モンスターズ

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   1

 全裸の女がいた。
 湖のほとりに彼女を見たとき、サナル・レミ・シュタインは持っていたランタンを落としそうになった。
 満月に近い月に照らされ、その姿は影を負っている。それでも、その肌の白さ、短く切り揃えられた髪から覗くうなじ、蠱惑的な体の曲線はしっかり見えてしまい、彼は慌てる。
 ランタンを危ういところで持ち直し、ほっと息をついたのも束の間、彼は、は、となって彼女から目を背けた。
 彼女が自分に気付いて、じろじろ見ているところがバレたら大変だ。そもそも、女性の裸をじっと眺めてはいけない。
 そんなことを考えた彼は肝心なことに気付かなかった。
 女性の体には、無数の傷とアザが刻まれていた。
 慌てるサナルは、女性に見つからないよう身をかがめ、足早に道を進む。
 そして、もう十分に離れただろう、というところで後ろを向く。
 気が咎めながらも、どうしてふり向いたかといえば、今更ながら疑問を感じたからだ。
 どうしてこんな真夜中に、彼女は裸で湖のほとりにいるんだろう。
 彼が見た光景は、そんな疑問に容赦なく答えてきた。
 満月に近い月に照らされ、白く輝く湖面に、彼女はいた。その体は既に肩まで水につかっていたが、彼女は湖の中心に向かって進み続けていた。
 彼女がしようとしていることが水浴びでも何でもないことに気付き、サナルは叫ぶ。
「待ちなさい!」
 それなりに距離はあったものの、静かな夜の森の中でサナルの声はよく響き、女性の顔が確かに彼の方を向く。
 しかし、彼女はそれでも止まることはなく、深みに入ったのか、その姿は不意に水の中に消えた。
 ランタンを置き、サナルは湖に向かって駆け出した。走りながら身に着けていた外套、ジャケットを脱いでいき、湖の縁に辿り着いたとき、サナルは靴に手をかけたところだった。
 革靴を脱ぎ捨て、水の中に飛び込もうとしたサナルだったが、彼はそこで足を止めた。
 重石でも持っていたのか、沈んだ女性は浮かび上がってこない。
 女性とはいえ、重石に繋がれた人を、男にしては華奢な自分が引き上げられるか、と考えたこともあった。
 ただ、彼が足を止めた一番の理由は、それではない。
 虫が慎ましく鳴く以外は、何も聞こえない空間で、サナルはただ、その湖を見つめる。その素足はじりじりと湖に寄っていたが、結局、水に入ることはなかった。
 脱ぎ捨てた靴下と革靴を再び履くと、サナルは早足でランタンの方に戻る。途中、脱いだ外套やジャケットを拾い、歩きながら手早く身に着ける。
 道の真ん中に置いたランタンを取ると、何かに追われるように、彼は自宅に向かって歩き出した。
 ごぼり、と湖から音が響いたのは、彼が脚を動かし始めるのと同時だった。
 足が止まる。
 先ほどの女性が、息の出来ない苦しさに、水の中でもがいたのかもしれない。
 音を聞いたサナルは数瞬の間、凍り付いたように立ち尽くした。しかし結局、彼は振り向くことも湖に戻ることもせず、自宅へと駆けていった。


 屋敷に辿り着いた彼は、外套を脱がないまま、居間の安楽椅子に腰かけた。
 頭を抱え、深くため息をつく。
 見殺しではない、と彼は思う。
 彼女は自分から死を選んだ。状況から見て、それは間違いがない。事故や事件に遭った人を見捨てるのとは、僕がしたことは全く違うものだ、とサナルは思う。
 ただ……と一度始まった思考は止まらない。
 ただ、人は自分から死にたいと思って生きている訳じゃない。生きることが生物である人の本能で、それに抗って死を選ぶということは、よほどのことがあったということに他ならない。近親者の死、金銭的な問題、耐えがたい恥辱、精神的な病……そうした理由がなければ、人は自分から死ぬなんてことは考えない。やむにやまれず、人は死を選ぶ。それを止め、寄り添うことが、人としてすべきことだったんじゃないだろうか。
 そして何よりも救いがたいのは、僕が彼女の死を見逃した一番の理由は、自分の望みのためなのだ。
 サナルは、無性に酒が飲みたくなった。しかしすぐに、家にあるのは実験用のアルコールくらいで、数年前から酒の類は一切置いていないことを思い出す。
 月明かりも射さない屋敷の中で、彼は、ふふふ、と笑う。
「罪悪感を感じるなんて、今更過ぎないか?」
 無意識のうちに、思考が口から漏れてくる。
「そもそも、罪は既に犯しきってるじゃないか」
 その言葉が、何かの結論を導いたのか、彼は不意に、安楽椅子から立ち上がった。
 そして寝台に横になっていた人形の一人を起こすと、彼と一緒に納屋へ向かった。そこから馬を引き出すと人形に命じて荷台を付け、先ほどの道を湖に向かって進んだ。
 湖に着くまでの時間が、酷く長く感じられた。
 勝手に早くなる鼓動を押さえようと、努めてゆっくりと呼吸をしたものの、心臓は早鐘のように打つのを止めることは無かった。
 再び、白い湖面が見えた時には、息が止まりそうになる。湖を危うく通り過ぎそうになったところで、サナルは人形に命じて、馬車を止めた。
「降りて、僕に続いて歩くんだ」
 そう人形に言ってから、サナルは馬車から降りた。人形を後ろに引き連れて湖の縁まで歩いた彼は振り向き、無表情の人形に命じる。
「湖の真ん中辺りに女の人が沈んでるはずだから引き上げてくれ。もし見つからなかったら、自分の息が切れる前に戻って来るんだ。それと、彼女の体には傷を付けないように」
 他に何か、命じることはあるだろうか、と彼は考える。
 人形は命令されたことしかやらないし、命令されなかったらどんな突拍子もないことをしでかすか分からない。それでも、動揺を引きずったサナルの頭はそれ以上回らず、結局彼は「行ってくれ」と、人形に言う。
 すると人形は無表情のまま、湖の中に飛び込んだ。
 がっしりとした体格の人形はさっさと水の中を進み、さほど時間を経ずに湖の真ん中辺りに辿り着く。そして大きく息を吸うと、中へと潜っていった。
 同じことを何度か繰り返すことを覚悟していたサナルだったが、彼の元に戻ってきた時、人形はあの女性を抱えていた。
 右腕に女性、左手には彼女が荒縄越しに手首に付けた重石を軽々と持った人形に、サナルは近付く。
 女性は当然のように事切れていた。
 歳の頃は、二十歳に差しかかったか、かからないかくらいだろう。手足の長い、多分、美しい部類に入る女性だったのだろうけど、それはよく分からなくなっていた。
 溺れたときのものか、その表情には明確な苦痛が刻まれていた。
 人形に抱かれた彼女の瞳は虚空を見つめ、それはサナルを非難しているように、彼には見えた。目と同じく大きく開かれた口は奈落を思わせ、その奥にはおそらく、地獄が広がっている。
 サナルはその時、女性の体に無数の傷やアザが刻まれていることにようやく気がついた。強くつねられたようなものから、たばこの火を付けられたらしいもの、鞭か、それに近いもので打たれたような腫れも見える。彼女が死を選んだ理由は、おそらくこれだろう。
 人は自分から死にたいと思って生きている訳じゃない。
 先ほど考えたことが、頭の中で繰り返された。
 彼女の死を、僕はこれから弄ぶ。
「荷台に乗せるんだ」
 死んだ女性に謝りながら、彼は人形に命じた。


 屋敷に帰り着いたサナルは、女性の遺体を人形に命じて屋敷の奥にある実験室に運んだ。
 実験台に女性を寝かせると、記録用紙に女性の年齢や肉体の特徴、遺体の状態、死んだあとの推定経過時間等々をざっと書き付け、次いでメスを手に取る。
 電灯で照らされた女性の頸にメスを滑らせると、腐敗の始まった血液が流れ出す。
 そうして、死後硬直が始まった女性の肉体に手早く処置をする彼の頭にはもう、先ほどまで強く感じていた罪悪感はなくなっていた。
 頭にあったのは、既定の手順を手早く進めようとする自動的な思考、そして、科学者としての知的好奇心だけだった。
 予想される結果が、本当に引き起こされるのか、という不安を感じる一方、必ず引き起こされるはずだという期待と興奮が入り交じった感覚。
 頭の隅では、そんなものを感じる自分を嫌悪しつつ、それでもサナルは、手を動かすことを止めなかった。
 血液が抜けきるのを確認してから、彼は頸動脈にカテーテルを刺す。そしてそれに繋がった機械の電源を入れ、無色透明の、粘性のある液体を女性の体に流し込んだ。
 彼はその様を、じっと見つめていた。


 あの液体が女性の体に注入され終わっても、しばらくの間、変化はなかった。じっと女性の様子を観察していたサナルだったが、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
 がしゃん、と何か割れる音がした時、彼は実験台の傍に置いた椅子から飛び起きた。
 ねぼけてぼんやりとした視線の先には、床で砕けたビーカーと、それを見る、あの女性の姿があった。
 寝ていた実験台から半身を起こした彼女は、砕けたガラスからゆっくりと視線を、サナルに向けてきた。
 彼女は間違いなく、生きていた。
 そして彼を見つめる瞳には、間違いなく確かな知性、そして意思があった。
 それを認めたサナルは椅子から飛び上がり、思わず彼女の手をぎゅ、と握る。
 すると、女性は小さく叫び、顔を嫌悪に歪ませた。
「触らないで!」
 女性はサナルを突き飛ばした。
 その細腕に突かれた彼は宙を飛ぶ。そのまま反対側の壁にぶつかり、壁にかけられた実験機材のいくつかが派手な音を立てて壊れた。
 サナル自身も呼吸が一瞬止まり、痛みに咳き込む。苦しげなそれはしかし、さほど経たない内に笑い声に変わった。
 ふ、ふふ、はははは!
 驚いた女性は、タガの外れた笑いに、気味悪そうに顔を歪めたものの、歓喜の中にいるサナルに気付く様子はなかった。
「僕の言うことが分かるかい?」
「は? いや、何を、言ってるの?」
「もう一度聞くよ、僕の言うことは分かるかい?」
「分かるに決まってる。あなたは誰?」
 そして、サナルは、両手を天に向かって突き上げ、「成功だ!」と叫んだ。
 歓喜と興奮の中にいたサナルだったが、ほとんど唖然とする女性に、ふと、冷静になる。
 僕は、彼女の死を弄んだんだ。
 そのことを思い出すと、歓喜は潮のように引いていった。それでもなお残った、実験が成功したことへの喜び、そして彼女への罪悪感は、奇怪な表情を彼の顔に刻んだ。
 そんな彼に戸惑う女性は、ふと、自分が裸であることに気付いて、体を両手で隠した。
 それに気付いたサナルは、近くの棚から備え付けのバスタオルを彼女に渡し、目を逸らす。
「突然、すまなかった」
「あなたは、誰?」
 警戒心を露わにしながら、女性はバスタオルを体にまきつける。
「ここはどこなの、私は……」
 彼女がタオルを身に着けたのを確認してから、サナルは彼女に向き直る。
 彼女の顔を見つめ、ためらいがちに、彼は言葉を紡いだ。
「さっきは突然、すまなかった。実験が予想通りに行きすぎて、我を忘れてしまったんだ」
「実験?」
 そう繰り返した女性に、サナルは一つ息を吸ってから話し始めた。
「僕の名前はサナル・レミ・シュタイン。死んだ人間を蘇らせる方法を研究する科学者だ」
 もうためらってもしょうがない、と彼は残りの台詞を一息で言う。
「君は一度死んだ。そして、僕が生き返らせたんだ」

   2

 サナル、と名乗った自称科学者の頭にガラスのフラスコをぶち当ててから、リリはようやく、我に返った。
 あ、と思った時には側頭部のあたりにフラスコの直撃を受けた男は気絶して倒れ、額から流れ出した血が床に広がっていた。
 慌てて体を揺すったものの、男は目を覚まさない。は、と気付いて鼻の辺りに手をやると、息はちゃんとあって、リリはほっと息を吐く。
 でもこのまま目覚めなかったらどうしよう、と思ったリリは、バスタオルを体にぎゅ、と巻き付け直すと、部屋の中を見まわす。
 無機質な作業台、色々な書類やビーカー、フラスコが雑然と置かれた机に、よく分からない液体の満ちたタンク、そして黙って立つ中年の男。
 手当に使えそうなものはなく、とりあえずくしゃくしゃになって置かれたタオルを男の頭に巻き付け、黙って正面を見続ける中年から目をそらしながら、リリは何か使えるものを探そうと、部屋の外へ出ることにした。
 いかにも実験室、という感じのその部屋とは打って変わり、その外はごくごく普通の家だった。ドアの先は真っ直ぐ続く廊下になっていて、その右側にはドアが並び、左側の壁にはめられた窓ガラスからは昼くらいの太陽がさんさんと降ってきていた。
 拍子抜けしながら、リリはとりあえず一番近くの部屋のドアを開けようとドアノブに手を伸ばした。
 手当なんてする必要あるのか、と思ったのは、その時だった。


 君が湖に身を投げたとき、僕は最初、助けようと思った、と男は言った。
「でも結局、そうはしなかった……君が、僕の研究に、とてもちょうど良いと思えてしまったからだ」
「ちょうど良い?」
「死んだばかりの死体が必要だったんだ」
 そう言うと、男は部屋の片隅を見た。
「アントン、起きるんだ」
 すると、そこに置かれたベッドから、一人の男が起き上がった。
 リリは思わず、ひ、と小さく叫んでしまう。その中年は何の気配もなくそこに横たわっていて、彼が立ち上がる様はまるで幽霊が現れたようだった。
 そして、その立ち姿は不気味としか言いようがない。背筋を真っ直ぐ伸ばした男、無精ヒゲの伸びたその顔には、彫像のような無表情が貼り付いていた。見ようによっては軍人のようにも見えたけど、男は、それとは明らかに違った。
 男からは、意思、というものが感じられないのだ。
 威厳を見せようとか、リリを威圧しようとか、サナルという男の命令を守ろうということさえ、男からは感じられない。ただ命じられ、その条件反射として立っている、そんな風に見えた。
 その様は、人というよりは機械か何かのようだった。
「彼は、一度死んでいる」
 そうサナルが言って、リリは思わず、はあ? と言う。
「どう見たって、生きてるでしょ」
「そうだ。でも、一度死んでるんだ」
「死んだ人間が蘇る訳が」
「確かに、常識的に考えるならデタラメだ。ただそのデタラメが出来てしまうんだ。この」
 そう言い、サナルは部屋に据えられた金属のタンクに触れる。
「霊媒液の力を使えば」
「霊媒液?」
「僕が発見した物質だ」
 そして、サナルは訳の分からないことを話す。
「この液体を体内に注入すると、死者は再び動き出すようになる。死んだ細胞は蘇り、心臓の鼓動は戻り、体内は血液に代わって霊媒液が循環するようになる」
 混乱するリリに、サナルは話を続ける。
「ただ、それは完全な蘇生ではない」
 そして、アントン、と呼ばれた中年を再び見た。
「アントン、両手を上げるんだ」
 すると、アントンというらしい中年は両手を上げた。
「そのまま右足も上げて、そのまま立ち続けるんだ」
 サナルの言うとおりに、アントンは動く。奇妙な姿勢のまま微動だにしないアントンは、それに対する非難も何も言わないし、表情もやはり、揺るがない。
「ありがとう、手と足を下ろしてくれ」
 そしてやはり、アントンは言われるがまま、手と足を下ろした。
「彼等に意思や、思考はない。ただ誰かに言われるがまま、歩き、作業する……もしかしたら、命じられれば人殺しさえするかもしれない。
 だけど、それだけなんだ。彼等は自分で考え、感じ、なにかをしようとすることはない。ただ他人に操られるだけの、人形でしかないんだ。
 そしてそれは、僕の目指す人間の復活ではない」
 サナルは一度、言葉を切り、ため息をついた。
 理解しきれない情報を一気に詰め込まれて、混乱するリリだったものの、一方で憤りのようなものもこの男に感じ始めていた。
 かつて死者だったという、アントンという人。それをどこか、モノのように語る、サナルという男に対する憤りだった。
「人形達が意思や思考を持てなかった理由として考えられたのは、死んでから時間が経ちすぎていたことだ。
 霊媒液を注入されると、死んだ細胞は蘇り、人は再び動き始める。ただ、繊細な作りの脳細胞では、死後何時間も経ったあとでは、意思や思考に関わる領域は霊媒液でも回復しないんじゃないか、だから彼等はああなんじゃないか、と考えたんだ。
 なら、死んだばかりの遺体に霊媒液を注入すれば、生前とほぼ変わらない機能を保ったまま蘇生出来るかもしれない。でも、死んだばかりの遺体なんてそう都合よく現れる訳もない……そんな時に、僕は湖に入る君を、見てしまったんだ」
 ほとんど一息で語り続けていたサナルだったが、そこで言葉を切る。顔を伏せ、どこかすまなさそうな表情を浮かべた彼は、リリがぎゅ、と手を握りしめたことに気付かなかった。
「……本当に、申し訳なく思っている。死ぬのを止めるどころか、死んだ君を、自分の研究のために弄んだ。謝っても済む話じゃないと」
 次の瞬間には、リリは近くにあったフラスコを掴んでいた。


 あの自称科学者の言ってることはいまいち理解できていなかったものの、ただ一つのことは間違いなかった。
 自分が一度、死んだこと。
 口と鼻を容赦なく塞ぐ冷たい水、急速に薄れていった意識、そして、唐突に訪れる暗闇。
 あれは死以外の何物でもなかった。
 そして訪れた死と同じく、リリの意識は何の前触れもなく光を取り戻し、そこには呆気に取られたあの男がいた。
 リリは自分の肌に、そっと触れる。
 全身に刻まれていた傷は、どういう訳かどこにもない。手にはさらさらとした素肌の感触があり、肌には少し冷たい手の感触がある。自分はどうやら、生きている。
 ……未だに、男の言ったことは信じられなかったものの、あの死から自分が蘇ったことは間違いらしい。
 そして、さっきの男の話を信じるなら、あいつは自分を研究の材料として扱い、よく分からない液体を流し込んだ。
 全身に、怖気が走る。
 自分の体に、また誰かが触れ、弄び、それどころか体の中によく分からない液体を流し込んだことは、嫌悪感をかき立てるのに十分すぎた。
 そのままうずくまりそうになるけれど、次の瞬間には、リリは目の前にあったドアノブを反射的に握っていた。
 ドアの先には、寝台が三つ並んでいた。
 反射的に、そこに寝てしまおう、と思ったものの、ベッドから向けられた二つの視線がそれを止めた。
「あ」
 と呟いたリリを見る二人は、奇妙な取り合わせだった。
 一人はリリより少し年上くらい、凄く綺麗で、妖艶とも言える雰囲気を持った女性、もう一人はせいぜい十歳くらいの、可愛らしい男の子だった。親子、にしては年齢も近い上に全然似ていない二人は、シーツにくるまったまま、ただリリを見ていた。
「突然ごめんなさい、ええと」
 と言うリリを、ベッドの二人はただじっと見つめてくるだけだった。彼女が笑いかけても、彼等は何も言わないし、何もしなかった。
 それを不気味に感じていたリリは、不意に、あの中年男を思い出した。サナルによって蘇らさせられた、ただ死後に時間が経ちすぎていて、意思や思考を持てなかったという人。
 自分を見てくる、二つの視線には驚きも何も、感情らしいものは浮かんでいないように見えた。この二人も、アントンと呼ばれた中年と同じ存在なんだろうか。
「起きて」
 とリリは呟くように言った。
 すると、彼等は無表情のまま、リリに視線を向けたまま、ベッドの上で一斉に体を起こした。
「寝て」
 そう言うと、彼等はやはり、一斉に横になった。
 ……子供や女性の遺体まで実験の材料にするサナルへの嫌悪を感じるリリの脳裏に、ふと、一人の男の顔が浮かんだ。
 野卑。そんな言葉をそのまま人間にしたような、ヒゲ面の男。
 リリが今したことは、人形と呼ばれる彼等を、弄んだことに他ならない。
 彼等には意思も思考もないというけど、彼等は起きたり寝たりすることを望んだ訳でもない。
 相手の望んでもいないことを、自分の望みのために強要する。
 それはサナルという男がリリにしたこともそうだったし。
 あのヒゲ面の男がリリにしたことも、そうだった。

 *

「足りないねえ」
 とあの男はリリに言った。
 後ろでは男の部下達が家財道具を運び出す中、あご全体を覆うようなヒゲを生やした男は、リリが差し出した金をゆっくりと数えてから、そう言った。
 ヒゲ面は、名乗りもしなかった。
 ただ、リリの父親の借金を回収しに来た、とだけ言うと、何か言おうとするリリの顔を張り、彼女が苦労して買いためた家財道具と、なけなしの現金をさっさと回収し始めた。
 ……父親が首を吊った後、屋敷や、買いためた美術品は、借金取り達に差し押さえられた。
 借金はそれでまかなわれたと思っていたリリにとって、見覚えのないヒゲ面の訪問は寝耳に水で、彼女は怯えることしか出来なかった。
 そんなリリの前で、ヒゲ面は、大仰なツバの広い帽子に覆われた赤ら顔に、にったりとした笑みを浮かべた。
「この金と、後ろの家財道具を全て売り払っても、お父さんの借金の残りにはまだ微妙に足りない。本当に微妙に。ごくごく微妙に、だ」
「ならしばらく待って下さい。足りない分は、働いて返します」
 そう言うと、男はゆっくりと、かぶりを振った。
「いいや、ダメだ。納期はとっくの昔に過ぎているし、それにここでお情けをかけて、あんたがまた逃げたら困る」
「逃げたのではなく、父親の借金は清算が済んでるものだと……」
「勘違いかもしれないが、俺からしてみたら逃げられたと同じことだ。とにかく、今日この場で、不足分も含めて払って貰わなきゃならん。それが金を借りたものの義務というもんだろう、お嬢さん」
「でも、もう渡せるものは」
「なに、別に払いはモノや金じゃなくても構わんのだよ」
 家財道具を運んでいたはずの、男の部下の一人がリリの肩に手を置いた。
 体中に寒気が走り、リリはその手を振りほどこうとした。しかし、笑う男の手に込められた力は強い。
 そして、目の前のヒゲ面の男も、顔をリリに寄せてくる。つんとした、タバコと体臭がまざりあった臭いが鼻をつき、自分の顔が強ばるのをリリは感じた。
 そんな彼女の様子も愉快だ、と言うように、ヒゲ面は笑った。


「起きろ!」
 そんな男の声で、リリは目覚めた。そしてすぐに、首を何かで引かれる。苦しさに呻くものの、それでも首は何かで容赦なく引かれる。視界には、暗い空間、闇の中にたむろする何人もの人、そして、闇の出口に広がる青い光に、それを背に立つ一人の男。
 その男が手に持った何かはリリの首に繋がっていた。よく分からないまま、でも息が苦しくて、リリはその男に引かれるまま、青い光の中へと出て行った。
 闇の外は、夜の中だった。ただ月は満月に近く、夜の闇は青く光っていた。その中を、男はリリを首にかけた縄で容赦なく引く。
 それまでいた幌で覆われた馬車の荷台から引きずり出されたれたリリは、地面に落ちる。まともに受け身を取れず、落ちた痛みに、リリは小さく呻く。じんじんとした痛みに呻くリリを、彼女を引いた男と、彼女に続いて降りてきた別の男達が見下ろすのを感じる。
 落ちた時の痛みが引くと、先ほどまでの記憶が彼女の頭を浸した。
 泣き叫ぶ自分、自分を見て笑う男達、伸ばされる手、手、手。
 男達の手の皺さえも、ありありと浮かぶその記憶は、容赦なくリリを灼く。
 その苦痛に呻くリリを見下ろしながら、男達は笑っていた。
「ご苦労さん。これであんたは自由の身だ」
 ヒゲ面の男の声が、頭の上から降ってくる。
「娼館に売り払っても良かったが、まあこれで勘弁しとく。そうするには、借金の残りはほんの少しだったし、俺らもちょうどムラムラしてたところだったからな。
 それでもまあ、あんたにとっちゃ、酷いことをされたと思うだろう。しかし、そもそも俺達がこうしなきゃならない理由を作ったのは金を借りたあんたのお父さんだし、そのお父さんのもとで生活してきたあんただ。それに娼館で何年も男の相手するよりは、何時間か俺らになぶられた方がまだマシだったと思うぜ」
 まあ、恨むなよ。
 そうヒゲ面が言うと、他の男達が笑い声を上げる。笑いながら、何か下品なことを言いながら、男達は荷台へ戻っていった。
 去り際に、男の一人がリリの尻を叩いた。その痛みで、彼女は自分が何も身に着けていないことを覆い出す。途端に、脳髄を苛む苦痛に夜風の冷たさと、肌に無数に刻まれた傷の痛みが加わる。
 心も、体も、バラバラになってしまいそうだった。
 弱々しく呻くしかないリリを置き去りに、男達の乗った馬車は下卑た笑い声だけを残して去って行った。
 自分が蹂躙され、ぼろきれよりも無残に捨てられたこと。
 その屈辱に悶えるしかない彼女はいつしか、気を失っていた。


 ……再び目覚めたとき、夜はまだ終わっていなかった。
 月はまだ空の高みにあり、その光は彼女に容赦なく降り注いでいた。
 あれだけ感じていた苦痛は、元から何もなかったように、消えていた。ただ、不快な虚脱感だけが全身を覆っていた。
 動きたくなかった。しかし体は何かに導かれるように動き、彼女は立ち上がる。
 リリはぼんやりと、馬車の去った方を見る。あれから何時間経ったんだろうか。もしかしたら一〇分も経っていないかもしれないけど、森の中を蛇行する道に、その姿はもう見えない。
 そのまましばらく、月の光の中で奇妙にくっきりとした道を、リリは見ていた。
 その時、耳に水音が聞こえてきたような気がした。
 奇妙に澄んだその音を追って、彼女は歩き出す。
 歩きながら、リリはこの体がもう自分のものではないことに気付いた。
 脚を動かすごとに、足の裏にざらざらと地面が触れるのは分かった。しかしそれは、どこか他人のことのようで、それが自分のものだと、リリは感じることが出来なかった。
 脚だけではなく、腕も、肩も、背中も。何もかもが、自分のものではないように感じた。自分がまるで、操り人形になったようだった。
 自分ではない誰かに動かされるまま、リリは夜の森の中を歩いた。
 そんなリリの目の前に、あの湖は現れた。
 月明かりに白く輝く湖面は美しかった。そして、風にそよぐ湖面は穏やかな音を立て、リリを誘っていた。
 吸い寄せられるように、リリは湖へ歩く。
 水をすくうと、それはとても澄んでいた。
 ここに入ろう、とリリはごく自然に思った。
 もう自分のものと感じられない、こんな体と頭。汚れきったこんなもの、私はもう、いらない。
 消えてしまえ。
 記憶も、体も何もかも、消えてしまえ。
 ふと、リリが視線を横に向けると、そこには両手で抱えられるくらいの石があった。
 そして、リリは首に男達が戯れにかけた荒縄がそのままあることにも、気がついた。
 リリは笑う。
 神様が、そうするようにお膳立てしてくれている。
 そんなことを、思った。

 *

 気付いた時には、リリは床に膝をついていた。
 嗚咽を漏らす彼女の目の前の床には、白く、べしゃべしゃしたものが広がっている。涙と一緒に、どうやら吐いてしまったらしい。
 最後に食べた食事と、溺れた時に胃にも入った水が混じり合ったものが、床を汚しても、ベッドの上の二人は、何も言わずにリリを見るだけだった。
「……ふざけて、ごめんなさい」
 二人はやはり、リリをじっと見るだけだった。
 ふふ、と自分の口からそんな音が出てくるのをリリは感じた。
 死ぬことは、あの時の自分に残された唯一の選択肢だった。
 そして、死を選んだ私は、別の男の身勝手な願いで蘇らせられた。
 あらためて、リリはあの男への憎しみを感じる。とどめを刺してしまえば良かった、そんなことを思っていると、当のサナルが彼女の元へ現れた。
 背後からした足音に振り向くと、そこには血の滲んだタオルを頭に当てたサナルがいた。
 リリはサナルを睨む。そんなリリを、サナルも見つめ返す。
 彼女の顔を見て驚いたような彼の顔に、済まなさそうな色が浮かび、かと思えば悲しそうに曇る。みるみるうちに表情が代わっていくサナルを、リリはただ、睨む。
「すまなかった」
 と、しばらくの沈黙のあと、サナルは言った。
「僕の身勝手な願いで、君を蘇らせたことは、本当にすまなかった」
「謝って済むこと?」
「君に殺されても、文句を言えないことは分かってる。それでも、僕は自分の研究を止める訳には、いかないんだ」
「どうして?」
「蘇らせたい、人がいる」
 そう、サナルははっきりと言った。
「その人の声をまた聞きたい、話したい……人でなし、とそしられたとしても、僕は彼女の笑った顔が、見たいんだ」
「そのためには、人の死体を好き勝手いじくって良いんだ?」
「……許されることじゃないことは分かってる」
「いくら悔やんで見せても、あなたのやってることは許されない」
 容赦なく言いながら、リリはサナルに詰め寄った。小さく息を呑み、サナルは彼女に尋ねた。
「……どうすれば、良い?」
「銃」
 サナルを、リリは笑いながら見た。
「護身用のくらい、あるでしょう?」
「待ってくれ、僕は」
「悔やんでるんでしょう? 申し訳なく思ってるんでしょう? だったら持ってきてよ」
「他に出来ることは何でもする、だからどうか」
「あなたに出来ることは、他にはないんだよ」
 それでもまだ何か言おうとするサナルを、リリは見る。
 目は奇妙な具合に見開かれ、もしかしたら血走っていたかもしれない。
 彼女に見つめられたサナルは、言葉を飲み込み、そして彼女の元から去って行った。
 戻ってきた彼の手には、大ぶりな、回転式の拳銃が握られていた。
 リリはそれに手を伸ばす。
 サナルの手はためらいがちに、それでもリリに、それを渡した。
 そして、リリは受けとった拳銃をサナルに向けた。
 銃なんて、触ったことはなかった。でも、首をくくる前の父親がしょっちゅういじる姿は見てきたし、なんとなく使い方は分かる。撃鉄、とかいうこの尻尾のような出っ張りを起こして、あとは引き金を引けば、この男は死ぬだろう。
 うっすらと笑うリリの前で、サナルは目を閉じた。
 そんな彼を見ながら、リリは引き金に力を込めようとした。
 でも、出来なかった。
 自分を弄んだこの男を、リリは憎みきることが出来なかった。
 自分の罪を悔い、謝ったから、ではなかった。
 彼が研究を止める訳にはいかない、と言ったときの酷く切実な表情。そして、蘇らせたい人がいる、と言った時の真っ直ぐな瞳。
 それを断つことは、リリには出来そうになかった。
 ……やっぱり、こうするしかないか。そう思って、リリは銃口を自分のこめかみに向けた。
「ま……」
 サナルは、酷く驚いた顔をする。
 そんな彼の前で、リリは引き金を引こうとした。
 ぎゅ、と拳銃を握る手に力をこめる。そして、引き金を引こうとした。
 ぱん、と火が咲けば、自分はあの死の無明にまた行ける。自分の体から心は消え、汚れた自分は、綺麗になる。
 このどうしようもない汚れから逃げるためにはこうするしかないんだ。
 そう思っても、リリは引き金を引けなかった。
 右手の人差し指は、引き金の前で震えるばかりだった。
 息が荒くなり、視界が涙で滲んでいくのは分かるものの、それでも銃が火を噴くことはなかった。
 そんなリリを、サナルは戸惑いながら、見つめていた。
 そして、彼は不意にその手をリリの右手に添える。
 彼女は彼の手を振りほどくことはなく、サナルが銃を取るのを止めることもなかった。
 撃鉄を戻したサナルは、思わず、ほ、とため息をついた。そして、リリの肩を抱く。
 彼女を抱きしめるサナルに、リリはもたれかかるしかなかった。


 そうするしかないと思って、リリは水の中に入った。
 夜風よりもさらに冷たい水は、最初、むしろ気持ちよく感じた。湖が優しく自分を包んでくれる、そんな気さえした。
「待ちなさい!」
 そう、誰かがリリに向かって叫んだとき、リリはうっすらと笑いさえした。
 ただ、そんな心境は肺に水が入ってきた瞬間に一変した。
 冷たい水は容赦なく口と気道を塞ぎ、その苦しみはさっきまで感じていた痛みよりも強く、リリを苛んだ。なんとかその苦しみを受け入れようとしたものの、気付けば彼女は、水の中でもがいていた。自分で縛った縄をほどいて、重石から逃れようとした。しかし体からは急速に力が抜け、意識もどこかへ、遠のいていった。
 そして、幕を下ろすように、意識は唐突に途切れた。
 リリは、どうしようもなく汚れた自分から、逃げたかった。その気持ちは今も変わりない。
 しかし、リリはもう、死にたくなかった。
 あの水の中、死を間近にして自分が死にたくない、生きたいと、望んでいることに彼女は気付いた。


 ……死にかけないと、そのことに気付かないなんて、なんて情けないんだろう。
 そんな苦い感慨と共に、リリは目覚めた。
 彼女は、ベッドに寝ていた。
 体を起こすと、左右に同じようなベッドが置かれている。
 多分、ここは人形達が寝ていたベッドだろうけど、彼等の姿は見えなかったし、それに窓の外は、いつの間にか夕暮れに染まっていた。
 ゆっくりと体を起こす。
 サナルもいなかったし、リリが床に吐いてしまったものも消えていた。
 そして、リリは、なんとも言えないおいしそうな匂いにも気がついた。
 何かを揚げたり、煮込んだりした匂いを嗅いだ途端、お腹がぐう、と呻くと、廊下の方から足音が近付いてきた。
 足音の主は部屋の前に立つと、律儀にノックをしてくる。どうぞ、とリリが答えると、燭台を持ったサナルが入ってきた。
 リリの顔を見て、彼は不器用に微笑んだ。
「気分はどうだい?」
「……良いと思う?」
「まあ、そうだよね……」
 そうして視線を逸らした彼だったけど、すぐに顔を上げ、無理矢理張り付けたような笑みを彼女に向けてきた。
「それはそうと、お腹減ってるだろう? 食事を用意したんだ。一緒にどうだい?」
 明るい笑顔と血の滲んだ包帯の取り合わせのサナルは、そう言った。
「死人に食事が必要なの?」
「確かに、君は一度死んだ。でも今は生きている。体には血液の代わりに霊媒液が流れているけど、食物を取り、水を飲まなければならないのは変わりない」
 ぐう。
 と、見計らったようにリリのお腹が鳴く。
 それを聞いて笑ったサナルだったけど、不意に顔を赤くした。
 そして目を逸らした彼は、そっぽを向いたまま言葉を続けた。
「中のクローゼットに女性用の服が入ってる。多分、サイズは合うと思う……まずはとにかく、それを着て欲しい」
 そう言われて、リリは自分がタオルを巻いただけの格好だということを思い出した。
 既にサナルはそそくさと部屋から立ち去っていて、リリは一人、顔を赤くした。
 全くもう、と思いながら、リリはベッドから起き上がった。
 自分に霊媒液、とやらを入れた時はしっかり裸を見ただろうし、このベッドに寝かせる時に着替えさせてくれても良かったんじゃないか……まあ、それはそれで嫌だけど。
 そんなことを考えつつも、リリは傍のクローゼットを開け、中に入っていた服を取る。
 さきほど、自分をベッドから見てきた女性のものだろうか。手に取ったワンピースの丈は、確かにリリに合っているようだった……まあ、胸の辺りは結構余ってしまっていたけど。
 クローゼットの引き出しから肌着を取り出し、それを着ようとしたところで、リリは思う。
 あいつの言うとおりにして、良いんだろうか?
 自分の体の中を、あの男が入れたという液体が巡っていることを、リリは思う。
 ただ一方で、彼女は自分を抱いた彼の手を思い出した。
 それは温かく、優しかった。
 彼が自分や、あの人形達にしたことと、自分を抱きしめた手。
 憤りと不快さと、温かさ。それらを同時に感じるリリは、少し迷ったものの、結局、白のワンピースに袖を通した。


 廊下を進んだ先にあった食堂は、それなりに広かった。
 もしかしたら、貴族の別宅か何かだったのだろうか。ちょっとした晩餐会でも開けそうな食堂にいたのはサナルと三人の人形だけで、それは広い食堂にしては、寂しい感じがした。
 食堂の中央に据えられたテーブルの、向かって左側にはサナル達がいて、右側には誰も座っていない席が一つあった。
 三人の人形を、あらためて見る。
 一見すると普通の人間にしか見えない彼等だったけど、その顔にはやはり、人形のような無表情が張り付いている。
 リリを見たサナルは立ち上がる。
「口に合えば、良いんだけど」
 そう言って、サナルは向かい側の席をリリに示した。
 フライした魚と蒸した野菜の乗ったプレートに、牛乳ベースのスープ、そしてカゴに乗ったパン。
 それは、遠くからでも分かるくらいに美味しそうな匂いを立てていて、席に座るや否や、リリはナイフとフォークを握っていた。
 サナルの料理はなかなかの味だった。
 そう感じるのはどうしようもない空腹のせいなのか、彼の料理の腕が良いのか、そこまではリリには分からない。ただとにかく、料理はどれもおいしく、我に返った時には、目の前の料理はあらかたがなくなっていた。
 三人の人形達はまだナイフを動かしていて、一足先に食事を終えたリリを、サナルは笑い、そして黙ってパンのおかわりを目の前に置いてくれた。
「口にあったかな?」
「……見りゃ分かるでしょ」
 一度恥かいたんだから、あとはいくらかいても良い、という気分で、リリはパンにバターを塗った。
 そうしてパンのおかわりをかじっている内に、人形は食事を終え、サナルは食後のお茶を持ってきてくれた。
 彼の淹れてくれたお茶を、一口飲んでから、リリはおもむろに言った。
「ごめんなさい、殴ってしまって」
「殴られてもしょうがないことをしたと思う。気にすることはないよ」
 サナルの頭には、タオルの代わりに包帯が巻かれていた。血はもう止まっていたけど、その様は痛々しい。
 そんなサナルはしばらくためらったあと、ゆっくりと彼女に言う。
「落ち着くまで、ここにいないか?」
 彼の前に置かれたお茶のカップから、湯気がくるゆのを見ながら、リリはサナルの話を聞いた。
「今すぐにでも、こんな場所は出たいだろうけど、心と体を落ち着ける時間は必要だと思うんだ。まずはゆっくりして、色々なことを考えてから、外に出た方が良いと思う」
「それに」
 自分の口が、嫌な形に歪むのを、リリは感じた。
「せっかくの実験対象に、逃げられたくもないし」
 彼女の言葉を聞いた途端、サナルは、口を結び、気まずそうに視線を逸らす。
 少しだけ、暗い満足感を覚えながら、リリは言う。
「あなたが私を生き返らせたのは、私を救いたかったからじゃなく、実験のためだからね」
「……強制はしない。ただ、協力してくれれば、とてもありがたいことは確かだ」
「もう分かっているかもしれないけど、私はもう、死にたくない」
 冷め始めたお茶の残りを飲み干してから、リリは言葉を続けた。
「あの時は、どうしようもなく死にたかった、消えたかった……でも、死にかけたときになって死ぬことが苦しいことを知った。そして自分が生きたいと思っていることに気付いた。まあ、本当だったら遅かったんだけどね。
 意図はどうあれ、私を生き返らせてくれたあなたに、今は感謝してる。
 でも、あなたのやってることをどうしようもなく気持ち悪く感じていることも、確かなの。どんな理由があっても、死体をいじくるなんてことは許されることじゃない」
 そしてリリは、お茶を淡々と飲む三人の人形を見た。
「彼等は、どうしたの?」
「……墓場を暴いたり、死体を買い取ったりしたんだ」
「……あなた、さっき言ったよね、蘇らせたい人がいる、って。その人のために研究をしてるって」
 どうしてか、自分の呼吸が早くなるのを感じながら、リリは言う。
「一体、誰なの?」
「僕が、唯一愛した女性だ」
 サナルがそう言うと、リリは目眩のようなものを感じた。
 動揺を顔に出さないようにした彼女に、サナルは気付いた様子もなく、言葉を続けた。
「自分の知的欲求ばかりを追い求め、一人だった僕に、人を愛することを教えてくれた。彼女とまた話せるなら、僕は悪魔にだって魂を売る」
「……素敵だね」
 わざとらしくため息をついて、リリは苦笑いを浮かべた。
「流行りの小説みたい」
「科学者の研究の動機は、案外ロマンチックなことが多いんだよ」
 少しだけ恥ずかしそうに、サナルは笑った。
 優しい、そんな表現がぴったりな彼の笑顔。これはその女性が作ったんだろうか、なんてことをリリは少しだけ思った。
「繰り返しになるけど、強制はしない。でも、協力してくれると、僕はとても嬉しい」
 なんとか笑顔を取り繕うと、リリは立ち上がる。
 長いテーブルを回り込み、彼の席へ行くと、彼女はそっと、手を差し出した。
「リーリア・マルカ」
 少しだけ、ぎこちなさを残した笑顔。
 それを顔に張り付け、彼女はサナルに言う。
「リリ、って呼んで。あんたに、協力してあげる。その代わり、生活の面倒はみてね」
 そう言ったリリに、サナルは、嬉しさを満面に浮かべて、手を握り返した。
 リリは、胸が微かにうずくのを感じていた。

   3

 死者蘇生の研究をしているのだから、当然と言うべきかもしれない。
 この家では、毎日、奇妙な習慣が繰り返される。
 さんさんと照る太陽のもと、三人の人形が並んでいた。
 その前にはサナルがいて、彼は人形の前で大きく両手を上げる。
 彼の動きを真似するように命じられていた人形達も同じく、両手を上げた。そこからサナルは手を振り回したり足を屈伸させたりと動き続けた。
 その様を、リリは少しだけ呆れながら日陰で見ていた。
 東洋伝来の健康体操、とサナルが言っていた体操は三〇分ほど続き、終わった頃には彼は汗みずくで、草の上で大きく息を吐いていた。
 ふらふらと立ち上がった彼が母屋の方に向かうと、まだ命令の解かれていない人形達も全く同じように動く。
 そのことに疲れ切ったサナルは全く気付かず、人形の一人がぬかるみに突っ込みそうになったところで、リリはサナルに声をかけた。


「あれって必要なことなの?」
「もちろん」
 リリの腕に巻いた血圧計を見ていたサナルは、聴診器を外してからそう言った。机の上の書類に測定した数値を書き付けながら、彼は言葉を続けた。
「バランスの取れた食事、良質な睡眠、適度な運動。
 人の健康を維持するためにはどれも必要不可欠なことだ。体に霊媒液が流れていても、肉体の組成が多少変わっていても、それは同じことさ」
「実験材料に対して、お優しいことで」
「僕の身勝手で蘇らせたのだから、健康維持に責任を持つのは当然のことさ。
 はい、胸を見せて」
 サナルは聴診器をかけ直して、何でもないようにそう言った。
 ……研究の一環として行われる身体測定をするのは、もう何度目かになるけど、リリは全然慣れない。
 男に肌を見せるのも、同年代と比べれば貧相と言われてもしょうがない体を見せるのも恥ずかしい。
 でも見る側のサナルはと言えば、普段ならリリが靴下を変えるところを見ても顔を赤くするくせに、こうして心音を聞くのに彼女の胸に聴診器を当てる時には顔色一つ変えないのだ。
 今の自分は、彼にとって実験対象でしかない。
 そのことに少しばかりイライラしつつ、リリはシャツのボタンを外し、おら、と彼に起伏の乏しい胸を突きつけた。
 そこに、冷たい聴診器をそっと当てるサナルはやはり、真剣そのもの。
 憤りつつも、リリが少し顔を赤くしていることに、サナルはやはり気付かなかった。
 ……そんな具合に、彼女の心臓の音、肺の音を聞いて、その所見を用紙に書いてから、サナルは聴診器を外して机に置いた。
「じゃあ次は体力測定といこう」
 シャツのボタンを止めてから、リリはサナルに言われるまま、部屋の隅に置かれた重りに向かった。
 体力測定に使われる重りは、酷く原始的な代物だった。
 重量が白いペンキで書かれた真四角の重りには本体と同じ鋼鉄で出来た取っ手が付けられた無骨なものだった。それは二つ並んでいて、只でさえ無骨で無愛想な印象が倍になっている。
「リリ、頼む」
 サナルはそう言って、彼女がその、冗談みたいな代物を握るのを待った。
 リリはこれ見よがしにため息をついた。
 本当は、こんなものを握るのも嫌だし、それを人に見られるのも嫌だった。
 ただまあ、やっぱりと言うべきか。真剣な目で見つめるサナルが、そんな彼女の気持ちに気付くはずはない。
 見せつけるためにため息をついてみても、サナルの顔色が変わらないことにもう一度ため息をついてから、リリは二つの重りの真ん中に立つ。
 膝を曲げ、両手でそれぞれの取っ手を握ると、よいしょ、と言って体を起こす。
 ……本当は軽々と出来てしまうが、なるだけ重そうに起き上がる。
 それを見て、サナルはうんうん頷きながら結果を用紙に書き付けた。
「結果は三日前に計測した時と同じか。君くらいの体格の女性では、驚異的な結果だ。やってる感じは、前と比べてどうだい?」
「えっと、そんなに変わらない、かな」
 驚異的な結果、という言葉に少しショックを受けつつ、リリは答える。
「前よりも簡単に感じないか?」
「いや、そんなことないよ」
 本当は前より軽々と出来てしまうが、そんなことは言えなかった。
 うーん、とサナルは言う。
「ここにある重りは一番重くてそれだからなぁ……十分な計測が出来ないのは残念だ。やはり、別の重りを買うしかないか……」
「ちょっと待ってサナル」
 リリはたまらず、彼に言う。
「あんたが実験にあんまりにも集中してるから言わなかったけど、ちょっとそれはやだ」
「どうしてだい? 正確な計測をしなければ変化が追えないじゃないか」
「実験的にはそうかもしれないけど、女の子的にはあんまり力持ちって見られるのは嫌なの」
「そういうものかい」
「そういうものよ」
 彼女さんから言われなかったの、と続けようとして、リリは口をつぐんだ。
 もしかしたら、彼を傷つけることになるかもしれなかったし、却って自分が傷つきそうだったからだ。
 代わりにまたため息をついてから、リリは自分の腕を見る。
 つるりとした細い腕。それは湖に身を投げる前と全く変わりない。
「ていうか、何であたしはいきなり力持ちになっちゃってるの。やっぱり……」
「まず間違いなく、霊媒液の影響だろう」
「何で? 別に腕が太くなったり体重が増えた訳でもないのに」
「霊媒液は死んだ細胞を再生すると共に、どうやらその組成も変化させるらしいんだ。
 筋力の著しい向上はアントン達の観察でも推測された。ただ、意思疎通が出来ない彼等では十分な計測が出来なかったんだ。
 君のおかげで、霊媒液が肉体にどんな影響を及ぼすのか、その変化は経時的にどのようなものなのか……様々なことが追えそうだ」
 そう、抑えてはいるものの、興奮している様子のサナルに、リリはまた、ため息をつきそうになった。


 霊媒液、とサナルが名付けた、死者を蘇らせるいかれた液体は、彼の屋敷の近くの地下水脈で見つかったらしい。
 他の地下水とは明らかに違う質感のそれに、死んだ動物や虫が落ちると、たちまち再び動き出すようになった。ただ一方で、生きてるものがそれに浸ろうが飲もうが全く変化はない。
 いくら調べても組成はただの水と変わりなく、どんな成分が死者を蘇らせるのかは全く不明。死者蘇生以外にどんな作用があるかも、まだ十分に分かっていない。
「そんなものをうら若い女性の体に注入する神経が理解できないわ」
 ねえ? と、リリはテーブルの向かい側に腰かけた女性に声をかけた。
 リリより少し年上の美女は、そんな問いかけに眉一つ動かさなかった。
 話しかけてきたリリをじっと見つめるその顔は、やはり人形のような無表情のまま。
 それでもリリは構わずに、言葉を続ける。
「そりゃ、生き返らせてくれたことは今では感謝してるよ? それに、こうして生活の面倒を見てくれることだって……でも、霊媒液のせいで自分がどう変わっていくかは正直、恐い。そこら辺、どうなのベルタ?」
 中年男のアントンに続いて、二番目に霊媒液を注入されたのがこの女性、ベルタだった。
 よく晴れた空のもと、健康を保つための日光浴、ということで外に出されたベルタは、やはりリリを見つめるだけだった。
「あなたはやっぱり、恐いとか、不安とか、そういう感情もないの?」
 テーブルに頬杖をつきながら、リリは言葉を続ける。
「その方が、逆に良いのかな……あたしは最近、色々考えちゃって苦しいよ。こんな力持ちになって、普通の人間として生きていけるのか、とか、この変化がもっと続くなら、その内、角とか生えてこないか、とかさ……まあ、あなたを見る感じ、そんなことはなさそうだけど。
 それと……」
 ふと、テーブルに視線を落としてから、リリはぽつり、と呟いた。
「計測のとき、あいつが私を、観察対象としか見ないのが、どうにも、傷つくんだ」
 そう言ってから、リリはベルタを見た。
 酷く透明な彼女の瞳はやっぱり、リリを見るだけだった。
 ……何、子供みたいなこと言ってんだろう、と、リリは苦笑いを浮かべる。
「ごめんね、変なことばっかり言って」
 そう言うとリリは立ち上がり、大きく伸びをした。
 太陽の具合から見て、今の時間はだいたい三時過ぎくらいだろう。
 サナルは、研究のために霊媒液が湧いている場所に行っている。霊媒液の源泉を探るため、とか言って掘削用の爆弾を持っていったけど、爆音が聞こえないところを見ると、上手い場所が見つからなかったみたいだ。
 もう少しすれば陽も陰り、サナルも帰ってくるはずで、その前に人形達の日光浴も終わらせないといけない。
 庭の片隅に立ったアントンや、木陰で佇む子供(ちなみに、名前はクローデルという)に声をかけようと視線を巡らしたリリは、不意に、それに気付いた。
 庭に何本か植えられた木。その枝の合間を縫うように、黒色の線が通っていた。
 電線だ、とリリは驚く。
 電気は街でも普及し始めたのは最近のことで、こんな森の中に引くのにはかなりのお金がかかっただろう。
 しかし、電気で動くものなんて屋敷の中ではほとんど見かけない。照明はオイルランプやロウソクだし、暖房は薪や石炭を使っているのに、と思ったところで、リリは霊媒液を保管したり、生物に注入する機械は電気で動いていたことを思い出した。
 働いている風ではないのに、どこからお金が出てるんだろう、と思いながら、リリは三人の人形を屋敷の中に戻した。


 三人をベッドで休ませ、しばらく待ってもサナルは帰ってこなかった。
 暇つぶしに刺繍でも、と思ってやってみるものの、早速指に針を刺して早々にやめた。
 散歩でもしようか、とも思ったものの、空は既に夕暮れ色に染まっていてリリは灯りを点けに回りがてら、屋敷の中を探検することにした。
 この屋敷に住み始めてもう一月近く経っていたものの、その全容は未だによく分かっていなかった。中はまるで迷路のように入り組んでいて、下手に迷えば本当に抜け出せなくなるかもしれないくらいだ。
 慎重に道を確認しながら屋敷の中を進むリリは、ふと、天井を電線が通っていることに気がついた。
 そしてその線を辿り始めたのは、電気が何に使われているかに興味があったから、ではなかった。
 電線のとおりに歩けば、迷わずに屋敷の探検が出来る、もし道順が分からなくなっても電線を辿れば良いのだから。
 子供の頃に読んだ昔話に同じような話があったような、なかったような。そんなことを思いつつ、リリは何ともなしに歩き始めた。
 そうして電線を辿る中で、リリは屋敷の電気設備が、酷く凝ったモノだということに気付いた。
 電線は巨大な蓄電池や、発電機にも繋がっていた。街で生活していたとき、近所に住んでいた電気屋から、それが停電に備えたものだということを聞いていたリリは、疑問に思う。霊媒液を注入する機械に使うくらいなら、ここまで大がかりな設備が本当に必要だろうか?
 線を辿っていくと、その疑問の答えは、さほど経たずに彼女の前に現れた。
 それは、屋敷の中でも、最も奥まった場所にあった。そこに至る道順はそれまでのものよりもさらに入り組み、まるで人目から隠しているかのようでさえあった。
 それまでリリが辿っていた電線、そして蓄電池や発電機の線の全てがそこに繋がっている。何本もの電線がそこに至る様は、まるで蔓が木にまとわりつく様を思わせたけど、電線が行き着くそこは、木ではなく、分厚い金属で出来ていた。
 それは巨大な扉だった。
 高さも幅も、他の扉よりも一回り大きなそれは、まるで立ち塞がるように、そこにあった。見るからに重そうな扉は、取っ手まで鈍色の金属で出来ていた。
 取っ手を握り、開けてみようとする。しん、と冷たいそれは鍵がかかっていた。その上、カギ穴の形は酷く凝っていて、たとえ腕利きの泥棒でも開けるのは難しそうだった。
 この中には、サナルにとって大切で、そして見られては困るものがある。
 その心当たりは、リリには一つしかなかった。
 ……詳しく聞くことはなかったけど、サナルが死者蘇生の研究を始めたのは、かつての恋人のためだと言っていた。
 少なくとも、彼女が亡くなったのはリリや、アントン達を蘇らせる前のことになる。
 リリはそっと、扉に顔を近付ける。
 金属の扉は無表情にそびえるだけだったものの、扉と壁の境目に耳を近付けると、中からは何かの機械が作動するような、重低音が聞こえてきた。
 この中で、彼の大切な人が眠っているんだろうか。
 彼の研究が実を結び、死者が完全な復活を遂げられるようになるその時を、この中の女性は待ち続けている。
 いや、サナルが待たせ続けている、というのが正確だろう。
 彼女がどんな人なのか、今際に何を望んだのかは知らないけど、サナルが今しているように、血眼になって蘇らせてほしいとは思わないんじゃないだろうか。
 そんなことを、リリは思った。

   4

 温かく、柔らかかった手は、見る影もなくなっていた。
 まるで紙のように白く、細くなってしまった指を、彼はそっと握る。本当は感情に動かされるまま、ぎゅ、と握りしめたかったのだが、そうすれば折れてしまいそうだった。
 ベッドに眠る彼女はその時、ふと目を開ける。
 彼の顔に、笑顔が咲いた。
 最近の彼女は、一日の大方を眠って過ごすようになっていて、彼女の目を見るだけでも、彼には嬉しいことだった。
 ……もしかしたら、奇跡が起こって彼女の病魔が弱まり、快方に向かっているかもしれない、目を開ける時間が少しでも増えるのは、そのきざしだ……そんな期待を、彼が抱いているせいでもあった。
 そんなことが、ほとんど夢想に近いものだということは、彼自身、分かっていた。
 手と同じく、彼女の顔はほとんど色を失っていた。以前はとても印象的で美しかった鳶色の瞳は、その力を失い、開けているのも大変なのか、その瞳はわずかに開いたと思えば、すぐに閉じられてしまった。
「大丈夫」
 彼女の手を握りながら、彼は言う。
「大丈夫だよ。今にきっとよくなる」
 言いながら、この言葉を誰に言っているのか、彼自身、分からなくなる。
 ……いいや、分かっていた。彼は自分自身に、言っていた。
「東洋の医学書を手に入れたんだ。こちらとは学術体系、人間の体の捉え方が全く違って、なかなか面白い……こちらの医学では、君の病の直し方はよく分からないけど、東洋医学から捉え直せば、回復に向かうかもしれない。
 元気になったら、また前みたいに旅行に行こう。色々な人に会って、色々な音楽を聞き、美味しいものをたくさん食べよう……そのために、一緒に頑張ろう」
 目を僅かに開けるだけの彼女に、その言葉が届いているかは分からない。それでも、彼にとってはどちらでも良かった。折れそうになっていた彼は、そう言うことでかろうじて自分を支えていた。
 その時不意に、彼女の口が動いた。
 微かに言葉を紡いでいるらしいことに気付いた彼は、慌てて、彼女の口に耳を寄せる。
「なんだい? どうしたんだい?」
 近付いても聞き取れない彼女の声を促そうと、彼はそう言う。
 そして彼は、彼女がかすれた、小さな声で確かにこう言ったのを聞く。

「死なせて」


 目覚めたとき、サナルは全身に汗をかいていた。
 呼吸も荒く、起き上がったベッドの上で彼はしばらくの間、動くことが出来なかった。
 頭の中を駆け巡る、悪夢の余韻。
 呼吸に集中することでそれを拭い去ろうとするものの、彼はしばらく、ベッドから出ることが出来なかった。


 リリの白い肌に、注射針を刺す。
 注射器のコックを引くと、ガラス製の容器に赤い液体が満ちていく。
 体に満ちた霊媒液は、文字どおり血液に成り代わる。容器で保管されているときは無色透明のくせに、死体に入ってしばらくすると、それは血液のような赤色に変わる。見た目だけでなく、組成も血液と同じようになり、その人の生命活動を支えるものとなる。その変化は体内に入る前と後では全く違う物質になった、とさえ言えるほどだ。
 注入された体も、霊媒液に応じて変化する。
 それまで血液を産生していた脊髄では、その代わりに霊媒液を産みだすようになり、筋肉や臓器も、霊媒液の作用によって強化される。
 霊媒液、とサナルが名付けた物質は、その作用の一つが分かるごとに、別に十の謎が生まれていく。だからこそ研究のしがいがある、と言えるのだけど、その解明は果たしていつ終わりが来るのか、先が見えなかった。
 いつになったら彼女の笑顔がまた見えるだろう。そう思い、途方にくれそうになることがあるのも、確かだった。
「サナル」
 そう自分を呼ぶ声に、彼はふと、我に返った。
 心配そうな顔のリリに、彼は微笑を繕った。
「ごめん、ちょっと考え事をしていた」
「疲れてない? 顔色が悪いみたいだけど……」
「ありがとう。君のおかげで色々なことが分かって、ちょっと研究に熱中し過ぎていたかもしれない」
「よく寝た方が良いよ」
「ああ、でも自分が好きでやってることだから、大丈夫だよ」
 そう笑顔で言って、それ以上の彼女の言葉を無理矢理止める。
 今のリリは、体内で霊媒液を産出し、肉体の組成も普通の人間とはかけ離れている。ただそれは、彼女は人間でない、ということでは決して無い。たとえ常人を遙かに超えた筋力を持つとしても、彼女は人を思いやり、そして笑う……そうすることが出来れば、それは人と言えるじゃないか。
 霊媒液の力で彼女を蘇らせても、彼女は彼女のままなんだ。
「サナル」
 何か言いたそうで、それでも言えない様子だったリリは、ふと、そう声をかけてきた。
「何?」
「……屋敷の奥の部屋を見た」
 ……リリの口調で、彼女がその中にあるものの見当が付いていることは、確かめなくても分かった。
「そうか」
 サナルは机の上の用紙に文字を書き付けながら何でもないようにそう言った。
「……死後すぐに霊媒液を注入しないと、意思や思考は蘇らない」
 リリの言葉に、サナルの手が止まる。
「彼女は、いつ亡くなったの? いくら研究しても、あなたの望むようには……」
「現時点では確かに、君の言うとおりだ」
 サナルが向き直ると、リリは少し怯えたような顔をした。
 それに気付いたサナルは、慌てて微笑みを取り繕うものの、それはあまり成功しているとは言えなかった。
 隠しようのない苛立ちを浮かべたまま、彼は言葉を続ける。
「ただ、君が意思や思考を持って蘇生した理由は、死んだ直後に霊媒液を注入したからじゃないかもしれない。解析を続けなければ確実なことは言えないけど、もしかしたら別の理由からかもしれない。
 それに、科学はそれまで不可能と言われていたものを可能にするためのものだ。仮に、死んだ直後でなければダメだったとしても、君が意思や思考を持ち得た仕組みを解明していけば、いくら死後に時間が経っていても、意思や思考を持ったままの蘇生が可能になるはず。僕はそう確信しているんだ」
 一息でそう言ってから、サナルはリリを見る。
 気圧された様子をしていた彼女は、サナルが言葉を言い終えると、視線を逸らした。
 何かを考えるような、話すのをためらうような、そんな風だったリリは、不意に顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめてきた。
「彼女は、それを望んだの?」

 死なせて

 今朝の悪夢が、サナルの脳裏に蘇った。
「……私は、どうしようもなく酷い目に遭って、あの湖に身を投げた。本当は死にたくなかったけど、その時の私には他にどうしようもなかったの……最初は気味悪く感じたけど、あなたが生き返らせてくれて、今は感謝してる。でも、その人は、それを望んだのかな、って思うんだ。
 あなたのことを、心から思っていた人は、あなたが墓を暴いたり、大変な思いをしたりしてまで、自分が生き返ることを、望むのかな」
「君に、何が分かる」
「……本当のところは、分からない。でも、一度死を選んだ私が、彼女のことを想像したら、そう思っただけ」
「君に何が分かるというんだ!?」
 サナルは手を、机に思い切り叩きつけた。
 リリが震えるのを構いもせず、彼は彼女を睨んだ。
「彼女は僕にとって、唯一の支えだったんだ! 学問のことしか頭にない、人間に興味がない、そう回りから言われ続けた僕を、彼女だけは受け入れてくれた! そんな彼女を失った僕の気持ちが分かるか?
 ……ああ、君の言うとおりかもしれない。こうまでして死体から蘇ることを彼女は望んでいないかもしれない。でも僕には他にしようがない。
 彼女がいなければ、僕は一人なんだ」
「あなたは、一人じゃない」
 リリは泣いていた。
 彼女から、サナルは目を逸らす。
「彼女の代わりにはなれないかもしれないけど、私はあなたを、一人にはしないよ」
「君は、彼女じゃない」
 サナルはリリから顔をそらし、そして絞り出すように、言った。
「君じゃ、駄目なんだ」


 リリが実験室を出て行ったあと、サナルは椅子に腰かけたまま、頭を抱えた。
 端的に言って、最悪の気分だった。何をするべきなのか、するべきでなかったのか。全く分からなかった。
 彼女に、言われるまでもなかった。
 自分の研究が、いかに儚い希望の上に成り立っているか、そして、自分のしていることを、彼女が望むのか。仮に彼女が蘇ったとき、彼にありがとう、と言うか。また自分に笑いかけてくれるのか。
 その疑いは、リリに言われるまでもなく、彼の中にあった。それでも彼はそれを無視した。
 彼女を失った悲しみから、逃げたかったのかもしれない、とサナルは思う。
 喪失感で、ばらばらに砕けてしまいそうな自分は、彼女が生き返るかもしれないという希望に、すがるしかなかったのかもしれない。
 要は、図星を刺されて怒っているだけか。
 そのことに気付いても、怒りと苛立ちの混ざった感情はどこにもいかず、持て余したそれにさらに苛立ちを募らせていたそのとき、馬のいななきが耳に入ってきた。
 納屋につないだ馬のいななきにしては、それは妙にはっきりと聞こえた。
 不思議に思いながらサナルはそれが聞こえてきた玄関の方へ行く。
 扉を開けると、そこにはそれぞれ馬に乗った二人の男がいた。
 見るからに、ガラの悪い二人組だった。
 無精ヒゲの浮いた、荒々しい顔立ちとは裏腹に上等な服装、見せつけるような派手な意匠のブーツ、そして、腰に差した不必要に大きな銃。
「どなたですか?」
 サナルが出てきたのを見た二人は、そろって睨み付けるような視線を向けてくる。
「サナル・シュタイン博士で?」
「博士、というほどのものではありませんが、私はシュタインです」
 そう答えると、男達は互いに視線を交わし、そして揃って、媚びるような笑みを浮かべてきた。
 怪しい二人をじっと見るサナルの前で、男達は馬から降りた。
 二人の内、年かさの方がにっこりと笑みを深めた。
「突然失礼しました。あっしはコレン。こっちはバルと申します。先生にお願いしたいことがあって伺いました」
「どのようなことです?」
「先生は、死人を蘇らせる研究をされてるとか」
 サナルは何も答えない。
 そんなサナルから視線を離さないまま、コレンと名乗った男は言葉を続けた。
「先生の研究に興味を覚えた御仁がいらっしゃいましてね。その方とお話をしてもらいたく、あっしらはお迎えに上がったんですよ」
「それは、妙なことに興味を持つ方がいらっしゃるんですね」
「趣味は人の数ほどありますからね。あっしらみたいな下っ端じゃあ、細かいことは知りませんが……まあひとまず、ご一緒して下さいませんか?」
 サナルは、にったり笑う男を黙ったままじっと見つめる。
 そして、彼は笑顔を浮かべた。
 ははは、とさも愉快そうなサナルの笑い声が屋敷の庭に響き渡り、コレンとバルは互いの顔を見合わせた。
「いや、失礼」
 先ほどとは打って変わった笑い声に戸惑う二人に、サナルはそう詫びた。
「冗談と思ってしまって……」
「冗談?」
「死者の蘇生の話ですよ」
 おおらかな笑みを浮かべたまま、サナルは話を続ける。
「一度死んだ人間を蘇らせるなんて、出来るはずがないでしょう? もしかしたら、そんなことを追求する人も中にはいるかもしれませんが、少なくとも私は知りません」
「では、先生は……」
「そんな研究はしていません。確かに昔、生物、医学の研究でいくつか衆目を集めたことはありますが、死者を蘇らせるなんてことは考えたこともありません。その方は、何か勘違いをされたんでしょう」
 そう言って笑いかけると、コレンという男は、ははあ、と頷いた。
「まあ、そりゃそうでしょうなぁ、死者蘇生なんてねえ」
「ええ、わざわざご足労頂いて申し訳ありませんが……」
「じゃあ、ちょっとお茶でもごちそうして頂けませんか?」
「……すみません。今お茶の用意は家になくて」
「いえいえ、そう言わず」
「本当に、申し訳ありませんが」
「あっしらに、見られて困るものでもあるんですか」
 それまで、何とか愛想を保っていたサナルの顔は、コレンの言葉で微かに強ばった。
 そんなサナルを見て、楽しむような笑みを浮かべたあと、コレンは腰の銃を抜いた。
「下手な芝居はもう仕舞いにしましょうや」
 コレンに続いて、バルという男も銃を抜く。
 後ずさるように動いたサナルに、動くな、とでも言うように銃口を向けつつ、バルはサナルに近付いてきた。
「調べはついてるんですよ。以前、女の死体を娼館から買ったでしょう? で、死んだはずのそいつと瓜二つの女が、ここで生きていて、お人形さんよろしく先生と体操したり、飯を食ったりしてる」
「よく、調べたものだね」
 バルという男に縛られながら、サナルは言った。平静を保とうとしながら苛立ちが隠せていないその声に、コレンは満足そうに笑みを深めた。
「あっしらはまあ、学のねえゴロツキですがバカじゃない。いくら報酬が良いからって、妙な話にほいほいと飛びつく訳はありません。ちゃんと裏を取った上で動きます。それが私らの一家なんでさ。
 死者蘇生の研究をしてる科学者を連れてこい……これ以上、変な話はありませんわ」
 と、得意げに話すコレンは、バルがサナルを縛り終えるのを見ると、小さく頷いた。
 そして、屋敷の庭をぐるり、と見まわした。
「ところで先生、女がここにお邪魔してるでしょう? どこに隠したんです?」
「何のことだ?」
「とぼけたって無駄ですよ先生。ちょいと前に、あたしらが監視を始めた時には既にいた。ちゃんと遠くから見てたんです。若くて、髪の短い、小柄な女ですよ。名前は何だったか……おい、バル?」
「知らない」
 後ろ手にサナルを縛り、その背中に銃を突きつけたまま、バルはそう答えた。
「フランキの兄貴は、名前までは言ってなかった。そもそも、兄貴も知らなかったかもしれない」
「そうか。まあとにかく、最近ここであんたと楽しく生活してた女です。あいつはどこです?」
「分からない……彼女がどうしたんだ」
「いや、何」
 そしてコレンの顔に、さきほどとは別の種類の笑みが浮かぶ。
 喜びと、嫌らしさに満ちた笑みだった。
 下劣、そんな形容詞がこれ以上ないほど似合う笑顔のまま、コレンは話し続けた。
「ちょっと前に、女にしてやった奴なんですよ。
 まあ、あっしらがいたしたのは、女になった後のことですがね。女にしたのはフランキってえ、あっしらの兄貴だったんですが。なあ?」
 コレンはそう言って、バルを見る。
「そう」
 それまで無愛想な顔をしていたバルだったが、コレンの言葉に口元を歪ませる。
「あれは、なかなか愉快だった」
 サナルは、そう言ったバルを見る。
 後ろ手に縛られ、背中には銃を突きつけられていたものの、その時のサナルは気にしていなかった。
 じっと向けられたサナルの目に、それまでいやらしい笑顔を浮かべていたバルは思わずたじろいだ。
「……君達か」
 サナルは、絞り出すようにそう言った。
 様子の変わったサナルの背中に、バルは銃口を押しつける。しかしサナルはそれに構わず、声を張り上げた。
「彼女を追い詰めたのは君達か!」
「先生、落ち着いてくだせえ」
 下手なことを言ってしまったことに気がついたコレンは、慌ててサナルをなだめにかかった。
「たかが女のことじゃねえですか……たまたま遊んだ女がここに邪魔してるのを見て、ちょっとお話しただけで……誓いますが、あの女には、これ以上、何もしません」
「……君達にとっては、遊びだったんだな」
 サナルはコレンに詰め寄る。
 バルは縛ったサナルの手を掴み、そして銃を突きつけられていることを思い出させようと銃をその背中に押しつけるものの、華奢な体格からは想像もつかない力で、サナルは動き続けた。
「君らはそれくらいのつもりでも、彼女は深く傷ついたんだ……それこそ、死を選ぶほどに。君達は、人でなしだ」
 そして、そんな辛い境遇の彼女を弄んだ僕も。
 この男達、そして自分への怒りで一杯になったサナルは、叫ぶ。
「君達なんかの言うとおりになるものか、僕を連れて行きたければ殺してからにしろ!」
「まあまあまあ! 変なこと言って怒らせちまったのはお詫びしますから先生! 落ち着いてくだせえ! おいバル! ちゃんと押さえろこのバカ!」
「大人しくしろ、この……」
 気絶させよう、とでも思ったのか、バルはサナルの首に太い腕を巻き付けようとした。
 そのとき、サナルは脚を後ろに思い切り蹴り上げた。やぶれかぶれの一撃だったものの、それは偶然、バルの股間に突き刺さった。
 たまらずバルは手を離す。自由になったサナルは屋敷に向かって駆けだした。
 そんな彼に向かってコレンは止まるよう叫び、痛みに呻きながらバルは、銃口をその背中に向けた。

 *

 森の中に、遠雷のような音が響いた。
 その音が聞こえてきたとき、リリは新緑を茂らせたブナの木の下で泣いていた。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、耳に入ってきたその音が銃声だと気付くのに、少し時間がかかる。
 こんな森の中でどうして、と思ったものの、それは聞き間違いようがなかった。
 仕事にかかりきりで家庭を顧みず、外に女まで作った父親が事業の失敗で首をくくり、一文無しになったリリは貧民街に落ちぶれた。
 そこでの日常には暴力が必ずと言って良いほどついてまわり、家の周りでは毎週のように銃声が響いていた。
 あの頃に聞いていたものと同じ銃声は、屋敷の方から聞こえてきた。
 反射的に、そちらに向かって歩き出したものの、二、三歩歩いたところで彼女は脚を止めた。
 どんな顔で、彼に会えば良いんだろう。
 そんなことを思ったリリだったものの、止まっていたのはほんの短い時間で、彼女はすぐに歩き出した。
 銃声が響くなんて、ただ事じゃない。
 あいつに自分がどう想われているのか、今は、気にしてるときじゃない。
 そう自分に言い聞かせ、リリは森の中の道を屋敷に向かって歩いた。
 屋敷から駆けだしたときには、かなり離れたつもりだったけど、思ったほど時間を経てずに屋敷の屋根が見えてきた。
 ため息をつきそうになったリリは、まだそこまで大変なことが起こったとは思っていなかった。
 せいぜい猪や、獣が迷い込んで、サナルが銃を持ち出した、くらいに考えていた。
「この、馬鹿野郎!」
 そう、聞き慣れない男の声が聞こえてきてようやく、リリは表情を強ばらせた。
 足音を立てないように、その声が聞こえてきた方向……屋敷の表玄関に急ぐ。
「そのデカい図体は何のためにある? ……ああ、そうだな、忘れてた俺が悪かったよ! てめえは図体だけで脳みそ空っぽのバカだってことを忘れてた俺がもぉっとバカだった!」
「この野郎、暴れやがったから……」
「だったらせめて脚を撃て! なんで腹を撃ちやがったこの畜生! もう助からねえぞ!」
 どうやら二人組らしい、男達の声。
 そいつらが話す言葉に不穏なものを感じながら、リリはそろそろと、屋敷の影から玄関に顔を出した。
 彼女の目にまず、二頭の馬が入ってきた。
「フランキの兄貴にどう申し開きしろって言うんだ! ……兄貴に殺される。バカのせいで俺は殺されるんだ!」
 視線を玄関の方に向けると、そこには顔を真っ赤にして叫ぶ男と、途方に暮れた表情でそれを聞く男。
 そして、横たわったサナルがいた。
「こいつ、死者蘇生の研究をしてるんだろ? 死んでから、それで生き返らせば……」
「おう、そりゃ名案だバル! ついでにこいつがどう死人を蘇らせてるのか教えてくれ!」
「あの女なら、やり方を知ってるんじゃ……」
「そりゃまた名案だ! 天才かお前! 
 じゃあついでに教えてくれ! その女はどこにいる? さっきの銃声で女は離れないか? そもそもあれを手ひどく犯した俺達に親切にその方法を教えてくれるかぁ? ……何か言いやがれこのボケ!」
 リリは、屋敷から身を乗り出す。
 サナルはまだ、生きていた。
 その顔は既に土気色で、肩で小刻みに呼吸をしていたものの、目は開き、空を見ているようだった。血の流れ続ける腹を手で押さえていた彼は、リリの姿にすぐに気付く。
 そして、弱々しく笑った。
 そこで、年かさの男にまくしたてられていた方の男は、彼女に気付いた。
「おい」
 そう言い、彼女を指さした男を、リリはゆっくりと見る。
 その顔を見た途端、彼女の脳裏に、あの夜が蘇った。
 馬車の荷台。首に繋がれた縄。青い光を背に立ったまま、苦しがる彼女にはお構いなしに、彼女を引く男。
 倒れたサナルの傍で途方にくれる男は、彼女の首を戯れに引いた男だった。
 そして、その男の手には、銃が握られていた。そこから立ち上る煙の臭いを嗅いだ途端、リリの理性は、吹き飛んだ。
 地面を蹴る。
 次の瞬間、リリの体は男に突き刺さる。男の胴にめり込んだ膝から、めきめきと、嫌な音が聞こえてきた。
 男とリリはそのまま、宙を飛び、体三つ分は離れたところで地面に落ちる。自分の目の前で、男が口から血を吐く。怒りに駆られるまま、リリはその首を締めようとしたとき、背中のあたりに、嫌な感触が走った。
 ほとんど、動物のような勘で、リリは横に飛ぶ。
 次の瞬間、あの男の体に銃弾が突き刺さる。
 悲鳴を上げる男と、それを見て茫然となるもう一人の男。銃を放ったその男に、リリは飛びかかった。
 飛んでくるリリに男は気付いたものの、その時には既に遅かった。
 男が引き金を引く前に、リリは銃を持った手を握っていた。そして、指ごと、拳銃を握り潰した。
 獣のような叫び声を、その年かさの男は上げた。
 男の叫びは耳障りで、感じていた憎しみがより強まる。リリはその男の顔に拳を打ち込んだ。
 めきり、と拳に嫌な感触が走る。男の頬骨が、砕けたらしい。男に馬乗りになり、黙ったまま、リリは男に再び拳を下ろす。
 二発目は男の目の辺りに当たり、手に骨が折れ、何かゼリーのようなものが潰れたような感触が走った。
 その気持ちの悪さにはっとしてリリが手を離すと、男の眼窩から、眼球がどろり、と垂れた。
 その様に、思わずリリは息を呑む。そして、男はそれを、見逃さなかった。
「あんた……あの時の嬢ちゃんか?」
 男は無事な方の目で、リリを見てくる。
 眼窩からこぼれ落ちそうになる目と、それとは対照的に、自分を見据える目。それにひるむリリに畳みかけるように、男は言う。
「あの時はすまなかった。許してくれ……俺も、あんなことはしたくなかったんだ」
 顔の骨がいくつか砕け、男は喋りづらそうだった。しかしその声ははっきりとリリの耳に入ってきた。
「ただ、兄貴が命じたんだ。あんたを犯せ、って。ひでえ目に遭わされたガキがどんな感じになるか見てえって……。
 兄貴は、狂ってるんだ。兄貴の言っていた親父さんの借金の残りなんて、本当はなかったんだ」
 リリは思わず、息を呑む。
 男はそんなリリの様子に気付きつつ、口を動かし続けた。
「あの日、たまたま、兄貴はあんたを街中で見かけた。記憶力の良いフランキの兄貴は、あんたが以前、借金した野郎の娘だってことにすぐに気付いた。
 金持ちのお嬢さんから、貧乏人に落ちぶれたくせに、背筋真っ直ぐにして歩くあんたが、兄貴は気に入った。そして、壊したくなったんだ……そういういかれなんだ、兄貴は。
 ……あんな獣みたいなこと、俺達だってしたくなかった。でもそうしないと、俺は兄貴に殺されてた」
 男の話を、リリはただ、聞くことしか出来なかった。
 男は懇願する顔を崩さないまま、話を続ける。
「頼む、許されないってことは分かってるんだが、どうか助けてくれ。俺には嫁と、子供がいるんだ。俺が死んだらあいつらは路頭に迷っちまう。だから、どうか」
「リリッ!!」
 突然響いた声に、男とリリはびくり、と震えた。
「そいつの言葉に、耳を貸すなッ!」
 腹を撃たれたサナルは、そうリリに叫んでいた。
 リリは男を見る。
 男の折れていない左手が、腰の辺りに差し込まれていた。
 それまでの哀れな表情をかなぐり捨て、男は左手を引き抜いてリリに向けようとするものの、その前に、リリはその手を手首のあたりで握っていた。
 男の左手には、小型の銃が握られていた。
 リリは男を見る。
 憎々しげに、男は笑った。
 リリは男の手首を握りしめる。
 ぼきぼきと、骨が折れる音がした。
「ちっくしょうがああッ!」
 そう叫ぶと、男はさっきよりもさらに猛烈な勢いで話し始めた。
 懇願するような、哀れな風情はもうどこにもなかった。傲岸さと怒りを浮かべた男は、リリに向かってまくしたてた。
「てめえなんて力してやがる! 化け物か? 化け物だろうこのアバズレ! 俺の腕をこんなにしときながらタダで済むと思うんじゃねえぞこの雌豚よお!
 なんでこんな馬鹿力になりやがった? ああそうか、おめえ死んだのか? あれか、俺らに犯されたのを苦にして首でもくくったのか? んでそこの先生に蘇らせてもらったのか? 良かったなぁ化け物になれて! これで俺らを思うさまぶっ殺せる訳だ! にしてもだらしねえなあ、一片やられたくらいで死ぬたあよお? それにおめえ最後の方は結構良い感じに」
 男の喉を、リリは力任せに握りしめた。
 リリの手は男の喉を潰し、首の骨を砕く。
 首からごきり、と嫌な音を立てた男は、もう何も言うことなく、その瞳は宙を見つめるばかりになった。リリが手を離すと、支えを失った男の顔は横を向き、その口からは長い舌が地面へ垂れた。
 深く、息を吐いてから、リリは立ち上がる。
 そして、もう一人の男を見る。
 リリに内臓を潰され、仲間の銃弾で手足を砕かれながらも、男まだ、生きていた。
 その顔は、恐怖に歪みきっていた。リリを見て小刻みに震える男の股間は湿っていて、嫌な臭いがリリの鼻に入ってきた。
 リリは、男へ向かう。
「やめろ……」
 弱々しく叫ぶ男に、リリは止まることはない。「やめてくれ、頼むから」
 悲痛な男の声を聞いても、リリの心はもう、揺らぐことはなかった。
 ふと、リリは笑った。
 こうすると、男がどうなるのか、見てみたくなったのだ。
 血に汚れたリリの笑顔を見た男は、叫んだ。
 その絶叫を聞いたリリは、自分の笑みがより凄惨に深まったことに気付いた。


 サナルのケガは、もうどうしようもなかった。
 腹からの出血は止まることなく、顔色は悪くなるばかりだった。リリに出来ることは包帯を巻き、サナルの言うままに鎮静剤を注射するくらいだった。
「すまなかった」
 鎮静剤で痛みが薄れると、サナルはベッドに寝たまま、そう言った。
「何が?」
「君に、ひどいことを言ってしまった」
「……あんたはただ、私を振っただけだよ」
「君は……僕のことを?」
「……気付かなかったの?」
「……すまない、友人として、一緒にいてくれるという意味だと」
「……あんたらしいわ」
「……すまない」
「良いって、良いって」
 と、口では言うものの、リリは彼が死のうとしている今でも、彼に拒絶されたことに傷ついていた。そんなことをこんな時になっても気にしている自分を、心から嫌に思う。
 それでも、彼女はなんとか笑顔を彼に向けることが出来た。
「教えてサナル、手当は次に、どうしたら良い?」
「わがままだ、とは分かってるんだけど」
 弱々しく笑いながら、サナルは言う。
「手を、握ってくれないか」
 リリはそっと、サナルの手を取る。細く、力のないその手は、少しの力で容易く折れてしまいそうだった。
「死ぬのは、こうも苦しいことだったんだね」
「……うん」
「それを知らないまま、僕は君や、アントン達を弄んだんだ。僕は、やはりどうしようもない」
「そんなことないよ」
 少しだけ、リリは手に力を込めた。
「そんなことない。私は生きて、あなたに会えて良かった……あなたのおかげで、私はまた生きよう、と思えたんだ。
 あなたのしたことは、許されないことかもしれないけど、でもそんなことばかりじゃない。
 私は、あなたに会えて良かった」
 泣かないようにそう言うのが、リリは精一杯だった。
 サナルは、そっと、彼女の手を握り返す。
「僕も、君に会えて本当に良かった」
 サナルは天井を見たまま、そう言う。その瞳はリリに向けられることはなく、ただ白い天井を彷徨うばかりだった……もしかしたら、その目にはもう、何も見えていないのかもしれない。
「リリ、僕の胸元に、鍵がある……あの部屋の鍵だ。僕が死んだら、彼女を葬ってほしい」
「……分かった」
「アントン達を、頼む。意思や思考がなくても、彼等は生きている……君や、彼等を邪なことに使おうとする奴らがくるだろう。そいつらからどうか、守ってほしい」
「うん」
「それと、どうか、幸せに生きてくれ」
「……自信がないな」
 無茶言うなよ、と心の中で言いつつ、リリは笑う。
「私はもう、化け物なんだよ」
「君は人だ」
 サナルはそう、はっきりと言った。
「僕なんかに、こんなに優しくしてくれたんだから」

   5

 僕なんかに、こんなに優しくしてくれた。
 それがサナルの発した、最後の言葉になった。
 サナルの意識はそれから急速に混濁し、彼が口に出来たのは意味のないうわごとだけだった。そして、さほどしない内にそれも発しなくなり、サナルはそれから一時間もしない内に、息を引き取った。
 ……彼の声が聞きたい。笑った顔が見たい、思うさま話したい。
 彼の死に顔を見ながら、そう本気で思っている自分に、リリは気付かざるをえなかった。
 唯一愛したという人を失ったとき、彼も、同じ気持ちだったんだろう。
 そんな彼の気持ちを知らないまま、自分は一度、彼を殺しかけ、そしてサナルは、そんな自分の気持ちを、受け止めてくれた。
 彼と一緒に過ごした時間は、ほんの一月にも満たなかった。それでもサナルは自分にとって、とても大切な人になっていた。
 ……サナルから、死者の蘇らせ方、霊媒液の注入の仕方は教えられていた。彼女がその気になれば、彼の声は容易に聞くことが出来るようになる。
 ただリリは、そうすることはなかった。
 彼は、そうなることを望まない。考えるまでもなく、リリには分かっていた。自分はサナルほどに、身勝手に徹しきれないことも。


 サナルと、彼女の遺体はアントンとベルタにも手伝ってもらい、屋敷の裏に穴を掘って、そこに埋めることにした。
 人の背丈くらいはある深さの穴に、シーツでくるんだ遺体を入れ、その上に土をかけていく。 仲良く眠ることになった二人に、少しだけ妬ましさを感じてしまうけど、リリはその気持ちにも、一緒に土にかぶせてしまおうと思う。
 私はこれからも、生きていくのだから。
 これまでのことを忘れることは出来ないけど、それに捕らわれることなく、前を向いていかなければならないのだから。
 二人を埋めたところに木の墓標を立て、うろ覚えの祈祷文を唱えて、リリは彼等を送る。
 そうして慎ましい葬儀を終えた彼女は、後ろに居並んだ三人を見る。
 アントン、ベルタ、クローデル。
 狂気に駆られた、優しい科学者、サナル・レミ・シュタインによって蘇らせた、彼女の兄弟とも言える、人形達。
「あらためて、よろしくね」
 そう言ったリリを、三人は無表情に見つめるだけだった。


 客人は、葬儀が終わってから三日ほどでやってきた。
 屋敷の二階の部屋で、リリは彼等を見た。
 馬に乗り、それぞれがライフルや拳銃で武装した男達は、一〇人ほどになるだろうか。
 手当をしながら、サナルから聞いた話では、あの二人組はサナルの死者蘇生の研究を目当てに、やってきたという。
 リリを蹂躙した張本人でもある男達が、帰ってこない仲間の様子を見るためにやってくるのは予想出来たことだった。
 馬に乗った連中の中に、リリはあのヒゲ面の男を見つけた。
 リリは笑う。
 これは、守るための戦いだ、と彼女は思う。
 自分の兄弟でもある三人と、私自身、そしてサナルの想いを、守るための。
「でも」
 リリはふり向き、背後に置かれたベッドに向かって言う。
「楽しんでしまっても、しょうがないでしょ? だってあたしはもう、化け物なんだからさ」
 そして、彼女は命じる。
「起きて」

 *

 一見すると、それは何の変哲もない屋敷だった。
 ただ、その中にどうやら魑魅魍魎がいてもおかしくないことを知っていたフランキ・スバスは事前に部下達に油断しないよう言い含めていた。
「止まれ!」
 屋敷の前庭にさしかかったところで、彼は馬を止めさせた。
「兄貴!」
 一足先に馬から降りた部下の一人が、庭の片隅を指さした。
「コレンとバルの馬です!」
「奴らは?」
「姿は見えません!」
「おめえはやつらを探せ! 何か見つけたらすぐに呼ぶんだ!」
 へい! と応じた部下から、フランキは視線を屋敷の方に向けた。
 コレンとバル、死者蘇生を研究しているらしいとはいえ、優男の学者を連れてこられなかった無能の二人が死んでようが生きてようが、フランキにはどうでも良かった。
 ただ、腕はそこそこ立つはずの二人が行方不明になったことは、彼の生来の警戒心をかき立てるのに十分なことだった。
 粗野で人でなしだが、彼は慎重で思慮深かった。だからこそ、裏社会でそれなりの地位に立っているのだし、素人をさらうだけにも関わらず破格の報酬が提示された今回の依頼を回されたのだった。
 どこをどう見ても普通の邸宅を見ながら、フランキは依頼を持ってきた、背広姿の男を思い出す。
 隠しているつもりだったろうが、あの物腰は間違いなく軍人だった。本物かどうかは分からないが、死人を蘇らせる研究を、連中は戦争にでも使うつもりなんだろうか。まあ、ばたばた人が死ぬ戦場で、その都度人間を蘇らせることが出来れば、そりゃあ便利だろうが。
 ……余計なことを考えていることに気付いて、フランキは顔の下半分を覆うヒゲを、ばりばりと掻く。
 この世界で生きる鉄則は、表の社会とさほど変わらない。仕事は確実にこなすこと、そして、余計なことに興味を持たないことだ。
 そんなことを思う彼の目の前で、屋敷の玄関が突然、開かれた。
 反射的に、部下共々銃をそちらに向けたフランキだったが、すぐに彼等は銃口を下げることになった。
「バル!」
 見慣れた仲間に、そう声をかける。
「このうすらデカ! なんで連絡一つ寄越さなかった!」
 そう部下の一人がバルを罵る様を見るフランキだったが、すぐに、違和感を覚えた。
 ふらふらと歩いてくるバルは、服装が見慣れたものではなくなっていた。
 いつもの派手な服装から、いやにシックで落ち着いた服装になっている。
 そして、何よりもその顔に、彼は不吉なものを覚えた。
 正面を見据えたバルは、視線を揺るがすことなく、真っ直ぐにフランキ達に向かって歩いてきていた。もとから無愛想な奴だったが、今奴の顔に貼り付いているそれは、まるで別人のような、のっぺりとした無表情だった。 
 それはそう、言うなれば。
 まるで人形のようだった。
「撃て」
「え?」
 そう呆けた声で応じた部下を、フランキは殴った。
「バルを撃つんだよ! 今すぐに!」
「え、いや、何で?」
「良いからぶっ放せ! あれは何かやべえ!」
 それでも部下達が仲間に引き金を引くのをためらう内に、一度死から蘇り、今は命令を聞くだけの人形となったバルは、フランキ達に辿り着く。
 そして、バルの腰に差された爆弾の導火線が尽きたのも、ほとんどそれと同時だった。
 サナルが掘削用に用意していた爆弾は、男達の中央でバルごと炸裂する。
 轟音と共に、フランキの視界は、光に包まれた。


 気絶したフランキを目覚めさせたのは、痛みだった。
 間近で爆発が起こったにも関わらず、フランキは軽い打ち身をしたくらいで済んでいて、彼を目覚めさせたのは、その痛みではなかった。
 ぎりぎりと、両手と両足が縛られ、フランキはその痛みで目を覚ましたのだ。
 目を開けた彼の鼻先には、女がいた。
 ひどく凄惨な笑みを浮かべた女だった。
 じっ、とフランキを見つめる女に、思わず彼は息を呑む。
 何か言おうと思うが、言葉は出てこなかった。
 地面に体を打ち付けたおかげで息をするのも苦しかったこともあるし、間近で爆音を聞き、耳がバカになっていることもあった。
 そして何より、女の顔は、狂気に染まっていた。
 数え切れないほど非道を犯してきた彼でも、思わず口をつぐんでしまうような凄みが、女の顔にはあった。
 そうして言葉を発せないフランキはふと、周囲の惨状に気付く。
 爆発で仲間の何人かは粉微塵に吹っ飛び、彼等の内臓や腕や脚がそこら中に転がっていたし、生き残った奴も、何かしらの大けがを負っていた。
 その生き残りに、女は近づいていった。
 女はそっと、そいつらの首に手を触れると、そのことごとくを、折っていった。
 大の男の首が、まるで枯れ木のように折れていく様を、フランキは唖然として見るしかなかった。
 恐怖も憤りよりも、ただ驚くしかない彼の前で、女は一人一人の首を、丁寧、とさえ言える手際で、折り続けた。

 *

 やってきた男達のあらかたを片付け、残るはあのヒゲ面の男だけになった。
 男達の持っていた銃の内の一挺を取ると、リリはそれをヒゲ面の男に向けた。
「おい待ちやがれ!」
 と、叫んだヒゲ面にはおかまいなしに、リリはそれをヒゲ面の右腕に突きつける。外さないようにしっかりと腕に銃を付けてから、引き金を引く。
 轟音と共に、男の腕から血と肉が散る。
 歯を食いしばり、痛みに耐える様子の男の残る手と脚を、リリは続けざまに撃った。
 ヒゲ面の両手両足が使い物にならなくなったことを確認したリリは、急いで男の拘束を解き、止血に取りかかった。さっさと死なれたら、困るからだ。
「よし、と」
 腕と足の血管を縛り終えたリリは、さっきの爆発でも無事だった納屋へ行き、馬を引き出した。
 そしてその背にヒゲ面を乗せると、屋敷の正面を通る道を歩き始めた。
 青空のもと、馬の背に揺られるヒゲ面は観念したのか何も言わない。
 そのタバコと汗と、その他様々な汚れの交じった体臭に顔をしかめ、そして笑いながら、リリは歩く。
 サナル、と彼女は心の中で彼に呟く。
 あなたは、私を勘違いしている。
 私は化け物だ。
 大切な人にはいくらでも優しく出来るけど、そうでない人間、特に自分に酷いことをした人間にはいくらでも残酷になれる。そんな、どこにでもいる化け物の一人なんだ。
 このヒゲ面や、こいつが従えていた荒くれ達と、同じように。
 できる限り、人に誠実で、優しくあろうと務めたあなたとは、違うんだ。仮に過ちを犯したとしても、それを心から悔やんだあなたと、私たちは、違うんだ。
 そう内心で言いながら、リリは口を開いた。
「ねえ、私のこと覚えてる?」
 ヒゲ面は、何も言わない。ただ彼女の方を睨むだけのヒゲ面を見て、リリはああ、と気付く。
「鼓膜が破れたかな? まあいいや。えっと、フランキだっけ? 分かってると思うけど、私はあなたを殺す。これからたくさん殺す」
 言葉は聞こえなくても、何を言っているか察しのついた様子のフランキは、憎々しげにリリを見る。
 そんなフランキに、リリは笑う。
「あなたの部下とは違って、あなたはそんなにお喋りじゃないんだね。まあいいや」
 死ぬときはせいぜい、鳴いて頂戴。
 リリはそう、言った。


 そして、リリはあの湖に辿り着く。
 夜と昼とでは、その姿は大分違ったけど、その雰囲気はさして変わらないように思えた。
 湖面は静かで、穏やかだった。
 そして、鳥の鳴き声も、動物たちの気配もほとんどなかった。
 もしかしたら、動物たちは湖にやってきた化け物に怯え、姿を隠しているだけなのかもしれなかったが。
「俺を殺すか、雌豚」
 湖のほとりに辿り着いたとき、フランキはそう言う。
「ぴいぴい鳴くてめえは、可愛かったぜ」
 そう言って笑うフランキを、リリは湖に放り込んだ。
 水の中で、フランキは暴れる。なんとかもがき、水から逃れようとするものの、手足を銃弾で砕かれた彼は、あがけばあがくほどに水に沈んでいった。
 顔が完全に水に没し、苦しみに歪んだとき、リリは彼を水から引き上げた。
 フランキは大きく息を吐いた。苦しそうに、肩で息をする彼を、リリはじっと見つめる。
 そして、彼の息が整ったのを見て取ると、再びフランキを水に放る。
 湖面に、汚らしく波が立つ。ばしゃばしゃという水音に、フランキの怒号とも悲鳴とも似つかない声が混じる。
 それを聞く生き物たちは、木々も含め、息を潜める。
 フランキが事切れる直前になって、リリは無表情に、彼を水から出す。
「殺せ」
 ぜいぜいと、息を吐きながら、フランキは言う。
「ひと思いに。頼む」
 そう、懇願する彼を、リリは三度、湖へ放った。


 ……フランキの体力が尽きるまで、リリはそれを続けた。
 頬をいくら叩いても、指の骨を折っても、ヒゲ面の男が何の反応を示さなくなったときになって、リリは彼の両手両足を再び縛り上げた。
 異常なほどに念入りに縛ってから、彼女はフランキを馬の背に乗せる。
 そして、息が切れていないのを確かめてから、屋敷に向かって歩き出した。
 死んだ直後でなければ、意思と思考は蘇らないのだ。
 あなたにはもっと、苦しんで貰わなければならない。
「まだ終わらせないよ」
 そう、リリはフランキに言う。
 ほとんど意識のない彼に、その言葉は届いていないかもしれないが、リリはどちらでも良かった。
 聞こえてないのなら、蘇ってからまた聞かせてやればいい。
「あなたの苦しむ姿を見飽きるまで、まだまだ私は止まらない」
 蘇らせる前に、よく縛らなければならない、とリリは自分に言い聞かせた。
 あの粘性のある液体は、どうやら筋力も高めてしまうらしいのだから。
赤城

2021年12月30日 15時11分56秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
 人は、心に化け物を飼う。
◆作者コメント:
 難産はいつものことですが、今回は格別大変だったような気がします。
 ていうか最初は尻をさらしたアイドルの話のつもりがなんでこうなったんですかね? 我ながら謎です。
 何はともあれ、よろしくお願いします。

2022年01月16日 10時06分24秒
作者レス
2022年01月15日 21時25分08秒
+30点
Re: 2022年01月30日 10時21分15秒
2022年01月15日 16時56分04秒
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Re: 2022年01月30日 10時20分04秒
2022年01月14日 18時46分16秒
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2022年01月04日 21時23分51秒
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2022年01月03日 13時39分56秒
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