エロ本伯爵と猥褻大図書館 |
Rev.03 枚数: 100 枚( 39,939 文字) |
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※ちょっとエッチです。 〇 1 〇 今日日、紙のエロ本でオナニーする中学生なんてのは稀だ。 何せ、今はネットを探せばいくらでもAVやエロアニメの切り抜きが見られる時代だ。漫画が良いのならそれもいくらでも探せるし、CG集やASMRなんてものだってある。無料で見られるものだけでも、ネットには無数のエロがあふれている。 おまけにそれらのエロはスマホ一台あればどこででも閲覧可能だ。人の目の届かない安全な場所にスマホを持ち込んで、いつでも快適にオナニーができる。隠し場所に困ることもない。 それに引き換え、紙のエロ本というもののリスクの高いこと。 まず隠し場所に困る。本というものはどうしたって嵩張る。ベッドの下、本棚の裏、押し入れの奥、どこを選んだとしても、ちょっとしたアクシデントで発見されてしまいかねない。 それに何より、入手が困難だ。小学生にも見間違えられるような幼い顔立ちと、女の子と何ら大差ないような華奢で小さな体で、どうやって本屋さんのレジを突破しようというのだ? 時は令和。エロ本が中坊の憧れだった時代はとうに終わっており、しかしだからこそだろう。その川原に捨てられているエロ本を持ち帰る者は、ぼくを除いて一人もいないようだった。 〇 ぼくの住む街は四方を山で囲われている。山々の隙間を縫うようにして作られた道路の脇では、堆肥の香り漂う田畑の上にジジババ達が颯爽とコンバインを走らせているばかりで、気の利いた建物は数えるほどしかない。 そんな田舎の、さらに片隅にある閑散とした川原の大きな岩の影に、大量のエロ本が捨てられているのを、ぼくは見付けた。 隠微な格好をした女の裸体の描かれた表紙を持つ、比較的大きなコミックの数々である。それは平らに言ってエロ本、それもエロ漫画だった。 ビニール紐で結ばれたそれらの塊の数は六つにも及び、何者かが定期的に捨てに来ていることを予想させた。一部は風雨の影響で劣化していたが、比較的まともな状態を保っているものも数多い。 ぼくは狂喜した。 スマートホンを所持しておらず、家庭用PCすら触らせてもらえないぼくは、エロに触れる為のネット環境を持っていなかった。『とLOVEる』だの『ゆらぎ壮』だのでオナニーする日々だったのだ。そんなぼくにとってその大量のエロ漫画はまさに宝の山だ。 もうその場でヌいた。野外とか関係なかった。 岩に向かって吐き出した大量の精子に、とりあえず両手に汲んできた川の水をぶっかけた後で、ぼくは家に持ち帰るエロ本の吟味を始めた。 ビニール紐を解いて一冊一冊丹念に内容を確認し続け、気に入ったものを確保し、惜しくもそうでなかったものを断腸の思いで岩の影に戻す。それを繰り返し、十冊のエロ本を家に持ち帰った。 心臓がバクバクと音を立て、一発抜いたばかりなのに股間は固く脈打っていた。自室のベッドの下に大量のエロ本を隠したぼくは、その内の一冊を手に取ってベッドに広げ、猿のように繰り返し自慰にふけった。 〇 その川原にエロ漫画は捨てられ続けた。 定期的にその川原にエロ本を拾いに行くことがぼくの日課となった。大量に捨てられるエロ本の中から気に入ったものを持ち帰り、オナニーに耽る。 そうしている内に、自分自身の性的嗜好というものも把握するようになっていた。ぼくは年上のお姉さんにやさしくさせてもらう感じの作品が一番好きだが、しかし男性受けであればソフトM的な内容も受け付けるようだった。 そうしたエロ本を中心に持ち帰るようにしていると……ある日、奇妙なことが起こった。 その日新たに追加で捨てられていた数冊のエロ漫画は、ことごとくぼくの嗜好に突き刺さるものだった。おねショタいちゃらぶを基本として、愛のある罵倒を浴びせられながらの見抜きや、ペニスを優しく踏んでもらう程度のソフトな女性上位モノ。もちろん、逆転はなし。 狙い済ましたようなその神がかり的チョイスに、ぼくはたまらずその場でむせび泣き、感謝とオナニーをした。そして岩に吐き出した精液に何となく川の水をぶっかけた後で、ノートの切れ端にさらなる要望を書き綴り、岩に挟んだ。 『できたら、HANABIや丸井まるをもっとください』 次に川原に来た際、要望通りのエロ漫画が設置されていたことにぼくは驚いた。そして狂喜した。この人は神だとぼくは思った。 ぼくは最高のオナニーライフを送り続けた。最高のオカズが神によって常に提供され続け為に、股間は勃起から収まることを知らず、ちんちんの先っちょは乾く暇もない。 ぼくが神にリクエストをし、神がそれを叶える。それが何度も繰り返された。 そんなある日のこと。いつものようにリクエストした通りのエロ本を神から受け取り、感謝の言葉と次回分のリクエストの書かれた紙をその場に設置した、その帰りのことだった。 家に戻ったぼくは早速、神の恵みを紐解いた。夢中になって内容を目で追いながら股間を勃起させている内に……一枚の紙きれが挟まっているのをぼくは発見する。 そこには以下のような内容が描かれていた。 『魂の友よwwwwwwwwwwwwwww 我が至高の宮殿、猥褻大図書館に案内いたしますぞwwwwwwww 日にちはいつでもかまいませんが、できれば平日の午後、どんなに遅くとも六時までが望ましいのですなwwwwwwww 場所は以下の住所wwwww 待っていますぞwwwwww エロ漫画伯爵より』 ぼくは驚いた。 それは神の自宅への招待状に違いなかった。そして神は自身をエロ漫画伯爵と名乗っているらしかった。ぼくはその高貴な名前を胸に刻み込んだ。 逡巡がなかった訳ではない。ただ、エロ漫画伯爵とぼくは間違いなく親友同士だった。手紙での交流しかなくとも、心とちんこは間違いなく繋がっている。同じおかずでオナニーするというのはそういうことだ。ぼくたちは血よりも強いちんこの絆で結びついた兄弟だった。 逡巡の末、ぼくは一発抜いてから考えることにし、そして決断した。 ……伯爵に会いに行こう。 エロ本伯爵のいう『猥褻大図書館』というのがどういうところか知りたかった。伯爵ならその中から好きなエロ本をぼくに恵んでくれるに違いなかった。 〇 その日は授業が午前中に終わる平日だった。エロ漫画伯爵のところに向かうには絶好のチャンスである。ぼくは伯爵の待つエロ漫画大宮殿へと自転車を走らせた。 中流以上の家庭がひしめき合う住宅街においても、なかなかに立派な白い屋根の家が、伯爵の家だった。黒い自動車の停めてある小奇麗な庭には、カイヅカイブキまで植えられている他、赤と黒の二台の自転車が行儀良くそろえて停められている。この家の子供の者だろうか? やや緊張しながら家のチャイムを鳴らすと……しばらくして、一人の少女が扉を開けた。 「んー? どなたですかー?」 間延びした声。桃色のパジャマを身に着けた白い肌を持つ女の子が、眠たげな視線をぼくの方へと向けている。 綺麗な子だった。とろんとした垂れ目に通った鼻筋、小さいながらも膨らみのある唇を持っている。顔立ちは若くぼくと同じ歳くらいにも見える程だが、しかし体つきは成熟していて特に胸のふくらみはパジャマを大きく盛り上げていた。 「あ……あの。ぼく、増垣正義(ますがきまさよし)って言って……。その」 まごまごするぼくに、少女はいぶかしげな視線を送ってから、ふと気が付いたように 「んっ。じゃ、君がエロ本少年か」 と言って、ぼくの手元にあった伯爵からの手紙を指さした。 「待ってたよ。さ、早く入ってよ。猥褻大図書館、案内するから」 そう言って少女はぼくの手を引いて家の中へと連れ込んでいく。 ぼくは驚愕し、そしてドギマギとした。女の子と手を繋ぐ経験自体、小学校三年生のミカちゃん依頼だ。 この人はいったい誰なんだろう? まさか伯爵ではあるまいなと思いながら、ぼくは目を見開いてまじまじと少女の顔を見る。少女はぼくの様子に気が付いていぶかし気な表情を浮かべつつも、「ん」とそっけない表情で、近くにあった一枚の扉を手で指した。 「ここだよ。今開けるからね」 そう言って少女はその部屋の扉を開け放った。 ……そこはまさに猥褻大図書館だった。 狭く、窮屈そうな空間である。いや、部屋の大きさとしてはおそらく六畳ほどだから、ぼくの自室と変わらないくらいなのだけれど、壁の三面をほぼ埋め尽くす程の大量の本棚が、部屋面積を著しく損なっていた。 そこに収められているものは言うまでもない。大量のエロ漫画に決まっている。 ゆうに二千冊以上はある。それらは出版社別、作者別に綺麗に整頓されて本棚に収められている。これほど丁寧に分類されると、エロ漫画とは言え、知的なインテリアのような雰囲気を漂わせていた。 そしてその本棚の合間に、一台のデスクが設置されている。部屋の中にある本棚以外の唯一の家具だろう。その椅子に腰かけて、ノートパソコンの画面を食い入るように見詰めながら、丸出しにした自らの陰茎を手にする男がいた。 如何にも、と言った男だった。 灰色でよれよれのスウェットを着用した、眼鏡をかけた肥満の人物である。年齢はおそらく二十代ほど。入りきらない腹肉が腹毛と共にスウェットからあふれ出していて、肌は妙に健康的につやつやとして白く、痩せていれば結構イケメンかもしれないその顔は、脂肪によってパンパンに膨らんで無残な様相を呈していた。 遠目で分かるほど包皮を余らせた陰茎を触っていたその男は、ぼく達が入ってきたことに気づいて「んんんっwwww んほぉおおおっwww」と奇声を発しながら椅子から転げ落ち、弁当箱から落ちた肉団子のように床を一回転してからこちらを見やった。 「これが伯爵。あたしのお兄ちゃん」 少女は肉団子を指さして無造作に言う。 伯爵の正体は、キモオタにしか見えない肉団子だった。思い描いていた通りと言えば、まあそうだ。 「んんwwwww 薫子殿wwwww お兄ちゃんの部屋に入る時はノックをするように言ったはずではないですかなwww んんwww ありえないwwww この歳になって妹にオナバレなんてありえないwwwww」 薫子と呼ばれた少女は「ごめーん」と間延びした声で言ってから、ぼくの方を「ん」と手で指し示した。 「この人、お兄ちゃんのお客さん」 「んんwww そうですかなwww 見ない顔ですなwwwww」 伯爵はズボンを持ち上げながら立ち上がり、ぼくの方へと近づいてきた。 「その手にあるのは我がエロ漫画に挟んでおいた招待状ですかなwww んんwww それを持っているということはwww 総合的にロジックすれば、我が泣く泣く投棄したエロ漫画を拾い読んでいた少年でしかありえないwwwwwwwww」 その『wwwww』はどうやって発音しているのかを問い詰めたくて仕方がない。 ぼくは頷いて、伯爵の放つ不思議なオーラのようなものに圧倒されながら、どうにか自己紹介した。 「は、初めまして伯爵。ぼくは増垣正義(ますがきまさよし)と言います。近所の中学生で……、い、いつもエロ漫画を恵んでくださり本当にありがとうございましたっ!」 「んんwww 良いってことですぞwwwww 性欲を持て余すいたいけな少年は、エロ漫画の道へと導く以外ありえないwwww 歓迎いたしますぞwww」 そういって伯爵はぼくに片手を差し出した。握手をしようというのだろう。 ぼくはその手を握り返さず、引きつった笑みでこう言った。 「手、洗って来てください」 あれだけ包皮を余していた陰茎を触っていたのだ。チンカスくらい付いているだろう。 〇 伯爵の名前は新保慢太郎(まんたろう)。ぼくを伯爵の部屋へと案内してくれた少女は、伯爵の妹で薫子(かおるこ)というらしかった。 その妹の薫子はぼくが伯爵に挨拶するのを見届けるなり、「ゆっくりねー」と告げて部屋から出て行った。 伯爵は部屋の外から座布団とコーラのペットボトルを持ってきて、ぼくに差し出してくれた。 「んんwww まずはゆっくりくつろぐ以外ありえないwwww」 コーラは2リットルだった。もちろんゼロカロリーなどではない。伯爵の手にもまったく同じものがもう一つ握られている。これはデブになる訳だ。 「良くぞ来てくださいましたな増垣殿www 同じエロ漫画を愛好する者として、歓迎しますぞwww 今日はねっとりと語り合う以外ありえないwww」 「あ、ありがとうございます伯爵。恐縮です」 「んんwww オカズの共有をした我らの間に敬語などありえないwwwww 気軽に話してくださってかまいませぬぞwww」 「わ、わかったよ伯爵。ありがとう」 ぼくは肩の力を抜いてそう言った。 「あの、伯爵はどうしてぼくにエロ漫画を恵んでくれたの? 家に呼んでくれたの?」 「んんwwwww 同じエロ漫画で自慰に耽る友が欲しかったからですぞwww 自分の好きなものを共有できることは無上の喜びですかならwww んんwwwww 語らう以外ありえないwwww」 「そ、そうなんだ。……その、失礼なんだけど、ほかに友達はwww」 「んんwww 一人もおりませんぞwwwww」 「そ、そうなんだ。あの、普段伯爵は何をしている人なの?」 「んんwww 決まっておりますぞwww 猥褻大図書館の司書以外ありえないwwww」 「お仕事とかは?」 「自宅警備員ですなwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」 ダメな大人だった。しかしある意味想像した通りと言えて、安心感すらぼくは覚える。これで大企業でバリバリと働くエリートサラリーマンだったりしたら、その方が驚きだ。 「そ、そうなんだ。それでさ伯爵、その、早速で悪いんだけれど、本棚の漫画を見せてくれないかな?」 「んんwww 自由に閲覧するしかありえないwww」 伯爵は大盤振る舞いで蔵書をぼくに見せてくれた。そしてぼくが気に入ったエロ漫画家について話すと、その作者がアマチュア時代にネットで出品した作品を、パソコンで見せてくれる。 伯爵は紙の本ばかりでなく、電子書籍という形でも無数のエロ漫画の蔵書を有しており、CG集と呼ばれるフルカラーCGにセリフや文章を付けたものや、そこに音声を付けてまるでアニメのように楽しめるものなど、色々なエロいコンテンツをぼくに閲覧させてくれた。そのことごとくがぼくの股間を勃起させたのは言うまでもない。 しかし今この場所で抜くわけにはいかない。ぼくは伯爵の蔵書から数冊を借りられないか申し出てみた。すると伯爵は「んんwww 貴重なものでなければ差し上げても良いくらいですぞwww」と気前良く口にする。 「あ、ありがとう。でも伯爵、こんなに漫画とかCG集を買ってたら、お金がたくさんかかるんじゃない? それはどうしているの?」 「んんんwwww 過去にブラック企業でブラック労働をしていた時の貯蓄があるのですなwww んんwww 大人の財力を舐めるのはありえないwwwww」 ちゃんと自分のお金で買っているのか……と感心したのも束の間 「とは言え大半は親の金なのですがなwww んんwwww 母親という女神からもたらされる小遣いは感謝して拝領する以外ありえないwwwwwwwww」 などと言い出したので、ぼくはずっこけそうになる。 その後も伯爵は様々なエロ漫画やエロCG集をぼくに見せてくれ、あのクリエイターはプロデビュー前から目をつけていただの次はこのクリエイターが売れるだのという講釈をぶった。 ぼくもまた、いろんな話をした。伯爵からもらったどのエロ漫画がどんな風に良かったか、どんなプレイや絵柄が好きか。話している内につい熱意を帯びるぼくに、伯爵はそれを上回る熱意で話を返してくれた。 あっという間に時間は過ぎ去り、最後は伯爵の「んんwww そろそろ親が帰ってくる時間なのですぞwww 申し訳ございませぬなwww」という声でお開きになった。 「またいつでも来るのですぞwww」 玄関でそういわれて見送られ、ぼくは伯爵邸を後にする。 庭に止めておいた自転車にまたがっていると、縁側に腰かけた少女が、ぼんやりとこちらを見ているのに気が付いた。 伯爵の妹で、ぼくを伯爵の部屋まで案内してくれた少女、薫子だ。 一応挨拶をしておこうと思い、ぼくは小さく会釈をして口を開いた。 「あ、あの。さっきは案内してくれてありがとう」 「ん? 良いよ、お疲れ」 薫子はそう言って無表情のまま片手をこちらに挙げて見せた。 「お、お疲れ」 「あたしは疲れてないけどねー。どうだった、お兄ちゃんの部屋」 「え、いや。その……すごかった。本棚とか」 「んー……。まあ、あれがあの人の自慢だからねー」 『んー』とか『んんwww』とかいうのはこの兄妹に共通した口癖らしい。薫子は小さく欠伸をしてから、黄昏るように空の方に目をやって。 「またいつでも来てやってよ。隣の部屋から話してるの聞いてたんだけどさ。お兄ちゃんがあんなに楽しそうにするの、本当に久しぶりだから」 「そうなんだ。……なんかテンションの高い人だから、驚きだな」 「気を許した相手の前だけだよー。友達ができてよっぽど嬉しかったみたい。仲良くしてくれると、嬉しいなって」 そう言ったきり口を半開きにして、本格的に縁側で黄昏れ始めた。 何も考えていないような顔で空を見つめるその白い顔を、ぼくはなんだか見惚れてしまう。思った以上にまつ毛が長い。色が白い。桃色のパジャマを盛り上げる胸の大きさと、成熟した体のラインはやや大人びて感じるが、頼りない肩や膝の上に乗せられた手のひらの小ささは、ぼくと同じ歳くらいにも感じられる。 ぼくは「それじゃあ……」とだけ口にしてその場を後にした。「んっ」とだけ返ってくる。 薫子が見詰めていたのと同じ空を眺めていると、そろそろ夕闇が迫っていることに気が付いた。涼しくなり始めた九月の下旬、澄んだ空気の中を自転車で走るのは、清々しい。 ぼくは伯爵との一日を思い返す。不思議と、何か暖かいものが胸の中に詰まっているのを、ぼくは感じる。それは伯爵から借りた数冊のエロ漫画よりも、よほど価値のあるもののように感じられた。 楽しかった。こんなに夢中で人と話したのは久しぶりだ。 それはそうだろう。 ……ぼくもまた、伯爵と同じように、他の友達なんて一人もいなかったのだから。 〇 2 〇 中学生であるぼくは、その日の朝も、田んぼだらけの道に自転車を走らせ、通学していた。 水を張った田んぼは朝の太陽を反射して黄金色に輝いていて、香ばしい泥の匂いがそよ風と共に運ばれてくる。砂まみれの道路を中坊達が横一列で自転車を走らせるのに、たっぷりの農具を積んで現れた軽トラが激しくクラクションを鳴らす。 学校に着く。いつもの自転車置き場に愛車を停めていると、意外な顔が目に入った。 それはセーラー服を着た薫子だった。彼女は驚いているぼくに気づきつつ、ゆっくりと自分の自転車を停めた。そして「ん」と挨拶して片手を挙げる。 「……ここの中学の生徒だったんだ」 「そ。二年生。同学年だったんだね」 名札の色を指さして口にする薫子。 「君、何組? あたし六組」 「ぼくは五組……隣のクラスだったんだ。それにしては、初めて見るような……」 「あんまり学校来てないからね。昨日もサボってたし。今日はたまたま気が向いて、来たんだけど、なんかもうすでに帰りたくなって来た。帰ろうかな?」 「そんなにサボれるなんて、羨ましいなあ」 ぼくの家の場合、一日でもサボったりしたらすぐ家族会議になる。やはり、あの伯爵のような人間を育てるような家庭は、どこか子供に甘いのだろうか? 「んー……。あたしは逆に、毎日学校に来られる人の方が、それを我慢し続けられる人の方が、幸せだと思うし、羨ましいけどね。……じゃ」 そういって、薫子はぼくの前から離れていった。 〇 教室にぼくの居場所はない。 いじめられている、という訳ではないのだ。ただ、とにかく友達がいなかった。話し相手もいない。何なら目を合わせる相手さえおらず、空気のようになっている。 何かとんでもないことをやらかした訳ではない。失敗があったとしても、本当に些細なことばかりだ。自己紹介でジョークを言おうとして滑っただとか、友達を作ろうと話しかけたは良いものの緊張のあまり変なことばかり言ってしまっただとか、そのくらいのことだ。 友達を作る努力をしていない訳ではないのだ。教室でエロい話が流行った時は、教室にエロ漫画を持ち込んで、みんなに見せてやろうとするくらいのアグレッシブさは持ち合わせている。思ったほど芳しい反応はもらえなかったが、皆内心ではちょっとはやる奴だと思ってくれたはずだ。 とは言え現状において、ぼくは教室ではぼっちであり、軽んじられる存在だった。 その日もそうだった。ぼくが教室で唯一存在を認められる場所であるはずの自分の席に、クラスのボス的存在、武田光洋が腰かけ、子分と一緒はしゃいでいた。腰かけるだけならともかく、上履きのまま足を乗せたり、叩いたり蹴ったりやりたい放題だ。 席を返してもらうように言いに行く度胸はもちろんなく、ぼくはやむなく教室の後ろで勉強するふりをして時間を潰した。 やがてチャイムが鳴り響く。やっと座れると思ったが、しかし武田とその子分は、チャイムに構わずぼくの席周辺ではしゃぎ続けていた。ぼくは武田がいい加減に自分の席に戻ってくれるまで、教室の後ろで待ち続けるしかなかった。 やがて教師がやって来る足音が鳴り響いた。「やべぇっ」という声を発して、はしゃいでいた武田達はそそくさと自分の席に戻っていく。 これでやっと席に着けると思ったぼくだったが、しかし間に合わなかった。慌てるぼくが自分の席に着く前に、担任教師がやって来て怒声を上げた。 「こらぁっ! まだ席に着いてない奴がいるじゃないか! チャイムはもうとっくに鳴っているだろう!」 この担任教師は時間に厳格なことで知られている。一分一秒の遅刻も許さず、虫の居所によっては、体罰になるかどうかのグレーゾーンの罰則を生徒に加えることも辞さない。 「そんなに自分の席に座りたくないんだな? 増垣! だったら今日の朝活動中、おまえら後ろで立っていろ!」 大災難だ。ぼくは思いつつも、「は……ひゃい……」と力ない声を上げるしかない。 教室のどこかで、嘲るような小さな笑い声が響いた。 あまりの理不尽と、さらし者のように立たされる羞恥心とで、ぼくはその場に座り込みたい気持ちになってくる。 教師の怒りの眼差しと、生徒たちの嘲るような視線がぼくに浴びせられる。これからの中学生活、こんなことばかりが続くのだろうかと、暗い気持ちに浸っていた、そんな時だった。 「あの。先生、ちょっと良いですか?」 しなやかな長い腕が、真っすぐな美しい角度で天井の方へと掲げられた。 「今回の件、増垣くんは悪くありません。増垣くんが席に着いていなかったのは、先生が来るギリギリまで、武田くんが増垣くんの席を占領していたからなんです」 瑞々しく清涼な、それでいて明瞭な声と口調だった。彼女がそこでただ堂々と何かを言っている、それだけで、雑多な教室の中で彼女の美しい輪郭がくっきりと浮かびあがるかのようだ。 「先生が来る足音がして、武田くんは慌てて自分の席に戻りましたが、増垣くんだけが間に合わなかったんです。これで増垣くんだけを立たせるのは、少し可哀そうに感じてしまいます」 クラスの学級委員を務める赤月美優はそう言って、同情するような視線をぼくの方へと向けた。その慈しみに満ちた眼差しを全身に浴びて、ぼくは思わず赤面してしまう。 赤月美優はその名の通り、美しく、そして優しい少女である。 背はたいていの中二男子より高い百六十五センチで、壊れそうなほど小さな肩と小さなお尻、控えめなバストと細いウェストを持つ。 信じられないほど目が大きく、鼻が高く、小さな顔の輪郭は芸術的なほどに美しい。普段は知性も感じさせる落ち着いた表情を浮かべているが、一度微笑んだその表情は驚く程無垢である。その笑顔は人類の半分を虜にし、この荒んだ世界に平和を齎すに違いなかった。 性格は品行方正でいて公平で優しい。ぼくのような日陰者のことも常に気にかけ見捨てず、時には今回のようにためらいなく手を差し伸べる。運動や勉強の能力もトップクラスと、おおよそ非の打ちどころのない彼女は教師にも一目置かれていた。 「そ、そうか。なるほど。それは確かに、増垣だけが悪いとは言い切れんなぁ……」 そんな赤月さんに意見され、教師は納得した様子を醸し出して、腕を組んで頷いた。 「良いだろう。増垣、自分の席に戻って良いぞ。それから武田、おまえもいつもいつも人に迷惑をかけるんじゃなあない!」 そのように武田を懲らしめ始めた教師を尻目に、ぼくは自分の席まで歩いていく。 途中、信じられない程良い匂いがしたかと思ったら、赤月さんの席の前だった。思わずその美貌の方に視線をやると、赤月さんは艶やかな表情でぼくの方を見つめている。 ぼくは勇気を振り絞ってお礼を言った。 「あああああありがとう」 赤月さんは返事をする代わりに、心臓を打ち抜くような愛らしい笑顔をぼくに向かって放射した。 ぼくは吐血して倒れそうになる。そして勃起した。 ヤバい。後で赤月さんで抜いておこう。 〇 その気になればぼくは五分で射精できる。赤月さんに笑いかけられて勃起していたぼくとしては、朝会から一時間目の授業までの十分間で一本いっときたいところだったが、しかしそうもいかなかった。 緊急の集会が入ったのだ。 出席番号順に体育館に座らされ、朝から生徒指導の先生の話を聞かされることになる。赤月さんについて考える度、勃起収まらぬペニスからカウパー液が滴っては包皮の中に溜まっていくことになるが、こらえるしかない。 性欲を我慢しながら聞いた話によれば、どうやら他校で違法薬物を使っている生徒が発見され、補導されたらしかった。年に二回行われる検尿による検査で、数名が摘発されたとのこと。 彼らに麻薬を提供した売人は未だ捕まっておらず、正体も掴めていない。何でも売人は販売エリアごとに少数の学生としか直接は接触しないそうなのだ。その少数は取引のいわば仲介役だ。売人から受け取った薬物を学生達に手渡し、学生たちから受け取った売上を売人に渡してマージンを得ている。 そしてその少数というのがなかなか補導されないのだそうだ。彼または彼女はアタマの良い人物がほとんどで、警察の捜査網を巧みにすり抜けてしまう。 「えー、君たちも何か知っている者がいたら、正直に先生に打ち明けてくれ。一刻も早く足を洗わないと、本当に大変なことになってしまうぞ?」 生徒指導担当は言う。ようするに、同じ麻薬をやっているものがウチの中学にもいるんじゃないかと疑っている訳なのだろう。 「隠していたっていずれバレるんだ。検尿はウチの中学でも行われるからな。健康診断のための検尿だが、怪しい薬をやっていたらそれも一発でバレるぞ! 一組から五組の生徒はちょうど本日から、人数の関係で六組のみ来月別の病院で、それぞれ検尿が行われる。そこでバレる前に、自分から打ち明けた方が遥かに処遇は軽いぞ!」 脅しつけるような口調で言う生徒指導。表面的にだけでも『おまえたちのことは信じてやりたいが……』とかそういう態度をとるべきなんじゃないかと、ぼくは思わないでもない。 だがこれで麻薬をやっている生徒は戦々恐々とすることだろう。まあぼくには関係のない話だと思いながら、赤月さんの笑顔を思い出しながら一人悶々としていた。 〇 ようやく一時間目の集会が終わり、ぼくは早速トイレに駆け込み、スッキリとする。 オカズはもちろん赤月さんだ。妄想しかできないのだけれど、ぼくにとってはそれで十分だった。 その気になれば赤月さんの机の周囲に落ちているだろう髪の毛だとか、もっと酷いものを盗み出してオカズにすることも可能だろう。しかしそんな人を傷つけるような行いは、誇り高きオナニストにあるまじきことだった。 しかしどうしても、赤月さん由来のもので気になってしまうものがあって……ぼくはその日の昼休み、手芸室の部室でもある被服室に向かった。 被覆室はだいたいの場合、授業で使う生徒達のために開放されている。昼休みくらい施錠しても良いと思うのだが、まあそのくらいの物臭さはどんな学校にもあるだろう。そしてその被覆室の後ろの棚に、手芸部の生徒達が作った作品が、いつも展示されていた。 そのうちの一つ……淡い青色の小さなクマのぬいぐるみを、ぼくは手に取った。 そして思いっきり匂いを嗅ぐ。 鼻を突き抜けるのは優しく甘やかな良い香りだ。いやまあ実際には所詮はただの布の香りに過ぎないのだが、しかしぼくにとってそれは、至極耽美かつ神聖な匂いとなる。 何を隠そう……このぬいぐるみは赤月さんの作ったものだった。 赤月さんは手芸部に在籍し、日々熱心に活動している。その腕前もなかなかのもので、それはこの丁寧に作られたぬいぐるみの出来栄えからも察せられる。 赤月さんの細く滑らかな指先が丁寧に、愛情を持ってぬいぐるみに糸を紡いでいく情景を想像すると、ぼくは自分がそのぬいぐるみでないことを悔やんだ。そして欲情した。このぬいぐるみには赤月さんの麗しい愛情と手垢と手汗がたっぷりと染み込んでいるに違いなく、そんなものの匂いを嗅ぎながらオナニーできたらどれだけ素晴らしいかと、ぼくは空想した。 しかしそれはあくまでも空想だ。そんなことをすれば犯罪だからだ。大切な自分の作品がそんなことに使われていることを知ったら、赤月さんも悲しむだろう。そんなことをする訳にはいかなかった。 だがぬいぐるみは被服室に展示されているものであり、つまり自由に見たり触ったりしても良いはずであり、常識の範囲内でなら何をしても問題はないということになる。 なら匂いを嗅ぐのはどうだろうか? ギリギリセーフのはずだ! そんな考えで、ぼくはしばしばそのぬいぐるみの匂いを嗅ぎに来ていた。何度も何度も執拗に顔を押し付けて嗅ぎまくるのは、流石に猥褻な目的であるとバr誤解されてしまうので、嗅ぐのは来る度に一回きりにしている。ぼくはぬいぐるみから顔を離すことにし、その全体をうっとりと見詰める。 そしてあることに気付いた。 そのぬいぐるみはどこを見ても縫い目の荒い箇所など見付からない。流石の技術力。完璧なぬいぐるみだ。流石は赤月さんと言えるだろう。 しかし一か所だけ……ぬいぐるみの背後の中央あたりに、縫い目がはっきりと乱れているところがある。それは明らかな違和感だった。 縫い方が荒く粗雑なだけでなく、引きちぎれた糸が縫い目のあちこちから露出している。まるでそう、何度もその縫い目を破いて、スピード優先で雑に縫い合わせるということを、繰り返したかのような。 そもそもどうして背中のこんなところに縫い目があるのだろうか? ぬいぐるみの背中部分は明らかに一枚の布で構成されている。こんなところ縫わなくてもどう考えても大丈夫なはずなのだが……。 「あー☆ 増垣くんだ。こんなところで、何してるんですか?」 鈴を鳴らすような声がして、ぼくは慌てて振り返った。 そこにいたのは、淡い微笑みを称え、まっすぐに背筋を伸ばして立つ赤月さんだった。ぼくは思わずぬいぐるみを棚に戻して、顔を赤くしないよう、どもったりえずいたりしないように自然な様子で応答する。 「ななななな何でもななないよ。たたたた、ただ、展示されているぬいぐるみをみみみ見てただけなんだエフンエフン! ゲッホゲッホ!」 「そうなんですか☆ 良かったぁ。てっきりエッチなことに使われてるんだと思ってました」 百点満点の笑顔とさらりとした口調で、そんなことを言い放つ赤月さん。 「ドドド、ドキィイイっ! そそんな訳ななないじゃないかぁあ!」 「ふふ☆ 冗談ですよぅ。作品を見てくれていたんですよね?」 「そそ、そうだよ! ほ、本当によくできてるよね。そのっ、赤月さんの優しい気持ちが詰まってるっていうか……」 「ありがとうございます☆ また、別の作品ができて展示されたら増垣くんに言いますので、その時はまだご覧になってくださいね」 「もも、もちろんだよ! 楽しみにしてる」 「そう言われるとやる気が湧いちゃうなあ。わたし、がんばりますね」 「う、うんっ。頑張って」 「ええ。あ、そうだ。次の授業、確か音楽でしたね。音楽室、一緒に行きますか?」 「え? い、良いの?」 「もう☆ クラスメイトなんですら、遠慮することないですよ。わたし、増垣くんとお話したいなあ」 「で、でも、ぼくなんかと一緒にいたら赤月さんの迷惑なんじゃ……」 「そんなこと思わなくて良いですって☆ そうすることで何か誤解されるんだとしても、わたし、かまいませんから☆」 歓喜に打ち震えながら、ぼくは赤月さんと廊下を歩いた。こんな美人と歩いていたら、緊張のあまり話にならないんじゃないかと心配したが、しかし赤月さんは話し上手の聞き上手。口下手なぼくを上手にフォローしながら一緒に会話を楽しんでくれた。 「増垣くんは、もっと自分に自信を持った方が良いと思いますよ?」 「そうかなぁ? でも、ぼくってこれと言った取り柄もないし」 「そんなことないですよ。増垣くんには他の人に負けないとっても素敵なところがあります。わたしは知っていますよ」 「そ、そうなのかな……?」 「はい☆ 覚えています? 去年の文化祭の時のことなんですけど……」 赤月さんは語る。去年の文化祭の帰り道。その時のぼくには妙にちょっかいを掛けてくる男子生徒がいて、その日も自転車置き場に向かいながらうざったいからみ方をされていた。服を引っ張られるとか、タオルで頭を叩かれるとか、それくらいのことだ。 そいつがぼくに対して振り回していたタオルが、ふと、ちょっとしたはずみでそいつの手から離れて飛んで行った。タオルはまず自転車置き場の柵に引っ掛かり、さらに風に煽られて脇の水路に落ちた。 自転車置き場と道路の間には幅一メートル足らずの溝が彫られており、そこは汚水が流れ、ヘドロがたまり、どぶ川のようになっていた。そこへ落下したタオルは水の流れに従ってどんどんと自転車置き場から遠ざかっていく。 そのタオルは文化祭に際してクラスで制作したものだったから、そいつはショックを受けていた。「マジかよ」とか「大事にしようと思ってたのに!」とか嘆き、顔をしかめて歯を食いしばり、肩を落としてうなだれる。 それを見て、ぼくは動いた。 急げば間に合うと思ったのだ。ぼくにとっては、文化祭など思い出というにはほど遠い面倒なだけの時間だったが、そいつにとってはそうではないかもしれない。取り戻せるなら取り戻すべきだ。 水の流れはさほど早くなく、ぼくはタオルに追いついた。そしてタオルに手を伸ばそうと手を伸ばし、少しだけ身を乗り出そうと体を大きく前にやって……そして水路に落ちた。 ドブ川のヘドロ塗れになりながら、タオルを持って戻ってきたぼくに、そいつは顔をしかめて「いらねーよそんな汚れたもん」と冷たく言った。「バカじゃねぇの?」と。 赤月さんもその時自転車置き場にいて、一部始終を見ていたとのことだった。 「大切なタオルなら汚れても取り戻したいかなって思ったんだけど……いやぁ、あれはぼくがバカだったんだよ。あんな奴のタオル、見捨てておけばよかったんだ」 「ふふ☆ でもすごいことだと思いますよ? 自分のタオルや、大切な友達のタオルなら、増垣くんのようなことをする人はいるかもしれません。でも、自分に嫌なことをしていた相手の思い出の為に、迷わず行動することができるのは、大変な勇気です」 赤月さんがそう言い終えたタイミングで、ぼく達は音楽室にたどり着いた。 「楽しかったです☆ またお話しましょうね、増垣くん」 「う……うん。ぜ、是非」 そう言うぼくから、小さく手を振って離れていく赤月さんから、ぼくは目を離すことができなかった。心臓がバクバクして、それでいて股間は勃起しておらず、まるで勃起させるのが罪なことであるかのように感じられる。 なんとも不思議な気分だったが、それはもしかしたら、性欲が恋に切り替わったとでもいうべき、そんな一瞬だったのかもしれない。 〇 「ありえないwww ありえないwwwwww ありえなぁああいぃwwwwwwwwwwwwww!」 その日の放課後、猥褻大図書館に訪れたぼくが、赤月さんに対する恋愛感情について打ち明けると、伯爵は顔を真っ赤にして指先をぼくに突き付けてきた!」 「んんwwww 三次元にうつつを抜かすなど誇り高きオナニストにあるまじき所業www オナニーとは美しき虚構との崇高なる対話であり、優れた芸術に対する真摯な賞賛であるべきですぞwwwwww それを三次元をオカズにするなど下郎至極www 恥ずべき行いと心得るんですなwww」 もうこの部屋に来た回数も随分と増えてきている。その度に聞かされる伯爵の思い出話によると、彼には過去、学生時代に現実の女子にいじめられた経験があるらしい。 そんな伯爵は現実の女性をことごとく憎悪しており、筋金入りの二次専だった。この猥褻図書館の蔵書もエロ漫画に限定され、現実の女性を撮影したエロ本は一冊たりともない。猥褻大図書館の利用者としては、そのことを物足りなく思わないでもなかった。 「察するに貴殿はまだ若く、未熟なのでしょうぞwwww 総合的にロジックするに、貴殿には三次元に関する暗き思い出が足りていない以外ありえないwwww その純粋なる魂がやがて醜悪な現実に打ちのめされ、我のようになっていくことを思えば、哀哭を禁じ得ないのですなwwww」 「いやぁそうとも限らないでしょ? 何も赤月さんに告白したいっていうんじゃないんだ。釣り合うようには思えないしさ。ただ、秘めておく恋だってあるだろう? 人を好きになれたこと自体、幸せなことなんだ」 「んんwwwwwww そんなこと言いつついつか暴発するに違いありませぬぞwwwwww 我には分かるのですなwwwwww 相応の経験則があるからしてwwww」 「なんだよ、経験則って」 「んんwww 聞きますかなwwww 我が封じられし闇の記憶をwwww」 それからというもの伯爵の学生時代の思い出話、というか一種の不幸自慢が始まった。中学時代に女子にいじめられた話(きっかけは伯爵の覗きが発覚したこと)、高校時代に好きな女子に告白した手紙を学校中に回された話(なお手紙の内容は犯罪スレスレ)。 悲惨と言えば悲惨な思い出の数々だが、聞いていて楽しいものではない。ぼくが飽き飽きしていると、隣の部屋から『ゴンっ!』と何かがぶつかるような音が聞こえてきた。 「わ、な、何だろう……」 「んんんwww 薫子殿の……我が妹の部屋からなのですなwww」 「そ、そうなんだ。何かあったのかな?」 「今日は妹の部屋に友達が来ているのですなwwwww それでついはしゃいでしまった以外ありえないwwww 我が妹はまだお子様ですからなwww んんwwwwww」 そう言って笑い飛ばしてから、再び伯爵は己の封じられし闇の記憶を語ろうとし始めたので、ぼくは「トイレ行ってくる」と言っていったんその場を逃げ出した。 伯爵の家のトイレは把握している。ぼくがそこに向かっていると、伯爵の隣の部屋から出てきた薫子と遭遇した。 薫子は右目の周囲を腫らしていた。目の周囲の皮膚は柔らかいので、強くぶつけるとこのような有様になるのだ。ぼくは心配して声をかける。 「か、薫子さん? 大丈夫?」 「……ん。平気。転んでぶつけただけ。それより……」 薫子は手でトイレの方を差し出す。 「行くんなら、どうぞ」 「いや、薫子さんもトイレじゃない? ぼくは良いよ。そんな強く催してないから。譲るよ」 「いい。あたし、検尿だから時間かかるし」 そう言って検尿のキットが入った袋を掲げて見せる。それは確かに時間がかかるだろう。ぼくはお言葉に甘えることにした。 伯爵の家のトイレは綺麗だ。家も立派だし、ご両親がちゃんとした人なのだろう。ぼくは便座に腰かけて用を足しながら、ふとした違和感を覚えている自分に気付く。 その違和感の正体を頭の中で探り……そして思った。 何故薫子は、友達と遊んでいる時に、検尿なんかやろうとしたんだろう? 〇 部屋に戻った後も伯爵から学生時代の愚痴を聞かされ、その報酬という訳でもないが上質のエロ漫画を数冊受け取り、ぼくは伯爵邸を出た。 そして自分の自転車にまたがろうとしていると……隣に見覚えのない自転車があるのに気が付く。 それは伯爵のものでも薫子のものでもない、黒い自転車だった。貼ってある通学シールから、ぼくらと同じ中学に通っている人物のものであることが伺える。遊びに来ている薫子の友達だろう。 シールは緑色で、番号は『5-01』。五組の出席番号一番という意味。 ぼくも五組だから、クラスメイトだ。ウチのクラスの出席番号と言えば……。 「あ☆ 奇遇ですねぇ、増垣くん」 声を掛けられ、ぼくは仰天する。そこにいたのはぼくのヴィーナス、赤月さんだった。 セーラー服を身にまとい、夕日を背負って庭の花壇を背にする赤月さんは非常に絵になった。ぼくは慌ててエロ本の入ったカバンを隠すと、「き奇遇だねぇ」と上ずった声で言った。 「薫子さんに用……ではないですね。帰るところ、って感じですもん。ってことはぁ……用があったのは……あのすごい部屋に住んでるお兄さんの方かなぁ?」 「ドドド、ドキィイイっ! そうなんだよぉ。勉強教えてもらってただけでさぁ。決して、決してあのすごい部屋に用があった訳じゃなくて……」 「ふふ☆ 分かってますよ」 「てて、ていうか。伯爵……新保さんのお兄さんのこと知ってるの?」 「廊下ですれ違う程度ですけど。その時一緒に部屋の中の様子も見えたんです。なんというか……すごかったです☆」 あの部屋にぼくがいたことがバレたとあって、ぼくは酷く赤面する。でも、いかがわしい目的で会いに行った訳じゃないことは強調したので、大丈夫なはずだった。 「でも羨ましいですよねぇ。……自分の部屋を持って、あんなふうに自分の好きなもので自由に埋め尽くすことができるだなんて」 本心が漏れ出したかのように、どこか無防備な様子でそう言った赤月さんに、ぼくは目を丸くした。 「赤月さん、自分の部屋、持ってないの?」 「実はそうなんです。小学生の頃は持ってたんですけど、進学と共に取り上げられまして」 「え? そ、そんなことってあるの?」 「ありえないとわたしも思うんですけどねー。実はわたし、中学受験に滑って今の公立に通ってまして。そのペナルティとして自室を取り上げられたんです。……中学からはいつでも親の目に入るところにいて、ちゃんと勉強しなさい、っていうことで……」 「それはなんというか……厳しいご両親だね」 「母親が過度に教育熱心で。困ってしまいます。家にいる間は勉強以外させてもらえないし、持ち物とかも全部チェックされて隠し事一つできません。だからつい遅くまで友達と外で遊んじゃうんですよね」 「薫子さんとは、仲が良いの?」 「ええ。一年生の頃からの友達です」 それで遊びに来ていたのか。あの伯爵の妹なんだから薫子の方も陰キャなのかと思っていたが、人気者の赤月さんと仲が良いというのは意外だった。 「でも赤月さん、そんな大変な、厳しい環境で毎日頑張ってるんだ。すごい人ってやっぱり、裏ではとっても努力してるものだんだなって思った。本当に偉いと思うよ。皆が君を尊敬している。……ぼくなんかとは本当に月とスッポンだよ」 「もう☆ そうやって自分を卑下するのは禁止ですよ。もっと自信もってください」 赤月さんはそう言ってぼくに笑いかけ、自転車に乗り込んで言った。 「途中まで一緒に帰りましょうか?」 「えええええっ。い、良いのかい?」 「何を言ってるんですか☆ お友達じゃないですか? さあ、行きましょう」 そうして、夕焼け空の下、ぼくは赤月さんと途中まで帰宅を共にした。 涼やかな秋風を肌に浴び、赤月の微笑みを眺め、語らいながら自転車をこぐ。それは天国にも勝る時間だった。 こんな時間がずっと続けば良いと思った。いや違う。もっと素晴らしい時間を、ぼくは赤月さんと二人で送りたくなったのだ。 そのために何をしなければならないのかは、とてもはっきりとしていた。 〇 3 〇 冷や汗が募る。 ある金曜日の放課後。ぼくは体育館裏の大きな木の下に、赤月さんを呼び出していた。 心臓が早鐘のように鳴り響き、何もしていないのに全身は頭から水を被ったかのようにぐっしょりとしていた。これから赤月さんがやって来るのが待ち遠しくもあり、途方もなく恐ろしくもあった。 逃げ出したい。そんな気持ちが鎌首をもたげそうになり、ぼくは慌てて振り払う。 ……結果はどうなっても良い。頑張るって決めたじゃないか。 自分にそう言い聞かせていると、体育倉庫の脇を曲がって、赤月さんが清楚な面持ちとすっきりと伸びた背筋を伴って現れる。 「……増垣くん。どうされましたか?」 赤月さんはいぶかしげな表情でぼくにそう尋ね、こちらの顔を覗き込む。 「あ、赤月さん! ぼ、ぼ、ぼ、ぼくは……」 じっと顔を覗き込まれ、ぼくはもう本当にどうにかなってしまいそうだった。 『いきなり呼び出してごめんね』とか、そういう言葉から入る程度の計画はおぼろげにあったのだが、もはやすべて台無しになっている。おそらく顔は真っ赤になっているだろう。このまま消えてしまいそうだ。 「ぼくは、あ、赤月さんのことを好きなんだっ! この気持ちを伝えたくて、よ……呼び出したんだっ」 言ってしまった。そして赤月さんが取りうる様々な反応について思いを巡らせ、心臓を吐き出しそうな程の緊張に見舞われる。そして、きっと振られるんだろうなあと、ネガティブな覚悟を決めた。 「ありがとうございます☆」 しかし、赤月さんに瀟洒な笑顔でそう返され、ぼくは呆けたように固まってしまった。 え……いや、ちょっと。驚くとか慌てるとか、そういうのないの? 「あ、赤月さん……。あの……ありがとうって」 「ええ☆ ありがとうです。相手が誰でも好きになってくれたことは感謝すべきです。それはとても嬉しいことですし、幸せなことです。増して、それを勇気を出して伝えてくれたことに対しては、相応の誠意を伝えるべきだと、わたし、思うんです」 赤月さんらしい誠実な考えだ。こんなぼくの告白でも、気持ち悪がったり嫌がったりせずに、まずは感謝を伝えてくれるだけでも、赤月さんは本当にできた人だ。 「そして、増垣くんからの『好き』は、わたしにとって特別なものです」 そう言われ、ぼくは思わず目を大きくして赤月さんの方を凝視した。 赤月さんは照れたように頬を赤らめて、若干顔を背けつつ蠱惑的な上目遣いで言う。 「増垣くんがわたしに告白してくれたら嬉しいなって、ずっとそう思っていたんです☆ 返事ももう決めてあります☆ ですが……それを伝える前に、増垣くんには一つやって欲しいことがあるんです。聞いていただけますか?」 「も、もちろんっ。な、なんでも言ってよ」 「分かりました。じゃあ、言います☆」 そう言って、赤月さんはおずおずとした口調で切り出した。 「手紙を書いてほしいんです」 「て……手紙?」 「はい。お手紙です。わたし、小学生の頃から恋文というものに憧れていまして……」 そういうと、赤月さんは頬に手を当て、気持ち体をくねらせながらその場に俯いた。 「言葉や思い出っていうのも、心の中にずっとの残り続けるものには違いありません。それはそれで、とっても価値のあるものだと分かっています。しかしそれと同時に……わたしは形のあるものも欲しい。あなたが必死で考えた、本当の気持ちを本当の言葉で綴った手紙が欲しい。それは永遠に残り続けるのですから。永遠に消し去ることなどできないのですから……」 そういうと、赤月さんは頬に笑みを浮かべて、俯けていた顔をぼくの方に向ける。 「なぁんて。ふふっ☆ 書いていただけますか?」 「も、もちろんだよ! 命がけで書かせてもらうよ」 「できるだけ長く書いてくださいね。期待してますよ☆ 月曜日の朝の時間、ここで待っていますから☆」 〇 まっすぐに家に帰りつき、ぼくは机について赤月さんへの思いの丈を手紙にぶつけた。 書くべきことはいくらでもあった。赤月さんがぼくにしてくれた親切の数々や、それを受けてぼくがどんな気持ちになったのかを、ぼくはノートに書き綴った。 深夜までかかって、ぼくは白紙のノート一冊を書きつぶした。膨大な文章量になってしまったが、赤月さん自身『できるだけ長く書いてほしい』と言っていたので、むしろ喜ばれるはずだった。 赤月さんは『返事はもう決めてある』と言っていた。そしてそれを伝える前に、ぼくの気持ちを綴った手紙を書いてほしいと。 振ってしまうつもりならわざわざ手紙なんて書かせたりしないだろう。ならば、この手紙を受け取った赤月さんは、交際をOKしてくれるということになる。 どうしてぼくみたいな冴えない男に、赤月さんがあんな風に言ってくれたのかは分からないが、それは好きあっている人間同士、じっくりと話を聞かせてくれれば良い。 だが一つ問題があった。それは、赤月さんと交際をするというなら、ぼくには清算しなくてはならないことが一つある。 翌土曜日。赤月さんに手紙を渡すのを二日後に控えた休日、ぼくは家のエロ漫画をすべてカバンに入れて、伯爵の家へと向かった。 「お待ちしておりましたぞwww 増垣殿www」 いつも通りの変な口調の伯爵に出迎えられ、ぼくは猥褻大図書館に訪れる。以前より増えている気がするエロ漫画の山に目を向けると、ぼくは意を決して要件を切り出した。 「これ、今までに伯爵からもらったエロ漫画なんだけど」 そう言って、ぼくはカバンの中に詰め込んできたエロ漫画の数々を見せる。 「今まで本当にありがとう。でも、ぼくはもうこういう本を読まないようにしようと思う。だから……伯爵にこれを引き取ってもらいたいんだ」 そういうと、伯爵は目を丸くしてぼくの方をまじまじと見つめる。 「な、なんですとぉおおおおおおおおおwwwww」 ただでさえつぶれたアンパンみたいな顔をさらにくしゃくしゃにして、動揺を示すように大仰に身を退く。 そんな伯爵に、ぼくは真剣な表情で切り出した。 「もちろんエロ漫画をやめるからと言って、ぼくと伯爵の間の友情に影響がなくなる訳じゃない。というか、これからもずっと仲良くして欲しい。ひさしぶりにできた大切な友達だからね。でも……それでも、ぼくはもうこれ以上、エロ漫画を読むわけにはいかないんだ」 「それは何故ですかな?www 詳しく聞かせて欲しいのですぞwww」 ぼくは伯爵に赤月さんに告白したことを伝えた。返事は一応保留という形だが、実質的にはほぼOKに近い形だということ。そして手紙を書くようにお願いされ、ノート一冊分の文章をしたためてきたということ。 「もし赤月さんがぼくと交際してくれるというのなら、ぼくはこんなものを読んでいる訳にはいかない。赤月さんが一途にぼくを愛してくれるというのに、ぼくの方がこんなものを楽しむのは不誠実だからね」 「んんwwwww 若者特融の潔癖さなのですなwww 別に隠れてこっそり読めば良いだけの話なんですぞwwww バレはしませんwww」 「バレるとかバレないとかじゃない。ぼくがぼく自身を許せないんだ」 「んんwwww 別にエロ漫画を読むことは恥ずかしいことでも不誠実なことでもないんですなwwwwww 男性が己と性欲と向き合うことから逃れられない以上、人間ではなくただの絵にこっそりと興奮するくらいのことは、許されてしかるべきことだと考えますぞwwww」 「他でもない伯爵から『ただの絵』なんて言葉を聞くとは思わなかったな。本当は分かっているんだろう? ぼく達にとってエロ漫画が確かに存在する現実の一部で、そこに対する性欲が、魂の根底から来る真実の想いだということは。そしてそれはぼくの中で、好きな女の子への思いとの両立不可能なことなんだよ」 ぼくはずっと伯爵と共にエロ漫画を愛してきた。ぼくの性的な発達はエロ漫画と共にあったし、ぼくの女性への興味はエロ漫画に向けられていた。 悪いことではない。それもまた心身の健康な発育の在り方の一つではある。 しかしそこにしがみつき続けていては、ぼくがこの先変わっていくことができないことも、予想ができることだった。 ぼくは赤月さんに告白をした。勇気を振り絞ることができた。変わろうとすることができたのだ。古い自分を脱ぎ捨てるために、ぼくは余計なものを切り捨てると決めたのだ。 「……増垣殿は、本当にその女学生を愛しているのですな?」 ぼくの前では初めて真剣な口調になった伯爵に、ぼくは頷く。 「実は赤月さんにあてた手紙も、持って来てあるんだ。誰かに悪いところを直してもらいたくて……。こんなこと友達である伯爵にしか頼めないから」 「拝読しましょう」 伯爵はぼくが書いたノートを黙読した。そしてどこか苦虫を嚙みつぶすような顔を浮かべたかと思うと、ぼくにノートを返して一言。 「思いに貴賎はありませぬ。貴殿は、貴殿の思いが書かれたこの手紙に胸を張って良いのですぞ。それがなんと思われようとも。どんな結果を招こうとも。我は増垣殿の味方なのですな」 「伯爵……ありがとう」 「しかし増垣殿。我は持ってきていただいたエロ漫画、受け取りませぬ」 厳かな口調で言う伯爵に、ぼくは目を丸くする。 「なんで?」 「んんwwwwwww 決まっていますなwwww 我が引き受けるより、もっと良い処分方法……いや、伝承方法があるのですぞwwwww」 いつもの明るい口調でそう言った伯爵は、ぼくの持ってきたエロ漫画の詰まったカバンを持って立ち上がる。 そしてぼくに手を差し伸べて、こう言った。 「こんな青春の詰まったエロ漫画は……我らの思い出の川原に設置しておく意外ありえないwwwww 必ずやこのエロ漫画を伝承する者が現れるのですなwww 増垣殿の思いと性欲は次の世代に永久に受け継がれ、エロスな輪となって世界を包み込むのですぞwww 誇りに思いなされwwww んんwwwwwwwww」 〇 懐かしい川原にぼくらはいた。 思えばここに来ることも随分とひさしぶりだった。周囲の木々を風が揺らす音と共に、川のせせらぎが聞こえてくる。ぼく達が一歩歩くごとに、砂や小石が立てる乾いた音が、山の奥へと吸い込まれていく。 こんなさわやかな川原で、ぼくと伯爵の絆は始まった。そしてぼく達は今日新たな絆をこの川原に作りに来たのだ。かつて伯爵がそうしたように、ぼくはこの川原にエロ本を設置して、やがて継承者がそれを授かりに現れるのを待ち続ける。 「例の岩の影で良いですかな?wwwww」 そう言って伯爵は、川原の中でもひときわ目立つ大きな岩の方に視線をやる。 それは伯爵の背丈を上回るかというような巨大な岩だった。何かのアクシデントで山の方から転がり落ちてきたものが、そのままになっているのだろうと思われる。当時伯爵がエロ本を置いていたのもこの岩の影だ。 「良いよ伯爵。あそこにしよう」 そう言って、ぼく達は岩の方へと近づいていく。 感慨深い気持ちで思い出の岩の方へと歩いていると、声が聞こえてきた。 「……シート一万円。……ですから、それ以上は安く……。……ツケとかないですから」 聞き覚えのある声だった。ぼくが思わず立ち止まると、伯爵はいぶかしげな様子でぼくの方を見つめる。 「どうしたのですかな?」 「いや……声が」 ぼくにそう言われ、伯爵も岩の向こうに気配があるのに気付いたようだった。ぼく達は耳を澄ませてその声を聞き取ろうとする。 「そりゃないよ赤月ちゃん。今までもっと安く買えたじゃないか。もう少しだけ安くしてよ!」 「ものの値段は変動するものです。それに、わたしは仲介人ですので、自分の判断で値段を変える裁量はないんですよ。ごめんなさいね」 「だからって……。シート一万円なんて、どうバイトしたってカツアゲしたって、絶対に足りなくなるよ」 「別に無理にあなたに買ってもらわなくても良いんですよ? このあたりの市場はわたし達がほぼ独占していますからね。もっと潔く払ってくれる人を相手にいくらでも商売ができるんですよ。これ以上ごねるようならあなたとの関係はこれまでです。どうします?」 「そんな……。分かったよ、2シート買おう」 「ありがとうございます☆」 そんなやり取りを聞き取って、ぼくと伯爵は顔を見合わせる。 「伯爵……これって」 「いかにもな怪しい取引なんですな。からまれてはたまりませぬ。逃げるしかありえない!」 そう言って、伯爵はその場から背を向けて走り始めた。ぼくも慌てて後を追おうとする。 しかしいきなり走ったのはまずかった。伯爵の巨体が足元の砂利を鳴らす音が響き渡り、取引をしていた者達がこちらに気付いて、岩の影から姿を現す。 「……増垣くん?」 そこにいたのは他でもない、赤月さんだった。どういう訳か、脇には高校生か、大学生くらいであろう強面の男二人を従えている。そしてその向かいでは、その二人と比べて如何にも三下という風情の小柄なヤンキーが、薬のシートを大事そうに両手で握りしめていた。 「あれ? 赤月ちゃんこいつ知ってんの?」 強面の男の一人が赤月さんに言った。 「ええまあ。一応クラスメイトということになっているただの陰キャです。……っていうか」 そう言って、怪訝そうな目でぼくを見てから、赤月さんは強面の男達に顎をしゃくった。 「ちんたらしてないでさっさと捕まえてくださいよ。目撃されたかもしれないって分かりませんかすっとろいですね。そんなんだからチンピラなんですよ。早くしてください」 年下の女の子に居丈高に命令され、しかし強面の男二人は気分を害した様子もなく従った。 ぼくは逃げる。とにかく逃げる。 何故赤月さんがあんな取引に関わっているのか、強面の男達に一方的に命令できる立場にあるのか。そんな疑問が頭の中でぐるぐると回る。 先に逃げていたはずの伯爵の姿はなかった。逃げ切ったのかと思ったが、あの肥満体の伯爵がこの短時間でそう遠くまで行けているはずもない。どこかに身を潜めでもしたのだろうか? ぼくはあっけなく捕まった。凄まじい力で肩をつかまれ、そのまま赤月さんの前に引き摺られていく。 小石の上にどすんとうつぶせに寝かされたぼくを、赤月さんがその場にしゃがみこんで、蔑んだような目で見つめた。 「一人で何をしに来たんですか? こんなところに」 どうやら、ぼくよりよほど早くに逃げ出した伯爵の姿は 「……赤月さんの方こそ」 ぼくは息も絶え絶えに言う。 「何をしているの? こんなところで。なんでそんな怖そうな人たちと一緒にいるの? その人の持っている薬。まさか、麻薬とか……」 「まさか肯定する訳がないでしょう。とはいえあなたが何を考えてどう騒いだところで、物的証拠がない以上、警察も学校も動きませんが」 そうかもしれない。赤月さんは校内一と言って良い優等生だ。そんな彼女がきっぱりと否定すればそれ以上疑いが向くはずもない。警察を動かすには証拠不足だというのも仰る通り。 「とは言えウザいことには変わりありません。脅して口を封じるべきなのか、むしろ手厚くしてあなたの事なかれ主義に期待するのか……」 「あれぇーっ。なにこれ! キンモ!」 思い悩むように言う赤月さんの声を、シートを買っていた三下風の男の声がかき消した。 「見てよ赤月ちゃん! こいつむっちゃエロ本いっぱい持ってきてるぜ! 捨てにでも来たのかよ! あははははは」 どうやら、手持無沙汰だった三下がぼくの鞄を勝手に改めたようだった。赤月さんは三下のほうに歩み寄り、鞄の中を三下と一緒にまさぐった。 「あら。男の子なんですね。逆に安心しました。人のぬいぐるみにしか興味がない変態なのかと思ったら、普通にエロ本とかも読むんじゃないですか☆」 言いながら、面白がるようにして鞄の中をひっくり返す赤月さん。 「うっわぁ。何冊あるんですこれ? 他に何の取り柄もない癖に性欲だけは旺盛って最悪ですよ。つかどうやってこんなもん手に入れて……ってあれ?」 エロ本に混ざって、一冊のノートが鞄の中から零れ落ちる。 汚物でも扱うようにして、赤月さんはそれを指先で持ち上げた。ノートのタイトルは『赤月さんへ ぼくの愛の詩』。 「え? わたしへの手紙? ひょっとしてもう書いたんですか?」 赤月さんは頬に笑みを浮かべてノートを開く。そして嬉々とした様子で読み始める。 「『君はぼくにとっての太陽』『気が付けば君の姿を目で追っている』……。あははは☆ 語彙力ないですねー。どっかで聞いたことあるような文句ばっかり☆ でもこんなに並べ立てられたらキモいなんてもんじゃないですって☆ え? なに? 『君の作ったぬいぐるみを手に取って君の優しい匂いを嗅ぎ取っていた』? キモーい!」 赤月さんは腹を抱えて笑い出し、その場で膝を折り曲げる。それを聞いていた周囲の男達も、下卑た哄笑でぼくを取り囲んでいる。 ぼくは心臓を吐き出しそうな心地になった。恐怖と羞恥、そして困惑とで精神をぐちゃぐちゃにされるような感覚だ。 目の前にいるのは本当に赤月さんなの? ぼくの知っている、あの優しい赤月さんなの? 「可哀そうに☆ 頑張って書いてきてくれたんですね。でもごめんなさい。あなたみたいな陰キャわたしが相手するはずないじゃないですか。一人でシコってろ☆ ばーか☆」 「そんな……。赤月さん、じゃあ最初から」 「ええそうですよ。あなたの告白なんて受けるはずないじゃないですか。手紙を書かせたのも笑いものにする為です。クラスの友達の皆に見せて一緒に面白がろうと思って」 赤月さんは残酷な真実を告げる。 「あなたみたいな陰キャにも親切に接していれば、自分の株があがると思って、そうしていただけなんです。ただ実際にはそんなことをしても、先生からはともかくクラスメイトの評価はほとんど上がらなかったんですよね。『増垣なんかと話すなんて、赤月は美人の癖に変わってる』……こんな評価が関の山だったんですよね」 ……あなたどれだけ嫌われてるんですか。と、赤月さんはため息を一つ。 「自分の評価を上げるのも難しいものです。効果がないと分かった以上、あなたのことなんて切り捨てても良かったんですけど、なんだか手のひらを反すタイミングが今一掴めなくって。惰性で接している内に……あなたが告白して来たんです」 ……キモかったですよ☆ と赤月さんはにっこりと微笑んで続ける。 「その時思いついたんです。あなたに手紙を書かせてそれをクラスのみんなに見せてやろうって。そして、あなたに優しく接していたのも、そうやってあなたを笑いものにするための作戦だったってことにしちゃえば良いって。そう考えたんです。ふふ☆」 足元が崩れ去って瓦礫の底に沈むような感覚をぼくは覚える。だがしかし現実はそれよりもさらに残酷だ。 単純な暴力に打ちのめされるのは、どれだけ苦しかったとしても苦しいだけ。過ぎ去ってしまえばなんということもない。傷付いた心身を休めればそれで済む。 しかし宝石のように大切にして来た赤月さんへの想いを、他でもない赤月さん自身から踏みにじられるのは、全身を八つ裂きにされるかのように残酷な仕打ちだった。それはもう二度と立ち直れないくらいに。この世界のすべてに、自分自身のすべてに絶望してしまうくらいに。 「と、いう訳で、このノートは拡散させてもらいます。でもそれだけじゃつまらないので、もっと面白いことをしてもらおうと思います。……増垣くん、あなた、今すぐこの場で服を脱いで裸になってください。逆らったらこの人たちが無理やりにでも脱がしますし、ぶん殴ります」 強面の男二人が赤月さんの前に出てきた。どんな力関係が彼らの中にあるのかは分からないが、彼らは赤月さんの命令を寸分たがわず実行するだろう。それがどれだけ残酷な行いであろうとも。 「ぼくを裸にして……どうするつもりなの?」 「このノートの内容を読み上げながら、オナニーしてください」 言いながら、赤月さんは近くにあったちょいど良い大きさの岩に腰かけて、ぼくに向けてノートを放った。 「得意なんでしょう? 心配しなくても、ちゃんと見ててあげますよ。ふふ☆ 嬉しいですよね?」 そう言って、赤月さんはスマートホンを取り出してぼくの方へと向けた。 〇 命令に背いたら、強面の男達に一発ずつ殴られた。 仕方なくぼくは裸になり、赤月さんの言う通りにノートの内容を読み上げながらオナニーを始めた。 途中から涙が出てきて、ろくに勃起もできなかった。しかしそれで赤月さんが勘弁してくれることはなく、ぼくがちゃんとオナニーを始めるまで、何十分が経とうとも面白がりながらカメラを向け続けた。 その場から解放されるために、ぼくは泣きながらオナニーをやった。射精まで随分とかかってしまった。人生で一番苦しいオナニー。しかしどういう訳か、今までで一番濃くて多量の精子が飛び出た。 「はい☆ お疲れ様でした☆」 赤月さんはそう言ってスマートホンを懐に片付ける。 「これでもうわたし達に逆らう気は失せましたよね☆ 今日見たことは口外しないでください。もしも逆らったら……分かっていますよね?」 そう言って、赤月さんは男たちを引き連れてその場から歩き去っていった。 ぼくは全裸でぼんやりと川原の方を見つめていた。自分自身を作り上げていた様々な思考や記憶が完全に崩れ去って、絶望だけを感じ続けるガラクタになったかのように思われた。もう何もかもがどうでも良かった。 「増垣殿」 そんなぼくに、背後から声がかけられた。 伯爵だった。 「……これで分かったのではないですか? 三次元の女なんて、碌なものじゃないことが」 言いながら、伯爵は裸になったぼくの肩に手を置く。 「実はずっと心配だったのです。貴殿は若く、純粋過ぎた。貴殿の想いが純粋なものであることは分かったので、とやかく言えなかったのですが……しかし騙されているんじゃないかとは薄々感じていましたぞ」 ぼくは全身を震わせながら伯爵の方を見る。伯爵は自身の同類に憐れみを向けるような表情で、優し気にぼくを見つめている。 「貴殿の心の痛みは分かります。似たようなことなら、我も学生時代に何度となく経験しているのですから。友よ、これからは我と共に、二次元の道をひた走りましょうぞ」 「うるっさいんだよ! 一人で逃げた癖に!」 ぼくはそう言って伯爵の手を振り払った。 「一人で物陰に隠れていたんだろう? それの何が『友よ』だ! どの口が言うんだよ、本当に!」 「し、しかし増垣殿。我が出て行ったところで状況は何も……」 「それが言い訳なんだよ! もう伯爵のことなんて知らない! 絶交だ! どっか消えちまえ! このキモオタ!」 言いながらぼくは乱暴に服を着て、おろおろとする伯爵を置き去りにして、足早にその場を去った。 〇 4 〇 帰宅し、ベッドに倒れこんだぼくは、そのまま丸二日間身動きをとることさえできなかった。 信じられない程みじめな時間を過ごしたダメージと、大好きだった赤月美優の本性を知ってしまったショックとで、ぼくは立ち上がる気力すら失ってしまった。 目に映るものすべてが敵に思えたし、世界中のあらゆる物事を信じられなくなった。このまま自分の殻に閉じこもり、引き籠ったまま人生を終えたくなった。 今ならば伯爵の気持ちがよくわかる。過去にぼくと似たような目にあったというのは、本当だろう。限りなく深く心を傷付けられた人間が、立ち直ることを拒否して引きこもりになってしまうというのは、本当に良くあることなんだと思う。 それでも時間は容赦なく流れ……月曜日が訪れて、ぼくは学校に行かなくてはならなくなった。 〇 全身が鉛のように重く、腹の奥がしくしくと痛む。一歩進むごとに吐き気がしそうな程で、自宅から出た瞬間にその場に蹲ってしまいたくなる。 鈍い体を引きずって、どうにかぼくは学校へと辿り着く。 校門を抜けて自転車置き場に自転車を停めている間中、嘲るような囁き声と、蔑んだような視線を全身に浴びる。 赤月美優はぼくの書いたノートをクラス中の人間に拡散すると言っていた。例のオナニー動画までもが拡散されている可能性もある。当然、今日という日はぼくを笑いものにする為の、イベント・デーなのだろう。 教室に行くのが怖くてたまらない。もういっそこのままUターンして、家に引きこもってしまおうか。 そう思った時だった。 「なあ増垣。おまえ、赤月に手紙で告白したんだって。キンモーっ!」 そう言って、ぼくの肩を引っ張る男がいた。 クラスのボス的男子、武田光洋である。 「なあなあ。なんて書いたか教えてくれよ。俺もノートを写メったのスマホで見たんだけどさー、おまえの口からも聞きたくてさぁ。早く言ってくれよ。なあなあ」 いじめは教室に着いてから赤月を主導に行われるものと思っていたが、待ちきれない者もいるものだ。ぼくはその場で俯いて、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。 「黙ってないでなんか言えって。陰キャの分際でよ。シカトしてんじゃねぇぞ!」 無視されたのに腹を立てたのか、武田はぼくの頬に二連続でパンチをくれた。ケガをするほど強い力を入れられた訳ではなかったが、思わずその場でよろけて尻餅を着いてしまう。 「あ? なんとか言えよ。なあ。増垣くぅん」 武田はぼくの肩を掴んで持ち上げて、下卑た笑みを浮かべながらぼくに顔を近づけ、臭い息と共に吐き散らす。 「なぁ、何を思って自分が赤月と付き合えると思ったの? ちゃんと自分を客観視できてた? なーあ、なんとか言ってくれよ増垣くんよぉおっ」 無気力な沈黙で自分を守っているのも限界だった。このまま屈服してしまった方が楽なんじゃないかという気持ちが首をもたげた、その時だった。 「そこまでですぞぉおおおおおおおおwwwwwwwwwwwwwww」 聞き覚えのある声と共に、上下にスウェットを着用した巨漢が、すさまじい勢いで武田の元に走り寄り、タックルを決めた。 突如出現した肉団子にアタックされて思わず吹き飛んだ武田は、驚愕の表情で、自分を突き飛ばした相手を見つめる。肉団子……伯爵はぶよぶよとした指先を突き付けながら、唾を飛ばして吠えた。 「やいwwww このリア充めwwww 貴殿などどれほどの勝ち組でヤリチンであろうとも、人間の屑でしかありえないwwwww 本当に高貴なる者は、どんな理由があろうとも、罪のない相手をなぶるような真似をせぬのですなwwww んんwwwwwww」 「何を訳の分からないことを言っているんだ!」 言いながら、武田は憤怒の表情で立ち上がる。 「なんのつもりだよ、おっさん! ここは中学校の中だぞ? 勝手に入って来て暴力をふるって……ただで済むと思っているのか?」 「んんwwwwww これだから脳筋ヤンキーはダメなんですなwwww こっちは駐輪場で暴力行為が行われているのを外から発見した為に、正当防衛にて制止を試みただけなのですぞwwwwww ただで済まないのはそっちの方なのですなwwww」 その主張内容の正当性はともかくとして、堂々とした口調で反論する伯爵に、武田は一瞬、鼻白んだような表情になる。それを見て伯爵はますます調子に乗った様子で笑い声をあげる。 「はい論破!wwwwww QED証明終了wwww んんwwww リア充、ざまぁwwww なのwwww ですぞwwwww」 ふざけた口調で挑発する伯爵に、武田はとうとうぶちキレて殴りかかる。 格闘になったら流石に伯爵に勝ち目はない。伯爵はパンチ一発でその場に吹っ飛び、仰向けの状態で身動きしなくなる。 そんな伯爵にも武田は容赦しなかった。伯爵ににじり寄った武田は、その靴底を伯爵の太った腹に容赦なく浴びせかける。完全にノックアウトした相手を足蹴にする、それは卑劣な攻撃だった。 「伯爵!」 ぼくは伯爵に駆け寄って、「やめろ! 何をするんだ!」と武田に向けて吠えた。 「うるせぇよ。なあそいつ、おまえの知り合いか? だったら、おまえも……」 そう言ってこぶしを握ろうとした武田だったが、「こんなところでこれ以上大人をボコしたらやばいんじゃないの?」というギャラリーの声を聞き、「ふんっ」と不快そうに鼻息を鳴らす。 「まあいいや。喧嘩売って来たのおまえだからなデブ。大ごとにすんなよ?」 伯爵にそう告げて、武田は忌々し気な足取りでその場を去った。 ぼくはその場で伸びている伯爵に声をかける。 「伯爵っ、伯爵……大丈夫?」 「んん……。この程度、学生時代に受けたヤンキーからの暴力と比べれば……なんということもないのですな……。あんな奴は……ただの、雑魚ですぞ……」 言いながら、伯爵はよろよろとその場を起き上がる。 「何をしに来たんだよ、伯爵」 「決まっておりますぞ、増垣殿」 伯爵はぼくの目を見て、殴られて真っ赤に晴れた痛々しい顔で朗らかに微笑む。 「貴殿との友情を取り戻しに来た以外、ありえない」 「ぼくとの……友情?」 「そうですぞ!」 そう言って伯爵はその場で土下座の体制を作る。人目も憚らず額を地面にこすりつける大人の姿に、周囲の人間が騒然となった。 「増垣殿! 一昨日は本当に申し訳ありませぬ! 増垣殿の痛みはこれ以上なく理解できたというのに……我は己が見の可愛さに一人茂みに隠れてしまっておりました。増垣殿が我に幻滅するのも、理解できます」 額が擦り切れる程頭を地面に擦り付ける伯爵の、ぼくを守ろうとして砂まみれになった全身に、ぼくは胸が張り裂けそうな心地になる。 「この償いは、必ずやしてみせると! 我はエロ漫画の神に誓ったのですぞ! きっと赤月というメスガキは、尚も増垣殿を痛めつけようとするに違いありませぬ! 増垣殿を守る為、メスガキ赤月を我が大人の力で分からせることこそが、我が償いの道でしかありえない!」 ぼくは自分が恥ずかしくなった。 確かに伯爵は、裸でオナニーをさせられるぼくに何もできなかったかもしれない。しかしそれは仕方のないことだ。伯爵の言っていた通り、あの場面で伯爵が出てきたところでどうなる訳でもなかったはずだ。ぼくは無茶を言って伯爵に甘えていただけだ。 そして何より、伯爵は今、武田にいじめられているぼくを助けるために戦ってくれた。自分自身をこれほどボロボロにして、ぼくを助けてくれたのだ。これで伯爵を許せないならば、ぼくは本当の屑になってしまう。 「ありがとう伯爵。ぼくは伯爵のことを許すよ。あの時は責めちゃって、ごめんね」 そういうと、伯爵は震えるこぶしを持ち上げて、親指を立てて微笑んだ。そしてこと切れたように目を閉じて、握っていたこぶしはそのままに両手を地面に投げ出す。 そして眠ったように動かなくなった。 「伯爵……っ。伯爵ぅうううっ!」 「……さて」 絶叫するぼくに、伯爵は何でもないようにその場でごろんと立ち上がり、砂を払って何事もなく立ち上がった。 「では貴殿に許していただけたところでwwwwww さあ行きましょうぞ、増垣殿wwwww」 ぼくはずっこけそうになる。 「紛らわしい真似をすんなよ。死んだと思ったじゃないか」 「んんwwww 申し訳ありませぬwwww」 「それで、行くって何? どこに?」 「これでは目的の半分も達しておりませぬからなwwww さあ、行きましょうぞ増垣殿www 本当の敵は、この先におりますwww」 「本当の敵って……?」 「決まっておりますぞwwww」 伯爵は言う。 「赤月美優という件のメスガキですwwww 彼奴を打ち倒し、親友と妹をその魔の手から守るのですwwwwww そのためには我が身が滅ぼうとかまいませぬwww んんwwww 戦うしかありえないwwww」 〇 無言で校舎に向けて歩き始めた伯爵に、ぼくは声をかけた。 「赤月と戦うって……伯爵、どういうつもりなの? いったい何をするつもり?」 「んんwwww 決まっておりますなwww 大人の力を使って『分からせ』るのに決まっておりますwww そのために我は、刑務所に行ったってかまわないのですなwwww」 伯爵は身の破滅を覚悟して赤月さんと戦うつもりらしかった。だがそんなこと、ぼくが許せるはずもなかった。 「ダメだよ、伯爵。そりゃあぼくだって赤月さんのことは憎いけど、でもそのために伯爵が刑務所に行ったりするのは、絶対に嫌だ」 「しかし増垣殿。ことは増垣殿と我だけの問題ではないのです」 伯爵はまじめな声で語り始める。 「昨日、部屋で落ち込んでいた我は、なんとか赤月を懲らしめる方法を考えようと、情報収集のために妹のところに向かったのです。そして赤月殿が増垣殿を辱めた話をすると、薫子殿もまた、現在進行形で赤月殿に陰湿ないじめにあっていることを、告白してくださったのですな」 ぼくは驚いた。しかし、同時に納得してもいた。 思えばその兆候はあったのだ。前に伯爵の部屋に行った時、隣の薫子の部屋から何かがぶつかるような音がしたことがある。そしてその後、伯爵邸のトイレに行く途中で会った薫子は、何かに打ち付けたかのように顔を大きく腫らしていた。 あの時薫子の部屋には赤月がいたはずだ。赤月は『一年生の時からの友達』などと言っていたが、実際はいじめっ子といじめられっ子の関係で、あの時も薫子は赤月に殴られていたのではないか? 「赤月は表向き優等生であるかのように大人達に思わせておきながら、実際は犯罪組織とも繋がりを持つ非行少女で、麻薬の売買や児童買春などの仲介でその腕を買われているとのことですぞ。そんな赤月は学校の裏ボス的存在でもあり、逆らえる者は上級生、いや高校生でもいないのだとか」 「そんな人間に……薫子さんはいじめを受けているんだ」 「薫子殿はおとなしい性格で押しが弱く、その所為か一年生の時から目を付けられていたそうなのですな。学校で小遣いをせびられるとか使いっ走りにされるに留まらず、家にまで押しかけてまで様々な命令をされると申しておりました。そのことを兄である我に打ち明けてくれたのですぞ」 ぼくは思い出す。この自転車置き場で薫子と会った時、彼女が漏らしていた言葉を。 『んー……。あたしは逆に、毎日学校に来られる人の方が、それを我慢し続けられる人の方が、幸せだと思うし、羨ましいけどね』 赤月からのいじめの所為で、彼女は学校に来ることがつらかったのだ。そして不登校気味になっていた。赤月はそんな薫子の家に押しかけてまで彼女を苦しめていた。 「……許せないな」 ぼくは思わずそう漏らしていた。 「……なのですぞ。ですので、増垣殿。これは増垣殿と我だけの問題ではありませぬ。我が妹を守るためにも、身を賭して赤月を滅殺せねばならぬ使命を、我は背負っているのですな」 決意に満ちた声でそう言われ、しかしぼくは首を横に振った。 「でもダメだよ、伯爵。伯爵の考えているようなやり方じゃダメだ。薫子さんだって、そんなことは望まないよ」 「しかし増垣殿。他にどんなやり方があるというのですかな?」 「向こうは犯罪者なんだ。ちゃんと証拠をつかんで訴えれば、向こうの身の方を破滅させられる。家裁送致にしてやれるくらいの材料はきっとあるはずだよ」 「しかしそんな証拠をどう手に入れるというのですかな? 確かに我らは麻薬の取引現場を目撃しました。しかし証拠がない以上、どうとでも言い逃れが可能なのですぞ」 確かに言う通りかもしれない。ぼくが受けた暴行や自慰行為の強要も含め、赤月のいくつかの犯行についてぼくは知っている。しかし麻薬については言い逃れをされてしまうし、その他の罪では家裁送致にまではさせられない。最悪、表向きの優等生の顔を使って、無傷で切り抜けられる恐れさえある。 合法的に彼女を追い詰める方法はない。奴に立ち向かうには、伯爵の言うように、我が身を犠牲にした強硬策しか存在しないのだ。 ……本当にそうか? ぼくは考える。方法はあるんじゃないか? 伯爵を犠牲にすることなく、もっと合法的に赤月を破滅させられる、確かな材料を。ぼくは知っているんじゃないか? 今では後悔しているとは言え、ぼくは赤月のことが好きだった。その挙動や言動はすべて記憶している。赤月の身の回りの持ち物や境遇についても、ある程度知っているつもりだ。何か方法はあるんじゃないのか? そして記憶の糸を辿り、ぼくはとうとう閃いた。 赤月を追い詰める方法を。赤月を破滅させる材料の在り処を。 確信がある訳じゃない。しかし、賭けてみる価値はある。 「やはり直接対決しかありえない! 増垣殿! これは我の戦いなのです! 見送ってくだされ、友よ」 「待って!」 ぼくはそう言って、覚悟を決めた様子の伯爵を制止する。 「……待って。ひらめいたかもしれない。赤月美優が麻薬の密売をしている、その証拠が、どこにあるのかを」 〇 ぼくと伯爵は学校の二階にある被服室に訪れていた。 伯爵の巨体は目立ったが、今のところ教師に遭遇せずには済んでいる。いざとなれば父兄ということにして誤魔化せば良かったが、しかし遭遇しないに越したことはなかった。 「本当に、この中に麻薬があるのですかな?」 という伯爵に、ぼくはぬいぐるみを持ち上げて「……多分」と口にした。 赤月は表向き手芸部に所属していることになっている。このクマのぬいぐるみも彼女の作品だ。赤月のこさえたこのぬいぐるみに、ぼくは一時期、性的な関心すら寄せて毎日見に来ていた。 「……理由は後で話す。今は、これを持って職員室に行こう。そして中を割いて見せれば、そこから事態はぼくの思うように転がるはずだ」 そういうぼくを信頼したように、伯爵は頷いて歩き始める。そして共に被服室の出口に向かったところで、信じられない人物がそこで待ち構えているのに気付いた。 「あは☆ あんなことがあって、良く学校に来られましたね、増垣くん☆」 一つしかない出入口に立ちはだかるように、赤月美優が瀟洒な笑みを浮かべて立っている。そしてぼくの手に握られているぬいぐるみに視線をやっている。 「なんのつもりです? とうとうそのぬいぐるみをトイレに持ち込んでシコる気になったのかしら? そんなことしちゃったら犯罪ですよ? この変態☆」 「……ねぇよ」 「は?」 「おまえじゃもう、勃たねぇよ」 ぼくがそう言うと、赤月は珍しくむっとした表情で顔をしかめ、一瞬だけ、押し黙る。しかしすぐに冷静さを取り戻したように、毅然とした表情でぼくに言った。 「そうですか。ですがそれはそこに置いて行ってください。持ち出し厳禁ですので。従わなければ大声出します」 「だったらこっちは押し通ってでもこれを持ち出すまでだ」 「何故そのぬいぐるみに執着するのです?」 「おまえの方こそ、どうしてこのぬいぐるみを持ち出されることを恐れている? 言ってみろ」 赤月は眉をひそめて押し黙る。その態度に、ぼくはますます確信を強めた。 「……おまえは自分の部屋がないんだってな」 ぼくは探偵にでもなった気分で話し始めた。 「家が厳しくて、中学受験に失敗した所為で自分の部屋を取り上げられた。家では常に親の監視下に置かれ、勉強しかさせてもらえない状態が続いている。自宅にある持ち物はすべてチェックされ、隠し事一つできない状態に追い込まれた」 「……よく覚えていますね」 そんなこと話さなければ良かった、とでも言いたげな態度で赤月は漏らす。 「麻薬販売の仲介人を務めるおまえは、どこかに麻薬を隠し持っていなければならない。だがしかし、そんな状態の自宅に、麻薬など隠しておけるだろうか? まあ無理だろう。家の外のどこかにおまえは隠し場所を設けているに違いないと思った」 「それがそのぬいぐるみであると?」 「このぬいぐるみには、背中の部分に極めて不自然な縫い目があった。ぬいぐるみを綺麗に縫うだけなら必要のない場所に、しかも繰り返し引き裂かれ縫い直されたようなものがな。……中に何かが隠されている可能性は、高いと思ったんだ」 「……そうですか。はあ。油断しましたね」 赤月は肩を竦めてそう言った。 「あなたがそのぬいぐるみを触っていたのは見ましたけど……。持ち出してる様子もなかったですし、ズリネタにされるだけなら中身にまで気付かないと、タカをくくってしまっていました。能無しの落後者だと思って侮ったミスは認めます」 首を横に振り、赤月は憂鬱そうな声で喋り続ける。 「誰かに預けておくとかするべきだったんでしょうか? けれどその辺のぼんくらには任せておく訳にもいかないでしょう?」 「こうして発見されたのなら、おまえだってぼんくらだ」 「黙れ陰キャ! ……しかしぎりぎりで間に合いましたね。自転車置き場での悶着を聞いて、一応ぬいぐるみの様子を見に来て正解でした」 そう言って、赤月は伯爵の方に視線をやる。 「あなた、薫子さんのお兄さんですよね? 妹さんを通じてここに来てますか? 違うのなら立派な不法侵入。わたしみたいな清楚な女子に大声を出されれば立場がまずいのでは? 早くそのぬいぐるみをわたしに返してくれれば、悪いようにしませんよ☆」 「んんwwwww そんなことはありえないwwww やーなこった、なんですなwww」 伯爵は口をにんまりとさせながら言う。 「そもそも我は貴殿のような、我のような陰キャをゴミを見るような目で見るメスブタは一番嫌いなのですぞwwwww 我が暗き思い出が疼くようですなwww んんwwwwwww メスガキは分からせるしかありえないwwwww」 「うわ☆ キンモ☆ その『www』ってどう発音してるんですか本当に気持ち悪い」 「『☆』を付けて喋る貴殿も人のことは言えないではないですかな?wwww」 「うるさいですね☆ っていうかそもそもですね? そのぬいぐるみの中に本当にブツが入っていたところでどうなるっていうんですか? 他に証拠はないんだから、ギリギリで言い逃れはできます」 「証拠ならあるぞ。おまえ自身の肉体だ」 ぼくは言う。 「尿検査をすればおまえの体からは必ず薬物反応があるはずだ。おまえの作ったぬいぐるみの内部から、おそらくおまえの指紋が付いているであろう薬物が見つかれば、必ず検査が行われる」 「ブッブー☆ わたしは自分では薬なんて使ってません☆ っていうか今月行われた尿検査だって、無事に突破していますよ。残念でした☆」 確かに今月行われた尿検査で、赤月から薬物反応があったという話は聞いていない。 ……しかしそれには理由がある。 「違うな。おまえは尿検査でズルをしているはずだ。おまえが提出した尿は、おまえ自身のものではない」 ぼくは言う。「どういうことですかな?」と声をかける伯爵に、ぼくは頬に笑みを浮かべて言う。 「赤月がこないだ伯爵の家に来ていた理由だよ。赤月が薫子さんの部屋にいた日、ぼくはトイレに向かう途中で、検尿の袋を持った薫子さんと遭遇したんだ。これから検尿をするんだって言っていた」 「それがどうしたのですかな?」 「この学校では、一組から五組の検尿は今月行われるが、六組だけは人数の都合で来月別の病院で検尿が行われる。そして薫子さんの所属は六組だから、彼女があの時検尿をしていたのはおかしいんだよ」 集会で生活指導の教師が言っていたことだ。思えば、もっと早く違和感を覚えてしかるべきだった。 「きっと赤月は自分の代わりに薫子に検尿をさせる為に伯爵の家に行っていたんだ。検査する病院が違うから、『替え玉』は発覚しないと考えたんだろう。そうする必要があるということは、赤月の身体には後ろ暗いところがあるということだ」 そう言ってぼくが赤月に指先を突き付けると、赤月は視線を俯ける。 「売人なら売るだけに徹していれば良かったでしょうに。愚かなのですな」 伯爵は言う。それを聞いて、赤月は強い怒りと敵意を放射しながら吠える。 「あなたに何が分かるんですか!? ぬくもりも逃げ場も何もない家の中で、四六時中監視され続けたわたしの、薬にでも逃げなければ気が狂いそうになる程の苦しみが! 甘ったれた引きこもりなんかに、何が分かるんですか!?」 「貴殿が救いようのない悪党なことは分かるのですな。さあ、観念するのですぞ!」 「誰がしますか! そのぬいぐるみさえここから持ち出させなければ、わたしの身体が検査される理由はなくなります。ここは絶対に通さない……わたしは絶対に負けません!」 追い詰められた様子で叫ぶ赤月に、ぼくは冷静に告げる。 「押し通るまでだ。こっちは男二人だぞ? おまえ一人で何ができるんだ?」 「だったら大声を出して人を呼びます! 助けが来るまでの時間くらい稼いで見せます」 「出してみろ。伯爵の体重を受け止められると思うなよ?」 「やってみないと分かりません! せぇの……」 そう言うと、赤月は大きく息を吸い込んだ。 その瞬間、伯爵はぼくの方を見て何やら目配せをする。まずぼくの方を見て、一回だけ瞬きをしてから、次に窓の方へと視線をやった。 それだけで……ぼくは伯爵の意図を察した。それで十分だった。 「きゃぁあああっ!」 赤月が悲鳴を上げたその瞬間、伯爵は赤月の方へと突っ込んだ。 するりと身をかわして赤月は伯爵の突進をいなす。ぬいぐるみを持っていない伯爵は行かせても良いという判断だった。正しい。そしてぼくがやって来るのを身構えて待った。 しかしぼくは……赤月の待つ被服室の出口の方ではなく、窓の方へと全力で走った。 「……なっ!」 虚を突かれた表情の赤月を見送りながら、ぼくは両腕で顔を守りながら窓を突き破り、校舎の二階から外へと飛び出す。 校舎の二階は大した高さではない。おまけに、ぼくは体格が出来上がっていない分体が柔らかく、体重も軽い。 ぼくは無事に足から着地することに成功した。そのまま前のめりにグラウンドに転がってしまうが、全身のいくらかの擦り傷を作るのみで、問題なく起き上がる。 節々の痛みと共に全身を貫く。しかし勝利の笑みをかき消す程ではない。ぼくは高笑いしながら校舎を駆けだして行った。 さて、向かうべきは職員室か、それとも警察署か。 〇 結局、ぼくは自転車に乗り込んで警察署を目指した。 警察官に事情を話し、ぬいぐるみを預ける。すると十数分ほどして、血相を変えて現れた警官が、中に麻薬が入っていたことをぼくに告げた。 「本当に、君のクラスメイトの持ち物なんだよね?」 「はい。そうです。指紋が付いていませんか?」 「調べてみよう。そして、そのクラスメイトに薬物検査を実施できないか、掛け合ってみる」 指紋は検出され、赤月さんは警察署に連行されて検査を受けた。 答えは当然陽性。その後の取り調べで様々な余罪が発覚。薬物を使うだけでなく売買にもかかわっていた点、それも犯罪組織と深い関りを持っていた点が重く受け止められ、家裁送致が行われることが決定したという。 赤月は学校に来られなくなった。それにより、ぼく達は見事に目的を達成した。 薫子は赤月からいじめられなくなり、ぼくの学校生活も比較的穏やかなものになった。 それもこれも伯爵が身を挺してくれたお陰だった。あれから伯爵は、ぼくが逃げる時間を稼ぐ為赤月に組み付いていたところを、体育教師にボコボコにされていた。 さらに、校内への不法侵入と、非行を暴く為とはいえ女子に組み付いていた咎で、起訴はなかったものの何日か警察署のお世話にはなった。絞られて帰宅した伯爵は、げっそりとした様子で家族にこう言ったらしい。 「……俺、就職するわ」 取り調べ担当の刑事に事情を説明したところ、伯爵自身の生き方について大説教をされてしまったらしい。エロ漫画が好きなのも現実の女子を嫌うのも別にかまわないが、家族に迷惑や心配をかけるのは良くないよ、と言った内容だった。 そんな説教なら伯爵はこれまでに何度も受けて来て、無視してきただろうに。その刑事の説教を聞き入れることにしたのは……もしかしたら、赤月に勝利したことで、伯爵の中で何かしらの自信が生まれた為かもしれなかった。 〇 「やっぱり……三次元の女などありえないのですぞwwwwwww」 ある日。猥褻大図書館に訪れたぼくは、開口一番伯爵のそんな雄たけびを聞かされた。 何があったのかと聞いてみると、最近アルバイトを始めたというコンビニで、一緒にバイトに入っている女子高生(金髪でツインテール)から、生意気な口を効かれるという愚痴が始まった。 職場では彼女の方が先輩にあたり、仕事については親切に教えてくれるのだが、伯爵の出勤時の服装をバカにしたり、伯爵の趣味を笑ったりしてくるらしい。 「んんwwww 服など着れれば十分だというのに、あのメスガキはやれシャツをインするのはダサいだのジーンズがよれよれなどとくだらぬことばかり抜かすのですぞwwwww 増してや好きな漫画やアニメの話をした際に、我の好きな作品に対して『それってオタクの好きな奴ですよねー。キモーい』などと抜かしおるのは看過できませぬwww 我が趣味の否定とは我が魂の否定と同義なのですぞwwwww」 一度愚痴が始まったら止まらないのが伯爵の性癖である。それを聞き流してやりながら、しかしぼくは内心でこうも思っている。 『キモーい』と馬鹿にされるとは言え、好きな漫画やアニメについて話ができているのなら、それはちゃんと同僚として上手くやれているということなのではないだろうか? それに、その女の子の話をする伯爵は、どこか嬉しそうだ。自分で口にしている程、その子との関係性を疎んでいる訳ではないんじゃないかと、ぼくはふと思った。 「あのメスガキの方こそ少年漫画とか無茶苦茶読んでて、話を聞いていくと実は結構腐女子な癖にwwww しかもwww それを指摘すると必死になって否定してくるのですからお笑いなんですなwwww んんwwww 聞いていますかな増垣殿wwwww」 「聞いてるよ。本当に三次元の女って最悪だよね」 「んんwwww さすがは我が友ですぞwww 良く分かっておられるんですなwww」 「もちろんだよ。それじゃあ伯爵、ぼくもうそろそろお暇するよ。今日もありがとうね」 「んんwwwww またいつでも来るのですなwww」 そういう伯爵に見送られ、ぼくは玄関の方へ出る。 そして自転車にカギを差し込もうとしたところで、ふと声をかけられた。 「増垣くん」 薫子だった。時々そうしているように、縁側に腰かけてぼんやりと空を見つめていたらしい。 「新保さん? どうしたの?」 「ん……。お兄ちゃんと一緒に赤月さんと戦ってくれたこと、ちゃんとお礼、言えてなかったなって、思って」 そう言って、薫子は頬を少しだけ綻ばせて見せる。基本的に無表情な彼女だが、最近では少しだけ、微笑みを見せることも増えている。 その笑顔はなんだか、ドキリとさせられることもある。基本的にぼくは、女の子の笑顔というものに弱いのかもしれない。それに薫子は結構可愛い女子だ。まつ毛も長いし、肌も白いし、目も大きい。気が付けば、その表情が気になって見入ってしまっていることもある。 「ありがとうね。増垣くん」 「全然いいんだよ、そんなことは」 「今日もお兄ちゃんと、楽しそうに話してたね。お兄ちゃん、声、おっきいから。聞こえてくるよ」 「そうなんだ。なんだか、恥ずかしいな」 「やっぱり、三次元の女の子は、嫌い?」 「ぼく? うーん……伯爵の前では、そう言ってるかな」 「そうなんだ。じゃあ……んーと」 そう言って、薫子はわずかな沈黙の後、独特の淡々とした口調で切り出した。 「ねぇ。明日、一緒に学校に行かない?」 ぼくは目を丸くして、思わず薫子の顔を見入った。薫子はその長いまつ毛に縁どられた目をわずかに伏せてから、つぶやくように言った。 「お兄ちゃんの話とか、したいし」 ほんの少しだけ、考える時間をおいてから、ぼくは答えた。 「いいよ。じゃあ、迎えに行くから」 「ん。……待ってるから」 それからぼくは自転車に乗って、少し冷たくなり始めた風を切りながら、自宅までの道を走り抜ける。 ぼくは薫子のことをまだあまり良く知らない。話した回数はそれなりにあるけれど、趣味とか考え方とか、そういうことまで突っ込んだことは一度もない。 ただそれでも……悪い子じゃないということは、良く分かっている。今より仲良くなってみたいとも、信じてみたいとも思う。 ぼくは確かに初恋の相手には深く傷つけられた。ただそれでも、だからと言って、現実の女の子のことを恐れたり、無暗に遠ざけたりなんてことは、絶対にするつもりはなかった。 確かに三次元には、現実の世の中には、悪い女の子だってたくさんいるだろう。傷つけられることだってある。だが例えどれほど打ちのめされて死にそうになったとしても、そんな時に寄り添って励ましてくれる仲間がいれば、必ず乗り越えることができる。 だから、怖がることなんて何もない。それを理解できたのは、間違いなく伯爵のお陰だった。 薫子と一緒に学校までの道のりを自転車を並べて走ることを想像すると、なんだか幸せな気持ちになって来る。そしてそれは、明日必ず実現することだということを考えると、少し緊張する反面、心から楽しみに思った。 |
粘膜王女三世 2021年12月29日 03時33分26秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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