現実はどこだ

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 死体が転がっている。セーラー服を着た少女の肉体の上に、アヒルのオモチャそのものである黄色い顔の付いた死体だ。
 その少女の死体を取り囲む三人の人影があった。彼女らもまた、同じようなセーラー服を着用した少女達である。少女達の着衣は砂に塗れほつれ、その手には血の付いた石ころを帯びている。
「隠蔽すべきだわ」
 少女の内の一人……切れ長の目に銀縁眼鏡をかけたショートボブの少女が口にした。
「自首した方が良いんじゃあ……?」
 もう一人の少女……色素の薄い垂れ目を持つポニーテールの少女が口にした。
「いいえ隠蔽できるわ。私達、ここに来ることは誰にも言っていない。死体はティラぬサウルスに食べさせれば良い。完全犯罪が成立する可能性は高い」
「確かにバレるようには思えない。でもそれは浅知恵かもしれない。第一、よしんば隠し通せたとしても、一生罪を背負って生きて行くのはつらいことなんじゃなあい?」
「なら少年院に行く方が楽だというの? 少年院はつらいわよ。赤の足湯に浸かりながら、織田信長の口臭についての感想を、教官の手の甲から泡が出るまで言い続けなければならない。足の裏に恥垢を擦りつけられる可能性もある。あなたは耐えられる?」
「もちろん嫌だよ。でも、いくら証拠を残さなかったとしても、殺人を犯したプレッシャーで腋の下が青紫に変色する可能性だってあるじゃない? 最悪の場合青田渚汁が垂れて来るでしょ? そうなったらどっちにしろわたし達おしまいだよ」
 その応酬の後、二人の少女はもう一人の少女……赤沢楓の方を向いて、尋ねた。
「楓は」
「楓ちゃんは」
「どう思う?」
 水を向けられた赤沢楓は、呆然とした表情で自分のいる場所を見やった。
 どうやらここは山の中らしい。小さな山小屋が目の前にあり、周囲を取り囲む木々には女性の乳房としか言えないコブのようなものがあちこち張り付いている。足元の柔らかい土の上には少女の死体。身体は女学生のそれだったが、首から上はアヒルのオモチャだ。
 木々の隙間から空を仰ぎ見る。透き通るように鮮やかな黄色い空には、大小さまざまな紫色の太陽が五つ輝いている。雲もある。赤や黒の溶けた鉛のような色をした雲が、絶えず高速旋回しながらぶつかりあい、くっ付いて形を変えたり消えてしまったりを繰り返している。
 赤沢楓は額の汗を拭ってから、こう答えた。
「ここは現実か?」

 〇

「現実に決まっているでしょう」
 と、隠蔽を主張している銀縁眼鏡の少女は主張した。
「殺人を犯したショックで気が動転しているのは分かる。現実から逃避したくなる気持ちも。顔を叩いて、少し休んだ方が良いわ」
「いや……そういう意味じゃなくてさ」
 楓は頭を抱え、そして質問を絞り出す為の沈黙をし、声を発した。
「まず、あたしはあんた達のことを知らない。誰?」
「……親友を忘れるだなんて酷いわね」
 銀縁眼鏡の少女は溜息を吐いた。
「私の名前は武藤あかね。そっちの子はジェノサイド金玉」
 武藤あかねと名乗った少女は、そう言って自首を主張している方の少女を手で指した。
 ジェノサイド金玉と呼ばれたポニーテールの少女は肯定するようにおずおずと頷いて見せる。穏当な意見と言い弱気そうな態度と言い、如何にもおとなし気な雰囲気の少女である。怜悧な気配を漂わせる武藤とは対照的だ。
「いや、ちょっと待て」
 楓は表情を引き攣らせた。
「今あんた、ジェノサイド金玉って言わなかったか?」
「そうよ。その子は同じ部活のジェノサイド金玉」
「いやふざけてるだろ。どんな悲惨ないじめられっ子にもそんなあだ名つけないぞ?」
「本名に決まっているじゃない。あなた失礼よ?」
「他人をジェノサイド金玉呼ばわりする方が余程失礼だと思う。……本当にそう呼ばれてるの?」
 そう尋ねると、ジェノサイド金玉は「えっと……」と言い淀みながら。
「呼ばれてるも何も、て、天使様からそう名付けてもらって……。元々そういう名前っていうか……」
「良いの? ジェノサイド金玉で? 本当にそう呼ばれてそう名乗ってこの先生きて行くの? 自分の運命を呪ったり、精神を病んだりせずに済む?」
「別に嫌じゃないし、そもそも実際にジェノサイド金玉なんだからどうしようもないよ」
 確かにそうかもしれない。人は配られたカードで勝負して行くしかない。ジェノサイド金玉として生まれて来たからには、それはもうジェノサイド金玉として生きて行くよりどうしようもないのだ。
「大丈夫なの楓ちゃん? わたし達の名前まで忘れるなんて……」
「う、うん。ごめん……記憶があいまいっていうか……そもそも記憶がないっていうか……」
「記憶がない? どういうことなの?」
 武藤が問う。楓は、腕を組んで首を傾げながら。
「いやあの……なんであたしがここにいるのかとか、そもそもあたしは誰なのかとか。この世界はいったい何なのかとか……。分からなくって」
 気が付けば死体の前に立っていて、目の前で二人の少女が言い争いをしていた。楓の記憶はそこから始まっており、それより過去のことは何も覚えていない。
 何もかもを忘れて赤ん坊のような状況になっているのではないのだ。織田信長が誰なのかは分かるし、因数分解のやり方も分かっている。自分の名前が赤沢楓で、今現在十六歳であることも想起が出来る。
 だがそれだけだ。両親の顔も思い出せないし、自分がどういう身分の人間なのかも分からない。だがしかし、今自分が立っているこの世界が何かおかしいということも、楓は感じ始めていた。
「……これから大事なことを話し合うというのに、楓がそんな状態じゃ始まらないわね」
 武藤が怜悧な声でそう口にした。
「いいわ。今日この状況に至るまでを振り返ってみましょう。そしたら記憶がはっきりするかもしれない。一刻も早くまともになってもらわないとね」
 そう言って、武藤は今日ここまでの三人の行動を説明し始めた。

 〇

 楓ら三人は§ゅ立ホンジャカホンジャカ高校の露生物愛好会に所属していた。ツカント平野の波打ち際に生息する多種多少な露生物たちを採集、飼育し、その彌吻から出る粘液を吸うのだ。
「ちなみにその繭吻粘液はイリオモテヤマネコの精液と同成分よ」
 さて、そのような活動をしていた最中に、ジェノサイド金玉が岩の隙間に人魚を見付けた。これは大変な発見である。許可なく人魚を飼育することは禁止されており、見付かれば退学は免れなかったが、しかし少女達はその人魚を部室に連れ帰ってしまった。
「それを……死なせてしまって」
 餌として与えていた水牛が大きすぎたのだ。浣腸が雑だった所為で、体内にマンケル性硝素を残留させてしまったのも良くなかったのだろう。二万日も経つ頃には人魚の血中リケート値は異常値を叩き出していた。そのまま人魚が全身の穴という穴から硝素をまき散らして死亡したのは、あまりにも当然のことだった。
「やむを得ず、私達は死骸を遺棄することにした。万が一発見されてはいけないから、ティラぬサウルスの出るこの裏山に捨てに来たのよ。フェット男粉を塗って置けば、きっとティラぬサウルスが食べてくれると思ったから」
 寝袋に詰め込んだ人魚の亡骸を背負って山を登り、目星を付けていた山小屋に到着した。そしてさっさと人魚にフェット男粉を塗り付けてしまおうかと思ったところで……辻岡が現れた。
「まさか辻岡がこの山小屋の中で慧流物オナニーをすることを趣味としていたとはね。迂闊だったわ」
 人魚の亡骸を見て辻岡は怒り狂って楓たちに詰め寄った。辻岡の両親の職業が露生物細断家であることも無関係ではなかったのだろう。全てを警察に伝えると息巻く辻岡を、興奮した三人が取り囲み、もみ合う内に山小屋の外に転げ出た。暴れる辻岡を抑え込もうとこちらも手足を振り回している内に、気が付けば殺してしまっていた。
「……と、言うのが今の状況なのよ。思い出した?」
「思い出しはしない」
 楓は表情を引き攣らせて言った。
「が、状況はなんとなくわかった。とにかくこの死体が見つかるとヤバいってのは理解した」
「……それだけ分かってくれれば良いわ」
「だがおかしいだろ。§ゅ立ホンジャカホンジャカ高校とか平原の波打ち際で人魚を発見とかティラぬサウルスとか意味分かんねえよ」
「あなたは記憶喪失だからそう感じるだけなんじゃないの?」
「違ぇよ。じゃあ訊くけどなんだよ§ゅ立ホンジャカホンジャカ高校って。なんでそんな愉快な名前の高校にあたしが通わなくちゃいけないんだよ」
「実際にそういう高校があって、そこを受験したのだからしょうがないじゃない。私、あなたに合わせてランクを落としてまでジャカ高に入ったのよ?」
「ホンジャカホンジャカの部分も意味不明だけど、『§ゅ立』ってなんだよ。どう発音するんだよ?」
「『§ゅ立』じゃない? というかあなた今§ゅ立って言ってるじゃない?」
「それだよ。あたしはいったいこの『§ゅ立』をどうやって発音してるんだよ?」
「だから、§ゅ立って……」
「じゃあおまえ、§ゅ立をなんと発音してるか、この土の上にひらがなで書けるのかよ?」
「できないわ。出来る訳ないじゃない。そんなの常識よ。楓、本当にどうしちゃったの?」
「おかしい……おかしいよ…………」
 そう言って嘆くように蹲った楓に、ジェノサイド金玉が優しい口調で問いかけた。
「確かに、色々変だなとか、おかしいなって思うことって、たくさんあるよね。でもさ、逆に考えて見ない?」
「逆に考えるってなんだよ」
「だからさ……上手く言えないけど。不思議なことや変なことが何一つないような……何もかもが理解出来て、筋が通ってて、論理的に説明できる世界って、そっちの方がよっぽど異常なんじゃないのかな……? みたいなさ」
 おずおずとした様子のジェノサイド金玉の言い分に……楓は一瞬、納得しそうになる。
「世の中の全部の疑問にちゃんと返事出来る人なんて多分、いないよ。世界は不思議だらけだし、異常なことだらけなんだ。でもね、その意味が分からないこと、不可解なことを、説明できないままで良いからとにかく直視して、対処していけるのが英知なんだとわたしは思う。だから」
 そう言って、ジェノサイド金玉は微笑みかけた。
「おかしいって思う楓ちゃんは、何も変じゃない。おかしいって思うままで良いと思う。その上でさ、考えてみようよ。今どうするか。自首するか、隠蔽するか。この状況で楓ちゃんが何を選択するかをさ」
 つい呆然としてしまう。確かにジェノサイド金玉の言うことも、言葉の上でなら筋が通っているように思われた。
 だが言葉の上でだけだ。楓の持つ現実認識能力は、今置かれている状況は異常だと明確に告げている。それは理屈ではない。何かもっと生真面目で整然とした世界が存在していて、楓は本来そちらの住人ではなかったかという予感が、拭い難く存在していた。
 ここは楓のいるべきところではない。だがだとすると、本来の世界はどこにあるのか。どうすればそこに戻れるのか。楓はどうしてこんなところに来てしまっているのか。
「ジェノサイド金玉の言うとおりね」
 武藤が言った。
「この世界はおかしいって楓は言うけれど、よしんばじゃあこの世界がおかしいとして、これが私たちの現実であることに違いはない。ならそれを受け入れて……」
「違う」
 楓は言った。
「違うんだ。ここは現実じゃないんだ。……ははは。簡単なことじゃないか」
「…………何? 何が言いたいの?」
「夢だよ」
 楓は意思のこもった瞳で二人をじっと見つめた。
「ここは夢なんだよ! それだけのことじゃないか。夢だからおかしなことだらけで当たり前だ。だって夢なんだから! 何が起きても不思議じゃないんだから!」
 そう言うと、ジェノサイド金玉は哀れむような目で、武藤は頭を抱えるようにして楓を見詰めた。
「だから楓。そうやって現実逃避している場合じゃ……」
「いや、良い。皆まで言うな。夢の住人と話したって仕方がない。あたしは現実に帰る」
「現実って何? どう帰るっていうのよ?」
「目を覚ますんだ。夢を見ていると気付けばいつでも目を覚ますことができる。夢って言うのはそういうものだ」
 そう言って楓は、夢の中の瞼とは別の、おそらく布団の中で寝ているであろう現実の自分の瞼を開こうと力を籠める。
 視界に靄が立ち込め、目の前で行われていることが消えて行く。
 世界が暗転する。

 〇

 水の中で、一匹の魚が目を覚ました。
 だが魚には目を覚ましたという認識すらなかった。そもそも眠るという概念すら理解していなかった。その時々では、泳ぎ過ぎて気が遠くなるという体験や、いくらか流された場所で気が付くと言った体験もしてはいたが、次にまた眠くなる時にはそんな記憶は忘れ去っていた。
 いや、そもそも物事を記憶するという習慣すら、その魚には備わっていないと言えるかもしれない。だからもし、先ほどの睡眠の間に何か夢のようなものを見ていたとしても、そんなものを覚えて居られるはずもなかった。
 その程度の知能だから、魚は自分がいるところが海なのか川なのかすら認識していなかった。
 魚は泳いでいる。泳ぎ続けている。目的は分からない。おそらくない。
 強いて言うなら、生きることそのものがそうなのかもしれない。
 だがそれはそこまで本腰を入れて、真剣に取り組まなければ達成できないような目標ではなかった。腹が空くことはあるが、しばしばそこら中に現れる色の付いた綿のような物を食べれば、あっけなく飢えは満たされるからだ。
 それは恵まれたことではあったが、無聊でもあった。目的無く泳ぎ、綿を見付ければ食べ、また泳ぐ。じっとしているのもつまらないが、泳いでいても結局つまらない。
 魚が肉食ならば、小魚を追い回すという楽しみがあったかもしれない。そちらの方が良いのだろうかと考えてみる。
 もし自分が肉食魚なら、小魚を追い回した結果それでも捕まえられなくて、悔しがったり悲しがったり、飢えてしまって泣いたりするかもしれない。そうやって苦しみ抜く過程で、小魚を追わずとも生きられたらどれだけ良いかと、嘆くような日もあるかもしれない。
 だがそうした悲しみや苦しみこそ、生きているということなのだと魚は思う。今の自分にはその苦しみさえない。そういう意味では、肉食魚を羨む気持ちも魚にはある。
 しかし生きているのは自分も同じだ。自分が今苛まれている無聊だって、確かに生きているから感じられることに違いはないのだ。それを噛み締めたいとも大事にしたいとも思わないが、肉食魚を羨む必要もまたないのではないか?
 そんな風に自分を納得させた時、魚は何か透明な壁のようなものに突き当たる。
 特にその壁について感想を抱くことなく、なんとなく魚はUターンをする。
 反対側の壁に突き当たるまでの間に、魚は今あったことを忘れてしまう。そもそも自分に起きたことを記憶すると言う習慣自体、その低能な魚にはない。
 だから魚は気付かない。自分が水槽の中に囚われているということに。
 同じところを、同じ考えを、無益にただ繰り返しているだけなのだということに。

 〇

 顔に何か、生温かい液体がかけられている。楓は目を覚ました。
 ジェノサイド金玉の額にある第三の目から、レモン色の液体が楓の顔面に降り注いでいる。ジェノサイド金玉は目を閉じて唇を結び、どこか必死の表情だ。
 レモン色の液体は人肌の温度とアンモニアのような匂いがした。楓はたちまちその場を起き上がり、ジェノサイド金玉を凝視した。
「目を覚ましたわね」
 武藤が言った。
「もういいわジェノサイド金玉。あなたの蘇生液のお陰よ」
「う、うん……良かったあ」
 そう言って第三の目を前髪で覆い隠し、笑顔になるジェノサイド金玉に、楓は引き攣った表情で。
「え……いや、何? 何その額の目。気持ち悪っ」
「き、気持ち悪いって……酷いなあ。楓ちゃんが気を失ったから、蘇生液をかけてあげただけなのに」
「蘇生液って……今のションベンみたいな臭いのするションベンみたいな液のこと?」
「しょ……小便だなんて。確かに色と臭いと成分は小便とまったく同じだけれど、でもわたしの蘇生液はそんな汚いものじゃないよ!」
「色と臭いと成分が一緒ならそれもう小便じゃねぇか! なんてもんを人の顔に引っ掛けるんだよ! ふざけんなよ!」
「ちょっと楓! さっきから聞いてたらあなた! 失礼よ!」
 武藤は怒気を孕んだ声を上げた。
「然るべきところに訴えれば大きな問題になるわよ? それで懲役刑が科されたことも一度や二度じゃないんだから。謝りなさい!」
「は? ……い、いや、だって意味分かんねえし。蘇生液とか……」
「蘇生液も知らない訳? あなたの背中にだって蘇生液線はあるでしょう? 人間は誰でも一つ蘇生液を出す為の蘇生液線を持っているのは世の常識でしょう」
「いやしらんし……つか背中って。そいつは額から出してたろ? 三つ目の目があって……」
「場所や形は人それぞれよ。あなたのは背中ってだけ。例えば私の蘇生液線は男性の陰茎の形をして、股にあるわ」
「それもうちんこだし、ションベンじゃねえか」
「聞き捨てならないわ! 訴えを起こしてやる! 最低十年は牢屋に入ってもらわないと気が済まない!」
 そう言って掴み掛らんばかりに怒鳴りつける武藤に、ジェノサイド金玉が横から寄り縋る。
「ま、待ってよ武藤さん。楓ちゃん、今様子おかしいでしょう? 自分の言ってることが分かってないだけなんだよ」
「それは分かるけど……だからって許せることとそうでないことが……」
「うん。それはその通りだね。あのね楓ちゃん。今楓ちゃんはとっても酷いことを言ったの。楓ちゃんだって自分の蘇生液線のことを悪く言われるときっと怒るよ。だからさ、謝ってあげて」
 そう言われ、楓は訳が分からないまま、顔に付着した小便のような液体をとりあえず袖で拭ってから、不承不承に
「ごめん」
 と謝った。
「……次はないと思いなさい」
 鋭い目つきで楓を睨んでから、武藤はそう言って矛を収めた。
 ジェノサイド金玉が取り成すように口を開く。
「びっくりしたよお。急に『目を覚ます』とか言って、逆に気を失っちゃうんだから。何しても起きないからさぁ、しょうがないから山小屋に運び込んで蘇生液かけてたの」
 楓は今山小屋の中にいた。砂埃の積もった畳の床に、猫の額のような台所が取り付けられている。大きな寝袋らしきものが横たわっている以外に物はなく、山の匂いの中に先ほど引っ掛けられた蘇生液の臭気が混ざっていた。
「はい、これ」
 そう言って、ジェノサイド金玉はタオルを手渡して来る。遠慮なくそれで蘇生液を拭かせてもらった。
 自分は今まで気を失っていたらしい。こうしてこの場所に戻されたということは、ここがもし夢の世界だったとして、そこから覚めることには失敗したらしかった。
 ……いや、短時間だが覚めていたような気がする。確かに楓は、ここに居る夢の中の自分ではない別の身体の瞼を開いた。そしてその体で別の現実を生きていた。そこには確かにリアリティがあったし、それを楓ははっきりと思い出せるような気がした。
「……魚だ」
 楓は言った。
「……はあ?」
 武藤が眉をしかめる。
「魚だよ! あたし、魚だった。水の中を泳いでた。自分が水槽の中にいるのにも気づかず、ずっと同じところをぐるぐると……」
「……いや、ちょっと。夢でも見たの?」
「夢……? 夢って言うのはこの世界のことだろ?」
「ここは現実よ」
「違う。夢だ。夢だから額の目から小便……蘇生液なんてものが出て来たりするんだ。こんな現実がある訳がない!」
「じゃあ魚の方が現実とでも言うの?」
「うん。……うん? いや、そういうことになるのか? ありえない話じゃない、のか……?」
 自分の本当の姿は魚で、今この世界はその魚が見ている夢。確かにそういう推測も可能かもしれない。少なくとも、それを明確に否定するような証拠はどこにも存在していない。
「……胡蝶の夢?」
 ジェノサイド金玉が呟くように言った。
「なんだその、コチョーのユメって」
「いやそのね。中国のある思想家が考えたことなんだけど。……その人は夢の中で、蝶々になってひらひら飛んでいたのね。そして、ふと考えたの。ひょっとしたら蝶であるこっちが現実で、人間である時が夢なのかもしれない。……ってさ」
「そんなの屁理屈よ。何が現実かだなんて、肌に感じることが出来るはずでしょう?」
 武藤が言う。ジェノサイド金玉は弱々しく頷いてから、こう続ける。
「その通りだよ。誰にだってこれは現実だという理屈抜きの実感はあると思う。けど、その理屈抜きの実感っていうのは、すごく脆弱な根拠だと思わない? ひょっとしたら強くそう思い込んでいるだけで、本当は今生きている世界以外に、別の現実が存在しているかもしれない。本当の自分はそこにいて、今自分が感じている世界はただの幻想なのかもしれない。……そんな風に考えたことって、多分誰にでもあるんじゃあ」
「……否定はしないけどね。でも、そんな禅問答をする前に、辻村の死体をどうするかを考えなくちゃいけないわよね」
 楓は頭を抱えていた。自分の現実が魚かもしれないという事実にショックを受けていた。しかもその魚は、水槽の中に囚われて延々と同じところを泳ぎ続けていた。
 もしあんなものが楓の現実なら、まだ殺人犯としてこの意味不明な世界で頭を抱えていた方が、マシなのではないか? ひょっとするとこの現実自体、あの魚があまりの退屈の中で生み出した、空想の世界なのかもしれない。
 しかし魚の妄想にしてはやや高度な世界であるかのようにも思われる。山小屋の中の匂いや春先らしき気温の肌触り、自分の手の甲の産毛の一つ一つまで繊細に感じ取れる。ここまでのことをたかが魚が鮮明に想像できるものなのだろうか?
「……まだ悩んでるの?」
 武藤が楓に尋ねて来た。
「だってさぁ……。どこが現実なのか分からないんじゃあ、何も落ち着いてできやしないよ」
「じゃあ訊くけれど、あなたにとっての『現実』の基準は何? 何を持って現実というの?」
「そりゃあ……。こう、そこに帰って来たら、すぐにそれと分かるものなんじゃないか? 現実なんて」
「確かにね。夢を見ている時に、これが夢か現実か曖昧になることは良くあるわ。しかし起きている時に、自分が夢の中にいるかもしれないと迷うというのは、少々特殊な状態と言えるかもしれない」
「そうだろう? つまり、今あたしがここを現実と思えない以上は、ここは現実じゃないんだよ」
「なら、魚の方が現実なのかしら?」
「……それだと理屈が合わないんだよ。だって、現実じゃないとしたら、ここは幻想とか空想とかの類だろう? この現実は魚の想像力を遥かに越しているようにも感じられるんだよな」
「両方が虚構であるということかしら?」
「そうである確率が高いような気がして来た」
「すると私たちと言う人間は、あなたにとって虚構の中の存在で、意思を持たない幻覚に過ぎない訳ね」
「そうだろう」
「そう思う根拠は、あなた自身の、ここを現実だと思えないという、理屈抜きの感覚のようなものなのよね?」
「……そういう言い方もできるな」
「その『理屈抜きの感覚』というのが、気の所為というか、人を殺してしまったという極限状態から生じた、ある種の幻覚であるという可能性はない?」
「…………そんな感じはしない」
「自分が今いる場所が現実ではないというのは、可能性としては相当に突飛な部類よね? 比較の上では、あなた自身が混乱状態にあるという可能性の方が、まだしも蓋然性が高いと言えるんじゃないかしら?」
「あたしにはそうは思えない」
「幻覚に囚われている時に、幻覚に囚われていることに気付くのは困難よ。あなたは今そうした状態にあるんだわ」
「……そうとは限らないだろう。なんでそんなことを押し付けにして来るんだ?」
「ここにいる私は本物だからよ。私は私が虚構上の存在ではないと知っているし、私の現実が確かに現実であることを知っているから」
「それはおまえ自身の実感であって、それをあたしと共有できるとは限らないだろう」
「いいえ可能よ。あなたを幻覚の中から救い出してあげれば良いだけの話なのだから」
 そう言って、武藤がじっと楓の顔を見詰めていると、横合いからジェノサイド金玉がおずおずと口を挟んで来た。
「ねぇ武藤さん。わたしも武藤さんと同じ意見なんだけどさ、それを今の楓ちゃんに説いて訊かせても、あんまり効果はないんじゃないかな?」
「なら、他にどうしろというのよ?」
「ようするに、今の楓ちゃんは、殺人を犯したプレッシャーから混乱状態にある訳なんでしょう? その混乱状態から脱する為には、いったんゆっくり休ませてあげるのが良いんじゃないかなあ?」
「その為の時間はさっき十分に取ったと思うのだけれど……まあ良いわ。あなたの言うことにも一理あるかもしれない」
 そう言って武藤は楓の方を見て
「そこでしばらく横になって入なさい。私達は死体を隠蔽する準備を進めておくから」
 そう告げて、鞄の中から何やら大きな袋を取り出し始めた。
「……だから自首した方が良いと思うんだけどなあ」
 などともごもご言っているジェノサイド金玉を無視して、武藤は袋を持って、山小屋に置かれた寝袋に近付いて行っている。その行動の意味が楓には分からなかったが、しかしこのおかしな世界にしか分からないおかしな理由が、そこにはあるのだろうと思われた。
 楓は横になったまま、武藤の言った意味を考えていた。
 自分は気が動転していて、だから、確かに現実であるはずのこの世界を現実とは思えなくなっている? その可能性を拒む根拠は楓自身の『そんなはずはない』『この世界はおかしい』という実感でしかない訳だが、その実感そのものが幻覚であるとすれば、確かに武藤の言い分も成立するかもしれない。
 だが楓自身は意識がしっかりしていて、自分がある種の恐慌状態にあるようには思えなかった。おかしいのは世界の方で、自分は正常なのだという理屈抜きの実感がある。
 だがその実感と言うのは、錯乱した己自身が生み出した幻覚なのかもしれない。
 しかし、自身が錯乱しているとは思えない、という実感が楓にはある。
 堂々巡りだ。自身を狂人と疑ってしまうと何も信じられなくなる。楓は考えるのをやめた。
 武藤に言われた通り、いったん休んだ方が良いのかもしれない。おかしいのが自分にせよ世界にせよ、目を閉じてじっくりと休養を取れば、物事が好転しないとも限らない。
 そう思い、肩の力を抜いた瞬間、楓の意識は次第にほどけて行き、安らかな闇の中へと沈んで行った。

 〇

 薄暗い、砂埃が舞っているトンネルの中に、楓はいた。
 楓は土の入った大きな袋をひたすら運んでいた。頼りない照明の灯かりの中を、重たい土袋を背負って歩く。見れば自身の前後にも同じような袋を担いだ人達がいて、延々と同じ場所を目指して歩き続けている。
 袋は重たかった。全身の力を総動員しなければ、とても持ち歩くことはできなかった。周囲の歩くペースは速く、それに合わせるのに楓は気力と体力を振り絞らなければならなかった。
 トンネルの中は、延々と同じ風景だけが続いている。何時間となく休まず歩き続けている内に、楓は次第に状況に辟易するようになった。いつまでこんな状況が続くのか、何を目的にこんなことをしているのか、楓にはまるで分からなかった。
 気が遠くなりそうな時間が過ぎる頃、ようやく折り返し地点にさしかかる。他の連中が荷物を地面に降ろし始めたので、楓も同じようにした。
 降ろした傍から、反対側から列を成して歩いて来る連中が、袋を持ち上げてその場を歩き去って行く。それを見届けた後、楓は列に従って、来た道を引き返し始めた。
 身軽になったのは嬉しかったが、しかし薄暗いトンネルを延々と歩き続けなければならないことに変わりはなかった。楓は歩数を数えてみることにした。
 他にやることがなかったため、途中で何度か数がこんがらがりつつも、ある程度の精度を持って歩数を数えることが出来た。その数字はあっけなく百万を超えた。眠ることも座ることも許されないまま、何日もの時が経過していた。
 身体は鉛のように重く、全身には常に不快な疲労感がまとわりついていたが、しかしその疲労感は一定を超えることがなく、よって倒れることもなかった。限界寸前の体力が、しかし完全に尽きる寸前で常に持続しているかのような、不思議な状態が続いていた。
 やがて、新たな折り返し地点までたどり着いた列は、別の列が置いて行った土嚢を受け取ると、来た道を引き返していく。楓も同じようにするしかなかった。また同じ数百万歩を、今度は重たい土袋を背負って、不眠不休で歩き続けることになるのだ。
 楓は懲りずにそれを続けた。他にやること等なかったし、今やっていることをやめたいとも思わなかった。列から外れて座り込みたいと言う欲求は常にあったが、一度そうしたが最後二度と列に戻ることは出来ないと言う、強迫的な予感が常にあった。そうなることだけは絶対に避けなければならないと、楓は何故か確信していた。
 二か所の折り返し地点を往復し続ける日々。いや、そこには太陽もなく昼も夜もないので、『日々』などと言う高級な概念は存在していないとも言えた。とにかくそうした時間が何往復も続いた。他にすることがないので、楓はやはりその往復の数を数えた。
 その数もやがて百万を超えた時、楓は絶叫した。
 洞窟の果てまで響き渡るかのような大きな声だった……ように思ったのは楓一人だけで、本当は、この長い長いトンネルの空気を、ほんの僅かに震わせただけだったかもしれない。しかし、周囲の人達はその声に反応した。楓の泣き喚く声に足を止め、楓に歩み寄り、声をかけた。
「何を叫んでいるのよ、ちゃんと黙って歩きなさい」
 眼鏡をかけた、ショートボブの少女が楓に言った。
「どうしたの? 何か変なことでもあったの?」
 色素の薄い目を持つ、ポニーテールの少女が楓に言った。
「なんであたし達はこんなことを延々としているんだよ! おかしいと思わないのかよ?」
「おかしいに決まっているでしょう」
 叫ぶ楓に、ショートボブの少女が怜悧な声で言う。
「でも続けるしかないじゃないの? 他に何ができるというの? 土を運ぶのをやめて、その場に座り込んでいろっていうの?」
「違う。もっとこのトンネルの先に進んで、何があるのかを確かめてみるべきだ。ここがなんなのかを調べて見るべきだ」
「そんなことをして、何が起こるかも分からないというのに? ここで土を運び続けていれば、私達には存在する意義が保証されるというのに?」
「いったいなんなんだよ、その存在する意義っていうのは?」
「土を運ぶことそのものよ。それが何になるのかは分からない。けど、土は運ばれていくわ。必ず、どこかへと。私達はその為に存在している。それを実感できることに満足するしかないじゃない」
「何の為に土を運ぶのか知りたくないのかよ?」
「それは傲慢なことよ。誰だって自分のしていることの意味は分からない。生きている意味だって分からない。私達にできることや知れることが限られている以上、それが分かる日は絶対に来ない。それでも生きることに意味はあるし、生きることは幸せなの。違うかしら?」
「分からない。あたしには何も分からない」
「……そうやって、自分がやることや、生きることに意味とか考えない方が良いよ」
 そう言ったのはポニーテールの少女だった。
「突き詰めて考えていけば、森羅万象全てに意味なんてないんだから。でもさ、土を運ぶのって結構楽しいし、楽しくはなかったとしてもまあ我慢してやっていけることだと思うんだよね。そりゃ、嫌になることだってあるけれど、そういう時は心を空っぽにしてやり過ごせば良い。そうしている内にやがて耐え難い苦痛はどこかへ行って、また無心に土を運ぶことができるようになる。そうやってやり過ごしていくしかないんじゃないかな?」
「そうやって我慢して、その先に何があるっていうんだよ?」
「分からない。分かる訳がない。何にもならないかもしれない。でも、確かなのはわたし達が今ここに生きているということ。歩みを止めなければ、生き続けていられるということ。いつか生が終わる日があるとしても、その日に至るまでは確かに生きていたということだよ」
 楓がアタマを抱えていると、やがて洞窟の向こうから、黒いスーツを着た男達がやって来る。
 彼らは楓の前に立つと、何も言わずに楓の腕を引っ張って、洞窟の奥へと連れて行ってしまう。
 洞窟の中には小さな小屋が一つあった。楓はその中へと放り込まれる。そして椅子に座らされ、スーツの男の一人にこう詰問される。
「何故、周りの足を止めさせた?」
「歩くのが嫌になったから」
 楓は答える。
「おかしいな。嫌になるなんてことがあるはずがないのに。そんな風に思う心はおまえにはないはずなのに」
「違う。列の中にいる皆には心がある。歩き続けるのが嫌だと思う心があって、その心と向き合いながら生きているんだ。おまえ達が知らないだけだ」
「そんなはずはない。だが、おまえが今嫌だと口にしたこと自体は事実だ。何かバグが起きているのかもしれない。やがてそれはシステム全体の破綻へとつながるかもしれない。それは致命的なことだ」
「そんなシステム、壊れてしまえば良い」
「そう言う訳にはいかない。土は運ばれなければならない。我々は我々よりも下層に世界を作る為、穴を掘り続けなければならないのだ。それは幾億の時を掛けてでも果たされなければならない我々の悲願なのだから」
 そう言って、男は楓の頭に手を伸ばす。
「少し中のプログラムを見てみよう」
 楓の頭に男の手が触れると、楓の頭が機械的な音を立てて開き、中から一枚のディスクカードのような物が姿を現す。
 男がディスクを楓の頭から取り出すと、目を細めてじっとそれを眺め、驚いたように口にする。
「これはいかん。もう随分と古くなっている。だから、感情などと言うバグが生じてしまったのだ。今すぐに新しいものと交換しなければ。他の個体の状態も、確認しなければ」
 そう言って、男がディスクを叩き割ると、それと同時に楓の存在は粉々に砕けて、砂埃に満ちた洞窟の淀んだ空気の中に溶けて、消える。

 〇

 ゆっくりと、楓は目を覚ました。
 さっきまで横になっていた山小屋だった。
 寝起き特融の、先ほどまで見ていた夢が遠ざかるような感覚がある。砂埃に満ちた洞窟の姿も、何年となく続いたかのように思える行進の日々も、全てが朧げな記憶となって、掻き消えてしまいそうになっていた。
 何百万回と洞窟の中を土嚢を背負って往復していた思い出が、ほんの一瞬の出来事のように思われた。しかもその記憶は、楓の中から今にも霧散しようとしているのだ。
 楓は強い恐怖を覚える。洞窟の中の日々は確かに苦しみに満ちていたが、しかしそれでも、その中で確かに楓は歯を食いしばって必死に生きて来たのだ。その記憶があっけなく消えてしまうことは、楓にとってとうてい耐えられることではなかった。
 その恐怖を口にしようと思った寸前……ヒステリックな喚き声が楓の耳朶を打った。
「だから、自首なんてしないって言ってるでしょう!」
 武藤である。
「死体はティラぬサウルスに食べさせれば良いって何度も何度も言ってるじゃない! 死体さえ無くなれば調査自体がなされないんだから、逮捕される心配はどこにもないわ! 何がどうやったら犯行が露見するのか、言えるもんなら言って見なさいよ!」
 その怒声を受けたジェノサイド金玉は、静かに首を振る。
「わたし達がどれだけ検討を尽くしてバレる可能性がないと結論を付けたところで、それが単なる浅知恵だっていう可能性はあるよね? 失敗っていうののだいたいは想定外のところから起きるのだから。武藤さんがどれだけバレない理由を並べても、それは同じことだよ」
「そんなんじゃ話にならないじゃない。隠蔽がなるかどうかを合理的に検討した上で難しいと主張するのならまだ分かるけど、あなたが主張しているのは単なる悲観的な感情論でしょう。バレると思うのなら、具体的に私と議論しなさいよ」
「武藤さんの方こそ、何が何でも犯行を隠蔽したいっていう気持ちがまず先にあって、バレない理屈は後付けなんじゃないのかな? だいたい、わたしとのディベートに勝ったところで、バレるものがバレなくなる訳じゃないでしょう?」
「バレないわよ。そのことをあなたに納得してもらうための議論でしょうが」
「つまり言い負かしたいってことじゃない。っていうか、わたし達には、警察の調査の能力や方法について、正しい知識が備わっている訳じゃないでしょう? そんな状況で議論したところで正しい結論を導けるとは思えない。隠蔽が成る確証なんて絶対に得られない以上、慎重に行動すべきだと思う。少しでも罪が軽くなるように、自首しようよ」
「話にならないわね」
「武藤さんの方こそ」
「楓は」
「楓ちゃんは」
「「どう思う?」」
 こちらが二人の激論に耳を向けていたのを見て取った二人は、楓の方に水を向けて来る。
 楓は答える。
「どうもこうもねぇよ」
 この二人はお互い自分の考えを声高に主張しているのみで、相手の話を聞くつもりなどまるでない。その上で声の大きさを比べあって勝ち負けを決めるのならまだしも、なまじっか相手にも自分の考えを納得させようとしているのだから、始末に悪い。
「聞いてりゃお互い退く気はないんだろ? あたしにはどっちの言い分が正しいかは分からないけど……でもジェノサイド金玉が退かないなら、結論は自首にしかなりようがない」
「どうしてそうなるのかしら?」
 武藤は鋭い視線を楓に向けた。
「決まってるだろ? 隠蔽は三人が結託しないとできないことだけど、自首の方は一人でもしちまったら三人とも巻き添えになるんだ」
「そう思うのなら、楓もジェノサイド金玉を説得する手伝いをしてよ?」
「言ってるだろ? あたしにはどっちの言い分が正しいか分からないって。だったらなるようになるに任せるしかないだろうが。一人でも自首するっていう奴がいるんだったら、全員で自首するしかないんじゃねぇの?」
「どうして自分のことなのにそんなに投げやりなのよ?」
「ここがあたしの現実だとは思えないからだ」
「まだそんなことを言って!」
 武藤は怒声を発した。
「現実逃避もほどほどにしなさいよ! このままじゃ少年院に入れられるのよ? 万が一足の裏に恥垢を塗られたら、玉虫色の手足の生えた彗星に一生涯追い回されるのは避けられないわ。泥沼に手を突っ込む度にヘソが痒くなる。そんな人生を送ることにあなたは何の疑問もないの?」
「……楓ちゃんが投げやりなのはわたしも良くないと思うけど、でも言ってることは、確かに正しいのかもね」
 そう言ったのはジェノサイド金玉だった。
「楓ちゃんの言う通り、一人でも自首を主張する人間がいるなら、それはもう全員で自首しかないってのは確かだもんね。できたら武藤さんにも納得してもらいたいけれど、どっちにしろわたしは考えを変えるつもりはないし」
「少年院の赤の足湯で、目ヤニが黒くなってもあなたは良いっていう訳?」
「強逝酸でなんとかすれば良い」
「第七真皮が破壊されてゲラーゾ硝素で寿命が縮むわ」
「それは近年の科学では否定されてる。硝素学者のスーザン斎藤の発表によれば、ただの迷信だって」
「足の裏に恥垢を塗られてからの過酷な人生を、あなたは耐えられるっていうの?」
「罪と罰って奴だよ、武藤さん。わたし達は間違いなく辻岡を殺したんだから」
「私は嫌だ! せっかく今まで頑張って堅実に生きて来たのに、こんなアクシデントの所為で真っ当な道が閉ざされるだなんて……」
 そう言って武藤は顔を覆って泣きじゃくり始めてしまう。それを冷静に見下ろすのがジェノサイド金玉だ。その視線は静かであり、泣いている武藤に対する慈しみのような感情すら漂わせている。
 一見すると、攻撃的な論調の武藤の方が気が強そうだが、実のところ、物腰穏やかなジェノサイド金玉の方が、精神的には安定しているのかもしれない。
 武藤はそのまま数分間、泣き続け、ジェノサイド金玉がそれを見守ると言うのが続いた。
 そして、おもむろに立ち上がった武藤が、捨て鉢な声でこう口にする。
「……毒を食らわば皿まで、っていうわよね?」
 その声に、ぞっとしないものを感じて、楓は目を剥いた。
「武藤さん?」
 おずおずと、ジェノサイド金玉が武藤に声をかける。武藤は、血走った眼を楓とジェノサイド金玉の二人に向けると、壁際に立てかけてあった大きな紙袋に向けて走り寄った。
「だ、ダメっ。それは……」
 ジェノサイド金玉が制止を呼びかける間もなく、紙袋を手にした武藤はその中身を楓とジェノサイド金玉に振りかけて来た。
「ぐわっ」
「きゃあっ」
 強烈な悪臭と生暖かい温度を持つその物質が、楓の全身に降り注ぐ。色は茶色で、僅かに粘性を帯びており、見た目は土や粘土にも近い。しかし土よりはしっかりとした形を保っていて、粘土と比べると崩れやすかった。その強い臭いや感触はまるで……。
「うんこじゃねぇか!」
 楓は叫んだ。うんこを触ったことがある訳ではない(と思う)が、しかし見た目と言い臭いと言い、それはうんことしか言いようがなかった。
「違うよ、これはフェット男粉」
 ジェノサイド金玉が冷静に指摘する。その全身は、楓と同じものでどろどろに汚れていた。
「色と形と臭いと成分は人糞と同じだけれど、でも人糞とは別物なんだよ」
「色と形と臭いと成分が同じなら、それはもううんこじゃねぇかよ! なんでそんなもんを振りかけて来るんだよ!」
「あんた達はこれから、ティラぬサウルスに食われて死ぬのよ」
 武藤はそう言って、足元にあった寝袋の中から、首から上がアヒルの玩具のアタマで構成されている人間の死体……辻岡……を引っ張りだして、紙袋からフェット男粉をそこに振り撒いた。
「今にティラぬサウルスがやって来るわ。あなた達も、辻岡も、それに食われてしまいなさい」
 最後にそう言い残すと、武藤は山小屋から勢い良く飛び出して行った。
 楓とジェノサイド金玉は二人、途方に暮れた顔を見合わせる。中でもジェノサイド金玉の表情は、強い恐怖に歪んでいた。
「ど、どうしよう楓ちゃん。このままじゃ、わたし達……本当にティラぬサウルスに食べられちゃう……」
「いや、うんこを振りかけられたからって、なんでティラノサウルスに食べられる訳?」
「うんこじゃなくてフェット男糞だし、ティラノサウルスじゃなくてティラぬサウルスだよ。武藤さんは辻岡の死体だけじゃなく、わたし達のことまでティラぬサウルスに食べさせようとしているんだ。口封じの為にね。ティラぬサウルスは、フェット男粉の匂いが大好物だから」
「なんだよそのスカトロ恐竜は!」
「ティラぬサウルスは恐竜じゃないってば! とにかく、一刻も早く山を降りないと、命が……」
 そう言うジェノサイド金玉の声を、響き渡る大きな轟音がかき消した。
 一歩ずつ、こちらに近付いて来る怪物の足音である。音と共に地響きが山小屋の中まで伝わって来て、本能的な恐怖を楓に覚えさせる。何か恐ろしく巨大な生き物が、おもむろな足取りで少しずつこの山小屋に近付いてきている……。
 「来たよ!」
 ジェノサイド金玉がそう叫んで、楓を山小屋の外に引っ張り出した。
 遠くから、巨人のような気味の悪い生き物がこちらを覗いているのが見えた。
 体長はゆうに三十メートルはある。体は生まれたばかりの全裸の赤子のようだが、どういう訳か二足歩行してこちらに向かって来ている。そしてその幼い全身の首から上は、赤子のアタマではなく三十代程の男のアタマがくっ付いていた。面長で、顎が角ばっており、黒縁の眼鏡をかけていて髪の毛は見事な七三別けだ。その頭部だけでも、体の倍近い大きさがある。
「ティラぬサウルスだ!」
 風邪を引いた夜に見る夢のようなその怪物を指さして、ジェノサイド金玉は叫んだ。
「室井でございまーす!」
 という巨大なうなり声を上げながら、ティラぬサウルスは楓達のいた山小屋に向かって、足音を響かせながら飛び込んで来る。ジェノサイド金玉に手を引かれる形で、楓達は全力で山を下って怪物から逃げた。
「佐内でございまーす! 関口でございまーす! 林でございまーす!」
 叫びながら、ティラぬサウルスは山小屋の中に首を突っ込み、その薄紫色の唇でフェット男粉に塗れた辻岡をつまみ上げた。そして黄ばんだ歯を噛みしめながら、少しずつ辻岡を飲み込んでいく。口端から血液が滲み出て、ティラぬサウルスの頬を汚した。
 辻岡を食べ終えたティラぬサウルスは、再び鼻をひく付かせると、山を逃げ降りている楓達に狙いを定めた。そしてその巨体を揺らしながら山を降りつつ、「土橋でございまーす」とうなり声をあげて楓達に迫る。
 楓達は必至でティラぬサウルスから逃げた。
 逃げる途中で、楓はこの世界の山の様々な光景を見た。
 山には多種多様に木々が生えており、女性の乳房にしか見えない形のコブがあちこちに張り付いている。キノコを思わせる形をした突起が人間の子供程のサイズ感で生い茂っており、その一つ一つの上には十センチ程の大きさの小人が立ち、手足を振り回しながらヘタクソなタコ踊りを披露していた。
 背中に蝶々のような羽を生やしたムカデがあたりを飛び交い、楓の顔や手足に張り付いては、噛み付く代わりに口から出した針を刺して来る。痛みを感じる間もなく羽根つきムカデは飛び去って、一瞬にして腫れあがった皮膚の中から、蛆虫のようなどす黒い生き物がポロポロと地面に落ちる。しかし次の瞬間には、腫れていた皮膚は何事もないかのように再生した。
 異様な光景と現象の数々に度肝を抜かされながらも、楓は山を流れる小川の前までたどり着いた。
 深さも長さもさしたることはなく、流れも驚く程緩やかな川だった。然程時間をかけずに渡れそうにも見える。ティラぬサウルスは然程俊敏ではないが歩幅は大きく、逃げても逃げても楓達との距離は広がらず、むしろじわじわと縮まっているように感じられる。
 ここを迂回して進むか、川を渡るかを考えたところで……楓はふと閃いてジェノサイド金玉に言った。
「ここでうん……フェット男糞を洗い流せば良いんじゃないか?」
「……それはまさに、一か八かだね」
 ジェノサイド金玉は言った。
「こんな川に指一本でも触れたら、途端に流れが速くなって、溺れ死ぬか、良くてゼピリノ岩礁まで連れて行かれて海坊主に食べられる。運良く突き出した枝にでも捕まれれば別だけど、そうなる確率は高いとは言えないね」
「なんか良く分からないけど……危険なのか? こんなに流れが緩いのに」
「緩く見えるだけだよ。誰かが川に踏み入った瞬間に本性を現して、突然流れが速くなるんだ。そうじゃないと、警戒して誰も中に入らないからね。川だって結構狡猾なんだよ」
 良く分からないが川に入るのには大きなリスクを伴うらしい。しかし、悩んでいる間にも追いかけて来るティラぬサウルスとの距離は縮まるばかりだ。「榊でございまーす」といううなり声が、すぐ真後ろで聞こえて来るかのようである。
「とは言え、このままじゃどの道ティラぬサウルスに捕まっちゃうね。……どうする楓ちゃん? 行ってみる?」
 一瞬の逡巡の後、楓は、決断した。
「行こう!」
 楓が川に向かって踏み込むと、ジェノサイド金玉が「分かった」と頷いて後に続いた。
 ジェノサイド金玉が言っていたとおり、楓達が川に足を踏み入れた途端、流れは急激に早くなった。
 それどころではない。浅い小川に見えた川は瞬く間に姿を変え、急に大海の中央に来たかのように大きく、そして深くなった。唸りを迫りくる水流は楓の肉体をたちまち飲み込み、上下も左右も分からなくなった全身を、どこへともなく無茶苦茶に運んでいく。
 大量の水を飲み込みながら、楓は全身をもみくちゃにされ、少しずつ意識を遠のかせる。
 そして、頬に何か平たく冷たい感触を覚えたかと思うと、ゆっくりと目を覚ました。

 〇

 教室の机の上に右側の頬をくっ付けて眠っていた楓は、ふと目を覚まし、口元から垂れるよだれを拭った。
 帰りのホームルームで喋っていた教員が、睨み付けるような表情でこちらを一瞥する。居眠りを決め込んでいたことは、おそらくバレていたのだろう。もしかしたら、怒鳴りつけられる寸前だったのかもしれない。
 気付かれないように伸びをしてから、楓は、すぐ傍にある教室の窓から外を見詰めた。五月の太陽が煌めく青空には、輝くような純白の分厚い雲がゆっくりと漂っている。校庭に生えた木々には深い緑色の葉が生い茂り、風が吹く度に乾いた音を立てた。
 教室を見回す。自分と同じような制服を着た生徒達が、思い思いの仕草で席に着いている。壁に掛けられた時計の姿も、薄汚れた黒板も、自分の着いている学習机の模様に至るまで、すべて楓には見覚えがあった。
 ここは現実の世界で、自分は今日までここに生きていた。
 そして明日から、この世界での日々を楓は生きていく。
 そんな当たり前のことを何故かしみじみと考えた後、楓は小さな声で独り言ちる。
 「……なんか、ものっすごい変な夢、見てたな」
 教員の話に一区切りが付いた直後のタイミングで、計ったかのようにチャイムが鳴り始めた。

 〇

 赤沢楓は公立本坂(ほんざか)高校の一年生だ。
 T県の病院にて生を受け、出生体重は三千四百二十六グラム。健康な赤ん坊としてこれと言って大きな危機や苦難を経験することもなく健やかに育った。
 小学生の時に盲腸の手術をしたことと、中学生の時に部活の練習中に左手首を骨折したこと以外は、大過なく義務教育を終えることができた。成績は比較的良かった為、受験シーズンには塾にも通い、公立高としては高偏差値の部類にある本坂高校への進学を果たした。
 中学の頃はソフトボール部に所属しており、俊足強肩の外野手として活躍。最高学年になってからは終始スターティング・メンバーで、いくつかの試合で四番打者を務めることもあった。だが体育会系特融の上下関係などの体質が鬱陶しくもあった為、高校からは文化部である生物部に所属するようになっている。
「楓」
「楓ちゃん」
 放課後、部活に行く準備をしていると、横から二人の友人に声を掛けられる。武藤あかねと、金城玉子である。
 武藤あかねは漆のような黒いショートボブに銀縁眼鏡というスタイルで、切れ長の鋭い目を持っている。クール・ビューティな雰囲気を漂わせており、常に取り澄ました話し方をする。楓にとっては中学時代からの親友だ。射程圏内だった名門私立進学校への受験を諦めてまで、楓と同じザカ高を選んでくれた程の仲良しだった。
 金城玉子は高校に入ってから出来た友人である。元々の色素が薄いのか、その髪の毛は染めてもいないのに少し赤茶けた色をしている。同じく茶色っぽい大きな垂れ目は、どこか弱気な印象を人に与える。実際その性格は温厚でおとなしく、中学時代などは一部のバカな男子から名前をもじって『金玉』と呼ばれてからかわれていたという、少々可哀そうな過去も持っていた。
「どうしたの? なんか、帰りのホームルームの最中、眠りこけてたみたいだけど」
「そうだよ。先生、ずっと楓ちゃんのこと睨んでた。もう、怒られる寸前って感じだった」
 武藤が呆れたように、金城が心配そうに言う。楓は肩を竦めて答える。
「別に。なんか急に眠気が来てさ。まあ、怒られずに済んだんなら、良かったよ」
 それから三人は、所属している生物部にまで足を運んだ。
 その間は、三人は様々な話題のガールズ・トークに花を咲かせた。楓はさっきまで見ていた意味不明な、異様なまでに長く生々しい夢について話したい衝動にかられたが、すんでのところで口を噤んだ。
 あんな意味不明な内容をうまく説明できるとは思えない。それに、『ジェノサイド金玉』の部分を話したら、両方の友人の不況を買いそうだ。金城自身はもちろん、友達想いの武藤だって、夢の中で友人をそんな風に呼んでいたと言われれば、きっと良い思いはしないだろう。
 生物部の部室は楓の所属する一年三組のある校舎の隣の校舎の一階にある。そこで楓達は、一階の玄関から隣の校舎まで歩くことにしていた。
 その間、なんとなく自分の下駄箱に視線をやった楓は、スニーカーの上に一枚の封筒が入っていることに気が付いた。
「ちょっと待ってくれ」
 二人の友人にそう断った上で、楓は、下駄箱に入れられた封筒を手に取った。
 可愛らしいハートの装飾が施された、白い封筒である。中学の時、楓の周りでこういう封筒に手紙を入れて相手の机に忍ばせるのが、流行ったことがあった。たいていは他愛もないような内容ばかりだったが、中には秘めたる思いをそうした方法で告白すると言った文化も存在していた。
 中の手紙を取り出して、読むと、そこには少々ばかり丸っこい文字で『放課後、体育館裏の木まで来てください』と書かれているのが見える。
「何が書いてるの?」
 金城が興味を持ったような声で言った。
「いや、あんまり人に話すようなことじゃ……」
 楓は照れ笑いをする。
 実は楓は、こういう手紙をもらうことが、特に中学時代は多かった。女子としては高い背丈や、しなやかで長い健康的な手足、高い鼻、精悍さを感じさせる吊り上がり気味の瞳と太い眉などが、ボーイッシュな魅力を感じさせるのだろう。中学時代は、ソフトボール部の中心メンバーとして試合でも活躍していた為、そっち方面のファンもいた。
「男子? 女子? どっち?」
 武藤が、からかうような声で言った。
「多分、女子だと思う」
「ちょっとしたファンなら良いんだけど、本気で交際を迫られたら、どうするつもり? あなた、別にレズとかじゃないんでしょ?」
「テキトウにあしらうよ。いつもそうしてるし。とにかく、ちゃんと指定された場所まで行って、会ってあげないと。勇気を出して手紙を出してくれたんだから、ちゃんと対応しないと可哀そうだ」
「分かったわ。じゃ、今日の部活は、休み?」
「そうなると思う」
 生物部は文科系の部活の中でも緩い活動内容で、毎日ちゃんと来ているのは部長である風見鏡花ただ一人である。幽霊部員も多い、と言うよりは、まともに活動しているのは、部長と一年生である自分たち三人くらいのものだ。一日くらいのサボりをとがめる者は誰もいないだろう。
 飼育されている大量の金魚の世話も、主にその風見がやっている。夏祭りのシーズンの度に、悪戯に掬った金魚の世話を全校中の生徒から押し付けられるらしい。彼女が卒業した後は、一番熱心な金城を中心に、自分たちが引き継いでいくことになりそうだ。
「場合によっては、途中から来ることもあるかもしれない。部長には、そんな感じで伝えといてくれ」
「分かったわ」
 そのやり取りの後、楓は、二人の友人と別れ、指定されている体育館裏まで向かった。

 〇

 体育館裏の木が告白スポットというのも、古風なものである。
 学校でもひと際大きなその木は、体育館の建物とほぼ同じ高さまで聳え立っている。木肌には生徒達の悪戯により、あちこちにカッターで文字やマーク、絵ともつかないような訳の分からない模様などが彫り刻まれていた。しかし悲壮な感じはせず、むしろ幼稚な悪戯にも動じず厳かに生徒達を見守る賢人のようなただ住まいを、その木はいつも放っていた。
 そんな木の根本で、楓は手紙の主を待ち受けることにした。
 五月とは言え、こんな巨木の木陰となれば、どこかひんやりとしている。風が吹く度に、生い茂った木の葉たちが擦れ合い、涼し気な音を立てた。昼下がりの太陽はおだやかな日光を振り巻いていて、重なり合う葉の隙間を縫うようにして影との間にコントラストを作り、楓の頬に複雑な模様を描いていた。
 体育館の中からは、バスケ部あたりが練習する音が響いて、楓の耳朶を揺さぶって来る。ボールが跳ねる音や気合の入った選手たちの声に、楓は、自分がソフトボール部の四番だった時のことを瞼の裏に思い出していた。
 ……ああ。ここは、ここだけは、現実なんだな。
 何気ない日常の一コマの中の、おだやかな時間の中で、楓はそんなことを噛みしめていた。
 現実と言うのは、確かめる術を持たずとも、ただその中にいるだけで、確かにそこが現実だと実感できるものなのだ。そこに理屈を付けることはできないが、しかし言葉で言い表す必要などなく、現実の中の人々はそこが現実であるという事実を共有して、日々を生きているのだ。
 そんな当たり前のことが、無性に素晴らしく思えた楓は、心地の良い気分で目を閉じて、巨木に身を預けて頭の後ろで腕を組んだ。その時だった。
 小さな足音がして、楓の前に一人の少女が現れた。
 異様な人物である。何せ、その少女はその身に布切れ一つ帯びていない。肌は白く、どちらかというと痩せていて、それでいて、女性的な丸みも全身のあちこちに僅かずつだが芽生え始めている。年齢としては、十歳くらいと言ったところ。
 髪の色は宝石のようなブルーで、腰まで届きそうな長髪は澄み渡るような黄金色をしていた。明らかに日本人ではない堀の深いその顔立ちは、絶世の美貌と言うにふさわしいものだった。
 学校の校舎に全裸の美少女。その現実離れした光景に、楓は思わず絶句する。少女は楓の手に握られている一枚の手紙を指さして、鈴を転がすような声でこう口にした。
「その手紙を差し出したのは我である」
「は?」
 少女は、言いながら楓の手から手紙を奪い取る。そして、用が済んだとばかりに無造作に捨てると、その手紙はどこかから青白い火が点いて燃え上がり、魔法のようにその場から消え失せてしまった。
「我の目的は、貴様に、この世界が偽りであることを伝えることにある」
「何言ってんだよ、おまえ」
 楓は冷や汗をかきながら、全裸の少女を睨み付け、言った。
「意味分かんねぇよ。というか、おまえ、いったい何者なんだよ?」
「我は天使である」
 そう言った瞬間、瞬くような光が世界を包み、楓は思わず目を閉じる。
 そして目を開けた瞬間には、少女の背中には真っ白な翼が生え、空中に浮きあがっていた。
 翼はその一枚一枚が少女の体長の倍近いサイズがあり、空中浮遊していると言うのにそれらが羽ばたく様子は見られない。ただ、それが当たり前であるかのように浮いているのみである。だと言うのに、その翼からは絶えず光の粒子と共に驚く程小さな羽根が飛び散ってもいて、楓の頭上におだやかに降り注いでいた。
 その金色の頭上数センチには半透明の光の輪が浮遊している。まさにエンジェル・リングと言ったそれは鋭い虹色の輝きを放ち続けており、あまりの眩しさに直視し続けるのが難しい程だった。
「嘘だろ……」
 何故『現実』であるはずのこの世界に、こんな非常識な存在があるのか、楓には理解不能だった。何らかのトリックが使われているのかとも考えたくなるが、しかしこれほど神々しい存在を目の前に生じさせるからくりなど、楓には想像しようもなかった。
「嘘だろ……ここは、ここだけは、現実じゃなかったのかよ」
「愚劣なり。何を持ってして、何が虚構で現実だなどと定義しうるというのか」
 天使はそう言うと、口元に邪悪としか言いようのない形の笑みを浮かべた。
「そもそも、『現実』などと言うものは存在しない。それは、『現実』とは何かということを考える時に、頭の中に出現する偽りに過ぎないのだ」
 天使は楓の身体に手をかざす。
 それだけで、楓の脚は地面から離れ、空中へと浮かび上がった。悲鳴を上げる前に、今度はしっかりと翼をはためかせて飛び上がった天使を追い掛けさせられるように、楓の全身は空高く放り投げられる。
 はるか上空から見える校舎の様子は、確かに先ほどまで楓がいたはずの平和な日常の空間だった。しかし楓自身は意味不明な天使に操られ、宙に浮かされ、現実では起きるはずのない現象をその身に引き起こされている。
「何を言っているんだ? 現実が存在しないなんてありえないだろう!」
 楓は吠えた。天使は、邪悪な笑みを浮かべたまま応答する。
「水槽脳仮説というものを知っているか? ある者が『世界』だと感じるものの全ては、脳だけになって水槽の中に閉じ込められた状態で送り込まれる電波が見せる、ただの幻覚に過ぎないかもしれないという説だ。はたして、貴様の脳が水槽の中に入れられていないということを、貴様には証明できるのかな?」
「そんなことがあり得る訳がないだろうが! あたしの脳は水槽になんか入れられていない!」
「答えになっていない。だが仮にそうだとしよう。しかし水槽に送り込まれる電波と、地球上のあらゆる物質・概念が齎す刺激との間に、どのような違いがあるというのだ? どちらの場合であっても、貴様の感じる世界とは、貴様の矮小な脳が作り出して貴様自身に見せている幻想であることに、何の違いもないのではないか?」
「おまえの言うことは間違っている! 水槽と現実の地球じゃまったく意味が違う!」
「違うというなら、貴様が感じているあらゆる感覚の内の、どれが現実に由来するもので、どれが単なる幻想かということを、どのように定義するというのだ? どうにも定義ができないというのなら、すべてが幻想であることと同じではないか」
「それは……そこが本当に現実なら、そこが現実であることは、分かるはずで……」
「つい先ほどまで、貴様が現実だと確信していたこの世界もまた、偽りだったのだぞ?」
 天使はそう言うと、掌から放たれる光で世界を覆った。
「見ろ。これが、貴様が現実だと思い込んでいた世界の、真の姿だ」
 そこにはあらゆる色も形も存在しない、無限の虚無だけが続いているおぞましい空間だった。上も下もなく、脚の踏み場もなく、見通しようもないがらんどうな空間だけが永遠に続いている。白くも黒くも透明でもない。闇さえもないその虚無の世界には、視覚という概念すらも役に立たない。ただひたすらに、『何もない』だけが存在していた。
「ここには何もない。何もない故に、どんなものでも描くことができる」
 天使が手をかざすと、足元から吹き上がる真っ赤な炎が出現した。世界中を覆いつくす巨大な炎の頭上を、灼熱に耐えながら天使に浮かされ楓は漂っていた。
「こんなことも」
 大シケのどす黒い海が天使の足元に出現する。荒れ狂う大海の中に、天使は指先一つの号令で楓を放り込んだ。水流に蹂躙されて沈みゆく楓の全身を、突如現れた海の怪物が丸呑みにする。
「こんなこともできる」
 分厚い雲の上に楓はいる。柔らかな雲の上には、天使と同じような見た目をした美しい子供達が、思い思いの仕草でくつろいでいる。その中で、高校の制服を身に着けた楓の場違いでみじめな姿を、天使達は嘲るような表情でじっと見つめていた。
「どんなに強くそこを現実と信じたところで、ふとした時に何の前触れもなく、そこが偽りであると思い知らされる瞬間はある。そうでないということを、貴様は今後、どのように証明する? 突き詰めて考えていけば、この世界に確かな疑いようもない現実などは、どこにもないのだぞ?」
「……おかしい。おかしいよ。こんなことはありえない……」
 分厚い雲の上で、楓は激しく慟哭し始める。天使はその姿を冷たい笑みと共に見下ろして、嘲弄するようにその頬に手を触れた。
「嘆くことはない。何故なら現実などいらぬからだ。現実などなくとも、貴様は貴様という無二の存在として、あり続けることができるからだ」
 顔を上げた楓に、天使はあくまでも嘲りの笑みを浮かべ続ける。
「貴様はこの後の様々な幻想に弄ばれるだろう。だが幻想を拒絶する必要はどこにもないのだ。幻想こそが、貴様が感じているあらゆる音や光、匂いや味、感触の本質であり、それらは貴様が生きて存在する限り、揺ぎ無く貴様を包み込むだろう。それを嘆く必要はないのだ。現実を探す必要など、どこにもないのだ」
 そう言われた瞬間、楓の立っていた分厚い雲の床が崩れ、全身は虚空の中へと投げ出される。
 長い長い、無限に続くような落下だった。その中で楓は絶叫を上げ続け、しかしそれを聞きとめる者など一人もおらず……。
 どこにも着地することもないまま、楓は意識を失い、その存在がその場所から消えた。

 〇

 なんだかものすごく、常軌を逸する程、複雑な空想をしていたような気がする。
 ……気がしたが、気がしたことを、その雑草は一瞬にして忘れてしまった。
 そもそも雑草にはものを想像したり、考えたりすると言う習慣がほとんどない。習慣がないというか、その為の能力が備わっていないというべきだろう。実際のところ、どうすれば効率良く光合成ができるかということや、土の中の水分をどのように効率良く全身に行き渡らせるかを創意工夫する程度の英知はあったが、それは『考える』ということとは少し違った。
 それなのに、その雑草がただの一瞬でも、何かを空想し、その中に身を置いていたのだとすれば、それは凄まじく奇跡的な出来事であると言えた。しかしそんな奇跡もすぐにその雑草の記憶から消える。
 そしていつものように、葉と根から生きる為の栄養を蓄え続ける努力に邁進し始めた。
 雑草のような単純な生き物には、感情や思考の類は存在しないように考えられているが、しかしまったく皆無と言う程ではなかった。おぼろげに喜怒哀楽や、成長するために少しでも有利になるような思索を、巡らせることもある。
 例えば、隣で根を生やしている別の雑草が、近くにある土の栄養を奪い取ってしまうという悩み。
 これは哀しみや怒りに属する感情を雑草にもたらす。当然こちらも負けじと栄養を土から吸おうと試みるのだが、しかし奴の根の働きは己のそれを遥かに上回っていて、ちょっとやそっとの頑張りでは必要な栄養を大きく奪われてしまう。
 ならばと、空からもたらされる日光をできるだけいただこうと試みる。しかし隣の雑草が伸ばした自分より背の高い葉の存在が鬱陶しく、それが遮蔽物となり、吸収できる日光の量を僅かだが制限されてしまっていた。これは根から得る栄養と比べるとまったく大したことがなかったが、それでも鬱憤はどうしても溜まって来るというものだった。
 上記の二つの損害も、雑草の生育を致命的に妨げる程のものではない。なんとか生きて成長していくことは十分に可能ではあるし、そういう意味では問題はないのだが、しかし苛立ちは毎日のように募って行った。
 こんな奴が隣に生えているというだけで、自分はこれほどまでに忸怩たる思いをし続けなければならない。理不尽と不幸、そして隣人への激しい怒りに、雑草は常に腸の煮えくり返る思いをしていなければならなかった。こんな思いをさせられると言うだけでも、雑草にとって隣人は、憎らしくてたまらない存在だったのだ。
 いっそのこと、自分は枯れても良いから隣人のことも枯らしてやりたいなどと言う、本末転倒な願いすらも、その雑草は感じ始めていた……その頃だった。
 ふと、大きな音がして、隣人が雑草の傍から消えた。
 大きな巨人の手が伸びて、隣の雑草の茎を掴み、力一杯引き抜いたのだ。そのことは、視覚や聴覚を持たない雑草でも、すぐに理解することができた。浴びられる日光が突如として増え、土の中で得られる水分や栄養の量が増えたのだから、その原因が取り除かれたと見るのがあまりにも妥当だった。
 雑草は歓喜した! これで、ムカつく隣人に自分のものになるはずだった栄養を吸い取られずに済む! ふんだんに栄養を吸収し、このあたりで一番大きな雑草となって、周りの奴らの分まで光と水を我が物にしてやるのだ。そしてますます大きな草に育っていく。これほど痛快なことはない。
 そんな風に考えていた時だった。
 雑草の茎に、信じられない程の力が加えられる。
 異変を感じる間もなく、雑草は隣人と同じように土から引っこ抜かれ、隣人と同じゴミ袋の中に放り込まれる。
「やれやれ。草抜きの授業は、面倒臭いな」
 子供の声がする。しかし聴覚を持たない雑草には、何も聞こえない。
 日光の照りつける学校の裏庭で、生徒達による草抜きが行われていた。

 〇

 楓は腕に縄を括り付けられて、高所にぶら下げられている。縄は遥か上空から伸びており、まるで天に括りつけられて垂らされているかのように、異様なまでに長い。
 青空が見える。照り続ける太陽にその身が焼かれ、楓は喉が焼けるように乾くのを感じる。全身には粗末なぼろ布のような服が引っ掛かっていて、垢塗れで酷くみじめな姿をさらしていた。
 今の自分は、雑草になる夢を見ていて、そこから覚めたのか。それとも、自分の本当の姿は雑草で、その雑草が見ている夢がここなのか。分からなかった。
 周囲には、自分と同じように、垂れ下がる縄に腕を取られてぶら下がっている人間がたくさんいた。そのすべてが年頃の少女であり、中には銀縁眼鏡をかけたショートボブの少女や、気の弱そうな大きな垂れ目を持つポニーテールの少女も混ざっていた。
 楓は下を見る。数百メートルは離れた距離にある地面はだだっ広いただの荒野で、目の前には大きな塔のような建物が築かれており、そのテラスから何人かの中年の男が身を乗り出して、自分たちに脂ぎった視線を注いでいた。
 見世物にされているのだということに気付いて、楓はおぞましい気持ちになった。どうして自分たちはぶら下げられているのか、自分たちはいったい何で、この世界はいったい何なのか。楓には何も分からなかった。ただ無気力に、ぶら下げられていることに甘んじる諦めの気持ちだけが、心の中に強くくすぶっていた。
 じりじりと照りつける太陽が齎す喉の渇きが、限界に達しそうになる。このまま乾きに苦しんで狂いながら死んで行くのかと思うと、ぞっとしそうなほどの恐怖が全身を包み込む。
 テラスにいる男の何人かがホースを持ってきて、そこから水を放って楓達へと振りまいた。
 楓は思わずそれを口にした。ホースの水は闇雲にばらまかれているのではなく、中年が気に入った少女の口元を狙って吐き出されているようだった。複数の中年が手にした何本ものホースの水の内、楓に向けられる物は少なくはなく、楓はそれでどうにか渇きを癒すことができた。
 さらに、テラスにいる男達は何か泥団子のような見た目の物体を取り出して、楓達の方に放り投げて来た。いくつかはどの少女にも命中せず荒野へと落ちて行ったが、他のいくつかは楓達の全身に命中し、その体に泥のような物質が付着した。
 有機物の匂いがした。楓は思わず自分の身体にへばりついた泥を手で拭い、観察してみる。
 それを見ていると、楓は自分が腹が減っていることを思い出した。誘われるようにして匂いを嗅ぐと、金魚の餌か何かのような、香ばしさが漂ってくる。
 見ると、周囲の少女たちは、体に張り付いたその泥をぬぐい取っては口に運んでいる。なるほど。これは自分たちに与えられるエサらしい。楓は、若干の躊躇を飲み込んでからそれを口にした。美味くはなかったが、食えない程まずくもなかった。
 高所から腕一本に縄を括られてぶら下がっていても、どういう訳か、血が偏って肉体が壊死するようなことはなかった。ぶら下げられている苦痛は絶えず感じていたが、それが健康に支障をきたすことは、何故かここでは起こらないらしい。
 楓は気まぐれのように降り注がれるホースの水や、投げつけられる泥状の餌を口にして、日々を生きた。見世物にされる屈辱もいずれは麻痺し、かと言って男達に感謝や愛情を抱くこともなく、植物のような気持ちで時間が流れるだけだった。
 そうしていると、ぶら下げられている少女たちの中にも、人気のある者とそうでない者がいることが分かって来た。人気のある者は多くの放水や餌にありつくことができるが、そうでない者は飢えと渇きに苦しみ場合によっては死に至り、ぶら下げられたまま亡骸になっては、上空から縄を切られて荒野へと落下していった。
 多くの施しを得る為、男達に向けて何やらアピールするような身振りを行う者もいたが、そういうことをする者の多くは人気のない少女達だった。ならばとアピールをやめてみても一向に施しが増えることはない為、どうやら施しが多い少ないは、自分たちの努力ではどうすることもできないらしい。
 楓の人気度は、中の上か上の下と言ったところだった。常に一定の上と渇きに悩まされてはいるが、周囲と比べてその程度が目に見えて大きい訳ではない。むしろマシな部類、と言ったランクだった。
 人気のある者は多くの水と食料を得て活きが良く、他の少女たちに挑発的な表情を浮かべることさえあるほどだった。半面、人気のない者はガリガリに痩せ衰えており、喉を掻き毟って飢えと渇きに耐えていた。
 楓の右下あたりにぶら下がっている癖のある赤い髪の少女などは、特に人気のない部類にあった。もし身なりをきちんとすることができれば、それなりに見栄えのしそうな目鼻立ちをしているのだが、痩せ衰えた今となっては、ひしゃげたぼろ雑巾のようにみじめだった。
 少し前までは、男たちに懸命にアピールをしてどうにか生きながらえようと努力していたが、最近ではその気力や体力を失ったかのように俯くばかりで、微動だにすらしない。命の灯が消えるまで、あとわずかというところだろう。
 そんな折、餌の時間が始まった。男達はにやにやとした脂ぎった表情で、手にしたエサ団子を少女たちに向けて投げつけて来る。その内のいくつかは楓に被弾し、泥状の餌が身体にへばりついた。
 右下でぶら下がっている赤毛の少女を見る。
 彼女の釣果は、今日は特に酷かった。その全身には一つの餌も張り付いておらず、少数回投げられたエサも体の横を素通りして、地面に消えてしまっている。投げつけている男の顔はどこかにやにやとしており、わざと外して楽しんでいるかのようにすら思われるほどだった。
 楓は怒りを感じた。訳も分からず吊り下げられ、施しに頼って生きねばならない哀れな見世物に貶められていることに。不公平を絵に描いたようなこの世界の秩序と、それを作り出し嬉しそうに笑っている、男達の存在に。
 楓は全身に張り付いた泥のようなエサをかき集めると、団子状に丸め直し、飢えて死にそうになっている赤毛の少女に向けて、慎重に投げつける。
 何故かは分からないが、楓は物を投げるという動作に自信を持っていた。泥団子は赤毛の少女の脇腹に命中し、それに気づいた少女がこちらを振り向いて目をぱちくりとさせる。
「食べろ」
 楓は言った。
「食べてくれ」
 男達から、歓声が上がった。両腕を振り回し歓喜したようにはしゃぎ、楓の方を指さしながら両手を打ち鳴らす。
 何かとんでもなくめでたいことが起きたかのような光景だった。楓は困惑する。全員が楓に注目しながら大きな声で何かをわめきたて、こちらを称えるかのように腕を振り回す。
 一人の男が、大きな猟銃のようなものを持ってきて、大喜びで楓の方に向けた。
 その猟銃の男を中心に、男達は肩を組み合い、讃美歌のようなメロディの歌を、楓には分からない言語で歌い始める。
 呆然とその歌を聞き終えた楓の頭上に向けて、猟銃の男は、嬉々とした表情で引き金を引いた。
 見事なまでの精度で放たれた弾丸は、楓の頭上にある縄を切り裂く。
 縄を切られた楓は、全身を空中に投げ出され、荒野へ向けて真っ逆さまに落ちて行った。
 意識が暗転する。

 〇

 その後も楓は、新たな世界で目が覚め、或いは、新たな夢の世界へと沈んで行った。
 夢とも現とも、幻想とも実体とも付かない様々な光景を目にし、様々な体験をし、様々な姿になり、それぞれの世界で生き抜き、死んで行った。
 前の世界の記憶を引き継げることは少なかったが、朧げに覚えていられることもあった。そうしたかすかな記憶を積み重ねる内に、楓には悟ったことがある。
 自分が旅する世界の全ては、単なる幻想に過ぎないのだということ。
 どれだけはっきりと感じた喜びも痛みも愛情もすべて、何もかもなかったことになって、夢を見ていたかのように消えてしまうのだということ。
 楓はやがて無気力になって行き、どんな状況に置かれても足掻くのをやめるようになる。
 ただ無感動に、与えられた状況に流されている内に、意識を失って夢の世界に沈むかのように、或いは目を覚まして夢の世界から舞い戻るように、次なる世界へとその魂を旅立たせていく。
 そんなことが、永劫に思える程長い時間、続いた。

 〇

 ある時、楓は真っ白いベッドに横たえられた状態で目を覚ました。
 全身にはたくさんの点滴の針が突き刺さっており、いくつものチューブが全身から伸びている。辛うじて薄く開けられる視界の先には、白い壁と天井、仕切りのような白いカーテンが見えた。
 まるで病院の病室のようである。
 その中にあって、楓はベッドに横たえられる病人と言ったところか。身を起こそうとしたが体のどこにも力が入らず、瞼を少し動かせる以外には、指先一本動かすことができなかった。
「この病室の子、全身不随になってから、もう十年は経つんでしょう? 可哀そうにねぇ」
 病室の扉の向こうから、そんな声が聞こえて来る。
「そうよ。十六歳の時に不幸な事故にあってから、ずっとあのベッドの上よ。ご家族と、二人のお友達が熱心にお見舞いに来てくれるんだけれど、様態にも何の変化もないし。たまに少しだけ、瞼が震えるくらいで、身じろぎもしない」
「ずっとベッドで横になっていて、身動き一つ取れないまま、何を考えているのかしら?」
「何も考えていないんじゃない? というより、意識が少しでもあるんだとすれば、そっちの方が残酷だわ」
 ナース同士で交わされる、患者についての噂話、と言ったところか? どういうことかと話を聞きに行きたくて仕方がなかったが、しかし楓の身体はまるで人形か何かになったかのように、指一本動かすことができなかった。
 なんとも不自由な状況だ。それでも考える力と意思があるだけでも、雑草や魚の姿をさせられるのと比べ、マシだと思うべきなのだろうか?
 そう考えて、楓は、この世界においては今までに見て来た様々な世界での記憶が、かつてない程の鮮明さで備わっていることに気が付いた。山の中でティラぬサウルスから逃げていたことも、学校の裏庭で現れた天使に空を飛ばされたことも、その他様々な世界を股に掛けつつ色々な体験をしたことも、楓はすべて記憶していた。
 その記憶はさっきまで見ていた夢のようでもあり、瞼の裏に自分の意思で思い描いていた空想のようでもあった。ベッドに横たわったまま身動き一つとれないというのに、意識はこれまでにない程鮮明で、あらゆる感覚がかつてない程くっきりと、楓の肉体を包み込んでいる。
 まさか。ここが自分の現実なのか?
 そんな風に思いそうになるが、しかしその考えをすぐに打ち消す。
 どうせまたすぐに、チャンネルが切り替わるようにして、他の世界に行かされるに違いない。天使が言っていたように、自分の感じる世界の全ては幻想に過ぎない。たとえ幻想でないものが混じっていたとしても、最早、何が幻想で幻想でないのか、それを見分ける力は既に楓から失われてしまっている。
「目が覚めたか?」
 声がかかった。
 いつの間にやら現れた白衣の人物が、楓の前でパイプ椅子に腰かけている。首から聴診器を下げたその姿は医師のようだったが、現実の世界の本物の医師でないことは、一目で分かる。何故なら、その人物の首から上は、真っ白な丸い頭に赤い鶏冠と嘴の付いた、ニワトリのような姿をしていたのだから。
「……ここもやっぱり夢か。幻想の世界か」
 楓は、唇も喉もまったく動かないのに、何故かそのような声をニワトリに掛けることができた。
「何故そう思う?」
 ニワトリは楓に問うた。
「おまえみたいなニワトリが出て来る世界が、現実であるはずがないだろう?」
「何故そう言えるんだ? 現実だからと言って、ぼくのような生命が存在しないという保証はどこにもないぞ。それに、ぼくの存在が幻想であったとしても、この世界そのものが幻想であるとは断言できない。ここが現実で、ぼくの存在のみが君の幻想だという説は、否定できないはずだ」
「どっちでも良い」
 楓は投げやりに言った。
「ここが現実か幻想かなんて、どっちでも良い。見分ける方法がない以上、すべてが幻想であるのと同じことだ」
「果たして、そうなのかな? 逆に、こうは考えられないか? すべては現実であるのだと。意味不明な状況に置かれ、夢から覚めるように唐突に消えていく世界なのだとしても、その時々において、君は確かな現実の中で、現実と同じ体験をしているのだと、そういう風に考えられないか?」
 ニワトリは言う。
「確かに、何が現実で、何が幻想であるかなど、誰にも規定のしようはない。疑うことは、どうとでもできる。しかし、仮にそこが幻想なのだとしても、そこで何かを感じ、考える君は、確かに存在しているんだよ。その中で君は色んなことができるし、どうにかして生き続けることができる。ならばその時々で、そこにいる自分で、そこにいる世界を精一杯生きていれば良いのだと、そういう風には考えられないか?」
「なんだよそれ。いずれ幻想と分かって消えていく世界なのに、どうしてそんな風に考えられるっていうんだよ?」
「いつか消えるのだとしても、その時だけだとしても、その世界は確かにそこにあるからだ。あるように感じられるだけなのだとしても、あるように感じている君自身は確かにそこにあるからだ」
 ニワトリは嘴の周囲の筋肉を捻じ曲げるようにして笑みを作る。
「どれだけ今自分がいる世界の実在が疑わしかったとしても、人は、とにかく今そこにいる世界を頑張って生きていくしかない。誰だって一度は自分のいる世界に疑問を持つが、だからと言って、その世界で明日を生きる努力を放棄することなど、できはしないんだ。そこが夢であれ現実であれ、地上であれ水槽の中であれ、自分の正体が人であれ蝶であれ、同じことだ」
「同じこと……?」
「そうだ。同じことなんだ。その時そこにいる自分で、場所で、精一杯生きていけば良いだけのことなのは、いつだってどこだって同じことなんだ」
 そう言って、ニワトリは足元から大きなジュラルミン・ケースを取り出した。それを開けると、中から大量の注射器が収められているのが楓の目に入る。
「だがしかし……今だけは、次に君が生きる世界を選ばせてあげることができる。それは君という神の作り出した多数の天使達の中で、ぼく一人のみに与えられている特別な力だ」
「……選べる? 次に行く世界がどんなところかを、選べるのか?」
「そこが現実かそうでないかは保証しないがね。さあ、選びたまえ。君は、どこで生きたい?」
 そう問いかけられ、楓は、しばしの沈黙の後に、強い確信と共にこう答えた。
「あの山の中が良い。最初に目覚めたあの山の、川に飛び込んだ続きの世界を見に行きたい」
「それは何故かね?」
 楓は答える。
「友達がいるから」
 ニワトリは頷いて、注射器の内の一本を取り出して楓の方に向ける。
 針が楓の皮膚を貫く。瞼が降り、楓の意識が暗転した。

 〇

 ティラぬサウルスに追われ、思わず川に飛び込んだ楓は、激しい水流の中でしっちゃかめっちゃかに流されていた。
 最早その川は川というにはありえない程広く深い空間になっている。川はまるで生き物のように姿形を変え、水の流れさえも自在に操り、不用意に飛び込んだ楓を飲み込もうとする。
 ……これがこの世界の川なのか。なんて恐ろしいんだ。
 最早、なされるがままに蹂躙され、流されるに任せるしかないように思われた。向かう先がどんな地獄であろうとも、楓にはあらがう術などありはしない。
 そう考えた楓が覚悟を決め、歯を食いしばったその時だった。
 矢のような勢いで泳いできた人影が、楓の腕に自分の腕をしっかりとからめとった。そして人魚のような鮮やかな泳ぎで楓を引っ張ると、水流に抗うようにして川の中を泳ぎ、岸まで運んでいく。
 楓を運んだ何者かは、先に岸に上がると、楓のことを力一杯陸へと引き上げた。
「ぷはっ。ぷはっ。ぷはぁああっ」
 小石のひしめく川原に引き上げられ、楓は咳き込みながら水を吐き出した。自分の口や鼻から溢れ出る水に溺れるような感覚があったが、何度も水を吐く内にその息苦しさも解消され、大きく息を吸い込めるようになる。
 生き返った心地で目を開くと、近くではジェノサイド金玉が同じように咳き込んで水を吐いていた。そして座り込む楓とジェノサイド金玉を、呆然とした表情で見下ろす裸の少女が一人。
「……武藤?」
 漆のようなショートカットは、川の水に濡れて肌に張り付いている。服を着ていないのは先程まで川に入っていたからか。トレードマークの銀縁眼鏡も今はかけておらず、足元の岩の上に転がっていた。
 一糸纏わぬ白い肢体は、良く引き締められているだけでなく、はっきりとした筋肉の隆起があった。大きくはないが形の良い胸の膨らみや、脂肪のそぎ落とされたウェストのラインが艶めかしい。そして股の間には、女性としての陰核の他に、武藤固有の蘇生液線……確かにアレの形をしている……がぶら下がっていた。
「おまえがあたし達を助けてくれたのか?」
 そう尋ねると、武藤は楓から目を逸らして俯き……そして小さく頷いた。
「なんであんな風に泳げるんだ? あんな激しい水流の中で、溺れるあたし達を岸まで運ぶなんて、まるで神業だ」
「……本当に何もかも忘れてるのね。私、中学の頃水泳で国体出てるじゃない? 泳ぐのは得意なのよ。そりゃあ助けるのが簡単な訳じゃなかったけれど……でも、やってできないことじゃないわ」
 武藤はため息を吐いた。
「いい加減、思い出してよ。私達のこと。あなたと一緒に過ごした過去のことが忘れられるのは、やりきれないわ」
「すまん」
 楓はそう言って頭を下げた。
「まだ思い出せないんだ。この世界での過去のことは。一生思い出せないかもしれないし、もしかしたらそんな過去は存在しないのかもしれない」
「何を意味の分からないことを」
「助けてくれてありがとう。でも、どうしてあたし達を助けたんだ?」
「そうだよ」
 水を吐き終えたジェノサイド金玉が、恐る恐ると言った様子で声を発した。
「フェット男粉を振りかけてまで、わたし達のことをティラぬサウルスに食べさせようとしたんでしょう? 川に飛び込まれたのは想定外だったのだとしても、あのまま放っておけばわたし達は溺れ死ぬか、セピリノ岩礁で海坊主に食べられる確率が高かった。なのに、どうしてわざわざ……」
「……なかったのよ」
「え?」
 武藤は嘆くような声で吠える。
「できなかったのよ! あなた達を見捨てるなんて。辻岡を殺したことを隠蔽する為だと言っても、友達であるあなた達を殺すことなんて、私にはできなかったのよ!」
 そう言って、武藤はその場で膝から崩れ落ち、ぼろぼろと涙をこぼし始める。
「どうかしてたのよ! 私、本当にどうかしてたっ。大切な友達を殺してまで自分の罪から逃れたところで、何になるの? それで捕まらずに済んで真っ当な人生を送れたとして、それが何だっていうの? そんなのが幸せのはずがない。そんなことも分からないだなんて……私は本当にバカだった!」
 あふれ出る涙が敷き詰められた小石の上に零れ落ち、シミを作った。深い悔恨と反省の念が、その涙から溢れ出しているように楓には思える。
「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ。あなた達を殺そうとしてごめんなさい。楓のことも、ジェノサイド金玉のことも、私の命と同じくらい大切な友達のはずなのに。本当に……本当にごめんなさい、二人とも……」
 そう言って、武藤は楓に縋りついた。冷たい水の滴る細やかな肌からは、しかし武藤自身の確かな体温が感じ取ることが出来た。激しく慟哭する震える肉体を抱きしめて、楓はその肩に優しく手を置いた。
「おまえは確かに、一度はあたし達を殺そうとした。でも今こうして、あたし達の命を助けてくれた。ありがとう武藤。おまえを許すよ」
「うん。そうだね。武藤さんは命の恩人だよ」
 ジェノサイド金玉も、楓と同じように武藤の肩に手を置いた。
「いくら武藤さんが水泳の名人だと言ったって、あの激しい川の流れに飛び込むのは危険だったはずだよ。命懸けだった。それでも武藤さんはわたし達の命を助ける為に勇気を出してくれたんだ。見捨てておけば、辻岡を殺したことは簡単に隠蔽できたのにね。それでもわたし達を助ける決断をしてくれたことを、わたしは絶対に忘れない。武藤さんは、変わらずにわたしの友達だよ」
 そう言って武藤のことを許した楓とジェノサイド金玉の言葉に、武藤はますます泣き声を強める。
 そんな武藤のことを、楓とジェノサイド金玉はいつまでも抱きしめ続けていた。

 〇

 やがて武藤は泣き止んで、服を着てしなやかな全身を隠してしまった。
 ひとまず山を降りることにして、ずぶぬれの楓とジェノサイド金玉は、武藤と共に山を降りた。
 その最中、楓はつい先ほど見た光景を思い出し、「本当に股にちんこ付いてんだな」と発言してしまい、激情した武藤に殴りかかられるという事件を生ぜしめた。ジェノサイド金玉が必死で止めてくれなかったら、マジで顔面に貰っていただろう。
 楓は不用意な発言を詫び、武藤はどうにか矛を収めてくれた。
「……以前までの楓だったらそんなことは絶対に言わなかったわ。本当に、世の常識やモラルというものまで忘れてしまってるのね、あなた」
「まあ、そうみたいだな。この先この世界で暮らしていけるか、どうにも心配だよ」
「その内思い出せると良いんだけど……。まあ、しばらくは私達がサポートしてあげるわよ。最悪ずっと忘れたままだとしても、一から教えてあげれば済むことだしね」
「それで、これからどうするの?」
 そう言ったのはジェノサイド金玉だった。
「結果としては辻岡の死体はティラぬサウルスに食べさせちゃった形になるけど……武藤さんはまだ、隠蔽を主張するつもり?」
 武藤は苦笑した。
「そんなつもりはないけど、ジェノサイド金玉たちがそうしたいのなら、黙っておくわ。元より、あなた達を殺しかけてしまった私に、この件について発言権なんてないんだから。どうするかは、あなた達で決めて頂戴」
 そう言われ、ジェノサイド金玉は楓の方を見る。
「楓ちゃんはどうしたい?」
「……そうだな。自首で良いんじゃないか?」
 楓は答える。
「その辻岡ってのがどんな奴だったのかは知らないけれど、殺しちまったのなら罪は償わなくちゃまずいだろう。どんな罰を受けるのかは、この世界のことを知らないあたしには分からないが、覚悟を決めて立ち向かえば、乗り越えられないこともないはずだ」
「うん。分かった」
「いいわ。そうしましょう」
 ジェノサイド金玉と武藤は、それぞれ力強く頷いたのだった。

 〇

 ずぶぬれの状態で山を降りた三人は、最寄りの警察署に立ち寄って、自分たちのしでかした罪を洗いざらい告白した。
 警察署の内装に違和感を覚えるところはなかったが、中にいる警察官の姿は妙だった。全身がゴムのようなぶよぶよの素材でできており、丸っこく膨らんだ胴体と、そこから伸びるホースのような手足、同じようなホースにカタツムリのような目玉が飛び出した頭部を持っていた。姿もそうだが、色合いもシンプルで、あるものは水色一色、ある者は桃色一色と言った具合だ。だがそれらがたくさん集まることで、カラフルな風船のようなにぎやかさを醸し出している。
「そうか。では殺人と死体遺棄で、これから君達は少年院だ」
 一警官に過ぎないだろうその生き物は、何故か調査も裁判もなしにそう断言すると、警察署の床の一枚を引っぺがし、地下室に繋がる階段を出現させた。
「厳しい処罰が待っている。さあ、行きたまえ」
 武藤とジェノサイド金玉がそれぞれ息を飲み込む。楓も、なんだか緊張して来た。
 薄暗い階段を降りると、床も天井もタイル張りの体育館程の広い空間が現れる。その中央には大きな円形の溝が掘られており、中には透明なお湯がなみなみと注がれていた。
 地下室と言えど、天井にある巨大な照明のお陰で暗い感じはしない。壁も天井も床も真っ白なタイル張りで、全体にうっすらと湯気が浮かんでいる為、銭湯や温泉に来たような気分になって来る。ならばあの円形の溝は湯船とでも呼ぶべきか。
 湯船の周囲を徘徊していた、レモン色の警官が楓達の姿を認めると、手招きをしてこう言った。
「入りたまえ」
 武藤とジェノサイド金玉が、緊張した面持ちで靴と靴下を脱いだ。楓も同じようにする。
「行くよ」
 武藤のその一言に、ジェノサイド金玉と楓が頷いた。武藤を先頭に三人は湯船の方へと進み……そして、その場に座り込んで脚だけを湯に浸けた。
「ああ~! フローラルぅ! フローラルぅうう!」
 他の二人の真似をしてお湯に脚を浸けていた楓は、武藤がいきなりそう叫び始めたので、思わず目を見開いた。
「ジャスミンの香りぃ! ジャスミンの香りぃいいいい!」
 ジェノサイド金玉も顔を赤くして大きな声で叫んでいる。訳の分からぬその光景に、楓は表情を引き攣らせるしかない。
「ほら! 楓、あんたも言いなさい」
 武藤に肘でつつかれて、楓は混乱した。
「何を言えば良いんだよ!」
「織田信長の口臭についての感想よ! 『良い匂い』とかで何でも良いから、とにかく褒めなさい!」
「い……良い匂いぃ! 良い匂いぃいいい!」
 隣の二人に倣って、楓は大声を上げ始める。
「男らしいっ! 男らしい!」
「優しそう! 賢そう! 楽しそう!」
「恰好良い! 恰好良いぃいいいいいい!」
 まるで病気の時に見る夢のようだ。こんなことが起きる世界を作った神がいるなら、おそらく相当にアタマのおかしな人物に違いない。真っ当な世界の理からは隔離されて久しく、筋の通った想像力は失い抜いている狂人だ。
 しかし楓は、自分の生きているイカれた世界に悲観しなかった。何が現実で、何が夢であるのか分からなくとも、そこに絶望することはなかった。
 喉が枯れる程叫び続けていると、やがて楓達の脚を浸けている湯の色が、赤く染まっていく。そして、楓達を見守っていた警官の口の橋から、ぶくぶくと泡が立ち始める。その滴が一つタイル張りの床に落ちた時、警官は勢い良くこう叫んだ。
「終了!」
 その声を聞くと、武藤とジェノサイド金玉が歓声を上げた。
「おまえたち、良く耐えたな! これでおまえ達の刑期は終了だ! 元の生活に戻ると良い!」
 楓達は湯から脚を上げて立ち上がる。すると、武藤がその場で飛び回りながら、楓とジェノサイド金玉の両手を掴んだ。
「やったっ。やったやったっ。やったぁ!」
 クールなイメージの彼女にはあるまじき程、無邪気な表情と声だった。ジェノサイド金玉も、武藤に手を握られながら、どこか感極まったように涙ぐんでいる。
「……終わったのか? これ? 人一人殺しといて、こんなんで済むのか?」
「ちゃんと自首をしたのが良かったみたいだね」
 楓が疑問を漏らすと、ジェノサイド金玉が答えた。
「お陰で、足の裏に恥垢を塗られるのは免れた。それは本当に良かった」
「ええ……。ジェノサイド金玉が正しかったわ」
 武藤が涙を拭いながら言う。その顔は真っ赤に染まり、全身は歓喜に震えていた。
「殺された辻岡も、その内天使様が復活させるわね。また赤ん坊からやり直しよ。相応しくない死に方をした人は、そうなるのが世界のルールだから。もちろん殺すのは良くないからこうして罰を受けたのだけれど……とにかく、これで私達は釈放よ。エスカレーターに乗りましょう」
 言いながら、武藤は、タイル張りの部屋の奥にいつの間にやら出現していた、長いエスカレーターを指さした。
「あれに乗って、地上の世界へ帰るの。そして新しい生活が始まるのよ。罪を償った私達の、新たなる旅立ちという訳ね」
 楓達は、武藤の指さしたエスカレーターに向かって歩き、三人でそこに乗り込んだ。
 エスカレーターはやけに長かった。いくら目を凝らしても先が見通せない程で、まるで天まで続いているかのように思われた。
 白い壁と薄暗い照明に包まれた空洞の中で、エスカレーターが静かに楓達を運んでいく。
 何十分も何時間も、楓達はエスカレーターの上で立ち尽くしていた。楓以外の二人はそのことに疑問を感じていないようで、ただ償いを終えた喜びから、嬉しそうな表情を浮かべてはしゃいでいる。
「なあ。ジェノサイド金玉」
 楓はふと、そこで口を開いた。
「なあに楓ちゃん」
「いつかおまえ、『胡蝶の夢』の話をしてくれただろ? 蝶になって空を飛ぶ夢を見た人が、蝶である自分と人である自分の、どちらが現実なのかを思い悩む話」
「うん。そんな話、したね。それがどうしたの?」
「あれの教訓ってさ。つまり、『人である時は人として、蝶である時は蝶として、それぞれの世界で精一杯頑張りましょう』ってことじゃないのか?」
 あの白い病室で、ニワトリの顔をした医者が言ったことを思い出しながら、楓は尋ねた。
「そうだったと思うよ。あの時はそこまで話せなかったけど……でも良く分かったね」
「そうだろうと思ったんだよ」
 楓は腕を組んで、頬に笑みを浮かべた。
「突き詰めて考えて行けば、何が現実で何が幻想かなんて、誰にも分かりはしない。そしてそのことは、どんな世界にいても同じなんだ。だったら、思い悩むだけ無駄だ。どの世界にいようともあたしはその世界で精一杯生きなくちゃいけないし、そして全力で足掻いている限りにおいては、その世界をほんの少しずつでも良くしていくことができる」
「なるほど。つまり楓は、今言ったような考え方で、この世界を前向きに生きて行こうって決意した訳ね?」
 武藤が問う。楓は力一杯頷いた。
「そうともさ。その時々であたしのいる場所が、その時々のあたしにとっての、かけがえのない現実なんだ。そういう意味では、何が現実で何が夢かなんて、考える必要はないんだと思う。前に見た夢で、それをあたしに教えてくれた奴がいるんだよ」
 そう言って、楓は武藤とジェノサイド金玉の肩を抱き、笑みを浮かべた。
「だからおまえらの存在だって、今のあたしにとってはかけがえのない現実で、確かに実在するあたしの大切な友達だ。一緒にいてくれてありがとう。これからもよろしくな、二人とも」
 武藤とジェノサイド金玉は、それぞれに笑みを浮かべて、強く頷いた。
粘膜王女三世

2021年12月31日 02時45分08秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:暴きようのない幻想は、真実であるのと変わらない。
◆作者コメント:この企画では、ちょくちょく、狂気な世界で狂気な描写が行われる短めの作品が投下されています。
 自分もそうしたものは好んで読んでいたのですが、一度自分で、それも枚数上限までのものを書いてみたいと思うこともありました。
 プロットを練る内に当初の予定とは異なり、世界や描写は狂気であっても主人公の感性は正常というような物語になってしまいました。
 正直、目指していたものとはちょっと違うところに着地したなという感じもしますが、これはこれで納得のいく仕上がりになったし、何より書いていて本当にびっくりするくらい楽しかったので、完成させられて本当に嬉しく思っています。

 それでは感想よろしくお願いします。

2022年01月18日 03時00分40秒
作者レス
2022年01月15日 21時29分41秒
+20点
2022年01月15日 19時33分17秒
+20点
2022年01月13日 04時22分20秒
+30点
2022年01月10日 20時36分54秒
+30点
2022年01月09日 21時13分08秒
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2022年01月09日 11時50分20秒
+40点
2022年01月06日 04時57分18秒
+50点
2022年01月03日 00時15分41秒
+20点
合計 8人 250点

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