痴漢者トーマス |
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※だいぶエッチです。 ○ 1 ○ 満員電車の中。鋭い目線で、周囲を探るように見ている痩身の男がいる。 痴漢である。 逮捕される痴漢の平均的な年齢からすると、随分と若い男である。少年と言っても良い。彼は十六歳だ。面長で鼻が高く唇は薄い。ハーフリムの眼鏡をかけた瞳は切れ長で、怜悧でやや神経質そうでもある。上背は百八十センチ以上でスタイルが良い。清潔感もある。全体としては、十分に美形と言えそうだ。 早朝と夕方のラッシュの時間、彼はしばしば駅のホームを訪れる。そしてごった返す人の流れに沿って歩き回り、満員電車に乗り込み、また次の駅へ。その渦中で痴漢の対象となる女性を吟味する行為を、彼は『クルージング』と呼んでいた。 人込みという海の中を『巡回(クルージング)』しながら、相応しい獲物を吟味するその行いは、彼を狩人のような気持ちにさせる。満員電車の中で、ホームにいた時から目を付けていたOL風の女性の背後に陣取り、彼は手を伸ばすタイミングを伺っていた。 十代の痴漢は多くはない。逮捕される痴漢の平均的な年齢は四十代だから、その中にあって彼は相当に若いと言えるだろう。その端正な容姿も相まって、余人の考える『痴漢』のイメージからは、かけ離れた人物だと言えるのではないか? 「だがそんなものはただの思い込みだ」 彼は考える。 何も、痴漢のすべてが脂ぎった中年で、不細工で能無しで童貞の、冴えない男な訳じゃない。それは警戒する相手を限定したいという願望から来るバイアスなのだ。 「そうとも」 彼は考える。俺はまだ高校生だ。容姿だって整った方だし、学力や運動能力だって高いから、自分にも自信を持っている。だから決して女性と話せない訳じゃない。その証拠に、たいていの男が羨むようなカノジョだっている。彼が望めば、身体に触らせてくれたり、セックスさせてくれたりする可能性も十分にある。 そんな彼でも、この痴漢と言う行為は決してやめられない。発覚する危険を僅かでも減らす為に考えを巡らせ、計画を立て慎重に痴漢を実行し、逃げ果せる。その創意工夫のプロセスには楽しさがある。半端なゲームソフトや、スポーツでは味わえないような、極限のスリルと達成感、そして性的な興奮が。 電車が次の駅へと辿り着く寸前の時間帯、彼は目を付けていた女性の体へと手を伸ばす。 尻に触れる。女性は動かない。触れるだけでなく、しっかりと触ってみる。撫でまわし、揉んでみて、その形と感触を確かめる。 女性の面貌を確認する。不審そうな、苦痛そうな、そして悔しさの滲んだ顔だ。だが結ばれた唇に滲んだ怒りが吐露されることはない。 声を上げ、被害を訴える行為には勇気が必要だ。そうすれば騒ぎになる。注目される。そこから彼を痴漢だと証明するには長い時間だってかかる。そんな心理的抵抗を押しのけて助けを求めるのは容易ではない。 そして、万が一手を掴まれて、『この人痴漢です』と騒がれた際には、彼は容赦なく逆ギレをする。『誰が触るか! おまえみたいなブス!』というのが定型文だ。すると周囲は誰も声を掛けて来なくなる。痴漢冤罪という概念が世に広がって久しい。どちらか判断できない以上、激怒する益男を相手に首を突っ込める勇気あるものは、そうはいない。 停車駅に辿り着くまで、満足行くまで女性の尻を撫でまわす。 彼の全身の血液が下半身に集まる。興奮してたまらなくなり、ゆるやかに股間が起立する。勃起したのだ。電車が揺れる度に衣類内で生じる摩擦や衝撃で、もう達しそうだ。 いつまでもこの状態を味わっていたかったが、泣きそうな顔をした女性が停まった電車を降りて行ったので、そうもいかなくなる。 彼もまた、電車を降りる。 そして駅のトイレへと駆けこんで、ズボンを脱いだ。さっきまで勃起していた、カウパー液に塗れた柔らかい陰茎を取り出して、手淫を行う。 ほんの数分前まで勃起していたのが信じられない程、彼のペニスは何の反応も起こさない。 彼は苛立ちに塗れた声で叫んだ。 「勃たない! ちくしょう! なんで勃たないんだよぉっ! 糞ぉおおっ!」 触っても触っても勃起しない己のペニスに、彼は呪詛のような声を投げかけ続けた。 彼の名前は遠野益男(トオノマスオ)。勃起不全を患っている。 痴漢をしている最中だけ勃起をし、自らのEDを治す為に、日々犯行を働いている。 後に、人々は彼のことを『痴漢者トーマス』と呼ぶことになるのだが、それは現時点から遠くない未来の出来事である。 ○ 遠野益男は痴漢をしている最中のみ勃起する。それ以外にペニスが硬化することはない。ED患者として病院に通い様々な治療を行ったが、その状況は何も変わっていない。 何故、痴漢をすると勃起するのか? それは、小学校高学年の時に所持していた一枚のアダルトDVDが影響しているのだろう。 公園だか河原だか、そうしたところで拾って来たその一枚を、益男は繰り返し視聴していた。それを見て益男は精通したし、その後も自慰行為に耽る際には必ずそれを使用した。今はもう粉々に砕かれてしまったその内容を、益男は今もはっきりと記憶している。 もちろん、痴漢ものである。 色の白い、目の大きな、鼻の高い女優が、電車内を模したセットの中で痴漢される内容だった。女優の名前は今となっては分からない。ただ髪は長く艶ややかで、女優の腰ほどまでの長さがあり、美しかった。益男の知るどの女性よりも、彼女は綺麗に見えた。 当時の益男は自分用のPCを所持していなかったから、自慰は居間のテレビで行われた。それは大変な危険を伴う行動だった。母親の目を盗み、細心の注意を払い、強い恐怖と戦いながら益男は性欲を満たしていた。 益男の母親は厳格な人物だった。厳格というだけでなく、支配的で理不尽で、そして子供を虐待していた。 彼女は益男の何もかもを管理したがった。スケジュールや成績、栄養や遊び、交友関係。益男は母親の作った過密極まるスケジュールに一分の誤差もなく従っていたし、母親が用意したもの以外は給食を含めどんな物でも口に入れなかった。家庭水準やら成績やらが一定に達していないとかで疎遠にさせられた友人も数知れず、本や映像作品だって検閲を通った物しか読ませてもらえなかった。性的な(と母親が認定するような)シーンを含むものなど、持っての他だ。 それらのルールを破った場合、長時間に渡る容赦のない罵倒や家からの締め出し、食事を抜かす、殴る蹴るの暴行を加えるなどの罰が与えられた。幼い益男には抗う術もなく、ただ母親に従い続ける人形としての生を送ることを余技なくされた。 そんな中にあって、母親の目を盗んでアダルトDVDを視聴するという行為は、益男にとって痛快なものだった。発覚したらどんな目に合うか分かった物ではない。 だからこそ、秘密に入手したそれを母親から隠れ果せながら視聴することで、ささやかな勝利感を獲得することが出来ていたのだ。益男はテレビに映るその女性に痴漢をすることを夢に見ながら日々を過ごした。 だがある日、それも終わりを告げる。ある日母親に呼び出されると、益男はおぞましい映像を見せ付けられた。それは手淫に耽る益男を撮影した物だった。 益男の言動から怪しさを感じ取った母親が、監視カメラによる撮影を試みたらしかった。益男にとってそれは羞恥に身を焼かれ、まともに立っていられなくなる程屈辱的なものだった。 母親は数時間に渡る説教の中で、映像に映る益男がどれだけ気持ちが悪く変態的かを繰り返し説き、十数回と益男に『僕は変態です』と声に出すように強要した。 母親には少年の性欲に対する理解がなかった。小学生でそのような行為に耽っているのは明らかに異常だと、母親は考えたのだ。 己の息子は変態である。そんなことはまず我慢がならない。何をしてでもやめさせなければならない。 だが一度芽生えた性欲などと言うのはそう簡単に消え去るようなものではない。益男はDVDを失った後も様々な場所や方法で自慰を試みたが、その多くは母親によって発見された。 『どうすれば自慰をやめられるのか』。益男は母親と膝を突き合わせてそれを話し合った。母親としては、益男の『症状』を直視しつつ、息子の考えも聞き入れながら、確実にやめさせる方法を模索しているつもりだった。 そして話し合いの末、益男には以下のようなルールが課されることになった。 1:隠れて自慰行為を行った場合、罰が与えられる。 2:どうしてもしたくなった時は、きちんと申し出た上で、母さんの前でそれをやること。 3:やった後は、『変態なことをして申し訳ありません』と土下座をして謝ること。 自慰による性生活というのは極めてプライベートなものであり、それを撮影されるだけでも究極的な屈辱だ。その上益男はそれを母親の目の前で管理されることになってしまったのだ。そこで益男が感じたみじめさは、この世から消えてしまいたくなるほどだ。 最早、母親の目を盗んで自慰をするなど考えられなかった。そうでなくとも、益男は度重なる『教育』によって、自慰や勃起と言う行為がそれだけ罪深く恥ずかしく、変態的な物だと思い込まされていたのだった。 益男は勃起不全に陥った。性欲も感じなくなり、それで良かったのだと思うようになった。 そのトラウマは、あれから五年がたった今でも消えておらず、益男のペニスは十六歳になった今も機能を失っている。 ○ 母親の行ったことが息子に対する性的虐待であることに疑いの余地はない。実際に、数々の証拠を用意した益男が被害を訴え出たことで、母親は益男の前から消えた。もう二度と顔を合わせることもないだろう。思い出すだけで虫唾が走る。 残ったのは我関せずを貫いて息子を守ろうとしなかった父親と、勃起不全を患った益男だけだ。 中学校に進学して知恵を付けた益男は、自身の置かれた状況の異常さに気付いて母親に反逆することが出来た。母親の肉筆による益男のスケジュール帳や、自慰行為の記録、隠しカメラの映像などを入手するのは簡単だった。益男が救われるには、それらを児童虐待対策用の窓口に持って行くだけでことが済んだ。 益男は母親の忌々しい呪縛から解放され、まともな中学時代を謳歌することで青春を取り戻した。それは母親の支配に対する勝利と言って良かった。 だがそれでも、今もこの全身に母親に染み込まされたおぞましい毒素を感じるのは、益男が普通には勃起しないからだ。 EDを解消して初めて、益男は母親の支配から完全に開放される。勃起をし、射精できるようになり、オナニーに耽りつつ異性交遊を深め、様々な女と色んなセックスをする。それでこそ益男は母親に勝利した実感を得られるのだ。 春休み最後のその日、益男は一時的にでもペニスを勃起させる為の行動、つまり痴漢をする為に満員電車に乗り込んだ。 駅のホームをクルージングした成果として、今日のターゲットは決定している。 益男が被害者を選ぶ際に重視するのは、一つは安全性、つまり『泣き寝入りしそうな女』であるか否か。もう一つは痴漢行為のクオリティ、つまり、スタイルや容姿である。 その女は一見して中学生くらいに見えた。それだけ顔立ちは幼い。幼いだけでなく気も弱そうだ。駅のホームにいる時から、常に不安そうに、心細そうにしている。電車に乗る経験があまりないのか? 背も低い。百八十センチの益男の肩程までだ。肩までの髪はやや癖が強い。目は大きく鼻が小さく、唇は赤ん坊のように瑞々しい。 整った容貌、より正確に言うと可愛らしい容姿を持つ少女だ。 だがその顔立ち以上に益男の目を引いたのはその体格である。少女はその幼い印象を補強するように、華奢である。手も足も首も腹も、小さく細く、なんとも頼りない。にも関わらず、胸が大きい。そのアンバランスさは益男を興奮させた。 バストカップ数はEやFということになるのではないだろうか? それ以上かもしれない。どんな服を着ても、その乳房は目立つだろう。実際その膨らみは、ピンクのカーディガンを羽織った彼女の白いシャツを持ち上げている。 長身の益男のだらりと降ろした手の位置に、背の低い彼女の胸は程近い。 触るしかないだろう。 電車の中が程良く混んで来るまで、益男は少女の隣をキープし続ける。少女の胸の感触を想像しながら、然るべきタイミングを伺っていた。 車内の密度が高まり、自然、互いのパーソナルスペースがなくなって行き、二人は密着状態となる。 益男はおもむろに少女の胸に手を伸ばす。 想像以上にそれは柔らかい感触だ。彼女の若さ、というより幼さから、より弾力のある感触を想像していたが、実際にはふわりとした柔らかさがある。それでいて、若さから来る張り合いもちゃんと備えていて、強く触ればそれだけの跳ね返りがある。 益男は胸全体を鷲掴みにし、手の平いっぱいにその感触を味わった。たまらず股間が熱くなり、硬化して反り返る。十分なクオリティの痴漢が出来ている証拠としての現象……勃起である。 益男のその行いに、少女の肩が跳ねる。血の気が引き、怯え、あたりを見回して、益男の方を一瞥し、しかし何も言えずに下を向く。 触りに行く時は、恐る恐るやるのではなく、俺は痴漢だと声高に訴えんばかりに遠慮なく触るのが鉄則だ。こちらは凶悪な性犯罪者であり、もちろん手加減などせず、何をしでかすか分からないと悟らせる。気の弱い女性は、それで声を上げられなくなる。 下を向いた少女は目に涙を浮かべ始めた。肩を震わせている。理不尽と恐怖、そして悔しさに打ちひしがれているのだ。 満員電車という身動きの取れない状況下において、全身を良いように触られて声を上げることも出来ないというのは、彼女に相当な苦痛と屈辱をを感じさせているだろう。相手は欲望のままに自分に苦痛を与えることが出来るのに、自分はそれに対して抵抗も出来ずに我慢するしかない。こんなに悔しいことはない。触られるのが大したつらさでないから我慢するのではない。つらくてたまらないからこそ、抗うことが恐ろしいのだ。 そのような苦痛で相手を一方的に支配するからこそ、痴漢というのは素晴らしい。 かつては、益男は母親から支配される側だった。だが今の益男は支配する側にいる。この満員電車において、益男は絶対的な存在だ。鮮やかに獲物を追い込み、痴漢をし、抵抗させず、捕まらない。そんな流浪の狩人なのだ。 そう思っていた時に、震える小さな手が益男の手首を掴んだ。 感触からしても、滑らかな綺麗な、そして幼い手だなと思った。だがその温かい感触を認識した次の瞬間、益男の全身を電流のような動揺が貫いた。 「この人……痴漢ですっ」 被害に遭っていた少女が、加害者である益男の手を掴み、涙に濡れた顔でそう言った。 周囲の視線が益男の方に向けられる。少女が握りしめる益男の腕に注目が集まって行く。絶対的弱者と思っていた相手の思わぬ反撃に、益男は激しく動揺した。 なんとかしなければならない。 ここは逆ギレだ。逆ギレをして、目の前の女を黙らせて、周囲の人間をも黙らせるのだ。そうするしかない。騒ぎを大きくすることなく一瞬で勝負を付けてしまうのだ。そうすれば車掌もやって来ない。 「誰が触るか! おまえみたいなブス!」 益男は叫んだ。叫んだことによって、その場に介入しようか迷っていた少数の男女の表情が硬直し、鼻白んだようになる。益男が痴漢であると言う確信を持てなくなり、関わり合いになるのを恐れたのだ。 益男の怒声は狙い通りの効果を発揮した。だが益男には、自分の声が如何にも痴漢した男が放つヒステリックな物に聞こえて仕方がなかった。 「俺は何もしていない! ちゃんと確認もしていない癖に、いい加減なことを言うな! あなたは人に冤罪を仕掛けて尊厳を踏みにじっている! 自分がどれほど軽率なことをしているのかを、きちんと認識しろ!」 その声と剣幕に、少女は思わずすくみ上り、己の身を抱く。ますます大粒の涙を浮かべ、脚を震わせて今にも蹲らんばかりだ。 「でも……だって、あなた。……本当に……」 女は蚊の泣くような声で言う。それがまた益男をトサカに来させる。 獲物の分際で、俺をどうするつもりなのだ。八つ裂きにしてやらなければ気が済まない。益男は酷く攻撃的な気持ちになり、さらなる怒声を上げようとする。 「あのっ」 その時、益男の側で、制止するかのような声が発された。 思わずそちらの方を見る。 座席に腰かけていた。うら若い女性だった。益男と同じ歳くらいかもしれない。そしてその外見には強烈な既視感があった。かつて、これと同じような容姿の女性を、益男は毎日のように想起していたことがある。 美人だった。それも、特別に美人だと言えた。 まず髪が長く艶やかだ。据わった状態で座席まで髪が届いているのだから、その長さは腰近くまであるに違いない。一本一本が柔らかで漆のように黒く、煽情的な匂いがこちらまで届いて来るかのようだ。 痩身でスタイルが良い。大きすぎないが胸もくっきりと形を主張していて、肌も白くきめ細やかだ。まつ毛が長い。鼻が高い。大きな瞳は潤みを帯びていて、くっきりとした二重瞼だ。右目の下に泣きボクロがある。 益男はその美人を恐れた。女が介入して来たのだから当然だ。女なのだから当然被害者の味方で、痴漢の敵だろう。つまり益男に不利な証言をしに来たということである。ここへ来て益男は覚悟を決めた。 しかし、その美人の発言は益男の想像の埒外だった。想像できるはずもない。何せ、その美人の証言は、真実とまったく食い違っていたのだから。 「その人、本当に痴漢じゃないですよ。冤罪です」 美人は被害者の少女の目をじっと見つめながら、こんこんと言い聞かせるような声で言う。 「自分、見たですよ。あなたを触っていたのは、反対側にいたスーツの男性です。今は、もうどっか行きました。残念ですね」 被害者の少女は絶句した。そんな訳がないという青ざめた表情で、益男を見詰めている。 「これ以上騒いでもしょうがないです。その男の人、冤罪ですから。可哀そうですよ」 激した益男が放ち、電車内に伝染していた熱気が、急速に冷めていくのが感じられた。それは、周囲の人間が益男に対する疑いを放棄したことを意味していた。 「そうですよね。お兄さん」 「あ。ああ……」 美人に水を向けられ、益男は眼鏡を持ち上げて、冷静を装って被害者の少女にこう言った。 「とにかく、俺は痴漢じゃない。声を荒げたのは悪かった。だから、引き下がってくれ」 被害者の少女は一つ嗚咽を上げて、巨大な理不尽に全身を引き裂かれたような表情で顔を伏せ、満員電車の中で益男から逃げ去って行った。 車内には元通りの沈黙が戻る。何ごともなかったかのようだ。 しかし益男にはその空間が針の筵のように思えてならなかった。美人の女の証言によって、疑いは概ね晴れただろうが、それでも痴漢に間違われた男として好機の視線を注いでいるはずだ。 その場にいることが苦痛だった。しかし幸いにして、益男を助けた美人の女は次の停車駅で席を立つ。そして、手招きするように、益男の方に向けて小さく手を動かす。 益男はそれに従うように、女の後ろを付いて行った。 女は益男の方をしばしば振り返りながら、電車を降りて歩き続ける。益男はそんな彼女に付いて歩くしかなかった。自分が何故助かったのか、目の前の女が何者なのか、知らない訳には行かなかったのだ。 付かず離れずの距離で駅のホームを歩き、やがて人込みが途切れた場所で、女は益男を振り返った。 女は益男に微笑みかける。 見れば見る程、『あの人』に酷似していた。高い鼻と整った顔立ち、そして長く艶やかな髪。かつて益男が恋い焦がれ、その姿を見ながら何度も射精した、あの時持っていたたった一つのAVに登場した美しいあの女優に。 「さっきは、ありがとう」 「いやぁ。気にしないで良いよ」 先ほどまでとは口調を変え、女はへらへらとした表情で笑った。それは共に悪戯を成功させた仲間に笑いかける少年のような笑い方で、艶やかな長髪と上品な顔立ちを持ったその女には、どこか似つかわしくなかった。 「助かって良かったね、お兄さん。間一髪だった。でも嬉しいよ。ぼくと同じ趣味を持つ人に出会えたんだから」 女はそう言って、百六十センチを少し上回るくらいの高さから益男の方を見上げ、頬を捻じ曲げながらこう言った。 「ぼくも君と同じ痴漢なんだ。だから助けてあげた。ねえお兄さん。いつから痴漢をやってるの?」 絶句する益男を、女は面白がるようにじっと見つめるのだった。 ○ 「ぼくはトランスジェンダーなんだ」 駅のベンチに並んで腰かけながら、女……雫石くらら(シズクイシクララ)は益男にそう打ち明けた。 「別にそのことで何か配慮をしろとか言うつもりはないよ。普通に男として扱ってくれればそれで十分だ。もっとも、この見た目の人物を男として扱わなきゃいけないというのは、君みたいな思春期の健康男児にとって、結局は気を使わなくちゃいけないことかもしれないけどね」 「……それが本当だとして」 益男は訝るような目を雫石に向ける。 「何故そんなに髪を伸ばしているんだ? 内面が男だというのに、君の外見は明らかに女性であることを表現している。服装もだ」 「疑問に思ったことは、そうやって遠慮なく何だって訊いて欲しいね」 雫石はまさしく少年そのものの屈託のない笑い方をした。 「ぼくのお母さんはいわゆるLGBTに理解のない人物でさ。男は男らしく、女は女らしくするものだというんだよ。そうしなかったら折檻を受ける。小学生の頃自分で髪を坊主にしたら、怒り狂って首を絞められた上熱湯をかけられたくらいだ。酷い親だよ」 「……それは立派な児童虐待だろう。然るべき窓口に訴え出たらどうだ? やり方が分からないなら、協力することも出来る。俺はそう言うことに詳しいんだ」 「あははっ。考えたことがない訳じゃないが、どうにもやる気が起きないんだよね。女言葉を使えてないと気絶するまで殴られたり、おまえは異常だと日常的に嫌味を言われたりしていても、結局のところ、ぼくはお母さんのことが大好きなんだな」 理解が出来ない感覚だ。益男は思った。益男も過去に児童虐待の被害を受けていた子供だが、母親からの愛情を求めたことは一度もなかった。むしろ支配欲と言う形に屈折した愛情をふんだんに注がれていて、それが故に益男の苦しみがあったと言っても良い。 「おまえは出来損ないだ、万に一つの確率で作り出される不良品だ、そんなものが自分の娘に産まれて来て私は本当に不幸だ……。そんなことばかり毎日聞かされる。けどね、完全に突き放された訳じゃないんだよ。お母さんの前で女を装っている分にはさ、きちんと子供として扱ってもらえるんだから」 「だが君は、本当の性別は男なんだろう? いくら肉体が女だからって、精神が男ならそれは男だ」 「そうだね。今、自分を『ぼく』と言っている自分が、本当のぼく。ペニスが生えていないだけで、性欲も男と同等の物を持っているから、隠れて痴漢なんかもやる。……そうするとね、自分が男だと実感できるし、母親の束縛から解放された気持ちにもなれるんだ」 そう言って雫石は誇らしげな表情を浮かべた。 「もちろんバレたことは一度もないぜ? 何せぼくの姿は女なんだから、よっぽどドジを踏まない限り、まず疑われることはないんだからね。この一点に関しては、女の身体に産まれたことに感謝してるよ」 「それで、俺のことも助けてくれたという訳か」 「そういうこと。電車に乗っているとぼく以外の痴漢を目撃することもたまにあるけど、たいていは良い歳こいたおっさんばかりでね。趣味を共有できる同世代の仲間が欲しいと思っていたんだ。だから……」 雫石はそう言って、その白く滑らかな手を益男の方に伸ばした。 「これから一緒に痴漢をやろう。良いよね?」 ○ 2 ○ 益男が痴漢をしていた、という噂が、同級生達の間で立っているらしい。 この事実を友人からのラインで知らされた時、流石の益男も狼狽した。どうやら、少女を痴漢した現場に益男の同級生が居合わせていたらしく、その状況をラインで拡散したのだと言う。 だがその証言は決して致命的なものではないそうだ。ただ手を掴まれ、痴漢だと言われ、揉めていた、という程度の証言内容らしい。益男が実際に痴漢をしているところを目撃された訳ではない。よって同級生達の益男への疑いも、決して深い訳ではないようだった。 だが少しでも疑われれば、社会的なダメージが甚大となるのが、痴漢という行いである。 適切な対処が必要だ、と益男は感じた。 今日は四月の八日。春休みが明け、二年生に進級した益男の登校初日である。学校に到着したら、おそらく益男は誰かからの質問攻めにあうことだろう。そこで堂々と自分の無実を口にしなければならない。 それは出来る、と益男は思った。何せ、益男には強力な切り札があるのだ。 「おはよう益男。ごめん、待ったかな?」 駅のホームで電車を待っている益男に、声を掛けて来る女がいた。 淡い栗色の髪を持つ、益男と同じ歳くらいの女性である。よりはっきり言ってしまえば、彼女は益男と同じ高校二年生だった。 少し朱色の差した頬はふっくらと白く、鮮やかな桃色の唇は潤みを帯びている。少し眉が太く、髪の毛と同様に色素の薄い目は如何にも意思が強そうだ。実際、彼女はどちらかというと気の強いタイプである。小さな顔の輪郭は良く整っており、百六十五センチの身体は良くメリハリが効いている。 「いや。今来たところだ。それに、待ち合わせ時刻は次の電車が来るまでだから、十分に余裕がある。君が謝る必要はどこにもない」 在原梓(アリハラアズサ)は益男の交際相手だった。交際は約二年続いている。 中学生の時分、益男は母親に踏みにじられていた自尊心を回復させる目的で、それなりの女と付き合うことを決意した。その為に自分を良く磨き、その過程で仲良くなった彼女に告白をしたのだ。 「そうかな? でもさ益男。悪いことをしてなくても、相手を待たせたり嫌な思いさせたりしたら、謝るもんだよ」 「俺は何も嫌な思いをしていない。相手が時間を順守する限りにおいて、必要な待ち時間はこちらでいくらでも調節できるから、ストレスを感じにくいんだ」 「相変わらず、理屈っぽい喋り方をするねぇ。益男はさ」 同じ駅を利用するとあって、益男と梓は毎日駅で待ち合わせをし、登下校を共にしている。益男と梓はその後も会話を楽しみながら電車を待った。電車に乗り込んだ際には、幸運にも席が空いていて、二人並んで座ることが出来た。 やがて混雑し始める電車内で、二人の会話が途切れた瞬間、梓が意を決した様子で声を落としてこう尋ねて来た。 「ところで益男。昨日、友達から変な話を聞いたんだけど」 「どうしたんだ?」 「私は信じていないんだけど……その、益男が電車の中で痴漢をしたのを、見たって人がいて」 益男の全身に緊張が駆け抜けた。 梓の表情には強い不安が満ちている。電話でもメールでも訊けたはずなのに、今日この時間までそれをしなかったのは、あなたは痴漢をしたのかと質問することへの、抵抗感が原因だろう。 「もちろん私は益男のことを少しも疑ってないよ? ただね、どうしてそんな噂が生じたのかを、どうしても知りたくて」 ここで対応を誤れば自分は梓を失うことも有り得るだろう。梓を唯一無二の女とまで思っている訳ではないが、それなりの愛着はある。益男は慎重に質問を返した。 「どういう噂が流れているんだ?」 「一年の時の隣のクラスに、保延(ホノベ)さんって子がいるでしょう?」 「知らないな」 「そう? 美術部に所属していて、何度か賞を取って表彰もされてる子だよ?」 あの女は同級生だったのか? 益男は面倒に感じた。赤の他人であった方が、事件が尾を引く可能性は遙かに低いというのに。 「その保延さんがさ。電車の中で益男の手を掴んだんだって。それで、益男が『俺は痴漢なんかしていない!』ってキレてたって。そういう現場を見たって子がいるのよ。ねえ益男、これってどういうことなの?」 「どうもこうも。誤解だよ。痴漢冤罪だ」 「うん。そうだよね。でもさ、なんでそんな誤解が生じたんだろう」 「俺の隣に立っていたスーツの男が犯人だ。既に誤解も解けている。真犯人の犯行を直接目撃して、証言してくれた人もいる。何ならそいつを連れて来ようか?」 梓は目を僅かに大きくしながら、唇を結んで頷いた。 その表情には安堵が浮かんでいる。そりゃそうだろう。自分の彼氏が痴漢であるかもしれないなどと、そんな疑念は一瞬でも早く解けた方が良いに決まっている。それを証言する者がいるというのなら、安心もしようというものだ。 「電話をすればすぐに会えるはずだ。何せそいつは、俺達の同級生なんだからな」 そう言って、益男は昨日登録したばかりの『彼』の番号を呼び出し始めた。 ○ 「雫石『くん』?」 学校に辿り着き、校門付近で待たせておいた雫石の前に来て、梓は目を丸くしてそう言った。 「知っているのか?」 「え……ええ。去年、同じクラスだったから」 雫石くららは益男たちの同級生だった。益男たちの高校は一千人に届く生徒数を誇る大規模な学校だから、益男は彼のことを知らなかった。対する梓は彼のことを……女性の肉体と男性の精神を持つことも含め、知っているようだった。 「春休みぶりだね在原さん。トーマスのカノジョっていうのは、君だったんだね?」 「トーマス? ……ああ、益男のあだ名か……」 気さくに話す雫石に対し、梓は心配げな表情で益男の方を見る。遠野益男という名前から来るその呼び方を、益男が嫌っていることを知っているからだ。しかし益男は差し出した手を振って見せることで、『心配ない』という合図に変えた。 「この『男』が、俺を痴漢冤罪の窮地から救ってくれたんだ。その時の話をして欲しい」 「了解したよ、トーマス」 雫石は当時の状況を梓に話し始めた。 その内容は、もちろん虚偽である。益男は実際には保延を痴漢していたし、雫石はその光景をしっかりと目撃している。しかしそんなことはおくびにも出さず、雫石は存在しない『スーツの男』が痴漢していたという証言を梓に延べ、保延が間違って近くにいた益男の手を掴んだのだと強調した。 「だから、これは痴漢冤罪なんだよね。正確には冤罪『未遂』なんだけど……でも同級生達の間で誤解を促すようなメッセージが流れているなら、それはやめさせないといけないだろうね」 「……そうねぇ。このままじゃあまりにも、益男が可哀そうだもの」 梓は心底益男に同情したような表情を浮かべた。どうやら、梓の中の益男に対する疑念は完全に溶けていると言って良さそうだった。 「被害者の保延さんは、このことについて何か言っているの?」 雫石が気になることを訊いてくれた。 「……それがね。保延さんと仲が良い人が訊いてみたそうなんだけど、保延さんは未だに『益男がやった』って言っているらしいの。『誤解じゃない』『間違いない』『わたしは見た』って……」 「ぼくはいくらでもトーマスが痴漢じゃないって証言をするけど」 雫石は神妙に頷いて言った。 「でも、被害者である保延さんが証言を翻さない限り、益男への誤解は完全には解けないと言って良いだろうね」 「そうね」 梓はその意思の強そうな瞳を細め、決意に満ちた表情で言った。 「でも安心して。私が誤解を解いて見せるから」 ○ 益男にとっては厄介なことに、保延さとりと益男とは、今年からクラスメイトに当たるようだった。 雫石と梓も同様だ。そう考えると、昨日のあの電車には、クラスメイトの内の三人が乗り合わせていたことになる。行動範囲の共通する同級生同士とは言え、なかなか珍しいこともあったものだ。 だがその事実は本当に益男にとって不利だった。保延はクラスメイトとして益男と顔を合わせる度、自らの被害体験を想起するだろう。それだけに周囲に益男のことを話す確率は高い。 始業式を終えたところで、まだ保延は学校に現れなかった。寝坊でもしたのかと思っていると、保延は黒いリュックサックのような鞄を背負って、浮かない表情と重苦しい足取りを伴って現れた。 その表情には疲労が見て取れる。精神的な物もそうだが、肉体的な物も多いだろう。元々臆病そうな童顔はさらに弱々しい印象となり、遅刻の申し開きの為に教師の前に立つその姿は、小動物そのものだった。 「何故初日から遅刻したんだ、保延?」 「あの……その。いつもの、時間に、出発したんですけど……。その、怖くて」 「怖い? 何が怖いんだ?」 「電車に……乗るのが。その、それで、……歩いて」 下を向いて全身を震わせながら話す保延に、教師は一つ溜息を吐いて「もういい。座れ」と促した。頭を下げ、その通りにしようと自分の席を探す保延は、益男の方を見て絶望的な表情を浮かべた。 彼女は知ったのだ。自分に痴漢をした男と、クラスメイトとして一年間過ごして行かなければならない事実を。 電車に乗ることも出来なくなるほどの、強烈なトラウマを自分に与えたおぞましい性犯罪者が、教室と言う決して広くない箱庭の中で、自分と同じ空気を吸い続けるのだということを。 次の休み時間。顔を青くして机で呆然としている保延の前に、梓が現れた。 「おはよう。保延さん」 「あ……在原、さん。お、おはよう」 名札を見ながら梓を名字で呼ぶ保延。二人に面識ははないか、あるとしても梓からの一方的なものらしい。 「ねぇ。ちょっと……訊きたいんだけど。あなた、痴漢に遭ったのよね?」 教室がざわめき始めた。誰もが質問したくて、しかしことがことだけに公衆の面前ではできなかったできなかったことを、梓は堂々とわざとのような大きな声で保延に尋ねたのだ。 これには益男も驚きを覚える。今のところ梓は益男の味方のようだが、強硬策が過ぎるのではないか? 「……あの、こんな人のいるところで、その話をするのは……」 「遭ったのよね?」 強い口調で問われ、保延は怯えたように身体を竦ませて「はい……」と答えた。 自分が痴漢に遭った話など、大勢の前ではとても言いたくないだろう。同じ女性としてそれを理解しているだろう梓からそのことを強要され、保延は混乱した様子だった。 「誰にやられたと思ってるの?」 「は……?」 「誰にやられたと思ってるか訊いてるの」 「それは……えっと」 「言いなさい」 「…………おのくん」 「は?」 「遠野くん、だよ」 乾いた音がした。 梓に凄まれて、思わずと言った様子で口にした保延の頬を、梓の手の平が叩いたのだ。 硬直するしかない保延に、梓は冷徹な表情で畳みかける。 「ねぇあなた。近くで見ていた雫石くんが言っていたんでしょう? 犯人は益男じゃない。スーツの男だって。それなのにあなたはまだ益男を疑うの? あなたがそんな嘘の証言を広めた所為で、益男がどれだけ大変な立場になっているか分かってる?」 「でも……わたし、本当に見た。ち、痴漢をしたのは……遠野くん」 再度益男を告発するその言動に、益男は疑問を覚えていた。 このタイプは如何にも自分に自信がなさそうだ。あんな混雑した電車内で、どれだけ益男が痴漢するのを見たとしても、相手や周囲にはっきりと否定されれば、自分の見間違いを考えてしまいそうなものである。そうなってくれないのは、いったい何故なのだろうか? 何か根拠があるのだろうか? 「それに……、わたし、広めたりなんか。ただ、ハルちゃんに訊かれて本当のことを答えただけで……」 「黙りなさい。あなたには自分を省みるって言うことがない訳? 痴漢って疑われるだけでその人の評価や尊厳を大きく傷付けるし、場合によっては人生を台無しにしてしまうのよ? 自分が今していることをちゃんと考えて、まずはその勘違いを正したらどう?」 そう言った梓の瞳には強力な敵意が滲んでいる。自分の彼氏を痴漢と疑い、あまつさえその噂が拡散される原因を作った人物なのだ。憎むのも分かる。 だが、梓は保延と同じ女性のはずだ。保延の方の事情も分かるはずではないか? そう思った益男は良心の呵責に駆られ、梓に駆け寄ってこう説いた。 「梓。保延だって身動きの取れない状況で酷い目にあって、冷静になれなかったのだろう。勘違いをしても無理はない状況に見えた。俺は保延を許している。だから」 「益男は優しいね。確かに、掴んでしまう手を間違えるってことはあり得ると思うわ。でもね、そのことと、第三者の証言を聞いて尚未だにその認識を翻していないことは別の話よ」 「それは言ってもしょうがないことなんだ。確かに、保延に痴漢だと勘違いされたままでいるのは、俺にとっても苦しいことだ。だがそれでも、闇雲に言っても解けない誤解というものはある」 「でもそれじゃあ、益男の風評や尊厳はどうなるのよ?」 「この一年間、俺はクラスメイトとして保延や周囲に誠実に振る舞うことで、俺が痴漢なんかする人間じゃないと分かってもらうつもりだ。誤解を晴らす自信はある」 そう言って、益男は保延の肩に手を置いた。保延の全身が激しい恐怖に震え、その視線を下に向かせる。 「保延。今すぐに俺が犯人じゃないと分かってもらうのは難しいかもしれない。だが俺は痴漢なんかじゃない。それは俺の振る舞いでいつか証明するから、それまでの間、せめて俺が痴漢だと周囲に話すのは控えてもらえないか?」 そう言って優しく微笑んで見せると、保延は下を向いて、あまつさえ涙を流しながら。 「元々……誰にも話すつもりなんて、ない。……そんなこと、出来ないもん。放っておいてくれれば……それで良いの。だから……うぅ。うううぅっ。ふああああああ……っ」 後はもう声にならなかった。泣きじゃくる保延に、同情的な空気が教室内に流れそうになる。 それを見て取った雫石が「はいはーい。ちゅうもーく!」と言いながら、周囲の視線を集めつつ益男の前に立った。 「ぼくが保延さんが痴漢に遭うところを目撃していた人物です。保延さんはこう言っていますが……ですが保延さんを痴漢していたのは、スーツを着ていたおっさんでーす。トーマスは痴漢じゃありませーん。これは確かなことです。トーマスの名誉の為に……分かってあげてくださーい!」 そう言うと、何人かは「分かった」とか「第三者の証言もあるしな」とか「益男がそんなことする訳ないし……」などと漏らし始める。そして益男に対し方を叩いたり、「俺は信じるよ」と声を掛けたりする者が現れ出した。 それらに対し、益男は「ありがとう」と爽やかな笑顔で応じた。益男は満足した。 上手くことが運んだ。保延にキレて見せる汚れ役を梓に引き受けてもらえたお陰で、益男自身は紳士的で誠実な振る舞いに終始することが出来た。信頼を取りに行けたのだ。極めつけは雫石が放った具体的な証言だ。依り代となる証言や証拠があってこそ、益男の冷静な立ち回りが生きる。この場面、益男の完全勝利と言って間違いなかった。 「益男が痴漢じゃないと分かってもらえてうれしいわ」 梓はそう言って微笑んだ。 「でもそれはこのクラスの中での話よね」 と、鋭い視線を保延の方に向ける。泣きじゃくっていた保延の全身が震える。 「ねぇ保延さん。今からスマホで動画を撮るから、益男が犯人じゃないと証言してもらえないかしら? それをみんなに見てもらうことで、あなたの贖罪になるし、益男の誤解を晴らすことに繋がるわ」 「おいおい梓。そこまでは……」 ただでさえこの教室内でセカンド・レイプを受けているというのに、梓はさらに残酷な仕打ちを保延に施すつもりらしかった。どうしてそこまでするというのか? ただカレシである自分の誤解を溶きたいというだけでは、とうてい納得できない。それはやりすぎであると言えた。 「保延さんが益男を痴漢だと思っているのは分かったわ。でもね、今はその気持ちをぐっと堪えて、嘘でも良いからそう言って欲しいのよ。お願い出来る?」 有無を言わせない口調でそう言うと、保延はしばし自分の机を見詰めて沈黙した後で、胸が引き裂かれる程悲しそうな声で言った。 「分かりました」 ……もうどうでも良い。このつらい場から解放されたい。 そんな思いが、見ている益男にも伝わって来る程だった。 誰もそんな保延を救わなかった。梓に逆らう者はいなかったのだ。 もともと梓は同級生達の中でも交友関係が広く周囲への影響力も強い人物……いわゆるカースト強者に当たる。弁も立つし気が強いし、それでいて仲間の為なら苛烈な程行動的になるとう点が、彼女の地位を強固にしている。新学年始まったばかりのこの場面、寄らば大樹の陰という訳なのだろう。 梓が向けるスマートホンに向けて、保延は何度も何度も「遠野くんは痴漢じゃありません。勘違いしてごめんなさい」と言わされている。その表情は悔しいとか悲しいとかを通り越して、どこか虚ろだった。心の中を空っぽにして、その苦痛の時間をやり過ごそうとしている。 益男は、思わずその光景から目を背けた。 それはどこか、母親に叱責されていた時の自分自身に、似ているようにも感じられた。 ○ 「兄がね。痴漢冤罪を受けたことがあるの」 帰り道、梓は眉を伏せながら、彼女にしては弱々しい声で呟くように言った。 「私がまだ小学生で、兄が高校生の時のことよ。通学中の電車の中で、益男のように女の子から手を掴まれたの。『この人痴漢です』……ってね」 良くある話だ。益男は思った。痴漢を受けた女性が常に正しい加害者を断定できる訳ではない。何せ満員電車の中だ。周囲には何人もの男性がいるし、痴漢に遭遇してパニックになっている状況で、誰もが冷静な判断が出来る訳ではない。 「兄は電車を降ろされて、鉄道警察に突き出されたわ。実際に兄は犯人じゃなかったし、有効な証拠や証言もなかったから、すぐに釈放されることになった。けれど……その様子を目撃していた同級生達は、兄を痴漢だと思い込んだの」 梓は沈痛な表情の中に怒りを滲ませる。 「兄が痴漢であるという悪評は、すぐに学校中に広まったわ。兄は学校で居場所を失って、家に引きこもるようになった。兄は優秀で、周囲から将来を期待されていたのだけれど、冤罪が起きた途端、誰もが『痴漢がバレた挙句に引きこもったみじめな性犯罪者』としか、見てくれなくなってしまったの。そのことも兄を深く傷付けたわ」 そう言って歯を噛みしめる梓の肩を、益男は優しく手で触れた。嗚咽を漏らしそうになるその背中を優しく撫でてやると、梓は「ありがとう」と儚げな表情で益男に微笑んだ。 「実を言うとね。私も最初、兄のことを信じることが出来なかったのよ。……私も女だからね。つい被害者の方に感情移入をするあまり、冷静な判断が出来なくなってしまった。被害者の女の子が兄を犯人と言っているのだから、本当にそうなのかもしれないって、疑ってしまった」 「だがその言い方だと、今では違う考えを持っているんだろう?」 「ええ。……兄はね、自殺未遂を起こしたの。『自分は本当に痴漢をしていない』という遺書を残して、首を吊って死のうとした。それを発見したのは私だった。なんとか助け出して、そして心の底から謝った。疑ってごめん、信じてあげられなくてごめんって、二人で泣きじゃくりながら……」 そう言う梓の目からボロボロと涙が溢れ出した。益男はハンカチを取り出して、そっと梓にそれを差し出した。 梓は涙を拭き取りながら、悲痛な声で喋り続ける。 「兄は今も引きこもり続けているわ。いつか必ず立ち直ることが出来ると、私は兄を信じている。そして許せないのよ。何の証拠もなしに、ただ『間違われた』というだけで、良く考えもせずに人を痴漢扱いする人達のことが。益男がそんな人達の餌食になって欲しくはない……」 「ありがとう。君のお陰で、俺はそうならずに済んだ。本当に感謝しているよ」 「いいえ。良いのよ。当然のことをしたまでだわ」 いくら交際相手とは言え、梓が益男の容疑を晴らすことに過激だと思ったら、どうやらそんな理由があったらしい。 「保延さんには酷いことをしてしまったかもしれない。あの子、本当に益男が痴漢だと思い込んでるみたいだった。けれど、益男も言ったいた通り、いつか必ず分かってもらえる日は来ると思う。益男はどう見てもそんなことをする人じゃないものね」 確信を持った口調でそう言われ、益男は胸にチクリと棘が刺さるような感覚を覚えた。だがそんなことはおくびにも出さず、 「君がそう言ってくれると、心強いよ」 などと言いながら爽やかに微笑むのだった。 ○ 「冤罪被害者と痴漢被害者がいがみ合うこと、それ自体が歪んでいると、ぼくは思うんだよね」 翌日、駅のホームで出くわした雫石に、梓から聞いた話をすると、彼は肩を竦めてそのような感想を述べた。 「痴漢の話になる度に、必ずと言って良い程痴漢冤罪の話を持ち出す人間がいる。まるで、痴漢被害よりも冤罪被害の方が、遥かに重大な社会問題であるかのように。もちろん両者はどちらも深刻な問題だと思うし、痴漢でない男性からすれば、冤罪事件の方に当事者意識を感じてしまうのも、理解できない話じゃないと思う。ただ……」 「疑問に思うのは……冤罪事件について考える男性が、被害者の女性に対し攻撃的になることがあるのは何故か、という点か」 「そう。根本的な話、痴漢がいなきゃ痴漢冤罪だって発生しようがない。だったら、痴漢被害者たり得る女性と、冤罪被害者たり得る男性は、共通の敵である痴漢を前に結託して立ち向かえば良いはずなんだ。なのに両者はしばしばいがみ合う。ぼく達痴漢からすれば、そうした姿はなんというか、滑稽としか言いようがないよね」 『この人痴漢です』と手を捕まえた途端、それが誤解であろうとも、その男性の人生は終わる。実しやかに流れているそんな『神話』を巡り、ネット上では、冤罪被害者たり得る男性と痴漢被害者たり得る女性が、対立を深めながら日々激論を繰り広げている。 それはまさしく、益男たち痴漢にとって、滑稽な光景だと言えた。 現実的に、冤罪で逮捕起訴までに至る確率は、有識者でも正確な数値を出せないらしい。冤罪と発覚するまでは冤罪は冤罪として扱われないのだから、当然だと言える。 だが冤罪で人生を破滅に追いやられる者がもし仮にいるとして、それは決して、無実の男性を告発してしまう女性の責任ではない。最も悪いのは当然ながら加害者である痴漢である。他に悪い者がいるとしても、それは間違った捜査で冤罪を産んでしまう警察組織の方だろう。もっとも、実際にはそんな簡単に冤罪を産む程、日本警察が無能には思えないが。 益男は言う。 「逮捕起訴まで行かずとも、疑われただけの場合でも、その男性の精神的或いは社会的なダメージは甚大だろう。だが痴漢を受けてパニック状態の女性に対し、完璧な確証もなしに手を掴むなとも言いづらい。重要なのは、手を掴まれた男性が周囲にいても、完全に有罪が確定するまでは無暗に痴漢と決め付けないことだろう。そういう意味では、痴漢冤罪という言葉を周知させたらしい某映画の功績は、大きいのかもしれないな」 「賛否両論はあるらしいけどねー。まあぼくは見たことないけど。トーマスはある?」 「ないな。映画というか、映像作品はあまり好きじゃない。目が悪くなる」 そう口にしてから、これは母親から躾けられた内容だったと思いだし、つい舌打ちしたくなる。 『テレビなんて見てるとバカになるよ!』 これに限らず、母親から絶えず叩き込まれた偏った教えは益男の全身に染みわたっていて、簡単なことでは拭い去れなくなっている。だが一日に二時間ばかりスクリーンを見上げたところで、勉強をさせられ過ぎて優秀な成績と引き換えに眼鏡が必要になった益男の視力が、これ以上どうなるというのだろうか。バカらしい話だ。 それから二人の会話は取り止めのない方向に舵を切り始めた。梓が現れるまでは益男はホームを離れられない。時間つぶしに付き合ってくれる雫石の存在はありがたかった。 そんな益男たちに近づいて来る、一人の少女の姿があった。それは梓ではなかった。 やけに目付きの悪い、切れ長の三白眼を持った、背の高い少女である。百八十センチを上回る益男と比べても、拳一つか二つ分ほどしか変わらないのではないか? ほとんど白に近い程脱色されたボリュームのある髪の毛を、碌に手入れもしていない様子であちこち逆立てたその姿は、鬣を生やしたライオンのようでもあった。 「おまえが遠野だな?」 女は言う。その女は益男たちの高校の制服を着用していた。見覚えがある。こいつは有名人だ。益男たちの学年きっての問題児童で、今時珍しいいわゆる『不良』のような少女だったはずだ。授業をフケ、服装や髪色の規定に従わず、しばしば暴力事件を起こす。確か、名前は……。 「あたしは梅里ハル(ウメザトハル)。サトリの連れだ」 梅里はそう言って益男の方を睨み付け、あまつさえその胸倉に手をやった。締め上げるように力を込められつつも、益男は冷静な表情で梅里を見詰め返した。 サトリというのは保延の下の名前だったはずだ。あの大人しそうな少女と、まさに正反対の存在と言って良い梅里が友人同士とは、何とも奇妙な組み合わせである。しかもこの穏やかではない様子では、どんな話題を仕掛けて来るか容易に想像が出来た。 「あたしになんか言うことはないのか?」 「何のことだか分からないな」益男は堂々とした口調で言った。 「てめぇがサトリを痴漢したことについての謝罪が訊きてぇんだよ!」 そう言ってますます益男を締め上げる力を強める。益男はそんな梅里の肘を掴み、自分の方へと強引に引き込んだ。梅里は思わず体勢を崩す。 その隙を突き、益男は己の身体を大きく捩るように動かし、その力で梅里の右腕の関節を極めた。益男の胸倉から梅里の手が外れる。益男は、力一杯梅里の腕を捻り上げた。 激しい痛みが梅里の腕に掛かっているはずだった。タップすれば当然開放してやるつもりだったが、しかし梅里はそうするどころか表情一つ変えることなく、尚も好戦的な表情で益男を睨み続けた。 「はん。変態の癖に。一丁前に合気道のつもりかよ」 「本で読んだだけだがな。これで極まっているんだろう? 大人しくタップしたらどうだ?」 「誰がするかよ。変態野郎がっ!」 そう言って、梅里は信じがたい行動に出た。 益男が右腕に力を込めているのと同じ方向に、梅里は自身の全体重を勢いよくかけたのだ。梅里の腕の骨が軋みを上げる。このままでは梅里の腕は折れてしまう。 益男は混乱した。梅里は自分の腕の骨を折ろうとしているのだ。益男は梅里の腕から手を放すよりどうしようもない。腕を折る度胸は益男にはない。 だがそれこそが梅里の狙いだった。 開放された梅里は、益男の顔面に容赦のないパンチを見舞う。益男はそれを、両手を開いて寸前で受け止めた。激しい衝撃が両の掌から全身に響き渡る。 凄まじい威力だった。梅里は益男を睨みつけつつも、今の応酬で益男が楽にボコボコに出来る相手でないと悟った為か、それ以上の追撃は仕掛けて来なかった。 「糞がっ」 梅里はそう吐き捨てる。益男は、恐ろしい物を彼女に感じていた。 梅里が自分の腕を折ろうとしたのは、益男に対するある種の脅しであったとしても、単なるポーズという訳でも決してなかった。益男が手を離さなければ、梅里の腕はぽっきりと折れてしまったに違いない。 益男は得体の知れない心地になった。この女は何をしでかすか分からないという恐怖感。だがそんなことは表面に出さず、益男は堂々とした口調でそう言った。 「保延を痴漢したのは俺じゃない」 「それは間違いありません。自分が証言するですよ。保延さんを痴漢していたのは、謎のスーツの男です、はい」 雫石が横合いからそう口にする。梅里とはちゃんとした面識がないのか、初対面の時にも見せた妙な敬語を使用している。 「そんなはずはない」 梅里は眉間に皺を寄せる。 「しかしぼくはこの目で見ているです。あなたはその場にいた訳ではないでしょう。保延さんの勘違いでは?」 「それは違うんだ。勘違いしているのはおまえの方」 「根拠はあるんですか?」 「……こいつを見ろ」 そう言って、梅里はポケットから取り出した四つ折りの髪を、雫石の前に広げて見せた。 益男はそれを覗き込む。既視感のある光景がその紙の上には広がっていた。 電車の中の情景である。実に写実的で、巧みな鉛筆画だ。相当な修練の元に描かれていることが一目で分かる。 既視感の正体は一目瞭然だった。これと同じ電車に益男は乗ったことがある。数日前に保延を痴漢した、あの電車の、あの瞬間の光景だ。違う物があるとすればそれは視界の高さや位置だろう。長身の益男はたいていの相手を見下ろす視点を持っているのに対し、その鉛筆画はほとんどの人物を見上げる位置から書かれている。 「この絵はなんだ?」 益男が尋ねると、梅里は益男に対する敵意を滲ませた表情で答える。 「サトリの描いた絵だよ。あいつは直感像素質者なんだ」 直感像素質……目にした光景を写真のように記憶できるという能力。 極めて珍しいとされるその体質の持ち主の多くは、絵画の才能にも優れている。何せ一度見た物を写真のように思い出せるというのだから、想起したその映像を紙に書き映すだけで、どんな風景画も思うがままだ。実際はそう簡単な物でもないらしいが……保延がそうした能力の持ち主と考えれば、一つ納得できることがある。 「これが最初、サトリが電車に乗っていた時の景色。……そしてこれが」 次に梅里は、もう一枚の絵を益男たちに見せた。 その絵には、絵の視点となる人物の胸元の位置に手を伸ばす、眼鏡をかけた端正な男が描かれていた。写真のようにくりぬかれたその風景の中に、益男という痴漢が『映っている』と言っても良いかもしれない。もしそれが本当に写真だったならば、それは動かぬ証拠としか言いようがないものだ。 「こと『目で見た』ものに限ってアイツが『勘違い』をするはずがないんだよ。一時間もやったら教科書をまるごと一冊分記憶して、その教科書を見ないまま、全てのページを別の紙に正確に書き映してしまえるような奴なんだぞ? そのアイツがおまえを痴漢と言うなら痴漢なんだよ」 あの如何にも自分に自信のなさそうな保延が、益男を痴漢と告発することに確信を持っていた理由が分かった。保延は自身の確固たる視覚的記憶能力を自覚していたのだ。 「だがそれがどうしたというんだ?」 益男はやはり堂々とした態度を崩さない。 「直感像素質だかなんだか知らないが、俺は痴漢をやっていない。それが全てだ」 「これを警察に持って行ってやろうか?」 「俺に止める術はない。……が、仮に俺が犯人だとしても、現行犯以外で痴漢を有罪にするのは極めて難しい。少なくとも、そんなものが何の証拠にもなりはしないのは明らかだ。無駄足になることを予告しておこう」 「…………下種が」 梅里は忌々しそうに吐き捨てると、最後に益男に向けて唾を吐きかけて、身を翻した。 「おまえに痴漢された電車の中で、昨日の教室で、サトリがどれだけつらい思いをしたと思っているんだ? 覚えていやがれ。必ずおまえに地獄を見せる。そしてサトリに謝らせるんだ」 そうして立ち去って行く梅里を、益男は冷静な表情で見送った。 「梅里と保延か……。まったくタイプの異なる二人だな。何故仲が良いんだ?」 「同じ美術部に所属しているらしいんだ。梅里さんは不良だけれど、美術に対しては真面目で、あまり人に理解されない画風を熱心に磨いているんだそうだ。で、その独特な画風を唯一理解出来て、本心から認めてくれるのが保延さんなんだって」 「……それであれだけ熱心に保延の敵を討とうとしている訳か。警察沙汰にするとまで口にしたな。まったく厄介だ」 「きっと大丈夫だよ」 気遣わし気な表情で、雫石が益男に告げた。 「益男の言う通り、現行犯でもなきゃ痴漢は捕まらないよ。保延さんの服に指紋でも残ってりゃ別だけど、でも彼女は痴漢された事実を忘れたがっていた。今更事件にするつもりもなさそうだったし、多分、服はもう既に洗っちゃってるんじゃないかな?」 「俺も同じ考えだ。……もっとも、確証はない以上、今夜は上手く眠れる気がしないがな」 「それとなく保延さんに探りを入れておこうか?」 「頼めるか?」 「もちろん。益男の安眠の為だしね」 頼もしく受けおう雫石に、益男は確かな友情を感じていた。 ○ 翌日。土曜日。 益男は雫石と共に駅のホームにいた。学校に行く訳でもないのに、二人の痴漢が連れ立って電車に乗ろうとする動機はただ一つ。痴漢をしに行くのに他ならない。 実際のところ、犯行に雫石を伴うことには大きなメリットがあった。肉体の性別が女性である雫石と共に行動している分には、益男が痴漢であると疑われる可能性は低い。また、万が一手を掴まれるような展開になったとしても、雫石に庇ってもらえば窮地を乗り切れる可能性は高い。 そうした計算があったからこそ、益男は雫石の誘いに乗り、二人組の痴漢として行動することを承諾したのだ。疑問なのは雫石の方のメリットだったが、これについて雫石は端的に。 「一人より二人の方が楽しいじゃん」 と屈託なく微笑んで答えるのだった。 雫石は教室では孤立しがちだった。ただでさえ女性の肉体に男性の精神を持っているのだ。偏見を持たない物でも接し方に戸惑ってしまうということは有り得る。雫石本人もそのことを理解しているのか、気さくに振る舞いつつも周囲からはやや距離を置いていた。 その所為か、雫石はかなりの割合で益男と行動を共にした。話してみると彼は利発でアタマの回転が速く、面白い奴で、同じ秘密を共有すると言う点を抜きにしても、友人として悪くなかった。 二人は並んでホーム内を『クルージング』し、相応しい獲物を見繕う。そしてターゲットの後を付けて同じ電車に乗り込み、代わる代わる痴漢を実行した。 雫石の行う痴漢は益男以上に過激なものだった。 何せ服の上からではなく、中に手を突っ込んで直接女体を触りに行くと言うのだから、あまりのことに益男は度肝を抜かされる。 端麗な女性の姿をした雫石がそのような方法でターゲットを辱める様子は、見ている益男の方も興奮を禁じ得なかった。益男がEDでなければ、間違いなく勃起してしまうだろうと思われる。 今も雫石は、部活動の帰りだと思われる健康的な肌を持つ女性のスカートに手を突っ込み、その太ももを撫でまわしている。戸惑ったように硬直し、あたりを見回す少女にお構いなく、雫石は腕をスカートのさらなる奥まで突っ込んだ。 「ひ……っ」 少女が静かな悲鳴をあげる。雫石はくすくすと含み笑いを漏らすと、少女のスカートの中から自分の手を引き抜いて、近くの座席に座る益男の方に見せる。透明な粘液の付着したその指を晒す雫石の表情は得意げだ。 ……参ったな。益男は感じた。自分にはここまで大胆なことは出来ない。余程自分の腕に自信があると言うのが見て取れる。 もっとも、今回は雫石にも保険があるのだ。ターゲットの近くの座席に腰かけて、立って痴漢をする雫石を見守っている。それでもし雫石が窮地に陥ったら、すかさず益男がフォローすると言う計画だった。 ……そのあたりは、まあ、持ちつ持たれつという奴だろうな。 万が一に備えて雫石を救い出すシミュレーションを行っていると、顔を真っ赤にしていた少女が意を決した様子で声を発した。 「この人痴漢です!」 益男は身構え、雫石を庇おうと口を開きかける。だが少女が掴んでいる手は雫石の物ではなかった。雫石のすぐ隣に立っていた、腹の出っ張った中年男の腕である。 中年男は裏返った声で、「ち、違います。わ、私じゃありません……」と釈明をしている。周囲の人物達は訝るような視線を中年男に向ける。 中年男は怯えたような表情で顔を伏せ、全身を震わせた。その様子を『図星を突かれて動揺している』と見て取ったのか、近くにいた青年が「いったん、電車を降りて話をしましょう」と口にした。 電車を降りていく三者の後を、益男と雫石は付けた。真っ青な顔で鉄道警察に突き出されていく中年男を見送ると、益男と雫石は顔を見合わせる。 「ぶっ。あはっ。あはははははっ」 「ふふふっ。ふふっ。ふはははははははっ」 声を揃えて、益男と雫石は腹を抱えて笑い合う。愉快でならない。 あの少女は自分に痴漢した人間を間違えたのだ! まさか女性である雫石が自分を触って来ているなどとは思わなかったのだろう。そして、腕が伸びて来る方向にいた人物の中で、もっとも『痴漢らしい』見た目をした太った中年男の手を取ったのだ。 もちろん、その少女をどれだけ調べても、あの哀れな中年男性に関する証拠は出て来ない。起訴をされることはないだろう。痴漢を間違えた少女と、大真面目な表情で中年の男を睨んでいた青年の間抜けさを思うと、二人の笑いはどこまでも高く弾けた。 「バカだバカだっ。あははは。あはははははははっ」 「これは愉快だ。本当に笑える。ふふふふふっ。ふははははははははっ」 その笑い声はいつまでも絶えることがなかった。 ○ それからも、益男と雫石は二人連れ立っての痴漢行為を楽しんだ。 放課後や週末などを利用したその背徳的な遊びは、他では得られない刺激を益男たちに齎した。助け合える共犯者がいれば安心感が違うし、互いの痴漢行為を自慢し合う楽しさもある。 秘密を共有することで、二人は急速に打ち解けて行った。何でも話せるような間柄になるのに、時間はかからなかった。 その中で、益男は自身が痴漢行為を行う動機について話しさえした。それは自身が勃起不全であることを告白することも意味する。痴漢行為後に必ず男性トイレに駆け込むことについて、事情を説明しておかなければならないと言うのもあった。 当時母親から行われた性的虐待についてさえ、益男は言葉を選びつつも説明した。気持ち悪がられることも覚悟したが、雫石は屈託のない笑顔で 「だったら、ぼくは親友として、君のED解消に協力するぜ」 などと請け負いさえした。 「ぼくは男だけど、生まれつきちんこ付いてないからね。自分の思うようなやり方では女の子と愛し合うことが出来ない。そのことについては葛藤があってね。だから益男の気持ちだって分かるような気もする。出来ることならなんでもするよ」 また別のある日、いつものように痴漢をした後、駅のホームで作戦会議を兼ねた休憩を形をしていた際、益男はこんなことまで問いかけてみた。 「不躾な話なんだが、君のお姉さんか親戚に、AVに出ていた者はいないか?」 その質問をすると、雫石は小首を傾げて、しかし不快に感じた様子はなく、 「姉さんでヌイたことある?」 と問い返して来た。 やはりか。益男は頷いた。雫石の容姿は、かつて益男が憧れ、繰り返し自慰行為に耽ったあの女優に酷似している。 益男は事情を説明した。母親に性的虐待されていた時、一枚だけ所持していたDVDのこと。それに写っていた美しい女優の姿がアタマから離れないこと。その姿に雫石が酷似しているのを、前々から気になっていたということ。 「雫石ありすっていうんだけどね。女なのに女らしくしようとしない、バグった不良品のぼくと違って、姉さんはしとやかで才色兼備で、お母さんからも可愛がられてた。でもね、その期待に押しつぶされたのかなぁ」 雫石の母親も、益男の両親に勝るとも劣らない程教育熱心で、子供には厳しい躾けを行う主義らしい。優秀故強い期待を向けられていた雫石ありすは、その重圧に耐えかね、高校時代に家出をして蒸発したのだそうだ。 「姉さんはいつも大変そうだったよ。成績から交友関係から何もかも管理されてさ。それまで本当に良く我慢した物だと思うけど……でもある日『私は母さんの人形じゃないの!』っていきなりブチ切れてさ。家を飛び出したんだ。それからどんな風に過ごしていたかというと、益男の知る通り、AVに出たりするほど自暴自棄で、貧した暮らしだったらしい」 雫石が小学三年生の時に蒸発した姉が、帰って来たのはその五年後になってのことだという。 「擦り切れたようになって戻って来たねぇ。精神的にも肉体的にも限界っていうか、病んでる感じがしたね。ま、高校在学中に飛び出して身体を売りながら生計を立てるなんて真似、繊細で潔癖で引かれたレールを歩くことしか出来ない姉さんには、そもそも無理だった。無茶に無茶を重ねて、ボロボロだった」 そう言って雫石は遠い目をする。 「でもお母さんは酷かったよ。そんな姉さんのこと、勘当して突き放しちゃったんだから。びっくりしたよ。この人は自分にとって都合の良い、言うことを聞く人形にしか興味がないんだって、ぼくは理解させられた」 そしてそれはぼくに対しても同じなんだ……と、雫石は憂いを帯びた表情を浮かべた。 「ぼくはそんなお母さんの元に残ったもう一体の人形なのさ。でもね、心身の性別がバグってる出来損ないでも、お母さんの前でだけちゃんと女の子らしくしてたら、人並みに可愛がってくれる。姉さんのことがあるまではそれでも良かったんだけれど……最近じゃそれにも疑問を感じるようになって来てね」 「もう少しの辛抱さ」 益男は言った。 「真正面から戦ったり、助けを求めたりすることだけが、おかしな親に抵抗する方法じゃない。耐える手もある。そして高校を卒業したら一人暮らしでも始めれば良い。そしたらその髪も刈り取って、男らしい男として生きれば良いんだ」 「ありがとう。……そうなったらぼくも、痴漢なんてやめられるのかな?」 そう言われ、益男は一瞬、答えに窮する。そして 「分からない」 と答えた。 雫石が痴漢をするのは、女であるように強要する母親に抵抗し、自分のジェンダーアイデンティティを確かめる為だそうだ。母親の手から抜け出すことが出来れば、痴漢を克服できるかもしれないと言う考えは理解できる。 だがしかし、それでも益男は自信を持ってその考えを肯定できなかった。 痴漢と言う行為はそれ自体が大きな魔力を秘めている。抵抗の出来ない相手を一方的に嬲りつけ、支配し、自身の欲望を満たす。その全能感は簡単に忘れられるものではない。 勃起不全の解消の為に痴漢をしている益男とて、本懐を遂げた後でその快感に抗える確信はなかった。もちろん自分のしていることが外道の行いであり、大きなリスクを孕んでいることは理解している。EDが治ったら、絶対にやめた方が良いに決まっている。そう分かっていても益男はしばしば、自分が生涯痴漢から足を洗えずに、やがて捕まって破滅的な人生を送るのだという恐怖に支配されることがあった。 「ねぇトーマス」 「なんだ?」 「トーマスはさ。まだEDじゃなかった頃、ぼくとそっくりな姉さんが痴漢されるAVでシコってたんだよね」 「その通りだ」 「ぼくの身体、触ってみる?」 益男は絶句し、目を丸くして雫石を見た。 雫石は本気の表情で、形の良い胸を益男に差し出した。 「痴漢なんてずっと続けてたらいつか捕まるだろう? トーマスだって、いつかはやめなくちゃいけないんだ。姉さんそっくりなぼくを痴漢したら、ちんこも勃つかもしれないぜ?」 途端に、益男の全身から下賤な欲望が沸き立ちそうになる。雫石の容姿はかつて憧れた女性と瓜二つだ。その誘惑に抗うのは並大抵のことではない。 男性の心を持ちながら、友の為女性の肉体を凌辱されることを良しとするというのは、相当に献身的な友情だった。だがだからこそ、そんな風に自分を思いやってくれる友人に、この醜い欲望をぶつける訳にはいかなかった。 「気持ちだけ受け取って置く」 強い精神力でそう言って、益男は雫石から目を反らした。 ○ 週に二回は、雫石と一緒に痴漢をしに行く。 その日も益男と雫石は駅のホームを歩き回り、変態的な視線をぎらつかせて獲物を見繕っていた。 その道中、一人の女性とすれ違った際、ぴくりと雫石が何やら反応した。 「あれ?」 雫石はそう言って小首を傾げ、後ろを向いて指先を突き出した。 「あの人、前もすれ違わなかった?」 そう言う雫石の指す方向を目で追うと、大きな帽子を目深に被った、黒い髪を持つ背の高い女性の姿が見えた。帽子を被っている所為で、背の高い益男には猶更顔は良く見えなかったが、言われてみると時間を問わず何度かすれ違ったことがあるような気がする。 「確かに何となく既視感があるな。……それがどうかしたのか?」 「……いや別に。誰かに似てるような気がするんだよね。何なんだろ?」 そんな会話を交わしたことも、二人はすぐに忘れてクルージングを続行した。 ターゲットに決めたのは、眼鏡と三つ編みが特徴的な肌の白い、唇の小さな中学生程の少女である。 今日は益男から先に痴漢をすることになっていた。尻を触った後、一時的に勃起した股間を押し付けるという構想を雫石に話すと、彼は悪戯少年のように笑って「良いねぇ」と囁いた。 電車に乗り込む。三つ編みの少女の背後に付けると、期を見る時間も惜しく益男は痴漢を開始した。驚いた様子であたりを見回しだす少女に、居場所を教えてやるように益男は執拗に尻を撫でまわす。 触り続けていればいつか俺が痴漢だと気付くのだ。だったら最初から、気付かれること等なんでもないのだと相手に教えてやった方が良い。そちらの方が相手に与える恐怖が強まり、痴漢を告発する為の心理的ハードルが高くなる。かえって安全というものだ。 むくむくと大きく成り出した股間を、構想通りに少女の尻に押し付けにしてやろうと身体を寄せた瞬間、益男の手が掴まれた。 三つ編みの少女の仕業かと思い、益男は近くにいる雫石に目配せをした。庇ってもらおうと考えたのだ。しかし雫石は絶句した様子で益男の背後をじっと見つめていた。 雫石の視線の先の方を見る。 益男の手を掴んでいたのは、三つ編みの少女ではなかった。大きな帽子を目深に被った、先ほどすれ違った黒髪の女性だったのだ。 「……やっと尻尾を見せたな。変態野郎」 その声を聞いて、益男はその女性の正体を知った。 そして絶望した。 女性は帽子を脱いで正体を現す。髪を黒く染め、帽子を目深に被ることで別人のように変装していた、梅里ハルがそこにいた。 「おまえが痴漢する様子をスマートホンで撮影させてもらった。もう言い逃れは出来ねぇぞ。……おい」 そう言って、梅里は怯えて戸惑った表情を浮かべている、三つ編みの少女の方に声を掛けた。 「こいつは痴漢の常習犯だ。サトリも……あたしの友達も被害にあってる。泣き寝入りしたそいつの為にも、こいつに罪を償わせない。勇気のいることだとは思うが、あんたがこいつにどんな目に合わされたのか、証言してはもらえねぇか? お願いだ」 そう言われ、三つ編みの少女は少しの間、逡巡するように沈黙した後……益男の方に憎悪の視線を向けた後、頷いたのだった。 ○ 3 ○ 「君を二週間の停学処分にする」 職員室に呼び出された益男は、生活指導の教師からその宣告を受けた。 「被害に遭った女性が、君の人生を考えて被害届を取り下げたことや、君の日頃非常に模範的な生徒であったことなどを考慮し、退学などの重い処罰は行わない。やり直せることを期待する。……だが、それが極めて寛大な処分であるということは分かっているな? 君は今回、退学になる可能性が十分すぎる程あった。万が一また同じことをしたら、君は家庭裁判所に送致される可能性が高い。……本当に理解しているか?」 「……はい」 益男は平にアタマを下げた。学年一位も経験した優等生であり、校則や法律を破るような真似など一度もしたことのない益男だけに、教師に叱責を受けアタマを下げさせられるというのは初めての経験だった。 退学も覚悟して来たことを考えれば、停学二週間というのは願ってもない軽微な処分だった。初犯の痴漢に与えられる罰則は、その行為の重さと比較して驚く程甘いと言うのは良く話題にされる。それは学生である益男にも当てはまることらしい。 「停学はたった今からだ。今日はもう帰りなさい」 教師からそう言って職員室を突き出され、益男は鞄を取りに行く為に教室へと向かった。 教室内はまさに針の筵と言って良い状態だった。誰もが益男のことを蔑んだような視線で射貫き、聞えよがしな程の声量で彼を攻め立てる囁きを発していた。 「最低だよな」「保延を痴漢したってのもマジなんだろうな」「と、なると雫石の証言は、ただの見間違えか? それとも……」「保延さん、可哀そう……」「俺、信じてたのに」「もう関わるのはやめようぜ、あんな変態」 思わず下を向きそうになるが、益男は強い精神力で背筋を伸ばした。決して楽しい物にはならないだろうが、それでもこれから数か月通い続けなければならない教室だ。弱気な態度を取る訳には行かなかった。 そう思い前を向くと、ふと黒板に大きく描かれている文字が目に入る。 『痴漢者トーマス』 それは益男を蔑む為に考えられた蔑称だった。これからの高校生活で常に背負っていくことになるその名が、妙にしっくりと益男の全身に染み入る。 バカげた駄洒落だ。しかし、何とも俺に相応しい称号だ。 益男は自嘲気な微笑みを浮かべる。すると 「益男」 背後から、涙に濡れた表情の梓の声がかかった。 梓は怒りと悲しみに塗れた様子で益男を睨みつけている。益男は胸が張り裂けそうな想いを感じたが、しかし掛ける言葉が見付かるはずもない。そう思い、沈黙して彼女の言葉を待った。 「……何か言って」 向こうから何か言ってくれるという見通しは甘かったらしい。追い込まれた益男は静かに頭を下げた。 「すまなかった」 「なんで謝るの?」 「君の信頼を裏切った。保延に対し、酷いこともさせた」 「保延さんには土下座をして謝った。ねぇ、益男。私、自分が立っている地面がなくなっちゃったみたい。兄さんが痴漢と疑われた時、信じてあげられなかった自分が本当に情けなくて、だから益男のことは絶対に信じようって思った。疑うことは悪いことだと思ったの。どれだけ疑われても堂々とした態度を取る益男が眩しくて、頼もしくて……でもそれは全部嘘だったんだね」 「俺は痴漢だが、お兄さんのことなら心配いらない。俺の経験則だが、冤罪を受けた者程、自信のない弱気な態度を取る。堂々としていることができないんだ。だから……」 「当たり前でしょう! あんたが兄さんのことを語らないで! この変態!」 そう叫び、息を切らした梓は、心を引き裂かれたような様子で弱々しくこう告げた。 「私達……別れよう」 「……分かった」 そう言って、益男は梓から、教室から背を向けた。 ○ 下駄箱で靴を取り出し、校舎を出た益男を待ち受けていたのは、大小異なるシルエットを持つ二人の女子生徒だった。 背の高いのは髪の毛を鮮やかな金髪に染め直した梅里で、背の低いのは指先同士を絡め合わせながらその隣に立つ保延だった。梅里は憎悪に満ちた表情で今にも襲い掛かりそうな様子で、保延は澄んだ表情で物静かに益男の動きを見守っている。 声を掛けるのも面倒で、益男は二人の前を通り過ぎようとした。 「待てよ」 案の定、梅里に呼び止められる。益男は二人の方に振り向いた。 「三人だけで話が出来るように、わざわざ教室からサトリを連れ出して来たんだ。おまえ、何か言うことはねぇのか?」 「……すまなかった」 こうやってアタマを下げるのは今日何度目だろう。最早その行為に付随するべき、謝罪の意思や屈辱の感情と言った物はすり減って久しい。 アタマを深々と下げた益男の顔面に、梅里が振り上げた膝が直撃する。目の前に火花が散ったような錯覚の後、益男は膝を着いてその場で蹲った。眼鏡が割れ、破片が瞼を傷付け出血を齎す。 「謝って済む問題かよ、この変態」 「ハルちゃん。やめて」 保延が落ち着いた声で制止を呼びかけた。 「けどよ……」 「もういいの。もういいんだよ。わたしにとっては済んだことだから。わたしの為に色々頑張ってくれて、本当にありがとうね、ハルちゃん」 そう言って、保延は梅里の手を引いて益男の脇を通り抜けていく。そしてそのすれ違い際に 「でも、もう絶対に他に被害者は出さないって、それだけは約束して」 芯の強さを感じさせる視線で益男を見下ろしながら、保延は益男にそう求めて来た。 「痴漢に遭うことをね、『大したことじゃない』っていう男の人はいる。女の人でも、経験のない人ならそう言うこともあるだろうね。わたしも自分が被害に逢うまでは、深く考えたことがなかった。けどね、それは本当にみじめなことなんだよ。酷いことをされているのに声も出せなくて、弱い自分が嫌で、独りぼっちで苦しくて……。だから、他の誰にも同じ目に遭って欲しくないの」 そう説いて聞かせる保延の肩に、梅里の手が優しく添えられる。保延はそれに力を貰ったように、強い意思の籠った言葉で益男に語り掛けた。 「あなたがそれを理解してくれるかは、本当は分からない。けれど、信じもせずにこんなお願いをするのはいけないことだから、わたしはあなたを信じようと思う。だからお願い。もう二度と痴漢はしないって、約束して」 痛みとショックの中で、益男は絞り出すように「……分かった」と口にした。だがそれは、相手の要求について真剣に向き合っての返事ではない。ただその場を収める為、言わなければならないことを言ったのに過ぎなかった。 保延は小さく頷くと、「信じてるからね」と言い残し、梅里と共にその場を立ち去った。 益男が立ち上がることができたのは、二人の姿が校舎の中へと消えてからだった。 ○ 家に帰り付くと、益男は無造作に鞄を放り投げ、着替えもせずにベッドへと大の字で倒れ込んだ。そして自身の置かれた状況について考える。 ……全てを失った。 平穏な学校生活も、周囲からの評価も、取り戻したはずの青春も、全て。 痴漢と言う行為も、勃起不全を解消するという夢も、益男は失ってしまったと言えた。何せ初犯かそうでないかで、痴漢に対する裁き方は大きく異なる。人生を台無しにしない為にも、益男はもう二度と痴漢が出来ない状況に陥っていた。 いや……本当にそうか? ふと、そんな疑問が益男の頭をもたげる。 確か二、今度痴漢をして発覚すれば、家裁送致と言う可能性が現実味を帯びて来る。だがそれはバレた場合の話。勃起不全を解消するまでの間の何回かの痴漢行為、この間だけ法の目を掻い潜ることができれば済む話ではないか? 勃起不全を解消することは益男の悲願だ。そう簡単に諦められることではない。ここはリスクを取ってでも……。 そう考えていた矢先、家のチャイムが鳴った。 緩慢な足取りで玄関へと向かう。雫石がいた。 「トーマス。気分はどう? 大丈夫?」 そう言う雫石の表情は、益男に対して気遣わしげだった。 「何をしに来た?」 「心配で見に来たんだよ。今のトーマスの味方ってぼく一人くらいだろう? 話を聞くくらいなら、出来るかなと思って……」 全てを失ったものだと思っていたが、思えばこの友人だけは益男に残されている。以前から益男を痴漢と知っている彼は、現在の益男の唯一の味方だった。 「分かった。ありがとう。入ってくれ」 そう言って、益男は雫石を自室へと案内した。 ベッドに座らせ、飲み物を用意する。そして益男は雫石の隣に腰かけた。 こうして一つのベッドに腰かけていると、雫石に対して妙な感情が湧きそうになる。 何せ雫石の外見は、かつて益男が憧れた女優と瓜二つなのだ。ついその形の良い乳房やメリハリの効いた身体のラインに目が行ってしまう。しかし相手の精神の性別が男性であることなどを思い出し、益男は目を反らした。 「…………痴漢、やめられそう?」 雫石は漏らすような声でそう尋ねた。 「今度バレたら停学じゃ済まないよね? もうおしまいにした方が良いのは、益男ならきっと分かるはず。それはできそう?」 「……分からないな」 つい先ほどまで、バレなければまた痴漢をして良いと考えていたことを思いだし、益男は溜息を吐いた。 「俺のEDは治っていない。目的を達せていないんだ。それを諦める訳には行かないが、しかし痴漢を続けるリスクも理解している。君が俺のことを心配してくれているのは理解できるが、その上で正直に打ち明けると、リスクを取ってでも痴漢を続けたいという想いは拭いきれない」 「そっか……。だったらさ」 雫石は益男の手を優しく掴み、自身の乳房へと押し当てた。 今まで痴漢して来たどの女性よりも柔らかく、弾力のあるその感触に、益男の全身が反応した。血液は熱さを増し、下半身が鼓動を始める。流れを強めた血流が下半身に集まり、股間を固くさせようとする。 「雫石……何を」 「ようは、益男のちんこが勃起できるようになれば良いんだよね? そうすれば痴漢をせずに済む。ぼくが協力するよ。身体は女なんだ。服の上から触るくらいなら、全然構わないよ」 この男は何を言っているんだ? 股間を固くしながら、益男は目を見開いた。 雫石は自身の肉体と精神の性の違いに悩むあまり、痴漢と言う行いに手を染めなければ、自分を自分と認識できなかった。そうまでして、自身が男性であることを確かめざるを得ない程、彼は自身のジェンダーアイデンティティの混乱に苦しんでいたのだ そんな彼が、益男を救う為に女の身体を、自身の性を捧げるなどと。それがどれほどの献身であるのかを、益男にはすぐ理解できた。それは雫石にとってとてつもなく苦しいことのはずだった。だがそれでも益男の為ならば構わないと、雫石は言ってくれているのだ。 だからこそ、益男はその手を離さなければならないはずだった。そんな風に益男を想ってくれる友人を苦しめる訳にはいかない。 益男は確かにそう思った。だがしかし……今の疲れ切った益男では、膨張した己の股間に抗うことが出来なかった。 雫石の顔を見詰める。見れば見る程『彼女』にそっくりだ。初めて見た時から本当は分かっていた。勃起不全に陥った自分が、心から本当に求めていたのは、この美しい顔と肉体だったのだ。 いくら痴漢を重ねても、益男のEDが治らなかったのはその所為だ。この顔と肉体でなければ益男のEDは治らない。母親から奪われたAVの、母親から奪われたあの女性の淫らな様を、取り戻さない限りは益男の性的能力もまた復活しない。 思わず、益男は雫石をベッドに押し倒す。そしてその全身を、作法も加減も分からないまま、獣のように愛撫した。益男の様子が変わったことを見て取った雫石は、すぐに恐怖を表情に浮かべさせて叫ぶ。 「ちょっと益男。あの、ぼく、そこまでして良いとは……」 「うるさい!」 そう言って、益男は雫石の着ている衣類を強引にはぎ取って行く。雫石は最初抵抗を試みたが、頭一つ分の体格の差のある二人の腕力には歴然とした違いがあった。 「俺は絶対にちんこを勃たせないといけないんだ! そうしなければ、母さんに奪われた物は絶対に戻って来ない! あの支配される恐怖に、屈辱に、打ち勝つことはできないんだよ! その為ならば俺はどんな酷いことでもやって来た! あらゆる女を支配して来たんだ! おまえのことも例外ではないんだよ!」 スカートを剥ぎ取り、ショーツを奪う。初めて生で見る女性器の姿に、ただでさえ硬化し切っていた益男のペニスは、カウパー液を滴らせながら激しく隆起する。本懐を果たすその時が来たことを、益男の全身が悟ったのだ。 「あーあ。……益男を信頼していたから、言ったことなんだけどな」 そう言って、雫石は自分の顔を両腕で覆った。溢れ出す涙を隠そうと、顔を隠して俯いたのだ。 「……これは報いなんだろうね。自分の都合で女の子の尊厳を無茶苦茶に踏みにじって来た、その報い。これまで女の子たちの身体を弄んで来たのと同じだけ、ぼくの身体もぐちゃぐちゃに汚されちゃうんだね」 雫石はぞっとするほど悲し気な声でそう言って、諦めたようにぐったりとする。男の精神を持ちながら、女の身体を男に犯されるというのが、どれほどの苦痛を彼に齎すのかは容易に想像できる。益男は自分が途轍もなく大切な物を台無しにしようとしているのを感じていた。 ……いいさ。もう、どうせ俺は全てを失ったんだ。今更何をぶち壊しにしたところで、何だと言うんだ? そんな自暴自棄な感情のまま、益男は自分の腰を雫石に絶えず打ち付ける。 最後に残ったガラス玉が、無残に砕け散る儚い音を、益男は耳にしたような気がした。 ○ 勃起したペニスを掴んだ右手を、激しく上下に動かす。そうしていると、やがて擦り切れて目減りし切った微かな快感が股間に訪れ、力なく脈打った後限りなく薄い精液を僅かに吐き出す。 何時間でも何日でも、益男はそんなことを続けることが出来た。寝食を忘れ、日が暮れては昇り、そんなことにも気付かないまま、益男は無心に己の股間をいじり続けた。 「……益男」 男の声がする。益男の父親だ。 「……いつまでやっているんだ。今日は停学が明ける日じゃないか」 益男は意に介さなかった。頭ではその声に応じなければならないと分かっていたのだが、それ以上に自分のペニスに夢中だった。かつて失って、それからずっと追い求め続けて来た、そして返って来たこの感触を手放せなかった。 「いい加減にしなさい! 益男」 肩を強く突かれ、益男ははっとした。振り返ると、嫌悪感に満ちた表情で自分を見下ろす父の姿があった。 「…………被害者に示談金をたんまり詰んで被害届を取り下げさせてまで、高校に通い続けられるようにしてやったんだ。支度して学校に行きなさい。……今すぐに!」 益男は緩慢に起ちあがり、父の言うことに従った。 自慰行為を続けた陰茎は摩擦であちこち裂傷を起こし、ひりひりとした痛みを益男に齎した。勃起不全が治った喜びと、すべてを失ったという自暴自棄な気持ちから、益男はこんな状態になるまでオナニーを続けていたのだ。 碌に身だしなみも整えないまま、益男はいつもの駅のホームに向かった。 そこで立ち尽くし、待ち続けていても、梓が彼の元へ現れることはない。益男は汚らわしい痴漢なのだ。その事実は学校中に周知されている。今も、同じ電車を待つ同じ高校の生徒達から、囁くような声が益男に届いている。 「あいつがトーマス?」「うん。痴漢者トーマスだって」「誰が考えたんだよ、それ」「知らない。でも誰にでも思い付くよね?」「その痴漢って言うの、本当なの? 冤罪とかじゃなくて」「停学になっていたんだろ?」「じゃあマジじゃん」「キッショ」「変態じゃん」「生きる価値ないよ、あんな奴」 「うるさい!」 益男は怒鳴った。周囲で囁いていた人間達は、益男のその剣幕にそそくさとその場を離れて行った。 電車が到着し、益男はそこへ乗り込んだ。 吊り革に捕まって電車に揺られながら、益男を蔑む囁きを聞かないように、意識して外の景色を注視する。益男はたとえようもない程孤独な気分になった。 そんな中で思い出すのは、益男の身を案じてくれた唯一の友人の顔だった。 行為が終わった後の、心臓が凍り付くような重苦しい沈黙の中で、涙を流して雫石は黙って家を出て行った。 それを見送って、益男は自分のしたことに打ちのめされた。 益男は雫石をレイプした。例え勃起不全を治す為に必要なことなのだとしても、それは雫石を失ってまで成し遂げることだったのか。例え一生涯EDが治らないのだとしても、それははたして、今の自分よりも幸せだったのか……? 電車に揺られながら、唯一の友を失ったこの先の日々を想うと、益男の全身におぞましい程の憂鬱がのしかかって行く。 ……この先の高校生活、益男の味方になってくれる者は一人もいないだろう。母親に打ち勝ち、手に入れた青春は最早どこにもない。完全なる孤独に身を落とし、益男は絶えず周囲から蔑まれ、笑われ、軽蔑されながら、とるにたらない人間として粗末な扱いを受け続けるのだ。 そう想うと、益男は、自分の中に眠っていた暗い衝動が、禍々しい産声を上げながら身を起こすのを感じ始めた。 痴漢が行為を働く理由には様々な物があるが、良く言われるのは日常の不安やストレスに対するコーピング(対処行動)であるという。つまりは鬱憤のぶつけ先だ。 迫害される者、孤独な者、社会へのアプローチの能力を欠いている者。そうした人間達は、常に何らかのストレスに日々晒されている。それらは解消されることなく彼らの中に降り積もっていく。彼らは常に自分の価値を確認する手段に飢えていて、その為に何かを達成したくてたまらないのだ。 だから、彼らは痴漢をする。 痴漢行為に伴うスリルや、必要な創意と工夫、そして最後までやり遂げた際の達成感を、益男は良く知っている。その感覚は、『満たされない男』達に至上の幸福をもたらすだろう。 それでも以前の益男が行う痴漢行為には、『勃起不全を治す』という明確な目的があった。痴漢行為が発覚せずにそれを果たすことができれば、目的と手段が入れ替わることなく、益男は痴漢をやめられた可能性もあった。そこには恋人も友もいて、晴れやかな青春が広がっている。コーピングの手段など、必要がない。 だが……今の益男はどうだろう? 全てを失い、周囲から笑い者にされ、蔑まれる為に学校に通わなければならない。その状況から脱しようとどれだけ努力したところで、おそらくは無駄だろう。憂鬱と孤独だけに塗れた日々が、益男には必ず訪れるのだ。 「そしてそれは、俺が痴漢をやめようがやめないが、同じことだ」 益男はそう呟いた。そして、周囲に目を配る。 ターゲットとなる女性は別に誰でも良かった。性欲すら今の益男は感じていない。ただただ自暴自棄な心理状態が彼を支配していた。 痴漢の再犯率は他の性犯罪と比べても飛びぬけて高いという。それは、痴漢が発覚した後の加害者を取り巻く環境が、ストレスに満ちた物に成りやすいからだという。ストレスに晒された加害者はそれを解消すべくコーピングの手段を求め、自暴自棄な心境で再度痴漢を犯す。その連鎖を断つのは容易なことではない。 一人で吊り革を持って立っている少女に、益男は狙いを付けた。容姿を良く確認した訳ではない。ただ、痴漢をしたかった。培った手腕で鮮やかに痴漢を働き、女性を支配する。そうすることで益男は、自身の存在を、価値を、確認しなければならなかった。 益男は少女に近づいて行く。少女は益男に気付かない。 ちょうど良い距離まで近づいて、益男は少女の身体を観測する。特筆する程優れた容姿ではないが、尻の形は良い。 益男はゆっくりと邪な触手を伸ばそうとした、その時。 「待って」 声がした。 「この一回を耐えるかどうかが大切だよ。自分の意思でその手を引っ込めるんだ。今が、今こそが、トーマスが痴漢をしないトーマスになれるかどうかの分水嶺なんだ」 耳元でささやかれたその声に振り替えると、そこには雫石がいた。 彼は以前までの雫石とは違っていた。まず、髪が短くなっている。あんなに長く鮮やかだった髪が、男子としては平均的な長さにまで切られている。そして着用しているのも、女性用のセーラー服ではなく、益男と同じ学生服だ。 「トーマスは痴漢を咎められて、報いを受けた。勃起不全を治して、これまでの痴漢の目的もなくなった。今この一回を我慢すれば、きっと君は痴漢をやめられる。ぼくは君にそうなって欲しいんだ。頑張ってトーマス。お願い……」 そう言われ、益男ははっとした。自分の伸ばそうとしていた腕を引っ込めて、慌ててその両方を吊り革へとぶら下げる。 ……俺はいったい何をしようとしていたんだ? 益男はこれまで自身の勃起不全の解消の為に痴漢行為を働いて来た。それが正当な理由であるはずもないが、しかしそれが許されないことであり、本懐さえ遂げれば足を洗うべきだという想いは持っていたはずだ。 それを理解して、雫石は益男に身体を触らせようとしてくれた。その後の経緯はともかくとして、実際に益男は勃起不全を解消した。雫石を犠牲にして、益男は一度は自身が痴漢をする理由を捨てることが出来たはずなのだ。 だというのに、益男は自暴自棄になるあまり、自分を傷付ける為だけに痴漢に及ぼうとしてしまった。それは本当に愚かなことだった。 愕然としている内に、電車は目的地へと到着する。呆然とする益男は半ば雫石に引き摺られるようにして、電車を降りた。 ○ 「危ないところだったね」 そう言って、雫石は益男に微笑んだ。 訳が分からなかった。何故雫石は、あれだけのことをした益男にこうも屈託なく微笑むのか。そして何故雫石は、髪を切り、服を替え、まるで心身ともに男であるかのような装いをしているのか。 「……あの後ね。ぼくは、自分が痴漢であることをお母さんに……学校に打ち明けたんだ。警察にも連絡が行ってさ。ぼくに対する被害届は出ていなかったから、まだ事件にはなっていないんだけど……。それも時間の問題かもしれないね」 「何故そんなことをした?」 「理解したんだ。自分がどれだけ罪深いことをしていたのかを」 雫石はそう言って、益男の目をしっかりと見て語り出す。 「ぼくは男の心と女の肉体を持っている。女性に対して痴漢をしたがる男性の心と、そして、男性に踏みにじられうる女性の肉体を共に持っている。そしてトーマスに慰み者にされてみて……被害を受けた女性の気持ちを、ぼくは理解できたんだ」 痴漢をやめられない人物の最大の難点は、何といっても被害者に対する共感性の欠如だ。痴漢は基本的に『やられる立場』のことを想像しない。想像しないから痴漢ができる。どんなに酷い手段で被害者の尊厳を踏みにじっても、平気でいられるのだ。 しかし女性の身体を持つ雫石は、世にも珍しい『自身の体を凌辱される気持ちを生身で体感した痴漢』だった。それも、信じた友からレイプを受けるなどと言う、凶悪な荒療治によってそれを理解したのだ。 「だからもうぼくは痴漢をやめた。痴漢なんかで、自分が男であることを確認するような、くだらないことはやめたんだ。そしてお母さんと直接対決を試みた。髪を切って男の装いをするようにしたんだ。正直に言うと今も戦争中さ。今日も返ったら朝まで口論しなくちゃいけない。でも……」 雫石は堂々とした表情で胸を張った。 「ぼくはそれで良かったと思っている。ぼくは完全な男として、痴漢をしない自分に生まれ変わる。トーマス、君もそうなるべきだ。何よりも、君自身の為に。その為に……ぼくは協力を惜しまないよ」 「……何故だ?」 益男はそう言って、その場で崩れ落ちた。 「何故俺に優しくできる? 俺は君をレイプしたんだぞ?」 雫石をレイプした時、益男は最後のガラス玉が砕けるような音を聞いていた。あれは、何もかもを失った自分に最後に残された雫石との友情を、自分自身の手で台無しにした音だったはずだ。 雫石は益男を信頼していたからこそ、身体を触らせることまでを許してくれた。それだけでも、女の身体を忌んでいる雫石には、おぞましいことだったに違いない。その勇気を、献身を、益男は無茶苦茶に踏みにじった。泣きじゃくる雫石をレイプして、彼の尊厳と想いを凌辱したのだ。 とうてい許されることではない。 それなのに……今雫石は、再び益男の前に現れて、益男を救おうとしてくれている。手を差し伸べてくれている。 「……酷いと思ったよ。でもさ、そもそもぼくが君に身体を触らせたのも良くなかったし……それに」 雫石は益男と視線を合わせて、その肩を優しく掴んだ。 「君はぼくと同じ魂を持つ兄弟のようなものだ。同じように母親からの支配に抗い、それと戦う手段のつもりで、同じ過ちを犯した。何をされたって何を奪われたって、嫌いになることなんてできないよ。一緒に戦おう。……今度はより正しいやり方で。より正しい自分になる為に」 雫石はポケットから一枚の用紙を取り出し、益男に差し出した。 「ここに、痴漢の再犯防止用のプログラムの案内がある。ここに通って、自分を見つめ直して痴漢をしない自分を作って行くんだ」 「……良いのか? 俺は……君に許されて良いのか?」 「構わないよ」 雫石はそう言って微笑んだ。 この友人は益男に痴漢を克服させるために己の身体を差し出した。そうすることで益男の勃起不全を解消させたのだ。にも拘らず益男は再び痴漢に手を染めようとした。 その愚かしさを、救えなさを、雫石は己の目で目の当たりにしたはずだ。にも拘らず彼は益男を見捨てようとしない。益男が痴漢で無くなれることを信じて、共に歩もうとしてくれる。 「すまない。本当にすまない。そして……ありがとう」 益男は泣き崩れた。そしてこの友人の想いに答え、二度と痴漢をしないことを心に誓う。 そうしなければ嘘だ。このあまりにも献身的な友情に応えられないのなら、それはどんなおぞましい痴漢にも遙かに劣る、外道以下の屑に過ぎない。 「俺は痴漢をやめる。君と共に、更生の道を歩く。約束するよ」 「ありがとう、益男。これからぼく達が歩む贖罪の道は決して楽な物ではない。だからこそ、大きなストレスに晒されて再犯の誘惑にかられることもあるだろう。だとしてもぼくは益男のことを信じているよ。励まし合いながら、支え合いながら、二人で一緒に頑張ろう。ぼくは君のことを大好きな君の味方だよ、トーマス」 言いながら、雫石は泣きじゃくる益男の身体を抱きしめる。 嗚咽を上げ続ける中で、益男は己の心が洗い流されていくのを感じていた。 |
粘膜王女三世 2021年05月02日 22時59分30秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年06月03日 02時01分06秒 | |||
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Re: | 2021年06月03日 01時15分19秒 | |||
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Re: | 2021年06月03日 00時38分17秒 | |||
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Re: | 2021年05月25日 02時06分48秒 | |||
Re:Re: | 2021年05月26日 00時08分13秒 | |||
合計 | 9人 | 180点 |
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