日本昔話 クリオネ女房

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 それは、長いながーい夏休みも半ばに差し掛かった、とある日の事でした。
 苦学生の田中 次郎は、この日も下宿で質素な昼食を食べていました。
 すると。

「こんにちはっ! 先日助けて頂いたクリオネです!」

 突然スパーン! と窓が開け放たれ、ひとりの少女が現れたではありませんか。
「……………………えーと。あんた誰?」
 次郎は至ってクールに聞き返しました。
 あまりにも予想外な事が起きると、人は一周回って冷静になるものです。
 なので、ここが古い下宿の二階でベランダなんてものは無いという事も、彼女の浮世離れした容姿にも、クリオネなどと名乗っている事にも臆する事無く、彼はそう尋ねる事ができました。
「ですから、私は先日あなたに助けて頂いたクリオネですってば。あ、取りあえずお邪魔しますね」
 次郎が知りたい事のおそらくは2%も答えぬまま、クリオネを自称する彼女は「よっこいせ」と窓から部屋に入り込みます。
「はあ……じゃあ、そこ座って」
 仕方無く、次郎は掻き込んでいた納豆ご飯を卓に置いて座布団をすすめました。
「あはっ、ありがとうございます。お食事中でしたか、ごめんなさい。ちょっと常識的な時間じゃあ無かったですね。どうぞ私に構わずお続けください」
 特に悪びれた風も無く、彼女が言います。そもそも常識的な人は窓から入り込んだりはしません。一体この娘は何者なのでしょう?
 次郎は、こんな得体の知れない相手に生活リズムを崩されるのもどこか悔しいので、言われた通り茶碗を手に取って食事を再開します。納豆ご飯と味噌汁だけの昼食を取る間、彼女はニコニコしながらただ彼を見つめ続けていました。

「ふう、ごちそうさま。で、えーと、何だっけ? クリオネって言った?」
「はい、クリオネです!」
 彼女は次郎の質問に、無邪気な笑顔で応えます。
 改めてその姿を見直してみると。
 水色の綺麗な長い髪。透き通る様に美しい、白い肌。大きくてクリッとした瞳。歳は十代後半くらいでしょうか。清楚な白ワンピースが良く似合う、スレンダーな体型をしています。それはもう、大層な美少女と言って良いでしょう。
「ふうん、そうか。クリオネか……ちょっと待っててね電話掛けるから。ええと、やっぱこういう時は警察で良いのかな」
「通報しないでくださいよう! 私、怪しい者じゃあありませんから! どこのオホーツク海にも普通に居る、何の変哲も無いクリオネですから!」
 次郎がスマホを手にした瞬間、彼女はひしっとすがり付いて邪魔をしました。
「何の変哲も無いクリオネは人間の恰好して陸に上がってこないから。警察が嫌なら精神病院で良いね? 黄色い救急車って本当に来るのかな? ええい、邪魔するな」
 次郎がその手を振り払おうとするも、クリオネを名乗る少女は存外に強い力で腕にしがみ付いて離れません。
「信じて下さいよう! 私はあなたが昨年の二月に知床のウトロで採集したクリオネなんですよう!」
「なんだって?」
 彼女の放ったその言葉に、次郎は驚愕しました。
「あなたは昨年の二月三日、ウトロの漁港近くに流れ着いた流氷で私を採集したのです」
「ど……どうして、そんな事を……」
 動揺する余り、手にしたスマホを落してしまいます。
 そうです。彼女の言う通り次郎は昨年の二月、大学で課されたレポートを書く為知床にフィールドワークに行っていたのです。
「その時のあなたは大学のお仲間と三人で来ていました。でも一緒に居たふたりはいわゆるカップルで、あなたは居心地が悪そうに一人で流氷に穴を開けて網をガサガサしてましたよね。その時に私は掬われたのです」
「え……あ……」
「そして観察を終えた後、あなたは採った私達を地元の博物館に寄贈しました。そこには実物の流氷を展示している大きい冷凍庫みたいなお部屋があって、その端っこで私達クリオネも展示されているんです」
 彼女の言う事はいちいち合っていました。
 次郎は、その日確かに採集したクリオネをその施設に寄贈しました。その日時も合っていれば、知らない間にデキてた同行者達が彼を邪魔者扱いして、非常に居づらい気持ちを覚えたという事も、全て事実です。
「私はあの場所で大切に飼育して頂き、天寿を全うする事ができました。もしもあなたに掬って頂けなかったら、春には水温の上昇で死んでいた事でしょう。ですからあなたは私の命の恩人なのです」
 声も出せずにいる次郎に、彼女は腕にしがみ付いたままキラッキラした瞳で見つめて言います。
 確かに、オホーツクから流氷と共に流されて来るクリオネは、春になったら皆死んでしまいます。たとえ北海道であっても、その海水温に適応できないからです。こうやって海流に乗って本来生息できない地域に流された生物が、季節の変更によって適応できずに死んでしまう事を死滅回遊といいます。
 なので心優しい次郎は、せめて自分が掬ったクリオネ達には生き伸びて欲しいと思い、現地の博物館に寄贈をしたのでした。

「……まあ、もしもそれが本当だったとして。君はどうしてクリオネじゃなくって人間の姿なんだ?」
 至極真っ当な質問を、次郎はします。
「よくぞ聞いてくださいました! 私は天寿を全うした後、再びクリオネとして生まれ変わりました。でも……どういう事か、私には前世の記憶が残っていたんです。そしてあなたの事を思い出し、どうにかご恩を返すべく、たまたまオホーツクに来ていた海の魔女様にお願いして人間の姿にしてもらったのです! あ、ところでこのお部屋暑くないですか? もっと冷房効かせて頂けると助かります2度くらいが良いですね」
「いや無理だし出来てもしないよ……て言うか」
 相変わらず彼の腕にしがみ付いたまま、クリオネを自称する彼女は無駄にイイ笑顔で見つめ返しています。
「そんな与太話、信じるとでも思ってるの?」
「信じられないかも知れませんが、事実です! ほらこれ見てください。魔女様はこの国の『こせき』とやらも用意してくださったんですよ! あと何ですか? 『ぱすぽーと』とかいうものまでも」
 彼女がワンピースの胸元から、紺色の小さな手帳を取り出しました。表紙には金色の菊があしらわれ、『日本国旅券』と書いてあります。開いてみると、彼女の写真と『久利緒 寧々』という名前が書き込んでありました。
 日本のパスポートは、偽造ができない事で有名です。とりあえず次郎には本物にしか見えませんでした。
「どうです? これで信じて頂けましたか?」
 自称クリオネの少女、久利緒 寧々はえっへんと得意げに胸をそらします。
「……て言うか名前雑だなおい」
「魔女様が付けてくださったんです! 素敵でしょ!」
 次郎の割とストレートな言葉にも、一編の曇りすら見えないピュアな笑顔で返します。

 そうしてこの日。
 クリオネを名乗る謎の少女、久利御 寧々は次郎の下宿に居付いてしまったのでした。


 ☆


「うおっ!? 田中君、どうしたんですかー? 目にすっごいクマが出来てパンダさんみたいになってますうぉー?」
「あ、教授……」

 ここは次郎の通う、大学の研究室です。
 水槽の魚達に癒されていた彼に声を掛けてきたのは、白衣姿でありながら頭にハリセンボンを模した帽子を被った怪しいおじさん。この大学の教授であり、またテレビタレントとしても活躍している『お魚さん』でした。
 そうです。次郎はこの人の講義を受けたくて、この大学に入ったのです。

 ――この人は、きっと僕と同類に違いない。
 
 子供の頃、テレビで初めて彼を見た瞬間から次郎はそう思っていました。
 そして一生懸命勉強をし、奨学金という名の多額な借金を背負わされながらも、どうにか大学に入りました。
 そして初めて教授の講義を受けた時、彼の思いは確信に変わりました。
 ここだけの話ですが。
 実は、次郎は人間に興味が無いのです。
 興味があるのは魚介類や海獣等、海の生き物のみ。ケモナーならぬ海ナー、魚ナーといわれる変態さんなのでした。
 なので二十歳を過ぎたこの歳になっても人付き合いが本当に苦手で、もちろん彼女なんか居た事もありません。もっと言うと、そういったものは欲しいとも思っていません。
 そんな次郎に、お魚さん教授もシンパシーを感じたのでしょう。次郎は教授に気に入られ、最近は彼の研究室に入りびたりの日々を過ごしています。
 ここで教授から様々な事を学んだり、たくさんある水槽の生き物達を観察するのは次郎に取って、この上ない喜びです。これ以上の物など、彼は一切欲していません。彼の人生は満ち足りていたのです。
 にも関わらず。
 ここ数日、彼の生活は突然押しかけて来た、あの自称クリオネ少女に引っ掻き回され続けています。
 あろう事か、彼女は次郎の下宿に居座ったまま出て行こうとしないのです。
 それどころか女房気取りで掃除や洗濯などの家事を頼みもしないのにやり始め、あまつさえ彼が寝ようとすると「お伽をさせて頂きますぅ」とか言いながら布団に潜り込んで来る始末。
 おかげで次郎は彼女から逃げる為にここ数日、夜中はずっとトイレに籠ってロクに寝る事もできないでいました。
 そんな訳で憔悴し切った次郎を、さすがに不審に思った教授が訪ねます。
「どうかしたんですかー? もしも悩みがあるのなら、相談に乗りますうぉー?」
 これが普段なら、次郎は適当な事を言ってごまかした事でしょう。
 しかし、連日の騒動で心身ともにすっかり弱り切っていた彼は、つい――

「人間に化けたクリオネが押しかけて来たんですが、一体どうすれば良いのでしょうか?」

 と、零してしまいました。
 教授は「うおぉぉぉ」と唸りつつ、次郎の顔をまじまじと見つめます。
「ちょっと待っててくださいねー。今、うぉ電話掛けますからー。ええと、黄色い救急車って、どこに掛けたら来てくれるんでしょうねー?」
「違いますから! そんなんじゃありませんから! 大丈夫ですから!」
 次郎は慌てて教授にすがり付き、電話を置いてもらいます。そして改めて、久利緒 寧々の事を説明しました。
 でも、流石にパスポートの事なんかは言えませんでした。アレが本物でも偽物でも、きっとロクな事にはならないと思ったからです。

「……なるほどー。クリオネちゃんの生まれ変わりって言ってる女の子に、付きまとわれている訳ですかー。先生びっくりしましたうぉー。とうとう田中君が壊れちゃったかと心配したんですうぉー?」
「はあ、すみません……で、教授。僕一体どうしたら良いんでしょうかね?」
 縋る視線を送りつつ、次郎は教授に問いかけます。
 すると彼は、テレビでよく目にするイノセントなスマイルを崩さぬままに――

「人間の事は、ボクには全然わかりませーん。相談する人間違ってますうぉー?」

 言い切りました。そうです。この人はこういう人です。そんな彼に聞いた次郎が間違っていたのです。
「まあまあ、それはともかく。今日は遊びに来てくれた元教え子が、こんな素敵なモノを持って来てくれたんですうぉー。田中君も持っていってくださいなー」
 打ちひしがれている次郎をよそに、お魚さん教授は足元の発泡スチロール箱を取り出してフタを開きます。中には立派なトゲを何本も生やした、拳大の巻貝が幾つも転がっているではありませんか。
「うわ、おっきなサザエ」
「どうですかー? 美味しそうでしょー」
「頂いちゃって良いんですか?」
「ボクひとりじゃあ食べきれませんからー。お家でクリオネちゃんと一緒に食べると良いですうぉー」
 

 結局、解決の糸口を何一つ見出す事もできぬまま。
 次郎は頂いたサザエを手に下げ、とぼとぼと帰ります。そして、日の暮れかけた空を見上げて呟きました。
「サザエか……でもあいつ、何故かご飯を食べないんだよな」
 そうです。
 久利緒 寧々に不審な所は山ほど有りますが、その中でも最大のものは『彼女は一切食事を取らない』という事なのです。
 寧々は毎食きっちりと次郎にご飯を用意するものの、しかし彼女の前には毎回湯飲みひとつ有りません。
 彼が「ご飯食べないの?」と聞いても、
「ええ。クリオネですから」
 と、訳の分からない事を言って何も口にしようとはしません。
 いくら彼の下宿には豆腐や納豆、漬物といった質素なものしか無いと言っても、さすがに一切食事をしないというのは人として、それ以前に生き物としておかしいです。
 本当に、一体彼女は何者なのでしょうか?
「まあ、あんな得体の知れない奴の事で悩んでも仕方ないか。あーあ、帰ったら居なくなってないかなあ」
 ほのかな希望を胸に、次郎は下宿へと帰ります。
 しかし無情にも、彼女はしっかりと居座っていて掃除洗濯ご飯の支度まできっちりと終えていました。
 なので次郎は「ちっ」と舌打ちをしてから気を取り直し、教授から頂いたサザエは明日の朝食にしようと考えます。朝からサザエ食べるなんて、なんだか凄いリッチな気分になれるなと彼は思いました。そうです、現実逃避です。
「おかえりなさい、次郎さん。ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも」
「わ、た、し? とか抜かしたら本当に許さないからね?」
 残念な事に慣れてきてしまった彼女のあしらい方に忸怩たる気持ちを覚えつつ、次郎は用意して貰った晩ご飯を食べます。この日は納豆汁とご飯、そして香の物でした。ちゃんと納豆を包丁で叩いて引き割り風にしている事に、不覚にも次郎は「やるな」と感心してしまいます。
 もちろんこの日も彼女は何も口にする事無く、食事する次郎をニコニコと眺めていました。


 その日の晩。
 例によって「ご飯の後はわたしを食、べ、て」などと言う寧々から逃げる為トイレに籠っていた次郎は、どうしようも無い喉の渇きに勝てず扉を開けました。
 スマホを見ると、草木も眠る午前二時です。
 寝入っているであろう彼女を起こさない様、彼が忍び足で台所まで向かった矢先――
 その台所から、微かな光が漏れているではありませんか。
 そおっと顔を出し、覗いてみます。
 冷蔵庫の室内灯にぼんやりと照らされているそこに居るのは、もちろん寧々です。
 彼女は「はぁ、はぁ……」と息を荒げながら、冷蔵庫から何かを取り出しました。
 それはなんと、次郎が教授から頂いたサザエです。
 見ると、彼女は手に取ったサザエを見つめながら、わなわなと震えています。
「ほ、本来ならば、もう一月くらいは何も食べなくても平気なのですが……さすがに、こんなものを見せられてしまったら……我慢……できませんよね……」
 寧々はまるで薬を鼻先に突き付けられたシャブ中みたいな目をして、手にしたサザエをぎゅっと握りしめると――

「い、いっこだけ。いっこだけ……いただきますっ!」

 突然それを、ポイと上に向かって投げました。
 すると、一体どういう事でしょう?
 次の瞬間。
 彼女の長く青く、美しい髪がぶわっと逆立ったではありませんか。
 そして逆立った髪は六本に纏まると、まるで触手の様に蠢いて空中のサザエをキャッチします。そのまま頭頂部に巻き込むと、そこから「バリッ! ボリッ!」と固い物を咀嚼する音が響き渡りました。

「んん~~~~っ、おいしーーーーっ! 以前の私なら絶対に食べられないサイズの!貝! しゅごい! こんなに大きいの、初めてぇぇぇっ」

 寧々は両手を頬に当て、恍惚の表情になって微笑みました。当然頭の上からは「バキッ! ベキッ!」と貝殻を噛み砕くホラーな音が鳴ってます。

「ばっ、ば……ば……ば……」
 彼女の、あまりの姿に思わず腰を抜かして座り込んでしまった次郎は、つい叫んでしまいました。

「バッカルコーーーーーーーーーン!」


 ☆


「…………見て、しまったのですか?」

 至福の笑みを浮かべながらサザエを食べていた寧々は、しかし次郎の存在に気付くと瞬時に表情を閉ざしました。
「え、ええと……」
 無表情になったまま、寧々は次郎の前まで歩み寄ると。
「びえぇぇぇぇんっ! ぎらいにならないでぐだざいぃぃぃぃぃっ!」
 なんと、泣き出してしまいました。
「あれ?」
「わだじを、わだじを捨でないでぇぇぇぇぇっ!」
 次郎は特に彼女を拾った覚えはありません。
 それでも、自分に縋りついて何故か号泣する寧々を、さすがに突き放す事もできませんでした。どうしたら良いのか分らなくなった次郎は、取りあえず彼女をなだめながら、泣き止むのを待ちます。
 やがて彼女は「ひっぐ、えっぐ……」としゃくり上げつつ、どうにか落ち着きました。
「……魔女様に、『人間と共に生きたいと言うのなら、捕食している所を決して見られてはいけない』って言われていたんですよぉ」
「ほ、ほう……」
「最初はどうしてか分らなかったんですけど……次郎さん、上のお口でご飯食べていないですよね……ですから、これは人間に取って下品な行為なんだろうなって……うすうす気付いていたんですよぉ……」
「いや、そもそも人間に上の口なんて無いから」
「え!? そうなんですか……どうりで……上のお口の方がお脳に近いから、下のお口より美味しく感じられる筈なのに、不思議だなって思っていたんですぅ」
 色々と酷い事を言いながら、寧々はさめざめと泣き続けます。
 いよいよ訳が分らなくなった次郎は、改めて聞きました。

「久利緒 寧々。お前一体なんなの? 人なの? クリオネなの? 人間に寄生する謎生物なの?」

 彼女が普通の人間じゃ無い事は、さすがに次郎にも分かりました。
 かと言ってこの生き物がクリオネかというと、そうも思えません。見た目は人間そっくりですし、クリオネらしい所と言えば先程見せたバッカルコーン(?)くらいなものです。
「前にお話した通り、もちろん私はクリオネです。そして、次郎さんに恩返しをするべく、海の魔女様にお願いして人間の姿にして頂いたのですが……」
「ですが?」
「魔女様は、そういった願いをする者には必ず代償を求めるのです。でも、私の場合は良く分かりませんでした」
「ええと、どういう事?」
「私が人間になりといと願った時、魔女様は薬瓶を手にして言いました。『お前には人間の姿になっても、食事だけはそのバッカルコーンで行わなければいけないという呪いを掛けるよ。それでも良いというのならこの薬を飲みなさい』って」
「で、飲んだと」
「はい。おかげで私は人間の姿を手に入れ、魔女様の言う『あふたーけあ』とやらで、『こせき』っていうのまで頂きました。そうして、あなたの元へと参じた訳ですが……」
 不安げな表情で、寧々は次郎を見つめます。
「ご存知でしょうけれど、私達クリオネはさほど食事は取りません。せいぜい半年に一度くらいミジンウキマイマイを食べれば、それで生きていけます。だから魔女様の呪いも、それ程深刻なものだとは思っていなかったのですが……でも……この身体になってから、やたらとお腹が空いちゃって……」
 寧々はまたしても、ぽろぽろと涙を零します。
 きっと先程の捕食シーンを見た次郎が引いてしまい、自分は捨てられてしまうのだと考えているのでしょう。
 そんな寧々に次郎は、彼女の頭にぽんと手を置き、赤ちゃんをあやす様に撫でました。
「あ…………」
 彼女は目をまんまるにして次郎を見つめます。
「わかったよ、久利緒 寧々。君がクリオネだっていう事は理解した。納得はできないけれど理解した。で、問題は……」
「も、問題は?」
 次郎は改めて彼女に向き合うと、両手でがっしりとその肩を掴みます。
「何で選りによって人間になったのかって所だ! 君は! クリオネはっ! そのまま有りのままの姿が美しいというのに! 何故人間なんぞの姿を望んだッ!?」
「だ、だって! 人間に恩返しするなら人間になるのが一番じゃないですかあっ、丁度次郎さんがオスで私がメス化個体だったから、つがいにもなれますし」
「つがいなんかいらないんだよ! 良いか、僕は海ナーで魚ナーだ! 人間の女なんぞにはこれっぽっちも興味なんて無いんだよ! 僕は君がクリオネの姿のままで来てくれたら諸手を挙げて歓迎したよ!」
 次郎はがっくんがっくんと寧々を揺さぶり続けます。
「しかもだ! 人間になっておきながら、それでいてバッカルコーンだけ残っている? ふざけんな! あの愛らしい姿のクリオネからヌルっと出てくるからバッカルコーンは美しいんだよ! それを何だ君は! そんな人間の姿でバッカルコーンしたって気持ち悪いだけだろうが! そんな事も分からないのかッ!?」
「い、いえ……人間の姿を望んだのは確かですが、その、バッカルコーンは……魔女様の呪いで……」
「だまらっしゃい! さあ、今すぐクリオネの姿に戻るんだ。そうしたら僕は君を受け入れる。むしろ僕とずっと一緒にいてくださいお願いします! だからさあ! さあ! さあっ!」
 次郎に揺さぶられるまま寧々は、しかしその眉をへにょんと困った様に下げると――
「それはできないんですよぅ。私自身がこの姿を望んでしまったので……それをできるのは、海の魔女様だけなんですよぅ」
 再び涙を流しながら、そう言いました。
「なん……だと」
 寧々は「ごめんなさい……ごめんなさい……」と呟きながら、さめざめと泣き続けます。
 彼女の気持ちも分からないではありません。
 得体の知れない呪いを掛けられてまで人間の姿になって、次郎に恩返しをしようとしたら『元の姿に戻れ』って言われてしまったのですから。
 しかし、変態の次郎はクリオネを愛する事はできても人間の女を受け入れる事など出来ません。
 しかも、中途半端にバッカルコーンだけそのままなんて尚更でした。
「さて、これは一体どうしたものか……ていうか」
 さすがにいたたまれない気持ちになった次郎は、やがてひとつの結論にたどり着きます。
「魔女酷くね?」
 彼が言う通り、魔女のかけた呪いというのはどうにも酷いものです。
 人間の姿にしておきながら、選りによってバッカルコーンだけ残すなんて。しかも、そんな事をした上で更に『食事する姿を人間に見られてはいけない』なんて、無理ゲー以外の何物でもありません。はっきり言って悪意しか感じられない。次郎はそう思いました。
 そうです。
 どう考えても、諸悪の根源は海の魔女です。

「…………会わせろ」
「はい?」
「その、海の魔女とやらに会わせろと言っている」
「え、ええっー?」
 寧々は困った顔になって、次郎を見上げます。
 すると次郎は改めて、今度はその肩を優しく抱きながら言いました。
「もしも君が、僕と一生一緒に居てくれると言うのなら、その魔女に会わせてくれ」
 彼の言葉に、寧々は一瞬でチョロい笑顔になって答えます。

「はいっ! じゃあ、夜が明けたらすぐに参りましょう! 魔女様が何処に居るのかは知らないですけど!」
「えっ! 居場所知らないの!?」
「ええ、たまたま近所に来てただけですから!」

 次郎は先行きに不安しか覚えませんでした。


 ☆


 そんなこんなで夜が開けました。
 サザエのつぼ焼きで朝餉を頂いた次郎は、
「取りあえず海に行って、それから考えましょう」
 という寧々に連れられるがまま、ノープランで下宿の近くにある海岸に来ていました。
 そこは連なった岩場の中にひっそりと佇む、ちょっとした砂浜。
 岩場の潮だまりでは様々な生物を観察する事ができて、砂浜ではシロギスやメゴチ、たまにマゴチやヒラメまで釣れるという、次郎のお気に入りスポットです。
 その砂浜に足を踏み入れて。
「さて、どうしましょうね? 生身の人間が海の中に行く方法は、幾つかあるのですが……」
 周りをきょろきょろと見回した寧々は、やがて一点を凝視すると「あ」と小さい声を漏らします。
「丁度良いですね。あれを助けましょう」
 そして波打ち際を指差しました。
 次郎が指先を追ってそこを見てみると、三人の子供が何やら楽しそうに蠢いています。
 その、子供達の足元を見た時。

「あんのクソガキ共!」

 子供等が何をしているかを理解した瞬間、次郎は激しい怒りに襲われました。
 あろう事か、三人の子供達は砂浜にたどり着いた亀を苛めて遊んでいるではありませんか。
 しかも、その亀は只の海亀ではありませんでした。

「お前等! 自分が何してるのか分っているのかッ!」

 次郎はすぐさま走りだし、三人の首根っこを掴むと次々と砂浜に転がしました。
「うわっ!」
「ひぃっ!?」
「な! なにすんだよおっさん!」
 悲鳴を上げたり文句言って来たりする子供達を無視して、次郎は苛められていた亀を確認します。幸いな事にこれといった外傷も無く、弱っている様にも見えませんでした。
 それにしても大きな亀です。
 全長は2mにもなろうかという巨体に、やはり異常なまでに大きな胸鰭を持っています。そして甲羅はゴムみたいに柔らかく、ぷにぷにとしています。こんな亀は世界に一種類しか居ません。
「やっぱり! オサガメじゃないか!」
 初めて目にした野生のオサガメに、次郎は猛烈に感動しました。
 しかしその感動を、今は覆い尽くす様に怒りの炎が心中を激しく渦巻いています。
「おい、お前等」
 次郎は振り返り、三人の子供達を見下ろしました。
「な、なんだよおっさん。だ、だいの大人が子供苛めるのかよ? 晒すよ? 全世界に晒しちゃうよ?」
 三人のうちのリーダーなのでしょう。ロクに小学校にすら行かずに動画配信ばっかりやっていそうな、金髪黒眉で目付きが悪く頭も悪そうな子供が怯えながら、それでも半笑いの表情でスマホを手に次郎を睨みつけてきました。

 こんな愚かな連中は、ちょっと教育してやらなければいけないな。

 そう考えた次郎は。
「黙れ」
 金髪の子供に、鼻が当たるくらいまで詰め寄ります。そして残ったふたりの頭もがっしりと掴んで顔を向けさせました。まるで般若の如き彼の眼力に、子供達は思わず「ひっ」と情けない声を上げます。
「苛めるだって? お前等と一緒にするな。これは苛めじゃ無い。教育だ」
 ありったけの殺意と侮蔑の念を籠めて、次郎は三人を睨みます。
 すると先程までの生意気な態度はどこに行ったのか、それだけで子供達は戦意を喪失しました。既に涙目になっている子すら居ます。
 もちろんそんな程度で許してあげる程、次郎に慈悲はありません。
「お前ら、ワシントン条約を知ってるか?」
「な、なんだよいきなり……」
「ワシントン条約ってのはな、絶滅のおそれのある野生動植物の、種の国際取引における条約の事だ。そしてそのオサガメはなあ、条約の中でも一番上位のCITESⅠに指定されている、とっても貴重な生き物なんだよ。そして国際自然保護連合のレッドリストにも掲載されている、絶滅の危機に瀕している生き物だ。分るか? この貴重な亀は世界中の殆どの国において捕獲も売買も禁止されているんだ。当然、個体数はとても少ない。まさに出会えた事自体が奇跡みたいな生き物だ。お前等みたいに放っておいても湧いて出るDQNの幼虫とは生きているステージが違うんだよ! それをお前等は苛めていたな? 只でさえ自分より弱いものを苛めるというのは最低最悪な行為である上に、お前達は貴重な貴重なレッドリスト掲載生物を足蹴にしていたな? その罪、万死に値するッ!」

 もしも次郎の目からビームが撃てたなら、この三人の命は消し飛んでいたでしょう。それくらいの憎悪を籠めて、次郎は睨みながら続けます。
「そして更に、お前等の悪行は全て押さえてある。あれを見ろ」
 ちょっと離れた所に居る寧々を指差しました。彼女は彼の言いつけ通りに、スマホのカメラを向けています。
 次郎は金髪の子供に向かって言いました。
「お前、さっき僕に『全世界に向けて晒す』とか言っていたな? じゃあ僕はお前達が貴重なオサガメを苛めていた姿を配信しよう。きっと世界中から素晴らしい反応が来るだろうな。見た事も無いおっきなお友達がたくさん、おうちに遊びに来るかも知れないね?」
「ひ、ひぃぃっ! ごめんなさい許してくださいっ」
「謝る相手が違う! あちらのオサガメ様に謝れと言っているんだッ!」
 次郎の咆哮に、子供達は「ごめんなさいぃっ」とオサガメに頭を下げます。
「まあ、良いだろう。もう二度とこの海岸に足を踏み入れるなよ。わかったな!」
 最後に彼が一喝すると、子供達は脱兎の如く逃げて行きました。

「ふう……全く、なげかわしい」
「次郎さんって、人間には例え子供でも一切容赦しないんですね」
 寧々は若干引いた笑顔で次郎に近づきます。そして。
「さあ、亀さん。あなたはこちらの親切なお方に助けられました。もちろん誇り高い我々海の生き物が、受けた恩を返さないなんて事はありませんよね?」
 相変わらずピュアな瞳で、にっこりと。
 彼女は次郎が助けたオサガメにそう言いました。
 すると。
「当然でございます。そこの親切なお方、先程は誠にありがとうございました。あなた様に海のご加護が有らん事を」
「うわー、亀が喋ったあ」
「そしてそちらのお方が仰る通り、受けた恩をそのままにしては海の者の名折れ。お礼に歓待させて頂きたいのですが、お受け頂けますか?」
 なんという事でしょう。妙にダンディなバリトンボイスで、オサガメが話し掛けて来たではありませんか。
「あ、えーと、はい」
 寧々とのあれこれで、きっと次郎も色々と麻痺してしまったのでしょう。彼はいまや、亀が喋るくらいでは大して驚かなくなっていました。さっきまで野生のオサガメに狂喜乱舞していたにも関わらずです。
「ま、まあいいや。で、助けた亀が歓待って、行先はもしかして……」
 少し目眩がして来た次郎に、オサガメはまたもダンディボイスで答えました。

「もちろん、竜宮城でございます」


 ☆


 そういう訳で、次郎に助けられた亀は彼と寧々をその背中に乗せると、当たり前の様に海中へ潜っていきました。
「なんで僕、海の中で普通に息できて喋れるの?」
「それは『海のご加護』の力にございます」
 次郎の質問に、亀は平然と答えます。
「海のご加護?」
「ええ。私の様に海で長く生きている者には、母なる海より加護が与えられます。その不思議な力によって、この様にちょっとした魔法めいた事もできる様になるのです」
「へ、へえ……そうなんだ。すると、じゃあ海の魔女っていうのは」
「そうですね。あのお方は我々とは次元が違います。凄まじいまでの海の加護を得ているからこそ、偉大なる魔女として君臨しておられるのでしょう」
「凄いですよねー。ほんと、魔法って便利ですよねー」
 背後から次郎に抱き着いている寧々も、楽しそうに言いました。彼女が言うと凄く説得力が有ります。
 次郎は、きっとこの辺は考えるだけ無駄なのだろうから『そういうもん』だと思う事にしました。
 そして気持ちを入れ替え、改めて辺りを見回すと。

「凄いな……僕、本当に海の底に居るんだ……」

 その景観に、次郎は思わず息を飲みました。
 ここいらはまだ岸からそう遠くない、いわゆる大陸棚です。日光の差す海底には光合成で栄養を得るソフトコーラルや海草、海藻などが岩間に茂り、その周りを様々な種類の魚達がたゆたっています。砂地に目をやると、大きなエイが円盤みたいなその鰭を波打つ様に動かしながら優雅に泳いでいます。
「ここは天国かな?」
 思わず呟いた言葉に、しかし次郎を乗せた亀は答えました。
「こんなものはまだまだ序の口ですぞ。本当の極楽に、これからご案内いたします」
 そうです。竜宮城です。そこはなんと言っても「絵にも描けない美しさ」なのです。

 ううむ、一体どんな所なんだろう?

 次郎がヤケクソ気味な期待に胸を膨らませている間に、亀はどんどん深く潜っていきます。平坦だった海底はやがて緩やかに傾斜していき、それに伴い周囲は徐々に暗くなっていきました。この湾は海底の地形が極端な事で世界的に有名な所です。海岸からわずか2キロ程で大陸棚は終わり、そこから一気に数百メートルも深くなります。なんと最深部は二千五百メートルにもなるのです。
 進む内に、遂に太陽の光が届かなくなり、視界は闇に包まれます。その暗い海を亀の背に乗せられるまましばらく進むと、遠くにきらびやかな光が見えました。
 近づいて行くと。

「こ……これが……竜宮城?」
「左様でございます」
 亀は相変わらず慇懃な口調で答えます。次郎の背中越しにそれを見た寧々も、「ふわぁー」と声を漏らしていました。
 陽光の届かぬ深海に、尚煌々と光輝くその建物には。

『紳士の社交場 娯楽の殿堂 アクアソープ竜宮城 90分真珠7粒より』

 なんて書かれた看板が、バカでかく掲げられているではありませんか。
「風俗店じゃねーか!」
「ええ。そうでございますよ人間のお客様。ここは七つの海でも最高の優良店を自負する、大洋一の老舗『アクアソープ竜宮城』でございます。人間の方好みの嬢も多数、ご用意してございますよ」
「いらないよ! 僕らはそんな事しに来たんじゃあ無いから!」
「そうですよ亀さん。次郎さんのご劣情を受け止めるのは私の役目ですから」
「君にも頼まないよ! ……ていうか……竜宮城の正体がまさか風俗店だったとは……そりゃあ色んな意味で絵にも描けないだろうよ」
 そんな問答を、彼等が店先で繰り広げていると。

「おや。人間のお客様とは珍しい。一体何年ぶりかねえ」

 店の中から、ひとりの女性が現れました。
 それは、紫の羽衣に水色の帯を纏った美熟女でした。歳は結構いっている様ですが、背筋もピンと張っていて立ち振る舞いも美しく、そのお顔を見れば若い頃は大層美人だったであろうと簡単に想像ができます。でも良く見ると、首の両側に三本ずつエラの切れ目が入ってぱふー、ぱふーっと開閉していました。
「え、ええと。あなたは、もしかして乙姫様?」
「あら懐かしい。お若いのに、私の現役の頃の源氏名をよく御存知だねえ」
「そりゃもう地上では有名ですから」
「はて? その割には地上からのお客様なんざ、太郎様以来そうそう見えていないけどねえ」
「太郎様って、もしかして浦島太郎?」
「おや、太郎様のお知り合いかい? あのひと、当時ここでNO1だった私に大層溺れちまってねえ。『長逗留で有り金を使い果たしたから地上に取りに言ってくる』なんて言って帰ったきりさ。私が散々搾り取ったせいで、帰る頃には白髪の爺さんみたいになっちまってねえ。今、一体どうしてるんだい?」
 何という事でしょう。浦島太郎はまさかの風俗狂いだったではありませんか。
「な……なるほど。これがいわゆる『本当は残酷なおとぎ話』ってやつか……」
「なんだい?」
「いえ……こっちの話です。それよりも、僕達は実はお客じゃあ無くって」
 次郎がそう切り出すと、乙姫様はあからさまに態度を変えました。
「なんだい、客じゃないんならとっとと帰りな。冷やかしは御免だよ。こら亀公、ちゃんと客になりそうなの引っ張り込んでこなきゃ駄目じゃないか」
 彼女に叱責された亀は、文字通り首をすくめます。
「申し訳ありませんオーナー。しかし私は地上で彼に恩を受けまして」
「おや、そうなのかい? じゃあ仕方ないね。兄さん、今回はタダで遊んでって良いよ。気に入ってくれたら次回からは客で来てくれりゃあ、それで良いから」
「いや僕はそういう行為に興味ないんで」
「なんだい兄さん、交接器付いてないのかい? じゃあ踊りはどうだい。ちょうどこれから鯛と鮃のまな板ショーが始まる時間だ」
「それはちょっと見てみたいけど今は良いから。僕は、海の魔女とやらに会いたくてここまで来たんです」
 その言葉を聞くや、乙姫様はピクリと眉を上げました。

「海の魔女様か……一体、どういう用件で合おうってんだい?」
「それは私から説明致します」
 今まで次郎の背中に隠れる様にしていた寧々が、すっと出てきて彼女にそう言いました。


 ☆


「なるほどねえ。一度人間になった身体を、元のクリオネに戻して欲しいってぇ話かい」
「はい。そうなんです」
 乙姫様は彼女の説明を聞くと、ふむんと頷きます。そして。
「私ゃ魔女様の事は分らないが、うちに一匹良く知ってる娘が居る。ちょうどお茶引いてるみたいだから、その子に聞くと良いよ。付いといで」
 次郎達を手で招くと、やたらとでかいのれんを開きました。
「二名様、ご案内でーす」
 背後で亀が、良く通るバリトンボイスで次郎達を通します。やたらと丁寧な口調だったから名家の執事か何かだろうと次郎は思っていたのに、実際は只の風俗店のボーイでした。

「初めましてー。当店のマーメイド部門NO1、ヒメでーす」
 通された、如何わしさ満点のピンクぃ小部屋に居たのは、金髪でホタテ貝のブラジャーを着けたちょっと年増の人魚でした。
「何がマーメイド部門NO1だい。この店のマーメイドなんてお前だけじゃないか」
「てへぺろ」
 やや痛い返しを行う人魚を指し、乙姫様が言います。
「この娘はかつて人間の王子に恋をして、魔女様に一回人間にして貰った事があるんだよ」
「ええっ!? もしかして、その話って」
「なんだいこの娘の事も知っているのかい? じゃあ話は早いね。この娘、結局人間の男と一緒になれず、魔女様に課された違約金も支払えずでウチの店に沈んだって話さ」
「あ、『泡になる』ってそういう意味だったの!?」
 浦島太郎は風俗狂い。
 そして人魚姫は泡姫にジョブチェンジしています。
 次郎の中で、今まで聞いて来た童話や昔話がどんどん壊されていきました。
 その酷い童話の主人公は、しかし「なははー」と軽く笑い、
「堕ちる所まで堕ちちゃえば意外と楽しいものよ、深海だけにネ。どう、お兄さん? 人魚のテクニック試してみたいでしょ?」
 貝殻ブラをはらりと解くと、次郎を誘惑しようとします。海水の浮力で、自由になった彼女の胸がばるんっと踊りました。
「あ、いやそういうの本当に良いんで。ていうか上半身だけ人間の魚とかマジ意味わからないです。ちゃっちゃとその脂肪球しまってくれません? そもそもあなた魚類なの? 哺乳類なの? その乳に何か意味あります? 授乳するんです? ディスカスミルクとか出すんです?」
「なっ、私のこの美乳で堕ちない!? て言うかナチュラルにめっちゃ人魚のおっぱい否定してくるんですけど怖い! あなた一体なんなの? 私に何の用なのよ?」
 怪物でも見た様な顔でごそごそと貝殻ブラを直す人魚姫に、寧々はまるで次郎の楯になるみたいな感じでぐいっと距離を詰めます。
「海の魔女様に会いたいのですが、居る場所がわからないのです。もし知っているのでしたら教えてください」
 有無を言わさぬ口調で言ました。
「あら? 良く見たらあなた、私と同類みたいね。元は何なの?」
「クリオネです。私、以前助けて頂いたあちらの方に恩返しをしたくて、魔女様に人間にして頂いたのですが……」
「やっぱり元の姿に戻りたい、と」
「はい。何より次郎様がそうお望みですので」
 人魚姫は次郎と寧々を交互に見ると、「んー?」と首を傾げます。
「僕は人間の女に興味無いんです。ヒトなんぞよりもクリオネの方がよっぽど美しい」
「はあ……なるほど、あなたはそういった系の人なのね。まあ良いわ。丁度そろそろ今月分を渡しに行こうと思っていた所だから、アレに会いたいってんなら一緒に行こうか」
 人魚姫は振り返り、乙姫様に向かって言います。
「という訳で、今日はもう上がりまーす」
「はあ……仕方ないねえ。明日からまた、きっちり稼ぐんだよ」
 乙姫様は次郎達もろとも、しっしっと追い出す様に手を払いました。
「あ、あと亀さん借りていきますねー」
 寧々は玄関に居たオサガメの頭をむんずと掴むと、まるで自分の原チャリみたいな気軽さで背中に乗ります。
「ほら次郎さん、早く行きましょう」
 寧々の異常なまでの行動力に、次郎はただ頷く事しかできませんでした。


 ☆


「で、海の魔女ってのは一体何処に居るんです?」
 暗い海の中、亀の背に只乗ってるだけで退屈な次郎は、チョウチンアンコウを持って泳いでいる人魚姫に話し掛けます。
「アレの住処はマリアナ海溝よ」
「マリアナ海溝!?」
「あら、意外と近かったんですねぇ」
 仰天する次郎の後ろで、寧々はあっけらかんと呟きます。
「ええ。鰻でも卵産みに行けるくらいの近所だから、さほど時間も掛からないわ」
「ですねぇ。まあクリオネはろくに泳げないから自力じゃ行けませんけどねー」
 日本から二千六百キロ以上離れている所を、まるでちょっとした散歩道みたいに彼女達は話します。
 やはり海の生き物達は、地上の生き物とはスケールが違うのでしょう。次郎はふと(ていうかこいつら一体何ノットで泳いでいるんだろうか?)と疑問を抱きましたがすぐに忘れました。今更そこら辺を真面目に考えても仕方が無いと、本能的に感じたのです。なので大人しく連れられる事としました。
 やがて深度はどんどん下がり、辺りをまるで雪みたいな白い粒が漂い始めます。
「こ、これは、マリンスノー……まさか、実物をこの目で見る事が出来るとは……」
「んもう。今年はマリンスノー多くて本当、嫌になっちゃう。海流予報の話だと、どうやら去年の三倍らしいわよ」
 次郎が感動しているその横で、人魚姫がまるで「今年は花粉多くて困るわ」みたいなニュアンスで唇を尖らせます。
 この辺に住んでいる者に取っては、マリンスノーなどその程度の扱いなのです。
 次郎がなんとも言えない気持ちになってハハハと乾いた笑い声を上げていた、その時。
 今度は底の方から、もの凄い勢いで巨大な鯨が上がって来るではありませんか。
 全長は20mにもなるでしょうか。特徴的な角ばった頭部には多数の引っかき傷や噛み痕、吸盤の痕なんかがいくつも走っています。
「ま、まままマッコウクジラ!?」
「あ、抹香田さん。魔女さま居るー?」
 驚愕する次郎をよそに、人魚姫は気軽に声を掛けます。
「おう、人魚ちゃんか。姐さんなら住処に居るぜ」
 言い差すと、マッコウクジラの抹香田さんは「そろそろ空気吸いてえー」と海面に向かって泳いで行きました。次郎は、もう何が出て来ても驚かないと改めて誓います。

「もうすぐ着くわよ」
 そのまま人魚姫に付いて行くと、ようやく海底に着きました。そして暫く進むと、まるで山の様に巨大な沈没船が見えてきました。
 平べったい船体から、その船が航空母艦である事が伺えます。
「マリアナに沈んでる空母って……もしかして翔鶴!?」
 当然の様に船舶にも詳しい次郎は、ついさっきの誓いを忘れて驚愕に目を見開きました。本当に海の中はワンダーでいっぱいです。
 彼の心境を置き去りにする様に、人魚姫は艦影に近付きます。
 そして船体中央部に空いた横穴に着くと、彼女は奥に向かって大きな声で叫びました。
「魔女さまー! 今月分持ってきたわよー!」
 暫くすると――

「今月はずいぶんと遅かったじゃない。あんまり遅れると延滞料取るわよ?」

 闇の中から大きな目が光ります。
 
「仕方ないでしょ、今はどこの海も不景気なんだから。はい」
 そして人魚姫が手にした真珠の入った袋を、やはり闇の中から現れた一本の触腕が絡め取ります。

「ところで……」

 横穴の奥から、何やら巨大な生物がずるずると這い出て来て。

「どうしてこんな所に人間さ……人間が居るのよ!」

 次郎達をぎょろりと睨んだその『魔女』は――

 黄金色に淡く輝くぬめった膚。
 40㎝はあろうかという、やはり金色の瞳。
 長く、太く、びっしりと吸盤の付いている触腕。
 そして何より、全長30mにも達する巨体。耳の部分になぜか可愛らしいレースのリボンがあしらわれています。
「ダイオウイカ!?」

「そうよ。人間如きに名乗るのも不愉快だけど、私こそがこの七つの海の加護を得し魔法使い。ダイオウイカの『魔女烏賊マジョルカ』よ。覚えておきなさい」

「ま……魔女烏賊マジョルカ……本物の、しかもこんなに立派なダイオウイカまで目にする事ができるなんて……ああ、凄いなあ。何て神々しくて、美しい……」
 感動のあまり、次郎の身体が震えます。
 まさかこんな、観測史上類を見ない程巨大なダイオウイカの、しかも生きている姿を見る事ができるなんて思ってもいなかったのですから。
「あ、あら? あなた。に、人間にしてはちょっとだけ、見どころがあるんじゃないこと?」
 次郎が思わず零した言葉に、魔女烏賊マジョルカはなんだか照れた様に体色を変えながら触椀をもじもじさせています。
「……って、あれ? さっきすれ違ったマッコウクジラは知り合いだったみたいですけど、どうして? 食べられたりしないんです?」
「ああ、抹香田? あいつは私の舎弟よ。以前、愚かにも私の事を食べようと襲い掛かって来たのを返り討ちにして、それ以来舎弟として使ってるの」
「うわあ、マッコウにも勝てるんだ。凄いな、流石は海の魔女」
「おっ!? おだてても、何も出ないんだからね! それより、人間なんかが私に一体何の用なのよ!」
 魔女烏賊マジョルカは、話してみるとなんだか微妙にポンコツな雰囲気が漂ってきます。

 確かにその姿は圧倒的だけれど、本当にこの烏賊が海の魔女なのだろうか?

 そんな疑問が浮かびつつある次郎を押し退ける様に、寧々が彼女の前に立ちました。
「用があるのは私です、魔女様」
「あら? あなたは確か、サハリンで……」
「はい。魔女様に人間にして頂いた、久利緒 寧々です。誠に勝手ながら、今日は新たなお願いが有って参りました」
 寧々の言葉に、魔女はフンと小さく鼻を鳴らします。
「大方『元の姿に戻してください』って言いに来たのでしょう? 人魚姫みたいに。全く言わんこっちゃ無い。分ったでしょ? 我々と人間が愛し合うなんて事は出来っこ無いのよ」
 彼女は吐き捨てる様に言いました。
 そんな魔女烏賊に、寧々はぽりぽりと頬を掻きながら答えます。
「いやまぁ、確かに姿を戻して欲しくて来たんですけど……それは、こちらの次郎さんのご希望でして」
「何ですって?」
 ギヌロっと巨大な瞳をひそめて、魔女烏賊は寧々を睨みつけます。次郎は、そんなふたり(?)の間に割り込みました。
「そうなんです。僕は海ナーで魚ナーなので、人間の女に興味無いんです」
「なっ!? そ、そんな……」
 魔女烏賊は次郎の言葉に何やらショックを受けたみたいで、触腕をプルプルと震わせます。そして再び、今度は次郎をまるで親の仇でも見つけた様な目つきで睨みました。
「有り得ない! 有り得ないわそんなの! 人間の言う事など、信じられない!」
「信じられないかも知れないけど事実なんです。そんな事よりも、あなたアレでしょ? 『人間になりたい』って願う生き物達にわざと酷い呪い掛けて、今まで邪魔し続けてきたでしょ。それって一体どうなんです?」
 次郎も彼女を睨み返しました。
 海の魔女が、まさかのダイオウイカだった事に思わず感動してしまい忘れかけていましたが、元々彼は文句を言いに来たのです。
「な、何よ……言いがかりはよしてちょうだい。証拠でもあるの?」
 魔女烏賊は早くも推理小説の犯人みたいな事を言いました。
「証拠も何も、人間の姿にしておきながら食事はバッカルコーンしなきゃ駄目とか完全に嫌がらせじゃん! 僕じゃなかったらドン引きだよ!」
「あ、あなたは平気なんだ」
「フッ、僕は海ナーだからね! それに、人魚姫の件だってそうだよ! せっかく人間になれても話し掛ける事ができないんじゃあアプローチのしようも無いじゃん! あなたそれ分かり切った上でやったよね? やったよね!?」
「え? そうだったの!? 魔女さま酷い!」
 次郎の話を聞いた人魚姫が今更に文句を言います。今まで疑問に思わなかったなんて、逆にびっくりです。
 ふたりに責められた魔女烏賊は「くっ……」とちいさく呻くと、絞り出す様に話し始めました。
「…………そうよ。私はずっと邪魔をし続けてきたわ。人間と海の生き物が共に生きるなんて、絶対に無理だもの。必ず駄目になる。そして一方的に傷つくのは、いつも海の者……だから私は犠牲者が出ない様に、敢えて理不尽な呪いを掛けてきたのよ。二度とそんな想いを抱かないようにね!」
 いっそ憎しみすら篭った瞳で、次郎を睨みながら。
 魔女烏賊は続けます。
「私に『人間になりたい』と乞うてきた者が、そこの人魚やクリオネだけだったと思う? 様々な魚や海獣、無脊椎生物の願いを私は叶えてきた。でも、その殆どが酷い最後を迎えたわ……それに……私も……」
 彼女の言葉に、次郎は疑問を抱きました。
「え? じゃあ、もしかしたらあなたも昔……」
 彼の問いに、魔女烏賊は答えます。

「ええ、そうよ。私も昔、人間に恋をしたの」

 そして、語り始めました。


 ☆


「あれはまだ、私がイソギンチャクも恥じらう乙女烏賊だった頃の話よ……」
「乙女烏賊」
「黙って聞きなさい。当時の私はまだ体も小さくて……そうね、アメリカオオアカイカ位だったかしら」
「レッドデビルじゃん。充分大きいよ」
「だから黙ってお聞きなさい。まだ汚れも人間の悪意も知らなかった私は、しょっちゅう港に遊びに行っていたわ。そこから見える人間達の営みや、海で働く人々の姿を見るのが何よりも好きだった。そんな日々を過ごしていた時、ひとりの青年に出会ったの」
 遠い目をして、魔女烏賊は話し続けます。
「その青年は、小さな船を漕いで漁をしていたわ。きっと何の変哲も無いありきたりの漁師だったのでしょうけれど、彼の真面目な仕事ぶりやたまに見せる笑顔を眺めている内に、だんだんと目で追う様になっていったの。そして私はいつしか彼の船に並んで泳ぎ、その姿を見るのが楽しみになっていた。今にして思えば、私はその男に一目惚れをしていたのね」
「はあ。そうっすか」
 突然始まった魔女の昔語りに、次郎は気の無い生返事で相槌を打ちます。
「毎日彼の隣を泳いでいるうちに、彼も私の存在を認めるようになってくれたの。『よう、お前また来たのか』なんて声を掛けてくれたり、時には売り物にならないからと言って網に掛かった雑魚なんかを私にくれたりしたわ。あれは美味しかった……嬉しかったなあ……」
 さっきまでの怒りに燃えた瞳はどこに行ったのでしょう。魔女烏賊は恋する乙女みたいに潤んだ瞳になって話を続けます。
「そうこうしている内に、私はついにその青年に告白する事にしたの。自分が魔女烏賊である事。そしてあなたを愛している、という事を……」
「ええと、それは烏賊の姿でしたんです? それとも人間の姿になって?」
「もちろん、この姿のままよ。こう見えて私は誇り高き海の魔女。いくら人間を好きになったからといって、海の者である誇りは決して失わないわ。あなた達と違ってね」
 彼女はギヌロっと人魚姫や寧々に鋭い視線を送ります。睨まれたふたりは、ばつの悪そうな顔になって目を逸らしました。
「でも彼に告白する為に、人間界については色々と調べたわ。そして酔っぱらった漁師達の会話を盗み聞きしていた時、一番効きそうな殺し文句を知ったの。当然、彼にその言葉を私は囁いた」
「何て言ったんです?」
「ふふっ、聞きたい? 私はこう言ったの。『あなたが好きです。私を……た、べ、て』って…………そしたらその男、どうしたと思う!? 私をボイルしようとしたのよ! マヨネーズまで添えて!」
「いや、ああ、うん……そうかも……知れないね……」
 魔女烏賊のあまりにもへっぽこな言動に、次郎は何故か自分の事の様に恥ずかしくなってきました。きっと共感性羞恥心というものでしょう。
「茹でられそうになった私は、男にスミをぶっかけて命からがら逃げたわ。そして思い知ったの。所詮人間なんて、私達の事を食料としか思っていないのだと!」
 再び瞳に怒りの炎を灯して、魔女烏賊はそう言い切りました。
「……あー、確かにそういった一面も有るって言うか大きいけれど。でも、そんな人間ばかりでも無いよ。僕は海の生物は食べ物としても好きだけれど、それだけじゃあ無い。その美しい姿や愛らしい動きを眺める事も大好きで、それこそこの久利緒 寧々に抱いているのはそういった気持ちだ」
「いやん、次郎さんったら」
 寧々は頬に両手を添えて、次郎にすりすりとその身を擦り付けます。しかし次郎は「あ、その姿には何の興味もないからね」と冷たくあしらいました。
 そんな次郎に、魔女烏賊は吐き捨てます。
「人間の言う事なんて信じられないわ! あなた達あれでしょ? 海に逃げ込んできたタイヤキすらも釣り上げて食べるんでしょ?」
「人間嫌いになった割にはそういうの詳しいね」
「いいでしょそんな事! とにかくあなたのホラ話なんか信じない! そのクリオネを連れて、とっとと帰ってちょうだい!」
 魔女烏賊はヒステリックに叫びます。よく見ればその触椀はわなわなと震え、大きな瞳には涙すら浮かべているではありませんか。
 しかし次郎は食い下がります。
「だから人間の姿はいらないんだよ! 寧々を元の姿に戻せって言っているんですよ!」
「はあ? 何言ってるの? 人間は人間同士、海の者は海の者同士が一番幸せになれるのよ! それがこの世の理なの! 円環の理って言葉あなたも知ってるでしょう!?」
「だから何であんたそんなのまで知ってるんだよ!」
「それはもちろん海底ケーブルから違法に……って、どうでも良いでしょそんな事!」
「良く無いよ! 海賊行為ダメ! 絶対!」
 しかし、この時。
 魔女烏賊と言い合いながら、次郎の中に小さな疑問が浮かび上がりました。
「ねえ……マジョルカさん。もしかしてあなた、実は今でも人間界に憧れてるんじゃないですか?」
「な!? なななな何言ってるのよ! 変な言いがかりは止してちょうだい」
「そんな事言ってる割には人間界の事、めっさ詳しいじゃん。それに本当は人間の事も好きなんでしょ? だからリボンとか、人間の真似してお洒落してるんだよね?」
「べ、別に人間さんの事なんて好きでもなんでもないわよ!」
「今『人間さん』って言いましたね?」
「ぐぬっ! ……はあ? 言ってない! 言ってないし? か、仮にそうだったとしても、あなたには関係無いでしょ! 良い? もう一度言うわよ。人間と海の生き物が交わり合う事なんて有り得ないんだから、いい加減諦めて地上に帰りなさい!」
「異議有り!」
 次郎はパースの掛かった手で指差します。
「大いに異議有りだよマジョルカさん! 僕だってもう一度言うよ。僕達人間と海の生き物達は愛し合える。交わり合う事ができる! それは何も性的な交わりじゃあ無いよ。心と心で交わる事が、きっとできる筈だッ!」
 あのポーズのまま、次郎は魔女烏賊に詰め寄ります。

「……そう。そこまで言うのなら、その覚悟を見せて貰うわよ」

 次郎の言葉に、魔女烏賊はスッと瞳孔を細めて言いました。


 ☆


「覚悟?」
「ええ。口では何とでも言えるわ。だから物的証拠を持ってきなさい」
「物的証拠?」
「あなたが本当にそのクリオネを元の姿に戻したいというのなら、己の力で魔法薬の材料を採って来なさい。それはとても大変な事よ。もしかしたら一生掛かっても揃えられないかも知れない。どう? あなたにその覚悟は有る?」
「うんわかった」
 魔女烏賊の挑発的な言葉に、次郎は羽毛の様な軽さで頷きを返します。
「え? やるの? 本当に? じゃ、じゃあこれから言う物を探してきなさい。ひとつは『六芒星をその身に宿したヒトデ』ひとつは『死して尚星の様にきらめく骸の砂』ひとつは『人間達の罪深さが産んだ、波間に輝くまがい物の宝石』そして最後に、『黄金色に輝くとっても美味しい魚』を五匹くらい。まあ、どれもそう簡単に手に入れる事はできないでしょうけどね」
「最後のはあんたのご飯だよね?」
「良いから黙って持って来なさい。言っておくけどこれは本当に魔法薬の原料だから、揃える事ができなければクリオネはずっとそのままよ。分かったわね」
「わかった。じゃあ行ってきます。頼むぞオサガメ。あと人魚姫もついでに手伝ってね」
「あなた最初に私見た時感動してたのに、どんどん扱い雑になりますね」
「んもう、なんで私まで……」
「あとできびだんごあげるから」
「いらないわよ!」
 次郎達は釈然としない亀と人魚を無理矢理お供にして、薬の材料を探しに行きます。
 その去り行く姿を、魔女烏賊マジョルカはどこか寂しそうな瞳で見つめ続けていました。


「持ってきたよー。いやオサガメ速いねえ。有能有能」
「早っ!? い、一体どうしてそんなにあっさりと……」
「そりゃあ、全部心当たりがあったから。まず『六芒星をその身に宿したヒトデ』は、この六本足のイトマキヒトデ。大阪湾に意外と居るんだ。『死して尚星の様にきらめく骸の砂』は、波照間島の砂浜で採取した星の砂。これはバキロジプシナという有孔虫の死骸だね。で、『人間達の罪深さが産んだ、波間に輝くまがい物の宝石』っていうのはこのシーグラスの事でしょ? そして『黄金色の美味しい魚』は房州金谷の黄金鯵だ」
「ええっ!? 何これ! 金色に輝く鯵なんて! 脂が乗って美味しそう! 頂きます! ああん美味しい!」
「やっぱ食うのかよ!」
「うるさいわね。この身体維持するのも結構大変なのよ」
 黄金鯵を美味しそうにもぎゅもぎゅと食べる魔女烏賊に、次郎は尋ねます。
「さあ、マジョルカさん。材料全部揃えたよ。これで寧々を元の姿に戻してくれるよね?」
「…………仕方ないわね。もちろん、誇り高き海の魔女が約束を違える様な事などしないわ。今作るから待ってなさい」
 言うや、魔女烏賊は次郎から受け取った薬の材料をひとつずつ、別々の触腕に持ちます。
「あ、ここですぐ作るんだ」
 唐突な彼女の言葉に、次郎はさすがに意表を突かれました。

 そういえば僕、魔法を使うところ見るの初めてだな。一体、何が起こるんだろう?

 ここまで色々おかしいものを見せられて、感覚が狂いつつある次郎もさすがに固唾を飲んで魔女烏賊の動向を見詰めます。
「な、何よそんなにジロジロ見て。見せ物じゃ無いわよ!」 
 魔女烏賊はキレ気味な恥じらいの表情を見せながら、ふわりと立ち上がり。

「じゃあ、いくわよ…………ハァァァ、ヘイ! ヘイヘイ! ヘイヘヘイヘイ! ヘイッ!」

っと、サンバのリズムに合わせて陽気に踊りながら触腕を振り回し、最後に「ィイヤッフゥ~~~ッ!」とシャウトして、すべての触腕をがしゃんと合わせます。
 次の瞬間。手先がぺかーっと光り、それが収まると紫色の薬が入った小瓶が触腕の中から現れました。どこからどう見ても完全に見せ物です。
「ふう……できたわよ。さあ、寧々。これを飲みなさい」
 魔女烏賊の差し出した薬瓶を、寧々は受け取ると何の躊躇も無く蓋を開けて一気に飲み干します。
「うぅ、まっずぅ~」
 涙目になって舌を出す寧々が、次の瞬間まばゆく輝くと。
 なんという事でしょう。体がどんどん縮んでいきます。
 彼女は見る見る小さくなり、やがて光が消え去ると、そこには2㎝くらいのクリオネがふわふわとたゆたっているではありませんか。
「寧々!」
「次郎さぁん!」
 寧々はパタパタ一生懸命泳ぐと、次郎にひしっと抱きつきます。次郎は、さっきまでの彼女に対する仕打ちがまるで嘘だったかの様に、深い慈しみの籠った瞳で見つめていました。
「うわあ、本当にそっちの姿の方がいいんだ。引くわー。まあ、なんにしてもクリオネちゃん良かったねえ」
 人魚姫がアホっぽい笑顔で拍手します。
「なんと申しますか。おめでとうございます」
 オサガメも例の渋い声で祝福します。
 そして、ふたりの嬉しそうな姿を目の当たりにした、魔女烏賊マジョルカは――

「うわあああああああんっ! いいいいいなああああっ! 私も! 私も本当はっ! この姿を受け入れてくれる人間さんとお付き合いしたいのにぃぃぃぃぃぃっ!」

 号泣してしまいました。
 そうです。次郎が指摘した通り、本音を言えば彼女は今でも人間界が大好きで、人間の事も大好きなのです。
「マジョルカさん……」
 まるで幼子の様に泣く彼女に、次郎はまるで自分の事の様に胸を締め付けられました。何故なら立場が真逆なだけで、寧々と出会う前の次郎と彼女は同類だったからです。
 なので、次郎は魔女烏賊の元に歩み寄ると語り掛けました。
「ねえ、マジョルカさん。その姿でもう一度近海に上がってみませんか?」
「いやよ! そんな事したらまたNHKで特番組まれちゃったりするに決まっているわ。世間の晒し者よ!」
「あんた本当世情に詳しいのな」
「それに、それに……私、恐いの。また、好意を持った男性に、性的な意味じゃ無く本当に食べられちゃうんじゃないかって思うと……」
「大丈夫。人間界ではダイオウイカってしょっぱいだけで美味しく無いって知られているから」
「それはそれで不愉快ね……でも、だからと言って上に行ったとしても、こんな大きいだけの烏賊なんて……人間さんに取っては珍しい生き物ってだけでしょう? ホタルイカみたいに美しく無いし、ミミイカみたいに愛らしくも無いし……」
「そんな事無いよ! マジョルカさんだって、とっても綺麗だし恰好良いよ! もっと自分を信じて!」
「そもそも私烏賊よ? あなたみたいな変態が、他にも居るなんて信じられない。少なくとも私がかつて会った人間さんに、そんな人はひとりも居なかったわ」
「昔はどうだか知らないけど、今は時代が違う。男と男が付き合ったり女と女で夫婦になったり、色々な形の恋愛が享受されているんだ。今は多様性の時代なんだよ。だから烏賊好きの人間だって居る。人間と烏賊の恋愛だって、きっと成り立つよ!」
「多様性って便利な言葉なんですねえ」
 次郎にしがみついている寧々が感心した様に呟きます。
「君はちょっと黙ってようね。そういう訳でマジョルカさん。僕達と一緒に地上に行きましょうよ。今の地上は良い所ですよ」
「やだ! 怖い! こんなバケモノみたいな烏賊、きっと誰も愛してなんかくれないもん!」
 今や海の魔女の威厳など欠片も無く、魔女烏賊はひぐひぐと泣き続けます。
 そんな彼女を見ていた時、次郎の頭に素晴らしいアイデアが浮かびました。
「わかりました。じゃあ今度はちゃんと、ありのままのあなたを愛してくれる人間を紹介します」
「えっ!?」
 彼の放った言葉に、魔女烏賊は固まります。そして涙に濡れた金色の瞳で、すがる様に見つめて。
「そ、そんな人が……あなたの他にも?」
「はい。心当たりがあるので、ちょっと待っててくださいね」
 次郎は呆然とする魔女烏賊に微笑みを返すと、再び亀に乗って地上に向かって行きました。


「うををっ!? ダイオウイカちゃんじゃないですか! しかも、こんなに大きくって立派で! うぉぉ美しいですねぇ~、かわいいですねぇ~。僕、感激しちゃいましたうぉー」
 次郎が言った『心当たり』
 それはもちろん、お魚さん教授でした。
 事情の分からないまま無理矢理海に引きずり込み、海中の様子に感激して発狂しかけた彼をなだめながら、ようやくここまで連れてきたのです。

「あ……あなたは、人間さんなのに……私が怖くないの?」
 そろりと、警戒する様に魔女烏賊は触椀を彼に近づけます。
 するとどうでしょう。お魚さん教授は彼女の手を優しく取り。
「うぉぉ、可愛いですねえ。ダイオウイカちゃんは、吸盤にも歯が生えているんですよねえ。素敵ですねえ」
 屈託の無い笑顔で、まるで握手するみたいにもきゅもきゅします。
「……あなた、私のチャームポイントを!?」
 教授の海ナー全開な言動に、魔女烏賊は一発でメロメロです。
「本当にダイオウイカちゃんは、僕とうぉ付き合いをしてくれるんですか?」
「そんな……ダイオウイカなんて呼び方止めてください……魔女烏賊、マジョルカって、呼んでくださる?」
「わかりました! マジョルカちゃん、是非僕とうぉ付き合いをしてくださいー!」
「ええ、喜んで!」
 ふたりはあっという間に意気投合し、ここに本邦初、人間とダイオウイカのバカップルが誕生したのでした。


 ☆


 そんなこんなで、全ては丸く納まりました。
 魔女烏賊マジョルカはお魚さん教授と正式にお付き合いを始め、今ではちょいちょいと近海に遊びに来てはニュース番組を賑わせています。
 お魚さん教授は、その度に「あの子は僕の彼女さんなんでゲソよー」と嬉しそうに発言していますが、不思議と世間はそれを普通に受け止めています。ただ、いつの間にか彼の語尾が『ゲソ』に変わっていた事には若干の違和感を覚えているようです。

 人魚姫は、相変わらず竜宮城で働いています。
 魔女烏賊から『もう違約金払わなくても良いわよ』と言われたのですが、彼女はなんだかんだ言いながら泡姫の仕事を続けているのです。最近はオサガメがまた連れてくる様になった人間のお客さんにも評判みたいで、乙姫様に褒められています。あと末香田さんは魔女烏賊の舎弟のままです。

 そして、次郎と寧々はなんと結婚しました。
 せっかく魔女烏賊が人間の戸籍を作ってくれたので、例の『海のご加護』だかの力で彼女は対外的には人間として暮らす事にしたのです。
 けれども当然、次郎とふたりきりの時はクリオネの姿。この日も彼等は仲睦まじく下宿で過ごしていました。

「寧々、今日もご飯作ってくれてありがとうね。ほら一緒に食べよう?」
 次郎は寧々(人間バージョン)の作ってくれたしじみの味噌汁から身を一つ取り出すと、クリオネの姿になって金魚鉢の中をふわふわと浮いている寧々に差し出します。
「ちゃんとふーふーしてくださいね? 私、ネコ触手なんですから」
「わかってるよ。ふー、ふー。ほら、バッカルコーンして? あ~ん」
「あ~んっ! はふぅ、おいひいですぅ」
「寧々が作ってくれたからだよ?」
「や~ん、んもぅ次郎さんったら」
 その姿はまさに互いを慈しみ、愛し合う夫婦そのものです。
 こうしてふたりは、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
 めでたしめでたし。





 ~時は流れ~

 西暦2XXX年。首都ネオトキオの片隅で――

「ねえドロイドさん! おとぎ話読んでー」
「かしこまりました。いつものお話で良いですか?」
「うん!」
「かしこまりました。では始めます。『クリオネ女房』それは、長いながーい夏休みも半ばに差し掛かった……」


 おしまい

黒川いさお

2021年08月07日 03時47分45秒 公開
■この作品の著作権は 黒川いさお さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆テーマ:【夏】×【水】
◆キャッチコピー:この夏、君はクリオネの愛に涙する
◆作者コメント:祝、夏企画。なんとか書き切る事ができました。楽しんで貰えると嬉しいです。
お題の【夏】は夏休み。火風水土の内の【水】を、海の中の話という事で使用致しました。

2021年08月24日 01時09分41秒
+20点
2021年08月22日 17時08分56秒
作者レス
2021年08月21日 23時51分01秒
+30点
Re: 2021年08月22日 17時33分33秒
2021年08月21日 23時47分08秒
+20点
Re: 2021年08月22日 17時31分45秒
2021年08月21日 22時45分05秒
+30点
Re: 2021年08月22日 17時30分02秒
2021年08月21日 21時11分58秒
+30点
Re: 2021年08月22日 17時29分01秒
2021年08月21日 20時38分09秒
+30点
Re: 2021年08月22日 17時27分55秒
2021年08月20日 23時28分36秒
+20点
Re: 2021年08月22日 17時26分50秒
2021年08月20日 22時23分25秒
+40点
Re: 2021年08月22日 17時23分32秒
2021年08月20日 22時02分19秒
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Re: 2021年08月22日 17時21分55秒
2021年08月15日 19時56分19秒
+30点
Re: 2021年08月22日 17時19分14秒
2021年08月15日 17時17分06秒
+20点
Re: 2021年08月22日 17時18分24秒
2021年08月14日 15時32分06秒
+20点
Re: 2021年08月22日 17時16分23秒
2021年08月11日 16時08分26秒
+30点
Re: 2021年08月22日 17時13分55秒
2021年08月09日 02時34分51秒
+20点
Re: 2021年08月22日 17時10分46秒
合計 14人 350点

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