リンカーネーション 東京浄化 |
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はらはらと雪が舞う、寒い日だったことは覚えている。 瘴気の影響で外出禁止令が発令され、すでに半年が過ぎた頃。半ばゴーストタウンと化した街を一人で歩いていた時、大量の『ツカレビト』に襲われた。 瘴気に侵され理性を失った元人間『ツカレビト』。目についた人を襲うだけの単純な思考しか持たない存在。だが瘴気の感染力は凄まじく、ツカレビトは加速度的に増えていき、ツカレビトによる被害者もまた増えていった。 俺は、ひたすらそいつらをぶん殴り続けた。 今と未来に希望が持てなくなったというのもあるのだろう。怒りも不満もそのまま拳に乗せて、寄ってくるツカレビトをぶちのめした。 一発殴れば動かなくなるから、やってやれない相手じゃない。いつもそうやってきた。 だが、今回ばかりは数が多すぎた。 後ろから殴られた勢いでアスファルトに倒れこむと、上から拳が、前から足がとんでくる。小さく丸くなって防御しても、容赦も躊躇いもないツカレビトの暴力は止まらなかった。 脇腹に突き刺さったつま先に食ったものが逆流し、殴られた耳から出血して音が反響する。手の指が何本が折れたとき、俺も死ぬな、と覚悟した。 『彼女』が現れたのは、意識もおぼろげになった時だった。 陽の色に淡く輝く刀を一振りすると、俺に群がっていたツカレビト共が力を失い倒れていく。周囲にいたツカレビトが彼女に狙いを変えるが、彼女は誰にも触れられることなく全て斬り倒した。 まだ夢と現実の境があいまいだった俺に、彼女がそっと手を伸ばす。 「君の名前は?」 応えようとしても、上手く声が出せない。寒さと打撲、突き指で震える手をゆっくり差し出すと、彼女は優しく握り返した。 「どうやら、意識はあるようですね。私は一宮エンジュといいます。この瘴気に覆われた千葉を、日本を。いずれは世界を救うべく、勇者をやっているものです」 それが、『房総の天使』一宮エンジュとの出会いだった。 * * * 「……あー、いたいたっス! 結界の外に行かないでくださいっスよ。ウチの心臓がもたないっス、ホント」 海の見える公園のベンチでぼんやりと海を眺めていると、そんな声が聞こえてきた。 不満を漏らしながらやってきたのは、外見はまだ十五・六歳にしか見えない少女だ。茶色がかったショートカットに、人好きする笑顔がよく似合う小柄な少女で、中学生然とした制服を身に着けている。 「そりゃまあ、亜斗夢さんはいいっスよ、勇者なんスから。でもウチは違うんスから」 心配ない。もうこの辺りにはほとんどツカレビトはいないのだから。 「……本当にもう、聞き分けのないというか」 そう言って、小栗マロン(おぐり まろん)は可愛い唇を尖らせつつ、俺の隣に腰を下ろした。 俺は公園の向こう、暗い霧に隠れるような海を示す。 ――――かつては、この海を通じて世界につながっていた。 しかし瘴気によって世界はおろか、国の中さえ分断されてしまった。 電波やGPSすら阻む瘴気が陸に海に広がり、もはや海を越えることはできなくなってしまったのだ。瘴気によるツカレビト化とツカレビトの暴力を恐れ、近所に出歩くことすら危険が伴うようになった。 ――――この海の向こうに気軽に旅ができた時代があったのだと、とても思えない。 「……言い難いスけど」 ん? 「こっち、東京湾スよ。この海の向こうも日本ス」 ……。 「あっ、ちょ、痛い! 痛いス! 耳引っ張らないでくださいっス!」 ふん、変な揚げ足を取るからそうなるのだ。 「ほんとにもう、こういうときだけ子供みたいなんスから」 まあ確かに、と認めてもう一度東京湾を見渡した。 JR千葉みなと駅を超えてすぐにある公園は、瘴気以前であればもっとずっと多くの人がいたのだろう。今となっては手入れすらされておらず、遊具のいくつかに錆が浮き、雑草がそこかしこに生えている。ゴミが散乱していないのは、ツカレビトがいたために人が入れなかったからだとしたら皮肉なものだった。 「あと、いい加減フリップ使う筆談やめてほしいス。普通に喋ってくださいっス、喋れるんスから」 ……。 「え、面倒くさい? いやそんなこと言わずに、こっちの方が面倒くさいでしょうっスし……まあ、いいスけど。それより、そろそろ時間じゃないスか?」 時間? と問い返すと、マロンがスマホを取り出す。電波もGPSも通らなくなった今となっては、時計かゲーム機程度にしか使えない代物だ。 「千葉県庁舎で今後の指針を決める会議。そのためにわざわざウチが呼びに来たっスから」 世界に瘴気が現れてから約十年、完全に瘴気に覆われてからおよそ七年が経って、人類は一つの突破口を見出した。太陽光の高密度化、あるいは生命エネルギーそのものと呼ばれる、瘴気を浄化するエネルギーを発見。これを『マナ』と名付け、マナを操り戦う戦士を『勇者』と呼称した。 マナで空間を囲うことで、周囲からの瘴気の進入を阻止し、内側の瘴気を浄化することができる。この中にはツカレビトも入ってこず、こうして人類はわずかながら瘴気から身を守る手段を得た。 そしてこの原理を広範囲に生かすべく、利用されたのがすでに廃線と化していた旧JRの線路だった。 電車の車輪をマナで覆い、線路を走らせることで線路にマナを付けていく。広範囲を走る線路を利用すれば、一度に広範囲をマナで囲い、結界を作ることができるのではないか。 果たしてその試みは成功した。 千葉県南部、房総半島の海岸線と並行するように走る内房線から外房線へと渡り、千葉のほぼ半分の浄化に成功した勇者。 それこそが目の前の少女、一宮天使(いちのみや エンジュ)である。 「――――ご説明どうも。で、何故急にそんな話をしたのです?」 冷たい目で見下ろすエンジュから、そっと目をそらす。慌ててマロンが言い訳を継いだ。 「あ、ほ、ほら! あれっス! エンジュ様は格好良いなあ! って、強くて優しくて綺麗だなあ! って思ったことがついぽろっと出てしまったんスよ! ね!」 こくこく。 「……ふ、ふん! す、少しおだてたくらいで優しくしてもらえると勘違いしないことですね! 今日のことはきちんと反省して、次回からちゃんと時間を守って行動しなさい!」 少し頬を赤らめて彼女を見て、どうやら許されたらしいことを悟る。 そそくさと指定された席に移動しながら、マロンがこそこそとつぶやいた。 (危なかったっスね) チョロいな。 「そこ! カンペ見えてますよ!」 やっべ。 千葉県庁舎十階、市民は基本的に入れない階にある会議室にはおおよそ十人ほどが座っていた。千葉県知事、市長、千葉県警察署長、その他現在集められる中で、それなりの役職にいた人間たちが集まっている。そうした人たちは若い人でも四十代前半なので、現在二十二歳の俺や中学生然としたマロン、そして正面のホワイトボードの前で会議を進める一宮エンジュは異質に見えたことだろう。 どこかの高校のものと思しき半袖のセーラー服、ポニーテールに束ねた黒髪はいかにも真面目な女子高校生に見えるが、細く引き締まった手足を覆う黒色のタイツやアームウォーマーは動きやすさを意識したもの。何より、腰に吊るした刀が彼女を『勇者』たらしめていた。 俺とマロンが並んで席に着いたところで、エンジュが話を再開する。俺らが来る前に少し進んでいたらしい。 「現状については、先ほど話した通りです。遅刻者のせいで少し間が空いてしまいましたが、特に質問はありませんね」 先生、ぼくは何もきいていません。 「あなたは最前線で戦うだけでしょう。必要ありません」 そんなー。 「さて、では今日の本題に入ります。結界内の浄化も着実に進み、勇者の準備も整いつつある以上、次の浄化駅を決めます」 ざわりと、会議室がにわかに緊張したのがわかった。 「現在、千葉を起点にして内房線と外房線内の浄化が完了しています。私の考えでは、まず総武線で西船橋を目指します」 ホワイトボードに旧JRの路線図を貼りつけ、エンジュが指で示す。 「西船橋を浄化後、武蔵野線に乗り換え、新松戸へ」 随分北上するな、と思った。同じことを考えたのか、何人かが眉を顰める。 結界は繋ぎ、囲わなければ大きな効果を生まない。千葉駅もまだ囲えていないため、一時的に非常線を張るなどして駅周辺を浄化しているに過ぎない。厳密に線路による結界が機能しているのは蘇我から大綱以南の線路内だけだ。 「新松戸から常磐線各駅停車に乗り換え、松戸へ」 すす、とエンジュの細い指が路線図を伝う。 「松戸で常磐線快速に乗り換え、江戸川を超えます。そうすれば次の駅は北千住、すなわち」 「東京……スね」 失われた首都、東京。思わず唇を舐めたマロンの呟きに、エンジュがこくりと頷いた。 「しかし、私たちの目的はここではありません。北千住を通過し、目指すは終点、上野。ここを浄化できれば、上野駅を拠点にして山手線をぐるりと周回できます。これが実現すれば、『東京浄化』が可能です」 「東京……浄化」 誰かの呟きに、しかし答える者はいなかった。誰もが、一宮エンジュの提案を理解するので精いっぱいだったからだ。 瘴気によってあらゆる通信手段が途絶し、ツカレビトが溢れかえる現状、今の東京の様子を知るものは、少なくとも浄化した地域内にはいなかった。そもそも瘴気が一番濃かったのが最も人口が集中している東京であり、魑魅魍魎の跋扈する地獄の様相となっていても不思議ではない。 だからこそ、『東京浄化』が成功すれば事態は大きく前進するだろう。 「すぐに東京浄化ができるとは思っていません。しかし、この機に上野駅を浄化し、結界を作って拠点にすることができれば、東京浄化は見えてきます」 エンジュがぐっと唇を噛む。 「私たちはっ!」 吐き出した声には珍しく感情が滲んでいた。 彼女は一つ大きな呼吸を挟み、落ち着きを取り戻すしてから続ける。 「……私たちは、今までずっと瘴気に苦しめられてきました。したいこともできず、生きていくことさえ困難になり、学校に行くこともできませんでした。それでも、いつか報われる日が来ると信じて、これまでやってきました。それが、今です」 キッと前を向いたエンジュの目が、炎のような熱を帯びる。 「でも、東京浄化ができれば、見えてくれば、それが報われます。だからこそ、今こそ。やりましょう。私たちの手で」 異論はありますか、とエンジュが問う。 そこにいた大の大人たちが、互いに見交わし合う。エンジュの案よりも、その迫力に気圧された印象だ。 「……いや、それなら――――」 「――――俺は反対だ」 誰かの言葉を遮るようにして、俺は言った。 「亜斗夢……さん? っスか? 今の」 「……須賀さん、説明していただけますか?」 少しばかり動揺した様子のエンジュに問われ、俺は頷き返す。 「……え、ウチ? なんでウチが言うっスか。いやカンペ出すからそのまま言ってくれじゃないっスよ。今ちゃんと言えてたじゃないスか、自分で言ってくださいスよ。ちょ、そんなぐいぐい来ないでくださいよ、頼むじゃないスよ。あん、あ、ちょ、耳に息吹きかけ、ダメ、やん……わ、わかったっスから!」 よし、頼んだ。 「全くもう、なんなんスかこの男は……。ええと、西船橋から新松戸まで北上するまでは賛成だが、そこから松戸ではなく柏へ向かう。柏から同じく常磐線快速に乗り換え、安孫子を目指すべきだ。っス」 「理由は?」 「ええと、主に三つ。東京は状況が見えないため危険が大きいこと、比較的人口の少ない路線を開放していき、着実に味方を増やすことを優先すること、あとは……成田っス」 成田空港を浄化できれば、空路という選択肢を作れる。燃料のほとんどを輸入に頼り、その輸入が瘴気によって完全に断たれた現状で成田空港を使えるようにする意味は薄いかもしれないが、いざというときの選択肢は増やしておくべきだ。 と、皆に見えるようにフリップに書く。 「……言いたいことはわかりました。しかし、私たちはこれまでずっと堪えてきました。この停滞する状況を一気に打開する道が見えてきたにもかかわらず、あえて遠回りをする理由はないと思います。上野を目指すべきです」 「だからと言って焦る必要はない。今は浄化地域を増やしていき、確実に力をつけるべきだ。俺たちの肩に一千万以上の命が乗っていることを忘れるな。っス」 「あり得ません。上野です」 「いや柏だ。……う、ウチが言っているわけじゃないのでウチを睨まないでくださいっス~!」 二人の間で険悪なムードが漂った時、「まあまあ!」と割って入った声があった。 「ひとまず、勇者お二人の意見は新松戸まで一致しているのです。新松戸の浄化を目標にして、この場は収めましょう。そこから先は、そこから考えれば良いと思いませんか?」 政治機能は半ば麻痺していたとはいえ、県知事の言葉は無下にはできない。俺もエンジュも応じ、新松戸以降は保留となった。 * * * 規則正しい揺れに、思わず欠伸がこみ上げる。どうしてこんなに電車は人を眠くするのだろうか。 人生哲学にも似た疑問について考えていると、「呑気なものですね」と辛らつな言葉が対面のシートから放たれた。 何が面白いのか、読んでいた教科書から顔を上げてエンジュが睨みつける。 「状況を理解していますか? これから戦いだというのに、そんなことで大丈夫なのですか」 問題ない。夜遅くまで映画を観ていただけだ。 フリップで応じると、あからさまにため息をついた。 「私たち勇者には、優先して物資を回してもらっています。食事はもちろん、電気、宿泊場所、その他申請すれば可能な限り用意してもらえる。私の刀も、あなたのショットガンもそうでしょう」 シートに横倒しにしてあったショットガンを手に取る。形は普通のショットガンと大きく変わらないが、銀色の銃はマナを撃ち込める特別製で、少なくとも俺が知る限りこの世に一つしかない。マナ自体は直接込めることも、カートリッジに込めて放つこともできるため、マナをカートリッジに込める技術とこの銃を量産できる技術の両方が確立されれば、マナを操れる勇者でなくともツカレビトと戦えるようになる。 エンジュの刀には刀身がなく、戦う際にはマナを刃にして戦う。瘴気を浄化するだけで物理的な切れ味はないが、かの有名な映画のライトセーバーのようなものか。 「私たちは戦うことが使命です。その使命のために、万全に準備を整えるべきなのではないのですか」 ハイハイ。 「ハイは一回でよろしい」 怒られた。 ぶすう、とした顔で外を眺める。瘴気の影響で晴れていてもどこか薄暗い景色をぼんやりと眺めていると、小さくなった声でエンジュが聞いた。 「……ところで、何を観たんですか」 ん? 「映画です。さきほど見たと」 『ターミネイター2』。 「……ふーん」 …………。 「…………」 ………観たいの? 「みっ! ……観たくない、わけではありませんよ?」 じゃあ観るか? まだ『TATSUYA』に返してないし。 「……そうね、終わったら、借りようかしら」 おもしろいぞ、特にセリフが格好いい、液体窒素でバッキバキになった敵に向かって銃を放つときの「アスタ・ラ・ビスタ(地獄へ落ちろ)、ベイビー」が最高にエモい。 「ね、ネタバレはしないでください!」 顔を赤くしてエンジュが立ち上がったとき、車内アナウンスが流れた。 『間もなく、新松戸、新松戸にとまります。お降りのお客様、忘れ物にご注意ください。お出口は、左側ス』 プロの声に聞こえるが、言っているのはマロンだ。ゲームで死ぬほど運転したとかで、他に電車の運転技術を持つ者がいなかったため任せてある。アナウンスは、あった方が「気分が出るっス」ということらしい。 こほん、とエンジュが咳ばらいを一つ。手にしていた教科書を置き、刀を手に立ち上がると、その表情はすでに戦士のそれになっていた。 「では行きましょうか。くれぐれも足を引っ張らないようにしてください」 うい、と書いたフリップをシートに放ると、俺もショットガンを手に立ち上がる。マナの込められた最初のカートリッジを装填し、入り口脇に立った。 電車がホームに滑り込むと、ツカレビトの集団が大量にウロウロしていた。だが、以前戦った千葉駅や西船橋と比べると、駅の規模も大きくないせいか幾分少ない。 電車が止まる。ドアが開ききる前にエンジュが飛び出し、目の前にいたツカレビトを切り裂く。 こうして、新松戸浄化作戦は幕を開けた。 「あああああああああああああああああああ!!!!!!!」 獅子の咆哮もかくやという叫び声をあげて、エンジュがツカレビトの群れに突っ込んでいく。 「死ね! 死ね! 死ねえええええ!!!」 袈裟懸けに切り裂いた一体には見向きもせず、その後ろにいた敵を真一文字に切り伏せる。さらに一歩進んで刀を振り下ろして三体目を切り裂いたところで左右から同時に襲われたが、焦る彼女ではなかった。 左から来たツカレビトの手を掴むと、反対のツカレビトへ力技で振り回し床へ叩きつける。二体重なったところで上から刀を突き刺し、踏みつけて前へ進む。 荒々しい戦いぶりは普段冷静な彼女から想像もできないが、戦場での彼女はいつもこんな感じだ。 おかげで、サポートするのも一苦労だった。 発射、リロードして発射。自分も守りつつ、遮二無二敵に突っ込んでいくエンジュの負担を少しでも軽くするべく援護射撃を繰り返す。 「私は改札口へ! あなたはここで残りの処理をお願いします!」 駅構内の浄化が目的だが、外から入ってこられれば永遠に終わらなくなる。そのため、真っ先に出入口となる改札口の封鎖をするべきなのだが、かといって単独行動は危険だ。 まあ彼女なら大丈夫だろうけど……いや。 ツカレビトの顔面を足蹴にして駆けだそうとしたエンジュの肩を、奇妙な気配を感じて咄嗟に掴む。 「何を……」 言いかけた口をつぐみ、エンジュも刀を構えなおした。 何か、いる。 新松戸駅は三階に武蔵野線ホームがあり、下に常磐線各駅停車のホームが交差するような形になっている。そのホーム中央へと上がってくる階段から、その音は聞こえてきた。 ズン、ズン。人やツカレビトにしては重い音。ゆっくり姿を現したそれは。 「……梨、でしょうか?」 どちらかといえば洋ナシに近いだろうか、胴体と頭が一緒になったような体は縦長な梨に似ていて、ニョキニョキと生えた手足はアンバランスに短いこともあって滑稽に見える。 しかし、デカい。 高さは常人のざっと倍、横幅も二メートル前後。左右に揺れながら近づいてくるそれは愚鈍なマスコットにも見えるが、巨体と纏う瘴気の濃さが威圧感を放っていた。 わずかにぼんやりとした輪郭のそれに、思い当たる節が一つだけある。 『ゴースト』。 瘴気の集合体と考えられ、何らかの形をとって人を襲う。その正体、発生条件など一切が不明の化け物だ。 油断は禁物。まずは遠距離から削るべく、エンジュと離れて援護射撃に向いた位置へと動こうとしたとき。 「……雑魚が」 そんな呟きが聞こえたかと思うと、おもむろにエンジュが刀を振り上げ。 「我流、一つの太刀……『繊月』!」 振り下ろした刀から強い陽色の輝きが一閃し、放たれたマナの刃がゴーストを真っ二つに両断するにとどまらず、後ろにいたツカレビトをも吹き飛ばす。物理的な威力はないはずのマナの一撃も、込められたマナの量によっては十分な殺傷力を持つことは、刀を叩きつけた床に深い亀裂が入ったことでも容易に察せられた。 数体のツカレビトごとゴーストも浄化したエンジュは、今度こそ下へ向かうべく駆けだす。 暴走しがちな相棒も、この程度の相手なら遅れをとることはないだろう。武蔵野線ホームを見る限り、ツカレビトの数も恐れるほどではない。 「消えろ! 潰れろ! 地獄に落ちろ! お前たちのせいで! お前たちのせいでっ!!!」 いつにも増して冷静さを欠いているように見えて、少し不安を覚える。今日の敵くらいなら、なんとでもなるはずだが。 だがもし、今での数倍のツカレビトに囲まれたら。 もしも、今のゴーストよりも数倍大きなゴーストが現れたら―――― 嫌な想像を、首を振ってかき消す。あるかどうかもわからないことを、今考えても仕方ない。 まずは目の前のことに集中しよう。すでに階下に降りてしまい、姿の見えなくなったエンジュを急いで追いかけた。 * * * ――――東京には来ないでください。 時の都知事がそう発言してから、瘴気が世界的に広がるまで一か月とかからなかった。 瘴気によってツカレビトになった人間が増え、正気の人々を襲いまず治安が失われた。世界的な混乱と瘴気による電波妨害によって輸出入も停止し、資源の多くを輸入に頼る日本は急激に困窮。ガソリンが輸入できなくなって車の大半が無用の長物と化し、電気自動車はかろうじて動いたものの火力発電は使えなくない。所員のツカレビト化を恐れ安全運用が難しくなった原子力発電は完全に廃炉された。 瘴気の中を歩けばツカレビト化する、例えならなくともツカレビトに襲われれば死ぬかもしれない。人々は満足に外にも出られなくなり、あらゆる社会活動が不可能になった。 本来予定していたオリンピックの年から、たった七年。瘴気の発見から経済活動の九割が停止するまで、およそ一年しかかからなかった。 柄にもなくそんなことを思い出したのは、目の前の光景が原因だったのかもしれない。 「今日はお二人の勇者様に来ていただきました。『房総の天使』一宮エンジュさんと、もう一人の勇者、須賀亜斗夢さんです!」 小さな幼稚園の教室で、まだまだよちよち歩きの園児が数人とその親たち、そして十数人の中高生男女がその場でキラキラと目を輝かせていた。 ちょいちょい、とエンジュを肘でつつき、メモに書いて見せる。 房総の天使ってなに? (私の活躍を見てくれた人達からいただいた二つ名です。少し恥ずかしいですが、これも皆を勇気づける勇者の役目ですから) 暴走天使の間違いじゃ、痛っ。 (余計なこと言わないでくださいね?) うい。ところで、おれのは? (さあ。ご自分で勝手に名乗られては?) じゃあ『鉄腕』アト―――― 書きかけたフリップを取り上げられている合間に、司会の少女から「では、お一人ずつ握手をお願いできますか?」と振られた。「もちろんです」とエンジュがにっこり微笑む。 こっそりフリップは返してもらったが『鉄腕』の紙だけ破られていた。 「では、お二人のどちらでも、お好きな方へお並びください!」 わー! と子供たちが、次いで中高生が駆けだす。 ふむ、まあこれもヒーローたる勇者の務め。女の子も多いし。 むふー、と鼻息荒く胸を張って待つと、ずらっと教室の端まで列ができた。 エンジュの前だけに。 「…………」 まさか全員がエンジュの方に並ぶとは思っていなかったのだろう。先頭付近できゃっきゃとエンジュに握手をねだる園児数人を除いて、誰もが微妙な顔で俺を見ていた。 「…………ッ!」 手にしていたフリップを床にビターン! してさっさと出口に向かって歩き出す。初めてですよこの俺をここまでコケにしたおバカさんは。 「待って待って待ってください! はい、ほら、わたし来ましたよー! あ、握手したいなー、格好良い勇者様と握手、ね、ほら、だから……」 慌てて引き留めたのは、司会の少女だった。 ブレザーの制服は、近隣の高校のものだろうか。肩までの髪を小さく束ねた、明るくも真面目そうな少女だった。 困ったような彼女の目を見つめ、足を止める。 本当に会いたかった? 「は、はい、もちろん!」 あくしゅしたい? 「はい!」 だきしめていい? 「はい! え、だき、し? え?」 よし、じゃあお兄さんとそこのたいいくそうこうらに―― 「いい加減にしなさい!」 エンジュが鞘ごと刀を引き抜いて俺の後頭部を殴打した。 チカチカと飛び交う星が収まってから、傷害の現行犯勇者に詰め寄る。 いきなりなにすんだコラ! 「せっかく気を使ってくれた子にセクハラまがいのことするからでしょう!? 自業自得です!」 セクハラまがいじゃねえ! セクハラだ! 「なお悪いです! いつもいつもふざけてばかり、勇者として恥ずかしくないのですか!?」 当然、と胸を張る。 「だから誰もあなたと握手したがらないんですよ!」 ガーン! がっくりと床に手を突く。ふんと胸を張ったエンジュに、パチパチと拍手が送られると、笑い声が交差する明るい空気が戻ってきた。 その後、握手会は再開し、その場にいた人たちは満足そうにしていた。 なお、俺の前にもちゃんと来てくれる人はいた。良かった。 園児たちや中高生、時には親たちも交えてゲームをしたり、歌を歌ったりと楽しい時間を過ごし、会はお開きとなった。もう日がだいぶ傾いている。マナで結界化してツカレビトや瘴気の心配は少ないとはいえ、暗い時間まで外にいるものではないだろう。 片づけを保育士や中高生たちが行っているのを眺めていると、司会の少女がパタパタと駆け寄ってきた。 「今日は本ッ当にありがとうございました!」 深々と下げた頭に、思わずエンジュと目を見かわす。 「こちらこそ、元気をもらいました。今日会った人たちのためにも、一日も早く元の世を取り戻したいと思います」 「お二人ならできると思います! わたしにできることならなんでもやりますから、なんでも言ってくださいね!」 なんでも? パシンと頭を叩かれた。 愉快な勇者の様子を見て、少女が少し表情を曇らせる。 「……わたし、ずっと学校行けなくて、これからどうなるんだろうなって、不安だったんです。外にも出ちゃダメだってお母さんから言われていたし、友達とは会えないどころか、連絡も満足に取れなくて」 彼女に限らない、多くの子供たち共通の不安だろう。 「でも、勇者様がツカレビトを倒してくれて、瘴気を浄化してくれて、外にも出られるようになったんです。皆とも会うことができるようになりました。知ってますか? もうすぐ一部でありますが学校も再開してくれるそうなんです」 「え?」 驚くエンジュにかまわず、少女の語りに熱がこもる。 「もちろん通常通りというわけにはいかないです。限られた校舎を分担して、希望する子供たちを年代ごとに分けて授業をしていくそうで。でも、学校で勉強ができるようになったら、いずれは行事だって復活させられるはずです。文化祭や、体育祭。入学式や卒業式、いつかは修学旅行だって」 キラキラと、彼女の瞳が輝いて見えた。 「そう思えば、今だって耐えられるんです。だから、勇者様にはどれだけ感謝しても足りませんし、これからも応援します。わたしにできることならなんでもっていうのは、もちろん言葉だけじゃありません、本気です」 もう一度、本当にありがとうございました、と頭を下げると、片づけをしている仲間の方へと走っていた。 元気だねえ、と隣のエンジュを窺うが、反応がない。あれと思い振り向くと。 まるでツカレビトでも見ているのかと疑うほど、憎しみを帯びた表情をしていた。 * * * 予定通り浄化を進めた新松戸駅の改札口前でエンジュと二人、椅子に座ってじっとしていた。 ゴーストも含めてツカレビトを全滅させ、新松戸駅を浄化したのが二日前のこと。倒したツカレビトは、浄化後に来たサポーターらの手を借りて千葉まで送り、結界内で意識が戻るのを待つ。ちなみにサポーターとは、マナを扱える勇者ではないが、浄化したツカレビトの保護や、立ち入り禁止テープを使って結界を張るなど、俺たちのサポートをしてくれている人たちだ。 駅のツカレビトがいなくなれば、付近の浄化も少しずつ進めていく。線路を利用した広域結界はできないが、学校や病院などを浄化していくことである程度行動範囲を増やしておくのだ。 それらが一通り終わると、ツカレビトはほとんど見当たらなくなった。多少の疲れもあってか、エンジュも俺も一人用のちょこんとした椅子に座って辺りに目を配っている。 ちらりと、エンジュの様子を窺った。 本に目を落とし、真剣に読んでいるように見える。以前見た憎しみに満ちた表情は見当たらない。 勘違い、だったのだろうか。 そのまま本でも読んでいれば、文学少女のような佇まいのエンジュに声をかけようとしたときだった。 「大変っス! 大変っス! 来てくださいお二人さんっス!」 駅の方から慌てて走ってきたのは、運転士も務める小栗マロンだった。膝に手をつき呼吸を整える彼女の肩を、エンジュが掴んで揺らす。 「何がありましたか!? ツカレビトですか!」 「ちが、違うス、ちょ、首、とれる、揺らしすぎ、ス!」 とんとんとエンジュの肩を叩いてやると、はっとしたようにエンジュが手を離した。 正気を失う以前のルールを覚えているのか、ツカレビトは基本的に決められた入口や出口からしか出入りしない。そのため、外から駅のプラットホームへ直接乗り込んでくるようなことはまずしなかったはずだが。 「だから、ツカレビトじゃないんス!」 生きている人間が、俺たちの浄化地域外からやってきた。要するにそういうことらしい。 「埼玉の方から来たらしいっス。詳しいことは代表者が来てから話すって言ってるっス」 新松戸駅構内を速足に歩きながら、マロンが説明した。 細めの通路を伝い、節電のため動かないエレベーターを横目に階段を上がる。 戸惑った様子のサポーターたちの中に見慣れない男の姿を見つけると、彼の方から歩み寄ってきた。 「お二人が、房総の勇者様でよろしいですか?」 作業着然とした服に汚れが目立つ、三十前後と思しき男だった。少し疲れた表情に悪意は見えず、人当たりのよさそうな男と第一印象を持つ。 「はい。あなたは?」 エンジュが聞くと、彼は「大宮勢の一人です」と答える。 「我々は先日、大宮駅周辺の浄化に成功しました。そして、風の噂に聞く房総の勇者様と何とか連絡を取れないかと思い、ここまで来たというわけです。噂では千葉の方までしか来ていないと聞いていましたが、まさか松戸まで来ておられるとは。おかげで助かりました」 「先日、ようやくここまでといったところです。場所、変えましょうか? 座って話せる場所のほうが良いでしょう。ここでは飲み物も用意できませんし」 「それはありがたいですが、今は用件だけ先に。本題は後で隊長からお伝えすることになるでしょうから」 隊長? 俺がフリップに書くと、男はキョトンとした顔をエンジュに向ける。「気にしないでください、こういう男なんです」とだけフォローしたエンジュに頷いて、男が続けた。 「お二人には、我ら大宮勢のリーダーと会談をしていただきたいのです。そのための連絡手段を、こちらで用意しました」 駅を出て徒歩で五分とかからない場所にある大学のビルの最上階で、俺とエンジュ、そして主要なメンバーが集まり今か今かとその時を待っていた。 「私がここに来るまでに、いくつかのドローンを設置してきました。瘴気の中では電波は届き難くなりますが、ドローンを中継点にすることでクリアできるはずです」 とはいえ、ドローンには貴重な電気を使って充電している。無駄にはできないので、会談のタイミングでタイマーを設置してあるそうだ。 「ところで、房総の代表者は一宮さん、ということでよろしいですか?」 男の言葉に、皆が互いに見交わしあう。確かに勇者として実績や能力は一番であり、彼女が代表で異論はない。ただ、まだ若いことなどを考えると、こうした交渉事やリーダーシップをとるような立場には、元県知事のような大人が付いたほうが良いのではないか、という迷いが感じられた。 「かまいません。私が話します」 少しの動揺を打ち消すように、エンジュが答えを出す。 彼女がそういうのであれば、他の人間に異論はない。俺も含めて。 「わかりました。ではこちらのマイクを付けてください。十二時ぴったりに電波が繋がって、大宮と会話ができるようになるはずです。声が入るのは基本的に一宮さんだけですが、スピーカーにしておきますので会話そのものはここにいる人たちにも聞こえます」 無言でうなずき、時計を見る。十二時まで、あと一分を切っていた。 そういえば、千葉県外の人間と話すのは久々だな。 俺が直接会話をするわけではないが、電話そのものが使えなくなって久しい。もっと便利なコミュニケーションアプリがあったこともあるが、瘴気発生以前からあまり電話というものをしていなかった気がする。 まだ平和で、平和であることにすら気づいていなかったような昔のことを思い出していると、いくつかのノイズとともに緊張が走った。 『――――こちら、大宮。こちら大宮。応答できますか?』 丁寧で掴みどころのない声だった。おお、と無音の歓声が部屋に響くのを錯覚すると、エンジュが「聞こえています」と答えた。 「こちら、房総。今は松戸市にいます」 『おお、もうそこまで来ていたのですか。房総浄化以降の話は聞いていなかったものですから、驚きました。さすが『房総の天使』様ですね』 「どうも。そちらは大宮の浄化に成功したと聞きましたが」 『はい。と言っても、駅と近隣の学校・病院といった主要施設の結界化に成功して拠点にできたという程度ですが』 線路に電車を走らせることで結界化する技術自体は、マナの抽出さえできればそこまで難しいものではない。ただ線路を利用した広域の結界化は、まだできていないようだった。 『あまり時間がありません。そろそろ本題に入りますが、よろしいですか?』 中継ポイントにしているドローンの充電を気にしているのだろう。ダラダラと会話を続けるのは、エンジュの性格にも合わない。「お願いします」の返事は早かった。 『単刀直入に申し上げます。我々大宮勢と、共闘をしませんか』 「共闘?」 『私たちは今、山手線による東京浄化を考えています』 エンジュがわずかに目を見開く。それは、かつて彼女自身の口で語られた作戦と同じだった。 地図を持ってこい、とマロンに指示すると、事前に準備してあったのか素早くテーブルに広げる。 『高崎線で大宮から南下すれば、上野駅に行きつきます。房総勢にも、同日同時刻に上野駅を目指してほしいのです』 エンジュはじっと口を閉ざした。かつては自分が、大宮勢の協力がなくとも提案していた策にもかかわらず、嬉しそうな様子が見えないのが気になった。 『上野駅を浄化できれば、山手線内浄化の拠点にできます。また、我々大宮勢とあなた方房総勢の合流ポイントとしても使えるでしょう。ここを繋ぐことができれば、埼玉南部と千葉南部と北西部、かなり広い部分の浄化に成功します』 「……でも。前に亜斗夢さんが言った通り、今の東京は『魔境』っス。迂闊に飛び込んで大丈夫なんスか?」 日本の中枢である東京浄化は、都民ならずとも悲願である。これが叶えば、政治的にも経済的にも日本の再生は大きく前進するからだ。 それができないのは、ひとえに東京の現状が全くわからないから。 同じ疑問を、エンジュは慎重に言葉にして大宮に送る。 「東京が今どのような状況になっているのか、そちらは把握していらっしゃるのでしょうか」 『残念ながら。しかし、噂に聞く勇者の力をもってすれば、不可能はないでしょう。それでできなければ、日本の再生そのものが無理だったということです』 随分と早い決めつけだな。 少し荒い字で書き記す。ちらりと見やってから、エンジュは前を向いた。 「すぐには決められません。まずはこちらで一度話し合ってから」 『そのような時間はありません。話ができるのは今日、今この時間だけです。あなた方にできる選択は二つ。期日を決めてその日に向けて準備を進めるか、この話をなかったことにして各々浄化を進めるか』 自分たちで持ってきた話のくせに、ずいぶんと横柄じゃないか。 思いはしたが、あえて書こうとはしなかった。元々は房総勢だけで、もっと言えば俺とエンジュの二人だけで上野に行こうとしていたのだ。それを思えば、大宮勢が加勢してくれるというだけで十分にメリットがある話だ。 だからこそ、エンジュが迷っているのが不思議に感じた。 一度目を瞑り、じっと考え込んだエンジュがもう一度目を開いたときには、もう迷いは感じられなかった。 「わかりました。共闘に応じましょう」 『英断に感謝を』 エンジュの決定に、誰にも気づかれない程度の小さなため息をこぼす。 しかし、決まった以上は全力を尽くすだけだ。 「お邪魔しまーっス、と。あれ、何やってるスか?」 俺用にあてがわれた部屋に堂々と入ってきたマロンをチラ見した後、フリップを手元に寄せる。 オナ……と書きかけてから、戦闘準備と訂正した。 戦闘で使うマナ弾のカートリッジに、マナを詰め込む作業をしているところだった。単一電池よりわずかに大きく鋭いカートリッジの底面に指をあて、マナを注ぎ込む。終わったらまた別の空カートリッジにマナを注入。その繰り返しだ。 「地味な作業っスねえ。なんか手伝うことあるっスか?」 ない。 一言で応じると、「そっスか」と様子で近くの椅子を引き寄せ、腰を下ろした。 大宮勢との電話会談の翌日。上野駅浄化作戦の期日だけが決まり、やることが一気に増えていた。上野駅浄化作戦から逆算して乗換駅になる松戸駅浄化の決行日を決め、そのための準備と松戸で浄化したツカレビトを運び出すサポーターの募集と選抜。そのための装備の確認等々、準備することは多い。 「前からずっと疑問に思ってたんスけど」 マナを込めたカートリッジを覗き込みながら、マロンが言った。 「なんで『上野』だったんスかね?」 ぴく、と作業の手が止まる。 「山手線を利用した東京浄化自体はわかるス。それ自体が良いか悪いかはともかくとして、狙いとしては正しいと思うスよ。でも、だったらわざわざどうしてこんな遠回りをしたのかなって。あ、大宮勢の話じゃないスよ、エンジュさんの話ス」 マロンの視線が少し上を向く。おそらく路線図を思い描いているのだろう。 「千葉から山手線の駅に行くだけなら、京葉線で直接東京駅まで行けるんスよ。それに西船橋を経由するなら、総武線に乗り換えて秋葉原駅ってルートもあるっス。全部スルーして、わざわざ新松戸から複雑な乗り換えをして上野って、なんか変じゃないスか?」 確かに。 「しかも亜斗夢さんが新松戸から柏方面に進むことを提案したから、新松戸までの案は事実上確定したス。なんか流れが怪しいスよね。ひょっとして二人で事前に打ち合わせとかしてたんじゃないスか?」 知らん。 「あー、隠したっス隠したっス」 可笑しそうに笑うマロンだったが、これ以上追及はしてこなかった。一度言わないと決めたこと、ちょっと駄々をこねた程度で口を割るような俺ではないことを知っているのだろう。 実際喋りはしないのだが。 「ところで、なんスかそれ?」 これか? 爆弾。 「ば、バク!?」 爆弾と言っても人を傷つけるような代物じゃない。マナを凝縮して、一気に押し広げるように炸裂する。一体一体撃っていても間に合わないほど囲まれたときの切り札、『バースト』だ。 マナ同士の衝突による衝撃波は、近くにいる人間数人を十数メートル吹っ飛ばすくらいの威力があるだろうが、まあ死にはしないだろ。 「はあ……色々考えてるんスねえ」 まあな。 その後、取り留めのない会話をしてからマロンは部屋を出ていった。 * * * 規則正しい揺れが眠気を誘う。 いつもならそう感じるはずの車内だが、今日はピリピリとした緊張感に包まれていた。 常磐線快速電車は、瘴気以前から金町・亀有・綾瀬の駅を通過する。特別快速ならさらにその先の北千住・南千住・三河島にも止まらず、日暮里まで一駅だった。一時間に一本の文字通り特別な電車だったが、乗れたときにはラッキーだと思った記憶がある。 今回も北千住に止まる予定はない。北千住のホームに跋扈するツカレビトの群れを横目に、いいのか、と向かいのシートに座るエンジュに聞いてみた。 「松戸から北千住までおよそ十分。時間と戦力、物資を消費して浄化するには近く、大きな意味を持ちません。今最優先すべきは上野。……何より、今更でしょう」 それもそうだな。 大宮勢と一度きりの電話会談で約束した共闘の日が今日だった。今から北千住を浄化する時間はない。 「……スカイツリーが、見えるんですね」 エンジュがポツリとつぶやいた。後ろの窓を振り返れば、うっすらと背の高い建物が見える。 江戸川を超えてから、つまりは東京に入ってから、どことなく瘴気が濃くなったような感覚があった。その一つが視界の悪さで、外が薄暗く霧がかかっているように見え難い。 実際、東京方面は昼でも晴れの日でも常に薄暗く、霧がかっていた。そのため、六三四メートルという巨大な東京スカイツリーも、なかなか目にすることができない。 久しぶりに見たな、という小さな感慨を覚えた。 特に喋ることもなく、時間だけが過ぎていく。南千住、三河島を通り過ぎればいよいよ日暮里。山手線、京浜東北線と並走するようになれば、いよいよ上野駅だ。 ――――上野には、何か特別な思い入れでもあるのか? 前にマロンが言っていた、上野を選んだ理由。ふと気になって、そんなことを聞いてみた。 「……こんなときにまでフリップを持ってきているんですか。呆れます」 答えは素っ気なかった。 『間もなく終点、上野、上野に止まります』 マロンの車内アナウンスが響く。意識を切り替え、ショットガンを手にする。 『本日は常磐線快速、上野行きをご利用くださいまして、誠にありがとうございました。お忘れ物のないよう、お気をつけてお降りください。……無事を祈っていますっス』 最後に少しだけ感情が混じったアナウンスに、口の中でわかってると応じる。 「行きましょう」 上野駅のホームに電車が滑り込む。新宿駅・東京駅程ではないにしても、いくつもの路線が集まるマンモス駅だけあって、ホームに見えるツカレビトの数は今までの比ではない。 だが、だからこそ勝てば大きな勝利となる。 電車が止まった。 降りる人優先のルールに従い、ホームにいたツカレビトが動き出すよりも早くエンジュの刃が一閃する。 血しぶきが上がることもなければ、悲鳴が轟くこともない。 「はあああああああああああああああ!!!!!!! 刻んでやるよデクの坊ども!」 早くも『暴走』し始めたエンジュの咆哮だけが、生気のない上野駅に響いていた。 階段を上がってくるツカレビトを蹴落とすと、下にいた数体が巻き込まれ、さらにその下のツカレビトごと落ちていく。 「瘴気を浄化すれば元に戻ります! 間違っても殺さないでください!」 珍しく冷静な注意に、返事替わりのマナ弾をツカレビトに放つ。リロード、射撃、リロード、射撃。距離を詰められないようにしつつ、隙を見て蹴りを放って弾を節約する。 常磐線ホームへ降りた俺たちは、群がるツカレビトを倒しながら上への階段を上った。 上野駅は広いが、基本的な構造としては電車が発着する二階と、それぞれ上下に改札口や駅内のショップが並ぶ一階と三階だ。新幹線発着の地下もあるが、外との出入口はないので今は気にする必要はない。 上がってきた常磐線ホームからのツカレビトは、階段下で動けなくなっているのも含めてだいぶ数を減らすことができた。周囲の敵も減らしたことで、次の行動に移れる。 いくら駅のツカレビトを倒したところで、外から増えてきたらキリがない。特に広大な上野駅での最優先事項は、各改札口の封鎖だ。 ツカレビトの間を縫うように入谷改札口へ走ると、エンジュからマナが施された立ち入り禁止用テープの一方を受け取って封鎖。すぐに破れないようぐるりと周回させ、襲われる前にその場を離れる。 そもそもツカレビトは、マナを嫌がる性質がある。案の定、マナのテープが張られた改札口には近づこうとしない。 まず、一つ封鎖。 「このまま反対側も封鎖します!」 上野駅三階のもう一つの改札口は、ちょうど反対側だ。そこへ到達するには、三階フロアを半周する必要がある。 だが、人の存在を嗅ぎ付けたツカレビトが徐々に集まり始め、ここを突破するのは容易ではない。 大宮勢はまだか? 十二時ちょうどに着いてから、かれこれ五分以上経っている。なぜ現れないのか。 囮にされた、アクシデントがあった、最初からすべて嘘だった。 悪い考えが頭をよぎる。 「考えても仕方ありません」 同じ不安を抱えていたのか、大きく息を吐いたエンジュが言った。 「今は私たちにできることを」 エンジュは目を閉じると、ゆっくりと刀を上に上げる。 「我流・一つの太刀……『繊月』!」 裂帛の気合とともに振り下ろされた刀から鋭いマナの一太刀が放たれ、一拍遅れてズンと地面が沈むような振動が広がる。 剣閃の真正面にいたツカレビトは物理的な衝撃波で吹き飛ばされ、傍にいたのも後方に弾かれ動かなくなった。 間違っても殺すな、とは誰が言ったのか。 「心配ありません! 死なない程度に全力です!」 どういう意味だとジト目で睨みながら、開いた道を突っ走る。 だが、あまりにも数が多すぎた。 広げた道もすぐに埋まり、切り結びながら先を目指すがなかなか進まない。四方から来る敵をさばきながらだと自然背中合わせになり、身を守るので精いっぱいだった。 「はあ……はあ……っ、うざい、敵ですね……」 エンジュの息が荒くなってくる。まずいとはわかっていても、そちらに気を回すことができない。ショットガンは射程が長いが、接近戦では扱いにくい。 あまり近づかれれば拳で退ける。体にもマナが通っているので、拳でも浄化はできるが銃や剣ほどの威力はなく、何より近づかれるほどリスクは高い。あくまで最終手段だ。 足を撃ちぬいて態勢を崩し、蹴りで吹き飛ばして後ろの二、三体も巻き込む。「あっ!」と短い悲鳴が聞こえたのは、その直後だった。 倒したツカレビトに躓き、エンジュがバランスを崩していた。どうにか立て直したものの、俺から離れた場所で数体に囲まれ、一体が今にも掴みかかろうとしていた。 その一体目掛けて射撃。背中から倒れていったが、その後ろからさらに湧いてくる。 リロード。次の射撃を構えると、俺の後ろから別のツカレビトが掴みかかってきた。 ――――邪魔だ、鬱陶しい! 肘打ちで怯ませ、股間を蹴り上げて振り払うと、横から寄ってきたツカレビトの頭に銃身を叩きつける。起き上がろうとしたツカレビトの背中を踏みつけて足場にし、エンジュに襲い掛かるツカレビトに狙いを定めた。 だが、数が多い。 一体倒しても埒が明かない。いっそバーストで、だがあれは物理的な衝撃波も強く、すぐそばにいるエンジュへのダメージは免れない。 焦燥にギリと奥歯を噛む。とにかく、と一体を撃ちぬき、倒れてできた隙間から見えたものを見て息を呑んだ。 明らかにツカレビトとは異なる機敏な動きと、サバゲーかミリタリーに使われるような迷彩柄の戦闘服に包んだ者たち。 大宮勢、援軍。瞬時によぎった言葉にほっとするより早く、彼らの武器が目に入る。 刹那、甲高い銃声とともに、エンジュに群がっていたツカレビトの一体の頭が弾けた。 そう、『弾けた』。 マナで浄化するのでは到底ありえない、血しぶきと脳漿が宙を舞う。 実弾――そう理解したとき、体が反射的に動いていた。 体当たりで一体をどけると、エンジュを抱きかかえて横へと走る。ショットガンを投げて窓ガラスにヒビを入れると、体ごとかつてコンビニがあった場所へ飛び込んだ。 「撃て!」の指示が飛んだのは、その直後だった。 数十、あるいはそれ以上かもという銃の連射音が耳をつんざき、ツカレビトの集団が血と肉片へと変わっていく。 瘴気に憑かれ理性を失い人を襲う、『元』人間の化け物。 だが、まだ生きている。 瘴気さえ浄化すれば元に戻れたはずの、普通の人たち。 「……うそ」 腕の中で、エンジュが呆然としたままつぶやく。 目の前の光景は、悲鳴も怨嗟もなくても間違いなく大量の『死』をばらまく虐殺だった。 普段の彼女からは想像もできない弱々しい声。口を押えて嗚咽をこらえるエンジュを見て、俺は腰に吊るした『バースト』に手を伸ばした。 ソフトボール大のそれを、銃撃に巻き込まれないよう上に放り投げる。やや浅い曲線を描いて飛ぶそれを、ショットガンで撃ち抜いた。 マナ弾のマナが『バースト』と接触。二つの高密度のマナを内包した物体がぶつかると、一度凝縮された後、大きく反発する。その衝撃は、物理的な破壊力をも持っていた。 「伏せてろ!」 爆発、音よりも早く広がった衝撃波がツカレビトを死体ごと吹き飛ばし、残っていた窓ガラスもすべて割れ飛び散った。衝撃波が通り過ぎると、その場所にあった空気が元に戻ろうと押し寄せ、豪風が吹き荒れる。 「うお!?」「た、隊長!」といった人間の悲鳴目掛けて、かつてのコンビニから駆け出した。 思わぬ爆発にまだ混乱が収まらない、ミリタリー姿の二十人ほどの集団。その中から隊長らしき人物を見定める。 「な、何者だ!?」 俺に気づいた一人が銃を向ける。その足元にショットガンでマナ弾を放った。実弾ではないから傷は与えないが、固体ではないマナの塊は思いのほか大きな音と振動がする。 「うわっ!?」と跳ね上がった男の肩にジャンプし、二段飛びの要領で中空へ。隊長格の男を飛び越えると、背後から銃を突きつけた。 一つ遅れて、周囲のミリタリー姿の連中が俺へと銃口を向ける。 「……銃を下ろせ。問題ない」 隊長と思しき男が、自ら銃を手放し両手を挙げた。隊員たちも、迷いながらそれに続く。 思いの他、高い声だった。 「……そちらは房総勢とお見受けする。私たちと共闘するという話だったはずだが、私の記憶違いだっただろうか」 「何の真似だ」 「ツカレビト討伐、および上野駅浄化作戦上、取るべき行動をとっただけだが」 「浄化さえできれば、元の普通の人間に戻ることができる。知らなかったわけではないだろう」 「無論だ。だが今回は盟友が窮地にあり、やむにやまれず強硬手段を選んだ。理解してもらえないだろうか」 「…………」 大宮浄化も、まさかこうやって殲滅したのではないだろうか。 そんな不安が脳裏をよぎる。だとしたら、共闘自体が間違いだったのでは。 猜疑心が胸の内にじわじわと広がり、ショットガンを持つ手が震える。答えが出せない。 「……わかりました。でも」 声は、少し遠くから聞こえた。 刀を手にしたエンジュが、隊長と視線を交わす。 「もう、殺さないでください。お願いします」 彼女が頭を下げる。今度は、隊長の方が返事に時間を要した。 「……善処する。ただし、命の危機と見れば、やはり私は話し合える人間の命を選ぶ。それだけは理解してほしい」 「わかりました」 話の決着。隊長が横目で俺を見て、いいかな? と視線を送った。 エンジュが決めたのであれば、俺は従うだけだ。 銃を下ろし、エンジュのもとへと駆け寄る。 「大丈夫、です。少し、疲れただけですから」 まだ少し青白い顔で言われて納得できるものではないが、言い返す言葉もなかった。 隊長は周囲に目配せし、変わらぬ声で言う。 「公園口はこちらですでに封鎖してある。入谷改札も封鎖してあるようならば、後は一階を封鎖すれば上野浄化はほぼ完了するな。すぐに行動を再開しよう、予定外に時間を費やした」 「ならば、私たちが一階へ降ります。大宮勢には、三階の残党討伐をお願いします」 「いいのか? 君たちは、私たちが来る前から戦っていたのだろう。万全な態勢には見えないが」 「大丈夫です」 そう言って、エンジュは俺に頷いて見せた。 足元いっぱいに広がった血と肉片を見て、さらに彼らに戦わせたくないのだろう。隊長の言葉にどれほど真実があったとしても、俺たちが無理したほうが犠牲は少なくて済むはずだ。 仕方ない、と肩をすくめてみせる。二人の同意を見て取って、隊長は「わかった」と頷いた。 「ならば、せめてサポートを二人つけよう。心配せずとも銃火器は持たせない。近接戦闘のスペシャリストだ。護衛と連絡係程度に使ってくれ」 隊長はそう言い残し、部下に指示を送って残党退治に向かった。手早い指示とリーダーシップには明らかに慣れており、元々こうした仕事に就いていた人間なのかもしれない。 「行きましょう、私たちができることを」 大丈夫なのか、と聞いたところで大丈夫と答えるだろう。 一階へと向かうべく、まずは二階ホームへ降りる。三階の騒ぎでかなりの数が昇ってきていたらしく、ホームのツカレビトはまばらだった。この分だと、一階もそうは多くないのかもしれない。 エンジュが刀を手に、ツカレビトを切り伏せる。彼女を追うように、俺も引き金を引いた。 今は余計なことは考えないようにしよう。 そう自分に言い聞かせ、一階を目指した。 戦いが終わってからしばらく、まともに動くこともできなかった。 周囲にツカレビトが見えなくなり、三階を制圧した大宮勢が一階へと降りてくると、後は早かった。疲労が限界に来ていた俺とエンジュは自然と後ろに下がり、一階中央改札が封鎖されればあとは駅構内に残った敵を掃討するだけ。 しばらくして銃声も聞こえなくなり、思いのほかあっけなく戦いは終わった。 「……大丈夫スか? いつもよりだいぶ辛そうスけど」 戦闘を終え、常磐線ホームまで戻ってきた俺とエンジュは、サポーターを連れて戻ってきたマロンと再会した。今はサポーター達が大宮勢と協力し、浄化したツカレビトを電車に乗せていっているところだ。 結界を張った松戸まで戻り、念のため拘束して結界内で一日二日様子を見れば、元に戻るだろう。 死んでさえいなければ。 マロンから受け取ったフリップで、俺は問題ないと返す。 エンジュは常磐線のシートで横になっていた。戦いが終わってからマロンらサポーターが来るまで一言も喋らず、やってきたマロンやサポーターに付き添われるように歩いて行った。 もちろん疲労もあるだろう。マナは生命力そのものなので、それを利用して戦えば疲労は濃くなっていく。ましてや今日はかつてない激戦・長期戦となり、幾度とない危機を乗り越えた。それは隣で戦っていた俺が一番よくわかっている。 だが、おそらくそれだけではない。 「……大変だった、みたいスね」 まあな。 戦いには慣れていても、死体には慣れていないだろう。俺たちがしているのは浄化であって、殺しではない。 ツカレビトとはいえ、目の前で人が弾けて死んだのだ。むしろそのまま戦えた精神力が賞賛に値する。 「これからどうするっスか? ウチはこれから、サポーターと一緒に浄化した人たちを松戸まで運ぶっスけど。いったん戻るっスか?」 少し考える。 上野の結界は、大宮勢に任せてしまっても問題ないだろう。彼らは実弾以外にも、ゴム弾などの制圧用装備も持っていた。出入口を結界で封鎖し、外から大量に入ってくる状況にならない以上、勇者ではない彼らだけでも十分に対処可能だ。 なにより、エンジュを少し休ませたい。 よし……。 「房総勢の皆さん、初めまして。少し話に入り込ませてもらっていいかな?」 丁寧で、中性的な声が会話に挟まる。聞き覚えのある声に振り返れば、大宮勢の隊長が立っていた。 「後処理がおおよそ終わったので、房総勢と話し合いの場を持ちたく参上したよ。……ああ、ヘルメットを取るのを忘れていたね」 そう言って、両手をヘルメットに添える。 晒された素顔を見て、「わお……ス」とマロンが無意識に嘆息した。 北欧系と思しき銀髪を小さく振り、ふうと漏らした唇は紅く色気を漂わせる。纏う空気は服装と相まって兵士のようだったが、整った目鼻立ちはどこからどう見ても女性のものだった。 「白鳥明子だ。ふふ、見た目と名前がずいぶん違うだろう?」 ハーフ? 「母がクォーターで、私は八分の一。ワンエイスというそうだ。私が生まれたときには両親もずいぶん驚いたそうだよ」 英語うまそう。 正直な感想を答えると、彼女はきょとんとしてから、「光栄だ」と応じた。 「今後について話し合いをしたいと思ってきたんだが……少し早かったかな」 まだエンジュが戻ってきていないのに、これからの話をするわけにもいかないだろう。マロンに、エンジュが来れそうなら呼んできてくれと頼むと、「っス」と頷いて行った。 彼女の背中を見送ってから、白鳥が可笑しそうに話す。 「しかし、君は面白いことをするね。何か事情があったりするのかな?」 面白いこと? 「君のコミュニケーションだよ。いちいち紙に書いて。ああ、ひょっとして何か事情が?」 何かしらの障害を気にしたのだろう。違う、と首を振ると、ますます眉を顰めた。 「じゃあなぜそんな面倒な……まあ、いいか」 なぜ殺した。 少し柔らかくなった空気を突き刺すように、それだけを書いた。青い瞳が冷たさを帯び、負けず視線をぶつけ合う。 沈黙は五秒か、はたまた十秒か。重たい時間が通り過ぎた後、ため息とともに白鳥が答えた。 「……こうするしかなかった」 何かを思い出すように、彼女は遠くを眺める。 「勇者の確率は、実に五十万人に一人と言われている。そんな中で、君たちは二人も見つかった。それはとても運が良かったね。でも、私たちはそうではなかった」 見つからなかったのか? 「見つかったよ。死に物狂いで探して、そのためにツカレビトの犠牲になった者もいた。そこまでして見つかった勇者は、当時まだ三歳の少女とベッドから降りることもままならない老人だった」 長いまつげが伏せられる。「君にそのときの私たちの気持ちがわかるかい?」と聞いてきた声は、悲しみよりも諦めを感じた。 「私たちは自力で戦うしかなかった。できるだけ殺さずに捕縛、制圧し、マナで作った結界に連れ込んで縛り付けて浄化する。時間もリスクもかかるやり方で、そのためにまた多くの犠牲を出した。『まとめて殺してしましょう』という意見も当然出たけど、私たちは総意として認めなかった。人間として大事なものを失うと思ったからだ」 俺たちよりも、よっぽど辛い戦いを経てきたのが伝わってきた。基本的に勇者だけが戦う房総勢に犠牲はほとんど出ていない。だから、わかっていなかったのかもしれない。 すまなかった。 「……いや。事前に説明しておくべきだった。そもそも約束の時刻に遅れたのは我々の方だ」 確かに、と答えると互いに小さく笑みがこぼれた。同時に空気も柔らかくなり、ほっと息をついたところでエンジュが戻ってくる。 「初めまして、房総の天使。大宮勢代表、白鳥明子だ」 「……はじめまして。一宮、エンジュです」 白鳥の外見を気にすることもなく、うつむき加減のまま答えるエンジュ。まだ相当疲れているようだ。 彼女を慮ってか、ふむと唇に手を当てる。 「話し合いができるコンディションじゃないかな……また今度にしようか。上野の結界化が終われば、ここを拠点にしていつでも話し合いの場は作れる」 「……すみません」 「気にしなくていい。上野駅浄化のMVPは君たちだ。むしろ私たちが礼を言わなければならないところだよ」 ポンポンと肩を叩き、「浄化された人たちの搬送状況を確認してくる」と白鳥はその場を後にした。 これほど弱いところを人に見せるエンジュも珍しい。いよいよ心配になって彼女をのぞき込むと。 「……少し、付き合ってもらいたいところがあります。一緒に来てもらってもいいですか?」 彼女はそんなことを言った。 公園口改札から、まさか駅の外へ出るとは思わなかった。 駅周辺のツカレビトは、一部は駅内に入って浄化され、それ以外は駅が結界化されたことで離れたようだった。ぽつぽつと見かけることはあるが、数が少ないので問題ない。 上野公園にいくつかある美術館や博物館には見向きもせず、真っすぐ歩いた先にあるもの。昔行ったことがある場所で、『ZOO』の表示に少し懐かしくなった。 上野動物園。日本で初めてパンダが来た動物園だ。 エンジュは入口前で表門をじっと見上げていると、呟くように話し始めた。 「どうしても、ここに来たいと思っていました」 『東京浄化』の足掛かりを、上野駅にした理由か。 「……私が中学生になって、初めての学校行事が校外学習でした。私たちの班が選んだのが、ここ、上野動物園」 中学生時代の話、なのだろうか。そもそも学校生活に思い出があまりない身としては、相槌が難しい。 「事前にどういうコースで回るかを班で話し合って。集合場所と集合時間を決めて、男子がふざけて話し合いに参加してくれなくて。行くまでだけでも大変だったなあ」 エンジュの顔に、少しだけ笑みがこぼれた。 乾いた笑みだった。 「でも初めてのイベントで、とても楽しみにしてました。私にとっては遠足みたいなものでしたから、前日もなかなか寝付けなくて。班の子たちとも仲が良かったし、気になる男の子も同じ班にいて」 ……むっ。 「……でも、校外学習はほとんど始まる前に終わってしまいました。ツカレビトに、襲われたんです」 ああ、と声にならない程度に声が漏れた。 まだ瘴気がそこまで濃くなかった時期、ツカレビト化のニュースはあまり大きくなかった。マスク、消毒と世間もマスコミも騒いでいたころだろう。今にして思えば未知の物質である瘴気にどこまで有効だったが調べるべくもないが、日本全国がゴーストタウンとなった今よりもまだずっと平和な時期だった。 そんな日々は、ある日をきっかけに一変した。 「突然、班の子の一人が掴みかかられて。状況を理解する前にいろんなところから悲鳴が聞こえてきて。怖いのをこらえて、私がそのツカレビトを両手で突いたんです。そしたら、動きが遅くなりました」 瘴気の発生と、マナを扱える人間が出てくるのはほぼ同時期だったらしい。おそらく、当時のエンジュの攻撃ともいえないような攻撃でわずかに瘴気が浄化され、ツカレビトの動きが鈍ったのだろう。 「男の子と協力して、とにかく班の子だけは助け出して。遠くから『逃げろ!』と言われて、急いで駅に走って。電車に乗って、上野を後にしました。これが、私の学生生活最初のイベントで、最後のイベント……」 鼻をすする音が聞こえた。 「……わ、私はずっと夢だったんです。中学生、高校生になって、漫画やアニメやドラマみたいに色んなことができると思ってた。友達と遊んで、試験前に勉強して、部活して、気になる男ができたりして、泣いたり、笑ったり、怒ったり。文化祭、体育祭、辛いって聞く受験勉強とか、お化粧とか。 ――――何も、無くなってしまいました」 エンジュはごしごしと両目をこする。 「私は、今日が誕生日なんです。十九歳になりました」 こちらをみた彼女の表情は、あまりにも弱々しかった。 「私が夢見ていた中学校生活も、高校生活も、ほとんどできないまま、十八歳が終わってしまいました」 ふらふらと俺に近寄ると、力なく頭を俺の胸に押し付ける。 「ずっと……ずっと、ずっと楽しみにしてきたのに! いつか必ず戻れるようになるって、我慢していたのに! 大人たちだってそう言ってたじゃない!」 ずっとこらえていたのだろう。堰を切った涙と感情の渦は、止まりそうにない。 「瘴気ってなによ! 知らないわよそんなの、私に関係ないもの! 大人のせいじゃないの!? 自分たちで何とかしなさいよ! なんで私たちがこんな目にあわなきゃいけないのよ! 勇者って何よ! なんで、なんでこんな怖い思いして私が戦わなきゃいけないのよ! 別にあの子たちのためになんか戦ってない! 私は、私が思い描いていた青春がしたかったら、戦ってただけ! あんたたちなんか関係ない!」 あとはもう、ほとんど言葉になっていなかった。 ツカレビトと瘴気の出現によって、外出すらほとんどできなくなっていた。仕事も極めて限定的になり、かろうじて許可されていた食料品等の買い物は命懸け。当然学校など行けるはずもなく、瘴気の影響でオンラインも途切れ、事実上すべての学校生活は終了していた。 彼女だけではない。多くの少年少女が、得られるはずの青春の時間を失っていた。 「……私の青春、返してよう……」 ずっと張りつめていた緊張が解けて足の力が抜けたのか、ずるずると膝から落ちていく。 泣きじゃくる彼女の肩がこんなに小さかったんだと、今更気づいた。こんな小さな肩に、一体どれほど多くの期待を背負っていたのだろう。無責任な応援の一つ一つさえ、今は憎らしくすら感じられる。 それとなく周囲を見回し、幸い近づいてくるツカレビトの姿はないことを確認。 大丈夫だ、と彼女の背中を優しく叩く。 凛々しく美しい房総の天使の姿は今はなく、そこにいたのはまだ中学生になったばかりの少女の様だった。 泣き止むまでに、果たして何分かかったのかはわからない。 ただ気持ちが落ち着いたのか、ぐしぐしと目元をこすった後には、すっかり元に戻っていた。 「……恥ずかしいところをお見せしました。今のは忘れてください」 わかった。 「なんです、その顔は」 弱みを握った顔です。ニヤニヤ。 「……ッ!」 ぎゅううっとお尻をつねられ飛び上がる。ため息をこぼしながら足早に歩きだしたエンジュを追いかけ横に並んだ。まあ、多少なりとも元気を取り戻してくれて良かった。 ツカレビトと戦うことなく上野駅まで戻ると、何やら騒がしくなっていた。 一番線ホームへの階段を降りる一団の中にいた白鳥が、こちらに気づくと「先に行っていてくれ」と指示して足の向きを変えた。 「緊急事態だ……目が赤いな、大丈夫か?」 「あ、は、はい! 大丈夫です……」 恥ずかし気に俯くエンジュと、隣で知らんぷりして目をそらす俺を交互に見た白鳥は、小さく頬を緩めた。 しかしすぐに引き締め、「君たちも来てくれ」と先に行った一団を追う。 「何かあったんですか?」 「すぐにわかる……これだ」 階段を降りると、軽快な音楽が流れ、同時にアナウンスが響く。 『間もなく二番線に、当駅どまりの電車が参ります。黄色い点字ブロックまで、お下がりください』 「山手線? いったい誰が」 「わからない」 白鳥が首を横に振る。だが銃を持つ手は明らかに緊張していた。 「我々同様、山手線を利用した東京浄化に着手していたものがいたのか、はたまた東京在住者は今も山手線を利用しているのか……。とにかく何もわからない今、最悪の状況も想定して構える必要がある。二人にも来てもらうぞ」 「わかりました」 俺とエンジュ、それに白鳥と他に数名の大宮勢は東京駅方面の下り階段前に、残りのメンバーは池袋方面の上り階段前に陣取った。 やがて、電車の走る音が聞こえてくる。ごくりと飲んだ誰かの唾の音すら聞こえそうな静かさの中を切り裂くように、緑色の車体がホームへ滑り込んでくる。 瞬間、鉛を飲み込んだような衝撃が俺たちを襲った。 ――――瘴気以前、日本では通勤時の『満員電車』が社会問題になっていた。 一時では乗車率が250パーセントとも言われていた時期があるほどで、多少改善されていても200パーセントを切る程度だったらしい。乗客の体と体が密着しあい、ほとんど身動きが取れない状況で、痴漢やスリといった犯罪も多かった。 その人数は、十一両編成全て合わせるとざっと三千人弱とも言われている。 そんな、いつかの満員電車そのもののような電車がホームへと入ってくると、ゆっくりと停車する。 ドアが開いた瞬間、壊れた水道管さながらの勢いで大量のツカレビトがホームへと吐き出された。 「撤退だ、急げ!」 白鳥の判断は早かった。 「催涙弾を!」 部下が階段前に放り、途端に煙が視界を遮る。ツカレビトにどれほどの効果があるかわからないが、視界を塞いでいる間に一階へと急ぐ。 「このまま高崎線に乗り込め! 上野駅は完全に放棄する!」 動揺した気配も一瞬、白鳥の部下たちはすぐに天井の低い一階を駆け五番ホームを目指す。 足を止めたのはエンジュだった。 「待ってください! まだ、諦めるのは早いです! 今来た奴らを倒して、上野駅の結界さえ完成すれば」 「君はあの大群を見て、どうにかできると本気で思っているのか!?」 白鳥の怒声に、エンジュがびくりと肩を震わす。 「確かに君たちなら可能性はあるかもしれない、だが我々には確実に被害が出る、それも全滅に近い被害だ!」 白鳥の青い瞳が、怒りを孕んでエンジュを見据えていた。 「……それでも、犠牲に見合う対価が約束されているなら戦おう。だが、あれで終わりとは限らない。我々すべての命を賭けるには、あまりにも分が悪いギャンブルなんだよ」 わかってくれ、と白鳥は優しく肩を叩く。 エンジュは歯を食いしばり、かろうじて「……はい」とこぼした。 「よし、では……」 言いかけた白鳥を遮り、男の悲鳴が一階に響き渡る。 最後に階段を下りた隊員の一人が、ツカレビトに捕まっていた。 「隊長、助け……」 取れたヘルメットから素顔が見え、直後に頭部へ拳が振り下ろされる。 白鳥が銃を放つと圧し掛かっていた一体は吹き飛んだが、すぐに後ろから集まってくる。さらにはこちらに向かってくるツカレビトも多かった。 血が出るほど唇を噛み、背を向けかけた白鳥の横顔を視界の端にとらえて、俺は腰のバーストに手を伸ばす。 「――――頭だけ守れ! 他は伏せてろ!」 バーストをツカレビトらの方へ投げつけ、ショットガンを片手撃ちでヒットさせる。 膨れ上がった光はすぐに衝撃波を伴い、低い天井と床の間を突き抜けた。咄嗟に伏せたエンジュや大宮勢はかろうじて爆風を免れたが、ツカレビトはそうはいかなかった。 至近距離で爆風を受けたツカレビトは壁に叩きつけられ、柱に打ち付けられたものは鈍い音を響かせる。衝撃波は階段から降りてきたばかりのツカレビトも押し返し、しばしの間肉の壁となって階段を塞いだ。 爆風が止んだのを見計らい、捕まっていた隊員を引っ張り起こす。頭部からの出血、不自然に折れ曲がった足。怪我は深いが、致命傷にはならないはずだ。 怪我人を大宮勢の一人に預けると、五番ホームへの階段前で白鳥が立ち止まった。 「二人とも、私たちと来い」 思わぬ言葉に、エンジュと二人足を止める。 「君たちの常磐線は、浄化された人々を結界のある駅まで運搬してまだ戻ってきていないだろう。高崎線ならすでに到着している。すぐに乗車して脱出できる」 「それは……」 「何より、我々ならともに戦える。もう一度『東京浄化』を目指すなら、これからも力を合わせて戦うべきだ」 現実的で、先のことも考えた提案だった。戦い慣れた大宮勢を、勇者二人が率いる。そうすればより多くの作戦を立てられるだろうし、何より常磐線が戻ってくるまでたった二人で持ちこたえられるか微妙なところだ。 だが。 「せっかくの提案ですが、お断りさせていただきます」 エンジュの返事は早かった。 「そうか……」 「共闘は、これからも。でも今、仲間が向かってます。彼女たちを置いて、私たちだけ安全な場所へ逃げるわけにはいきません」 常磐線の入ってくる十一番線ホームを見ながら、エンジュは言い切った。ちらりと俺を窺った目には不安の色があったが、こっくりと頷いてやるとすぐに消えた。 「……わかった。必ずまた会おう」 白鳥はそれ以上言わず、最後に三人でコツンと拳を合わせると、壁になっていたツカレビトの山がどけられ、同時に怪我の浅い奴らが起き上がってくる。 同時に、アナウンスの音が頭上を行き過ぎた。 『間もなく三番線に電車が参ります……』 反対側からも来たのかよ。いよいよ戦い続けるのが不可能だと奥歯を噛み締め、十一番ホーム目指して走る。そして、二つのことに気づいた。 「封鎖したはずの中央改札が……!」 マナを帯びた立ち入り禁止テープで封鎖したはずの改札口が、ツカレビトの大群によって壊され、駅構内へと侵入してきていた。 今までの駅ではあり得なかったことだ。何もかもが、千葉での戦いと違い過ぎている。 だが、もう一つの情報は朗報だった。 『間もなく、十一番線に当駅どまりの電車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください』 常磐線が来る、マロンが来てくれた。 よし、と気持ちを立て直し、足の速い先頭の一体を撃つと、反対側から来たツカレビトにもぶっ放しエンジュを先に行かせる。 ――――くらりと、景色が揺れた気がした。 「よし、ツカレビトはホームにはまだ来ていないようです! ここで防衛して」 エンジュの言葉が途切れる。 言葉が遠い。なんでだ。 ああ、距離が離れたからか。 もつれた足をどうにか立て直し、近づいてきた二つの足音を狙って振り向きざま連射。一発撃つたび、五十メートルを全力疾走したような疲労感があった。 駆け戻ってきたエンジュが、「ちょ、どうしたんですか急に」と俺の背中を支える。 「なんですか急に、こんな……」 「……なん、でも、ない」 息も絶え絶え。自分でも笑いたくなるくらいだった。 エンジュに肩を借りながら、どうにかホームを進む。 「まさかどこか怪我したんじゃ」 「けが、など、して……」 「ならなんです、連射できるくらいの力はまだ残っているなら」 そこで、エンジュの言葉が途切れた。どうやら気づかれたらしい。 「あなたまさか、カートリッジ使い切ったんじゃ」 弾切れ。別に珍しいことじゃない。 カートリッジを使わなくても、銃にマナを注ぎ込んで撃つことはできる。カートリッジを大量に用意するのは、長期戦の備えだ。直接マナを注ぎ込み撃てばリロードを必要としないため、連射もできるようになる。 だが、だいぶ限界が近いようだった。 後ろからツカレビトは近づいてくる。足手まといは、ごめんだ。 「……俺はおいてけ、エンジュ。後ろは俺が食いとめる」 「バカなこと言ってないで、見なさい!」 エンジュに促されるまま目線を向ける。そこには、来た時と同じ電車と、窓から顔を出すマロンの姿があった。 「どーゆーことっスかどーゆーことっスか!? なんかメチャメチャいっぱいツカレビトいるっスけど!?」 「すぐに停止して! 反転、出発! 上野駅を離れます!」 「え! あ! はいス! 急ブレーキGO!」 直後、甲高いブレーキ音とともに電車が大きく減速、停車と同時にマロンが「すぐに出発して! 逃げるっス!」と叫ぶ。 「すぐ出るっス! 二人も乗ってっス!」 扉を開けるとすべての扉が開いてしまい、ツカレビトまで連れていきかねない。マロンが開けた運転席の窓から飛び込むように、まずは俺が半ば投げ込まれるように飛び乗る。 「エンジュさんも! 早く」 続いて動き出した電車に飛び乗ろうとしたエンジュだったが、背後からツカレビトが襲い掛かった。 不意を突かれたエンジュはホームに押し倒される。後方には、ツカレビトの大群が。 「どけええええ!」 窓から銃身を出して狙い、エンジュを襲うツカレビトを吹っ飛ばす。 「急ぐっス! この手につかまって!」 エンジュが立ち上がり、徐々に加速し始めた電車を追いかける。 急がなければ、反対側からもツカレビトが来ていた。何体かが走行中の電車に弾かれホームに倒れていく。 エンジュがマロンの手を掴む。その手を俺が掴み上げ、せーので引っ張り上げた。 どうにか乗り込んだ狭い運転席の窓に、追いかけてきたツカレビトが顔を差し込む。 「ぎゃああああああああああああああっス!!!!!!!」 悲鳴とは裏腹な鋭いビンタが頬を直撃、電車から離れたツカレビトがホームを転がっていく姿がどんどん遠くなっていった。 やがてホームを抜けると、追いかけてきたツカレビトの一部が後ろからツカレビトに押されて線路に落ちてくる。 線路を追いかけてきたら厄介だったが、彼らはそうせずホームに戻ろうと悪戦苦闘していた。どうやらやはり、ツカレビトになる前から守っていたルールはツカレビトになっても守っているようだった。 どうにか、切り抜けた。 ほう、と大きく息を吐き、規則正しい電車の揺れに身を任せる。窓の外から見える景色は依然として薄暗く、疲れた体をますます滅入らせた。 「うへえ、見たっスか今の! 日暮里にもウジャウジャいたっスよ! 多分着たときより多いスよ!」 マロンが辟易とした顔で叫ぶ。日暮里駅を通過した際、ホームにいた大量のツカレビトを見て、嫌な顔をしたのは皆同じだ。やはり上野駅浄化に伴って、大量に出てきたのだろうか。 「ところでマロンさん、あなたはここにいて良いのですか? 今誰が運転を」 「松戸で浄化された駅員の中に運転士が居たんで、来てもらったんスよ。ちょうど運んだときに自分も手伝いたいって言ってくれて、紹介がてら連れてきたス。本来電車は先頭と最後尾の車両の両方に駅員が居ますしっスね」 ので、今から紹介するっスよ、というマロンに案内されて先頭車両を目指している。 上野駅での作業のために集まってくれたサポーターも、事情を説明するため歩きながら一度先頭車両へと促した。急なUターン、浄化したはずの上野駅に溢れるツカレビトを目の当たりにした彼らは一様に不安げだったが、今は何も聞かず歩いていた。 「……ところで、上野駅で何があったっスか?」 一瞬エンジュと視線を交わす。いずれは説明しなければならないこと、大勢に伝える前にまず理解してくれそうなマロンに話しておくのは正しい判断だ。 説明はエンジュがした。上野駅の浄化には半ば成功していたものの、山手線を利用した大量のツカレビトの襲来、および封鎖したはずの改札を突破してきた外からのツカレビトの群れ。 俺たちは逃げるしかなかった。 「……ごめんなさい。私が間違っていました」 説明を終えると、エンジュがそう言って俯いた。 「須賀君が言った通り、もっと慎重に行くべきでした。戦力を蓄え、調査をして万全の準備を整えた上で挑めば、こんなことにはならなかったかもしれない。私は、私のわがままのせいで、多くの時間と犠牲を、無駄にしてしまいました」 むだじゃない。 フリップに書いて目の前に突きつける。エンジュは驚いたように目を見開いた。 行かなければ、わからないこともあった。もうわかったから、今度は対策を立てられる。わかったことが大事なんだ。 試して、失敗して、学んで、生かして、成功させる。大事なのは失敗しないことじゃない、次に成功させることだ。 俺たちは生きている、大宮勢の被害も大きくはない。はずだ。 だから。 大丈夫だ。 長々と書いた右手が痛む。左手に持ったフリップを鼻息荒く二人に見せると、二人は同時に噴き出した。 「……良いこと言ってんのに、なーんで口で言わないスかねえ。せっかく格好良いのが台無しスよ」 「まあ、それが彼の良いところなのかもしれませんね」 ……ッ! フリップを床にビターン! して不貞腐れる。まあまあ、と女子二人に両サイドから慰められながら、そろそろ先頭車両につくところまできた。 そのときだった。 「きゃあ!」 「わ、わちゃちゃちゃっ!? ス!?」 車両が跳ねるような振動と轟音、次いで悲鳴が響き渡る。 「な、なんスか今の!」 「わかりません、でも音は後ろの方から聞こえてきました」 俺たちは後ろから歩いてきてる、その時には確かに何もいなかったし、何もなかった。 「マロンさん、あなたは運転士のところへ行って、何か踏んだのか聞いてきてください。あと先頭車両にサポーターさんたちを集めておいて。私たちは後ろを見に行きます」 「りょ、了解ス! くれぐれも気を付けてス!」 マロンと別れ、来た道を戻る。 何かを踏んだのなら、衝撃は前の方から来るはずだ。『何かを踏んだのかも』なんてことは、まず考えられない。エンジュだって気づいているはず。 マロンを先頭車両に送ったのは、危険から遠ざけるためだ。 俺とエンジュは慎重な足取りで、かつできる限り急いで後部車両を目指した。 後ろへ、後ろへ。ようやく最後尾までたどり着き、連結部の扉を開けようとしたとき。 「危ない!」 エンジュに突き飛ばされると同時に、扉が後方へと吹っ飛んでいく。反対側に避けたエンジュとの間にあったもの。 輪郭がわずかにぼやけた、一メートルはあろうかという巨大な爪だった。 ぬうと引っ込んでいくと、轟音、衝撃がまたも電車を揺らす。 体勢を整えつつ、数歩下がって『それ』の正体を探った。 『それ』は、まるでパンダだった。 微妙に輪郭がぼやけているが、体の色は白黒で、丸い耳、ずんぐりむっくりとした頭と体、真っ黒な目といい間違いなくパンダと言えた。 ただし、ものすごくデカい。 腹ばいにならなければ車両に収まらないほどの大きさの化け物に、思い当たるのはただ一つ。 「……ゴースト」 瘴気が凝縮し、物質化した化け物。見たことがないわけではないが、それでも人間を一回り大きくした程度のサイズだけだ。 これほど大きいゴーストなど、俺は知らない。 ぶおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!! ゴーストが吠えると、連結部に向かって体当たりしてきた。さっきまでより強い振動が足元を揺らし、思わず距離を取る。 「出られない、のでしょうか」 「……いや」 衝撃でひしゃげた連結部に、頭がめり込んでいる。徐々に押し出されているが、入り口が広がっているというよりも、むしろ。 「元々実体がないゴーストだから、押し込めばスポンジみたいに縮んで押し出せる、ということでしょうか。しかし、これなら」 エンジュが刀を抜くと、「はあ!」と気合を込めて振り下ろす。ぽっかり出てきた頭を切り裂き、マナがゴーストの瘴気を浄化して黒い煙がわずかに漏れる。 だが。 ぶおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!! 痛みはあるのか、再び叫ぶと肩まで出てくる。腕がこちらの車両までくると、人間ほどの大きさがある爪を振るった。 「下がれ!」 後ろに引いて爪から逃れる。肩が出てもまだ胴体が引っかかっているので、距離を取るのは難しくない。 「これなら、どうです!」 反対側の連結部まで下がったエンジュが、上段に構えて目を閉じる。そして、 「我流、一つの太刀……『繊月』!」 床まで振り下ろした刀からマナの一太刀が放たれ、体の半ばまで出てきたゴーストを直撃。先ほどよりも数倍大きな悲鳴が耳をつんざき、頭のほとんどを切り裂いた傷口から大量の黒煙が漏れる。 だが、そこまでだった。 傷口はすぐに塞がり、怒った様子のゴーストが遮二無二進んでくる。体の中ほどまで出たことで、後はスムーズだったのだろう。俺たちは急いで後ろの車両に引いてドアを閉めるが、体当たりで簡単に吹っ飛んでいった。 ここもすぐに安全じゃなくなる。もっと後ろへ行くべきだ。 向こうへ、と促し走る。体力がどうのなんて今は言っていられない。 「ゴーストの体が大きすぎます。あれでは……」 口惜しそうにエンジュが言った。 刃が切り裂いた部分は確かに浄化されている。だが図体が大きすぎて致命傷にならないのだ。あれだけの瘴気の集合体を、俺たちが持つマナだけで浄化しきるのは不可能に近いだろう。この狭い電車内で攻撃方法も限られてくる。 かといって最後に残した『バースト』を使ったとしても、おそらく倒し切れない。マナ保有量は先ほどのエンジュの一太刀とそう大差なく、浄化しきれなかった瘴気はすぐに集まって元に形に戻ってしまうからだ ――――いや、それなら。 「エンジュ」 彼女を呼ぶと、何故か二度見された。 「……いえ、あなたに名前を呼ばれたことに、驚いただけです、すみません」 傷つく反応だが、そんなことを言っている場合ではない。 「考えがある。窓を開けろ」 「窓、ですか?」 「窓を開けながら、先頭車両一つ前まで下がる」 言い終わると同時に二人左右に分かれて窓を開けていく。風が車内に吹き込み、外の音が大きくなった。 エンジュも余計な問答をせず反対側の窓を開けながら下がる。連結部から聞こえるゴーストの雄叫びがプレッシャーになり、焦りで指が上手く動かない。 すべての窓を開け終えて前の車両へ。俺たちを追って、ゴーストも追いかけてくる。 ゴーストの体当たりで足元を揺らされながらも、徐々に窓を開けるのにも慣れてきた俺たちの方が進むのは早かった。このままいけば追いつかれるより早く先頭まで行ける。 そして目指していた先頭車両の一つ前まで来たとき、反対側からマロンが出てきた。 「ちょ、さっきからなんスかこの声と振動! ひょっとしてヤバいやつでも乗ってるんじゃあ……」 連結部から顔を出した直後、反対側の連結部の扉が吹っ飛ばされ、マロン目掛けてまっすぐ飛んでいく。 「横に跳べ!」 「はい!? あばばばば! とうス!」 間一髪シルバーシートに飛び込んで事なきを得たが。 「あばー! と、扉に扉がめり込んでるス! 狭いところを抜けるのに慣れてきたのか、ゴーストが思ったよりも早く追いついてきた。おまけにひしゃげた扉が先頭車両までの道を塞いでしまっている。 やるしかない。 「エンジュ。ギリギリまで奴を引き付けて、できるだけ深く切り裂いてくれ」 連結部まで下がって、エンジュに話しかける。 「それは構いませんが、真っ二つには到底及びませんよ。あのサイズですと、せいぜい半分が精一杯です」 「十分だ」 俺は右腰の『バースト』を手に取り、大きく息を吐く。 「まずお前がゴーストをできるだけ深く切り裂き、動きを止める。その隙に俺は傷口にバーストを投げ込み、炸裂させる。内側からなら、より深いダメージを与えられるはずだ」 「しかし、それでも浄化しきれないのでは。威力は申し分ありませんが、あの瘴気量は尋常ではありません」 「わかってる。だが浄化する必要はない、そのためにここまで『換気』してきたんだ」 「え……あ!」 内側から爆発させれば、瘴気を浄化しきれずとも衝撃波に押されて外側へ向かう。密閉空間ではすぐに戻ってきてしまうだろうが、窓が開いていればそこから外へと出ていくはずだ。一度出てしまえば走行中の電車内に戻ってくることはない。 ゴーストの姿が徐々に露わになる。頭、首、肩が出てくると凶悪な腕と爪も見えるようになり、「ひいいス!」とマロンが悲鳴を挙げた。 「あなたは下がっていてください」 マロンを後ろに下げ、エンジュが前に出る。 そして、ゴーストに背中を向け、刀を下ろした。 「ご心配なく。あなたは自分の役目に集中を」 ぶおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!! 標的を見つけ、胴体まで入ってきたゴーストが三度雄叫びを上げる。 しかしエンジュは動かない。 一番太い部分は抜けたのか、スピードアップしたゴーストが一気に近づいてくる。 大きな爪が振り上げられた、その時。 「我流、奥の太刀……『十六夜』!」 振り向きざま、斬り上げた一振りが爪も、頭も切り裂いていく。その威力たるや凄まじく、ゴーストの体を左右に押し広げていった 引きつけも十分、威力によってゴーストの動きも一瞬止まる。 あとは、任せろ。 切り裂かれたゴーストの胴体深くにバーストを放る。 素早くショットガンを構え、狙いを絞った。 「――――アスタ・ラ・ビスタ(地獄へ落ちろ)。ベイビー」 残り少ないマナをありったけ込め、マナ弾を放つ。狙いたがわずバーストと衝突したマナ弾は、大きな衝撃波を押し広げた。 内側からモロに浴びたゴーストの体は四方へ引き裂かれ、散り散りになった瘴気は爆風に乗って外へと吹き飛ばされていく。衝撃でふわりと浮いた電車も、どうやら脱線することなく無事に運行を続けていた。 パンダ然としたゴーストは影も形もなく、スッキリした車両が静かに戦いの終わりを告げる。電車はちょうど江戸川を過ぎたところで、いつの間にか東京を脱出し千葉まで戻ってきていた。 終わった。どっかとシートに座り込むと、疲れた体がずるずると落ちてきて横になる。 「だらしないですよ」 そういうエンジュも、反対のシートに座り込むと、ずるずると落ちてきて横になってしまった。 「まったくもう、すぐ松戸着くっスよ。亜斗夢さんはともかく、エンジュさんは格好良い勇者なんスからちゃんとしないと」 俺はともかくってどういうことだ。 言いたかったが、フリップが手元にないのでやめた。 バカみたいな言い合いができる。生きている実感を確かにすると、張りつめていた緊張をため息に混ぜて一息に吐き出す。 キンキンに冷えたコーラが飲みてえ、と思った。 * * * 千葉県県庁舎九階、会議室。 西船橋浄化前にも同じように集まって会議を開いたが、その時よりも人数が増えており、その分緊張感も強くなっている。 元千葉県知事、千葉市長、警察署長の他、浄化地域が広がったことで松戸、市川、船橋といった千葉北西部の市長や副市長、議会議員などを集めることができた。さらに、上野で浄化して連れ帰った人の中には東京都民も多く、今回の会議にも何名か参加してもらっている。 彼らの視線は主に『房総の天使』一宮エンジュが集めていたが、今後の指針について話の主導権を彼女から受け取ると、視線が俺に移る。 ホワイトボードの前に立ち、あらかじめ用意したフリップを出す。「彼は何をしているんですか?」「さあ、よくわからないがそういう人なんです」「ふざけているのでは」「私には何とも」といった囁き声も聞こえたが、無視だ。 「まあまあ皆さん、ウチも補足しますっスから、とりあえず聞いてほしいス」 ホワイトボードを挟んで立つマロンがフォローを入れる。 ちなみに、エンジュにも詳細は伝えてある。必要に応じて、適宜フォローを入れてもらう予定だ。 「ええと、ウチらの提案としては、簡単に言うとこうス」 マロンがホワイトボードにマグネットでJR東日本の路線図を貼りつけ、赤マーカーで新松戸に丸を付けると、後は俺のフリップに合わせてマーカーを動かしていく。 まずは新松戸から武蔵野線で北上、南浦和で高崎線に乗り換えて大宮勢と合流する。 大宮から川越線に乗り換え、高麗川から八高線で八王子へ。横浜線で東横浜まで下り、京浜東北線に乗り換える。目指す目的地は、川崎。 「ずいぶん長い計画だが、それでは全く囲えていないのではないか? 線路で囲わなければ、結界にはできないのだろう?」 「それに、結局『東京浄化』もできていないじゃないか。そんなことに意味があるのかね?」 千葉県知事の疑問に、嫌味な言い方で新参のおっさんが被せる。「まあまあ、本題はここからス」とマロンが作り笑いを浮かべた。 「確かにこのまんまじゃ東京浄化はおろか結界にもなりませんス。だけど、川崎にある『これ』を使えば……」 キュキュっとマロンが赤丸を引っ張ったのは、川崎と木更津を繋ぐ一本の線。 東京湾アクアライン。 東京湾を横断し千葉と神奈川を結ぶ高速道路だ。 「し、しかしアクアラインには鉄道はないはず」 「ところがどっこい、実は建設当時、アクアラインは鉄道併設案も検討され、実際にそのスペースがあるらしいス。そこに本当に線路を作って電車を通してやろうって話っス」 山手線はツカレビトの大群に襲われ、東京浄化に利用するのは現実的ではない。 だったら、千葉、埼玉、神奈川という隣接三県を繋ぐ大きな結界を作り、東京を巻き込む大型の結界を作る大掛かりの計画だ。 幾分たじろいだ様子で、県知事がなおも異論を挟む。 「だが、そんなことが本当に可能なのか? アクアラインに線路を作るなんて実際できるかどうかも分からないし、八王子は東京だ。西東京がどうなっているかもわからないままで、机上の空論に過ぎないのではないか? ましてやそれだけの大事業となればどれだけの金がかかるか。やはりここは、堅実に浄化地域を広げていった方が」 「不可能ではないと思います」 エンジュが立ち上がり、ホワイトボードの前に立つ。 「確かに不確定要素も多くあります。しかし大宮勢と合流し、神奈川まで浄化を広げることができれば、私たちや大宮勢のように戦っている人たちと合流できるかもしれない。遠回りに見えても、得られるものは必ずあります」 「それに、アクアライン鉄道計画は木更津側からでも着手可能ス。すでに関連会社の生き残りの人たちを集めて、協議を始めてもらってるっス!」 マロンのフォローに、エンジュがこくりと頷く。強い決意の宿った瞳は変わらないが、その表情にはかすかにやわらかさもあった。 「焦ってはいけないことはわかっています。私自身、そうして大きな失敗を招きました。でも、私たちはゆっくりしてはいられないのです。こうしている間にも私たちの時間は確実に進んでいき、私たちは何かを失い続けているのですから」 失われた六年の間に、十九歳になった少女の重たい言葉だった。慎重に、とか念のため、なんて言葉で誤魔化され、とても大きなものを失ったまま成長した少女の悲しみと、それでもなお今を戦おうとする決意を感じてか、それ以上誰も異論を挟もうとはしなかった。 「そして、この作戦は私たち勇者や、サポーターだけでは到底なしえません。皆さんの力が必要です」 空気がピンと張りつめる。その場にいた誰もがエンジュの言葉に聞き入り、引き込まれていた。 次の一言で、くすぶっていた胸の内に火をつけてくれる。俺は、そして誰もが、そんな予感をしていた。 「――――戦いましょう、皆で。そして勝ちましょう、今こそ」 試着室から出てきたエンジュを見て、「わーっス!」とマロンが声をあげた。 「綺麗っス綺麗っス! 大学生っぽい感じで最高っス!」 「そ、そうでしょうか……」 手放しに賞賛するマロンに、少し恥ずかしそうにしながらエンジュがはにかむ。 「す、須賀さんはどう思いますか?」 まさに天使。 ストレートに感想を伝えると、ますます赤くなった。 「おほほ、いやあ真っすぐな誉め言葉、良いスねえ。普段が普段だけに嘘じゃないでしょうし、これはポイント高いスよ」 ニヤニヤしながらマロンが顎をさする。「……あ、ありがと」と礼を言うエンジュもまんざらではなさそうだ。 エンジュが十九歳になったということで、俺とエンジュ、マロンの三人でちょっとしたお出かけをしていた。その目的は、大学生(の年齢)になったエンジュに大学生らしい服をプレゼントするためだ。 服には全く興味がない俺は感想を言う専門で、エンジュはマロンからあれこれとアドバイスを受けながら、最終的に選んだのがこれだった。 灰色のふわっとしたカーディガンに、足元まで隠れる黒のスカートはちょっとした透け感がある。足元もいつもの戦えるスニーカーではなく、ヒールの高いサンダルだった。モノトーンで落ち着きを印象付け、シックな感じに大人らしさを見せている。 よくわからないが、よく似合っていると思った。 瘴気の影響ですっかり意味を無くした電子マネーはとっくに使えなくなり、現金で支払いを済ませて外へ出る。 「……しかし、本当に良いのでしょうか」 慣れないヒールを気にしながら、エンジュが言った。 「まだまだ苦しい生活をしている人は大勢います。私たちがもっと頑張れば、そうした人たちがその分だけ早く元の生活に戻れるようになる。なのに、私たちがこんな風に遊んでいて」 「良いに決まってるっス!」 鼻息荒く、マロンが遮った。 「苦しい人が多いのと、ウチらが必死に戦うのはまた別っス! 何もやってないわけじゃないスから、休むときは休んで、楽しむときは楽しめばいーんスよ!」 同意。 皆が均等に不幸まで享受する必要はないだろう。助け合って皆が等しく幸せになるのは良いが、不幸な人に合わせて他人まで幸せを放棄する理由はない。 まして、これまでずっと我慢して頑張ってきたのなら尚更だ。 「……そうですね、そう考えることにします」 エンジュの笑顔はとても清々しく、連れ出してよかったと心から思う。 「ところで、亜斗夢さんは良いんスか? 割と学生生活台無し世代スけど」 その言い方やめろ。 それに、元々学校行ってなかったしな。サボりがちだった。 「あー、そうっぽいスもんね」 うっせ、と蹴る振りをすると、マロンが両手を上げて距離をとる。 そもそも、お前はどうなんだ。 「ウチっスか? ウチは普通に高校も大学も楽しみましたスよ。文化祭でコスプレして、卒業旅行は遊園地でお揃いの耳つけて。大学じゃ合コンも何度か誘われましたけど、必ず店員に年齢確認で二度見されるのが嫌で行かなくなりましたっス」 ピタ。俺とエンジュの足が止まる。 「マロンさん、あなた中学生じゃなかったの?」 「ほえ? ……あ!」 まさか、と二人で詰め寄ると、しどろもどろになりながら説明した 「あ、あのー、ウチは根っからの子分気質なところがあるんス。だから亜斗夢さんやエンジュさんみたいに引っ張ってくれる人がいるとつい、こう、下につく感じに」 「じゃあ、電車の運転ができるのは」 「普通にJR職員ス。ほい社員証」 そこには、確かにマロンの顔と名前がある。 「なら年齢は?」 「えー、あんまり言いたくないスけど……」 ここまで聞いて、終わりにはできない。 無言で圧力をかけ続けると、観念したマロンがついに吐いた。 「三十一歳です」 |
燕小太郎 2021年05月02日 20時43分22秒 公開 ■この作品の著作権は 燕小太郎 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年05月19日 21時06分49秒 | |||
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Re: | 2021年05月19日 21時05分23秒 | |||
合計 | 8人 | 200点 |
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