ソムニア・オムニア ——人魚の殺人—— |
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※この作品には残酷表現やグロテスクな描写が含まれています。 苦手な方は強くブラウザバックを推奨いたします。 遺骸だとすぐに判った。 弛緩しきった体躯。とうに途絶えた呼吸。まるでそれ以外の可能性が端から失われているかのように、単純な定理から機械的に導かれるように、それはどうしようもなく遺骸だった。高く揺らめく水光を背に、胸から赤い煙霞を立ち上らせながら落ちてくる。優雅なまでに緩慢な速度で、ただし確実な重みをもって沈みくる――人魚の遺骸。 腰から下、人間の脚にあたるだろう尾部は豊かでしなやかな質量を伴い、注ぐ陽に宝石細工を思わせる鱗光を返している。透き通った水の中で両腕は滑らかに青褪め、何を求めるでもなく無造作に放り出されていた。そして、その中央に深々と突き立てられたナイフ。 擦れ違った瞬間、彼女の表情が目に入る。 水の中で力なく開かれ、瞳孔の広がり切った双眸。ともすれば吸い込まれそうにも思われるその瞳はしかし、真倉黎二の脳裏に大した感慨を引き起こしはしなかった。そうであるのは自明なのだから、今更何かしらの感傷を覚えるほどのことではない。……目を閉じ、静かな水面下に揺蕩う。いつもと同じように。早く夢から覚めるように。 ――駄目だよ、真倉くん。 数瞬の後、聞こえてきた声に目を見開く。 顔を向けるといつからそこにいたのか、まるでこの夢が自分の居るべき場所であるかのように、制服の裾を海中に揺らす少女の姿があった。彼女は束の間の遊覧を楽しむような表情で、同じく海奥に漂う真倉を視線で促す。 ――ちゃんと見なきゃ、これは君だけの夢じゃないんだから。君には全部を見届ける責任がある。ほら、あそこには何がある? 何が見える? 言われるままに意識を移すと、彼女が指差した遠い水面には朧げな影が映っていた。燦々と輝く境界の向こう、自分たちに視線を注ぐ一つの影――いや、自分はこの光景を見ているに過ぎないのだから、「それ」が見ようとしているのは遺骸の方なのだろう。 人影。遺骸。ナイフ。 悍ましい何かの表象、あるいは代理。 これらが何を意味しているのか、真倉には判らない。何故人魚なのか。何故死んでいるのか。あの影は一体誰なのか。あらゆる情景は理解も解釈もなくただそこに在るだけであり、それ以上でも以下でもない雑然としたイメージの継接ぎに過ぎなかった。 なぁ、由芽。 故に彼は訊ねる。お前ならどう解釈するのか、と。少女は束の間意外そうな表情になったが、ゆっくりと光の降り注ぐ水面に目を戻すと、相変わらずの楽しげな微笑みを浮かべ、言う。 そうだね。あたしが解釈するなら――。 人魚の殺人 1 「……ん」 硬い床の上で目を覚ます。 壁に寄り掛かった姿勢から身を起こすと、辺り一面の薄暗がりが目に入った。その最中にゆっくり明滅する蛍火と、足元で絡み合いながら蔓を伸ばす灌木。……どのくらい寝ていたのだろうか。寝起き特有の仄かな混乱に襲われ、真倉はぼんやりとした頭で考える。 アラームが鳴った記憶はないため、少なくとも寝過ごしたわけではないのだろう。制服のポケットからスマホを取り出し確認すると、時刻は果たして十四時前。約束の時間にはまだ少し早い。しかし、二度寝する余裕まではさすがになかった。 群生する荊棘を避ける形で、地面に手を突いて立ち上がる。 息をすると緑のにおいが鼻を衝いた、気がした。 元々は小規模な視聴覚室として利用されていたらしく、陽が差し込んでくるはずの右手、窓側には遮光カーテンが下ろされている。左手の壁後方、引き戸の上部には小窓が嵌め込まれていたが、今は段ボールの切れ端で塞がれていた。 とは言え隙間から漏れる明かりで完全な暗闇とは言い難く、部屋中に繁茂する植物の数々をはっきりと視認できる。旺盛な生命力で壁に床にと顔を覗かせる侵略者――草いきれすら肌に感じられるような錯覚に、真倉は小さく首を振って歩き出す。 セロトニンがどうとか言うのは、朝の話だっただろうか。 歩を進めながらそんなことを考える。……意識はすでにはっきりしていたが、この暗さではろくに目覚めた気がしなかった。 窓辺に立ち止まり、分厚い生地に手を掛ける。 そのままカーテンを引き開けると、曖昧な空間に強烈な陽射しが照り付け、 「ぎゃう」 ――同時に、小さな悲鳴が上がった。 瞬間、我が物顔で根を下ろしていた植物たちが示し合わせたように姿を消し、がらんとした空き教室が元の姿を取り戻す。 叫び声を意にも介さず、次々と暗幕を開けて回る。 「そろそろ起きろ、由芽。二時間は経ったぞ」 「あと……五十分……」 背後から聞こえてきた声に、真倉は溜息を吐きながら振り返った。 横になった状態から更に膝を丸め、背の丈ほどはあるクジラの抱き枕を顔のあたりまで引き上げている女子生徒。そうした姿勢で眠っていたからだろう。茶色と言うにも色素の薄い長髪は寝癖で散々に乱れ、身に着けた制服もところどころが皴になっている。 由芽と呼ばれた少女は言葉を発したきり呻いているばかりで、やはり一向に起きようとする気色がない。埒があかないと真倉がクジラを奪い取ろうとすると、抗議するように尾の部分を掴んだため、彼女ごと床の上を引き摺る格好になる。 「うー。真倉くんの鬼、悪魔、根性なしー」 「根性なしは余計だ。いいから起きろ、何のために学校まで来てる」 すると由芽は、 「眠るため」 と言い切った。 曇りのない瞳だった。 「ふざけろ」 「あっ」 強めに引っ張るとさすがに持ち堪えられなかったらしく、抱き枕が手を離れ、華奢な体が勢いよく床面に投げ出された。べちゃり、という鈍い音。そこまでする気はなかった。 「目は覚めたか」 「……今ので起きなかったら死んでも起きないよ……にしても真倉くん、女の子を振り回すなんて強引だね。よっ! この色男! ……まだ世界がぐるぐるする……」 のそりと起き上がり、右に左にと揺れながら言う。 余計な抵抗をするからだ――真倉はそう返そうとも思ったが、結果として振り回したのは事実だ。根に持たれても面倒だと、無難に話題を逸らしておくことにする。 「それはともかく、……また幻覚が出てたぞ。それも教室中に」 ぴくり。 由芽は寝ぼけ眼を擦っていた手を一瞬止め、口を開く。 「あー……最近寝れてなかったからね。ただ真倉くん、それは少し違うよ」 「何がだ」 少しだけ凛とした瞳が真倉に向けられる。 「幻覚っていうのは心の中から排除された言葉や要素がそのまま現実界に出てきちゃってるもので、そもそも個人的で無意識的な現象なんだよ。排除されたものは必ず回帰してくる、ってことだね。だけど言語のレベルと違って現実ではあるものはあるし、ないものは絶対的にないわけだから、その要素は対立項を失った状態で現れる。つまりは『ない』可能性がそもそもなくて、否定したところで意味がないんだ。言い換えれば、その人にとっては『ある』しかない――ここで真倉くんの言ったところの『幻覚』を考えてみると」 「……少なくとも否定はできるから当て嵌まらない、か」 狙い通り食いついた。「それなら夢はどうなんだ。あれも幻覚の一種か」 「広い意味ではそうかもだけど。夢は脳の情報整理って言われていて、寝ているときは恒常的に見ているものだから、基本的には幻覚って言葉が持ってるほどのニュアンスはないかな」 「恒常的に? 夢を見ない眠りもあるだろう」 「ううん、眠りが浅いときに意識まで上ってくるだけで、眠っている間は誰しも見てるんだよ。ほら、レム睡眠って聞いたことあるでしょ? たしかに強い意味を持つことほど印象に残りやすいって点では共通してるけど……あれ? じゃあもう幻覚でもいいのかな。ともかく、外に出てきて真倉くんに見えてる時点でそれは違うかも、って思ってたんだけど」 「過去形だな」 「えへ。口に出して気付くことって結構あるよね」 知るか。 真倉はクジラを投げて寄越す。受け取った由芽は「イルカちゃん投げないでよ!」と文句を言ったが(イルカだったのか、と思った)、それに対して逐一反応はしない。これだけ口が回るなら、動ける程度には目も覚めているはずだった。 「約束があるんだろう、そろそろ行くぞ。……二時半だったか? その前に少し歩いて頭を働かせておけ」 「えー……もうちょっと寝たいんだけど。まだ三時間も寝てないよ……?」 「二時間も眠れば十分だろう。それに約束したのはお前だ」 「むー」 由芽はクジラ(イルカ)に顔を埋めて上目遣いを向ける。 それでも動じない真倉に由芽はしばらく不満そうな様子だったが、やがて「じゃあさ、真倉くん」と瞳を不穏に光らせた。「こうしようか。交換条件」 「条件を出せる立場か? 別に俺は着いていかなくとも、」 「――誰かさんに振り回されて気持ち悪くなっちゃったからね」 ぐ、と真倉の顔が歪む。 「あー、これはカフェオレでも飲んで休憩しないと治りそうにないなー。そう言えば、まだ時間はあるんだっけなー。購買に寄ったらちょうどよさそうだなー」 はぁ。 とぼけた調子の言葉に、また一つ溜息を吐く。 「……好きにしろ」 「やったぁ! さすが真倉くん」 クジラ(イルカ)を投げ出す彼女を前にして、眉根を揉む。 誤魔化しきれなかったか。……こういうところだけ執念深い。 旧視聴覚室はF棟三階に位置している。 購買のあるD棟へ向かうには階段を下り、一旦外に出てからもいくらか歩く必要がある。一言で言えば辺境であり、移動の便が良いとは言い難い。故に使われなくなったのだろうが、人が来ないため眠るのに好都合ではあった。 真倉一人なら五分で着くところをたっぷり十分掛けて移動し、D棟は二階部分に位置する購買でカフェオレ(カフェインレス)を購入する。……由芽は「デカフェ反対! 何もでかくない!」と喚いていたが、無視した。金を出すのは真倉だ。 歩きながら由芽は憤慨する。 「――もう! どうせカフェイン入ってないなら抹茶ラテとかがよかったのに! どうして勝手に決めちゃうのさ……ずるずる」 「音立てて飲むな」 素知らぬ顔で窘める。「それに、抹茶も同じくらいカフェイン入ってるだろう。どさくさに紛れて誤魔化そうとするな」 「……誤魔化そうとしたのは真倉くんだけどね」 不満げな顔で、ちゅー、とカフェオレを啜る。 普段ならそれなりの往来がある廊下に、二人以外の人影はない。遠くから吹奏楽部の演奏が響いてくるだけで、それもそのはず、今日は午前で授業が終わったのだった。 午睡を誘う気怠い陽気の中、どこかで聞いたことのある旋律が流れてくる。非日常的な雰囲気を湛えた通路は、夢の中を連想させた。そうしているうちに、ストローを咥えながらうつらうつらとし始めた由芽を、「おい」と真倉が起こす。 「眠いのは分かるが、ただでさえ判断力が落ちてるんだ。せめて歩いてるときは目を開けろ」 「命令が多いね……仕方ないじゃない、あたしはテストでもう限界なんだよ……」由芽は小さく欠伸を漏らす。 「なら何で今日を指定した。こうなることは分かってただろうに」 「決めたのはあたしじゃないよー……ちゅー」 ぼやく彼女を引き連れて、再び校舎の外へ出る。 目的地であるG棟――通称スポーツ棟は、通常授業が行われるA~C棟からほど近い立地に位置している。D棟からもそれなりに近く、足取りの覚束ない由芽と一緒であっても移動にそれほど時間は掛かりそうになかった。 ただし、棟と銘打ってはいるが実態は「場」で、体育館やグラウンド等、その他諸々の施設を合わせてG棟と呼称されており、敷地面積は校内で最も広いと言えた。普段なら部活動に勤しむ生徒で溢れ返っているところ、部活禁止期間であるためか、その姿はあまり見受けられない。 テニスコートを囲むフェンスを横目に通り過ぎると、どことなく塩素の臭いが漂う建物に足を踏み入れる。そこで一旦左右に分かれ、男女それぞれの更衣室を通過する。靴下を脱ぐ以外に着替える必要はなく、真倉はほとんど素通りするだけだったが、それでも出口で由芽と合流するまでに数十秒は待たなければいけなかった。 「早いね真倉くん……ちゅー」 「それは置いていけ。クジラもだ」 「イルカちゃんだってば」 「どっちでもいい」 のろのろと戻っていった由芽と再合流するまでに、一分強。手を貸せばそこまで掛からなかっただろうが、人がいないとは言え女子更衣室に入るつもりはなかった。 そうしてようやく、二人は待ち合わせ場所に到着する。 由芽は感嘆の声を上げた。 「わぁ……プールなんて久しぶりだよ。泳ぎたいなぁ。でも最近泳いでないんだよなぁ」 「やめとけ。溺れても助けないぞ」 「……ちぇー。真倉くんの薄情者」 屋内プールの全景は、比較的新しい、ように見えた。 大会などでも利用されるのだろう、全長五十メートルのロングプールは手入れが行き届いているようで、プールサイドにも目立った破損は見られない。すぐ正面の壁はガラス張りになっており、向こう側の景色も覗くことができた。 建物から少し離れた位置で等間隔に整列する糸杉。屋内の明かりが小さめに設定されているからか、燦々と差し込む木漏れ日が床やプールへ微妙な陰影を落としている。そのため水面が動いているのか、木漏れ日が動いているのか判別し難かった。 そして、揺らぎの中で泳ぐ一つの影。 「――――」 真倉は言葉も忘れてその姿に見入る。 それほど飛沫を立てていないにも関わらず、しなやかな躰が糸で引かれるように水面を滑っていく。かなりの速さがあるはずだったが、力を入れているようには見えない。それはただ伸びやかな泳ぎで、「競泳」よりは「遊泳」の趣さえある、優雅なフォームを終止保ち続けていた。 ふと視線を送ると、寝起きの少女は髪を揺らして意味ありげに笑う。 「まるで『人魚』みたい、だね?」 「…………。そうだな」 どれほどそうしていたのか。 影は二人の来客に気づいたようで、右端で泳ぐことを止めてプールをゆっくり横断し、備え付けられた梯子から地上に這い上がった。 そのまま指先で競泳水着の裾を直しつつ、ひたひたとプールサイドを歩いてくる。ほっそりとした肢体は競泳選手ほど鍛えられてはいないようだったが、華奢と言うよりは鋭利という印象が強く、どうやってあの速度を出していたのか真倉には解せなかった。 やがて手前で立ち止まると、これといった感情の宿っていない瞳を由芽に向ける。 「時間には少し早いようだけど」 「えへへ、遅れるよりはいいかと思って。迷惑だったらごめんね、湊(みなと)ちゃん」 「……別にいいわ」 彼女はキャップを外し、長い黒髪を露わにする。 軽く頭を振ると、髪筋が整った顔立ちの横を流れ落ち、差し込んでくる光をわずかに反射しつつ、大きく空いた背中部分で流れを止める。その際真倉の方へ目を向けたが、そこにはやはりどうといった感情も籠ってはいなかった。 視線を戻して口を開く。 「着替えて来るわ。……ここで話も何だから」 購買横に設けられたラウンジにはちらほらと人影が見受けられた。 試験明けの解放感からか銘々が思い思いの作業に耽っており、読書に勤しむ者、友人と談笑する者――散在する丸テーブルにぽつぽつと生徒たちが集まっている様子は、宛ら海に浮かぶ群島を想像させた。繋がっているようで隔てられている、孤島の群れ。 プールから移動してきた一行も席に着いていた。先ほど泳いでいた少女の正面に由芽が座り、その傍らに真倉が控える形となる、「相談」の際にはお決まりの位置取りだった。 「じゃあ、あらためて自己紹介するね」 いつもの眠気はどこへやら、由芽は一転、はきはきとした声音で言う。 「あたしは一年の園浦由芽。こっちが真倉くん。あたしの付き添いみたいなものだから、あんまり気にしなくていいよ」 「小梢湊」 少女は短く答えた。 折り目正しく制服を着こなしてはいるが、長い黒髪はまだ濡れていた。ほぼ初対面の二人を前にして、気後れした様子はない。淡々とした口調も相まって、そこにはどこか超然とした、近寄り難い雰囲気があった。 ただ、真倉を一瞥して口を開く。 「……それにしても、付き添い、ね。先生の紹介だし信用はするけれど、まさかカップルで来るとは思わなかったわ」 「え、そんな風に見える? えへへー、どうしよう真倉くん、カップルだってー」 「世話係だ」 真倉はさらりと受け流す。「こいつは一人で出歩けないからな」 その言葉に、湊は怪訝そうな表情を見せた。 「出歩けない? お付きがいないと外出できない……ってわけじゃないわよね」 「あはは、違うよ湊ちゃん。あたしがちょっと不眠症でね。一人で行動するのは危険が危ないから、真倉くんに付き合ってもらってるの。……あ! 相談にはちゃんと乗れるからね」 微かに目を見開き、湊は少しの間絶句する。 「単独行動できないほどの不眠症って――それ、大丈夫なの」 「大丈夫大丈夫。問題があるなら先生が紹介するわけないでしょ? 湊ちゃんも会ったんだよね。来海ちゃんはあたしの主治医みたいなものだし」 「そう。……ならいいんだけど」 良くはない。 二人の会話を聞きながら、胸の中で真倉は独りごちる。世話係だけならともかく、体調管理まで任されたのではたまったものじゃない。 「うんうん。だから安心して――」 真倉のそんな胸中を余所に、当たり障りのない会話がしばらく続く。 試験はどうだったか、どうしてプールを待ち合わせ場所に指定したのか、等々。特に「相談」とは関係なさそうな内容だったため、その間真倉は瞑目して束の間の休息とする。介添えに気を遣い続けていたこともあり、どこかで休んでおきたかった。 そうしていると、二人のだけでなく、周囲の会話も耳に飛び込んでくる。意味を持たないバラバラのフレーズが意識の表層を滑り、何の痕跡も残さないままに過ぎ去っていく。まるで辻占のようだ、と思った。通りで人の声に耳を傾け、偶然入ってきた言葉をお告げとする、運任せで他人任せな占いの一種。 しかし、耳に飛び込んでくる断片的なフレーズに気を引くものはなく、従ってノイズ以外の何物でもなかった。その、自らと関わりのない記号の手触りが真倉にとっては心地良い。ざらざらとした、ごつごつとした物質としての言葉。 「――分からないのよ」 こぽり。 そんな折、それだけが鮮明に聞こえてきた。 がちゃがちゃと犇めき合う雑音の中から、一つだけ浮かび上がるようにして耳朶を打つ他とは違う質感の声。真倉は目を開き、視界に飛び込んできた光景に硬直する。 小梢湊が、水の中にいた。 「……?」 思わず目を擦ると、その錯覚は掻き消える。それは本当に見たかどうかも定かではない一瞬の出来事であり、「気のせい」で片付けられなくもなかったが、真倉が二人の会話に注意を向けるには充分過ぎる契機だった。 由芽がテーブルの上に身を乗り出し、興味津々といった様子で訊ねる。 「分からない?」 「えぇ。愛とか恋とか――誰かを好きになるっていう気持ち。今まで一度もそういうことはなかったから。だから本当にこの気持ちが恋なのか、どうしても分からないのよ」 「ふんふん。つまり湊ちゃんが今日会いに来てくれた理由って、恋愛相談になるのかな」 「会いに来てくれたのはあなたたちだけど……まぁ、噛み砕いて言えば」 湊は居心地が悪そうに体を揺らす。 ※ 「彼に最初に会ったのは、春に友人と弓道部の見学会へ行ったとき。 「せっかく高校に入ったんだから、どこかに所属しておいた方がいいって言われて。 「だけどわたしはどの部活にも所属する気はなかったから、要するに、彼女の顔を立ててのことね。中学時代からの付き合いで、この高校に入ってからも仲良くしてたから。昔から行動力のないわたしを引っ張ってくれていて……まぁ、その話はいいわ。 「とにかく、そのときに彼に会った。 「一言で言えば笑顔の爽やかな人で、人気もあるのでしょうね、他の学年からも女の子たちが彼を見に来ていたわ。友人も熱心に見入っていて。わたしはあまりそういうことに興味がなかったし、少し遠巻きにしていたけれど。 「人が多いのは好きじゃないのよ。……えぇ、趣味で水泳はやっているけれど、だから部にも入ってはいないわ。 「彼は見るからに『王子様』って感じで輝いていて、確かに格好良かった。ただ、わたしとは棲む世界の違う人間だと思った。明るい世界を歩いている人間で、この先関わり合いになることはないんだろうな、くらいの。最初はその程度の印象よ。 「だけど実技を披露するって段になって、わたしは目を奪われた。 「的に向かって弓を構えると、それまで明るく話していた彼の表情が、すっ、と沈んで行って。もう、そこには彼と的しかないみたいだった。周りの女の子たちも彼の世界にはいなかった。多分、気になり始めたのはそのときね。 「あぁ、こういうときに人の性格が見えるんだなって思ったわ。さっきまで陽気に振舞ってはいたけれど、こっちが彼の本質なんだろうな、って。そう考えたらもう、彼から目が離せなくなっている自分がいた。 「棲む世界が違うだなんて。 「彼はただ、自分を隠しているだけだった。 「この人ならもしかして、わたしのことも理解してくれるんじゃ。そう思ったら、もう駄目だった。どうしようもなく心を奪われている自分がいて、帰り道もずっと彼のことを考え続けていたくらい。……初めての経験だった。 「友人も熱に浮かされたようになってて、きっとあの日、見学に来ていた子たちは皆、彼に魅了されていたと思う。それくらいの魅力が彼にはあった。 「だから同時に、手が届かない存在とも思ったわ。わたしなんかが話し掛けたところで、相手にされないんじゃないかって。でも……分かっていても苦しいのよ。 「彼に会いたい。 「わたしを見て欲しい。 「話がしたい。……身の丈に合わない望みだと分かっていても、どうしようもない。 「あれほど人気なんだから、もう彼女もいるのかも知れない。それ以前に、わたしは彼の好みに合わないかも知れない。そこまで考えて、わたしは彼のことを何も知らないことに気付いた。 「諦めることは簡単だけど、何も知らないうちに諦めるのは難しい。 「もしかしたら望みがあるんじゃないかって、思ってしまうから。でも、交友関係の少ないわたしには、彼を知る手段がない。 「諦めたいのに、諦めきれない。 「諦めるために。 「――彼のことが、知りたい」 ※ 「身勝手なお願いとは承知しているけれど」 そうして小梢湊は、由芽の方を見て言う。 「彼のことを、調べてくれないかしら」 2 壁沿いに置かれた簡素な事務机には、ファイルが整然と背表紙を並べていた。 それに続いて腰ほどの高さでキャビネットが一つ、背の高い薬棚が二つ、空間を陣取っている。逆側の壁には窓と並行になるようにベッドが三床。まるで個室のように淡いピンク色のカーテンで仕切られており、今のところは埋まっていない。 空いたスペースの中央には、メラミン樹脂で作られた楕円形の白いテーブル。真倉はそこに腰を落ち着け、持参した文庫に目を通していた。隣の相談室から時折「助けて―!」という声が聞こえてくるが、意に介さず活字を追う。 保健室、兼カウンセリングルーム。 小梢湊から相談を受けた翌日、話を聞きがてら由芽の診察に来たのだった。元々、湊が相談を持ち掛けたのがここであったこともあり、ある程度の情報共有をしなければ下手に動くことはできない、と判断したのだったが。 またしても「ぎゃー」と隣室から悲鳴が響いてくる。 五月蠅いな、と顔を歪めながらも頁を捲り続ける。 ……そうこうしている間に診察は終わったようで、由芽が両手で顔を覆いながら相談室から退出してきた。見ると、由芽の足取りに力はなく――いつものことではあったが――しくしくと嗚咽を漏らしている。 「穢されたぁ……」 穢されたらしい。 後に続いて、白衣の女性も姿を現す。 「潤うわぁ……」 潤ったらしい。 真倉は本を閉じると、女性の方に声を掛ける。 「それで、どうですか来海先生。由芽の症状は?」 「うん? あぁ、そうね――」 養護教諭――来海蝶子はそこで初めて真倉に気がついたとでも言いたげに視線を送ると、キャスター付きの事務椅子に腰掛け、口を開いた。 「――やっぱり由芽ちゃんのお肌はいいわね。もちもちのすべすべ」 「真倉くぅん……」 とぼとぼと歩いてきた由芽が真倉の隣に座る。どのような目に遭ったのかは想像に難くなかったが、知ったことではなかった。 問題は診察の結果であり、今後自分に割り振られる役割の多寡だ。 真倉は眉を顰める。 「ふざけないでくれませんか。病状次第では俺にも影響がある」 「相変わらず冗談が通じないわね、真倉くん。折角の男前が台無しよ?」 それには応えず、視線を向け続ける。 来海教諭は、ふぅ、と溜息を吐いた。 「……健康状態に変化はないけれど、症状にも改善は見られないみたいね。いつも通りに原因不明で、これといった対処法もなし」 「そうですか」 「今までと同じように、あなたに協力を頼むしかなさそうね。やっぱり専門外来の受診をおすすめするけれど、今まで効果が出ていない以上、それで治るとも保証できないし」 第一、と来海教諭は足を組む。 「誰かが傍にいる間しか眠れないなんて、常識的には考えられないのよ。普通は防衛機制なり何なりが働いて、無理やりにでも意識が落ちるものなのに、それもない。……かと言って並大抵の睡眠薬じゃ効果もないんでしょう? そんなもの、一介の心理士にはお手上げよ」 実際に両手を上げ、来海蝶子は口の端を歪める。どうせそんなことだろうと思っていただけに、教諭を責めるつもりは毛頭なかったが、やはり失望は禁じ得なかった。 園浦由芽は、眠ることができない。 心理的にも器質的にも問題が見られないに関わらず、独力で眠ることがほぼ不可能だった。無論、身体的な限界を迎えれば眠りは訪れるが、それは最早昏睡と呼び得るレベルの睡眠であり、脳へのダメージを防ぐためにも徹底して避けなければならない一線だった。 唯一、健康的に眠りに就ける条件は――何かが傍で眠っていること。 学校では真倉がその任に就いているのだったが、それにも限界がある。慢性的な睡眠不足は避けようがなく、同時に介添えまで務める必要があった。 それまで冗談めかしていた教諭の声音が、真剣味を帯びる。 「……だから、無闇に生徒の相談に乗るのはおすすめできないわね、園浦さん。私としては助かっているけれど、体への負担は避けようがないでしょう?」 「くすん……セクハラはするくせに……」 「それはそれ」 蝶子はぴしゃりと言い切った。 何が別問題なのか真倉にも分からなかったが、言っていることは正鵠を射ていた。 由芽が行動すれば行動するだけ、身体へ負荷は圧し掛かる。それを考えれば、できるだけ安静にするべきなのは明白だった。他人の相談などに乗っている場合ではない。 ふと気配を感じて目を遣ると、由芽が横目で表情を窺っている。どうやら助け舟を出して欲しそうな様子だったが、真倉としても自分の負担が減るに越したことはないため、特に口を出すことはしない。 やがて由芽は、諦めたように口を開く。 「……これはあたしの性分なんだよ、来海ちゃん。困ってる人がいたら助けたいし、自分の問題は自分で解決したいの。誰かの悩みを聞いていく中で不眠症の原因も探る――だからそれが、あたしにとっては一番いい形なんだ。……真倉くんには迷惑かけちゃって申し訳ないけど、」 上目遣いを隣に向ける。「このまま付き合ってもらえれば助かるかな」 「…………」 真倉は答えを渋るポーズをとるが、実際のところ是非はない。自分がただのボディーガードである以上、彼女の意向が自分の意向であり、意志に背くつもりなどさらさらなかった。 ただ、素直に答えるのも業腹なので、 「好きにしろ。……でもカフェインは摂るな」 と、意趣返しを試みる。 案の定、由芽の顔から血の気が引いた。 「とっ、とっ、摂ってないよねぇ、真倉くん!? 結局は止められたわけだから、あれはノーカンだよ! ノーカン! ……あ、はは。いやだなぁホントに。本気にしないでよー、あれはあたしなりの冗談――」 「――由芽ちゃん?」 ずいっ、と。 いつの間にか蝶子の顔が由芽の目の前まで来ていた。「ひぃっ!?」と由芽が仰け反ったのはともかく、これには真倉でさえも椅子から浮き掛けた。……一体いつ移動したんだ? 蝶子は顔に笑みを張り付かせたまま、由芽の肩を掴む。 「カフェインは駄目だってあれほど言ったのに。まだ『指導』が必要なようね?」 「く、来海ちゃん、えへへ、目が笑ってないよ……」 「選びなさい。――お尻か、胸か」 「ま、真倉くんっ!」 再び助けを求めてくるが、真倉はすでに文庫本を開いている。 そのまま由芽は、相談室に引き摺られて行った。 「ひどいよ真倉くん……あたし、もうお嫁にいけない……」 二人は保健室を後にし、弓道場へ向かっていた。 由芽は道すがらすんすんと泣いており、声にはいつも以上に覇気がない。しかし度重なるセクハラを受け、目だけはいつも以上に覚めているようだった。 「結局、お尻も胸も触られた……もう真倉くんが触ったようなものだよ……」 「誤解を招く言い方は止めろ」 先日とは異なり、廊下にはそれなりの往来がある。 放課後なので頻繁に人影と擦れ違うわけではなかったが、もし誰かに聞かれたら余計な噂が立ちかねない。真倉としてはできれば避けたいところだった。 話題転換も兼ねて、由芽に疑問を投げ掛ける。 「……それで、お前はどう思った」 「また話を逸らそうとしてる……どうって何が」 「小梢湊」 端的に答える。「あれは本当に恋愛相談だったのか」 由芽は顔を上げると、意外そうに真倉を見た。 「へぇ……真倉くんが気付くとは思わなかった。いつもは他人に興味ないのに、どうしてそう考えたの? 湊ちゃん、ちょっとタイプだった?」 やはり根に持っているらしく言葉の端々に棘があったが、無視する。 「普通、恋愛の話をするために相談室にまで行くか? そんなこと、友人にでも話しておけば済むことだろう」 「あ、よかった。気付いてなかった」 「…………。何にだ」 思っている以上に恨んでいる様子だったため、余計な口は挟まずに先を促す。 「まず、恋愛相談を大人に聞いて欲しいって子はある程度いるよ。それが来海先生ともなれば、わざわざ相談室まで行く子がいても不思議じゃない。次に、女の子にとって恋愛は『そんなこと』じゃなくて、生き死にに直結するくらい大事なこともあるから」 そこで不本意そうに口を尖らせる。「……だけど真倉くん、最後だけちょびっと正解」 「最後?」 「うん、湊ちゃん、中学校からの友達がいるって言ってたでしょ? 誘われて部活見学に行ったんだ、って。……その子には相談しなかったのかな」 由芽は真剣な瞳を廊下の先に向ける。 「――あと、相談の内容も何だか雑。一目惚れしたけど身の丈に合わないから諦めたいって、そう言ってるのに知りたいって言うのは何だか矛盾してないかな。それに、『彼』を見たのは入学当初のことでしょ? もう二学期だよ。……相談するにはちょっと遅い」 「…………」 「最後に――来海ちゃんならこれくらいの相談は自分で捌ける」 そこまで提示されれば、真倉にも言わんとすることは理解できた。 要するに、あまりにも違和感が多いのだ。一つ一つは取るに足らないものであっても、ここまで積み重なると無視できない。「困ってる人がいたら助けたい」とのたまう由芽でさえ、何かしら裏があるのではないかと疑ってしまうくらいに。 しかし、そこまで分かっておきながら、 「以上、ここまでの疑問を解消した上で、あたしは湊ちゃんの力になりたい」 と、由芽は言った。 悪い癖だ、と真倉は思う。もし小梢湊の相談が虚言だったなら、体良く利用されているだけの可能性もある。その場合、由芽自身の身に危険が及ばないとも限らない。 例えば湊がストーカーで、つい最近出会った「彼」の調査を頼もうとしているのだとしたら。例えば調査の結果、「彼」に湊が危害を加えようとしたのなら。……その時由芽は、湊を止めようとするだろう。その時は、身を挺してでも彼女を守らなけらばならない。 つまりこれは、真倉への確認だった。 そして真倉には、由芽の意向を妨げるつもりはない。 「好きにすればいい。ガードは務める」 言うと先程の不機嫌はどこへやら、由芽は嬉しそうに笑う。 「……えへへ、迷惑掛けるね」 「別にいい」 そういう約束だった。 校内の一部は山に属しており、場所によっては森林と呼べるほどに木々が生い茂っている。 一応は遊歩道などが通っているが、授業で利用されることはほぼなく、そこを通る者もほとんどいない。言わば校内における最辺境であり、一般の生徒はそのような道があることすら知らなかった。真倉たちもそのご多分に漏れず、今までは近付いたことすらない。 その森を背負うようにして、弓道場は建っている。 緩やかな坂を上り、コンクリートやタイルの舗装が尽きる終着点。僻地と言っても差し支えないそんな場所から、弦の音や矢声が響いてくる。しかしその中にはどうも、黄色い声も少なからず混じっているようだった。 「あたしはあんまり詳しくないけど」 坂に息を切らしながら、由芽は首を捻る。「弓道って、あんな歓声の中でやれるものなの?」 「さぁな。腕が良ければ集中できるんだろう」 武道である以上は余計な騒がしさを避けるべきなのだろうが、高校の部活ならスポーツとしてそれもありなのかも知れなかった。ただ、聞こえてくる声から鑑みるに部外者を弾いてはいないようで、その点では様子を窺うのに好都合だと言えた。 やがて見えてきた建物は予想に反してコンクリート製で、一見して特に和風の意趣が凝らされているようではなかった。大きさも二人の想像を裏切り、おそらくは矢道を差し引いても普通教室の四、五倍ほどの広さがある。 弓道場に辿り着くと「見学はご自由に!」と札が掲げられていたため、入り口で靴を脱いで中へと入り込む。由芽はともかく男子生徒の真倉は目を引いたようで、見学者のうち数名が好奇の視線を向けた。それには構うことなく、適当な場所に正座で座り込む。 「……騒がしいな」 「ね」 会話するのに声を潜める必要もない。 内部は半屋内になっていた。 矢道に屋根はなく、射場から手前が屋内になっている。内観は板張りで、頭上には神棚。 三十メートルほどの幅がある射場では、それぞれ二メートルほどの間隔を取って射手たちが的に正対していた。練習ということもあってか袴までは着けていないが、大半は制服のスラックスやジャージ、その上から白い上衣と胸当てなどを身に着けている。 行射は男女混合で行うらしく、髪の長い者から短い者まで一緒くたになって横一列に整列している。その列の後ろには更に順番待ちの列ができており、なるほどそれなりの大所帯のようだったが、比率で言えば女子の方が圧倒的に多かった。 「セイ!」 「ドンマーイ」 弦音と矢声が入れ替わりに交錯する。見る限り的中すれば「セイ」、外れれば「ドンマイ」らしく、待機中の射手はおろか見学の女子生徒までが声を上げている。真倉は黙って見ていたが、由芽は早速「どんまーい」と適応していた。 しかし、 「真倉くん」 「何だ」 視線を合わせることなく、首を捻って由芽は言う。 「楡川くんって、どれだろうね……?」 「さぁな」 小梢湊が言ったところの「彼」。 女子の割合が多いとは言え、男子もそれなりの数がいる。この中からピンポイントで「彼」を探し当てるのは至難の業だった。……いくらこの騒がしさの中とは言えど、まさか練習中に大声で名前を呼ぶわけにはいくまい。 「ねぇねぇ、あなた。楡川くんってあの中にいる?」 由芽は持ち前の人懐こさを発揮して隣の女子に話し掛けていたが、ライバルの出現だとでも思われたのか、鬱陶しそうに睨み付けられていた。他に何か言い掛けたところで更に隣の真倉に無言で見据えられ、顔を赤くして引き下がってはいたが。 よく観察してみれば、生徒間にはどこか剣呑な雰囲気が漂っている。 この調子では話を聞くのは難しそうだった。練習終わりまで待つしかないか――真倉は無駄な喧騒に耐える覚悟を決めるが、少なくともその心配は杞憂であったことを悟る。 ――男子生徒の一人が射場に立った時、ぴたり、と見学者たちの声が止んだ。 甘やかなマスクに細身の出で立ち。 柔らかい雰囲気に固めの服装。 自然な動きで振り返り、見学の女子たちに向けて手を振ってさえいる。その瞬間、聞くに堪えないほどの嬌声が上がり、結局真倉は耐えなければならなかった。 とにかく、これでわざわざ探す必要はない。 「……うー、頭がガンガンする……。 でも、もう間違いないよね。『王子様』って感じ」 「そうだな」 彼の一挙手一投足に周りへ緊張が漂う。 足踏み、弓構え、打ち起こし。 彼はそのまま弓を引き分けると、的へと狙いをつけて、放つ。 「せいっ!」 一段と大きな矢声が上がった。 残心もそこそこに振り返ると、観客たちに向かって再び手を振る。またしても嬌声。 「彼」――楡川聖。 やはり二人の想像を裏切り、サービス精神に溢れた男のようだった。 「お疲れ様です、先輩」 「今日もすごかったです!」 「あの。良かったらこれ、使って――」 練習が終わると、二人が声を掛ける間もなく、聖は女子生徒に囲まれた。 あっという間の出来事に、「すみませーん」と声を掛けようとした体勢のまま、由芽はその場でフリーズする。足を運べば話くらいは聞けると思っていただけに、王子を中心とした輪の外で真倉も一緒に立ち尽くす。 聖に向けて上げた手を、由芽はゆるゆると下ろす。 「事前予約が必要だったかな……?」 馬鹿な、と言いたいところだったが、否めなかった。 これでは「彼」と話せない。取り巻きから話を聞くことも難しい。どうしようもないので他の部員から噂を聞こうとするも、男子連中は若干うんざりしている様子で、女子に関しては由芽を敵視する有様である。二人はまともに取り合ってすらもらえなかった。 或いは真倉の方が話し掛ければ結果は違ったかも知れないが、ボディーガードを務めている手前、そこまでする義理はない。由芽もそこまでは求めなかった。 仕方なく、弓道場の隅で波が引くのを待つことにする。 喧騒から外れ二人。疎外感。 手持無沙汰に由芽は呟く。 「それで、真倉くんはどう思った? 楡川くんのこと」 「……そうだな」 真倉は腕を組み、考える。 小梢湊から聞いた印象。 それによるならば「笑顔の爽やかな人」で、「人気もある」。彼女が「棲む世界が違う人間」と評していたことも、今までの光景を見るに頷ける話ではあった。……朧げな予感ではあったが、湊はおそらく騒がしい場所は好まず、無駄な人付き合いも避ける傾向にある。確かに楡川聖とは対極に位置しており、歩いている世界が全く違う。 しかし、「自分を隠している」という評価に関しては、首を捻らざるを得なかった。 周りの女子生徒が自分の世界にないどころか、世界にそれだけしかない印象だ。聖と的しかないのではなく、的など大して問題にしていないように思われた。見学して分かったことではあるが、彼は他の男子生徒と比して基礎を疎かにしている。 湊が言ったように、沈む、という感想は全く出てこなかった。 「想像とは違う。いや、話が違う」 「だよね。……言い方は悪いけど、彼の本質は別に弓道にはないよ。湊ちゃんの話の要点はそこだったはずだよね。普段の振る舞いと弓を引いてるときのギャップで好きになったんだ、って。彼を見てるとナルキッソス的で、全然ギャップなんかない」 「あぁ」 ナルキッソス。 ギリシア神話の美少年。 誰からも愛される少年だったがその本性は冷淡で、自分に好意を向ける妖精を辱め、やがて神々から呪いを受ける。その結果、水辺に映った自分の姿に恋をしてしまい、見蕩れ続けて最後には一輪の水仙に変わる――という話だった。細部は違えど、確かに彼の立ち振る舞いはそれに近いと言えなくもなかった。 湊の話から、徐々に実態がずれていく。 何かが奥で振動しているかのように、部分部分が一致しない。 「……余計に話を聞く必要が出てきたな」 「うん。とりあえずは人の波が引くのを待って、」 そこで由芽は、言葉を切る。 人混みを押し分け、前から楡川聖が歩いてくるのが見えた。 何か所用で出てきたのかと思ったが、にこやかな表情はまっすぐ由芽の方に向けられている。正面から観察すると、容姿の面では確かに湊の話と一致していた。 黙って見学していたのがまずかったのだろうか、と真倉が考えていると、果たして聖は二人の目の前で立ち止まった。 「初めて見る顔だよね? 男女で見学しに来てくれるのは珍しいな」 「え」 調査対象が自分からやってくるとは思わなかったのか、由芽はきょとんとする。 「えっと……楡川先輩?」 「うん、楡川はぼくだけど、どうかした?」 控えめながらも、見る者に安心感を与える笑み。 わざとらしくならない程度に洗練された佇まい。 なるほど――「王子様」らしい、と真倉は思う。 「……あぁ! もしかして入部希望かな? もう夏の大会は終わっちゃったけど、歓迎するよ。今すぐ入部届を持ってくるから、」 「わ!? 待って待って!」 由芽は慌てて否定する。「あたしたち、先輩と話がしたいだけで!」 「話? いいよいいよ、練習も終わったしね。あ、それなら場所も空いたことだし、ついでに弓でも引いてみる? 大丈夫、ぼくが教えてあげるから心配は――」 聖が由芽へと手を差し出す。 瞬間。 その腕が粘液の纏わりついた触手に変わり、聖の姿が掻き消える。 代わりに聖の顔がついた肉塊がその場所に出現し、全身を痙攣にも似た不気味な動きで蠕動させているのが見えた。その顔に上質な餌が誘き寄せられたとでも言いたげに、手足と呼べるか定かでもない器官をするすると伸ばす。それはあたかも、巣に引っ掛かった獲物を自分の体内に取り込もうとするような動きだった。 嗤っている。 ――真倉は由芽の襟首を掴み、体を強引に後方へ引き下げる。 「え……わぁっ!」 伸ばされた聖の腕は何も掴むことなく、所在なさげに中空を漂った。突然の出来事に、いつの間にか楡川聖に戻った肉塊が、浮かべた笑みを硬直させている。 「……は?」 ほんの僅かな間ではあったが、「王子」の仮面に亀裂が入った。 そこから覗く素の顔を前に、真倉は目を逸らすことなく相対する。なるほど、その点に関しても、小梢湊は間違ってはいなかった。――「楡川聖は、自分を隠している」。 「けほっ……ひどいよ真倉くん! いきなりなにするの!」 「ん、悪いな」 首を絞められる形となった由芽が、咳き込みながら憤慨する。その隙にいつもの仮面を取り戻したのか、真倉が次に見た時には、聖の表情は元の表情に戻っていた。 ただし、目だけは笑っていない。 「あぁ、そう言えば! ごめんね、これからちょっと用事があったんだった。話なら、またの機会にしてもらてもいいかな」 聖は話を打ち切るようにそう言うと、早々に踵を返す。 慌てて後姿に声を掛けたのは、由芽だった。 「そうだ、楡川先輩! 湊ちゃんって知ってますか?」 ぴくり。 その背中が、一瞬強張る。 「さぁ……知らないね。それ、誰?」 二人が外に出た頃には、日が傾きかけていた。 弓道場から延びる長く緩やかな坂、その両脇を縁取る銀杏並木に紛れるようにして、ぽつぽつと街路灯が灯り始めていた。真倉がふと横を見ると由芽は何か考え込んでいる様子で、色素の抜けた長い髪を茜色に染め上げている。 無理もない。違和感を解消しにいって、逆に違和感が増えたのだ。 湊は何故相談を持ち掛けたのか。 どうして虚言を入れ混ぜたのか。 楡川聖という男に、一体何があるのか。 「――真倉くん。あのときあたしを引っ張ったのって、『見えた』からだよね?」 隣を歩きながら、由芽がふと漏らす。 真倉は頷いた。 「何が見えた?」 「有り体に言うなら、怪物、だな」 「怪物?」 「……ラヴクラフトでも想像してもらえればいい」 地下より来るもの。 言語化できないもの。 そこまで大袈裟なことを言うつもりはなかったが、少なくとも、それと軌を一にする冒涜的な何かだったことは確かだった。例えば本質。例えば食性。例えば――娯楽として他人を食い物にするかのような悍ましい生態。 不用意だった、と真倉は思う。あれほどあからさまな行動を取ってしまったのでは、今後弓道場に立ち入ることさえできないだろう。敵視されたことは間違いなく、話を聞くなど以ての外だ。……もっともあの調子では、元々事情を聴くことは叶わなかっただろうが。 ただ、手ぶらで帰るというわけではない。 「あいつは小梢湊を知っている」 由芽は沈黙を以て答えとする。 それならば、差し迫った問題は一つだった。 「逆に小梢湊は、楡川の本性を知っているのか」 「分からない。知らないんだとしたら、ちょっとまずいよね」 珍しく、由芽は険しい表情を浮かべる。……確かに彼女の言う通り、楡川聖は「自分を隠していた」ものの、それがどちらの意味なのか判断はつきかねた。仮に湊が言葉通り彼に恋をしているのだとしたら、そして諦めずに告白でもしようものなら、顛末は想像に難くない。 しかし由芽は、自分で言っておいて首を振る。 「ううん、違う。知ってたんだとしても良くはないんだ。楡川は湊ちゃんを知っていて、その上で知らないと言った。場合によっては、この方がまずい」 「……楡川はどういうつもりなんだ?」 「分からない。あぁ、もう――頭が働かない! 今が一番考えなきゃいけないのに!」 真倉はハッとする。 見ると由芽の身体は左右に揺れており、弓道場からはまだそこまで歩いていないはずなのに、肩で息をしている。明らかに限界が近かった。 思考に割かれる脳のリソースは他の比ではない。 にも関わらず、今日は行動を共にし始めてからずっと、休むことなく考え続けていたのだ。答えが用意されている問題ならともかく、この相談に関しては辿り着くべき答えの前にノイズが多すぎる。それどころか、おそらく――ピースが足りない。 つまりはどうしたところで、答えが見えてこないのだ。 試験明け。 違和感のある相談。 答えの出ない問い。……これほどまで消耗が積み重なっているのだから、限界を迎えかねないことは想像しておかなければならなかった。 自らの手落ちに、真倉は舌打ちしたい気分に襲われる。 「もう止めろ。明日にでもまた考えればいい」 「そういうわけにはいかないよ……明日、手遅れにならない保証はない」 「そんな保証、元々ないだろう」 「分かってるよ! 分かってるけど……」 ここまで来れば、由芽の懸念に真倉も気付いていた。楡川が湊のことを知っていて、湊も彼の本性を知っているのだとしたら、相談の意味が全く変わってくる。 どうして事実と異なることを織り交ぜたのかに関しては想像するしかないが、とにかく、湊からの依頼を一言で要約すれば、「調査して欲しい」なのだ。何らかの理由で自分の口からは言えないが、楡川の本性を誰かに気付いてもらいたかったのだとすれば。 ――告発。 それも、おそらくSOSに近い。 真倉はスマホを取り出し、メッセージを打ち始めた。 怪訝そうな顔を向けた由芽に、真倉は淡々と答える。 「……小梢と約束を取り付ける。明日また会って、本当のことを聞く。考えるのならそれからだ。それでいいな、由芽」 真倉の言葉に由芽は口を開き掛け、途中で俯く。今、考えてもどうにもならないことは、彼女が一番良く分かっているはずだった。 「そうだね……ごめん、真倉くん。あたし、もう、眠い」 「付き合う」 「……お願い」 だらだらとした坂を下り切ると、真倉は進路を変更する。普段ならそのまま家まで送って行くところ、今日はそれすらも難しそうだった。 華奢な体を支えながら、もう片方の手で電話を掛ける。 「真倉です。……はい、お願いできますか。すぐに向かいます」 電話を切り、鞄に戻す。 緊張の糸が切れたのか、由芽の瞳はすでに焦点が合っていない。それでも力を振り絞って足を動かしていたが、いざとなれば抱えて歩く必要がありそうだった。 そんな折。 背後から、足音が聞こえてくる。 「…………」 真倉は意識を研ぎ澄ませると、由芽の身体を自分の方へと引き寄せる。……小走りに近づいてくる気配。校内で危害を加えられる可能性は限りなく薄いが、仮に楡川か、もしくはそれに準じた輩だった場合、身構えておく必要はあった。 気配を隠す気もないようだったため、ある程度まで近付いてきたところで真倉の方から顔を向ける。そして、怪訝に思った。楡川ではない。それどころか、男子生徒でもない。 どうやら弓道場から走って来たらしい。真倉たちに追いついた女子生徒は一旦立ち止まり、息も整えないまま真倉の顔を見る。 「きゅ、弓道場で、話しているのを聞きました……」 名前は分からなかったが、見学者の一人のようだった。そう言えば道場で一度、擦れ違ったかも知れない。意識はしていなかった。 「そうか、悪い。今、それほど時間は取れない」 すると彼女は、思い切ったように口を開く。 その声音には、どこか縋るような調子があった。 「――あなたたち、小梢さんのことを調べているんですか?」 3 八歳の頃、母親がポタージュになった。 浴槽に張られた湯を黒ずんだ赤褐色に変え、表面には皮膚片や内容物を浮かべていると言った有様だったが、彼がそれでもその魚じみた異臭を放つ液体が自分の母だと判ったのは、既に父親の死体を見ていたことによる。 父はまだ救いようのある姿だった。居間に敷かれたカーペットの上、腐爛した体液を床の下にまで染み込ませながらも、汚泥と化した身体の輪郭をはっきりと残していたから。久々に戻った息子を出迎えるように片腕を上げた姿勢――と言うよりは痕跡――を彼に見せていた分、妻よりは一人息子に愛着があったように思われる。彼にとっては、覚えている中で最初で最後の愛情表現だった。 ともあれ、煮込みすぎたシチューよりもぐずぐずになった母親を目にして彼が始めに感じたのは「どういうことだろう」だった。長い髪が落ちているところを見るに、これが自分の母親で間違いないらしい。それなら自分は、この液体から生まれたのだろうか。どうやって? 何のために? そんな良し悪し事の数々が頭の中を横切っては消え、蛆が湧き羽虫が飛び交う浴室の中、途方に暮れて立ち尽くした。どれほどの間そうしていたのかは覚えていないが、やがて警察が無遠慮にも土足で雪崩れ込んできたため、一応通報の義務は果たしていたのだろうと思われる。 その後のことは覚えている。 外に連れ出され、婦人警官に抱きしめられていた記憶がある。その身体が小刻みに震えていたので、恐らく泣いていたのだろう。彼は泣いていなかった。 逃げるように玄関から飛び出してきた若い警官が、人の家の駐車場で嘔吐していた記憶がある。蒼白な顔面が印象に残っている。彼は吐きはしなかった。 ベテランらしき老齢の警官が両肩に触れ、励ましのような何ごとかを口にしていた。或いは正気を確認していたのかも知れない。彼は何も言わなかった。 ただ見慣れた自宅を見上げた先、彼は二階建ての屋根から聳え立つ「それ」を目に映し、あれは一体何なのだろう、不思議だな、と子供心に思う。 単純な疑問と言うには興味が先行する形で、興味と言うには恋い焦がれるような希求の念をもって。「それ」は炎や塔にも似た構造物で、天蓋を突き破らんばかりに高く屹立していた。常に身近に在った気がする一方、遥か遠くに位置する存在だという確信もある、純粋な乗り越え。 特段の驚きはない。 人間はどうしようもなく自然なのだな、と感じただけだった。 その後、彼にはある種の幻覚が見えるようになる。 失う代わりに得た、と言い換えても問題はない。常々両親から――特に母親から――虐待を受けていた彼にとっては、生き残るために身に着けた処世術の範囲ではあったが、その原因を喪失した後、使い道のなくなった能力だけが残されたのだった。 動体視力。 物事の兆候を見て取る力。 それはつまり、相手の怒りを察知して逃げ果せるために不可欠な能力であり、暴力から事前に逃れるために無意識下で行われる防衛機制だった。日常の事物を見、記憶し、察知する。ある種の構造を把握し、視界に入った物事を頼りに、自分への害に繋がる何らかの兆候を見つけ出す。 お役御免になっても、都合よくその能力だけがなくなることはなかった。それどころか全てを自然と見做したことで物事の価値から多寡が失われ、目にしたあらゆる事物の情報が無意識に蓄積されることとなる。 その記号の奔流は、人の脳が処理できる限界を超えていた。 処理し切れず排除された要素は、現実界へと溢れ出し――幻覚となって表出する。 四六時中、視界を覆い尽くす幻覚。 彼にはいつしか、現実と夢の区別がつかなくなっていた。 彼にとって全ては夢であり、夢(somnia)は全て(omnia)だった。 「……ん」 硬い床の上で目を覚ます。 壁に寄り掛かった姿勢から身を起こすと、辺り一面の茜色が目に入った。その最中にゆっくり明滅する蛍火と、足元で絡み合いながら蔓を伸ばす灌木。……どのくらい寝ていたのだろうか。寝起き特有の仄かな混乱に襲われ、真倉はぼんやりとした頭で考える。 いや、違う。 細部は違えど、この光景には見覚えがあった。 「――おはよう、真倉くん」 聞こえてきた声に目を向けると、そこには見慣れた少女の姿がある。 皴一つない制服。全てを見通すような瞳。茶色と言うにも色素の薄い長髪には、寝癖の一つも見受けられず――と、そこまで観察したところで、真倉はこれが夢であることを悟る。 「由芽。……そうか」 「うん。あたしはちょっとお休み中」 園浦由芽は、夕陽の差し込む窓辺に腰掛け、足を揺らしていた。 ここまで鮮明に夢に現れるのは、彼女が限界を迎えた時だけだった。……つまり現実の彼女は今、昏睡状態に陥っている。 由芽は苦笑いを浮かべ、草木の茂る天井を仰ぐ。 「ここまで入り込むのは……真倉くんと初めて会った時以来かな? あの時は本当に酷い夢だったなぁ。あたしまでトラウマだもん」 「そんなに酷かったか」 「かなりね。普通の人は発狂すると言うか、発狂した人が見る夢だった」 …………。 人の夢に散々なことを言う。 「あの頃は校庭に肉の渦があってー、スーツのピエロが廊下を歩いててー、昇降口なんか調子外れの鐘の音と新興宗教の演説が響いてて……うっぷ。思い出したら気持ち悪くなってきた」 「思い出さなければいいだろう」 言いつつ、真倉も顔を顰める。彼としてもできれば思い出したくはない。 「でも。……今は割かしそうでもないよね」 由芽は窓の外へ視線を向け、真倉にも見るように手で促す。 そこには、現実とそれほど変わらない学校の姿があった。 ――夕陽に照らされた校舎が明るい茜色に輝き、校庭へと僅かに影を落としている。外の道路では自動車がゆっくりと走り、微かにではあったが人影も認められた。見ようとさえ努力すれば、路地に寝転んでいる猫の姿も見れるかも知れなかった。 真倉は小さく、由芽に向かって頭を下げる。 「……悪い。守り切れなかった」 「あはは、どうして謝るの。今回のは不可抗力と言うか、あたしが無茶した結果でしょ?」 「それはそうかも知れないが」 「そこは否定してよ」 由芽はからからと小気味良く笑ったが、いつまで経っても頭を上げない真倉を見て、寂しそうな表情を浮かべる。 「ねぇ、真倉くん。……あたしは確かに真倉くんを助けたのかも知れないし、助け合うために約束もした。今更それを反故にするつもりは全然ないよ? だけど、……真倉くんが恩に感じてるってことだけであたしと一緒にいるのなら、それはちょっと寂しいかな」 「…………」 「いや、かなーり寂しいかも。だから、早く頭を上げてよ」 由芽は手を伸ばし、真倉の頭を撫でる。そのうちに興が乗って来たのか「よーしよし」と声までつけ始めたので、真倉は片手で振り払い、顔を上げた。 満足そうに由芽は微笑む。 「えへへ、いつもは手が届かないから新鮮な気分……よし、それじゃあ、あたしがお願いしたいことは分かってるよね?」 真倉は頷く。 「動けないお前の代わりに、小梢湊……いや、彼女を助ける」 「よくできましたー。もう一回頭撫でてあげようか?」 「やめろ」 伸ばされた手を迷惑そうに避け、真倉は後退る。 と、そこで腕を組み、しばらく考えてから言った。 「しかし、どうすればいい。……全く事態が掴めない以上、何が手助けになるかも」 「ううん、ピースはもう揃ってるんだよ」 よっこいしょ、と由芽は窓枠から下りて教室の中に着地する。 「真倉くんは全てを見てるし、覚えてる。この前の夢、覚えてる? 人魚が深海に沈んで行く夢。――多分あの光景が、全ての始まり」 「あれが?」 「うん、まだあたしにも不明瞭だけど、間違いないと思う」 だからね、と由芽は握り拳で真倉の胸を衝いた。 「予習と復習。そして情報収集。あとは気合いだね」 「……適当だな」 「真倉くんは何でも難しく考え過ぎなんだよ。自然がどうとか意味がどうとか」 そして彼女は、真倉の傍を通り過ぎる。 閉め切られていた扉を開け、出ていく前に一度だけ、教室内を振り返った。 「じゃあ、あたしはちょっと眠るから。……あの子のこと、任せたよ」 真倉が目を覚ますと、傍に温かな感触があった。 そちらに視線を向けると、由芽が死んだように眠りに就いている。息はしているものの、真倉が起きたと言うのに、目を覚ます気配すらなかった。 その姿に、やはり自分の失態を思い知らされるようだったが、ここで反省している暇はない。夢の中の光景を思い出し、記憶が薄れる前にスマホにメモを残す――『人魚』。 起こす心配はなかったが、なるべく静かに布団から這い出す。 淡いピンクのカーテンを開けると、そこにいた人影と目が合った。 「あら、真倉くん、お目覚め? 随分長く寝てたじゃない」 「……来海先生」 真倉は記憶を手繰り寄せる。 昨日の弓道場からの帰り道、気絶しかけた由芽を送っていくのは無理だと判断し、保健室を使わせてもらえないかと連絡したのだった。 ……今までも数回同じようなことがあったため、スムーズに事が進んだのは不幸中の幸いだった。しかし何より、来海教諭の手助けがなければ実現しなかった手段と言える。 蝶子に向かい、真倉は頭を下げた。 「助かりました。毎回、無理を言って申し訳ない」 「本当よ、保健室はラブホじゃないんだから。しかも休憩だけならともかく、宿泊なんて誤魔化すのが大変なんだから」 と、そこまで言って溜息を吐く。 「……とは言え責任の一端は私にもあるからね。そもそも二人を紹介しなければ、由芽ちゃんがこうなることもなかったわけだし」 「それについてですが」 真倉は顔を上げると、来海教諭を正面から見据える。 「今回の件、どうして俺たちに回そうと考えたんですか。……由芽が言ってました。『この程度の相談、来海先生なら自分で捌ける』と」 「あぁ、その件ね――」 教諭は事務机に置かれたファイルを漁り、その中から一枚の紙を取り出す。 「――あったあった。守秘義務があるからあまり内容には触れられないけれど、『行動を伴う必要がある』ってことで、教師の立場からは動きようがなかったの。アドバイスはしたけれど、それ以上は任せるしかなかった。……結果から言えば失敗だったわ。本当にごめんなさい」 「違和感は覚えなかったんですか」 「相談者が嘘を吐くことは珍しくないわ。その上で、内容的には危険がないと判断したの」 ……来海教諭の話は、それなりに筋が通っていた。 確かに湊の話には違和感こそあれど、最終的な目標は「相手を知ること」である。深読みをすれば由芽に危害が及ぶ可能性は否定できないが、恋愛沙汰であればそもそもそういうものではあり、万が一を考えればキリがない。由芽の確認も端的に言えば、その「万が一」に対する備えに過ぎなかったと言える。 ただし、最も大きな問題が一つ残っていた。 「そう言えば。先生は学校の内情に詳しいですか」 「へ? いえ、通常の範疇だと思うけれど……」 何を聞かれているのか分からないと言った様子に、彼女は混乱の表情を見せる。 想定内ではあった。知っていれば、まず由芽に相談を回すことは考えられない。 昨日の話を噛み砕いて端的に伝える。 それを聞いた教諭は、驚愕に目を見開いた。 「――何よそれ」 翌日、土曜。小梢湊に指定された場所は市内のスポーツ施設だった。 学校からの距離はあまりないが、規模はそれほど大きくはない。休日は空いているそうだが、平日、水泳部が校内のプールを使っている間はそこで泳いでいるという話だった。それならいっそ入部すれば良いと思わないでもないが、集団行動が苦手な真倉には共感できる話ではあった。 施設へ向かう道すがら、真倉は彼女の心中に思いを馳せる。……昨日も思ったことだったが、俺と彼女は似ているのだろうか。 それなら、俺には彼女が理解できるのだろうか。 あんな相談に至った動機を。 度重なる嘘の理由を。 考えても、答えは出なかった。だからこそ会いに行くのであり、話をするべきなのだと自分を納得させる。由芽が傍にいないのだから、その役割を務められるのは現状、自分以外にはない。由芽の望みを叶えるためには、自分が理解するしかなかった。 施設の外観は、小ぶりながらも小綺麗だった。 梓の話ではジムに併設してプールがあるという話であり、待ち合わせの場所はその前のロビーである。プール内を指定しなかったのはもしかすると料金を支払わなくてもいいように、という気遣いなのかも知れなかったが、単純に泳いでいる最中に話をしたくないのかも知れなかった。自分であっても、おそらく後者の理由で指定する。 入り口を潜ると、すぐ右手に自動販売機コーナーを見つける。 付近に幾つか休憩用のテーブルが見られ、約束通り、湊はその一角で待っていた。 やはり髪を濡らしたままの彼女は真倉の姿を見つけると、怪訝そうな表情を浮かべる。二人でないことが疑問だったのだろうが、真倉は構わず話し掛ける。 「待たせてたなら申し訳ない。遅くなった」 「今日は一人? 園浦さんは」 「急用で来れなくなった、悪い」 一から説明するつもりはなかった。「俺だけでも大丈夫か」 「……えぇ、別にいいわ。わたしも少し、あなたと話したかった」 真倉が席に着くと、二人の間に沈黙が流れた。 元々話し上手な方ではないが、由芽がいないだけでこうも違うのか、と自分で思う。それでも今、彼女と話さなければ何一つ解決することはない。 何から切り出すか、と考えている間、辺りを行き交う男性陣が湊に対して視線を向けているのが感じられた。真倉にはあまり興味のない話だったが、客観的に見て彼女の容姿は頭一つ抜けている。それほど予想外ではなかった。 すると、真倉にとっては意外なことに、湊の方から話を切り出される。 「このジムには結構通っているから。……何度か声を掛けられたこともある。あまり興味がないから断り続けているけれど、厄介よね。あなたもそう思わない?」 「……何の話だ?」 「異性の話。あまりはっきり言うのも何だけど、……真倉くん? も結構モテるでしょう。クールと言うか何と言うか、整った顔立ちしてるし」 「さぁ。考えたこともない」 実際、真倉には思い至る節があまりない。 それは彼自身が一時期、極限状態で人を寄せ付けなかったという理由からでもあり、症状が寛解し始めてからは由芽と行動することが多かったという理由からでもある。それ以前に真倉は、両親の顛末を見ているが故に、恋愛に対して良い印象を持っていなかった。 愛も恋も、真倉の境遇を形作った元凶だった。 「本当に? ……なら、話を少し変えましょう。他人に馴れ馴れしくされて、不快だと思ったことは? 鬱陶しいと思ったことは? 好意を無下にしたことは?」 その質問に対しては、即答できなかった。 無言を肯定と受け取ったのか、湊は続ける。 「あたしも同じ。他人は他人で、自分じゃない。余計な干渉はされたくないし、指示されるなんてもっての外。……ねぇ、真倉くん。そんな人間が誰かと行動を共にするのって、どういう時だと思う?」 「…………。自分にとって、大きな恩を受けた時」 真倉の答えに、湊は顔を綻ばせた。 「そう、返し切れないほどの恩を受けた時。恩を返さなきゃ、って思うから、そのために一緒に行動する。だって、それは当たり前のことじゃないから。……やっぱり似てるわ、わたしたち。あなたみたいな人が園浦さんと一緒にいるところを見て、そうじゃないかって思ってたけれど」 「……あぁ」 彼女はもう、分かっているのだ、と真倉は思った。 約束を取り付けた理由を。真倉が言い淀んだ理由を。それだから、真倉にはもう遠慮する理由はなかった。 彼は言う。 「それで、お前は一体誰なんだ」 彼女は答えない。 ただ笑みを浮かべたままの表情で続きを促す。 真倉は続けた。 「本物の小梢湊は、一週間前に自殺未遂を起こしている」 4 「あなたたち、小梢さんのことを調べているんですか?」 道場から追いかけてきた女子生徒は、「小梢湊」の友人だと名乗った。 彼女から聞いた話は、こうだ。 湊が楡川に恋をしていたこと。 楡川には悪い噂があること。 湊は告白したが、弄ばれた挙句に手首を切り、自宅の風呂場で自殺未遂を起こしたこと。 「……その話が本当だって証拠は?」 真倉が訪ねると、彼女は鞄から一冊のノートを取り出した。 「小梢さんの日記です。……彼女が学校に来なくなった二日後、クラスの誰かが持ち物を届けに行かないと、って話になって。それであたしが机の中を見たら、このノートだけが」 そこまで話して、女子生徒は涙を零す。 「多分、小梢さんが学校に来なくなった本当の原因を、知っている人はほとんどいません。だからあたしが告発しなきゃ、って思ったんですけど。あたしがそうしたってばれた時、楡川先輩の……いや、楡川の仕返しを考えると、どうしても怖くて……」 そう言いながら、彼女はノートを真倉に差し出す。 「都合の良いお願いだっていうのは分かってます! でも、どうか代わりに彼女の痛みを――」 真倉はノートを取り出し、テーブルの上に置く。 彼女に動揺している様子はなかったが、驚いているようではあった。 頁を捲り、真倉は手記の一部を指し示す。 『梓ちゃんに水泳部をおすすめする。でも、部活に入る気はないみたい。もったいない』 『部活見学に行きたいけれど、一人じゃこわい。梓ちゃんにお願いしようかな』 『梓ちゃんと一緒に弓道部を見に行ってきた。王子様がいた。楡川先輩っていうらしい』 更に頁を捲り、手記の最後半に辿り着く。 『どうして』 『先輩、信じてたのに』 最後の頁は判読すら困難な有様だったが、それでも小梢湊が受けた仕打ちについて詳細に記されていた。楡川含む数人に辱められたこと。用が済んだら捨てられたこと。自分が今から死ぬつもりであること、等々。 真倉は手記から目を上げ、彼女の顔を見る。 「……小梢湊と一緒に行動していた友人。相談の内容や聞いた話とも一致している。つまり、お前は小梢湊じゃなく――」 「成崎梓」 彼女の方は手記から目も上げず、真倉の言葉にはどうでもよさそうな様子で答えた。「……そう、湊、こんなものを」 彼女の相談の中にあった、中学時代からの友人。 ところどころ虚実は錯綜していたが、手記と照らし合わせて考えれば真実は明らかだ。湊こそ彼女を――成崎梓を引っ張っていた友人であり、楡川聖に恋をした張本人だった。相談の内容が雑に思われたのは、梓自身、全くそんなことを考えていなかったから。 相談は楡川の悪事を暴くための策略に過ぎず、ある程度の違和感で調査を誘導できれば細部など問題ではなかったのだ。 成崎はそこで手記から目を外し、真倉の方を見る。 「正直、期待はしていなかったわ。こんな証拠なんて見つかるとは思ってなかった。……なら、真倉くん。わたしが不確実な方法をとったのはどうしてだと思う?」 「……辻占」 真倉は答える。「全てを他人任せにして、自分は結果だけを受け入れるつもりだった」 梓は笑った。 「本当に鋭いのね、あなた。……えぇ、証拠が見つかるかどうかなんて、どうでもよかったの。どんな結果になろうとも、わたしはそれを引き受けるつもりだった」 「なら、証拠が見つからなかったらどうする気だったんだ」 その質問にも、彼女は答えない。「あなたなら分かるでしょう」と言わんばかりの表情で真倉を見据えるだけだった。もし、これが自分だったなら。……仮に由芽が自殺未遂を起こしたとして、その原因を作った人物に目星がついていたなら。 本当にその人物が犯人なのか、客観的に確かめようとするだろう。しかし、それはあくまで手続きに過ぎない。その人物で間違いないと確信しているなら、証拠が得られなくとも最後には行動に出るだろう。なら、その行動は。 「復讐か」 「えぇ。……心積もりはもうできていたのだけど」 そう言って成崎梓は、苦しそうに目を閉じる。 「仮に彼女が命を落としていたなら、最初から迷うことはなかった。でも、湊は生きているし、本当にそうするべきなのか分からなかった。……だから賭けた。証拠が手に入るなら告発、手に入らないなら復讐」 「賭けには勝ったのか」 真倉は訊ねた。「この結末は、成崎、お前にとってどっちなんだ」 さぁね、と梓は応じる。 「分からないわ、そんなこと。 ……でも、少なくとも園浦さんは『勝ち』ね」 再び学校へ足を運ぶ道中、真倉は自問する。 本当にこれで良かったのだろうか。もし自分が同じような状況に置かれたら、告発などという生温い結末で満足しただろうか、と。 きっとしない、と真倉は思う。今でさえ由芽が倒れた時点で「負け」であり、相談を解決したところで満足はなかった。これが成崎の場合なら尚更で、最初から「勝ち」なんてものがあるはずもない。自分たちは、結果に辿り着く前に負けた。 ただ、これが由芽の場合だったなら。 最終的に成崎梓の復讐を止めることができたこの状況は、最悪の結果ではないはずだ。最善ではないが、最悪でもない、次善。それなら彼女が最後に言った通り、由芽にとってはこの勝負は負けではない。 それならいい、と真倉は考える。 ……唯一の懸念は、梓が楡川を告発することで受けるかも知れない報復だが、それも問題はないだろう、と思った。成崎梓が俺に似ているなら、まず失敗はしない。周到に策を練り、効果的な方法で行うはずだった。 俺たちはこれで、相当に執念深い。 保健室に到着すると、来海教諭は不在だった。 代わりに由芽の寝息だけが響いている。 寝台を仕切っているカーテンを引き開けると、彼女はやはり、まだ眠っていた。腕には点滴の管。……これで二日は起きていないことになる。 これ以上起きないようなら病院へ連れて行くことになるのだろうが、経験上はそろそろ目を覚ます頃合いだった。成崎に関する報告もあるため、それまでは待とうかと傍らの椅子に腰掛け、鞄から先日借りてきた文庫本を取り出す――アンデルセン『人魚姫』。 王子に恋をした人魚姫は魔女と契約を交わし、声と引き換えに人間の足を手に入れた。しかし彼は自分を助けた人物を別の女性と勘違いしており、主人公は悲恋の果てに泡となって消える。凡その内容はこうである。 今回由芽は、梓の相談に際してこれを想像したのだろう、と思った。人魚の恋愛――人魚姫。やや安易な発想ではあったが、今にして思い返せば重なる点は多い。 王子ではないが、騙されていたとは言え自分たちは勘違いしていたわけであるし、小梢湊の顛末も、そう言って良いのなら悲恋ではある。ただ、今回はこの物語とは違い、誰一人として消えてはいない。もし由芽が「最悪のケース」として小梢湊=成崎梓の消失を考えていたのなら、それだけは避けられた形になる。 …………。 ……? 「いや、違う……」 真倉は何か、大事なことを見落としている気がした。 真倉は、今回の件の始まりから思い返す。……来海先生が成崎梓の相談を受け、それが由芽の方まで回されてきた。違和感を覚え、意中の相手とされる楡川聖に会いに行く。その帰りに小梢湊の正体を知り、成崎梓に約束を取り付けた。 そうではない、と一旦考えを捨てる。そもそもの始まりは梓の相談ではなく、湊の自殺未遂だった。なら梓は、公にされていないその事実をどうやって知った? 推測はいくらでも可能だ。手記の内容からも窺い知れる二人の仲を考えるに、連絡を取り合っていたとしても不思議ではない。中学時代からの付き合いなら、湊の家族とも面識がある可能性もある。梓は現時点、湊の自殺未遂を最も知りやすい立場にいた。 とにかく梓はそれを知り、復讐、あるいは告発のための行動に移る。 湊はそもそもそれを望んでいたのか? これに関しては知る由もないが、梓がもし湊と話せていたならば、今回のような回りくどい方法を採る必要はなかったはずだ。つまり、事件以前に連絡を取っていた可能性はあっても、事件後には二人は会話をしていない。そのため梓は偽名まで用いて相談を――。 と、そこで真倉の考えが止まる。 小梢湊を騙った理由は、考えられる限り二つ。 楡川聖を揺さぶるためか、偽名によって自分の身を守るためか。 しかし、今回はそのどちらも有り得なかった。 「そうか」 守秘義務。 相談の内容が外部に漏れる可能性は皆無だ。 最初の相談において、“成崎梓は来海教諭に偽名を用いる理由がない”。 「う、うぅん……」 考えていたところに声が聞こえ、真倉はぎくりとする。 見ると、由芽が薄く目を開けて起き上がろうとしているところだった。安堵と混乱とが綯い交ぜになり、真倉はその様子を見ていることしかできなかった。 「あれ……どうしたの、真倉くん。変な顔……」 「由芽、寝起きのところ悪いが」 真倉は事の顛末を彼女に話す。 梓との会話。相談の真相。そして最大の矛盾。 由芽は寝ぼけ眼でしばらく聞いているだけだったが、そのうちに意識がはっきりし始めたのか、瞳に力が戻り始める。 ――話を終えると、由芽はその場に飛び起きた。 「違う。真倉くん。……これは人魚の話なんかじゃなかった」 真倉が止めるのも構わず、由芽はよたよたと床の上に立ち上がる。 「この話は――ナルキッソスの方だった」 5 ※ あなたには分からないよ、と言われた。 だから理解しようと努力した。 でも、わたしには彼女の気持ちが分からない。愛とか恋とか――誰かを好きになると言う気持ちが、全くと言っていいほど分からない。 放っておいても異性は寄って来たけれど、鬱陶しいだけだった。他人は他人で、自分じゃない。余計な好意で干渉されるのが、不快だとすら思った。 ――それでも湊にだけは、嫌われたくなかった。 ナイフを持った成崎梓の頬に、一筋の雫が伝う。 草木の生い茂る遊歩道には、楡川聖が倒れ伏していた。苦しげに呻いているところを見るにまだ息はあるようだったが、彼が死のうが生きようが興味はない。……自分の計画は今まさに破綻し、終わりを迎えようとしている。 なら、これ以上の行動はもう、面倒くさい。 全部がもう、どうでもいい。 ふと気づくと、ポケットに入れておいたスマホが着信を告げていた。表示された名前は、真倉黎二。……そう言えば彼も、わたしと同じような人間だった。他人に興味がなく、好意に冷淡で、自分の内面ばかりを見続けている。 なら、同類の顛末を見届けてもらうのも悪くはない。 梓はもう片方の手で電話を取る。 「あぁ、真倉くん? 今、弓道場の裏手にいるわ。……楡川? 殺してはいないけれど、助けたいなら急いだ方がいい。……わたし? 疲れたから、終わりにする。じゃあね」 ――電話を切る。 ※ 保健室前の廊下で、真倉は通話の切れた電話を見る。 「……切られた」 「梓ちゃん、どこにいるって!?」 「分からない。ただ楡川は弓道場の方で死に掛けてるらしい……おい!」 走り出そうとした由芽の腕を掴み、その場に繋ぎ止める。 「その体で何ができる。足手まといだ」 「でも、このままだと梓ちゃんが殺人犯になっちゃう!」 「それなら、楡川の方は俺が担当する。お前は寝てろ……って言っても無駄なら、梓の方を探せ」そう言ってスマホを突き付けた。「それと、救急車と先生を手配してから、俺に電話を掛けて繋いでおけ。もし通話が切れたら、楡川が死のうとお前の方へ行くからな」 由芽は真倉の顔を見ていたが、やがて、こくりと頷く。 ――それを合図と、真倉は走り始めた。 昇降口を抜け、F棟を横目に通り過ぎ、弓道場のある高台を目指す。目印となる裏手の山は広い敷地の反対方面で、全力で向かっても数分は掛かりそうだったた。……風情があるのかどうか知らないが、立地が完全に裏目に出ている、と真倉は舌打ちをする。 警備室 通常棟。 スポーツ棟。 それらの建造物を置き去りにし、緩やかな傾斜の坂が見えてきたところで着信が入る。手配は終わったらしく、これであとは悪運次第、ということになりそうだった。足を動かすスピードは緩めず、真倉は手にしていたスマホを繋ぐ。 『真倉くん! 救急と来海先生に連絡したよ! 人手の手配は先生にお願いしたから、あたしも今から梓ちゃんを探す!』 「分かった……こっちはもうすぐ着く」 通話はそのまま、真倉は尚も速度を落とさず走り続けた。 しかし呼吸は荒く、酸欠気味の頭はものを考えるのも億劫になっていた。余計なものを見ないようにと心掛けるが、その意識もまた消耗に繋がりかねないことに気付き、止める。どのみち弓道場はもう近くで、あとは楡川を探し出せば済む話だった。 裏手に到着すると、真倉は辺りを見回す。 夕陽に照らされた林の中に、楡川の姿は認められなかった。 『どう、いた!? こっちは今教室に向かってる!』 「いや……いない。成崎も楡川も……遊歩道を探す」 言うが早いか、足を踏み出す。 ――そこで足元が、泥のように沈んでいく錯覚に襲われた。 見れば周囲の光景がうねり、グロテスクな茜色の中で変質し始めている。 酸欠――処理能力の低下。 幻覚の表出。 「……こんな時に」 『はぁっ、はぁっ……大丈夫、真倉くん……』 「お前は、自分の心配だけ、しておけ」 ただでさえろくに整備されていない遊歩道は足元が悪く、急いで進むだけでも体力を消費する。加えて楡川の姿を見逃さないようにするため、視界にまで気を配らなければならないのでは、症状は悪化する一方だった。 草木が嗤う。 照明が歪む。 夕陽は鮮やかな血を落とし、地面を蠢く内臓に変える。粘着質の体液が一面に広がり蛆の湧いたバスルームが掲げられていた糸杉。 手を伸ばすような痕跡がチノーズ全体から切り離された諸器官の一種異様な存在感。病んだ太陽。彼我を見つめる無数の眼。統一を失った気怠げな吐息に××、祭祀、消火栓——無関係な事物の連続による分裂症的なパッチワーク、即ち大いなる母の分解作用にして慈愛、それは限りない遡行、救済の確約、永遠の安逸を齎す子宮が父の額縁で花器に活けられた『ひまわり』が 背後から届いた声に顔を向けると、暗い廊下の中、男が視線も不明瞭に去って行くところだった。草臥れたスーツに蛇腹状の付け襟、磨き上げられた革靴。気でも違っているのだろう。窓の外へと視線を戻す。見下ろした校庭の中央に広がる巨大な肉の渦が、裏返された内臓のような動きで蠢き、うねり、痙攣していた。目を走らせてみるも先程の生徒の姿はどこにも見当たらず、外縁に放り出された学生鞄が名残を留めているのみだ。 しかし、やがてはそれも渦の蠕動に絡め捕られ、地の底へと呑み込まれて行く。紺色の布地が緩慢な速度で、ただし逃れようもなく沈んで行くその様は、見逃した彼女の末期を補完して余りある光景だった。……真倉は眉を顰めて走り続ける。不規則に明滅する蛍光灯の下で視界はいかにも頼りなく、覚えている地形に沿って進むのが確実なように思われた。 それだから、普段と変わらない道筋を辿って見慣れた光景を目にすることになる。ゴシック調の手摺で縁取られた階段は吹き抜けになっており、斜向かいに設えられた昇降口共々、玄関ホールを視界に収めることができた。足元に敷き詰められた朱の毛氈。天井から吊り下がるランタンの灯り。……辺りに微妙な陰影を与えるそれが、集まった相貌の数々を薄暗がりに浮かび上がらせている。 その中心で、肉塊は血を流していた。 楡川聖の顔を苦痛に歪め、声とも音ともつかない響きを発している。 ようやく立ち止まり、真倉は言う。 「……見つけた。応急処置をして、……そっちに向かう」 ※ 「――梓ちゃんには分からないよ」 電話口から聞こえてきた一言に、成崎梓は自室のベッドの上で硬直する。 小梢湊が楡川を好きなことは知っていたし、この前、告白したことも知っていた。しばらくの間、幸せそうな様子だったところも見ている。 そんな湊が急に姿を見せなくなり、学校にも来なくなった。だから安否を確認するために、電話を掛けた。その矢先だった。 「いいよね――梓ちゃんは。美人で、才能があって、黙ってても傍に男が寄ってくる。そんな梓ちゃんに、好きな人から裏切られたあたしの気持ちなんて、分かるわけない」 「わたしは――」 「わたしは、何?」 聞こえてくる湊の声は、今までにないほど敵意に満ち満ちていた。 気付けば梓の目尻には、涙が浮かんでいた。 「あんたも同じ目に遭えばいいんだ。裏切られて、犯されて、ゴミみたいに捨てられればいい。 ……じゃあね、梓ちゃん。あたしはもう、死ぬから」 ぷつり、と電話が切れる。 関係が切れる。 梓は、しばらく茫然と涙を流し続けていた。 ――小梢湊を名乗ったのは、彼女になるためだった。 彼女になって、恋愛をして、彼女の言う通り、彼女と同じ目に遭いたかった。 そうすれば湊の気持ちがわかるような気がして、相談までしてみた。適当なエピソードを捏造して、自分で思い込めるように本当の感情も入れ混ぜたりして、それらしい出来に仕上げた。恋に恋しようとした。……彼が言っていたような、証拠がどうこうというのは、おまけだ。 でも、そこまでしても分からなかったな、と梓は思う。 わたしは結局自分が一番好きで。 他人のことなど知ったことではなくて。 自分自身に恋をしていた。 そんな自分の一番の理解者である湊に嫌われたら、自分で自分が嫌いになってしまう。 「……あぁ、そうか」 あの時わたしは、 自分に失恋していたのか。 ※ 「傷は軽い。……応急処置はしておいたが、命に別状はないはずだ」 『はっ……はっ……ありがとう、真倉くん……』 楡川が受けた刺傷はそれほど深いものではなかった。 ただ出血が多かったため、脱がせた上衣で簡易的な圧迫処置を施した上で、弓道場まで背負って運ぶ。血さえ止めれば命に別状はないはずだった。 その頃には真倉の酸欠も収まっており、症状も一定程度緩和されていた。幻覚のせいで判りづらかったが、楡川のいた場所は弓道場からも遠くはなく、運ぶのに一分と掛からなかった。 あとは、梓だ。 「お前は今どこにいる」 『通常棟の教室を見て回ってる……はぁっ、あと、高い場所は先生たちに見てもらって……』 「ならもう、お前は休め」 『休めると思う……?』 「無理か。ならせめて探す場所を考えて、」 そこでふと、真倉は思い至る。 自殺を図るのであれば、由芽たちが探しているような高所が分かりやすく、有力な候補にはなるだろう。しかし逆に言えば探されやすいわけで、自殺を宣言してから向かっても止められてしまう可能性は高まる。梓がそこに気付かないとは考え難かった。 待て。 小梢湊はどうやって自殺を図った? 「ナイフだ」 『え?』 「梓はナイフを持っている。湊は風呂場で自殺を図った」 そこから先は、もう言うまでもなかった。 真倉は再び走り出す。 幸い、弓道場からスポーツ棟までは、まだ近い。 ※ 成崎梓は、水辺に映る影に目を落としていた。 その影は成崎梓であり、真倉黎二であり、小梢湊でもあるかも知れなかった。そこにある鏡像こそが彼女の探し求めるもので、恋をするべき対象だった。 彼女が手を伸ばし、水面に触れると影は掻き消える。 喪失感と、無力感。 自分は他人に恋などできないのだという絶望感。 しかしふと見ると、水中にも一つの影が漂っているのが認められた。それは彼女にとって最も美しく感じられ、故にどうしようもなく魅了されてしまう。 それを手にしようと梓は大きく手を伸ばし――落ちる。全ては一瞬の出来事であり、覚悟も躊躇もする暇がなかった。 水音の後、周りの全てが遠くなる。 水は冷たかったが、不思議と不快な気持ちはしなかった。ただ、大きな何かに体を支えられているかのような浮遊感が、とても心地良い。もう何もしなくても良いのだという安心感が胸に広がり、梓は顔を綻ばせる。……これで、終わりにできる。 より深く、深くへと沈んでいく。 やがて曖昧になりかけた意識の中で、彼女は求めていたものがすぐ傍にあることを悟る。 あらゆる苦痛から彼女を解放する、甘やかで安らぎに満ちた死が、近くを泳いでいた。もう手を伸ばす必要はどこにもない。このまま沈んで行けば、いずれ捕まえられるのだから。 深く、深くへと沈んでいく。 どれほど深くまで来たのか、梓にはもう分からなかった。 と、彼女は他にも近付いてきているものに気付き、頭上に目を向ける。 遺骸だとすぐに判った。 弛緩しきった体躯。とうに途絶えた呼吸。まるでそれ以外の可能性が端から失われているかのように、単純な定理から機械的に導かれるように、それはどうしようもなく遺骸だった。 高く揺らめく水光を背に、胸から赤い煙霞を立ち上らせながら落ちてくる。優雅なまでに緩慢な速度で、ただし確実な重みをもって沈みくる――人魚の遺骸。 腰から下、人間の脚にあたるだろう尾部は豊かでしなやかな質量を伴い、注ぐ陽に宝石細工を思わせる鱗光を返している。透き通った水の中で両腕は滑らかに青褪め、何を求めるでもなく無造作に放り出されていた。 そして、その中央に深々と突き立てられたナイフ。 擦れ違った瞬間、彼女の表情が目に入る。 小梢湊。 ここにいたのか、と梓は思う。 あの日梓に投げ掛けた言葉など嘘のように、今まで通りの笑みを浮かべて手を差し出している。これこそが、梓の求めるものだった。 「あぁ――」 彼女は魅入られたように、差し出された掌に向かって腕を伸ばす。 ――その腕が、掌に辿り着く前に他の腕に掴まれた。 梓がぎょっとして顔を向けると、そこには真倉黎二の姿があった。 彼は有無を言わさぬ力で梓を引き寄せ、もと来た水面に向かって上昇し始める。彼女はあらん限りの力を以て抵抗するが、その力もほとんど残っていない上、元々勝ち目がないのではどうしようもない。 「やめて。わたしはもう疲れたの――あそこに戻りたくなんてない!」 「知るか」 目を向けることもなく、真倉は水面目掛けて突き進む。梓が弱弱しく足元に手を伸ばすと、小梢湊のふりをしていた死が猛然と迫り、真倉ごと彼女を飲みこもうと触手を伸ばしていた。伸ばした手を引っ込め、梓は怖い、と思う。求めていたはずの死が――怖い。 あれに捕まれば、何もなくなる わたしもなくなる。 わたしの中の、湊もなくなる。 真倉は言った。 「悪いが、ここで死なれるとあいつの『負け』になる。お前の都合は知ったことじゃない。……でも、死にたくなくなったのなら、もっと必死に掴まれ」 死が、背後に迫る。 その気配に、梓は知らず知らずと真倉の方へ手を伸ばす。 ――プールサイドに這い上がると、渾身の力で梓の身体を放り出した。 投げ出したすぐ横に屈み込み、ぜいぜいと肩で息をする。もうこれ以上は動けそうにもなかったが、余力を振り絞ってシャツを脱ぐと、血が流れ出している梓の左腕をきつく縛った。 真倉はそこまで仕事を終えると、梓の隣に腰を下ろす。 止血に全ての上着を使ったため、上半身裸の格好だったが、気にしている余裕もなかった。何度も全力疾走を繰り返した後に、プールでの救助。……由芽に続いて自分まで倒れれば世話はない、とぼんやりとした頭で考える。 プールには赤い色が広がっているようだったが、窓から差し込む夕焼けも相まって、どちらの色なのか判然としなかった。しかし足元に脈々と流れている血の筋が、流した血の多さを物語っている。あと少し遅れていれば、危険だったに違いなかった。 「何で分かったの?」 不意に梓が口を開き、真倉に訊ねる。弱弱しい声音ではあったが意識はしっかりとしており、これなら命の心配はなさそうだ、と真倉は思う。 息を整え、真倉は呟くように言った。 「……最初から相談に『小梢湊』の名前を使った理由が分からなかった。俺たちにはともかく、来海先生には偽名を使う必要がない。なら偽名にすることじゃなく、その名前を使うこと自体に意味があったはずだ」 再び息を整える。喋るのにも体力がもたなかった。 「その意味とは何か。……自分が小梢湊になることだ。何があったのかは知らないが、成崎、お前には湊の気持ちを理解する必要があった。恋愛相談もその一部だ。お前は小梢湊になり切ることで、彼女の気持ちを理解しようとした」 「へぇ。……それで、電話を掛けてきたの?」 「あぁ――お前が完璧に小梢になり切ろうとするなら、楡川に接触する可能性がある」 そこで真倉は、指だけでプールサイドの入り口側を示した。「……と、あの馬鹿は考えた」 梓が指の方向を見ると、同じく濡れ鼠になって横たわる由芽の姿があった。息はしている。 梓は力の抜けた顔に、それでも怪訝そうな表情を浮かべた。 「園浦さん、何してるの」 「二日間寝た切りだった体で、お前を助けようと飛び込んだ」 「は?」 「おかげで先にあいつを引き上げる必要があった。考えなしにもほどがある。連れて来るんじゃなかった。……くそ」 「……ふ、」 ――真倉の言葉に、微かな声で梓は笑い出す。 真倉の方はげんなりとしていたが、やがて梓につられたのか、肩を揺らして小さく笑う。お人好し過ぎて笑えないが、流石に笑わずにはいられなかった。 ふと真倉は、思いついたように訊ねる。 「死にたくはなくなったか?」 「…………。少し、ね」 「ならいい。俺たちの勝ちだ」 呆気にとられる梓を残し、真倉はゆっくりその場に立ち上がる。 赤々と差し込んでいた夕焼けが、徐々に彩度を下げて夜に移り変わろうとしていた。そろそろこの状態のままでは、風邪をひいてもおかしくはない。 遠くからはサイレンの音が響いている。 早いところ由芽を回収して、乾かしてやらなければならなかった。 |
瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o 2021年12月31日 19時17分06秒 公開 ■この作品の著作権は 瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2022年02月07日 20時07分43秒 | |||
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Re: | 2022年02月06日 21時55分22秒 | |||
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Re: | 2022年02月06日 15時24分26秒 | |||
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Re: | 2022年01月30日 20時08分31秒 | |||
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Re: | 2022年01月30日 10時07分15秒 | |||
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Re: | 2022年01月30日 09時43分14秒 | |||
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Re: | 2022年01月30日 09時03分47秒 | |||
合計 | 8人 | 170点 |
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