の手が届かないことは自分が一番よく知っている。それをまざまざと見せつけられたら、込み上げてくるものは怒りしかない。くだらない幻影を見せてくる者への怒りと、不甲斐ない自分への怒りだ。
 加えて、タルヤの声を使われたのが我慢ならなかった。これは侮辱ではないのか。人知れず悲しみに耐え、人々に最高の歌声を届け続けた彼女に対する。
 イーサーンの中で湧き上がった三重の怒りは、敵を滅ぼす原動力として充分だった。
 ――許さない。
 イーサーンはギターの演奏をザモスに任せ、キーボードの鍵盤に十指を叩きつけた。
 燃え上がる炎のような激情を三十二分音符に変え、狂気の速さで曲を演奏していく。
「最高だ!」
 ザモスは歓喜の表情だ。〈神〉を冒涜し、〈悪魔〉を讃える曲だから、気持ちが高揚しているのだろう。益々調子を上げ、イーサーンの即興による演奏についてきている。
 イーサーンは曲の編成を変えた。ここから先は、最早暴走と言ってもいい。
 キーボードでクラシックのフレーズを弾きながら、コートの中から更なる『武器』を召喚する。
 ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス。ティンパニやシンバルも必要だ。他には――
 そうしてイーサーンが完成させたのは、オーケストラだった。命じられるまま、影の演奏者は暴風雨のような楽譜を忠実になぞっていく。
 〈ネオ・クラシカル〉というジャンルがある。これは〈ヘヴィ・メタル〉にクラシック音楽の要素を融合させたものだ。
 しかしイーサーンがやろうとしているのは、それと異なる。
 〈ブラック・メタル〉にクラシック音楽の要素を組み込んだ〈シンフォニック・ブラック・メタル〉だ。暴力的なオーケストラは、イーサーンの感情を飲み込み、荘厳な楽曲を奏でていく。
「やめろ!」
 シャグラットが叫ぶ。
 それを無視して、イーサーンは最後に巨大なものをコートの内側から呼び出した。
 金属製の管が整然と並ぶ、神々の為に作られた人類最大の楽器。
 パイプオルガンだ。
 教会で讃美歌を演奏するのに使われるこれを、〈神〉を穢す楽曲に使ったらどうなるか。とてつもない冒涜であることは間違いない。
 鍵盤を押すと、加圧された空気がパイプに送られる。発せられた音は神秘的な響きを持っていた。
 楽譜にパイプオルガンのパートを加え、イーサーンは精製された殺意をシャグラットにぶつける。
 壮大で、荘厳な、破滅のメロディ。そこへ自身の悲哀や苦悩も組み込んでいく。複雑に絡み合った楽曲は、異常なまでの速度で演奏され、さながら感情の嵐だ。そんな中でも唯一明確なものがある。
 ――お前を、滅ぼす。
 シャグラットへの殺意だ。
 相手は必死で抵抗している。
 楽器が、一つ、また一つと消滅していった。演奏を止めさせるつもりだ。
 滅ぼそうとする意志と、滅ぼされまいとする意志がぶつかり合う。その衝突が原因で、記憶の消費が早まっていくのを感じた。
 走馬灯のように脳裏をよぎる記憶の数々。タルヤと過ごした輝かしい日々が、忘却の彼方へと追いやられていく。自分と彼女の間にあったはずの絆も、間もなく消えていくのだろう。
 願わくば最後に、彼女には伝えておきたかった。
 自分はいつもそばにいる。約束を果たせなくて、すまない――と。
 手元の鍵盤が消える。これが最後の楽器だった。
「……〈歌姫〉は我々のものだ。君には渡さない」
 シャグラットの顔は憔悴していた。反撃にかなりの力を使ったのだろう。
 イーサーンは答えることができなかった。自分の中にはもう、消費できる記憶がほとんど残っていない。シャグラットとまだやり合おうというのなら、あとは何を差し出せばいいのだろうか。
「消えなさい」
 天使長から、ぞっとするような目を向けられた。心臓を鷲掴みにされたような気がして、イーサーンが胸元を強く掴んだ時――
 歌声が聞こえた。


 ――今、苦しみの時に。
 ――主よ、何故? 何故です。
 ――何故このような報いをお与えになるのですか?


 これはジャコモ・プッチーニによるオペラ、〈トスカ〉に出てくる一節だ。主人公の女性歌手が、囚われの恋人を救うため権力者に取引を持ちかけるが、代償として身体を求められ、絶望の中で神に助けを求める場面に出てくる。
 見上げると、〈天界〉の澄んだ空からタルヤが降りてくるところだった。


 ――主よ、あなたは私達と共にいたのではありませんか?
 ――悩める者には手を差し伸べ、病める者には救いをもらたすのではありませんでしたか?


 これは既存のオペラに無い歌詞。タルヤが歌声で、自分の想いを表現しているのだ。ア・カペラながらその歌声は、どんな楽器よりも強く響いていた。


 ――私は芸術に生き、可能な限り人々には手を差し伸べて参りました。
 ――あなたに恥じぬよう生きてきたつもりでした。
 ――なのに何故です?
 ――私の愛する人々には、なぜ手を差し伸べて下さらなかったのですか。
 ――主よ。何故、何故ですか?


 シャグラットの唇がわなないている。
 これまで〈歌姫〉として育ててきたタルヤが、善神に疑念を抱き始めたことに戦慄しているのだ。
 イーサーンはコートの中からピアノを呼び出した。タルヤの歌声に合わせて曲をつけていく。


 ――私には、共に歩むべき人がいました。
 ――なのにあなたは、それを許しませんでした。
 ――私は苦しみ、泣き暮れる日々を過ごしました。
 ――主よ、私はあの人と共に居たかった。
 ――そして、共に歌いたかった!


 タルヤが感情を爆発させた。〈天界〉に彼女の歌声が響き渡り、辺りが目を覆いたくなるほどの眩しさに包まれた。


 ――〈神〉よ、お前は何の為に存在するのだ。
 ――何故、手を差し伸べない?
 ――救いを求めている者は大勢いる。
 ――しかしお前は、罪を数えることしかしない。


 イーサーンはしわがれた声で、そう歌った。タルヤと同調する為に。そして何より、彼女との約束を果たす為に。


 ――試練などという言い訳の裏で、お前はどれだけの人々を見殺しにした。
 ――天罰の名のもとに、どれだけの人々を虐殺した。
 ――お前は怠惰な殺戮者なのか。


 イーサーンの歌声に、タルヤが応えた。


 ――主よ。私はあなたの元を離れます。
 ――裏切りをお許しください。
 ――私には大切な人がいます。
 ――その人と共に歩みたいのです。


 イーサーンの横に、タルヤが降り立った。彼女は木漏れ日のような微笑みを浮かべ、こちらの顔を見ている。


 ――共に歩みましょう。
 ――やっと見つけた、私の大切な人。


 イーサーンはタルヤの目を見ながら、長らく胸の内に留めていた想いを伝えた。


 ――共に歩もう。
 ――いつもそばにいるから。


 手を伸ばし、そっとタルヤの頬に触れる。彼女はその手を愛おしむように、自らの手で包み込む。
 そして二人で声を重ね、こう歌ったのだった。


 ――私達に、もう〈神〉は要らない。


 イーサーンの視界が黄金に染まる。
 意識が途絶えるその間際。最後に見たのは、燦然と輝くタルヤの笑顔だった。






 この一年間は、酷く忙しかったことだろう。
 国立歌劇場が謎の崩壊を遂げて以来、公演の運営陣は世間に説明責任を果たさなければならなかった。しかしメインプロデューサーが失踪し、その他には真相を知る者が誰一人としていない。そんな状況でとられた苦肉の策は、事後補償の為に雇った弁護士に「質問には一切答えられない」と言わせ続けることだった。
 かたや、主役を務めていたソプラノ歌手はというと。
 彼女は一時期、消息を絶っていた。
 マスコミが調べたところによると、彼女は五年前にも謎の爆発事故で家族を亡くしているという。これに加え、彼女と親しかったスタッフからは、彼女の周囲では心霊現象が絶えなかったという証言も出た。それが世間に知れ渡ると、彼女の出資者は次々と手を引き始めた。投資家が不運、不幸の伝染を恐れるのは当然の反応だと言える。こうして運営陣は資金繰りに行き詰まり、解散を余儀なくされたのだった。
 彼女が再び世間に姿を現したのは、国立歌劇場の崩壊事件から半年後。詰め寄る報道陣に対し彼女は、これまで過密気味だった公演日程を見直す必要があった為、人知れず休養していたのだと説明した。
 この説明に一部の人々は「身勝手だ!」と憤ったものだが、それよりも遥かに多くの支持者は彼女に理解を示したのだった。元々、メインプロデューサーによる歌手の酷使には、疑問の声が上がっていたのだという。
 運営陣が解散した後は、彼女の熱心な支持者が集って支援を引き継いだ。それからというもの、彼らと彼女は協同してコンサートを企画してきた。
 その苦労が報われるのは今日。雪がしんしんと降る中でも、中央公会堂は満員御礼だった。
 舞台の上では、淡い水色のドレスを着た彼女が歌っている。公の場で歌うのは昨年末以来だ。しかし一年間のブランクを全く感じさせないほど、彼女の歌声は観客の心を強く惹きつけるのだった。
 一年越しに完全復活を果たした歌姫。彼女の名は確か――タルヤ・ライタネンだったはず。最近ようやく、このソプラノ歌手の名前を覚えたところだ。
 イーサーンは観客席の最後列から、タルヤの独唱を見守っていた。
「ぞっとするような歌声だな」
 隣ではザモスが居心地悪そうにしている。彼女の歌声には〈人間界〉を浄化する作用があるそうだから、悪しき魂を持つ〈悪魔〉にとっては聴くことさえ耐え難い苦痛なのだろう。
 ザモスが嫌悪感を覚えるなら、彼女の歌声は最高の仕上がりということだ。以前、彼女と自分の間には何らかの縁があったのだろうが、それを差し引いても、護る理由としては充分な歌声だった。
 一年前、イーサーンはシャグラットを退けることに成功した。だがそれは、相手が一時的に退却しただけの話であって、奴らがまたタルヤを攫いに来る現状に変わりはない。
 変わったとすれば、自分がタルヤに関する一切の記憶を失ったことぐらいだ。消えた記憶についてザモスは、消費された対価の払い戻しはできないと言い、その内容までは語ろうとしなかった。どこまでも契約に忠実な奴だ。
 ――自分が選択したことだ。今更嘆いても仕方ない。
 再び舞台上に意識を戻すと、タルヤの歌唱がフィナーレを迎えたところだった。
 観客は総立ちになり、惜しみない拍手を送る。
 タルヤは両手を広げ、観客の喝采に応えようとしていた。
 ――いい笑顔だ。
 イーサーンは思った。彼女が笑うと、何故か雪解けの季節を迎えたような気分になる。以前の自分は、彼女の虜(とりこ)になっていたのかもしれない。
 その時ふと、タルヤがこちらを見た気がした。彼女は頬を紅潮させ、はにかみと達成感が入り混じったような表情になる。しばしの間、イーサーンは自分の姿が彼女には見えていないことを忘れていた。
 ――まさか、な。
 鳴り止まない拍手。イーサーンは未練を断ち切るように、舞台に背を向けた。両開きの扉を開け、メインホールを後にする。
「さ、今日の仕事だぜ」
 ザモスが話しかけてきた。
「解ってる」
 コートの両袖から、使い込まれて傷だらけになった拳銃が滑り落ちてくる。それを両手に一丁ずつ携え、イーサーンは空を睨んだ。
 見えるのは降りしきる雪――ではなく。
 下級天使の群れだ。
「行くぞ」
 ザモスに命じる。
「へいへい。契約だから仕方ねぇわな」
 白い顔の〈悪魔〉は、まんざらでもない様子で答えた。
 イーサーンは、変わらぬ誓いを胸に抱き、敵の方へと駆け出した。
 自分が何の為に戦うのか、今ではもう解らない。以前の自分がそうしていたから、これからも続けていくだけだ。
 惰性、とは違う。これは己に課した義務と言っていい。
 護るべき者の記憶を失い、理由も解らないまま戦い続けること。これを『報われない(アンリウォーディド)』などと評価する者もいるだろう。
 だが、それでも構わない。
 彼女の守護者であり続けることが、自分の誇りなのだから。



[了]
庵(いおり)

2021年12月31日 21時53分15秒 公開
■この作品の著作権は 庵(いおり) さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー
 闇に堕ちても尚、護りたいものがある。

◆作者コメント
 中二病の心を忘れないまま、大人になった男たちへ――

 企画運営の皆様、いつもありがとうございます。
 今回は執筆が難航し、参加が危ぶまれていましたが、なんとか作品を投稿することができました。
 本作は成人男性向けのアクション作品となっています。
 戦闘シーンが好きな方にはお勧めです。

◆推奨BGM
※1 激しい曲が苦手な方はご遠慮ください。
※2【曲名/アーティスト名/アルバムのタイトル】
【Alsvartr(The Oath)/EMPEROR/Anthems To The Welkin At Dusk】
【Ye Entrancemperium/EMPEROR/Anthems To The Welkin At Dusk】
【The Loss and Curse of Reverence/EMPEROR/Anthems To The Welkin At Dusk】
【Doleful Night In Thelema/Anorexia Nervosa/Drudenhaus】
【Enter The Church Of Fornication/Anorexia Nervosa/Drudenhaus】
【Mother Anorexia/Anorexia Nervosa/New Obscurantis Order】
【Stargazers/Nightwish/Oceanborn】
【She Is My Sin/Nightwish/Wishmaster】
【Over The Hills And Far Away/Nightwish/Over The Hills And Far Away】

2022年01月15日 21時37分06秒
+30点
Re: 2022年01月23日 21時25分20秒
2022年01月15日 20時26分53秒
+50点
Re: 2022年01月23日 21時23分34秒
2022年01月15日 16時40分29秒
+30点
Re: 2022年01月23日 15時13分28秒
2022年01月13日 20時42分08秒
+30点
Re: 2022年01月23日 15時09分58秒
2022年01月12日 04時12分26秒
+20点
Re: 2022年01月23日 15時08分58秒
2022年01月08日 16時08分11秒
+10点
Re: 2022年01月19日 15時16分32秒
2022年01月07日 23時39分18秒
+20点
Re: 2022年01月19日 15時13分59秒
2022年01月01日 02時46分41秒
0点
Re: 2022年01月19日 15時12分11秒
合計 8人 190点

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