地獄の釜の蓋が開くまで |
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赤黒くよどんだ空の下、生ぬるい風が吹きすさびペンペン草も生えぬ荒地に多数の男女が集っていた。 若きもおり、老いたるもおり、衣装も様々。 共通点を強いて探せば、誰もが夏の装いであることと、いくばくかの荷物を持っていること、そしてどこかしら浮かれた様子があることぐらいか。 アロハシャツにスーツケースとこれからハワイに行くのだと言わんばかりのスタイルをした若者が、誰にともなく問いかける。 「今年は何日でしたっけ?」 「いつも通り4日間ですよ。16日にはちゃんと戻ってこないと、ペナルティですからね」 四角四面な返事を返したのは、スーツの男だった。彼だけは荷物を持っておらず、代わりにクリップボードの書類にせわしなくチェックをつけている。 そんな男の肩を遠慮がちにつついたのは、赤い浴衣で髪を上げた女性だった。これから夏祭りに行くようにも見えるが、大き目のキャリーバックがそれを否定する。 「そういえば、マスクってした方がいいんでしょうか?」 そう問うと、女性は人差し指で自分の唇を指した。浴衣の色に合わせた紅が塗られた唇がなまめかしくふるえる。 「気にしなくていいですよ。我々はウィルスを媒介しませんから」 顔色一つ変えないまま、やはり形式的な答えを男は返す。 「にしても暇だなぁ」 誰かの呟きが聞こえたとたん、男の眉がピクリと跳ねる。 「そうですねぇ。では、ちょっとお話をしましょうか」 男の言葉に応えるように、周囲にふっと影が差し、赤い光がポツポツと現れる。 女性はひっと息を飲み、若者も顔をひきつらせた。 そんな様子がよほど面白かったのか、男はニヤリと笑みを浮かべた。 蝋燭めいて揺れる赤光に囲まれ、男が宣言する。 「地獄の釜の、蓋が開くまで」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それはいつの事だったでしょうか。 まあ、夏ということでいいでしょう。タイという国は、いつだって日本で言えば夏みたいなもんですから。 太陽がほんとに真上に来て、影と言う影がほとんど見えないぐらいに縮こまる頃、道を歩いていた女学生は、コインが落ちているのを見つけました。 彼女は何の気なしにそのコインを拾い上げます。 別に、お金に困っているわけじゃあありません。タイの田舎の出ですが大学に行かせてもらえる程度には余裕のある家の娘です。 それに落ちていたのは1バーツのコイン、日本円だと3円ぐらいです。それで何かが買えるってものでもありません。 それでも彼女がコインを拾いあげたのは、前の王様を尊敬しているからです。 日本の感覚だとあまり馴染みは無いでしょうが、外国だとコインに王様の顔が刻んであるってのは珍しくもないことで、タイもそうした国の一つなんです。 ただまあ、前の王様が70年も王様をしていて、今の王様はまだ5年と経っていませんから、まだ前の王様のコインがたくさん出回っているんです。 いずれにせよ、尊敬する前の王様のお顔が地面に落ちたままになっているなんて、あんまり気分のいいものではありません。 それだけの理由で彼女はコインを拾い上げ、ジーンズのポケットに押し込んで、そのまま忘れてしまいました。 寮に帰った彼女は昼寝をすることにしました。 授業もないのに昼間に起きていたって暑いだけですから。 見ればルームメイトのドゥアンのベッドも膨らんでいます。ドゥアンを起こさないよう、彼女は服も着替えないまま自分のベッドにもぐりこみました。 異変に気付いたのは、意識が薄れ始めていた時でした。 エアコンをつけたかどうかが気になったのです。 そういえば自分でつけた覚えは無いけど、ドゥアンが先につけていたかもしれない。そう考えて彼女は目をつぶったまま耳を澄ませました。 何の音も聞こえません。 タイのエアコンはまだ常時動きっぱなしのタイプが主流ですから、スイッチが入ってるのに風音が聞こえないってことは無いのです。 しかし、エアコンが付いていないならもっと暑いはず。特に頭から布団をかぶっているドゥアンが寝ていられるはずがありません。 彼女は、薄く目を開けてドゥアンの様子をうかがいました。 隣のベッドの布団は、さっき見た時と同じように膨らんだまま、ピクリとも動きません。 目をぎゅっとつぶり直し、彼女は冷静な(つもりの)頭で状況を整理しました。 何も変なことなんて起こってない。 ドゥアンはきっとエアコンを強く効かせすぎたんだ。 だから、エアコンを消して、布団を頭からかぶって寝ていられる。 私は、まだ部屋の空気がぬるくなる前に帰ってきただけ。 何も変なことなんて起こってない。 そんな思考を邪魔するように、ドアをノックする音がしました。 ビクリとして思わず目を開けましたが、隣のベッドに変化はありません。 もう一度ノックの音がしたので、彼女はなるべくそっとベッドから抜け出してドアを開けました。 しかし、廊下を見渡しても誰もいません。 気のせいだったのかなと思ってドアを閉めると、すぐにまたノックの音がします。 もう一度ドアを開けましたが、やはり誰もいません。 悪戯かなと思ってドアの影も見てみましたが、誰かが隠れていたりもしません。 訝しみつつもドアを閉めると、間髪入れずにノックの音がしました。 ただし今度はドアではなく、窓の方から。 窓を叩いているのは、赤いライダースーツの男に見えました。 しかし、すぐに彼女は間違いに気づきます。 男の頭はばっくりと割れており、そこから流れた血がライダースーツを赤く染めているのです。 彼女は悲鳴をあげながら部屋を飛び出しました。 そのまま彼女は廊下を駆け抜けます。 止まることは出来ません。だって、後ろから誰かが付いてきている足音がするんですから。 止まることもできず、振り向くこともできず、寮から飛び出して走り続けます。 それでも、足音はずっとついてきます。それどころか、少しずつ距離が詰まってきているようにすら思えます。 もう、これ以上走れない。そう考えて絶望した時、優しいしわがれ声が聞こえました。 「お嬢さん、1バーツ持っとらんかね」 彼女に声をかけたのは、くすんだ黄色の僧衣を着た年老いた僧侶でした。 敬虔な仏教徒である彼女はこんな時だというのに反射的に財布を取り出しかけ、そこでやっと昼間に拾った1バーツコインの事を思い出しました。 老僧は彼女が思い出したことを見て取ると、こう言いました。 「今すぐ、それを元の場所に返してきなさい」 いつの間にか、後ろから迫っていた足音は消えていました。 彼女は僧侶に礼を言うと、昼間行った道に走り、元あった場所にコインを返しました。 すると、コインのすぐ横にさっきのライダースーツの男の姿が浮かびました。割れた頭も血まみれなのも変わりませんでしたが、なぜかその時は全く恐ろしいとは感じなかったそうです。 ライダーは彼女に向かって両手を合わせて礼をすると、どこかに歩いていきました。 後から聞いたことですが、この辺りの風習だと、交通事故など家の外で死んでしまった人間は、そのままだと成仏できないのだそうです。成仏するためには自宅か寺院にたどり着き、そこで経をあげてもらわないといけない。しかし、普通は土地の精霊が人の魂を通してくれません。 そこで、遺族がお金をポツポツと置いて、精霊に魂を通してもらうように頼むのです。お金で出来た道の上だけは魂が通ることを許されます。 つまり、彼女が拾ったコインは、交通事故で死んだ人のための道の一部だったのです。知らぬこととはいえ、彼女がコインを拾ってその道を壊してしまったので、困った魂が彼女について回っていたのでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「こっわ! リアルのコインが無くなるだけで成仏できないとかこっわ!」 アロハの若者が両手で自分の顔を挟み込んで悲鳴を上げる。よほど怖いのか、足が地面についていない。 「我々も三途の川の渡し賃は払ってますけど、お供えの一種だから実体は無いですもんねぇ」 浴衣の女性は、周囲に半透明の一文銭を6枚浮かべて見せる。かつては本物の一文銭を供えていたが、使われなくなってもう150年にもなる通貨だ。実物ではなく、絵を描いた紙を供えるのが普通である。 「今、夏休みでしょ。ガキの頃の俺だったら、1円玉が点々と落ちてたら絶対拾うよ!? 拾いまくってお寺まで行っちゃうって」 「お寺の方ならまだいいですが、事故現場の方に行くと危ないですね」 ますます浮いていく若者を地面に引き下ろしつつ、スーツの男は冷静にツッコミを入れる。 「いずれにせよ、文化の違うところに行くときは気を付けて、ということです。生きている人用の情報はちょっと検索すればいくらでも出てきますが、死人向けのローカルルールはそうもいかないですからね」 男のまとめに、周りで話を聞いていた男女らが深く頷く。 そこにふと、空から光が差した。 「そろそろ、時間のようですね」 男は天を指し示す。赤黒かった空に、一筋の切れ目ができ、そこから光が差しているのだ。 それを見た男女らはそれぞれの荷物を持って切れ目を目指して飛び上がっていく。 今年も地獄の釜の蓋が開く。閻魔大王ですら仕事を休むこの期間は、亡者にとっても、獄卒にとっても貴重な休暇。 だから、獄卒の一人であるスーツの男は現世に向かう亡者らに柔らかく微笑んで挨拶した。 「では皆さん、よい盂蘭盆会を」 |
ワルプルギス JL2b9/UVEM 2021年08月07日 17時26分43秒 公開 ■この作品の著作権は ワルプルギス JL2b9/UVEM さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年08月28日 17時47分01秒 | |||
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Re: | 2021年08月28日 16時27分11秒 | |||
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Re: | 2021年08月28日 13時03分59秒 | |||
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Re: | 2021年08月28日 13時00分15秒 | |||
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Re: | 2021年08月28日 12時44分46秒 | |||
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Re: | 2021年08月28日 12時24分05秒 | |||
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