アトランティデの白い演算士 |
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「いたぞ、追え!」 首都アトゥーリオ中央部、演算協会本部庁舎の地下通路は嵐の如き喧騒に包まれていた。 石造りの通路、明かりは僅か。複数の足音と、甲冑の触れ合う音が響いている。その中を黒い影が疾走していた。 影は出口を目指している。その手に古びた書物を抱えて。 ――まずい。 治安警備隊のジルド中隊長は顔をしかめた。 賊はこの地下通路を熟知しているらしい。協会本部庁舎の地下通路は、迷路のような造りになっている。これは機密文書の盗難防止が目的だ。しかし最短最速の逃走経路を知られてしまっては意味がない。 ジルド中隊長は、賊がそろそろ出口に到達しつつあることを感じていた。残り時間は少ない、このままでは逃亡を許してしまう。 「第四小隊は十から十六番通路を封鎖。第五小隊は先回りさせろ、出口を塞げ!」 随行している伝令に命じる。伝令はすぐさま脇道へと走っていった。 今の命令で逃走経路は一本道になる。あとは出口さえ塞げば、最早逃げ場はない。 間もなく出口だ。月の光が差し込み、通路がうっすらと明るくなる。 見えた。賊は漆黒のマントを纏い、フードを被っている。 部下達は命令を守り、既に脇道への進入口を全て塞いでいる。賊が近付けば剣を突き出し、あるいは威勢のいい声で牽制していた。 右へ、左へ。黒い影は河岸にぶつかりながら流されていく石のように逃げ惑い、出口へと押し流されていく。 だが、そこは行き止まりだ。 「第五小隊、前へ!」 ジルド中隊長は、出口で待機している部隊に命じた。 一斉に始まる命令の復唱。まるで地鳴りのようだ。直ちに命令は行き渡り、部下達が歓声を上げて雪崩れ込む。 賊の足が止まった。周囲を見回し、逃げ場を探している。しかし屈強な男たちに行く手を阻まれ、為す術が無いようだ。 「全部隊前へ。挟撃せよ!」 最後の一手。四方から部隊を前進させ、賊が動ける範囲を狭めていく。 観念したらしく、黒い影はその場にひれ伏した。額を地面に接着させ、全身をマントで覆い隠す。命乞いでもするつもりだろうか。 「937012――」 賊の口から滑り出したのは謎の数字。何の意味もない、ただの羅列―― ではなく。 次の瞬間、赤い光が炸裂した。とてつもない熱量を伴った爆風が、あたかも意志を持った火炎竜の如く、次々と偉丈夫たちに襲いかかる。現場で陣頭指揮を取っているジルド中隊長も例外ではなかった。 視界の中で天と地がめまぐるしく入れ替わり、続いて背中から叩きつけられた。ぶつかったのが壁なのか地面なのか分からない。自分が吹き飛ばされたと自覚できたのは、遥か先に地下通路の出口が見えた時だった。 焦げ臭い匂い、火炎に焼かれる部下達の断末魔。この世のものとは思えない惨状が目の前に広がっていた。 今のは自然に起きた爆発ではない。人為的に発生させられたものだ。 (〈演算〉だ……と……?) 賊が使用したのは、この世の理(ことわり)を操る術。民間人がそう易々と扱えるものではない。 まさか、賊の正体は―― そこで思考が途絶えた。 最後に見たものは、出口へと走っていく黒い影の姿だった。 ■ シエナ女史の優雅な朝は、一杯のコーヒーで始まる。 彼女は窓辺の椅子に腰掛け、カップ片手に外を眺めていた。窓の外では太陽が昇り始めている。 背まで伸びた銀色の髪は、陽光を浴びて金色に染まり、価値ある装飾品のようにきらきらと輝いた。整った顔立ちに透明感のある白い肌、ほっそりした体つきや長い手足と相まって、その姿はまるで丁寧に作り込まれた彫像のようだった。 眠そうにあくびを一つ。胸元がやんわりと上下して、形のいい二つの膨らみが僅かに揺れる。その双丘の先端には綺麗なピンク色の――って、何言ってるんだ私は。 「シエナさん、服はどうしたんですか」 「……あら?」 たった今気付いたみたいで、彼女は自分の体を不思議そうに眺める。 そう、シエナさんは全裸だった。 彼女は決して頭が弱い人ではないけれど、興味の無い物事には無頓着だから困る。同居人兼お世話係としては頭が痛いところだ。 「別にいいんじゃない? 女同士だし、他には誰も見ていないんだし」 シエナさんは事も無げに言う。実際、ここは集合住宅の三階だから通行人の目には入らない。だけど、年頃の女性が真っ裸というのはいかがなものか。 「そういう問題じゃありませんから」 「怒らないでちょうだい。可愛い顔が台無しよ、カリーナ」 優しげな声で私の名前を呼ぶ。出会って間もない頃はその声色に騙されてしまったけど、今は違う。シエナさんがこういう言い方をする時は、話題をすり替える前兆なんだと学習した。 「それよりも」 ほら始まった。 「何故このコーヒーは苦いのかしら? コーヒー豆の数値が43081、水の数値が54214、温度は今の時点で132。ここまでは昨日と同じ数値なのに、苦味と酸味の割合が全然違う。同じ味を再現するには、どんな〈補正数値〉を式に組み込めばいいのかしら」 グレーの瞳でカップの中身を見ながらシエナさんは言う。カップからは湯気と一緒に、青白い数字の羅列が浮かんでは消えていった。アトランティデ大陸では、一部の人間にしか見えない数値だ。 「ここに砂糖を加えると甘くなるのよね。『砂糖を加える』という単純な行為に、どれだけ複雑な〈演算〉が含まれているのかしら」 興味深いと感じた物事だけ熱く語る。普段は無表情なくせに、こんな時だけ頬がほんのり赤くなるシエナさんだった。 「さあ……〈フェデリコ大全〉を読めば分かるんじゃないですか」 私は投げやりに答えて、職場へ持っていく携行食の準備に取り掛かる。 私たちの仕事は急な呼び出しが多いので、いつ、どこでも食事を摂れるようにしておかないと食べ損ねてしまうのだ。 パントリーを開けて、中からチーズとベーコンを取り出す。あとは買い置きのパンがあれば足りるだろう。 と、思ってたら。 「シエナさん。ここにあったパン、食べてません?」 彼女は答えない。きっと今も、コーヒーの味の変化について考え込んでるに違いない。こうなってしまうと何を言っても無駄だ。 集中して物事を考えている時、シエナさんは夢遊病患者みたいになる。前にも無意識に食事をして、後でそのことをすっかり忘れていた。多分、夜中のうちに彼女が残りのパンを食べてしまったんだろう。 溜息一つ。彼女は私より三つも年上なのに、身の回りのことはてんでダメ。一人暮らしさせようものなら、食事もままならないだろう。これじゃ、どっちがお姉さんなのか分からない。 ……ま、仕方ないか。 これもお世話係の役目だと甘んじて受け入れる。思えば、私はいつもそんな役回りだった。 子だくさんの農家で生まれ育った私にとって、幼い弟や妹の面倒を見るのは当たり前。長女だから尚更だ。きっと私はそういう星の下に生まれたんだろう。 そんな風に考えていたら、ドアを叩く音がした。しかもかなり激しく。こんな早朝から誰だろう。 私はとっさに自分のエプロンを裸のシエナさんに被せ、玄関に出た。 ドアを拳一つ分開けると、その向こうに緊張した面持ちの男性がいた。襟を見ると演算協会の記章。走ってきた直後らしく息が上がっていたので、協会が寄越した伝令夫だろうと見当を付けた。 「〈白演算士〉殿はおいでか」 声色に差し迫ったものを感じた。私は頭を仕事用に切り替え、答える。 「ええ、こちらに。急ぎの用でしょうか」 相手は周りを見渡した。他の住人に聞こえていないか気になるんだろう。 「協会長より緊急召集の命が下った。職員は全員、直ちに登庁せよとの仰せだ」 緊急召集、しかも協会長直々の命令。それを聞いて息を呑んだ。 協会長は演算協会の最高責任者だ。周辺都市に設けられた支部を統括する立場で、協会に属する全会員の管理者でもある。そんな立場の方が直接命令を下すなんて、国家の存亡に関わる出来事でもあったんだろうか。 詳細を尋ねようとして思い留まった。機密事項に関わることなら場所を選ぶべきだし、何より時間が惜しい。 私は伝令夫に、至急参るとだけ伝えてドアを閉めた。 振り向くと、裸エプロンの同居人が真顔で立っていた。伝言の内容が聞こえていたなら話は早い。 「シエナさん、お仕事です」 「〈フェデリコ大全〉が盗まれた……か。それにしてはやけにのんびりしてるじゃない」 人気(ひとけ)のない通路を歩きながら、シエナさんは呆れたように言う。それもそのはず、盗まれた〈フェデリコ大全〉はアトランティデ共和国の最高機密だ。この古文書には、この世の理を操る術――〈演算〉の全てが記されている。これさえあれば、あらゆる現象が思いのまま。使い方によっては、たった一人で国家を転覆させることも可能だ。そんな危ないものが演算協会の管理から離れたとあっては、天地が逆転するほどの大騒ぎになっててもおかしくない。 にも関わらず、協会は職員に事件の概要を伝えて、秘密裏に調査するよう指示しただけ。国民に不安を抱かせない為だとはいえ、対応が軽すぎやしないかというのがシエナさんの意見だった。 「でも、犯人はもう捕まってるみたいですし」 つい先ほど、協会で聞かされた事件の概要を思い出す。 事件があったのは深夜。協会の地下にある保管庫から、厳重に保管されているはずの〈フェデリコ大全〉が盗まれた。警戒に当たっていた治安警備隊によって犯人は発見されたものの、追跡中に地下通路で謎の爆発が起きた。部隊は壊滅的な被害を受けて、死傷者は八割以上。彼らの家族を思うと胸が痛むばかりだ。 そんな中でも、地下通路の出口で犯人を捕らえたのは幸いと言うべきか。事件は一気に解決したかに思われた。 「それが呑気だって言ってるの」 正装の白いローブを着たシエナさんは、凛とした雰囲気をまとっている。自宅で見せていただらしなさは微塵もない。〈演算〉に関して最上級の権限を与えられている者として、それ相応の責任は自覚しているようだ。 「犯人が捕まったとしても、肝心の〈フェデリコ大全〉が見つかってないんじゃ何の意味もないわ」 確かにその通りだ。〈演算〉を使える人は限られているけど、〈フェデリコ大全〉の活用法を知っている人の手に渡れば強力な武器になってしまう。誰が入手したのか分からない以上、最悪の事態に発展する可能性は残っている。 「この案件を仕切ってるのは治安調査隊なんでしょ。文句言ってやらなきゃ気が済まないわ」 治安調査隊は、治安警備隊と同じ司法局に属する調査機関だ。この国で人命や財産に関わる事件があれば、まずは治安調査隊の管轄になる。包括的な調査権限や逮捕権を持つ国家機関に直接文句が言えるのは、よほどの怖いもの知らずか変人か。にも関わらずシエナさんがそれをやろうとしてるのは、今回の件が〈演算〉絡みであることと、彼女がこの国唯一の〈白演算士〉だからに他ならない。 というわけで、いま向かってるのは治安調査隊の現場責任者がいる場所だったりする。首都の中心部に密集する主要な建物群の中で、普通の人ならまず近寄りたくない場所。司法局本部庁舎の地下に設けられた牢獄だ。そこには捕われた犯人もいる。 「勝手は困ります!」 薄暗い石造りの通路を行くと、その先には鉄格子の嵌った扉がある。その前に着くなり、看守の泣きそうな声が響いた。案の定、シエナさんは無許可で中に押し入ろうとしていた。 「〈白演算士〉のシエナよ。通しなさい」 「それは存じています、しかし許可は取って下さい!」 看守のおじさんは悲痛な顔だ。 「こっちは急いでるの。中にカッシオがいるんでしょ、管理官の。早く会わせて」 早口でまくし立てられ、看守は黙り込んだ。司法局と演算協会の板挟みになっているようなものだから、さぞや胃が痛いことだろう。 「いい? 今回の件は〈演算〉が絡んでるの。だったら調査権は演算協会が優先のはず。ここを通さないなら、調査権の侵害として司法局に抗議するわ。覚悟しなさい」 シエナさんの追い込みが続く。看守のおじさんの顔は真っ青だ。 「あなた達は事の重大さが解ってない。調査の初動に問題がある。寝ぼけた担当者にそれを知らせる為に来たのよ、私は」 「誰が寝ぼけていると?」 鉄格子の向こうから、静かな怒りを含ませた声が聞こえた。黒い髪を油で撫で付けた痩せぎすの男性。治安調査隊の一員であることを示す黒い詰襟服を着ている。 「カッシオ、ちょうどよかった。あなたに話があるんだけど」 シエナさんは無表情だ。だからといって感情表現が苦手なわけじゃない。声色に相手への敵意が滲み出ていた。 「聞こえていましたよ。随分と大きな声を出されていたもので」 カッシオ管理官はさらりと受け流す。あちらのほうが人生経験と政治力に長けている分、多少のことでは揺らがない。 「なら私の言いたいことは解るわね」 「解りますが、従う義理はありません。犯人は既に我々が拘束しています。あとは物の在り処を喋らせるだけ。あなたこそ邪魔しないで頂きたい」 「喋らせる?」 「そうです。今から尋問を始めるところでした」 尋問とは名ばかりの拷問だ。具体的に何が行われるか、想像したくもない。 「そうだ。あなたの同席を許可しましょう。私の功績を証明する立会人として」 カッシオが口の両端を吊り上げた。顔は笑みの形だけど、瞳には冷酷な光が宿っている。 そうだった、この人はこういう人だ。功名心の塊、自身の功績を何よりも優先する。自分以外の人間は全て、のし上がる為の踏み台だと考えてる。私がシエナさん付きの〈観測士〉であることを差し引いても、苦手な部類の人種であることは間違いない。 傲慢を絵に描いたような人物だけど、残念なことに彼は有能だ。実際、首都で起きた主要な事件は、彼の指揮により大半が解決されている。現場責任者である管理官という肩書は、飾りじゃないってことだ。 そんな彼の実力は、この国の政治を担う大評議会からも高く評価されている。大評議会の代表者で構成される十人委員会からの支持は言わずもがな。その十人委員会の下部組織として司法局が存在するのだから、彼の地位がいかに盤石なものか良く解る。 カッシオに命じられて、看守が扉を開けた。 シエナさんに続いて牢獄に入ると、すえた臭いが鼻をついた。明かり取り用の小さな窓しかないので息苦しく感じる。 ブーツの踵が石畳を叩き、硬い音が反響した。鉄格子を隔てて通路の左側には、投獄された罪人達の姿。彼らの興味の対象はもっぱらシエナさんだった。薄暗さの中でも、彼女の銀髪と純白のローブはよく目立つ。とびきりの美人でありながら誰も声を掛けてこないのは、触れたらたちまち氷漬けにされそうな雰囲気を持っているからだろう。 「こちらです」 カッシオが示した先は、悪趣味な部屋だった。天井からぶら下がった鎖や磔台、鞭や棍棒といった道具が転がっている。いつから清掃をやめたのか、壁や床にはどす黒く変色した汚物が幾重にも。人の体内から排出されたもののうち、一部はまだ乾ききっていないらしく、表面には光沢が僅かに残っていた。 拷問室――正式には『尋問室』らしいけど――の中で、一人の男が吊るされていた。衣服は剥ぎ取られ、両手に手枷が嵌められている。手枷には鎖が付いていて、その反対側は天井に繋がれている。両足は爪先が僅かに床に触れる程度だった。 年齢はシエナさんと同じ位か。世間から大人と認められて、それほど経っていない頃。目隠しされているので、正確には分からないけど。 彼は四人の調査員に囲まれている。カッシオの部下だ。これから行われる事がまるで日常の一部であるかのように、全員が静かな表情で囚われの男を監視していた。 鞭を携えた尋問官が、カッシオと尋問内容の打ち合わせをしている。少しして、現場責任者は私達のもとに帰ってきた。 「これから尋問を開始します。気分が悪くなったら、遠慮なく申し出て下さい」 と言って、カッシオが挑むような目をした。若い女性には刺激が強すぎる、そうと解っていてわざわざ見せようとしているのだから、とんだ嗜虐趣味だ。 尋問官が鞭の素振りをすると、高い風切り音がした。その音が聞こえたらしく、囚われの男が喚き出す。これから自分の身に何が起こるのか察したんだろう。 ――ん? これは。 「言葉が違うわね」 シエナさんも気付いたらしい。声の調子からして、酷く嘆いているのは伝わってくる。だけど何を言ってるのか解らない。 「意味不明なことを喚くのは、罪人の常套手段です。気が狂ったふりをすれば赦してもらえると考えているのでしょうね」 カッシオが鼻で嗤う。過去に同じような経験があるから、そんな態度なんだろう。 囚われの男は、とうとう泣き出した。暴れる気力は無いらしく、吊り下げられたまま慟哭していた。私にはとても演技に見えなかった。 「アトラン……ティ……?」 男が発した単語にシエナさんが反応した。アトランティデと少し似ているけど違うみたいだ。 「待って。その男に興味があるわ」 つかつかと歩み寄り、シエナさんは尋問官から鞭を奪った。途端に調査員たちが気色ばむ。 「何を」 カッシオが割り込んだ。けれどシエナさんは無視して、思いもよらない行動に出る。 囚われの男に話しかけたのだ。しかも私達が知らない言語で。 シエナさんの声に気付いたらしく、男が振り向いた。質問されたことに頷き、短い言葉で返答する。二人の間で会話が成立していた。 「勝手な発言はやめなさい」 言葉遣いは丁寧だけど、カッシオの声には怒気が含まれている。自分の知らないところで話が進んでいることに苛立ってるんだろう。 「……なるほど、面白いわね」 シエナさんの無表情に、僅かな朱が混じる。囚われの男に強い興味を引かれたらしい。彼女は振り返るなり、カッシオにこう言ったのだった。 「この男、私が身柄を預かるわ」 長めの瞬きをするほどの間を置いて、カッシオが口を開いた。 「……何を言っているのですか?」 嫌味の一つも思いつかないほど、予想外だったらしい。 「この男を解放して。私が連れて帰るから」 「意味が解りません。納得のいく説明を」 管理官に問われ、シエナさんは鼻を鳴らす。 「彼、無実よ。犯人は別にいるわ」 カッシオの片眉が跳ね上がった。 「何を根拠にそんなことを」 「数値よ」 シエナさんは即答する。その答えを聞いて、私にも彼女の言わんとするところが解った。目を凝らして見ると、囚われの男には劣化した数字の断片が付着している。この場で『これ』が見えるのは、私とシエナさんだけ。カッシオが気づかなくて当然だ。 「体に数値が残ってるの。彼、〈演算〉によって地下通路の出口に転送されてきただけよ。距離はそうね」 シエナさんは目を閉じる。残存数値から転送元の距離を逆算する為だ。 「途方もない数値だわ。随分と遠くから飛ばされてきたようね」 「いい加減なことを」 カッシオは口から出任せと解釈したらしい。 ここは一つ、私からもシエナさんに加勢しておこう。 「いえ、本当です。私にも残存数値が見えます。逆算の結果は、どの〈演算士〉がやっても同じでしょう」 計算は不得意だけど、シエナさんと同じものが『視える』という意味では私も証人になれるはず。あとは相手が信じるかどうかだ。 「……では、仮に彼が転送されてきたものとしましょう。しかしそれだけでは彼が無実ということにはならないはずです」 数値が示すことは絶対。〈演算〉の有用性と正確性はカッシオも理解しているらしい。 「でも、彼は〈フェデリコ大全〉を持っていなかったんでしょう? 協会からの報告では、隠せるような場所も、時間的余裕も無かったと聞いてるわ」 実際その通りだ。盗んだ物を持ってはいなかったけど、地下通路の出口(たまたま通りかかれるような場所じゃない)で発見されたから、彼が犯人だと断定されたのだ。 「単独犯とは限りません。共犯者が持ち去った可能性もあります」 カッシオは引き下がらない。 「使用言語が違うのに、どうやって仲間と意思疎通するのかしら?」 アトランティデ大陸で使用される言語は一つだけ。どうやらシエナさんは違うようだけど、他言語を話す人は基本的には存在しない。未知の言語を話す囚われの男が、この国の人々と意思疎通できるはずないのだ。 この国で暮らしていて使用言語が違うという状況は有り得ない。だからカッシオが、言葉の違いによる会話不能という可能性を考えつかなかったとしても仕方のないことだ。 「肝心の品を持っていない、仲間と意思疎通もできない。だったら彼は無実だと考えたほうがいいんじゃなくて?」 ぎりっ、とカッシオの奥歯が鳴った。 「現場に偶然居合わせただけの人間を犯人と断定したのは失敗だったわね。〈演算〉の知識があれば、もっと早くに気付けたんでしょうけど」 〈演算〉の専門家であるシエナさんは続ける。 「〈演算〉 絡みの事件は、普段あなた達が扱っている事件と性質が違うの。常識だと思われてたことが、簡単に覆るわ」 使用されれば、起こり得ないことが起こる。それがこの特殊な技術の恐ろしさだ。 「十人委員会からも、〈演算〉が絡む事件では演算協会に協力要請するよう言われているでしょうに」 「それはあくまで慣例に過ぎません。我々は国民から付託を受けた調査機関です。あなた方のような民間組織に助けを求めるなど、恥ずべきことです」 カッシオが言う通り、演算協会への協力要請は制度化されていない。ただし、〈演算〉に関しては専門家に任せるべきだという意見は十人委員会の中でも過半数を占めている。それをシエナさんは、調査権の優越と解釈しているわけだ。 「国家機関も民間組織もない。自分の手柄を上げることばっかり考えてるから、大事なことを見落とすのよ。いい加減、自覚しなさい」 これまで何度も彼には出し抜かれてきた。演算協会の協力があれば失敗せずに済んだはずの事件もある。シエナさんはそのことを踏まえて言っているのだ。 多少は反省する気持ちがあったのか、カッシオは反論してこなかった。 「というわけで、本件は演算協会に主導権を握らせて貰うわよ。あと、この男は私が預かる。いいわね?」 有無を言わさない口調に、相手は開き直りの態度で返すことにしたようだ。 「……いいでしょう。今のところは、ですが」 付け加えられた部分に気味の悪さを感じたけど、一応は受け入れることにしたみたい。 カッシオは部下を引き連れ、拷問室を後にした。入れ違いに看守がやってきて、囚われの男の手枷を外す。途端に男はシエナさんの足元にひれ伏して、グラーティスという単語を繰り返した。この国で言うグラッツェ(ありがとう)に響きが似ているから、感謝の言葉を述べているのかもしれない。 看守によって目隠しが外される。急な眩しさから顔を俯かせる囚われの男に、シエナさんはこう言った。 「レヴァイン・ファシェン・メェィム」 顔を上げる囚われの男。その瞬間、彼は固まってしまった。目はシエナさんに釘付け。頬が紅潮し、口は半開きのまま。まるで出会った瞬間に心奪われたような様子だった。 そんな彼に構わず、シエナさんは何かを話していた。詳しくは解らないけど、事情説明とこれからのことを伝えてるんだろう。囚われの男は少しずつ状況を理解したらしく、何度も頷いていた。 最後にシエナさんは、下を指差して何かの指示を出したようだった。それを聞いた囚われの男は、慌てて上体を前に倒す。とんでもない事をしでかした人のように、ぷるぷると震えていた。 「カリーナ、行くわよ」 シエナさんは振り返ると、背後で事の成り行きを眺めていた私に声をかけた。 「今、何て言ったんですか?」 囚われの男との間に何があったのか。疑問だったので聞いてみると、彼女は表情も変えずにこう答えたのだった。 「『いい加減、元気になってるソレを鎮めてくれるかしら』って言ったのよ」 囚われの男は、アルベルトと名乗った。年齢は一八歳、シエナさんと同じだ。カトリックという宗教を研究する学者の息子で、二年前に親から勘当されたらしい。幻の大陸を探して研究に没頭するあまり、神学の研究をおろそかにしていたのが厳格な父上の怒りを買った原因なんだとか。 で、地元を離れた彼は大学と呼ばれる研究機関や友人を頼って各地を転々としていたそうで、昨日は図書館で〈ティマイオス〉という書物を読みふけっていたら、突然この地に飛ばされたとのことだった。 にわかには信じられない話だけど、彼の話しぶりからすると作り話にも思えない。私としては半信半疑だけど、シエナさんは彼が話すことに興味を抱いているようだった。 「――そう。あなたのことは分かったわ、アルベルト」 「ありがとうございます。あと、僕のことはアルと呼んで下さって結構ですよ」 「じゃあそうさせて貰うわ。あなたも畏まらなくていいわよ」 「分かりました……じゃなくて。分かったよ」 驚くべきことは、ここまでの会話が私にも理解できていることだ。初めは未知の言語を話していたアルも、途中からは私達と同じ言葉を話すようになった。なぜそんなことが可能なのか尋ねると、私達の話す言語が彼の故郷で使われている言語と全く同じことに気付いたからだという。 「しばらく地元を離れていたからね。大学や知識人に教えを請ううちに、彼らが使う言葉が僕の中で基本になってたみたいだ」 と言って、アルは微笑んだ。柔らかそうな茶色の髪と穏やかな目。色白で細身の優男という印象だった。 はにかんだような笑顔で話すアルとは対照的に、シエナさんは相変わらずの無表情。それでも彼女が興奮しているのがよく伝わってきた。 「協会で習った通りだわ。『外の世界』では私達が使う言語の他に、幾つもの異なった言語があるそうね」 シエナさんは幼い頃から〈白演算士〉になる為の英才教育を受けている。習う物事の中には、私みたいな一般採用の〈観測士〉や〈解読士〉、〈演算士〉では教えて貰えない内容もある。彼女が『外の世界』のことを知っていたのはその為らしい。 「そう。国や地域によってね」 「他には? もっと教えて、『外の世界』のことを」 請われるままに、アルは語った。 『外の世界』では、従来の信仰の在り方から、新たな信仰の在り方へと変化していく機運が高まっていること。そんな中で旧教派の国々と新教派の国々が多く入り乱れて、大国の皇帝の継承権を巡り、三十年近く戦争していること。黒死病と呼ばれる病気が蔓延して、各地では多くの人々が命を落としていること。そして大陸を脱出した船乗りが新たな大陸を発見したのを機に、各国こぞって新たな大陸を獲得しようとしていること。 「最近では、海の向こうの島国でも内戦が始まった。こちらは宗教戦争というよりは、議会と国王の対立だね」 「あの……国王って何ですか?」 私も興味が湧いたので質問。 「その国を治めている人のことさ。従来、権力は国王に集中していたんだけど、好き勝手やる人もいたんだよね。だから民衆が不満を募らせて、蜂起した国もある」 アトランティデの歴史上、そうした立場の人は一人だけ存在していたと聞く。結局、民衆に打倒されて政治の仕組みが変わったわけだけど。『外の世界』も同じような変遷を辿っているようだ。 ちなみこの国では、国民が選んだ代表を集めて大評議会を構成している。大評議会の中で上がった議題について議論が行われ、全員の意見が合致しなければ多数決によって決める。効率の悪いやり方だと非難する人もいるけど、大昔の人は一人の人間に権力が集中することの恐ろしさを思い知ったから、今のやり方にしたんだと思う。 この内容をアルに話して聞かせると、彼は「へぇ! まるでヴェネツィア共和国じゃないか」と驚いた様子だった。ギカイセイミンシュシュギとやらが長期に亘って安定している国はとても珍しいそうだ。 「……というわけで、僕が住んでいた世界はこんな感じかな」 アルは話を締めくくる。 「感謝するわ。あなたの身柄を預かったのは正解ね。面白かったわよ」 シエナさんは、無実の罪に問われそうな彼に同情したから助けたんじゃない。彼に興味が湧いたからだと言っていた。 「さて、食事にしましょう」 シエナさんは満足げにそう言うと、手にしたパンにかぶりついた。 いま私達がいるのは、演算協会からほど近いパン屋さん。ここは協会の職員もよく利用している。対面式の売店なので、ここで買ったパンは持ち帰るのが基本。でも、顔なじみの客は、少し多めに代金を払えば店の前に設けられた唯一のテラス席で食事できることを知っている。今はちょうど客足が収まってきた時間帯なので、私達は朝食と昼食を兼ねて、この店まで来たのだった。 「はい、お待ちどおさま」 私達の席に来たのは女店主のエノレアさん。シエナさんとは真逆で、太陽のような暖かさと優しさを持つ美人さんだ。既婚者だけど、昨年に事故で旦那さんとお子さんを亡くしているので今は独身。協会の男性職員の中には、彼女に好意を寄せている人も多い。 「ありがとうございます」 エノレアさんお手製の野菜スープを受け取って、代金を渡す。思ったより早くお釣りが返ってきた。 「何だか楽しそうな話してたわね。空想の物語みたい」 聞こえていたらしい。 「あ、あのー」 「彼、作家なの。新作の構想を聞かせて貰ってたところよ」 シエナさんがさらりと嘘をつく。いきなり話題の的にされたアルは戸惑っていたけど、苦笑いを浮かべながら「まあ、そんなところです」と話を合わせた。 「へえ。伝説の勇者の物語かしら」 「……え、ええ。選ばれし勇者が魔王を倒し、世界を救う物語です」 それを聞いて、エノレアさんは嬉しそうな、だけど少し寂しそうな顔をした。 「夫や息子がそういうの大好きだったわ」 「――あ、ごめんなさい」 そう言ったのは私だ。触れてはいけないことに触れてしまったような気がして。事情を知らないアルに代わって謝らなくてはと思った。 「いいのよぉ、気を遣わなくて。カリーナちゃんは優しいわね」 と言って笑顔を作るエノレアさん。元気そうに見えるけど、彼女のほつれた髪や目の下の隈を見ると、無理してるんじゃないかと心配になる。 というのも、私は彼女が一人でこの店を切り盛りするようになった経緯を知っているからだ。 元々この店は、エノレアさんが旦那さんと始めたものだ。夫婦でパンを作り、二人で売る。幼い子は愛らしく、看板息子と呼ばれていた。まるで絵に描いたような、幸せと笑顔を振り撒く評判のパン屋さんだった。 それが変わってしまったのは、ちょうど去年の今頃。小麦の仕入れに行ってた旦那さんと息子さんは、帰路の途中で崖崩れに巻き込まれ、帰らぬ人となった。記録的な豪雨があった翌日の出来事だった。 あの頃のエノレアさんが、どれだけ取り乱していたか。家族を愛してたが故の深い悲しみだった。しばらくの間お店を休んでいたから、このまま閉店してしまうものだと思っていたけど、月の満ち欠けが二巡した頃、意外にも彼女は店を再開させたのだった。 「大丈夫よ。今はこの店を続けていくのが私の生き甲斐だから」 彼女は遠くを見る。そちらの方角には共同墓地がある。今は亡き家族が眠る安らぎの丘だ。 「そうですか……」 としか私は言えない。愛する家族を失った人に、掛けられる言葉なんてなかった。 しんみりした雰囲気の中、事情を知らないアルは首を傾げる。事情を知ってるはずのシエナさんは、黙々とパンを口に運んでいた。 「ごちそうさま。美味しかったわ」 最後の一欠片を口に放り込むなり、銀髪の彼女は席を立つ。こころなしか急いでいるように見えた。 「ありがとう。また来てね」 「ええ。――カリーナ、アル、さっさと行くわよ!」 「え、ちょっと待って下さい⁉」 私、何かいけないことしたんだろうか。早足で歩くシエナさんには、なんとなく聞き辛かった。 演算協会の本部庁舎に入るには、それなりの手続きを経なければならない。〈演算〉を使用するには協会の許可が必要で、その使用方法は一般公開されていない。そうなると必然、〈演算〉の情報が行き交う協会では部外者の立入りが制限されることになる。 アトランティデの国民でさえ簡単に入れないのだから、『外の世界』から来たアルは当然ながら足止め。シエナさんの権限をもってしても、例外は認められないようだった。 「あのー、ちょっといいかな」 入庁許可が下りるまでの待ち時間に、アルが話しかけてきた。 「僕、これからどうなるの?」 「元の世界に帰すわ」 「どうやって?」 「〈演算〉によってこの世界に転送されたなら、〈演算〉によって帰す。それだけのことよ」 「え、そんなに簡単なんだ……」 何故かアルは残念そうだ。 「ところがね、簡単には済まないのよ」 溜息をつくシエナさん。 「いくら私でも、人間を遥か彼方まで転送できる〈演算〉をそう易々とは使えないわ。しかもこの大陸を囲む結界を越えさせるなんて、相当複雑な式を組まなきゃならない。一体、誰がこんなことしたのかしら」 後半部分はボヤきと好奇心が入り混じっていた。 「だから〈フェデリコ大全〉の力を借りようってわけ」 「でもそれ、盗まれたって」 アルは無実の罪を着せられた経緯を知っているようだ。牢獄でシエナさんから聞かされたんだろう。 「盗まれたなら取り返す。じゃなきゃあなた、帰れないでしょ?」 「別に僕は帰れなくても……」 アルの反応は意外だった。見ず知らずの地に飛ばされ、なおかつ拷問されそうになって。それでもこの地に居続けたいと思うのは何故だろう。 「ご両親とか、心配しません?」 私も話に参加。アルは困ったような笑顔でこちらを見る。 「僕、勘当された身だしね」 そういえばそうだった。 「それよりも今は、この国のことを知りたい。だってここは、僕が探し求めていたアトランティスなんだから」 「『せっかく憧れのアトランティスに来たのに』そう言ってたものね」 牢獄での一場面が甦る。あの時アルが叫んだ言葉にはそういう意味があったのか。 「そう。だからまだ帰りたくないんだ」 真剣な目で彼は言う。興味ある事にはのめり込む、そんなところがシエナさんにそっくりだ。案外この二人、お似合いなのかもしれない。 「君が責任ある立場なのは何となく分かる。足手まといにならないよう気をつけるよ。何でもやるから、もうしばらくこの地に居させて」 彼の熱弁を聞いて、シエナさんは思うところがあったようだ。しばし沈黙してから、彼女は口を開いた。 「それだけ言うなら仕方ないわね。だったら私の調査に付き合って貰うわよ」 アルの顔が、ぱあっと輝いた。 「ただし」 シエナさんは釘を刺す。 「〈フェデリコ大全〉を見つけたら、あなたには元の世界に帰って貰う。この地で過ごした記憶を綺麗さっぱり消去してね」 「それって……」 思わず抗議の声を上げたくなるほど、出された条件は厳しいものだった。 「あなたに罪は無いけど、仕方ないの。この大陸の情報を『外の世界』へ持ち出されるわけにはいかない。こちらの世界を造り上げた七賢人――特にフェデリコ様の願いを裏切る訳にはいかないから」 「それは僕が住む世界に侵略されるかもしれないから、という意味かな」 アルは真面目な顔だ。 「そうよ。この国はあなたの住む世界と違って、長らく平和が続いてきた。それは『外の世界』で迫害を受けて避難してきた、私達の祖先の願いでもあるの」 「……なるほど、段々この国の成立過程が分かってきた。確かに旧教が犯してきた過ちは見過ごせない。それに今や大国が海の向こうで新たな領地を獲得しようとやっきになってる。この大陸の存在が知られれば、その競争に巻き込まれてしまうだろうね」 と言ってアルは目を伏せた。自分はどうするべきか考えてるんだろう。 「この大陸を安寧の地にしたい、それが君の願いなんだね」 シエナさんは頷く。 「それが〈白演算士〉としての使命だと考えてるわ」 「解った。それなら君の条件を呑もう」 アルは決断したようだ。 「本当にいいんですか? 記憶、消えちゃうんですよ?」 「構わないさ。僕は、この国――アトランティスが楽園だと信じて探し求めてきたんだ。憧れの地は、いつまでも憧れの地であって欲しいから」 「ここで体験したことを、ずっと胸にしまっておくだけじゃ駄目なんですか?」 シエナさんは首を横に振る。 「僕のことは気にしないで。彼女は、危険因子をできるだけ排除したいだけなんだ」 代わりにアルが答えた。思った以上に彼の意志が固いので、私は引き下がるしかなかった。 ……まったくこの似た者同士は。揃いも揃って頑固なんだから。 「そういうことなら、私は何も言いません。その代わり」 私は長椅子から立ち上がって、二人の正面に立つ。 「どうせなら、この世界や〈演算〉のこと、全部アルに話しちゃいましょう。調査には予備知識が必要ですしね」 「いいわね。じゃあ任せたわよ」 鉄面皮の彼女がほんの少し、砂糖一粒ぶんだけ笑ったような気がした。 この国が成立したのは約五〇〇年前。当時、〈魔法〉〈錬金術〉〈魔女術〉――呼び方は様々だけど、不思議な力を使う人々は邪悪な力を行使する者として恐れられ、時の権力者と民衆から迫害を受けていた。そんな状況を打開すべく立ち上がったのは七人の実力者。彼らは力を結集させ、大海原に大陸を浮上させた。その大陸こそ、アトランティデなのである。 「――というのが伝説として残ってまして。以来、この国は単一国家として長く栄えてきたようです」 大陸を浮上させたとされる七人の実力者は、今では七賢人と呼ばれている。この中で最も国に貢献した人物として今なお根強い人気を誇っているのが、フェデリコ=イル=グランデことフェデリコ様。かの賢人が高い支持を得ている理由は二つ。一つは初代国王となった人物が暴君に成り果てた際、民衆を率いて立ち上がったこと。もう一つは〈魔法〉という曖昧な概念と技術を体系化し、〈演算〉として確立、断片的だった記録を編纂したことだった(このとき作られた書物が後に〈フェデリコ大全〉と呼ばれる)。 「〈演算〉とはどういうものなんだい?」 アルは優秀な生徒だ。話の流れをうまく誘導してくれる。 「協会では〈演算〉を『数値の計算結果によって引き起こされる現象あるいはその技術』と定義しています」 「数値?」 「はい。たとえばアル、あなたにはアルベルトという名前があり、私にはカリーナという名前がありますよね」 彼は頷く。 「それと同じように、あらゆる物には決まった数値が与えられているんです。これを私達は〈固定数値〉と呼んでいます」 「私達が座っているこの椅子には、77318という数値が付与されているわね」 すかさずシエナさんが補足してくれた。私には〈固定数値〉が見えないので助かる。 「かたや、固定されていない数値もあります。たとえば暖かさや明るさなど、その時の状況によって変動する数値。これが〈変動数値〉です」 シエナさんが朝に飲んでいたコーヒーの温度なんかもそうだ。〈変動数値〉なら私にも見えるので、いま私達がいるこの部屋の温度が92だと分かる。 「その二つをどう計算するの?」 「〈演算〉には四つの基本公式がありまして、それぞれ〈土の公式〉〈水の公式〉〈風の公式〉〈火の公式〉と呼ばれています。これらに〈固定数値〉と〈変動数値〉を当てはめて計算するんです」 ちなみに、それぞれの公式の内容までは私も知らない。これは計算を行う〈演算士〉のみ、学ぶことが許されている。公式がわかれば誰にでも式が組み立てられてしまうので、〈演算〉を使う人間の管理が難しくなるからだ。 「ただ計算といっても、そんなに単純なものじゃありません。〈演算〉によって想定通りの結果を出す為には、式に〈補正数値〉を組み込んで調整する必要があるんです」 この調整に失敗すると、たとえば焚き火程度の火が出せればいいところを、街全体が焼失するような炎を出してしまう場合もある。どういった〈補正数値〉を式に組み込むかは〈演算士〉の知識と経験、あとはセンス次第。ここが一番実力差の出るところでもある。 「〈演算〉を発動させる条件は解った。じゃあ、どうやって発動させれば?」 「自分で組んだ式を計算して、その答えを発声するんです」 「まるで呪文だね」 「私達はそれを〈解〉と呼んでいます」 ここまで話したら、あとはオマケみたいなもの。〈固定数値〉が見える人は〈解読士〉と呼ばれ、〈変動数値〉が見える人は〈観測士〉、計算して〈演算〉を発動させる人が〈演算士〉だ。〈演算士〉はいずれの数値も見えないので、式を組むには〈解読士〉と〈観測士〉の力を借りなければならない。だから協会では、基本的にこの三者を一つの班として行動させている。 「あれ、彼女は?」 アルは〈演算士〉に関する説明を聞いて、違和感を覚えたらしい。シエナさんも区分で言えば〈演算士〉に含まれる。なのに彼女は〈固定数値〉も〈変動数値〉も見えるのだ。 ……ふっふっふ、やっと気づいたか。彼女の凄さに。 「ええ。彼女は特別なんです」 シエナさんは〈固定数値〉と〈変動数値〉の両方が見え、かつ驚異的な計算力(しかも全て暗算でやってしまうのだから恐れ入る)を持つ存在なのだ。アトランティデの歴史が始まって以来、百年に一人の逸材。初代のフェデリコ様から数えて五人目となる〈白〉の称号が与えられた〈演算士〉、それが彼女なのである。 「説明は以上です。質問はありますか?」 一気に喋ったので少し興奮気味だ。協会の指導担当者みたいな聞き方をしてしまった。 「じゃあ」 と言ってアルが座り直した。彼の知識欲が刺激されているようだ。 「〈演算〉は数値の計算結果を口にすることで発動するそうだけど、計算間違いをしたらどうなるの?」 いい質問だ。 「その場合は、想定外の結果が起きます。例えば、別世界から人間を召喚してしまうような」 アルの身に起こったことを引き合いに出したけど、案外その通りなんじゃないかと私は推測している。 「それは大変だね」 「だからそうならないよう、演算協会では〈演算〉を管理し、使用できる人間を制限しているんです。その他には、〈演算〉の誤発動や悪用、無許可での使用を取り締まるのも協会の仕事です」 やることは治安調査隊と似ているけど、あちらは国家機関、協会は民間組織だ。なぜ民間組織なのかというと、それはフェデリコ様が民衆を率いて国家権力と戦った歴史に由来している。 「ありがとう、よく解った」 アルが微笑む。私の答えに満足したようだ。 「それにしても驚いたよ。君、優秀なんだね」 アルは感嘆の溜息を漏らす。 「いやいや、それほどでも」 褒められ慣れていないので照れてしまう。 「失礼、君のことはただのお手伝いさんだと思ってた。謝るよ」 ……って、そりゃないでしょ。確かに〈変動数値〉が見えるシエナさんには〈観測士〉としての私は必要ない。私が彼女と組んでいるのは、お世話係としてだから、アルの言うことも間違っていないんだけど。 「あら、ようやくおでましよ」 シエナさんの視線に合わせて顔を向けると、二人の男性がこちらへ歩いてくるのが見えた。一人は入庁手続きを処理してくれた事務員さん。 もう一人は協会の〈観測士〉、新任指導担当者のマウロ氏だった。 シエナさんはアルの入庁許可を取るついでに、〈フェデリコ大全〉の保管庫へ入れるよう手続きしてたみたいだ。事件の調査が目的だから、現場を見に行くのは当然と言っていい。それにしても解せないのは、〈観測士〉になったばかりの子たちの指導担当者を、地下通路の案内役として呼びつけたこと。マウロ氏もそこが引っかかるようだった。 「なぜ私を呼んだ」 マウロ氏はいつもこんな風にぶっきらぼうな話し方しかしないので、機嫌がいいのか悪いのか分からない。〈観測士〉の正装は青色のローブとされているけれど、彼のローブは年月を経て黒っぽく変色している。暗闇の中だと、黒いローブが正装の〈演算士〉と見分けがつかなそうだ。 「なぜ、ってことはないでしょう。あなた、事件があった日は鍵当番だったじゃない」 シエナさんは疑っていることを隠しもしない。 マウロ氏は垂れ下がった前髪の隙間から、白いローブ姿の彼女を一瞥する。陰気で冷たい目だった。 「保管庫が解錠されたから、私を疑っているのか。鍵は何者かに盗まれたと報告したはずだが」 「知ってる。だけど機密文書を守るには随分とぞんざいな扱いをしたものね。執務机の引き出しに入れたままにしてただなんて」 保管庫の鍵は、協会の要職にある者が日替わりで肌身離さず持ち歩くことになっている。そうすることで、外部の人間が鍵の保管場所や管理者を特定できないようにしているのだ。これの他には、地下通路の警備に当たっている治安警備隊の中にも保管庫の鍵を持っている人がいる。保管庫を開けるにはこの二本の鍵が必要で、一本はマウロ氏が席を外している間に盗まれ、もう一本は薬で眠らされた隊員の手から奪われたのだという。 「お前は私を責めに来たのか?」 〈演算〉の最高峰〈白演算士〉をお前呼ばわりとは。彼の怒りは余程のものらしい。 「いいえ。ほら、前見て歩かないとぶつかるわよ」 シエナさんは動じない。マウロ氏は舌打ちすると前を向き、地下通路を進んだ。 こげ臭い匂いが漂っている。報告によれば、この地下通路の出口付近で謎の爆発が起きたという。巻き込まれた治安警備隊はひとたまりもなかっただろう。 「私を疑っているなら見当違いだ。保管庫の中へ入れたとしても、保管箱を開けることはできない」 そうして案内されたのが保管庫だった。広さは大人四名が入ると窮屈な程度。四方の壁は塗り固められ、侵入できる隙間は無い。部屋の奥にチェストほどの保管箱が置いてあり、厳重に鎖が巻かれていた。 鎖の普通と違うところは、どこの部分にも端がないこと。つまり鎖を巻いた後で、両端を〈演算〉によってくっつけたのだ。 「この通り、この鎖を解くには〈演算〉を使わねばなるまい。〈観測士〉の私には無理な芸当だ」 マウロ氏の言う通りだ。保管箱を開けるには〈演算士〉の計算力が必要となる。 「それとも、中の書物を外に転送させて盗み出したとでも言うのか?」 相手が鼻で嗤う。 「それは無いわね。〈フェデリコ大全〉は〈演算〉の干渉を受けないよう処理が施されているもの」 これは、フェデリコ様が将来の盗難防止に向けて施したものだと言われている。長年に亘って研究されてきたけど、不干渉処理を解く方法は未だに発見されていない。 「あと、〈演算士〉じゃないから〈演算〉が使えないというのは誤りよ」 まさか〈白演算士〉からそんな言葉が出るとは思わなかった。〈演算〉の根幹を揺るがす発言だ。 「〈演算〉はあくまで〈固定数値〉〈変動数値〉〈補正数値〉と四つの公式を組み合わせた計算式の結果に過ぎない。つまり数値と公式が分かっていれば、あとは計算力の問題でしかないのよね」 いやいや、そんな高い計算力、普通の人にはありませんって。百桁同士の掛け算を難なくこなせるシエナさんは感覚が麻痺しているようだ。先天的な能力を持つ〈解読士〉や〈観測士〉と、訓練によって計算力を高める〈演算士〉とは、根本的に能力の質が違う。 「その点、〈灰色〉を目指していたあなたなら可能なんじゃない? 鎖を解いて、また元通りに繋ぐなんてこと」 「……なぜそれを」 初めてマウロ氏が動揺を露わにした。彼は目を見開き、シエナさんを凝視していた。 「事前に職員の情報は確認しておいたわ。あなたは〈観測士〉だけど、〈演算士〉としての訓練も受けたことがあるそうね」 確かに時々いる、そういう人が。シエナさんみたいに、生まれつき〈固定数値〉と〈変動数値〉の両方を見る能力を持つ人は稀だけど、どちらかを見る能力がある人は珍しくない。また〈演算士〉の計算力は訓練によって養われるものなので、後天的に得られる能力といえる。だから〈観測士〉兼〈演算士〉は理論上可能だ。そうした人々は、〈白演算士に一歩及ばない演算士〉という意味で、〈灰色〉と呼ばれたりする。正式な称号ではないけれども。 「これ以上は深入りするな。忠告だ」 そう言い残して、マウロ氏は保管庫から出ていった。 案内役のいなくなった保管庫で、シエナさんは天井を見上げる。そしてこう呟いたのだった。 「まずいことになりそうね……」 その後。 私達は地下通路の出口付近を調査した。火災の現場と見紛うほどの有様で、炭化した物体がそこかしこに転がり、壁や天井には真っ黒な煤がこびりついていた。そんな現場を見渡すと、劣化した数値の断片が数多く見られた。残存数値が確認されたことで、〈演算〉が使用されたのが確定的に。加えて、出口では賊が転送の〈演算〉を使おうとして失敗した痕跡も認められた。これによってアルがアトランティデに転送されてきた原因が特定されたのだった。 以上の報告をまとめて協会に提出したのが昨日の夜。そして協会長直々の呼び出しを受けたのが今日の夕方。事態は厄介な方向へと動き出したらしい。 「治安調査隊に調査を委任するって、どういうことですか⁉」 つい、大きな声を出してしまった。目の前にいる方がパトリツィオ協会長だったことを思い出し、慌てて引き下がる。 「し、失礼しました」 協会長は執務席に腰掛けたまま頷く。長い白髪に白髭。高齢ながら、未だ目には強い意志の光が灯っている。最高責任者らしい威厳と風格を兼ね備えた人物だった。 「十人委員会からの要請ですか」 シエナさんは静かに言う。声色に驚いた様子は無かった。もしかしたら彼女は、こうなることを予想していたのかもしれない。 「そうだ。こうなると演算協会としては受け入れざるを得ない。我々の活動を制限されるわけにはいかんのでな」 演算協会が民間組織である以上、十人委員会には逆らえない。その後盾はこの国の政治を担う大評議会、つまり国民の代表者たちだ。 「カッシオの仕業ですね」 シエナさんは淡々とした口調だ。 「おそらくな。君たちの調査結果を十人委員会に報告したところ、内部犯の可能性を指摘された。すると司法局から『演算協会による自主調査では、不祥事が揉み消される恐れがある』との意見が出てな。結果、本件は第三者機関――つまり治安調査隊による調査が妥当ということになった」 ……ああ、そうか。シエナさんが言ってた「まずいこと」って、こういうことだったんだ。 「そうですか。ところで〈フェデリコ大全〉はまだ見つかっていないのですか」 協会長は咳払いをする。物事が思うように進まない時の苛立ちを感じているようだ。 「まだだ。君が調査権を取り戻して以降、可能な限り人手を割いて捜索してきたのだが、見つかったという報告は上がってきていない」 協会長の苛立ち(それとも焦燥感?)に共感したのか、シエナさんも派手な溜息をつく。事件発覚から未だに〈フェデリコ大全〉の行方が分からない、これほど不安なことは無いだろう。今、誰が保管し、何に使おうとしているのか。分からないことばかりなのが、余計に不安を煽る。治安調査隊は、本件が単なる古文書の強奪事件ではないことを理解しているんだろうか。 「捜索は今後どうなりますか」 「継続だ。もっとも、治安調査隊に協力するという名目だがな」 主体は変われども、やれることはやる。協会長の口添えで、事件との関わりを絶たれるまでには至らなかったようだ。 「以後演算協会は、治安調査隊から協力要請があった場合にのみ、本件の調査に加わることになる。無許可の行動は処罰の対象になるそうだ」 処罰の可否は十人委員会が決めることなので、協会長は協会の職員を守る為には自粛を促すしかない。協会長としても辛いところだろう。 「解りました。では失礼します」 「待ちなさい」 退室しようとするシエナさんを協会長が引き止めた。叱責のような厳しさは無く、別の要件があるような声の雰囲気だった。 「何か」 彼女の無表情は相変わらず。静かに、怒りを抑えているようにも見えた。 「君に手紙が届いている」 「誰からですか」 協会長は机の上で手を組む。 「君のご両親からだ」 そのとき、シエナさんの片眉が跳ね上がるのを、私は確かに見た。 「え、ええと……私は失礼します」 シエナさんは幼い頃に、両親から引き離されて協会に連れて来られた。その経緯は私も知っているので、ここから先は聞いてはいけない気がした。 アルを入室させてなくて、本当によかったと思う。ここから先は、シエナさんにとってごく個人的なこと。知り合って間もない彼には、まだ聞かれたくないに違いない。 そそくさとその場から離れようとしたら、シエナさんに腕を掴まれた。 「あなたはいいの。残って」 背中越しなので、彼女の顔は見えない。だけど、頼りないものであってもすがりたくなる心情は理解できた。 「……はい」 私が元の位置に戻ると、協会長が話を再開した。 「今回はどうする?」 「受け取りません」 「そうか……」 協会長は椅子の背もたれに体を預ける。頑なな娘に手を焼いている父親のような顔をしていた。 「君が親元から離されて以来、誕生日を迎える度に届いている。しかし君は一度も受け取っていないな。何故かね」 「職責の自覚からです」 シエナさんの答えは短い。 「本当かね?」 協会長がグレーの瞳を覗き込む。シエナさんの無表情が、いつにも増して固くなった気がした。 「君を両親から離した――いや『奪った』と言うべきかな、それをしたのは私だ」 声には誠実な響きがある。 「幼い君の才能に気付いた私は、君のご両親を説得した。この子は将来、歴史に名を残す逸材になると言ってな」 協会長の目は確かだった。シエナさんは、歴代でも上位に来る実力の持ち主だと言われている。この若さなら、いずれはフェデリコ様に並ぶとも。 ……だけど。そう評価されることが彼女にとって幸せなのかどうか、私には分からない。 「あの時のことは、今でも鮮明に覚えている。まだ物事を理解できないはずの君も、ご両親と一緒に泣いていたな」 それまで共に暮らしてきた家族と、自分の意に反して離される。頭では理解できなくても、心では悲しいことだと解っていたはず。家族の食い扶持を減らす為に自分の意志で田舎から出てきた私には、シエナさんの辛さを理解してあげることが出来ない。 「それでも私は、ご両親を説き伏せ、君を連れ帰った。君に恨まれても仕方ないことをしたと思っている」 しばしの沈黙があった。 「私は……」 俯くシエナさん。前髪で顔が隠れたので、表情は見えない。 「恨んでなどいません」 「君のご両親は」 「もう、顔も覚えていませんし」 協会長の言葉を遮る強い口調。両親のことを言われるのが、まるで苦痛であるかのように。 「……大いなる力には大いなる責任が伴う。それを教えてくれたのは協会長です」 彼女が顔を上げた。いつもと同じ無表情だ。 「だから今は、顔も覚えていない両親に関わっていられません。私にはやるべきことがあるんです」 そう言ってシエナさんは協会長に一礼。踵を返してドアに向かった。 「あと」 退室する間際、彼女は思い出したように付け加えた。 「今の私にとって、協会は家族、協会長が親のようなものですから」 それがシエナさんの本音なのかどうか、私には分からなかった。 ――呑みに行くわよ! 合流するなり、シエナさんはそう言ってアルの首に腕を回した。腕を絡ませるなんてそんな色気のある感じじゃなくて、仕事終わりにおじさんが若者を無理矢理つれて行くような強引さがあった。 協会長の部屋で何があったのか知らないアルは戸惑っていたけど、並外れた美貌の持ち主に誘われて、まんざらでもないようだった。 酒場の真ん中にあるテーブル席に陣取り、シエナさんは正装のまま次々と酒をあおる。初めは遠巻きに眺めていた酔客も、近寄り難いと思ってた存在が意外に人間臭いことをすると知って、次第に声を掛けてくるようになった。 知らないおじさんと酒を酌み交わしたかと思えば、血気盛んなお兄さんと一気飲みの勝負をしてみたり。言い寄る色男には厳しい返事をして、体の線が強調された服を着ている娼婦とはスタイルの良さを見せつけ合っていた。そうしているうちに酒場は笑い声で溢れ、シエナさんは人気者となった。顔は相変わらずの無表情だけど、それが却って他の客に受けたらしい。 「なんだか、嵐のような時間だったね」 果実酒をちびちび飲みながら、アルが言った。彼は落ち着いて飲むのが好きらしく、まだ二杯目の途中だった。 私はお酒は苦手なので、果物の砂糖漬けを入れた湯割りを飲んでいる。 「そうですね。あんなシエナさん、初めて見ました」 当の本人は今、カウンター席で店主と何か話し込んでいる。愚痴でも聞いて貰ってるんだろう。今日は嫌なことがあったから。 「彼女はいつも重い責任を背負ってる。だからたまにはこうして発散するのもいいね」 ……あ、この人いいこと言う。彼女は自分の能力に見合った仕事を任せられているけど、思い通りにいかなかったり、重圧に押し潰されそうだったり、色々あるんだと思う。実力があるだけに、彼女にも辛いことがあるのだと気付かれにくいだけで。そう考えると、普段の生活がまったくダメなのは、背負うものが大き過ぎることの反動なんじゃないかと思えてくる。 「くっそ、あの野郎」 シエナさんが戻ってきた。だいぶ酔っているらしく、口調は乱暴だ。それでも表情が崩れないのはさすがというか。 「どうしたの?」 アルが笑みで返す。普通なら一歩引いても良さそうなところを、彼はシエナさんに近付こうとしている。見た目は変わらないけど、実は酔ってるんだろうか。 「カッシオのことよ。いつか仕返ししてやるわ」 調査権を奪い返されたのが、まだ尾を引いているらしい。 「あいつ、どうやって事件を解決するつもりなのかしら」 これだけ酔ってても、事件のことが頭を離れないらしい。 「結局、犯人は誰なんだろうね」 犯人と間違われた本人が問題提起する。私も少し考えてみることにした。 「今回、事件の現場では〈演算〉が使われてますから、まず疑われるのは演算協会の会員ですよね」 残念だけど、私の考えは十人委員会と同じ。もし同僚が犯人だったら、恥ずべきことだ。 「昨日の人は? マウロさんだったかな」 マウロ氏は最重要参考人だ。昨日から行方が分からなくなっているそうで、治安調査隊が血眼になって捜しているんだとか。 「立場的にも、能力的にも、一番有り得そうですね」 あと、言動も怪し過ぎる。姿は……まあ、いかにもという感じだけど。 ただ彼を犯人だと言い切れない要素もある。 「だとしたら、何の為にこんな事したんだろう?」 アルも気付いているらしい。そう、マウロ氏には動機がないのだ。 更に言えば、彼には残存数値が見られなかった。〈演算〉を使用した、又は使用されたなら体に残っているはずなのに。 「他の可能性は? たとえば〈白演算士〉を引退した人とか」 私は首を横に振る。初代から三代目までは故人だし、四代目つまり先代の〈白演算士〉はその重圧に負けて気が触れてしまったと聞く。以来、その消息は絶たれている。一説には、人里離れたところで亡くなったとも。 「その可能性は低いでしょうね。もしそうだとしても、理由が解りません」 「協会以外の人間の可能性はどうだろう。〈演算〉は数値と式が分かれば、あとは計算力の問題でしかないんだよね」 「無許可で〈演算〉が使用されたってことですか」 一理ある。協会から許可を取っていなくても、条件が揃えば〈演算〉の使用は可能。そうした無許可使用も、協会は取り締まっているので、実例はあるわけだ。 「外部犯だとしたら、保管庫の場所や鍵の在り処は分からないんじゃないですか」 「それもそうだね」 「あと、外部犯でも動機が不明なのは同じです」 「そっか……」 「何のために、ですね。本当に」 どう考えても、ここが行き止まりだった。 「治安調査隊はどう考えてるのかな」 報告書の内容をざっと思い出す。 「〈演算〉を使って国を支配する為、だそうです」 「国を我が物に、か。王権は神から授けられたものにあらず、しかし欲するは仕方なし、ってところか」 「何ですか、それ」 「この国で起こりそうなことが、将来『外の世界』でも起こるかもしれないと思ってさ。身勝手な国王を処刑しても、処刑した側がまた独裁をやりかねないなって。国のすべてが、何でも自分の思い通りになるって魅力的だから」 なんだか難しい話になってきた。 「アルも、その、独裁をやってみたいと思う?」 答えが肯定だったら怖いなと思いつつ。 「僕は遠慮するよ。その国に住まう人々に対して、一人で全責任を負うなんて。僕には重すぎる」 それを聞いて、ハッとした。シエナさんは〈白演算士〉という立場から、この国を安寧の地にする――国民の為に平和を守るという重責を一人で背負おうとしている。彼女はもっと、アルぐらいの気楽さがあってもいいんじゃないだろうか。 「僕が責任を負うとすれば、自分の事と」 そこで彼は、ちらりと横を見た。 「愛する人の事ぐらいかな」 え、今の何? もしかしてアル……あなたって。 「あれ、彼女寝ちゃった?」 さっきから静かだと思ったら、シエナさんはテーブルに突っ伏したまま寝息を立てていた。 「もう帰りましょう。起きて下さい」 私が揺り動かしても、まったく目覚める気配が無い。仕方なく体を起こしてあげると、整った寝顔が天井を向いた。 その時、彼女の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。かと思えば、普段の彼女からは想像できないほど、幼い声が漏れたのだった。 「……ママ……パパ……」 事件に動きがあったのは、それから三日後。治安調査隊から演算協会に協力要請が来た。 行方知れずだったマウロの潜伏先が判明したそうで、襲撃作戦に演算協会も加わって欲しいとのこと。相手は〈演算〉を使う可能性が高いので、対抗戦力として〈演算士〉が必要らしい。 治安調査隊は、昨日をもってマウロを本件の犯人と断定した。というのも、新任研修中の〈解読士〉から重要な証言が出たからだ。事件の数日前、彼とマウロとの間で密約が交わされた。その内容は、研修での高評価をマウロが指導担当者に口添えすることを条件に、鎖の〈固定数値〉を教えるというものだった。これで彼には、〈フェデリコ大全〉を盗むのに必要な条件が揃ったことになる。 「まさか調査じゃなくて、戦闘に参加させられるとはね」 現地へ向かう馬車の中で、シエナさんが言う。不安な様子は無く、むしろ久々に出番が来たことを喜んでいるようだった。 服はいつもと違う軽装。白いケープを羽織り、本来なら男性用のパンタローネを穿いている。動きやすさを重視した格好だ。 「私は仕方ないとして、アルも連れて来る必要あったんですか?」 私とシエナさんの向かいには、甲冑を着せられたアルが座っている。両手でメイスを握りしめ、かちゃかちゃ音を立てながら震えていた。 「だだだ、大丈夫。せ、せっかくだから見学、させて貰おうと、思って」 彼は自分の意志で来ているらしい。でも怖いことは怖いようだ。 正直言うと私も怖い。シエナさん付きの〈観測士〉でなければ、絶対に来たくなかった。 今回の作戦では、治安警備隊が前衛、演算協会は後衛を務める。シエナさんは後衛部隊の指揮官として現地入りすることになっていた。私達が乗る馬車の後には、六人乗りの馬車が五台続いている。それぞれに〈演算士〉〈観測士〉〈解読士〉が二個班ずつ、合計十個班。私達を含め、総勢三十ニ名(アルは含めない)の部隊だ。治安警備隊と治安調査隊は先を行き、現地で合流することになっている。 「さて、きっちり仕事するわよ」 シエナさんが髪を束ねる。早くも臨戦態勢だ。溜め込んでいたものを発散させる絶好の機会とでも考えてるんだろうか。 恐れと不安、軽い興奮を乗せて、馬車は現地へと向かうのだった。 旧農村部の一軒家、そこがマウロの潜伏先だという。辺りは麦畑の跡地らしく、広大な土地が荒れ放題のまま残されている。今では穂を付けた小麦の代わりに、腰丈ほどの枯れ草が群生していた。 現地に到着するなり作戦会議が始まった。作戦会議にはカッシオも同席。シエナさんに「よろしくお願いしますね」とは言うものの、それが「しくじるなよ」に聞こえるのはさすがに邪推か。演算士部隊の指揮を一任したのは、シエナさんへの信頼というよりは、作戦に失敗した時、全責任を押し付ける為なのではないかと勘ぐってしまう。 そうして太陽が最も高い位置に来た頃、治安警備隊による投降勧告が開始。これに相手が応じれば身柄拘束の後、連行。でなければ実力行使だ。 大隊長による呼びかけにも、一軒家からは応答がない。甲冑姿の隊員たちは武器を手に、突撃命令を今か今かと待ち受けていた。無理もない、彼らにとって今回の襲撃は、地下通路で死傷した仲間たちの仇討ちに違いないからだ。 と、そのとき私は気付いた。 「気温の数値が変動しています!」 一軒家の周囲で、気温を示す〈変動数値〉がみるみる上昇していく。熱源が発生したのだ。 「大人しく捕まる気はないってことね」 シエナさんが腕を組む。 「カリーナ、数値をそのまま読み上げて」 「はいっ」 上昇し続ける数値。相手は既に計算を始めているらしい。〈火の公式〉を使った攻撃が、間もなく飛んでくる。 「一班から五班は〈水の公式〉、状況八。六班から十班は〈土の公式〉、状況十二。一斉に、計算始め!」 シエナさんが命令した。と同時に、彼女の前で陣形を組んでいる〈解読士〉と〈観測士〉が、それぞれの数値を〈演算士〉に伝える。計算が開始され、済んだ者から順に挙手して指揮官に準備完了を知らせる。〈演算士〉の計算力には個人差があるので、一斉発動させるときはこのような方法を取るのだ。 十ある班のうち、七つの班が計算完了。しかしまだ発動させるには至らない。 「数値の変動が止まりました!」 まずい、相手のほうが先に計算完了したようだ。 「来ます!」 シエナさんに報告しながら鼓動が跳ね上がる。一軒家の上空に、炎の塊が出現した。大地を焼き払うつもりだ。 放たれた。炎の塊は一直線にこちらへ向かってくる。まるで太陽が墜ちてくるようだった。 「802765――」 シエナさんの口から滑り出す数値。部隊の最前線で炎の塊が跳ね返される。その反動で強い風が吹き、私たちの髪をなびかせた。 早い。相手の攻撃が放たれてから瞬時に〈風の公式〉を使って式を組み上げ、計算し、発動させるなんて。二種類の数値が見え、かつ異常なまでの計算力を持つシエナさんにしか出来ない芸当だ。 跳ね返された炎の塊が地面に落ち、枯れ草に着火する。途端に炎は燃え広がり、部隊が灼熱の壁で包囲された。 じりじりと肌が焼け付くような熱さの中、ようやく全員の〈演算士〉が挙手した。 「一班から五班、一斉に放て!」 〈解〉が発声される。発動の機会を同時にする為、末尾の一桁を合わせていた。 〈水の公式〉を使った〈演算〉が発動、大地に洪水のような水流を発生させ、枯れ草の炎を一気に消火する。 「六班から十班、一斉に放て!」 続いての命令。大地が震え、治安警備隊を含めた全部隊の足元が上昇する。シエナさんは〈土の公式〉を使い、部隊にとって水流の影響を受けない安全地帯と、目的地までの橋を作らせたのだ。 「警備隊、前へ!」 舞台は整った。治安警備隊が大隊長の命令で一軒家に突撃する。耳が痛いほどの歓声が響いた。 「地面の数値変動。〈土の公式〉です!」 負けじと私も大声で報告。一軒家から少し離れたところで、地面の盛り上がりを視認した。こちらへ向けた攻撃ではないようなので、相手の意図が見えない。 「逃走経路ね」 シエナさんが気付いた。なるほど、相手は〈演算〉で地下に通路を作るつもりか。 「全班、〈土の公式〉及び〈水の公式〉、状況二十。一斉に、計算始め!」 シエナさんは二つの公式を組み合わせて、一軒家周囲の地下に壁を埋め込むつもりだ。壁で地下通路を塞げば、逃げ道は無くなる。 複雑な式だけど、さすがは精鋭揃いの〈演算士〉たち。全員が挙手するまでには、それほど時間はかからなかった。 「全班、一斉に放て!」 巨人が地面を踏み鳴らすような音が響き渡り、一軒家の包囲が完了する。唯一の入口から、治安警備隊の先鋒部隊がなだれ込んだのは、その直後だった。 やがてラッパを吹く音が聞こえた。制圧完了の合図だ。 「やりましたね!」 シエナさんに笑顔を向ける。彼女は額に浮かんだ汗を拭いながら、達成感に満ちた声で答えた。 「私を敵に回すには百年早いのよ」 一軒家はかなり前から使われていないらしく、近くで見ると壁の至るところにヒビが入っていた。 治安調査隊から許可が出たので中へ。天井近くの梁や古びた調度品には蜘蛛の巣が張っていて、人が生活していた痕跡は見られない。 一部を除いては。 「ここね」 カッシオの部下に案内され、シエナさんは食卓のある部屋に入った。この部屋だけが綺麗に掃除され、簡易ながらも寝床が用意されていた。食卓には水差しと食べかけのパン。しばらくの間、ここで潜伏していたことが窺える様子だった。 部屋の主は、食卓の奥に座っている。やつれた顔のまま動かない――マウロだった。 「死んでいます」 カッシオがマウロの首筋に触れて言った。 「逃げられないと分かって、服毒したのでしょう」 食卓には木を削って作られたカップが置いてある。中には赤黒く濁った水。それと同じ色の血が、マウロの口から流れ落ちていた。 「残存数値が見えるわね」 死体には、さっきの戦闘で使われた〈演算〉のものと思われる数値が。 「まだ時間が経ってないから、数値がはっきり見えるわ。間違いない、さっきの戦闘の痕跡よ」 シエナさんが断定した。これを聞いてカッシオが嬉しそうな顔をする。 「やはりこの男が犯人でしたか。これで事件は解決ですね」 「〈フェデリコ大全〉はどこに?」 部下に後始末の指示を出し始めたカッシオに、私から問いかけた。犯人が分かればいいというものじゃない。 「ありました!」 マウロの足元でしゃがみ込んでいた調査員が声を上げる。拾い上げたものを私に示されたので、シエナさんに確認を頼んだ。 「ええ、まさにこれよ」 焦げ茶色の革表紙に、フェデリコ様のものであることを示す〈羽ばたく二羽の鳩と盾の紋章〉が描かれていた。自由と平和、強権への防御を表す紋章だ。 「この男が持っていたのでしょうね。死亡により脱力して、足元に落ちた。こんなところでしょう」 念の為、私も食卓の下を覗いてみた。マウロの足元にはパンの食べかすと、焼け焦げた紙片が幾つか。建物の中でどうして紙を燃やしたりなんかしたんだろう? 「とにかく、これで全て解決です。さあ、本部に戻りましょう」 カッシオの足取りは軽い。いかにして自分の手柄を強調して報告するか、今のうちから考えているんだろう。 波が引くように、治安調査隊は建物の外へ出て行く。〈フェデリコ大全〉は手土産扱いなのか、返して貰えず。シエナさんや演算士部隊への労いの言葉は一言も無かった。 ……この仕打ちは酷い。 肩を落とす私の背後で、誰かの声が聞こえた。 「〈白演算士〉殿、この度は作戦への参加、部隊を代表して御礼申し上げる」 振り向くと、治安警備隊の大隊長がシエナさんに話しかけているところだった。 「ジルド中隊長も、あの世できっと喜んでいるだろう。彼も、彼の部隊も、私にとっては家族同然だ。直接の仇討ちを果たせなかったのは遺憾だが、事件解決は喜ばしきこと。重ねて感謝の意を表する」 大隊長はシエナさんに敬礼すると、部下を引き連れて退室した。そんな彼らを見送りながら、シエナさんは溜飲を下げたようだった。 「司法局にもマシな人はいるのね」 マウロの死亡が確認されてから七日後、ようやく〈フェデリコ大全〉が演算協会に返還された。 もう用済みになったからだろう、そんな風に考えてしまうのは、きっと今日が治安調査隊の功績を讃えるパレード当日だからだ。 噂では、カッシオがこれでもかというぐらい誇張して報告を行なったらしい。彼の人となりを知っていれば騙されるはずがないのだけど、政治力に長けた彼は人前で演じることに慣れている。彼の功績にしか目を向けていない十人委員会も、やはり目が節穴だとしか言いようがない。 結果、本件はカッシオ率いる治安調査隊の尽力により解決されたことになり、かたや演算協会は要職の者が不祥事を起こしたということで、世間から冷たい目を向けられるようになってしまった。 首都ではお祭り騒ぎの中、大通りを馬車の列がゆっくりと進んでいる。馬車には着飾った治安調査隊の面々が乗っていた。先頭のカッシオは白い詰襟服に身を包み、作り笑顔で見物人に媚びを売っている。これを足掛かりに、大評議会の議員にでもなるつもりだろうか。 私達は、大通り沿いにあるカフェのテラス席でパレードを眺めていた。今日はエノレアさんの店が臨時休業なので、別の店で昼食を摂ることにしたのだ。 「間抜け面もいいところね」 シエナさんが痛烈に皮肉る。カッシオのことだ。 「まあ、いいじゃないか。事件は解決したんだし」 呑気にコーヒーを飲みながら、アルが言った。 「実はそうでもないのよ」 溜息をつくシエナさん。 「〈フェデリコ大全〉が見つかったのは確かだけど、一部のページが破られてたのよね」 「え、そうなの?」 アルの声が裏返る。彼にはまだ説明していなかった。 「現場に焼け焦げた紙片が落ちてたから、治安調査隊は『何らかの理由でページを破いて燃やした』と結論づけたんだけど、それじゃ納得できないのよね」 シエナさんはコーヒーを口に含む。 「そうなんです。カッシオ管理官は『追い詰められた犯人が衝動的な行動をするのは当たり前です』なんて言うけど、どうにも」 「そっか。で、破られたページには何が書いてあったの?」 「前後の内容から推測するしかないけど、『元に戻す』『遡る』『再生する』ってところかしら。あとは〈変動数値〉の法則性に関するものとか」 私も今まで知らなかったけど、〈変動数値〉には法則性があるらしい。フェデリコ様はそれに気付いていたから記録に残した。ただこれを知られると誰でも〈演算〉が使える可能性が高まってしまうので、協会内部でさえ公にはされていなかったようだ。 「そう……。ところで疑問なんだけど、犯人はどうして地下通路を逃走する時と戦闘時に、〈演算〉が使えたのかな?」 「マウロ氏は〈観測士〉ですし、その上〈演算士〉に必要な知識と計算力を兼ね備えてました。だからあとは〈固定数値〉を知ることができれば〈演算〉を使えたはずです」 そして彼の手元には、最高の『道具』があった。 「〈フェデリコ大全〉に、主要な〈固定数値〉の一覧が載ってたのよ。それを見れば条件が揃うわけ」 「なるほど」 アルがポンと手を叩く。 「じゃあ転送の〈演算〉も、〈フェデリコ大全〉を見ながらやったのかな」 「でしょうね。自分が遠くに逃げようとしたものの、焦りからか計算を間違えて、あなたを転送してしまったと」 「そういうことだったのか」 彼は何度も頷いた。分からなかった事が分かるようになる過程に、快感を覚えるのはさすが学者の息子ってところか。 「あ、待って。まだ分からないことがあるぞ」 「今度は何ですか」 アルが子供みたいにはしゃぐので、私は吹き出してしまった。 「誰が犯人の食料を用意してたんだろう?」 「「⁉」」 私とシエナさんは、顔を見合わせた。 言われてみれば。 マウロが行方をくらませて以来、彼がどこかで買い物をしたという目撃情報は出ていない。他人の家から盗み出す、あるいは強奪した場合は治安調査隊が気づくだろうし。そもそもお尋ね者となれば、そうやすやすと人前に出る気にはなれないだろう。 じゃあ、誰がパンと水を用意したのか。 ――答えは一つ。協力者がいたのだ。 雷鳴。 今のは頭の中で響いたんじゃない、遠くから聞こえたものだ。 音がしたのは墓地の方角。死者が眠る安らぎの丘だ。 見上げると、墓地の上空で分厚い雲が渦を巻いている。空は青紫色に染まり、只事ではないことが一目で分かった。 幾筋もの雷光。まるで邪悪な何かがこの大陸に降りてくるようだ。パレードに歓喜していた人々は逃げ惑い、不規則な人の波を作る。こうして街は、混乱のるつぼと化した。 大地は震え、豪雨が降り注ぐ。瞬く間に水位はくるぶし程。街の建物が押し流されるのも時間の問題だ。 私は、この世の終わりを予感した。 「行くわよ!」 シエナさんが動いた。パレードで使われていた屋根なしの馬車に乗り込み、馬の手綱を引く。反射的に、私とアルも走り出した馬車に飛び乗った。 雨粒が顔に当たる。痛いほどだ。目を開けるのがやっと。 「114376――」 馬を操りながら、シエナさんが〈演算〉を発動させる。地面が盛り上がり、墓地への一本道ができた。マウロとの戦闘で使った方法だ。 墓地が見えてきた。 墓地の中心で、青白い〈変動数値〉が渦を巻きながら立ち昇っている。いや、それだけじゃない。地面からも、木々からも、風からも。目で捉えきれないほどの数値が視認できた。 落雷。 運悪く私達の目の前を、雷光が直撃した。あまりの轟音に、耳が聞こえなくなる。そうと分かった瞬間、馬車が横転した。 私達は投げ出され、シエナさんが作った一本道からも落ちていく。 体の中身が空中に置いていかれるような感覚。ぎゅっと目を瞑る間際、必死に口を動かす銀髪の彼女が見えた。 衝撃――は無い。代わりに浮遊感が体を包んでいた。 目を開くと、私達三人は宙に浮いていた。 「今のはさすがに焦ったわ。計算速度に関しては過去最速だったんじゃないかしら」 シエナさんは〈風の公式〉を使ったんだろう。私達は風に乗り、嵐の中を突き進む。墓地に辿り着いた時には、一つの墓碑を除いて、その全てが倒れていた。 唯一残った墓碑はフェデリコ様のもの。ひときわ大きなそれは、自ら作ったこの国の終わりを見届けるかのように鎮座していた。 「あれは……?」 人影が見える。逃げ遅れたのか、女性が一人、取り残されていた。 ――エノレアさんだ。 旦那さんと息子さんの墓参りに来てたんだろうか。彼女はその場で座り込んだまま、動けないでいる。 彼女の前に降り立ち、手を差し伸べる。 「ここは危険です、一緒に逃げましょう!」 しかし彼女は首を横に振るのだった。 「……こんなことになるなんて……私はただ」 続きは聞こえなかった。 地割れが起き、エノレアさんはその中に呑まれていったのだ。 「エノレアさぁん!」 それでも私は手を伸ばす。 「やめなさい!」 シエナさんに腕を掴まれた。もしかしたら手が届いたかもしれないのに。彼女の非情さに、少し反感を覚えた。 「早く助けて下さい。その為の〈演算〉ですよね!」 彼女は首を横に振る。 「ねぇ、シエナさん!」 「……できないわ」 「どうして!」 〈演算〉を使えば簡単にエノレアさんを助けられるはずなのに、できないと言うシエナさんが理解できなかった。 「落ち着きなさい、カリーナ」 彼女は私の両肩を掴む。 「あなたも〈観測士〉なら解るでしょう、この状況が」 彼女が目配せする。私達の周りでは、激しく変動する数値が煙のように立ち昇っていた。 「この状況、おそらく『この大陸を元の姿に戻す』為の〈演算〉が使用されているわ」 それはつまり、アトランティデ大陸が海中に沈むということ。この大陸が生まれる前の姿へ。 「誰がそんなことを」 「説明はあと。時間が無いわ」 こうしている間にも、地面が裂け、口の開いたところから崩れていく。この場に留まっていたら私達も危ない。 「大陸の沈没を食い止めるのが先。一人の人間を助ける為に、多くの国民を犠牲にはできない。割り切ってちょうだい」 そう言うシエナさんは〈白演算士〉の顔をしていた。彼女は一人の人間であることよりも、この国の守護者であることを選んだようだ。 「あなたにも協力して貰うわよ」 迷ってる暇は無いってことか。だったら私は、彼女を信じるしかない。 「あなたは土地の〈変動数値〉を読み上げて。私一人じゃ、全ての数値を追いきれないから」 少しでもシエナさんの負担を減らす為か。ようやく私にも彼女付きの〈観測士〉らしい役目が与えられた。 「僕は何をすればいい」 アルが申し出た。マウロ襲撃作戦の時はあれほど怖がっていたのに、今はそうでもないらしい。瞳には、何かしらの決心をしたような光が灯っている。 「君は命の恩人だ。恩を返せるのは今しかない。何でもやるから、僕にも協力させてくれ」 シエナさんは鼻を鳴らす。 「そういう義理堅さ、私は好きよ」 アルは微笑む。優しく、しかし覚悟を決めた男の顔だった。 「だったらあなたは私を守りなさい。これから組む式は相当複雑なものになる。計算している間、私はまったくの無防備になるから、私を危険から避けて欲しいの」 「わかった」 と言うなり、アルはシエナさんを抱き上げた。まるでお姫様を守護する騎士のようだ。 「これでいい?」 「……まあ、いいわ」 どさくさに紛れて大胆なことをしたものだけど、今は細かい事を言っている場合じゃない。 「じゃあ、始めるわよ」 私達の〈白演算士〉が宣言した。 走った。とにかく走った。地割れに飲み込まれないよう、飛来物に直撃されないよう。 〈変動数値〉を読み上げながら、私はシエナさんの実力に舌を巻いていた。変動している数値は土地のものだけじゃない。風も、雨も、炎に由来する雷光も。視界の中では数値の大洪水が起きている。私と同じように、シエナさんにも『これ』が見えているのだ。 しかも彼女には〈固定数値〉も見えているから、私以上に煩わしいはずだ。そんな中から必要な数値だけを読み取り、私が読み上げた数値を聞き取って、更には式を組み上げる。こんな離れ業、他に誰ができるんだろうか。 「うおっ⁉」 前を行くアルが飛び退いた。強風に煽られた木が倒れてきたのだ。着地したかと思えば、途端に地面が崩れる。危うく片足が引きずり込まれそうになるところを、私が手を引いて助けた。 「ありがとう」 誠実な人だ。お礼を言われた私は、数値を読み上げながら頷いて答える。 ――この状態が、あとどれだけ続くんだろうか。 ふと、そんなことを考えてしまった。 アルに抱かれたシエナさんの顔を見ると、彼女は目を薄く開いたまま口を動かしている。まだ〈解〉を発声するには至っていない。いくら歴代上位の〈白演算士〉とはいえ、組み上げようとしている式が複雑すぎるのだ、時間がかかるのは仕方なかった。 彼女がどんな式を組もうとしているのか、私には想像もつかない。だって沈没しそうな大陸を再び浮上させるなんて、伝説級の〈演算〉だ。伝説では七人がかりでやっていたことを、シエナさんは一人でやろうとしている。これがどれだけ無茶なことか、誰にでも解るだろう。 「危ないっ」 考え事をしていたので、つまづいた。転びそうになる私をアルが抱きとめる。細身の彼に二人分の体重がかかり、立ち止まることを余儀なくされる。 「崩れるっ⁉」 お礼を言う暇さえ与えられない。私達の足元にヒビが入った。 「ぐぅぅおぉぉっ!」 アルが吠えた。無防備のシエナさんを片腕で抱いたまま、私の手も引っ張る。お陰で足を取られずに済んだ。 崩れ行く地面を、川の飛び石を渡るようにして彼は走る。かと思えば、今度はぬかるみに足を滑らせた。すぐ転ばなかったのは平衡感覚が優れているからか。足をもつれさせながらも、数歩の間は耐えようとしていた。 しかし転倒。アルはとっさに体を捻り、シエナさんの下敷きになった。 「痛……」 彼が顔をしかめる。シエナさんは無反応だった。 「大丈夫ですか」 「うん。数値の読み上げは?」 アルは進捗状況が気になるらしい。 「私のは終わりました。あとはシエナさんの計算だけです」 「よし、あと少しだ」 アルが希望に満ちた声を出す。それはシエナさんへの信頼の証だった。 立ち上がり、再び走り出す。彼の背中を、私も追い掛けた。 ひょろ長いだけだと思ってた彼が、今は頼もしい。彼を突き動かすものは何だろうか。ただの恩返しでないことは確かだった。 危険な場所から逃げるので精一杯だから、目的地なんて無い。自分達の身を守る為に、ひたすら動き回っているだけだ。そもそも大陸が海に沈もうとしているわけだから、安全な場所はどこにも存在しない。 街はどうなったんだろうか。 丘から平地を見渡すと、低い土地では既に海水が侵攻を始めていた。建物が流されていく。人々は避難しているだろうか。あるいはもう―― 未曾有の大災害が起きている中、人々はどんな思いをしているのだろう。友や恋人、そして家族。大切な人達と最期を迎える覚悟を決めたのか、それとも無事に嵐が過ぎ去るのを願っているのか。 私は後者だ。今まで自分が関わってきた人々の顔が思い浮かぶ。その中でもひときわ鮮明なのは、田舎で暮らす私の家族。お父さん、お母さん、弟に妹――みんな無事でいて欲しい。 その願いを叶えてくれと、私は尊敬する〈白演算士〉に想いを託した。 その時、アルが立ち止まった。 「どうしました」 「……彼女が」 見ると、シエナさんが立ち上がるところだった。 「計算、終わったんですか」 彼女は頷く。こんな時でも無表情だ。だけど心の中では不敵な笑みを浮かべているのかもしれない。 シエナさんが深呼吸する。もし計算が間違っていたら、どんな結果になるのか予想できない。今より状況が悪化する可能性もある。 でも、やるしかないのだ。 「979342――」 始まった。もう後戻りはできない。 「427628――」 雨に打たれ、強風を浴び、揺れる地面に足を取られそうになりながら。 「667240――」 純白のローブは土で汚れ、美しかった髪が 乱れて顔に貼り付く。 「神よ……!」 アルが手を組み、自分が信じる神に祈りを捧げていた。私も信仰する宗教の教えに従い、胸の前で手を組む。きっと街の人々も同じ気持ちでいるに違いない。 永遠に続くような祈りの時。 足場が崩壊し始めた。地割れに呑み込まれるのを覚悟する。 ――と、変化があった。 シエナさんの周りに、青白い数列が出現。それは彼女を中心として螺旋を描きながら、巨大化する竜巻のように拡がっていく。 数列は幾重にも重なり、交わり、私達を取り囲んでいく。安らぎの丘が、虚空に浮かぶ無数の数字で覆われた。 ……美しい、と思った。 夜空に浮かぶ星々のように、数字の一つ一つが煌めき、湯気のように儚く消えていく。これが〈変動数値〉だと分かっていても、私は感動せずにいられなかった。 シエナさんによる〈解〉の発声は続いている。 無機質な数字の羅列は、今や彼女が放つ美しい旋律に乗り、救国の祈りに変わった。 私達の祈りを乗せて、膨大な桁の数値は上昇を始める。願いを天に届けるがごとく。 「274096――」 この国唯一の〈白演算士〉。美しく、強い意志の力を持つ彼女は、最後の一桁を口にすると、その目を閉じたのだった。 「見つけました!」 シエナさんによって大陸の沈没が食い止められた後は、まるで何事もなかったように、空は晴れ渡っていた。 けれどその爪痕は残っていて、今は治安警備隊による懸命の救助作業が行われていた。 私達もその手伝いに参加。作業を始めてからしばらく経ち、陽が傾きかけてきた頃、ようやく成果を出すことが出来た。 瓦礫の中から見つかったのはエノレアさん。まだ息があったのは奇跡的だった。 「よかった。今、シエナさんを呼びますからね」 救護班は編成されているものの、災害の規模が大き過ぎるので人手が足りていない。しかし治癒の〈演算〉を使える〈白演算士〉が近くにいるので心強かった。 「どうしたの」 私に呼ばれて来たシエナさんは、エノレアさんの姿を見るなり顔を曇らせた。 それで察したのか、エノレアさんは声を絞り出す。 「私は……助けなくていいから……」 「何言ってるんですか。気を確かに」 彼女は首を横に振る。体力を消耗しているというよりは、心の底から疲れ果てたような顔をしていた。 「私には……助かる資格が……ないの」 「どういうことですか」 「喋らないで」 問いかけに答えようとするエノレアさんを、シエナさんが制する。周りに救助隊がいないことを確かめてから、彼女は尋ねた。 「マウロに〈フェデリコ大全〉を盗ませたのは、あなたね」 耳を疑った。どういうことだろう。 「潜伏先にあったパンは、あなたの店から届けたもの。あなた達は協力関係にあった。そうね?」 エノレアさんが頷く。彼女は自分が黒幕だと認めたようだった。 「……私が彼を……誑かしたの。私に協力してくれたら、どんなお礼でもするからって」 言葉を選んでいるけど、彼女にはマウロのどんな要求にも応える覚悟があったに違いない。私がそう考えたのは、彼女の動機に心当たりがあったからだ。 「……旦那さんと、息子さんの為だったんですね」 〈フェデリコ大全〉から破り取られていたページには、『元に戻す』『遡る』『再生する』為の〈演算〉に関する情報があったはず。破られたページが焼かれたのではなく、持ち去られていたとしたら。焼け焦げた紙が残されていたのは、破いたページを持ち去った事実を隠蔽する為だったとしたら。 「私はただ……家族を元通りにしたかっただけなの」 エノレアさんは、死者の復活を試みたのだろう。協力者として最適な人は、店の出入り客の中にいた。 「マウロさんは……自分が全ての罪を被ると。もしもの時は、私が〈演算〉を使えるように……って」 そうして彼は、エノレアさんが〈演算〉を使えるよう手ほどきした。自害したのは自分の役割を彼女に託したから。 そういえば彼女は、お釣りの計算が早かった。計算力には人並み以上のものがあったんだろう。 「だから『元に戻す』為の〈演算〉を使ったのね」 だけど不完全な式を組み上げてしまい、結果、アトランティデ大陸を沈没させてしまいそうになったのだ。 「ええ……。私の思慮が浅かったわ、みんなに申し訳ない」 エノレアさんの目から、大粒の涙が溢れた。 「私……何てことしたんだろう。家族を失う悲しみは、誰よりも知ってたはずなのに……!」 今回の出来事で、助からなかった人々は大勢いる。そんな彼らも、誰かにとっては家族の一員だし、愛する家族もいたはず。大切なものを失った悲しみは、誰にも癒せない。 「私……きっとあの人やあの子とは同じところに行けないわね……」 旦那さんと息子さんのことだ。アトランティデで信仰されている宗教では、死後、善人と罪人は別々の世界に送られる。それはアルが暮らしていた『外の世界』でも同じらしい。 「でも仕方ないわね……残念だけど」 口ではそう言うけど、彼女の目から溢れる涙は、計り知れない後悔を表していた。 「さあ、どうかしらね」 シエナさんがしゃがみ込み、乱れていたエノレアさんの髪を綺麗に整えた。 「私が信じる神は面倒臭がりなの。死んだら善人も罪人も、みんな一緒くたよ」 静かに言うシエナさん。それを聞いて、エノレアさんの顔が僅かに安らいだ。 「そう……。今からでも……改宗できるかしら……?」 「歓迎するわ」 「……ありがとう」 それきり、エノレアさんは何も言わなかった。明日への希望を抱いたような、穏やかな寝顔だった。 きっと彼女は、逢いたかった家族の元へ旅立ったんだろう。 あれからしばらく。月の満ち欠けが一巡した頃、街は少しずつ復興の兆しを見せ始めていた。 演算協会の本部庁舎は一部が浸水したものの、建物は倒壊せずに済んだ。今では補修工事が進められ、通常業務も再開している。シエナさんはこの国唯一の〈白演算士〉として、相変わらず忙しいみたいだけど。 そんなある日の昼下り、アルが元の世界へ帰ることになった。この国で体験したことを、一冊の本にまとめ上げたことで、ようやく満足したらしい。 中庭に集ったのは、シエナさん、私、アル。それからパトリツィオ協会長もだ。転送と記憶消去の〈演算〉を使用するに当たり、シエナさんには〈フェデリコ大全〉閲覧の特別許可が下りた。その立会人として、協会の最高責任者が同席しなければならないのだ。 「心の準備はいいかしら?」 別れの場面だっていうのに、シエナさんは無表情のまま。私なんかは泣きそうなのを堪えているっていうのに。 「うん。楽しかったよ、ここで過ごした毎日が」 「そう、それは良かったわね」 「君には世話になりっぱなしだったね」 「それもそうね」 否定しないのがシエナさんらしい。 「協会長、ご高配に感謝します」 律儀に、アルは協会長へのお礼を忘れない。執筆の機会と場所を提供してくれたのは、協会長だったからだ。ちなみに彼が書いた本は、国立図書館に所蔵されることが決まっている。 「達者でな」 協会長は威厳のある笑みで答えた。 「カリーナ、君もありがとう」 彼は優しい笑顔をこちらに向ける。そんな顔を見ていたら、別れを告げる決心が揺らいでしまいそうだった。 「本当に……これでいいんですね」 念押ししたのは、あることに気付いていたからだった。 私の目線で意図を察したらしく、アルは照れ臭そうに鼻の頭を指で掻いた。 「……うーん、そう言われるとな」 ほら、やっぱり。 「それじゃ、最後だから」 彼はシエナさんの前で跪き、右手を彼女に向けて差し出した。 「ひと目見た時から、君に惹かれていたよ」 聞くのが恥ずかしくなるぐらい、キザな台詞だ。言われた相手が私じゃないのに、ドキドキしてしまう。 「それが共に行動するようになって、益々強くなった。心の底から、僕は君に惚れている」 シエナさんは何も言わない。最後まで聞くつもりがあるんだろうか。 「君の行動力、責任感、飽くなき探究心、そして厳しさと優しさ。いずれも尊敬しているよ」 これに関しては私も同意見だ。 「今回の機会を通じて、君のことをもっと知りたいと思った。だから――」 そこで少しの間。アルも最後の一言に、躊躇いを感じているらしい。 「僕と、家族にならないか」 これ……求婚じゃないか! アルがシエナさんに好意を抱いているのは気付いてたけど、まさか結婚を申し込むとは思わなかった。 「……あなた、やっぱり面白いわね」 心なしか、彼女の声が弾んでいる。まんざらでもないんだろうか。 「けど、受け取ることはできないわ」 きっぱりと断ってしまうところは、やはり彼女らしいというか。 「理由を聞かせてくれるかい?」 こうなることを予想していたのか、アルはそれほど落胆していないようだった。 「私が背負っているものは、きっと家族を犠牲にする。そんなのは嫌だから、あなたとは家族になれないのよ」 「……そうか、解った」 アルが立ち上がる。 「君の答えに異存はないよ。じゃあ僕は、家族の元に帰ろうかな」 自分を勘当したという親の元へ。 「父が勘当を言い渡したのは、本心からじゃないって解ってるんだ。父は神学の研究を通じて、人生が豊かになると信じてる。僕と方向性は同じさ」 アルは『楽園』と呼ばれるアトランティスを求めて、この地に辿り着いた。 「きっと父は、自分がやってきたことを実践させることで、息子が豊かな人生を送れるようにしたかったんだと思う」 親として、子の幸せを考える。それは普通のこと。ただやり方は色々あって、何が正解なのか誰にも分からない。 「帰ったら、話し合ってみるよ。僕には僕なりの夢があって、それを叶えようとすることが豊かな人生なのだと知って貰いたい」 「そう。それは素敵ね」 シエナさんが優しい声を出す。今回に限り、話題転換の予兆じゃないみたい。 「それじゃ、そろそろ」 名残惜しいけど、ここまでだ。アルに促され、シエナさんが計算を始める。既に式は組んであったようだ。 アルの周りで、青白い数値が渦巻く。桁が増えるにつれ、彼の姿が見えなくなっていく。シエナさんが最後の一桁を口にした時、別れの言葉が告げられた。 「さようなら。元気で」 消えゆく煙のように、彼は元の世界へと帰っていったのだった。 「……行っちゃいましたね」 「そうね」 シエナさんは空を仰ぐ。思い浮かべているのはアルの顔か、それとも別の誰かか。 「家族……か」 そう言う彼女は、顔も覚えていない両親に想いを馳せているのかもしれない。 思った。彼女が両親からの手紙を受け取らない理由、それは職責の自覚だけじゃなくて、他にもあるんじゃないだろうか。 「カリーナ」 「何ですか?」 「私が両親からの手紙を受け取らない理由、知りたい?」 ……考えが読まれてたみたいだ。 私が頷くと、シエナさんはこう答えた。 「毎年届く手紙に、何が書いてあるかは大体予想がつくわ。両親が私をどれだけ愛してくれてたかも、理解しているつもり」 だったら尚更、手紙を受け取ればいいのに。 「でもね、怖いのよ」 怖いもの知らずのシエナさんが、そんな事を言うなんて信じられなかった。 「手紙を読んだら、今の仕事を放り出して、両親の元へ行ってしまいそうだから」 この国唯一の〈白演算士〉という立場は、決して自由じゃない。初めは意に反していたかもしれないけど、今の彼女は自分の意志でこの仕事を続けているようだ。 勇ましいと思う。けど寂しい、とも思う。一人の人間であることよりも、この国の守護者であることを選んだ彼女だから。 そんな彼女の寂しさを、少しでも埋めてあげることができたら。 「あの……シエナさん?」 「なに」 振り向く彼女は、いつも通りの無表情だった。 「私も、家族の一員ってことじゃダメですか?」 「どうしたの、急に」 「あ、いや、変な意味じゃなくて」 ああもう、何で顔が赤くなってしまうのか。さっき愛の告白を見せられたからに違いない。 「一緒に暮らしてるわけですし、仕事の時も同じですし……」 血の繋がりが無くても、絆ならあると考えるのは自惚れか。だけど少なくとも、仕事だけの間柄じゃない。私はそう考えている。 「何言ってるの」 シエナさんは私に背を向ける。その態度を見て、ちょっと残念な気持ちに。 すると彼女はこう付け加えた。 「そんなの今更よ」 え、今のはどういう意味なんだろう? その時シエナさんから、ふふっという声が漏れた。 「あれ、もしかして今、笑いました?」 「笑ってないわよ」 「嘘。私、聞きましたもん」 「笑ってないってば」 シエナさんは歩き出す。逃げるつもりだ。 「もう、待って下さいよー」 風にたなびく銀髪を追い掛ける。 いつまでも、いつまでも、彼女を追い続けていたい。木漏れ日のような時を過ごしながら、そんな風に考える私なのだった。 [了] |
庵(いおり) 2021年05月02日 01時11分22秒 公開 ■この作品の著作権は 庵(いおり) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年05月16日 09時46分01秒 | |||
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