馬とワイセツと私

Rev.04 枚数: 89 枚( 35,398 文字)

<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部
 男性という生き物をこの世から消してほしい。もし一つだけ願いが叶うならそれを選ぶと思う。
 よくよく考えると、なんでも一つ願いが叶うなんて物語は山程あるのに、その殆どが「永遠の命」だとか「死んだ恋人を生き返らせる」だとか、新たに何かを得ようとする選択ばかりだ。逆にすでにあるものを無くすという選択はあまり見た記憶がない。
 それはきっと、世界というのは今ある状態が常に最適であり、一つでも欠けたら想像を超える崩壊を迎えるからだろう。
 ゴキブリの存在を無かったものにしたのなら、生態系が崩壊してしまうかも。恐竜が絶滅しなかったら地球はピーナッツバターのようにトロけてしまうかも。
 何事もバランスが大切だ。ゴキブリが生き残ったから今私達は生きていられるのかもしれないのだから。そんな事はあってほしくないけれど。せめてコーギーのおかげって事にしておいて。

 兎にも角にも、男という存在を消したら人間は滅びる。考えるまでもなく。私だって人類を滅ぼしたいわけじゃない、ただ男という存在と関わり合いたくないだけだ。
 だから正確には、「世の男たちが背景以上の関係にならない世界」。私の願いはそんなところだ。


  シャッフル再生で垂れ流していた音楽を停止した。甘ったるいメロディで口がべと付きそうな程なので、コーラを流し込んでもっと甘ったるくさせた。
 飲み過ぎは良くないけれど、炭酸の快楽的な刺激には敵わない。多少不健康になろうとも、目の前の好物には尻尾を振って飛びついてしまうものだ。さながらコーギーのように。
 空き缶をシンクに投げ捨てジャケットを羽織る。テーブルに置いてあるジップロックだけを持って、近くの池へと歩いていった。イヤフォンで外界との扉を塞ぎながら。


「愛香(アイカ)って好きな人とかいないの?」

 そう聞かれたことは何度あっただろうか。中学生や高校生にもなると、その手の浮いた話は誰だって聞きたいし話したい。
 けれど私はそう聞かれると、どう返事をしたらいいか分からなくなる。昔から男になんて興味がなかったし、好きになる気がしなかった。
 きっかけは単純で、友達とこっそり怪しいサイト巡りをしていた時のこと。ちょっとホラーな仕掛けのあるサイトとか、違法アップロードされたアニメを見られるサイトとか。いけない事とは分かっていても、つい手を出してしまうのが子供の恐ろしさだ。
 まだ「そういう知識」に乏しかった私は、誤ってクリックしてしまったアダルトサイトを見て言葉を失った。

「やだアイカ、こういうの興味あるの?」

 隣で友達は笑っていたけれど、慌ててサイトを閉じて私は引きつった笑みを貼り付けた。見たことのない局部と見たことのない行為。それに対する強烈な拒否反応が今も色濃く記憶されている。
 とはいえあくまで子供の頃の過ち、それだけで何もかも駄目になったわけじゃない。少しずつそのトラウマは薄らいでいったのだけれど、それに比例するように「どうしてもああいう事ってしなきゃ駄目なの?」という疑問が生まれた。
 改めてああいう行為を思い返せるだけの余裕が出来たけれど、考えても考えても同じ事をしたい感情が芽生えなかった。
 試しに自分で慰みを試みたりもしたけれど、心の置き場が見つからなくてすぐにやめた。同じ夜に見知った友達は知らない男と肉体を絡ませているかもしれない。けれどそれが羨ましいとか、気持ち悪いとかいう言葉は浮かばなかった。


 そんな遍歴を経て、大学に進学したタイミングで私は決心した。もういいや。自分磨きも恋愛活動もしなくていい。邪魔なものは全部捨てよう。だから皆がときめく恋の世界と決別するため、先日髪をバッサリ切り落とした。
 安物の鋏だったから美容院ほど滑らかには切れなかったけれど、短くなったぼそぼその毛先を見て、後悔など無いことを再確認した。

 その髪の束は近くにある池へ捨てると決めていた。
 特に意味はないけれど、何となく儀式っぽくて面白いかなと思ったから。

「あたしはあたしじゃなくちゃ。真っ白なほっぺたに透き通る小さな雨垂れを落としてしまう」

 椎名林檎がそう歌っていた。周りがどう言ってこようがどうだっていいんだ。私は私でないと。それを保ち続けていないと、何処へも歩けなくってしまう。私はまだ歩いていたい。

 池は国道沿いにある。でも自然に出来たようには見えないから、もしかしたら貯水池みたいな役割なのかもしれない。よくよく考えれば、当たり前にある風景のそれぞれが何故存在するのか、私達はあまり考えようとしない。
 流石に髪を撒き散らすのだから、人目につかないほうがいい。なので池もとい貯水池はうってつけだった。みんな車で通り過ぎる場所だし、こんなところを散歩する人もいない。
 一旦イヤフォンを外して、ジップロックの蓋を開けた。シャンプーの華やかな残り香がふわりと舞い上がり、たちまち消えた。
 あんなにも手入れしていたというのに、ひとたび切り落とされれば何と無価値なタンパク質だろうか。
 草木に覆われた池の縁は少し空気が冷たくて、このまま飛び込んだらそのまま眠れそうなほど心地よい空気を含んでいた。

「さよなら、一人でも頑張るから」

 ふわりふわりと揺れる水面に髪を落とした。
 それらはぽとりと零した水彩絵の具のように、じわりと広がり分かれて――いかなかった。
 塊のままその場に静止している。

「え、あれ?」

 指でついつい、とつついても動かない。何かに引っかかった? いや、そうは思えない。まるで誰かが掴み取っているかのような。
 と突然、目の前がぴかりと光った。そして水面がばしゃんと弾け、思いっきり水飛沫を浴びせられた。

「なっ何これ!」

「いやぁ〜実に良いお味だ。何年ぶりだろう。記録更新だよこんなの、最近の女の子ってば髪の毛増々さらさらなんだねビックリだよ」

 目の前に、馬が立っていた。白い馬。角のある馬。喋る馬。光っている馬。私の髪の毛をむしゃむしゃしている馬。

「え、うわ、何こいつ」

 口をついて出た言葉は、意外にも冷静な感想だった。

「君なんのシャンプー使ってるのかな、いい匂いだよぉ。ローズヒップかな、凄く上品。ローズヒップって何となくえっちな響きだよね。だってヒップだよヒップ」

「意味分かんない……とりあえず食べるのやめて」

「処女の髪なんて数百年ぶりのご馳走なんだよ、じっくり味わわせて。あ、それまで石でも投げて待っててよ」

 髪の毛を頬張る姿は枯れ草を食べる馬そのものだけれど、しかしそれは髪なのだ。しかも私の。気持ち悪い事に変わりはないから馬に触れようと手を伸ばしたが、指先はその真っ白い毛並みを通り抜けてしまった。

「何これ、触れない……?」

「その通り。僕ここに封印されていた精霊でさ、例によって触れることは出来ないし君以外には見えない存在さ」

 むしゃむしゃ。

「そんな漫画みたいな」

 むしゃむしゃ。
 本当にそれからしばらく、その馬は髪の毛をしゃぶり続けた。


 ご満悦の表情――と言っても馬だが――彼が説明した内容はそれこそ漫画ならば有り触れた話だった。
 この池はもともと自然的に出来たものだったが、ある時池の周りをコンクリートで埋め立て、貯水池に転用した。だから今でこそ誰も気にしない風景の一部だが、かつては由緒あるものだったらしい。
 彼はユニコーン、神話に登場する幻獣の一つだ。非常に獰猛で恐ろしい一角獣だが、処女に目がない。匂いで判断すると膝の上に頭を載せて眠ってしまうほどに。
 この馬はそんな処女厨っぷりが暴走した結果、神々の怒りを買いこの池に封印された。一角獣の角には浄化の力があり、池の水が長年毒に侵されていたので彼を縛り付ける事で封印ついでに浄化させようとしたらしい。
 その成果として貯水池になったわけで、だから感謝しなければならない。しかしその理由は処女を追いかけ回したからというのは何とも俗的なものだ。

「封印されていたとはいえ、何となく現代の雰囲気とかは把握しているよ。いやあ今の女の子ってマブいね、昔はふくよかな子が人気だったんだけど僕は断然細身がいいね。だってそのほうが何となく処女っぽいじゃん。ぼいんぼいんのグンバツボディはいかにも遊んでそうでヤダ」

 ユニコーンは喋り出すと止まらなくて、しかも微妙に言葉遣いが変だ。マブいとかグンバツとか、要所要所が古い。

「……まあ、どうせ捨てるものだったし良いや。美味しかった?」

「うん、すっごく美味しかった。恋に落ちた瞬間の酸素よりも甘かったよ」

「よく分からないけど、私もう行くね」

「あ、あ、ちょっと待って! ドライだなあ、なるほどツンツンした性格の処女は初めてだ。俄然興味が湧いてきたよ。頼みたい事があるんだ」

「何、もうあげられる物ないよ」

 こういうシチュエーションは漫画なんかでよく見た。次にこいつが何と言うか、想像がついてしまったのは空想がごく身近に溢れている文化ならではか。

「僕と『ワイセツ』して素敵な処女になろう!」

「は、え、猥褻?」

 予想外のフレーズで呆気にとられる。何言ってんだこいつ、というアスキーアートが頭に思い浮かんだ。 

「ああごめん、目覚めたばかりだから言語能力が追いついてないのかも」

「更に分からない。ええと、契約をしたいってこと?」

「そうそれ! ベタだけど素敵な響きだよね! 素敵な処女になって!」

「素敵な処女ってなに」

「そりゃあもう、シャキーンでキラキラ~でパンパカパーン! な! 処女だよ! ここ重要ね、非処女はお呼びじゃないので」

 と、ここまでお喋りな会話が続いたけれどそもそもこいつは「馬」だ。角の生えた馬。もしゃんもしゃん動く口から絶え間なく言葉が湧き出る様はシュールで、無駄にリアルな3DCGを見ているような気分になる。

「契約をしてもらえるなら、願い事をなんでも一つ叶えましょう!」

 だから多分、非現実的な光景に酔わされたんだ。普通こんなの、夢だと思って立ち去るだろうから。
 けれど私はズレてしまっているようだから、ついこう答えてしまった。

「処女に付加価値が付くんなら、別にいいか」

「ほんとに、ほんとに良いの? やったあ! それじゃあちょっとここ触って」

 頭をぷりぷりと振って示す。立派な角が当たりそうでヒヤヒヤする。

「この角を触ればいいのね」

「うん、あっでも大丈夫、先っぽ! 先っぽだけだから!」

 くだらないジョークを無視して、ちょん、と人差し指を角の先端に当てた。ぴか、と眩い光が走り、そしてすぐ消えた。
 目の前にでかい馬はいなくなっていて、元の貯水池があるだけだった。髪の毛も一本たりとも浮かんでいない。
 やっぱり夢?

「おーい、ここだよここ」

「馬? どこにいるの」

「見下げてごらん」

 言われるがまま視線を落とすと、スカートがぷっくりと膨らんでいることに気がついた。まるで性的興奮を覚えた男みたいに。

「ちょっと何これ」

 ぺろりとスカートをめくると、下着に寄り添うようにして小さくなった「馬」がいた。膨らんでいたのは彼の角があるからだ。

「はあ〜温かい。処女の温もりはお婆ちゃん家の暖炉より優しい。君に出会えてよかった、天国はここに実在していた……」

「キモっ……願い事言ってもいい?」

「もちろんどうぞ」

「私が不快だと感じた男共を、二度と関わらせないようにしてほしい」

「……ほほお、これは終身名誉処女になります宣言だね。百点だ。叶えてしんぜよう」

「本当にこんな事で叶うの?」

「勿論だよ。でも単なる好奇心なんだけどさ、そんなに男嫌いなの? いや分かるけどね。あんな品のないヤシの木付けた下等生物を嫌う気持ちはよく分かるんだけど」

「それは――」

 小学生の時にアダルトサイトのリンクを踏んで以来、私は異性との交流を避け続けていた。
 しかし高校ともなると周りは本格的に恋愛を楽しむようになってきていて、スクールカースト上位勢にとってキスの回数は期末試験の成績よりも大事なステータスだった。
 そんな中で頑なに恋愛をしない私を見て、彼女らは何としてもカップリングを仕立て上げようとした。それは私に異性の免疫を付けさせたいとかそういう善意からではなく、たぶん「難攻不落の女を恋に落とさせる」事に興じる、いわばゲームだっただろう。
 これでもかとお膳立てされ、遠巻きにそいつらが監視する中で中庭に呼び出され、私は告白された。
 拒否したら後のいざこざが面倒だ。拒否権なんてない状況にため息を付きながら告白を承諾した。でもこれを気に考えを改められるかも、と私も前向きに捉えることにした。
 何ヶ月かしてそいつの家にあがり、案の定そういう雰囲気になった。服を脱がされベッドへ横になり、ファーストキスを済ませて「本番」が始まろうとした。
 その時、恍惚とした男の表情を見て私は呟いた。
 あ、無理だ。
 
 その後どう言い訳をして帰り、どんな言葉で別れ話を切り出したのかは覚えていない。ただ目の前の男が私に食らいつく姿が気持ち悪かった。
 止まれないフラッシュバック。
 気付いた時には戻れない。

「――ふうん。でもその男がキモくて良かったね、こうして願いを叶えるチャンスを手に入れられたんだし!」

「本当に叶うかどうかまだ疑わしいけど……そういえば契約してあんたに何かメリットってあるの?」

「あるよお。四六時中処女と生活できるんだから」

「え?」

「え?」

「処女と生活ってどういうこと?」

「願い事を叶える代わりに、ここに住まわせてもらうんだよ」

 もぞもぞ。スカートが揺れるけれどくすぐったくはない。実体を持っているわけではないようだが、ならなんでスカートは膨らんでしまうのか。

「いわば貞操帯みたいなものだね。僕がここにいる限り、君に言い寄るイカ臭い脳と下半身が直結したゴミクソ下等生物は寄り付いて来なくなる!」

 その代償として、私はこのやかましくて下半身を無駄に膨らませてくる小さな馬を飼わなきゃいけない。とんでもないデメリットだ。
 私は切りたてのザンバラになった襟足を撫でながら、後悔と諦念を込めて呟いた。

「悪夢だ……」

「えっアクメ!? 今アクメって言った!? アクメ、それはつまり性的快楽! 別の名をオーガニック! 違うオーガニズム! ああ言葉とはその音がすでに耽美にして妖艶だね」

 かくして下腹部に公然わいせつ妖精を飼う生活は始まった。あまりにも不名誉であまりにも迷惑な日常が。

「……あのさ、やっぱりクーリングオフ出来ないかな」

 そしてあまりにも、それは誤った選択と言えた。
 

 翌日の朝。

「おはよう、アイカ……起きて……いま君の処女膜に直接話しかけているよ……」

「やめて気持ち悪い。」

 悪態をつきながら目覚めると布団が尋常じゃなく怒張していた。天井に付くくらいにまで膨らんだそれは、言うまでもなく馬の角だった。

「何これ、何があってこんな伸びたの?」

「いやぁ、だってほら……処女のたっぷり・濃厚・こってり・ほかほかな温もりを七時間も満喫しちゃったから……」

「お願いだから毛布を破かないで」

 びりびりに破けた布地にため息をついて、私はシャワーを浴びることにした。

「着いてこないでよ」

「おっお裸! お裸を拝見しとうございます」

「見たらその角へし折るからね。うろちょろしないで座って待ってて」

 手のひらサイズの馬は四本の足を丁寧に折り曲げ、ちょこんとベッドの上に鎮座した。
 人間、夜寝ている間も肉体が活動している。夜に綺麗サッパリ洗い流しても寝汗だなんだと汚れてしまう。だから朝シャンというのはとても重要な工程だ。これをしないで外に出るなんて考えられない。
 三十分ほどして部屋に戻り、出しっぱなしのコーンフレークの箱を取った。スカーフを巻いた虎のキャラが腕組みしている。何故虎なのだろう。

「朝ごはん、それだけ?」

「なんか変?」

「そうじゃないけど、味気なくない?」

「あのね、これ見て」

 私は箱の裏面を馬に見せた。
 一食分に含まれる栄養素のグラフが書かれている。グラフの意味を成していないほど、最大値を大幅に突き抜けた線が美しい。

「準備三秒、食事五分。それでこれだけの栄養を摂れるんだから最高の朝食でしょ」

「でもこれ、牛乳含むって書いてあるけど。入れないの?」

「……あんな白濁色の液体は人間の食する物じゃない」

「なるほど確かに! 白濁色の液体なんて処女を奪う最低最悪の永久破棄すべきゴミヘドロみたいな存在だよ! 滅びろ男根!」

 無視してコーンフレークをまとめて口に入れ、ぼりぼりと噛み砕いた。最後の方に残る砂糖の粉がまた美味しい。
 朝っぱらから包丁で何かを切るなんて面倒極まりない。例え夜でも面倒だけれど。だから私の持っている包丁はいつだってピカピカに光り輝いている。

「あんたは朝ごはんいいの? 人参いる?」

「僕は馬じゃないってば! そうだなあ、夜はお風呂沸かす派?」

「まあ週末くらいなら。なんで?」

「僕の主食は処女の残り湯ですから」

「あんまりキモい事言ってると便槽に沈めるよ」
 
 皿をシンクに放り込み、テーブルの上に置きっぱなしの化粧道具に手を伸ばした。睫毛の調教を施しながら、テレビのニュースを垂れ流す。
 内容に興味はない。ただ雑音に満ちた空間のほうが無心で顔の突貫工事を行える。
 ニュースキャスターが神妙そうな顔つきで述べる。そうしなきゃならないんだろうな、と心底同情する。

「昨夜未明、帰宅途中の女子高生に猥褻な行為に及んだとして四十代の男を現行犯逮捕しました」

「うわー人間のゴミだな。便槽に沈めなきゃ」

 と言ったのは私ではなく馬のほうだ。

「アイカ、このJKは処女だったんだよ……けれどこんなイカ臭い切り干し大根みたいな奴に奪われたんだよ。悲しいじゃない」

「写真だけで分かるの?」

 画面にはモザイクで隠された女子高生の顔写真が出ているだけだ。

「もちろん、処女の処女たる神聖さは血肉に宿る。そしてそれを穢され喪った歴史もまた……ね」

 格好良い台詞を言っているように聞こえるが、言っているのはグラビア写真を見てカップ数を当てようとする男子中学生とそう変わらない。

「くっだらない……じゃあ私行くから」

「待って待って、僕の定位置!」

 彼は慌てて空中をかぽかぽと走り、私のスカートの中に潜り込んだ。

「ねえ、お腹とかじゃ駄目なの?」

「ここならいつでも出たり入ったり出来るでしょ……あ、出たり入ったりって別にそういう意味じゃ」

「行ってきます」

 私は扉を閉めた。ちょっと古びたワンルーム。私だけの完璧なプライベートだった場所。
 このアパートには大学進学と同時に入居した。静寂を求めてここに来たのに、何でこんなうるさい奴が来てしまったのだろう。行ってらっしゃいと声をかけてくれた大家さん、貴方は股間にユニコーンが住み着いたことありますか?


 アパートから徒歩五分であっという間に大学のキャンパスだ。わざわざ一人暮らしを選んだのだから当然と言えば当然だ。
 一時限目の教室に着いて適当な席に座る。広い教室だから左右には誰も座ってこない。そういえば、馬にした願い事が本当に叶うのなら男は私の周囲に座ってこないのだろうか。
 しかし別にそういう事でもなく、いつも通り周囲には男女入り混じって座ってきた。男が近寄らないこと、という願い方はしていないのでそれもそうか。

 チャイムが鳴るギリギリになって、彼女は講義室に駆け込んできた。

「リンちゃんごめん、お待たせえ!」

 ぜえぜえと息を切らしながら私の席の背もたれに項垂れているのは、一歳年上の先輩である田中雨珠(たなかうず)。通称パイセン。私の苗字、鈴藤(すずふじ)を「リンドウ」と読み間違えた事からリンちゃんと呼ばれるようになった。

 高校時代、バドミントン部で彼女と出会った。共にダブルスを組む事もあったし、先輩後輩という序列はあるといえ仲は良好だった。
 彼女は卒業後に一年間、日本中を歩き回って遊び倒した。対して私は真面目に受験勉強をして現在の大学に合格した。
 その一報を聞いた彼女はこう言った。

「えっ、もう一年も経ったの? 私も同じところ行きたい」

 私は秋のAO入試で合格したので、一般入試の日程にはまだ少しだけ時間があった。年明けすぐにある一般入試に滑り込みでエントリーし、ほぼ入試対策もせず彼女は挑戦し、そしてあっさり合格した。
 もともと要領が良く、不思議と何でも上手くこなす人だとは思っていたが、ここまでぶっ飛んだ事をやってしまうとは思ってもみなかった。とにかく自由人なのだ。
 年齢は一つ上だけれど学年は同じ、学部が同じだから受ける講義も殆ど同じ。大学で知り合った仲なら年齢の差異も気にならないが、高校時代の先輩が急に同級生になるのは何とも居心地が悪い。しかし彼女はそんな事を欠片も気にすることなく私の側にいる。
 しかし自由人な部分は相変わらずで、毎日一限目の講義には遅刻ギリギリでやってくる。

 そんなやり取りもすっかり慣れたので、私は隣の席にカバンを置いて彼女の席をキープしてある。周りの人たちも恒例行事だからか席を譲ってもらおうとしない。
 そして何より、ギリギリではあるがパイセンは遅刻も欠席も絶対しない。そこだけは見習いたい。

「いやあマジ焦ったね。寝坊しないようにアラームをニ十個セットしたんだけど、止めるのにめっちゃ時間かかった」

 お隣さんが気の毒すぎる。朝っぱらからアラームの大合唱が鳴り響くなんてホラーだ。そこの君、電子音のオーケストラに叩き起こされたことありますか?

「お家すぐ近くですよね、何でそんなギリギリを攻めるんですか」

「だっていっぱい寝たいんだもん。お布団との婚姻も秒読み段階にある」

「バカ言ってないで出席カード取ってきて下さい」

 出席カード、正確には成績に含まれる講義の感想を書くシートが教壇に置かれている。しかしこれはチャイムが鳴るのと同時に仕舞われる。
 単純に出席したら五十点、感想評価が最高五十点といった感じで、感想なんていう小学生みたいなノルマに比重を置いている講義は多い。
 出席点だけにしてあとは全部期末試験でジャッジしてくれたほうが楽でいいのに。

「あー忘れてた。特急サンダーバード二十号、発車します!」

 私達は同じ学年という事になったけれど、私は敬語を崩さないでいる。学年と年齢なら後者を重視しているからだ。それに高校三年間、ずっとそういう話し方をしていたのに急にタメ口になるのは無理があった。
 それにパイセンはずっと自分をパイセンと呼べと冗談交じりに言い続けていた。律儀にそれを守っていたのは私くらいだったけれど。他の子は田中さんとか田中先輩とか呼んでいたけれど、私だけはパイセンと呼び続けた。そうしたら彼女はいつも嬉しそうにニヤけていたから。

「嫌な匂いだ」

 下半身で声がする。もぞり、とスカートが揺れて角が顔を出した。角が顔を出すってどんな日本語だ。

「あの女、非処女だな」

「だから何よ」

 周りに気づかれないよう小声で返す。

「複数種類の精液が混じっている。遊び人だ、不潔だ。イカ臭い……スルメのスメル……」

「年頃の女の子なら普通でしょ」

「いいかいアイカ、ああいう女は必ず君を乱交パーティという破滅と堕落のバーゲンセールへご招待してくる。一緒に気持ちよくなろうとか言って! ああ汚らわしい! 性的満足コンテンツで山程見てきた光景!」

「フィクションの見過ぎ」

「え、何が?」

 丁度パイセンが戻ってきて、私の会話を聞かれてしまった。

「いえ、独り言です」

「あ、そう。ポッキーいる?」

 パイセンは天然で自由人で陽気な人だから、いちいち考えたりしないのだ。馬は私にしか見えないのだから、会話をしようものなら奇異の目で見られてしまう。
 何か良い方法はないものか。せめてテレパシーとか使えるならいいのに、馬は一方的に好き勝手喋れて私は人の目を気にしなきゃならないのが不公平だ。


 その後、講義終わりのこと。我が校では出席点の管理を学生証で管理している。カードをスキャナにかざすと学籍番号が読み取られる。少し前までは感想を書くシートに学籍番号をマークして提出していたのだが、シートを複数枚取って代行する不正が多発したのでそうなった。
 しかしどんな仕組みに変更したとて、大学生という堕落のプロは抜け道を探るものだ。

「なあ、シート余ってない?」

 後ろの席の男が声をかけてきた。
 金髪ツンツンヘアーのダサい奴。見るからに浮かれ気分の脳みそ空っぽパリピ。ポール・スミスとか好きそう。

「無い」

 素っ気なく返事をすると、

「んじゃあそれ俺に譲ってくんない? 出席ヤバいんだよ」

 知るかそんなこと。無視して席を立とうとすると更に喚く。

「なあ頼むよ。多分欠席ゼロだろ、一回くらい良いじゃん」

 この手の輩は決まって嘘をつく。バイトが忙しいとか他の講義が難しいとか。全部嘘。どうせ近くのパチンコ店か友達の家に入り浸っているだけだ。学業に支障をきたすバイトなんてある訳がないし、本当にそうなら今すぐ辞めた方が手っ取り早い。
 つまりまともに聞き入ってはいけないのだ。
 しかしポッキーの最後の一本を加えたパイセンは。

「あげてもいいけど、ほれ」

「ん、何?」

「お金。きっちり講義一回分払ってよ」

「一回分っていくらよ? 五百円とか?」

「バカ言っちゃいけないよお。一年の学費がおおよそ百万円だよ。それを年平均二十五の受講で割って、更に一講義十五回開講するからそれで割ると?」

「ちょ、ちょい待ち! 電卓使わせて」

「約二千七百円。どうせだから手数料込み三千円でどう」

「いやー紙切れ一枚にそれは厳しいって。食費も足んねえのに」

「それじゃ交渉決裂って事で。リンちゃん、次の講義行こ」

 彼女はシートを持ってさっさと教壇まで歩いていった。ぽいっとそれを講師に提出し、すたこら部屋を後にした。
 ぽかんとそれを眺めていたけれど、我に返って私も続いた。後ろは振り返らなかった。どうせ別のカモを探すだろう。
 しかし怠惰に生きたいのなら確実性を何より優先すべきだ。この講義はシートを週替りで変更したりしない。意地の悪い講師なら毎週違う色のシートを用意するがこれは同じ色しか出されないし、週ごとに異なる位置にパンチングしたりもしない。つまり非常に誤魔化しやすいイージーな講義だ。まずはそこに目をつけるべきだったのだ。
 初回と二回目をちゃんと出席し、シートの差分が無いことを確認したら十三枚余分に取ってしまえば良い。快適な怠惰には知恵が欠かせない。

「ねえ、ああいうバカを寄せ付けないのがあんたの役目じゃないの」

「話しかけられただけでしょ、まだ範囲外だよ」

「あっそ、使えないやつ……」

 願い事は金髪パリピを根絶やしにする、とかにすればよかったと少し後悔した。


 お昼のこと。

「パーマンのパーって何なんだろ」

 食堂でカレーを頬張りながらパイセンは呟いた。突拍子もない話題は彼女の日常だ。

「グーチョキパーのパー? ならグーマンとかチョキマンもいるのかな」

「あれはスーパーマンのパーですよ」

「そうなの? スーはどこ行ったの」

「半人前だからスーはスーッと消えたんです。主題歌にそのくだりありますよ」

「ほええ〜、相変わらずリンちゃんは物知りだね。ヘイRin、今日の天気は?」

「午後から雨ですよ」

「嘘ぉ、傘無い! いや待てよ、雨が頭に当たる直前に一歩進んで、それを繰り返したら……」

 ぶつぶつ言いながら彼女は福神漬けをコリコリ噛み砕いた。

「ねえアイカ、僕も福神漬け食べたい」

 股間の馬がねだってきたが、こんな人の多いところで会話は出来ない。

「そういえば、語学はどうでした」

 一回生のみ語学の講義がある。小さなゼミみたいなもので、希望する言語を選ぶとクラス単位で振り分けられる。私は中国語、彼女はフランス語を選んだので数少ない別行動となる。
 ちなみにフランス語を選んだ理由は「ボンジュールとトレビアンとメルシーで大体いける」という事らしい。そして実際に学んで発音や文法のややこしさに頭を抱えている。
 
「もうフランスやだ! 何で数字を数えるだけで足し算しなきゃなんないの?」

「アイカ、僕にも福神漬けちょうだい」

 馬がうるさい。フランス語は二十以降、足し算や掛け算を絡めて数を表現する。百なら「二十五の四倍」という言葉で表す。確かに面倒極まりない。

「あと綴りと発音が全然違うの。Hを発音しないだとか後ろのごちゃごちゃしたアルファベットは発音しないとか。発音しないんなら書くなよ!」

「アイカ、福神漬けを」

 馬がうるさい。確かに無音のHはフランス語の中でも特に奇妙なしきたりだ。昔調べた事があるのだけれど、遡ればラテン語の時代からすでにHの発音を省略していった経緯があり、それを由来とする言語でも同様に多くのHを発音しないようになったらしい。

「それでも日本語よりはマシじゃないですか。同じ漢字で何種類も読み方あったりしますし」

「日本語はジャパニーズだから分かるのー。私も中国語にすれば良かったなあ。うぉーあいにー」

「福神漬け……」

 とその時、ぎゃはは、と大きな笑い声が湧いたので、私もパイセンも反射的にそちらを見た。パリピの集団が騒いでいる。いつものことだ。それがパリピのウェーイな宴か、カードゲームで盛り上がるオタクか、大して親しくもないのに大げさな挨拶だけは欠かさない女共かの違いがあるだけだ。
 しかしパイセンの視線がいい感じに逸れたので、すかさず福神漬けを一枚取って股間に滑り込ませた。
 馬はそれをちゅっぱちゅっぱとしゃぶり始めた。シンプルにキモい。さっさと噛めよ。
 しかし食堂って何でこんなうるさいのだろう。静かにご飯食べればいいのに。パイセンはそんな事も気にせずカレーのルーをきれいに平らげ、

「ジュース買いに行こ」

 と立ち上がった。本当に自由な人だ。周りがどうあろうと、あるいはどう見られようと関係ない。彼女は自分の歩きたい道を歩く。
 私はそんな選択を許されない。だから羨ましくそして憧れるのだ。
 しかし――。

「パイセン、もう終わりましたよ。起きてください」

「うぬぅ……アクアパッツァとミラノピッツァって何が違うの……」

「なに意味分かんない事言ってんですか、教授帰っちゃいますよ」

 昼食後の眠気に任せ、彼女は午後の講義をたっぷりしっかり寝続けた。寝付きが良い分、起こすのも一苦労だ。
 ああ、自由人の一日ってきっとあっという間なのだろうな。私の一日はいつもゆっさゆっさ肩を揺らして起こす仕事で終わっている。

 それから彼女はバイトに向かって、私は家に帰った。だらだらテレビを垂れ流して、だらだらスマートフォンを眺めて、

 気がついたら寝落ちしていた。


 目を覚ましてから、天井を見つめながら私は寝ぼけた頭をハッキリさせようと物思いに耽った。
 パイセンとは高校時代、ダブルスを組むことが何度かあった。彼女は部員の中でもかなり上手い部類で、私は平均的なプレイヤーに過ぎなかった。だから試合でも足を引っ張ってしまう場面は多々あったし、彼女からすれば当たり前のプレイがこなせない事に苛立ってもおかしくはなかった。
 けれど彼女は、私の拙いミスでポイントを取られても笑っていた。思い返せば試合中でも試合後でも、もしかしたら日常生活の中でも明確な怒りの感情を見せなかった。
 けれど私からすれば余計にいたたまれなくて、本当はストレスを感じているのならそう言ってほしかった。だからある日、手酷いミスを連発して敗戦してしまった試合の後で彼女に聞いた。ありのまま怒って下さいと。
 彼女はしばし思案してから、冷たいスポーツドリンクを手渡して言った。

「うまく行かない時とか不都合な出来事に遭った時とかにね、真っ先に相手へ責任を押し付けるのは幼稚な発想だと思うんだ」

 もちろん高校時代から自由人全開だった彼女が、初めて真面目な声色で話した。

「専門学校に行けないのは両親の反対があるからじゃなく、信頼に足る実力と情熱を見せられなかったから。コンビニでお箸を入れ忘れたのは、お会計の時にお願いしなかったから。どちらも当たり前の事なのに、つい相手のせいにしちゃうでしょ。でもそんな事したって何も変わらない」

「でも今日の試合、どう見たって私が原因でした」

「そう? アイカのミスショットはどれもギリギリのプレイだったじゃん。貴方が自信を持って打ち返せるだけのボールコントロールを出来なかったのは、バディである私の責任でしょう」

 私は涙を流して彼女に抱きついた。人目も憚らずに声を上げて泣いた。何となく中学校から続けていたはずのバドミントンで、こんなにも感情を顕にするなんて考えてもみなかった。
 私の青春。大切な思い出。
 彼女の魅力はこのエピソードに全部含まれている。

「おはよう、アイカ。起きてるかな?」

 暖かな追憶は、生温かな声にかき消された。

「とっくに起きてる」

「今日も素敵な体温――いや膣温をありがとう」

「やめて気持ち悪い。本当に気持ち悪いからやめて」

「何で二回も言うの」

「二倍気持ち悪いからよ」

「何でそんな事言うの……?」

 萎れる馬を無視してシャワーを浴びた。幸い昨日と違って毛布は怒張していなかった。替えの毛布があったからいいものの、二度とあんな破損事故は起こさないで貰いたい。
 ボディーソープもシャンプーも空になっていると気づき、私は濡れた体のまま一度脱衣場に出た。詰替え用が棚にあったはずだ。

「あ、しまった……」

 詰替え用を切らしていた。今日帰りに買わないと。仕方なく残り少ない液を絞り出し、シャワーを済ませた。絞り出すって少し卑猥な響きだなとふと考えてしまったのは、あの馬の影響だろうか。何とも不愉快な思考汚染である。

 服を着てコーンフレークを取り出し、テレビをつけた。今日も今日とて殺人やら放火やらうんざりする報道ばかり。

「男が刃物を持って暴れる」

「大学生が行方不明」

「有名俳優が不倫」

 どうでもいい雑音だけれど、これが無いと何故か落ち着けない。誰かの死も不幸も犯罪も、遠い異国のお話みたいだ。なんの興味も抱けない。
 そろそろ出なければ。パイセンの為に席を余分に確保するのが私の役目。
 私はそれを存外気に入っている。


 いつも通り午前の講義を終え、私達は食堂でご飯を食べていた。昨日に引き続きカレー。カレーは万能食だ。野菜がたくさん入っているのにこんなにも美味しい。

「ねえアイカ、こういうの見たことある?」

 パイセンが見せたのはネットの掲示板だった。プロ野球談義から下らない誹謗中傷合戦まで、カオスを極めた掃き溜めだ。

「いえ、こういうのは見ません」

「実はウチの大学のスレッドもあるんだよ。そして何と、私達もさり気なく晒されてる!」

 気持ち悪い。本当に気持ち悪い。名前も知らない奴が見えないところで好き勝手言っているなんて。自分には何のスキルも教養も、ついでに身なりの向上心すら無いくせに他人を値踏みする。
 
「良い気はしないですけど、なんて書かれてるんですか」

「あーうん、それがね……私の事は面白く書いてるからいいんだけど、アイカのがさ」

「何ですか、ここまで話したんだからハッキリ言って下さい」

「男嫌いの『鉄の処女(アイアンメイデン)』だって」

「アイアンメイデン? 確か拷問器具ですよね。格好良いじゃないですか。てっきりもっと酷い言われ方してるのかと……」

「え、良いのこれ」

 少しホッとした。アイアンメイデン。格好良いじゃん。むしろ私の理想形態と言っていい。

「ちなみにパイセンはどんなあだ名なんですか?」

「え、ああ、私は『ポッキー星からやってきた世紀のアホ女』だって」

 講義中いつもポッキーを食べているからそうなったのだろうか。ついつい、ぷふっと吹き出してしまった。

「可愛いじゃないですか、ポッキー星人。拷問器具とはえらい違いですね」

「そんな面白いの? てか言い出しといて何だけどさ、アイカは怒らないの」

「え? アイアンメイデンをですか? 実際その通りだから気にしないですよ」

「でも知りもしない輩に処女呼ばわりはさあ」

 なるほど話の道筋が見えてきた。処女云々を言われても、そうじゃないかもしれない。処女だったとしてもそれを卑下される謂れはない。交友関係にとやかく言われるような生き方をしているつもりは無いよね、とそう確認したいのだ。男友達はいるだろうし、仮にいなくてもたまたまいないだけだよね、と。
 つまりは私が大学で一切友達を作ろうとしていないことを気にしているのだろう。確かに四六時中パイセンにべったりでは迷惑かもしれない。それは反省すべきだけれど、しかし女はまだしも男友達を作るなんて想像もできない。

「私はパイセンといたら楽しいですよ。それで十分です」

「それは……うん、ありがと……うーん」

 私の頑固さが悩ましいのだろう。確かに一歩間違えれば依存してしまいそうな程に私達の距離感は近い。私はパイセンの前でならありのままでいられるし、パイセンもどれだけ自由奔放にしていても私は怒らない。お互い快適な関係性だ。しかしそれがいつまでも続くとは限らない。

「パイセンが教えてくれたんじゃないですか、『相手に責任を押し付けるのは幼稚だ』って」

 覚えてたんだ、と照れくさそうに目線をそらされた。食堂は今日も騒がしい。向こうの方ではパリピ達が騒いでいる。その喧騒をぐるりと見回して、彼女の視線がふと止まった。

「あ、フチ君!」

 手をぶんぶん振っている先を見ると、一見して男か女か分からないような見た目の子がちょこんと頭を下げていた。
 とてとて、とこちらに駆け寄ってきた。間近まで来てようやく男の子だと分かった。掌を見れば流石に分かるけれど、漫画みたいに中性的な見た目だ。

「課題終わった?」

「あ、うん。終わったよ。たまちゃんは分からない所とかなかった?」

「絶賛死にかけてる。ごめん、また頼るかも」

「いつでも大丈夫ですよ。あ、すみません急に」

 私の方に頭を下げて謝られた。髪の毛がふわりと弧を描く。フローラルな香りの中に微かに柑橘系の匂いも混じっている。しっとりとした髪質を見るにおそらくエイトザタラソのシャンプーを使っている。女性もののシャンプーだが今どきの男なら使っていても不思議じゃない。

「気にしないで。フランス語講義のお知り合い?」

「そうそう、フチ君。すっごく頭良いんだよ、まさしく『女子力星からやってきた世紀の大天才フチ君』だよ」

 きょとんとする彼に、気にしないでと笑いかけた。

「フチ君、この子がいつも話してるアイカって子。可愛いでしょ?」

「ああそうなんだ! うん、すっごく綺麗」

「せっかくだから講義まで親睦深めようよ」

 パイセンは隣の席をずずいと引き寄せてぽんぽん座面を叩いた。
 戸惑いつつも、彼はそこへ座った。
 男と向かい合うなんて何年ぶりだろうか。どこに視線を置いたらいいのかわからない。

「えっと、僕は不知火蔓穂(しらぬいつるほ)って言います。頭の漢字を取ってフチ君って呼ばれてます」

「あ……私、鈴藤愛香。私も同じ。鈴を音読みしてリンちゃんって……」

「ネーミングセンス無いって言いたいのかい、ご両人」

 ぶーぶー、とパイセンが口を尖らせる。

「ねえ、フチ君でいいんだよね。敬語はやめよ。同学年なんだしさ」

「それもそうだね。ごめん、はじめましてはやっぱり緊張するね」

「パイセン――ああえっと、雨珠さんの時もそうだったの」

「うん、毎回遅刻ギリギリだから講師の人に目つけられてて。遅刻じゃないのに理不尽だなって思って声をかけたの」

「もじもじしてたよねー、あれ本当可愛かった!」

 やめてよもう、とフチ君が頬に手を当てる。観察していると、どうにも彼の所作や言動に違和感を覚える。何かを隠しているとか嘘をついているとか、そういうネガティブなものではない。今までに無い、不思議な雰囲気を感じる。

「そうそうリンちゃん。フチ君は私がダブってるの知ってるよ。だからパイセンで大丈夫」

「そうなんですか……打ち解けてるんですね」

 私は彼女への敬語を崩さない。別にタメ口になっても気にしないだろうけれど、どうしても一つの見えない壁がそこにある。正確には自ら壁を築いてしまっている。一方的に障壁を作っておいて、そこに梯子をかけるべきかを立ち止まって悩んでいる。
 その隣で、フチ君のように真っ直ぐ彼女の元へ歩み寄る人もいる。頭では分かっているのに、イマジナリーな距離から一歩踏み出そうとしない。

「フチ君良い子だからね。ほんと良い子。ポッキーくれるし」

「餌付けされてるじゃないですか」

「僕も甘い物好きだからね。今度のスタバの新作も楽しみ」

「あ、それ私も気になってる! 一緒に行こうよ」

 うんうん、と二人で頷き合う姿を眺めながら、久しぶりに孤独を感じつつあった。
 私には彼女しか友達はいないけれど、彼女はそうではない。きちんとした社交性がある。かたや鉄の匂いを漂わせる、何者も寄せ付けないアイアンメイデン。かたやポッキー星からやってきた愉快な自由人。そりゃあ誰だって後者を好きになるもの。

 ああ何でだろう。彼女は私を見捨てずにいてくれるのだろう。私一人捨てたとて、他にいくらでも代わりの友人は得られるはずなのに。

「あの……私も行きたい」

 気がつくと私はそう呟いていた。
 パイセンは良いにしても、目の敵にしていた「男」という生き物が含まれているというのに。これには流石に股間の馬もびっくりして角を伸ばした。ぶわんと膨らんだスカートをこっそり抑えながら、次の言葉を探し求める。

「せっかくだし、その、親睦を深める、とか……」

 二人は同時に満面の笑みを浮かべた。

「リンちゃん本当に? 良いじゃん良いじゃん三人で行こう!」

「僕も是非! たまちゃんがよく話してたから、どんな人か気になってたの」

「よーし決まり。土曜日は各人バイトも予定も入れないこと!」

 またたく間にLINEグループを作られ、またたく間に二人のスタンプ合戦が飛び交った。
 初めて私から男を誘った。誘ってしまった。午後の講義に向かうまで、パイセンはずっと上機嫌だった。そんなに喜んでくれるならまあいいか、と思ったが、股間に密入国している処女プロデューサー様はご不満のようだった。
 なので出席カードを受け取ってから、電話が来たフリをして廊下に出た。

「どういう事だいアイカ、僕というイマジナリーフレンドがいながら」

「誰がフレンドよ。仕方ないでしょう、話の成り行きで」

「そんなに彼が気に入ったのかい。処女という神秘性を奪われる可能性があるというのに」

「それは流石に無いでしょ」

「どんなに聖人君子なツラをしていたってゼロとは言えないさ。城壁を破るロンギヌスは常にぶら下がっている。あとはただ貫けばいいのさ、いやらしく獣の本能で」

「彼はそうは見えない……何というか、話していて不快感がなかったの」

「まあ、それはそうだね。彼にはオス特有の浮ついた性欲の香りが殆どしなかった」

「そう、それよ。男っぽさが無いのかな、中性的?」

「あー分かる。男! って感じはしないよね。アイカを抱こうとするビジョンが見えてこないね」

「初めて貴方と意見が一致したかもしれない。とにかくそれが気になったから。もし彼に男性的な側面を見出だせなかったら、例の願い事も当てはまらないでしょう」

「それはそうだね。あいつ多分童貞だし、悪いことはしないでしょ」

「何の電話してんのーマイフレンド」

 突然肩に顎を乗っけられた。いつの間にかパイセンが背後にいたのだ。うわあ、と声を上げて身を引く。

「ごめんごめん、珍しいなーと思って」

「かっ家族から。丁度終わったし戻りましょう」

 咄嗟に嘘をつこうにも、友達からなんて嘘だとすぐバレる。だから家族を選択したけれど、それもまた真実味を帯びていない。普通家族からこんな時間に電話が来るだろうか。来たとして講義を抜け出してまで出るだろうか。
 私にはわからない。何も。

「今日のアイカは楽しいね。良きかな良きかな」

 ゲッワーイエンターフ、ひとーりではー、アスファルトタイヤを切りつけながら〜、と微妙に歌詞を間違えているゲットワイルドを歌いながら、彼女は講義室へと軽やかに戻っていった。
 掴みどころのない人、だからこそ惹かれる人。もしも彼女にも馬が見えていたら、どんなリアクションを取るだろうか。
 びっくりするかな。あるいは角触らせて、とかもふもふさせて、と飛びつくだろうか。
 たぶんそんな平凡な予想を覆す奇行に出るんじゃないかな。フランス語のクラスではどんな風に振る舞っているのだろう。
 フチ君から聞くのが少し楽しみに思えてきた。そんな午後だった。


 週末、私達はスターバックスで新作のフラペチーノを啜っていた。

「アイカぁ、フランス語のおっさんマジでヤバいんだよお。とうとうフチ君までマークされちゃった」

「どういう事? やたら怒られるとか?」

「ううん、無視すんの。居ないものとして扱ってる」

「それって教務課にチクっても効果無いのかな」

「あんまり意味無いかも。僕はもうどうでも良いかなぁ」

 フチ君はストローから口を離して、ぷうと口をとがらせた。

「フチ君、意外とドライなんだね」

 私にとってフチ君の第一印象はもっとおっとりして誰にでも優しく大人しい子なのかと思っていたけれど。

「うーん、あんな陰湿なやり方する人は何しても変わらない気がするの」

 確かに。意外と現実主義的な側面もあるのか。

 三人の会話はまさしく女子会のそれのようで、フチ君がそこにいても何の違和感も生まれない。次々と話題が出てきては三人で頷き合い、そしてまた話が逸れてゆく。
 さながらジェットコースター。その無秩序で自由な心地良さを私達は楽しみたいのだ。話の内容は通り過ぎる風景みたいなもの。

「でも単位貰えないとマズいし、何か手は打たないとね」

 第二言語の講義は卒業の必須単位だ。一回生の前期と後期で一講義ずつ取得すれば良いのだが、これを取りこぼすと非常に面倒くさい。二回生では第二言語の講義がないため、一つ下の代に混じって受け直さなければならない。恥ずかしいしやるせない。
 聞いているだけで腹が立ってくる。一感情でその子の未来を変えてしまうかもしれないのに。まあ毎回ギリギリに入ってくるのを咎められるのは仕方ないにしても、明らかにやり過ぎだ。

「ポックリ逝ったら単位もらえるのにね」

 ぼそっと呟いた私の独り言に、二人は苦笑いを浮かべた。

「アイカってたまにぶっ飛んだ事言うよね。そういうとこ大好き」

「アイカちゃん、意外に過激派なんだね……」

 トークが一区切りついたところでパイセンがお手洗いに向かった。出会って日の浅い私とフチ君とが残されると、途端に何を話せばいいか分からなくなる。よくよく考えれば、私達は友達の友達。気まずさランキング殿堂入りの組み合わせだ。
 ああ、こんな時に馬の声を彼にも聞かせられたら。濁流のように押し寄せるマシンガントークで腹を抱えて笑ってくれれば、馬にも有用性を与えられるのに。残念ながら何もしない。布団を突き破るか福神漬けをねだるだけの十八禁マスコットだ。

「フチ君はさ、パイセンと普段どんな事話してるの?」

悩んだ挙げ句、あまりにも当たり障りのないつまらない質問しか出来なかった。彼は口元に手を当て、うーんと逡巡する。仕草の一つ一つに柔らかい雰囲気を感じる。

「たまちゃんがちらっと言っていたかもしれないけど、僕は女の子に憧れがあるの。だから美容とか女性同士のコミュニケーションとか、そういう事をよく聞くかな」

「ああ、女子力がどうとかって言ってたね。確かにフチ君、女の子っぽい感じはするね」

「本当? 嬉しいなあ。昔はオネエとかオカマとかからかわれてたんだけど、たまちゃんは受け入れてくれたというか、そもそも気にもしてないというか」

「ああ、確かにそういうの気にしないと思う。フチ君はその、いきなり聞いて良いのか分からないけど、恋愛対象って……」

 彼はこくり、とフラペチーノを飲んだ。
 窓の外に視線を移して、行き交う人々を眺めながら彼は言った。

「まだ分からないの。心は女性になりたいと思うけど、肉体の……恋愛を育む上での『行為』については知る勇気がないの」

「これまで好きになった人はどうだったの」

「本当に好きって感情なのか分からない。男の人も女の人も、同じくらい好きだもの。それって変かな?」

「どうだろう……私はそういうの詳しくないけど、性別関係なく『好きな人を好き』ってスタンスの人は絶対いると思うよ」

「そうなのかな。たまちゃんも同じような事、言ってくれた」

 少し目線を落として、彼は小さく笑った。彼女が真剣に言葉を渡す光景が、私には想像がつかなかった。

「パイセンは真面目に相談乗ってくれてたんだ」

「もちろん。自分のアイデンティティを明かすってすごく緊張したけど、一生懸命考えを伝えてくれて、すごく真面目な人なんだなって嬉しかったよ」

 フランス語の講義は真面目に受けている、と言っていたし、私と一緒にいる時とは随分違うではないか。
 彼女は自由奔放で、私くらいしか受け止めきれる者はきっといなくて、けれど私だけが彼女の本質を知っている。そう思っていたけれど。

「うまく行かない時とか不都合な出来事に遭った時とかにね、真っ先に相手へ責任を押し付けるのは幼稚な発想だと思うんだ」

 私にとって、何よりも大切な貴方の言葉。情熱なんて無かったはずの部活に、悔しいって涙を与えてくれた大切な思い出。
 私だけに見せてくれたと信じていたけれど、彼女は別の誰かにだって同じ態度を見せていたのかもしれない。

 そう思い知らされて、寂しくなった。
 きっとそうだろうと心のどこかで気づいていたけれど、悲しくなった。
 フチ君が羨ましくなった。
 この感情に適切な単語を与えるとしたらなんだろうか。寂しくて悲しくて羨ましくなる感情。

「たまちゃんみたいな素敵な人に出会えて良かった。だからアイカちゃんとも仲良くなりたいな」

「ただいまぁ戦友諸君!」

 パイセンが私達の肩をぺちんと叩いて戻ってきた。おかえりなさい、と笑いかけるフチ君を見て、パイセンはぷっと吹き出した。

「ちょっとフチくぅん。うっかり八兵衛ドクロベエだよ」

 私は気づかなかったのだが、彼の唇の縁にフラペチーノのクリームが付いていた。パイセンはそれを指ですくい上げてぺろりと舐めた。

「あっ、ごめんねたまちゃん! 全然気づかなかった」

「クリーム大好きだからむしろグラッツェ! そうだ、二人共おかわりいる? 私並んでくるよ」

 笑い合う二人の表情が。
 交差する二人の視線が。
 すべてがスローモーション。
 私という額縁の奥で、二人だけの歓びが踊っている。
 私の知らない彼女を、フチ君は知っている。
 私の知らない彼女を、フチ君の前では見せている。
 私には何よりも嬉しかったあの言葉は、きっと誰にだって使ってしまう消耗品だ。
 私があまりにも彼女に近づきすぎたから。
 あまりに甘えすぎたから。
 彼女の心は離れて、あるいは解けすぎて、もう一つの顔を見せてはくれないのだろうか。
 すべてがスローモーション。
 この道のりが死ぬまで続けばいいのに。けれど現実はうんざりするほどの分岐点が待っている。

 笑い合う二人を見て、私は悟った。
 この感情に相応しい単語とは――「嫉妬」なのだ。


 ――その日の夜。
 私は胸に溜まるモヤモヤが鬱陶しくて、気晴らしにジュースを買いに出かけた。
 アパートを出ると、まだ部屋の明かりはいくつも点いている。振り返ると周りの風景にも沢山の光が灯っている。この数ある光のどれかに田中雨珠の部屋があって、このどれかに不知火蔓穂の部屋もある。
 こんなにも近くにあるのに、決して届かない距離。ああ、友情は何てもどかしい関係性なのだろう。片一方が近づきすぎれば、余りにも息苦しい距離だ。

 歩いてすぐのところに自販機がある。コーラでも買おう。街灯の指す道を歩いていると、前方から誰かが歩いてくる音が聞こえた。

「おやおやこれは」

 股間の馬が小さく笑う。
 言われなくとも分かる。男だ。それも大柄で派手な髪色をした輩だ。見た目で人を判断すべきではないけれど、私の目に見える範囲では鬱陶しい存在としか映らない。見えないところでどれほど聖人君子を貫いていても、見えなければ意味がない。人は見えるものでだけ判断する。

 ああ、男の匂い。鼻を突く匂い。目も合わせたくない。すれ違いたくもない。その顔には見覚えがあった。食堂でいつも騒いでいる連中の一人だ。
 あれ? 何で顔を知っているのだろう。そんなにしっかり視認していただろうか。
 思い出せ、思い出せ。私はこれまで何をしてきた。

「僕との約束を覚えているよね」

 馬がうるさい。

「僕は君を守る為にここにいるんだよ」

 馬がうるさい。

「アイカ、君は処女を守り通しているからこそ美しいんだ。硬く閉ざされた唇に、僕だって触れたい気分さ」

 馬がうるさい。うるさい。うるさい。
 私に何をした。

「何もしていないさ。これまでも、そしてこれからも。僕達は面白おかしい愉快な日々を過ごすだけだろ?」

 私は自販機に小銭を入れる。
 男は私の冷や汗にも気付かず歩いてくる。
 来るな、来るな、来るな。
 私に何かした。馬は私を、私を、
 ごとん。ぴぴぴぴ、七が四つ。陽気なファンファーレ。

 私はコーラを片手に帰宅した。


 ――日曜日。朝から頭痛が続いている。

「アイカ、顔色が悪いよ。ロキソニン飲む? おっぱい揉もうか? あっ髪の毛舐めてあげるよ」

 馬を無視してシャワーを浴びる。
 ボディーソープを持ち上げると、酷く軽かった。押しても中身が出てこない。おかしい、先週詰め替えたばかりなのに。
 途端に苛立ちがこみ上げてきて、ボトルを投げつけた。仕方なく詰め替えの袋を持ってきた。ボディーソープもシャンプーもコンディショナーも、消費が早すぎる。なぜなのか。
 身体を拭いてニュース番組をつける。

「与党議員が選挙法違反」

「大学生連続失踪事件」

「人気芸能人が電撃結婚」

 すべてはノイズ。聞く価値もない雑音。
 けれど静寂は私の鼓動を顕にする。そんなものに耳を澄ませたくもないから雑音でかき消すしかない。

「アイカ、今日は何するの」

 馬はかぽかぽと空中を走り、いつもどおり下腹部に滑り込んだ。

「特に何も。ぶらぶら歩くだけ」

 アウターを羽織って何処へともなく歩いていった。とはいえ、大学の近くにある手前特に目立つ商業施設があるわけでもない。せいぜい書店やゲームセンター、居酒屋があるくらいだ。いかにも学生がたまりそうなものしか展開されていない。
 そのいずれも行きたい気分じゃなかった。アウターのポケットに手を突っ込んで音楽を聴く。

「貴方の髪を切らなきゃ。真っ黒なその目が、あたしの目に光を射てば呼吸が出来る」

 椎名林檎の歌声が脳内に広がる。
 
「あたしはあたしじゃなくちゃ。真っ白なほっぺたに透き通る小さな雨垂れを落としてしまう」

 椎名林檎が教えてくれる。

「でも泣かないで、今すぐ鍵を開けてあげる」

 私はふらふらと人気のない大学のキャンパスを歩いていた。何で日曜日なのに空いているのだろう、ああそうか、サークル活動があるからか。

「貴方にはすべて許しちゃうわ」

 曲の終わりと同時に、私は見知らぬ部屋の前に立っていた。明かりは点いている。入り口に書かれた名前に見覚えはないし、扉の窓から見えるものにもまた同様だった。
 けれど私は確たる自信を持って扉を開けた。

「此処の所描く夢のあたしはあたしだから、欲望も何も区別が付かなくなっていた」

 同じ曲をループしていた。同じ歌詞が繰り返される。
 リフレイン。リフレイン。リフレイン。
 同じことの繰り返し。余りある心地良い時間。
 私は戸惑いの表情を浮かべるその喉元目掛けて、


 ――月曜日の朝。私はベッドの上にいた。

「おはようアイカ、起きて……君の鼓膜に直接語りかけているよ」

 馬のモーニングコールもとうとうネタ切れか。処女膜やら膣温やら散々耳心地の悪い言葉を発してきたけれど、ついにごく当たり前のワードで起こしてきやがった。

 頭痛はまだ続いている。コーヒーを沸かしつつロキソニンを探したけれど、空箱しか見つからなかった。
 舌打ちをしながら脱衣場に向かう。
 洗濯機の中には昨日着ていた服がいれっぱなしで、しわくちゃになったそれは一晩洗ったまま放ったらかしだったせいで湿気た匂いが酷かった。
 ため息をついて蓋を閉じる。帰ってきてからどうにかしよう。柔軟剤を山盛り入れればなんとかなるだろう。
 馬にコーンフレークの残りをやると、彼はぽりぽりと貪りながら、

「悪くはないけど味気ないね。福神漬けの方が好きだなあ」

 なんてぼやいていた。
 返事をするのも面倒で、私はシャワーを浴びることにした。またボディーソープもシャンプーもコンディショナーも空になっていて、もしかしたらストレスを抱えているのかと不安になってきた。
 執拗に手を洗う、病的なまでに掃除を徹底するといった行為はストレスから生まれる事が多い。一種の強迫観念だ。
 これが続くようなら何か手を打たなければならない。最悪、半年くらい休学したって問題はないだろう。家族に何か言われるだろうか。いや、きっといつも通り何も変わらない。望まない道のりに限っていつまでも一本道。家族なんて付属品は、やっぱり私には嘘くさいもの。

 
 ――午前の講義。
 頭痛はなおも続いている。いつも通りパイセンは定刻ギリギリにやってきて、私の隣にちょんと座った。

「どうしたのアイカ、体調悪いの」

「いえ、昨日くらいから頭痛が酷くて」

 それじゃあ、とパイセンは鞄の中をごそごそまさぐる。

「はい、ロキソニン。あとコーヒーも効くかも。血管の膨張を抑えてくれるらしいよ。すごいねコーヒー」

 ありがとうございます、と受け取りながら、「そんなの知ってるよ」と呟きそうになった自分に驚いた。
 どうしてこんなに苛立っているのだろう。
 考えても分からない。
 ただ浮かぶのは、貴方とフチ君の笑顔だけ。
 講義は何事もなく終わったが、教授から放たれる興味も関心もない言葉は何もかもすり抜けていった。
 そういえば、先週絡んできていたツンツンヘアーの男はいなかった。単位を諦めたのだろう。
 簡単に諦められるって、ある意味才能だな。そう思う。


 ――昼食。
 私とパイセン、フチ君とで三人おのおのご飯を食べていた。私はカレー。馬が福神漬けを気に入っているからそれを選ばざるを得ない。野菜を採れて美味しくて、しかも素早く食べられるから私としてもカレーは有り難いのだけれど。

 食堂は嫌に静かだった。

「ねえ、なんで今日こんなに静かなの?」

「アイカ、今朝のニュース見てないの?」

 何が、とカレーを一口頬張りながら返す。二人は神妙な面持ちで囁く。

「フランス語の教授、昨日から行方不明なの。大学生の連続失踪と絡んでるんじゃないかって」

「ここまで大事になったら、流石に全面休講になるよね……学費を返還しろって揉めそうだからしなかったけど、限界だろうね」

 フランス語の教授って、二人の受けてたやつ?
 問いかけると、小さく頷いた。

「気味悪いよね……まだ誰も見つかってないんでしょ」

「ああ、それで静かなんだね。いつもほど混雑してないし」

「アイカ、怖くないの?」

「怖いって何が」

「私達だって巻き込まれる可能性はゼロじゃないんだよ」

「でも怖がったってしょうがないじゃん。自衛しようにも手口とか規則性とか分かってないんでしょ?」

 それはそうだけど。パイセンの言葉は弱々しい語尾を帯びて、そのまま唇を閉じた。
 せっかく三人いるのに辛気臭いのも嫌だな、と思いつつもカレーを一口。ついでに福神漬けを股間に滑らせる。こんな小さな漬物で上機嫌になるんだからチョロい奴だ。

「フチ君ってお家遠いよね」

 唐突にパイセンがフチ君の方を向いた。

「う、うん、電車で一時間くらいかな」

「よくよく考えたら、失踪してるのってみんな男の人だよね。フチ君も帰り気をつけるんだよ。何なら私、途中までついていくから」

「ちょっ、ちょっと、何でそこまでするんですか、大袈裟ですよ」

「だって心配じゃん!」

 久々に彼女の大声を聞いた。部活のとき以来だろうか。それも明確に怒りの、あるいは焦燥の感情を見せたのは初めてかもしれない。
 私は驚いてスプーンを落としてしまった。ちゃりん、という音が静まり返った食堂に響いて、彼女は我に返ったように唇を噛んだ。

「……ごめん、トイレ行ってくるね」

 冷静さを取り戻す為なのか、パイセンは早足で食堂を出た。
 不安そうにそれを見送るフチ君を見て、私はその腕を引いた。

「ジュース買いに行こう」

 私達はトイレのある方とは別の扉から食堂を出た。
 建物の裏手に自販機がある。私はコーラのボトルを買って、フチ君はカフェオレを買った。

「あんな神経質なパイセン、初めて見たなあ」

 微笑みかけても彼は笑い返さない。

「やっぱり怖いから……ああ言ってくれて僕は嬉しかった」

「ふうん。あの人のこと好きなんだね」

 コーラをぐいっと飲んで、横目に彼を見る。筒状のパッケージをしたカフェオレを両手で握りしめながら、彼は俯きがちに答える。

「どっちの意味で聞いているか分からないけど……好きだよ。大切なお友達。二人共。だから何事もなく過ごしたいよ」

「大丈夫だよ、私達はこれまで通り過ごせる」

「そうだといいけど……でも何で、アイカちゃんはそんなに平気そうなの?」

「何で? 何でって……貴方が此処にいるからかな」

 え、と彼の顔から表情が消えた。
 彼は今の言葉をどういうふうに受け取っただろう。甘い告白のように、あるいは別の意味を孕んだ脅迫のように?
 私はね。まだ出会って間もない貴方にここまでの感情を持つとは思っていなかったけれど。
 けれど人の感情なんて移ろいやすいものなんだよ。パイセンからの言葉一つで、私は部活に情熱を抱いていたと気づけた。彼女の素晴らしい人間性を再認識できた。
 自分で思っているよりも、この胸のうちに渦巻くものは色濃く淀んでいるものなんだよ。

 私はね、彼女を狂わせてしまう貴方のことを嫌いになりそうなの。

「正直に答えてほしいんだけど、フチ君はあの人のことをどう想っているの?」

 残りかけのコーラをゴミ箱に投げ捨てた。ごとん、と大仰な音を立ててそれはペットボトルの群れに落ちた。
 彼は微かに震える掌をぐっとこらえながら、ゆっくり答えた。

「……素敵な人、だと思う。僕みたいな変なやつにも分け隔てなく接してくれるし、それに――」

 それに? それに何だと言うのか。
 貴方もきっと同じなんだよ。
 確かに生き方の面で男性にも女性にも属さない形が貴方には相応しいと思う。
 けれど生殖機能がついている以上、逃れられない衝動もまた遺伝子に刻まれている。別に貴方が同性を好きになろうが異性を好きになろうが構わない。
 けれどね。
 私はその言葉の続きを聞きたくなかった。二人だけの秘密なんて知りたくなかった。
 
 ここの自販機は周りの建物や木々に隠れて少しだけ目につきにくい。わざわざ移動したのは何のためだろう。私は何の為にここへ――。


 気がつくと、フチ君の細い首筋に何かが突き刺さっていた。ぷしゅう、と空気と血液が漏れる音がして、私は呆気にとられた。
 それは角だった。長くて、太くて、凄く見慣れた角。
 私の掌が角を握りしめていた。何で。どうして。震える掌を包むように、見知らぬ手がそっと触れてくる。やたらと艶めかしい手付きに、思わず股間にいるあの馬を連想した。

「処女膜を破る男根は大嫌いだけど、喉笛を破る感触はやはり快感だねえ」

 見知らぬ手の主は馬だった。けれどいつもの馬の姿ではなく、人間の姿をしていた。私よりもずっと背が高くて、けれどその顔つきはどことなくセクハラばかりするあの姿と重なって見えた。

「え、馬……なの……? どうして」

「ひどいなアイカ、いつも僕達でやっていた事だろう。君の嫌う汚い男どもはみんなこうしてさ」

 彼は私の手を握りしめ、フチ君の喉に刺さった角を勢いよく抜き取った。
 噴水のように血が降り注いで、私の頬も髪も衣服も、足先に至るまで赤黒い血液に染まっていく。
 ボディーソープの消費が激しかったのは。
 シャンプーやコンディショナーもすぐ無くなってしまったのは。
 洗濯物が放ったらかしになっていたのは。
 ああ、確かにこんな量の血を浴びてしまえば、一度の入浴ではかき消すことが出来ないのだろう。

 つい数秒前まで自立して、会話して、間違いなく生きていたはずのフチ君。彼の眼球がぐらりと揺らいで、膝と腰と首とががくりと折れ曲がる。
 交通事故の恐ろしさを教える為だけに作られた人形のように、力なくごとりと崩れ落ちた。
 びくり。一つ、二つと身体が不気味に跳ねてから、それはもう動かなくなった。

「ふう、すっきりした。ありがとねアイカ」

 馬は鋭利な角をおでこに指した。額から角の生えた人間というのは、馬というよりも鬼に見える。

「何がどうなっているの……私が、私がやったの」

「だってそう望んだでしょ。不必要な男共を『関わらせない』って」

「だからって殺すなんて」

「関わるという言葉の定義の問題だよね。僕はそれを『視界にすら入れたくない』って解釈したのだけれど」

「初めからこうするつもりだったのね、私を騙して! 貴方は――」

「アイカ……?」

 怯えた声に、私は我に返った。
 パイセンが、田中雨珠(たなかうず)が立っていた。
 目の前には私と、血と、動かなくなったフチ君の死体。
 誰がどう見たって、一つのシナリオしか思いつかないだろう。

「な、何……何これ。何なの。アイカ、アイカ、貴方何をしたの!」

「ちっ違う! 違うの『雨珠さん』! 私、私はただ」

「やめて、聞きたくない! こっちに来ないで!」

 背を向けて走り去ろうとする彼女を呼び止めようとしたが、馬が素早く走り出し、彼女の腹部を殴りつけた。
 酸素の塊を吐き出し、彼女はがくりと気絶した。

「あんた……本当にあの馬なの……?」

 マスコットのような感覚で接していたからか、余りに非情で合理的な行動を取るその姿を受け入れ難かった。しかし角のついた人間そっくりのそいつは、

「帰ろっ、アイカ」

 にこっと優しく微笑みかけた。私にはそれが心底恐ろしく感じられた。


 ――どうするの、私捕まっちゃう。
 私の部屋のベッドに雨珠さんを横たわらせ、私は馬、正確には人間の姿をした「馬」を問い詰めていた。

「私はこんな事望んでいなかったのに……フチ君が……置き去りにしてきちゃった……」

「ああ泣かないでアイカ、可愛い処女がこれじゃあ台無しだ」

「うるさい黙れ! 全部あんたのせいなんだから!」

 私はすぐ側にあった何かをぶん投げた。投げてから気づいたけれどそれは今朝見つけたロキソニンの空き箱だった。馬はひょいと避けて、ぽこんという情けない音と共に床に落ちた。

「起こったことはしょうがないじゃないか、それよりどうだい、邪魔なやつはみんないなくなって、この非処女と二人っきりになれたんだよ? 僕からしたら非処女の時点で微妙だけど」

 雨珠さんの両手両足は拘束されている。暴れられたら困る、という理由で部屋にあったベルトで縛った。どうして、どうして、と呟きながら、その美しい四肢に傷をつけた。

「ここは――アイカっ」

 目を覚ました彼女は私を見つけ、ここがどこか察知し、身体を揺らした。けれど血管が浮き上がるくらいきつく縛られているものだから、打ち上げられた魚のようにしか動けない。

「なにこれ、アイカ何でこんな事するの」

 依然として彼女は泣いていなかった。泣くなんてフェイズはとうに過ぎているのだろう。パニック状態。正常な判断が出来ず、本能的な行動しか取れなくなる。
 私はベッドに上がり、彼女の頭をぎゅっと抱きしめて囁いた。

「私にも、もう何がなんだか分からないの」

「ねえアイカ、これを解いて。落ち着いて話し合おうよ」

「それは……出来ない」

「どうして」

「怖いから」

「怖いって何が――」

「知りたくないから」

「だから何が!」

「ねえ馬、あのとき、目撃者がいたかってわかる?」

 地べたに胡座をかいてそれを眺めていた馬は、ぶんぶんと首を横に振った。

「僕がそんなヘマをするわけないでしょ。人通りが少なくなるように少しずつ減らしていったんだから」

 その言葉でようやく確信を持てた。
 少しずつ減らしていった。何を? そんなの一つしかない、失踪した人間たちの事だ。

「やっぱり貴方が私を操作していたのね」

 少しずつ少しずつ減らしていく事で、段々それが連続する事件だとみんな気付く。今は疑念が確信へと変わる寸前にある。

「ありゃま、うっかり。何だっけあのギャグ、うっかり八兵衛ドクロベエか。それそれ」

「ふざけないで。私の人生めちゃくちゃにしやがって」

「アイカ……誰と喋っているの……?」

 彼女には馬の姿が見えていない。声も聞こえないはずだ。だから私が誰もいない虚空に向かって話しかけ、勝手に怒っているようにしか見えないだろう。
 慌てて彼女の方に向き直り、平静を取り繕う。

「ごめんなさい、気にしないで」

 笑うことで安心感を誘発しようと努める。しかし頭の中では瞬時に過去を思い返していた。
 気がついたら寝落ちしていた。自販機で男とすれ違う直後から帰宅するまでの記憶がない。大学で見知らぬ部屋に立ち入っていた。ここしばらく、記憶の欠落が見られていた。ここ数日の頭痛。それは記憶をいじくられた後遺症?
 午前中の講義にいたツンツンヘアー。食堂で騒いでいた集団。二人の悩みのタネだった、フランス語の教授。

「大学生が行方不明」、「大学生連続失踪事件」、そして「大学教授が失踪」。雑音の代わりに垂れ流していたニュースから、確かにそれらは報道されていた。
 隠すならどこだろう。人気がなくて、かといってここからそう遠くない場所で、いちいち覗き込もうとも思わない場所――例えば、あの貯水池?

「ねえ雨珠さん、本当のことを教えて下さい」

 知りたくはなかったけれど、ここまで来たら秘密にされるよりもマシかもしれない。私は意を決して問いかける。

「フチ君の事、好きなんですか」

 彼女は目を丸くした。なにそれ、と小さく零しながら、彼女の手足に込められていた力がみるみる抜けていった。

「そんな事を聞くために、彼を」

「それは私じゃあ……いえ、説明しても仕方ありませんね。とりあえず答えてください」

「どうしてそんな風に思ったの。私がフチ君を好きだって」

「見れば分かりますよ。食堂で話している時とか、スタバの時のやり取りとか。それに雨珠さん、フチ君の前だと凄く真面目にしているそうじゃないですか。私にはそんな素振り見せてくれなかったのに」

「私は……私はただ、弟が出来た気がしたから……」

「弟? 雨珠さん一人っ子でしたっけ」

 そういえば家族構成について聞いた覚えがなかった。勝手に弟や妹がいて、家では気のいいお姉ちゃんなのかと思っていた。
 けれど彼女が打ち明けたのは、仄暗いものだった。
 かつては弟がいたけれど、父は弟を連れて家を離れた。母と二人取り残され、雨珠さんはバイトを沢山入れて学費を貯め続けた。
 高校卒業後、一人旅をしていたというのは嘘だった。一年かけて学費を貯め、奨学生制度と合わせて何とか入学出来たのだ。私と同じ大学だったのは全くの偶然で、その場の思いつきで「じゃあ私も行きたい」なんてジョークを吐いたのだった。
 毎日のように時間ギリギリにやってくるのは、夜遅くまでバイトを続けているから。奨学金があるとはいえ、それはいずれ返さなくてはいけない。お金は貯められるうちに貯めた方がいい。だから彼女は睡眠時間を削って仕事に打ち込み、大学にいる間に少しでも安息を得ようとしていたのだ。

「私はフチ君といたら、久しぶりに弟と会えたような気持ちになれて……ただそれだけだったのに」

 話し続ける事で興奮状態が冷めたのか、彼女はさめざめと泣き始めた。
 彼女はフチ君を、弟のように、家族のように見ていた。フチ君もまたそうだったのかもしれない。優しいお姉ちゃんが出来たんだって、二人は愛情を通り越して家族のような関係性を築いていたのかもしれない。

 家族ってなんだ。家族ってそういうコミュニティなの。私には分からない。

 ――「咄嗟に嘘をつこうにも、友達からなんて嘘だとすぐバレる。だから家族を選択したけれど、それもまた真実味を帯びていない。普通家族からこんな時間に電話が来るだろうか。来たとして講義を抜け出してまで出るだろうか。私にはわからない。何も」

 ――「家族に何か言われるだろうか。いや、きっといつも通り何も変わらない。望まない道のりに限っていつまでも一本道。家族なんて付属品は、やっぱり私には嘘くさいもの」

 私は家族と上手くいっていなかった。だから家を飛び出して、「大学進学と同時にアパートへ入居」した。「静寂を求めて」、「完璧なプライベート」を願って一人になった。
 けれど学費は両親が入金している。放任主義、あるいは興味の対象となっていないのは事実だけれど、雨珠さんよりも遥かに恵まれた環境である事もまた事実だ。

 なら私は。
 馬と出会ったことは。
 馬と契約したことは。
 彼女と交流を続けたことは。
 フチ君と出会ったことは。
 「あまりにも、それは誤った選択と言える」のだろう。

 ぐちゃぐちゃにミキサーされた私の脳内は、もう適切な答えを導き出せるほどの余裕を残していなかった。
 さっきまで錯乱していた雨珠さんは冷静さを取り戻し、ただただ泣き続けている。
 対して私は正常な判断力を失い、どうすればすべてをリセットしやり直せるかという思考に取り憑かれている。
 私達って、とことん相反する人間なのかもしれませんね。今更そう気がついた。

「馬、貴方の力で全てをやり直す方法はないの」

「うーん、無くはないかな」

「どんな手段でもいい、実行して」

「それには君の協力が必要だね」

「何をすればいいの」

「簡単な話さ。僕は君の願いを叶えた。だから今度は僕の願いを叶えておくれ」

 内容は、と問うと、彼はいつもよく見せる気持ちの悪い笑みを浮かべた。

「初めに約束したでしょう、僕と『ワイセツ』しようって」

「あれは言い間違いでしょ」

「ううん、なぁんにも間違えてないんだ、実は。僕の願い、それはね――」

 「ワイ曲」して「屈セツ」した感情を見ること。
 私はフチ君と出会うことで雨珠さんへの思いを「再認識」させられた。彼への印象を植え付けたのは、思い返せば馬の言葉があったからだ。

 ――「まあ、それはそうだね。彼にはオス特有の浮ついた性欲の香りが殆どしなかった」

 ――「あー分かる。男! って感じはしないよね。アイカを抱こうとするビジョンが見えてこないね」

 彼への警戒心を弱め、私とフチ君とが仲良くなるようにうっすら誘導していたのだ。
 三角関係になることで、私は信頼し続けていた彼女への思いを膨らませてゆく。それはやがて嫉妬に変わり、感情の爆発と共に崩壊の一手を導き出す。
 全てに気がつくのは、全てが過ぎ去ってから。 「人の感情なんて移ろいやすいもの」で、「自分で思っているよりも、この胸のうちに渦巻くものは色濃く淀んでいるもの」なのだから。
 歪み折れ曲がった感情が生み出すものは、いつだって破滅と悲劇だ。人の心は余りにも脆く、そしてひとたび変形すれば二度と元には戻らない。

「アイカ、特別なことをする必要はないよ。ただ自分の気持ちに素直になればいい。大丈夫、初夜はみんな不器用なものだよ」

 私は彼女を拘束しているベルトを解いた。
 ベッドの上で向かい合って、私は泣きはらした彼女の顔を見つめる。美しい。これまでずっと、私の前では陽気な姿を演じていたけれど、あるいはそれが自然体だったのかもしれないけれど、初めて心の底からあふれる表情を見られた気がする。

「先輩、やっと気付きました。私ずっと、貴方が好きだったんです」

 透明な雫を載せた睫毛をそっと撫でる。彼女は反射的に目を細め、そしてまた開かれる。
 すべてがスローモーション。
 私の部屋という額縁の奥で、二人だけの歓びが踊っている。
 私の知らない彼女を、やっと見せてくれた。
 フチ君の知らない彼女を、私に見せてくれた。

「だから私、ぎゅうっとしたいんです。ずっとずっと。出来れば百年くらい」

 すべてがスローモーション。
 この道のりが死ぬまで続く為に。
 けれど。

「私、アイカのこと……たった今から大嫌いになる」

 彼女の胸元が大きく胎動する。ノック、ノック。死のダンスが奏でられる。
 涙を流し尽くした瞳は、ぎょろりと私を捉えて離さない。鬼のように研ぎ澄まされた表情であっても、やはり彼女は美しかった。

「大嫌いなまま死んでやるわ」

「どうやって?」

 彼女は私を突き飛ばした。ベッドから落ち、尻もちをついた私を気にも止めずに彼女はキッチンへ飛び込んだ。そこには「死ぬための道具」がいくらでもある。フォークでもナイフでも、包丁だって。

 ――「朝っぱらから包丁で何かを切るなんて面倒極まりない。例え夜でも面倒だけれど。だから私の持っている包丁はいつだってピカピカに光り輝いている」。

 私の包丁は曇り一つなくピカピカだ。使おうとしていないから。ああ、部屋の中で鈍く光る一筋の凶器が舞う。全ては貴方の意志が成就するために、汚れない姿を保ち続けていたのだろうか。

 がちがち。がちがち。彼女は全身を小刻みに震わせながら、刃先を喉に当てた。

「雨珠さんにできるんですか、そんなこと。止めたほうがいいですよ」

「うるさいっ……みんな、貴方のせいなのよ」

「駄目ですよ『パイセン』、教えてくれたじゃないですか」

 ――「うまく行かない時とか不都合な出来事に遭った時とかにね、真っ先に相手へ責任を押し付けるのは幼稚な発想だと思うんだ」

 私だけが知る、大切な大切な貴方の言葉。
 微笑みかけると彼女は大口を開け、何かを叫んだ。言葉にならない叫びは涸れるまで続いて、そして彼女の瞳が私を真ん中に据えた。

「貴方のこと、大嫌い……」

 ぶしゅう。空気と血液が漏れ出る音。一日に二度も聞くなんて。
 はっ、はっ、と微かに呼吸をこぼしながら、彼女は私を見ていた。笑っているのか、苦しんでいるのかも分からない複雑な表情を浮かべながら、突き刺した刃物を両手で抜き取った。
 ごぼ、ごぼ、と自らの血に溺れながら、彼女の眼球と四肢とがあらぬ方向に崩れていく。
 ごとり、とそれは力無く倒れ落ちた。
 ぷしゅり、と時折漏れ出る血液の音だけが続いて、余りにも静まり返った室内には非現実的な虚無が漂っていた。

「あーらら。死んじゃったね」

 馬は彼女の死体に近寄り、つんつんと肩をつついた。無論それは動かないし、突かれている事にも気づけやしない。

「さてどうしようか。君の願いは叶えられなくなってしまったよ。君も後を追うかい?」

 くす。くすくす。私は血溜まりの中に伏す彼女を見下ろしながら、笑った。
 くすくす。くすくす。けたけたけた。
 一度笑い出すとそれは止まらなくなった。おかしくて仕方ない。だってこれは、私の願いが完璧に成就する瞬間なのだから。
 そして同時に、この馬の願いすらも叶ってしまうのだから。ああ、全てが予め定められた道のりだとしたら、なんと醜悪で美しい末路だろうか。

「ねえ馬、知ってる? 生き物は心臓が停止しても、数分くらいなら聴覚だけは残り続けるの」

「うん、聞いたことあるかも。あれって創造主の設計ミスなんじゃ無いかって思うけど。なんたって僕を生み出したくせに封印するような管理体制なんだしぃ」

「素敵なことだと思わない?」

「……まあ、確かに生者にとっては救いだねえ。なら伝えてあげなよ、後悔のないようにさ」

 うふふ。うふふ。お馬さん、貴方は何も分かっちゃいないのね。
 うふふ。うふふ。創造主さん、素敵な仕組みをありがとう。

「違うよ馬、これは死者への手向けじゃない。よく考えて、私が話しかけている間、死者はどうなっているか」

 私が彼女に声をかけ、それがまだ残された聴覚によって届けられたとして。彼女はどうすることが出来るだろうか。
 ただ一方的に言葉だけが流し込まれて、返事をすることもその表情を見ることも耳を塞ぐことすら出来ない身体で、言葉だけが。
 言葉だけが、遺される。
 取り残されるのは生者ばかりではない。
 貴方の心も此処へ置き去りにさせる。

「今から私は、耳元で愛を囁き続けるよ。大嫌いになった私の声で。ああ、素敵。私の愛してるが最期に届く言葉になるの」

 それってとっても素敵で、とっても残酷な事じゃない?
 ぞろり。鳥肌の立つ感覚が全身を駆け巡る。

「分かりますよ雨珠さん。一方的に喋られると鬱陶しいですよね。私もよく知ってます。股間にユニコーンを飼ったことはありますか?」

 するり。体内を酸素が走ってゆく。

「大丈夫です、きっと全部元通りになりますから」

 ぱかり。突如、身体が真っ二つに割れた。
 一瞬驚いたが、すぐに馬と出会ったときの言葉を思い出して納得した。

「……最初からこれが欲しかったのね。幼稚なやつ」

 ――「そりゃあもう、シャキーンでキラキラ~でパンパカパーン! な! 処女だよ!」

 シャキーンでキラキラ~でパンパカパーン。なるほど、嘘はついていない。
 鋭く尖る鉄の筵。
 つぶらな光を放つなめらかな体躯。
 対象をゆっくりと抱きしめる巨大な口。

 ――「男嫌いの『鉄の処女(アイアンメイデン)』だって」

 ああ、私につけられた名前は何も間違っていなかったんだ。
 何もかもが一筋の道に収束していく。

「美しいよ、アイカ」

 私の身体は鉄の処女(アイアンメイデン)に生まれ変わっていた。これが馬と交わした契約の結果。歪曲して屈折した愛憎劇の結末。

「僕って拷問器具を集めるのが趣味でね、でもそう簡単には手に入らないからこうして協力してもらっていたのさ。これまでありがとね」

 馬はにこっ、と微笑んでいるはずなのに、品定めをする淫らな男共のように、舌なめずりをして興奮を抑えきれない顔をしているようにも見えた。

「君はただ一人の愛する人を、誰にも見えない場所で抱きしめ続ける権利を得た。存分に楽しんでね」

 きいい、とアイアンメイデンの扉が閉じられてゆく。彼女の首筋から溢れた生暖かい血液を感じながら、私の刃たちが彼女の肌をゆっくりと貫いてゆく。
 その刃の一本一本が、体内に侵入していく感触の一つ一つが私にも伝わる。

 ――「真っ黒な其の眼が私の眼に光を射てば、呼吸ができる」
 椎名林檎の歌声が頭の中で流れ出す。

 雨珠さん、一つになりましょう。
 この静かな小部屋の中で、何も考えずただ眠りましょう。

 ――「今は還らない影など全く厭だけれど」

 貴方さえいてくれるなら。
 この時間がずっと続くのなら。

 ――「あなたには全て許しちゃうわ」

 私は幸せなんです。

 ――「あなたには殺されてもいいわ」
 
 貴方はどうですか?


 ばたり。扉が閉じられ、一面の暗闇が広がり、ただ私の鼓動と彼女のぬくもりだけがそこに残った。
 雨珠さん、雨珠さん。私はそして囁き続ける。貴方に届く間は、いいえたとえ届かなくなっても。
 私は願い続けた道のりを歩き続けますよ。
 貴方の鼓動に、そっと触れてもいいですか?



 
「ふーやれやれ。思ったより時間かかったね」

 こんこん、と閉じられたアイアンメイデンを叩いた。ユニコーンの姿で生活するのも結構大変なのだ。ふうと息をついた。
 あの子に第三者をぶつけて三角関係にすれば、多分うまいこと拗れてくれるだろうと思ってはいたけれど。何とか上手くいってくれて良かった。
 これでまたコレクションが増える。蓋を開けられない以上、本来のアイアンメイデンとして使うことは出来ないけれどそれがまた良い。
 もともと誰かに使うつもりもなかったし。コレクションって使わずに飾って楽しむものだからね。

「中々良い顔してるよ」

 アイアンメイデンの上部には、伏し目がちに微笑むアイカの顔が刻まれている。それは自らの体内に眠る愛する者を見つめる慈愛の表情か。あるいはゼロの距離にまで抱き寄せてしまったがゆえに、もう二度とその目に映る事が無い事実を悲しんでいるのか。
 
 何事もバランスが大切だ。ゴキブリが生き残ったから彼ら人間は生きていられるのかもしれないのだし、違法なアダルトサイトがあったからアイカは僕と出会えたのかもしれない。
 あちらを立てるならこちらを撫でて、そちらを勃てたらどちらを舐めて? あれ、何か違うな。まあいいや。
 全ての物事には結びつくきっかけがあって、今回は彼女の「男性不信」がそれだった。僕がどこからどこまでお膳立てをしていたのか、そんなものはいちいち覚えていないけれど、連綿と続く出来事の果てにこんなにも素敵なコレクションが手に入ったのだ。
 楽しくて面白くて、コレクションが止まらなぁい。

「さーて、次はどんな拷問器具を手に入れようかなぁ」

 そうだ、ファラリスの雄牛とかどうだろう。あれも凄く可愛くて好きなんだよね。でもどうやったら変身させられるかな。雄牛って言うくらいだし、やっぱり男じゃないと駄目なのかな。
 うーん。あ、そうだ。

「君との約束を果たさないとね」

 ぱちん。指を鳴らすと、部屋の内装が一瞬で別の配置へと切り替わった。目の前には服を着替える男がいて、その顔には見覚えがあった。

「ほほう、何とも因果なものだねぇ。どうせ男に取り憑くなら童貞の方が良いからね。それにこの子も追い詰めたら結構面白そう!」

 男は服を洗濯機に優しく入れて、シャワーを浴びに行った。
 たしか「家まで電車で一時間」って言っていたな。なるほど、そういうパターンか。

 僕はアイカとの約束を守り、世界をリセットさせた。アイアンメイデンと化したアイカと、その中で眠る非処女はこの世界に戻せない。だから二人を「いなかったもの」として再構築させた。
 僕にそんな力は無いけれど、幸い兄弟の中に運命を管理する三女神がいるから、頼めばすぐやってくれる。しかも三女神の中でもラケシスは処女神なんだよ。たまんないよね。
 兎にも角にも、アイカと非処女が最初から存在しない世界になったのだから、この部屋も別の誰かが使っているのだ。
 そしてこれは偶然にほかならないが、代わりに住んでいるのが、シャワーを出て誰かからの着信に出ている彼だ。

「フチ、暇だしカラオケ行かない?」

「う、うん! 待っててねすぐ用意するから!」

 不知火蔓穂(しらぬいつるほ)。アイカの愛憎劇の完全なる被害者だった男だ。前の世界では家まで電車で一時間だったのだから、少し運命が変われば大学近くのアパートに入居していても不思議じゃない。
 そして恐らく童貞。もし契約してもらえたら、またあの食堂の福神漬け食べられるかな。あれは本当に美味しい。癖になってしまった。僕を唸らせるとは大した漬物だよ。

 アウターを羽織って、彼は小走りで部屋を出ていく。その後ろを、僕も追いかけてゆく。しばらくは彼の生活を観察しよう。そしてどんなタイミングなら契約を結んでくれそうかを考えよう。
 アイカにそうしていたようにね。
 ふふふ、新しい道を歩くときってワクワクするよね。

 友達の元へと晴れやかに駆けてゆく青年の側で、僕もかぽかぽと足音高く並んで走る。我ながら可愛い足音だと思う。
 彼と会話をする時が来たら、一番最初にそう聞こう。その時はきっと、童貞の髪をしゃぶりながら。
 僕の名は「タナトス」。時にはハデスと呼ばれる事もある。人間の髪を一房千切り、冥界へと導くもの。
 ねっ、意外と格好良い奴でしょ?
黒川+宮葉

2021年12月30日 16時45分51秒 公開
■この作品の著作権は 黒川+宮葉 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
契約内容を欲ご確認ください。

◆作者コメント:
バウムクーヘンとアウフヘーベンの違いって何だろう。

引用した楽曲:椎名林檎『シドと白昼夢』

2022年02月01日 21時51分07秒
作者レス
2022年01月27日 21時08分36秒
作者レス
Re: 2022年01月31日 06時08分13秒
Re:Re: 2022年01月31日 14時18分56秒
2022年01月15日 23時39分51秒
+30点
Re: 2022年02月01日 22時55分27秒
Re:Re: 2022年02月05日 03時22分16秒
2022年01月15日 21時27分19秒
+30点
Re: 2022年02月01日 22時50分34秒
Re:Re: 2022年02月05日 03時20分01秒
2022年01月15日 16時58分12秒
+30点
Re: 2022年02月01日 22時38分40秒
Re:Re: 2022年02月05日 03時15分37秒
2022年01月10日 20時32分52秒
+10点
Re: 2022年02月01日 22時25分48秒
Re:Re: 2022年02月05日 03時14分18秒
2022年01月10日 14時05分20秒
+10点
Re: 2022年02月01日 22時13分34秒
Re:Re: 2022年02月05日 03時12分10秒
2022年01月09日 15時41分16秒
+10点
Re: 2022年02月01日 22時04分01秒
Re:Re: 2022年02月05日 02時57分54秒
2022年01月09日 08時30分14秒
+30点
Re: 2022年02月01日 21時53分16秒
Re:Re: 2022年02月05日 02時56分29秒
2022年01月08日 16時52分33秒
+20点
Re: 2022年02月01日 21時46分22秒
Re:Re: 2022年02月05日 02時54分02秒
2022年01月06日 03時37分57秒
+40点
Re: 2022年02月01日 17時28分10秒
Re:Re: 2022年02月05日 02時51分30秒
2022年01月02日 20時13分44秒
+20点
Re: 2022年02月01日 17時16分23秒
Re:Re: 2022年02月05日 02時45分20秒
合計 10人 230点

お名前(必須) 
E-Mail (必須) 
-- メッセージ --

作者レス
評価する
 PASSWORD(必須)   トリップ  

<<一覧に戻る || ページ最上部へ
作品の編集・削除
E-Mail pass