ままみ と むむ |
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△前編 おにぎり天使降臨 「よっしゃーお昼だー! ままみ、ご飯食おうぜご飯ー!」 お昼休みに入るや否や、隣の席の百日紅夢夢(さるすべり むむ)が机をこちらに向けてきた。いつものことだ。 私も机を動かし、夢夢の席と向かい合わせにする。 昼食の時間は、高校生活における楽しみの一つだ。机を動かしてグループを形成しているのは私たちだけじゃなく、教室内で四つほどのグループができていた。食堂で食べる組も、複数人でわいわい話しながら教室を出ていく。 私にとっても、夢夢と二人でご飯を食べるのは、なによりも楽しいひとときだった。 「ふんふんふふーん」 夢夢は鼻歌を歌いながら、お弁当箱を机に置いた。大きな三段重ねの重箱だ。クマのキャラクターが描かれたかわいいやつである。 食べることが一番の幸せと公言する彼女は、小柄な体に似合わずかなりの大食らいなのだ。一段目と二段目それぞれに一種類のおかずを、三段目にご飯を入れるのが夢夢のお弁当のスタイルだ。あるときは唐揚げとフライドポテト、あるときはチンジャオロースーと卵焼き。今日はどんなメニューなのかな。 「おべんと、おべんと、うれしいなー!」 「今日は一段とご機嫌だねぇ、夢夢」 「あ、わかるー? 実はねえ、今日のお弁当は特別なんだー」 無邪気な笑顔を浮かべながら、夢夢は重箱の蓋を開けた。 「じゃじゃーん! これぞ夢夢スペシャルー!」 中に入っていたのはおにぎりだった。おにぎりだけ。重箱の一番上の段に、十二個の白おにぎりが詰まっている。 重箱を展開する夢夢。二段目と三段目にも、それぞれ十二個のおにぎりが入っていた。 「こりゃまた、凄いね」 「でしょでしょー? こんなお弁当って、なかなかないよね? スペシャルだよね?」 「うん。昼食に三ダースものおにぎりを食べる女子高生なんて、なかなかいないと思うよ」 「あたしさー、白ご飯がなによりも好きなんだよねー。もっとご飯をたくさん食べられるメニューはないかなーって考えたんだー。ご飯と言えばおにぎり! じゃあ、おにぎりばっかり作ればいいじゃーん、って思ったんだー!」 満足げにうんうんとうなずいてから、おにぎりを一つ手に取る夢夢。 「それじゃさっそく、いただきまーす!」 夢夢は、おにぎりにカプリと噛りついた。咀嚼もほどほどに二口目、三口目とつづき、あっというまに一個目のおにぎりを胃の中に収めてしまった。 「おいしいなー!」 「具はなにか入ってるの?」 「えっとねー、一段目は昆布、二段目はおかかが入ってるんだー! 三段目はご飯だけ!」 私の質問に答えるが早いか、夢夢は二個目のおにぎりを食べ終え、三個目に突入している。 私も自分のお弁当箱を机に置き、蓋を開いた。夢夢のものと比べれば十分の一もない量で、メニューは冷凍食品中心の、ごく平凡なお弁当だ。 それを食べ進める。なるべく噛む回数を増やしてゆっくりと食べるのが、少ない量で満腹感を得るコツだ。 「ままみはさー、いいよねー。それくらいの量でお腹一杯になってさー」 『ままみ』は私のあだ名だ。木嶋真実(きじま まみ)の、名字の最後一文字と名前をくっつけた呼び方だった。お母さんっぽさを表す『ママみ』ともかかっているらしい。 「私は食事量に気を遣ってるんだよ。むしろ私は夢夢がうらやましいよ。そんなに食べても太らないなんてさ」 「うきき。そうでしょー?」 独特の笑い方をしてから、夢夢は幸せそうにおにぎりを頬張る。 「あたしはたくさん食べないとお腹一杯にならないからさー。でもなぜか太らないんだよねー」 夢夢はふわふわとしたくせっ毛の持ち主で、それが綿菓子みたいに丸くなっているのが特徴的だ。背の低さや、いつでも無邪気な性格も相まって、小動物的なかわいさがある。 そんな彼女を見ていると、私の心も自然と和むのだった。 高校に入学しておよそ一か月。 たまたま同じクラスになって、出席番号順で決められた席順で隣になった。私と夢夢の接点はそれだけなんだけど、彼女が積極的に話しかけてくれたおかげで友達になれた。同じ中学出身の子がいなくて、新しい友達ができるか不安だった私にとって、それは本当にありがたいことだった。 私が自分のお弁当を食べ終えるのとほぼ同時に、夢夢もおにぎり三十六個を食べ終えた。彼女は食べるスピードも速いのだ。 「ごちそうさまー! おいしかったー!」 「ごうちそうさまでした」 手を合わせてお辞儀をする私たち。 平凡な女子校の教室での、平凡な日常のワンシーン。私の人生は、今日も平和に流れているのだった。 ところが翌日、事件が起きる。 △ その日、夢夢は朝から元気がなかった。休み時間に私が話しかけても上の空で、気のない返事が返ってくる。体調が悪いの? ときいても大丈夫と答えるばかり。 その理由は、お昼休みに明らかになった。 私と机を向かい合わせても、夢夢はいつもと違って無言のままだった。机に置いた重箱を展開する夢夢。するとそこには驚きの光景があった。 「え? ちょっと夢夢、それどうしたの?」 「これが今日のお昼ご飯なんだよ」 夢夢の重箱の中には、なにも入っていなかった。一段目も二段目も三段目も、まったくの空だ。 「どういうこと? 夢夢、なにも食べないの?」 「違うよ、よく見てよ」 重箱の中を指差す夢夢。私はそこに顔を近づけて目を凝らす。すると発見した。箱の真ん中に、たった一粒の米があるのを! よくよく見ると、三段の重箱の中に、それぞれ一粒のご飯が入っていた。 「こ、これが、お昼ご飯?」 私の問いに、夢夢は小さくうなずいた。 「ど、どうしちゃったの? あんなにたくさん食べてた夢夢が、たったこれだけなんて」 いや夢夢じゃなくても、ご飯三粒でお腹を満たせる人間なんて存在しないはずだ。 「太った」 「え?」 「太ったんだよおおおおおおおおおおっ!」 夢夢は勢いよく立ち上がりながら叫んだ。 「昨日! 体重を! 計ったら! 五十キロ! あったんだよ! 五十キロおおおおおおおおお!」 なんという乙女にあるまじき行為! 自ら体重をばらすとは! 「お、落ち着いて夢夢! 大丈夫だよ! 夢夢は全然太ってなんかいないよ!」 「なぐさめなんていらないよおおおお」 涙目になりながら、力なく言葉をつづける夢夢。 「だって五十キロだよ? フィフティーンだよ? 五十って言ったらもう、完全におばさんって言われる数字だよ?」 「それは年齢の話でしょっ? 体重は関係ないよ! それと、フィフティーンは五十じゃなくて十五だよ!」 「い、今までこんなに太ったことなかったんだよぉ。もう終わりだよぉ。痩せなきゃ、痩せなきゃならないんだよぉ」 「大丈夫だよ。五十キロなんて、全然普通だよ?」 平均よりも低い夢夢の身長を考えると、多少重めかもしれないけど。 「私の体重だって、それくらいはあるんだよ?」 「うきーっ! うるさーい! ままみに、あたしの気持ちがわかるもんかー!」 眉を吊り上げて、右手人差し指をビシッと私に向ける夢夢。 「だってままみはあたしとは違うもん! 背だって普通くらいはあるし、それに、それに、そんなに大きなおっぱいだってあるじゃないかー!」 「ええっ?」 反射的に胸を隠してしまう私。 「おっぱいが大きかったら、体重が重いのもあたりまえでしょー! あたしなんかお子さま体型だもん! 寸胴だもん! このままじゃ、バストとウエストが同じサイズになっちゃうもーん!」 夢夢は椅子に座り直すと、涙を流しながら私を睨みつけた。 「ままみの巨乳! 巨峰でも食べてろ、このおっぱいおばけめ!」 「い、意味わかんないよ」 もう、こちとら自己主張の激しすぎるこの胸がコンプレックスだっていうのに。 それにしても、こんなに荒ぶる夢夢は初めてみる。一体どうしちゃったんだろう。 「と、とにかく落ち着いてよ。夢夢は全然太ってなんかないんだから」 「ふ、太ってるもん。ダイエットするんだもん。食事制限しなくちゃ」 「だからって、その量は極端すぎだよ。なにも食べないも同然じゃない」 「で、でも、昨日夢夢スペシャルを食べちゃったせいで太ったから」 「ダイエットするにしても、そんなに慌てる必要ないじゃない。ゆっくり減らしていけばいいんだよ。ね?」 「だ、だめだよ。今やらなくちゃ。今こそダイエットをするときなんだよ。だって、もうすぐゴールデンウィークだから」 「どういうこと?」 「だって、ゴールデンウィークに入ったら、もっと一杯食べちゃうもん。もっともっと太っちゃうもん。だから、今のうちに痩せなくちゃ」 夢夢は重箱の中にあった一粒のご飯を手に、いや指に取った。 「今日はもう、ほとんど食べないって決めたんだ。朝ご飯も抜きにしようかと思ったけど、我慢できずにご飯二杯も食べちゃったから」 彼女の朝ご飯の量は知らないけれど、お昼同様たくさん食べていることは想像に難くない。きっとご飯二杯という量は、いつもの半分以下なんだろう。朝から元気がなかった理由はそれだったんだ。 「だ、だから、お昼はご飯三粒だけで我慢するんだ」 指先についた米を見つめながら、ふるふると震える夢夢。 「それだけじゃ、絶対にお腹空くよ? 私のお弁当半分あげるから、意固地にならないでよ」 夢夢は小さく首を振った。 「ままみに悪いから、いい。それに、絶対にダイエットするって決めたから」 「そんなこと言わずに」 「うるさいうるさい! ままみはママみたいだけど私のママじゃないんだから、ママみたいなこと言うなー!」 こうなるともう、夢夢は言うことを聞かない。おにぎりだけで構成された昨日のお弁当のように、一度これと決めたら真っすぐに突っ走る頑固さが彼女にはある。 私にはもう、事態の成り行きを見守ることしかできないようだ。 夢夢は、指先の米を口に入れた。つづいて、重箱二段目と三段目に入った米粒も。 しばらく口をもにゅもにゅと動かしてから、夢夢はごくんと喉を鳴らした。 「ご、ごちそうさまでした」 苦悶の表情を浮かべ、涙を流しながら手を合わせる夢夢。肩が小刻みに震えている。そんな彼女を見て、私はつい、こんなことを口にしていた。 「ねえ夢夢、ご飯三粒だけなら、そんなに大きな重箱に入れてくる必要なかったんじゃない?」 「お、お弁当箱、これしか持ってないから」 そうなんだ。 △ お昼休みが終わって五時限目、現代国語の授業が始まった。 夢夢は死んでいた。 もちろん実際に命を失っているわけじゃないけど、机に突っ伏したまま死体のように動かない。眠っているのではなく、単に動く気力がないみたいだ。 教壇で教科書を朗読する先生や、真面目に授業を受けている周囲の生徒たちを尻目に、微動だにしない夢夢。 隣の席にいる身としては、見過ごすわけにはいかない。私は夢夢のほうに身体を寄せ、小声で言った。 「夢夢、夢夢、起きてよ。授業中だよ」 手を伸ばし、夢夢の肩を揺すった。綿菓子みたいな髪が、ふわふわ揺れる。 彼女は油の切れた機械みたいにギギギと首を回し、生気の抜けた瞳を向けてきた。 「むりぃ。お腹空きすぎて動けない。なんにもしたくない」 「だから言ったのに。具合が悪いって言って退室して、売店でパンを買って食べたら?」 「やだ。ダイエットするって決めたんだもん」 「とにかく、頭を上げなよ。今は授業中だよ。怒られるよ?」 ナマケモノみたいな動作で上体を起こす夢夢。虚ろな視線を空中にさまよわせている。と思ったら、急にカッと目を見開いた。 「お、おにぎりだ。おにぎりがある」 「え?」 「ほら見てよ、まみみ。翼を生やしたおにぎりがたくさん、こっちに飛んでくるよ」 夢夢は斜め上のほうを指差した。私はそちらに視線を向けてみるけど、教室の天井があるだけで、もちろん翼を生やしたおにぎりなんて見えない。 「ちょっと夢夢、なに言ってるの?」 「ほらぁ、天使みたいなおにぎりたちが笑いながらやってくるよ。うわぁ、昆布、おかか、梅干し、シャケ、いくら、オールスターの勢ぞろいだぁ」 彼女は目をギラギラと輝かせながら笑みを浮かべ、口からはよだれを垂らしている。 夢夢ったら、お腹が空きすぎておかしくなっちゃってるんだ! まずいよ、幻覚見ちゃってるよ! 明らかにアブナイ感じになっちゃってるよ! 「夢夢、落ち着いて! 翼の生えたおにぎりなんていないよ! それは幻だよ!」 「わーい、おにぎりだぁ。おにぎりだぁー」 「夢夢ぅー! 正気に戻ってよぉー」 「わーい、わーい」 夢夢の意識は完全に空想の世界にトリップしているみたいで、私が声をかけても反応しない。どうしよう。 そのとき。 「お黙りなさい!」 教室前方から、突き刺さるような声が飛んできた。声の主が、黒いタイトスカートから伸びた美脚を優雅に動かしてこちらに向かってくる。 前髪をアップにした、ボリュームのあるロングヘア。凛とした目元とビビッドなリュージュが目を引く美人。ブラウスの胸元を開け、谷間の見えるバスト自慢気に揺らしながらやってくるその人こそ、現代国語受け持ちにして我らが一年二組の担任教師、 乾芽炉(いぬい めろ)先生だ。 乾先生は私たちの傍で立ち止まり、威圧感たっぷりの目で見下ろしてきた。右手に持った指示棒を左手の平に打ちつけ、パシパシと鳴らしながら。その姿には女王の如き風格が漂っている。 「百日紅さん! 木嶋さん! あなたたち、なにをギャーギャー喚いているの? 今は授業中よ?」 「す、すみません。夢夢が、お腹の空きすぎでおかしくなっちゃったみたいで」 「お腹を? あの百日紅さんが?」 夢夢のほうに視線を移す乾先生。夢夢はといえば、相変わらず視線を宙にさまよわせていた。幻のおにぎりを捕まえようとしているのか、空中をつかむように、両手をせわしなく動かしている。 「おにぎりだぁ。おにぎりだぁ」 「まったく、しょうがないわね」 乾先生は夢夢の机の正面に立つと、胸を張ってボリューミーなバストを夢夢のほうに突き出した。 空を切っていた夢夢の両手が、乾先生のバストをガシッとつかんだ。上手い具合に、左右の手それぞれで一つのバストを。 「やったぁ、ついにつかまえたぞぉ。おにぎり、おにぎり」 「それは私のメロンパンよ」 「え? うわぁ! メロせんせえっ?」 夢夢はいきなり現世に帰還した。すごい、乾先生の胸には人を正気にさせる力があるのかな? 夢夢は動揺したのか、先生のメロンパンをつかんだまま手を激しく動かしている。結果、教師の胸を揉みしだく生徒というアヤシイ画が出来上がり、なんだか目を向けづらい状況になっていた。 乾先生はそれに動じることもなく、毅然と言い放った。 「百日紅さん、いかなる事情があろうとも、授業を妨害するような行為は許されません。わかるわね?」 「は、はい。ごめんなさい」 シュンとする夢夢。さすがに、両手もメロンパンから外した。 「木嶋さんから聞いたわ。あなた、ずいぶんとお腹を空かしているようね。大食いで評判のあなたが、いったいどうしたこと? ダイエットのために食事制限でもしているのかしら?」 「そ、そうなんだよ!」 夢夢は両手の拳を胸の前で握り、力強く先生の顔を見返した。 「あたし、体重が五十キロになっちゃったんだよ。だから、だから、痩せなくちゃいけないんだ!」 乾先生はフーッと息を吐くと、窓の外に顔を向けた。 「そうね。あなたたちの年頃なら、誰もが悩むことだものね。私も華の女子高生だったころは、体重計の数値に一喜一憂していたものだわ」 懐かしむように目を細める乾先生。ちなみに、女子高生だったのは何年前の話なんだろう。先生は年齢不詳なのだ。 「でもね百日紅さん」 先生は再び夢夢のほうに目を移し、凛とした視線で彼女の顔を射抜いた。 「ダイエットはあくまで健康のためにするもの。健康を害してしまったら本末転倒よ。まして、あなたは食べ盛りの歳なんだから。しっかりとご飯を食べて、その上で痩せられるように計画を立てるの。いいわね?」 「でも、でも」 うつむく夢夢。 乾先生はおもむろに、右手を自らの胸の谷間に差し入れ、そこからなにかを取り出した。 すげえ! そんな漫画みたいな物のしまい方する人、初めてみたよ! 先生が手にしたのは、栄養調整食品のパックだった。クッキータイプの有名なやつで、一パックに二本入っているはずだ。それを夢夢のほうに差し出す。 「これは小腹が空いたときに食べる私のおやつだけど、あなたにあげるわ。今すぐ食べなさい。本来なら授業中の食事なんてご法度だけど、私が許します」 「い、いらない! いらないよ!」 夢夢は大きく首を振った。 「もう、そんなこと言わないで食べようよ夢夢。せっかく先生がくれたんだよ?」 私がそう言っても、夢夢は「だって、だって」とつぶやくばかりだ。また涙目になっている。 「百日紅さん、多少太っても気にすることわないわよ。女の子は、ちょっと脂肪があって丸くなっているくらいが魅力的なのよ。ほら、木嶋さんを見てごらんなさい。胸のあたりが丸々してるでしょう?」 「ちょっとその発言、セクハラっぽくないですかっ?」 私は胸を隠しながら叫んだ。なんつー教師だ。 「でも、でも、あたしはおっぱい大きくならないもん! お腹が丸くなっちゃうもん!」 夢夢は両腕を突き上げてブンブンと振った。 「先生やままみみたいに、痩せてるくせにおっぱいが大きい人には、あたしの気持ちなんてわからないんだよぉぉ!」 「わかるわよ」 先生は静かに言うと、再び胸の谷間からなにかを取り出した。おいおい四次元ポケットか。 「百日紅さん、これを見なさい」 それは一枚の紙だった。先生から受け取った紙を見つめる夢夢の横から、私も覗き込んでみる。どうやら写真みたいだ。 写っていたのは、一人の女学生の姿だった。背格好からすると高校生で、ずいぶんとぽっちゃりしていらっしゃる。 「それは、私が高校に入学したときの写真よ」 「えーっ! このおデ、いや、ぽっちゃりとした子が乾先生っ?」 叫んだのは私だ。それが引き金となって、他の生徒たちも集まってきて写真を見ては驚きの声を上げ、てんやわんやの大騒ぎになった。 「はい! みんな騒がないの! 今は授業中だということを忘れちゃダメよ!」 生徒たちが自分の席に戻って静かになると、乾先生は夢夢に向かって言った。 「私も昔は太っていたのよ。その写真は、戒めとして常に持ち歩いているの。当時は、痩せたい痩せたいと思っても全然痩せられなかった。なぜかわかるかしら?」 首を振る夢夢。 「代謝が悪かったからよ。食べて寝るばかりの生活をしていると、筋肉量が減ってしまう。すると基礎代謝が低くなって体内に溜まった脂肪を分解しきれなくなるわ。それに気がついた私は、運動をすることでカロリーを消費するとともに、筋肉をつけて基礎代謝を上げた。その結果」 頭と腰に手を当て、身体をくねらせてセクシーポーズをとる乾先生。 「この自慢のダイナマイトバディを手に入れることに成功したわ! おわかり? ダイエットに必要なものは運動! 食事は減らすものじゃなく、しっかり摂るべきものなのよ。食事を摂らないと、筋肉をつけることができないから」 「食事は、しっかり、摂るべき」 そうつぶやく夢夢。 「ええ、そうよ。腹が減っては戦ができぬ。ダイエットもね」 先生はもう一度、栄養調整食品のパックを夢夢に差し出した。 それを見つめながら、プルプルと身体を震わせる夢夢。やがて、ポツリと言った。 「あ、あたし、食べてもいいのかなぁ?」 「いいんだよ」 私は夢夢の肩を優しく叩いた。 「夢夢は太ってなんかない。んーん、仮に太ったとしても、夢夢は夢夢なんだから。無理しなくてもいいんだよ」 夢夢は私の瞳を見つめ返してくる。しばらくすると、意を決したように先生のほうを向き、栄養調整食品のパックを受け取った。勢いよく開封し、クッキーを食べ始める。 「うめぇ、うめぇ」 ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、クッキーを頬張る夢夢。 「チーズ味よ。チョコ味もおすすめよ」 「いや先生、夢夢がおいしいって言ってるのは、味のことじゃないと思いますよ」 まあ、味もおいしいんだろうけど。 夢夢は二本のクッキーを食べ終えると、乾先生に頭を下げた。 「先生、ありがとう。それに、迷惑かけてごめんなさいでした」 「わかればいいのよ。過ちは誰にでもあるわ。大切なのは反省し、それを糧にして成長することよ」 「うん」 夢夢は顔を上げ、私のほうに向き直った。 「ままみも、ありがとう。あと、ごめんね。あたし、ひどいこと一杯言っちゃった」 「大丈夫、気にしてないよ」 「ままみぃ!」 夢夢は大量の涙を流しながら、私の両手を握り返してきた。 「ままみ、本当にありがとう! 身体の友よ!」 「そこは心の友じゃないのっ? 身体の友ってなにっ?」 なんだかイヤラシイ響きだぞ。 「ままみって、本当に優しくていい子だね。ただ、おっぱいが大きいだけじゃなかったんだ」 「そんなこと思ってたのっ?」 「ふふふ、青春ね」 と乾先生。 「これにて一件落着といったところかしら。百日紅さん、これからは無理な食事制限はしないこと。いいわね?」 「うん。あたし、ちゃんとご飯食べる! だってあたしは、食べてるときが一番幸せなんだから!」 「それでこそ夢夢だよ」 私は言った。 「そうだ夢夢、今度一緒に、なにかおしいものを食べに行こうよ。おすすめのお店とか教えてほしいな」 「そうだね! それじゃあさっそく、レッツゴー!」 夢夢はこぶしを突き上げながら勢いよく立ち上がると、大股でドアのほうに歩いていく。 「夢夢っ? どこに行くのっ?」 「ご飯を食べにいくんだよ! あたしのおすすめのお店に!」 「ええっ! 今じゃないよっ? 今度だよっ? 今はまだ授業中だよ!」 聞く耳を持たずに教室を出ようとする夢夢を、乾先生が背後から捕まえた。 「な、なにをするんだー!」 「百日紅さん、落ち着きなさい!」 「いやだいやだー! ご飯屋さんに行くんだー!」 まだ栄養が足りてないせいなのか、夢夢は錯乱しているみたいだ。先生の腕の中で暴れまわっている。 結局、夢夢を落ち着かせるだけで五時限目は終了してしまった。暴れ疲れた夢夢は、六時限目はずっと保健室で眠っていた。 △幕間 夢夢の錯乱事件が起こった日の夜、自宅でのこと。 午後九時。お風呂から上がった私は、脱衣所にある体重計に、ゆっくりと乗った。乗り方で体重が変わるわけじゃないのはわかってるけど、つい慎重になってしまうのだ。 表示されたデジタル数字を見る。 五十・七キログラム。 今日もなんとか五十キロ台をキープできて、安堵のため息がもれた。五十一キロ台に突入しないようにするのが、当面の目標だ。 でも、ゴールデンウィークに入るとつい気が緩んで食べすぎてしまうのは、夢夢だけじゃなく私も一緒だ。 体重を増やさないように、気をつけなくちゃ。 私は昔から太りやすい体質だった。油断するとすぐお腹がボテッとしちゃうから、日々の体重測定と食事管理が大切だ。 「うーん。これも、こんなにいらないんだけどなぁ」 自分の胸元に鎮座した二つの球体を、両手でたゆんと持ち上げてみる。なかなかの重みがあって、こいつらが体重を増やすのに一役買っているのは間違いない。 小さいよりはいいのかもしれないけど、こんなに大きくなってほしくなかったのが本音だ。 まあ、こうなってしまったものはしょうがないし、考えるのはやめよう。 明日は祝日で学校が休みなので、夢夢とご飯を食べに行く約束をしていた。 なるべくカロリーの低いメニューを選ぶ。そう心に固く誓ったのだった。 △後編 その女、焼肉奉行につき んで、翌日。 午前十一時半に、私たちは学校の前で落ち合った。 夢夢は黄色いシャツにデニムのオーバーオールという出で立ちだった。ちょっと子供っぽい気もするけど、彼女には似合ってるんじゃないかなと思う。ま、私のほうも、なんの変哲もないシャツにチノパンっていう、おしゃれさのカケラもない格好だしね。 「それじゃあ、レッツゴー!」 私たちは自転車で、夢夢のおすすめ店に向かった。そこにたどり着いたのは、十分後のことだ。 その店を見て、私は思わず大口を開けてしまった。たぶん目も丸くなってたと思う。 和風のお城みたいな装いの、大きくて立派な店舗だ。入り口の上には『すたみな桃太郎』の文字、駐車場の入り口には『焼肉 寿司 デザート 食べ放題』と書かれた大きな看板が立っている。 「夢夢、ここってさ、食べ放題のお店だよね?」 「うきき! そうだよー! 一回来てみたかったんだー!」 うきうきな様子の夢夢である。 「あのさ夢夢、太ってたの気にしてたんじゃなかったっけ?」 「え? だってもう、食事制限はしないって決めたもん! やっぱりご飯は、一杯食べなくちゃね!」 「だからって、いきなり食べ放題は極端すぎない? また太っちゃうよ?」 「だいじょーぶだいじょーぶ! 昨日体重を計ったら、なんと四十九・九キロになってたんだー! お昼ご飯を我慢した成果だね! 今日はそのご褒美ってことで!」 「それ、ほぼ五十キロじゃん! 食べ放題なんてしたら、あっという間にまた五十キロ超えちゃうよっ?」 「いいからいいからー。今日はとにかく楽しもうよ!」 昨日の錯乱はどこへやらである。まあ、無理なダイエットをするよりは、よっぽどいいと思うけど。 夢夢は自転車を駐輪場に停めると、ためらうこともなく店舗の入り口に向かっていった。仕方なく、私も自転車を停めて夢夢を追う。 なんたることか。ゴールデンウィーク中に太らないよう、食事量に一層気を遣わなければと思っていた矢先に、食べ放題のお店だなんて。 とはいえ食べ放題というのは、裏を返せばあまり食べないことも可能ということだ。野菜を中心としたメニューにし、腹八分目で食事を終えれば太ることはないはず。 問題は、誘惑に勝てるかどうかということ。 私は口の中に溜まった唾を飲み込んだ。 夢夢と一緒に店の入り口にたどり着くと、そこで意外な人物と遭遇した。 「あら、あなたたち。奇遇ね」 私たちと反対の方向からやってきたのは、誰であろう乾芽炉先生だった。 胸元の開いたブラウスに黒いタイトスカートという、学校にいるときと似たような格好だ。腕に高そうなバッグをかけていて、薄い色のサングラスをかけているのが、いつもとの違いかな。 「おー。メロせんせー、偶然だねー!」 「こんにちは。先生も昼食に来たんですか?」 「そうよ。だって今日は二十九日、すなわち肉の日だもの」 「どゆことー?」 乾先生は右手でサングラスの位置を直してから、言った。 「私のこのナイスバディは、日々のたゆまぬ努力によるもの。そんな自分を称えて、毎月二十九日は、好きなだけ肉を食べていいことにしているの。それで毎月来ているのよ、この『すたみな桃太郎』にね! バァーン!」 妙な擬音を口にするとともに、身体をねじって斜めに立つような不思議なポーズをとる先生。なんかの漫画の真似かな? 「自分にご褒美を与える。これは目標を達成する上でとても大事なことよ。もちろんダイエットにもね」 「そうだよね! あたしも昨日頑張ったご褒美でこのお店に来たんだ!」 腕を組んで大きくうなずく夢夢。 「ところで、先生は一人で来たんですか?」 何気ない一言だったけど、これが地雷だったようで、乾先生の顔から表情が消えた。 ハイライトの消えた目でこちらを見据える先生には妙な迫力があり、私は思わず一歩後ずさる。 やがて先生はフッ、と息を吐くと、遠くの空に目を向けてつぶやいた。 「昼ご飯 一人きりでも 孤高かな」 「はい?」 「『お前にはついていけない』と逃げ出したヤワな男は数知れず。そうよね。容姿端麗、聡明叡智、清絶高妙のパーフェクトヒューマンな私に見合う男なんて、そうはいないもの。でもいいの。だって私には」 先生は顔をこちらに向け、私と夢夢を交互に見やった。 「あなたたちのような、かわいい教え子がいるのだから。ちょうどいいわ。あなたたち、今日は私と一緒に食べましょう!」 「え! おごってくれるのーっ?」 夢夢の言葉に、先生は即座に首を振った。 「それは無理。ブランドバッグのローンに追われているうえ、競馬で大負けして金欠なの。わかってもらえるかしら」 悲しいことを言う乾先生。それでもパーフェクトヒューマンなんですか。 「あなたたちも、よく『すたみな桃太郎』に来るのかしら?」 「あたしは初めてだよ! 一回来てみたかったんだー!」 「あ、私も初めてです」 「そうなの。それなら一流の『モモタリスト』である私が、『すたみな桃太郎』のことをレクチャーしてあげるわ。ついてきなさい!」 △ 三人で一緒に店に入り、案内された席に着いた。四人がけの席で、テーブル中央に肉を焼くための丸型ロースターが設置されている。私の向かい側に、乾先生と夢夢が並んで座った。 時間制限は九十分で、料金は千六百五十円。私にとってはなかなか痛い出費だけど、まあ食べ放題だとこれくらいの値段はするのかな。 「よっしゃー! さっそく食べ物取りに行こうぜー!」 「お待ちなさい!」 立ち上がろうとする夢夢を、乾先生が制した。 「食べ放題には大きな落とし穴があるわ。目についたものを次から次へと食べていたら、すぐにお腹一杯になってしまって、数あるメニューを堪能できなくなってしまうことよ。それに、こういう店では食べ残しはご法度! そういうミスを犯さないためにも、しっかりと戦略を立てることが大切なの」 「おおー。そっかー! 食べ放題は奥が深いんだね!」 夢夢ならいくらでも食べられそうな気がするけど、まあいいか。 乾先生の話はつづく。 「この『すたみな桃太郎』は、焼肉を中心として、寿司、麺類、スープ、サラダ、各種総菜、そしてデザートと、あらゆるものを取りそろえたバイキング形式の食べ放題店よ。その人気は高く、食べ放題店としては全国ナンバーワンの店舗数を誇るの! メニューが豊富なことに加え、色々なメニューを組み合わせて自分のオリジナル料理を作ることも可能なことから『食の遊園地』の呼び声も高いわ!」 「そうなんだー。わくわく」 正直早く料理を取りに行きたいと思っていたけど、夢夢が興味深そうにしていたので、私も黙って話を聞くことにした。 「でも初心者であるあなたたちには、まだオリジナル料理を作るのは早いわね。今日のところは、焼肉にターゲットを絞って食べるのがいいんじゃないかしら。焼肉にもいろんな種類があるから、それらを少しずつ取っていって、全種類を制覇するのがいいと思うわ。そして最後はスイーツ!」 「おおー、スイーツ!」 「ケーキやフルーツがあるのはもちろん、自分で作れるクレープや綿菓子も大人気よ」 「綿菓子、作りたーい!」 綿菓子頭の夢夢が綿菓子を食べている様子を想像して、ちょっとほっこりした。 「それでは、肉を取りに行きましょう。目指すは全種類制覇よ!」 「おー!」 二人は席を立ち、焼肉コーナーのほうに歩いて行く。一つため息をついてから、私も立ち上がって料理を取りに行くことにした。 店内は賑わっていた。親子連れや若い男性のグループが多い。 各席から肉を焼いたにおいが漂ってきて、鼻孔を刺激する。これはいけない。口の中に唾がどんどん溜まっていく。よだれを垂らしてしまわぬよう、懸命に飲み込んだ。 料理はジャンル別に陳列されていた。肉のコーナーには夢夢と乾先生の姿がある。総菜コーナーに目を向けると、ミートドリアや唐揚げ、焼きそばなどが並んでいた。奥のほうには綿菓子を作る機械が設置されている。 魅力的な料理の数々に、お腹がぐぅと鳴った。誘惑を振り払うように、頭を振る。お惣菜や焼肉も本当は食べたいけど、体重をキープするためには我慢しなくちゃ。 後ろ髪を引かれながらも、私はサラダコーナーに向かった。 △ お皿に野菜を盛りつけて席に戻ると、そこには二つの山があった。 どんぶりに盛られた米の山と、大皿に盛られた肉の山だ。 ご飯は夢夢のものだろう。肉のほうはみんなで食べるために大皿に盛ってきたんだろうけど、いろんな種類の肉が雑多に重ねられている。 乾先生はスマホで肉山の写真を撮ってから、肉を焼き始めた。 トングでテンポよくお肉をつかんでは、ロースターの網の上に放っていく。牛肉も豚肉も鶏肉も、カルビもハラミもタンも、焼きしゃぶ用と思われる薄い肉まで、お構いなしに焼いていく。網の上には大量の肉が乗り、火の熱で炙られていく。 ああ、なんてことをするのか。 「ああ、いいにおいだわ。やっぱり焼肉はこうでなくっちゃね」 「うききー。お肉、お肉、楽しみだなー」 夢夢は肉が焼けるのを待つあいだに一杯目のご飯を食べ終え、二杯目を取りに行った。 至近距離から漂ってくるにおいに、私は眩暈を起こしそうになった。ああ、だめだだめだ。食べてはいけない、食べてはいけないんだ。 目の前に焼肉など存在しないと思い込み、一心不乱にサラダを口に入れた。そうとも、今日はサラダを食べに来たんだ。私はサラダさえ食べられれば、それでいいんだ。 先生は別料金らしいお酒を店員さんに注文し、ほどなくしてジョッキのビールが運ばれてきた。 「さあ焼けたわ! 食べるわよー!」 「おっにっく! おっにっくー!」 乾先生と、二杯目のどんぶり飯をついで戻ってきた夢夢が、焼肉を食べ始めた。 くっ! 目にしてはいけないと思っているのに、どうしても視界に入ってしまう! 二人は焼けた肉を網から取り、テーブルに置いてあったタレにジャブジャブとつけて食べている。牛も豚も鶏も、どの部位の肉でもお構いなしに、同じように食べている。 ああ、なにやってるんだよ。そんなんじゃ、そんなんじゃぁ。 「ハフッハフッ、やっぱり焼肉は最高ね!」 「お肉! お肉! おいしいなー!」 乾先生はビールをごくごく飲むと、ジョッキをドンッとテーブルに置いた。 「カーッ! 昼間から飲むビールはたまらんっ!」 夢夢は肉と一緒に、どんぶりのご飯を大量に掻き込んでいる。 「お肉おいしー! ご飯もすすむねー!」 腹の底から沸々とイケナイ感情が湧き上がってくるけれど、私はそれをぐっと抑える。素人焼肉に興じる二人から目を逸らし、サラダを食べ進めた。私は肉なんかに興味はない。サラダ以外は意地でも食べない。そう、これでいいんだ、これでいいんだ、コレデイインダ。 と。 ちょうど野菜を食べ終えて空になった私の皿に、なにかが乗った。肉だった。明らかに焼きすぎで、少々焦げついた牛カルビ。 「木嶋さん、遠慮しないで食べなさい。せっかく『すたみな桃太郎』に来ておいて焼肉を食べないなんて、野球場に来て流しそうめんをするようなものよ!」 乾先生が私の皿に肉を放り込んだのだった。 先生は、網から私の皿に肉を移す行為をつづけた。 私の皿に、焼いた肉が更に盛られていく。塩カルビ、豚ハラミ、鶏モモ、牛タン。どれもこれも、なっちゃいない焼き方だった。 目の前の皿から、肉のにおいがダイレクトに鼻に伝わってくる。胸の内に秘めた魂が、激しく揺さぶれるのを私は感じた。 いやダメだ。堪えるんだ。食べちゃダメだ。食べちゃダメだ。食べちゃダメだ。 肉の入った皿をテーブルに置き、新しいサラダを取ってこようと腰を上げかけた、そのときだ。 「うわー、このお肉真っ黒だー!」 夢夢が完全に炭化した肉をつまみ上げていた。焼きしゃぶ用の薄い肉だ。 「あらあら焼きすぎちゃったわね。でもそうやって焦げた肉を食べるのも、また一興よ。大人の味ね」 「あたし、いらなーい!」 「じゃあ、私がいただくわ」 夢夢から黒い肉を受け取る乾先生。焦げた部分が体に悪いことを知らないのか、躊躇なく食べて渋面をつくった。 「くぅーっ! この苦みがまたいいのよ!」 そんなやり取りを目にして、私は思ったのだ。なにをやっているんだこの人たちは、と。私だったらもっとおいしく焼けるのに、と。 夢夢と乾先生は、肉本来のおいしさをまるで引き出すせていない。あまりにも、もったいない。 私が二人のために肉を焼いてあげてもいい。でも、他人にそこまでして、自分は肉を食べないなんて、そんなことができるだろうか? いや、無理だ。絶対に耐えられない。 私に提示た選択肢は二つ。 二人の焼肉に目をつぶり、サラダのみを食すか。 二人の肉を焼いてあげて、自らも焼肉を食すか。 前者だ。断然、前者だ。そう自分に言い聞かせる。ゴールデンウィークを太らずに乗り切るためには、焼肉を食べるわけにはいかない。まして食べ放題なんてもってのほかだ。 しかし。 ――本当にそれでいいのか? 私の内側にいるもう一人の私が、そう問いかけてくる。 それは悪魔か、はたまた天使か。 ――目の前の肉を見ろ。これほどの肉を前にして、お前は一口も食べずに店を後にするというのか? そんなことが許されるのか? お前は肉を食うべきだ。今こそ、肉を食うべきときなんだ。 うるさい、黙れ黙れ! 内なる自分に必死に抵抗するものの。 ――食え。食え。食え! 食え! 食え! ああ。 食わねば。 そう考えてしまった瞬間、プツンと音を立てて、私の中のなにかが弾けた。 「べらんめぇバーロー! てめぇら、なんて肉の食い方してやがんだ! 焼肉ってぇのはなぁ、そんなふうに食うもんじゃねぇんだよぉ!」 夢夢と乾先生が、日本に初上陸した珍獣を見るような目をこちらに向けていた。 江戸弁でまくしたてたのは、私だ。 私の中に眠っていたもう一人の私が、殻を突き破って表側に出てきてしまったのだ。 「肉はなぁ、焼き方一つで美味さが大きく変わるもんなんでぇ! 種類や部位で、適切な焼き方ってぇのがあるんだ! てめぇらの焼き方は、まるでなっちゃいねぇ! ちょっと貸してみろ!」 乾先生からトングを奪い取る私。 「いいかい! 丸型ロースターの場合は、強火で焼きたいときは中心に、弱火の場合は端の方に、中火の場合はその中間に置けばいいんでぇ! まずはカルビの場合だがなぁ」 私は皿からカルビを取り、網の中央付近に置く。 「脂の乗った上等なカルビは、まず強火でさっと脂を落とすんでぇ! 肉の表面に水分が浮かんで来たら裏返して色を確認だ! 薄茶色になっていればいい頃合いでぇ! 裏側は中火エリアで焼く! 今度は軽く焼くくらいでオーケーでぇ!」 私は焼き上がったカルビを口に入れた。ああ、口の中一杯に広がる芳醇な肉の旨味と脂の甘味。タレはつけなかったけど、それでも充分においしい。 呆気に取られて無言状態の夢夢と乾先生に、私はつづけた。 「赤身が多い並カルビの場合は、両面とも中火で焼けばいい! それから薄切りの肉だがなぁ、これは焼きしゃぶ用の肉だから特に焼き加減に気を遣う必要があるんでぇ! いいかい、こうして肉の端をつかんで、中火エリアで滑らせるように焼いてだなぁ」 こんな感じで講釈を垂れながら、私は肉を焼きまくって二人に提供し、自分でも食べた。食べまくった。 そう。内なる私の人格は、焼肉奉行だったのだ。 この人格が表に出てしまうと、もう私自身、私をコントロールできない。 主人格である『私』は、身体の内側から客観的に焼肉奉行の私を見つめ、恥ずかしい思いを抱えながらも、どうしようもできないのであった。 △ 「ああ、やっちゃたぁ」 およそ一時間後、たらふく焼肉を食べた私たち三人は、デザートタイムに移行していた。 お腹は一杯だったけど、デザートは別腹だよね。それに、脂っこいものを食べた後は、甘いものが食べたくなるのだ。 焼肉奉行の私は内側に引っ込み、私はまたいつもの『私』に戻っていた。思わぬ醜態を晒してしまったうえ、肉を大量に食べてしまったことで激しい自己嫌悪に陥り、気分は限りなく黒に近いブルーだ。 「いやー、まさか木嶋さんが焼肉奉行だったなんてねぇ」 お手製のクレープを食べながらニヤニヤする乾先生。 「うきき。ほんとだね! ままみの意外な一面、発見!」 自分の頭髪にそっくりな綿菓子を左右に揺らす夢夢。 「あうぅ。もう言わないでぇ。二人とも、本当にごめん」 アイスクリームをちびちび口にしながら項垂れる私。 「私ったらつい、我を忘れちゃって。うざかったですよね?」 「まあ、食べ方を他人に強制するのは、あまりよろしくないかもしれないわね。でも、おかげで肉をおいしく食べられたし、面白かったからいいわ」 「うきき。まみみって、お肉が大好きだったんだねー。また一緒に、このお店に来ようよ!」 「ダメ! それだけは絶対にダメ!」 私は大きく首を振った。 「こんなに焼肉食べてたら、すぐ太っちゃうもん! もう絶対、この店には来ないから!」 「あらあら、言ったはずよ木嶋さん? ダイエットは、ご飯をしっかり食べたうえで行うものだとね」 「で、でも、私ってすごく太りやすい体質なんです。だから、食事量には本当に気を遣わないと。うぅ、今日体重計に乗るのが怖い」 「いいじゃない。木嶋さんはきっと、脂肪が胸に集中するタイプなのよ。肉を食べれば、その巨乳がさらにパワーアップして爆乳になるかもしれないわよ?」 「セ、セクハラはやめてくだい!」 反射的に胸を隠す私。うーん、この先生、自分の身体が自慢だからって、他人の身体に対してデリカシーがなさすぎる。 「だいじょーぶだいじょーぶ! 太ったって、まみみはまみみなんだから! 無理しなくてもいいんだよ!」 弾けるような笑顔で言う夢夢。うぐぐ、反論できないぞ。だってそれは昨日、私が夢夢に言ったセリフと同じだから。 「うわーん、ばかーっ! 夢夢も、乾先生も、私も、みんなばかーっ!」 魂の叫びが『すたみな桃太郎』の店内にこだまする。 私の人生は、今日も平和に流れているのだった。 おしまい |
いりえミト 2021年05月02日 22時12分16秒 公開 ■この作品の著作権は いりえミト さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年05月19日 23時59分41秒 | |||
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Re: | 2021年05月19日 23時57分03秒 | |||
合計 | 11人 | 190点 |
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