ジルタ=アノスの終焉 |
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瓦礫の合間を縫うように、無数のケーブルが繁茂している。 多種多様な機器が吐き出しては飲み込むそれらが、あるところでは絡み合い、延び、あるところでは途切れている。それはちょうど街に張り巡らされた毛細血管のようでも、軒先を奪い合う蔦や蔓薔薇のようでもあった。けれど仕えるべき主人を失って久しい現在、その光景は意識を抜かれた標本と言うより他はない。街は静寂の中に、頽廃の中に暮れ泥む。屍体にも似た夕焼けに姿を浮かび上がらせながら、脈動を止めた血管がかつての楽園を覆い尽くす。 そんな光景の中心で、ジルタ=アノスは考える。――あと少し。あと少し。 錆び付いた希望は相も変わらず希望であって、幾千の夜を越えたとしてもそのことに変わりはなかった。だから夜毎に考える。あと少し。もうあと少し待てば、きっと彼らは私のもとに帰ってきてくれるのだから、と。 繋がれたシナプスの発火が無自覚な投影を果たすように、浅い微睡みの中で無意識に欲望を代替するように、ジルタ=アノスは夢を見る。それは大抵、とうの昔に通り過ぎていった、忙しくも懐かしい日々の夢だった。 通りを行き交う行商人。 民家から立ち上る笑い声。 無邪気に走り回る子供たち。――かつて現実にあったはずの光景が、無秩序で忙しないモンタージュのように脳裏を流れていく。 日の光に照らされたそれらの記憶は、しかし目覚めと共に消え失せる。積み重なった瓦礫と静寂とを一瞥し、その度に喜びに深い失望が取って代わる。それでも彼女は、飽くこともなく幾千回とその日課を繰り返し続けていた。 あと少し。……あと少し。 そうして夢は重ねられる。また宵闇が街を飲み込む。 やがて訪れる朝焼けに、沈黙が破られるその時まで。 1 煉瓦に手を掛けると、体重を乗せて強度を確認する。 「よっ……と」 そのまま軽い身のこなしで跳び上がり、凹凸を頼りに瓦礫を乗り越える。大した労力を費やしたわけではなかったが、この先何度も同じようなことがあるのでは、と考えると流石に気が滅入った。反対側の路上に下り立つと、シンは小さく溜息を吐く。……できればこれっきりにしてもらいたいものだけど。 予め投げ落としておいたバッグパックを肩に負い、歩みを再開させる。カーキ色のカーゴパンツに編み上げのブーツ、上半身にはジャケットと手袋。頑強な出で立ちではあるものの、当の本人はどちらかと言えば細身で、顔立ちからは中性的な雰囲気すら滲んでいた。年の頃はようやく二十に達したというところだが、それに反して前髪から覗く瞳は物静かであり、どこか学者然とした印象も受ける。 陽は大分弱まっているものの、辺りはまだ明るい。 規則的に石材の敷き詰められた歩道はところどころ罅割れ、合間からはツルナやハマユウガオといった海岸性の雑草が顔を出していた。場所によっては地面が見えないほどに群生しており、この道を使う住民の不在を如実に示している。 両脇に佇む民家の中にはどこかしらが崩れ落ちているものも少なくはなく、そういった部分はほぼ例外なく、吹き付ける風によって浸食され始めていた。そんな光景の最中に歩を進めながら、シンは思う。……こんなにも変わるものなのか。 この場所には、時間がない。 いや、時間の不在がある、と言った方が正しい。 本来なら街の底に流れているはずの生活のリズムがここにはなく、目に見えて時の流れを指し示しているのは移ろいゆく陽射しくらいのものだった。その時間性の「なさ」に加えて、目の前に広がる都市の現状。予期していなかったわけではないが、それはシンの想像とかなりの隔たりがあり、故に動揺せざるを得なかった。 逐一視界を経巡る視線が、想像とのギャップがここでは時間だった。つまりはひどく個人的な、あるいは感傷的なものだった。シンは歩きながらそのことに気付いてハッとし、無用な考えを追い出すために軽く頭を振る。 そうこうしている内に、高台へと続く石段に差し掛かる。 足元に注意しながら一歩ずつ上る。その度に決して軽くはない重量が肩へと圧し掛かり、先に拠点を決めておいた方が良かったかも知れない、という後悔が脳裏を掠めたが、ここまで来ておいて今更引き返すのも馬鹿らしい。何より、遅かれ早かれ来なければならないのだから、完全に日が落ちてしまう前にここだけは確認しておきたかった。 石段に沿って大小様々なケーブルが増え始め、道の先にある施設の性質を暗に示している。大半は劣化によって役割を果たせそうにもなくなっていたが、勿論絶対ではないし、まさか街中に張り巡らされたケーブル全てを確認するわけにはいかない。電源の有無を確かめるには、大元から調べるのが手っ取り早いと言えた。 電源の有無。 即ち、異常の有無。 バッグパックの重みに四苦八苦しながらも石段を上り切ると、視界が急に開け、目指していた施設が姿を現す。 今までの雰囲気とは一転変わった近代的な設備。シンは汗を拭いながら、上ってきた道を何とはなしに振り返り、そして目を瞠る。 ――防壁に囲まれるようにして、波間に浮かぶ円状の都市。一個の要塞のようでもある街の中心には白亜の塔が聳え立っており、今なお見る者に自らの威容を知らしめている。そしてそこから連なる家々の屋根。薄く茜に色づく街並み。それらの光景は夢か蜃気楼でも見ていると疑いたくなるほど、あまりに現実味のない景色だった。 でも、俺は確かにここにいる。 その自覚を噛み締め、シンは呟く。 「……やっと、ここまで」 機械都市、ジルタ=アノス。 かつて有数の繁栄を誇った、海上の商業都市だった。 生物工学。 半導体産業。 エネルギー事業。ジルタ=アノスに破滅と発展をもたらしたのは、大きくこの三つが要因だった。すなわち都市の根幹にも関わる科学技術である。 立地の都合上陸路での輸送はそれほど発達していなかったが、海路を用いた貿易は国内でも一、二を争うほど秀でていたと言える。有形無形問わず市内で生み出した「製品」を市外へと輸出し、対価として富は勿論、文化なども積極的に招き入れる――そうして集められた財の蓄積が誘蛾灯のように人々を呼び寄せ、呼び寄せられた人々の手によって更なる発展を遂げた。 特にエネルギー事業に関しては当時最先端の技術を保有していたこともあり、自領域内の電力を賄うばかりか、売買によって財政上無視のできない利益すら生み出していた。発電量に関して言えば、街が位置するN市全体に行き渡るほどに。故に、機械仕掛けの太陽。それが当時のジルタ=アノス、あるいは中央塔に対する呼び名の一つだった。 今やその繁栄は跡形もなく、喧騒に代わって静寂が通りを満たしている。 街並みはすでに暮れ泥み、あと半刻で歩くのも覚束なくなるに違いなかった。高台を下り、路地を歩いていたシンは心持ち足を速める。……早く拠点を決めないと。 大通りを逸れ、かつて住宅地だった一角に足を踏み入れると、目の前に小さな円形の広場が見えてくる。中央に水の枯れた、大人の背丈ほどの噴水を抱いており、この付近ならば迷うことはなさそうだった。それに、何か具合の悪いことがあっても明日また新しく探せばいい――とにかく今は、今夜の寝床を確保するのが先決だ。 結局は広場に面した民家の一つを間借りすることにする。玄関に入ると、埃が積もっていること以外、それほど中の様子は悪くなかった。入ってすぐのリビングに簡素なテーブルと椅子が数脚。加えて窓から広場を見渡すことも可能で、直感で選んだにしては申し分ない。 バッグパックをテーブル脇に下ろし、今日はこのくらいにしよう、と椅子に腰かける。明かりとなるものは持参して来ているものの、ただでさえ障害物の多い街中だ、完全に日が暮れてしまえば移動にすら困難が伴うようになるだろう。それを分かっていたからこそ、シンとてここまで遅くに戻る予定ではなかった。 「…………」 問題は、施設に異常が発見されたことにある。 施設――変電所。 発電されたエネルギーはそのまま家庭用電源に利用できるわけではなく、どこかで電圧や周波数の調整を経て「電力」に加工される必要がある。そうでなければ家電の一つも動かすことができないばかりか、素のエネルギーは危険ですらある。 その加工を担うのが変電所であり、逆に言えば、変電所の稼働の有無が――少なくとも個人で利用可能な範囲での――電力の有無を左右する。たとえ発電所自体が稼働していたとしても、調整がなければ利用することはできない。変電施設とは言わば日常生活のバロメータの一つであって、人間の生存確率を大幅に上げる指標でもある。 ……施設は稼働していた。 シンの視線が険しさを帯びる。 より正確に言うなら、「ごく最近に」稼働した痕跡があった。勿論、設備がひとりでに作動することはない。たとえ誤作動だとしても、何らかのきっかけが必要だ。この事実が意味するところで、思い当たることはただ一つ。 誰か、いるのか。 しかし、誰が一体、どんな目的で。 すでにこの街は人間が暮らせる状況にない。定期的に食料を調達できる手段でもない限り、自分のようにごく短期間の滞在を試みるのが関の山だ。それ以前に普通は滞在する理由がない。わざわざ労力を費やして設備を動かすほどの動機に関しては、尚更。 仮にどこかの犯罪者が潜伏先として選んだのだとしても、変電所の起動などといった大規模なことをすれば、足がつく可能性を大幅に上げてしまう。第一、専門知識でもなければ普通の人間にそんなことができるとは思えない。一体これはどういうことなのか――そこまで考えて、シンは椅子の背にもたれかかった。 「……何か見落としたんだろうな」 オレンジ色に染め上げられた部屋の中、天井を仰ぐ。 自分に対して苦笑いを漏らす。……きっとそういうことなんだろう。 施設の稼働がおよそ現実的でない以上、最も考えられるのは俺のミスだ。明日また、明るい時間帯に再調査しなくちゃならない。それなら今日は休むに限る――そう自分に言い聞かせると、不意に左腕へ疼痛が走った。 楽な姿勢をとったことで何かしら刺激されてしまったのかも知れなかった。顔を顰めながら荷物の中からいくつかの錠剤を探し当て、持参したミネラルウォーターで飲み下す。ついでに小型のランタンも取り出し、やがてやってくる夜更けに備えた。 夕暮れの部屋。 廃墟の静寂。 しばらくじっとしていると痛みは治まり、代わりに空腹を覚え始める。考えてもみれば、朝からほとんど何も食べていなかったのだった。……それにしても、いつまでこの痛みに付き合わなくなくちゃならないのか。シンはげんなりした様子で何とはなしに窓の方へと目を向け、 そこで、視線は凍り付いた。 「は……?」 白い影。 時間さえ胡乱な黄昏の中で、くっきりとした双眸が身じろぎもせずにシンを見つめていた。 シンもまた、動くこともできずに相手を見つめ返す。この邂逅には明らかに秒数以上のものがあった。ずれを見出す主体の感傷としてではなく、不意打ちとして引き延ばされた非現実の時間。一切の予期も組み立てられることがないままに、しかし奇妙な平衡が保たれた場面の持続。 猫。 それは夕焼けに照らされていて尚、あまりに白い小さな猫だった。 やがて彼女の方が、ぴょこり、と動く。 ――次の瞬間、シンは弾かれたように立ち上がっていた。 「待て!」 反動で椅子が倒れ、けたたましい音を立てることも気にせずに、軒先を潜り広場へと躍り出る。急な動きに驚いたのか逃げ出していく猫を見、自分の判断ミスを呪いつつも駆け出す。……くそ、静かに近づけばよかったじゃないか! 向かって左手、円の一辺から延びる路地へと影は逃げていく。後を追っていくとそこは薄暗く、急なカーブを描いて建物の陰へと行き先を眩ませていた。だが見たところ一本道で、脇に入り込めるような隙間もない。 猫は間違いなくこの先へと逃げて行ったはず。下手に分かれ道の多い通りを逃げられるよりもむしろ追いつきやすい――しかし辺りはすでに暗く、お世辞にも条件が良いとは言えなかった。ランタンを持って出なかった自分に対し、シンは走りながら舌打ちをする。 カーブを曲がる。次のカーブが見えてくる。 辛うじて見失わない程度の距離は保てている。 最初は走っているのかシン自身でも判然としていなかったが、逃げて行く相手の後ろ姿を何度も見ているうちに、追いかけるという判断が正しかったことを悟る。直感が後から裏付けされ、ぼんやりとした違和感が具体的な形を帯びる。 毛並み。 そうだ、あの毛並みはおかしい。 加えて体型。……薄暗い中ではあったが、見る限り体はほとんど汚れておらず、痩せ細っているわけでもない。しなやかな体躯はみすぼらしさを微塵も感じさせず、その挙動も相俟って、むしろ高貴な印象さえシンに与えた。どう考えても、この廃墟に似つかわしくないこと甚だしい。 裏付けを得てからはより必死に、姿を見失わないように全力で走る。明るい昼間ならともかく、今逃がしてしまったらお終いだった。瓦礫に躓いても、即座に体勢を立て直し、足を動かし続ける。本格的に日が暮れてしまえば、この街で猫一匹を見つけるなんてどれほどの時間が掛かるのか想像もつかない。 幸いなことに辺りはだんだんと明るくなり始め、猫の姿をより鮮明に追うことができるようになっていた。どうやら街路灯が点き始めたようで、視界が前ほど悪くはない。照らされた石畳に影が落ちているのを目にしながら、少しばかりの安堵がシンの胸に広がっていく。……ありがたい、これで少しは追いやすくな ――街路灯? 視界が開け、いつの間にか直線の道に差し掛かっていた。 その左端には明かりの点いた街路灯が、上官を迎える兵士のように整列している。 電気も止まっているはずの廃墟では、有り得べからざる光景だった。 「……なんだ、これ」 と、シンは自分が無意識に立ち止まってしまったことに気付き、慌てて視線を明かりから道の先へと戻す。猫は、あの猫はどこに――と目を走らせ、見開く。 猫は、道を真っすぐ走っていく。 もうすでに逃げるような速さではない。 道の先でしゃがみこんでいる「それ」の姿を目指し、気儘な散歩を終えた風情で駆けていって膝の上に飛び乗る。そのまま持ち上げられても慣れたもので、丸くなっているところを見るに、目的地は最初からそこのようだった。 幽霊でも見ているのではないかと、シンは自分の目を疑う。 しかし、そこにいるのは確かだった。 身長と比べアンバランスなほど伸びた金色の髪はしかし艶やかで、夕暮れの色と馴染んで陽炎のように揺らめいている。猫を抱きかかえる腕は折れてしまいそうなほどに細い。 ゆっくりと近づいていくと、少女は初めてシンに気付いたようなはっとした様子で顔を上げる。少女らしくあどけないにも関わらず、どこか整った不思議な面立ち。 やがて二つの大きな蒼い眼が、シンの瞳を覗き込んだ。 「あなたは……だれ?」 2 シンはほとんど思考停止にまで陥っていた。 どんな目的かはともかく、目の前に現れたのが自分と同じかそれ以上の年齢の人物であったなら、まだ納得もできていたことだろう。人気がなく生活も困難な廃墟に居座っている人物――何か良からぬことを考えているのだと想像するのは容易だ。 だが、彼が出会ったのは年端もいかない少女であり、何かを企むどころか、一人で生きていくことも困難であるように思われた。故に彼は混乱したし、相手に対する警戒さえ無意識のうちに解いてしまう。 なんで、こんな女の子がここに。 考えても考えても答えが出ないばかりか、考えることさえ拒否してしまいたくなった。それでも目の前の猫と少女からは目を離すことができず、しばらくそのまま対峙する形になる。 何も言わないシンを警戒してか、少女は猫を抱いたまま後退りをした。 が、不意に何かに思い至ったかのように、青色の目が見開かれる。 「もしかして……『お客さん』?」 「え?」 事態にそぐわない言葉に、シンは面食らう。 お客さん? 今、この子はそう言ったのか? 「街の外から来たんだよね? それじゃあ、あなたは『お客さん』なの?」 「えっ、と」 真意が分からない。 それどころか、今まさに自分が置かれている状況も。 しかし、彼女が口にした言葉には奇妙な納得感もあった。この街における自分という存在、その呼称。それはある意味少女が言うとおりの「お客さん」に違いなく、繋がりの薄い第三者として規定されるのかも知れなかった。 そうか。 俺はこの街にとって、客人なのか。 「……そうだな、『お客さん』、なのかも」 だから、するりと答えが零れ落ちる。ほとんど独り言に近い返答だった。 少女の反応を考えたものではなく、この場における最善を尽くしたものでは決してない。シンも口にしてから気付き「あ、いや」と弁解のために口を開きかけるが、いきなり答えを翻して信用を失いやしないか、とか、第一この場合はどう答えるのが正解なんだ、とかいった思考が綯い交ぜになり、結局は二の句を継ぐことができない。 が、少女の反応は予想外のものだった。 蒼い瞳が不思議な輝きを帯び、みるみる頬に赤みが差す。驚きにも似た息が漏れ、大きな両目にシンの姿が真っ直ぐ映る。 な、なんだこの反応。 そう狼狽えたのも束の間、少女が発した言葉にシンは再び困惑する。 「なら、あたしの家に案内してあげる! 『お客さん』をおもてなしするの!」 …………。 は? 「もう暗くなっちゃうから、ほら、行こう」 「ちょ、ちょっと待って――」 少女は一人で合点すると、猫を下ろして走り出そうとする。けれど、いい加減にこれ以上は看過することができなかった。翻ったスカートの裾に向かって声を掛けると、少女は「……え?」と出鼻を挫かれたように立ち止まる。 振り返った少女に「きみは誰なんだ」と訊ねようとして、自分が最初にその質問をされたことを今になって思い出す。 「俺は、俺の名前はシン。シン・アーロック。……きみは?」 少女は一瞬きょとんとしたが、間をおいて可憐な微笑みを浮かべる。 「――ミリ。あたしはジルタ=アノスのミリ」 台所ではコーヒーメーカーが湯気を上げていた。 芳しい香り。水の音。その最中にはご機嫌に動き回る少女の鼻歌が入り交じっている。 こぢんまりとした部屋は柔らかな明かりで満たされており、それどころか適度に快適な温度に保たれていた。周りには一昔前のものだが、破損は見られない調度の数々。……シンは考えることが多すぎて、目の前に少女がいなかったら頭を抱えたかったほどだ。 どれもこれもが、廃墟の中とは思えない光景だった。 まさか彼の胸中を慮ったわけではないだろうが、少し離れたところでは先ほどの白猫が不思議そうに来訪者を見詰めている。前後の記憶さえなかったならば、平和な一家の団欒に招かれたのだと錯覚していたかも知れない。 これは、どういう状況なんだろう? ……あぁ、俺は夢でも見ているんじゃないだろうか。あの時の椅子に座ったまま、いつの間にか眠ってしまったんじゃないだろうか。 そんなシンの困惑を余所に、少女が屈託のない笑みを浮かべて歩いてくる。 手にはコーヒーカップの乗せられたお盆。 「はい、どうぞ。えっと……『召し上がれ』?」 「……ありがとう、いただくよ」 シンは手袋をつけたままでカップを手に取ると、彼女には気付かれない程度に中身を観察する。特におかしなところはなく、見た目も香りも何もかも、正真正銘普通のコーヒーだった。 それでもなかなか口をつけられずにいると、おそらくこの時を楽しみにしていたであろう少女の緊張と期待が入り交じった視線。こういった経験をしたことがないのだろう。すでに混乱が閾値に達していることもあり、彼女の期待を裏切ることに対する罪悪感が、シンの抱える警戒心をわずかに上回った。 おそるおそる口に含む。 途端、芳しい香りが鼻を抜けて広がる。 「おいしい……」 思わず漏らす。 それは率直な感想というより状況と不釣り合いに「普通の」コーヒーの味がしたという訝しさの混じったものだったが、そんなことを知る由もない少女はシンの言葉を聞き、ぱっと花が咲くような笑みを浮かべた。 「よかった! 他の人に飲んでもらったことなかったから」 そのまま対面のソファへ正座もどきに座り込む。傍らには猫。 牧歌的なシーンの連続に口の端が緩みそうになり、慌てて気を引き締める。そうしておきながら、少女を怖がらせないよう笑みを浮かべる。……ただでさえ現実味のない事態であるのに、自分の言動がどこまで本当なのかも曖昧になり、勘弁してくれ、と思った。 体の前で両手を組むと、シンは努めてにこやかに話し掛ける。 「なぁ、ミリ。きみはいつからここで暮らしているんだ?」 ミリは金色の髪を揺らし、「んー」と小首を傾げる。 「わからない。……覚えてない」 「覚えてない?」 「うん。気がついたらここにいて、それまで何をしてたかも思い出せなかったの。それからはずっとここにいるよ」 「たった一人で? 他の人は?」 「いないよ。あ、でもね――」 少女がソファから立ち上がって「おいでおいで」と手招きをすると、それまでじっと様子を窺っていた白猫がすっと近寄っていく。足元までやってきた猫の脇を抱えると、ミリはお腹の方をシンに見せるようにした。 「この子がいるよ。ジア、って言うの。ずっと一緒に暮らしてる、あたしの家族なの」 紹介にあずかったジアは間抜けな格好で持ち上げられていることは意にも介さず、シンに挨拶でもするように「にゃー」と一声鳴いた。何とも微笑ましい光景に、再びシンの頬が緩みそうになり、その度に意識を引き戻す。 「拾ったんだ」 ジアの両手を上下にぱたぱた動かしながら、ミリは言う。それには流石にジアも嫌そうな様子を隠さなかった。「悪さのしない、とてもいい子なの」 「拾ったって……今、何歳くらいなんだ?」 「わかんない。でも、前は子猫だったよ……あっ」 ジアは身をよじって主人の手から抜け出すと、台所の陰へと走ってゆき、顔だけを覗かせるようにしてまた二人を窺い始めた。ミリはその様子を不服そうに見つめていたが、やがて諦めたようにソファに座り直す。 シンは目を閉じる。……答えを得るどころか、疑問が増えた。どうしてこんな場所にいるのか、食料はどう調達しているのか、なぜ変電所が稼働しているのか――何一つとして納得のいく説明が思い浮かばない。しかも当のミリは、この生活を当然と思っているようですらある。 そんなシンの様子を勘違いしたのか、ミリは無邪気な声で提案した。 「シン、疲れてる? それじゃあ、ここに泊まっていけばいいと思うの!」 ここにきて、初めて呆れの感情が顔を出す。 ……いくらなんでも、それは無警戒すぎやしないだろうか。 夜の帳が下りている。 少女が眠りに就いた隙を見て外へ出てきたシンは、あまりの暗さと静けさに驚く。それは夜という概念が本来持っているはずの完膚なき闇、生物の行動を制限し定める闇だった。 「……このあたりでいいか」 本当ならもう少し家の傍から離れたかったのだが、下手に歩き回って戻れなくなる可能性を考え、民家と民家の間に身を隠すことで妥協する。仮拠点にランタンを置いてきてしまった今では、精々が手元を照らす程度の明かりしかない。 ――それじゃあ、ここに泊まっていけばいいと思うの! 「…………」 結局シンは、ミリの提案をありがたく受け入れることにした。 望むべくもないほどの拠点を確保できるという理由も多少は含んでいたが、何より少女をすぐ傍で監視できるというのが大きかった。彼女が異変の鍵を握っているであろうことは明らかであるし、まだまだ訊ねなければならないことが残っている。 提案を了承した後のミリの喜びようは驚くべきものがあり、不慣れな様子ながらも何から何まで甲斐甲斐しく世話をしようとしたほどだった。さすがに食事と入浴は断ったのだが、それでもしばらくの間「おもてなしだから」と言って聞かなかったくらいだ。……もっともはしゃぎすぎたのか、一時間も経つと電池が切れたように眠ってしまったのだが。 そんな様子を思い出して苦笑しながら、シンは上着の内ポケットに携帯していた衛星無線を取り出し、微かな明かりを頼りにダイヤルを調節する。 数回のコールで回線は繋がり、スピーカーを通して落ち着いた女性の声が聞こえてきた。 『定時連絡の時間はとっくに過ぎているぞ』 「申し訳ありません、ローン少佐。不慮の事態が発生したもので」 ほとんど先を見通すこともできない暗闇の中で声に耳を傾けていると、今までの、ともすれば安穏とした心持ちが引き締まるのを感じる。頭の回路が切り替わり、冷静であらねばという気持ちに背筋までもがしゃんと伸びた。 相手はすぐに反応を返す。 『不慮の事態? 進展か? トラブルか?』 「……両方、少しずつ」 白猫と行き遭ったこと。 電力が供給されていたこと。 そして、少女が一人で暮らしていること。――憶測を挟まず、事実のみを簡潔に報告するよう意識する。それでなくとも、自分が突拍子のない話をしていることは分かっていた。 これには相手も予想外だったようで、電波越しに小さな呻き声が聞こえてくる。 『一体どういうことだ。街には人ひとりの生活を維持する機能も残されていないはずだが……。まぁいい、それで、お前は今どうしている』 「泊まらないか、という提案があったため、それを受け入れて少女をしばらく監視することにしました。もちろん、彼女を保護する意味も兼ねて。……しかし、これで良かったでしょうか」 『そうか。いや、それでいい。報告のあった件については――おそらく無駄だろうが――私の方でも探っておこう。お前は引き続き調査を進めてくれ、アーロック』 「了解しました。それとおそらく、今後の定時連絡は困難になりますので、折を見て」 『了解した』 「はい。……それでは」 回線を切る。 壁にもたれかかり、息をつく。連絡自体は短かかったが、内容はひどく濃いものだった。初日からこれでは体力がもつ気がしない――しかも肝心の異変に関してはこれから探っていかなければならないのだ。ある程度は自分のペースで進められると思っていただけに、シンは圧し掛かる責任に暗澹たる心持ちだった。 「今日は休むか……」 そう独りごち、少女の住まいに足を向ける。 何が起こっているのか、今は考えるだけ無駄だと悟って。 3 懐かしい匂いが漂ってくる。 ……あぁ、これは何の香りだっただろうか。シンは記憶の底から同じ匂いを探し出そうとするが、どうしても思い出すことはできなかった。 だが、焦りは覚えない。 五感で覚えている光景が、印象が、ただ安らかな心地を連れてくるだけだ。 誰かが彼の名を呼ぶ。 その声に反応して、彼は、いや、子供の頃のシンは小走りに駆けていく。家の中で走らないの、と窘める言葉。これもまた、懐かしいものだった――誰の言葉だっただろうか? 行為している自分の内にありながら、シンは遣り取りを俯瞰している。一切の情景はすでに過ぎ去っていったのものだった。誰に聞くでもなく、シンにはそのことがよく分かっていた。 はっきりとした輪郭はないが、かつて捉えた現実が朧げに再現されている、いつかの記憶。ならば今、彼が笑顔を向けている相手は母親であるはずだった。この規則正しい音。炊事や洗濯の手慣れたリズム。それらは目の前の人物が母親だと示しているはずなのに、顔が、見えない。 失われている。 思い出すことができない。 だから何とか思い出そうと手を伸ばし、シンは相手のエプロンの裾を引っ張って振り向かせようとする。そんなはずはない、覚えていないなんてことは。 ――しかし次の瞬間、彼の手は焦げた布の切れ端を掴んでいた。 同時に圧し掛かる重量で、自分が何かの下敷きになっていることを知る。全身が燃えるように熱く、伸ばしていない方の腕にはもう感触がない。 肉の焼ける臭い。 音のない悲鳴と怒号。 これは夢だ。 シンは自分に言い聞かせる。すでに終わったことなのだから、どうしたところで変えることはできないのだ、と。それでも胸を裂くような悲鳴は途切れることがない。その声は、他ならぬ彼自身の口から発せられているものだった。 ……やめてくれ。 相変わらず自分の行為を他人事として眺めながら、シンは誰かに向かって懇願する。もう終わったことなんだ、だからこれ以上この光景を見せるのはやめてくれ。 どこかで走り回る音がする。 やめろ。 鍋を落としたような騒音が響く。 もう充分だ! ――どたばたと騒がしい音に、意識が鮮明になる。 壁にもたれかかって眠っていたシンは、窓から差し込んでくる陽光に目を細めると、明るく照らされた部屋に急ぎ視線を巡らせる。ここは? ……いや、眠っていたのか。 ミリに案内された客間の一つだった。 寝台が一つ置かれているだけの簡素な空間ではあるが、雨風を凌げるだけで休む分には申し分ない。もともと熟睡するつもりはなかったため、寝床さえ必要なかったほどだ。また、ミリの他に第三者がいないという保証もない。警戒するに越したことはなかった。 とは言え服は寝汗で貼り付いており、体の節々もぎこちない。無理な体勢で眠ったツケが回っていた。とりあえず立ち上がって体を解そうとすると、またしても左腕がずきり、と痛む。 それにしても、何の音だ。……それに、この臭い。 痛みに顔を顰めながらも動き出し、なるべく音をたてないよう慎重にドアを開ける。途端、先ほどから感じていた臭いが強くなり、只事ではないことが容易に想像された。……焦げ臭い? シンは嫌な予感を覚え、音のする方向に向かって摺り足で、しかし急いで歩を進める。 音はリビングへとつながる扉の向こうから響いていた。 何かしらの罠である可能性も否定できないが、この家にはミリもいる以上、のんびりと考えを巡らせている余裕はない。シンは何が起こっても対応できるよう身構えつつ、意を決して一息に扉を引き開ける。 ――派手な火柱が彼を出迎えた。 「なっ……!?」 天井の焦げる臭いが鼻を衝く。 火の手は台所から上がっていた。 ジアが全速力でシンの横を駆け抜けていったが、気に留めてなどいられない。見ると、ミリがぽかんとした表情でシンクの脇にへたり込んでいる。 「ミリ!」 急ぎ傍まで駆け寄ると、少女はあからさまにぎくっとした表情をしてから、あどけない顔にじわじわと気まずそうな笑みを浮かべ、 「あ、シン、おはよう……」 「お、おはようじゃない!」 近くに置いてあった濡れ布巾を引っ掴み、間髪入れずに火元であるフライパンへと投げ込む。「他の布巾は!?」と訊ねると、ミリもはっとした様子でぱたぱたと慌てながらも何枚かの布巾を差し出した。シンは受け取った手のまま水道水で濡らして広げ、立て続けに火の中へと放り込む。一枚。二枚。 そうこうしているうちに火の手は収まり、しゅー、というフライパンの音と蛇口から水の流れる音が、先刻までの喧騒に取って代わる。炎に舐められた天井は軽く煤けていたが、大事には至らなかったようで、シンは胸を撫で下ろした。 そのまま視線を少女に向ける。 「……何やってたの」 ミリは切れ切れに笑みを漏らした。 「あ、朝ごはん作ろうとしたら、失敗しちゃった。え、えへへ……」 その場で脱力し、シンは溜息を吐く。――朝から心臓に悪い。 結局、朝食はシンが作ることになった。 ミリが普段から食べているらしき缶詰の類やフリーズドライが施された野菜などを中心とし、手早にスープや炒め物などを作ってゆく。主食は保存用のビスケット。こればかりはシンにも調理した経験がなかったため、下手に手を加えるよりはとそのままでいただくことにする。 まじまじとスープを見詰めた後、一匙口に運んだミリは一言、 「……おいしい!」 目を丸くして声を上げた。 「シン、お料理上手だったんだね!」 シンを見る目にも、心なしか尊敬の色が混じっている。「この野菜炒めも、あたしが作るよりずっとおいしい!」 「喜んでもらえてよかったよ。ところでさっきは何を作ろうとしてたの?」 「サバ!」 「え?」 「サバ!」 缶詰を調理しようとしていたらしい。 ……何はともあれ、二人で囲む朝食は穏やかなものだった。シンとしては考えることも訊きたいことも山積していたが、笑顔のミリを見ているうちに「今くらいはいいか」という気分になる。おこぼれにあずかったジアもぺろりと餌を平らげ、心なしか満足げな気色だった。 妹がいたらこんな感じだったんだろうか。 そんなことを考えていると、ミリが口を開く。 「そう言えばシンって、ここに何をしに来たの?」 「ん、あぁ、街の様子を見て回りにね。今日この後も出ようと思ってるんだけど」 シンの言葉に、彼女は顔を輝かせた。 「じゃあ、あたしが案内してあげる! 街の中のことなら知ってるから」 「え? でも。……ん」 顎に手を当て、考える。……彼女を危険に巻き込みたくはないが、一人でいるよりは自分と一緒の方がマシだろう。どの道訊かなければならないことも多いのだし、それに、本当に街中に詳しいなら好都合でもある。 「なら、お願いしてもいい? ちょっと荷物を置いてきてるから、それを先に取りに行くけど、そこからは案内してもらえるかな」 少女は胸を張った。 「うん、任せて。……みんなで一緒にお出かけなの!」 外は雲一つない快晴だった。 四、五時間前まで堆積していた闇はすっかり打ち払われ、早朝の爽やかな空気が街中を存分に満たしている。シンからすれば調査の好機、ミリの言葉を借りるなら「お出かけ日和」。その明るさは廃墟の陰鬱な雰囲気さえ退けており、確かに出かけるにはうってつけの天気と言えた。 二人(と一匹)は一旦噴水のある広場へと足を向け、シンの荷物を確保する。民家の外ではミリが浮かれた足取りで、ジアに話し掛けたり走り回ったりとご機嫌な様子だった。この調子で体力はもつのだろうかとシンは思ったが、水を差すのも気が引けて、 「怪我だけはしないようにね」 と、注意するに留めておく。窓越しに「はーい!」と無邪気な返事が戻ってくる。考えてもみればミリにとっては初めて誰かと「お出かけ」するのかも知れず、はしゃぎすぎてしまうのも無理のないことだった。 そんな様子を見守りながら、倒れた椅子を元の位置まで戻し、バッグパックを背負う。広場からは楽しそうな声が響いていた。 戸口を出ると、ミリに向かって呼び掛ける。 「おまたせ、そろそろ出発しようか。それで、最初はどこに?」 「あ、シン! えっとね、ここから近いのは――」 それから、シンはミリの案内で街を見て回り始めた。 街のことなら知ってる、と自負していたとおり、案内は手慣れたものだった。どの建物がどんな役割を果たしていたものか知らない気はあったが、それでも主要な施設は余すことなく網羅しており、シン一人では気にも留めなかったであろう小さな設備さえ見せて回ったほどだ。道先案内人として、ミリは優秀だった。……もっとも、「お出かけ」を第一目的としている節はあり、狭い路地をジアと一緒に走っていったり、瓦礫の上に乗ってシンに注意されたりもしたが。 濾過施設や電波塔、廃れた公園や先刻のものより遥かに大きな広場――等々。ほぼ最短距離で様々な場所を見て回る。その度にシンは足を止めて異変がないかどうか調べ、ミリはその間シンに質問してみたり、邪魔になりそうな場合にはジアと楽しそうに戯れていた。一方のジアはたまに迷惑そうな素振りを見せていたが、おおよそ主人について回っていた。 よほど懐いてるんだな。 そんな様子を横目に見ながら、シンもこれ以上余計な気を張るのは止めることにする。調査に集中するためにも、無駄に気を張っていない方が効率が良かった。 少女と白猫。 無邪気にはしゃぐ彼女たちの傍ら、シンは昔に思いを巡らせる。……そんな童話を読んだことはなかっただろうか? ある程度近い場所を巡り終えると、日は高く昇り始めていた。 丁度、大広場――先刻のものより遥かに大きい――を見つけたということもあり、そろそろいい頃合いだろう、とシンは休憩を提案する。どうも動きすぎている少女の体力を気遣った側面もあるが、思いのほか調査が順調に進んだことに依るところも大きい。 おそらくは集会などにも用いられていたであろう見通しの良い空間の一角、手頃な石を持ってきただけといった風情のベンチに二人で腰掛ける。座り心地はともかくとして良い具合に日陰になっていて、昼食をとるにもうってつけの涼しさだ。 シンはバッグパックを開けると、包みを取り出してミリに差し出す。 「え? これどうしたの? なに?」 「お弁当。今朝の残りで作っただけだから、そんなにメニューに変わりはないけど、」 言うが早いか、ミリはぱっと顔を輝かせる。 「ありがとう、シン! わあ、本当にピクニックみたい……」 「ミリのお陰で仕事も捗ったしね。そのお礼ってことで」 急いで包みを引き開けるミリを、微笑みを浮かべながら見守る。事実、シン一人だけでは半日でここまでの成果は得られないはずだった。少女の案内があったからこそ、こうしてゆっくりと休む気にもなったのだった。 ――変電所に加え、上水道の機能。 街の周囲は海である。電力の供給があるのならば、濾過施設や電解設備を利用して淡水を得られることは予想できていた。しかし、実際にどこまで機能しているかは見てみないと分からない――こればかりは憶測で報告できる問題ではなかった。 街中で真水が入手可能。 これ即ち、人間の生存要件を満たすことに他ならない。 「…………」 自分は携帯食料を取り出しながら、とんでもないことになってきた、とシンは内心途方に暮れる。……水がある。電気が通っている。保存食とは言え、食料もある。 ここまで来れば、誰かが介入していることに疑いの余地はない。それなのに、ミリはこの街に自分しかいない、と言う。隠している様子はない。隠す理由もない。まだ街全体を調査したわけではないが、確かに他の人間の痕跡も見受けられない。 一体、この街で何が起こっている? 「……?」 と、声がしないことで気付く。 手袋のまま昼食を口に運ぶシンを、ミリが興味津々といった表情で見詰めていた。 どうも携帯食料が気になるようだったので、半分を割って手に乗せてやる。 ミリはそれを凝視して、一言。 「これなに?」 「携帯……できる食べ物だよ。栄養があるし保存もきくから便利なんだ。見たことない?」 「うん、はじめて」 見た目は棒状の焼き菓子である。 別段支給された品ではなく、単純にシンが気に入っているため持ち歩いているものだったが、どうも少女には物珍しいようで、手に乗せたまましげしげと眺めていた。 やがて口に運ぶと、しばらくの間もぐもぐとする。 「…………」 「どう?」 「……おいしくもないしまずくもない」 「そ、そう?」 昨日今日で一番微妙な表情だった。 要するに初めて見た表情だった。 気に入ってもらえると思っていただけに、シンは取り繕うように提案する。 「そうだ、ジアにもあげてみなよ。ジアもお腹空いてるだろうし」 「う、うん」 ミリは頷くと、足元で丸くなっていた白猫に一欠片を差し出す。 ジアは鼻をひくつかせていたが、おそるおそる口にくわえた。 「どう、ジア? だいじょうぶ?」 「おいしいよな、ジア?」 「あ、吐き出した。いらないって」 「…………」 ……俺がおかしいのだろうか? そう言えば、自分以外でこれを買っている知り合いを見たことがない。いや、でも、相手は女の子と猫なのだ。何より今朝の手料理は美味しそうに食べてくれていたし、味音痴ってわけじゃ――などと思い悩んでいると、不意にくすくす笑いが聞こえてくる。 顔に手を当てて、ミリが笑っていた。 「どうしたの?」 「ううん、誰かとご飯食べるの、初めてだったから」 うれしいの、と地面に目を落とす。 「……ジアはあたしのお散歩にはついてきてくれるけど、しゃべれないから、『いただきます』も『ごちそうさま』もひとりだったし、誰かの使ったお皿を洗うのも、誰かが作ってくれたご飯を食べるのも初めてだった。本とかで読んでちょっとは知ってたけど、なんか、ぜんぜんちがったの。さっき食べた朝ご飯もこのお弁当も、ひとりで食べるご飯より……なんていうか、ええと、あったかかったの」 ――シンは、胸を抉られた気分だった。 そうだ。分かり切っていたことじゃないか。 この環境が少女にとって苛烈すぎることなんて。 視線を外し、目の前のあまりに大きな広場へと向ける。そこにあったはずの喧騒、本当なら彼女もその中にいるべきはずの喧騒を思い、静かに目を閉じる。 どれだけ上機嫌に振舞っていたって、どれだけはしゃいで見せたって、ここにあるのは百年の孤独だ。大の大人でも音を上げるだろう絶対の孤独。それを、こんな女の子がたった一人で。……俺は、甘く見ていたんじゃないだろうか? 次に目を開けた時、シンの心は決まっていた。 「ミリ。この調査が終わったら何食べたい?」 その言葉に、少女は伏し目がちにしていた顔を上げる。 「……オムライス! 前に見たことあるけど、つくり方が分からなかったの」 「そっか。じゃあ――」 二人で目を合わせる。「早いところ、終わらせないとね」 シンは思う。彼女がいるべき場所は、ここじゃない。 彼女はもっと、賑やかな場所にいるべきだ。 昼食を終えた一行は、ようやく今日唯一の「目的地」へと向かう。そこに関してはもう案内は必要なく、迷う心配も一切なかった。先ほどから、いや、シンが街を訪れたその時からずっと、見逃しようもなく見えていたからだ。 ジルタ=アノスは同心円状に広がっている。 外縁に近づくにつれ住宅が増える一方、中心へ行けば行くほど工業区域の様相を呈している。動くことを止めた施設の数々が物言わぬ屍となって大小様々に佇んでおり、合間に繁茂するケーブルが建築物の間断を埋めている。 その迷路のように張り巡らされた導線を辿って行けば、いずれは出発点に到着する。つまりは街の動力を一手に担う、文字通りの中枢がそこにある。……だから中身の露出したケーブルを跨ぎ、道中に山積した瓦礫を迂回し、一行は歩き続けた。 やがて目の前に、巨大な質量を支えるに足る土台が見えてくる。 土台でしかないはずのそれだけで、すでに周囲に鎮座する工業施設の大きさを凌いでいた。ならば勿論、本体そのものの大きさは他の建築物と比較するまでもなく、間違いなくこの街で一番の威容を誇っていた。 全ての導線の収束点であり、中心点。 白亜の塔――ターミナル。 「シン。こんなところに何の用なの?」 途方もない夢の中から出現したような姿にシンはしばらく圧倒されていたが、ミリの一言で現実に引き戻される。……大きさは充分承知しているつもりだったが、いざ目の前にすると言葉も出てこなかったのだった。 少女を安心させるためにも、シンはゆっくり微笑んで見せる。 「……俺は『お客さん』だからね。一度は挨拶しておかないと」 「あいさつ?」 「そう。ここには、……何て言うんだろうな。挨拶しなきゃいけないものがあるんだ。だからミリ、ジアと外で待っててもらっていいかな」 「……ふうん? そうなんだ、分かったよ」 思いのほか、ミリの聞き分けは良い。 この場所に大して興味がないのか、それともあまり入りたくはないのか――何にしても、シンにとっては都合が良かった。わしわしと彼女の頭を撫で、そのまま歩を進める。 かつて厳重に守られていたゲートは、あっさりとシンを受け入れた。 侵入者に対する警報も聞くことはなく、容易に内部へと進むことができた。日の光が届かない屋内は酷く薄暗く、ここに来てランタンが役に立つ。もしも中までミリを連れてきていたらさすがに進みようもなかっただろう。 足取りに迷いはない。 目指すは最上階だった。 そのためには最悪、階段を使わなければならない可能性も覚悟はしていたが、シンの予想通り予備電源は生きているようで、エレベーターを利用することができた。この高さの塔を一段一段上っていたら、どれだけの間ミリを一人にすることになるか想像もつかなかった。 滑らかに上昇していくハッチに揺られながら、シンは考える。……これならおそらく、各区画の照明を点けることも可能だろう。問題は俺に調査能力があるかどうかだけど――変電所の際も何とかなったんだ、最低限の確認くらいはできるはず。 やがて、体に浮遊感を覚えた。 ハッチの扉が音もなく開かれる。 外へ踏み出すと、相変わらず視界が悪いことには変わりなかったが、最下層ほどの暗闇とまではいかなかった。ランタンがなくとも歩くことができる。広いホールのような場所で、どうも吹き抜けになっているらしく、エレベーターの両脇には階下へ続く階段が確認できた。 そして、正面には閉め切られた鉄扉。 「あぁ」 ここまで来るのに、十年掛かった。 シンは扉の前に立ち尽くし、得体の知れない感慨に体を震わせる。ここから先へ進む手段がないことは、予め分かっていた。しかし、この先には確かに街の中枢があるはずだった。 中央塔、ターミナル。 またの名を、機械仕掛けの太陽。 その名の由来は、この巨大な発電所が太陽と同じ仕組みでエネルギーを産出することに依る。街の電力を一手に担い、更には外部への輸出までもを可能とする発電方法。この都市が、ターミナルが海上に建設された最たる理由。 核融合炉。 「ジルタ=アノス――」 扉に右手を這わせると、シンは調査に来たことも忘れて向こう側へと呼び掛ける。聞こえるはずがないことは分かっていた。意味がないことも分かっていた。たとえそうであっても、言わずにおくことはできなかった。 青年は続けて口を開く。 それは、簡潔な挨拶だった。 「――ただいま」 4 街が戦禍に見舞われたのは、シンが十歳の頃だった。 N市周辺で頻発していた内戦の余波を受ける形だったが、海上、それも都市圏から離れているジルタ=アノスが、比較的早い段階で標的とされたのは不運というより他はない。地理戦略的には価値が薄いにも関わらず、科学技術の軍事転用が危険視されたのだった。 何より、融合炉の存在が大きかった。当時最先端の技術を用いた無尽蔵の発電施設は相手方にとって脅威でしかなく、中長期的に考えれば放置できる対象ではない。核兵器や生物兵器の製造は禁止されているとは言え、莫大なエネルギーとそれを制御する科学技術があれば、それらに次ぐ破壊兵器を造り出される可能性は否定できなかった。 そうした思惑の結果――爆撃に次ぐ爆撃が、街を襲う。 街の大半の機能は喪失され、主要な工業施設に至っては再起不可能なレベルの損壊を負った。人的被害としては、住民の約七割を失うという未曽有の惨劇だった。主な死因は焼死、或いは建物の下敷きとなっての圧死。シンの両親もその例に漏れず、彼の目の前で生きたまま炎に呑まれ、断末魔と共に灰となった。彼自身も、左腕を失った。 辛うじて一命をとりとめたシンは、その後、戦災孤児として軍の施設に引き取られる。 成長した彼は、士官学校の門を潜ると、戦争の記憶を追い払うため学業に取り組んだ。 家族を失い、故郷を失った彼にはそれ以外に生きるよすががなく、時には過労で倒れるほどに遮二無二勉学を積み重ねたのだった。……そうした自傷にも似た勉学は皮肉にも功を奏し、シンは幼い頃から英才教育を受けてきた同期とも肩を並べる成績で学校を卒業、隻腕ながらに尉官候補として入隊を果たす。 しかし、そうしたところで過去が消えるわけではない。 夜毎に両親の断末魔を夢に見、日中は左腕の幻肢痛に悩まされた。医者に罹っても根本的な解決には至らず、精々が痛み止めや睡眠薬を処方される程度だった。そんな日々が続くにつれてシンはますます疲弊し、ついには医師より休暇をとるよう言い渡される。……だからと言って、何かしたいことがあるわけでもなく、痛みが消えるわけでもなく。 そして、一週間前。 「異変があるとの報告が入った」 事の始まりは、その一言だった。 シンが呼び出された一室は私室と言うより書斎の趣があり、壁一面の書架に学術書の類が詰め込まれている他には、私物や無駄な装飾もほとんど見受けられなかった。 目の前で直立する部下を見かねてか、文机越しに女性が苦笑する。 「言っただろう、軍務の話で呼び出したわけじゃない。そんなに畏まるな。と言うか、そろそろ慣れたらどうなんだ、アーロック」 「……申し訳ありません。どうにも緊張してしまい」 シンは言うが、彼が委縮するのも無理はなかった。 部屋の主であるマキナ・ローン少佐は女性でありながら、叩き上げのスキルと人望とで佐官にまで上り詰めた辣腕だった。年の頃も二十代後半とかなり若い部類に入り、将官候補として有望視されている人材の一人である。 同じ施設出身という縁もあり常々懇意にさせてもらっているシンではあったが、そのような人物から直々の呼び出しとあっては、さすがに固くならざるを得ない。彼自身、ようやく士官学校を卒業したばかりなのだから尚更だった。 しかも駄目押しとばかりに、話の内容も掴めないときている。 まあいい――と少佐は掛けていた眼鏡を外し、積まれた書類の上に乗せる。 「いやなに、急を要することじゃない。近隣道路を通過した人物からの知らせだったそうなのだがな。どうも、不審な光が目撃されたらしい」 「……光、ですか」 「あぁ。目撃者本人が『見間違えかも知れない』と言っていることもあり、現場としては取るに足らない通報と判断したそうだが。……万が一を考えてこちらに報告したとのことだ。ふふ、全く、要らない仕事を増やしてくれる」 ローン少佐は半ばうんざりした様子で吐き捨てるが、シンにはやはり、話の要点が掴めない。 彼女自身が言う通り、急を要するほどではないように思われたからだった。極論、夜間であれば月明かりの反射ということも考えられるし、「見間違いかもしれない」のならよりその可能性は高まると言える。加えてシンは休暇中の身である。慣例からしても明らかに常軌を逸していた。……にも関わらず、今回の呼び出し。 「気に掛かる、と」 目頭を揉み、少佐は肯定する。 「これが街中での話だったなら、私も気に留めていなかっただろう。だが、通報のあった場所が場所だ。個人的には、そう安易に事態を判断するべきではないと思うのだが」 「――分隊を動かす許可が下りない」 シンの言葉を受け、彼女はふっと表情を和らげた。 「理解が早くて助かるな。そういったわけで、私としては信頼のおける者に調査を任せたい。……かと言って現在任務に携わっている者を引き抜くのは論外だ」 シンはここにきて、上官の真意を理解する。 少佐個人の懸念で徒に部下を動かすことはできないが、休暇中のシンであれば話は別だ。調査自体が公式な任務でない以上、隊内規律にも違反しない。しかもある程度気心が知れているのだから、現時点で動かせる人員としては理想的だ。 要するに休日返上で働けるか、という提案だったが、シンにとっては渡りに船だった。……どうせこのまま休んでいても碌なことがない。だったら何かに打ち込んでいる方が気が楽だ。 「自分で良ければ、喜んで」 意を汲み取った部下に対し、少佐は微笑む。 しかし、分からないことが一つだけあった。 不躾を承知で、シンは訊ねる。 「ですが、少佐の懸念はどこにあるのですか。……聞いた限りですと、確かに重要性の高い通報だとは思えないのですが。わざわざリスクを冒してまで調査をする理由は、」 「報告された場所は、N市郊外にある」 その名を耳にして、シンの瞳が漣を立てる。 動揺を気取られないよう咄嗟に気持ちを立て直すが、内心は穏やかではなかった。……どうして今、その名前を聞くことになるんだ? 少佐はそんなシンに気付く様子もなく、淡々と続ける。 「お前も耳にしたことはあるだろう。十年前、戦火に呑まれて無人となった街の話は。……そこにあるものの危険性を考えれば、単なる光で済ますわけにはいかない」 融合炉。 確かに彼女の性格なら、些細な兆候でも看過できないだろう。 「いや、実際に単なる光なんだろうが……それならそれで問題はない。つまりは問題がないことを確かめる調査、というわけだ。それ自体、休暇とそれほど変わらないだろう」 しかし、どこまで。 どこまで俺を追ってくる気なんだ。 もはや逃れられない、とシンは思う。過去を切り離すために努力を積み重ねてきて、その先にあったのが過去そのものだったのだ。……ならこの先同じ努力を繰り返したところで、どこであっても何度だって、あの街が目の前に立ち現れるのだろう。 分かった。 ……分かったよ。 「あぁ……言い忘れていた。私的な任とは言え負担を掛けるわけだからな、調査経費やその期間に相当する給与は私の懐から出そう。それで、アーロック――頼まれてくれるか?」 覚悟を決めて、シンは頷く。 「お任せください」 お前がどこまでも追ってくるつもりなら。 いい加減、このあたりで決着をつけよう――ジルタ=アノス。 そうだ。 俺は、終わらせるためにここに来た。 それなのに、この有様はどうだろう? 漫然とした足取りで暗い回廊を行きながら、シンは何がしたいのか、何をするべきかも曖昧になりつつある自分に気付く。……ここに来てから感傷に絆され、混乱させられ、何一つとして過去に整理をつけられないでいる。挙句、挨拶なんて。俺はそんな人間だっただろうか? シンは目の前の出来事だけに集中しようとするが、上手くいったとは言い難かった。忘れよう、切り離そうと努める心に反して体が抵抗し、一挙手一投足が一致しない。 駄目だ――と彼は頭を振ると、自分を無理やり任務に集中させるため、懐から無線機を取り出す。今度は時間帯の問題もあるのだろう、すぐには応答がなかったが、鮮明ではないながらもやがて凛とした声が聞こえてくる。 『私だ。何か進捗はあったか』 「はい、いくつか」 淡々と報告を促す声がありがたかった。 「予想通り、ターミナルの予備電源は機能しているようです。これが、ミリ……いえ、少女の生活に活用されていた電源とみて間違いはないでしょう。それで、ここからが問題なのですが――どうにもその電源、浄水設備にも流用されているようです」 『水、か』 「はい。今朝方に簡易的な検査をしてみましたが、少なくとも生存者住居の周辺に関しては品質は申し分なく、充分に飲料水として用いられるレベルでした」 『他の生存者の痕跡は?』 「ありません。少女に聞くところによれば、見たことがない、とも。……無論、潜伏している可能性もありますので警戒は続けていますが」 そこで、シンは気付かなかったが、一拍の間が入る。 『そうか……いや、ご苦労。お前は引き続き調査を進めてくれ。特に炉の稼働性に関しては、分かり次第連絡をつないでくれると助かる』 「了解しました。……ところで、少佐」 『ん?』 事情を鑑みれば、無理な要請であることは承知している。 それでもシンは息を吸い込み、口を開いた。 「――早急に、少女の保護へ動くことはできないでしょうか」 反応はなかった。 しかし、続けてシンは言い募る。 「たとえば孤児院に協力を要請するような形で。……いくら生存可能な条件が揃っているとは言え、この状況は彼女にとってあまりに過酷です」 『……お前の言いたいことは分かるが』 少佐は言い含めるように答えた。『それができるようなら調査自体、わざわざお前だけに任せてはいない。余程の緊急性があるのならばともかく、子供一人のために隊を動かすなど、とてもじゃないが許可が下りないだろう。……察してくれ』 「……。いえ、無理を言いました、申し訳ありません」 『だが、お前の言ったとおり、既に院には取り計らってある。帰還する際に連れ帰って欲しい。あとはこちらで少女は受け持つ』 「ありがとうございます。……では」 『あぁ、また後程』 回線を切断する。 いつの間にか、シンは立ち止まっていた。 薄闇の中、立ち尽くす。……馬鹿か俺は。ここで少佐が動けば、彼女自身で独断専行を認めるようなものだろう。 この街は戦禍以来、長らく軍の管理下に置かれている。 にもかかわらず今回の異変が起きているのだから、これは不祥事以外の何物でもない。そんな状況下で独断が露呈すれば、すぐにでも調査は打ち切りになり、異変が隠蔽されることは明らかだ。……本来なら通報自体、上は黙殺する気でいたのだろう。だからこそリスクを承知で、ローン少佐自身が動いたのだ。 融合炉の危険性を考えれば、これは市全体の安全にも関わる問題だ。仮に何らかの形で悪用される可能性があるのなら、少女一人の生活とは天秤にかけるまでもない。それなのに、俺は。 「……自分と重ねてるのか?」 シンは苦笑を漏らす。 ジルタ=アノスの生存者。……ただそれだけの理由で? しかも今回は、彼女の生命に危険が及んでいるわけでもない。少佐の言うとおり一緒に帰還すればいいだけの話であって、必ずしも早急な保護を必要とする理由はないのだ。要するにこれは、俺のエゴであり感傷なのだろう。 結局のところ、やるべきことに変わりはない。 速やかに調査を完了させ、戻る。 「それでいいじゃないか……」 そう自分に言い聞かせると、シンは歩みを再開させる。 「あ、シン! 遅いよ!」 ターミナルから出てきたシンを、不満げにミリが出迎える。 時間にすれば三十分も経っていなかったが、手持無沙汰な時間は年頃の少女にすればそれなりに長かったらしい。シンは「ごめん」と謝りながら彼女のもとへ歩いていく。 「もう。何してたの? 待ちくたびれちゃった」 「ちょっと確認をね。そう言うミリは? 待ってる間どうしてた?」 「あ、うん! あっちに面白いものがあったから、ジアと一緒にそれで遊んでたの」 「面白いもの?」 うん、こっちだよ――と走り出すミリを追って、シンも苦笑を浮かべつつ歩き始める。……もう機嫌が直ったのだろうか。 だけど、とシンは内心首を傾げる。……「面白いもの」とは何だろう。市街地ならともかくとして、この一帯は工業区画だ。公園の一つもないだろうし、彼女の遊び道具になるようなものなんて――そんなことを考えていると、ミリが「こっちこっち!」と立ち止まる。 その先にあるものを目にして、シンはぎょっとした。 彼の身長を優に超える、六本脚をした蜘蛛型の物体。 扁平型の頭部にはいくつかのレンズが見て取れ、体の両脇には銃口の空いた腕部が取り付けられている。おそらくそれ以外にも殺傷能力の高い重火器が搭載されているだろう。どうやら旧式のようではあったが、シンには同じものを目にした記憶があった。 自走兵器。 「ミリ……すぐにそれから離れて」 先の戦争で配備されたものなのか、元々護衛手段として用いられていたものかは分からない。どちらにしても長期間放置されていることを考えるに、動き出す可能性は低かった。……しかし、様々な施設が実際に稼働してしまっている以上、「それ」だけが動き出さないという保証は何もなかった。 シンは僅かに重心を沈めると、左手につけていた手袋を投げ捨てる。 そこにあるものを目にしたミリが、兵器の傍らで息を呑む。 「シン、それ」 「いいから離れろ!」 その声に反応したのか、機体上部のライトが明滅する。 ――次の瞬間、シンは動き出そうとした相手の機先を制するように一挙に距離を詰め、右腕でミリの体を抱き上げた。そのまま左腕を相手に対して向け、いつでも制圧できるように安全装置を外す。次に動けば攻撃するつもりだった。 しかし、それだけで終わる。 機体は微かに身を捩るような動作をしただけで、ライトを再び弱弱しく明滅させると、糸が切れたように沈黙する。よく見ると脚部が激しく損傷しており、両腕部もコードが切れている。これなら攻撃することも、追いかけてくることもできないだろう。……シンは腕を下ろすと、ふう、と安堵の息を漏らす。 「……シン、だいじょうぶ?」 「大丈夫。だけどミリ、お願いだからこんなもので遊ばないでくれ」 若干ではあるが、バッテリーは生きている様子だった。 この機体が問題なくとも、他には動作する兵器が存在しないとも限らない。……そう考えると、幸いだった。自分がミリから目を離しているうちに、怪我をしていた可能性だってあったのだ。もしかすると、命の危険すら。……生きた心地がしなかった。 シンはミリを下ろして立ち上がると、念のため破壊しておこうと再び左腕を伸ばす。 と、服の裾を掴まれ、シンは振り返る。 「ねぇ。その手、どうしたの?」 「あ」 そう言えば、とシンは思う。 怖がらせないよう、ずっと見せないようにしていたのだった。 彼女を安心させるために、表情を緩める。 「小さい頃に怪我してね。それから機械に手伝ってもらってる。義手、って言うんだけど」 正確には、軍事用義肢だった。……殺傷能力こそないものの、EMP装置――電磁パルスにより電子機器を破壊する兵器――を内蔵しており、機械に対しては絶大な有用性がある。人間相手ではほとんど意味がないものの、無人のジルタ=アノスでは充分だった。 また、神経と回路の接続技術によってかなりの精度で動かすことが可能だったが、奇しくもこの技術はジルタ=アノスで考案されたものだった。生物工学。その恩恵が自分の体に生かされているという事実に、シンは奇妙な感慨を抱く。 しかしミリの懸念は別のところにあったようで、裾を引きながら心配そうに訊ねてくる。 「――痛くないの?」 「ん、あぁ……大丈夫だよ、もう痛くない」 本当ならば。 すでに失った腕が痛むことなど、ないはずだった。 シンは気を取り直すように、右手でミリの頭を撫でる。 「今日はもう帰って、この続きはまた明日にしようか。……他にどこか、みんなで行きたい場所とかあるかな」 5 翌日は生憎の雨模様となった。 そのため二人は午前中の外出を控え、天気が良くなるまで家の中で過ごすことにする。シンからすれば少しでもターミナルの調査に赴きたかったところだが、昨日の今日でミリを一人にするわけにもいかず、彼女から話を聞くことで調査の代わりとした。……目新しい収穫はほとんどなかったと言ってよい。 ただ、一つだけ。 「そう言えば、ミリ。拾ったって言ってたよね」 「え?」 リビングで猫と戯れる少女を見ながら、シンは調査初日、ミリがジアを「拾ったの」と言っていたことを思い出したのだった。軍の管理下にあるとは言え、猫一匹が紛れ込むことはそれほど不思議ではない。ただ、ここへ来てからシンは、ジア以外の猫や犬などを目にしていなかった。 もしかすると、これも異変に関係あるんじゃないだろうか。 「ほら、ジアのこと。どこで拾ったのか聞いてなかったな、って思って」 「えっと……この家より大きなところで拾ったの」 「…………」 大体の場所はここより大きくないだろうか。 その後、どんな場所だったか、どのあたりにあるかを色々と聞いてはみたが、ミリの返答は「四角いよ」「ちょっと離れてるの」などといったものであまり要領を得なかった。総合すれば「住宅地以外にある、何だか四角い建物」であることは分かったが、それでは候補が多すぎる。 それでも場所を特定するため質問を続けていると、ミリの方から提案される。 「あ! じゃあ今日、雨が止んだら案内してあげる!」 今日の間は、どの道調査も進められそうにない。 それを思えば、シンにも特に異論はなかった。 雨が上がったのは結局昼過ぎで、外出は先日よりかなり遅くなった。 その上雨上がりの廃墟は足元も悪く、大部分が煉瓦で舗装されていることもあって、ミリが滑って転ばないように注意を払う必要があった。……万一こんなことで怪我をされても、この場所ではまともな治療も受けさせてやることができない。 それでも少女は構わずはしゃぎ回るため、一行はすぐに泥まみれになった。特にジアの受けた被害は甚大で、美しい毛並みが見る影もなく斑模様になる。当の本人(猫)は気にする様子もなかったが、帰ってから洗ってやる手間を考えるとすこしだけげんなりする。 目的地近くまで来ると、日は傾き始めていた。 厚い雲の端がオレンジ色を帯び、どことなく厳かな雰囲気が漂う中、ミリは相変わらずの上機嫌だった。動き回りすぎて疲れたのか、先ほどよりは落ち着きを取り戻していたが。 「あ。ここだよ、シン」 やがてミリが指し示したのは、確かに四角い建物だった。 ただし、かつてはコンテナのような外観をしていたはずのその施設は、爆撃の痕跡だろう、シンから見て右手前の角が崩れ落ち、骨組みだけを残してかなりの範囲を空に向かって開けていた。昔は警備されていたであろう入り口も、今は開け放たれていてセキュリティの欠片もない。 「え、ここって……」 その施設を見、シンは首を傾げる。俺の記憶が間違っていなければ、ここは。 生成プラント。 主にバイオテクノロジーの研究に用いられていた施設で、当時は野菜類などの培養研究が行われていた場所だった。……餌でも探すために紛れ込んでいたのだろうか? 「どうしたの? 早く入ろうよ」 「ん、今行く」 一足先に駆けて行ったミリに促され、シンも後を追う。……さっき考えたとおりなら、「拾った」よりも「見つけた」の方が正しい。その場合は特に見つけた場所は重要じゃなく、異変とも関係ない可能性が高い、か。 二人で中に入ると、内部は外から見えていたとおり惨々たる有様だった。 ラインが視界中に広がっており、往時の研究規模を容易に窺わせる。……しかし幾重にも連なるガラスケースの中には、それを満たしていたはずの培養液は一切見受けられず、それどころか粉々に粉砕されているものさえ少なくなかった。天井から落下してきた瓦礫も散乱している。 ミリは時折シンの方を振り返りながら、ジアと共に奥の方へと進んでいく。バリバリと破片を踏みつける音が響き、怪我はさせないようにしないと、という懸念が一層強くなった。 「シン、気をつけてねー。転ぶと危ないからー」 「……そっちも気をつけて」 下手に体勢を崩して手でもつきさえすれば、それだけで大怪我に繋がりかねない。 だが、ミリとジアは慣れたもので、危険のない足場を選んですいすい器用に進んでいく。……どちらかと言えば、注意しなくちゃならないのは俺の方か。 しばらくすると、ミリは奥まったところにある扉の前で立ち止まる。 「ここ?」 「うん、この中。ここだけはまだきれいなんだ……じゃあ、開けるね」 言って、ミリは扉を引き開ける。 シンは歩を進め――そして、止めた。 目の前の光景と共に、低い動作音が聞こえてきたからだった。 「――動いてる?」 目の前で、いくつかの機器が稼働していた。 円筒形をしたガラスケース。僅かに発光する周囲の精密機器。今さっきまで目にしていたものとは違い、高度な研究がなされていたことが見て取れた。だからシンは、ミリが自分をここに案内したことに対して困惑する。……これは、餌がどうこうという場所じゃない。 どちらかと言えば、もっと専門的な研究が行われていたかのような——。 気付くとミリは、この前そうしていたようにジアを抱え、シンの方へお腹を見せている。ジアはやはり嫌そうな様子だったが、今日はおとなしくしていた。 「ここなのにゃー」 「ここ? ……でもこんなところ、食べ物があるようには思えないけど」 シンが言うと、ミリはきょとんとした顔をする。 「食べ物? シンが知りたかったのは、ジアを拾ったところでしょ?」 「うん、だから猫が餌を――」 …………。 え? 言いかけて、シンは気付く。 混乱と驚愕が、胸の内に押し寄せる。……まさか、そんなこと。 シンが少女を見ると、彼女は頷いてジアの両前足を動かす。 「うん。あたしはここでジアを拾ったの。 ――きっとここで生まれたんだね」 シンは言葉を失った。 培養研究。 その最たるものは、クローン技術だ。 事実ジルタ=アノスは、その分野の研究でも目覚ましい成果を上げていた。……しかし、だからと言って、そんなことがあり得るのか? いい加減耐えかねたのか、ジアはするりと腕の中から抜け出す。シンはその白猫を見つめ、白猫もシンを見つめ返した。最初の邂逅の時のように。 「お前は、もしかして」 「? ジアがどうかしたの?」 ミリの言葉は無視して、目の前の培養装置を見やる。 いや、その背後にある、街そのものを見る。 電気。水。ジア。 異変の全ては全てはミリの周囲に集中していた。 たとえばそれらが、意図的に与えられたものだったとしたら。ミリが様々な設備を利用していたのではなく、ミリに利用されるために設備が整えられたのだとしたら。……あるいは、ジアも彼女の孤独を和らげるために。 「そういうことなのか、ジルタ=アノス……?」 誰にともなく、シンは呟く。 ジルタ=アノス。――お前は、ミリを生かそうとしているのか。 「あっ」 我先にと飛び出したジアを追って、ミリもまたプラントの外へ駆け出していく。 街には雨上がりのにおいに加え、赫灼とした夕焼けが降り注いでいた。近くの空が、瓦礫が、塔が、光を受けて静かに燃え落ちている。音はない。動きもない。生きている者の姿は、自分たちを除いて他にはない。その朱色に馴染んでいるのは、とうに斜陽を迎えた廃墟だけだった。 死の街。 ここは、死の街だ。 およそ生きている者のいるべき場所じゃない。目の前で猫と戯れる少女を見ながら、シンは思う。たとえ街が彼女を生かそうとしているのだとしても、こんな小さな女の子がいていい場所なんかじゃない。……ただ、悲しかった。機能の大部分を喪失して尚、街が自分に課せられた役目を果たそうとする姿が、シンにはただただ悲しかった。 担いでいたバッグパックを斜にずらすと、衛星無線を取り出す。取り出して――躊躇する。自分の推測までも報告するべきなのか。そもそもこれは妄想ではなく、客観的な事象なのだろうか? その判断が欲しかった。だからシンは縋るようにコールを掛け、相手の応答を待つ。 それほど間を置くことなく、回線は繋がった。 『私だ。何か動きがあったか?』 「……ローン少佐」 報告を始める。 なるべく事実に沿うよう、仔細漏らさず。 だが、自分の声に覇気がないことは分かっていた。 声に出して組み立てた推論には一定の説得力があるように思われたし、それを推論と前置きした自分にも正常な判断力があると思われた。だが、それはあくまで「自分」の考えだった。もしかすると分かっていないだけで異常な考えに至っているのかも知れず、すでに自分はおかしくなっているのかも知れない。だから、シンは相手の判断を求める。 無線の向こうで考え込み、やがてマキナは言った。 『正直なところ、私も同じ可能性を考えていた』 「え?」 呆気なく肯定されたことで、シンの声が僅かに上擦る。 『お前から浄水設備に関する報告を受けた時だ――数ある設備を全て個人で動かすことは至難に近いが、これが街自体の意志であったらどうか、とな。元々ターミナルのメインフレームは都市管理機能に偏重しているのだから、その気になれば造作もない。……今までは口に出すのも馬鹿らしかったが、今回の報告で確証が持てた。少なくとも、部分的に機能は生きているはずだ』 「それでは」 嫌な予感を覚えつつ、シンは訊ねる。「これより自分はどうすべきでしょう。そこまで判明したのならば、生存者を連れて撤収を?」 「いや」 その予感を裏付けるように、会話の間が空く。 果たして次の言葉、シンの希望は打ち砕かれた。 『――万が一にも都市機能が生きているというのなら、一刻も早く停止させなければならない。中枢部が稼働しているのなら猶更だ。融合炉への不正介入が行われた場合、最悪、周囲一帯が汚染される危険性がある』 命令を耳にし、シンはゆっくりと瞑目する。 分かっていた。……この調査の性質上、こうなる可能性がゼロでないことは予め承知していた。単なる私情と市内の安全。どちらを優先すべきかなど火を見るより明らかだ。 だが、こんな話があるのだろうか? この街に生まれ、生かされ、生き残った自分が最後の引金を引くなんて――そんな残酷な役目があるのだろうか? 「……少佐、俺は」 『聞け』 シンを遮り、彼女は続ける。 『事態が事態だ、少女の保護に関しては問題ない。滞りないとまでは言わないが、じきに派遣許可も下りるだろう。だが、処理部隊ともなれば話は別だ。ここまでの不祥事を上層部がすんなりと受け入れることはない。……説得するとしても、かなりの時間を要する』 「…………」 『言いたいことは分かるな? もし事態が予断を許さない状況になっても、その時部隊が到着している確率は極めて低い。勿論これは最悪の想定だが、ターミナルを止められるとすれば今滞在しているお前を措いて他にはいない』 「少佐、」 全てを話そう。 自分が戦禍の生存者であることも、個人的な理由から調査を引き受けたことも、全て。そう思った。そうすれば、いくら少佐でも役割を免じてくれるはずだ、と。 「申し訳ありません、俺は――」 『いいから聞け』 しかし、有無を言わせない調子で彼女は言った。 『私は、お前が十年前の生存者であることを知っている。……これがお前にとって、酷な命令であるということもだ』 ――シンは目を見開く。 俺が、生き残りだと知っている? 『その上で私は、お前こそが適任だと考えて調査を依頼した。今も考えに変わりはない』 言葉を聞きながら、動揺と混乱が綯い交ぜになる。 それはある種、怒りにも似た感情だった。 ……じゃあこの人は、親殺しの命令になるかもしれないと分かっていて、俺に調査を任せたって言うのか? この街出身という事実が、任務の障害にもなりかねないことを知っていて? 無線機を持つ右腕が震え始め、冷静に考えることができなくなる。 「あなたらしくもない……」 口を衝く言葉は、もはや抑えようもなかった。 「不合理だ――それなら俺には向いていないって、最初から分かってたはずじゃないですか。私情で命令を放棄するかも知れないって! それなのに! どうして俺にこんな役目を」 『お前がこの話を聞き、引き受けたからだ』 「――説明になっていません! なら俺は――!」 『どうすればよかったかと? 従わざるを得なかったと? 聞け、シン! ……お前にはあの時、自らの出自を明かす権利があった。何かしらの理由をつけて、その場で辞退することも可能だった。だが、そうしなかったのは何故だ? お前自身が過去に囚われていたからじゃないのか? 囚われたままでいることを嫌ったからではないのか!!』 「――――」 初めて聞く強い調子に、二の句が、継げない。 見事に正鵠を射ており、シンには反論の余地もなかった。 彼女の言う通りだった。調査の過程でこうした選択を迫られる可能性も、自分が過去に対して明確な態度を示さなければならないであろうことも、最初から分かっていた。それら全てを承知した上で、自分がこの調査を引き受けたことも。全ては自分自身が望んだことだった。 彼女の言葉からは、一切の容赦が消え失せている。 『お前にはそれを遂行するだけの能力があり、意志があり、権利があった! だからこそ私はお前に任を割り振り、お前自身が望んで引き受けた! ならば、最後まで全うするべきではないのか? ……だがその時が来れば、選ぶのはお前だ、シン・アーロック』 逃げるか。 向き合うか。 最後に彼女は言い放つ。 『その街の、ジルタ=アノスの終焉を――お前が選ぶんだ』 無線が切れる。 沈黙が訪れる。 赤光の中、シンは一人立ち尽くしていた。 迷いはある。ないわけがない。たとえ惨劇であっても過去は過去であり、今の自分を構成する一部分に他ならなかった。それを切り離そうとした自分の覚悟の甘さを、ここにきてシンは思い知らされていた。 過去から来たるもの。それは自分だった。 ふとした瞬間の狂おしい郷愁も、肯定しがたい残酷な表象も、過去の全ては今の自分自身だった。その終わりを選ぶということは、即ち自分の終わりを選ぶということだった。今の自分を自分で殺し、自己同一性を欠いた状態で生き直すことに他ならなかった。 過去と対峙するとは、そういうことだ。 分かっていたはずなのに、分かっていなかった。 「はは」 シンは自嘲気味に笑い、暮れゆく空を力なく見上げる。……十年。その間も結局は逃げていただけで、まともに向き合おうとしていなかったことを悟る。だからこそこれは自分への罰であり、今こそ、全てを清算する時だった。 でも。 ミリは。ジアは。 彼女たちは、この清算に一切の関わりがない。 自分が今、ここで逃げだしたら彼女たちはどうなるだろうか。……故郷を失い、行くあてもなく彷徨う自分のような人間を増やしてしまうのではないだろうか。 そう考えた時、シンの瞳にかすかな光が宿る。 「……終わらせないといけないよな」 少女と白猫。そんな童話は、いつか誰かが終わらせてやらなければならなかった。そうだとするなら、せめて自分の手で幕を下ろしてやりたかった。それがこの街に生かされてきた自分にできる、最後にして唯一の仕事だった。 かちり、と時計の針が現在を指し示す。 もはや個人的な感傷も、流れていった月日もそこにはない。 少佐の命令も、立場も義務も関係ない。 ――終わらせよう。そう思った。 「ミリ」 覚悟を決め、目の前に視線を向ける。すでにそこには彼女の姿はなかったが、周囲一帯に聞こえるように大きな声で呼び掛ける。 だが、暮れ泥んだ街並みから返事はない。 曖昧に溶けた輪郭の中、口に出した言葉も消えていく。 「……ミリ?」 もう一度呼びかけるが、反応はない。 すぐ近くにいるのだろうと視線を巡らせてみるも、見つからなかった。 出会ってから今まで、ミリは離れず彼の傍にいた。だから、一体何が起きているのか気付くまでに時間が掛かる。警戒心が薄れていたのか、どこかで根拠のない確信をしていたのかは分からない。ただシンは、自分が失態を犯したことを悟る。 広がる廃墟の只中に、少女は影も形もない。 いつの間にか、彼女は姿を消していた。 6 ジルタ=アノスは考える。 如何にすれば人々は自分のもとへ戻るのか。 破損した頭脳で、破損しているがために、延々と演算を繰り返す。コードを実行するまでもなく結果は知れていたが、十全な機能を自らに期待できないことに起因する可能性を考慮し、人工知能故の飽くなき試行錯誤を繰り返し続ける。 ノット。デリート。だがまた、複雑な計算をするまでもなく、これらの演算自体が持続不可能であることも自明だった。予備電源含め、残された電力量を全て演算に費やしたところで、望む結果が得られる確率は極めて低い――よって、最低限の機能のみを残し、スリープ。 自らの破損を計算に含めるという事態そのものが破損ではあったが、それでもジルタ=アノスは合理的な回路を維持しており、その限りにおいて正常だと言えた。故に「人々を取り戻す」現実性よりも「人々が戻る」可能性に優越があると判断したのであるし、その判断に従って必要な措置を施した後、眠りに就いたのだった。 自らの手で住民を取り戻せる可能性。 それは、限りなくゼロでしかなかった。 ※ あまりにも迂闊だった。 もと来た道を駆け戻りながら、シンは思う。ミリの近くで、この街をどうこうなどという話を不用意にするべきではなかったのだ。……彼女のことを考えれば、それを良く思わないことくらい分かったじゃないか! 瓦礫の山。 張り巡らされたケーブル。 出発の際は気にもならなかった障害が、行く手を阻むため設置された構造物のように思われてくる。逐一それらを乗り越える度、焦りが、予感がシンの脳裏を過ぎる。話を聞かれたと決まったわけじゃない。しかし、彼女が無言で自分の傍を離れるなど、それ以外に思いつかなかった。 ジルタ=アノスの現状を考えれば、彼女に何かしらの危害が及ぶ可能性は低い。期間は分からないが、もともとこの街で暮らしていたのだし、先刻の推測が当たっているのなら猶更だ。それでも、嫌な予感は拭えなかった。 胸騒ぎがする。 何か、本質的なことを見落としているような。 「くそっ」 崩れたタイルに足元を奪われ、思わず吐き捨てる。辺りはすでに暗くなりかけていて、鮮明に見通せる距離が少なくなってきていた。完全に日が暮れてしまえば、そして彼女が家にも帰っていなかったのなら、今日中の捜索は絶望的だった。 急ぎながらも周囲に目を遣り名前を呼びながら走り続けるが、彼女が自分の意志で傍を離れたのなら、返事はしないだろうと分かっていた。少し隠れただけでも、目視ではもう見つけられない。結局シンは彼女が帰宅していることを願う他になかった。 民家の立ち並ぶ狭い路地を通り抜け、枯れた噴水の広場へと躍り出る。おぼろげな影を踏み、息を切らして駆け抜ける。目の前にはあの時のように案内役はいなかったが、感傷に浸っている余裕はなかった。ひたすらに足を動かし続け、ようやく見えてきた屋根に向かってひた走る。 頼むから。 頼むから、そこにいてくれ。 「ミリ!」 開け放った玄関へ、大声で名を呼ばわる。 中へ入ると、暗くなっていること以外、家の様子は変わっていなかった。 まるで時が止まったかのような情景を前に、シンの思考が纏まらなくなる。……返事はない。明かりもついていない。けれどそれがそのまま住人の不在を指し示すわけではなく、だからシンは名前を呼びながら全ての部屋を探し回った。 何一つとして変わりはない。 ただ、少女と猫だけがそこにいない。 その時、誰かの声を聞いた気がした。 シンは背後を振り返る。 ランタンを手に外へ出ると、明かりがより強い光によって上書きされ、すでに不要となっていることに気付く。 顔を上げると、廃墟の数々が鮮明な影と輪郭を帯びてそこにあった。 その向こうで、巨大な塔が光を放っている。 体全体で自らの存在を示すようにして、眩いばかりの光を街全体に投げ掛けている。それは往時と同じく、まさしく機械仕掛けの太陽だった。街は明かりを受けて自分を思い出したかのようであり、今まさに夢から覚めたかのようだった。張り巡らされた血管が、街中に散在する器官が、光の中で脈動している。起き上がる力を蓄えるように。 「ミリ……?」 彼は呟く。 ジルタ=アノスの目覚めだった。 ※ 絶え間ない無信号の入力と、眠っている間も続けられるバックグラウンド処理。ジルタ=アノスが合理性を欠いたのは、その二つが大きな要因だと言えた。 街の機能を司る中枢という性質上、ジルタ=アノスがスリープモードに入った前例は未だかつてなかった。一切の信号が入ってこないという事態も同様に、未経験の領域に属していた。眠りを妨げる外部入力もなく、ただ昏々と情報整理を繰り返す――それはほとんど「夢」と呼んで差し支えない性質を帯びたものである。 私は彼らのために何をすべきなのだろう。 夜毎、ジルタ=アノスは考える。かつての情景を脳裏に浮かべながら考える。……彼らはいつ帰ってきてくれるのだろう? しかし人間の思考という不確定性を帯びたものに関する思考は、仮にジルタ=アノスが十全な機能をもとに演算を続けた場合であっても導き出すことは困難だっただろう。故に、その問いに対する答えは帰納的に考えざるを得なかった。 無秩序で忙しないモンタージュのような情景の中に、蓄積されたデータの中に答えを探す。帰ってきた人々相手に待っていた人々がとる行動、その規則性を探し続ける。私は何をすべきなのだろう? その答えは、夢の中で唐突に訪れた。 ――おかえり。 誰もがそう言って人々を出迎える。 おかえり。 それは一定のパターン性を帯びた行動だと思われた。 誰もが、その一言を受けて安穏とした団欒に勤しむ。その一言を受けてこの街の中に眠る。 ならば、おかえり。 おかえり、を。 ※ 自分が何を目にしているのかは分からなかったが、ターミナルの起動が意味するところは一つしかなかった。……それは、危惧していた可能性。この場所において、最もあってはならない最悪の可能性。 融合炉の起動。 にもかかわらず、走り出したシンの脳裏を占めていたのは彼女の姿だった。根拠はない、理由もない。ただ合理性を欠いた直感だけがそこにある。おそらくは現在のジルタ=アノスにあって、彼女にとって一番危険であろうその場所に。 ……ミリ。 いるんだな? 中央部への道筋は今更考えるまでもない。脳裏に刻み付けられた記憶が、体で覚えている記憶が無意識のうちにシンを動かした。かねて抱いていた胸騒ぎが、これ以上となく重い確信を伴って彼に教えている――時間がない。 融合炉を動かしてまでジルタ=アノスが何をしようとしているのか。どうしてミリがそこにいるのか。そもそも本当にそこにいるのか。確かなことは何一つとしてない。 ――これは、夢だ。夢物語だ。 この都市が最後に夢見た、機械仕掛けの幻。 在りし日の思い出。失われた日々の記憶。廃墟の夕焼け。少女の笑顔。……全てが終わる。もうまもなく、どうしようもないほど決定的に終わる。頭ではないどこかでそう分かっているからこそ、身を引き裂かれるように痛かった。 ターミナルの入り口は、先日と同じく開かれている。 転がり込むように足を踏み入れると、そこはもう暗闇ではなかった。 しかし眩いばかりに脈動する機械灯の下、エレベーターは停止していた。シンは迷うことなく踵を返すと、壁面に設けられた階段を一足飛ばしで駆け上る。 体が重い。 足が上がらない。 夜気を吸い込み過ぎた喉は、カラカラに乾いていた。 塔を囲む壁はどこまでも高く、そのまま天上まで続いているかのようだった。途中で無線機が誰かの声を受信するのが分かったが、応答している暇はない。ひたすらに最上階を目指して体を動かし続ける。 辿り着いた鉄扉は、もう閉ざされてはいなかった。 僅かに開いた隙間をこじ開け、ジルタ=アノスの中枢に至る。そこは置かれた設備に比して酷く広い空間で、この街の中で最も色濃く寂寥の気配があった。照明の灯った下部に対して上部は暗く、どこまで高く伸びているのか見通すこともできない。 部屋の真芯に聳え立つ巨大なメインフレームは砂時計にも似た形状をしており、その上部に人型の、女性を模した意匠が施されていた。入った者をまず出迎える形で入り口正面を向いており、感情を抑えながらも微笑み掛けているような表情をしていた。 息を切らしたシンが最初に見たのもその表情で、幼少の頃、一度だけ目にした時と何ら変わっていないように思われた。他の全てが変わり果てているというのに、相変わらずの慈愛を注ぎ続けているその微笑が、言葉にならないほどに物悲しかった。 そして、砂時計の土台部分に立つ人影。 「ミリ!」 呼びかけを受け、彼女はゆっくりと振り返る。 泣き腫らしたらしき目元はすでに乾き、何の感情も伴っていない。やってきたシンに対しても感慨を見せることはなく、興味もない様子で一瞥をくれるだけだった。 すぐに偶像へ視線を戻し、彼女は言う。 「聞いてたの。……壊しに来たんだよね、この街を」 違う。 とは言えなかった。事実、シンが中枢機能を停止させるためには「彼女」へ何らかの形で介入する必要があり、現在のところ可能な手段は物理的な破壊以外にない。だから、今更彼女に嘘をついても仕方がなかった。 「聞いてくれ、ミリ」 「ねぇ、どうして?」 説得しようとしたシンを遮り、彼女は呟く。 「あたし、待ってたのに――誰かが戻ってきてくれるのを、ずっと待ってたのに。いろいろ頑張ったよ? いつ戻ってきても大丈夫なようにたくさん勉強したし、『おもてなし』だってできるようになった。シンもうれしかったでしょ? それなのに……『あたし』を壊すの?」 待ってた? 「あたし」? ……言葉の端々に、違和感がある。 混乱を表情に出すシンに向かい、少女は正対する。 「大変だったけど掃除もしたよ? この前は失敗しちゃったけど、ご飯の作り方だって覚えたよ? 頑張った。いっぱい頑張った。戻ってきてくれた人がうれしくなるようにって、たくさん頑張った。……なのに、どうしてそんなことするの?」 シンは思い出す。ミリの言葉の数々を。 「みんなのために考えた」 生存可能な環境でないことを。 「みんなのために頑張った」 ジアがこの街で生まれたことを。 「『みんな』のために、シンのためにやったのに! ……それを邪魔するなら!」 やがて目の前で、「彼女」の感情が炸裂する。 「――シンなんかいなくなっちゃえ!!」 瞬間。 暗闇に閉ざされた天井部から、何体もの自走兵器が降下してきた。 ※ 機械が「おかえり」を言うことはない。 ジルタ=アノスはそう考えた。少なくとも、記録された情景の中にそのようなデータはなかった。故に彼女は人間を造らなければならなかった。 素体を生み出すのはさして困難でなく、培養技術で単純な構成要素を再現するだけで事足りる。ただし脳構造と教育程度の再現に関してはこの限りでなく、わざわざ演算を繰り返さなくとも不可能であることは分かっていた。 十全な脳を作り上げることはできない。胎児を生み出し育て上げても、言語力や社会性などの人間的能力を再現することはできない。なら、姿形を人間に模した何者かを造り出すより他はなかった。 それでも内面の再現は困難であり、メインフレーム本体でならある程度シミュレーション可能な脳機能の数々も、人間の頭蓋に収まる体積で実現しようとすれば問題が絶えなかった。比較的単純な思考回路、精々が十代前後の人間の脳であっても、物理的制約を考慮すれば再現にはジルタ=アノス自身のほとんど最大能力を用いる必要がある。 結局彼女は、最低限の機能を残し、ほぼ全ての機能を素体に移植した。 素体が受け取った刺激を間断ない通信によって把握し、本体が最大速度で処理し、身体を動かす信号として返す――そのシステムはあまりにも非合理的であったが、違和なく「人間」を再現するためには他に方法もない。機械が「おかえり」を言うことはない以上、素体はどこまでも自然に「人間」でなければならなかった。 そのためには、千分の一秒の誤差も許されない。 故に彼女は、その素体を「ミリ(milli)」と命名した。 ※ 瞬間的に、シンは場の制圧が不可能であることを悟った。 一体だけが相手なら、EMPを用いて撃退することもできる。しかし二体、三体ともなればその間に蜂の巣にされることは明白だった。 軍人としての思考回路で反射的に後退すると、入ってきた鉄扉の向こう側へと身を隠す。――瞬間、背後の壁を打つ重火器の一斉掃射。 屈んで壁にもたれかかりながら、ぎり、と歯噛みする。 シンはすでに、ミリという少女が何者なのかの結論に至っていた。他ならぬ彼だからこそ、大した間もなく理解できてしまった。 生物工学。 半導体産業。 エネルギー事業。ジルタ=アノスに破滅と発展をもたらしたのは、大きくこの三つが要因だった。すなわち都市の根幹にも関わる科学技術である。 ジアの出自を知った瞬間から最悪の想定は頭にあった。つまり――疑似的なアンドロイド。プラントの機能を流用して造り出した素体に、電脳を移植することで成立する個体。義肢に用いられる神経接続技術に加え、メインフレームの演算機能を利用すれば理論上は不可能ではない。 しかし、それでも尚、シンには分からない。 「どうしてだ、ジルタ=アノス!」 背後の少女に向かい、シンは大声で呼び掛ける。 銃声は止んでいたが、飛び出すことはできない。 「こんなことをすれば、今度こそきみは終わりだろう! 待ってたんじゃないのか!? 誰かが返ってくる日を――また一緒に暮らせる時を!」 「……シンには、分からないよ」 少女の声からは、もうどんな表情も読み取れない。 続けて、自走兵器の足音が迫ってくる。 シンは明確に追い詰められていた。 ……炉を停止させるには、メインフレームを破壊する他に手段はない。だけど、あの兵器を何とかしなければ近付くこともできない。……どうすればいい。一体どうすれば。 そこで不意に、シンは違和感を覚える。 「そうだ」 どうして扉は開かれていた? 融合炉を起動させて何かをするつもりなら、邪魔が入らないよう閉じておけばいいじゃないか。それ以前に、何をするという目的も感じられない。 これではまるで、炉の起動そのものが目的であるかのような。 そこまで考えて、はた、と思い至る。 「……あぁ」 そういう、ことなのか。 力なく、シンはその場に立ち上がった。 誰も彼も、俺に残酷な役目を強要する。 「それが望みなんだな……ミリ」 答えは返ってこない。 ――それでもシンは、弾かれたように動き始めた。 ほとんど同時に銃声が再び響いたが、すでに階段を下り始めたシンには高低差で掠めもしない。その姿を追った自走兵器が階段の最上部まで辿り着いた時にも、シンは折れ曲がる階段の下へ身を隠している。 余念はもう、どこにもない。 炉を停止させる方法は、メインフレームをシャットダウンさせること以外にない。しかしメインフレームを停止させるだけなら、一つだけ方法があった。 ほとんど飛び降りる勢いで階下を目指しながら、シンは考える。……いくらなんでも、あの規模のCPUを動かすのに充電だけでもつとは考えられない。なら、他に電力の供給源があるはずだ。そんなものがこの街にあるとしたら、それは一つだけしか考えられない。 予備電源。 だが、現時点でのジルタ=アノスにおいて唯一の電力である予備電源を停止させることは、街の全機能を停止させることと同義だ。だからシンは走りながら、視界が滲み始めるのを止めることができなかった。それは意志や義務感ではどうにもならない、別離の際の涙だった。 終わる。 俺が選んだ終わりだ。だから最後まで付き合おう――ジルタ=アノス。 やがて彼は、動力室に辿り着く。 足は棒のようになっており、頭は割れんばかりに鳴っていた。無理な呼吸を繰り返した胸は限界を迎えており、まともに息をすることもままならない。目元は涙の跡で赤くなっていて、酸欠を起こした脳は思考を放棄していた。 それでも制御装置に倒れ掛かると、シンは左手の手袋を外す。 走馬灯のように様々な出来事が去来する。 燃え盛る家々。明かりを点す街路灯。路地裏の少女。二人きりのピクニック。軍務に励んだ日々。悪夢。幻肢痛。瓦礫の山。煤けてしまった天井。高台から見渡した街。逃げる白猫。少佐の書斎。亀裂から顔を出す植物。 ミリとの約束。 ごめん。 「……オムライス、作ってやれなかったな」 義肢の全出力を解放する。 外部からの異常入力に装置が支障を来し、まるで悲鳴を上げるかのように辺りへと警報が響き渡る。ターミナルの諸機能が次々に強制終了され、輝いていた白亜の塔から一つ一つと明かりが消えていく。それはこの街の、機械仕掛けの太陽の末期の声だった。 全ての充電を使い終えると、シンは制御盤に背中を預け、床の上に崩れ落ちる。今にも途切れそうな照明が、天井でちかちかと明滅していた。 その様子を見つめた後、シンは静かに目を閉じる。 おやすみ。ジルタ=アノス。 ――そして、明かりはぷつりと途絶えた。 7 外に出ると、空は白み始めていた。 崩れた防壁の隙間、水平線の向こう側が明るくなっている。 「……もう、そんな時間なのか」 動き続けた時間の長さに、シンは色もなく吐息を漏らす。疲れ果てた体は宙にふわふわと浮かんでいるようで、もう数秒だって走れそうにはない。 しかし、意識ははっきりとしていた。 夢を見ているのではないことは、明らかだった。 数歩進んで、ターミナルを振り返る。 完全に機能を喪失した中央塔は、それ自身がジルタ=アノスの墓標のようでもあった。もう二度と夢を見ることはない、街の墓標。 会うこともないだろう。 だからシンは、その姿を脳裏に焼き付ける。 どれだけの間そうしていたのか。 やがて彼は、足元から声が聞こえることに気付く。 「――ジア」 にゃおん。 シンの呼びかけに、白猫はもう一つ鳴く。 屈んで両脇から抱きかかえると、ジアは大した抵抗もせずにされるがままになった。持ち上げられた状態で、主人のそれにも似た蒼い瞳をシンに投げ掛けている。 シンは微笑む。 「俺と一緒に来るか?」 「にゃあ」 よし。 地面に下ろすと、一人と一匹は一緒に歩き始める。 瓦礫の合間を縫うように、無数のケーブルが繁茂していた。 多種多様な機器が吐き出しては飲み込むそれらが、あるところでは絡み合い、延び、あるところでは途切れている。それはちょうど街に張り巡らされた毛細血管のようでも、軒先を奪い合う蔦や蔓薔薇のようでもあった。 けれど仕えるべき主人を失った今、その光景は意識を抜かれた標本と言うより他はない。街は静寂の中で、暁の中で眠りに就く。もう見ることのない夢を引き連れて、過ぎ去っていった時を引き連れて、静かに呼吸を止める。 ジアは相変わらず器用な足取りで、瓦礫の間をすり抜けていく。シン自身が疲れていることもあって、スピードはそう変わらない。同じ足取りで、同じ空の下を歩き続ける。無人の廃墟に、他の気配は一つもない。 長かった夜は、終わりを迎える。 どこか遠くの空から、朝焼けがやってきていた。 |
瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o 2021年05月02日 22時39分47秒 公開 ■この作品の著作権は 瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年05月19日 11時02分47秒 | |||
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