万物創生 |
Rev.01 枚数: 72 枚( 28,555 文字) |
<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部 |
<起:万物創生機> 放課後の理科準備室で、ボクはビーカーから紅茶をすすった。 思わずため息をつく。 「美味いな。ここまでおいしい紅茶は、喫茶店でもなかなか無いよ」 「お代わりできるわよ。まだあるから」 宮口エリカは、うれしそうだった。 エリカは、科学部の物理班に所属している。今は、ぶかぶかの白衣を着ている。白衣には、薬品で焼かれた穴があちこちにあいている。 大ぶりの三角フラスコが、テーブルの上に置かれている。その中には紅茶パックが二つぶら下げられており、ゆっくりと揺れている。紅玉の色に染まった抽出液の底で、白い攪拌機がゆっくりと回転している。 ボクは、もう一口、紅茶をすすった。 「香りがいいね」 エリカが体をのりだしてきた。可愛らしいショートヘアが、とてもよく良くにあっている。 まん丸メガネには、度がはいってない。実験中に目を守るためにかけているのだ。 うきうきしているエリカのおかげで、ボクもうれしくなる。ビーカーをゆらして、ゆたかな紅茶の香りを満喫する。 「三角フラスコにしたのが正解なのかな。香りを逃がしにくいみたいだね」 エリカは、優しい眼差しでボクをみつめて、ちょっとだけ恥ずかしそうにほほ笑む。 「これだけ美味しいのだから、いくら自慢していいよ」 エリカは、すこしほほを赤らめ、ぱあっと輝くような笑みを浮かべた。 エリカのポッチャリとした口唇が、ここちよい音声をかなでる。 「おいしい紅茶を淹れるには、茶葉をうまくジャンピングさせればいいのよ。どうやら紅茶パックで人工的なジャンピングをうまく再現できたみたいね」 「おめでとう。科学は再び人類に新たな恩恵をもたらしてくれたのだね」 (おおげさ、だったかな?) エリカは、すこし目をふせて、はにかんだような笑みを浮かべた。 「科学はただの手段だわ。恩恵にするのも、厄災にしてしまうのも、科学を使う人間しだいよ」 「それでは、エリカが成しとげた科学の勝利を祝して……」 ボクはカバンから学食で買ったメロンパンを取りだした。 エリカは顔を輝かせた。 「やったあ! 食べたかったんだ。紅茶に良く合うんだよね」 エリカは、解剖用のメスでメロンパンを鮮やかに四分割した。 「よっちゃんは、将来きっと良い夫になるわね。村田良夫なのだから、当然かな」 エリカはボクを見て、あわてて付け加えた。 「あ、このメスの刃は新品で、まだ何も切ってないよ」 カエルを解剖したあとのメスじゃないだろうな、という思いが顔にでていたらしい。 エリカは、洗浄済のシャーレの上にメロンパンをのせて、ボクの前においた。 ボクは、一口食べて思わず笑顔になった。 「うまいなあ、紅茶によく合ってるよ」 春風が、窓の暗幕をかすかに揺らしている。 生徒たちのたてる喧噪が、はるかかなたに聞こえる。柔らかな陽光が窓際の床を照らしている。 「ねえ、一にゼロを掛けると、いくつになる?」 (え?) 不意をつかれて、すぐには返事できなかった。 「……ゼ、ゼロだよね?」 「解答までに三秒かかって、しかも疑問形かあ」 「い、いや、そんなに露骨にガッカリしないでよ」 エリカはボクを見つめると、にんまりと笑った。エリカの雰囲気がすっかり変わっていた。 冷徹な科学者に変身したエリカを前にして、ボクは気を引き締める。 「良い表情ね。大好きよ」 (ボクの真剣な表情が大好きなんだよね、ボクそのものじゃなくて) エリカは、白板の前に立った。 ボクは、ビーカーとシャーレを持って、白板の前に移動した。 エリカが、白板に書きこんでゆく。 0=1×0 0=2×0 0=4×0 0=8×0 「まあ、こんなものでいいかな。さて、ゼロを左辺に移項すると……」 エリカは、さらに書き加えた。 0=1×0 → 0÷0=1 0=2×0 → 0÷0=2 0=4×0 → 0÷0=4 0=8×0 → 0÷0=8 ∴ 0÷0=1、2、3、・・・ 「つまり、ゼロでゼロを割れば、全てになるわけよね」 「で、でも、ゼロで割ることは禁止されてるよ!」 「ええ、そうね。だけど、なぜ禁止されているの?」 ボクは、生物班で飼っている水槽の中の酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせた。 エリカは、ボクを見つめて言った。 「それじゃあ、一つ一つ検証してみるわね。 まず、0=1×0だけれど、『掛ける』は、ある数を決められた回数だけ足す操作のことよね」 「そ、そうなのかい?」 「そうなのよ! 三省堂国語辞典の第七版にちゃんと載ってるわよ」 「ちょ、ちょっと待ってよ。エリカは数学の勉強を、国語辞典でしてるのかい?」 エリカは人差し指で自分の頭を、トン、トン、トンとたたいた。 (あ、軽蔑されてる) 言ってしまってから、うんと後悔した。 エリカは、気を取り直して続けた。 「だから、1をゼロ回足したら、1が一つも無いからゼロになる、でしょう?」 エリカは、じっとボクを見つめた。 ボクは、あわてて何度もうなずいた。 「『割り算』は、一つの数が他の数の何倍にあたるかを計算することだから、 6÷2=3は、 6は2の3倍であることを表している。 いいわね。 では、0÷0=1ならば、 0は0の1倍であることを表している。これは間違っていないわよね」 ボクはうなずいた。 それから、じっくりと考えた。 (確かにそうだ。ゼロの一倍はゼロだよな) エリカは、すこし待ってからつづけた。 「では、0÷0=2ならばどうか。 この式は、0は0の2倍であることを表している。つまり、0を2倍集めても0だということよね」 「確かにそうだね。問題ない。そのとおりだ!」 エリカは、うれしそうにほほ笑んだ。 「それなら、ゼロをゼロで割ることを禁止する必要は無いと思うけれど、どう?」 何か落とし穴がありそうな気がした。 でも、見つけられなかった。 だから答えた。 「……そう思うよ」 エリカは、口唇をゆがめて笑った。 イタズラを成功させた子供のようだった。 (まずい!) ボクは、理科室に来たことを後悔しながら、覚悟を決めた。 「それでは、この式を物理学に当てはめると、どうなるかな?」 (…… …… ……、もしも、そうならば) 「無から有が生じてしまうよ!」 「たっぷり十五秒かかったわね。でも、納得してくれたのね」 「いや、いや、納得なんてしてないよ」 「でも、理解はしてくれたのね。うれしいわ」 「いや、だって、そんなこと、有りえないだろう?」 エリカは首をふった。 「ビッグバンが起こるまえに、宇宙の種が無から生成された。 それが最近の宇宙論なのよ」 (そ、そうなのかい?) エリカは頭がいい。 超高性能プロセッサを何台も何台も内蔵していて、膨大な拡張メモリをいくつも搭載してる。 そんな気がしている。 もともと科学部の物理班や化学班には、成績上位の連中が何人か所属していた。 しかし、成績上位の連中でも、エリカの思考スピードと発想の凄さにはついて行けなかった。 エリカと話をしているうちに、いつしか全員が幽霊部員になっていた。 ボクはどうかって? エリカは、ボクに対しては、ちゃんと理解するまで待ってくれる。懇切丁寧に説明してくれる。 「よっちゃんが理解できれば、誰でも理解できるから」 それがエリカの口癖になっていた。 エリカの講義が始まった。 「相対性理論によると、物体を光速にするためには、無限大のエネルギーが必要になる。光速を越えるには、無限大を越えるエネルギーが必要になる」 エリカに何度も聞かされた話だったので、ボクは何度もうなずいた。 「無限大のエネルギーなんて簡単には手に入らない。でも極小の虚無なら、そこら中にいくらでも存在しているわ」 ストンと、ボクの心に話が落ちた。 (だけど、……) 「それじゃあ、どうやったらゼロをゼロで割ることができるの?」 エリカは、無い胸を反らした。 それから、不機嫌そうにボクをにらんだ。 (き、気づかれたか?) 「……まあ、いいわ。 方法はいくつかあるの。 たとえば、光子は質量がゼロで体積もゼロなの。だから光速で移動できる。 そこで、私が選んだのは、合わせ鏡の間に光子を閉じ込めて干渉波をつくり、距離ゼロの状態になったときに速度と存在値をゼロにして分解消滅させる方法よ」 エリカは、ぽかんと口を開けているボクを見つめた。 「万物を創造するには、まず『光あれ』と唱えるのが簡単で容易な方法だったの」 (でも、……) 「もう少し詳しく教えてくれる? 普通の鏡でゼロ割るゼロが簡単にできるなら、もうすでに誰かが気がついているはずだよ」 「いい着眼点ね。気がつきさえすれば、ゼロ割るゼロの操作は、簡単にできるの。 これまで試されていないのが不思議なくらいよ」 エリカは、まっすぐボクを見つめてる。 ボクをわくわくさせてくれる。 「だけど、合わせ鏡の距離をゼロにするのは、普通の鏡では無理なの」 「ああ、表面にガラスがあるから」 「ええ。だから自分で銅鏡を二つ作ったわ」 「なるほど……」 (だけど、……) 「だけど距離をゼロにするには、ものすご~く精密な加工が必要じゃないのかな?」 「そうかもしれない。でも、合わせた銅鏡のどこかで極小の虚無を無で割ることができれば、それでいい。だから、何度か繰り返したら、たぶんうまく行くわよ!」 「それじゃあ、明日は校外で部活動かあ」 「何を言ってるの? もちろん今から海岸で実験するのよ!」 (今から実験!) 「なぜ、海岸なの?」 「つごうの悪い物がでてきたら、砂に埋めるか、海に捨てればいいでしょう?」 「海洋に不法投棄するのかあ」 エリカは腕を組み、顔をそむけると、口唇をゆがめて、うすら笑いを浮かべた。 その笑顔は高慢で、意地が悪そうだった。 「だいじょうぶよ! まだこの世に存在していない物だったら、捨てるのを禁止する法律なんか無いから、不法投棄にならないわよ」 エリカは、荷物の棚のカーテンを開けて、段ボールの箱を引きづりだした。 箱には、『万物創生機』と、マジックインクで書かれていた。 (すっかり準備できてたのか) 二人で自転車に乗って海岸に向かった。 眩しかった陽射しも、和らぎだしていた。空は、黄昏の色に染まり始めている。 海岸に着いた。ボクは自転車を乗り捨て、段ボール箱を持って堤防の階段を登った。 エリカは、自転車を押しながら階段を登ってくる。荷台に『万物創生機』を置くためだ。 階段を下りながら、心配になった。 (エリカにも恐怖を感じてしまうのかな) 自転車を押しながら、エリカがつぶやいた。 「ファイト!」 その言葉がきっかけになった。 頭の中に歌詞とメロディーが浮かんだ。 ファイト! 闘う君の唄を、闘わない奴らが笑うだろう。 ファイト! 冷たい水の中を、ふるえながら登ってゆけ。 中島みゆきの『ファイト』だった。 エリカはいつも、誰もいない道を、さらに前へと進もうとしている。 だから、エリカには、この歌が似つかわしい。 心からそう思う。 でもボクは、この歌を好きになれない。 ……昨日、電車の駅、階段で 転がり落ちた子供と 突き飛ばした女の薄笑い…… 階段を転がり落ちた幼児が、ボクだったから。 幼いころ、父に連れられて街に行った。 たずねた家の二階で遊んでいるように言われた。 急な階段を、這うようにして登った。 しばらくすると、その家の女の子が言った。 「お父さんが帰るって」 その子は、階段から離れた部屋の隅にいた。 階下の声が聞こえるはずは無かった。 なんか変だなと思いながら、階段の下をのぞいた。 後ろから、力いっぱい突き飛ばされた。 宙に浮いて、足元には、何もない。 急激に速度をあげて落下してゆく。 階段に足先が触れた時には、突き飛ばされた体は大きく前のめりになっていた。 どこまで落ちるか分からない。 どうなってしまうのか分からない。 どれほど痛い目に合うか分からない。 そんな恐怖に襲われながら。 支えることもできずに。 前のめりに階段を転がり落ちて。 全身で落下のエネルギーを受け止めて。 受け止めて。 何度も何度も転がって。 ようやく止まった。 階段の三分の二を転がり落ちていたと思う。 体中が痛かった。心の底から恐ろしかった。 「後ろから押された!」 ボクは泣きながらそう言った。 けれど、女の子は、 「自分で勝手に落ちた。止めようとしたけれど、間に合わなかった」 と、言い続けた。 ボクは、高所恐怖症になった。 二階くらいにいるのが一番怖い。体がすくむ。 鉄筋コンクリートの建物でもだめだ。足元にあるコンクリートの床が崩れて落ちるところを、ありありと想像してしまうから。 だから教室でも、たいてい壁際や窓際にいることにしている。床が崩れたときに、何かにつかまることができるように。先に落ちた物を、クッションにできるように。 それから、洗練された都会の人と会うと、身構えてしまう。 そして、女の子が怖い。 今でも、女の子と話す時には、怖いと感じてしまう。 そんなボクにとって、エリカは恐怖を感じないで話すことのできる唯一の女の子だった。 海は落日の光を反射して、黄金の色をきらめかせながら輝いていた。空が夕焼けの色に染まり始めている。 凪の時間になったのだろう。風は止まっていた。波の砕ける音が、はてしなく繰り返されている。まるで時間が止まっているような気がした。 エリカがボクの後ろから、自転車を押しながら降りてくる。断続的に掛けるブレーキの音が聞こえる。 恐怖は感じなかった。 間違いない。エリカはボクが背中を預けることのできる、たった一人の女の子だ。 エリカは、砂浜に自転車を据えつけた。しっかりと砂に立てて、倒れないようにした。 それから、ボクが支える段ボールの中から白いプラスチックの板を取りだして、自転車の荷台に乗せ、ガムテープで固定した。その上に丸いクッキーの缶を置き、板にガムテープで固定する。 クッキー缶の中央には銅鏡が上向きに置かれていた。端から飛び出した突起がセロテープで固定されている。 もう一つの銅鏡は、クッキー缶の蓋にボルトで固定されていた。ボルトを回せば、銅鏡同士の距離を調節できるようだ。 エリカは蓋の位置を合わせて、銅鏡同士がピッタリと重なることを入念に確認した。 そしてエリカは、白い紙の箱から部品を取り出した。 単三電池が六本入った白いプラスチックのケースからのびるビニール線に、豆電球が十二個ほど直列につながっている。 エリカは、クッキー缶の底に豆電球を並べた。銅鏡の周囲に配置して、セロテープで固定する。 白いプラスチックのケースについたスイッチが倒されると、豆電球が煌々と点った。 エリカは、慎重にクッキー缶の蓋をすると、セロテープで固定した。 「用意できたわ。始めるわよ」 (うれしそうだな。うまくいくはず無いけど。 成功するまで、これから毎日、エリカと一緒に砂浜にくるのも悪くないな) ボクは、エリカの背後に広がる海と、黄昏の空を見ながら、エリカにうなずいた。 でも、心では実験が失敗すると確信していた。 エリカは真剣な顔でボルトを回し始めた。 暮れなずむ風景を背景にして、凛々しい表情のエリカは、とても美しかった。 『万物創生』の理論には、何か落とし穴がありそうな気がしていた。 突然に、疑問が言葉になって浮びあがった。 「いきなり新しい宇宙ができてしまったら、どうするの?」 エリカは、ボルトを注視しながら、吐き捨てるように言った。 「そうならないように、小さい物から出現するように、調節しているつもり!」 「ごめんね、邪魔をしてしまって」 エリカは返事をせずに、慎重にボルトを調整してゆく。 「たぶん、これで、うまく……、 いったわ!」 そう言うと、エリカは大きく息を吸って、自転車の荷台から顔をあげた。 ボクは、寝ているときに、電車とプラットフォームの隙間に落ちる夢を見ることがある。 突然に、足元を支える物が無くなり、急激に加速しながら暗闇の中に落ちてゆく。 たいてい、そこで目が覚める。 それが現実に起きた。 突然に、砂浜が崩れた。足元から支えが無くなり、落下しだした。急激に加速しながら、果てしなく落ちてゆく。 はるか下方に、恐ろしい何かがいて、全てを呑みこんでいる。 別の何かが落ちて行く先に現われた。恐るべき力にあふれた存在だ。強烈な力を放って、全てを呑みこむ存在に浴びせかける。 恐るべき力に満ちた存在が、こちらにも、あちらにも現れて、全てを呑みこむ存在に強烈な力を浴びせかける。六体ほどが現れて、周囲から強烈な力を浴びせ続ける。 全てを呑みこむ存在の活動が、目に見えてゆっくりとなり、ほとんど動かなくなった。 気がつくと、もとの海岸にいた。 (幻覚でも見たのかな?) ゆっくりと周囲を見渡してみた。 (いや、違うぞ。何だ、これは!) 沖に見えるのは、入道雲ではなかった。 はるか沖を、巨人がゆっくりと歩いている。巨大な棍棒を担いでいる。その体は、雲でできているように見えた。 「わあ、大きな波ね」 (ちがう!) 巨大な触手が何本も水面でのたうっている。 暗くなり始めた夕焼けの空を飛ぶのは、たぶんカラスではない。はるか上空をゆっくりと飛んでいるのは、箒にまたがった三人の魔女だった。 キラめく海が反射する落日の光の中を飛んでくるのは、…… 「へえ、妖精って本当にいるんだ」 「違うぞ、エリカ。すぐ止めろ!」 エリカは、一瞬ためらったが、すぐに『万物創生機』のボルトをゆるめた。 エリカの足元から伸びてきていた骨の腕が、ゆっくりと砂の中に沈んでいった。 「どうしたの?」 ボクの声は震えていた。 「エリカは、小さい方から創生すると言ってたよね」 「ええ、そうよ」 「たぶん、存在するはずの無い物。つまり存在確率がマイナスの物が現れだしてたんだ。 絶対に存在しないはずの物から順番に」 「…… …… あっ! そのとおりだ。確かにそうなるわね」 近くに、危険な物は発生していない。 ……ようだった。 ボクは、エリカに話し掛けようとした。 エリカの影の中に、かすかに光るものが見えた。 小さな光の集まりが見える。星のようだ。こちらの光は、たぶん星雲だ! エリカの影の形に空間が切り取られて、宇宙が鮮明に見えていた。 「どうなっているのだ?」 エリカの影が、ヒモで引っ張られた毛布のように持ち上がった。 スラリとした女性の形になって、ボクらの前でゆらいでいる。まるで風にそよいでいるように見えた。女性の形に切り取られた空間の中には、宇宙が鮮明に見えている。 「エリカ、離れて! そいつは存在確率がマイナスだから、そこにあるはずの物が見えなくなって、その先にある宇宙が見えているのだと思うよ」 アルトの声が響いた。どこか聞きなれた声だった。 「私を見つめるのは、止めたほうがいい」 エリカが尋ねる。 「あなたは、何者なの?」 一瞬、影は答えをためらった。 「……この世界に、ありえざる者」 「ならば、なぜここにいるの?」 「あなたたちに招かれたから」 「……何が起きたか、説明できる?」 「あなたたちは、禁忌を犯した。ゼロでゼロを割れば、万物を生じる。万物の中には、全てを滅する原初の混沌が含まれる」 (あの、全てを呑みこむ恐ろしい何か、のことだな) 「そのため万物を生じさせた世界は、速やかに消滅する。存続できるのは万物創生を禁忌とする世界のみ。 そのはずだった」 エリカが反論した。 「でも、この世界は、まだ消滅してないわよ」 「ええ、そのとおり。 続けて有り得ないことが起きた。原初の混沌を止める者が生じた。 それも、六体も」 (強烈な力を放った恐るべき力にあふれた存在のことだな) 「いま、原初の混沌は微睡の中にいる。この世界の滅亡は、わずかながら先延ばしされている」 (つまり、……) 「これ以上を知ろうとしてはいけない」 そう言うと、影はスッとエリカの足元に戻った。宇宙が透けて見える以外は、普通の影のように見えた。 しばらくして、エリカがつぶやいた。 「帰ろうか」 あり得ないことが、もう一つ起きている。 エリカが、常識的な行動を取っている! 「そうだね」 ボクはエリカの気が変わる前に、『万物創生機』を段ボール箱の中に入れて蓋をした。 太陽が沈み、空が紅に染まっていた。あたりが急速に暗くなってゆく。闇が砂浜に広がってゆく。 『万物創生機』は、ボクの自転車に乗せた。ボクの家で保管するつもりだ。 せっかく持ちこたえた掛けがえのない世界を失いたくは無いからね。 ペダルを強く踏んで、一気に加速した。 一刻も早く、砂浜から離れたかった。 二人並んで、自転車を進める。 夜の街には、人通りがなかった。 街灯の光が、いつもより暗いように思えた。 エリカは、あたりを見わたした。 「何も変わっていないようね」 「狼男も吸血鬼も、今晩はおとなしくしてるようだね」 エリカが、ビクリとしたのが気配で分かった。だから、エリカを家まで送った。 別れる時に、どちらからともなく声を掛ける。 「また、明日!」 さあ、帰ったらゲームの続きだ! この世界は、すぐには終わらないような気がしていた。 <承:量子論> * 量子論 多世界解釈 * 放課後の理科準備室には、豊潤なコーヒーの香りが漂っていた。 エリカは今日も穴の開いたぶかぶかの白衣を着ている。滴定酸をあつかうような真剣な表情で、丸フラスコからロートに液体をそそいでいる。液体は、水素と酸素の化合物で、沸騰していた。 ロートの露紙の中で、コーヒー豆の粉末が細かな泡をたてている。 ボクは、何もすることがなかったので、エリカに声をかけた。 「狼男や吸血鬼が現れたというニュースはなかったね」 エリカは、ロートにお湯を注ぐことに集中してる。ふりかえらずに返事をした。 「当たり前の事だから、ニュースになってないだけかもね」 「ゾンビが密かに蔓延しだしたら、嫌だなあ」 「さすがに、そうなったらニュースになると思うわよ」 「ゾンビ蔓延の責任なんか取りたくないよ」 「だいじょうぶ。人類の歴史の残る大実験の成果だから、それくらい許してもらえるわよ」 「だけど、もう少しで人類も歴史も終わるところだったよ!」 「さて、本題にもどりましょうか」 エリカは、平然とした様子で話題を変えた。 でも、ぼくはエリカの額にタラ~リと流れる一筋の冷や汗を見逃さなかった。 「次は『量子論の多世界解釈』よ」 本日のエリカの講義は、量子力学だった。 教科書は、別冊ニュートンの『絵で分かるパラドックス大百科 増補第2版』だ。 ニュートンは、理科室の備品になっている。おかげで、図書館まで行かなくてすむ。 ボクは文章を読み上げ、エリカが解説や論評をしてくれる。 量子論は、ミクロな世界における物質のふるまいを説明する理論だ。 量子論では、電子などのミクロな物質は、波のような性質を持つと同時に粒子のような性質をもつとされる。 エリカが解説をする。 「見事な棒読みね」 「そんな論評は、しなくていいよ!」 そして、ボクの棒読みがふたたび始まる。 電子が波の性質をもつことは、「電子の二重スリット実験」で確認できる。実験するには、まず電子銃とスクリーンの間に二つのスリットが入った板を置く。そして、電子銃から電子を一つずつ何度も発射して、電子がスクリーンに到達した痕跡を記録する。 もしも電子が粒子の性質だけを持つなら、電子銃と各スリットの延長線上にあるスクリーンの周辺だけに、電子の痕跡が残るはずだ。 ところが実際には、スクリーンに縞模様(しまもよう)ができる。波が重なり合うと、「干渉縞」と呼ばれる縞模様ができる。だからこの結果は、電子には波の性質があり、一つの電子の波が同時に二つのスリットを通過したために、波が重なり合い干渉して「干渉縞」を生じた、と考えれば説明できる。 一方で、電子が一回発射されるごとにスクリーンに残る痕跡は一点のみなので、電子は粒子の性質をもつこともわかる。 エリカは、白板に実験方法を描いた。 解説しながら、コマ落としのような速さで図を描いてゆく。 実験器具: 電球から出た光子の数を、針で穴をあけた二枚の黒い板をとおして大幅に減少させる。 (減少が不十分なら、板の距離をあけ、枚数を増やす) 少数の光子に、スリットを通過させる。 通過した光子は、高感度カメラで記録する。 フィルムは、ASA1000 を使用する。 エリカは、ASAをアーサと発音した。 いったい何なのだろう。 「アーサって……」 「『American Standards Association』、米国規格協会よ?」 エリカは、当惑しているボクに気がつく。 「米国規格協会が採用しているフィルムの露光指数、……」 エリカは、ボクを見つめながら、言葉をさがす。 「……フィルム感度のことよ」 ありがとう、エリカ。 なんとなく分かった。 そしてエリカは、解説をつづける。 実験方法: まず、一方のスリットだけを開いて記録する。 次に、もう一方のスリットだけを開いて記録する。 最後に、両方のスリットを開いて記録する。 結果の予想: 一方のスリットが開いた状態では、スリットの延長線上に光子が集まるから、一峰性の縦縞分布になる。 もしも、光子が粒子の性質だけを持つなら、両方のスリットを開くと、両方を足し合わせた一峰性の縦縞分布になる。 (両方を足した分布が一峰性になるように、スリット幅を調節しておく) しかし、光子が波の性質を持ち、干渉がおこれば、分布にいくつもの縦縞が現れる。 干渉波の存在を実証できる。 このとき、光子の数を十分に減らしておけば、光子が粒子であることを確認できる。 「ちょっと待ってよ。実験は電子で調べるのじゃなかったの?」 エリカは、偉そうにふんぞり返った。 有無を言わせないつもりだ! 何か都合の悪いことがあるのだな。 「真空ポンプのチューブが劣化していて使えないから、光子の実験に変更したのよ」 エリカは、上から目線で、そう言い切った。 「電子を一つづつ飛ばす電子銃を作るのは、大変そうだよね」 「そうなのよ!」 言ってしまってから、エリカはあわてて口を押さえた。 分かりやすいなあ。実験装置が作れなかったのだね。 「すぐに替わりを用意したのか。さすがだね」 うれしそうなエリカの笑顔がまぶしかった。 「さて、実験してみようか」 (え? いまから実験?) エリカは立ち上がると、荷物の棚のカーテンを開けて、段ボール箱を引きづりだした。 箱の内側は、真っ黒に塗られている。 箱には、二回り小さなアクリルの箱が入っている。アクリル箱の手前には、小さな電球がある。電球のすぐ近くに黒い大きな板が二枚あった。 その先に細いスリットが二つ付いた金属板がある。二つのスリットは、細い金属板で、それぞれ閉じれるようになっていた。 スリットの後ろには、カメラが置かれている。シャッターには延長コードがついており、箱の外から操作できるようになっていた。 接着剤の香りと、とけたハンダの臭いがただよってくる。完成したばかりなのだろう。 こんなもの、いつ作っているのだよ! エリカは一連の実験を無事に終えて、撮影したフィルムの現像を、写真部に依頼した。 一回では良い結果をだすのは無理だから、写真をみて改良することになるのだろうな。 それからエリカは、『多世界解釈』の本題に入った。 量子論によると、電子などのミクロの物質は、「複数の状態が共存した状態」をとることができる。 中央に仕切りのある小箱に電子が一つ入っているとする。電子は、仕切りの右側にある状態と、左側にある状態とが共存している。 複数の状態が共存した電子を「観測」すると、電子はどれか一つの状態で発見される。 多世界解釈では、電子を右側で観測した世界と左側で観測した世界とに、世界が分岐すると考える。分岐した世界は、互いに干渉をおこすことは無く、それぞれが独立した世界になる。 ボクは感想をのべた。 「人に見られていないと、だら~っと部屋全体に広がっていて、ドアを開けられたとたんに座布団の上にスチャっと正座するようなものかな?」 「うん。そんなイメージでいいと思うわ」 エリカは、笑顔で同意してくれた。 可愛い! その笑顔を見るだけで、ボクは幸せになれる。 「自分が見てない所で、実は世界がグダグダになってる、というのは、キモ心地いいわね」 「想像できないよ~」 「よっちゃんなら、毛布やマクラと共存して存在していそうだなあ。布団からよっちゃんの手足がバラバラに生えてるところを想像しちゃった」 「そんなこと、あるわけないよ。自分で観測するから、ちゃんとしてるよ」 「でも、よっちゃんなら、観測せずにぼんやりしていそうだけどなあ」 「家では、しっかりとゲームに集中してます!」 「あはは、よっちゃんがゲームの十分の一だけでも勉強に集中すれば、すぐにテストで平均点をとれそうだよね」 そう言ってエリカは、にんまりと笑った。 何か思いついたな! ボクは、与えられる試練にたいして身構えた。 「では、よっちゃんに問題です。 メアリー・シェリー作の『フランケンシュタイン』に登場するフランケンシュタインは、何でしょうか?」 「怪物の名前じゃないの?」 「ブッ、ブ~ッ! 怪物を造った博士の名前で~す」 「博士が造った怪物じゃないの?」 「映画だと怪物の名前になってることがあるけど、原作では怪物の呼び方は、『フランケンシュタインの怪物』、で~す」 「そうか、アインシュタインはフランケンシュタインの仲間だったのか~」 エリカは、ちょっと嫌そうな顔をした。 「たしかにその通りだけど、なんだかアインシュタインが、マッチョでツギハギだらけの体をしてるみたいで、嫌だなあ」 「なあ~んだ。エリカもフランケンシュタインは怪物だと思っているんだね」 「ま、まあね。そう言っても、あながち間違いじゃないわよォ~」 声がうわずっていた。 「それにしても、有名人になると大変だよね。アインシュタインは、舌を出したパロディ写真を作られたりしてるよね。 あちこちで見るけど、本人は抗議しないのかなあ」 「あら、あの写真は本物よ。誕生日のお祝いの記念写真だそうよ」 「ええ~っ! 本物なの? う~ん。 天才のすることは、理解できないなあ」 ボクは、エリカの優秀さも理解できない。 エリカには、仲間や同類がいない。ライバルがいない。 エリカと同じレベルの人間に、ボクは会ったことがない。 たぶんエリカは、頭が良すぎるのだと思う。 知識が豊富で、発想が豊かで、頭の回転がとても速い。 控えめに言っても、エリカはとても可愛い。 だから、エリカと仲良くなりたいと思う同級生は、少なくなかった。 エリカは、負けず嫌いなのだろう。自分が上でないと我慢できないのだと思う。 いつも相手より上を目指している。 そして、自分の実力を相手に披露してしまう。 だから、成績の良い連中は、桁違いなエリカの頭の良さを思い知らされ、打ちのめされてエリカから離れていった。 エリカは、たいていの事についてヲタクを超える知識を持ってる。それを思い知らされて、ヲタクっぽい連中はエリカの元を去っていった。 エリカは、アイドルやファッション、流行やゴシップには、まったく興味がない。 他の女の子たちと話が合わなかった。 だから、エリカは一人だけで昼食をとるのが当たり前になっていた。 ボクは、何も知らない。エリカに勝るものは、何もない。校内マラソンでは、五分あとからスタートしたエリカに抜かれた。 ボクだけでなく、学年男子の五分の一ほどがエリカに抜かれている、と思う。 だから、ボクは安心してエリカに教えてもらうことができる。だって、何も知らないから。 何でもエリカに手伝ってもらうことができる。だって、エリカの方がずっと上手にできるから。 エリカは、ボクと競争しなくていい。 勝負は、戦う前に決まっているからね。 互いにまったく違うから、ボクとエリカは一緒にいられるのだと思う。 ボクに対しては、エリカは手心を加えてくれる。質問には正解できる問題を混ぜてくれる、……ことが多い。 ひょっとすると、ボクが知ってることだけを、問題に選ぼうとしてるのかもしれない。 そして、分からないことは、分かるように教えてくれる。 たぶん、エリカは他人との付き合い方を、ボクを実験台にして学んでいるのだと思う。 「それじゃあ、ボクから問題をだすよ。 『すべてにしてひとつのもの』、『道を開くもの』、『門にして鍵』、といったら何でしょう」 「よっちゃんは、クトゥルフが好きだなあ。 『ヨグ=ソトース』、だよね?」 「正解で~す。虹色の球の集合体の姿をした時空を超越した存在です。過去に起きたこと、現在起きていること、未来に起きるあらゆる事象を集積して、すべては『ヨグ=ソトース』の中でひとつである、とされていま~す。 つづけて問題で~す」 「あら、ふたつも出すの?」 ボクは、エリカの抗議を無視した。 「『闇の跳梁者』、『闇に棲むもの』、『這い寄る混沌』、といったら何でしょうか」 「『ナイアルラトホテップ』、ね。自分では直接には手をくださずに、人類を自滅させようとする、皮肉屋の邪神でしょう? それにしても、よっちゃんがクトゥルフ神話の知識の十分の一でも教科書の内容を覚えていたら、試験で平均点をとるのは簡単だと思うけどなあ」 この世界は、もともとは人知を越えた強大な存在が支配していた。人間が支配者でいられるのは、つかのまのことにすぎない。やがて真の支配者がふたたび地上に現れ、人類を支配の座から駆逐するだろう。 そんな、『クトゥルフ神話』の設定をぼんやりと思いかえしていた。 下手な考え、休むに似たり。 「そろそろ限界が近いようだから、ここまでにしようよ」 「それじゃあ、休憩ね」 そして、エリカはコーヒーを淹れはじめた。 * 量子論 拡大多世界解釈 * 「どうかしたの?」 エリカは、カンがいい。 「メロンパンを、買いそこなったんだ」 「なあんだ。それなら、今日は私が買いにゆくわよ」 「学食も購買も閉まってるよ」 「放課後だから、校外にでれるわよ」 ボクがちょっと後ろを向いているあいだに、エリカは紺の長袖TシャツとGパンに着替えていた。 「すぐに戻ってくるわ」 止める間もなく駆けだす。 ボクは、走りだしたエリカを止めることができない。 追いつけないからね。 香りが飛ばないように、コーヒーの溜まった三角フラスコに栓をして、待つことにした。 しばらくして、…… 救急車が、学校の近所に止まった。 それから、…… サイレンを鳴らして、去っていった。 だれかの緊迫した声が廊下で聞えた。 「宮口が車にはねられたって」 宮口? 宮口エリカが? エリカが車にはねられた? あの、運動神経のいいエリカが? 動体視力が抜群にいいエリカが? 交通事故に遭うなんて、ちょっと想像できない。 でも、どうしよう。 ……、救急車の行く先は、たぶん市民病院だ。 とりあえず、市民病院にいってみよう。 エリカの通学バッグは、実験テーブルの脇に置いてあった。そのわきには、口の開いた体操服の袋に、制服がキチンとたたまれて入っている。 すぐに運べるように、用意が済んでいた。 エリカらしいな。 よっちゃんが、いいかげんすぎるのよ。 エリカの声が聞こえた気がした。 ……、まさか、幽体離脱してないよね。 ボクは自転車で市民病院へ駆けつけた。 ダメ元で、受付で聞いてみる。 「宮口エリカの荷物を持ってきました。どこに届けたらいいですか?」 「今は、コロナ感染を防ぐために、面会は禁止されています」 それから、受付の人は電話をした。 「入院した宮口エリカさんに、家族の方が荷物を持ってきていますが、お預かりしておきますか」 携帯電話を耳に当てた看護師さんと、いかにも医者らしい眼鏡の先生が廊下を歩いてくる。かなりの早足だった。 医者が言った。暗い表情をしてる。 「感染対策をして、病室に案内してください」 「……、分かりました。」 看護師さんは、ちょっとためらった。 本当は、面会禁止らしい。 感染対策って、こうするのだなあ。 まず、手をアルコール噴霧で消毒した。 感染防止のためにガウンを着せてもらった。 後ろでヒモを結んでくれた。 「脱ぐときには、私がほどきます。自分で手を出さないでください」 それから、フェイス・シールドを着けた。 最後に、ビニールの手袋をした。 マスクは、最初からしている。 これから手術室に入る医者のような格好になって、病室に案内された。 個室だった。 ブラインドが降りていた。 室内は清潔で、白々としていた。 エリカは、ベットに仰向けに横たわっていた。 まん丸メガネは外されて、ベッドのわきにある台の上に置かれていた。 メガネを外したエリカは、とても大人びているように見えた。 血の気の失せた顔は、この世のものと思えない美しさを放っている。 ベッドの脇にある心電計には、まっすぐな線が描かれ続けている。 真っ赤な数字で、ゼロが点滅している。 抑え気味の電子音が、ピーッと鳴り続けていた。 「まもなくご両親も到着なさいます。しばらくお待ちください」 看護師さんは、そう言うと部屋から出ていった。 「エリカ、……」 声をかけても、エリカは答えない。 時が止まったように、まったく動かない。 ……。 ……。 ……。 どうすれば良いのだろう? まず、事態を把握しなさい。そうすれば、解決策が見えてくるから。 エリカの声が聞こえた気がした。 そうすると、今すべき事は、…… 「そこにいるのだろう!」 ベッドの影から、暗黒があふれた。 スラリとした女性の形になって、まるで風にそよぐようにゆれている。その姿をとおして、宇宙が鮮明に見えている。 「生きているのだろう?」 (死んでないよね) どこか懐かしいアルトの声が応えた。 「生命活動は、停止しようとしている。 再開する可能性は、ほとんどない」 こんな時に、エリカなら何と言うだろうか。 「前向きにとらえること!」 そう言うにちがいない。 可能性は、ほとんどない。言い換えると。 「わずかでも、可能性はあるのだな。 どうなっている?」 「体温の低下が、停止の主因となっている。 救急車内で酸素吸入をされていたので、酸素の不足は、いまは問題にならない」 ボクは空調の温度を上げた。熱風が吹き出しだした。 でも、十分じゃない。 両手でエリカの顔を包みこむ。 氷のように冷たかった。 今にも消え去りそうに頼りなかった。 両手から、冷たさが伝わってくる。 両腕が、肩が、体が、凍えそうなほど冷えこんでくる。 これじゃ、足りない。どうすればいい。 フェイスシールドをあげ、マスクをはずして、エリカの口唇を、口に含んだ。 エリカの口唇は、軟らかくて弾力があった。 口の中から熱が急速に奪われてゆく。 顔を氷水の中に入れてるみたいだった。 ボクの全身から、たちまち熱が奪われてゆく。凍えそうだ。 構わない。エリカ。 ボクの体温をすべて持っていってくれ! エリカの口唇に、かすかな温もりを感じた。 エリカが、かすかに、ため息をついた。 そんな気がした。 ピッ! 電子音が聞こえた。 ピッ、 ピッ、 ピッ、 ピッ。 電子音が聞えだした。 エリカが、大きく息を吸い込んで、咳をした。 ピッ、ピッ、ピッ。 電子音が、速くなった。 電子音に合わせて、心電計が波形を描きだしていた。 エリカがつぶやいた。 「落ちていた……」 「エリカ!」 エリカは、うわごとのように、つぶやいた。 「もう少しで、呑みこまれるところだった。 そしたら、……」 それから、エリカは薄目を開けた。 「よっちゃん?」 「しゃべらなくて、いいよ」 エリカは、すこし考えてから、弱々しく首をふった。 「ダメ! しゃべっていないと。 また呑まれそうだから……」 それから、エリカは取りとめなく語り続けた。 学校をでたら、突然に地面が陥没したの。 落ちて、落ちつづけて……。 まっくらなラセンの中を。 枯葉のように落ちていった。 流れ星のように落ちていった。 はてしなく落ちてゆくと。 ずっと下の方に。 まっくろで、うずをまいて蠢いていて。 何か恐ろしいものが。 全てを呑みこんでいた。 呑まれる! と思ったときに。 だれかが、私を受け止めてくれた。 落っこちないように…… あと少し遅ければ。 全部もってかれるところだったわ。 あれは、アバドン? それとも、呑口(ドンコウ)? 本当に、いたんだ。 初めて見た。 「え? 砂浜で見ただろう」 「見てないわ、あんなものは……」 それからエリカは、切れ切れにしゃべりだした。 そうだ。よっちゃん、覚えておいてね。 量子論では。 複数の状態が共存した電子を。 「観測」すると。 電子は、どれか一つの状態で発見される。 だったわよね。 多世界解釈では。 観測した時点で、世界が分岐する。 そう考える。 ……だったわよね。 本当は、すこし違うの。 世界は観測しなくても、分岐しているの。 分岐した世界は、別の次元に去ってゆく。 無数の次元に向かって、世界はいつも分岐しつづけているの。 そして、ごく短いあいだなら、分岐した世界は、たがいに影響しあうことができるの。 一個の電子の周囲には。 分岐したばかりの電子の残響が。 すこしのあいだだけ残っている。 そして、その周囲に。 さらに淡い残響がある。 量子論では。 電子などのミクロな物質は。 波のような性質をもつと同時に。 粒子のような性質をもつとされている。 そうだったわよね。 変だと思っていたんだ。 波って。 状態の変化が。 まわりに伝わる現象でしょう。 伝える何かが。 必要なのよね。 分岐したばかりの自分の残響が。 周囲にすこし残っているなら。 状態の変化を。 まわりに伝えることができる。 波の性質をもつことが。 できるわ。 だから、「電子の二重スリット実験」で。 電子の速度やスリット幅を変えて。 「干渉縞」の変化を測定すれば。 世界が離れてゆく速度や。 影響力の強さを。 割りだすことが。 ……できるわよ。 エリカは、遺言を託すように、ボクに語りつづけた。 ピッ、ピッ、 ピッ、 ピッ。 電子音が、すこしづつ、ゆっくりになってゆく。 エリカの目から、光が失われてゆく。 表情が、なくなってゆく。 顔から、血の気が、なくなってゆく。 「しっかりしてよ、エリカ。 いっしょに最年少ノーベル受賞者になろうよ!」 ボクは、エリカの顔を両手でつつみこんだ。 そして、口唇を口に含んだ。 すこしとんがった形のよい口唇は、ボクの口にぴったりとおさまった ボクの体温が、どんどん奪われてゆく。 ピッ、 ピッ、 ピッ、ピッ、ピッ。 電子音が、速くなってきた。 エリカが、目を見開いて、ボクを見た。 ボクを見つめて言った。 「よっちゃんは。 止まっている心臓が。 動きだしそうになるくらい。 私をドキドキさせてくれるのね」 「動きださせたよ!」 ボクの渾身のつっこみを、エリカは笑顔で受け流した。 すごくうれしそうだった。 ピッ、ピッ、ピッピッピッピッピッ。 電子音は、さらに速くなっていた。 ドアの外に誰かがいることに気がつくのが遅れた。 ドアが、引き開けられた。 あわててマスクをしたけれど、はずしていたのを見られたと思う。 お医者さんと看護師さんが、部屋に入ろうとして、立ち止まった。 部屋を確かめている。 エリカが起きていることに、とまどってるようだった。 ボクは、できるだけさりげなく言ってみた。 「ちょっと前に、目をさましました」 看護師さんは、厳しい目つきになった。 「ちょっと部屋から出ていてちょうだい」 ちょっとでは、すまなかった。 結局、もう部屋には入れずに、病院から追いだされた。 「人命救助をしたのに、理不尽だ!」 そんな風に感じた自分が、なんだか新鮮だった。 <転:四次元時空> 翌日、エリカは登校してこなかった。 授業という空虚な時間がゆっくりと過ぎ去ってゆく。語りかけてくる同級生に、心のこもらない言葉を返しながら、ボクの虚ろな胸の中に、意味の無い記憶が降り積もってゆく。 灰色の雲に閉ざされ、色彩を失った街並みを背景にして、誰もいない校庭が、とてつもなく美しく感じられた。 エリカのいない理科準備室には、ぬくもりの欠片も無かった。 その日の午後に、写真部員が現像した写真を理科準備室に届けてくれた。 写真の出来は、完璧だった。 二枚は、細長~い楕円形だった。よく見ると、わずかに位置がずれている。重ねれば、ひとつの細長い楕円形になることが見てとれる。 もう一枚には、縦縞(たてじま)がいくつも並んでいた。縦縞の濃度は少しづつ変化して画面にリズムを刻んでいる。 「干渉縞」だった。 ひとつひとつの縦縞は、無数の光の粒で構成されていた さらに写真部員は、この写真を拡大して、パネルに仕上げていた。 「きれいだったから、ちょっと手を加えたよ」 「ありがとう。本当にきれいだね」 背景は、深い海の蒼さから始まって、ななめに少しづつ濃い紺色へと変化していた。 無数の光の粒が、明るい黄色からオレンジ色にゆったりと変化しながら、濃淡のある縦縞を描いている。 涙がでるほど美しかった。 一回目の実験で完璧な結果をだすなんて、やっぱりエリカは天才だなあ。 条件を変えて「干渉縞」の変化を測定すれば、分岐した世界が離れてゆく速度や、影響力の強さを割りだせるわよ。 パネルをじっと見つめているうちに、分岐して離れてゆく世界とその影響力を、感じ取ることができるような気がしていた。 パネルを見つづけているうちに、理科準備室はすっかり暗くなっていた。 二日後の二時間目に、エリカが登校してきた。 退院して、そのまま学校に来たそうだ。 ご両親の反対を振り切って来たのだろうな。 提出された診断書を見て、担任は絶句した。 しばらく考えてから、黒板に書き始めた。 患者名:宮口エリカ 診 断:心・呼吸停止および蘇生後脳症 たぶんエリカは、世間の常識とは違うことを、口にしてしまったのだろう。 それから、クラスの全員に注意があった。 「いつ再発するか、分からないそうだ。 しばらく、みんなで気をつけていてくれ」 プライバシー保護よりも人命尊重を優先させる判断だった。 クラスの全員が、ボクをふり返った。 「気をつけてろよ、村田ァ!」 「良夫! 目を離すんじゃねえぞォ~」 「がんばってね、よっちゃん!」 クラスのみんなから励まされた。 でも、なぜ? 解せぬ…… 昼食の時間になるとすぐに、ボクは学食へ全力で走った。 きわどく、最後のメロンパンを手に入れた。 メロンパンくらいでエリカを失いたくはなかったからね。 エリカが理科準備室にくるかどうかは、分からなかった。けれど、あんな思いは二度としたくなかった。 エリカは、放課後の理科準備室に、何事もなかったかのようにあらわれた。 今日も、ぶかぶかで穴だらけの白衣に着替えている。 先日のように、テーブルの上には、大ぶりの三角フラスコが置かれている。その中には、紅茶パックがぶら下げられており、ゆっくりと揺れていた。 鮮やかな紅玉の色に染まった抽出液の底で、白い攪拌機がゆっくりと回転している。 誰かが廊下で話していた。 「今日の先輩は、恐ろしかったぜ。思わず手を引っこめて、メロンパンを譲っちゃったよ」 どうやら、怖い先輩がいたらしい。 お気の毒に。 いま聞こえた話を、エリカにしてみた。 エリカは、面白そうに笑った。 「よっちゃんは、本当に耳がいいのね。 耳と耳の間は、それほどでもないのに」 「目もいいよ!」 答えてから考えた。 耳と耳の間は、それほどでもない? それって、ボクの頭脳のことかな? いつもと変わらないようにエリカが言った。 「今日は、四次元時空についてだよ」 教科書は、別冊ニュートンの『次元のすべて 改訂第2版』だった。 いつものように、ボクは読み始めた。 ドイツの数学者ヘルマン・ミンコフスキーは、この宇宙がもつ三次元空間と一次元の時間を一体のものとみなして「四次元時空」と呼んだ。 「はい、そこまででいいわ。それで十分だから」 三次元空間について、エリカの解説が始まった。 「三次元空間を構成するそれぞれの次元は、本質的に同じものなの。鏡面像を例にすると分かりやすいわよ。 鏡に映った像は、左右が反対と言うわね。 でも、前後が反対なのよ。 こちらの右は、鏡面像でも右にあるでしょう? そして、こちらは向こうを見てるのに、むこうは、こちらを見てる。 前後が逆なのよ」 確かにそうだった。エリカの言うとおりだ。 「同じように、左右も前後も同じ向きで、上下が逆と言うこともできるわ」 頭の中で、二つの立体を思い描くのに、しばらくかかった。 でも、前後の向きを合わせて、左右を同じ向きにすると、上下が反対になった。 「たしかに、そのとおりだね」 「大変よくできました。 鏡面像では、左右の違いを、前後の違いや、上下の違いに変換することができる。つまり、縦、横、高さの次元軸は、同質なの。 でも、時間は違うわね。 三次元の軸のどれかと入れ替えることは、できない。 空間とは、完全に異質よね。 それに、時間の中を自由に動くことはできないし、つねに一方向だけに流れてる。 見る向きを変えることもできない。 だから、未来は見えない……」 「うん。後ろむきになって落ちつづけてるようなものだね」 エリカは、ボクをみつめた。 眼が大きく見開かれている。 何度か、大きな息をする。 そして、両手でボクの肩をつかんだ。 「よっちゃん、天才だわ。 そのとおりなのよ! 私たちは、ブラックホールへ落ちるみたいに、時間軸を落ちつづけているの!」 ボクを見つめるエリカは、すごく可愛かった。 だから、思わず自慢した。 そして、うんと後悔した。 「ボクは、落ちることなら、ほかの人よりも経験があるからね」 「え? どうしてなの? よっちゃんの成績なら、それ以上落ちることは、ありえないでしょう?」 グサ! ザク! ドズッ! ぐふっ! があっ! ごぶっ! 「ああ、そうか。学年が落ちるか」 ザシュッ! うぎゃあああああ! 会心の一撃だった。 「そんなフラグは立てないでよ。冗談になってないから」 「もちろん。冗談なんかじゃないわよ」 「もっと悪いよ!」 階段を落ちると、ものすごく痛い。 試験に落ちたら、心が痛い。 学年が落ちれば、…… 考えたくもない! 何かが、ひらめいた。 エリカの言葉が思い出される。 「いい着眼点ね。 気がつきさえすれば、簡単にできるの」 いま言ったばかりの言葉は、なんだっけ。 「後ろ向きで落ちつづけてる」 つまり、……。 「後ろ向きだから、先にある未来が見えない。 落ちつづけてるから過去にもどれない」 だけど、……。 「気がつきさえすれば。 過去にもどることも。 未来を視ることも。 簡単にできる?」 でも、そんなことができる存在なんて。 ……いた! 「出てこい」 エリカの影から、暗黒が立ち上がった。 細身の女性の形をとり、ゆらいでいる。 その姿をとおして、宇宙が鮮明に見える。 その姿を少しだけ変えると、…… 「君は、エリカだね。たぶん、未来の」 影は、ためらってから、うなずいた。 <結:時空統合理論> 「気がついてしまったのね、よっちゃん」 そう言うと、エリカはうつむき目をふせた。 (どうしてそんなに悲しそうなの?) 「いったい、……」 (なぜ、未来のエリカがここにいるの?) 「……よっちゃん、海岸にいこうか」 エリカは白衣をぬいで、ていねいにハンガーにかけ、灰色のブレザーに着替えた。 三角フラスコに栓をして、断熱材でくるんだ。それから実験セットの箱に、ビーカーと三角フラスコを入れて、肩にかついだ。 ボクは、メロンパンを通学バッグに入れて、あとを追った。 二人並んで、ゆっくりと廊下を歩いた。 自転車置き場につづくアスファルトの道に、街路樹が影を落としていた。影は、音もなくざわめき、ゆれている。 エリカは、ゆっくりと自転車を進めた。 ボクは、エリカの後を、自転車で追った。 いままでエリカに教えてもらったことが、頭の中にあふれて渦巻いている。 自転車を降り、堤防の階段をこえて、二人で流木に腰をおろした。 海岸は、静まりかえっていた。 ただ、寄せては返す波の音だけが聞こえる。 雲が、黄金の色に染まり始めていた。 二人とも、ビーカーに入った暖かい紅茶と半分にちぎったメロンパンを手にして、しばらく黙っていた。 エリカが、海をながめながら言った。 「人生の絶頂期の、いちばん幸せなときを、黄金時代と言うよね。 だけど……、 黄金の色は、秋の夕暮れの色なんだ。 よっちゃんに会えて、うれしかったな。 よっちゃんと過ごせて楽しかったよ。 ありがとう。 これからずっと、私のことを覚えていてくれると、うれしいな。 私が病院で目覚めて、最初に見たのが、よっちゃんだった。 私は、よっちゃんにインプリンティングされたみたいなんだ……」 ええと、インプリンティングって。 生まれたばかりのヒナ鳥が、最初に見た動く物を、親と思いこむこと、だったよね。 ボクは、あわててエリカの言葉をさえぎった。 「困るよ、それは……」 ボクの言葉にエリカは、驚いたようだった。それから、とても悲しそうな表情をうかべた。 (だけど、……) 「だって、ボクはエリカのお父さんには、なれないから」 エリカは、しばらくのあいだボクを見つめていた。 それから、急にほほ笑んだ。 「……バカ。 でも、よっちゃんらしいか」 エリカは、真剣になった。 「よっちゃんは、どこまで分かってるの?」 「正しいかどうかを確かめさせて欲しいんだ」 エリカは、うなずいた。 (さあ、真実を探しにゆこう) ボクは、覚悟を決めた。 「世界はいつも、無数の次元に向かって分岐しつづけている。それが真実なんだね?」 「ええ」 「ボクたちは、仰向けになって時間軸を落ち続けている。そうだね」 「ええ」 「みんな、それが当たり前と思っている。 でも、気がつきさえすれば、 過去にもどることも、未来を視ることも、 できるのだよね?」 エリカは、ためらってから言った。 「……ええ、そうよ」 ここからが、本番だ。 ボクは、ツバを飲みこんだ。 「その気になれば時間軸をこえて、分岐した他の世界に移動できる。 時空転移は、可能だよね」 「え? どうして……」 エリカが口にしなかった言葉は、分かっていた。 どうして、よっちゃんに分かったの? 間違えることは、もう許されない。 違ってたら、たぶんそこで終わりになる。 ボクは、語り始めた。 「海岸で万物が創生されたときに、ボクの足元の砂浜が崩れた。足元から支えが無くなり、果てしなく落ちていった。 はるか下方に、恐ろしい何かがいて、全てを呑みこんでいた。 でも、気がつくと元の海岸にいたんだ。 それから、エリカは病室で言ったよね。 『学校をでたら、突然に地面が陥没した。 はてしなく落ちてゆくと、ずっと下の方に、 何か恐ろしいものがいて、全てを呑みこんでいた』、って。 ボクが、『砂浜で見ただろう』、って聞いたら、エリカは、『見てないわ』、と答えたよね。 あのときエリカは、それを忘れていた。 あるいは、まだ体験してなかったんだ!」 エリカは、おもしろそうにボクの顔を見つめていた。 「そこから、よく時空転移なんて思いついたわね」 「世界が分岐しつづけているなら、過去に戻って別の分岐に乗り換えれば、時空転移ができる。 そのことに気がついたんだ。 未来のエリカは、ボクが滅びないですむ時空に転移させてくれたのだろう? でも原初の混沌はエリカを追いかけてきた。 学校のそばでエリカに追いついたのだよね。 病室で、エリカが助かる分岐を選んでくれたのも、未来の君だったのだろう?」 エリカは、さみしそうな表情になり、少しためらってから、小さくうなずいた。 気がつきさえすれば、見ることができる。 それなら。 ボクは、これまで見ようとしていなかったものに意識をむけた。 夕暮れの空と暗い海をじっと見つめながら、分岐し離れてゆく世界を感じ取ろうとした。 まわりの景色が、厚みを失ってゆく。 ボクの認識が広がってゆく。 ボクは認識を拡大しつづけた。さらに先を見つづけた。 そして、その先に見えたのは…… 目の前に、輝く球体がいくつも現れた。まるで爆発するように大きくなってゆき、視界をおおいつくしてゆく。 金属の光沢を思わせる緑色や紫色の光を、はげしく放っている。 まるで泡が沸き立っているように見えた。 そんな泡の塊の中から、黒い触角のようなものが突きだして蠢いている。 「ボクが見ているのは、何なの?」 それに応えたのは、今のエリカと未来のエリカの重なった声だった。 「「何が見えているの?」」 「爆発するように拡大してゆく輝く泡の塊。 金属のように輝いて緑や紫の光を放ってる。 それから、触角のようなものが、いくつも突きだして動いてる」 エリカは、しばらく絶句していた。 未来のエリカが答えた。 「よっちゃんが見てるのは、無数の次元に分岐して拡散してゆく世界の姿だと思う。 泡のように見えるのは、順調に分岐している無数の世界。触角のように見えるのは、かろうじて存在を保っている世界じゃないかな」 「なぜ、そんなものが見えるのだろう?」 「わからない。 でも、よっちゃんは、超次元の視点から世界の群れを認識してるのだと思うよ」 未来のエリカは、ためらいながら答えてくれる。 「だけど、そんなことを認識するのは、人間には不可能なはずよ。 だって、人間の情報処理能力を大きく越えているもの。 よっちゃん、大丈夫なの? 理性を失くしていない? こんなところで消滅しないでよ」 ボクには、大丈夫だ、という根拠のない自信があった。 「心配ないよ。この世界にも、ボクが理解できないことなら、いっぱいあったから。 わけの分からないものをスルーして、頭をパンクさせないのは得意なんだ!」 それから、ボクは視点を変えた。 世界の見方を変えた。 近くから遠くを見るように、視点を切りかえてゆく。 すると、…… 空間と時間の認識が入れかわった。 時間は、三次元だった。 いや、空間を三次元と認識するのになれてるから、時間も三次元と把握したのだろう。 原初の混沌が、過去から今に向かってせまってきている。 そして、…… すぐ近くの未来には、すべてを呑みこむ暗黒が広がっていた。暗黒は、泡立ちながら分裂しては収縮し、形を変えつづけている。 「ちょっと先の未来に、暗黒が見えるよ。すべての世界を呑みこんでる」 未来からきたエリカが応える。 「終焉の闇が見えているのね」 「終焉の闇?」 「すべての時が最後にたどりつくところ」 「でも、すぐそこにあるよ?」 「それが、未来を見ない理由よ。 そのことを知らずにすむように、私たちは未来から目をそむけているの」 ボクたちは、時間軸の中を生きている。 成長しながら時間軸を進んでゆく。 それを、四次元時空の外から見れば。 たぶん、長い、長い、イモムシのように見えるはずだ。 その認識に呼応して、見えている景色が変わりはじめる。 エリカが、過去に向かって伸びてゆく。 うねりながら時をさかのぼって、はるかかなたに伸びてゆく。 砂浜から学校へとつながり、病院にもどって、しばらくとぐろをまく。 それから救急車で学校の近くまで運ばれる。 原初の混沌が、学校の外でエリカに追いついて、呑みこもうとする。 エリカは、追いついてきた原初の混沌に、呑まれそうになる。 でも、きわどく救われて…… 救われてない! エリカは、原初の混沌に呑まれて消滅した。 エリカは救われていなかった。 ボクは突然に気が付いた。 ここに、エリカは、いない。 いま、目の前にいるのは、エリカの残響だけだった。 なにが起きているのだ? ふたたび目の前に、輝く球体がいくつも現れた。 まるで泡が沸き立つように大きくなってゆき、視界をおおいつくしてゆく。 金属の光沢を思わせる緑色や紫色の光を、はげしく放っている。 そして、原色の色彩が強烈に乱舞している中に…… エリカを見つけた! その場所は、…… 足元の砂浜の下だった。 エリカが虚無を無で割って、すべてが始まった砂浜の、その下にエリカはいた。 でも、なぜ? ボクが原初の混沌に呑みこまれそうになったとき、未来のエリカはエリカの影に宿っていた。 影に宿ったエリカは、分岐したばかりの他の時空に呼びかける。 時空を越えてここに来るための、その方法を呪文のように唱えて、他の時空に呼びかける。 エリカの呼びかけに応じて、あちらからもこちらからも、数知れないエリカが群れをなして集まってくる。 時空を越えてくるエリカは、長い胴体をうねらせながら、全てを呑みこむ原初の混沌に向かって進んでゆく。 これなら、ボクを引きとめることができそうだ。 そう思った。 しかし、エリカたちはボクの下に入って、ボクを持ち上げようとする。 時空を越えるのには、ものすごく力がいるのだろう。 だから、ボクが原初の混沌に落ちてゆくのを、引きとめることができないのだろう。 エリカたちは、塔のように積み重なり、崩れながらもボクを押し上げて、別の時空に運んでくれる。 原初の混沌がすべてを呑みこむ前に活動を停止した別の時空へと運んでくれる。 エリカたちが崩れ落ちてゆく。 ボクを別の時空に運んだエリカたちは、晴れ晴れとした笑顔でボクに手を振りながら、原初の混沌に向かって落ちてゆく。 底知れない闇に向かって…… 砂浜でボクを、呑みこまれるまえに救い出してくれたのは、未来からきたエリカだった。 時空を越えて集まってくれた数知れないエリカたちだった。 分岐した世界の残響から、エリカたちが捨てた可能性が見えた。 原色に輝く球体をとおして、エリカたちが、どれほどたくさんの可能性を犠牲にして、ボクを救い出してくれたのかが実感できる。 未来のエリカは、消滅する世界からボクを救い出そうとして、過去の砂浜の下に取り残され、落ちつづけている。 そして、押しとどめることのできない時の歩みにともなって、落ちてゆく未来のエリカは、今のエリカと重なり混じりあってゆく。 数知れないエリカと、寄りそい混じりあう。 からみあい、よじれて、とぐろをまき、塊になってゆく。 エリカという存在の、その中核をなすものは、絶望を抱えたまま、過去の砂浜の下に幽閉されて、落ちつづけている。 ボクを救う代償として。 それが愛しいエリカの真の姿だった。 でも、あれなら、……。 たぶん二人でなら、時空の牢獄から這いだすことができるだろう。幽閉を終わらせることができるだろう。 ここにいるエリカは、真のエリカが投影している影にすぎなかった。 ボクは、エリカの残響にたずねる。 「どうしたら時空をこえて、君のそばに、たどりつくことができるの?」 エリカは、今にも消え去りそうに頼りなかった。 つらそうだった。 それでも笑みを浮かべて答えてくれた。 「無理よ。 よっちゃんが時空転移をするためには、まず理学部に合格して、量子論と特殊相対性理論と、それから時空図を統合しないといけないから」 <終章:時空を転移してきたる者> 校庭では、木々が紅葉し始めている。 理科準備室にも、涼しい風が吹きぬけて、秋の気配が感じられた。 エリカは、問題を解くボクを見ながら、ほほ笑んでいる。 「よっちゃんにしては良いことを言ったわね。 『無理だなんて言わないで。 わずかでも可能性はある。 それが奇跡なら、おこしてみせる!』、か。 感動しちゃった。 あんなに真剣なよっちゃん、初めて見たわ。 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴオォォォ! 背景に紅蓮の炎が燃えさかっているような迫力だったわよ!」 ボクは、返事をせずにうなっている。 すべての時空のエリカを救うためには、まずこの問題を解く必要があるからね。 「ああ、その問題ね。 x+y=X x×y=Y とおくのよ。 方程式が対称形なら、そうするものなの」 ボクは、だまってうなずいた。 エリカの指示に従って、苦労しながら解答にたどりつく。 「よっちゃんは勉強が嫌いなんだと思ってた。 ずいぶん頑張るわね」 「エリカとずっと一緒にいたいから……」 エリカは、うれしそうに言った。 「すべての時空のエリカが大喜びしてるわよ」 「それはよかった」 「だけど、よっちゃんが時空を転移して助けにきてくれても、私にぶつかって二人して原初の混沌に落ちていきそうな気がするなあ」 「そうなっても構わないよ。エリカと一緒にいられるならね」 「あはははは……」 エリカは乾いた笑い声をあげた。 よし、休息終了! 「つぎの問題は、ややこしいなあ。 ……そうだね。 xの二乗とyの二乗を足した方をX、 xの二乗とyの二乗を掛けてYと…… さらに二倍してYと置けばよさそうだね。 あれ? この方程式は前に解いてるよ」 「大正解! でも、油断しないでね。 ずいぶんと苦戦した問題じゃなかった?」 「因数分解しやすいように両辺に……足して。 ゼロで割らないように、項がゼロの場合とゼロでない場合に分けて。 ……、できたよ」 エリカが感嘆する。 「たいしたものね。あんなに苦戦したのに」 「いちど攻略した敵だから、たやすいことさ。 それでは、つぎの問題は? う~ん。 これまでの解き方では、ダメそうだな」 「よく分かったわね。このあたりの問題は、よっちゃんよりもずっと頭のいい数学者が一生をかけて解き明かした数学がもとになってるの。 一問一問に人生がこめられてるのよ」 このエリアに、ザコ問題はいないのか。 当然だよね。 「手ごわいわけだね」 「あのね、……」 エリカが、甘えるように言った。 もちろん、かまわないさ。 「うん。いいよ」 そして、エリカとボクは口唇を重ねた。 上手になったなあ。 一瞬のうちに、ボクの体温はすべて奪われていた。 消えかけていたエリカの存在感が回復する。 それから、ボクは再びレベルアップのための経験値かせぎに没頭しはじめた。 理学部に合格して、時空統合理論を完成させる。それがジョブ・チェンジの条件だった。 それが、時空転移のために必要なのだ。 世界中の学者を納得させる必要は無かった。 ボクが時空統合理論を理解し把握する。 それだけで良いのだ。 簡単さ! 世界は分岐を続けている。 理学部に合格しようと決意したボクのいる世界と、決意しなかった世界が分岐する。 ボクが問題を解こうと努力する世界と、解くことをあきらめた世界が分岐する。 理学部合格という分岐をめざして、ボクは問題と闘いつづける。 ボクがエリカを助けにゆかなければ、エリカは消滅するだろう。 エリカが消えたら、原初の混沌がすべてを呑みこんで、この世界も消滅しそうな気がするなあ。 エリカを救うために、世界を消滅の危機から救うために、ボクは地道に経験値かせぎをする。レベルアップにはげみつづける。 その先には、絶望をかかえたまま、砂浜の下にある過去の時空に幽閉された真のエリカが待っている。 世界が分岐するたびに、ボクはこの時空にだけ留まりつづける。 理学部に合格しようと決意しなかった世界に、ボクはいない。 問題を解くことをあきらめた世界に、ボクはいない。 ボクは、分岐を拒絶してこの時空だけにとどまり、存在の密度を高めてゆく。 エリカたちを救い出すには、とてつもない力がいる。だからボクは、自分の中に力を蓄えつづけてゆく。 エリカを救えない世界にゆく必要はないからね。 エリカのアバター(化身)が時空を越えて語りかけてくる。 「私は、過去と未来と現在がごちゃまぜになった存在よ」 「それだけでは無いよね」 ボクが砂浜で呑みこまれていたら、エリカを救うことなど、できるはずがなかった。 でも、未来から来たエリカが砂浜でボクを救ってくれた。だからボクは、エリカを救いにゆくことができる。 かならず救い出してやる! きっとできる。 確信がある。 でも、そうなれば、まだ存在していなかった未来が過去を変えたことになるなあ。 存在するはずの無い未来が、過去に干渉して、実現する可能性をつくりだしている。 未来からきたエリカは、「この世界にはありえない」はずの者だった。 あきらかに因果律が逆転している。 ぼくは、問題用紙から顔をあげずに答える。 「でも、存在するはずの無い未来が、過去に干渉するのは、いけないことなのかな? かまうことはないよ。 ボクが英語と数学で落第しそうになったとき、英語の先生は、『数学の先生が合格点をくれたら、英語を合格にしてやろう』、と言ったんだ。 そして、数学の先生は、『英語が合格なら、数学も合格にするよ』、と言ってくれたんだよ。 だから、ボクは英語の先生のところにいって、『数学は合格になりました』、と言い、それから数学の先生に『英語は合格でした』と伝えたんだ。 だからボクは、いまでもエリカと同学年なのさ」 エリカは、愉快そうな笑い声をあげた。 「よかったわね、ありがとう。 だけど私の真の姿では、よっちゃんのそばへと、ぶざまにのたうちながら近づいてゆくことしかできないのよ。 私の真の姿を見たのに、なぜよっちゃんは、私を嫌いにならなかったの? こんな私で、本当にいいの?」 ボクは、問題を解きながら答える。 「大好きだったよ。ずっと前から……」 エリカには、どんなに説明しても分かってもらえないだろうなあ。 時空転移ができるころには、ボクは十分な力を蓄えているだろう。 過去の時空の砂浜の下で、ボクはエリカたちと巡り合うだろう。 ボクの蓄えた力を得て、ボクとエリカたちは原初の混沌の呪縛から逃れることができるだろう。 だけど脱出するときに、ボクの時空連続体とエリカたちの時空連続体は、からみあい、よじれて、とぐろをまき、わけの分からない塊になってしまうだろうなあ。 いまから期待でわくわくが止まらない。 考えるだけでドキドキしてしまう。 まさか、実際に出会えるとは思わなかった。 しかも、大好きな娘の姿をしていたなんて。 自分がなることなど、考えもしてなかった。 のたうちながら近づいてくる矛盾に満ちたわけのわからない存在。 『這い寄る混沌』は、ボクの大好きなキャラなのさ。 |
朱鷺(とき) 2021年05月02日 11時44分57秒 公開 ■この作品の著作権は 朱鷺(とき) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
|
作者レス | |||
---|---|---|---|---|
|
+10点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時39分04秒 | |||
|
+20点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時40分15秒 | |||
|
+10点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時40分49秒 | |||
|
+10点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時41分27秒 | |||
|
+10点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時41分51秒 | |||
|
||||
Re: | 2021年05月30日 15時42分20秒 | |||
|
+10点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時43分09秒 | |||
|
+10点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時43分46秒 | |||
|
0点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時44分30秒 | |||
|
0点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2021年05月30日 15時45分16秒 | |||
合計 | 10人 | 80点 |
作品の編集・削除 |