霊感少女C

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 箱の中の少女の話

 〇

 人間には誰しも、嫌な思い出や消したい過去が存在するという。思い出す度に嫌な思いをしたり、恥ずかしくて死にたくなったりしてしまう、というのだ。
 それらはしばしば、『黒歴史』なんて軽薄な言葉で表現される。でも具体的にどんな『黒歴史』を持っているのかを詳しく訊くと、あまりにも大したことがじゃなくていつも拍子抜けする。その程度の過去がもっとも思い出したくない記憶だというなら、幸せなものだと常々思う。
 私の抱える過去はそんな程度のものじゃない。その過去から逃れられるなら、消してしまえるなら、未来をどれだけ失っても構わないと、心の底から思えてしまう程なのだ。
 それは今より六年前、まだ小学校の四年生だった頃の話だ。
 私はYという友人と近所の山の中で遊んでいた。枯れ葉と土に覆われた斜面を歩き回り、比較的平らな、遊びやすい場所を発見しては、ボールを投げ合ったり駆けまわったりした。
 そんな中、一人の少女が木々の合間から姿を現し、おずおずとした口調で私達に言った。
 「仲間に入れて」
 見知らぬ女の子だった。歳は、その当時の私やYと同じで、十歳になるかならないかくらいだっただろう。顔立ちは整っていたが、手足がひょろりと長くやせぎすで、顔色はやけに青白く、他人と目を合わせず土の方を向いてぼそぼそと話す。
 「いいよ」
 反射的に、私はそう答える。少女は気の弱そうな笑みを浮かべて、「ありがとう」と言った。
 やがて一緒に遊ぶ内に、少女がやけに従順で、私達の言うことは何でも聞くことが分かって来た。遊びの中でどうしても発生する損な役回り……鬼ごっこの最初の鬼や、斜面を転がり落ちたボールを拾いに行く役……を押し付けにしても、不満な顔をまるで見せない。Yがくっ付き虫を付けてやったり木の枝で叩いてやったりしても、少女は怒るどころか媚びたようにへらへらと笑う。
 そう言う子はたまにいる。気が弱くてどんくさくて、ちゃんと自己主張が出来ずに周りに良いように扱われると言うような。
 少女とYと共に山中を歩き回って遊んでいると、やがて、一台の冷蔵庫が不法投棄されているのを発見する。
 土の中にめり込むようにして横たわった業務用らしき大きな冷蔵庫は、老朽化して全体がさび付き、あちこちツタが絡んでさえいた。打ち捨てられてもう随分と時間が経っているのだろう。扉は上を向いていて大きく、力いっぱいこじ開けて見ると、中には大きな空間が広がっていた。
 「ねえ。ここ、入って見なよ」
 Yが少女にそう提案すると、少女は「ええ、でも」と怯えたような表情を見せる。
 「いいから入りなよ。言うこと聞けないなら、もう遊ばないよ」
 そうYが凄んで見せると、少女は唇を結び、怯えたような表情を浮かべながら「分かった」と媚びるような返事をした。そして冷蔵庫の中に身体を滑り込ませた。
 Yが冷蔵庫の扉を閉める。私が中の様子を尋ねると、「真っ暗で何も見えない」というくぐもった声が聞えて来た。
 「暗くて怖い。お願い、開けて。中から開けられないの」
 私が扉を開けてやろうとすると、Yがその手を取って、ほくそ笑むような声で言った。
 「しばらく閉じ込めてやろう」
 この時Yに逆らっておけばと、後悔しなかった日は一度もない。
 思えばYは、最初からそうするつもりで少女を冷蔵庫の中に入れたのだ。そんな残酷な想像を、思い浮かべるがままに戸惑わず実行するYの愚かしさに、私は何も考えず従ってしまった。
 別に少女を閉じ込めることが楽しかった訳じゃない。ただ『空気を読んだ』だけなのだ。Yとは仲が良くて、でも本心をいつでも見せ合える程の信頼関係はなくて、私はYの不況を買うのがなんとなく嫌だった。
 たすけて、たすけて、と繰り返し叫ぶ少女を閉じ込めたまま、私とYはその場を離れてボール遊びを始めた。やがて日が暮れ、家に帰る時間になる時まで、私とYは少女のことを忘れてしまっていた。
 帰宅してしばらくして、私はそのことに気が付いた。そして途方もなく恐ろしくなった。どう考えても、全てを親に話して少女を救出に行くべきだった。だがしかし、自分のやってしまった恐ろしいことを親に打ち明けることが、どうしてもできなかった。
 何かの方法で這い出しているに違いないと自分に言い聞かせながら、私は眠れない夜を過ごすことを選択する。
 少女はいったいどうなってしまうのか? もしかしたら、中から出ることが出来ずに、このまま死んでしまうんじゃないのか?
 翌日、私はそんな不安をYに打ち明ける。Yは青白い顔をして「見に行こうか」と私に告げた。
 Yと二人で山を登り、件の冷蔵庫のところに辿り着く。
 恐る恐る冷蔵庫に近づいた私達は、冷蔵庫の中から何か異常な音が鳴っているのを耳にした。
 「許さない許さない。殺してやる殺してやる殺してやる」
 冷蔵庫全体が強く振動し、軋みを上げるような音を立てていた。地面が抉れる程激しく震える冷蔵庫は、まるで一つの生き物のようだ。
 さらには、その内側から、強い憎悪のこもった呪詛のような声が、冷蔵庫の壁を隔てているとは思えない程、ハッキリとこちらに聞こえて来る。間違いなく人の言葉を話しているのに、とても人間の声には思えないような、そんなおぞましい声音だった。
 「友達だと思ったのに。友達になれると思ったのに。許さない許さない。殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる」
 私とYは絶句して、恐ろしさのあまりその場に背を向けて走り出す。
 転びそうになりながら斜面を走る私達の背中に、少女が放つ呪詛の言葉が、いつまでも聞こえ続けていた。
 私とYはどうにか山を降り、青白い顔で見つめ合った。
 あまりの恐ろしさに、全身が震えるばかりで涙すら流れて来ない。
 そんな中で、Yが怯えた声で言った。
 「このことは誰にも秘密にしよう。そして、さっきの場所には絶対に行かないようにしよう」
 私は強く頷いた。本当にその場所には二度と行かず、そのことは誰にも話すことがなかった。
 それからはもう生きた心地のしない日々が続いている。
 あのまま冷蔵庫に閉じ込めていれば中の少女は間違いなく死ぬだろう。普通に考えれば、もうとっくに冷蔵庫の中で死んで、死体は少しずつ腐ってドロドロに溶けてしまっている。
 そうした結果をもたらしたのは間違いなく私達だし、つまり私達は人を殺したのだ。その事実を想起する度、私は気が狂いそうな恐怖に身を焦がし、頭を抱えてのたうった。
 だが、腑に落ちないこともいくつかある。
 あの冷蔵庫の振動や内側から聞こえる少女の声は、間違いなく正常な現象とは言えないものだった。証拠に、丸一日冷蔵庫の中に放置された少女が、特に弱った様子もなくあれだけはっきりとした声を出し続けられるのは不自然だし、中でどんなに少女が暴れても冷蔵庫はあんなに震えない。
 そもそもあの少女にしたって、顔は青白いし存在感もどこか儚いもので、この世の者でないと言われれば納得する。
 私達は一体何に魅入られて、何を閉じ込めたのだろうか?
 閉じ込められた物は今、どうなっているのだろうか?
 あの少女がある種の怪異であり、それを閉じ込めて恨みを買うのと、そうではなくただただ生身の人間を閉じ込めて殺すのと、いったいどちらがマシだと言えるだろうか?

 〇

 平成十六年四月某日

 ○

 「おい。おいA! Aってば!」
 Bの声がした。
 教室で頬杖を付いていた私は、その騒々しい声でふと我に返った。
 帰りのホームルームは既に終わりを告げており、教室にいるのは私とBと、日誌を手にしている日直の生徒だけだった。Bは私の顔を息のかかるような距離から切れ長の瞳でじっと見つめ、小首を傾げてから、無造作な声で。
 「Aってさ、時々ぼーっとすることあるけど、何か悩み事でもあるのか?」
 「何もないよ。少なくとも、Bちゃんに話すようなことは」
 私はぶっきらぼうを装ってそう言った。Bは、中学時代剣道で国体優勝を果たした名残を感じさせる、しなやかに引き締まった腕を組み、私の憎まれ口を意に介した様子もなく応じる。
 「じゃあ訊かないけどさ。帰り道、ちょっと付き合えよ。新しいトコ見付けたんだ」
 「またいつもの心霊スポット巡り? せっかく高校生になったのに、そればっかりだね」
 「別に良いだろ? っていうか、今度の場所はすごいんだよ。たった一メートル足らずの段差でしかないのに、飛び降りると必ず全身がグチャグチャになって死ぬとかいう、恐ろしい場所が……」
 「悪いけど、今日はちょっと用事があってさ。また今度にしてくれない?」
 断ると、Bは少しの間ごねた様子を見せたものの、やがて私の意思が固いことを悟った様子で「じゃあまた今度付き合えよ」と教室を立ち去って行った。
 「また今度な、C」
 去り際に、Bは日誌を描いていた日直に、そう声をかけた。日直は「はい」と柔らかい微笑みをBに向けると、書き終えたところらしき日誌を閉じた。
 そのまま日直は席を立ち上がり、日誌を教壇の上に置いた。そして自分の席に戻り鞄を肩に掛けると、私の方に軽く会釈をして、教室の出口に向かった。
 意を決して、私はその背中に声をかけた。「ねえCちゃん。ちょっと良い?」
 日直は私を振り返る。「はい。なんでしょうか?」
 Cは綺麗な子だった。体格は中背でやせ型。色は白く目は大きい。漆のような黒い髪を長く伸ばしていて、それが制服であるセーラー服に良く似合い、清純な女子高生のお見本のような気配を漂わせている。桜色の薄い唇は赤ん坊のように柔らかそうで、小づくりながら良く通った鼻筋は、どこか東洋人離れしていた。
 「Cちゃんにね、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
 「あら。意外ですね」
 Cは両手を合わせて小首を傾げるということをした。
 「Aさんは、大事な相談事はBさんにするものかと思っていました。中学校の頃からの親友、でしたっけ?」
 「別にCちゃんとも仲良いでしょう」
 「そうですけど。でもまだ知り合って一か月でしょう?」
 その通りで、Cとはそこまで深い付き合いがある訳ではなかった。その証拠に、Cが日直をしていても私は手伝わないし、Cの方も私に会釈こそすれ、友達同士の会話を仕掛けて来ることはなかった。
 何かの班決めでもすれば、Bの次くらいに声を掛けることはあり得るかもしれない。だがそれでも、今現在のところは、四月と言う季節の曖昧な人間関係の中で距離をまさぐりあっているような、そんな相手に過ぎなかった。
 「それにBって、良い子だし正義感も強いから、相談しにくいこともあってさ」
 「何か後ろ暗い話なんですかね?」
 「まあ、そうかな。それにCちゃん、オカルトとかもちょっとはいけるでしょう?」
 Cは自称霊感持ちだ。一緒に行動している時、ふとした瞬間、悪い気配がするということで、『こっちにはいかない方が良い』とか『それには触らない方が良い』とか言い出すタイプ。高校生にもなって真面目に取り合う物はいないが、他人を鬱陶しがらせる程アピールが激しい訳でもないので、煙たがられる要素にはなっていない。
 「そう言う部分とか、性格とか考慮して、一番言いやすいのがCちゃんだったってことなんだけど……。ひょっとして、嫌?」
 「全然。仲が良いって言ってもらえて嬉しいですし、頼ってくれるのも嬉しいですよ」
 笑顔を向けられ、私はしばし押し黙る。本当に話して良いのか、そもそも話さなければならないことなのか、改めて吟味する。
 そうしている間中、Cはあくまでも笑顔で私の話を待ち続けていた。Bや他の友人ならこうはいかない。急かさず、焦れず、受け身でじっと待つことが出来る。そしてこちらが何か仕掛ければ、必ず核心を捉えて切り返して来る。そんなCなら大丈夫だと、私は思った。
 「実は、私」
 それでも一瞬、どもって、それから改めて意を決して言った。
 「前に、人を殺したことがあるかもしれない」
 Cの表情が僅かに揺らぎ、柔和な笑顔を崩して目をパチクリさせた後、片手を手に当てて如何にも驚いたという様子でこう言った。
 「ここじゃ難ですし、歩きながら詳しく聞きましょうか。長い話になりそうですし」
 「うん。お願い」
 ちゃんと本気にしてもらえたのを理解して、私は、改めてCに相談して良かったとそう感じた。

 〇

 私とCは、かつてYと共に少女を冷蔵庫に閉じ込めた山を登っていた。
 枝を踏み折り、砂を蹴り、小石が転がって行く音がする。土と木の濃密な臭いに思わずむせ返りそうになる。
 木と土に囲まれたCの清純な容姿は、まるで山に住む巫女かのように様になっている。手をかざし、呪文の一つでも唱えれば、物の怪の類を呼び寄せるくらいはやってのけそうだ。
 「一つ言えることは」
 私の話を聞き終えたCは、歌うような澄んだ声音で言った。
 「わたしの知る限り、六年前に死亡または行方不明になった同世代の子供の話は聞いたことがありません。冷蔵庫の中から死体が発見されたという話も」
 「それは私も知らない」
 「調べたことがあるんですか?」
 「いや、それはない。もしもそういう話が出て来たらと思うと恐ろしくて、新聞やニュースも見れないくらいで」
 「目を背け続けて来たんですね」
 「うん」
 「それを間違った対処だとは、わたしは思いません。その閉じ込めた女の子……それが人間か怪異なのかは、確かめてみるまでは分かりませんが。しかしともかく、今、それがAさんから遠ざかっていることにも、間違いはないんです」
 遠ざかっている……? 本当にそうなのだろうか? 毎晩夢に出て来てうなされ、それはいつ現実に侵食して来るかも分からない。そんな状態を、それでもこの子は『遠ざかっている』と言うのだろうか?
 「このまま目を背け続けていれば、ずっと遠ざかったままかもしれません。だというのに、本当に、このまま山を登って、箱を開けてしまうんですか?」
 そう言われると、私は足を止めてしまいたくなった。だが昨夜の自分の決意を思い出し、私は意思のこもった声で。
 「登ろうと思う。だって、分かんないっていうのは一番怖い状態だよ? それを続けていられなくなったんだ。どんな結果になろうとも、向き合うことに決めたんだ」
 やがて山道を登り切り、件の冷蔵庫のある場所に近づいて行く。。
 やがて、視界の先に、忌まわしき白い箱が現れた。過去に私とYが何かを閉じ込め、私の心の奥に冷たい重石を押し込め続けている、おぞましきパンドラの箱が。
 「……何か音がしますね」
 Cが言う。静寂の森の中で、幽かに何か軋みを上げるような音がする。重くて大きな物が震え、土を跳ね飛ばしながら暴れているかのような、そんな声が。
 私は顔を青くしながらも歩みを続けた。音は少しずつ近づいて来る。冷蔵庫が振動しているのが目に映る。中で魔物が暴れているかのように軋みを上げる冷蔵庫の中から、戦慄すべき恐ろしい声を耳に聞く。
 「許さない許さない許さない。殺してやる殺してやる殺してやる」
 それは過去に聞いたのとまったく同じ声だった。冷蔵庫の壁を隔てているとは思えない程明瞭な、どす黒い憎悪と殺意と、悲しさを渦巻かせたような少女の喚き声。
 「友達だと思っていたのに! 友達になれると思っていたのに! 許さない許さない許さない! 殺してやる! 殺してやる殺してやる!」
 「Aさん」
 慄然とする私に、Cが声をかけた。
 「立ち去りましょう。これはどうにもなりません」
 私は呆然としたまま冷蔵庫に視線を釘付けにされて動けない。
 「Aさん!」
 「……わ、分かったよ」
 そう言って、私は冷蔵庫に背を向ける。
 「もう忘れてください。大丈夫。あれはどんなに恐ろしくても、蓋を開けなければおそらくは閉じ込めておける類のものです」
 「う、うん。……そうなのかな」
 「そうです。あなたは怪異に魅入られてそれを閉じ込めた。そして身を守る為に閉じ込め続けている。それだけのことです」
 ……そうなのだろうか? 私は酷いことをしたんじゃないのだろうか? 一緒に遊ぼうと言いだした女の子に酷い仕打ちをして、狭くて真っ暗な箱の中に閉じ込めて、今も閉じ込め続けている。それはいけないことなんじゃないのだろうか?
 何年も前に閉じ込められた少女が未だに箱の中で憎悪の声を上げ続けているだなんて、あり得る話ではない。だからあの箱の中にいるのは人ならざる物で、そんなものは閉じ込め続けるよりどうしようもない。Cの言う通り、それが正しい対処なのだ。
 私がそう自分に言い聞かせた、その時。
 「待って! 助けて!」
 懇願するような、哀れみを乞う様な声が耳朶に響いた。
 「もう出して。殺すなんて言ってごめん。お願い。ここを開けて!」
 冷蔵庫の震えが収まる。ただ、泣きじゃくった声で懇願する少女の、一緒に遊んだあの時と変わらない、媚びるような声音だけが山中に響く。
 その声が私の全身に染み入って……そして、私は立ち去るのをやめて冷蔵庫の方を向いた。
 「……Aさん!」
 Cが制止の声を上げる。
 私は止まらなかった。
 本当はずっとこうしたかった。自分の過ちを拭い去る為に、閉じてしまった箱を開け、中で泣いている少女を出してあげたかった。
 でもその勇気が持てなかった。中に何が入っているのか分からなくて、怖くて、出来なかった。
 本当だったら、これはもう取り返しのつかないことだ。人を閉じ込めて何年も経ったら普通はもうどうにもならない。中にいる人は死ぬ。どんなに後悔しても、時間は巻き戻らない。
 けどあの箱の中の少女は、ずっと私を待ち続けていてくれたから。開けて欲しいと言ってくれたから。だから私は六年越しにそれを開けられる。今ならば、今こそは、あの子を暗闇から出してあげられる。
 私は冷蔵庫の扉に手を触れる。Cが私を追いかけて来るが、間に合わない。
 私は扉を開けた。
 その途端、冷蔵庫の内側の暗闇が恐ろしい勢いであふれ出して、私の方に手を伸ばした。六年間一瞬たりとも光を浴びることのなかった。それはあまりにも純正の暗闇だった。どんなに泣き叫ぼうと内側にいるものを離さず、閉じ込め続ける残酷な闇。
 「許さない」
 少女の声がした。
 「殺してやる」
 暗闇は少女の形をしていて私の首に両腕を巻き付けた。そして冷蔵庫の中へと引き摺り込もうとする。抗うことのできない凄まじい力。私にはとてもなすすべがない。
 これが報いなんだと、私は思った。このまま暗闇によって箱の中へと引き摺り込まれて、おそらくは永劫の時を孤独の中で泣き叫び続ける。それを理解して、私は絶望した。
 「待ってください!」
 Cの声がした。
 闇は答えない。Cのことなど意に介さずに、私の首を絞めつけながら箱の中へと引き込み続けている。
 「話を聞け! ざみにとらざなとりあにぐらすあみやくすやんえむじゃぶにぐらす! ぶらぞばらどみざにとらざなとりあ! ざみにとらざなどりあじゃぶにぐらす!」
 暗闇がぴたりと動きを止める。
 全身を僅かに痙攣させつつ、暗闇は身動きを封じられたようにその場で釘付けになっていた。
 それを認めたCが、言い聞かせるような口調で穏やかに言う。
 「……その人はあなたを助け出しました。あなたをその箱の中から出してあげました。その人のしたことは消えませんが、でもどうか許してあげてくれませんか?」
 闇の中に少女の顔が浮かび、私の全身をじっと見つめた。むくれたようなその顔は、私の出方を伺っているかのようだった。
 私は震える声でどうにか言った。
 「……ごめんね」
 「いいよ」
 暗闇は霧散した。そもそも暗闇など最初からなかったかのように、森の静寂な空気の中に溶けて消え、この世のすべてから姿を消した。
 澄んだ森と、錆びた冷蔵庫だけが残された。私は冷蔵庫の前に尻餅を着き、冷たい土の感触を両手に感じていた。
 背後から温かい腕が私の首に回される。
 「良く言えましたね」
 Cの声だった。
 私はCの方を向き、慈母のような微笑みを浮かべる彼女の胸に縋り付き、泣きじゃくった。

 〇

 「私、酷いことをしたのかな」
 山を降りながら、私はCに向かってそう言った。
 間一髪で助かったことへの恐怖と安堵と同じくらいに、私は罪悪感を覚えていた。ようやく出してあげられたとは言え、私が六年間、女の子を箱に閉じ込め続けた事実は消えない。それは永遠に私の心の中にしこりとなって残り続け、これまでとは別の形で私を苛むだろうと思われた。
 「相手は怪異です。人ならざる化け物です。人間とは区別して考えなければいけません」
 しかしCは静かな声で私にそう言った。
 「あの子は……人じゃないっていうの?」
 「あんなのが人な訳ないですよ。山にやって来た子供に声を掛け、一緒に遊ぼうとする類の下級霊です。こういう小さな山には良くいるんですよ」
 「なら、動物でもないんでしょ」
 「人じゃないという一点ではそれと同じです。あなたは幼い頃戯れに殺した虫けらを、心の底から悼んだりしますか?」
 「…………」
 「すいません極端でしたね。あなたが女の子の形をしたものを悪意で閉じ込めて苦しめたことに違いはありません。それに対する罪の気持ちは、ずっとあなたの心の中にあって良いのだと、わたしも思いますよ」
 そういうCに頷きつつも、私はこう尋ねるのを禁じえなかった。
 「ところでCちゃん。さっき唱えてた、変な呪文みたいなのってなに?」
 「それは気にしないでください」
 そう言うと、Cは目を反らして天を仰ぎ見た。
 「山で見る夕焼けって、無性に綺麗ですよね。……それだけは昔から何も変わらないんですよ」
 茜色の太陽はとろとろに溶け出しながら、周囲の空を自分の色に染め上げている。だが向かい側からは闇を孕んだ雲と共に夜が這い寄ってもいて、この美しき景色がやがて終わりを告げることを私達に示すかのようだった。
 Cは空を見上げ続けている。私の質問に、ちゃんと答えるつもりはなさそうだ。
 まあでも、それで良いのかなと思った。
 不思議な呪文であの化け物の動きを止めたCのことが興味深くもあり、気味が悪くもある。ただ、これ以上Cにこのことを問い詰めたとしても私の為にならないのではないかという予感も、同じくらいにあった。
 だから……私はこの子とは単なる友達でいよう。私の相談に乗ってくれて、私と共に怪異を閉じ込めた箱の前まで来てくれて、私の命を救ってくれたこの子と、普通の友達でいることにした。それは出来る、そうしたいと私は思った。
 私達は他愛もない話をしながら山を降り、さらに少し歩いた三叉路で、私は言う。
 「それじゃあ、また明日」
 「はい。また明日」
 一人になった私は、自宅を目指してぼんやりと歩く。
 夜の帳は降りていて、あたりは暗くなっていたが、不思議と怖くは感じなかった。

 〇

 廃墟の鏡とじゃんけんオヤジ

 ○

 最悪と言う言葉が使われる時、それはたいていの場合、最悪なんぞではない。
 多くの場合どうとでも取り返しがつくし、仮に取り返しが付かなかったとしても、諦めてしまえばそれまでというのがほとんどだ。
 それでも『最悪だ』と口にするのは、そうやってストレスを言霊にして吐き出さなければ、どうにもやってられないからである。
 「……サイッアクだ」
 這いまわるように何週も公園を歩き回りながら、私はため息を吐いた。
 公園を散歩中、財布を落としてしまっていたのだ。中にはゴールデンウィークークで短期のバイトをして稼いだお金が入っていた。人生で初めて自分で稼いだお金ということもあり、愛着を持って大事に使おうと思っていた。
 それがいつの間にかなくなっていて、どれだけ探し回っても見付からなかった。
 改めて公園を見て回り、何もなければ警察にでも泣きつこう。
 そう思って顔を上げた、その時だった。
 さっきまでいなかった男がベンチに腰かけていた。
 春だと言うのによれよれのコートを着た、小汚いとしか形容の出来ない男である。髭も髪も伸び放題で、全身がやせぎすで、歳は分からないが若いということはない。
 浮浪者かな、と思った。ベンチに根を生やしたような雰囲気を持つ彼に、何故ついさっきまで気付かなかったのか。そこに不気味な物を感じたが、しかし私には彼に訊かなければならないことがある。
 「あの、私財布探してるんですけど、心当たりないですか?」
 私が近づいてそう声をかけると、男は顔を上げる。
 「ある」
 「え? そうなの? それってどこ?」
 「教えたんか?」
 「あ、え、知ってるなら教えてください」
 「チャンスは二回やで。ええな?」
 「え? ちょっと何それ。意味わかんな……」
 「じゃーんけん」
 そう言って、男はおもむろに手を振り上げた。私は訳も分からず、釣られるようにして、自分の手を差し出す。
 男はグーを出した。
 私が咄嗟に出した手はパーだった。
 男は緩慢な動作で立ち上がった。そしてずんずんとこちらに歩いて来て、遠慮のない様子で私の鞄の口を開ける。
 「きゃ、きゃあっ」
 私が身の危険を感じて声を上げても、男は意に介した様子もなかった。暴れる私の肩を掴んで動きを封じ、私の鞄の中をがさがさと漁り、そして。
 「ここや」
 と言って、中から引っ張り出した財布を、淡々と私に突き出した。
 鞄の中に入れっぱなしになっていたのを、失くしたもんだと勘違いしていたらしかった。私が財布を受け取ると、男は緩慢な様子でベンチに腰掛け、根を生やしたように動かなくなる。
 全力を持って、私は男に背中を向けて走って逃げた。

 〇

 「……っていうことが、昨日あったんだよ」
 「へえ。不思議な男性ですね」
 教室において、Cとは以前よりも距離の近い存在になっていた。五月になって人間関係が固まった後も、同じグループにいて結構な頻度で行動を共にしている。落ち着いた性格で聞き上手なCは、友人として申し分ない。
 「でも、Aさんが鞄に財布を入れたのって、公園に来る前の出来事なんですよね。なんでその人、財布の在処が分かったんでしょう?」
 「そう。本当に不思議でさ。Cちゃんなら分からない?」
 「うーん。ちょっと推理のしようがないですね。というかもしかしたら、その男性は人ではなくて……」
 そんな話をしている時だった。
 「おいA! C! 今日の放課後付き合えないか!」
 私の小学時代からの友人、Bだった。Bははしゃいだ様子で私とCの肩をそれぞれ持つと、騒々しい程の声で。
 「面白い噂話を仕入れたんだ! なんと異世界に繋がる鏡だぞ? これは見に行くっきゃねぇだろう!」
 「……まった怪談の調査? 最近、Bちゃんは剣道もせずにそればっかりだよねぇ」
 私は溜息を吐いた。Cはたおやかに微笑んでいる。
 今日の放課後は疲れることになりそうだと、私はそう思った。

 〇

 Bと言う友人について語る時、最初に話すのは剣道における実績だ。何せ、中学時代に国体で優勝してしまったというのだからすごい。
 言うまでもなく、中学時代のBは努力家だった。毎日六時まで部活動を頑張り、その後は家の近くにある道場で遅くまで練習。寝る間も惜しんで竹刀を振り続け、両手はいつだって血豆だらけになっていた。鍛え抜かれたその強烈な面打ちは、どれほど堅牢な防御であろうと容易く撃ち抜き、相手の防具へ突き刺さる。
 上背にも恵まれており、身長は百七十センチを上回り、引き締まったしなやかな筋肉が付いている。背筋を伸ばして竹刀を構えれば、その姿はまさに品行方正な剣道少女……だった。少し前までは。
 Bは剣道をやめ、その綺麗だった長い黒髪を茶色く染めてしまった。元々の髪質が硬くあちこち跳ねまわっている為、精悍さを思わせる切れ長の瞳と相まって、その姿はまるで毛を逆立てる手負いの狼のようにも見える。
 素行も最近ではやや荒れ気味である。授業はあまり真面目に受けず、寝坊して良く遅刻し、夜遅くまで遊びまわり両親に心配を掛ける。まあたいてい私も付き合っているのだけれど。
 「……なんでBちゃん、剣道やめちゃったのさ?」
 三人で電車に揺られながら、私はBにそう話しかけた。
 「別にあたしが何やろうとやめようと勝手だろう?」
 「国体優勝して燃え尽きたとか?」
 「違うって。婆ちゃんがやめろっていうから、しゃーねえだろ。女は女らしくしろ、武道なんてのは男のたしなみだ、なんていうんだから」
 「は? Bちゃん別にそんなの気にしたことないでしょ。そのお婆ちゃんに無茶苦茶反発して喧嘩ばっかしてた癖に! 一度なんかそれで暴れて家の窓全部割ったでしょ」
 「黙れ。高校生にもなると、ちょっとは素直になるんだよ、こっちもよ」
 「素直って……あんたがぁ? ちょっと、笑わせるんだけど。反抗期入りたての小六男子みたいな性格のあんたが、そんな時代錯誤な意見に唯々諾々と従うなんて、考えられないんだけど」
 「うっせバーカ。剣道やめたお陰で放課後自由に使えるんだから、良いんだよ」
 そんなBが最近ハマっているのが、学校や町内に纏わる怪談や都市伝説の収集と調査である。積極的に噂話を収集し、面白そうな話を見付ければ、私を誘って調査に繰り出す。
 「今回行く廃墟にはな、異世界に繋がるっていういわくつきの鏡がある。なんでも、その鏡のある部屋に一人で入って、鏡に手を着きながら『入れ替わってください』って言うと、その鏡の中の自分と入れ替わるんだそうだ」とB。
 「ありがちね」と私。
 「鏡に写っているもう一人の自分に意思や生命を感じたとして」
 Cは何かを諳んじるようなすべらかな声で言った。
 「その奥にもう一つ世界があるとまで考えるのには、人間の想像力の素晴らしさを感じます。その手の話を聞く度に、いつも」
 三人で電車に揺られていると、電車が止まり、そこから二十分ほど歩いて件の廃墟に辿り着く。
 塔のような高いビルだった。高いだけで階層ごとの面積は然程でもない。特徴的なのは窓が全くと言って良い程ないことと、コンクリートがむき出しで、塗装が完全にはげ落ちていることだ。
 「……ちょっと休みませんか? 脚が棒なんです」
 そう言ってCがその場に座り込む。まあBの傍若無人な早歩きに付いて歩けば、体力ない子は当然そうなる。私も昔は剣道をやっていたから(ちなみに中二でやめた。Bには裏切り者と呼ばれたが、私は気にせずギターとかやった)体力はあるが、Cは耐えられなかったらしい。
 「構わんよ。ポカリでも奢ろうか?」とB.
 「ああAちゃん。あたしコーラね」とA。
 「おまえは自分で買えこのメガネ」
 「メガネを悪口として言うのはレイシストのそれだと思う」
 「メガネの悪口を言ってるんじゃない。おまえのメガネの悪口を言っているんだ」
 「違いが分からないんだけど。っていうか、コーラぁ」
 「コーラなんて飲んだら太るぞ」
 「ぺちゃぱいのあんたと違って、全部胸に行くから良いし」
 私はなかなかにグラマーな体格で、お風呂に入るとおっぱいが浮く程だ。その割にはお腹周りは結構引き締まっていて、これはまあ日頃の美容体操の賜物だと思う。顔立ちも整った方で、実は結構モテたりもする。交際経験は今のところないが。
 私達が意味のない諍いを楽しんでいると、Cが「なんだか気味の悪い建物ですね」と廃墟ビルを見て言った。
 「悪い予感を覚えます。行かない方が良いのでは」
 「アハハっ。いつものレーカンって奴? あたし、オカルトの類は全部信じるけど、霊感持ちって言ってる奴を信じたことはないんだよね」
 Cの忠告を、Bはそう言って笑い飛ばした。
 『多分ソイツ本物だぞ』と私が言う前に、Bはずんずんと廃墟の中へと歩き去って行った。

 〇

 件の鏡は地下一階にある。廃墟の地下なので中は真っ暗だ。過去に左利きから矯正されたことのあるBは、懐中電灯を右手に持って私達を先導する。
 階段を降りて廊下を左に進むと、右手側にその部屋の扉はあった。
 扉を開けると、何もない十畳ほどの部屋の壁に、鏡が一枚埋め込まれていた。
 一見して何の変哲もない鏡である。部屋の様子も、鏡の他には剥き出しのコンクリートしかないことが気になりはしても、特に異常な風には見受けられない。
 「じゃ。あたしやってみるから」
 そう言って、Bがその『鏡の部屋』に踏み入ろうとする。
 「やめといたら?」と私。
 「なんでだよ」
 「Cちゃんもやめとけって言ってるし……」
 「レーカン持ちだから? 言うこと聞いとけって?」
 「バカにしてると、痛い目に合うかも」
 「本当に別の世界に行けるなら万々歳じゃねぇか」
 「なんで別世界に行きたがるの?」
 「行ってみたくねぇ?」
 「みたくない」
 「でもさ。こっちの起きるべきことしか起きないような、つまらなくて、なんというか無慈悲な世界じゃ出来ないことも、別世界なら出来るかもしれないじゃないか。こっちの世界で病気になったら治すのは大変だけど、ニンテンドーのRPGになら万能の薬草や回復の呪文があるだろう? そんな感じで」
 「ないよそんなのどこにも。というか、鏡の向こう側なんだったら、左右反転してる以外、こっちと同じ世界なんじゃないの?」
 「夢の無い話をするなや」
 などと言って、Bは私とCを部屋から叩き出してしまう。
 懐中電灯はBが持って行ってしまったので、わたしとCは暗い廊下の中を手を握り合って立ち尽くしていた。
 「大丈夫かな?」と私。
 「さあ」
 「Cちゃんからもちゃんと止めてあげてよ」
 「本人が望んでいることを強引に止めたりはしないです。明らかに邪悪なものが迫っていたら人道的には助けるかもしれませんが、基本的には本人の意思を尊重という形で」
 「好奇心は猫を殺すっていうじゃん」
 「好奇心で行動することを悪いことだとわたしは思いません。そこから手に入るものもありますからね。仮に悪い方の目が出たとしても、その時は本人が責任を取れば済む話です」
 あっさりしている。「私の時はちゃんと止めてよ」とCに言っていたあたりで、部屋の扉が開かれる。
 「おまえら何手を握り合ってるんだ」
 と、懐中電灯を左手に持ったBが、その光をこちらに向けながら言った。
 「あんたがそれ持ってくからでしょ。で? 入れ替わって来たの?」
 「いや、何も起きなかった」
 Bは腕を組んでつまらなさそうに言った。
 「そう簡単に、異世界なんかには行けないもんなんだな。……帰るか」
 目的を果たすとすぐに興味を失う単純な性格を持っているのがBだ。部屋を出て怪談と逆方向に歩き出そうとするBに、私が「逆だよ」と声をかける。
 「左であってるだろ?」
 「そっち右だって」
 「は? おまえ何言って」
 「Aさんが正しいですよ」
 そう言って、Cが左の方を指さす。
 「ほら、あっちに階段があるじゃないですか」
 そう言われ、Bは「あー本当だなぁ」と他人事のように言って階段の方に歩き出した。
 「……入学した頃の噂だと質実剛健の武人のように聞いていましたが、本当はちょっとぼんやりさんというか、そう言う人なのでしょうか?」
 Cが私にしか聞こえないように言う。私は肩を竦めて。
 「脳味噌の作りがシンプルなの。ああ見えて成績とかは良いんだけどね。たまに心配になるよ」
 「あはは。それだとなんというか、傍にいるAさんが、もっとしっかりしてあげないといけないかもしれませんね」
 Cは小さく笑ってから、私の手を取ってBを追い始めた。

 〇

 「ねぇBさん。お胸を触らせていただけませんか?」
 帰りの電車で、Cが唐突にそんなことを言ったので、私もBも仰天した。
 「……は? なに、おまえ、そっち系なの?」
 「違いますけど……お願いできません?」
 そう言って両手を合わせるCに、Bは眉を顰めながら「まあ良いけど」と訳も訊かずに答えた。こういうところは懐が広い。
 頷いたCはぺたぺたとBの胸に両手を当てると、「ありがとうございました」と言って席に着き直した。Bは……「なんだよ」と言いながら頭を掻きむしると、大して気にした様子もなく、退屈そうな声で
 「今回の都市伝説も外れだったな。……おまえなんか知らない? 他の不思議な話」
 と私に水を向ける。
 「不思議な話ねぇ……あ、そう言えば」
 私は昨日財布を失くし、浮浪者風の男に発見してもらった時の話をした。
 「おまえそれ、『じゃんけんオヤジ』じゃないか」
 話を聞いて、Bは目を丸くしてそう言った。
 「何それ?」
 「知らないのか。じゃんけんに勝ったらどんな願い事でも一つだけ叶えてくれるっていう、悪魔の噂だよ」
 そう聞いて、私は驚いた。そんな噂があったなんて初めて聞いた。
 「出会えることなんて滅多にないけど……そのおっさんの前で何か望みごとを口にすると、それを叶えてやろうかと持ち掛けられる。承諾するとじゃんけんが始まって、勝ったらそれを叶えてもらえるんだ。良く会えたな!」
 Bは興奮している様子だった。
 「もったいねぇなあ。なんでおまえ、財布の在処なんて訊いちまったんだよ。大金持ちとか不老不死になれるチャンスだったのに!」
 俗っぽい奴だ。だが正直私も後悔していなくもない。願い事一つ叶うなら何にする? という遊びなら私も何度かやったが、結局のところ、そうした願いが一番無難であることも間違いない。言っておけば良かった。
 「『悪魔』の噂だっていうのに、なんだかメリットしか説明されていませんね」
 とCは言った。
 「というか、『なんでも』叶えるってそれ、『叶えられる願いを増やせ』とかの裏技への対応はどうなるのでしょうか? 流石にそんな悪魔をバカにしたようなことをすれば、何かの報いがあるような気はしますけど……」
 「そんなこと願わなきゃ良いじゃねぇか。なあ、その公園って言うのはどこだよ。案内しろ!」
 「ええ~これから? もう遅いよ、時間」
 「良いんだよ。早く行かないといなくなっちまうかもしれないじゃねぇか!」
 こいつに逆らっても無駄だ。こいつは私達を自分の行きたいところへどこへでも引っ張って行く。
 私は一つ溜息を吐き、Cがたおやかな苦笑を浮かべた。

 〇

 公園に辿り着いたが、昨日見た浮浪者らしき男の姿はなかった。
 それでもBは夕闇の中で男を探すことを提案した。私達はそれに従うしかない。別に逆らっても良いし、本気で拒否すれば帰れるのだけれど、何故かその時のBはいつもより鬼気迫る表情で血眼になって男を探していた。
 「どうしてそんなに必死なの?」
 私が尋ねると、Bは「気になるじゃねぇか」と返して来た。
 「お婆ちゃんのお見舞い、行かなくて良いの? いつもこのくらいの時間から行ってるんでしょう?」
 「それどころじゃないっての」
 「いや、都市伝説の調査がそんな大事な用事な訳ないじゃん。なんか変だよBちゃん」
 最早Bは男を探していると言うより、公園をただ闇雲に歩き回っていると言うのが近かった。もう暗くなって来たしいい加減に帰ろうと提案しようとしたところで。
 その男が現れた。
 さっきまで何度も目にしたベンチだった。そこに、どういう訳か何年も前から座っていたかのような態度で、浮浪者のような男が蹲っている。
 「ちょっと」
 私はBに声をかける。
 「なんだよ」
 「だから、あれ」
 私が指差すと、Bは息を飲み込んで目を大きくした。
 吸い寄せられるように、Bは男に近づいて行く。
 私は何も言えなかった。気味が悪くてしょうがなかったけれど、しかしBの様子にはどこか鬼気迫るものがあった。Bが様々な都市伝説を調べ歩いていたのはこの男に会うで、その運命がついには成就したのだという奇妙な確信を私は感じた。
 CがBに追い縋り、その腕を掴む。
 「Bさん」
 「なんだよ。邪魔すんなよ」
 「いけません。この存在は邪悪です。関わってはいけない」
 「うるせぇっ!」
 BはCを振り払った。私は驚いた。Bは乱暴な人間だが、それでもこんな風に力任せに仏舞うことは滅多にないのに。
 「おっさん」
 緩慢に、男はBの顔を見上げた。
 「婆ちゃんの病気、治してくれ」
 男の虚ろな双眸にある種の光が宿ったように私は感じた。男は「チャンスは二回やで」と私の時と同じ言葉を口にすると、ゆったりとした動作で腕を振り上げ、そして。
 「じゃーん、けーん」
 同じように手を振り上げたBと、男の両手が共に突き出される。
 男が出したグーが、Bの出したチョキに勝利した、その瞬間だった。
 Bの左手が手首の先からころりと落ちて、公園の地面へと転がった。
 「あ、ああ?」
 人形の手か何かのように、あっけなく転げ落ちた切り口から、滝のような血が噴き出し始める。蛇口を捻ったような、それでも全開にしたような激しい勢いで流れる赤い液体は、いつも活き活きとしたBの生命力そのもののようだった。
 「ぎゃ、ぎゃぁああああああっ!」
 痛みと恐怖に、Bは悶絶したようにそう叫んだ。そして膝を折ってその場で座り込んだところで、男が冷たい表情を浮かべてこう宣言する。
 「チャンスは後一回。どうする?」
 私は悲鳴をあげてBのところに駆け寄った。Bの手がなくなった。あの誰よりも巧みに竹刀を操るしなやかな手が。素振りを繰り返していつも血豆だらけだった、大切な親友の大切な手が。
 「来るな」
 Bが言った。
 そして残っている方の手を私に差し出して、制止を促す。そして血まみれになりながら、息も絶え絶えに経ちあがり、男に向き直った。
 「やる」
 そう言うと、血走った目で男を睨み、Bは再び宣言をする。
 「あたしが勝ったら婆ちゃんの病気を治してくれ。もし負けたら、あたしはどうなっても良い」
 男が手を上げるのに連動するように、Bの右手も上がる。
 「じゃーんけーん」
 痙攣する全身を抑え込むようにしながら、Bが自分の手を出した。
 パーとチョキ。
 またも敗れたのはBの方だった。無慈悲にも切断された右手から、流れ出る血の海に飲まれるようにして、Bは意識を失ってその場で倒れ伏した。

 〇

 「Bちゃん! ちょっと、Bちゃん!」
 そう言ってわたしは血まみれのBのところへ駆け寄った。
 「動かさないで。すぐに救急車を呼べば輸血が間に合うかもしれません」
 「けど……けど……。Bちゃんの手が、大切な手が……」
 Bは祖母の病気を治す為に己の両手を賭けた。ルールを知らなかった一回目も、身をもって知った二回目も、同じように。
 そもそもBが都市伝説を調べていた目的も、祖母の病気を治す為だったのだ。鏡の向こうの世界に行きたがっていたのは、そこになら祖母を助ける手段があると考えたから。じゃんけんオヤジに会いたがっていたのは、彼の存在が本物なら祖母の病気を治してもらえるかもしれないから。
 Bと祖母の関係は決して素晴らしいだけのものではなかった。祖母は時代錯誤な考えで、国体優勝まで果たしたBの剣道を否定していた。Bはそんな祖母に反発し続け一度は警察沙汰にさえなりかけた。
 それでもBは祖母が好きだった。病床に伏した祖母の弱った姿を見て、どれだけ納得いかずとも、最後にこの人との喧嘩に負けてやろうと思うくらいには。そして剣道をやめ、浮いた時間で祖母を助ける方法を探して都市伝説について調べていた。
 「でもこの手は! この手は本当にすごいんだよ! 竹刀を握れば、中学生の女の子の中で一番だった! それが! それがこんなあっけなく……。あっけなく……っ!」
 慟哭する私に、Cは同情するような表情を向けていた。だが私の悲しみを本当には分かるはずもなかった。すぐ傍でずっとBを見て来て、Bを応援し、Bに嫉妬し、Bに憧れていた私の気持ちは。絶対に。
 「……わたし一人なら四分の三。流石にこれは、大切な身体を賭けられる確率ではないですね」
 喚く私を見ながら、Cは小さく息を吐きながらそう言った。
 「でも二人なら……十六分の十五の勝率。それでも恐ろしい賭けですが、この人の両手はそれに値するかもしれません。何せ国体優勝ですからね」
 一体何を言っているんだ……? そう思っていると、Cは私の方をじっと見つめた。
 「信頼しますよ」
 そう言うと、Cは男の前に立った。
 「賭けをしてください」
 男はCを見上げながら、答える。
 「チャンスは二回やで」
 「かまいません」
 「願いはなんや?」
 「願い事は……」
 手を振り上げながらCは言った。
 「『ここにいるわたし達三人を五体満足にして消えてください』! じゃーんけーん!」
 自分で音頭を取りながら、Cは握った拳……グーを勢いよく振り下ろす。
 男の出した手はチョキだった。

 〇

 「Bちゃん! Bちゃん!」
 私が繰り返しそう叫ぶと、Bは目を擦りながら起き上がる。
 「なんだAか」
 「なんだじゃないよ!」
 そう言って、私は復活したBの両手を丁寧に撫でる。それがちゃんと付いていることを確認して、私は思わずBを抱きしめた。
 「ちょ……っ。なんだよおまえ、くっつくなよ気持ち悪いな」
 「うるさい! まったく無茶なことをしてっ! 勘弁してよ、本当にもう」
 「だから、何の話だって!」
 「あら。覚えていないんですか?」
 そう言って、Cは心配げにBの顔を覗き込む。
 Bは素っ頓狂な顔で小首を傾げる。「この公園で、『じゃんけんオヤジ』を探してたところまでは覚えてる」
 「その後は?」
 「やー……覚えてない。なんかそのじゃんけんオヤジとじゃんけんをして、負けて手が亡くなる夢を見た気がするけど……」
 「Bさんは公園で『じゃんけんオヤジ』を探している途中で、突然倒れて眠ってしまったのです」
 Cはすべらかな口調で嘘を吐いた。
 「疲れた様子でしたよ? お婆さんのことで、心身ともに参っていたんでしょうね。今日はこのまま帰って早く休まれては?」
 それを聞いて、Bは少し首を傾げた後で、「そうすっかな……」と呟くように言った。
 地面の血の海も無くなっていて、男がいた痕跡は公園のどこにもない。出血のあまり気を失っていたBは、全てを夢の中の出来事と思い込んだようだ。
 私は釈然としない気持ちになった。そりゃ、自分の手が一瞬でも消えただなんて経験を、本当のこととして覚えて置くのは嫌だろう。配慮してやる気持ちも分かる。だがそれだと、Cの命懸けの献身はどこに行くのか。自分の手を危険にさらしてまで戦ったCの友情に、Bは気付きすらしないままで、本当に良いのか。
 「わたしのことなら大丈夫です」
 帰りの道中、Cはそう言ってわたしに耳打ちした。
 「わたしの両手が落ちたら、次はあなたに戦ってもらうつもりでしたから。四回やって一回勝てれば良いのなら、有利な勝負と思いませんか?」
 『ここに居る三人を五体満足にして消えろ』。Cは確かそんな風に願っていた。確かにこの願いなら、どこかで一回勝てば三人共の両手が復活する。
 だがそうする為には……Cの後で私が戦わねばならない。
 私が戦うということを、Cは信じたのだ。
 その信頼に……はたして私は応えられたか?
 応えられる自分でありたい……と心から願う。Bの両手はそれだけ価値のある宝物で、Bの為に身体を張ったCの手だって、掛け替えもなく大切な物だ。。
 だけれど……いざその時になってその勇気が持てたかと言うと、今となっては、それは誰にも分からない。

 〇

 後日談。
 祖母の葬式が終わった翌日、午前中の授業を欠席したBが昼休みから学校に出て来た。そしていつものように、私とCと三人で昼食を取った。
 左手で箸を持って弁当をかっこむBは、ふと私の手を見て
 「おまえ、左利きだっけ?」
 と尋ねて来た。
 「いや右利きだけど。今だって右でお箸持ってるでしょ?」
 「は? おまえ右と左もわからねぇの?」
 「いや、そっちこそ。何言ってるの?」
 「……なんか変なんだよなあ最近。字とか全部逆に書いてあるように見えるし。あたし、自分で思うより参ってるのかなあ」
 Bは腕を組んでブツブツと呟くように言う。そんなやり取りも、私は『いつものボケか』と軽く流してしまった。その次の休み時間。
 「あの、本当に気付いていないんですか?」
 Cに声を掛けられ、私は「何の話?」と首を傾げる。
 「いえ……Bさん、先ほど左手でお箸持ってごはん食べてましたよね」
 「そういやそうだね……。ってあれ? あいつ箸は右だよね?」
 「右利きだったと思いますよ」
 「実は矯正された左利きっていうのが正しいんだけれど……今更元に戻すつもりなのかな?」
 「いやこれはそう言う問題じゃなくて……ねぇ?」
 そう言って苦笑するCの顔をまじまじと見つめて……そして私はようやく気が付いた。
 「ちょっと! B!」
 私はBに駆け寄ると、「おっぱい触らして」と要求する。
 「は? ちょっとおまえまでどうしたの? おまえもそっち系なの?」
 「いいからっ!」
 そして私はBの右の胸に手をやる。すると……。
 動いている。
 心臓が右側で動いている。利き腕が反転、心臓の音も反転。これは……。
 「……ねえBちょっと。今日付き合って欲しい場所があるんだけど」
 「なんだよ」
 「前行った廃墟。あそこの鏡のある部屋にもう一度行きましょう。放課後、すぐにね?」
 「なんで? 何もなかったじゃねぇか」
 「……私はまだぎりぎり、本人じゃないから情状酌量の余地があると思うんだけどね」
 そうでもないですよ、とCが小声で言ったのを無視して、私はBを見詰めて言う。
 「なんであんたは自分で気付かない訳? 黒板とか見て何も思わない? 酷すぎるでしょいくらなんでも! 脳味噌の代わりにイチゴ味のゼリーでも入ってんのこの剣道バカは!」
 「はあ? ちょっと意味分かんないんだけど。なんでこんなバカにされてんのあたし?」
 「も~うあんたはそれで良いから。とにかく放課後、行くからね! 分かった?」
 有無を言わさぬ口調でそう言うと、Bは渋々と言った様子で「良いけどなんでぇ?」と、能天気に肩を竦める。
 私は理由を言わなかった。

 〇

 Yの末路

 〇

 それはただの悪戯のつもりだったわ。
 良くいじめていた子がいたの。理由は今じゃ思い出せないわ。本当にただなんとなく、他の友達を巻き込んで無視をしたり、嫌がらせをしたりしていたのよ。楽しかったわ。
 それである日……階段を降りている最中のその子の背中を、軽めにポンと押してみたのよ。
 驚くと思ったし、怖がるとも思った。ほんの小さな力しか込めなかったし、その子は手すりに手をかけていたから、まさか転げ落ちたりなんてしないと思った。その場で踏みとどまって、怯えとか嘆願とかを含んだ顔で、こちらをふり向くのを期待した。
 だっていうのに……あの子は間抜けだったのよ。あっけなく転がり落ちて……床に頭を打ち付けて、首があり得ない方向に曲がって。
 勘弁して欲しい。そう思うわよね? こんなちょっとしたいじめの所為で、人殺しにされるだなんてまっぴら。別に私の所為で誰が死のうと知ったことじゃないけれど、少年院に行くのは嫌よ。
 だから、なんとか証拠を消すことにした。私は首の折れたその子に近寄って、名前を呼びながら彼女の背中に手を触れて、揺すり続けたの。さも友達の死に動揺して、彼女の亡骸に取りすがって泣いているかのような、そんな演出でね。そうすれば、その子の背中を押した時の私の指紋が、紛れて分からなくなるでしょう?
 警察がやって来て、私を含む傍にいた人達に聴取が行われた。私は、彼女は足を滑らせて落ちたと証言したわ。
 正直……生きた心地はしなかった。背中の指紋は言い訳出来るようにしたとしても、被害者が転落死した直前私がすぐ背後に立っていた事実はどうにもならない。それなりに熱心に疑われ、何度も事情を問いただされたわ。黙っているのは大変だったわよ。
 でもね、結局、私の自供がなければ証拠不十分。これも読み通りだった。やがて彼女の死は事故として処理されて、私はこうしてシャバにいるって訳。
 人生最大のピンチを、私は機転と精神力で無傷で乗り切った。大したものだと思わない? 乗り越えた後も苦しみは続いて……季節が一巡りしてようやく自分は安全だという実感も沸いて来た頃。
 『それ』は始まった。
 階段を降りようとする時、『それ』は起こるの。どこかから現れた冷たい手が、私の背中をポンと押す。私は足を滑らせて、階段から転げ落ちそうになる。実際に落ちてしまったことも、何度かあったわ。
 誰かが私の背中を押している。近くにいた人間に、何度も食って掛かったわ。けどね、いつも犯人は見付からない。どころか、明らかに周りに人がいない、一人っきりの状況でも、それは起こるの。
 やがて私は悟るようになる。私の背中を押しているのが、この世の人間ではないことを。
 いつか背中を押された時、私は手すりを掴んでその場を踏みとどまって、すかさず後ろを振り向いてみたの。
 そしたらね、私は見たのよ。
 宙に浮く闇色の穴の奥から、突き出された一本の死者の手が、開いた手の平をこちらに晒している光景を。
 それが誰の手なのか、誰が私の命を狙っているのか。そんなことは考えるまでもないわよね。

 〇

 平成十六年五月某日。

 〇

 「まるでこの世ではないみたいに感じるわ」
 並んで山道を歩きながら、Yがそう言った。
 「なんで?」
 「こんなところ、もう長いこと来ていなかったからよ。いつだってコンクリートに覆われた地面を踏みしめ、ビルや建物に囲まれて、電線で覆われた空を見ながら生きている。だから土と木と小鳥のさえずりなんて、私にとってはこの世のものには思えない」
 小さい頃は、私とYの二人はこの山の中で良く一緒に遊んだ。でもその日々は、Yにとって遠い思い出に変わっているらしかった。それもしょうがないだろう。十六歳の子供にとって、五年や六年と言う月日はまるで、世界を一つまたぐのよりも尚大きい。
 「さあAちゃん。案内して。私、件の冷蔵庫の場所なんてとっくに忘れてしまったわ」
 Cと二人で山を降りた数日後、私はYに電話を掛けていた。過去に、Yと二人で冷蔵庫の中に閉じ込めた女の子の顛末を知らせる為に。そうして予定を合わせ、一緒に山を訪れたのが今日と言う訳だ。
 「ここだよ」
 私とYは件の冷蔵庫の前に辿り着いた。Yは臆することなく冷蔵庫に向かって歩き、躊躇の無い手つきでその扉を開けてしまった。いくら安全になったと説明していたとしても、Yもその胆力に、私はあっけにとられる。
 「……確かに。もう何も入っていないわね」
 Yは冷蔵庫の中を覗き込んで言う。
 「本当に何もないでしょう? だからYちゃんも、もう安心して良いよ」
 「そうかしら?」
 Yは訝るような顔をした。
 「電話で説明された話だとね。その女の子は冷蔵庫から出て来た後で、あなたが謝ったからどこかへ消えて行ったんでしょう?」
 「そうだけど」
 同行したCのことは黙って置いた。Cに口止めされた訳ではない。彼女の持つ何かしらの超常能力を、私はどこか神聖なもののように感じている。無暗に人に話すべきではないように思われたのだ。
 「でもね。その話を聞く限りじゃ、許されたのはあなた一人ということにならない? 冷蔵庫の中から這い出したあの女の子が、私の方に復讐しに来るということは、考えられないかしら?」
 「それはないよ」
 私は言った。
 「根拠は?」
 「根拠は……。ええと、その」
 私が口ごもると、Yが目を見開いて、私を呑んでかかるかのような表情でじっと見つめる。
 「あなたは自分の手でこの冷蔵庫を開けて中の怪物を外に出したのよ? ずっと冷蔵庫の扉は開けないようにしようって、二人で約束したにも関わらず。その所為で、私は今とても不安な気持ちを感じているわ。怪物に復讐されてしまうかもしれないのだから。それとも私なんて霊に殺されても良いって思ってでもいるのかしら?」
 こうやって他人に凄んで見せる時、Yには迫力があった。この人を敵に回せば、執念深く冷酷な悪意がどこまでも自分を追い回すだろうと思わせる、邪気のような気迫をYは持っていた。
 「……違うよ。そんなこと思ってない」
 私は思わず目を反らして言った。
 「だったらなんで私が安全なのかを説明してもらえるかしら」
 「……友達に、霊感のある子がいるんだ」
 私は観念せざるを得なかった。
 「その子が言うには、私がちゃんと謝ったことで、あの女の子の憎しみは癒えてるっていうんだよ。元々そんなに悪い霊じゃないらしくって……。だから、Yちゃんのことももう安全だって」
 「…………ちょっと待って。あなた、どうしてそんな話を信じるの?」
 Yが鋭い視線で私を見竦める。
 「確かに私達は超常的な存在に出くわしたわ。でもね、霊感なんてのは所詮は本人の自己申告よ。そう主張することで何か特別な自分を演出できると思っている能無しの類。そんな奴の戯言をなんで信じることができるの?」
 「……それはその、嘘を吐くような子じゃないから、その」
 Yは私の胸倉を掴んで、森の中の木に私の背中を押し付けた。
 端正なYの顔がじっと私を見詰めている。胸倉を掴まれた私は身動きが取れないでいる。Yは力も強かった。そしてその顔立ちには迫力があった。切れ長の瞳を持つのはBと同じだが、精悍さを思わせるBと異なり、Yの目には怜悧さや残酷さが秘められている。いつだって澄ました冷静な表情には、彼女の性格の『キツ』さが滲み出るかのようだ。
 「そんな脆弱な根拠で私に安心しろっていうの?」
 「……脆弱な根拠なんかじゃない。その子が言うなら本当に安全で」
 「そのナード臭い不思議ちゃんのことをあなたはどうして信じるのかしら?」
 Yはますます私の胸倉を掴む手に力を加える。
 「だって、私、目の前で。その子が、呪文を唱えて、それで、私、助けられ……。ゲホっ」
 私を締め上げるYの手が緩んだ。私は木にもたれながらずるずると土の上に尻餅を吐く。Yは探るような目に僅かな喜びと期待を滲ませながら、私を見下ろしてこう言った。
 「だったらその子について詳しく訊かせて。そしてその子に会わせてちょうだい。実際に会って話を聞いて判断するわ。良いわよね?」
 ダメだと言ったら、そのカモシカのような脚が私の顔面を蹴りつけることは容易に想像できたので、私は黙って頷いた。

 〇

 「おうA。放課後遊びに行かないか?」
 「ごめんBちゃん。今日は予定があるの」
 放課後、いつものようにBに捕まりそうになったので、私はそう言って足早に立ち去ろうとする。
 「あ? なんだよぉ予定って。それはあたしよりも優先するほどのことなのかぁ?」
 「優先することだよ。ねぇBちゃん。そういう言動、私には良いけど後輩とかにはしない方が良いよ。断りづらくなっちゃうから」
 「しゃーないなあ……。じゃあCでも誘うから良いよ」
 「ごめん。悪いけどCちゃんも連れて行くから」
 「あ?」
 そう言って、BがCの方を見ると、Cは「ごめんなさいねぇ」と両手を合わせた。
 「はぁあああっ。あたし一人だけ仲間外れかよ。それならますますあたしも連れて行けよなぁ」
 子供みたいに駄々をこねるBが鬱陶しくなり、私は溜息を吐いて言った。
 「二人でYちゃんに会いに行くんだけど、それでも良いんなら良いよ」
 すると、Bは急に眉を顰めて
 「……あたし、あいつ大嫌いなんだけど」
 と心底忌々しそうな表情で言った。
 「じゃ、一人で帰ってれば?」
 「……そうするよ。つかさぁおまえ、もう付き合うなよあんな奴と」
 「それは私の勝手。行くよ、Cちゃん」
 そう言ってあたしはCの手を取って歩きだす。
 心配そうに振り向いたCの視線の先には、苛立った表情のBがいたことだろう。

 〇

 「珍しいですね」とC。
 「何が?」と私。
 「いえ……Bさんが誰かのことを、ああもはっきり『大嫌い』と言い切るだなんて、滅多にあることではありません。陰口も言わない人だし……」
 「……それだけ仲が悪いんだよ。BちゃんはYちゃんと」
 理由は単純だった。Yはいじめっ子だったのだ。
 Yは乱暴者ではなかった。必要とあらば暴力を振るうことに躊躇などはないが、無暗に暴れるような性格はしていない。ただ気が強く頭の回転が速く弁が立つので、たいていの環境でボスのような地位に就いていた。そして気に入らない者や自分に逆らう者には積極的に攻撃を仕掛けた。
 そしてBは弱い者いじめが大嫌い。
 同じ小学校に通っていた頃、YとBの間の諍いは絶えなかった。Bは手を出すことさえなかったが、しかし己の正義を信じる人一倍強い精神力を用いて、正々堂々と口喧嘩で渡り合っていた。
 ディベートではYの圧勝でも、気迫ならBが勝っており、両者の力量は拮抗していた。あれはまさに、正義と悪の戦いの歴史と言って良いだろう。
 そのようなことをCに解説すると、興味深そうに聞いていたCは頷いてからこう問うた。
 「BさんとYさんがライバル的な関係だったことは分かりました。でも、Aさんはその両方と仲が良かったんですよね?」
 「そうなるね」
 幼稚園の時剣道の道場で仲良くなったBにも、小学校一年生の時のクラスメイトで仲良くなったYにも、それぞれ違った魅力があった。
 おそらく私は、何かしらの意味での『強さ』を持っている人が好きなのだ。BもYも強かった。腕力や知性だけでなく、何かはっきりと、簡単なことでは歪められることのない、自分だけの形を持っているという点で。
 「でもそれって、言うなれば三角関係のようなものじゃないですか?」とC。
 「それちょっと違うくない?」と私
 「ニュアンスは近いじゃないですか。ちょっと複雑だったんじゃないですか? 色々と」
 「……まあ。何もなかったとは、言わないけどさ」
 実際、軋轢が表面化したこともある。小学六年生の時だ。
 その時のYはいつもより荒れていた。そこまで地位が低い訳でもない、小さなミスをしただけの取り巻きをトイレの個室に押し込んで、その頭を便器の中に突っ込むと言ういじめをしていた。
 私は静観するばかりだった。やられてる子は可哀そうだったが、まあ正直別にどうでも良かった。それでYの機嫌が戻るなら黙って辛抱しといて欲しい、くらいに思っていた。
 そこにBが踏み込んで来た。
 その時Bがしたことを私は二度と忘れない。BはYに制止を呼びかけるでもなく、傍にあった箒の柄を持って私をぶん殴りにかかったのだ。
 身を躱した私は自分も箒を持って応戦したが、実力の差は歴然。一方的にボコボコにされた。
 『いじめやってるのYちゃんじゃん! なんで私にするの!』
 私が泣きじゃくりながらそう叫ぶと、Bは震えて蹲っているYを指さしつつ、言った。
 『そいつはもう救えないしどうでも良い。でもおまえは違うから、殴った』
 そう言って私の胸倉を掴んで持ち上げると、Bは眉に皺を寄せながらこう言った。
 『なんで止めねぇんだ?』
 それっきり、私はしばらくBとYの両方と気まずくなった。あの数か月間のことは正直思い出したくもない。
 今ではちゃんと両方と上手くやれているけれど……それでも、どちらかの前でもう片方の名前を出すことは滅多にない。機嫌が悪くなるからだ。

 〇

 「初めましてCさん。Yです」
 約束の場所である喫茶店で、Yは余所行きの笑顔でCに会釈をした。
 Cは生真面目に会釈を返す。そしてYの向かい側に私と二人で腰かける。Yはやはり魅力的な笑顔を表面的に張り付けながら、利発そうな声で。
 「Aちゃんから話は聞いているわ。冷蔵庫の中に閉じ込められていた物の怪を、呪文を唱えて退治してくれたんだって」
 「退治した訳ではありません。お話をして、帰ってもらっただけですよ」
 「どちらにせよ、その怪物が私を襲うことはなくなった」
 「そう言えると思います。『あれ』はそこまで執念深い物ではありません。Yさんには何も心配することはないでしょう。ないとは思いますが万が一『あれ』がYさんのところにやって来たとしても、一言謝れば、それで終わりです」
 「そう。なら良かったわ。……それが本当ならね」
 そう言って、Yは値踏みするような目でCを見詰めながら。
 「でもね。あなたにとってはそれが自明だったとしても、私からするとそうじゃないのよ。申し訳ないのだけれど、私はあなたの言う『霊感』というのが信じられないのよね」
 「無償で信じてくれた人は今までいません。仕方がないのだと考えています」
 「でもそれだと私はずっと不安なままなのよ。あなたの霊感が本物だと証明されれば、あなたの言うことを信じることが出来て私は安心できるけど、どこにもそんな根拠はないものね」
 「信じるか信じないかはあなた次第です」
 「あら? そうやって証明することから逃げるのは、イタい子の常套手段じゃないのかしら?」
 「あなたの為にも証明する努力はします。その方法も用意して来ました。でも多分、それを使う必要はなさそうですね」
 そう言うと、Yは訝しそうな顔をする。Cは落ち着いた表情のままで、Yの背後にある一見して何もない空間をじっと覗き込みながら、柔らかで澄み渡っていながらも不思議な威厳のある声でこう言った。
 「あなた、憑かれていませんか?」
 Yは絶句した。驚きとほんの少しの恐怖、そして期待の混ざった眼差しでYをじっと見つめる。
 「そこまで強力な霊気は感じません。しかし、あなたに対して強い悪意を感じます。それに殺されかけたことも一度や二度じゃないのではないですか?」
 「……あなたには何が見えているの? どんな風に見えるの?」
 「暗い穴です。時空に小さな裂け目を作って、現世と冥界を繋げた穴です。その穴の向こう側から、強い憎しみを湛えた瞳がじっとあなたを見詰め続けています。それはいつだってあなたを殺そうと狙っています」
 「穴って……そんなもの、私にはどこにも見えないよ?」
 私がそう言うと、Cは上品な苦笑を浮かべながら。
 「ほんの小さな穴なので放たれる霊気も微弱なものです。普通の人には見えないでしょう。ただ、この穴の左右に小さな切れ目が入っているので、何かの条件でもっと大きく開かれることはあると思います。そうなったらより強い霊気が穴から発せられるはずなので、普通の人にも見えるようになるかもしれません」
 「霊気が強ければ、霊感がなくても見えるの?」
 「霊感自体は誰にでもあります。ただ、その強弱が人によって異なるというだけです。視力や聴力なんかと本質的には変わりません」
 そう言えば……私は思い出す。件の冷蔵庫を開けた時、私には中からあふれ出る真っ暗な闇が目に見えた。その闇が全身を覆い、私を締め上げる感覚が分かった。あれは強い霊気が私のすぐ近くで発生したから、私の十人並の霊感でもそれを感じられたということではないのだろうか?
 「おそらくその穴は、あなたを憎む亡者があなたを殺す為に現世と冥界を繋いだ穴なのでしょう。今のところその穴は小さくて、亡者の身体が通る程ではありませんが、切れ目を広げれば腕くらいなら通ります」
 Yは息を飲み込んでいる。震える瞳で、話しているCにじっと見入られている。
 「あなたはその亡者の腕に襲われているのでしょう。だからあなたはわたしに会いに来た。わたしに何とかしてもらおうと考えた。冷蔵庫に閉じ込められていた怪異への不安を取り除くというのは、あくまで建前。そうではないでしょうか、Yさん?」
 Cから放たれた言霊がYの全身に染み込んでいくのを私は感じる。Yは目を見開いて僅かに手を震わせている。こんなふうにYが誰かに呑まれているのを、私は初めて目の当たりにした。
 「……そうよ。私は何かに憑かれている。私に憑いた何かに、殺されそうになっている」
 「それが何なのか、心当たりはありますか?」
 「話さなければならないかしら?」
 「はい。あなたを救うには、絶対に必要なことです」
 そう言ってCがYの目を見竦めると、Yは数秒の逡巡を得た上で、震える唇を開いて話し始めた。
 「…………それはただの悪戯のつもりだったわ」

 〇

 Yは長い話を終える。
 自分がいじめていた少女を階段から突き落とし、殺してしまった自らの罪。しかし上手く言い逃れて法の裁きを掻い潜ったこと。だがそれからというもの、階段を降りる時に何者かに背中を押され、突き飛ばされるようになったこと。ある時振り返ってみれば、暗い穴から飛び出た亡者の腕を目の当たりにしたこと。
 「あの手はFのものなのかしら? 私が散々いじめて、最後には殺してしまったクラスメイトの……Fのものなのかしら?」
 「そうではないと考える方が無理がありますね」
 Cはどこか他人事のように言って、窓の方を仰ぎ見た。
 「しかしそのFさんというのはフェアな方ですね。Yさんのことが憎くてたまらないなら、別に階段から突き落とすことに固執せずとも、車に向けて突き飛ばすとか他に方法はいくらでもあるでしょうに。自分がされた以外の方法は使おうとしない」
 分析するような声は小さく早口だった。ひょっとしたら、C自身声に出していることに気付いていないのかもしれない。
 「とは言え、霊というのは死者の感情が具現化した物。その感情の強さがそのまま現実世界にアプローチする力の大小となるのは道理。『自分と同じ目に合わせてやりたい』という執着が彼女の悪霊化の原因ならば、『相手を階段から突き落とす時にしか、現世に干渉出来る程の霊力が発現しない』……という訳か」
 「何をぶつぶつ言っているの?」 
 「……あ。すいません」
 Cははっとしたような声を出した。
 「話を聞く限り、Yさんは階段を降りないようにしていれば、ひとまずは安全なのではないかと思います。気を付けて生活していれば、殺される心配はないと思いますよ」
 「……そうね。それは私も気を付けている。でもお陰で普通の高校には通えていないし、実生活にも支障を来している。何よりも、訳の分からない物に常に命を狙われると言うのは、想像を絶するストレスだわ」
 「そうでしょうね」
 「あなたになら何とかできるのかしら? 私が『憑かれている』ことに勘付いたあなたの能力に、最早何の疑いもない。解決してくれるなら見返りは相応のものを……」
 「わたしなら助けてあげられます。そうしてあげたいとも思います。しかし、一つだけ必要なことがあります」
 そして、Cは鋭い声で言った。
 「今の話をちゃんと紙に書いて、あなたの署名を入れてくれませんか? 他にボイスレコーダーにも録音しましょう。後で警察に持って行きます。それをしてくれるなら、Fさんを説得することが出来ます」
 Yはその瞳にどこか暗く陰湿な悪意を漂わせて、Cを睨んだ。
 「そんなことする訳ないじゃない。……バカにしてるのかしら?」
 「あなたをバカにしている訳ではありません」
 「見返りは十分な物を用意するわ。金でも男でも……」
 「わたしの意思は変わりません。そもそも、Fさんに納得してもらうには……」
 「……話にならないっ」
 そう言ってYは苛立ち交じりに立ち上がる。
 「期待外れね。……今日は帰るわ。次にまた会う時、今みたいな穏当な話し合いが出来るとは思わないでよね」
 Yは苛立ちをぶつけるように強い足音を立てながら喫茶店を出て行く。窓の方を見ると、何か人相の悪い、筋肉質の男が乗った赤いスポーツカーに乗り込んでいくのが見えた。
 何か月か前、Yに『彼氏が出来た』と言われたことを私は思い出した。Tという名前で、元プロボクサーという肩書なのではなかったか? 会ったことはないが、ひょっとすると彼がそうなのかもしれない。
 私はCの方を見る。彼女は思い詰めたような顔で押し黙り、自分の手元をじっと見つめていた。

 〇

 大昔のことだ。
 小学六年生のある日、私はYとその取り巻き達に囲まれていた。彼女らの視線は敵意に満ちていたが、私はこの日ばかりはYに迎合して自分の身を守る気にはなれなかった。
 『……なんて』
 Yはそう言って、足元に蹲っている、いじめられっ子の少女を蹴飛ばした。
 『なんて言ったの、今、あなた?』
 『だから』
 私は声を震わせながら、決死の覚悟でこう言った。
 『やめようよ、って言ったんだよ。その子、何も悪くないじゃない? なんでそうやって蹴っ飛ばしたり、酷いことを言ったりするのさ?』
 『楽しいからよ。それ以外に理由がいるの?』
 『駄目だよ。そんな風に人をいじめたりしたら。というか、どんな理由があっても、そんなことをするのは良くない。Yちゃんの為にならないんだよ、絶対にいつか後悔する時が来るから』
 『黙れ!』
 そう言って、Yは私の胸倉を掴んで壁に押し付けた。
 『普段何も言って来ない癖に、なんで今日に限ってそうやって止めに入るのよ? ひょっとして、Bの奴に言われたこと、本気にしてる?』
 そういうYの形相は、怒っているというより不安がっていた。Yは自分の親友でありながらBとも仲良くしている私に不満を感じていた。だから、Bに影響されていじめを止めている私が、自分の元から離れていくのではないかと恐れているのだ。
 『……Yちゃんはさ。何でもできるよね』
 私は絞り出すような声で言った。
 『勉強も運動も出来るし、どんな遊びをやらせてもたいたい一番だし、友達だって多い。なのにさ、なんでこんな酷いことをするんだろう? そんなことをしなくても、きっと毎日楽しいだろうに』
 そう言うと、Yの眉根に深い皺が寄り、そのまま床に叩き落とした。
 『うるっさいわね! 分かったようなことを言わないでよ。……もうしばらく話しかけて来ないで!』
 Yは取り巻きを連れて私の元から離れていく。
 私が大きくずれた眼鏡を直して立ち上がると、足元で這いつくばっていたいじめられっ子が、小さな声で『ありがとう』と呟く。
 『いいよ』
 こいつを哀れむ気持ちはないじゃない。愚図だし鈍臭いし自分の身も守れないような奴だけど、それでも鬱憤晴らしの為にいじめられて良い訳じゃない。
 ……だけれど、さっきのは決して、いじめられているこいつの為に言った訳ではないのだ。

 〇

 『……助けて』
 声がする。
 『……助けてください。Aさん。助けて』
 私はまどろみの中にいる。忘れかけていた記憶をアタマの中で弄びながら、いつもの布団の中で身を横たえている。
 その声はアタマの中に直接響き渡っていた。夢を見ているのかとも思ったが、しかしそれが自分の内側から響いている訳でないことは実感できた。何者かがテレパシーを使って私に話しかけて来ているかのような……。
 いや、その声は『何者か』なんかじゃない。私の友達の声だ。
 『…………Aさん!』
 私は目を覚まして身体を起こした。
 時計を見る。午前十一時。私は美容の為にも夜十時までには就寝する。顔を叩いて部屋の灯かりを付けながら、今聞こえて来た声について考えた。
 ……今のは間違いなくCの声だった。心から憔悴しきった、助けを呼ぶ悲痛な叫び声。冷静で落ち着いたCには考えられないような弱々しい声音だった。
 夢の中で友達に声を掛けられ、それによって目を覚ましたという仮説は当然成り立つ。
 だがその声の主はCなのだ。
 夢枕に現れて助けを呼ぶくらいのことは平気でして来そうな、あのCなのだ。
 「……ヤバいのか、あの子」
 私はたまらず家を飛び出した。

 ○

 家を飛び出したは良いものの、Cを探す手がかりはまったくなかった。
 泣きそうな気持で闇雲に街中を駆けずり回っていると、自宅の庭で竹刀を振りまくっているBを見かける。
 ジャージ着て汗だくになりながら竹刀を振っているBの姿に、私は縋り付きたくなるものを覚えて、庭に駆け込んで声を掛けた。
 「Bちゃん!」
 「お、おうA。何の用だよこんな夜中に」
 「Cちゃんがピンチなの」
 「あ? ピンチって、……何? どういうこと?」
 「分かんないの! けど、なんだかピンチみたいなの! 助けて」
 「……いや意味分かんないんだけど。とにかく話を」
 「良いから来い! このアホ!」
 そして竹刀を持ったままのBを連れ出し、一緒に街を駆け回りながら私は話をした。
 Cが霊感を持っていること。さっき私の夢枕に立って助けを求めて来たこと。
 今日の夕方Cと二人でYと会った時、Yが悪霊に憑かれていることをCが見抜いたこと。助けを求めるYにCが求めた条件。機嫌悪く立ち去って行ったYが言い残した不穏な言葉。
 「それマジなのかよ。信じられないんだけど」
 Bは目を丸くしている。オカルト好きの癖、こいつは根本的に頭が固い。
 「本当だよ。ねぇ! どこか心当たりとかない?」
 「ねぇよ。あたしまだCと知り合ってそんな長くないし。だいたいあいつ秘密主義だろ? プライベートで何してるかとかどこに住んでるかとか全然……」
 「つっかえないなぁもう!」
 「しょうがねぇだろそんなこと言ったって! いいよ、おまえが満足するまで一緒に街中駆けずり回ってやるからさ。落ち着けよ」
 Bがそう言った時、私は背中を引っ張られるような感覚を覚えて足を止めた。
 それはまったく根拠のないただの予感に過ぎなかった。しかし私はその予感に吸い寄せられるようにして、すぐ傍にあったパチンコ屋の廃墟の方に身体を向ける。
 潰れてしまってからもう一年以上が経過している場所だ。建物の壁や周囲を取り囲むコンクリート塀には下品な落書きがあちこち描かれ、駐車場には拾う者もいないゴミが無造作に散らかっている。
 「おいA。どうしたんだ?」
 私はそのパチンコ屋の廃墟に魅入られている。水とも空気とも違う、しかし確かに地上に存在する不思議な流体が、強い勢いで魂ごと私をそこへ引っ張り込むような気配を感じている。
 何者かが、私をそこに招いているのを、私は感じている。
 これが霊感なのか? と私は思った。目には見えないもの、音には聞けないもの、肌では感じられないもの、しかし確かに存在している何かを、感じ取る力。私は自分を呼び寄せる何かをそのパチンコ屋の廃墟に感じていた。
 「……ここだ」
 私は言う。
 「あ?」
 「ここにCちゃんがいる」

 〇

 真っ赤な車が一台、駐車場にあった。
 見覚えがある。喫茶店から去って行ったYが乗り込んで行ったあの車だ。あの時運転席にはYの彼氏であるはずのTという男が座っていたが、彼は今は車内から消えている。
 私がその車についてBに話すと、Bは竹刀を背中に担ぎ直して「行こう」と静かな声で言った。
 私は頷いた。
 パチンコ屋の廃墟に踏み入る。職員用らしき裏口から、自由に出入りすることができたのだ。
 中は暗かったが、夜の街を歩いて目が闇に馴れていたことと、窓から入って来る街の灯かりのお陰で辛うじて中を見渡すことが出来た。
 どうやらバックヤードらしいその空間の、冷たい床の上に、手足をガムテープで縛られたCが転がされているのが見える。
 「Cちゃん!」
 Cはぐったりとしていた。何者かから暴行を受けたのだろう。髪はほつれ、顔には大きな痣が刻まれて、セーラー服には男の物らしき大きな靴の痕がたくさん着いている。
 「おいC! てめぇ何されたんだよ! おい! 大丈夫か?」
 Bがそう言ってCに取りすがり、まずはガムテープを外そうとする。その時だった。
 眩しい程の光が私達を鋭く照らした。思わず目を閉じそうになりながら振り向くと、大きな懐中電灯を持った二人組の男女が訝るような視線をこちらに向けていた。
 「……あら。どうしてここが分かったのかしら?」
 その声はYのものだった。懐中電灯で私の方を照らすYは、Cの側で屈み込んでいるBの方を忌々し気な表情でじっと見つめている。隣では、赤い車の持ち主である大柄なTが、静かな表情で私達の方を高い身長から見下ろしていた。
 「……Cちゃんが助けを呼んだんだよ」
 私が言うと、Yは小首を傾げ、それから嘲るように肩を竦めた。
 「なにそれ? 携帯電話なんてハイテクなものをその子が持っているとして、使わせるような隙は与えなかったはずよ。それともまさか、霊感とやらでテレパシーを使ったとでも言うつもりかしら?」
 「その通りだよ」
 そう言って、私はCに呼びかける。
 「ねぇCちゃん。助けを呼んでくれたんだよね? ここに私を招き寄せてくれたんだよね?」
 「…………巻き込んでしまって、本当、申し訳ありません」
 Cは息も絶え絶えという口調で言った。どうにか意識はあるようだ。
 「家に帰ってる途中で……その人達に拉致されて。……Yさんを助ける為にFさんの霊を退治しろって、そう強要されたんです。だけれど……」
 「出来ないって言うのよね、そいつ」
 Yはそう言って肩を竦めた。
 「……Fさんの霊を有無を言わさず消し去ることは、私でも難しいのです。……納得して成仏してもらえるよう説得することは出来ますが、その為にはあなたの心からの反省が必要で……」
 Cが息を切らしながらそう言うと、Yは鼻を鳴らしてから冷たい声で。
 「その話は何度も聞いたわ。聞き飽きたの。でもね、私は反省なんかしない」
 「……どんな霊でも一方的に滅されようとすれば、全力で抵抗します。そうなった時、どんな危険なことが起こるのかは、わたしにも分からないんですよ。ここはあなたがきちんと罪を償うことをFさんに約束した上で、わたしがじっくりと時間を掛けて説得を……」
 「少年院に行くなんてまっぴらだわ。今すぐここでFの霊を除霊できるならあなたを開放するし、出来ないのならもっと最悪な目にあってもらう。それだけのことよ」
 そう言って世にも残虐な目でCを見下ろすY。
 Yは他人に命令する時、その相手が持つ主義や事情、裁量と言った物を考慮しない。ただ己が望む通りの奉仕ができるかどうかを問いかけ、出来ないとなるとそれがどんな無茶な要求であろうと裏切りと見なす。そして自分の望みを叶えない者に、一切の容赦はない。
 「ねぇAちゃん。あなたは私の味方よね? あなたの方からもそいつに説得しなさいよ。私が少年院に行くのは、Aちゃんだって嫌でしょう? ねぇ?」
 そう言われ、私は眉を顰め、強い意思を込めた声でこう言った。
 「駄目だよ、Yちゃん。Cちゃんの言う通り、Yちゃんはきちんと罪を償わなきゃいけない。Fさんと向き合わなきゃいけない。そうしない限り、本当の意味でYちゃんは救われないんだ」
 Yの表情が歪み、その目に青い炎のような鋭い悪意が浮かび上がる。私は構わず続ける。
 「このまま罪を隠して生きたって苦しいだけだよ。私だって昔冷蔵庫の中に女の子を閉じ込めたことを今でも後悔してる。でもね、あの時Cちゃんが、私に謝るチャンスをくれたんだ。Yちゃんだって、Cちゃんの力があれば、死んだFさんとも向き合うことが出来る。それはこの世にあっちゃいけない程、本当に幸運なことなんだよ」
 私の説得に、Yの答えは鬱陶しそうに肩を竦め、首を横に振ることだった。
 「結局あなたはそうなのよ。最後の最後で偽善者ぶろうとする。その半端なところは嫌いだったわ」
 そう言うと、Yは隣に立っている大男を顎でしゃくった。
 「Tくんお願い。そいつらを二人とも畳んで、Cと同じように縛って。Cに言うことを聞かせる人質にするから」
 私の全身に強力な緊張が走る。「分かった」と静かに答えたTは、首を慣らしながら大股で私達の前に出た。
 Tの全身は筋肉質で、巨大としか言えない程の恰幅を持ち、それでいて余計な体脂肪を一切感じなかった。放たれる凶暴な気配は、およそ戦士と呼ばれる人間の物に間違いはない。
 「Bの奴がいるからって粋がってるのかもしれないけれど……でもね、そこの剣道バカでもTくんには適わないわよ。何せボクシングで日本ランキングに乗ったこともある人なんだから。今は網膜剥離で引退して、私の彼氏になってくれてるの」
 「……相変わらずおまえは救えないな。Y」
 Bは歯噛みして言った。
 「おまえの脳みそには『反省』って文字はないのかよ。人を一人突き落として殺しておいて、全てを力づくでなかったことに出来ると思っている」
 肩に担いでいた竹刀を両手で握り、Bは背筋を伸ばして構えを取る。
 「おまえっていうクズの本質はそこだ。どんなに強い権力や暴力を背景にしても、他人のすべてを思うがままに出来る訳じゃないし、自分の過ちを無かったことに出来る訳じゃない。今こそ報いを受けさせてやるよ」
 「あら? ちょっとばかり剣道が強いからって、Tくんに勝てると思っているの?」
 「そこのボクサー崩れのことなら、何にも怖くはない」
 Bはそう言って傷だらけのCを一瞥し、Tを睨んだ。
「本当に強い奴なら、無抵抗な奴を足蹴にしたりしないんだ。……あたしが勝つ!」
 雄叫びを上げ、Bは凄まじい足さばきでTに突進する。瞬きをする間にBはTの眼前に到達し、横薙ぎに剣を鋭く振った。
 「ドォオオオオオオウっ!」
 Tは巧みなフットワークでBの剣を躱そうとした。しかしBの踏み込みがそれだけ思い切りの良いものだったのか、その先端が脇腹にヒットしてしまう。
 鈍い音が響く。Tはその場を一歩退き、同じ歩幅だけBも後ろに退いた。
 静寂が訪れる。両者は二本の足で立ち、じっと互いを見詰めながら、数秒の時間だけが流れた。
 ふとBの表情が緩む。そして竹刀を肩にのせ、戦闘態勢を解いた。
 「舐めすぎなんだよ。おまえもTも」
 Bはそう言って竹刀を肩に乗せ、戦闘態勢を解いた。
 「当たっても大したことにならないと思ってるから簡単に食らう。本気で退いていれば、そいつのフットワークなら躱せたはずなんだ。その後で思い切り踏み込まれてたら、パンチを喰らって負けるのはあたしだった」
 「何を言ってるの?」
 Yは目をぱちくりとさせる。
 「一発叩いただけの癖にもう勝ったつもり? あなたの持ってるのが日本刀かせめて木刀ならまだ分かるけど、竹刀で一発叩いたところで、鍛え上げられたボクサーが倒れる訳……」
 そう言ってYがTの方を見ると、Tは眉間に皺を寄せて絞り出すような声で
 「すまん」
 と口にして、その場で仰向けに崩れ落ちた。
 大柄なTが倒れる音は鈍く大きなものだったた。信じがたいと言った表情で、Yは床に倒れ伏すTに駆け寄る。Tの身体はぴくりともしない。腹部への強烈な打撃によって内臓なり骨なりにダメージが入り、意識を保っていられなくなったのだ。
 「信じられない……彼はボクサーなのよ。それを、たかが竹刀で……」
 「そりゃ竹刀で人を倒そうと思ったら、喉を突くかせめて面を打たなきゃいけないさ。けどな……あたしは国体優勝者だぞ? 相手を気絶させるくらいのことで、得物を選ぶ訳ねぇだろうがよ」
 BはYの方へと竹刀の切っ先を突きつけた。
 「今こそ報いを受けろ。Y」

 ○

 勝負あった。私は興奮した。Bはただの一撃で持って大柄なボクサー崩れの青年を倒してのけた。実際には紙一重の勝負だったらしいが、それでも私と同じ歳の女の子で同じことが出来るのは、世界中にBだけだろう。
 「今すぐAに警察を連れて来させるから、おまえはここであたしと大人しく待っていろ。おまえがこれまでにして来た全ての悪事を明らかにする」
 「待って! 許して!」
 そう言ってYは両手を開いて後退りながら、許しを乞うた。
 「Cさんのことなら開放するから、警察に突き出すのはやめてっ。お金ならいくらでも払うわ。百万でも二百万でも……私なら引っ張って来る方法はいくらでもある!」
 Yは壁に背中を付け、何やら懐に手を入れる。
 「いらねぇよおまえの汚い金なんか。おいA、良いからおまえ交番行って来い。誰でも良いからオマワリ引っ張って来るんだ」
 「良いけどそれやったらあんたもヤバくない? そこのボクサー崩れとケンカしたんでしょ?」
 「正当防衛で済むかもしれないし、済まなかったとしても高校辞めるくらい訳ないさ。それよりもYがCの奴にこれ以上付き纏えないようにちゃんと警察沙汰に……」
 言い終える前に、Bはその場で崩れ落ちていた。
 突然仰向けに倒れたBを見て私は面食らう。そして思わず倒れ伏したBに縋りつくと、自分の脇腹のあたりに何かが突き刺さるような感触を覚えた。
 それは小さな針のようなものだった。注射を打たれるのと酷く変わらないような微細な感触に、痛いと言うよりも訝しい物を感じる。
 だが次の瞬間に、それは訪れた。
 わたしの全身に電流が走った。驚いたことを表す比喩ではない。文字通りの電撃がその針を通して私の肉体に注がれたのだ。骨の髄まで染み渡ったそれは私の内臓に確実にダメージを与え、息も出来なくなるほどの衝撃を私に与える。
 倒れたという実感もなく、私は床に伸びていた。一歩ずつ、Yの足音が近づいて来る。どうにか首を捻ると、Yの右手に何か銃のような見た目の道具が握られているのが見えた。
 「テーザー銃っていうのよ。針を飛ばして、そこから電流を流す護身具の一種。日本では禁止されているのだけれど」
 そう言ってYはくすくす笑いながらBを足蹴にし、その顎をつま先で撫でた。そして完全に伸びているのを確認すると、その喉元にテーザー銃を突きつける。
 「今は気絶しているだけだけれど……何発も打ち続ければ多分死ぬわね」
 「……やめてください」
 声を挙げたのは、縛られたままことの成り行きを見守っていたCだった。
 「どうして……そんな愚かなことを」
 「どうせ警察沙汰にされるのは免れないんでしょう? だったらせめて本懐は遂げておくことにするわ。誘拐と暴行だけなら上手く行けば保護観察、どんなに悪くても中等中期ってとこだけど、殺人を認めたらいつ出られるか分からなくなっちゃうものね」
 そう言って、YはCの方に視線をやって、呼びかけた。
 「Fの霊をなんとかしなさい。それが出来ないなら、ここでAとBを殺す」
 「……やめよう。Yちゃん」
 私は声を絞り出した。
 「もう諦めようよ。そうやって暴力に頼って何もかも自分に都合の良いようにしようとしたって、状況は悪くなっていくなだけなんだよ。」
 「あら? 気絶していなかったの? Bの奴は伸びたのに、案外タフなのね」
 言いながら、Yは私の首元にテーザー銃を突きつける。
 「繰り返し発射して電流を流せばAちゃんもいつか死ぬわ。どうするのC?」
 「Aさんは……あなたにとってもお友達だったんじゃないですか?」
 Cが息を切らしながらそう言った。
 「脅しのつもりなんだとは思います。でもAさんの心は裏切られています。そうまでして……」
 「確かにこいつは親友よ。こいつとの小学生時代は楽しかったわ。私を恐れて媚び諂って来る奴は何人もいたけど、こいつだけは本心から私を好いて近づいて来た。だからこそ対等な口を利かれても許せたわ」
 でもね……Yはそう言って血走った目を向ける。
 「今そんなことどうでも良いわ。こいつは私の友達だけれど、最後の最後人は一人よ。私の味方は私だけ。AちゃんだってTくんだって親だって、それは同じことなのよ」
 Yは露悪的な表情でそう言った。
 「さあどうするの? 今すぐFの霊を退治しなければ、Aを殺すわ。それでも言うことを聞かなければBを殺す。それでもダメならあんたを殺す。少しでも早く決断した方が良いわ。さあ、私を助けなさい! 今すぐに!」
 「……どうやらあなたは救えないようです」
 Cは漏らすような声でそう言って、Yを睨んだ。
 見たこともない程強い敵意に満ちたその表情に……私はアイスを飲み下したような気味の悪さを覚えた。
 「にゃおにぐらすあみやくすぐらぞーなざなとりあ。ほるごおそじゃぶあみや。ざみにとら」
 Cが呪文を唱え始める。と、同時に、水でも空気でもない、しかし確かにこの空間に充満している不気味な流体がCの全身に集まって行くのを感じる。集められたそれらはCの周囲で色濃さを増し、近くにいる私に息も出来なくなるような重苦しさを感じさせた。
 「ぶらぞばらにぐらすじゃぶあみやざみにとら。ざみにとらざなどりあほるごおそ。まあとみあざみにとらじゃぶにぐらす!」
 Cの全身に染み込んだ何かが、途端に弾けたように私は感じた。破裂した風船からあふれ出たようなそれは、指方性を持ってYの方へと向かっていく。それはYの背後にある空間を引き裂いて、闇そのものが滲みだすような大きな切れ目を発生させた。
 その切れ目の向こうにあるのは亡者の国だった。私は戦慄していた。Cは現世と冥界の境目を切ったように思われた。でなければ、その切れ目から滲みだす無限の暗闇について説明が付かない。それは見通しようのない、果ての無い底なしの闇だ。亡者だけが住まうことが出来、亡者だけが耐えることが出来る極寒の常闇。
 そこにはFがいる。
 Yを殺そうと闇の中で蹲っていた、Fがいる。
 「ちょっとっ! どういうこと!」
 後ろを振り向いて、自分の背後で起きている恐ろしい光景に向けてYが叫んだ。
 「何をしたの? C! これじゃFの奴が来ちゃうじゃない!」
 Cが生じさせたその裂け目はYの身長を僅かに上回るほどの大きさだった。Yの背後で、Yを殺す機会を伺っているというFが、そこを潜り抜けてYに襲い掛かるには十分すぎる程大きな裂け目だ。
 「何をするつもりなの? どうするつもりなの? 何でも良いからここを閉じてよ? ねぇ! お願いよ! 怖いわ!」
 Cは答えない。ただ地面の方を向いて唇を結んでいる。何か力を使い果たした後のように疲れ切った表情で、しかしその面貌には隠し切れない嘆きと悲しみが浮かんでいた。
 裂け目から、二本の生白い腕が現れる。
 それはFの腕だった。強力な憎悪と殺意を持った二本の腕が容赦なくYの方へと迫って行く。
 「いやぁああああああああああああっ!」
 Yが悲鳴をあげた。Fの両腕がYの全身に迫る。最早腕だけでなくFの胴体の半分が裂け目から露出していた。FはYの全身に抱き着き絡めとるようにして、暗闇の滲む裂け目へと引き摺り込んでいく。
 「助けてっ! 助けてぇえええっ! 誰かああああああっ! あああああああああああっ!」
 Yがどれだけ脚をバタつかせても無駄だった。Fの力は強かった。現世に向けて腕が通る程の隙間しか空いていなかったこれまでと違い、今はYの全身を内側へと引っ張り込める程の隙間がある。そこに引き摺り込むことを、悪霊であるFが躊躇するはずがない。
 残ったつま先が暗闇の中へと飲み込まれ、Yの全身が現世から消える。
 そうして役目を終えたように小さくなっていく冥界への裂け目から、最後に思い出したかのようにFの顔が飛び出した。
 「ア、リ、ガ、ト、ウ」
 その声の矛先にあるCは何も言わず、顔も上げず、ただ目を閉じて一人震えていた。

 ○

 事件を正しく理解出来た者は、警察にはいなかった。
 あれからしばらく私もCもその場に伸びていたが、ある瞬間唐突にBが勢い良く起き上がった。そしてCの戒めを解いて私を起き上がらせると、鋭い声で問いかけた。
 「何があった?」
 私はありのままを話したがBは理解しなかった。そもそもこいつはCの持つ霊能力についても未だ懐疑的なままだ。Cのしたことを目の当たりにし、正しく理解できるのはこの世でわたし一人だけだった。
 とにかく事後処理は必要だというBの要望で警察に向かった。Tは逃亡を図っていたが捕まるのも時間の問題。私達はそれぞれ治療を受けた後、事情聴取の場でそれぞれにとっての真実を話したが、私の言い分が受け入れられることはなかった。
 Cがどのような説明をしたのかは私には分からない。
 聴取が終わり、警察署の前で座り込んでいる私の背後から、Cが声をかけた。
 「Aさん」
 私は振り向くことが出来ず、ただ漏らすようにしてこう口にした。
 「なかった……」
 「……はい?」
 「見捨てて……なかった」
 Yは地獄へ行った。亡者だけが住まうあの無限の暗闇の中に、生きたままの身体で引き摺り込まれた。そこでYはFに嬲られながら暗黒の世界を彷徨い続ける。光ある場所に帰ってくることはない。
 人を一人いじめ殺したのだから報いを受けて当然だというのは、もちろん理解の出来る感覚だった。だがあんなおぞましい暗闇の中に放り込まれる程の咎がこの世に存在しているのかは、甚だ疑問である。
 私はYのしたことを知っていたし、Yの友達でYと話の出来る立場にあった。私がどうにかしてやればYはあれほど悲惨な末路を遂げることはなかったのではないか? 
 「……ごめんなさい」
 Cが震えた声で言った。
 「……いいよ。Cちゃん。あなたが悪いんじゃない」
 言いながら、私は胸に棘が刺さったような感覚を覚えていた。あの状況、暴走するYを止める為に強硬策に出るしかなかったCの立場は理解している。それでもCを恐れる気持ちを抑えることはできなかった。
 Cは現世と冥界の境界を暴いて、自らの霊力を用いて裂け目を作り、Fの霊体を現世へと召喚した。Yにけしかける為に。Yを冥界へと連れ去らせる為に。
 その行為を選択したことを否定する訳ではない。ただ、それだけのことが出来るCに対して、得体の知れない君の悪さを覚えていた。その力は霊感なんて言葉ではとうてい説明できるものではない。Cは魔物だ。
 けど……それでも。
 私はふらふらと立ち上がり、顔を青白くして目に涙を溜めているCに近寄り、その華奢な身体に腕を回した。
 Cは戸惑った様子だった。私も自分のしたことに戸惑っていた。
 Cの息遣いを感じる。Cの髪や肌の匂い、その体温を全身で抱きしめる。二つの胸の鼓動が重なり合い、高まり合うのを私は感じている。
 私はCの耳元でこう言った。
 「……ありがとう」
 Cの全身に込める力を強める。
 「……助けてくれて……ありがとう」
 その一言で、Cの身体から不要な力が消えた。そしてその目の中に溜めていた涙を溢れ出させ、私の胸にしがみ付いて大きな声で泣きじゃくり始める。
 ……この子が何者なのかは分からない。霊感のある女の子としか知らない。この子が詳しいことを話さない以上、分かる必要のないことなのだと思う。
 けれどこの子のお陰で私が助かったこと。それは確かだった。そしてその為にこの子はこれからとても苦しむのだ。Yを殺したことと、向き合い続けることになるのだ。
 そんなCを一人にしたくはない。
 だから私は、この魔物のようなCに寄り添い続けたいと思った。それは出来る。そうありたい、そうじゃなきゃ嫌だと、私は思った。
 Cは泣きじゃくり続けている。その嗚咽がいつまで続くのかは分からない。いつまででも良い。寿命が尽きるまで、この世が無くなるまで、私はこの子を抱きしめ続ける。
 でも実際にはCはその内泣き止んで、私を見詰めてこう言った。
 「こんなわたしとも、これからも友達でいてくれますか?」
 私は迷わずに答えた。
 「もちろん」
 Cは握り潰した花のような顔で笑った。
粘膜王女三世

2021年05月01日 03時42分48秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:今日もあの日を夢に見る。凶夢が私に付いて来る。
◆作者コメント:夏にやれ。
 本当にただの単純娯楽作品って感じです。叶うことならこの後にABCの三人が確かな絆に結ばれて楽しく学校生活を送っている様子でも書いて、エピローグとしたいところでした。でも自分のポンコツ構成力じゃこれ以上どこ削れば枚数割けるか分かんないんで、妥協します。
 二章とか全体から見りゃ浮いてるし、まるごともっと短いエピソードと差し替えるとかすりゃよかったんかな?
 まあなんにせよ今更間に合う訳もないですし、これはこれで自分なりにきちんと頑張って書けた部分もあるんで、胸張って投下しようと思います。
 感想よろしくお願いします。

2021年05月15日 23時46分23秒
+20点
Re: 2021年05月23日 02時02分12秒
2021年05月15日 21時38分43秒
+30点
Re: 2021年05月23日 01時55分23秒
2021年05月15日 21時16分04秒
+30点
Re: 2021年05月23日 01時28分02秒
2021年05月15日 21時09分50秒
+30点
Re: 2021年05月21日 01時24分08秒
2021年05月14日 01時04分10秒
+20点
Re: 2021年05月19日 17時40分43秒
2021年05月12日 11時10分13秒
Re: 2021年05月19日 17時17分41秒
2021年05月09日 16時00分07秒
+30点
Re: 2021年05月18日 23時03分56秒
2021年05月09日 12時00分10秒
+20点
Re: 2021年05月18日 21時50分15秒
2021年05月05日 23時25分32秒
+20点
Re: 2021年05月17日 00時11分48秒
2021年05月04日 15時48分01秒
+20点
Re: 2021年05月16日 23時52分42秒
合計 10人 220点

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