マイマヰカブリ

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※ この作品には凄惨な演出があります。

[マイマイカブリ]
 鞘翅目オサムシ科オサムシ亜科
 主としてカタツムリを捕食する肉食の昆虫である
 和名の由来は、マイマイ(カタツムリ)を捕食する姿がその殻を被っているように見えたため



『――プロローグ ある夏の始まり ――』


 ――落ちてくる、何かが。

 それが何かはわからない。
 ただ星空の片隅から、夜がこぼれ落ちたかのように真っ黒い何かが飛来してくるのを、倉内麻衣香は確かに見ていた。
 黒い流れ星とでも言えば良いのか、それは尾を引いて家の裏手の森へと落ちていった。
 直後聞こえてきたのは、激しく打ち付ける荒波のような水音。それから少し遅れて、雨と風が激しく窓を揺らした。

「えっ……なに、今のっ?!」

 麻衣香が慌てて窓を開けると、生温く異臭のする雨風が一気に吹き込んできた。プールで使われている塩素のような、そんな匂いだ。
 雨で濡れた顔が妙にヒリついたので拭うと、手の甲には真っ黒な水……というよりは、泥のような汚れが付着していた。
 あまりに異常な事態に、麻衣香は驚きを隠せない。
 同居する両親と祖父母にも、今の音は聞こえていたらしい。階下からはどよめきと、歩き回る足音が聞こえてきた。
 部屋を出て、階段越しに呼びかけてみる。

「ねぇ! 今の、何?! 何なの?!」
「わかんねぇ! とりあえず俺と親父で行ってくっから、お前は家ん中にいろ、良いな!」

 階下から父が顔をのぞかせそう叫ぶ。ほどなく玄関の戸が開く音と、閉まる音が聞こえた。
 窓から外を見下ろしてみると、暗闇の中懐中電灯を手に歩いていく父と祖父の姿が見えた。
 麻衣香の家の近くに他に家はない。あるのは広い畑と森の木々だけで、当然のように外灯の類もなかった。
 そのせいで木々の闇の中へ懐中電灯の灯りが紛れると、あっという間に何も見えなくなる。

「なんなの、もう……っ!」

 よくはわからないが、何か面倒なことが起きたらしいことは容易に想像がついた。
 折角夏休みが始まったばかりだと言うのに、中二の夏だと言うのに。いきなりこれか、と嘆息。「最悪」と愚痴をこぼして、ベッドに横たわる。
 気晴らしにスマホを起動すると、画面には一人の少年の横顔が映し出された。
 線の薄い、少し不活発そうな少年だ。
 彼の顔を見つめて、ひとつため息。

「……木原くん、どうしてるかな」

 何気なくつぶやいた時、だった。

「――――っ」

 それは、辛うじて聞こえる程度の声だった。
 けれど、確かに聞こえた。
 それもまるで悲鳴のような声が、外から。
 麻衣香は慌てて窓辺に立つ。なにか見えないかと目を凝らす。
 けれど、森の闇は見通せない。今はただ静かに、何事もなかったような顔で知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。

「あ、あはは、気のせい……だよね?」

 思わず口から、乾いた笑いが漏れた。
 それぐらいに何もかも現実味がなくて、あまりにも静かだった。静かすぎた。
 麻衣香はまた何か聞こえてくるんじゃないかと、全ての意識を耳に集中する。かすかな虫の声すら五月蝿いと感じるほど、聴覚を研ぎ澄ませる。
 そのまま五分か十分か。
 あるいは、もっと経過してからだったか。
 突如として、窓の割れる音が聞こえてきた。
 そして。

「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁ――――っ!」
「麻衣香! 麻衣香! ま……いがぁ――っ!」

 祖母と、母の悲鳴が聞こえてきた。

「おばあちゃんっ?! お母さんっっっ?!」

 叫び、呼びかける。
 けれど、返事はなかった。
 つい今しがたの騒ぎが嘘だったみたいに、不気味なまでの静けさに包まれていた。

「嘘、助けて……」

 麻衣香が出来たのは、ただ祈ることだけだった。
 願うように、許しを請うように。
 誰に対してか、自分でもわからずに。
 もしかするとそれは、誰でも良かったのかもしれない。
 だからなのか。
 思わず口から出たのは、この場にはいない少年の名前だった。

「――助けて、木原くん!」




『―― 木原高道・1 特別な夏休み ――』


 夏休みに入る前ぐらいからか、郵便受けにはこんな感じの怪文書が届くようになる。

 『中二の夏休みは特別だ!』
 『来年はキミも受験生!』
 『夏は学力アップのチャンス!』
 『この時期、ライバルに差をつけろ!』

 そんな意味不明の文言の数々に、高道は閉口してしまう。受験生? なんだそれ。
 高道にしてみれば、そんなものよりもまだ脅迫状や不幸の手紙のほうが現実味がある。あるいはツチノコにだって負けるやも。
 中二の夏休みは特別、の下りにしたって意味がわからない。何がどうなったら特別だというのか。そして具体的に何が起きるのか。そんな特別な夏休みなぞ、高道は十四年生きてきてついぞ体験したことがない。
 毎年スイカ食べて、あちーと言って。
 虫取りにって、あちーと言って。
 プールに行ってあちーと言って。
 虫捕りに行ってあちーと言って、そしてあちーと言った記憶しかない。
 絵日記に今日も何もなかったと書きたくなるぐらい、判に押したように同じことの繰り返しだったはずだ。
 だいたい煽りにしたっておかしい。
 学力アップだの、ライバルに差をつけろだの。この手の怪文書は年がら年中同じようなこと言っている気がする。なんなら小学校時代にも見たような記憶があるぐらいだ。
 だから高道はこんなものには騙されることなく、今年も今までと変わらない夏休みを過ごすつもりだ。バカみたいに虫取りして遊んで過ごして、宿題は後回し。そして、受験? は来年になったら考える。これだ。
 そんなわけだから夏休み一日目、高道は大いに遊ぶぞと勇ましく虫取りに出かけるのだった。

「タカー! 早くしなよー! おいてくよー!」
「今いくよー! ……ったく、どんだけ元気余ってるんだよ、あいつは」

 田んぼの脇道、その先の先。ショッキングピンクの自転車を駆る妹がやたらとせっついてくる。
 高道は悪態をつきつつ、額に汗して自転車のペダルを漕ぐ。風もなく蒸し暑い夏の朝において、これほどの苦行はないはずだ。
 高道の住む山加賀市斑町は地方の郊外で、まだ手つかずの自然が【ちょっとだけ】溢れている――いわゆる田舎だ。
 とは言っても、ドがつくほどの田舎じゃない。
 野菜の無人販売所はあるけど、コンビニだってあるし。
 カモシカは出るけど、クマは滅多に出ないし。
 道路をトラクターだか耕運機だかがとろとろ走るけど、ちゃんと新幹線だって通ってる。
 だから【ド】がつくほどの田舎じゃ全くないけれど、レかミかソぐらいははつきそうな、そんなレベルの田舎なのだった。

「ね、ね。捕まってるかな、マイマイカブリ!」

 えっちらおっちらペダルを漕いで、ようやく追いつくなり妹の舞が振り返る。
 小学六年、十一歳。小麦色に日焼けした、小生意気な健康優良児。でもって誰に似たのやら、女だっていうのに虫が好きな変わり者。
 だからなのかそのセンスも独特で、今日の格好は上は黄緑のTシャツで、下は黄色い短パンスタイル。
 そして髪型は、「カミキリムシの触覚みたいでカワイイでしょ!」とのたまう頭上から伸びた触覚もどき(本人曰くツインテール)。
 その髪型と原色バリバリな服装を見て、高道はこう思う。
 ああ、カミキリモドキ(有毒)の仲間にこんな色合いのやつがいたかも。

「オサムシとかは結構見るんだけど、マイマイは結構珍しいからいきなり捕まってるかなー? ……あ、見つけても素手で触るなよ、危ないから」
「それぐらいわかってるもーん!」 

 そんな話をしながら、高道達は目的地に到着。
 道路脇の草むらに自転車を停めて、目の前に鬱蒼と広がる森を見つめる。昼でも薄暗く、各種の雑木が混成する全くの天然もの。植樹された杉なんて全くと言っていいほど生えていない、絶好の虫取りスポットだ。緑豊かな斑町でも、ここまで手つかずな森はあまりお目にかかれない。

「さて、それじゃ始めるか。舞、マムシとかスズメバチに注意しろよ。あとマダニとヒルとそれから……」
「だーかーらー、それもわかってるってばー」
「じゃあサンダルとか履いてくるなよ、ったく……」

 草むらや茂みには何が潜んでいるかわからないから、高道は運動靴。対する舞は、でっかいヒマワリのついたサンダルだ。勿論素肌なんて出まくりで、素足にはサンダル型の日焼け跡までこしらえている。UVケアはもとより、自然を舐めてるとしか思えないスタイル。
 かと言って注意したところで。

『あのねー、タカ? オシャレは足元からなんだよ?』

 とのことなので、もうそこに関しては何も言わないことに決めている。
 とりあえず気を取り直して、高道は虫取りを開始。

「とにかくまずは、仕掛けた罠を見て回って……」
「舞、あっちの罠見てくるね!」

 瞬時に、舞が消えた。
 安全意識も何もない。
 怖いもの知らずめ、と高道は胸中で毒づいてから、仕掛けた罠のチェックを始める。
 今回仕掛けたのは、ピットフォールというタイプの罠。まあ言ってしまえば、落とし穴というやつ。
 地面に穴を掘って、そこにぶった切って口を広くしたペットボトルなんかを埋める。それだけでもいいけど、出来ればさらに目的の虫が好む餌を中に入れておけばなお良い。そうしておけば匂いにつられて寄って来た虫が落っこちて、勝手に捕まってくれる。地面を歩き回るタイプの虫にはとても有効なトラップだ。

「さーて、入ってくれてるかな、と……」

 木に縛り付けた白いヒモを目印に、その下に仕掛けてあるトラップを覗き込む。けれど中に入っていたのは、シデムシとゴミムシとヤスデ、ダンゴムシ、それから、ゴキ。

「外れ、か……」

 ため息混じりにずぼっとペットボトルを引き抜いて、中の虫を逃してやる。すると虫達は、ほうほうの体で逃げ出していく。
 それを見届けてからペットボトルを埋め直して、次の罠へGO。
 二つ目も……外れ。

「こっちもダメ、と……」

 がっかりと再度ペットボトルを埋め直していると、高道はふと背後に人の気配を感じた。
 そっと、振り返る。

「……舞?」

 そう思ったけど、舞じゃなかった。
 そこにいたのは、知らない女の子だった。



 歳は多分自分と同じ、中二ぐらい。
 黒髪は肩まで伸びていて。ぼうっとしているというか、まるで無垢な少女のような、どこか幼さを感じさせる顔立ちだった。
 背丈は一六〇と少しの高道よりやや小さい。体つきは、小柄で華奢に見える。けれど胸は結構あるぞ、と思う。
 と言うか実は、見えかけていた。
 その子は何故かダボダボの白いTシャツを着ていて、しかもどうやら下着はつけていなくて。かすかに何かが浮いてるようにも見えるわ、肩もばっくり出てるわで。高道からしてみればそれはまるで森の宝石、ルリボシカミキリかタマムシだった。
 しかもそれだけじゃない。
 下もまるで着古した作業着のズボンみたいなやつを履いていて。こっちもサイズが合ってないのか、腰ギリギリで止まっていて今にも脱げてしまいそうで、危険が危ない。
 そのくせ足元は何故か、黒いゴム長という出で立ちだ。
 総合的に見るとそれはまるで、農作業中のおっさんのよう。
 そのあまりに奇妙な格好に、高道はどう声をかけたものかと思わず口をつぐんでしまう。
 するとその女の子は何故か、じっとこちらを見ていて。

「助、けて……」

 そう、言った。
 言ったのだ。
 助けて、と。

「えっと……君、今助けて、って言った?」
「助け、て……」

 もう一度。

「助けて、って……君は何かから逃げてるの?」
「わ、たし、私は……」

 かくん、とその子は空を仰(あお)いで。五秒か、十秒が経過する。
 それから。

「私、から……?」

 かくん、と首を右に傾(かし)げて。
 ご丁寧に自分を指さして。
 何故か、そう聞いてきた。
 何故なのか、そんなの高道は知る由もない。

「……えっと、ごめん。多分ね? 多分、違うと思うんだけど……君は君から逃げてる、ってこと……じゃないよね?」
「おー………………多分? 多分、そう」
「多分って、なに」

 思わず聞き返したものの、それに対する返事はない。
 ただ彼女は、なにか不思議そうなものを見るような目で、さっきからずっとこっちを見てくる。

「えっと、何かな? 僕の顔に何かついてる?」

 聞くと、彼女はこちらを指さして。

「き」
「き?」
「き、き、きは、ははは……」
「き……は……?」
「き、は、ら――」

 彼女がそこまで言いかけた時、森の方から大きな声が聞こえてきた。
 舞だった。

「タカー! 見て見てー! 採れたっ! 舞の、Myマイマイカブリー! って……」

 戻ってくるなり舞は、さっとセミか何かみたいに高道の背中に隠れて。

「……誰、この女」
「この女とか言うな」
「ねぇ、あんた誰?」
「あんたとか言うな」

 そんなやり取りをしていると、女の子はぼーっとした表情で。
 こてん、と首を傾げて。

「私の名前は、麻衣香…………多分?」
「多分ってなに」
「多分ってなに」

 高道が口走ると、舞も続く。

「多分って……なに?」

 さらに何故か、彼女も。
 高道は思う。やっぱり変な娘だ、と。
 それでもとりあえず名前はわかったのだから、それで良いことにした。

「わかった。麻衣香……さんだね。それじゃ僕は」
「舞は舞、木原舞! タカの保護者ね! で、タカは高道って言うんだよ!」
「……どうしてお前が言うの」
「え? だって舞、タカの保護者だし」
「その保護者ってのもおかしいだろ」
「き、木原、キハラきはら、高、道……木原、高道……きはきはきはきは……たたたタカ、高、みみみ道」

 麻衣香さんはと言えば、まるでうなされているかのように高道の名前を繰り返し、首をせわしなく動かす。

「ねータカ、この人なんか変。どっかおかしいんじゃないの、頭とか」
「だーからお前、そういう事言うなって……」
「あ。それよりタカ! 見て見て! 捕まえたんだよ!」

 そう言って、舞がバケツを差し出す。
 覗き込んでみると、そのバケツの中で細長い首と手足をした黒くて大きい虫が動いていた。
 マイマイカブリ、だった。

「おー、捕まったか! うーん、やっぱり迫力あるなマイマイは」
「それ……なに?」

 どうやら麻衣香さんも興味を持ったようで、一緒になってバケツを覗き込んできた。
 すると身体を傾けたせいで、ダボついたシャツから胸が見えそうになっていた。と言うか実はもう、見えている。
 だから高道は全力で目を逸らすフリをする。全力でだ。

「あー、えっと……虫とかって平気?」

 チラ見しながら尋ねると、かくんと麻衣香さんがうなずく。
 それなら大丈夫か、と高道は判断。
 舞からバケツを受け取って、そっと彼女に。
 麻衣香さんはバケツを覗き込み、つぶやく。

「おー、むし……むしだー」

 ゆっくりと。
 ゆーっくりと、バケツの中のマイマイカブリを指差して。

「これ………………食べるの?」
「食べないよ?」
「食べないよっ!」

 高道は控えめに、舞は強めに否定。

「これはね、マイマイカブリ、って言ってオサムシ科に属する甲虫で。主にカタツムリを食べる虫なんだ」
「……食べる、の?」

 なぜか、食べる、の部分にだけ麻衣香さんは反応する。

「うん、カタツムリをね」
「これね、舞とタカの夏休みの自由研究なの! 共同研究!」
「自由、共同、研究……おー」
 
 こくこくと、言葉を噛みしめるように麻衣香さんはうなずく。

「マイマイカブリは空を飛べないから、あんまり遠くに行けないんだ。だから、その土地その土地で独自の特徴を持っててね。羽の色とか、顎(あご)の形状とかの傾向が違うんだ。そういうのを……」
「そういうの、地理的変異、って言うの! それで川の向こう側と、こっちの森側とでどんな違いがあるかをまとめるのが舞達の自由研究なんだよ!」

 そんな風に説明したものの、肝心の麻衣香さんはピンとこなかったのかこれと言った反応もない。
 もしかして、どうでもいい話をしてしまった?
 そう考えて、高道は慌ててフォローする。

「あー、ごめん! 興味ないよね、女の子がこんな話。あはは……」
「舞はあるよ! 興味」
「お前には聞いてないの……」

 そんな不毛なやり取りを舞としていると、パチパチと音がした。
 麻衣香さんからだった。
 麻衣香さんが、手を叩いていた。

「凄い。なんだかよくわかんないけど、凄い……」

 どうやら、好評だったご様子。
 ほっと、高道が胸を撫でおろしていると。

「えっと……私も、『それ』手伝いたい……良い、かな?」

 かくんと、麻衣香さんが再び首を傾げる。
 その問いかけに高道はちょっとだけ驚いて、舞と顔を見合わせる。 
 それから、二人一緒に返事した。

『――いいよ!』



「――うん、結構捕まったね」

 高道はバケツの中のマイマイカブリを覗き込む。今日の成果は十一匹。まずまずといったところ。
 その一匹一匹の外見的特徴を、上から下から正面からと角度を変えてスマホで撮影。それで今日のデータ収集は完了だ。
 撮影を終えたマイマイカブリを地面に放ってやると、一目散に草むらに消えていった。

「よし、とりあえず今日の分終り、っと」
「はあ〜、もう舞お腹空いたー!」
「あー、もうそろそろお昼の時間だな……。あ! えっと、僕らそろそろ帰るんだけど、麻衣香さんは家この近く?」
「いえ? ……うん、近く、家」
「そっか、じゃあ――」

 また、会えるかもしれないね。
 そう言いかけたところで、舞が割って入ってくる。

「ねーねー! 舞お腹空いたんですけどー! 早く帰ろうってばターカー!」
「あーもー、わかったから腕引っ張るなっての……。あー、ごめん、麻衣香さん! それじゃ、さようなら!」
「じゃあね、変なお姉ちゃん!」

 そう別れを告げて、立ち去ろうとした時だ。
 ぎゅっと、麻衣香さんにシャツの裾を掴まれた。
 掴まれて、いた。

「き」
「……き?」
「木原、高道くん?」

 名前を、呼ばれた。
 それも、フルネームで。
 さらに続けて、

「また……会える?」

 聞かれた。
 だから、答えた。

「うん……会えると思うよ? 明日も明後日もここに来るからね、きっと」
「……きっと?」
「うん、きっと」
「きっと、また、会える……木原くんと、また、会えるんだ……きっと、きっと」

 うなずいて、麻衣香さんはそう繰り返す。

「じゃあ、きっと……また、明日……きっとだね!」

 麻衣香さんがギュッと、手を握ってきて。
 そしてその時初めて、彼女が笑った。
 それまでぼーっとした様子で、何を考えてるのかもわからなかった彼女が。
 まるで夏の暑さを忘れさせてくれる、一陣の涼風のような笑顔で。
 その瞬間、高道はどきりと胸が高鳴るのを感じた。
 夏の暑さなんかじゃない、何か別の熱さを感じて。ぶわっと汗が吹き出す。

「そ、それじゃあまた明日ね!」
「うん! きっと! きっと!」

 ひらひらと麻衣香さんが手を振ったから、こっちも振り返す。
 後ろ向きに歩きながら、彼女が見えなくなるまで振り続ける。
 そして彼女の姿が見えなくなってから、走り出す。
 駆け出す。
 猛ダッシュ。
 その勢いのまま自転車に飛び乗って、少しでも早く明日に向かうためペダルを漕ぐ。ぶっちぎる。
 あんまり力を込めすぎて途中でバテていると、追いついてきた舞が呆れた顔をしていた。

「何やってんの、タカ……」
「そんなのいいだろ、別に……それよりさ、あの子言ったよな? また明日って、言ったよな? きっと、って言ったよな?」
「んーん、言わなかったよ?」
「……なんで、嘘つくのお前」

 しかもすぐバレる嘘を。
 ありったけの恨みを込めて睨みつけてやると、舞は観念したようにため息をついて。

「はいはい、言ったよ、言いましたー。これでいい?」

 舞は投げやりに返してきたものの、そんなことは問題じゃない。

「また、明日……きっと、また明日か……」

 まだ高い位置にある太陽を見つめて、つぶやく。
 明日が待ちきれなくなって、高道はもう一度、ペダルを漕ぎ出した。
 全力の、全力の、全力で。
 そして、風になる。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおっ‼‼‼‼」
「あー! 待ってよタカー!」

 今年はきっと、特別な夏休みになる。
 そんな予感が、した――。



『―― 木原舞・1 保護者たるもの ――』


 本来保護者というのは、年長者がなるものらしい。
 でもその理屈はおかしい、というのが舞の持論。
 だって、兄のタカときたらあまりにだらしがない。
 朝起きるのは舞よりずっと遅いし、パジャマも綺麗に畳めない。勉強だって百点ばかりの舞と違って、六十点とか七十点とか。ついでにお母さんも「これじゃどっちが年上かわからないわね」と言っているのだから、自分こそが保護者にふさわしいに決まっている。
 だからタカの保護者は自分だ。自分こそがタカを保護監督する義務がある。
 そう、舞は思っているのだけど。

「え、お兄ちゃん? さぁ、私も知らないうちに出かけちゃったみたいだけど……電話してみたらどう?」
「いい、やめとく……」

 お母さんの証言によると、どうやら保護対象は無断外出をしたらしい。
 誠にけしからん、と舞は保護者として憤慨する。

 ――ここ最近、タカの様子は変わってきていた。

 具体的には、あの女と会うようになってから。
 いつもは気にもとめない寝癖を直すのにやたらと時間をかけるようになったし。汗臭くてもほったらかしだったのが、消臭スプレーを使うようになったし。鏡の前で何時間も自分の顔を眺めるようにまでなった。
 それもあの大の虫好きのタカが、マイマイカブリの自由研究をほったらかしにして、だ。
 舞は思う。
 これは絶対あの女のせいだ、と。
 少し前に出会ったあの女が、タカを変えてしまったのだと舞は睨んでいる。これは保護者として由々しき事態だ。
 最初こそ友達もいなさそうで、特も害はなさそうで、虫にも興味があるみたいだったから仲間に加わることを許可したというのに……これだ。
 もしかするとあの女は、最初からこれが狙いだったんじゃないかとすら舞は思う。
 だって、あのタカだ。
 虫のこと以外はだらしなくて、いい加減で、あと足が臭い。
 そんなタカを好きになる女なんて、この世に存在するはずがない。
 絶対に、なにか裏の目的があるはずなのだ。
 そう、裏の目的が……。

「――って、舞は思うんだけどお母さんどう思う?」

 お昼ごはんのあと、舞は流しで食器を洗っているお母さんに聞いてみた。
 保護者たる舞の、さらなる保護者の意見も参考にしようと思ったのだ。

「ああ、最近一緒に遊んでる子のこと? そんな、裏の目的って言われてもお母さん会ったこと無いから……どんな子なの?」
「んー? えーとね……なんか、変な人」
「変って?」
「……こう、首かくかくしてて、なんか……頭の病気っぽい感じで……あ! あとその人、おっぱいおっきいのにブラしてなかった! ブラブラだった!」

 お母さんは、「病気? ブラブラ……?」と呟いてから、何故か半眼で少し難しそうな顔をして。

「なにそれ、どこの家の子?」
「えっと確か……倉内って名字だったと思う。家は、森のずっと奥にあるって聞いた」
「うーん、あっちの方向は分からないわね……。どんな家か知らないけど、ちゃんと子供のこと見てないのかしら……まったく……」

 洗い物が終わったらしく、お母さんはため息混じりに舞の正面に座る。

「ねぇ、舞。その子って、高道と一緒になって危ないこととか、その……変なこととかしそうな子? それとも、しなさそうな子?」
「うーんと……」

 舞は、ちょっと考えてみる。
 あの女のとぼけた顔を思い浮かべて、どんなことをしそうかと想像してみる。
 そして、はっと、気がついてしまった。

「……しそう、めっちゃしそう。危ないことも変なこともどっちもしそう」
「そっかぁ……しそうか〜」

 あちゃーと呟きながら、お母さんは額を押さえだした。
 途端に、舞も不安になる。
 今頃あの二人が、どんな危なくて変なことをしているのかを考えると気が気じゃなくなってしまう。

「それはちょっと心配だわ……」
「舞も……」

 舞はお母さんと、二人そろって腕組みする。ウンウン唸る。

「困ったわねぇ……かと言って四六時中見張るわけにもいかないし子供のプライバシーの問題もあるし……今夜お父さんにでも相談してみようかしら……」

 お母さんがそう呟いているのを聞いていて舞は、ん? と思った。

「……見張ってれば、大丈夫ってこと?」
「んー、大丈夫というか……まあ親としては安心は安心よね。……出来たらの話だけど」
「見張れたら、保護者としても安心?」
「…………? ええ、そりゃまあ、保護者としても安心だけど……舞?」
「そっか……安心……保護者……」

 これだ、と思った。
 ずっと見張ってればいいんだ。
 そうしよう、と舞は決めた。
 という事で。

 ●


「舞もついて行きます」

 ついて行くことにしたのだった。
 こっそりと裏口から外出を企んでいたタカに、舞はそう告げる。
 ちょうど靴を履いていたタカは、いきなり声をかけられてびっくりしたのか肩がびくくんっ! と震えた。

「え? お前、玄関に行ったんじゃ……え?」
「玄関に行ったフリしただけだよ?」
「えっなんで……いやそれよりお前、なんでついてくる必要あんの……」
「だって舞タカの保護者だからしばらく見張ることに決めたの。名付けて……ひっつき虫作戦!」

 これなら二人が危ないことや変なことをしないように出来るし、あの女が何を企んでいるのかもわかるかもしれない。
 まさに完璧な計画!
 ふふーん、と舞は胸を張る。

「ひっつき虫と言うか……それってお邪魔虫っていうんじゃ……」
「……それでタカ、今日はどこに行くの?」
「え? 今日は城跡公園に……あっ」

 タカがしまったという顔をしたが、もう遅い。

「いってきます!」
「あっ、こら待て!」

 タカが出るより早く、外に飛び出た。
 さらに自転車に飛び乗って、びゅんと出発。山加賀市市立城跡公園目指してひた走る。
 城跡公園は名前の通り城跡を利用した公園で。石垣があって、木々があって、堀があって。あと、ちょっとした広場がある。まあそんな感じの、緑豊かな公園だ。逆に言うと、ほぼ緑しかない。
 あんなつまんないところでデートするとは、流石タカ。
 我が兄のことながら呆れ返りつつも、舞はどこか納得出来てしまう。
 そして普通なら振られるパターンだろうな、とも。
 そんな事を考えているうちに、およそ二十分の道のりを十五分で到着してしまった。当然タカは、追いついてすらいない。
 駐輪場に自転車を止めて、鍵をかける。
 そして、周辺確認。まだあの女は来ていない。
 どうやら多少早く来すぎてしまったらしい。
 舞はメッセージアプリで、タカにコメントを送る。
 返事はすぐだった。

『こっちはついた☆ まだ?』
『マダニ決まってるだろ!』

 そっけない上に、焦って打ったらしい返事だった。
 それだけ確認して、舞はスマホをしまう。
 再度、周囲を見渡して……見覚えのある姿を見つけ、そっと隠れる。
 あの女だった。
 女の格好を見て、舞はちょっと驚いた。
 およそ二週間前、最初に会った時は適当にひっつかんだシャツを着て、ヨレヨレの作業ズボンに黒いゴム長というセンスのかけらもない格好だったのに、今回は全然違っていた。
 今日は白いワンピースを着ていて、麦わら帽を被っていて、靴は白いサンダル。どう考えても、男ウケを狙ったとしか思えない格好だ。
 それもちょっと頭の悪い女子向け雑誌か何かをお手本にしたとしか思えない、そんな格好。
 それを見た瞬間、舞の中の何かが警鐘を鳴らした。
 あの女は危険だ! あれは本気でタカをどうにかするつもりだ! と。
 百パーセント以上の確率で間違いないと、そう判断する。
 舞はそう考えて、ひっそりと物陰で息を殺す。その行動をつぶさに観察して、何かボロを出さないかと注視するために。
 すると女は辺りをうかがうように見回して、まだタカが来ていないことを確認すると一足先に公園内へ入っていった。
 とりあえず、その後をつけてみる。
 すると女は公園のなるべくひと気のないところを探すようにうろついて、やや薄暗い茂みに手持ちのバスケットをそっと隠した。
 それからどういうわけか、公園の入口へと戻って行った。

「……何? なんで隠したの、あの人」

 どうも意図の読めない行動だった。
 端的に言って、怪しかった。
 ひとまずバスケットの中身が何なのか確認してみようと、舞はその茂みに歩み寄る。中を見れば、今の行動の意味もわかるかもしれない。そう考えて。

「これって……お弁当?」

 バスケットに入っていたのは、サイズと形状的にそうとしか思えないプラスチック製の箱が一つだけ。
 なんだ、そういうことか、と思わず納得。
 どうやら敵の次なる手は、手料理でタカの胃袋を陥落せしめようと企んでいるらしい。なるほど。あのタカなら、こんなもの渡された日には舞い上がって月まで行きかねない。
 これはどうにか阻止しないと、と舞は一計を案じる。

「……そうだ!」

 このお弁当を隠してやろう。
 舞は、そう思った。
 そうしてあの女がお弁当を探し回って、半泣きになったところで自分が見つけ出して恩を売ればいい。
 そうすればきっとタカは自分を見直すし、あの女もちょっとは反省するに違いない。
 そう考えて、計画を実行に移すことに。
 と、その前に。

「……あの人、何作ってきたんだろ?」

 それが少し気になったので、お弁当箱の中身を覗いてみることに。
 何が入っているのかも気になるが、料理が上手いのか下手なのかも気になった。
 もし下手な料理だったなら笑ってやろう、という下心も少し。
 そんな気持ちと共にそっと蓋を開けてみると……お弁当箱の中に入っていたのは、真っ黒な何かだった。

「なにこれ……黒い……土?」

 一瞬、舞はそう思う。
 けれどそれが。
 ぐちりと、動いて。

「ひっ!」

 思わず、投げた。
 箱の中身はあたりに撒き散らされ、草むらを黒く染める。
 息を呑む。どっどっどっどっ、と心臓の声が聞こえてくる。夏だと言うのに寒気がして、思わず身震いした。
 なんだ、今の。動いた? なにあれ、あんなの見たことない。いったいなに? ヤバい、逃げないと! 待って、お弁当箱もバスケットも片付けとかなきゃ……。
 一瞬の間に色々な考えが頭に浮かんだものの、身体は一ミリも動かない。森の中で不意にオオスズメバチに出会った時みたいに、硬直する。
 だから舞は、ただ見つめていた。
 草むらに撒き散らされた、その真っ黒な土? ……いや、泥のような物体を。
 ただ、見つめていた。
 じっと。
 するとその泥が……動いた。
 まるで何かの意思を持っているかのように。動き、集合していく。
 ヒル、ナメクジ、あるいはプラナリア。そんな印象を受ける、動く泥。
 やがて撒き散らされた全てが一箇所に集まり、自分の顔ぐらいのサイズに。その泥の塊が、ぐちゅぐちゅと蠢いて。
 こちらを、見た。
 どう見ても、目にしか見えないもので。
 こちらを、見ていた。
 
「…………っ!」

 舞は、その場から一目散に逃げ出した。



「――どうしたのお前、そんな慌てて?」

 息を切らして逃げ出した先で、タカと鉢合わせた。
 タカは面食らった表情で、こちらを見ている。

「あ、あのね! あっちで! あっちでね!」
「ちょ、ちょっと落ち着けよ、お前!」
「あの人の! あの人のバスケットに!」

 言いかけたところで。

「……どうしたの? 舞ちゃん」

 あの女がいることに、気づいた。

「バスケットが……どうかしたのかな?」

 歩み寄ってきた女に顔を覗き込むように聞かれて、慌てて口をつぐむ。
 
「ねぇ、舞ちゃん。【バスケット】がどうかしたの?」

 女はさらにしゃがみこんで、こちらに目線を合わせてくる。
 明らかに何かを怪しんでいた。

「……なんでも、ない……」

 下を向いてそう答えると、汗があごの先から滴り落ちた。

「おいおい、お前大丈夫かよ?」
「……んー、熱中症かもしれないね。あ、そうだ高道。私、ちょっと荷物取ってくるから少し待ってて」
「わかったよ、麻衣香」

 そんなやりとりをしている二人を目の当たりにして、舞は一層恐ろしいものを感じた。
 高道? 麻衣香? いつの間に呼び捨てにする仲になったのか。
 いやそれよりも。

「ねぇ、タカ……あの人、前からあんな喋り方だった?」
「ん? ……ああ、言われてみれば、ちょっと変わったかも。けど、それがどうかした?」
「どうかした、って……」

 以前のどこか壊れているみたいな彼女とは全くの別人だと言うのに、タカの反応は恐ろしく鈍い。その返答に舞は少し泣きたくなる。
 絶対にあの女は、何かおかしい。そして今現在、きっと何かが秘密裏に進んでいる。だけど明らかに何かが起きているというのに、どうしたらいいのかまるでわからない。何をどこから説明すればいいのか見当もつかない。
 悔しさのあまりギュッと汗ばんだシャツの裾を握りしめていると、

「……それより、お前。なんでもないとか、嘘だろ」

 タカが、ぼそりと言った。

「……え?」
「いや、だってそういう顔してないし。あのな、僕だってそれぐらいわかるんだよ、お前のこと。……とりあえず、日陰で少し休めよな」
「……ん、そうする」

 言われるままに木陰のベンチに腰掛けると、タカがどうでも良さそうな振りをして。わざと顔を逸したままで、訊いてきた。

「で、何があったんだよ?」
「わかんない……」
「わかんないじゃわかんない」
「だって、舞もわかんないんだもん……」
「困ったやつだな、お前……」

 そう言って、タカが額に手を当ててきた。
 ふっと目の前が少し暗くなって、タカの体温と手の平の感触にくすぐったいものを感じた。

「んー……熱いような冷たいような……駄目だ、わかんないや」
「あ……」

 手の平はすぐに離れてしまって、そのことがなんだか名残惜しく感じられた。

「あのさ、舞」
「……なに」
「お前、いつもいつも僕の保護者だー、って言ってるけどさ。僕だって、舞の保護者なんだからな」
「……タカ『も』?」
「そう、僕も保護者。お前のな。……だからさ、その……ちょっとは頼っていいんだぞ」

 そう言って照れ臭かったのか、タカはあからさまに顔を逸す。

「保護者、タカが……?」
「そうだよ」

 言われて、ふと思い出したことがあった。
 足元――ヒマワリのサンダルを見つめて、舞はつぶやく。

「そうだね。そうだった……タカも【保護者】だったね」
「そうだよ。そうそう、知らなかったのか、お前?」

 茶化すようにタカはそう言って、舞はちょっと可笑しくなった。

「じゃあ、舞が危なくなったらタカは助けてくれるの?」
「ああ、そうだよ。お前が危なくなった時は、僕が守ってやる。当然だろ?」
「ふぅ〜ん……」
「な、なんだよお前、その言い方は!」
「えー? そんなの舞の勝手だもーんっ」

 思い切り背を向けてやると、タカはぶつぶつと不満そうだった。
 でもそれで舞は、さっきよりずっと気持ちが落ち着いた。
 そして、自分の目的も思い出せた。
 保護者として、タカを守ること。それが自分の使命だ。
 今はまだ何をすればいいのかわからなくても、そのことを忘れていなければきっとなんとかなる。なるはずだ。
 ――タカは、舞がきっと守る!
 そう決意を新たにしたところで、あの女が戻ってきた。

「すいません、お待たせしました。……あれ? 舞ちゃんはもう、調子大丈夫なのかな?」

 その手には、あのバスケットが握りしめられている。
 それを見た瞬間、決意が吹き飛ばされそうになった。
 未だ得体の知れない存在がそこに潜んでいるのでは、という恐怖。この女が一体何者なのか、という謎。そのどちらもが、何一つとしてわかっていない。
 いや、それよりも大きな問題として。
 この女は自分のバスケットに舞が何かしようとしていたことに、もうとっくに気づいたはずなのだ。
 バスケットの位置がずれていたことや、その中の弁当箱が打ち捨てられているのを目の当たりにしたはずなのだ。そしてさっきの失言のことも。
 さっきまで引いていたはずの汗が、再びどっと吹き出してくる。

「あれ? 麻衣香、その荷物は……」
「ああ、これはその……ちょっと今日はお弁当作りに挑戦したから、高道に食べてもらおうかなーって思って」
「へぇー、手作り? それは楽しみだな〜」
「あ、その前に舞ちゃんにだけど……はい、これ麦茶」
「え…………?」

 そう言って、女がバスケットから取り出した水筒を差し出してきて。
 ……水筒?
 受け取ってから、ぞっと、した。
 だってさっき見た時は、バスケットの中に水筒なんてなかった。
 どこかに隠してあった? そんな馬鹿な。あの女は歩きでここに到着して、手荷物はバスケットだけだった。間違いない。なのにどうして、どこから水筒が出てくるというのか。
 ありえない。意味がわからない。
 もしかすると自分は、全然別の人のバスケットと勘違いしているんだろうかとすら思えてきた。
 だけど。

「じゃあこっちは、高道にね」
「わぁ、ありがとう!」

 そう言ってタカが受け取ったのは、やっぱりあの弁当箱だった。
 手にした水筒を今すぐに放り出したい気持ちを抑えて、その光景を凝視する。
 何も知らないタカがのんきに弁当箱に手をかけたところで、身構える。
 そして、その蓋が開かれて出てきたのは――きらびやかなサンドイッチだった。

「…………えっ?」
「わぁ、すごい! 綺麗だし、美味しそう! ありがとう、麻衣香!」
「ふふっ、結構苦労したんだよ、作るの。こう暑いと腐っちゃうし」
「あー、そう言われると食べにくいなぁ。なーんて、あはは」

 あからさまに褒めそやすタカとは対象的に、舞は目の前の光景が信じられない。

「そんな……嘘っ!」
「嘘? こら舞、嘘ってことはないだろ。……ごめんね、麻衣香」
「いいのいいの、自分でもお母さんが作ったぐらい良い出来だと思ってるから、ふふっ」

 そんな馬鹿な、ありえない。
 だって、あの時見たのは真っ黒な何かで。
 それどころか放り投げた時に撒き散らされて、蠢いていて。サンドイッチなんてどこにもなかった。影も、形も。
 水筒の件だってそうだ。一体どこから取り出したというのか。
 舞にはもう何が何だか分からない
 もしかすると自分は本当に熱中症になっていて、幻覚を見てしまったのだろうかと、本気でそう思えてきた。

「食べていい?」
「うんっ、遠慮なく食べてね、高道」
「……っ」

 ――駄目っ!
 口に出せなかった言葉が、胸の中で反響する。蜂が威嚇しているかのように、耳障りな思考が頭を埋め尽くす。
 それがサンドイッチなどではなくて、本当は泥の塊だとしてもそれをどう説明すればいいのかわからない。そして仮に説明するとなると、どうしてそれを知るに至ったのかを説明する必要が出てくる。自分がイタズラでバスケットを隠そうとしたことを。そうなったら、タカに怒られることは必至だ。
 いやそもそも、あの泥の生き物は本当に実在していたのか? その点からしてまだはっきりしていない。自分が熱中症になっているのかどうかも、そうなったことがないのだからわかりようがない。
 そしてタカがそれを食べたとして、一体どうなるというのか? 案外普通に食べられる代物で、別になんともない可能性だってある。もしかするとこのままほっといても良いんじゃないのか?
 そんな風に、段々と思考が無難な方向へ流れつつある中で、ふとタカの言葉が脳裏に浮かんだ。

 ――お前が危なくなった時は、僕が守ってやる。

 瞬間、身体は動いていた。

「――タカ! それ食べちゃ駄目っ!」

 タカの手に飛びついて、サンドイッチが口に入るのを阻止する。

「なっ、何するんだよ舞!」
「駄目なの! それ食べちゃ駄目!」
「待て待て! なんでだよそれは! せめて理由を説明しろよ! 意味分かんないだろ!」
「わかんない! でもきっと駄目だから!」

 上手く説明できない自分にもどかしさを感じる。
 それでも絶対に阻止しなければと、全力でタカの手にしがみつく。
 そしてその最中、見た。
 動揺することもなく、ただじぃっとこちらを見ている女の目を。
 どこまでも冷たい目を。
 それを見て、舞は確信する。
 これは絶対にタカに食べさせちゃ駄目だ! と。

「お前、とりあえず離れろよ!」
「やだっ! 絶対に離さない!」
「こいつ……いい加減にしろっ!」
「い……っ!」

 タカに本気で突き放されて、舞は地面に倒れ込んだ。
 反射的に手をついて、すぐさま立ち上がる。再度阻止を試みる。
 けれどその時、タカが呆然とした表情でこちらを見ていることに気づいた。
 いや、正確にはタカは、地面を見ているようだった。
 見ればそこに、サンドイッチが落ちていた。

「おっ前……なんてことを」

 タカが、震える声を発する。
 タカが怒っている。本気で。
 舞は慌てて、次の行動へと移る。

「た、タカ、ほら見てて! 今、証拠見せるから!」
「証拠って、お前一体何を…………っ!」

 舞はサンドイッチを、踏みつけた。
 きっとこれは、あの黒いやつが化けているに違いない。
 だからきっと、こうすれば正体を現すはずだと考えて。
 思い切り踏みつけてやった。
 踏みつけて踏みつけて踏みつけて――パンッ! と、音がした。
 頬に痛みが走った。
 タカに引っ叩かれたのだと気づいたのは、少ししてからだった。
 見れば、怒りに満ちた目をタカがこちらに向けている。

「おっ前……何してんだよっ!!」
「ホント……なの! 変なのがサンドイッチになってるの! 信じてよ、タカ!」
「うるさい黙れよっ!」

 今まで聞いたこともないぐらいの怒声が、あたりに反響した。
 一瞬だけ、セミの声も、他の人達の声も、止んだ。
 けれど数秒後、セミ達は再び合唱を始めて、周りの人達は訝しげな様子ではあったもののあたりは喧騒に包まれる。

「――謝れ」

 ぺちゃんこになったサンドイッチを睨みつけて、タカがぼそりとそう言った。

「タカ、とにかく話を聞いて! 舞は見たの! 最初見た時はバスケットの中にはサンドイッチなんて入ってなくて! 変な動く泥しか入ってなかったの! だから……だから、サンドイッチが出てくるなんてありえないの!」
「お前【最初見た時は】、ってなんだ?」
「あ……」

 しまった、と思った。

「それは……その……」

 口ごもっていると、タカは何かを察したように深い溜め息をつく。

「お前さ……結局相手されなくてスネてたんだろ? それで、麻衣香に意地悪してやろうって、そう思っただけなんだろ?」
「そんな、違う! 違うよ! 舞は……舞はただっ!」

 必死に弁明しようとするも、タカは明らかな疑いの目を向けてくる。
 そして未だにあの女は、取り乱す様子すらない。こんなのはおかしい。明らかにおかしい。絶対にこの女は、普通じゃない。
 なのにどうしてタカは、そんなこともわからないのか。
 それが悲しくて仕方なかった。
 今にも涙が零れ落ちそうになった。

「ま……舞は、舞はタカの保護者だから……っ! だから!」
「何が保護者だよ……もう限界だ! お前……いっつも付きまとって……邪魔ばっかりで! 僕のマネするばっかりで、お前なんて……お前なんて、いなきゃ良かったんだ!」
「――っ!」

 一気に決壊しそうになった涙を、すんでのところでこらえた。
 ぎゅっと瞳を噛み締めて、唇も固く結ぶ。泣きたい気持ちを、必死に飲み込んで。

「…………帰る」

 それだけ言って、背を向ける。
 歩き出す。

「あーあー、さっさと帰れよ! 馬鹿舞!」
「……っ」

 飛んできた罵声に背中を押されて、駆け出す。
 舞は泣きたい気持ちを置き去りにして、その場から走り去った。



『―― 木原高道・2 不穏 ――』


 マイマイカブリの森を通り過ぎた先、長い坂道を登りきったところにその家は建っていた。
 高道は肩で息をしながら、額の汗を拭う。

「はぁ、はぁ……こ、ここが麻衣香の家……?」

 そう呟きながら、その木造二階建てを見上げる。その横手には納屋兼車庫があって、車庫の中にはワンボックスカーだかワゴン車だかが停めてある。それと、耕運機も。
 その庭先には池があって、松があって、ちょっとしたお屋敷、という様相を呈していた。
 その様子を見て、何となく思う。

「もしかして、麻衣香の家って地主さんなのかな。……周りに家とか全然なかったし」

 もしかするとこの辺一体が麻衣香の家のものなのかも。あるいは、いつもマイマイカブリを集めている森ももしかしたら。
 高道はそんなことを考えて、ちょっと緊張する。

 ――あの事件のあと、高道は逃げた。

 気まずさで麻衣香と顔を合わせられなくて、無言で舞の後始末をしてから走って逃げた。
 そして家に帰るなりひたすら布団の中で「舞の馬鹿!」と呪詛を吐きながら眠りについた。
 けれど夜は夜で夢の中に麻衣香が出てきた。そして責められ、軽蔑され、罵られるという悪夢に一晩中うなされ続けたのだ。
 そんな日が二日続いてやっぱりこのままじゃ駄目だと思った高道は、麻衣香に謝ることにして、こうして出向いた。
 勿論、悪いのは舞だ。
 それは間違いない。
 舞がわけの分からない言い訳を並べ立て麻衣香に嫌がらせをしたのだから、自分が気に病む必要はあんまりない。あくまで謝るべきは舞なのだ。
 けれど本人が頭を下げない以上、兄として保護者として身内として、まず自分が謝らないといけない。そう思った。

「麻衣香、もう怒ってないと良いなぁ……」

 高道は憂鬱なため息をつきながら呼び鈴に手を伸ばす。心の準備をしてからそっと押す。
 家の人が出てきた場合と麻衣香本人が出てきた場合、それぞれをイメージして。
 麻衣香が出てきた時はまず謝ろう、そうしよう。
 家の人だった場合はまず挨拶……で、いいよな。
 そんなことを考えながら待っていて、やや時間が過ぎた。だいたい三分ぐらい。
 もしかして聞こえなかった? ともう一度。今度は二回押す。
 だけどやっぱり、誰もでてこない。

「おっかしいなぁ、車あるんだし人いるはず……だよね?」 

 ならばどうしたものかと、ちょっと家の脇を覗いてみる。
 すると家の裏手に畑が広がっているのが見えた。
 もしかすると、家の人達は畑仕事でもしているのかも?
 そう考えて「し、失礼しまーす!」と裏手へ。

 そして――見た。

「…………えっ?」

 家の、畑側に面したガラス戸。どういうことか、そこにぽっかりと人型の穴が空いているのを。

「なんだ…………これ」

 恐る恐る近づいて見てみると、それは穴が空いたというよりは、人型に溶けたという様子だった。
 しかも一体どうやったのか、ガラスとサッシ部分の両方が溶けている。その縁は黒い土か泥のようなものがついていて、外から家の中に向かって伸びていた。そして、穴からは家の中へと靴跡が続いている。
 その異様な状況にはっとして、思わず叫ぶ。

「麻衣香っ!」

 即座に家の中に向かって呼びかけたものの、やはり反応なし。耳に聞こえるのは、せいぜいセミの声ぐらい。

「誰か! 誰かいますかっ!?」

 さらに呼びかけて、応答がないのを確かめてから決断。

「すいません! 入ります!」

 ガラス戸の穴から手を突っ込んで、解錠。引き開ける。
 靴をその場で脱ぎ捨てて、中へ。

「すいません! 倉内さん! いますか! 誰かいませんか! ……麻衣香っ!」

 なおも呼びかけてみたものの、家の中はひっそりと静まり返っていた。
 この家で、何かがあった。
 それは明白だった。
 おそらくは靴跡の主が侵入し、家人に何かをしたのだとも。

「だっ、誰かいますか! いま、せんか……?」

 今にも背後から誰かが出てきそうで、高道は気が気じゃない。
 暑さのものと違う汗が出てくる。
 それでも麻衣香の無事を確認しなければと、震える足で必死に歩を進める。
 けれどあちこち見て回ったものの、これといった痕跡は見当たらない。
 人の気配も争った様子もなくて、頭に浮かんでいた惨状を肯定するようなものは何もなかった。どちらかと言うと、むしろ家の中は綺麗に片付いていると言っていいぐらいだ。
 もしかすると、麻衣香のお母さんか誰かは綺麗好きなのかもしれない。
 そのせいか、家のあちこちでかすかに塩素臭を感じた。
 とりあえず一通り見て回ったものの、結局一階では何も見つからなかった。
 その状況から、高道はこう考えてみる。
 この家に誰かが入った。だけど家の人にあっさり捕まるか、見つかって逃げるかして家の人達や麻衣香は無事で。みんなとっくに別の安全な場所にいるんじゃないか、と。

「うん、そうだったら良いな……」

 呟きながら、念の為の階段を登って二階も見て回ることに。
 一階に何もなかったのだから、きっと二階にも何もないだろう。それを確認したら、もう終わりにしよう。
 そう思いながら二階の探索を始めて、高道はそこに辿り着いた。
 ネームプレートにこう書かれた、部屋の前に。

 『まいかのへや』

 一瞬、高道は躊躇する。
 それは当然といえば当然だった。
 緊急事態とは言え同い年の女の子の部屋に入るなんて、ためらわないほうがどうかしている。

「……麻衣、香? いる?」

 一応、声をかけてから。
 それから高道は緊張半分、好奇心半分で、そっと、ドアを開いた。
 その、瞬間。

「…………っ?!」

 強い刺激臭に、高道は思わず顔をしかめた。
 一階でかすかに感じた塩素臭よりも、ずっと濃い匂い。
 一体何なんだ? と思いつつ部屋の中を目にして――。

「…………あ」

 なんと言えばいいのか、わからなかった。
 だからそれは声というよりは、自然に出た音のようなものだった。
 部屋の中に麻衣香の姿はなくて、その代わり出迎えてくれたのはベッドに出来た人型のくぼみで。
 そこには丁度、人の形に黒い泥が満たされていた。
 そしてそれはまだ乾いていないようで、薄い光沢を放っている。どうやら塩素臭は、その泥からしているみたいだった。

「なんだ、これ……?」

 とりあえずそれが、異常な事態ということは高道にも理解出来た。
 けれどあまりに異常事態過ぎて、それ以上のことは分からない。
 触ってみても大丈夫なのか、そうでないのかすらも。
 それから目を逸らすように部屋の中へ視線を泳がせると、さらに奇妙なものが目に入ってきた。
 学習机の上、そこに女子向けと思しき雑誌のページが置いてあった。
 丁度開かれていたのはデート特集の記事で。見出しは『デートに着ていくならどんなコーデが良い? 男の子が好きな服装は?』となっている。そのページの一番目に載っていた写真は、あの日麻衣香が着ていた服装そのものだ。
 さらにその隣には料理の本があって、こちらはサンドイッチのページ。これもやっぱり、あの日持ってきた弁当の中身。
 それだけなら、どうということもない。ただ麻衣香が、デート前日に読んでいたんだろうと思うことが出来た。
 だけどその本と雑誌のどちらにも黒い泥がこびりついているとなれば、話は変わってくる。
 しかも、まるで泥のついた手でページをめくったようであればなおさらだ。

「……これって……どういう……」

 何か。
 頭の中に、何か恐ろしい仮説が浮かび上がろうとしている。
 けれどそれは一度浮かんでしまえば、きっと二度と沈めることの出来ないもののような気がして、慌てて頭を振る。

「あははっ、まさか。そんな訳ないって……そんな、訳が……」

 もう、帰ろうと思った。
 誤魔化すように、麻衣香は無事なんだろうかと考える。
 考えながら、振り返って。
 そして、見た。
 その、壁一面の、文字を。
 まるで、夜の明かりに虫が群がっているかのような、それを。

 *ハラ<=きはらくん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん木原くん 月かΞ干タカミチたかみち高道高道高道 す士すきス≠キ好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き ♭たL①ナみよま1よわたしのなまえは、<5ラ6&いカくらうちまいか倉内麻衣香 私は、倉内麻衣香は木原高道が、好き

 これは この気持ちは この思いは もう誰にも止められない

 しかもその文字は、塩素臭を漂わせる黒い泥で書かれていた。
 頭の上から、ざぁっと血の気が引いていく。
 同時に高道は、沈めたはずの仮説がもうどうしようもないところまで浮かんで来ているのを感じていた。


『―― 木原舞・2 仲直り ――』


 タカの影響で、舞は小さな頃から虫が好きだった。
 昔は男の子達に混じって一緒に虫取りして、女の子達からは頼りにされていた。
 だけど大きくなるにつれて、その状況は変わった。
 男の子達は女子と一緒に遊ぶことをためらい、女の子達は変人扱いしてくるようになった。
 虫好きな女の子なんておかしい! そう言って。
 そのせいで舞は、一時期孤立していた。
 いじめにも、あった。
 無視されたり、持ち物を隠されたり、悪口を言われたり。
 それでもどうにか今日までやってこれたのは、とある出来事のおかげだった。

 ――去年の夏のこと。

 帰ろうと思ったら、靴がなくなっていた。
 誰かに隠されたのだということはすぐにわかった。
 靴がなくて戸惑っている様子を伺う誰かが、背後でくすくす笑うのが聞こえたから。
 だから仕方なく、舞は内履きで帰ることにした。
 惨めだった。泣きそうだった。
 家に帰ってお母さんに靴が失くなったことを言えば、もしかするといじめにあっていることがバレるかもしれない。かといって不注意で靴を失くしたのだと言えば、自分が怒られるかもしれない。
 いじめられていることを知られたくない、でも怒られたくもない。
 どうしよう、どうしよう、の文字がぐるぐると頭の中で回り続けてカタツムリになる。今すぐ、泣きたくなった。
 だけどそんなことをすれば誰かに理由を聞かれて、知られたくないことが知られてしまう。
 だから泣くことだって出来ない。
 けど、泣きたいぐらいにどうしようもない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 もう、心が折れそうだった。
 このまま家に帰らずに、学校にもいかずにどこかへ行ってしまいたかった。どこに続いているのかも知らない裏路地を見ていると、そんな気持ちはどんどんと強くなってくる。
 いっそ本当に、と思った時だ。

「お前、帰りか?」
 
 顔を上げてみれば、そこにいたのは自転車に乗ったタカだった。
 どうやら丁度学校帰りらしい。今年から通いだした中学校の制服と、白いヘルメット姿が目に飛び込んできた。
 するとタカはちょっとめんどくさそうにヘルメットをつついて、自転車に乗る時はなんでこれをかぶらなければ駄目なのかだの、夏は暑いし蒸れるし最悪だの、何よりこれちょっとダサくないかそう思わないかだの聞いてもいないことを話しだした。
 そんなタカに舞がちょっとうんざりしだした頃、ふとタカが言った。

「なぁ、お前それ内履きじゃないか?」

 びくりと、舞は身体を震わせた。
 それは今一番聞かれたくないことだった。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう――。
 頭の中を、またその文字が渦を巻く。

「えっと……その、靴、失くして……」

 散々考えて結局伝えたのはそれ、他に良さそうな答えが浮かばなかったから。
 するとタカは「ふぅん」と呟いて、しばらく黙り込んだ。
 どうしよう、と思った。
 きっと変に思われたんだ、とも。
 それどころかいじめられていると気づかれて、お母さんに話すかもしれない。家のみんなにいじめられていると知られて、迷惑をかけてしまうかもしれない。次々に心配ごとが浮かんできて、もう舞は本当にどうしたらいいのかわからなくなってくる。

「あ、そう言えば……。舞! 僕、ちょっと先行くな!」

 いきなり声を上げて、タカは自転車で走り去った。
 なんだろうと思っていると、しばらくしてからタカがまた戻ってくるのが見えた。
 そしてその手には、何故かサンダルが。
 それも、大きなヒマワリの飾りがついたサンダルだ。

「ほら、これ使え」

 差し出してきて、タカがそう言う。

「どうしたの、これ」
「この先の靴屋で買った」
「……お金は?」
「そういうの、小学生が気にしないの。それよりお前、もう靴失くすなよ? まったく、そそっかしいやつだな。……それ、大事に使えよ? あと、誰にも言うなよ? 母さんには特に」
「……なんで」
「なんででもだよ……じゃあな!」

 よく分からないが、タカはなんだか慌てた様子でさっさと行ってしまった。
 いじめに気づいた様子は……微塵もない。
 そのことにちょっとホッとして歩いていると、少し先で靴屋の店先にサンダルが並んでいるのを見つけた。
 『子供用品、どれでも九百八十円』と書かれたカゴの中にそれはあった。
 その横を通りかかったところで、お客さんらしいおばあさんが舞のサンダルを見るなり。

「あらー、良かったわねお兄ちゃんに買ってもらって。……うん、真剣に選んでただけあって、あなたにぴったりな一番可愛いサンダルね」

 言われて、見る。
 ヒマワリのついたサンダル。
 それはカゴの中で、一番目立っていて、確かに一番可愛いサンダルで。もしかすると、自分に一番ぴったりかもしれなくて。
 なんだかそのことが無性に嬉しくて。
 舞はその日、ちょっとだけ泣いた。

 学年とクラスが変わったおかげなのか、いじめが自然消滅した今もそのことがずっと心に残っている。別にそれが何かを解決してくれたわけではないのだけれど、ただ舞はこう思っている。
 あの日あの時があったから、自分は折れなかったのだと。
 少なくとも、そう信じている。
 だから自分は、タカの保護者なのだとも。
 サンダルのヒマワリを見るたびに、舞は強くそう思う。



 ぼんやりと舞は、ひとり庭先で石をひっくり返していた。
 石の下の虫を見つける遊びの一つだ。
 石をどかすとどうやら巣があったようで、アリ達が一斉に右往左往を始めた。
 よく見れば、逃げ惑うアリに混じり同じぐらい小さなアリヅカコオロギの姿があった。アリの巣に間借りして生活する極小のコオロギで、とても小さくて可愛い、舞が大好きな虫のひとつだ。
 いつもならそんなのを見つけてしまった日には慌てて容れ物を探しに行って、とりあえず捕まえて、タカと一緒にじっくりと愛でてやるところ。
 でも今日は全然そんな気にはならなかったし、なれなかった。
 その場でただじっと、見つめ続ける。
 チョロチョロとおもちゃみたいに動き回るコオロギの動きを、なんとなく目で追う。

 『――お前なんて、いなきゃ良かったんだ!』

 ふとタカの言葉を思い出して、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
 引っ叩かれたことより、信じてもらえなかったことより、その言葉が一番辛かった。まるでいじめられていた時みたいに、心が折れそうになる。
 逃げ惑うアリの中で、アリヅカコオロギは右往左往していた。
 もしかしてアリヅカコオロギも、アリから邪魔だと言われているのかもしれない。何気なく、そう思う。

「ねぇ、コオロギさん。舞はタカにとってずっと邪魔だったのかな? 舞は、どこにいたらいいのかな?」

 その問いかけに答えることなく、コオロギはアリと一緒に巣穴深くへ姿を消した。あとには、何も残らなかった。

「……そっか、コオロギさんは一人ぼっちじゃないのか……。あーあ、一人ぼっちなのは舞だけかー」

 自虐的につぶやいていたら、じわり視界が歪んだ。
 涙がこぼれそうだったから、上を向く。
 もっと、上を向く。
 もっともっと、上を向く。
 舞はまだ、泣いてなんていない。
 泣いてないから、悲しくなんてないのだと。
 そう、自分に言い聞かせて。

「……舞」

 不意に、声。
 振り返ると、いつの間にかタカがそこに立っていた。
 慌てて背を向けて、こぼれそうな涙を拭ってからもう一度振り返る。

「……なに?」
「その――ごめん!」 

 いきなりタカが、頭を下げた。
 突然の出来事に、舞はぽかんとしてしまう。

「その、僕が悪かった! お前の言う通りだった……麻衣香は、なんか怪しい! だから、ごめん!」

 深々と、タカが頭を下げている。
 自分に対して。
 それを見た瞬間、だった。
 この前から、さっきから。
 ずっとずっと我慢してきたものが、胸の中で何かがストンと落ちたような音がして溢れ出しそうになる。
 慌てて、上を向く。
 でも、そんなことをしてもどうしようもないぐらいに、涙が溢れてくる。
 湧き出てくる。
 もう、限界だった。

「ば――馬鹿! バカバカバカ! ウスバカゲロウ! もう遅い! もう謝っても遅いの! そんな、謝ったぐらいじゃ許さないんだから!」

 流れ落ちる涙と一緒に、舞は気持ちを全部吐き出した。

「そう、だよね……ごめん、舞……」

 しゅんと、タカは肩を落とした。
 けれど、そんなことじゃ腹の虫は収まらない。収まってくれない。

「だからごめんって言ったって許さないって言ってるでしょ!」
「じゃ、じゃあどうすればいいのさ……?」
「そ……そんなの自分で考えればいいでしょ!? タカはもう中学生なんだから!」

 返答に窮して思わず怒鳴りつけると、タカはちょっと困った顔をした。
 本当は舞もどう許せばいいのかわからなくなっていたけど、それぐらいの苦労をする責任はタカにあるはずだ。
 タカはそのまましばらくそのまま黙り込んでいて、その様子を涙を拭いながら見ていると。

「あ! じゃあ……一緒にプール、行くか?」

 タカが、そんな提案をしてきた。まるご機嫌を取るかのように。
 こいつ、そんなもので釣れると思ってるのか。
 ちょっとむっとして、舞は思い切り首を横に振ってやる。

「え、えっと……あ! それじゃ、食べ物! 何か食べたいものとかは?」

 今度は食べ物で釣る気か。
 そんな子供っぽい手に乗るわけにはいかない。
 今度はツンと、タカに背を向けてやる。

「じゃあ……マイマイカブリ?」
「……っ」

 それには。
 思わず、身体が反応してしまった。
 涙が、ちょっとだけ引っ込んだ。
 そして、そのことに気づかれてしまう。

「あーそっか、マイマイカブリか……」

 あからさまな様子でタカはうなずいて。

「それじゃ、今からマイマイカブリ見に行くか?」

 そう言って、タカが手を伸ばしてきた。
 けれどさっき怒鳴りつけてしまった手前、ちょっとその手を握り返すのをためらっていると。

「……やっぱり、行くのやめるか?」
「だっ……」

 慌てて、手を握る。
 途端にタカが、にっと笑った。
 それがちょっと悔しくて、でもやっぱり嬉しくて。

「それじゃ、今から共同研究の続きだな。行こう、舞」
「……うん。行こう、タカ!」

 ぎゅっとその手を握りしめて、歩き出す。
 そして舞は、ヒマワリみたいに笑った。



 『―― 木原高道・3 ハッピーエンド ――』


「あら、舞はどうしたの? さっきあなたと一緒に虫取りに行ったんじゃなかった?」
「……は?」

 帰宅するなり母さんに言われた言葉の意味が、高道にはまるでわからない。

「いや、あのさ。僕、今帰ってきたばっかなんだけど……?」
「あら、変ねぇ。確か、舞はお兄ちゃんと仲直りしたから、一緒にあの……マイマイなんとか? って虫を取りに行くんだ、って……何か聞き間違えたのかしら……」

 不思議そうに思いながらも台所に戻って行く母さんの後ろ姿を見つめながら、高道は呆然と立ち尽くす。
 一体今、何が起きているのか。
 それを考えるより早く、スマホが鳴った。
 見ると、どうやら舞からの着信。びっくりして、でもほっとする。
 やれやれとため息をつきながら、通話ボタンを押す。

「あのなぁ、舞。お前、今一体どこに――」
『あ、高道。私、麻衣香だよ』
「…………え」

 一瞬、思考が完全に停止する。

「えっと、麻衣香。……どうして君が、舞のスマホから?」
『ふふっ、どうしてだと思う?』

 麻衣香はそうはぐらかして、何も答えてはくれない。
 その返答で、ますます意味がわからなくなった。
 麻衣香の家で見たこと。帰ってきたらどういうわけか、【自分】と一緒に出かけた舞のこと。直後、なぜか舞のスマホから電話してきた麻衣香のこと。
 まだ何一つわかっていないのにわからないことが次々と沸いてくるせいで、頭の中がごちゃごちゃになる。

『あのね、高道。私ちょっと高道に来て欲しいんだけど……駄目かな』

 その問いかけに、高道は息を呑む。
 どう答えるべきなのか。

『あ、別にね? 無理にとは言わないんだけどさ』

 応じないとどうなるのか。
 そんなことを考えている暇はない、そう思った。
 慎重に、おかしなことは言わないように高道は返答する。

「ううん、行くよ。今からそっちに。それでその……舞もそっちにいるんだよね?」
『うん、勿論あの子も一緒』
「わかった。それで僕はどこに行けばいいのかな」
『いつもの森で。私、そこで待ってるから……じゃあまた後で』
「あ。ちょ、待っ……」

 慌てて止めようとしたものの、そこで通話は一方的に終了した。

「……っ!」

 直後、高道は走りだす。
 玄関から飛び出して、自転車にまたがる。湧き上がる衝動をぶつけるように、ペダルに目一杯体重をかけて、道路を疾駆する。

 ――なんだよ! どういうことだよ! 何が起きてるんだよ!

 そう叫びたい気持ちを糧に、高道はペダルを漕ぐ。
 お昼も過ぎてなお強い日差しの中を、突っ切って行く。
 けれど倉内家から帰ってきたばかりで、疲労の貯まっている足は石のように重い。あっという間に失速して、肩で息をするハメになる。
 舞はどうなったのか。麻衣香は何をしているのか。今どうなっていて、どれぐらいの時間があるのか無いのか。焦燥感が胸の中で渦巻く。
 そんな気持ちとは裏腹に、全然先に進めない。進まない。
 信号はまるで邪魔をするみたいに、交差点に差し掛かるたび赤になって。踏切までもが行く手を塞ぐ。
 その遅れを取り戻そうと先を急ぎすぎたせいか、高道はカーブに差し掛かった時、道端に転がっていた小石にハンドルを取られた。
 視界が、平衡感覚がぶっとんで、自転車ごと横倒しになった。

「いっ! ……った……くっ……」

 アスファルトに叩きつけられて、身体のあちこちが傷んだ。
 膝と手の平が擦りむけていた。傷口に細かな砂が入り込んで、血が滲んでいた。散々な気分だった。

「くそっ……」

 もう泣きたくなる気持ちを堪えて、立ち上がる。自転車を引き起こす。ハンドルが変な角度に曲がっていたものの、気にしている余裕なんてない。
 サドルに跨って、すぐさま再発進する。

「なんだよ……なんなんだよもうっ!」

 痛みか、あるいは別の何かに対して叫んだ。
 それが何なのか、もう自分でもわからない。それでも痛む足で必死にペダルを漕いで、なんとか森に到着した。
 すると森の入口の、いつも自転車を止める道路脇に麻衣香が立っていた。
 麻衣香はこちらに気づくなり、満面の笑みを浮かべ手を振ってきた。
 彼女は麦わら帽子を被り、白いワンピースを着て、白いサンダルを履いていて。そして手には、バスケット。何から何まで、あのデートの日と同じ格好だった。
 その脇を見ると、彼女から少し離れたところにショッキングピンク色の舞の自転車。……それともう一台、自分のによく似た自転車も見えた。
 とりあえずそれで、どうやらここに舞がいるというのは本当らしいと知る。

「ごめんね高道、急に呼び出したりして……って、どうしたの、その怪我? 血が……」
「いいんだ。それより、舞は無事なんだよね?」
「え? 無事だけど、どういう……」
「麻衣香、その……ごめん!」

 まず、頭を下げた。

「あの日、逃げるみたいにっていうか……実際に逃げてその……ごめん! 舞が、折角の手作りのお弁当台無しにして、ごめん! デートを台無しにして、ごめん!」

 倉内家で謝れなかった分を、ここで謝る。

「あれは全部僕が悪かったんだ、だから……許してやって欲しい。舞を……舞のしたことを全部!」

 力いっぱい頭を下げて、そう告げる。お願いする。
 それで許してくれるかどうかはわからないけど、少しでも麻衣香の怒りが収まればと。必死に頭を下げた。
 けれどしばらくそのままでいても何の返答もなくて、高道は恐る恐る顔を上げてみた。
 すると麻衣香は、何故かぽかんとした表情をしていた。
 あれ? と思っていると、次の瞬間麻衣香は柔らかな笑みを浮かべる。

「ふふっ、そっか……高道、あの時のことを気にしてたんだ……そっかぁ……」

 くすくすと、なんだか楽しげに笑っている麻衣香に、高道はちょっと置いてきぼりにされた気になる。
 そして自分はもしかして、何か早とちりしていたのかも、と。

「あのね、高道。私、あんなこと全然気にしてないから。だから私が許すとか、許さないとかそんなの関係ないの」
「えっと、つまり?」
「高道の考えすぎってこと!」

 そう言って、どこまでも穏やかな表情で、麻衣香は笑みを浮かべた。
 それを見た瞬間、高道は胸のつかえがとれたみたいに一気に気持ちが楽になった。肩も軽くなって、深々と安堵のため息をつく。
 麻衣香の様子はどこまでも今まで通りで。倉内家で目にしたことは全部夢か幻か、あるいは何かの勘違いだったんだと思えた。
 自分はなんて馬鹿なんだろうと、そう思う。
 人型に溶けたガラスとか、黒い泥の跡とか文字とか。そんなものあるわけ無いだろうと自嘲する。
 まして麻衣香が舞を誘拐してどうこう……とかありえないだろ馬鹿馬鹿しい、と苦笑いする。

「良かった……僕、ずっと麻衣香を怒らせちゃったって思ってて。呼ばれたのだって、てっきりその話のことなんだと……」
「えー? そんなことないよ。ナイナイ、高道が私を怒らせるなんて」
「うっそだぁ、ホントは麻衣香ちょっと怒ってるよね? じゃなかったら、僕にイタズラとか仕掛けないでしょ」
「……イタズラ? 何のこと?」
「え? ほら、君の家の溶けたガラス戸とか、部屋の文字とか色々。あと、僕のそっくりさんか変装でもして舞を連れ出したりとか」
「……ああ、なるほど……ふふっ、バレちゃいましたかぁ」

 麻衣香は文字通りイタズラがバレた子供みたいに、少し顔を歪ませた。
 それを目にすると、ここに来るまでの間ずっと思い浮かべていた怖い考えから開放されて、ちょっとほっとする。

「今日は呼んだのはね。あの日のデートををやり直したかったからなの。……しばらく色々と考えててさ。高道の好きなこととか、もう失敗しないために、とか」

 言いながら、麻衣香が手を差し出してきた。
 だから、高道も手を伸ばす。
 そして、握る。

「ふふ……」
「はは……」

 どうしてだか、お互いに笑ってしまった。
 それから二人で、歩き出す。

「この先にね、高道が喜んでくれそうなものを集めてみたの。あの子もそこにいるよ」
「そっか、舞もいるんだ……」

 良かった、と高道はもう今日何度目か分からないため息をつく。

「きっとね、この先にあるものを見たら、きっと高道はもっと喜んでくれると思うの。きっと」
「それって……何?」
「ふふっ、それは見てのお楽しみ」

 麻衣香の言葉に、高道は否応なく期待感を煽られる。
 一体今から何が始まるのか。それが楽しみで仕方ない。
 これから、本当のデートが始まるのだから。
 森の中を彼女に手を引かれるまま、歩いて歩いて。

「はい、着いたよ」

 言って、彼女が立ち止まった。
 一瞬高道は、あれ? と思う。
 そこは森の木々が開けて、草むらが出来ていて。でも、このあたりにそんな場所あったかな、と疑問を抱く。
 そこには、地面にぽっかりと大きな穴が空いていた。それもまるで巨大なピットフォールみたいな。
 深さおよそ三メートル、広さは人が二、三人は余裕で入れるぐらい。しかも壁面はプラスチックででも出来ているのか、やたらツルツルとしている。おそらく一度落ちたら、簡単には出てこられない。
 それはまるで、人を捕まえるためのような穴で。
 そしてその中に、舞がいた。

「…………は?」

 一体これはなんなのか、と高道は思う。
 なんだか期待していたのとは違うぞ、とも。
 振り返り麻衣香を見るも、彼女はただ自慢げに笑みを浮かべているだけ。本気で意味がわからなくなってくる。

「……タカ?」

 どうやらこちらに気づいたようで、舞が穴の底から声を上げた。

「お前、そこで何を……あ。ははーん、もしかして、密かに麻衣香と二人で僕を驚かそうとしてたとかそういうこと?」

 少し茶化すように聞いてみたものの、舞は何も答えない。
 ただ身体を小さく縮こませて、こちらの一挙手一投足を疑うような目で見てくる。
 さらによく見れば、その目が赤く潤んでいるようにも。

「……なんで、お前泣いてるんだ?」
「っ、ヤダ……た、助けて……タカ……助けてよぅ……タカお兄ちゃん……」
「舞……?」

 舞はまるで、こちらの声が聞こえていないみたいにすすり泣く。
 何かが、おかしかった。
 ざわりと、得体の知れない虫が首筋を這ったような感覚と。
 虫の知らせとしか言いようのない、予感とが。
 何か、恐ろしい出来事がこれから起きるのだと。
 そっと、耳元でそう囁く。

「――じゃあ、高道。そろそろ始めるね?」

 何を。
 そう問いかける間もなく、すっと麻衣香が手をかざした。
 途端に穴の底が蠢き出し、真っ黒の泥沼に変化する。さらにその黒い泥のあちこちが、こぶし大に盛り上がって何かの形を形成していく。
 それは黒く、足は六本で、全身を硬い表皮に覆われた、細長い頭部の昆虫――マイマイカブリだった。
 それも一匹や二匹じゃなく、穴の中を埋め尽くすほど無数に。そしてその全てが何かの意思を持っているかのように舞を取り囲み、徐々にその距離を縮めていく。

「待って……麻衣香……これは……」
「……」
「何を始めるって……」
「……」
「まさか……嘘だ……そんな……そんな!」

 思い浮かべた予感の蛹は、ほどなく現実への羽化を始める。

「わあ゛ああああああああああああああっ! 助けて、タカ! 助けて!」

 マイマイカブリ達が舞に群がり、足に登り、噛みつき出した。
 肉を求めるかのように、次々とその大顎(おおあご)で食いついていく。舞があっという間に血まみれになった足からマイマイカブリを手で払おうとすれば、今度はその手に。少しでも対応が遅れれば、膝に腿に。腕に、二の腕に。むき出しの皮膚を狙ってマイマイカブリが容赦なく殺到する。

「あ゛ああ゛っ! 痛い! 痛い! タカ! タカ!」
「逃げろ! 逃げろ、舞!」

 舞は必死に逃げようとして壁に手をかけるも、泥と血とツルツルした壁のせいで登ることが出来ない。その間も、マイマイカブリは追撃の手を緩めない。もう胴体にも首筋にも噛みついていて、今にも顔にまで到達しそうだった。

「痛゛いっ! 助げて! 助けでタカ! 助けてっ!」
「あっはははは! 何あれ、みっともない! ねぇ聞いた高道? 痛゛い! 助げて! 助けで! だって! あはははは、面白〜い!」
「……麻衣、香?」

 麻衣香は、笑っていた。
 この状況下で、笑っていた。
 思わずその顔を殴りつけたい衝動に駆られたものの、そんな暇があるはずもない。

「舞――っ!」

 飛び降りた。
 泥がクッションになったせいか、着地にそれほどの衝撃はなかった。その代わり、泥から妙に鼻を刺す刺激臭を感じて少しむせた。
 舞はもうすでに頭までマイマイカブリに覆われていて、全身真っ黒になっていた。そんな状態で、さらに泥沼に倒れこんでいる。
 急いで駆け寄り、群がっているマイマイカブリを手で払いのけて舞を助け起こす。

「舞! 大丈夫か?! 舞!」

 ――舞は、血と泥で赤黒く汚れていた。
 手も足も、身体も顔も。
 そのせいで舞が、どんな表情をしているのかもわからない。
 ただ真っ黒な顔の中で口だけが動いていて、白い歯を震わせながら弱々しく言葉を紡ぐ。

「……タ……カ……ど……こ? 見え……ない……よ。どこ……?」
「ごめん、舞! 大丈夫だ、もう大丈夫だからな……?」
「……タカ? ……どこにいるの……タカ……怖い、よ……痛い……助け、て……」
「……っ、ここだ! ここにいるからな?」

 空を漂う舞の手を握り、顔に乗ったマイマイカブリと血と泥を落としていく。手で拭うと、その下から出てくるのはズタズタに裂けた肌で、すぐさま新しい血が流れ出してくる。
 拭う度に痛むのか、その都度息が荒くなって、身体を痙攣させる。
 その様子を見て、高道は泣きそうになる。
 麻衣香はなんでこんなことをするのか。
 どうしてこんなことになったのか。
 自分はさっきまで何を浮かれていたのか。
 悔しさと怒りと悲しみと失望で、頭と身体がどうにかなりそうだった。
 涙で前が見えなくなりながらも、懸命に舞の顔からマイマイカブリと泥を落としていって――――そして、見た。

 舞の顔から血と泥を落としたその下には。
 見慣れた舞の顔が、もうないことを。
 半ば溶けていて、■が無くなっていて●●●も◆◆◆も判然としなくてそれどころか一部『  』までもが見えていて誰なのかもわからないその状態を目の当たりにした瞬間、

「あ゛ぁああああああああああああああああああああっ!」

 高道は、絶叫した。
 そして身体が反射的に舞を放り出して、飛び退いていた。
 支えを失った舞が、再び泥沼に沈む。

「…………っ」

 高道は自分がやったことが、信じられなかった。
 何をやっているのかと、慌てて舞に駆け寄ろうとして。けれど泥沼に足を取られ、身動きがとれなくなっている自分に気づいた。
 というよりはまるで泥が意思を持って、足に絡みついているようだった。それは舞に対しても同様で、不自然なほどに早くその身体が泥の中へと沈み込んでいく。

「なん……で、だよ! なんだよ、これ? くそっ…………舞! 舞ぃいいいいいいいいいいいっ!」
「タ……カ……?  そこにいるの、タカ? へへ……やっぱりタカは……助けに、来てくれた……んだ……」
「違う! 僕は……僕はお前を助けて、なんて……」
「本物の……タカだ……優しい…………舞の……お兄ちゃんだ……」
「違う! 僕は、優しくなんて……ない! 僕は、なにも……なにも!」
「あの、ね……舞、ずっといい……たかった……ことが……あ……んだ」
「ああ、なんでも言え! 僕への文句でもなんでも! 今なら……何言われても怒らないから!」
「あ……のね? タカ……ヒ……ワリ……の、サ……ダル……あ……りが……うれ」

 その先は聞こえなかった。完全に泥沼へと沈んだから。代わりに言葉になりそこねたアブクが、泥をまとってそっと弾ける。
 だと言うのに自分は、その場から一歩も動けない。
 まだ、間に合うかもしれないのに。
 まだ、なんとかなるかもしれないのに。
 未だに、半歩すらも踏み出せないのに。
 ……自分は何のためにここにいるのか?

「……ああ……あ゛あああああああああああっ!」

 叫び、泥沼に拳を叩きつける。
 黒い泥が飛び散って、雨のように降り注いだ。
 何もかもが、真っ黒に染まる。
 それでもさらに叩きつける。さらに、さらに。
 真っ黒になりながら――。

「……どう、【楽しめた?】 高道」

 今まで穴の上から覗き込んでいた麻衣香が、その時になって初めて声をかけてきた。
 ……楽し、めた? 何を。
 呆然とその意味を考えていると、彼女がすっと穴の上から手を差し伸べた。
 途端に足元がせり上がり、見る間にピットフォールが平らな地面に変わっていく。穴は勿論、泥沼も大量にいたマイマイカブリすらも姿を消していく。やがてそこは、ただの草原へと変わり果てる。
 今までのことが嘘だったみたいに。
 まるで、今の今まで悪夢でも見ていたかのように。
 そして何もなかったみたいに、麻衣香は笑顔で手を差し伸べてくる。
 その笑みに、高道はぞっと怖気立つ。

「麻衣香……君は……一体何者なんだ……いや、と言うか……なんなんだっ?!」

 さっきから、ずっと信じられないことが起きていた。
 泥がマイマイカブリになって。
 人を襲うはずのない彼らが舞を襲って。
 巨大な落とし穴が消えて。
 草原へと変わった。
 そのどれもが、麻衣香の仕業としか思えなかった。

「答えてくれ……答えろよ、麻衣香ぁっ!」

 ありったけの憤りを叩きつけるように、高道は叫んだ。
 すると麻衣香は、少しだけ困った顔をして。

「私はなんなのか、かぁ……それはちょっと答えにくい質問だね……。だって私は、私が何なのかをまだハッキリとはわからないんだもの。けど、それでも一応回答するなら……」

 んー、と麻衣香は軽く腕組みしながら。

「…………地球外生命体、ってことになるのかな?」
「は」

 その回答に、高道は面食らってしまった。
 にわかには信じられない話に、どこか馬鹿にされたような気になって麻衣香を睨みつける。

「……あのさ、そんな馬鹿なことがあるわけが」

 言った瞬間、麻衣香の全身が溶けた。
 溶けて、黒い人型の泥の塊になる。

「…………っ」

 息を呑んでいる間に泥人形はさらに少年の姿へと変化する。それも、高道そのものの容貌を持った少年の姿に。

「……これなら、信じてくれるかな? 僕はこんな風に、自分の姿形を自在に変えられるんだ」

 鏡に写った自分の姿みたいで、高道は思わずあっけにとられた。
 姿だけじゃない、その喋り方までが自分そっくりに聞こえた。
 さらに次の瞬間少年は、再度泥人形を経て麻衣香の姿に戻る。

「つまり、麻衣香は人間じゃない……?」

 高道はゴクリと唾液を嚥下する。
 今日一日、色んなものを見た、いろんなことがあった。
 それでもなお目の前の麻衣香の話と、目まぐるしい変化には理解がなかなかついてこない。

「え? 私も人間でしょ? 私はそう思ってるけど?」
「も……?」

 意味がわからず顔をしかめると、麻衣香はあっけらかんとした表情で。

「だって、人間ってその星で一番強い生き物のことでしょ」
「いや、それは、違う……違う、と思う……けど……」
「どう違うの? この星の人間は、飛び抜けた知恵を使って星で一番の生き物になった存在だよね。私の場合は、優れた変化能力で一番になった……ただ手段が違う、ってだけの違いじゃない? ほら! 高道、言ってたよね? 場所が違うと、特徴も違ってくる、ってアレ。えっと……」
「……地理的変異?」
「そう、それ!」

 にっこりと笑みを浮かべて、麻衣香が指さした。
 麻衣香はそのまま指を立てて、続ける。

「この星の人たちは知恵で道具や技術を使って火を起こし、操るすべを身につけた……。でも私は、身体を変化させることでそれが出来る」

 麻衣香の指先、その先端にばちっと放電が起きて、火がついた。
 最初は紅く、次に青く、やがて白く。目に痛いぐらいの光を放つ。
 もっともそれは数秒と保たず、指先も焦げてしまったのか白く崩れていく。

「こんな風に限界はあるし自由自在ってわけじゃないけど、私はこうやって色々なものを肉体で擬態、模倣、再現出来る。動植物、非生物から、この世の自然現象に至るまで」
「自然現象って……そんなの無茶苦茶だ……」

 あまりに荒唐無稽な話に、思わずそんな言葉が口をついて出た。

「え? 本当にそう思ってる? 元々生物の体内の現象は自然現象を小さくしただけのものだよね? そもそも地球上にだって、体色を変化させたり、電気を起こしたり、光ったりする生物ぐらいいくらでもいるし、昆虫なんかは、成長段階ごとに完全に別の生物に変化するよね?」
「それは……」
「だいたい私から言わせれば、知恵でなんでも再現しちゃうこの星の人間の方がよっぽどだよ?」

 はぁ、と麻衣香は呆れた様子でため息をついて。

「……私ね、ここに来るまではいわゆる知恵、ってやつがなかったの。なんにも考えずに、思わずに。ただ特定の生き物に接触して、擬態して群れに紛れて、そいつがいなくなるまで食べて、また次の生き物と接触するのを待つ、ってのをずっと繰り返してた。その後星を食べ尽くした私は、ずっと宇宙を漂ってた。ずっと、ずっと独りで。それである時私は地球に辿り着いた。地上に降りた私は、まず近づいてきた生き物を食べた。それから捕まえた個体の情報を読み取って擬態して、その巣に向かった。もっと食べるために。そこで一番最後に食べたのが――倉内麻衣香」

 その名前に、高道は今更ながらに気付かされた。

「じゃあ、君は……」
「そ。厳密には、私は倉内麻衣香じゃない。ただ彼女の名前と姿を借りている、名前を持たない生命」

 その話を聞いていて、倉内家で見たことを思い出す。
 溶けたガラス戸と、麻衣香の部屋のこと。
 特に、まるで練習しているかのように書かれていた文字のことを。

「だけど、高度な知的生命体を口にしたのは初めてだったせいか、今までにない変化が私に二つ生じた。一つは、知恵の獲得。なにも考えずにただ獲物に擬態して紛れ込んで捕食するだけだった私が、考える力や文字、言葉、自我を手に入れた。もう一つは……」

 そこで、すっと麻衣香の姿と名前を持つ彼女は高道を見た。
 どことなく、熱のこもった瞳で。

「ねぇ覚えてる? 高道。もしかすると覚えてないのかもだけど、麻衣香はね、昔君に会ってるんだ。昔、お祭りの日。浴衣に大きな虫がついて泣いている所を、あなたに助けられたの」
「……あ」

 言われて、かすかに思い出した。
 そう言えば去年だったか。大きなスズメガが浴衣にとまって泣いている子がいたことを。そして、助けてあげたことを。

「あの時の高道がね、私すごく格好良く見えたの……」

 しみじみと彼女は、まるで自分のことのように言う。

「彼女は死の間際、ずっとそのことを考えてた。強く、君のことを思ってた。……そのせい、なのかな? 彼女を取り込んだ直後、私の中にその感情が流れ込んできた。最初私は戸惑った。まるで自分が自分じゃなくなったような感覚に生まれてはじめて陥って、私は自分が分からなくなった。それからは宛もなく森の中をさまよってた。何かを探すみたいに、逃げるみたいに。そして私は、偶然高道に出逢った。その途端、私は身体中に電気が走ったみたいになって、急に意識がはっきりして――――私はあの瞬間、あなたに恋をしたんだ」

 麻衣香は胸を押さえて、そう告げてきた。
 その熱くまっすぐな、射抜くような視線を向けられて、高道はなんとも言えない気持ちになってしまう。

「この気持が自分のものなのか、それとも麻衣香のものなのかは私にもよくわからない。ただ、それから私はこう思うようになった。あなたに喜んで欲しい、って。それで私ね、君に好かれるように頑張ったんだよ。この星の文化も、この星の人間らしい言動も、服装も学んで。君が好きそうなことも虫も食べ物も色んなことを勉強したの。それも全部、高道を喜ばせてあげるため。……それが、今ここにいる私。倉内麻衣香の名前をもらって、君の前に立っている私の全部。高道を喜ばせることが、私の願いなんだ」

 そう言って、彼女は両手を広げてみせた。
 それはどこまでもまっすぐで、確かな熱のこもった告白だった。
 嬉しかった。胸のどこかが、少し暖かくなった。
 でもそれは、悲しい告白だった。
 素直に受け止められないぐらいに、手を伸ばすのをためらってしまうぐらいに。
 高道は苦虫を噛み潰す思いで、彼女に問いかける。

「あのさ、キミ……いや、もう麻衣香……で、いいのかな……もう少し詳しく聞かせてくれよ」
「いいよ! なにかな?」
「僕が喜ぶことって……何?」
「え? 高道が喜ぶこと……つまり、マイマイカブリをいっぱい捕まえたり、見たりすること……でしょ?」

 言われて、ああ、なるほど、と得心がいった。
 さっきのあれは、そのためだったのかと。
 でも、だったら。

「なんで……舞に、あんなことをしたの……」
「え?」
「僕が……あんなことで喜ぶと思ったの? ねぇ、どうして……どうして舞に、あんなことをしたんだよ! なぁ! 教えてくれよ! なぁ! なぁ! 料理を踏みつけにされたのがそんなにムカついたのかよ! それとも他に理由があんのかよ! なぁ!」

 胸の奥から湧き上がる憤りを、吐き出すように麻衣香にぶつける。
 今すぐ拳に変えて、殴りかかりたい自分を抑えながら、怒鳴りつける。
 けれど彼女は、どこまでも落ち着いていた。

「んー……まあ、ちょっと苦労して変化させた料理をあの子に踏みつけにされた時はちょっとイラッとしたけど、それは主な理由じゃなくてさ」

 彼女はおとがいに指先を当てながら、そう説明。
 それからその指先ですっとこちらを指し示すと、

「――高道が、そう望んだからだよ?」

 そう、言われた。
 犯人はお前だ、と言わんばかりに指さされて、頬が引きつった。
 目眩がした。全身が、震えた。息苦しくなった。
 変な笑いがこみ上げてきて、それをそのまま彼女に差し向ける。

「は、ははっ…………望ん、だ? 僕が? 僕が? 何を言ってるんだ、麻衣香……? 僕がそんなこと望むわけがないだろっ!」
「え? だって高道、言ったよね。あの子が邪魔だって、いなければ良かった、そう言ってたよ。だから私、そうしたんだけど?」
「…………っ」

 言われて、高道は言葉をつまらせた。
 そうだ。
 確かにあの時自分は、舞に邪魔だと言った。いなければ良かったとも言った。
 けど、だけど、それは。

「ち、違う! そうだけど、そうじゃない! あれは、違う! 僕は、僕はただ……」
「そうだけど? そうじゃない? それってどっち? 否定? それとも肯定?」
「そうじゃない……そうじゃないんだ!」

 言いたいことも、思っていることも何一つわからなくなって、うまく言葉を紡げない。さっきよりも息が荒くなって、ちゃんと吸ってるはずなのにどんどん息苦しくなる。
 悪いのは麻衣香だ! 麻衣香が悪いんだ! 頭のどこかが、そう声を荒らげる。
 だけど他方で、また別の高道はこう言うのだ。
 麻衣香は悪くない。彼女はまだ何も知らない子供のような存在なのだからと。善悪の区別がない世界からやってきた、異邦人なのだからと自論を述べる。そして、悪いのはきっかけを作ったお前だと、糾弾するのだ。
 ひどい目眩がした。
 地面に手をついていないと、そのまま倒れてしまいそうなぐらいに。

「大丈夫? 高道……」

 ふっと、麻衣香に正面から抱きしめられた。

「ごめん、私が何か間違えたんだよね? 私が悪いんだよね?」

 そうだ、お前が悪い! なんて言えなかった。

「違う……僕だ……僕があんなことを言わなかったら……」

 そうすれば、舞は死なずに済んだ。
 そうすれば、麻衣香はあんなことをせずに済んだ。
 何も起きなかった。
 だから。

「悪いのは、僕だ……僕なんだ……僕が……僕が!」
「高道! しっかりして、高道!」

 麻衣香は一層強く、抱きしめてくる。

「高道は悪くないよ! 悪いのは全部私! 私が悪いの! だから、ね? 高道、そんなに自分を責めないで!」
「違う……舞の話を信じてたら……もっと麻衣香のことに早く気づいていたら……そしたら!」
「そんなの無理だよ……無理だったんだよ……だから、高道は悪くない!」

 彼女の声は耳に心地よくて、例え誤魔化しに過ぎなくても罪悪感が少しだけ和らいでしまう。

「悪いのは全部私、私だから……ね? 高道、ちょっとだけ眠ったらいいよ」
「眠る……?」

 そうしたい、と思った。
 今日は色んなことがありすぎて、疲れていた。心も、身体も。
 それに、夏の森の中だというのに麻衣香の胸の中は心地よかった。彼女がそうしているのか、適度に冷たくて気持ちよくて、柔らかくて、眠気を誘う良い匂いがした。

「眠っていいのかな……僕……」
「良いよ、私が許すよ。私が高道を眠らせてあげるよ」
「そっか……」

 頭は、やけにぼうっとしていた。
 麻衣香の言葉のままにうなずいて、そのまま眠りに落ちてしまいそうなぐらいに。
 だけど。

 ――――タカ!

 声が聞こえた気がして、はっと目を開けると。

「…………えっ」

 自分が、泥人形に抱きすくめられていることに、気づいた。
 麻衣香の顔をした泥人形に抱きすくめられて、徐々に取り込まれつつあることに。

「どうして……麻衣香……どうして僕まで……」
「どう、して……?」

 麻衣香の顔は、不思議そうに首を傾げた。
 傾げて、

「だって、両思いの二人が一つにならないとハッピーエンドにならないでしょ」

 そう言った。

「両思いの二人は一つになって、ハッピーエンド……幸せな結末を迎えるんでしょ? だから私は、高道を幸せにしてあげるの。それが私の願いなの」

 麻衣香は、まるで幼子に言い含めるように、そう教えてくれた。

「君の願いは……目的は、ハッピーエンド……? 幸せな結末……ははっ」

 なんだ、それは。
 あまりに意味が分かりすぎて分からなすぎて、思わず苦笑いしてしまう。

「つまり君は最初から……僕を食べるつもりで、近づいてきた……そういうことなのか……麻衣香?」

 聞きたくなかった。それでも、聞かずにはいられなかった。
 せめてそれだけは、本物だったと信じたくて。
 けれどその願いは、

「そうだけど……だから何?」

 あっけなく、崩れ去った。
 粉々に、泥々に、跡形もなく。
 あとには、何も残らなかった。
 お邪魔虫だけど、それでも大切だった舞も。
 自分のことを好きになってくれた麻衣香も。
 どうしようもない自分自身さえ。
 何も、かも。

「なんだよ、畜生……結局僕は……最初から……」

 顔を覗き込んでくる麻衣香の顔を素通りして、高道は夕焼け空を見上げる。体中が泥の中に取り込まれていく感触と、強いプールの匂いが鼻を突いた。息苦しかった。
 でももう、抵抗する気力なんてなかった。
 どこまでも広がる諦念と共にただ、空を見上げる。
 そこに輝く、一番星を見つめる。
 苦い思いと共に。

「畜生、なんだよこれ……こんなのってないよ……結局僕は……何を……何のために……」
「大丈夫だよ高道、怖がらなくても私が付いてるから。さぁ、一緒にハッピーエンドを迎えようね?」

 もう、顎の下まで泥が来ていた。
 首さえも動けなくなって、麻衣香の顔が近づいてくる。

「さ、高道。誓いのキスを」
「あぁ……ぃやだ、やめて来ないで麻衣……っく――」

 ――初めてのキスは、苦い泥の味がした。





『――エピローグ 夏の終りに ――』




「――高道! もうお昼よ、いい加減に起きなさい!」

 けたたましい声で、目が覚めた。
 気分は勿論最悪。高道はぼーっとしながら、緩慢な動作で身体を起こす。
 のろのろと部屋を出て、洗面所へ。顔を洗って歯を磨く。

「痛っ……ん?」

 不意の痛みで、少し脳が覚醒した。
 そして唇に、火傷のような痕があることに気づいた。どうやらこの傷に歯ブラシが触れたらしい。
 それは唇だけじゃなかった。よく見れば手にも、足にも。あちこちあった。大したものではないけれど、一体何があったのか。
 日焼け? それとも、ウルシにでもかぶれた?
 少し考えてはみたものの、思い当たる節はない。

「……ま、いっか」

 どうせ大したことじゃないだろう、と判断。
 台所へ向かう。

「全くもう、夏休みだからってダラダラして! ちゃんと宿題進んでるんでしょうね?」
 
 判で押したようなお小言と一緒に、遅い朝食をいただく。
 こういう話は右から左に聞き流すのがコツ。そのうち手応えのなさに、たいてい向こうから折れる。
 食事を終えてから、着替えて外出の準備。
 マイマイカブリのデータ集めは、目標数まであと少しのところ。数日中には達成して、内容をまとめられそうだった。
 スマホを手にして、運動靴を履いて、玄関を出る。

「先、行くぞー」

 声をかけて、車庫から自転車を引っ張り出してくる。
 まずは森側のスポットだな、とサドルに腰掛け、ペダルを漕ぎ出す。
 すでに太陽は高く昇っていて、アスファルトは目玉焼きが作れそうなほど。そんな中自転車を走らせて、ひぃひぃ言いながら目的地に到着。
 それから、森へ入ろうとして。

「……あれ?」

 思うように、足が進まないことに気づいた。

「どうしたの、行かないの?」
「いや、行くさ。行くんだけどさ……」

 言いようのない不安が、胸の奥底から湧き上がってくる。
 何故かはわからない。
 それと同時に、自分は何も恐れてはいない、という感情も。
 ……恐れている? 何を。
 ますます意味がわからない。
 何かが、おかしかった。
 何か大事なことを、忘れてしまっているような。頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっているような、そんな感覚。

「ほら、早く行こう?」

 そう言って差し出された手を、少し考えてから掴む。
 手を引かれて、歩き出す。
 歩けた。
 意味が、わからなかった。
 手を繋いだらほっとしたのに、ますます不安感は強まって。
 震えが止まらなくて、でも何故か嬉しくて泣きそうだった。
 滅茶苦茶だった。
 そんな時、ふと草むらに黒い生き物がいるのを見つけた。
 マイマイカブリ、だった。
 草むらの中で一匹のマイマイカブリが、丁度カタツムリの殻に頭を突っ込んで、捕食しているところだった。
 ただ、それだけ。

「……ひっ!」

 なのに、その様子を見ているのがあまりにも辛くて、立っていられなくなる。その場にへたり込んで、地面に手をついてしまう。

「ご、ごめん、ちょっと気分が悪くなってさ……?」

 高道はそう取り繕いながら振り返る。
 そして…………【舞】の異変に気づいた。
 舞が苦しそうな表情で、必死にこちらに手を伸ばそうとしていることに。
 だけどなぜか、それ以上近づいてこないことに。

「どう、して……なんで! 邪魔するの! あなたは! また! 私の恋の邪魔を!」

 言っている意味は、一つもわからなかった。
 だからただ呆然とその様を見つめていると、舞はパクパクとまるで声が出ないような仕草で口を開閉しはじめて。

「お、おい? どうしたんだよ、舞? なぁ?」
「さ……ない」
「……え?」

「ま……は――、保護……しゃ、な……んだっ!」

 わからなかった。
 何のことか、まるでわからなかった。
 でも気がつけば、涙までが溢れ出していた。
 後から後から溢れ出して、それは止まらない。
 それはどこまでもどこまでも、流れ出す。
 何か、とても悲しいことがあった気がした。
 何か、とても辛いことがあった気がした。
 ありったけの後悔と絶望を詰め込んだような、そんな記憶が頭のどこかにあるみたいに胸が苦しくて。
 でも、何も思い出せなかった。

 ――森の中、高道は意味も分からずに、泣いた。
 
 その涙が、枯れ果てるまで。
 






「もう、帰ろうか舞……」
「…………」

 泣き終えた頃には、もうマイマイカブリはいなくなっていて。
 ただ、カタツムリの殻だけが、残されていた――。

〈終〉
ハイ

2021年08月08日 19時49分10秒 公開
■この作品の著作権は ハイ さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆テーマ:【夏】×【火】【風】【水】【土】
◆キャッチコピー:
忘レ5れフよヰ特別7ツ休みガ、今女台まる……。
◆作者コメント:
※この作品には暴力的なシーンやグロテスクなシーンが含まれています。

運営の皆様、企画開催お疲れさまです。
そして参加者の皆様、執筆お疲れさまでした。
では、今回の企画が盛りあがりますように!

※この作品にはグロテスクなシーンが含まれています。

そして、今のうちに謝っておきます。ごめんなさい。気がついたらこんな作品に……。
でも、我ながらハートフル(hurtful)な良いお話に仕上がったと思うんですよ(しれっと
では今作をお楽しみ頂ければ幸いですが、ルールに抵触しそうであれば通報、削除対応よろしくお願いします。

2021年08月30日 21時22分08秒
作者レス
2021年08月22日 18時14分08秒
作者レス
2021年08月21日 23時55分47秒
+20点
Re: 2021年08月28日 20時40分58秒
2021年08月21日 23時54分01秒
+40点
Re: 2021年08月28日 20時38分12秒
Re:Re: 2021年08月28日 23時00分05秒
2021年08月21日 20時41分47秒
+20点
Re: 2021年08月27日 23時47分21秒
2021年08月21日 18時07分32秒
+20点
Re: 2021年08月27日 23時44分22秒
2021年08月21日 03時48分50秒
+40点
Re: 2021年08月26日 22時18分39秒
2021年08月20日 21時58分21秒
+10点
Re: 2021年08月26日 21時32分34秒
2021年08月18日 22時02分35秒
+20点
Re: 2021年08月26日 21時31分17秒
2021年08月16日 18時54分46秒
+20点
Re: 2021年08月25日 21時57分00秒
2021年08月16日 10時20分51秒
+30点
Re: 2021年08月25日 21時20分16秒
2021年08月13日 12時45分05秒
+30点
Re: 2021年08月24日 20時49分18秒
2021年08月09日 05時45分43秒
+40点
Re: 2021年08月23日 21時17分47秒
Re:Re: 2021年08月23日 23時31分15秒
Re:Re:Re: 2021年08月27日 23時53分39秒
合計 11人 290点

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