コレクター |
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※残酷描写あり。 〇 ネットの世界には、様々な伝説が存在する。 ズルの出来ない編集で、100メートルを9秒台で走る女性スプリンターの動画だとか。 同じく不正なしで、50メートルを19秒台で泳ぐスイマーの動画とか。 オークションに出せば実物は数億になる見事な油絵を描き、掲載し続ける芸術家とか。 水も食事も睡眠もとらず、身じろぎせず、岩の上で十日間祈祷を続ける聖女の動画とか。 泣き叫ぶ人間を奇怪な拷問の末殺害する配信を不定期に行う、殺人鬼の美少女だとか。 彼ら彼女らは、この世のどこかには確実に存在している。しかし決して表舞台に出て来ることはない。それどころか、彼らが何者でどんな生活を営んでいるのかすら、誰にも分からないのだ。 彼ら彼女らの正体を暴こうとする者は、もちろん後を絶たない。中には、行方不明になったオリンピック選手との外見的な相似を指摘する者や、過去に警察がギリギリで逮捕しそこなった殺人犯だと噂する者もいる。様々な推測が錯綜する中で、有力とされる仮説もいくつか存在してはいるものの、実際に本人に接触出来た者はただの一人もいない。 彼らは今どこにいて、どうしているのか? どうしてそんな動画や画像だけが、不定期にネットで掲載され続けているのか? その答えを知る者は、この世のどこにもいない。 〇 目を覚ますと、むき出しのコンクリートの低い天井が目に入った。 知らない場所だ。 緩慢に身を起こして、俺は辺りを見回す。 三方を冷たいコンクリートで覆われていて、残る一方に錆びた鉄格子が聳えているという、四角形の小さな部屋だ。誰がどう見ても牢獄を連想する空間だったが、一つ気になるのは、鉄格子の向こうから三脚に設置されたカメラがこちらを覗いていることだった。 「起きたかしら?」 声のする方を振り返る。ハイティーンくらいの少女が一人、部屋の隅で壁に寄り掛かりながら、床で身を起こす俺を見下ろしていた。 「ここは……?」 「それは言えないし、わたしにも分からない。そういうあなたはどこから来たの?」 「散歩している途中でいきなり何人かに襲われて、車で拉致されて、変な薬で眠らされて、気が付いたら……。あんたは誰だ?」 「あら? 見て分からないかしら?」 そういうと、少女は俺の前に立って、全身を見せるようにくるりと一回転して見せた。 そう言われると確かに見覚えのある風体をしている。そしてその既視感は、黒いロングヘアに白い肌に清潔そうなセーラー服という、ステレオタイプなスタイルには起因しない。垂れ目がちの大きな瞳も、高く尖った鼻筋も、薄い桜色の唇も、女にしては長身で、痩躯でおそらく貧乳の肉体も、俺は過去にはっきりと見たことがある。 実物を直接……ではない。 ネットで見かけたある動画でだ。 「その顔は思い出した顔ね」 そう言って、ネット上で有名な殺人ムービーに登場する殺人鬼の少女は、天使のような微笑みを浮かべる。 「あなたはわたしのエサとして、ここに連れて来られたの。これからあなたを殺害するムービーを撮ります。わたしの過去の作品を見たことはあるかしら? あなたはそれの出演者になるのよ」 月に数本、不定期にネットに掲載されるスナッフムービーのシリーズがある。『地獄坂ヤミ子』というダサい名前を名乗る美少女が、奇々怪々な拷問で犠牲者をいたぶった後、惨たらしく殺害するという物だ。 当然そんな動画は掲載された途端に削除される。しかし一部のマニアによってその動画はただちに保存・拡散され、俺のようなにわか視聴者に届けられる。だから俺もこの少女……地獄坂ヤミ子を動画で見たことがあった。 まさか自分が被害者になるとは。しかしパニックに陥る暇もなく、地獄坂ヤミ子は俺に向かってナイフを振りかざして来る。 間一髪で躱す。そして、その狭い牢屋のどこにも目に見える出口がないことを確認すると、俺は逃亡を諦めてヤミ子に殴りかかった。 逃げられないなら戦って抵抗をしようと考えたのだ。雄たけびを上げ、拳を振るう。 「うおおおっ!」 しかし相手は華奢な女と言えども殺人鬼。俺の渾身のパンチは、手首を捕まえられるという形であっさり防御される。そして、その細腕からは考えられない腕力で、俺はあっけなく床に押し倒された。 ヤミ子は仰向けになった俺の体に尻を乗せ、マウントポジションを取った。尚も暴れる俺に、ヤミ子はナイフを向けながら困った表情を浮かべる。 「あんまり暴れないで欲しいわね。わたし結構強いから、抵抗しても無駄だと思うわ。もちろん、だからって抵抗をやめられないあなたの立場は分かるのだけれど」 そう言ってヤミ子はナイフを持っていない左手で俺の首を捕まえ、頭ごと床にたたきつける。 火花が飛ぶような感覚。 どんなに身を起こそうとしても、ヤミ子の力は強すぎてどうにもならない。両手をどれだけ振り回したところでヤミ子に届くことはなく、やがて俺は悟った。こいつには絶対に勝てないし、逆らっても無駄なのだと。 「どうやって俺を殺すつもりなんだ?」 力なく、俺はヤミ子にそう尋ねた。 ヤミ子は目をぱちくりとさせてから、腕を組んで悩まし気な声で答えた。 「実はあんまり考えていないのよね」 「殺されるのは構わない。抵抗もしない。だが生きたまま拷問染みた真似をされるのはごめんだ。後で死体をどんな風にしても良いから、せめて楽に殺してくれ。お願いだ」 「殺されるのはかまわない……?」 ヤミ子はそう言って小首を傾げる。 「本当に死を受け入れたの? イジメる前からそんなことを言い出す子は初めてだわ。怖くないの?」 「どうせこんな人生続けたってしょうがないんだよ! あんたみたいな綺麗な子に殺されるんならいっそ本望だ。頼むよ! 静かにあの世に行かせてくれ」 「綺麗な子……」 ヤミ子は頬に手を当て、恍惚そうな表情を浮かべた。 「……あなた、本当にわたしのこと綺麗だと思う?」 「綺麗だよ! ネットのスナッフムービーで何度か見た時から、可愛いなって思ってた」 そういうと、ヤミ子は目をきらきらと輝かせながら両手を頬に当てた。 「容姿を褒められたのなんて生まれて初めてだわ。ありがとう。本当に嬉しい」 「だったら、その嬉しい気持ちに免じて俺のことを楽に……」 「嬉しいからいっぱい時間をかけて殺しちゃう。その分長く苦しむことになるけど、可愛いわたしに殺されるなら良いわよね?」 そんな訳あるか! 絶句する俺の服を、ヤミ子はナイフを用いて脱がしにかかる。 「裸にして爪先から少しずつ輪切りにしてあげるわ。そして輪切りにした肉はあなたが自分で食べていくのよ。そうやって両手足をすべて食べ終えることが出来たら、後は楽に殺してあげるわ。もちろん途中で出血死しないように、一回ずつ焼いて止血してあげるから安心してね」 「本当に勘弁してくれ! 頼む! やめてくれ!」 「裸にされるのが恥ずかしいの? もしかして、おちんちんに自信がないとか?」 「確かに俺は包茎だけれど、そういう問題じゃない!」 「大丈夫よ心配しないで。包茎でも短小でもわたしは気にしないわ。ちゃんと自分に自信を持って。わたし見たいなあ、あなたのおちんちん」 「ちくしょうっ。こんな状況でもなけかったら、是が非でも美人に言われたい台詞だっていうのにっ」 神業染みた手つきで、ナイフ一本で俺の服だけを切り刻んで裸にしていくヤミ子。そしてその作業によって俺の股間が白日の元にさらされそうになった、その寸前 「待つのです!」 牢屋の外から張り上げるような声が聞こえた。 車椅子に乗った金髪ツインのローティーンが、鉄格子の向こうからこちらを睨んでいた。 その少女は彫の深い顔立ちと青い目を持っていた。元々の人種が日本人とは異なるようでさえあり、健康的でいて白い肌は人形のようだ。ヤミ子に負けず劣らずの美少女だったが、目を引くのはその容姿の美しさだけではない。 車椅子に腰掛けたその少女のスカートからは、一本の脚も生えていなかった。つまり下半身を何らかの理由で失っている。 「その人を殺してはいけません」 と金髪ツイン。 「透子ちゃん? どうしてなの?」 とヤミ子。 「実は手違いがあったのです」 「手違い?」 「そうです。その人はエサではなく、あなたと同じ私のコレクション……この島の住人なのです。それがどういう手違いかエサとしてこの『闇の館』に運ばれてしまったようで……」 そういうと、透子と呼ばれた少女は俺の方に向けて、深く頭を下げる。 「危ない思いをさせて申し訳ありませんでした。風早雄太さんですよね? テレビゲームのR(リアル)T(タイム)A(アタック)で数多くの記録を保持する、ハンドルネーム『ゆーた』とは、あなたのことですよね?」 震えながら俺が頷くと、透子と呼ばれたは頭を上げて微笑みを浮かべた。 「私は藤堂透子と申します。今日からあなたには、この島で他の方と同じように生活していただこうと考えています。衣食住に何ら不自由はさせませんし、もちろんヤミ子さんに殺されることはありません」 「この島で生活って……どういうことだ?」 「あなたは私のコレクションになります」 藤堂は言う。 「全国各地から才能のある人間を収集し、コレクションとしてこの島で生活させ、自分の才能をじっくりと磨いてもらう。そしてその成果をネット上に動画という形でアップロードして、賞賛を受けることが私の趣味であり、ライフワークなのです。そしてあなたはめでたくもそのコレクションの一人として選ばれたのです!」 俺がぽかんとしていると、ヤミ子が俺の上からそっと離れた。そしてナイフを捨てると、俺の身体を優しく抱き起こし、そして片手を差し出した。 「どうやらこれからあなたと一緒に住むみたい。これからよろしくね、雄太くん」 胸を撃ち抜くような可憐な微笑み。骨が浮き上がる程細長いヤミ子の五本の指をじっと眺めて、俺は引きつった表情を浮かべながらも、とりあえずその手を掴むことにした。 何が何だか分からない時は、とりあえず流されておくよりどうしようもない。 〇 俺の人生は最悪だった。何よりも、そんな人生を送ってしまう、自分自身が最悪だった。 俺はいわゆる引きこもりという奴で、中学三年生の時から十九歳の今に至るまで、びた一日も登校も就労もしていない。 やることと言えば、少ない小遣いで手に入れた格安の中古ゲームソフトを、ひたすら周回することだけ。 まともに学校に通っていたころからゲームは好きだった。世界で一番好きだった。どれだけ勉強しても半分も解けない定期テストや、どれだけ愛想良く振舞っても話し相手一人作れない人間関係等と違って、ゲームが俺の努力を裏切ったことは一度もないからだ。 ゲームというのは、経験値を稼げば稼いだだけ必ずレベルが上がり、反復練習をすれば反復練習するだけプレイが上手くなる。どんな強い敵でもいつか必ず倒せるようになる。時には不運や理不尽が俺を襲うこともあるけれど、それでもゲームは決して俺のことを急かしたり見放したりせず、クリアされるのをじっと待っていてくれる。そんなところが大好きだった。 俺がゲーマーとして異質だったのは、一つのゲームソフトを何千時間でも何万時間でも、たった一人でやり続けていられるところだろう。一緒に遊ぶ相手を必要としなければ、競い合う相手も必要としない。ただそのゲームそれ自体を深く愛し抜いた。世界中の誰よりもそのソフトをプレイし続け、身に付けた技術を反復することに耽溺した。 そんなんだったから俺は友達を必要としなかった。一緒にゲームをやったところで一人でやるより楽しい訳でもないし、むしろ邪魔だった。 ゲーム以外のすべての物事は煩わしく、ゲームをやっている以外の時間は苦痛に満ちていた。俺にとって学校など他の時間はゲームをやれる時間までの苦渋の忍耐に過ぎない。やる気もなければ覇気もなく、何の希望も持たず、何一つ前向きな感情を表現しなかった。 何を前にしても何を言われても沈黙し、ただ時間が過ぎるのを待つだけの、そんな学生生活が続いた。 俺は教師や学友たちから嫌われ、相手にされなくなった。何せ俺は彼らに対して何ら前向きな期待を抱かず、彼らのあらゆる言動に対して興味を抱かなかったのだから、嫌われることは明らかだった。 やがて俺はいじめにあうようになった。何をしても前向きな反応を返さない奴なのだから、せめて嫌がらせをして別の反応を引き出そうという訳だ。学校に行くと机の中身が教室中にぶちまけられていたり、トイレに行くと頭から水をぶっかけられたり、体育館裏に引っ張り込まれてボコボコにされたりした。 やがて俺は学校に行けなくなり、引きこもるようになった。 将来への不安はあった。だが何をやっても最底辺ラインの能力しか発揮できない俺にとって、学校に通おうと通うまいと将来の見通しが立たないことに変わりはない。ならば一日中ゲームをしてられる今の状況に耽溺した方が良いに決まっている。 RTAという文化に出会ったのはそれからだった。リアル・タイム・アタックという名が示すように、一本のゲームソフトを初めからクリアまで、現実時間でどれだけかかるかを競い合うという競技だった。 大好きなゲームの遊び方として、それはものすごく魅力的に感じられた。努力した分だけ必ず達成があるのがゲームなら、それがクリアタイムという明確な数字に表れるRTAという文化は、ゲームの究極の遊び方の一つに思えた。 俺はRTAに耽溺した。無機質なタイマーの表示が、自分の努力を証明してくれるのが嬉しかった。やがてお気に入りのソフトの世界記録を大幅に塗り替え、それを動画にしてアップロードした際、『ゆーた』の名前はRTA界隈に轟いた。 そこまでの反応があるとはとうてい予想できなかった。ただ、記録を出したのだからそれはアップロードするものだという、義務感のようなものがあっただけなのだ。しかし俺のアップロードした動画には無数のコメントが付けられ、多くのまとめサイトに掲載された。俺はパニックに陥ったが、同時に、得も言われぬ快感と誇りを覚えた。 そう、その時初めて、俺は人に褒められるという喜びを知ったのだ。それは気絶する程甘美な味わいだった。 何度でもそれを味わいたくて……俺は所持しているあらゆるゲームソフトの世界記録を塗り替え、動画をアップロードしていった。 俺にとってそれは簡単なことだった。誰よりもそのゲームソフトに時間を掛ければ良い。努力は必ず証明され、評価される。得られる名声。賞賛。胸の奥に広がっていく、のたうつ様な快感……。 やがて『ゆーた』はRTA界隈に一際輝くカリスマとして君臨していた。俺は嬉しかった。そして誇らしかった。夢中になってRTAに熱中し、やがて歳をとり十九歳の誕生日を超えたある日……。 母子家庭にあった母親が病に倒れた。 働き過ぎと心労によって、体を壊したのだった。どちらの原因にも俺という引きこもりの息子が関わることは明らかだった。パートタイマーで息子を養う苦労も、そうまでして育てた我が子が引きこもり続けていることも、母の心身を深く追い込んでいるに違いなかったのだ。 親戚が家にやって来て、俺にいい加減に働くように迫った。 それでも俺は引きこもり続けた。今更外に出てどうすれば良いかなんて分からなかったし、何より俺にはRTAをするという使命があった。クリアタイムを一秒でも短くするための数多くの創意工夫が、アタマの中で絶えず飛び交っていて、俺はいつだってそれに急き立てられていたのだ。 しかし不安は付きまとう。 時々様子を見に来る親類は、母のようには俺を甘やかしてはくれない。最低限度の面倒は見てくれていたが、それも三か月間という期限を設けられており、過ぎれば家を出て行かなければならないことになっていた。 そんな中でも俺はRTAにいそしみ続けていたが、やがて一か月、二か月が過ぎる中で、ある考えが俺の中で静かに産声を上げ始めるようになった。 もうおしまいにするべきなのかもしれない、と。 自由にゲームが出来なくなるのなら、生きていてもしょうがないのかもしれない、と。 俺はゲームが好きだった。ゲーム以外のすべては嫌いだったし苦痛だったし憎んでいた。それから目を背ける為なら未来なんてどれだけ失っても良いと考えていた。 実際にゲーム以外のすべてから目を背け、対価として未来の希望を失い、そして希望を失った悲惨で絶望的な未来が今目の前にある。それだけのことだ。後はただ暗闇の中に飛び込むだけなのだ。何らおかしなことではない。 俺はふとコントローラーを置いて、家を出た。そして、どこへともなく歩き始める。 死ぬのかどうかは分からなかったが、現実と向き合う気はどうしても起こらなかった。そんな宙ぶらりんの状態で何時間か歩き回っていたその時……。 一台の車が俺の前に止まり、俺は例の監獄のような部屋へと拉致された。 〇 その島は住人達には単に『島』とだけ呼ばれていた。持ち主である藤堂透子だけは『コレクション・アイランド』と呼んでいるらしいが、その呼称が使われることは稀であり、またその島の本来の名前は誰も知らなかった。 「ここは私の大好きな人達だけが住んでいる夢の島です。この島では一人一人が自分の好きなことだけをやって暮らし、その技術を思う存分研鑽することが出来るのです」 とは、島の主である藤堂透子の主張。 彼女は藤堂グループという巨大ベンチャー企業の一人娘であり、両親から甘やかされるあまり莫大な金と多数の召使いを自由に動かすことが出来た。島一つ所有して、召使いに人攫いをさせて、攫って来た人々の為にその才能を磨かせる為の最適な設備を用意することが出来た。 藤堂は俺に以下のように説明をする。 「この島には五つの館があり、六人の住人が住むことができます。この六人の中に、この度あなたが加わった訳です。 五つの館とは、地の館、水の館、火の館、風の館、そして光と闇の館を指します。最後に言った光と闇の館を中心に、地の館はそこから南に、水の館は西に、風の館は東に、火の館は北に、それぞれ位置しています。 光と闇の館には私のコレクションである二人の人間が、その他の館にも一人ずつの人間が住んでいます。どの館にもそれぞれの住人が思う存分その才能を磨く為の設備が充実していて、それはもちろん、あなたが住むことになる『風の館』も同じです。 あなたは今日からその『風の館』に住み、毎日ゲームのRTAに励んでもらいます。私は時々島にやって来て、その様子を眺めたり、撮影した動画を受け取って、アップロードさせていただくとう訳です。 もちろん、衣食住のお世話もさせていただくのでご安心を。ただし才能を磨くことを怠ったり、他の住人の努力を妨害したり、その他ルールを破る行いには厳しく対応させていただきますので、ご注意ください」 人間コレクションというか、人間ペットのような扱いだった。 俺はこのお嬢様に所有・飼育され、ゲームのRTAという『芸』を要求される。しかしその要求を叶えている限りは衣食住の保証がなされ、何よりゲーム以外の嫌なことを何一つする必要がない。 「そうよ。住めば都っていう感じでね、その内楽しくやれるようになると思うわ」 そう言ったのは、光と闇の館に住まう、藤堂のコレクションの一人であるところの『猟奇殺人鬼』、地獄坂ヤミ子だった。 「中学生の頃住んでいた町で、趣味で何人か人を殺していたんだけれどね。それがバレて警察に捕まりそうになったところを、透子ちゃんに助けてもらったの。それっきり、島に時々『エサ』となる被害者を運んできてもらいながら、自由に殺人をして気ままに暮らしているわ」 ちなみに地獄坂ヤミ子というのはもちろん本名ではなく、戸籍上の名前は『黒羽根美紀』というらしい。普通の名前だ。だが本人は地獄坂ヤミ子を気に入っているので、そう呼んで欲しいとのこと。 「外で人を殺していた時に、ネットの人が付けてくれた名前なの。可愛くて良いと思わない?」 誇らしげな口調でそう言うヤミ子に、俺は曖昧に頷いておくしかなかった。 島から出る事や出ようとすることは厳重に禁止されており、強力なペナルティの対象となる。ようは俺は人攫いにあって島に監禁されたという状態だったし、そのことに対する恐怖も衝撃も不安もあったが、それにかずらう前に俺はこう考えた。 とりあえず、風の館とやらに行って、どんなゲームがあるかを確認しよう。 この先のことはゲームをやりながら考えるか、忘れてしまおう。 そうだ。俺は悟っている。ここでの暮らしは、母親に養われながら引きこもってゲームをしていたこれまでの日々と、殊更変わることがないのだと。 だから多分、何の問題もないのだ。 いや問題だらけなのだけれど、でもその問題は放置しても構わない類のものなのだ。 いやいやそれも違う。放置しているとまずのだけれど、これまで放置して来た問題と、本質的には何も変わらない物なのだ。 多分。 ○ ゲームは充実していた。俺がこれまでに打ち込んで来たゲームソフトは全てあったし、また興味のあったものもそうでないものも合わせて、あらゆるゲームソフト・ゲームハードが広大な棚に収容されていた。 『風の館』は地上三階、10LLDDKという目もくらむ程の大空間で、六畳の自室しか知らない俺にはハッキリ言って持て余す広さだった。 一階には壁一面の大スクリーンを要するゲームルームと、普通の大きさのテレビのあるゲームルームが一つずつある。寝室も広く大きく、キッチンも立派で使い勝手が良さそうであり、冷蔵庫にはどこで調べたのか俺が愛飲しているエナジードリンクが詰まっていた。 基本的に、島には『コレクション』である俺達以外に人はいない。週に二回連絡船と共に藤堂とその部下達が訪れて帰って行く以外、他人の出入りもない。 その為家事は自分でしなければならないが、連絡船がやって来るタイミングで藤堂の部下に頼めば、代行してもらうことも可能である。食料他、欲しい物や生活用品などがあれば、それぞれの館に備えられたタブレットからいくらでも申請可能。連絡船が来る日にまとめて受け取れる仕組みだ。 タブレットは屋敷のすべての部屋に設置されており、島の外にいる藤堂と連絡を取れる他、屋敷間或いは部屋ごとの連絡および施錠も司っている。ネットにも繋ぐことはできるが、SOSを呼ばれないよう閲覧専用となっている。こちらから何か書き込もうとしたりアップロードしようとしたりしたら、エラーが発生するという仕組みだ。 そんな大豪邸で一晩を過ごし、翌朝、早速潤沢なゲームソフトを堪能していたところ、部屋のタブレットがチャイム音を鳴らす。玄関のカメラの映像が、そこには表示されていた。 「おはよう雄太くん。起きてるかしら?」 黒羽根美紀こと地獄坂ヤミ子が、タブレット越しに玄関から話しかけて来た。昨日と同じセーラー服に、アタマに麦わら帽子を被って立っている。 「……起きてるよ」 俺がモニターに向かって言うと、ヤミ子は 「そう。良かった。急に訪ねて来てごめんね」 と言って両手を合わせた。どうやらモニターに話した声が、玄関のスピーカーに伝わるらしい。 「良いけど、何の用?」 「あなたこの島に来たばかりでしょう? 色々案内してあげようと思って。実はね、この島の住人の中では私が一番歴が長いのよ。センパイなのよ?」 良いからゲームをさせてくれ、と突っぱねようと思ったが、目の前の相手が殺人鬼であることなどを考慮してやめた。『エサ』以外の人間を殺さないという考えは楽観的かもしれず、そもそも昨日の一件で俺はこの女に逆らう気力を大方失っていた。 俺は簡単な身支度を終えると、玄関に向かう。 ヤミ子は無邪気な笑みで「じゃ、行きましょうか」と俺の手を取った。 女と手を繋ぐなんて体験自体、生まれて初めてと言って良い。その手は柔らかくすべらかで、相手が危険な殺人鬼だということを忘れてドギマギしてしまったほどだ。 外は灼熱の暑さだった。まだ五月のはずなのに、真夏並みの暑さと、肌を刺し貫くような強烈な日差しを肌に感じる。気温としては体感で三十度を大きく上回る。異常な気象だ。 もしかしなくても、ここは日本ではない。 俺はヤミ子に尋ねる。 「やたら暑いけど、ここはいったいどこなんだ?」 「漂流物とかのお陰でわたしはだいたい検討は付いているけど、言ったら透子ちゃんに怒られそうね。一つ言えるのは、ここが常夏の島だということ。一応四季らしき物はあるけれど、どの季節も内地より遥かに暖かい。何にせよ、すごく良い場所よ」 そんなヤミ子の発言を裏付けるかの如く、風の館の傍には鮮やかな海岸が広がっていた。 透き通るような海が水平線の彼方まで続いている。俺の知る日本の海では考えられないことに、その海には遠目にも散らばるサンゴの欠片がくっきりと見える。 島には五つの館と、火の館の傍にあるという船着き場を除いては建物がなく、ただのどかな自然だけが広がっていた。漂う潮風の匂いも日本の汚れた海のそれとは異なりひたすら清涼で、生い茂る木々も妙に背が高く南国風だ。 「気を付けて欲しい箇所が一つあるのよ」 ヤミ子がそう言って俺に向けて指を一本立てた。 「水の館のさらに西にある大きな森ね。この島の東半分には五つの館と砂浜があるけれど、西半分は森になっているの。迷い込んだら命に関わるから絶対に入っちゃいけない。前に一度迷い込んだ人がいて、捜索の為に透子ちゃんの召使いがたくさんやって来て大変だったのよ」 そのように島の全容を大まかに説明するヤミ子に耳を傾けていると、やがて一つの館が見えて来た。 「ここが『地の館』。透子ちゃんのコレクションの一人である、元高校生スプリンターの子が住んでいるわ。挨拶に行きましょう」 〇 スプリンターと聞いて、俺は一つの可能性に思い当たっていた。 ネットの動画投稿サイトにアップロードされたある動画。『百メートルを九秒台で走る女性スプリンターの動画』。そんなものが存在して良いはずがないので数多くの視聴者が不正や編集を疑ったが、どこを探してもズルをする余地などなく半ば伝説となっている。 その動画で大きな運動場を駆け抜けていたスプリンターの少女の姿を、俺ははっきりと記憶している。一説には、過去に失踪したオリンピックの候補生だった日本の女子高生だと噂されるその彼女が、ひょっとしたらそこには住んでいるのかもしれない。 その通りだった。地の館の前にある大きな運動場で、一心不乱に走り回っているその姿は、まさしく動画で見たあの少女そのものだった。 「葉月ちゃーん!」 ヤミ子がそう言って、少女に向けて大きく手を振った。 「おーい! 葉月ちゃーん! 新しい子が来たよー! 返事してー!」 葉月と呼ばれた少女は振り返ることもせず、ただひたすらにコースを走り回っていた。スタート地点で構えを取って走り出すと、設置されている大きなタイマーが自動で動き出し、ゴール地点に辿り着くと自動で止まる。 目にも止まらぬ速さで走り終えた葉月がゴールラインを超えると、表示されるタイムは『9秒88』。もちろん、女子陸上における百メートル走の世界記録を大きく上回る。 「葉月ちゃーん。もー。返事してよー!」 少女はヤミ子を無視して再びコースに入っていく。その姿に、俺は自分に似たものを感じて、とりなすようにヤミ子にこう声をかけた。 「集中したいんだよ。そっとしといてやったらどうだ?」 俺もゲームをしているときは、どんなに大事な用で話しかけられたとしても、絶対に無視をすると決めていた。それと同じなのではないか? 「……それは分かるんだけどね。あの子、いつだってああやってコースを走ってるから」 「そうなのか。タイムを計っているのか?」 「タイムを測っちゃ走り、測っちゃ走り。あのタイマー、自動で時間を測るだけじゃなくて、記録までしてくれるらしいわ。何時何分に何秒で走ったか、後から全部分かるらしいの」 「そんなことしてて、疲れてタイムが落ちたりしないのか?」 「そしたら普通に休むみたい。その時まで待てば他の人は相手してもらえるんだけれど、でも私の時だけ何故かいっつも無視してくるのよ。嫌われているのかしら……」 「嫌われるようなことしたのか?」 「分かんない。でもわたし、人殺しだから。それが原因かも」 そう言って指先同士をこすり合わせるヤミ子。 「一応、紹介しておくわね。あの子は百地葉月ちゃん。歳はわたしより二学年下で、十七歳。去年のオリンピックの候補だったそうなんだけど、ドーピングがどうとかの問題でスキャンダルになりかけて、そこを透子ちゃんに拾われたの。ここに来てからの時間は雄太君の次に浅いわね」 「なるほどなあ。ところで、十七歳のあの子の二学年上ってことは、ヤミ子さんは今十九歳?」 「今は十八歳よ。ここに来てからカレンダーの感覚があいまいだけど、でもわたし誕生日が二月だから、流石にまだね。とは言え、捕まったら死刑になります。雄太くんは?」 「ヤミ子さんと同学年。ただ、俺はもう十九歳になってるよ」 「そう。だったら呼び捨てでも良いわよ。それか、『ちゃん』付けなんてどう?」 「うーん……。いや、呼び捨てで」 そんなやり取りの後、『地の館』の前を去ろうとした、その時だった。 猛烈な勢いで足音が近づいて来た。何だろうと思って振り返ると、館の主である高速スプリンターが、矢のような速さでこちらに向かって来ている。 びっくりして立ち止まると、葉月は俺の目の前で急停止してこちらを向いた。そしてどことなく淡々とした、子供が舌ったらずに読み上げる原稿のような声で 「あなた、新しい人? 名前は?」 と尋ねて来た。 「か、風早雄太」 「そう。あたしは百地葉月。スプリンター。よろしく」 百地葉月(ももちはづき)の背はあまり高くなく、実はヤミ子より背の低い百七十センチ足らずの俺よりも、さらに十センチ以上低く見える。髪は日焼けしたショートカットで、全身は健康的な小麦色で、整っているがどこか無表情で眠たげな顔をしていた。ユニフォームから伸びる四肢には鮮やかな筋肉の隆起が見て取れるほか、全身から余分な脂肪は一切感じない。まさにスプリンターの肉体美を体現していると言って良かった。 「誰よりも速くなりたいと思ってる。その為なら、何でもやる。あなたはどんな人?」 「ゲーマーだよ。RTAっていう、ゲームを早くクリアする競技で有名になったのを気に入られて、攫われて来たんだ」 「……そう」 そういうと、百地は真っすぐ俺の方を見ながら、問いかけるでもなく、やはり淡々とした口調で 「ここは良いところだよ」 と言った。 「だって、ただ速くなれば良いんだもん。その為にはクスリ使ったって人を殺したって関係ない。あたしね、物事を競い合う時に手段を問われるのってばかだと思ってるの。もちろん悪いことは悪いことだけれど、それと計測された記録とは無関係じゃない? 悪いことして出した記録が無効だなんておかしいと思うの。悪いことへの処罰は受けたとしても、でも計測された記録は記録で、それは神聖なもの。そうだよね? そう思わない?」 その問いに対し、俺はRTAで培った持論で返そうと口を開きかけた。しかし百地は答えを聞きたかった訳ではないらしく、やはり淡々とした口調で、やや早口に 「そういう当たり前のことが分からないバカ達に、あたしは前にいじめられそうになったんだよね。あたしが誰よりも一番早く走れるのにそれを認めようともしないでさ。酷いと思わない? 酷いと思ったけどどうすることも出来なくてさ。毎日泣いて暮らしていた時に、ここの藤堂さんに助けてもらった。以来、ずっとタイムを縮める為の暮らしをしてるの。あと、」 そう言うと、最後にヤミ子の方をちらりと見て、捨て台詞のように 「その女とは一人で会わない方が良い。じゃあ」 そう言い残して背を向けて走り去っていった。 意味深なそのセリフに、俺が思わずヤミ子の方を見ると、ヤミ子は物憂げな顔で 「いっつもああなのよ。言いたいことを一方的に言っておしまい。ここの子って、コミュニケーション能力に乏しい子が多くて、困るのよね」 などと言って小首を傾げていた。 〇 「次は、光と闇の館に行きましょう」 ヤミ子がそう提案するので、俺は意外に思ってこう問うた。 「二つ目でいきなり真ん中に行くのか? 外周にある四つの館を回り終えてから中央に行った方が、ヤミ子も効率よく帰宅できるんじゃ……」 「それは雄太くんの言う通りね。でも大丈夫。実はね、水の館と火の館には今日、案内するつもりがないの」 「それはどうして?」 「その二つは今空いてるの。住んでいる人がいないのね」 「え? そうなのか?」 「水の館の水島河太郎(みずしまかわたろう)さんって競泳選手の人が、火の館の不知火文也(しらぬいふみや)くんって芸術家の子がいたんだけれど、どちらもここ数日の間に亡くなってしまっていて……」 「なんで死んだんだ?」 「水の館に住んでた水島河太郎さんっていう二十歳の人は、50メートル自由形で世界記録を破ったすごい人だったんだけれど。……でも下手に泳ぎが達者だったものだから、この島を抜け出す為に泳いで海を渡ろうとしちゃったのよね。それで何日かしてどざえもんになって発見されて……」 「……それは気の毒だな。でも、そんな立派な競泳選手の人が、溺れ死ぬような目に合うもんなのかな? ある程度泳いで無理だと悟ったら、引き返して来そうな気がする」 「……良く言えば豪放磊落で、悪く言えば物事を良く考えない人でね。陸まで泳ぐと一度決めたら、多分体力が尽きるまで無茶をしちゃうタイプだわ。だから陸まで泳ぐって言い出した時、わたしすっごく心配で、全力で止めたのよ」 「それでも……何日か後に死体が流れ着いた」 「すごく残念なんだけれどね。水死体だから一見して誰だか見分けがつかない程だったけど、特注品の彼専用の競泳水着を着用していたから、間違いないわ」 島から出たくて無茶をして、結果溺死した水島には同情した。 「死体は森に埋めてみんなでお葬式をしたわ。彼なら相当遠くまで泳いだはずだし、良く死体が流れ着いた物だわよ」 「それで……不知火とかいう芸術家の方は、どうして死んだんだ?」 「文也くんのことなら……あの、怖がらないでね?」 「怖がらないでって、何だ?」 「それがその……出来心だったのよ。いっぱい怒られたし、寝室の無期限の使用禁止っていう結構きつい罰も課せられたし、わたしなりに反省してるわ。もう二度とやるつもりはないの。本当よ。だから……ね? 聞いても嫌いにならないでね」 「……どういうことだ?」 「不知火文也くんを殺したのはわたしです。ごめんなさい」 俺は表情が引き攣る程の衝撃を感じた。 「殺人鬼としてのお勉強のつもりで、透子ちゃんに頼んでミステリの小説とか映画とかを取り寄せてもらってね、読んだり見たりしていた時期があったの。っていうかそれが最近なの。で、それ見てるとね、密室トリックに挑戦してみたくなっちゃって……」 「……こんなこと言うのも難だけれど、藤堂のコレクションである島の住人を殺せば怒られるのは、分かり切っていただろう? どうしてエサを使わなかったんだ? その不知火のことが嫌いだったとか?」 「いいえ全然。四つ下の男の子でね。赤い色の使い方が上手なことから、『炎の芸術家』なんてあだ名で呼ばれていて。芸術家って言葉の漠然としたイメージから、偏屈な子なのかと思っていたのだけれど、話してみたらとっても素直で礼儀正しくて、すごく可愛らしいのよ。殺人鬼のわたしのことは怖がっていたんだけれど、でも一度だけ、とっても上手にわたしの絵を描いてくれたわ」 「じゃ、猶更どうしてエサを使わず、不知火を殺したんだ?」 「それじゃ何の意味もないでしょ? 殺しちゃいけない人を殺して、その犯人がわたしなことを隠蔽するからこそ、推理小説の犯人みたいなスリルを味わえるんじゃない?」 骨の髄まで殺人鬼という訳だ。自由に殺しても良いエサを定期的に与えられてさえ、そんな遊び心が為に、罰を覚悟で知人に手を出すとは。 「それで結局、その密室トリックは暴かれたのか?」 「いいえ。それは誰にも解けなかった」 「え? そうなの?」 「そうね。わたし、常々思っていたんだけれど、小説にあるような奇想天外な密室トリックって、作品によるけどあまり実践的じゃないのよ。実践的じゃないっていうのは『密室を作る』という目的に対して言ってるのね。そりゃあトリッキーで面白いけれど、でも本当はもっと簡単で身も蓋もない方法があるんじゃない? っていつも思ってて……それを実践したら案の定誰も解けなかった」 「だったらどうしてヤミ子が犯人ってバレたんだ?」 「そんなことしそうなのわたしだけって言われて、捜査も裁判もなしに有罪になったわ」 「ええ……」 「まあ、現実なんてそんなものよね。次またエサ以外の人間が死んだらわたし、今度は殺処分なんだって。流石にもう二度と同じことはやらないわよ。だから安心してね」 「殺処分て。……まあコレクションにコレクションを殺されれば藤堂も困るんだろうが。というか、逆に良く一回目を大目に見てもらえたな」 「この島には死刑判決にも執行猶予があるのよね。わたしが古参で透子ちゃんに気に入られてるのも無関係じゃないかもしれない。それにしても、捜査も裁判もなしってのは、ショックだったけれど……」 そう言って暗い表情を見せるヤミ子だったが、すぐに顔を上げて柔らかな笑みを浮かべ、俺の手を取る。 「まあでも命があれば十分よ。そういうことだから、次の光と闇の館で最後。わたしの同居人を紹介するわ。さ、行きましょう」 そう言って、俺を連れまわしているのが楽しくてたまらないように、スキップ気味に歩き出すヤミ子。この女は、殺人鬼という肩書やヤミ子なんて通称から受ける印象とは異なり、妙に明るく屈託がなく、人との触れ合いにも積極的だ。 いや、殺人鬼だからこそこの性格なのかもしれない。サイコパスと呼ばれる他人の痛みに共感しない人種は、表面的には社交的で魅力的な人物に映るのだという。 こんな美人の女に手を引かれては、思わずどこにでも付いて行きそうになるが、その結果不知火文也という四つ下の男の二の舞になってはたまらない。 用心せねばならない。と、俺はその時は、ぼんやりとそう考えたことにした。 〇 光と闇の館の構造は、他の四つの屋敷とは異なっていた。 地上三階建ての他の館と異なり、光と闇の館は地上三階地下三階という構造をしている。この内地上階が『光の館』、地下階が『闇の館』という訳だ。それぞれ独立した館を持つ地水火風の四属性に対し、光と闇の二属性は一緒くたになっている分、大きな館を構えているということらしい。 当然、住人も二人いる。 闇属性担当のヤミ子の同居人である光属性担当の末光晶(すえみつあきら)を訪ねて、俺は一階の大部屋に向かった。 祈祷室と呼ばれているらしいそこは、広いばかり何も置かれていない殺風景な部屋だった。格子の嵌った大きな窓がいくつも備わっている以外、四面の壁は真っ白で床にも何も敷かれておらず、紙でできた白い箱を覗くような気分になった。 その中央で、祈りを捧げるように両手を握り合わせていた少女がいる。開けっ放しの扉から中の様子を伺っていた俺達に気付くと、少女はただでさえ釣り目気味の瞳をさらに大きく釣り上げながら 「帰って!」 とヒステリックな声で言った。 「汚らわしい殺人鬼が! 地上階をうろうろしないでって言ったでしょう? あんたみたいな極悪人の罪人は、今生涯湿った地下に閉じこもっていたら良いのよ!」 修道服を思わせる黒い衣装を身に付けた、坊主頭の少女である。その頭髪は完全に刈り取られていて白い頭皮が見えている。引っかかるところのない整った、マネキン人形のような顔立ち。しかしその表情はと言えば豊かで、今もヤミ子に向けて激しい敵意を放射している。 「あんたに殺された人達は、皆無念を晴らせずに、この島のどこかで眠っているのよ? 考えたことはある? あんたが殺した一人一人に、愛する人があって、切り刻まれると苦しむ心があるのよ? それを平気な顔で何百人も踏みにじっておきながら、のうのうと生きていられる神経が分からない!」 「……い、今はその話をしに来たんじゃないじゃない……」 ヤミ子は圧倒された様子で下を向き、指先同士をこすり合わせながら言う。 「新入りの子が来たから、あなたのことを紹介しに来ただけなのよ……。そうやって会うたび会うたび怒鳴りつけるのはやめてって……いつも言ってるのに」 「あんたが先に地獄に落ちるのが道理だわ。……で、その新入りっていうのは、あんたの隣の男の子?」 そう言って、末光は俺の方を向いて、ヤミ子に向けていた敵意溢れる表情を無理矢理のように緩めてから 「……あたしは末光晶(すえみつあきら)。『聖女』よ。よろしく」 と口にした。 「『聖女』? それが末光さんの肩書なのか?」 「まあね。親が新興宗教の教祖をやっていて、あたしはそこの聖女として祈りを捧げ続けていたの。その所為で祈祷だけは誰よりもうまくなって……今では神様の声を感じられるまでになったわ」 素面で口にする末光に、俺は何と言って良いか分からず胡乱な表情を浮かべてしまう。 「『神様の声』とか言ったら胡散臭く感じるのはしょうがないと思うわ。でも大丈夫、そんなことで神様は気を悪くしないし、あんたを見捨てることもない。ただ信じるか信じないかは別として、この世界を作った神様はいるし、あたしはその声を聞くことが出来るのよ」 「……神様の声っていうのは、どうやって聞くんだ?」 「祈祷室で神様に祈りを捧げるの。世界から争いを消してくださいとか、どこかの腐れ殺人鬼に殺された尊い魂を救ってくださいとか、そういうことをね。もちろん簡単に届く訳じゃないわよ? こうすれば届くとかの安直な方法がある訳でもない。ただ、『届くまで祈る』、これだけ。三日でも五日でも十日でも、不眠不休でね」 俺はネット上で有名な『祈りを捧げる少女』の動画を思い出した。物々しい装飾に塗れた祈祷室の中央で、何時間でも何十時間でも、両手を結んで微動だにせず静止し続ける少女のライブ映像だ。 最長で二百時間も続けられたことのあるそのライブ映像の中で、少女は確かに何の身じろぎもしなかった。水も飲まなければトイレにも行かない。そして思い出してみればそのライブに登場する少女と、目の前の末光は間違いなく同一人物だ。 「で、飲まず食わずで何日も祈り続けて、今にも倒れそうになる瞬間が来る。そしたら……」 「そしたら?」 「ふと神様の存在や視線を感じ取れるようになるのよ。……ああ、頑張ってお祈りをしているあたしを、神様が見てくださっている……ってね。で、そのまま祈りを捧げていると、神様が何かしら声をかけてくださったり、くださらなかったりするっていう訳」 「くださらない時もあるのか?」 「ええ。でも見てくれてるってことは、祈りは伝わってるってことだから」 「晶ちゃんの言ってること聞いてていつも思うんだけれど」 そこでヤミ子がおずおずとした口調で、心配そうに口を開く。 「それ、不眠不休で倒れそうになってる時に聞く、幻聴の類なんじゃないかしら? すっごく危ない状態だと思う。いつか死んじゃうわよ。祈祷なんて、やめた方が良いと思うんだけどなあ……」 「うるさい!」 余計な心配をするヤミ子に、案の定末光は顔を真っ赤にして怒声を上げた。 「殺人鬼が知ったようなことを言うな! あんたなんて今に裁きが下るに違いないわ。無知蒙昧なあんたに覚悟しろと言ったところで無駄でしょうけどね。幾億年の時を地獄の火の中で過ごしながら後悔すれば良いのよ、この外道!」 そう言って、ヤミ子の方にずんずんと歩み寄り、その胸倉を掴んで突き放してから 「あんたはいつか地獄に落ちる。神様がそうしなくても、神様を信じるあたし達が、いつか必ず地獄に落とす。その為なら、あたしは何を犠牲にしてもかまわない。……帰れ!」 と鋭い声で叫ぶので、俺達は消沈して退散して部屋の外に出た。 「……もし神様がこの世にいるのだとすれば、どうしてわたしのような殺人鬼が許されるのかしらね?」 とヤミ子。俺は答える。 「神様なんていないか、いても人間にそんなに興味がないんじゃないか?」 「別に、神様を信じることが悪いこととは思わないのよ。神様が見ていると思うことで、つらいことがあっても心がくじけずに済んだり、悪いことをしそうになっても踏みとどまれたりすることはあると思う。けれど……そうやって神様を上手く使うのは良いことだとしても、でも神様の為に自分を犠牲にしたり、危険な目に合わせたら元も子もない。あんな頻繁に、何日も何日も不眠不休の祈祷を行っていたら、晶ちゃんはいつか死んじゃうわ」 「心配なのか?」 「心配よ。何せルームメイトなんだから。同じ屋敷に住んでいるのよ?」 「でも、向こうはヤミ子のことを嫌ってる訳だろう?」 「関係ないわよ。それに、お互いに嫌い合ってたら永遠に仲良く出来ないじゃない。わたしの方は晶ちゃんをずっと愛し続けて上げないと……」 そう言って指先同士をこすり合わせる(何度も出る仕草なので癖だろう)ヤミ子。 考え方は立派だと思うが、しかし何を言ったところで、末光はヤミ子を受け入れたりはしないだろう。自称聖女と事実上の殺人鬼は、いくらなんでも相いれない。 「……さて。これで住人の紹介は終わったわね」 そう言ってヤミ子は俺に微笑みかけた。 「ああ。その、ありがとうヤミ子。俺一人だったら、多分引きこもってゲームしかしなくて、誰とも打ち解けなかったと思う」 まあ百地や末光とも打ち解けたかと言われると微妙なところだが、しかし同じ島で暮らす以上、最低限度知り合っておくことは必要だと思う。 「こっちこそ友達になってくれて嬉しいわ。……これからどうする? 海にでも行く?」 「いや……実はまだ自分の屋敷を良く見て回っていないんだ。どんなゲームがあるか調べておきたいし、今日は遠慮しておくよ」 「そう。……じゃあ、外まで見送るわね」 館の出口まで見送られる。そして玄関の扉が絞められる前、ヤミ子は唐突に俺の頬に顔を近付けて……あとうことか頬に唇で触れて来た。 「あの時わたしを『綺麗』だと言ってくれたこと、ずっと忘れないわよ」 ヤミ子の黒髪の匂いを感じる。押し当てられる唇の感触は柔らかで、俺は全身が跳ね上がるような衝撃を覚える。 絶句する俺にヤミ子は優しく微笑みかけ、そして俺の股間を指さした。 「いつかここ、切り刻んであげから、楽しみにしててね。……ふふふ。それじゃあ」 固まって動けない俺にヤミ子は無邪気に手を振りながら、静かに扉を閉めた。 炎天下の島の中央の館の前で、俺は呆然として身動きすることが出来ない。 切り刻まれることを予告された俺の股間は、あろうことが勃起してしまっていた。 〇 島での暮らしはのんびりと続いた。 毎日欠かすことなくテレビゲームに明け暮れ、RTAの自己ベストを更新し続ける毎日。 食事は缶詰やカロリービスケットで済ませ、洗濯や掃除はたまにやって来る藤堂の召使いに代行させた。たまに様子を見に来る藤堂の相手をしたり、ヤミ子が遊びに来たりする以外は、コントローラーを手放すことはなかった。 百地や末光とはほぼほぼ接点がなかったが、ヤミ子とはそれなりに仲が良かった。危険な殺人鬼ということで嫌われ者であるヤミ子は話し相手を俺に求めていたし、俺の方はヤミ子を警戒しつつもその容姿や明るい人柄には惹かれるものを感じていた。 ヤミ子のもっとも良いところは、遊びに来ても俺がゲームをする邪魔をせず、後ろからそっと眺めていれば、心の底から満足することにあった。 「わたしは見る専門なのよ。実家にいた時も、妹がやるのを後ろから見るのが好きだったわ」 「自分ではやらなかったの?」 「ええ。そもそもゲーム機自体、妹専用だったし」 ヤミ子が言うには、母子家庭にあったヤミ子の実家には、およそヤミ子自身に与えられた持ち物というのは一つもなかったらしい。 「昔は普通に扱われてたんだけどね。でも六歳の時、お母さんに玩具をねだったら、間違って良く似た違う奴を買ってきちゃって。『これじゃない! いらない!』って泣きわめいたら、『だったらもう二度とあんたに玩具なんて買ってやるもんか!』って怒られて。それっきり、本当に何も買ってもらえなくなっちゃったの……」 最初は玩具を買ってもらえないだけだったのが、次第にエスカレートして、服や生活用品(歯ブラシなども含め!)に至るまで、妹のお古しか与えられるようになったそうだ。家での食事は基本的に妹の食べ残しを食べるだけ。 「そんな状態だったけど、一つ下の妹とは仲が良くってね。ゲームをするところを後ろで見せてくれたり、昔使ってた服や玩具なんかをくれたりしたわ。それに、ニンジンやらレタスやら、あの子の食べられない野菜を食べ残して分けてくれたりもしたわね」 そう言ったヤミ子が本気で妹に感謝しているように見えて、その様子が俺には恐ろしくも切なかった。 「特にもらえて嬉しかったのは、着せ替え人形の玩具だった。手足を折ったり切り刻んだり、火で炙ったり石で叩いたりして痛めつけたら、少しだけすっきりしたものよ」 「もしかして、その体験が、殺人っていう嗜好に反映されているとか……」 「そうだと思うわ。貰った人形は五つだったんだけど、すぐに粉々になるまで遊んじゃって。代わりに生きた人間を殺して見たら、人形の何倍も楽しかったの」 時には、ヤミ子に頼まれて彼女の手伝いをすることもあった。 まさか一緒に殺人をやったりはしない。手伝うのは主に、死体の片付けだった。 ヤミ子の住む『光と闇の館』の地下室には、殺した『エサ』を始末する為の巨大な焼却炉がおかれている。そこに死体を運び込んで骨も残らない程の加熱を行い、灰は海へと捨ててしまう訳だ。 とは言え日常的に殺人を行っているヤミ子のことだ。一人殺す度死体を焼却していては効率が悪い。よって焼却炉の使用はある程度死体が貯まってからとし、それまで死体は隣の部屋にある冷蔵室にて保管することになっていた。だがそれももう、キャパオーバー寸前と言ったところ。 「藤堂の召使いにやってもらう訳にはいかないのかよ」 「できない訳じゃない。でも、あんまり死体に触りたくないっていう召使いさんも多いのよ。特にわたしの殺した奴はグロテスクな見た目になってることも多いしね。透子ちゃん側とも話し合って、なるだけわたしが自分で始末することに決まったの」 確かに死体はグロかった。スプラッタな殺され方をしたものはもちろん、傷一つ付いていないようなものであっても、死体というだけで俺にはグロかったのだ。 「なんでこの死体とか、傷一つ付いてないのに死んでいるんだ?」 「でも血色は大分悪くなってるでしょう? エサ同士で麻雀をやらせて、失点するごとに注射器で血を抜くっていう遊びをやったことがあったの。その時の奴ね」 「鷲頭麻雀かよ」 そんな綺麗な死体もあれば、おぞましい状態になっている死体ももちろんある。片腕片脚を失くし首が捥げ掛けている死体を指さして、ヤミ子はやや自慢げな様子で言った。 「その片腕片脚ない子、自分で自分の手足をノコギリで切らせたのよ」 「どうやったらそんなことさせられるんだ? いくらヤミ子が強要したって、そんな痛くて怖いことできる訳が……」 「恐怖や苦痛に打ち勝つ勇気を与えるには、より強力な恐怖や苦痛を施せば良いのよ。もちろん、簡単なことじゃないわ。わたしの拷問スキルあっての技ね」 「……やらないともっと痛いことするぞ、って脅す訳か」 「そうね。最後は自分で自分の首を切るように言って、半分くらい本当に切ったところで絶命したわ。最近じゃ、自分で自分の首を絞めて殺させることにも挑戦してるけど……そっちはなかなか成功しないわね」 ヤミ子は冷蔵室の死体を焼却炉へとどんどん放り込んだ。事前の話し合いにより、死体を運ぶのはヤミ子に任せ、俺は焼き終えた時に出る灰を袋に詰める役割を担った。これにしたって死体遺棄の片棒を担ぐことに違いはないが、しかし生の死体に手を触れるのは、いくら何でも生理的にきつかった。 「これだけ死体があったら、一つくらい死んでいないのが混ざってるんじゃ」 ふと怖くなって、俺はそんなことを漏らした。 「ああそれはないわ。『エサを逃がすな』って透子ちゃんに強く言われてるから、冷蔵室に運ぶ前にちゃんとした方法で絶命を確認してる。殺人鬼の検死技術は生じっかの医者を凌ぐわ。それに何より」 そう言ってヤミ子は妖絶な笑みを浮かべる。 「どんな殺し方であれ、わたしが人を殺し損ねるような真似をすると思う?」 その言葉は何より説得力があった。 死体を焼き終えると、俺は灰を詰め込んだ袋を海まで運ぶ仕事を手伝った。もっとも、重たい灰を何往復もして海に運んだりはしない。ヤミ子が軽トラの運転ができたので、軽トラまで運び込んだ灰の袋を海で降ろして捨てればことが済んだ。 半日仕事で死体の始末を終えた後、ヤミ子と二人で夕闇の海を眺めた。 透明な海は沈んでいく夕日によってオレンジ色に染まっていて、高級なカクテルのようだった。寄せては返す波の音と共に珊瑚の欠片が揺れ動く。優しい潮の匂いを運ぶ浜風はヤミ子の艶やかな黒髪をなびかせていた。 「今日はありがとうね。雄太くん」 そう言って微笑むヤミ子を見ていると、あまりの可憐さに、彼女が殺人鬼であることをつい忘れそうになる。 「こんなに仲良くしてくれる人は、雄太くんが生まれて初めてだなぁ」 俺もだった。ヤミ子は残酷な殺人鬼だったが、俺の生まれて初めての友達でもあった。 〇 島での暮らしにも完全に馴れ、むしろ快適なものにすら感じられて来た、とても暑いある日のこと。 午前八時頃。いつものようにゲームに耽っていた俺の元に、ヤミ子が訪ねて来て言った。 「床だとどうしても眠れなくって、気が付いたら朝になっちゃったの。寝室を貸してくれないかしら?」 不知火文也という透子のコレクションの一人を殺した咎で、ヤミ子は自分用の寝室の無期限の使用禁止というペナルティを受けている。それに伴い所持する布団やソファ等々も取り上げられていた為、ヤミ子は基本的に床で寝るしかない身だ。 だが抜け穴はある。それは他人の部屋のベッドを使ってもバレないということであり、しばしばヤミ子は俺の寝室を借りに現れるのである。 「いいよ」 俺はとっくに起床を終えていたので、これからヤミ子が八時間くらい寝たとしても問題はなかった。ヤミ子は「いつもありがとうね」と微笑んでから俺の寝室へと向かっていった。 それから俺は五時間程ゲームを続けて過ごした。途中、午前十時半と十一時半にそれぞれ一回ずつ、枕元にある携帯ゲーム機やRTA用の戦略ノートを取りに行くなどの用事で寝室に訪れたが、ヤミ子は目を閉じて静かに眠りこけていた。 午後一時頃。俺は手元にないゲームソフトがあることに気が付いた。慌てて記憶をたどると、昨日そのソフトを携帯機ごとヤミ子の部屋に持ち込んだことを思い出す。可愛らしいモンスターを集めて戦わせる内容のソフトで、ヤミ子がやっているところを見たがったので、持って行って遊んだのだった。 藤堂のリクエストで、俺はそのソフトですべてのモンスターを集めるRTAを行っていた。ワールドレコードはとっくに手にしていたが、更新の余地はまだまだある。明日藤堂が様子を見に来ることになっているので、成果を見せる為にも今夜もプレイしておきたい。 その為には光と闇の館に向かう必要があったが、しかし眠っているヤミ子を起こすのも忍びない。どうしたものかと思ったが、しかし光と闇の館にはもう一人住人がいることを、俺は思い出した。 末光晶。自身の館に設けた祈禱室で、何時間でも何日でも身じろぎもせずに神に祈りを捧げる『聖女』。 祈祷モードに入っている末光に館に入れてもらうのは不可能だが、しかし彼女も年がら年中祈りを捧げている訳ではない。淡い期待を抱きながら、俺は光と闇の館へと向かった。 〇 光と闇の館にたどり着いた俺は、早速玄関のチャイムを鳴らした。 しかし、反応がない。 間隔を空けて二回程チャイムを鳴らしたが、それは変わらなかった。末光は祈祷モードに入っているのかもしれない。 俺は祈祷室の様子を窓から見に行くことにした。 末光の祈祷室は地上一階にある大部屋で、いくつかの窓が設けられており、祈りを捧げる彼女の姿が格子窓の外から確認できるようになっていた。藤堂がいつでも祈祷の様子を見られるようにする為の措置である。 そこから声をかければ、もしかしたら反応がもらえるかもしれない。俺は末光のいるであろう祈祷室の窓を目指して歩き、格子窓の前までたどり着いた。その時……。 信じられないものを俺は見た。 格子窓の付近の外壁が、中から垂れ出したかのような赤い液体で汚れている。それはどう見ても、人間の血液にしか思えなかった。 思わず身震いする。気が付けば、むせ返る程の生臭く鉄臭い臭いが、格子の向こうから立ち込めていた。俺は思わず格子の中を覗き込んだ。 白い紙で出来た箱のようだったその部屋は、全面が赤い血でおびただしく汚れている。さらには、人間の腕が、脚が、その赤い部屋には散らばっていた。 腕が一本、脚が二本、人間の四肢の内の三つが部屋のあちこちに転がっている。そして部屋の中央には、それらの切り取られた手足に囲われるようにして、右腕だけが残った人間の胴体がうつ伏せられていた。 そこにくっ付いた頭を見て、俺は心臓を吐き出しそうな感覚を覚える。 その髪の毛をそぎ落とされた白い頭は末光のもので、その表情は、間違いなく既に息絶えた人間の物だった。 〇 半狂乱で自分の屋敷に戻った俺は、ヤミ子を叩き起こしてから藤堂に連絡を入れた。 ただちに島を訪れた藤堂と部下達が、現場の調査を行った。尚、彼らに科学調査の為の知識や技術は備わっておらず、指紋や頭髪などの精密な調査は行われていない。 その中で分かったことは以下の通りである。 ・現場は光と闇の館一階の祈祷室である。 ・死亡推定時刻は午前十一時。誤差は前後一時間。これは藤堂が連れ歩いている主治医による検死である。 ・死体の第一発見者は風早雄太(俺)。発見時刻は午後一時。 ・これも主治医による検死で分かったことだが、末光には遅効性の毒を服毒した形跡がある。ヤミ子がエサに飲ませる目的で所持していた物で、服薬から死亡まで一時間程かかる。尚、毒の管理は杜撰で、館に入りさえできれば誰でも持ち出せそうである。 ・末光の遺体からは左腕、右脚、左脚が切断されており、それらは部屋中に無秩序に散らばっている。胴体は部屋の中央にうつぶせで倒れていた。 ・部屋中のすべての壁には末光の血液が塗りたくられており、床もまた完全な血溜まりだった。それは壁沿いの格子窓や、出入口の扉も例外ではない。 ・部屋の格子窓の窓ガラスは開いていた。格子の幅は狭く、腕を通すことが可能という程度である。 ・血は格子窓の外にも漏れ出しており、特に周辺の壁は夥しく血に濡れていた。 そして重要なのが以下の点。 ・室内には内側から鍵が掛けられていた。部屋の施錠を行う方法は外部から鍵を回すか、内部からタブレットで操作するしかない。 ・タブレットは定位置である壁に掛けられていた。その壁は格子窓と同じ面の離れたところに位置しており、手や長物を伸ばしても操作は不可能である。 ・館に出入りする為の鍵は末光が持つ者とヤミ子が持つ者の二本があったが、祈祷室に入れる鍵は末光が持つ一本のみである。 ・その一本は、末光の胴体が身に着けている衣類の胸ポケットの中にあった。この胸ポケットはうつ伏せた胴体と床に挟まれる位置にあり、胴体が部屋の中央にあることなどを考慮しても、例えば格子窓から手を伸ばして鍵をポケットに差し込むと言ったことは不可能である。 つまり、以下のようなことが言える。 ・この事件は、密室殺人事件である。 〇 「またやったんですね! 今度という今度は許しません!」 連絡船と共に部下を従えて数人の島にやって来た藤堂が、祈祷室の前の廊下で正座させられているヤミ子に向けて吠えた。 「前に不知火文也くんを殺した時から、一つも懲りていないんですか? 前回とまったく同じ手口で……言い逃れはできませんよ」 「違うのよぅ透子ちゃん。本当にわたしじゃないの。信じてよぅ」 そう言ってヤミ子はめそめそと泣きながら、指先同士を擦り合わせる。 「言い訳無用! 今度という今度は殺処分にしてさしあげます! 覚悟してください!」 今現在、光と闇の館には島の住人がすべて集められていた。俺とヤミ子と、地の館の住人であるスプリンターの百地葉月だ。 「もうそいつが犯人ってことで決まりで良い?」 百地は興味なさげな表情で藤堂に言う。 「だったら、あたしはまた練習に戻って良いかな?」 末光が殺されたというのに、百地は本当にどうでも良さそうだった。それよりも、一刻も早く短距離走の練習に戻りたいという様子だった。 「待てよ。まだ話が終わってないだろ?」 俺は口を挟む。 「まだヤミ子が犯人だって決まった訳じゃないんだし、全員のアリバイとか確認しておこうぜ?」 「そうよっ。わたしは犯人じゃないわ。捜査も裁判もなしに有罪なんて……そんな酷いことしないで頂戴」 正座させられたままそのように訴えるヤミ子。藤堂は胡乱な表情でヤミ子を見下ろしながら、「いいでしょう」と投げやりに言った。 そして藤堂が俺達の話をそれぞれ聞いた結果、以下のようなアリバイが判明した。 百地葉月:午前七時から死体発見の午後一時まで、『地の館』前の運動場で短距離走の練習をしていた。運動場には百地のタイムを自動で測定、記録するタイマーが設置されており、特に十一時の前後一時間は絶えずタイムが記録されている。 地獄坂ヤミ子:午前八時に『風の館』を訪れ、風早雄太の寝室を借りる。雄太は午前十時半と十一時半に寝室を訪れ、眠っているヤミ子を目撃している。 風早雄太(俺):午前七時から午後一時前まで、ゲームのRTA動画用の映像を撮影している。このことは、その時に用いられた動画編集ソフトの内臓時計によって記録されていた。その後光と闇の館へ向かい、遺体を発見した。 「あれ? 全員にアリバイあるじゃん。……っていうか」 俺は目を丸くして百地の方を見た。 「てっきりおまえが犯人かと思ったけど……違うのかよ」 そう言うと、百地は淡々とした口調で「うん」と頷いて。 「それは運動場のタイマーが証明してくれるよね? 何時何分に何秒で走ったかがあれには全部記録されているから。細工をする方法とかもないはずだよ」 「それは私が保証しましょう」 そう言ったのは藤堂である。 「部下に調べさせましたが、百地さんの運動場にあるタイマーに細工された痕跡はなかったとのことです。痕跡も残さず細工するというのは不可能に思われますし、よしんば方法があるとしても、百地さんにそのような技術があるとも思えません」 「うん。あたし機械苦手だし。中学の頃技術過程ずっと『2』だった。勉強もダメだし、走ること以外脳とかないもん」 タイマーは絶対らしい。だがしかし。 「かと言ってヤミ子も犯人じゃないぞ? 俺は十時半と十一時半にヤミ子が寝ているのを確認している。間に一時間あるが、館と館との距離は往復で三十分かかる。残る三十分で手足を切断して部屋中に血を塗りたくるなんて真似、間に合うものなんだろうか? 増してや、末光の体内から見付かった毒は、服薬から死まで一時間かかる遅効性の毒なんだぞ?」 「それは……その。あの……そうですわ!」 一瞬苦し気な顔をした藤堂は、閃いたような顔をして言う。 「そもそも、あなたが寝室で目撃したというヤミ子さんが、本物だという保証もありませんよね?」 「なんだそれは?」 「ですから……ヤミ子さんは自分の偽物を用意していたんですよ。彼女に頻繁に与えている『エサ』の中から、自分に似た容姿の持ち主を選別して傷付けず死体にし、髪型などを自分に似せる細工をして持ち込み、ベッドに寝かしつけたんです。うつ伏せにしたり壁の方に顔を向けさせたりしたら、風早さんのことを騙すことは十分に可能です」 「いやおかしいぞ? あれは確かにヤミ子だった。それに、そんな死体を持ち込まれたら、俺だって流石に気が付くだろう?」 「あなたはヘッドホンをしてゲームに熱中していたんですよね? RTAをしているあなたの集中力はちょっとやそっとじゃありませんよ? その背後で多少ごぞごぞされたところで、気付かないんじゃないですか?」 「違うわよぉ。わたし、そんなことしてないわ。本当よ……」 そう言ってヤミ子はめそめそと泣いている。そして助けを求めるような顔で俺の方を見る。 俺はヤミ子に問う。 「なあヤミ子。ヤミ子に与えられた『エサ』の誰かが生きていて、そいつが殺人を犯したっていうのはありえないか?」 「それはないわ。前も言ったけど、わたし、貰った『エサ』は確実に殺してる自負があるの」 「本当に?」 「ええ。殺人鬼が獲物を殺し損ねることはありえない。本当よ」 その言葉には何よりの説得力がある。疑われている本人の言葉であるなら猶更だ。ならば。 「藤堂の部下の誰かがこの島に残っていて、そいつが殺したっていう説は?」 「ありえません」 藤堂がぴしゃりと言った。 「この島の存在を知っているすべての部下を私は把握しています。彼らはみな私の腹心です。その全員が、今日の朝から風早さんに連絡を受けた正午頃まで、私の目の届くところにちゃんといました。私自身の潔白もまた、彼らが証言してくれるでしょう」 主人のその言葉に、背後で控えていた部下達が一斉に頷いた。 この証言が嘘である可能性は低いだろう。末光を殺されて怒り狂っている藤堂に、彼らを庇う理由はないからだ。もちろん、藤堂自身が末光を殺す確率も低い。 「以上により……犯人はヤミ子さんで間違いないのです。どうやって密室を作ったのかは分かりませんが……まあそれはそれ。何かろくでもない方法を使ったのでしょうね」 そう言って、藤堂は部下達に向けて顎をしゃくる。 「今すぐその殺人鬼を連行しなさい」 藤堂の部下達は一斉にヤミ子に寄ってたかる。涙に濡れたヤミ子は無抵抗だった。両肩を持ち上げられて、さめざめと泣きながら観念したように連行されていく。 俺は吠えた。 「待てよ! まだヤミ子が犯人だと決まった訳じゃないぞ!」 「黙りなさい」 冷酷な声で藤堂は言う。俺は黙らない。 「まだ捜査も完全だとは思えない。密室の謎も解明していないのに、ヤミ子がやったと決めつけるのはおかしいんじゃないのか?」 「黙りなさいと言っているでしょう!」 そう言って、藤堂は鋭い視線を俺の方に向けた。 「あなたは私のコレクション……私の持ち物でしかありません。ですから本来、あなたの意見など聞き入れる必要などないのです。黙れと言ったら、黙っていなさい。いいですね?」 そう言って、藤堂は部下に車椅子を押されてその場を去って行った。 〇 「あのさ風早。なんであんた、あの殺人鬼の潔白にそこまでこだわるの?」 現場の前の廊下で打ちひしがれている俺に、百地が冷ややかに声をかけた。 「……あいつが犯人とは思えないからだよ」 「なんで?」 「藤堂が言っているアリバイトリックは無茶だと思う。不可能ではないというだけで、そんなリスクのある方法を取る理由が分からない。証拠もない」 「……難しいことは分かんないけど、あんたはあの女を犯人とは思ってない訳だね? でもさ……だから何だっていうの?」 あっけらかんという百地に、俺は目を剥いて問いかける。 「何だ、とは?」 「あいつは危険な殺人鬼だよ? あたし達の仲間だった不知火のことだって殺してる。そんな奴を弁護する理由がどこにあるっていうのさ?」 「いやおかしいだろ。犯人じゃないと思うのなら当然弁護すべきだ」 「なんで?」 「このままだと本当の犯人ではなくヤミ子が殺処分されるんだぞ?」 「それが?」 「それがって……」 「今回のことが冤罪だとしても、あの女はたくさん人を殺してる。因果応報じゃん。むしろ安心するし。一緒の島で暮らすには、あの女はちょっと危険すぎるよ」 「分かってないな。ヤミ子がこのまま冤罪で殺処分になるってことは、本当の犯人は野放しってことなんだぞ?」 「……そうだけど。でもあんな残酷な真似ができるの、ヤミ子以外にいないじゃん? 前回と手口まったく同じだし、やっぱアイツで間違いないよ」 「……ちょっと待て。藤堂も言ってたけど……前回と同じ手口ってことは、不知火も、末光と同じ状況で殺されたのか?」 尋ねると、百地は「うん」とそっけなく頷いて。 「そ。館ごとの間取りは結構良く似てるから、不知火のいた日の館にも似たような部屋があったんだよ。そこでまったく同じような密室状況で、まったく同じように手足の切り刻まれた状態で、不知火の死体は発見された。鍵が胸ポケットから発見されたのまで、何もかも一緒。……唯一違うのは使われた毒の種類が違うことかな? 不知火の毒は、末光が飲んだ遅効性の奴と違って飲んだらすぐ逝ける奴だったからね。……まあとにかく、どっちもヤミ子の仕業に違いはないよ」 違う。犯人はヤミ子ではない。犯人が意図的に似せたのだ。ヤミ子を陥れる為に。 ヤミ子はそこまで愚かではない。もう一度同じような殺人が起きれば自分が殺処分されることを、ヤミ子はしっかり理解していた。彼女が犯人だとは、俺には思えない。 「アリバイとか密室とかはあたしには良く分かんないけどさ。多分なんかのトリックを使ったんだよ。もう放っとこうよ。庇うことないって、あんな奴」 そう言って、百地は俺に背を向けて立ち去って行った。 とことんヤミ子は疑われているらしい。そりゃそうだ。彼女には前科がある。同じ手口で不知火のことを殺したという前科が。 ……同じ手口で? 実際に、不知火を殺す時密室殺人の状況を作ったとヤミ子は俺に語っていた。今回のような密室状況を作り出す方法を、ヤミ子は知っているということだ。 それをヤミ子から聞き出すことができれば、推理の大きな手掛かりになることに間違いはない。しかし、ヤミ子は既に藤堂と部下達に連行されていて話を聞きようがない。 ……自分で考えるしかないか。 ヤミ子は不知火を殺した密室状況を作った時、『簡単で身も蓋もないやり方』を取ったと言っていた。推理小説に登場するようなトリッキーなやり方ではない、極めて実践的な手法を。 だがいくら『簡単』で『実践的』だったとしても、それは素人にはできないような方法だっただろう。本当に簡単なやり方なら簡単な推理で見破られてしまうからだ。つまりそれはヤミ子にとってのみ簡単で、ヤミ子にとってのみ実践的な、ヤミ子ならではの身も蓋もないやり方だったはずだ。 ヤミ子に出来て他に出来ない、そんなやり方だったはずだ。 そしてそのやり方を、ヤミ子ではない今回の犯人は、実践してのけた。それを可能にしたのには、必ず理由がある。 そこにヒントがある。……答えがある。 思い出すんだ。この島に来てから見て来たこと、聞いて来たことを。ここに来てから得たすべての情報を。そして誰が犯人なのかを考える。それは俺でもヤミ子でも百地でも藤堂でもその部下でもエサでもない人物。ありうるとすれば……。 そこで俺の頭上にある閃きが舞い降りる。 分かったのだ。 あの人が犯人だ。 〇 俺は島の西側の水の館の、さらに西側にあるという森を歩いていた。 迷い込む危険があるということで、入ることを禁止されている森だ。だからこそそこは、犯人が忍ぶのにふさわしい場所だと言える。犯人が必要としているものが、この島で最も多く存在する、そんな場所だと言える。 湿った森は蒸し暑く、草や木々や土の放つ臭いはむせ返りそうな程だった。跋扈する藪蚊の羽音が耳に煩く、鋭い葉の切っ先が肌を撫でる度鈍い痛みを齎した。俺は汗だくで、泥だらけで、今にも倒れそうな程疲労しながら、俺は遭難の恐怖と戦いながら慎重に森を探索していた。 ふと、俺は水の音を聞いた。水のせせらぎの音だ! 歓喜して音のした方に近付くと、森を切り裂くようにして、一本の大きな川が西へ向かって伸びているのが見えた。 鼻を刺すような森臭いと違って、清涼な川の空気のなんと優しいことか! 俺は川の周囲にそびえる岩の形を覚えながら、慎重に川を下った。 水は絶対に人間に必要だ。人間の食糧になる他の生き物達にとっても。犯人がこの森にいるとしたら、絶対にこの川の周囲に拠点を構えている。必ず会えるはずだ。そう、今にでも! そしてその予想は当たっていた。 声が聞こえた。 「いぃいいいやっほおおっぅ! イカダ最高! 超! 気持ちぃいいいい!」 水飛沫の音と共に、一台のイカダが水流に乗って上流から川を下って降りて来る。 その上に載っているのは……全裸でフルチンで引き締まった筋肉を蓄えた浅黒い男! 彼こそが、末光晶を殺した犯人……水島河太郎に他ならなかった。 〇 全裸でフルチンの水島河太郎はイカダに乗った状態で俺に気が付くと、陸にイカダを寄せた。そして俺の方へと歩み寄り、朗らかな声でこう尋ねた。 「何や自分? こんな森の中まで何の用や? もしかして新入りの風早雄太か? ゲームが上手いっちゅう」 精悍な顔立ちをした水島は俺の方を興味深そうにまじまじと見詰めた。その表情は落ち着いた明るいもので、森に潜伏しているところを見付かった動揺も見られない。豪放磊落とした雰囲気がある偉丈夫で、身体も百八十センチほどと大きかった。 「そうです。……あなたは水島さんですね。やっぱり、生きていたんだ」 この人は元・水の館の住人で、50メートル自由形の世界記録保持者のスイマーだ。無謀にも泳いで島を脱出しようと試み、溺死したことになっていた。 「まあな! 生きとるって素晴らしい! 素晴らしい!」 「俺がこの森に来たのは、あなたに会いに来る為です」 「そりゃ光栄。でも、なんでワイが生きとると分かった?」 「末光さんが殺されました。しかし、俺もヤミ子も百地も犯人ではありません。だから四人目の容疑者の存在を疑いました。水島さんは島を脱出しようとして溺れ死に、どざえもんになったという話でしたが、その死体が偽装されたものじゃないかという可能性を考えました」 「見事な推理やな! ガハハハっ!」 水島は感心したように腕を組み、腹の底から声を上げて笑う。 「偽装された死体はヤミ子の館の中から拝借して細工したんですよね? 冷蔵室に大量に積まれている内の一体を」 「当っとるで。ヤミ子と同じ光と闇の館に住んどる末光に頼んで、中に入れてもらっとったんやわ」 「やはり、末光さんとは協力関係に?」 「せや。あの子はワイの脱出計画の相棒やったんや。一緒にこの島を出ようってな」 水島はそう言って白い歯を見せて笑い、笑ったままの表情で。 「仏さんを顔も分からないようなどざえもんに加工する作業は地獄やったわ。今思い出してもゲロや、ゲロ! ホンマバチ当たり!」 「それで、自分を死人と思わせた上で、この森にこもってイカダの制作を?」 「せや! いくらワイでも泳いで海は渡れん。脱出に当たってイカダの制作は必須やった。その為には自由な身が欲しかった。抜き打ちでやって来ては競泳のタイムを計ろうとする藤堂の目がある内は、とても森へ籠ってイカダ作りなんてできる訳ないからな」 「そこまでは良いんです。俺も分かっていたことですから。ただ……」 俺は息を飲み込んでから、水島の屈託のない、虫も殺しそうもない顔に向けて尋ねる。 「どうして、末光さんを殺したんですか?」 「本人に頼まれたからや」 「頼まれた? 殺してくれと?」 「せや。ヤミ子を罠にかけて藤堂の手で殺処分にさせる為や。『エサ』として島に連れて来られる無辜の被害者をこれ以上増やさない為に、奴を罠に陥れる必要があるって、末光は言うんや」 「……なるほど。不知火が殺された時と同じ状況を作って見せたのは、ヤミ子に対する疑いをより強める為ですか?」 「そうなるな。ちなみに、あの密室をどうやって作ったかは、分かるか?」 「分かります。一見不可能な状況に見えますが、被害者が協力したという条件を加えれば、あの程度の単純な密室はどうとでも形成できます。 まず、現場となった祈祷室で、水島さんが末光さんの四肢の内右腕を除く三つまでを切断します。 そして、部屋中を血で真っ赤に塗りたくった上で、鍵をかけて現場から出る。 それから、鉄格子の嵌った窓からまだ生きている末光さんにカギをパスします。末光さんは、残しておいた一本の腕を使って、うつ伏せ状態の胸ポケットにそれを仕舞う。これで密室状態が完成します。 ここまででも十分に壮絶ですが……本当にすごいのは、末光さんが手足を三つ失った状態で、部屋の中央付近に這って移動したことですよね? 鉄格子のすぐ近くにいたらトリックが露見する確率が高くなるから、したことなんでしょうが……。相当な精神力がなければ成しえないことです。流石は『聖女』と呼ばれることはある。恐ろしい程の執念ですよ」 ヤミ子の言う『簡単で実践的な方法』とはそのことだったのだ。被害者と加害者が二人三脚で作り出す壮絶な密室殺人。まともな推理小説ならまず登場しないような、実に身も蓋もなければ芸もない、不細工で無茶苦茶な禄でもない手法だった。 「ホンマアホみたいな方法やと思うで。ただ、これを考えたヤミ子はただのアホやけど、そのアホの考えを見抜いた末光やおまえはすごいと思う。ワイにはよう思いつかん」 「あなたに犯行を頼んだ末光さんが協力的だったように、不知火もヤミ子に協力的だった。もっとも、自分からあなたに手足を切るように頼んだ末光さんと違って、不知火は拷問による調教・訓練によって、ヤミ子に服従させられていただけなのでしょうが」 それを聞いて、流石の水島も表情を曇らせる。 「……なあ? その話、末光から聞いた時も思ったんやけど、ホンマにそんなことが可能なんか? いくら痛めつけられて言いなりにさせられてたんやとしても、右腕以外の手足を切り刻まれた状態で、鉄格子の隙間から渡された鍵を胸のポケットに入れるなんてこと、どう脅かしたってさせられるもんなんかな?」 「不知火の死因になった毒は即効性で、飲んだらすぐに死ねる類のものだったのだそうです。おそらく不知火は、鍵を胸ポケットに入れる見返りに、その安楽死用として毒を貰ったということなのでしょう。手足を切り刻まれた状態で生きているのは苦しいですから」 「……むごいな。でもだとしても、そんな言いなりになるか? 少しくらい抵抗しても……」 「ヤミ子の拷問技術は並外れています。被害者を脅してノコギリで自身の手足を切断させたという話を、自慢げにしていたくらいですから」 「……それはワイも聞かされた。他にも自分の目玉を自分でえぐらせたとか、それを食べさせたとか。いつでも手の届くところに自殺用の毒を置いた上で、被害者いたぶってどれだけ早くそれを飲ませられるか挑戦したとか。最高記録が十七分とか十五分とか。そういう話ばっかりやった、あの殺人鬼は。……うん。確かにやりかねん。やらせかねん」 「唯一疑問なのは直接の死因となった毒の種類の相違です。不知火のように安楽死の為に服毒するなら、即効性の毒が相応しいはずです。何故末光さんは、服毒から死まで一時間もかかる毒を飲む必要があったんですか?」 「その答えこそが、ワイが末光の計画に協力した理由や」 「……と、いうと?」 「アイツがワイにその計画を話した時、ワイは当然断ったんや。そしたら末光の奴、『死ぬ覚悟はできている』とか言って、ワイの目の前で毒を飲んだねん。……そんなんされたら、もう言うこと聞くしかしゃあないやろ」 俺は絶句した。 酷い方法だ。このまま自分を無駄死にさせる気かと、末光は水島を脅迫したのだ。それでは水島も願いを断ることなどできはすまい。聞き入れようが聞き入れまいが、一時間後に必ず末光は死ぬのだから。 「……ホンマにアホやで。もうイカダも完成しとったのに。何も末光が死ななくたって……ワイが助けを呼びに行けばヤミ子は警察に捕まっとったんや。なのに」 「……何故、末光さんは自らの命を犠牲に?」 「神様から予言を授かったんやと。ワイの乗ったイカダは沈むって。だから、自分が命を犠牲にしてヤミ子を陥れんとあかんかったんやって」 「神の予言……? 確かに彼女は神の声を聞くという『聖女』だ。そういう妄想を抱いている。でも、そんなものの為に、彼女は命を? 「残念ながらその通りや。末光は神様からこんな予言を授かったんやって。 最初の船は男と共に沈み、 咎人の女は森の入り口で朽ち果て、 見捨てた男に次なる船に乗る気骨はない。 アホやで。ホンマにアホや。あいつは。……救いようがない」 そう言って、とうとう泣き出してしまった水島に、俺は何も言えない。望まずして殺人者とならざるを得なかった、望まずして末光の手足を切り刻まざるを得なかった水島に、掛ける言葉などあるはずもない。 〇 「ワイはこれからこのイカダに乗って陸地を目指す。そして必ず助けを呼んで来る。待っといてくれや」 言って、水島は川の隅に寄せていたイカダに手を触れた。 「ワイを藤堂に突き出そうなんて考えんよな? 百地や不知火みたいに、この島の暮らしを気に入っとったりは、せぇへんよな?」 そう問いかけられ、少しの間、俺は逡巡してしまう。 ここにいれば好きにゲームができることは確かなのだ。俺の完走したRTAの動画は今や動画投稿サイトで凄まじい再生数を誇り、『ゆーた』の名はネット中に轟いて神格化されている。そのことに何の喜びも覚えていないと言うと嘘になる。 そして日本に戻れば俺はただの能無しの引き籠りに逆戻り。それも生活を支えてくれていた母親が倒れた今、親類たちによって引っ張り出される寸前だ。そんな状況に戻って、果たして俺はやっていくことができるだろうか? しかし……。そう思いながらも、俺は水島に向けて大きく頷いて見せた。 「今は自由にゲームができて良いかもしれません。しかし、ここにいたら藤堂にずっと生殺与奪を握られっぱなしです。奴だっていつかは俺達に飽きます。そうなった時俺達はどうなるか分からない。だから俺はこの島を出ますよ。だから行ってください、水島さん」 「良く言うた!」 そう言って、水島は俺の肩を強く叩いた。 「心配すんな。おまえのゲームの腕が本物なら、日本に帰っても世界中のゲーマーのカリスマになれるわ。自分を信じろ。しんどいことや不本意なことも多いやろうけど、雄太なら大丈夫やわ。きっと乗り越えていける」 「はいっ」 実のところ、水島の言い分は何の根拠もない勇気付けに過ぎなかったが、不思議と空虚にも無責任には感じなかった。きっとそれは、出会ったばかりの俺のことを、どうしてかこの人は心から信じてくれているからだろう。 「ほんなら……そんな雄太に一つ、頼みがある」 真剣な眼差しで言う水島に、俺は「何ですか?」と問いかける。 「実はな、イカダってここにある一つだけやないねん。もう一つスペアがあるんや」 「何故そんなスペアを?」 「ワイがもし陸地に辿り着けずに沈んだ時に、二の矢として末光に行ってもらうつもりやったんや。ただ末光が死んだ今、雄太、おまえにそのイカダをやるわ。ワイがあかんかったら、おまえがそれに乗って陸地を目指してくれ。頼めるか?」 「分かりました。ただ……陸地を目指すと言ってもどう行けば?」 「西側の海岸から出て、そのままずーっと北西を目指せ。漂流物の内容ややって来る位置から考えて、おそらくこの島は沖縄の南東にある無人島や。沖縄のお菓子の袋とかがたまに流れて来るからな。おそらく、距離もそう大したことがないと思う」 「分かりました。ただ水島さん。俺の出番はないようにしてくださいね?」 「おうとも。そんでもう一つ頼み。イカダに乗って出発するにあたって、積んでいく水と食料を用意してくれんかな? 川の水と獣の肉でどうにかするつもりやったけど、雄太の協力を得られた今、もっとまともなモンを積んでいきたいからな」 「分かりました。任せてください」 そう言って、俺は水島に道案内をしてもらいつつ、森の外に出た。 〇 自分の住む風の館を目指して海岸沿いをひた走る。 島は夕闇に包まれていて、水平性の先には沈んでいく太陽が見えた。 馴れない全力疾走で汗をかく俺の身体に、潮の匂いを乗せた浜風が浴びせかけられる。一歩一歩踏み占めるごとに、自分はこの島から出るのだという実感が、胸の奥から湧き上がって来た。 俺は何もかも異常だったこの島の暮らしの方に思いを馳せる。この島には頭のおかしな令嬢がいて、狂執的なスプリンターや聖女がいて、そして生まれて初めて友達になった殺人鬼の女の子がいた。 ……そうだヤミ子だ。 俺は彼女に思いを馳せる。藤堂とその部下達に捕まって、今にも処刑されそうになっている。俺は彼女の為に末光を殺した犯人を捜していたのではなかったか? 真犯人を藤堂に突き出して、ヤミ子を助けたかったのではなかったか? 俺は確かに真犯人を見つけ出した。だが俺はそいつを突き出していない。むしろ、俺はその真犯人である水島を島から逃がそうとして、その為の物資を取りに、自分の館に走っているのだった。 向かい側から、全身を赤く染めたヤミ子が歩いて来た。 驚いて俺は足を止める。ヤミ子は左脚と右肩から血を流していて、患部を左手で抑えて痛そうに顔を顰め、全身を引きずるように歩いて来ていた。一歩進むごとに全身のどこかが僅かに跳ね上がるかのような、不器用で緩慢な歩き方。軽やかな身のこなしで、幾多の殺人行為を行っていた頃の、面影はない。そこにいたのは一人の傷ついた女の子だった。 「ヤミ子」 俺は思わず声をかける。ヤミ子は今にも死にそうな表情で、こちらに気が付いたように顔を上げた。 「どうしたんだ? ケガをしてるじゃないか?」 「……殺されそうになったから、透子ちゃんのところから逃げ出したの。でもその時、後ろから銃で撃たれて、それで……」 良く逃げ切れたものだ。殺人鬼地獄坂ヤミ子の超人的な身体能力が可能にした行いだろうが、しかし今のヤミ子は血を流し過ぎて今にも倒れ込んでしまいそうにしている。 介抱するべきなのだろうか? いや、そんなことをしても……。 「わたし、晶ちゃんのことは本当に殺していないの」 目を伏せて、今にも泣きそうな顔でヤミ子は言う。 「知ってるよ」 「ありがとう。あのね雄太くん。その……」 そう言って、ヤミ子は顔を俯けて一瞬、葛藤するような様子を見せてから、俺と目を合わせずにこう言った。 「……何でもない」 そして、己の身体を引きずって、俺とすれ違って歩き去ろうとする。 今にも消え入りそうなヤミ子。このまますれ違ってしまいたくなくて、しかし掛けるべき言葉などあるはずもなくて、それでも俺は、大きな欺瞞を自覚しながら、こう口にすることをこらえ切れなかった。 「大丈夫?」 ヤミ子は振り返り、せめてそう声をかけてもらえたことを喜ぶような、儚げな表情で答える。 「すごく怖いわ。でも色んな人を殺して来たんだから、自分もそうなることに納得はしてる」 「……そうか」 「でも、思い残しがない訳じゃないの」 「何だ?」 「お母さんと妹を一目見たい」 絶句する俺から、ヤミ子は静かに視線を外した。そして表情の見えなくなったヤミ子は、俺から背を向けたまま、くしゃくしゃになった声でこう言い残す。 「でも考えてみれば、それは傲慢な望みよね。……じゃあね雄太くん。さようなら」 体を引きずるようにして、ヤミ子はその場から、俺から離れて歩き去る。 最後まで、ヤミ子は『助けて』とは言わなかった。 〇 ヤミ子は藤堂達から追われている。自分のコレクションを殺したと思われているヤミ子を、藤堂が生かす理由は最早どこにもないはずだ。 今に藤堂は島中に部下達を離してヤミ子を探そうとするだろう。そうなったら、手負いのヤミ子では抵抗できない。最早彼女は凶悪で無敵の殺人鬼などではなく、一人の傷ついた女の子に過ぎないのだから。 そのことはヤミ子が何よりも分かっていただろう。分かった上で、それでも殺されない為に、殺されるまでの時を一秒でも遅らせる為に、この島の中を当てもなく逃げ続けない訳にはいかなかったのだ。 そんな時に向かいから走って来た俺に……ヤミ子はどれほど救いを求めたかっただろうか? 『助けてやる』『匿ってやる』その言葉をどれほど俺から聞きたかっただろうか? それでも俺はヤミ子に『助ける』とは言わず、ヤミ子もまた俺に『助けて』とは言わなかった。 〇 俺は息を切らしながら自分の屋敷から水と食料を袋に詰めて運び、水島の待つ森の中へと戻って行った。 「ありがとう! これで飲み食いはばっちりや!」 「早く出て行ってください。ヤミ子が藤堂のところから逃げ出しています。これから藤堂の部下達はヤミ子を探しに島へ放たれるはずです。それに水島さんが見付かったらまずい」 「ホンマか? 分かった。出発は朝まで待つつもりやったけど、今すぐ行く。イカダを海まで運ぶ手伝いをしてくれるか?」 「了解しました」 海に浮かべたイカダに食料の入った袋を置き、縛ってある紐を自分の脚に括りつけた後、イカダに取り付けられた二本のオールを持って水島は俺に向かって手を振る。 「必ずまた会おうや、雄太」 「はい。お願いします、水島さん」 日はほとんど沈み切っていた。夜空の闇を映し出した海は限りなく暗く深く、潮の匂いも昼よりも濃密に感じられる。俺は水島から受け取った懐中電灯を持って森の方へと引き返し、注意深く森を歩く。森の中がどうなっているのかは、水島から詳しく教わっていた。 森の中に藤堂の手下の気配はなかった。ヤミ子を探すとすれば、真っ先に逃げ込みそうなこの森を調べない道理はない。と、なると、探索はまだ行われていないのかもしれない。 手負いとは言え、殺人鬼に夜戦を仕掛けるのは危険だという判断なのだろう。それに、ヤミ子を朝まで泳がせておいたところで、この島に逃げ場などどこにもない。翌朝に探索が開始されれば、あっさりとヤミ子は発見され、処刑される。 「……それじゃダメだよな」 深い森の闇の中で、俺はそう独り言ちた。 「いくらヤミ子が殺人鬼でも、ここでそんな風に殺されるのは、ダメだよな」 ヤミ子は言った。母親と妹を一目見たいと。 明らかにヤミ子を虐待していた母親と、ヤミ子に自分の食べ残しや飽きた玩具を与えていた妹。そんな彼女らのことを、ヤミ子はきちんと愛していたのだ。愛していて、愛されることを求めていて、与えられないことに苦しみ、そして今でも求めているのだ。 ヤミ子はどんな相手のことも何の容赦もなく苦しめて殺した。愛する人に助けを求めながら、孤独の中で死んで行ったのだ。だから、母と妹に会えないままヤミ子が死んだところで、それは因果応報と言うべきなのだろう。 だがそんな道理を俺は問題にしたくなかった。俺はこの島でヤミ子が俺に見せた微笑みに応えたかった。俺と友達になってくれたことに応えたかった。ヤミ子が万死に値する大罪人だからと言って、俺が彼女を見捨てるのが正しいことだとは思いたくなかった。 俺は森の中を数時間かけて彷徨い続け……、そしてヤミ子を発見する。 隠れるでもなく蹲る彼女のいる大樹の陰は、森の入り口付近だった。 〇 俺はヤミ子に手を差し伸べる。 ヤミ子は驚いた表情で顔を上げた。そして俺の差し出している手を見詰めると、泣きそうな表情で俺に言う。 「ありがとう。でもいらないわ。わたしを庇ったら、あなたまで透子ちゃんに殺される」 俺は首を横に振る。 「本当にいいの。わたしはこの島で透子ちゃん達に撃ち殺されて死ぬのよ。今もその覚悟を決めようと頑張ってるところなのよ」 「そんな必要はないよヤミ子」 「あるわよ。あなたが最後に手を差し伸べてくれたのは嬉しい。最後の最後、一人でもわたしの味方になってくれる人がいたってことが、わたしのこれまでの人生で一番嬉しい。だから良いの。それで十分なの」 「俺はヤミ子を見捨てないよ」 「どうにもならないわ。あなたにわたしを匿わせて足掻いたところで、わたしがこの島で死ぬことは絶対に打ち消せない。だからわたしは一人で死ぬわ。死ぬべきなの。お願い、もうどこかへ行って」 「助かるんだ! 本当に助かるんだよ、ヤミ子」 俺は強い口調で訴える。 「イカダがあるんだ。俺とヤミ子をこの島の外へと連れだしてくれる、立派なイカダが。それに乗って一緒に島から出よう。なあ、ヤミ子」 そう言うと、ヤミ子は目を丸くして立ち上がった。 「どうしてそんなものがこの島にあるの?」 「水島さんが作った。死んだと思ってたけど、生きてた。末光を殺したのもその人だ」 「そんな……」 「でも今更その人を突き出すことはできない。水島さんはもう島にいない。イカダに乗って島を出た。水と食料を調達した俺も、藤堂にバレればきっと殺されるな。いなくなった水島さんを、俺と一緒に藤堂に告発するか?」 「そんなこと言わないで!」 ヤミ子は言って、俺の胸元に抱き着いて泣きじゃくった。 「いくらわたしが殺人鬼でも、友達のあなたを突き出すような真似はしないわ。……する訳がないじゃない」 血を流し続けたヤミ子の体温は今にも消え入りそうな程だった。柔らかな華奢な肉体と髪の匂いを感じながら、俺はヤミ子を抱き締め返した。 「朝になったら藤堂達に見付かってしまう。一刻も早く、俺と一緒にこの島を出よう」 「良いの? わたし……人殺しなのよ」 「そのケガじゃもう人殺しはできないだろう? 島を出たって、すぐに捕まるだろうな。それでもこの島で殺されるよりずっと良い。死刑囚としてでも更生や贖罪のチャンスが手に入るなら、そうするべきだ。お母さんや妹だって、面会に来てくれるかもしれない」 「こんなわたしに、あなたはどうしてそこまでしてくれるの?」 「友達だからだよ」 俺は言う。 「きっとヤミ子をこの島から連れ出してやる。だからさ、ヤミ子。一緒に行こう」 そう言うと、ヤミ子は涙に濡れた顔で唇を結び、大きく頷いたのだった。 〇 末光は神の声を聞いてこう予言した。最初の船は男と共に沈み、咎人の女は森の入り口で朽ち果て、見捨てた男に次なる船に乗る気骨はないと。 だが俺はそんな予言を信じなかった。水島の乗せた船は沈まないし、ヤミ子は森の入り口で朽ち果てない。俺だってヤミ子を見捨てない。ヤミ子を乗せて、次なる船で地上を目指すのだ。 水や食料、それにヤミ子を治療する道具は水島の分とは別に用意しておいた。ヤミ子の治療を済ませた後、俺はイカダを島の西側の浜まで運び、食料とヤミ子を乗せて出発した。 「……お母さんと真希はわたしに会いに来てくれるかな」 イカダに取り付けられたオールを漕ぐ俺に、膝を抱えたままのヤミ子は不安げに声をかけて来た。 「きっと来てくれるよ。来なかったとしても、俺がそいつらを見つけ出して、必ずヤミ子のところへ行くように説得する」 「……死刑囚の面会に来られるのって、家族だけなのよね」 「裁判中は必ず会いに来る。それに、別に家族になったって良い」 「ありがとう。けれど、必ずお別れの時は来るのよね」 そう言うと、ヤミ子は膝に顔を埋めるように沈黙する。 そうだ。別れは来るのだ。ヤミ子が処刑台の階段を登る時は必ず来る。それはこの国では絶対に果たされなければならないことだ。それを打ち消す方法はないし、それは打ち消すべきでもないことだった。 ヤミ子は泣いている。傷付いた体を小さく丸めて、震えながら嗚咽を漏らし始める。 オールを漕ぐ手を止めて、俺はヤミ子の震える肩を抱く。 この華奢な身体を抱きしめていてあげられるのも、この船に乗っている僅かな間だけ。 生まれて初めて出来た友達だった。綺麗で素敵な女の子で、一緒にいると楽しくてたまらなかった。自分にはゲームしかいらないと思っていた俺に、こんな友達ができるとは思ってもみなかった。 だがそんなヤミ子も、これから必ず報いを受けて死刑になるのだ。ヤミ子が殺人鬼でさえなかったら、俺にとってどれだけ良かっただろうか。 波の音がする。出発した島から生える木々の遥か上で金色の満月が輝いている。 涙の雫が垂れ落ちる冷たいイカダの上で、静かな潮風が目に染みた。 |
粘膜王女三世 2021年12月31日 20時20分58秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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