豪雨の中、運転を強行してみました |
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俺は激怒していた。 コロナ禍の影響で、俺が勤務する銀行支店の経営状況の深刻さは、最近では下っ端の俺でも肌に感じられるほどひどかった。 だから、すこしでも経費を削減するために、「定期預金が満期になった」と顧客の皆様にお知らせするサービスを中止するのじゃなかったのか。 これからは、要望するお客様にだけ預金が満期になったとお知らせをする。 そのために、先週も今週も、俺たちは、定期満期のお知らせを要望するお客様に対して、必要な書類を郵送するために、忙殺されていた。 残業に次ぐ残業が続いていた。 「それなのに、なんでいきなり支店が閉鎖になるのだ!」 突然の通達だった。俺たちが勤務している銀行の地方支店は、すべて東京の本社に統合されるそうだ。 今日の夕方になって、いきなり支店長から説明があった。 統合された後でも、インターネット上では今までと同じように預金の預け入れも、引きだすこともできる。 本社からは、そう説明されているそうだ。 しかし、本社へ統合されれば、ここで働く俺たちの支店は、閉鎖されることになる。 つまり、俺たちがこれまで働いていた場所が、突然に無くなるのだ。 そんな理不尽な話があるか! 俺は、支店長の説明が終わるなり、退社した。勤務時間は、とっくに終わっていたからな。 帰宅の途中で、まだ開いていたコンビニで惣菜を買ってから自宅にもどり、ケトルで湯を沸かした。 残業に備えてカップ麺を備蓄しておいたから、多少は種類を選べる。 45周年限定商品の『UF○を、ど○兵衛だしで作ったらうまかった件』は、ネーミングにハマって買いこんだ。残念ながら好みの味ではなかった。だから今日は、『ラ○、麻辣担々シビ辛』にした。 意識を麺に集中して、容器に沸きたての湯をそそぐ。砂時計を倒して、まず三分間を『無の境地』でまつ。それから、砂の三分の二が落ち切る二分間を、集中してまつ。『麻辣担々』は熱湯五分なのだ。 砂時計の砂が落ち切らないうちに、メールが到着したことを知らせるチャイムが殺風景な室内に響いた。地の底から響くような陰鬱なメロディーだったので、支店長からの連絡だろうと見当がついた。 「今日の仕事は、もう終わったのになァ」 思わず声にでていた。 怒りでも、不安でもない感情が渦巻いている。 これは、諦めだな。 もう少しで悟りが開けそうだった。 覚悟を決めて、メールを開いた。 「本社への統合について、問い合わせが殺到しています。残った職員だけでは手に負えないので、なんとか手伝いに来ていただけないでしょうか」 ひどく違和感のある文面だった。 あの、自信家で統率力のある支店長が、平社員の俺に出社を懇願していた。 ふだんなら、「残業を命じる。ただちに出社しろ」、といった感じで、有無を言わさず命令をくだすのに、いったいどうしたのだろう。 支店長にとって、支店の閉鎖が精神的にひどく重荷になったのだろうか? 心が折れかけている? ありえる。 ……というよりも、これまでに心が折れて支店を去って行った同僚たちは、ひどく怒りっぽくなったり、妙に遠慮がちなったりしていた。まるで、周囲を闇に取り囲まれているように、存在感が薄くなっていた。 たぶん、今回のことで支店長も心が折れてしまったのだろう。 考えてみれば、当然だった。 自分の責任で行ってきた経営がとうとう行き詰って、支店が閉店となり、本社に統合されることになったのだから。 メールには、続きがあった。 「できたら、ユキちゃんを一緒につれて来てください」 ユキちゃん? その呼び方は、ハラスメントでしょう。 支店長は、いつも加納君と呼んでいる。 いつもなら。 あの気の強い支店長が、子供のように泣きながら、俺に頼みこんでいる光景が、目の前にうかんだ。 たぶん、支店長は精神的に極限まで追いこまれているのだろう。乱暴な言葉で拒絶すれば、悪くすると自殺しかねない。 平社員の俺などに、支店長と個人的な付き合いがあるわけはなかった。 しかし、支店長にとくに恨みがあるわけでもない。 ならば、俺にできることは決まっている。 すぐに、返事をした。 「承(うけたまわ)りました。加納ユキさんを連れて、できるだけ早く出社します」 メールを送ると、支店長がほっと深い溜息をついた音が聞こえたような気がした。 伸びたカップ麺に冷蔵庫にあった牛乳をそそぎ、惣菜と一緒に腹に流しこむ。 しばらくは支店に泊まりこみが続くだろう。 着替えとタオル、カップ麺に洗面用具をバッグに放りこんで、駐車場に向かおうとドアを開けた。 雨が激しく降っていた。そういえば、台風の直撃は避けられたものの、ここのところたびたび豪雨があった。また降りだしていたようだ。気がつかなかったなあ。 あわてて、傘を取りにもどった。 豪雨の中を、ワイパーを全速に設定して、加納さんの自宅にむかった。 貧乏アパート暮らしの俺と違って、同僚の加納さんは、良家のお嬢様だ。 ぽっちゃりとした感じの美少女で、年齢よりもかなり幼く見える。高校生と間違えられるのはしょっちゅうで、中学生と間違えられることもあるそうだ。それほど小柄ではないのになあ。ショートヘアが良く似合っている。 実家は古くから続く家柄で、御屋敷と呼んでも違和感のない立派な建物に住んでいる。 残業が深夜になったときに送っていったことがあるが、俺の軽自動車で乗りつけるのは場違いだと思わず感じてしまったのは秘密だ。 ご両親は、丁寧な物腰の、いかにも旧家にふさわしい立派な方たちだった。 その時には、丁重にお礼を言われて、何と言ってよいか分からずに、ドギマギしてしまったっけ。 そんなことを思い出しながら、加納家の門をくぐって、屋根つきの駐車場に車を止めた。 加納さんは、出社の準備を整えて、駐車場で待っていた。 「ちょっと、ご挨拶してくるね」 加納さんは、小さくうなずいた。 こんな豪雨の中を、俺の中古の軽自動車で行くのでは、ご家族が心配なさるだろう。 大切なお嬢様をお送りするのだから、声を掛けておいた方がいいだろう。そう思ったから、車から降りて母屋へ向かった。 丁寧な言葉使いをするように十分に心構えをしてから、加納家の立派な玄関をくぐった。 加納家では、早くからお盆の準備をするようだった。旧家だから、お盆のころには多くの縁者がたずねてくるのだろう。 入り口にはすでに『迎え火』を焚いた跡があった。 俺は、玄関先で簡単にご挨拶をすませるつもりだった。でも、丁寧に誘われて、何となく上がりこんで、立派な仏壇の前で手を合わせることになってしまった。 とても立派なおじい様が重々しくおっしゃられた。 「送っていただけるなら、ユキは喜んでいると思います」 「よかったら、これを持って行っていただけませんか?」 貴婦人のように上品なおばあ様が、外国の貨幣をつるしたペンダントと、紙にくるんだコインの束のようなものを渡してくださった。 忘れ物かな? うっかり失礼なことをしでかさないうちに、ご家族に挨拶をして、母屋を後にした。地方の支店とはいっても、いちおう銀行に勤めているから、深々とお辞儀する練習はたっぷりとやらされている。失礼の無い振る舞いが、なんとかできたと思う。 駐車場にもどると、加納さんは車の外で待っていた。 かってに乗るのを遠慮してたのかな。さすがは、お嬢様だ。 そんな風に感じながら、助手席のドアを開けて乗車のエスコートをした。これも、お客様を接待するために、さんざん練習させられている。すこし気取って乗車をすすめた。 加納さんは嬉しそうだった。 よかった、よかった。 仕事で身につけた技術でも、生活に役立つものがあるのだなァ。 そんな風に感じながら、豪雨の中へと車を発進させる。街灯に照らされた無人の道路に、激しく雨が降り注いでいた。 思わず声に出していた。 「まるでハリウッドの映画みたいだな」 助手席から、やわらかな声が答えてくれた。 「本当に、大スペクタクル映画ようね」 風の強弱によって、雨脚は激しくなり、すこし弱まり、また前が見えないほどの豪雨となって、フロントガラスに叩きつけられてくる。 それにしても…… 「なぜ、急に問い合わせが押し寄せだしたのだろう」 「夕刊に、記事が載ったそうよ。支店が閉鎖されるという見出しで」 迷惑だなあ。俺たちが統合を知らされたのは、今日の夕方だぜ。準備なしでは、現場が混乱するのは、分かりきったことなのにな。おかげで、こんな悪天候のさなかに、時ならぬ残業が舞い込んできたじゃないか。 おっと、そういえば…… 「そうだ。これをおばあ様からあずかったよ」 片手でハンドルをにぎりながら、雨に濡れないようにポケットに入れておいたペンダントとコインの束を助手席の方に差しだした。 前方の視界がわるくて、横をみる余裕は、まったくなかった。 やわらかな手が、やさしく受け取ってくれた。 中を確認するような物音がして、嬉しそうな声が聞こえた。 「ありがとう。持って行けるとは思ってなかったわ。これは、高校の時に宿泊したホストファミリーからいただいた記念品。大切な思い出の品なの。本当にありがとう」 吹き荒れる風と叩きつける雨粒に視界を奪われて、俺はかすかにうなづくのが精いっぱいだった。 この先には、川がある。 無事に通れるだろうか。 川を渡る橋は、いくつかある。 どの橋がいちばん安全だろう。 川上には新道がある。でも、…… 「新道の橋は、降雨量が多くなると通行禁止になる。たぶん、今はもう通れないだろうな」 「この先にあるのは古い橋よ。下流には、新しく作られた橋があるわ」 「よし! このまま進む」 息をのむ気配があった。 これは説明が必要だろうな。 「このあたりは、まだ傾斜があるから、雨水は勢いよく川を流れ下ってゆく。橋が壊れてさえいなければ、通り抜けるのに問題はないと思う」 沈黙を同意と受け取って、説明を続ける。 「下流では、流れがゆっくりになる。水が溜まるし、雨水が広い範囲から集まってくる。たとえ橋が無事でも、道路に水があふれる可能性がある」 納得してくれた雰囲気が感じとれた。 「それに、すばやく通り抜ける方が、安全だよ。時間をかけずに川を渡ってしまった方がいいと思うな」 「さすがね。まかせたわ」 感心してくれたようだった。 川が近づいてきた。道路が上りになってくる。大量の水が路面を流れ下っていた。 あふれていないよな。 祈るような気持ちで道路を上って、橋のたもとにたどり着いた。 堤防のすぐ下まで、濁流が凄まじい勢いで流れていた。だが、激流はかろうじて橋を越えていない。 「大丈夫そうだね」 古い橋だから、これまで何度も流れが上を越えたことがあっただろう。しかし橋は壊れなかった。だから古い橋なのだ。 ふと、前を見た。 豪雨は激しくフロントガラスに叩きつけてくる、その先には煌々と輝く満月がくっきりと見えていた。 きわめて局所的なゲリラ豪雨、なのかな? だとすると、水が橋の上を越えるのは時間の問題かもしれない。 「まかせたわ」 加納さんの声で我にかえった。 ブレーキを目いっぱい踏み込んで、貧弱な軽自動車を、むりやりに加速させる。 いつまで橋が保つか分からなかった。 たびたび視界が完全に失われる。 吹き付ける突風が轟音をたてる。 そのたびに、橋が壊れたか、堤防が決壊したかと不安になった。 かすかに風を感じて脇を見ると、加納さんが助手席の窓を開けていた。何かを窓の外に落としてゆく。加納さんは、俺が見つめていることに気がついた。 「大丈夫よ」 やさしく応えてくれた声が、俺の不安を消してくれた。 加納さんがいれば、大丈夫だ。 根拠もなく、そう思えた。 我ながら単純だなあ。 橋を渡りきれば、あとは進むだけでいい。 このあたりは土地が高いから、水につかる心配がない。 前方だけに集中して、支店をめざした。 いつもなら何事もない車での通勤が、今回はすごい重労働に感じられた。銀行に着いたときには、へとへとになっていた。 車は、お客様用の駐車場にとめた。この時間にはお客様はこないはずだ。それに屋根があるからね。濡れずに店内に入れる。 加納さんをエスコートして、店内に入った。 冷房の効いた店内には、汗の臭いが充満していた。まるで死臭のようだった。画面に向かった支店長と数人の行員が、緩慢にキーボードを叩いていた。 まるでゾンビだな。 俺の心を読んだように、加納さんが言った。 「思っていても、声にださない方がいいこともあるわよ」 「ああ、俺たちは仕事をしに来たのだからな」 支店長は、すっかりやつれて、頬はこけ、目が落ちくぼんでいた。青白い照明に照らされた顔色は、まるで死人のようだ。 俺たちが到着したことに、まったく気がついていないようだった。 自分たちで何とかするほか無さそうだ。 職場内LANで支店長が作成した文章を参照する。 文章が長すぎる。 エリート街道を歩んできた支店長は、すべての問い合わせに、長々と返事を作っていた。 これでは間に合うはずがなかった。 ここは、現場の者の出番だな。 「キーに文章を登録する。定型的な問い合わせの対応だけ、たのむ」 「まかせて!」 加納さんの入力速度は、支店内でも群を抜いている。陰で密かに『支店のアシュラ』と呼ばれているのは、本人には秘密だ。 加納さんは、左右のデスクから画面とキーボードを引き寄せて自分の前に置き、計三台のコンピュータを操作しだした。 H:本支店は、十月末日をもちまして東京本社と統合される運びとなりました。急なお知らせとなりました事を深くお詫び申し上げます。 G:今後の業務につきましては、預金の預け入れや引き出しなどの通常業務は、インターネット上でこれまでと同様に行うことが可能でございます。今後とも本支店のご利用をよろしくお願い申し上げます。 J:店頭での記帳やATMなどの業務は、九月末までこれまでと同様に対応させていただきます。九月以降につきましては、改めてお知らせ致します。 F:今後とも、本支店をお引き立ていただきますように、重ねてお願い申し上げます。 U:H+G+J+F T:H+G+F それぞれの文書の文末には入力キーが設定されているから、対応するキーを押すだけで、文章入力が完了する仕掛けだ。 それにしても、加納さんの入力スピードは凄まじいなあ。まるで手が何本もあるようだ。そういえば、誰かが解説していたっけ。阿修羅王は幼い顔立ちで、三つの顔と六本の腕を持っているそうだったなあ。 『支店のアシュラ』か。なるほど。 声にだしてはいないはずなのに、ジロリとにらまれた。怖えェ~よ。 さて、俺も仕事をしよう。 問い合わせの内容に、ざっと目をとおす。 その中から、質問のキーワードを拾い出す。 これなら解答の類型化ができるな。 新聞で流れた情報が限られてるから、問い合わせを類型化するのは難しくなかった。 質問のキーワードに応じて、説明の文書を作成する。それから、短い問い合わせに対して紋切り型の説明を送る簡易AIを作成する。問い合わせの中にあるキーワードを検索して、それに応じた説明を送り返すだけの簡単なプログラムだけどね。 加納さんが問い合わせに対応し、簡易AIが稼働すると、それまで増え続けていた問い合わせの総数が、目に見えて減り始めた。 すごいぜ。 しかし、これからが本番だ。 経験から、長い文章の問い合わせには、慎重に対応をしないといけないことが分かっている。ちょっとした説明の齟齬に、延々と喰いついてくるお客様、いわゆるクレイマーの可能性があるからだ。 さて、ベテラン銀行員の腕の見せ所だぞ。 「だれがベテラン銀行員だって?」 すかさず、加納さんから声が掛かった。 加納さんは読心術ができるのかな。独身なだけに。 「放っといてよ。個人の都合だから」 やっぱり俺の心はダダ漏れになってるらしい。 長い文章の問い合わせを慎重に読み進みながら、『地雷』をさがす。ここで不用意に答えると、さらに長文の問い合わせがあり、その先にはしつこく責任を追及する抗議があるからなあ。 慎重に『地雷』を避けながら、時には詳しく解説を加えて、あらかじめ防壁を造りながら、説明の文章を組み上げてゆく。 納得していただければ、追加の問い合わせはこない。だけど油断はできない。長い長い追加の問い合わせを打ちこむには、それなりに時間がかかるからなあ。 さいわい長文の問い合わせは、それほど多く無かった。新聞の情報が限られていたためか。それともクレイマー様が、たまたま新聞を読んでなかったのか。 本支店をご利用いただいているお客様は、すべて良識に富んだ人格者なのだと信じることにした。 そして、…… とうとう画面上に示された問い合わせ数がゼロになる時がきた。 まだ外は暗いままだった。 やった! 徹夜をせずにすんだぞ。 思わず、歓声をあげた。 ゆらり。支店長が立ち上がった。 左右に体を傾かせながら、ゆっくりと俺の方にせまってくる。 他の行員たちも立ち上がり、ゆっくりと俺の方に歩いてくる。 生気が、まったく感じられなかった。 地の底から響いてくるような不気味な声が店内に響いた。支店長の声だと気付くのに、しばらくかかった。 「ありがとう。本当に、よく来てくれたねェ」 そんな声で話しかけられると、来たことを後悔しそうなんですけど。 「本支店は、東京の本店に統合されることになった」 「うかがっています」 「しかし、通常業務はインターネット上で、これからも継続される」 「はい」 「インターネット上ということは、現実には存在しない仮想空間ということだよね」 「……はい」 「仮想空間には、それにふさわしい人材が投入される。君が来てくれるとは、本当に意外だったよ」 「??? 銀行員として当然の事と思いますが……」 「今は、お盆が近いから、こちらからそちらに行くことができる。でも、まさかそちらから来てもらえるとは、思ってなかったよ」 何か話が変だった。 加納さんが口をはさんだ。 「やっぱり分かってなかったのね。さっき渡ったのが三途の川。そして、ここは彼岸、存在しなくなった人たちが集う仮想空間よ」 残業続きで朦朧となっていた頭に、とつぜん記憶がはじけた。 そうだ。 ここにいるのは、支店で過労死した人達だった。 でも、…… 「加納さんは?」 「私は、病院で死にかけていた。せっかく送ってもらえるならと、早めに出発しちゃったの」 加納さんは肩をすくめて、いたずらっぽく微笑んだ。 早めに出発した? この世から? でも、俺が「お嬢様をお送りさせていただきます」、と言ったら、おじい様は、 「送っていただけるなら、ユキは喜んでいると思います」 と、おっしゃってたし、おばあ様は、 「よかったら、これを持って行っていただけませんか?」 と、おっしゃっていたよ? 「ああ、それね。二人とも勘違いしていたの。二人は、私の遺体を病院から運ぶ、と思っていたのよ。おばあ様は、私を装わせるために、そのネックレスをあなたに託したのだわ」 そうか、誤解だったのか! でも、加納さんは、まだ死んでないのだよね。 今はお盆で、この世とあの世がつながっている。 ならば。 「もどろう。急いで!」 支店長や、ほかの行員たちが、あわててせまってくる。しかし、死者たちの歩みは遅かった。 支店長は、哀れな声で言った。 「待ってくれ。君たちがいなければ、ダメなんだ。僕たちだけでは、仕事が回らないのだよ」 「心配いりません。いまでは仮想空間にアクセスするのにインターネットがあるから。一年中いつでもお手伝いできますよォォォ!」 俺は、そう言い切って、加納さんの手を握り、駆け出した。 閉まりかけてくる扉をぬける。さがりかけたシャッターをくぐる。 そして、俺たちは駐車場の軽自動車に乗り込んだ。豪雨の中を急発進させる。 「さすがは、おばあ様ね。助かるわ」 加納さんは、窓をすこし開けて、何かを外に投げた。そのうちの一つは櫛のように見えた。 バックミラーに巨大な山がうつっている。豪雨の中だから、間違いじゃない、と断言できないけどね。 たぶん、加納さんが投げたのは、仮想世界で特別な意味をもつ重要アイテムだったのだろう。そんな気がした。 「大丈夫よ。安全運転してね」 その言葉のおかげで、俺は何の不安も感じずに運転に専念できた。 川が見えてきた。 この世とあの世をへだてる三途の川だそうだ。 先ほどの加納さんの言葉が思い出される。 「加納さんは、本当は病院にいるのだよね」 「ええ」 「死にかけてるのだよね」 「……ええ」 「死にかけた体から、魂だけが抜けだして、懐かしい実家に戻っていたのだよね?」 「ええ、そうよ」 「じゃあ、魂を連れて帰っても、無駄なのかな? 加納さんは、結局は死んでしまうのかな」 加納さんが微笑んだのが、気配で分かった。 「持ってきてくれたペンダントには、私の想いが込められている。だから憑代になるわよ。病院に着いたら、私の唇にペンダントを当ててちょうだい。そうしたら、死にかけた体に魂が戻れるから」 そう言いながら、加納さんは窓から次々とコインを外に落としていった。 三途の川を渡るには、渡り賃を払う必要がある。そんな事を聞いたような気がする。 あれが、そうなのかな。 濁流の流れる川を渡りきると、加納さんは光の粒になって、消えていった。助手席には、外国の貨幣がつるされたペンダントが残されて、鈍い光を放っていた。 そして、…… 「この世に呼び戻したのだから、ちゃんと責任とってよね」 俺は、そんなユキちゃんの言葉に、喜んで従った。 それから数年がたち、俺たちは夫婦で支店の業務をこなしている。リモートワークが普及したから、この世の自宅で仕事と子育てを両立することができるようになっていた。 おかげでユキちゃんと一緒に家で暮らすことができる。 でも、仕事量は激増した。 インターネット上での業務は、亡者の皆様が顧客に加わったために、一気に膨れ上がった。さらに、死蔵されてきた財産が、つぎつぎとインターネット上で再登録されていった。 支店長、働き過ぎですよ。 過労死しても知らないからね。 ああ、もうしていたか。 あの世からしつこく呼ばれないように、仕事をこなしてくれるプログラムを作ったりしながら、俺たちはできるだけ無理のないリモートワークを心掛けている。 給料が仮想通貨なのがすこし気になるけど、それなりに安定した収入が得られている。 一言でいえば、「私たちは、いま幸せです」、だよなあ。 |
朱鷺(とき) 2021年08月08日 22時13分19秒 公開 ■この作品の著作権は 朱鷺(とき) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年09月07日 18時03分03秒 | |||
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Re: | 2021年09月07日 17時59分55秒 | |||
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Re: | 2021年09月07日 17時59分31秒 | |||
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Re: | 2021年09月07日 17時58分59秒 | |||
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Re: | 2021年09月07日 17時58分05秒 | |||
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