菊花、本能寺に散る |
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序 戦国の世において衆道、つまりBLはそう特殊なものでも無かった。 それどころか、相当にお盛んだったと言っても過言では無い。 一説に拠れば、戦地では女が居ない為、見目の良い小姓がその役割を強いられたから。 あるいは、戦地で共に戦う武者達がより強い絆を結ぶ為、そういった行為に及んだから。 諸説はあるが、真偽の程は定かでは無い。 いずれにしてもこの時代の武将達は、現代に生きる我々の認識よりも遥かにカジュアルな感覚で男色行為を営んでいたのである。 もちろんそれは日本全国、どこでも当たり前の様に行われていた。 ――そう。 後に天下を大きく揺るがす事となる、あの家中においても。 第一章 絶対に出会ってはいけなかった出会い 時は天文16年。西暦で言えば1547年の、桜舞う頃の事だった。 尾張は濃尾平野、その片隅。 織田家の、当時の居城であった小牧山城に程近い農村に、今年で二十歳となる明智十兵衛光秀は赴いていた。 細身ながらも涼しげな目元が魅力的な、美丈夫の若武者である。 彼はその涼しげな瞳を、しかし今は忌々しげに細めて空を睨みつけている。見上げた鉛色の空からは、まるで滝の様に激しい雨が打ち付けられていた。 「ええい。先程までは晴れていたというに、話が違うではないか」 おおよそ建物らしい建物も無く、ただ田畑が広がるのみの平野。その真っただ中で急な豪雨に見舞われた十兵衛は不運を呪いつつ小走りに駆け、やがてどうにか身を潜める事のできそうなあばら家を見つけた。おそらくは近隣の農民が、農具を仕舞う為に立てた小屋なのだろう。粗末な造りではあるが、この雨を凌げるならばそれで充分。 そう思い至った十兵衛、「御免」と律儀に一言を発し引き戸を開ける。 すると、そこには既に自分と同様であろう先客がひとり、腰を降ろしていた。 扉の先に居たのは、まだ幼さの残る若者だった。 とはいえ、若いながらに身なりは整っている。背筋も正しく腰を降ろしているその少年は、十兵衛の顔を見上げると小さく会釈をした。その所作の端々にも、育ちの良さが垣間見える。 ――織田家の若衆か。 当時、十兵衛の仕える斎藤家と織田家は、幾度も小競り合いを重ねてきた言わば敵同士。そしてここは織田家のお膝元である小牧山。当然、織田家中に連なる者が居てもおかしくは無い。むしろ、敵地に単身赴いている十兵衛の方がおかしいのである。 が、さしもの十兵衛もまだ幼さの残る少年にそこまで警戒はしなかった。 「明智十兵衛と申す。この通りの雨じゃ。済まぬがしばしの間、わしも雨宿りさせて頂く」 「前田……犬千代と申します」 礼儀に則り名乗った十兵衛に、少年は折り目正しく名乗りを返す。まだ勝気さの残るその顔は、しかし少年特有の躍動感を持ちつつも、どこか少女の様に可憐な表情も覗かせる。端的に言って美少年、それも十兵衛の好みの正鵠。すなわち、どストライクであった。 「じゃ、邪魔をする」 何となくドキドキしながら、十兵衛は犬千代の隣に腰を降ろす。 横目に犬千代を覗き見ると、彼もこっそりと十兵衛に視線を送っていたが、慌てて目を逸らした。気のせいか、彼の耳は熟れた柿の如く色づいている様に見えた。 実になんとも言い様の無い、気まずさとも取れる空気が漂う。 外から屋根板を乱打する様な、豪雨の音が聞こえるばかりのこの部屋。まるでこの世に彼等二人のみが取り残されたかの様な、一種異様な空間にも十兵衛には思えた。 「ああ……犬千代、と言ったか……お互い、災難であったな」 この空間に、最初に音を上げた十兵衛が語り掛ける。 「はい」 犬千代は、小さいながらもはっきりとした声で応えた。 ――可憐だ。 十兵衛は胸のときめきを覚えた。 この時代の多分に漏れず、十兵衛も衆道を嗜む。いや、嗜むどころの騒ぎでは無い。彼は衆道が大好きである。いっそ女なぞ要らぬと考えてすらいる。 そんな彼の、しかも好みの美少年が隣に、一寸手を動かせば触れる事のできる距離にいるのだ。 そして一方の犬千代も、なにやら熱の入った眼差しを十兵衛に送っている様に思える。 ――これは、よもや類稀なる好機なのでは。 十兵衛がそう考えるのも、無理もない話であった。 しかし、彼もひとかどの侍である。 いかに好みの若衆が居たとはいえ、見境無く襲っていてはそこらの雑兵、いやいっそ畜生にも劣る所業。 もっと侍らしく、今風に言えばスマートなアプローチをせねばと思い悩んでいた所…… 「む? そなた、震えておるな」 見れば、犬千代は濡れた衣服を着たまま、両の手で身体を抱いて小刻みに震えているではないか。 春先と言えど、雨に打たれれば身体も冷える。しかもこの日は花散らしの雨とも言うべき、やたらと冷たい雨が降っていた。 「斯様に濡れた着物をつけていれば、身体も冷えようというものだ」 十兵衛はそう言うと、自らも着ている物を脱ぎ、褌一丁の姿となる。 「さ、犬千代も脱ぐが良い」 「は……はい」 犬千代は素直に脱いで、再び腰を降ろす。もちろん、先程と変わらず十兵衛のすぐ隣に。 ――こ、この様な事が、本当に起きようとは。 まるで物語の様に出来過ぎたシチュエーションに、いっそ恐れすら抱きながら、しかし十兵衛は動いた。その瞳はあたかも戦場に臨む武士の如く、爛々と輝いている。 「こうして身を寄せ合えば寒くも無かろう」 思い切って腕を伸ばし、犬千代の肩を抱く。 そしていかにもといった風に嘯くと、犬千代は今や耳どころか顔全てを真っ赤に染めたまま、彼にしな垂れ掛かって来た。 「まだ、寒いか?」 「いいえ……温かいです」 問いかける十兵衛に、犬千代はうっとりとした瞳で答える。 男同士、雨宿りの中、裸で抱き合い。何も起きない筈がなく…… 豪雨に晒されるあばら家。激しい雨音の中、微かに犬千代の 「アッーーー!!!」 という嬌声が聞こえたとか、聞こえなかったとか。 ★ それから幾許の刻が過ぎたろう。気が付くと雨は止み、空は何事も無かったかの如く晴れ渡っていた。 「ふむ……厄介な通り雨であったな」 腕に抱いた犬千代にそう囁きかけると、彼は俯きつつ「はい」と小声で答える。 その可憐な振る舞いに、色々と元気にさせられた十兵衛。雰囲気と勢いにまかせ、今まさに第二ラウンド突入するべしと思った、しかしその矢先。 犬千代―― 犬千代はいずこ―― 遠くから、やたらと響く高い声が耳を襲った。 「!? 若様!」 犬千代は、その声を耳にするや飛び跳ねる様に十兵衛の元を離れ、いそいそと身支度を整える。 そして一通りの支度を終えると、勢い良く引き戸を開け、 「若様! 犬千代はこれにござります!」 弾ける様に外に出た。 「おお、犬千代。やはりここであったか。先刻の雨は災難であったな」 そこに現れたるは、犬千代より少しばかり年上の少年。しかし、そのいでたちは奇妙なものだった。 総髪を紅色と萌葱色の糸で茶筅の如く縛り上げ、衣服は浴衣を片肌に着流している。 腰に巻いた荒縄には瓢箪や火打袋を幾つも下げて、履いているのは虎皮と豹皮で拵えられた半袴。腰に挿した刀の鞘は、目にも鮮やかな朱色に塗られていた。 これぞ、まごう事無き傾奇者。現代風に言えばヤンキー。それも、最近よく見る夜中にドンキホーテの駐車場にたむろしている様な凡百のマイルドヤンキーでは無い。昭和の時代に週刊少年チャンピオンで連載されていた不良漫画から抜き出した様な、重度のヤンキー野郎であった。 その傾奇者は、さも当然といった風に犬千代の肩を抱くと、耳元に囁く。 「大事ないか」 途端に、犬千代は先程よりも更に可愛らしく頬を染め、乙女の様に呟いた。 「はい……そちらの方が、色々と良くしてくださいました……」 「ふむ?」 傾奇者は、そこで初めて十兵衛の存在に気付く。 一瞬、殺気にも似た鋭い視線を十兵衛に送った彼は、それでも次の瞬間には真顔に戻り、向き合った。 刹那、十兵衛の顔が緊張に引き攣る。 「明智十兵衛――光秀と申します。犬千代殿とは、共に雨宿りをしておりました」 傾奇者の視線に、十兵衛は頭を下げ、慇懃に答えた。その背中には冷たい汗が走っている。 「そうか。わしは織田吉法師じゃ」 ――や、やはり……この者、織田の大うつけではないか! 何たる迂闊! 選りにも選って、わしはあの大うつけの小姓に手を付けてしまったと言うのか!? 「犬千代が『世話になった』ようじゃな」 下から、ねめつける様な瞳で見上げて来る吉法師。 無論、彼は自分の男が寝取られていた事を察知しているだろう。 ――これはよもや、只事では済むまい。 ここに至り、十兵衛は覚悟を決めた。 吉法師。すなわち織田家の跡取りと目されているこの小僧、巷ではとんでもないワルガキ、当時の言葉で言う『大うつけ』と評判の男である。 そして、先程一瞬放った殺気から察するに、この者はおそらく腕も立つ。まがりなりにも大名の子だ。それに相応しいだけの鍛錬をしている事は、その体つきを見ただけでも容易に想像ができるというもの。 そんなうつけ者の男に手を出してしまったのだ。刃傷沙汰となっても不思議では無い。 ――しかし、もしも斎藤の家臣であるこのわしが、織田の嫡子と刃を合わせた事が公となったら…… 当然、御家の一大事となる。幾多の小競り合いをしてはいるものの、ここ最近大きな戦の無かった両家。それを再び戦火の海に叩き込み兼ねない事態に陥っている事に、十兵衛は恐怖した。 ――致し方無し。わし一人の行いにて戦となるは、何としても避けねばならぬ。この上は大人しく斬られるより他はあるまい。 一瞬、吉法師の殺気に呼応して発した自らの気を、十兵衛は抜いて頭を垂れる。 「ほう……潔く斬られるか」 そんな彼に、吉法師はいっそ楽しげに瞳を細めた。そして一歩あゆみ寄ると、鼻が触れそうな程に顔を寄せて。 「そう言えば。美濃の蝮に切れ者の懐刀有り……その名を、明智なにがしと風の噂に聞いた覚えがある様な、無い様な」 ニヤリと笑みを浮かべると、いつの間にか手にしていた扇子で十兵衛の首をトンと軽く打つ。 「もし、それがしが蝮の懐刀であるならば……尚の事、斬るべきとは考えませぬか」 せめてもの思いで目を合わせ、問いかける十兵衛。 「フッ……面白い奴よ」 吉法師はそう小さく笑うと、舌を出してぺろりと重兵衛の唇を一舐め。そうしてから素と離れ、再び犬千代の肩を抱き背を向けて。 「わしもいたずらに戦など起こしとう無い。今日の所はその首、預け置いてやろう」 言い残すと飄々と去って行った。 ――噂など、当てにならぬものよ。織田吉法師、あの者は大うつけなどでは無い。あれはきっと国を持つ者ぞ! 歩み去る二人を目で送りつつ、十兵衛は内心叫びたい気持ちに襲われた。 尾張の大うつけと呼ばれていた、織田吉法師。後に家督を継いで織田上総介信長となる人物との、これが決して出会ってはいけない、運命の出会いであった。 第二章 流されて織田家臣 あの、運命の出会いより多くの歳月が過ぎた。 時はまさに永禄10年。つまり西暦1567年。 場所は越前、朝倉義景が居城を構える一乗谷。その片隅の、とある小さな寺にて…… 「のう十兵衛。義景殿は、上洛する意思など無いのではないか?」 十兵衛の胸板に、甘える様に頬を寄せつつ義昭は呟いた。 「畏れながら……大殿は、一向宗との戦も抱えておりますれば……」 「フフ、そちも律儀者よの。良い……わしには判るのじゃ。義景殿はわしを担いで上洛など、内心では御免被ると思っておるに相違無い」 「それは……」 「うむ。良い……それより今は……忘れさせてはくれぬか」 潤んだ瞳で、義昭は十兵衛を見つめる。 「は。ご命とあらば」 十兵衛は義昭に笑顔を返すと、そのまま抱いて身体を入れ替え、伸し掛かる。 「ああ、十兵衛……」 義昭はうっとりと十兵衛にしがみ付き、彼に溺れる。 何という事であろう。 明智十兵衛光秀、この日本全ての武家の頭領である公方、足利義昭すらその毒牙に掛けているではないか。 一体、何故こんな事になっているのか? これを一々語れば枚挙に暇が無いので、ざっくり語るとしよう。 あの、出会ってはならなかった運命の出会いより九年程経った頃。 当時十兵衛が仕えていた斎藤家の当主、斎藤道三が嫡男義龍の謀反により討たれ、それに伴い十兵衛も斎藤家を追われた。 それから色々あった末、彼は越前朝倉家に仕え、更に何やかんやあった挙句朝倉を頼って逃げて来た将軍、足利義昭と深い仲になっていたのだ。 思った以上にざっくりとした説明になってしまったが、この辺を詳しく説明すると本当に大変な事になってしまうので、どうかご容赦願いたい。 という事で。 一戦を終え再び寝物語、ええと今で言うピロートークを再開した二人。無論、議題は義昭の本願である上洛であるのだが―― 「公方様が、真にご上洛を望まれるのであるならば……頼るべきは朝倉では無しに」 「ふむ。朝倉では無とするなら、それはいずこ」 十兵衛は一息溜めた後、こう呟いた。 「公方様が頼られるは……織田家でございましょう」 そう。『あの』吉法師――信長の率いる織田家である。 この時代、既に信長を『大うつけ』などと呼ぶ者はどこにも居ない。 父信秀の死により家督を継いだ信長は、身内の争いに終始していた尾張を平定し、それどころか当時『東海一の弓取り』と称えられていた今川義元をも討ち取るという武勲を上げた。 そして遂に信長は、長年の宿敵であり義父の仇でもある斎藤義龍を降し、尾張に続き美濃を支配下に納めたのだ。 岐阜に拠点を移した彼は『天下布武』、すなわち『武力で天下を治めるよ』をスローガンとして掲げる程の、まさに今が旬のイケイケ状態。そんな織田家に、目聡い十兵衛は以前から注視していたのであった。 ★ という事で、例によって何やかんやした挙句、十兵衛は今岐阜城に赴いている。その目的は無論愛する公方、足利義昭の上洛についてである。 「なるほどのう。確かに、愚鈍な義景では公方様を持て余すであろう」 謁見の間にて、今やひとかどの大名となった織田信長は楽しそうに頬を緩めつつ発した。もちろん、今となっては以前の様に傾いた格好などしていない。 「誠に遺憾ながら……斯様な状況にあっては、公方様も御心を安んじる事叶いませぬ。この上は、織田様にお縋りするより他無く……」 十兵衛は苦虫を噛む顔で頭を下げる。 いかに頼りないとは言え、朝倉家にはかつて拾ってもらった恩義もある。その恩ある当主をディスられ、それどころか肯定しなければならないのだ。こういう所は妙に律儀な彼には、中々に辛いものがある。 しかし愛する公方、足利義昭の為と思えばこそ、この様な真似もできるのであった。 そんな彼の想いが見えているのか、いないのか。信長はいっそ無邪気とすら言える笑顔で頷くと、手にした扇子でパシンと膝を叩き。 「良かろう。公方様には、『大船に乗ったつもりで当家に参られたし』と伝えよ」 朗々と言い放った。 もちろん、信長も単なる善意で足利義昭を助けようというのでは無い。 彼を奉って上洛を果たすという事が、どの様な意味と威力を持っているのか。それを知らぬ大名など居ない。 であるにも拘らず、これまでどこの家も手を挙げなかったのは、単にそれを行う余裕が無かったからである。隣国との戦しかり、財政しかり。(ついでに言うと実際に上洛しようとした今川義元も信長にサクっと倒された) だが、今川を跳ね除け斎藤を降し、徳川や浅井と同盟を結んだ織田家には、今やそれだけの力が有る。そして何より日和見主義の朝倉義景と違い、彼にはそれだけの能力と実行力が有る。 ――やはり織田家を頼って正解だったか。それにしても、織田殿……拙者の事を覚えているであろうか。 大任を果たした十兵衛は、もうひとつの重大な懸念に胸を焦がす。 何といっても、彼はかつて信長の小姓をNTRした前科があるのだ。 彼が抱いたその小姓も後に元服し、幾多の戦で武功を挙げ、今では『槍の又左』の異名で恐れられる侍となっている。 その、かつての美少年を自分の槍でほにゃららしちゃった事について色々と思い出しつつ、信長の顔を伺うと…… 「時に明智十兵衛。そのほう、以前わしと会った事が有るのう?」 ――やっぱり覚えてたーっ! 脂汗を滴らせながら、十兵衛は再び頭を深く下げる。 「……覚えておられましたか」 「忘れようも無いわ。何と言っても犬千代がそちの『世話になった』からのう」 「い、いかにも」 焦る十兵衛に、信長は先程とは違う意地の悪そうな笑みを浮かべた。 「のう十兵衛。あの時の事を覚えておるのなら、わしが何と言ったかも当然覚えておろう?」 「あの時、申されたお言葉と仰ると……」 「わしはそちに、『今日の所はその首を預け置く』と言った。それを返してもらおう」 ――え!? 何だよそれ! ――あの時は許したのに、今になってどうしてそんな事言うんだよ! ……などという内心のざわめきを、流石に一切顔には出さず。 「それがしの首を、ご所望でござりますか」 十兵衛は努めて涼しい声で言った。 信長は、そんな十兵衛に悪童の様なうつけスマイルを返しつつ。 「うむ。明智十兵衛光秀、公方様をお連れせし後は、そのまま当家に仕えよ」 「なんと!?」 「どうせ此度の件で朝倉には居づらくなろう。もとより、そちについてはかつて義父(まむし)殿より良く聞いておる。義景などという無能者の下では無しにその剛腕、織田家で存分に振るってみるが良い」 見よ。織田信長、かつて自分の小姓を寝取った十兵衛を自軍にスカウトしているではないか。 二十年前のあの日。十兵衛が、まだ吉法師と幼名を名乗っていた信長の本質を括目していた様に、彼もまた十兵衛の力量を幼き頃より見抜いていたのだ。まさに戦国の覇者、恐るべき眼力である。 こうして翌、永禄11年。織田家は将軍足利義昭を迎え入れ、それに伴い明智十兵衛光秀も朝倉を去り、織田家に仕える家臣となった。 あの、運命の出会いより実に二十年。遂にふたりの運命は強く、大きく交わり始めたのだった。 第三章 なのにすれ違うふたり 足利義昭を迎えた信長。翌年には早速上洛を果たし、義昭は晴れて第一五代征夷大将軍となった。 それに伴い、織田家の家臣となった十兵衛も早速頭角を現す。ここから彼は異様とも言える速さで出世コースを驀進し、やがて木下藤吉郎と並んで織田家のツートップとなるのであるが…… 世の中、そう全てが上手く行くものでも無いのであった。 「何ですと! 公方様が、その様な……」 「うむ。あの御仁、自分が誰のお蔭で将軍になれたのか、忘れてしまったのであろうな」 信長より伝えられた言葉は、十兵衛に取って衝撃的なものであった。 あろう事か、足利義昭が織田家に対し反旗を翻そうといている。信長は彼にそう語ったのだ。 あくまでも室町幕府の再興のみを目指していた義昭は、天下布武をスローガンとしてヒャッハーな戦を続ける信長と実際にはウマが合わず。その方向性の違いから、いつしか解散寸前のロックバンドの如く険悪な仲となっていたのだ。 この時既に義昭は上杉や毛利、武田といった有力な大名に密書を送り、後に云われる『信長包囲網』を結成しようとしていた。何気に織田家の大ピンチである。 「十兵衛。その方、わしと公方……どちらに着くのじゃ?」 戦場さながらの鋭い視線で、信長は十兵衛を射る。これにはさしもの十兵衛も、まるで心臓を鷲掴みにされた様な心地に襲われた。 暫く無言で視線を交わし合った後―― 十兵衛は姿勢を直して深く頭を下げ。 「それがしは、織田家の家臣にござりますれば」 彼の発した言葉に信長は、 「であるか」 と満足そうに答えた。 実を言えばこの頃、十兵衛と義昭の仲も疎遠になりつつあった。 将軍として京都に居を構えた義昭と、織田の家臣として畿内を駆け回り戦に明け暮れている十兵衛。『会えない時間が愛育てるのさ』という歌の文句の様には行かず、ふたりの心はまるで足利家と織田家の様に、徐々に離れていったのであった。 いつの時代も、遠距離恋愛は上手くいかないものである。 そしてこの後、十兵衛は修羅道の如き戦の海へと飲まれて行くのだった。 金ヶ崎の合戦で木下藤吉郎や池田勝正と共に殿軍を務めたり、姉川の合戦で徳川家康と一緒に戦ったり、比叡山を焼き討ちして女子供まで皆殺しにしたりと、相当に荒んだ日々を余儀なくされる。 そして、荒んだ彼を癒してくれるもの……それは当然、衆道であった。 織田家の家臣となってからも、彼はその持前のバイタリティで家中の美男を片っ端から喰っていたのだ。 しかし。当然ながら、全ての美男子と夜を共にできた訳では無い。家中には当然、男色趣味を持たない者も居る。木下藤吉郎などはその筆頭だ。 そして何より―― 彼が目を付けた男の内、極上の美少年は大抵、既に他の男のモノとなっているのである。 他の男とは、勿論…… ★ 「菊千代! そなた菊千代では無いか!? うむ、やはりそうだ。御父上に良く似ておるのう」 これはまだ、十兵衛が織田の家臣となって間もない頃の話。 その日、十兵衛は岐阜城内にて一人の美少年侍の顔を見るやそう叫んだ。 彼の名は、堀秀政。 かつて十兵衛が斎藤家に仕えていた頃、男男の仲であった堀秀重の嫡男である。 「いかにもそれがしは菊千代……今は元服し、秀政を名乗っておりまする。お手前は一体どちらにございましょう?」 「おお、これは失礼仕った。拙者は明智十兵衛と申す。この程織田家に家臣として仕える事となったのじゃが、以前は斎藤家に仕えておった。そなたの御父上秀重殿には、その頃随分と『良くして』頂いておってな」 全く以て恐るべし、明智十兵衛。彼は持ち前の獣の様な嗅覚で、かつて関係を持った男の嫡男を見事探し当てていたのだ。 そしてこの男、勿論それだけでは済ませない。 父、秀重の『味』を知っている彼である。となれば当然、息子の事も味比べしてみたくなるもの。 十兵衛、瞬時にそこまで考えると秀政の手を取り。 「今宵、一献どうじゃ。秀重殿の若かりし頃の話など、語ってやろうぞ」 早速コナを掛け始めた。 この時十兵衛は既に齢四十を重ねた、要するにナイスミドルである。その、枯れ始めた男特有の渋い魅力に大抵の若侍はコロリとやられてしまうのであった、が。 「おお、菊千代ここにおったか……なんじゃ十兵衛、菊千代と知己があったのか?」 現れたるはまさに、当主織田信長に他ならない。彼は嫌らしい程、にこやかに微笑んでいた。 「上様……」 彼の顔を見るや、菊千代はうっとりと目を細めつつ艶やかに跪く。 そんな菊千代に信長は鷹揚に頷くと、 「良い。それより菊千代、今宵わしの臥所に参れ」 機嫌の良い声で、そう命じた。 「御意にございます」 菊千代は顔を上げると、乙女の様に答える。 「ははは、愛い奴よ。今宵も菊千代の菊をとくと愛でてやろうぞ」 信長は最後にチラリと十兵衛の顔を見ると、そう言いつつ場を去って行った。 ――うぬ! 菊千代、既に殿のモノとなっておったか! 十兵衛は悔しげに顔をしかめ、唇を噛む。 今の信長の表情は、明らかに十兵衛を嘲笑いつつ牽制していた。 『そう何度も、わしの小姓(おとこ)に手を出せると思うなよ』 信長は言外に、十兵衛にそう言っていたのだ。 これは、若きし頃に犬千代をNTRされた信長の、手の込んだ意趣返しだったと言えよう。 そしてこの後も、同じ様な事は何度も続いた。 家中に美しい童を見つけ、我が物にしようとするとその者は大抵、信長が既に手を付けている。いくら十兵衛が切れ者で、最近家中で破竹の出世を成し遂げている身だとて、流石に当主が相手ではどうにもならなかった。 自慢げに若衆をはべらし、悦に入る信長。 その姿を見るにつけ…… 十兵衛の心中に少しずつ、暗く熱い何かが溜まっていく事に、彼は気付いていたのか、いなかったのか…… ★ しかしそんな十兵衛の溜まった鬱憤は、彼を突き動かす暗黒的エネルギーとなっていたのかも知れない。 それが証拠に、信長に丹波の平定を命じられた彼は、この難事を見事に完遂した。 親将軍派の土豪が多く、また険しい地形故に攻め難く守り易い丹波。その攻略は、あの信長をして『何年掛かっても良い』とまで言わしめた程の、それは困難に満ちた戦であった。しかし彼は四年に至る苦戦の末、ついにそれを成し遂げたのだ。 当然、これには信長も狂喜した。 そして功労者である十兵衛に褒美として丹波一国を与え、結果彼は34万石という織田家臣でも最大の領地を与えられる身となったのである。この辺に関しては、信長もちゃんと彼の苦労に報いていたのだった。 織田信長と明智光秀。 確かに、一面において彼等は理想的な主従関係だったかも知れない。 信長の、他に類を見ない先進的な思考を十兵衛はしっかりと理解し、それを実践する能力も持っていた。 また信長も、十兵衛ならばと思えばこそ彼に難事を託し、成し遂げた暁には法外とも言える褒賞で報いた。 同様の素質を持った木下藤吉郎、つまり羽柴秀吉と彼が家中で異例の出世を果たしたのは、ある意味必然ですらあった。 しかし―― 時が経ち、織田家の力がどんどん増していく程に、ふたりの間には徐々にすれ違いが生じ始めていた。 それは、あるいは肥大していく信長の支配欲が引き起こしたものなのかも知れない。 それとも、日々エスカレートしていく無茶振りに対する恨みだったのかもしれない。 いずれにしろ、少しずつ狂い始めた歯車。それを決定的な物にしてしまったのは……例によって一人の美童であった。 ★ 天正5年、すなわち西暦1577年。その春先の出来事である。 今や十兵衛の居城となった坂本城に、見目麗しいひとりの美童が現れた。 のちに絵本太閤記にて『元来聡明英知の美童』と書き記される程の、それは道行く誰もが見振り返るレベルの、超絶的美少年。その名を森蘭丸と云った。 衆道に興味の無い者ですら思わず見惚れてしまう程美しい彼に、もちろん十兵衛が目を付けていない筈が無い。 もとより蘭丸は、織田家臣森可成の嫡男である。かつて浅井朝倉両家と勇敢に戦い、そして散った彼の忘れ形見である彼を、十兵衛は幼い頃より知っていた。そして可成の菩提寺に程近いこの坂本で、彼は何かにつけて蘭丸に目を掛けていたのだった。 そう。この恐るべき衆道モンスター明智十兵衛、まだ幼い内から蘭丸を手なずけ、育った所を美味しく頂いちゃおうという魂胆だったのである。 しかし勿論、そんなに上手く事が進む筈も無く。 「お蘭よ。改まった格好をして、今日は一体どうしたのじゃ?」 正装で城に現れた蘭丸に、十兵衛は訝しげに声を掛ける。 そんな彼に、蘭丸は鈴の音の如き美しい声で応えた。 「この度、『信長様の近衆として仕えよ』との命を受けました。つきましては坂本を去る前に、大恩ある十兵衛様にご挨拶をと思い、まかり越しましてございます」 「なん……じゃと……」 彼から突き付けられた言葉に、十兵衛は思わず膝から崩れ落ちた。 ――またか! またしても大殿は、わしが目を付けた美童をかすめ取るのか! これで一体何人目か! それ以降、何を話したのか十兵衛は一切覚えていない。只々、愛する美童を奪われる悲しさと悔しさに身を焦がしていた。 やがて歩み去る蘭丸の背中を見つめつつ。 「大殿よ……」 我知らず、彼は呟いていた。 そして思い起こす。 もう、遥か昔。小牧山で出会った時の事。 月日が流れ、岐阜にて再開した時の事。 家臣として仕えた日々の事。 目を付けた美童を奪われ続けた事。 考える程に、その思念は一つの想いに収束していく。 ――大殿。いやさ、織田信長! 十兵衛の瞳に、今まで無かった妖しげな光が灯り始めた。 そう。 この時を境に、彼は主君に対する認識を変えたのだ。 第四章 ご乱心トリガー いよいよ時は天正10年。そう、1582年である。 因みにこの年号、『いちごぱんつの本能寺』と覚えると絶対に忘れないので、どうか心に留め置いて欲しい。 閑話休題。 この年の春、皐月の頃。織田信長は長年の盟友にして愛人の徳川家康を安土城に招いた。 表向きは『長年織田家を支えてくれた彼に、感謝の意を伝える為』というものであったのだが…… 「十兵衛。そなたを見込んで話がある」 此度の饗応役を命じられた十兵衛は、その宴の直前信長にこう囁かれた。 「家康の膳に一服盛るのじゃ」 「な!? なんと申されますか!」 さしもの十兵衛も、信長のこの言葉には耳を疑った。 「家康に、毒を盛れと言っておる」 信長は大事なことなので二回言った。 「されど大殿。織田と徳川は長年に渡り強固なる同盟を築き上げ、また家康様は大殿の……」 「それよ。竹千代も、昔は可愛かったが今では只の狸親父じゃ。故に、もう何度も手を切ろうとしたものの、あ奴は戦と同様しつこく食い下がりおる。この間なぞ『わしと別れとう無くば、嫁と息子を斬れ』と無理難題を吹っかけた所、本当に斬りおった。わしはもう、あ奴の相手なぞしとう無い」 ……何という事であろうか。 織田信長。長年連れ添った愛人の徳川家康すらも、その相手が億劫となったら亡き者にしようと言うのだ。いかに相手がメンヘラだとて、到底許される話では無い。まさに第六天魔王、悪鬼羅刹の所業である。 「し、しかし……いくら大殿のご命と言えど、その様な事、それがしには……」 さすがに十兵衛、これには首を縦に振れない。いくら信長の命令と言えども、できるものとできないものがある。徳川家は長年織田を支えてくれた盟友の中の盟友であるし、彼からすれば家康も割と好みの範疇である。 「十兵衛……よもや、このわしの言う事が聞けぬとは言うまいのう」 信長はかつて小牧山の時と同じ様に、鼻が当たる程の距離まで詰めて十兵衛を睨む。 「…………そ、それがしは」 言い淀む彼に、信長はかつての時の様に唇を舐めるような事はせず。 「首尾良くやるのじゃぞ」 言い捨てて、その場を去った。 ――い、一体どうすれば良いのだ。 思案に暮れる十兵衛。 これが、以前の彼なら心苦しく思いつつも、信長の命令に応じて膳に毒を盛ったであろう。しかし、今の彼は違う。もはや、ただ漫然と信長の命令を聞くだけの従順な家来では無かった。それは織田家ナンバー2という矜持であり、また最近特に酷くなってきた信長の無茶振りに対する反発心でもあり、またあるいは…… ともかく、熱が出る程熟慮した結果、彼は主君の命に背いたのだった。 ★ で、饗応の宴が始った。 家康はメンヘラよろしく信長にべったりである。 信長は、流石にそれを態度に出さなかったものの、家康の相手に辟易しているのが何となく見て取れた。 時折り、信長は十兵衛の方をチラッ、チラッと見つつ、 『おい、まだか』 『早ようせい』 『一体どうなっておるのだ』 と目で訴えている。 十兵衛はそれを強い心で耐え続け、どんどん険しくなっていく信長の視線を凌ぎ続けた。 しかし、いよいよ宴もたけなわとなった頃。 「十兵衛! これは一体どういう事じゃ!」 遂に気付いた信長が、怒髪天を衝く勢いで手にした杯を彼に投げつけた。 突然の乱心に、場が一気に静まり返る。 もちろん、家臣一同もそして家康も、信長が癇癪持ちである事は良ぉく知っている。皆はさり気なく場所を開け、部屋の隅に寄った。 そして出来上がった広間に、平伏する十兵衛と怒り心頭の信長。あっという間にプロレスのリングみたいな絵面となっているではないか。 「わしの言う事が聞けぬと申すか! このキンカ頭が!」 「何卒! どうぞ、何卒!」 「ならぬわ!」 土下座する十兵衛を信長は蹴り転がすと、そのままマウントポジションを取って上から殴る殴る。 とても大名が腹心に行う行為では無いが、しかしそれを咎める事のできる者など居ない。唯一できそうな十兵衛こそが、その標的になっているからだ。そして、周りの者達はどうして信長がここまで激怒しているのか、皆目見当も付かない。真実を知っているのは、殴る信長と殴られている十兵衛のふたりだけなのである。 「この痴れ者が! よくもこのわしをないがしろにしおったな!」 怒り狂った信長は、更に十兵衛をフルボッコする。それは見ていた小姓達が思わず泣き出す程の、烈火の如き形相で。 「織田殿! 何があったかは知りませぬが、どうぞそのくらいにしておかれませ」 ここに至り、さすがにこれ以上はマズいと感じた家康が止めに入った。 「ええい! 離せ――」 思わず振り払い、突き飛ばしそうになったものの。 しかし信長、さすがに徳川の家来も多く参列しているこの場で、彼の面子を潰すのもよろしく無いと思い至る。この辺は流石に戦国の覇者、瞬時の計算が働いた。 大きく息を吐いて自らを落ち着かせると、蹲る十兵衛に視線を落とし。 「もう良い。貴様はとっとと坂本に戻れ、痴れ者め」 そう言い捨てて場を後にした。 信長が去り、周囲がざわめき出す中。 十兵衛は心身の痛みに耐えるが如く、ただ唇を噛み締め震えていた。 ★ 家康饗応の場にて、明智十兵衛が大殿にフルボッコにされる。 この噂は、瞬く間に織田家中に広まった。 しかし、この件に関して十兵衛に同情的な意見はそう多く見られなかった。余所者でありながら異例の出世を果たし、しかも家中にて数多くの男をその毒牙に掛けている彼は特に、旧来の織田家臣団からは蛇蝎の如く嫌われているのだった。 そんな十兵衛が、顔の腫れも引かぬまま坂本の居城に帰った暫く後。 水無月に入って早々の頃、安土より重大な知らせが入った。 「……すると、大殿自ら毛利攻めを行うと?」 「左様にござります。備中高松におられる羽柴殿より『毛利勢存外に手強く、かくなる上は大殿の御威光にお縋りするより他無し』とのご要請を受けました故、自ら陣頭にて指揮をお取りになられる次第」 使者としてそう彼に伝えるは、誰あろう森蘭丸である。 かつてあれ程可愛がって育てた美童は今や立派な若侍として、堂々たる立ち振る舞いをしている。そして彼の瞳に、もはや十兵衛は映っていなかった。そう、彼はもう信長だけの男なのである。 「……ふむん。いかにも筑前殿らしいお考えじゃ」 蘭丸の態度に寂寥の念を覚えつつ、十兵衛は小さく鼻を鳴らした。 実を言えばこの時、筑前守こと羽柴秀吉は毛利にさほど手を焼いていた訳では無かった。 しかし抜け目の無い彼は、自分が目立ちすぎている事を自覚しているが故に、あえて信長に助勢を頼んでいるのである。要は『自分じゃあちょっと手に追えないんで、先輩お願いしますよぉ』と上司に媚を売る部下ムーブメントである事を、彼は見抜いていた。 「大殿の御出陣、承知仕った。して、大殿はそれがしに何と?」 「明智殿におかれましては、『先陣を務めるべし』とのお達しにございます」 「左様であるか。承った。先陣を任されるは武人の誉れ。大殿にはその旨、お伝え願いたい」 「承知致しました。その様にお伝え致しまする」 用事を済ませ、去ろうとする蘭丸に―― 「待たれよ。京にて出立の軍勢を整える間、大殿はいずこにおられるか」 彼の問いに、蘭丸は変わらぬ鈴の音の如き声で答えた。 「本能寺にござります」 終章 本能寺の恋 かつて十兵衛が丹波攻略の本拠地として使っていた、丹波亀山城。 その一角にて、彼の率いる明智家臣団の重鎮が顔を合わせていた。 従弟である明智秀満。 同じく明智光忠。 斎藤利三。 藤田行政。 溝尾茂朝。 俗に明智五宿老と呼ばれる彼等は当然、十兵衛とは男と男の契りを交わした仲である。 愛するその重臣達に向かい、十兵衛は語った。 「積年に渡りし、我が想いの丈……今こそ大殿に全て打ち付けようぞ」 そして、一同の顔をゆっくりと見据え―― 「我が獲物は、本能寺にあり」 決して大きくは無いその声は、しかし彼等の心に轟雷の如く響いた。 ★ ところで襲撃される側の信長は、この時どんな感じだったのだろうか。 ちょっと覗いてみるとしよう。 翌日の深夜、本能寺にて。 その日、彼は息子信忠と久々に飲んだり、本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁頂点対決を観戦したりして、上機嫌のまま床に就いていた。 ところが夜明け前―― 突然響いた鬨の声を聞くや、彼は即座に目を覚ました。程無くして寝間着姿の蘭丸が、押っ取り刀で現れる。 「これは何の騒ぎじゃ」 信長の問いに、蘭丸は絞り出す様な声で答える。 「寺が、兵に囲まれております……謀反にごさいます!」 「謀反……いかなる者の企てじゃ。旗印はどうか」 「旗は……むらさきに、桔梗の印……」 彼の言葉に、信長は一瞬愕然とした顔を見せ。 「十兵衛か……」 そう呟くと再び蘭丸に向き直り、今度は天をも衝く大声で吠えた。 「弓を持て!」 「はっ!」 駆け出す蘭丸の背を見つつ―― 信長は呟いた。 「十兵衛……彼奴を甘く見過ぎておったか……」 ★ 一方の、攻める十兵衛。 彼は戦の趨勢には何の心配もしていなかった。何と言っても彼の軍勢は3千にも及び、対する信長は小姓や番衆等の手勢がわずかに百名程。しかも戦上手と評判の彼が、自ら指揮をしているのだ。これで負けない筈が無い。 にも関わらず、彼は何故か落ち着きの無い様子であった。 「まだ正門を崩せぬか」 「は。大と……織田勢、この場を死地と定め、尋常ならざる抵抗を続けておりますが故」 「左様か」 腹心中の腹心、明智秀満の返答に十兵衛はうわの空で答える。 刹那―― 「正門が崩れましてございます!」 駆けて来た伝令が叫んだ。 十兵衛、その言葉を聞くや床几から立ち上がり、愛刀を手にすると。 「左馬助! この場を任せるぞ!」 「と、殿!?」 秀満が止める間も無く走り出す。 彼が向かう本堂には、早くも煙が立ち始めていた。 ★ 「大殿! 大殿はいずこ!」 抜身の刀を手に、十兵衛は堂内を進む。 既に誰かの手で火が掛けられたのだろう。辺りは俄かに煙が立ち込め始めていた。 それをまるで気にせず、血走った瞳で彼は叫び続ける。 何枚もの襖を開き、やがて最奥の間に差し掛かろうとした、その矢先。 「ほう。十兵衛自ら来おったか」 廊下のその奥に佇む、白装束。 返り血なのか己が流したものか、所々を朱に染めつつも隆と立つ者の隣には、やはり白い装束を纏ったやや小柄な影が寄り添っている。 その顔を見た瞬間、十兵衛は総身に粟立つ感触を覚えた。 「大殿……」 十兵衛を見据えた信長。斯様な状況にも関わらず、まるでその場の支配者が如き貫禄すら彼は纏っている。 「よもや貴様に裏切られようとは。なんじゃ、己が手で天下を掴みとうなったか」 「…………」 「それとも、余程にわしが憎いか。そうまで菊千代やお蘭に焦がれておったか」 「……それがしは」 自分が刃を向けた、つい先程までの主が放つ威容に飲まれぬ様、丹田に力を籠め。 彼の目力を正面から受け止めて。 言った。 「それがしが焦がれておったのは大殿。あなたにございます!」 「……………………今、何と?」 「天下でも美童でも無しに。それがしが誠に手にしたいもの。それは大殿にございます」 「え? いや、その……誠であるか?」 「誠にござります」 ああ、何たる事か! 何たる事か! 何たる事か! 明智十兵衛光秀、その真の狙いは天下でも美童でも無しに、主君織田信長その人だったのである! 「それがし、ここに至りようやく気付き申した。小牧山にて出会ったあの時より、それがしは心の奥底でずっと、あなたに恋焦がれていたのだと……美童を奪われし事も、無理難題を突き付けられし事も、激しく殴打されし事すらも、心の奥底では恭悦していたのだと!」 そのままずいっと歩みを進める十兵衛。今度は彼がいつぞやの様に、鼻が当たる距離まで詰め。 「大殿、それがしのものになってくだされ」 口説いたッ! 「す、すると貴様は、わし欲しさに、これだけの事をしでかしたと言うのか?」 「いかにも」 「な、なんと……」 これにはさしもの信長ですら肝を冷やした。簡単に言うと、十兵衛の修道に対するあまりの執念に恐怖したのだ。 「さあ、大殿。我がモノになりませい。あなたも衆道を嗜む身なれば、何の問題もありますまい。さあ、さあ、さあっ!」 「あ、いや、確かにわしは衆道を嗜むが、あくまでも美童を愛でるのが好きなだけじゃ」 「そこをどうにかなりませぬか」 「ならぬ」 「そこを曲げて是非」 「是も非も無いわ! 出会った頃ならいざ知らず、何が悲しゅうて貴様が如き爺に抱かれねばならぬ! 斯様な目に遭うのであらば、ここで焼かれる方が遥かにマシじゃ!」 言うや、信長は背後の襖をつたーん! と開く。その奥の間は、既に彼等が火を放っていたのであろう。既に紅蓮の炎が渦巻いていた。 「……そうまで、それがしを拒否いたしますか」 力無く零す十兵衛に、信長は背を向けて言葉を投げる。 「応。我が首も尻も、くれてはやらぬ。全く、貴様が如き痴れ者と出会ってしまったが、我が身の不幸よ」 そして、いっそ悠々とした足取りで炎渦巻く奥の間に向けて歩む。 「上様、御伴致します」 彼の背中を、蘭丸が追った。 「ならぬ。十兵衛ならば、軽々にそちの命を奪わぬ。わしに構わず行くが良い」 十兵衛が今まで聞いた事の無い、優しげな口調で信長が言う。しかし、蘭丸は大きくかぶりを振った。 「いえ。我が身、我が命、全て上様のものにござります。あなた様を失い、おめおめと逃げ去り、どうして生きていけましょうや」 怒気すら含ませたその物言いに、信長はにやりと相好を崩し。 「……であるか。さればお蘭、参るぞ」 「はッ!」 呆然と立ちすくむ十兵衛を後に、ふたりは最奥の間に入り、襖が閉じられた。 戦国の覇者、第六天魔王織田信長。 その二つ名に相応しく、彼は業火の中に消えて逝ったのであった。 この後の顛末については、諸姉兄の知る通りである。 信長に完膚無きまでに振られ、抜け殻となった十兵衛が秀吉の軍勢に敵う筈も無く。 また、旧織田家の家臣団が彼に味方をする筈も無く。 唯一味方になりそうな細川親子ですら、彼を見限った。きっとそこには男男の痴情のもつれがあったに違い無いと、私は確信している。 とにかく、明智軍は山崎の合戦でこてんぱんに敗れた。 その後の十兵衛の行方については、杳として知れない。 敗走中に落ち武者狩りの農民に討たれたとも、秘かに生き延び、南光坊天海と名を変え徳川家康に仕えたとも言われているが、真偽の程は定かでは無い。 ただひとつ、言えるのは―― 明智十兵衛光秀という稀代の衆道モンスターは、これを最後に歴史の表舞台から姿を消した、という事のみである。 めでたし、めでたくもなし |
いさお 2021年04月30日 15時26分01秒 公開 ■この作品の著作権は いさお さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年05月17日 22時20分44秒 | |||
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Re: | 2021年05月17日 22時19分34秒 | |||
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Re: | 2021年05月17日 22時16分53秒 | |||
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Re: | 2021年05月16日 14時08分26秒 | |||
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Re: | 2021年05月16日 14時06分43秒 | |||
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Re: | 2021年05月16日 14時05分21秒 | |||
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Re: | 2021年05月16日 14時02分19秒 | |||
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Re: | 2021年05月16日 14時01分33秒 | |||
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Re: | 2021年05月16日 13時57分59秒 | |||
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Re: | 2021年05月16日 13時56分44秒 | |||
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Re: | 2021年05月16日 13時55分12秒 | |||
合計 | 11人 | 210点 |
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