無辜の殺戮者 |
Rev.02 枚数: 100 枚( 39,799 文字) |
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注意:残酷描写あり。 前編 〇 ある日を境に、五味星子(イツミセイコ)は両親と敬語でしか話せなくなった。 五味家では基本的に、両親には「はい」と返事することになっている。「うん」とか「ええ」とか言ったら叱られる。親子とは言え目上の人間に対しある種の敬意を表現するべきだ、ということになっているのだ。 他に、何か失敗をして叱られている時は敬語を使う、というルールもあった。反省とは感じるだけでなく伝わって初めて意味があるのであり、ならば反省する時はそれ相応の態度や言葉遣いを実践するべきである、ということらしい。 それらのルールに、星子は特別大きな不満を感じている訳ではなかった。素晴らしい教育方針だと深く賛同する訳ではない。そもそもそれらのルールの意味について深く考えたことも一度もない。ただそこまで神経を使う要求ではないから、大きな苦痛は感じないというだけのことだ。小学生の時に習わされた剣道や、つらかった中学受験を思い出せば、この程度は些細な要求だと心から思える。 しかしある時、何かの親類の集まりの際、いとこ達と馴染まず一人で吸血鬼に関する本を読んでいたという理由で激しく叱責された後、星子は敬語をやめるタイミングが分からなくなった。 協調性を身に付けることの重要さや、人付き合いの大切さなどを叩き込んだ後も、両親はずっと機嫌が悪かった。愚図な根暗者である星子の振る舞いを親類達に心配され哀れまれたのが、彼らにとっては相当な屈辱であったらしい。 ピリピリとした空気の中で、星子はその日一日中、敬語を使い続けることにした。向こうの機嫌が悪い内は叱られ中と判断し、低姿勢でいるべきだと考えたのだ。鉛の味がする夕食を押し込み自室で勉強してから床に就き、翌朝機嫌が直っていることを期待してリビングを伺った。 二人の機嫌は未だ悪いままだった。今にしてみれば、それは昨日の星子の失態が理由とは限らなかった。険しい表情で怒気の滲んだ言葉を投げかけ合っているのを見るに、夫婦の間に何か諍いがあったのかもしれない。 すぐに自室へUターンしたかったが、挨拶がなければ叱られる。星子は口を開いた。 「おはよう『ございます』」 それっきり星子はずっと敬語で通している。 〇 敬語をやめるように何度も要求された。その要求には常に怒声と叱責が付随していたものだから、星子も当然やめるよう努力してみた。 しかしダメだった。『敬語をやめろ』と言われれば『すいません、やめます』と答えてしまうし、『普通に喋れ』と言われれば『はい、普通に喋ります』と答えてしまう。 医者である両親は、やがてそれがある種の強迫観念であることを見抜いた。無理に言っても直るようなものじゃないから、しばらく放っておいて様子を見よう。そんな方針が固められることになる。同時に、厳格だった両親の教育的態度がほんの幾ばくかだが緩和されたのは、星子にとって非常に嬉しいことだった。 だがあれから二年が経ち、中学三年生となった現在も星子の態度に変化は訪れていない。 今の両親と血縁関係がなく、かつ過去に吸血鬼に殺された本当の両親との記憶を根強く持っていることも、星子が敬語をやめられない理由の一端かもしれない。 今の両親を「おとうさん」「おかあさん」と呼びはするし、血は繋がらずとも確かに家族なのだと頭ではもちろん理解している。だが心の底では、過去に世話になったことがある養護施設の職員のように、自分の世話をし教育を施すというだけの、赤の他人だという意識が存在していた。 「ねぇあんたさ。自分のやってることが卑劣な居直りで、甘ったれた虚勢だってこと、自分で分かってる?」 ある日、吸血鬼狩りの仕事から帰って来て星子の部屋に訪れた姉の千秋が、星子を床に座らせてそう説教をした。 「そうやって一方的に距離置いて拒絶してさ、それでいて衣食の面倒は見てもらおうっていうんでしょう? 他人を舐めてるよ。あんたはそうやって親をバカにして喜んでるつもりなんだろうけど、実際のところお父さんやお母さんの愛情や責任感に付け込んでるだけだよね? 違う?」 両親からは何を言われても、謝罪をしたり相槌を打ったりしながら、どうにかやり過ごすことも出来る。途中で泣かされることもあるけれど、嵐が過ぎればほっとする。怒声を浴びせられることへの生理的なストレスはあるけれど、言葉が心に付けた傷を引き摺ることはあまりない。 でも血の繋がった姉の言葉は違った。両親と相対している時には決して感じない、不理解に対する怒りや悔しさ、憎しみのような感情も沸いて来る。口答えをして見せることもある。こんなふうに。 「そんなつもりはないよ。出来ることなら、普通の喋り方で普通に接したいと思ってる。でもあたしは強迫性障害なんだよ。理解してよ」 「そう言うけど、じゃあ本当にその障害を治したいって思ってる? 病人である自分に対する甘えがないって言える? このままその病気を治さなければ、ずっと親のことバカにしてられるとほくそ笑んでるんじゃないでしょうね? そうじゃないと心から本気でそう言える?」 それで黙ってしまう星子を見下ろし、憐れみと憤りの混ざった表情で冷たく見据え、千秋は肩を竦める。 「今すぐにあんたのその歪んだ性根が治るとは思っていない。ただ、今私が言ったことは覚えときな。というか、嫌でも覚えとけるようなお説教をしたつもりだし。今は私に反発したい気持ちで一杯でしょうけど、でもいつかあんたがマシになろうと思えた時に、少しは効いてくると思うから」 余計なお世話だ、という目で姉を睨む。千秋はそれを、真正面から受け止めた。 〇 千秋は今二十三歳で、職業は吸血鬼狩りだった。夜になると稀に出現する残虐な吸血鬼達と戦い、無辜の人々を守るのだ。 昔の人々にはとうてい信じがたいことではあるのだが、この数世紀、世界には吸血鬼が存在している。彼らの存在は深く認知され、学校の教科書にも載っていればテレビのニュース番組にも出現する。現代人々にとって、吸血鬼は日常の存在であり、ごく当たり前のことなのだった。 彼らは夜になると稀に出現し、大きな翼で星空を舞い、外を出歩いている不用心な人間を発見するなり、地上に舞い降りて襲い掛かる。 そんな危険な吸血鬼達立ち向かうのが、千秋達吸血鬼狩りだ。『クロス』と呼称される(十字架から取ったらしい)吸血鬼対策機関においても、吸血鬼達と直接戦闘を行う吸血鬼狩りは、一部の精鋭のみに許される名誉ある役割である。 世界中のあらゆる子供がそうであるように、星子は吸血鬼についての教育を幼い頃から施されて来た。その内容はまさに古典的な吸血鬼というべきもので、吸血鬼の実在が認知される前に作られたフィクションとも、どういう訳かおおよその一致が見られていた。 以下が、星子の認識する吸血鬼の特徴の羅列である。 特徴の一つ目。吸血鬼の能力。 吸血鬼は超人的な身体能力と、背丈(頭頂部から踵まで)程もある蝙蝠のような翼を用いた飛行能力を所持している。その武器は、剃刀のような切れ味を持つ長い犬歯と、鋭く硬い爪である。 何より大きな特徴として、吸血鬼は基本的に不死身の存在であることが言える。吸血鬼には寿命も存在せず、如何なる負傷を与えても、小さな肉片一つからでも再生することが可能である。 そんな吸血鬼を殺害する有効な手法は、大昔から存在する僅か二種類。一つは日光を長時間浴びせ続けること。もう一つは、十字架を象った木の杭を用い、心臓を貫くことだ。 この木の杭は十字架を構成する日本の棒の内、長い方の棒の交差点から遠い方を鋭く尖らせた見た目をしている。その特性を有効にする為には様々な儀式(と呼ぶしかないいくつかの変態的な手順)がある為に、一般人で所持している者は稀である。 またこの杭は投擲や射出と言った方法で用いても意味を成さない。人間がその手で直接心臓を貫いてこそ効果を発揮する。他に、吸血鬼が吸血鬼をこの木の杭で貫いた場合でも、殺害が可能であることも知られていた。 特徴の二つ目。吸血鬼が出た時の対処法。 吸血鬼が夜の街に現れた時、街のあちこちから警報音が鳴り響く。そうなった際、住人は何を置いても建物の中に逃げ込むことになっている。 建物の中にいればまず安全は確保されると言って良い。何せ吸血鬼は人の使っている建物内に一人で侵入することが出来ない。『入っても良い』とその建物の住人、またはそれに準ずる存在から許可を貰わなければ、建物内に一歩も踏み入ることが出来ないルールが彼らにはある。 まさしく古風な化け物のルールだ。おとぎ話のようだと言っても良い。どうしてそんなルールが存在するかのメカニズムは、今も尚明らかになっていない。ある種の強迫観念のようなものが備わっているという説が濃厚だが、真偽は不明。 特徴の三つ目。吸血鬼の繁殖方法。 吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼となる。血を吸われた人間は、人間時代の記憶や性格、知能などを保持したまま、吸血鬼としての特性をその場で獲得する。 不死身である彼らが遠慮なく血を吸って仲間を増やせば、地球上はたちまち吸血鬼で埋め尽くされてしまうことになる。こうなることを恐れているのは吸血鬼の方も同じであるようで、グランドヴァンパイアと呼ばれる高位の存在を除き、基本的に吸血鬼は無暗に仲間を増やすことを許されていない。 その為吸血鬼は多くの場合、人間の血を吸う前にその心臓を抉り取って殺害してしまう。そして心臓を貪り食った上で、残った死体から吸血を行う。こうすることで吸血鬼は無暗に増殖することを避け、地球上の人と吸血鬼の割合……捕食者と被捕食者の割合を保持しているとされていた。 そんな危険な吸血鬼と戦う職業を、千秋は何故選んだのかと星子は度々疑問に思う。その疑問を千秋にぶつけることも度々あった。 その答えはいつも決まっている。このように。 「人間、自分一人の為にただ生きたって意味がないでしょう? 信念を持ち、誰かの役に立ってこそ生きる意味がある。そう思わない?」 星子には分からない。まったくそう思わない。何一つ相容れないと言っても良い。 生命はその死力を絞り尽くしてさえ、自身の望みを叶えることは愚か、ただ生きていることさえままならないことが多くあるのだ。それなのに他人の為に生きなければ意味がないなどと宣うのは、一種の傲慢であり、思い上がりであるに他ならない。 星子は過去に図書館でシートンの動物記を読んだことがある。そこには、生命とは生きているだけで勝利していると書かれていた。その通りだと思う。何せ死んだら生き物はそこで終わりなのだ。負けなのだ。安全と生を確保することが生命にとっての勝利なら、自分の命を危険にさらしてまで他人の為に奉仕せねばならないことは、世界でもっともつらくてみじめなことではないだろうか? 「自分一人のことしか考えられないような生き方をしたら、そんな人は周りから人格を悟られて軽蔑され、独りぼっちで寂しく朽ち果てることになる。そうはなりたくないから、私は自分が一番人に貢献できる職業を選んだの。それがもっとも胸を張れる職業だから」 千秋は元々医者を目指しており、東大の医学部を目指していた。それは今の両親の推奨する進路でもある。立派な学歴を手に入れ、医者になり、病院の跡を継ぐのだ。 それはそれで世の為人の為になる立派で尊い目標と言えた。その為に千秋は精力的に勉強を行っており、それに伴い成績も良かった。だが良かっただけだ。神童や才子と呼ばれるようなものでは決してない。精神力の方は人並み以上だと星子も認めているけれど、偏差値の方はいくらか不足していたらしい。 千秋は医学部に落ちた。一年浪人しさらなる猛勉強に励み改めて受験に臨んだが、そこでも合格することは叶わなかった。 日本でもっとも偏差値の高い学部の一つなのだから、何度も落ちるのは良くある話だ。諦めることはなかったかもしれない。だが二度目の不合格を前にして、千秋は自分が医者になる運命を背負っていないことを悟ったらしく、両親にこう表明した。 「お父さんお母さん今までありがとう。私、ヴァンパイアハンターになる。応援して」 命を救う方法は医者になることだけではない。迫りくる吸血鬼の脅威から、命がけで人々を救うことこそが、医者を諦めた自分に叶う世の為になる最善の職業だと、千秋は考えたらしかった。 「あんたも将来ヴァンパイアハンターになりなさいよ。訓練は厳しいけど、その根性は鍛え直してあげられるわ」 千秋は言う。冗談じゃないと星子は思う。自分こそ医者になる。職業としての医者に取り立てて魅力を感じる訳ではない。ただ両親は星子に病院を継がせるつもりでおり、姉のようにそこに反発する勇気は持てないというだけの話だ。 それに、千秋が諦めた医者の道で星子が成功すれば、それはある意味で、自分をバカにし度々高圧的な態度で説教を垂れる姉を見返すことにもなるのではないか……。などという、星子にしては前向きな理由も、最近では持つことが出来るようになっていた。 何せ星子はクラスで一番勉強ができる。生きてさえいれば、日々を耐え抜いてさえいれば、色んなことに対して確かな勝利の実感を得られる日も、いつか訪れるのではないだろうか? だから命を粗末にするようなことはしない。姉のような職業には決してつかない。 幼い星子は、そんな風に考えている。 〇 冷たい湿ったタイルの上に、星子は額をこすりつけていた。 両手を付いて床に伏し、額を床にこすりつける行為……つまり土下座だ。 目の前にはクラスメイトの賢木操の他に、取り巻きの吉村千里がいて多田野美羽がいる。賢木は手にした数枚の一万円札をぴらぴらと動かしながら、星子に向けて不満げに言った。 「で? これだけ? ねぇ、二週間も待ったのに、今月たったこれだけ?」 星子はしばしば賢木からカツアゲの被害に遭っている。賢木は遊び盛りの十五歳であり、中三と言えども内部進学がほぼ確定した身の上であり、つまるところ遊び金がたくさん必要だった。そこで医者の娘であり性格がノロマな星子に目を付けた。 星子は何か厄介なことがあっても、その場をただなんとなく流されてしまう性格だった。金を集られれば、それでこの場が収まるのならと簡単に差し出してしまう。それで今後同じようにタカられることになると思っていても、抵抗する勇気が持てないのだ。 ようはいじめられっ子体質なのだ、という自覚もある。 別に星子の容姿や能力が他と比べて劣る訳ではない。体力も悪くはないと思うし、勉強はとても良くできる。容姿も良い。陶器のような白い肌と、東洋人離れして大きな目と高い鼻、赤子のように柔らかな薄桃色の唇を持っている。百六十五センチのすらりとした体躯と、痩身に見合わぬ大きなバストも持っている。家だって金持ちだ。権力もあれば、名声もある。 余程の下手を打たなければ侮られることはないような『ガワ』は持っている。だが『ガワ』は所詮『ガワ』だ。内側にあるのが臆病な五味星子では、どうしようもない。 「あんたが時間をくれって言ったんだよね? それで工面できたのがたったこれだけ? これじゃ全然足りないんだけど。どうしてくれんの?」 賢木は星子を見下ろして蛇のように睨んだ。目付きが悪く、口を大きく開けて喋るので、本物の爬虫類のようだと星子は度々思う。 「全然足りないんじゃ、しょうがないわね。不足分は自分で稼ぐことね」 賢木は冷酷に星子に告げる。星子は、目に涙を溜めて嘆願した。 「それだけはやめてください。あたし、またあんなことさせられたら立ち直れません。だから、どうか」 「別にあんたが死のうが立ち直れなかろうがこっちはどうでも良いんだって。自分の立場分かってる? 前に撮った写真をばら撒かれたいの?」 賢木はそう言って星子を絶望させ、そして 「あんたの親に送り付けたら、どう思うでしょうねぇ?」 と言ってトドメを刺した。 連れて行かれた安いホテルで、想像を絶するほどみじめな時間を過ごす。見返りに得た、笑える程ちんけな枚数の紙幣を賢木達に献上し、ようやく解放された星子は駅のトイレで激しく嘔吐した。 全身を這いまわる薄汚い指先の感触や、耐え難い悪臭を堪えて飲み込まされた汚液のことを思いだすと、胃液さえ底を突く程のとめどない嘔吐感が訪れる。 もっと吐く物があれば良いのに、星子は思った。全身に瘴気のように充満するこの気持ち悪さを、絶えず吐き出していなければ星子には堪えられそうもなかった。 いっそこの世から消え去ってしまえばどれだけ楽になるだろうか? そんな気持ちが鎌首をもたげる。 でもダメだ。それはダメだ。星子は自分に言い聞かせる。だって死んだら終わりではないか? だって死ぬのは敗北だ。他の何をやっても負けていないが、それをやった瞬間に自分は負けたことになる。この最悪の世界に、負けたことになる。 だから死んではいけない。死にさえしなければ。生きてさえいれば。 負けていない。 深い暗黒の中で、星子はその精神の崩壊を防ぐために心の中で繰り返し唱えた。 恥じゃない。終わっていない。頭を床に擦りつけても、どんなにみじめな言葉を吐いても、どんなに汚されても、生きてる限りは負けじゃない。 人間は、生命は、生きている限りは負けていないのだ。死なない限り勝つチャンスはある。生きていて良かったと思える瞬間が来る。自分を取り巻く憎むべき様々な現実を叩きのめし、最後の最後、自分一人だけが高く笑う。そんな勝利の瞬間が必ず来る。 つらくても生き抜く。何をしても生き抜く。人間は、生命は、生きてさえいれば勝ちだ。 勝利の為ならば……星子は何をやったって構わない。 〇 やがて得る勝利の為に星子が何をやっているかと言うと、とりあえず今は勉強だった。 周囲にバカにされるのがつらいなら、努力して周りを見返しなさい……というお題目がある。それは一見して綺麗事ではあるが、努力しても見返す実力のない人間をさらなる絶望の淵に追いやる呪いでもある。しかし、それは自分には当てはまらないはずだと信じる気持ちも、星子にはあった。 頑張って勉強をして、医者になって両親の病院を継ぐ。そうなれば周りの自分を見る目も変わるだろう。その過程でたくさんのつらいことが自分を苛むことだろうが、それも『死なない限りは』『いつか見返す』の精神でやり過ごして行ける。そうした意志も星子には備わっていた。 「まあ中三の考えとしては、悪くない信念だと思うよ。でもそれってさ、あんた一人の為だけの、ちっぽけな信念にも過ぎないだよねぇ」 だが星子のそんな気持ちも、千秋に言わせればその程度のものらしかった。 「病院継いで医者になるのってさ、あんた一人だけの為じゃないよね? もちろんあんたの為でもあるけれど、同時に、お父さんやお母さんや、病院で働いてる人や、たくさんの患者さんの為じゃなきゃいけない。それをさ、『耐え抜けばいつか』なんてその場凌ぎに未来に逃げてばっかの奴に、勤め上げるのは難しいんじゃない?」 嫌なことを言う。星子は思う。こういうことを悪意なく、ただ善意で欠点を指摘してやってるだけのつもりで、歯に物着せずに言って来る姉のことが、星子はどうしても苦手だった。 悪い姉ではない。星子はそう思っている。両親が吸血鬼による被害で亡くなった後、養護施設で泣いてばかりいた星子を叱咤激励した。その後遠縁に金持ちの五味夫妻がいることを思い出し、繰り返し手紙を送りつけた。彼らが子宝に恵まれていないことを知るや、妹諸共引き取ってくれるよう懇願してくれた。そのアピール能力たるやすさまじかった。 千秋も星子も、容姿能力共に優秀だったことも、養子になれたことに無関係ではないだろう。資質を持ち、行動もできる人間だけが救われるのは、大人も子供変わらない。厳しい幼少期を戦い抜き、自身と妹を大病院の娘に収めた千秋だからこそ、星子には強くあって欲しいのだろう。妹の目に見える欠点や、浅はかさが許せないのだろう。 「未来に逃げちゃダメだよ。今この瞬間を気高く生きる、人生はその積み重ねだよ。惰性で生きるくらいなら、気高い死を選ぶくらいが本当だと思う」 そう言って、千秋は胸から下がっている黒い十字架の杭を感慨深そうに撫でた。 その日、千秋は非番だった。しかし千秋は吸血鬼退治の武器を携帯していた。それは吸血鬼狩りにとって、おかしなことでは何もなかった。 非番だろうと、吸血鬼が目の前に現れた時、無辜の人々の為に戦えるように……というのも、もちろん(何が『もちろん』かは星子には分からないがとにかく)あるようだ。だがヴァンパイアハンターが十字架の杭を持ち歩く一番の理由は、『自分が吸血鬼にされた時、杭を心臓に打ち込んで自決できるように』ということらしかった。 吸血鬼はその一人一人が数えきれない程の人間を殺害する。そして、吸血鬼と直接対峙する吸血鬼狩りは、自らが吸血鬼にされるリスクが非常に高い。 無辜の人々を守る為吸血鬼と戦った結果、自らが吸血鬼となり多くの人々の命を奪ったとなれば、あまりにも本末転倒だ。『クロス』の隊員は、一人一人が吸血鬼の被害を僅かでも抑えるのだという強い信念を持たねばならない。心まで吸血鬼となるくらいなら、自死を選ぶ。その信念の表れが、吸血鬼狩りの胸にぶら下がる十字架の杭なのだそうだ。 「……なんだかなぁ」 得意げに語る姉に、星子はそう返した。 「何よ、その態度」 「何が何でも生きていようとするのは生命にとって当然のことなのに、それを否定するのは傲慢っていうか。あたしにはちょっと良く分かんないなあ」 「それは獣の考え方よ。ただ生きていれば良いのなら犬や猫と同じ。人間は誇りを胸に生きなきゃね」 「それって人間病だよ。人類ってそんなに特別なんですか」 「だからあんたは卑屈な開き直りで生きてるというのよ。それとも、『クロス』の隊員が、血を吸われたら吸血鬼になってたくさんの人を殺します、組織の内部情報も漏らします、なんて連中だとして、あんたは喜んで血税を払える訳?」 『クロス』は政府の組織だ。当然、税金で運営されている。莫大な予算が費やされているという噂で、姉の口ぶりを聞くにおそらく真実だ。 「その人達が危険な役割を自分から引き受けてくれてることには変わらないでしょう? なら払えるよ。それに、口先だけ『吸血鬼になるくらいなら死にます』なんて言ってもなあ。実際に吸血鬼になったら、誰だって吸血鬼として生きると思うよ」 「確かに、そう言う隊員もいたわ。中にはね。でもそんな人間は離反後に除隊されるし、死後の家族に対する保証も制限されるというのが『クロス』のルールよ。命惜しさに裏切った元隊員を、私達は決して許さない」 「吸血鬼にされる直前までは、確かに戦友だったのに? その瞬間までは、人々を守る為に命がけで戦っていたことに違いはないのに? 称えるべき殉職者として扱うのが本来じゃないの?」 「土壇場で裏切るような奴は、命なんて賭けていないわ。ただ、命を粗末にしていただけ。覚悟も想像力も足りてない癖に戦っていた、愚かしい半端者だったってだけよ」 「じゃあお姉ちゃんは死を選べるというの?」 「もちろんよ。そうに決まっているじゃない」そう言って、千秋は星子の目をじっと見つめた。「人間って、自分一人の為にただ生きたって、意味がないでしょう」 この台詞が姉の信念なのだ。それは知っている。だからこそ、『本当かなあ』と返したくなるのを星子は我慢した。それを言ったら、吸血鬼狩りの誇りを傷付けたとして、この姉はまた理不尽に怒りだしそうだったから。 「幼い内は自分のことが全てなのはしょうがないわ。でもね、あんたももう十五でしょう? そろそろ次のステップに進まなくちゃね。自分のことしか考えられないダメな大人はたくさんいるけど、あんたにそうなって欲しくはない」 言いながら、姉は自分の胸にぶら下がった十字架を取り外し、存外に優し気な手つきで星子の首に掛けた。 十五センチ程の大きさの、先のとがった木製の杭を手にしながら、星子は「え?」と目を丸くした。 「それ、あんたにあげる」 「あげるって……貰って良いようなものなの? これ」 「別に一般人が持っちゃいけないような物じゃない。一定の需要はあるけど、ちょっとお高いから、一般人で手を出す人は少ないってだけで」 「組織の備品でもあるんじゃあ?」 「それは私の私物。支給されるのをプライベートで持ち歩いたりしたら、壊したり失くしたりした時厄介でしょう? 代えがあるから、一つあんたにあげるわ」 「あたしが持ってて意味ある?」 「下げてるだけで少しは吸血鬼に狙われにくくなるわよ」 それは魅力的だ。 「それでも襲ってくる吸血鬼はもちろんいるけど、その時はそれで戦いな? 私と同じ血が流れているんだから、いざとなったらきっと奮い立てるよ。素人が吸血鬼に勝てるかと言うと難しいけど、嫌がって逃げていく可能性は絶対あるから」 そんなことにはなりたくはないが、何も武器がないよりは絶対に良い。デザイン性も悪くなく見える。何より、この姉が自分に何かくれるというのは珍しかった。 少し、嬉しいかもしれない。大事に持っておこうと思った。高級品だし、落としたりしたら行けないから、名前と電話番号もどこかに彫って置こう。などと考える星子に、「でも」と千秋は続けた。 「逃げて行かない吸血鬼ももちろんいる。そうなったら、勝てる可能性は高くない。きっとあんたは吸血鬼にされる。仮にそうなったとしたら……」 まさか、と思う星子に、しかし千秋は容赦なく言った。 「その十字架の杭で自分の胸を貫いて死になさい。私の妹ならね」 〇 その日は文化祭だった。 星子の通う中学では文化祭は、土日の二日間に跨って日程が組まれ、父兄も招いて盛大に行われる。下校時間も繰り下げられ、片付けまでを含めれば毎年必ず日が暮れる。 星子にとっては散々な二日間だ。実際、土曜日の一日中、星子は賢木ら一味に使いっ走りとしてこき使われるだけでなく、財布役として彼女らの飲食代のすべてを支払わされることとなった。買って来るのが遅いという理由で叩かれることもあれば、買いに走った料理が美味くないという理由で土下座もさせられることもあった。大量のタコ焼きを口に突っ込まれ悶絶するという思いもした。 「ねぇゴミ女。あんた、ちょっと一っ走りコンビニまで行って来てよ。デザートとか買って来て欲しいんだけど。回りが片付けしてる間中、サボって食べるから」 賢木はそう言って顎をしゃくった。 「が、学校の外に出るのは校則違反じゃ……」 「校則とわたしの言うことと、どっちが大切な訳?」 等と睨み付けられれば、もちろん星子は何も言えない。 賢木、吉村、多田野の欲しいものを一通りメモ帳に書きつけ、合計して三千円近くにはなろうそれらを星子は買いに行く羽目になった。教師の目を盗み校門をくぐり、近隣のコンビニを目指した。 そうして外に出て見ると、星子は自分が束の間の安息を手にしたことに気付いた。賢木らと離れている間中、星子は安全なのだ。 夜の帳は降りていた。この頃は六時を半刻過ぎていれば暗くなっていることも多い。十月下旬の夜の空気は冷ややかで、木々や田畑やアスファルトの匂いが混ざり合いながら、星子の鼻腔をくすぐった。空を見上げると、眩い星空が星子を見下ろしている。 ここからコンビニに行く為には、両端を田畑が囲む田舎っぽい道路を数百メートル歩かねばならず、民家も乏しく人の往来もない。とても、静かだ。少し前までなら虫やカエルがもっとたくさん鳴いていて、星子はどちらかというとそれが好きだったのに。 などと思っていた時だった。 唐突に、あたりからサイレン音が響き渡った。一番近いのは学校の方からだが、聞こえて来るのはもちろんそこだけではない。役所や消防署、交番などの公的な建物はもちろん、ある程度を超える規模の商業施設もサイレンを設置しているところは多い。 吸血鬼が出たのだ。 政府が夜空に向けて配置した監視カメラが吸血鬼の飛行を感知すると、街中に設置されているサイレンが一斉に警報音を鳴り響かせることになっている。それを聞いた市民は何を置いても近くの建物に入らねばならない。 星子はお守りのつもりで首から下げていた、姉に貰った十字架の杭を握りしめる。そうして気持ちを落ち着かせてから、学校の方へと引き返した。 古風な化け物である吸血鬼は、家人の許可がなければ建物の中には入れない。だから油断なく行動し建物の中に入ってしまえば、まず安全は保障される。これがあるから、吸血鬼が出たとしても、必ずしも死者が出るわけではないのだ。 逃げ遅れさえしなければ良いのだ。星子は冷静さを保ちながら、学校を目指して額に汗をしながら疾走していた。 その途中、星子は、髪の白い人物が道路で身動きもせずにいるのを発見した。 立ち止まると、一人の老婆が倒れた手押し車の側で、尻餅を着いてもがいていた。どうやら逃げる途中で焦って転び、このような姿勢になったらしい。 それだけならまだ良いが、どうやらこの老婆はそこから一人で立ち上がれずにいるらしかった。老いから来る衰えから、手を着いて身を起こし、再び手押し車の補助で歩き出すという、一連の動作が出来ないようだ。 「あのぅ。お婆さん、大丈夫ですか?」 同情心から、星子は思わず老婆に声をかけた。老婆は星子の方を振り向くと、目を細くして、憐れみを乞うような声で言った。 「ごめんなさいねぇ。ヘルパーさんと一緒にいたんだけど、置いていかれてしまって。どうか起こしてくださいませんか?」 「え、ええ。構いませんよ」 一人で立つことも出来ない老婆なら、補助をする人も一緒にいるはずではと感じていたが、その人物はどうやら職務を放棄して逃げたらしい。職よりも命が大事と考えれば、それも仕方がないことだ。 同情心から声をかけてしまった星子とて、この老婆にどこまでしてやるのかは迷うところだ。助け起こして手押し車を持たせるまでは構わないとしておくが、このまま学校まで一緒に向かうとなると厄介だろう。一人残される老婆の心細さを思うと哀れに思うが、しかし自分の身を守る為には、どこかで一線を引かねばならない。 だがそんな計算をしている時点で、星子は自分が助かると心のどこかで慢心していると言えた。自分が引いたその一線が、安全なラインである保証はどこにもない。本当なら、何を置いてでも逃げる以外に、正解となりうることなど一つもないのだ。 宵闇の空から化物が現れて、老婆の身体に降り注ぐ。瞬きする程の時間もなく、爪の伸びた白い腕が老婆の胸を突き破り、その心臓を抉り取った。 「いただきます」 背が高く若い、恐ろしく美形な顔を持つ若い男の吸血鬼だった。太い眉や長いまつ毛、彫りの深い整った顔立ちにも目は行くが、より特徴的なのは色素を感じないシルバーの髪と、宝石のような深紅の瞳だ。 アルビノの生物に見られるそうした特徴を、一部の吸血鬼が持つことを星子は知っている。生まれつき色素を持たない、必要としない吸血鬼。彼らは予め夜に生きることを宿命づけられて産まれて来る。 それは彼が、人間としての生を経ることなく存在する、産まれながらの吸血鬼であることを意味していた。吸血鬼の歴史の始まりから存在する吸血鬼の始祖、グランドヴァンパイアと呼ばれる例外的な存在。異形の王たる資格を持った、吸血鬼の中の吸血鬼なのだ。 「やあやあお嬢さん。良い夜だね。それと残念だけれど、俺はこれから君を殺して食べる。だから、俺の為に死んでくれる君に感謝するよ。ありがとう」 言いながら、吸血鬼は立ち上がり、手にした老婆の心臓を貪る。滴り落ちる血が、如何にも吸血鬼らしい古風なテールコートを血に染めた。衣類を突き破って(おそらくその為に穿たれた穴を通って)羽ばたいていた二対の翼は、今は折りたたまれて黒いマントに覆われている。 星子の心臓が早鐘のように鳴り響いている。身体の震えと共に、胸元にぶら下げた十字架の杭が揺れる。全身から血の気が引き、自分が立っていることさえ曖昧になる。だが目の前に確かに存在する死の姿だけは、確かに現実であると実感できた。 「可愛くて美味しそうな子だなぁ。俺は若い女の子が一番好きだから嬉しいぜ。これ以上飛び回っていても、他の獲物は見付からないだろうから、今夜は君をじっくりと楽しむことにする。怖くて痛い思いをすると思うけど、その分長く生きていられる」 吸血鬼は笑った。間もなくこの吸血鬼はその血に濡れた手を伸ばし、星子を殺害してしまうだろう。何一つとして良いことのなかった、みじめな人生が終わるのだ。 そんなのは嫌だった。諦めたくなかった。死ぬのは嫌だ。星子を食い物にし続けるこの憎たらしい世界に、負けてしまうのは耐えられない! 拳を握る。目に溜めていた涙が滴となって地面に落ちる。星子は歯を食いしばり、覚悟を決めた。 星子は胸からぶら下がっていた十字架の杭に手を伸ばす。吸血鬼を殺しうる、人類が作った唯一の武器。星子が吸血鬼と戦い、遠ざけられるようにと姉がくれたもの。姉が別け与えてくれた、ヴァンパイアハンターの誇りであり、魂そのもの。 首から外した十字架の杭を……星子は道路の脇にある茂みに放り込んだ。 僅かに身構えていた吸血鬼が、星子のその行動に目を丸くする。星子はそんな吸血鬼に向けて跪くと、両手を地面に着けて土下座の体勢を取った。 星子は額をアスファルトへと擦りつけ、懇願するような声でこう言った。 「手引きをします。だから、どうかあたしのことだけは助けてください」 星子は吸血鬼の顔色を窺いつつ、何度も何度も地面に頭を降ろしながら、矢継ぎ早に口にした。 「あたしは近くにある中学校の生徒です。あたしが案内すれば、あなた様も学校の中に入れるはずです。中学校にはあたしのような若い女の子がたくさんいます。いくらでも血を吸うことが出来るはずです」 生きたければ、生きるのだ。生きる為の行動を考えるのだ。死なない限り負けじゃない。生きてさえいればいつか勝てる、勝って見せる。その為ならば星子はなんだってする! 自分一人の命が助かる最善の方法を考え、一心不乱に実行するのみだ。 「そっちの方が良いですよね! だってあたし一人食べるよりもっとたくさん女の子が食べられるんですよ? そうしましょうよ! そしてあたし一人だけは助けてください! 他の人は何人だって殺してかまいませんから! ねぇ! 良いでしょう?」 「もちろんさ!」 吸血鬼は言った。喚いていた星子は虚を突かれ、目を丸くした。 「君の言う通り、君一人を食べるより、もっとたくさんの若い女の子を食べられた方が良いからね。俺は化け物だから、住人の許可がなければ建物に入れない。君が手引きをしてくれるなら、そんなに助かることはないよ。ありがとう! 君は本当に良い子だ!」 そう言って、吸血鬼はおもむろに星子の顔に手を伸ばす。そして目元から流れる涙を指先で拭い、優し気に肩に手を置いた。 「女の子の泣き顔は好きじゃない。俺は優しいんだ。手引きをしてくれるなら、殺さないであげる。だから、もう安心だ。良かったね」 そして屈託なく微笑む。星子は引き攣った表情筋を用いて、どうにかこうにか、媚び諂った笑顔を作った。 〇 「本当に、本当に助けてもらえるんですか? 手引きをした後で、あたしを殺したりしませんか?」 吸血鬼を学校に案内しながら、星子は震える声でそう尋ねた。 「助けるよ。手引きをさせた後で君を食うというのは浅はかだ。手引きを申し出る人間をも食べることが知れ渡ると、誰も手引きをしなくなるだろう? だから、賢い吸血鬼は手引きをする者を殺さない。これは広めて置いてくれ」 そう言って笑う吸血鬼だったが、白く長い犬歯の見えるその微笑みに、暖かい物は感じられない。朗らかに笑い、明るく喋り、優しい言葉を投げかけてはいるが、それは笑うと言う感情を知らない怪物が、人間の笑顔をただ真似ているだけに過ぎないようだった。 そうでなければ……目の前で助けようとしていた老婆を殺され、これから学友達の前に吸血鬼を手引きしなければならない星子を前に、こうも親し気な態度を取る訳がない。それがとてつもない皮肉で、ズレた振る舞いであることにこの怪物は気付いていなかった。 「ここです」 星子は言って、校門を指し示す。運動場は野外に当たるから、星子が何も言わずとも怪物は中に入ることができる。 父兄達の乗って来た自動車が立ち並ぶ運動場を歩き、飾り付けが行われた校舎に近づきながら、吸血鬼はおもむろに口を開く。 「俺はサタナキアと言う。グランドヴァンパイアさ」 「……あなたのような、髪が白くて目の紅い方がそうだとは、習ったことがあります。吸血鬼の歴史の始まりから存在する、生まれながらの吸血鬼、ですよね?」 「物知りだねぇ。じゃあグランドヴァンパイアの特権も知っているね? 普通の吸血鬼は百年に一体しか仲間を増やすことが出来ない掟だが、俺達グランドヴァンパイアだけは特別で、思うがままに好きなだけ、人間を吸血鬼に変えられるということは」 それは知っている。星子は頷いた。通常、吸血鬼は人の血を吸う時、無暗に仲間を増やさない為、まずは心臓を抉り出し殺害することになっている。だがそんな吸血鬼会のルールにも、高位の存在であるグランドヴァンパイアは縛られない。 「俺はね。実を言うと君のことが気に入っているんだ。眷属にしたいと思っている」 サタナキアと名乗った吸血鬼はそう言って微笑む。 「君は麗しく賢く、何より生への執着に満ちている。俺が理想とする吸血鬼像に合致するんだ。人間の何が良くて何が悪いのかは俺には分からないけど、吸血鬼も悪いもんじゃないぜ? 俺の眷属になってみないか?」 「………………ごめんなさい。遠慮させてください」 星子は答えた。深く考えた訳ではないが、少なくとも今この場で答えなければならないのなら、答えはNOだ。 人間が素晴らしいとは露ほども思わない。だが血を吸われるのは恐ろしいし、化け物になるのも気味が悪い。何より、これまでの人生を放棄して別の存在に転生するという選択は、とてつもなく哀れでみじめで不幸なものであるように感じられる。例えこれまでの人生が、どれだけ忌まわしい物であったとしても。 「そうかい? 残念だな。君のようなタイプが一番吸血鬼に向いているんだけど。何せ吸血鬼の能力は生きて来た年数に比例する。漠然とでも長く生きてる年寄り程、強い吸血鬼となる。君のように何を売り払っても自分一人の生にどこまでも執着できることは、稀有な才能と言って良いんだけどな。もったいないねぇ」 表面上の笑みを浮かべて朗々と話しているサタナキアに、皮肉を言っているつもりはないのだろう。 「でもまあ、しょうがないだろうね。俺は望まない相手を眷属にしないから。それじゃ、約束通り、お願いできるかい?」 「了解しました」 星子達は校舎の入口に辿り着いていた。星子は玄関に踏み入ると、サタナキアの方を向いてこう言った。 「『どうぞお入り下さい』」 深紅の瞳が爛漫と輝き、サタナキアの口が裂けるような笑みを描いた。剥き出しになった犬歯が真っ赤な口腔の中で怪しく輝く。人を食い散らかせるという喜びが表情全体に満ち溢れている。それは無邪気さを感じると同時に、途方もなく恐ろしいものだった。 「ありがとう」 それこそが、吸血鬼サタナキアの本心からの愉悦の笑みだった。サタナキアは翼をはためかせ、それによって得る推進力を利用しながら、廊下や階段を低く飛び回り校舎の中を縦横無尽に駆け巡る。 玄関に一人残された星子が、生徒達の悲鳴を聞いたのは、サタナキアを招き入れたほんの数秒後のことだ。次の瞬間には血液の爆ぜる音が鳴り響き、さらには逃げまどう足音が押し寄せて来る。 パニックに巻き込まれては厄介だ。冷静にそう考えた星子は、すぐにその場から離れて行った。 〇 吸血鬼を招き入れる時は、その住人が中から許可を出さなければならない。 住人、の基準は色々あるが、学校ならば生徒や教師、用務員くらいの関係者なら十分と言える。だがそれらの人物であっても、いったん中に入らなければ許可を出すことは出来ないのだった。 逆に言えば……吸血鬼を招き入れる為にいったん中に入ったとしても、そこで手の平を返して許可を出すことを拒むことも可能ではある。 そのことを思い付かなかった訳ではない。だがそれが得策でないことは明らかだ。 サタナキアはおそらく功利的で、そして冷酷な吸血鬼だ。約束を破った者を殺さずに済ませるとは思えない。腹を立ててそうするのではない。手引きの約束を破った者を生かしておくようにしてしまうと、やがて人間は約束を守らなくなってしまうから、そうするのだ。 文化祭の模擬店や、束ねた花で作られたアーチの合間を、サタナキアは光のような速さで駆け巡る。そして逃げまどう生徒達を殺戮し続けた。 星子は死体の山の築かれている学校から離れ、別の建物を目指して走っていた。サタナキアが自分を襲わないという前提の上でなら校舎にいても良かったが、彼の気が変わらないとも限らないし、何よりパニックに巻き込まれるのは厄介だ。 「おいゴミ女! おまえ、何してくれたんだよ!」 背後から、聞き慣れた声がして、星子は思わず振り向いた。賢木がいた。 「おまえだろう手引きをしたのは? 吸血鬼を連れて来るの、窓から見たんだよ! 父兄として来てくれていた兄貴はあいつに殺された! 友達の千里や美羽もだ! おまえの所為だぞ? 自分が可愛いばっかりに、良くもあんな奴を校舎に招き入れてくれたな!」 星子を普段いじめている賢木操は、しかし今度ばかりは星子をいたぶる為に責めている訳ではなさそうだった。本気で腹を立て、星子の行為を糾弾している。 「でもそうしなければあたしが死にますからね?」 星子は泣き笑いを浮かべながら喚くように言う。 「あなたの友達やお兄さんを殺したのはあたしじゃなくて、吸血鬼ですからね? あたしは自分の命を守る為に手引きをしただけで、それはあなたに非難されるようなことではありません。あなただって自分が同じ立場になったら手引きをするでしょう? だからこれは緊急避難です! 許されることなんです!」 そう言って星子は気が狂ったように高い声で笑った。自分の命が助かった安心感と、強い罪悪感とがないまぜになって、凄まじく気が高ぶっていた。でなければ賢木にこんな対等以上の口を利いたりできるはずもない。 だがその開き直りの哄笑が、賢木の逆鱗に触れたらしかった。 賢木は星子の身体を突き飛ばした。星子はその場で尻餅を着く。 「……痛いですよ」 「黙れ人殺し! 良くも! 良くもわたしの兄貴と友達を……。死にやがれ!」 賢木は興奮した様子で星子の顔面を殴りつける。亀のように丸くなってやり過ごそうとする星子に対し、賢木は容赦なく殴る蹴るの暴行を加え続ける。絶え間のない暴力に、星子はそれが普段のいじめとは異なり、本気の殺意を持った攻撃であることに気が付いた。 逃げなければ殺される。 幸いにして、星子は暴力を振るわれることに馴れていた。身体を丸めて体力を温存していたのが良かったのだろう。相手の息が上がった間隙を突いて、星子はその場を立ち上がり、賢木の胸を突き飛ばすことに成功する。そしてすかさず身を翻し、その場を逃げ出した。 「ま……待ちやがれ!」 予期せぬ反撃にしばし呆然としていた賢木がそう叫び、星子を追いかけ始める。こうして必死で逃げ出してみると、二人の走力や持久力に大きな差はなく、むしろ星子の方がやや優れているように感じられた。そのことが、星子にはやや意外でもあった。 あまりにも必死の追いかけっこをしていた為、二人はサイレンの音が鳴りやんでいることに気付いていなかった。街は元通りの姿を取り戻し、遅れた分の時間を埋め合わせる為、慌ただしさを増して動き始める。その中で、この二人の加虐者と被虐者だけが混沌の中にいた。 裏路地を抜け、星子は道路へと出ようとしていた。息はとっくに上がっていたが、手足だけは急き立てられるようにして夢中で動いていた。そうして前を確認する余裕もなく必死で道路に飛び出した星子に、前方不注意だった乗用車が襲い掛かる。 星子は乗用車に跳ね飛ばされた。 車に跳ね飛ばされた星子は数メートル宙を舞い、地面に向けて叩きつけられる。衝撃で折れたあばら骨の内の数本が、星子の肉体を抉って外に飛び出した。 朦朧とする意識で、星子は僅かに動く首を捻って自分の肉体を見た。 突き出した骨や真っ赤な鮮血やねじ曲がった手足を見て、星子は自分がもうまともな人の形をしていないことを悟った。事実、内臓の多くは破損していたし、出血の量も夥しかった。意識を保っているのが奇跡的な状況であり、その僅かな命も失われるのは秒読みらしい。 このままでは死ぬ。星子は強くそのことを意識した。 怪物に向かって土下座をし、学友たちを差し出してまで生きて見せたのに。それなのに、こんな馬鹿らしい交通事故で、自分は死んでしまうのか。賢木に追い立てられて車の前に飛び出たのだから、これは賢木に殺されたのも同然だ。 生きてさえいれば負けじゃない。そう思っていじめにも耐えて来たのに、自分は賢木に殺される。そう思うと星子は悔しくてたまらない。そんな死はごめんだと考える。死にたくない。生きていたい。……負けたくない! そう思うと、星子の中にある熱い血が高ぶり始めた。残り数秒の命だとしても、自分はまだ生きている。……チャンスがある。 絶望するのは簡単だ。でもそれは何も生まない。方法は問わない。生を掴め! 自分に残った可能性を考えろ! 「サタナキア様!」 星子は叫んでいた。凄まじい激痛の中で血を吐きながら、しかし星子は力の限り叫んでいた。 「サタナキア様! 来てください! 助けて下さい! 血を吸ってください! あたしは吸血鬼になります! どうか、どうかサタナキア様! サタナキア様ぁああっ!」 命ある限り、星子は絶えず叫び声を上げ続けた。こんなに声を張り上げたのは、人生で初めてだったかもしれない。 その声は届いた。サタナキアが並の吸血鬼を遥かに上回る聴力を有していたことを差し引いても、星子には悪運があったと言える。 死の淵にある魂の前に、異形の怪物が舞い降りる。二対の大きな翼をはためかせ、死に絶えそうな星子の前に現れたその吸血鬼は、長い犬歯を剥き出しにして、朗らかな笑みを星子に向けた。 「俺の眷属として吸血鬼になってくれるかい?」 星子は最後の力を振り絞り、首を縦に振る。 口が裂けるような凄惨な笑みが浮かべられ、サタナキアは星子の白い首筋に齧り付いた。 〇 後編 〇 その今にも朽ち果てそうな古びた城は、暗く深い森の奥に、生茂る巨木の群れに飲み込まれるようにして建っていた。 むせ返る程の土と木の匂いに満ち溢れ、空気はやけに冷たく乾燥しているように感じられる、そんな森だった。十月とはとても信じられない程肌寒さの中、細い木枝を踏み折りながら歩くこと数十分。現れたのはその全身に蔦を絡ませ、あちこちひび割れた、色褪せた廃墟めいた古城だった。 「ここだ」 吸血鬼成りたてでまだ上手く飛べない星子に付き合って、自宅まで歩いて案内してくれたサタナキアは、笑顔で古城を手で示して星子に告げた。 「自慢の我が家なんだ。どうだい、素敵な城だろう?」 星子は素直には頷けない。ホラー映画のセットとしては、上等と言えるだろう。 これだけあちこちひび割れていては隙間風が寒いだろうし、虫や鼠の心配もある。立地からして電気やガスのインフラなど望めようもなさそうだ。しかしこれから世話になることになる主人に失礼なことは言えない。星子はどうにか笑顔を繕って言った。 「そ、そうですね。す、素敵だと思います」 それを聞いて、サタナキアはお世辞や社交辞令と言った言葉も概念も知らないかのように、満足そうな笑顔を返す。 「そうだろう、そうだろう。さあ、入ってみておくれよ」 星子はたっぷり一分ほど古城を見回して、錆びついた扉を見付けて手を掛けた。 引くのか押すのかを手応えで判別しようと力を入れた瞬間、頭の中に、今まで出会ったことのない感覚が訪れる。 ……あたしはここに入れない。ここはあたしの家じゃない。 あまりにも抗いがたい強迫観念だった。それを無視してこの扉を開いたが最後、自分は世界でもっとも罪深い存在となって、徹底的に打ちのめされ消えてしまうだろうという訳の分からぬ強迫観念が、星子の全身を貫いた。 これ以上扉に触れていることが恐ろしくてたまらなくなり、星子は手を離して扉から距離を取った。 「おおっと。そうか。ここはまだ君の家じゃないから、入れないんだね」 そう言って、サタナキアは扉を開けて古城の中に入ると、星子に向けて優しい口調で告げた。 「『ここは今日から君の家だ』。さあ、お入り?」 星子の中から強迫観念が消える。それでも恐る恐ると言った足取りのまま、星子は古城の中に脚を踏みいれる。 ……吸血鬼は住人の許可を貰わないと建物の中に入れない。そのルールは、吸血鬼が吸血鬼の家に入る時にも適応されるらしい。 〇 サタナキアに血を吸われ、星子は吸血鬼として生まれ変わった。 人間としての生を捨てることには、強烈な嘆きと悲しみがある。つらいことの多い人生だったけど、それでも星子は養子とは言え大病院の娘であり、血の繋がった姉もいた。それらを失うことはたまらなくつらかったし、また吸血鬼としてやって行けるのかという不安もあった。 だがしかし、自分を吸血鬼にして生かしてくれた相手にそうした感情を吐露できず、星子はそれらを胸に押し殺していた。 飛行や吸血を初めとする吸血鬼としての能力の多くは、まだ使いこなせていなかった。特に、星子の身長を十センチ近く上回る黒い翼の扱いには困らされる。自分の身体の一部だという実感はあったし、自由に動かすことも出来たのだが、サタナキアのように器用に折りたたむには至らず、床や地面を引き摺ってばかりいた。 「しばらくは広げたり畳んだりして遊んで見ると良い。そうしている内に要領が掴めて来る。焦ったり心配したりする必要はない。俺達には無限の時間があるのだから」 そう言われ、星子は古城の中に設けてもらった自室の中で、しばらく吸血鬼の身体に馴れることになった。その際、サタナキアは積極的なコーチングを星子に施すことはなかった。ただ、しばしば状況を確認しに来ては、ちょっとしたことを大げさに褒めた。 『眷属』という言葉から受ける印象から、星子としては、自分はサタナキアの家来になったようなものだと認識していたし、場合によっては慰み者にされることさえ予想していた。しかし実際の扱いは星子の予想に対し、まるでペットを可愛がるかのような、手厚くも生温いものだった。 気が向いた時に星子の前に現れては、取り止めのない話題を振ったり、翼や髪に手を触れたりする。一日に一度程度川に連れて行き、自分で出来るのにわざわざ身体を洗ってくれる。吸血鬼は恐るべき代謝能力を持っており、どんなに不衛生にしていても身体のどこからも悪臭を漂わせる心配はなかったが、サタナキアはかなりの綺麗好きらしい。 翼を外に出す為の穴を開けた服を何着も作って来ては、次々と着せ替えられる。時には人間の女児に与えるようなおもちゃをどこからか調達して来ては、嬉しそうに差し出して来たりもする。 「人間の女の子って、こういうものが好きなんだろう?」 着せ替え人形やそれをディスプレイするおもちゃの家などを手渡され、星子は戸惑った。最初は意図を掴みかねたが、どうやらこの異形の主人は本気で星子が喜ぶと思っているようだった。十五歳の少女の一般的な嗜好など、生粋の吸血鬼たる彼には理解できるはずもないのだ。 「あ、ありがとうございます。嬉しいです」 しかし星子はこういうしかなかった。主人の親切を無下にし不況を買う度胸は星子にはなかった。それに、飛行が満足になるまでは危ないから一人で外には出ないようにと言われている星子は時間を持て余しており、正直に言うとそんなおもちゃでもちょっと遊んでしまっていた。 時には、生きた人間の肉体を差し出されることもある。 サタナキアが連れて来られるまでの抵抗で体力を消耗する為か、星子の前に現れる頃にはぐったりとしていることも多かった。大人しくさせる為、手足が圧し折られているケースも多い。 「吸血鬼の能力は血を吸った数に比例する。何せ空を飛ぶのにも身体を再生させるのにも、人間の血の力を消費するんだ。静かに暮らすだけなら年に数回血を吸えば十分だけれど、飛ぶ練習には血の力をたくさん使う。早く一人前になる為に、いっぱい血を吸うのが不可欠なんだよ」 そう言ってサタナキアは絶句する星子に吸血を勧めるのだ。 殺して血を吸うだなんて、いくら吸血鬼になったとしてもすぐには考えられることではないし、断ってしまいたいのが本音だった。しかし星子の中の吸血鬼としての本能は、その行為を求めて飢餓感のようなものを感じてもいる。何より、ここで血を吸わなかった時に主人がどんな態度に出るのかが予想できず、結局断ることはままならなかった。 この主人は上機嫌な態度を常に絶やさずに纏い続けており、だからこそ本心が見えず不気味な存在だった。振る舞い程、いつも明るい気持ちでいる訳ではないのだろう。そもそも生粋の化け物である彼に、人間に準ずるような感情が備わっているかも微妙なところだ。この振る舞いだって、数ある人間の態度の中から星子と接するに有利な物を選び、演じているに過ぎないのではないか? だから、星子としてはあくまでサタナキアに不敬を働かないよう振る舞うしかないのだ。差し出された人間の胸を固く尖った爪で貫き、心臓を破壊した後、見様見真似で首筋に食らい付く。 尖った犬歯は剃刀のように良く切れて、人間の皮膚を柔らかな紙切れのように簡単に引き裂く。溢れ出る血液の味と匂いは人間の頃と同じだけれど、それが途方もない美味のように感じられる。 「この人殺し! 化け物! 人でなし! 呪ってやる、呪ってやるぞ!」 殺される寸前、人間から悪罵を吐かれることはしょっちゅうある。 「家に帰りたい! ママに会いたいの! 今日はママの誕生日なの! 楽しい一日になるはずだったのに、殺されるなんて嫌! お願い、助けて!」 涙ながらに命乞いをされることもしょっちゅうある。 しかしその全てを星子は尊重しなかった。人間だった頃肉や魚を食べるのと何も変わらない……とまで割り切っている訳ではない。もちろん理屈として同じことは分かっているし、そのことで自己正当化を試みることももちろんある。しかし星子が容赦なく人を殺して食うのは、あくまでも目の前でほほ笑んでいるサタナキアに逆らわない為だ。 着せられたドレスを真っ赤に汚し、何度もむせ返りながらどろりとした生温い血を飲み込む星子を見て、サタナキアは満足そうに頷くのだった。 「これまで何人もの人間を吸血鬼にして来たが、どの眷属も最初は吸血に葛藤を見せる。その点、君は非常に思い切りが良い。優等生だな。君のような素晴らしい眷属を持って、俺は誇らしい限りだよ」 そうやって褒められると、少し嬉しい。 〇 古城には屋上がある。砂埃の蔓延する石で出来た床を踏みつけて、四階建ての城よりも尚高い巨木たちの隙間から覗く星空を睨む。怯える心を落ち着けながら、破れかぶれにジャンプした。 吸血鬼の跳躍力は、人間の時では考えられない程高く星子の肉体を飛び上がらせた。同時に翼をはためかせ、星子は高度を保とうとする。 星子にとっては信じがたいことに、星子の肉体は落下を免れ、若干の上下を伴いながら空中に留まった。浮いているという感覚に興奮を覚えた星子は、さらに力強く翼をはためかせ、高度を上げようとする。 ほんの少し力を強めただけのつもりだった。だが思いの外凄まじい勢いで飛び上がった星子は、たちまち木々の間を抜け星空の中へと投げ出されてしまう。 はるか高くに身を投げ出される感覚は、言うまでもなく恐怖である。自分で飛び上がった癖に、星子はあまりの恐怖に泣き叫び、そのまま地面へと落下しそうになり……寸前でサタナキアの両手に受け止められた。 「上手じゃないか」 この主人は星子が何をやってもたいていのことは褒める。星子は縮こまりながら、サタナキアの腕の中でぺこぺこ頭を下げる。 「す、すいませんすいません。ありがとうございます」 「気にすることはないよ。この調子で、たくさん空を飛ぶ練習をしよう。大丈夫、一度飛び上がることに成功したら、馴れるまではすぐだよ」 サタナキアの言うことは本当だった。自転車の練習をした時と、難易度はそう変わらない。一端高度を維持できるようになれば、もうすぐに自分の身体を好きなところへ運べるようになる。 「君は筋が良い。こんなに早く飛べるようになったのは君が初めてだ。感動的だよ。すごいなあ」 本当だろうか? 思いつつも、飛べるようになったことそれ自体は嬉しかった。 自分が別の生き物になっていく感覚に、恐怖と寂しさを覚えもする。しかし吸血鬼に成ってしまったからには、吸血鬼としてちゃんとせねばという想いもあった。人間らしい人間でいられた頃が恋しいけれど、吸血鬼らしからぬ吸血鬼という半端な状態と比べれば、吸血鬼らしく成れる方がまだ安心できる。 自分はこれから吸血鬼であることに馴れ、吸血鬼の世界に溶け込んでいくのだ。星子の他の、様々な吸血鬼達がそうであったように。……そのことを星子は実感した。 「あの。あたしは他の眷属の方に会ったことがありません。前から気になっていたんですが、他の方は今どうしているんですか?」 星子にはもうそんな質問をぶつける心の余裕も出来ていた。サタナキアは笑顔を浮かべて答える。 「一人で生きていけるくらいに吸血鬼であることに馴れたら、皆独立して行くんだ。必要な時には招集をかけるけど、そうでない時は各々自由にやってもらっている。中には眷属を無理に傍においてこき使う主人もいるけれど、そういうのは俺の趣味じゃないしね」 「あたしもいずれそうなるのですか?」 「君が望む時に独立してもらって良い。もちろんここにいたいなら残ってもらっても良い。長い子だと百年以上一緒にいたこともあるけど、たいていの子はすぐに出て行っちゃうなあ。寂しいものだよ」 この古城は安全ではあるが、人間から変化した吸血鬼が済むには不便が多い。他にもっと快適な住処があると信じて、出て行く気持ちは良く分かる。 「さあ、今日はもうひと頑張りしてみよう」 そう言って、サタナキアは唐突に高度を上げた。慌てて付いて行く星子の最高速度より、少し遅いくらいのスピードに調節している。 「このまま人の街に繰り出してみよう。初めての狩りだ。大丈夫、今の君ならきっと上手くやれるよ。吸血鬼狩りが現れるかもしれないが、その時は俺が守ってあげる」 星子が頷くと、サタナキアは森の上で旋回して矢のような勢いで人里へ向かう。それに付いて行こうと向きを変えた時、星子は広い森と、その先にある人里と、その両方を覆いつくす遙かな星空を見た。 高い空から見る夜の世界は、目が眩む程美しい。満点の星空を目で追っていくと、明るさに溢れた街の景色も目に入る。夜はどこまでも暗くて静かで、眩い程の光に覆われている。 自分はこの夜の世界の住人で、支配者たる吸血鬼なのだ。この美しい景色の中を、自分の翼で自由自裁に飛び回ることが出来るのだ。 そのことを思うと星子は嬉しくなった。意味もなく空中で宙返りをすると、星子は海中のイルカのように颯爽と夜空を泳ぎ始めた。 〇 数週間が経ち、星子は人を襲うことに馴れ、一人で狩りに行けるという自信を得るまでに至っていた。未だに狩りにはサタナキアが付いて来ていたが、一人で狩りをする許しが出るのも、時間の問題であるように思われた。 そんなある日のこと。古城で夜が来るのを待って、サタナキアは星子にこのようなことを切り出した。 「君を他の眷属に披露する為の宴を開く。その為に、たくさんの人間を古城に運びこまなくちゃいけない。手伝ってもらえないかな?」 そう言われ、星子は緊張した。人見知りな星子には、サタナキア以外の吸血鬼と会うというのは憂鬱なことだ。 だが覚悟を決めて乗り切るしかないだろう。そんな決意の元、星子は頷いた。 狩りは順調に進んだ。 サタナキアが他人を襲い、手足を圧し折った獲物を、星子と二人で古城に運ぶ。サタナキアの腕力は凄まじく相当な重さの物を運搬できるが、しかし如何せん手が二つしかない為一度に運べる人数は限られている。星子の手助けが必要なのも頷けた。 古城の地下にある牢屋の中に人間をどんどん運び込んで行く内に、やや奇妙なに人間に遭遇した。 星子達が夜空を飛べば、街には当然吸血鬼警報が発令される。皆が皆建物の中に逃げ出そうとするのを、サタナキアは恐るべきスピードで追いかけて捕獲する。そしてたまに逃げ足の遅い子供や老人を見付けると、練習も兼ねて星子が捕まえるというのが常だった。 しかしその若い女性……少女と言っても良い……は、吸血鬼警報が鳴っても逃げる様子を見せなかった。ただ夜空を見詰めながら、澄んだ瞳で星子達が降りて来るのをじっと待っていた。 「こんばんはお嬢さん。良い夜だね」 サタナキアは少女に声をかけた。二十歳に届くかどうかという若さである。背は低く、華奢というよりは、元々の体格に恵まれていないと言った細い体付き。それでもしなやかな手足には鍛えようとした形跡も見られ、やや引き締まった印象もある。意思の強そうな瞳は星子の姉の千秋にも通ずる気配もあり、顔全体は整った部類にあると言って良かった。 「これから君を俺達の城に招待しようと思うんだ。他の吸血鬼を多く招いて宴を催すんだが、そういう際には生きた人間を出すのが習わしでね。宴の準備はまだ途中だから、君は今から少しだけ長く生きられる。良かったね」 少女は何も言わない。動じた様子もなく、冷静な目でサタナキアの方をじっと見つめるだけだった。 星子はどこか訝しいものを感じていたが、生粋の怪物であるサタナキアに、人間のそんな細やかな仕草を感じ取る力はない。『そういう人間もいるのだろう』という程度の様子で、サタナキアは無造作に少女に襲い掛かり両足を折った。 「……っ!」 一瞬悲鳴を上げそうになりつつも、少女はおおよそ沈黙を保った。苦悶の表情を浮かべている少女を、サタナキアは丁寧に抱きかかえた。 「すまないが、これは君が持っていてくれ。俺はまだ少し狩りがしたいから」 星子は少女の態度に違和感を覚えつつも、頷いて少女を抱きかかえた。 やがて狩りが終わり、その日は五人の人間を古城に運び込んだ。犠牲者たちは件の少女を含み牢屋の中へ放り込まれ、怨嗟の声を上げながら食われるのを待つ亡者の仲間入りを果たした。 「もう大分貯まったね。眷属たちにも全員話は付けたから、そろそろ宴を始められる。いやあ、愉しみだ」 サタナキアはそう言って、朝日が昇る前に自分の寝台へと向かっていく。吸血鬼は日中に眠るのだ。 「あの……っ」 星子はサタナキアの背中に声をかける。サタナキアは笑顔のまま星子を振り返る。 「なんだい?」 「いえ……その……」 先ほどの少女に感じた違和感を口にしようとして、引っ込める。ただでさえ自分の考えを話すという行為には勇気が必要なのだ。元々星子は主人であるサタナキアと話すだけでも緊張するし、上手く説明できる自信もない。 「何でもありません。すいません」 「そうかい。じゃあ、おやすみ」 「は、はい。おやすみなさい」 挨拶を交わし、星子は自分の部屋の寝台へと向かっていく。 明日にはちゃんとこの違和感を説明しようと、そう心に決めながら。 〇 やがて日が昇り、正午を回る頃になっても、星子は眠ることが出来なかった。 吸血鬼にとって睡眠は必須なものではないが、時間を持て余さないようにという観点から、娯楽として好んでいる者も多いそうだった。勉強などに忙しかった人間時代に苦悩を感じていた星子にとっても、たまに狩りに行く以外ほとんどいくらでも寝ていられるという一点は、吸血鬼の暮らしの中でも歓迎すべき部分だった。 それがこうもまんじりとも出来ないのは、あの妙な獲物の所為だ。 あの少女は、吸血鬼警報が鳴り響いているのに逃げようとしなかった。吸血鬼が目の前に迫っても、パニックに陥ることもなかった。両足を圧し折られてさえ、僅かに顔をしかめただけで、喚くことなく星子に運ばれていた。 彼女はひょっとすると、望んで自分達に襲われたのではないか? そんな予感を星子は抱いていており、その違和感と不気味さは寝台の星子を苛んで眠れなくした。 城の外で日が完全に上った頃、星子は寝台を降りた。 廊下や階段を歩き、地下へと向かう。城の中にいる限り日光を大量に浴びることはないが、古城にいくつか設けられた窓から多少の日光は漏れている。その光に手を伸ばすと強い痛みを感じることを、星子は知っていた。 日光に耐えていられる時間は吸血鬼のランクによってそれぞれだが、新米の星子などはおそらく数十分も持たないらしい。星子は窓がある場所をなるべく避けて地下室へ向かった。 地下室の牢屋の中からは、亡者たちのうめき声に混じって、強い意志力を感じられる声音が響いていた。 「沢尻です。計画通り、Aの2番、サタナキアの住処へと侵入中です。ええ、生きたままの獲物を集めていたようなので、それに紛れた形です。Fの832番、五味星子が一緒なのも、報告にあったとおりです」 星子は驚いて牢屋を見詰めた。沢尻と名乗った、運び込む時星子が違和感を覚えた少女が、親指程もない小さな通信機器に向けて何やら話をしている。 城内に獲物を運び込む時、もちろん星子達は獲物が持っている通信機器の類はチェックして、取り除かせている。古城の中から助けを呼ばれると面倒だからだ。あの少女が持っていたスマートホンも見つけ出して破壊していたはずなのだが……どうやらあの小型の通信機器は上手く隠し持たれていたらしい。 沢尻と名乗る少女は星子が自分を見ていることに気が付くと、目を見開いてこちらを睨んだ。 「……っ! すいません、F832に気付かれました。そちらと対応します。……ええ、……もちろん作戦は決行していただいて構いません。……失礼します」 通話を終え、沢尻は星子に向けて話しかける。 「あんた、五味先輩の妹さんだね?」 星子はその言葉で、彼女が何者かを思い当たり、問い返す。 「『クロス』の吸血鬼狩りですか?」 「吸血鬼狩りを名乗って良いのは、前線部隊に採用されてからさ。わたしにそんな名誉はないよ」 「前線の、一番危険な部隊で戦わされることを、名誉という言葉で誤魔化されているのですね」 「吸血鬼狩りは命を賭けて人々を守る素晴らしい精鋭達だ。吸血鬼に堕ちたあんたがバカにして良いはずがない」 星子は言い返そうかと思ったが、不毛に感じたのでやめた。吸血鬼と人間、食う者と食われる者は絶対に相容れない。どちらかの主張だけが傲慢な訳ではないが、いずれにせよ両者の主張は永遠の平行線だ。 「あなたの役目はデコイなんですね?」 「答える義理はない」 「言わなくても分かります。あたし達の居場所を突き止める為、わざと捕まったんですね。あたし達の居場所は既に、『クロス』の本隊に知れている」 星子の額を汗が伝う。沢尻は静かな瞳で星子の方を見据え、敵意と憐れみをないまぜにしたような表情を浮かべていた。 「沢尻さん。あなたはお姉ちゃんと知り合いなんですか?」 「……そうさ。新米のわたしの面倒をよく見てくれたよ。慕っているんだ。おまえが吸血鬼になった所為で、五味先輩は白い眼で見られ、先輩自身も自責の念で苦しんでいる。見ていられない程さ。先輩を救うには、あんたを殺すしかないと思った」 「だからって、自分からデコイの役目を引き受けるだなんて……」 「体格に恵まれず、戦闘員を失格にされたわたしが少しでもクロスに貢献するには、こうでもする他に方法はなかったのさ。吸血鬼に堕ちてまで生きながらえている汚いあんたと違って、あたしは自分の命の使い方を良く見極めている」 「…………相容れません」 星子は悩んでからそれだけを口にした。 沢尻は決して本心からデコイとなることを選んだ訳ではない。周囲から何らかの圧力をかけられたのだ。そうでなければ、自ら命を捨てることを選択する人間などいるはずもない。それをこの愚かな少女は、迷妄とも言えるある種のヒロイズムに準じたものと思い込むことで、自尊心を保っているに過ぎないのだ。 この少女は英雄などではない。自分の命を守れなかった臆病者であり、敗者なのだ。 「失礼します」 星子はそう言って地下室に背を向ける。 沢尻はべらべらと自分の情報を話しているようではあるが、それでいて本当に重要なことは避けているように思われる。最低限度の情報をチラつかせることで、何やら時間を稼いでいる様子だった。沢尻の話は興味深かったが、これ以上引き延ばしに付き合うのもまずいだろう。 サタナキアの部屋をノックする。「入って良いよ」の声を聞きとってから、星子へ主人の寝室へと踏み入った。 「なんだい?」 「……集めて来た獲物たちの中に、『クロス』のデコイが紛れ込んでいました。小型の端末を用いて、本体に城の場所を伝えたようです」 「なんだって? それはまずいなあ。今すぐにでも逃げたいところだけれど、外は昼だから俺達はこの城から出られない。夜まで待てば逃げられるけど、そのことを向こうも分かっているだろう。間もなくこの城は襲われることだろうね」 そのようなことを、サタナキアは朗らかな笑顔のまま言ってのけた。そのことで、星子は主人が一種類のペルソナしか持っていないことを悟ることが出来た。 「……ふむ?」 ふと何かに気付いたように、サタナキアは笑顔のまま小首を傾け、側頭部に手を当てて耳を澄ます仕草をする。 「……どうしました?」 「静かに。……何か来ているね。羽音がする。人間の作った兵器がこちらに飛んでくる物騒な物音が……」 ただでさえ超人的な力を持つ吸血鬼の中でも、サタナキアの聴力は飛びぬけている。星子も同じように耳を澄ましたが、それらしい音が聞えて来るまでに数秒を要した。飛行機のジェット噴射の音、それも信じられない程小さな高度から放たれるような……。 「危ない」 唐突に、サタナキアは星子の身体に抱き着いた。 訳も分からぬまま、星子はサタナキアの広げた大きな翼に包まれる。戸惑ったまま主人の胸の中に閉じ込められている内に、衝撃と爆発音が間近で響いた。 壁や天井が壊れる音がする。降り注ぐ瓦礫がサタナキアの全身に浴びせられるのを、胸の中で安全な星子は感じている。 床が崩れる感覚があり、星子はサタナキアに包まれたままその場を転がり落ちた。二階に設けたサタナキアの部屋から、柔らかい地面に投げ出される。 サタナキアの翼が開かれる。眩い太陽の光が星子の全身に降り注ぎ、身悶えるような苦痛を感じる。全身を焼かれるような感覚の中で、どうにか目を開けた星子が目にしたのは……十字架の木の杭を携えた無数の吸血鬼狩りの姿だった。 背後では星子達の住居だった城が無残にも崩壊して瓦礫を晒し、薙ぎ払われた木々のあちこちから火が立ち上っている。頭上では旋回する戦闘機らしき銀色の機体。 あれが爆弾を落としたのだ。人々を守ると言いながら、『クロス』の連中は牢に閉じ込められた獲物たちごと古城を爆破した。そして城から出て来ざるを得なくなった吸血鬼達を、あたりを取り囲む『クロス』の精鋭達で狩る。そういう計画なのだ。 星子はパニックに陥りそうになりながら吸血鬼狩りの面々を見る。 その中には、星子がもっとも見知った顔……姉の千秋の姿もあった。 〇 「なあ、五味隊員よ。本当に殺れるのか?」 上官らしき吸血鬼狩りが、控えるようにして傍らに立つ千秋に声を掛けている。 「妹なんだろ? 別に下がっていても良いんだぜ? 足手まといになられちゃ困る」 「……私情は挟みません。邪悪な吸血鬼は抹殺するのみです」 そんな二人のやり取りを聞いていたサタナキアが、彼にとっても苦痛なはずの日光に晒されながらも、朗らかな口調でこう言った。 「邪悪とは? 俺達は生きる為食らうのみ。それは人間も同じなんじゃないかな?」 それを聞き、上官らしき吸血鬼狩りは表情を険しくして言い返した。 「だったら我々が同胞を守る為に貴様らを殺すことに文句をつけるな」 「襲われることに文句を言いたい訳じゃない。邪悪と蔑むのは違うと言いたいんだ。俺達は人間を食らいはするが、人間の悪口を言ったりはしないぜ?」 「黙れチスイコウモリ! 人類の敵だ死にやがれ!」 吸血鬼狩りは憤怒の表情で吠え、サタナキアに向けて先陣を切って踏み込んだ。それに引き攣られるようにして、背後に従えられた無数の戦闘員たちも走り出す。 「これを差して逃げるんだ、星子」 そう言って、サタナキアはどこからか取り出した真っ黒な傘を星子に差し出した。 「……これは?」 「俺の作った日傘だよ。俺の翼の骨と皮を使っているから、壊れても数度までなら再生する。翼は吸血鬼の部位の中でも比較的日光にも強いし、細工もしてあるからしばらくは持つだろう。俺が敵をかく乱するから、その間に君はこれで日光から身を守って逃げろ。君の速さでも、空を飛んでいれば人間だってそうは捕まえられない」 そう言うなりサタナキアは単身で吸血鬼狩り達に向かっていく。 高位のグランドヴァンパイアであるサタナキアは、単身で多勢を食い止めるだけの戦闘力を持っている。日光にも星子よりは遙かに長く耐えるから、しばらくの間は戦えそうだ。あれを盾にして、星子が迷わずここを離れれば、なるほど逃げ果せる可能性もありそうだ。 星子は迷わなかった。自分が生きる為、迷う理由などあるはずもなかった。 サタナキアの骨と皮で出来た傘を開き、星子は空を駆ける。そんな星子を打ち落とそうと、吸血鬼狩り達は所持していた機関銃やライフルで滅多打ちにする。 こんな密集した状況で上空に弾丸を射出すれば、落ちて来た弾丸が仲間を打つ可能性も高いだろう。しかしそんなことを、この異常者の集まりである『クロス』の戦闘員たちは、一切気にしない様子だった。 星子は全身に弾丸を浴びる。もちろん吸血鬼には再生能力があるが、撃たれれば痛みはちゃんと感じる。それに、再生には一定の時間がかかる為、矢継ぎ早に打たれてしまえば再生もやがて追い付かなくなってしまう。 爆発のダメージからはサタナキアが守ってくれたが、しかしこの銃弾は星子が自分で引き受けなければならなかった。翼に空いた穴を塞ぐのが間に合わなくなった時、星子は墜落してしまうだろう。そうなってから十字架の木の杭でトドメを刺すのが、吸血鬼狩りの狙いなのだ。 しかし、そんな吸血鬼狩り達を許さない存在がある。サタナキアだ。 彼は銃器を乱射しまくる戦闘員たちに笑顔のまま襲い掛かり、次々と殺戮して行った。無論、吸血鬼狩りたちもやられっぱなしではなく、銃器などで反撃を試みる。 サタナキアは吸血鬼狩り達に絶大な被害を齎してはいるが、しかし結局は多勢に無勢、かつ日光の下というあまりに不利な状況だ。星子を遥かに上回る再生力を持つサタナキアの全身も、やがてはボロボロになって行く。 だがそれもサタナキアは気に掛けていない様子だった。不死身の肉体を盾にして、星子が逃げる為の時間を稼いでくれている。 サタナキアは星子の本当の主人だった。我が身をボロボロにしても星子の為に全力で戦い、生かそうとしてくれる愛のある庇護者だったのだ。その内心を測り切れなかった所為で気味の悪い化け物に見えていたけれど、今この瞬間だけは星子はサタナキアに深く感謝した。 無数の悲鳴と狂騒を背後に感じながら、星子は傷付きながらもどうにか森を逃げ切った。 〇 サタナキアの翼の骨と皮で出来た日傘は驚く程大きく開いたが、それでも一本で日光から身を覆うのには限界があった。吸血鬼の身体の内もっとも日に弱い頭部から胴体は守れるものの、比較的耐性のある翼はまだしも、露出した手足に日光が当たるのは堪えられない。 吸血鬼が飛んだり肉体を再生させたりするのには人間の血の力が必要だ。漠然と、何か血液に宿る魔力のようなものを使うと考えていたが、生理の時の貧血を何倍も酷くしたような今の体調から推測するに、消費するのは単なるヘモグロビンではないのだろうか? いずれにせよ、星子は既に限界だった。全身が人間の血を求めていた。どこか別の山奥に逃げ込むまでに、人を襲って血液を補充しておかなければとても持ちそうにない。今この瞬間にも倒れて動けなくなりそうな餓えと渇きを、星子は感じていたのだった。 星子は地上を見下ろしながら獲物を探す。しかし既に吸血鬼警報が鳴り響いているからか、街は閑散として道行く人は誰一人として存在しない。 星子は泣きそうになった。自分は今にも死にそうで、こんなに頑張って生きようとしているのに、自分の為に食べられてくれる人間はどこを探しても存在しない。こんなに理不尽で冷たいことが、はたしてあって良いのだろうか? このまま闇雲に人を探すか? 無理だ。このあたりの人はもう非難しきっているに決まっている。ならば遠くへ移動して、吸血鬼警報を聞いた人々が逃げる前に誰かを捕獲するか? 無理だ。自分はこれ以上一キロたりとも飛ぶ力がない。 サタナキアの翼の骨と皮で作ったという日傘も、日光を浴び続けた所為で、色褪せてボロボロになってしまっている。これが使えなくなるのも時間の問題かもしれない。そうなれば星子の生存は絶望的だ。 星子は絶叫した。安全な家屋に非難した忌々しい獲物たちのことを心底から呪う。そして自分を苛んだ全ての運命を憎んだ。 気が狂いそうになる星子の元に、ふと懐かしい光景が目に入った。 それは以前、星子が暮らしていた住宅街だった。医者の家系である五味家の家屋は、中でも一際立派な白い一軒家だ。今日は確か日曜日だから、医者の両親もおそらく中で休んでいるだろう。 星子はそこで、ある閃きを得た。 あそこは過去に自分の家だった。そして、今もそうでないとは限らない。吸血鬼の強迫観念がどのように働くかは新米の星子には未知数だったが、あそこに入れる可能性は残されているのではないか? 最早その可能性に賭けるしか残されていない。そう悟った星子は、最後の力を振り絞って、かつて住んでいた家へと飛んで行った。 〇 家の前に来るのとほとんど同時に、サタナキアからもらった日傘は、日光に耐えかねて無残にも崩れ去った。 日光を直接浴び、死にそうになりながらも、星子は家の扉に手をかける。つっかえる感覚があったが、それは強迫観念ではなく単に鍵がかかっているからだった。 これを引きはがす程度の腕力は新米の星子にもあるが、それを星子はしなかった。星子は懐から一本の鍵を取り出した。自宅の鍵。星子はそれを取って置いたのだ。それは星子の人間への未練そのものでもあり、かつて所属した仮初の家庭への愛着の表れでもあった。 鍵を回し、星子は屋内へと侵入する。星子は両親を探して自宅の中を歩き回った。 彼らはすぐに見付かった。 いつものリビングルームである。彼らは星子の足音を聞いても慌てる様子を見せず、畳んだ翼を背負ったその姿を見てさえ怯えなかった。ただ食卓のいつもの席で、いつものように星子が来るのを待ち受けていた。 星子はなんと声をかけようか迷った。そもそも声を掛けるべきなのかどうかも分からなかった。黙ったまま心臓を抉り出してしまうのが一番良いことのようにも思える。これから殺す相手と親子の会話など楽しめようはずもないし、下手に話をして命乞いをされたり悪罵を吐かれたりするのは気分が悪い。 「星子」 考えている内に、母親の方から話しかけて来た。染み付いた習慣からか、星子はつい「はい」と返事してしまう。 「服がボロボロだけれど、大丈夫なの?」 「は……はあ……」 サタナキアからもらった服は無数の弾丸を受けてボロボロになっていた。今にもずり落ちそうなのを、辛うじて繋がった数本の糸が繋いでいると言った状況だった。 「ふ、服は別に……良いんですけど」 「誰が服の心配なんてしているの? あなたの心配よ。そんなにボロボロなら、あなただってつらいんじゃないの?」 「…………今はつらい、ですよ。でも、大丈夫なんです。だって……」 言いよどんでいると、今度は父親が口を開いた。 「大丈夫なんだね それはつまり、僕達を食べるということかな?」 星子は一瞬口ごもり、少し悩んだ後、頷いた。 「……べ、別に、あなた達が憎くてするんじゃないですよ? 厳しい義両親でしたけど、でも、拾ってくれたことは感謝してます。ただですね、あたし、ええと……お腹が空いていて。でも、他に入れる家も食べられる人もいなくて、だから、やむを得ず……」 「構わない」 父親は頷いた。そして、信じられないことに……星子を安心させるような笑顔を浮かべて見せた。 「おまえが吸血鬼になったと聞いて、二度と会えないことを覚悟していた。でも、こうしておまえとまた話せて、本当に良かった。僕達を食べることでおまえが生きながらえるのなら、僕達は何も構わない。母さんもそうだろう。なあ」 「ええ。あなた。星子の為になるのなら、私はなんだって構いませんわ」 そう言われ、星子は頭を殴られたような心地になった。どうして良いか分からなくなり、星子はパニックになりそうなアタマで喚くようにして言った。 「なんでそんなこと言うんですか? 何かの作戦ですか? 時間でも稼いでいるつもりなの? それともそう言えばあたしがあなた達を食べにくくなって見逃すとでも? まさか、そんな甘い訳がないじゃない。ふざけないで!」 「ふざけてなどいないわ。でなければ、どうしてあなたがこの家に入れたというの?」 母親にそう言われ、星子は息を呑みこんだ。 「家主である私達が心から拒めば、あなたはこの家に入れなくなるわ。けどね、そうはならなかったのは、私達がいつまでもあなたを自分達の子供だと思っているから。だからここは、今でもあなたの家なのよ」 ぬくもりに満ちたその言葉が本心であり、彼女達の星子への態度があくまでも愛情に起因するものだと、星子は気付いた。彼女達が本心から星子に食べられても良いと感じていることを、星子は分かった。分かってしまった。 「ごめんね、たくさん厳しいことを言って。血は繋がっていないけれど、それでもちゃんとした母親になろうと思った時に、つい頑張りすぎちゃったの。でもね、私達が本当に心からあなたを愛していたことは理解して。最後にそれを分かってくれれば、私達は他に望むことなんてない」 「なんで? どうしてそんな酷いことを言うの? ねぇ?」 星子の頬を涙が伝う。 「……本当にあたしの為を想うなら、何も言わずに殺されてよ! まだ命乞いをされた方が百倍マシだった! 悪口を言われた方が千倍マシだった! あんた達なんて本当の親でもないから殺して血を吸って正解だって、そう思わせてくれた方が、良かったのに……」 そう言いながら、星子は近くにいた父親の胸に手刀を叩き込んだ。 鋭い爪父親の肉と骨を貫いて、あっけなく心臓に到達する。そして鼓動する心臓を握り絞めると、生温い体温を放つそれを,勢い良く肉体から引き抜いてしまった。 星子は父親の首筋に食らい付き、血液を吸い尽くす。全身に力が漲って、修復しきれなかった分の全身の傷がたちまちふさがって行く。 何度かむせ返りながら血を飲み干して、星子は今度は母親の方へと視線を這わせる。 母親は星子に言った。 「ねぇ星子、吸血鬼としてでも構わない。生きていてくれるだけで、私は本当に満足よ。人の親はね、子供に対して、根っこのところではそのことしか願っていないの。だから、きっと生きてね、星子」 その願いを尊重するまでもなく、星子は生きるつもりだった。人であることを捨ててでも、親を殺してでも、星子は生きていたかったのだ。 涙を流しながら、母親の胸に腕を突き出す。 引っ張り出した心臓を食い終える頃には母親は死んでいて、星子は一人になっていた。 〇 日はどんどんと傾いて、オレンジ色の空を纏いながら地平線の彼方へ沈みかけている。 星子は時計の方を見た。午後六時を回ったところ。秋の夜はもうすぐそこまで迫っていた。 両親を殺して血液を補充した後、夜が来るまでの間中、星子は自宅の中へ身を隠すことにした。空が明るい内に外には出られないからだ。 もう後数分もないはずの日暮れまでの時間を、今か今かと待ち続けている途中、扉の方で鍵の回る音がした。 焦燥に満ちた気持ちで星子は身構え、何が来ても良いように経ちあがり臨戦態勢を取った。戦闘の経験はないが、日が暮れるまでの数分を耐え抜くくらいのことはできるだろうと考えた。 しかし現れたのは武装した吸血鬼狩りの群れではなかった。ただこの家の最後の住人が、いつもの時間に帰還しただけだった。 「……お父さん! お母さん! ……星子?」 現れたのは千秋だった。勤務時間が終了し、自宅に戻って来た星子唯一の本当の肉親だった。 千秋は両親の遺体にそれぞれ視線をやり、パニックに陥ったような表情を一瞬で取り去って、乾いた血に塗れた星子を見付けて眉を顰めた。 「あんた……お父さんとお母さんを食ったのね? 心まで吸血鬼になったとでもいうの?」 「……そうだね。そういうことなんだと、あたしも思うよ」 星子は返事をして息を吐いた。吸血鬼狩りが集団で現れたのではないことに安堵すると同時に、決して油断してはならないことを思いだして身構える。 目に前にいる千秋はどうやら星子の敵らしい。首からぶら下げた十字架の木の杭を取り外し、星子に向けて身構えている。 「その武器降ろしてよ。あたしもうお腹いっぱいだし、別にお姉ちゃんを食べるつもりはないからさ。日が暮れたらそこの窓から出て行くから、それまでじっとしててくれたら襲わないよ」 両親の肉体から得た血液は肉体の修復に大部分を使ってしまっていたので、出来ることなら姉の血も吸っておきたいのが本音だった。だがそれでも、血の繋がった唯一の肉親を殺す気にはなれなかった。 しかし千秋は首を横に振った。そして今度は自分のポケットに手を入れて、取り出した十字架を星子の前に放った。 十字架の木の杭に投擲武器としての性質はない。手で持って直接胸を刺さなければ吸血鬼を殺すことは出来ない。だから星子はその行動に恐怖しなかった。ただ向こうの意図が読めずに、訝しい気持ちで千秋の顔を覗き込むだけだった。 「これが何か分かる?」 千秋は尋ねた。星子は十字架を見詰めて、あることに気が付いた。 これはあの時、千秋が星子にくれた十字架の木の杭だった。滅多に星子に物をくれない千秋がくれたものだから、大事にしようと名前と連絡先を掘っておいたのを思い出す。サタナキアに襲われた時、降参を示す為に茂みの中に捨てておいたのを、千秋は取り戻していたらしい。 「交番に届いていたのを私が受け取ったの。あなた吸血鬼を学校に手引きしたのよね? その時にこれを茂みに捨てて、降参したということかしら?」 「そうですが? 何か? そうしなきゃ死ぬんだからしょうがないでしょ」 「吸血鬼になるくらいなら、これで胸を突いて死になさいと言ったはずよね」 「それは『クロス』のルールでしょう? 一般人に押し付けないで欲しいなあ」 「あたしの妹として死にたいのならば、今からでもこれで胸を貫いて死になさい」 「マジに言ってんの? よしんばこれで自殺しなかったらあんたの妹じゃなくなるとしてさぁ。あんたの妹として死ぬってことが、そんなに素晴らしいとはあたしには思えないんですけど? 傲慢すぎでしょ? あたしは生きてられたらそれで良いんだってば」 「人間は自分一人の為にただ生きていても意味がない。私は何度もあんたにそう教えたはずよ。化け物となって数多の人間の命を奪いながら生きるくらいなら、ここで私の妹として死になさい」 「もうとっくに化け物だよあたしは。……つかさぁ」 星子はそこで、心底から見下した目で姉を見た。 「あんた、随分偉そうなこと言ってるけどさ、結局それ、今あんたが安全な立場にいるからそう言えるってだけじゃん? 自分が吸血鬼になった時、潔く自殺できるっていうの?」 「当たり前よ。『クロス』に入る時、吸血鬼狩りは最初にそれを誓い、常に自決用の十字架を持ち歩く。それは吸血鬼狩りの誇りでもあるの」 「……誇りぃ? そんなもんの為に命を粗末にするんですか? あんた一人大人になるのにどれだけ多くの慈しみがかけられてると思ってんの? それを誇りなんて形の無い者の為に投げ捨てるのが、正しいとも美しいともあたしには思えないんだけど」 「じゃあ他人様をたくさん犠牲にしながらみっともなく生き続けるだけのあんたの生に、正しさや美しさがあるとでも言うの?」 「生きることに正しいも美しいもないね。でも勝利はあるよ。死んだら負けなんだもん。この憎たらしい世界に対する敗北だよ。でも生き続けてさえいれば、いつか勝てるチャンスがある。生きて来て良かったと思える瞬間が必ず来る。そう思ってあたしは必死で生きてるの。立派でしょ?」 「自分一人の力で生きたことなんてない癖に、良くそんなこと言えるわね。あんたは最後の最後まで甘ったれたクソガキだった。でもそれで良い。私が引導を渡してあげる」 「……本当にあんたとは相容れないね」 そう言って、星子は折りたたんでいた翼を展開し、牙と爪を剥き出しにした。 「もっと優しいお姉ちゃんの妹に産まれたかった! 本当に残念だよ!」 星子は翼をはためかせて千秋に突進した。 千秋は手にした十字架の杭でそれを迎撃しようとする。 一体の吸血鬼と一人の吸血鬼狩りが交錯する。それは一瞬の出来事だった。 立っていたのは吸血鬼の方だった。対する吸血鬼狩りは腹から血を流してその場で倒れ伏している。星子は千秋の返り血に塗れながら、陶酔したような笑みを浮かべていた。 「……あたしの勝ちだよ、お姉ちゃん」 千秋が振るった木の杭が星子に触れる前に、星子の手刀が千秋の腹を引き裂いていた。新米とは言え吸血鬼の速さと力をもってすれば、単独の吸血鬼狩りを完封するなど簡単なことだ。 そうと知りながら向かって来るあたり、千秋は信念に満ちた吸血鬼狩りだったと言える。大人しく自分に媚びて命乞いをしていれば、人間として生きていられたというのに。 「でもこれで終わりじゃない。お姉ちゃんが本当にあたしに負けるのは、これからだよ」 そう言って、星子は床に足を付けて、一歩ずつ千秋に近づいた。千秋は痛みを堪えるようにしながら、険しい視線を星子に注いでいる。 星子は千秋の右手を蹴っ飛ばして十字架の木の杭を手放させる。そして、星子はまだ生きている千秋の首筋に噛み付いた。 姉の血は甘い味がした。甘い蜜のような勝利の味だ。 基本的に、一般の吸血鬼は血を吸う前に獲物の心臓を抉って殺害する。仲間を増やし過ぎない為の重要な掟だ。だがそんな一般の吸血鬼にも、百年に一人だけ眷属を作ることが許される。 星子は、その百年に一度の機会を今この瞬間に使うことにした。この時しかないと確信していた。 千秋を吸血鬼にする。眷属にする。そうしてこの偉そうだった姉を従えるのだ。そうすることで、星子は人間時代のあらゆる苦しみに勝利して、あらゆる苦痛を克服する。全てが肯定される感覚に、星子は歓喜に打ち震えた。 血を吸い終えた星子は千秋の首筋から顔を上げる。千秋はその場で震えていた。星子が千秋の体内に注ぎ込んだ吸血鬼の因子が、彼女を吸血鬼にしてしまう。千秋は星子の眷属になるのだ。 変化はすぐに訪れた。びくんびくんと、心臓の鼓動に合わせるようにして躍動する千秋の背中から、黒く大きな翼が生える。口から覗く白い犬歯は肥大化し、爪も鋭く尖り始める。 星子は、喜びに打ち震えた。愉快だ。こんなに素敵なことはない。こうしてやる為に自分は吸血鬼になったのだ! こうしてやる為に自分は生きて来たのだ! 「あはははははっ!お姉ちゃんったら、吸血鬼になっちゃったね! これから一緒に無限の時を生きられるね! おめでとう!」 星子はそう言って、床に落ちていた十字架の木の杭を拾い、千秋の方に放り投げた。 「これで自殺しなくて大丈夫? 吸血鬼狩りの誇りはどこに行ったの? 怪物に堕ちてまで生きながらえることを良しとしない、高潔な魂はまだありますか?」 腹を抱えて星子は笑い転げる。思うさま嘲笑してやって、満足した星子は優しい声音を装って声をかけた。 「まあ良いよ別に死ななくても。あたしもお姉ちゃんが仲間になるんなら嬉しいしさ。土下座して足を舐めるなら、吸血鬼の『いろは』くらい教えてあげる。だから安心して。ちゃんと色々……」 千秋は何も答えない。表情も変えない。訝しい気持ちで目を丸くする星子の前で、千秋は床に転がった十字架の杭を拾い上げ、星子に向けて大きく踏み込んだ。 星子は面食らった。吸血鬼に堕されれば千秋も降伏するに違いないと信じていた為、まさか襲い掛かって来るとは思わなかったのだ。 さっきまでは人と吸血鬼の戦いだったが、今は違う。成りたてとは言え、向こうには吸血鬼の力と速さを持っており、そこに吸血鬼狩りとしての技が加わる。そして十字架の木の杭は、吸血鬼が吸血鬼に刺した時でも効果を発揮する……。 気付いた時には、星子の胸には十字架の木の杭が突き立っていた。 十字架の木の杭で貫かれた吸血鬼は死ぬ。それは不可逆で、例外はない。星子は自分に何が起きているかも分からないまま、再生しない胸から流れる己の鮮血を眺めていた。 千秋はどこか哀れむような表情で星子を見詰めていた。それから一つ息を吐いて、星子の胸から十字架の杭を引き抜いて……千秋は自分自身の胸を貫いた。 膝を着いて崩れ落ちた千秋の身体が、星子の方へと倒れ掛かる。 「ごめんね星子。厳しいお姉ちゃんで。ごめんね」 千秋自身の心臓を貫いた姉の鮮血を浴び、そのぬくもりを感じながら、星子は幼い頃の感触を思い出していた。 本当の両親が吸血鬼に殺された時、泣きじゃくる星子を千秋は抱きしめてくれた。自分もつらいはずなのに、千秋はその全身全霊で星子を慰めようとした。星子の手を掴み、きっと自分が幸せにしてやると誓ってくれた。 あのぬくもりは今も覚えている。それは星子の最も大切な記憶だった。 「私が……あなたの言うもっと優しいお姉ちゃんだったら、他の答えがあったかもしれない。でも私は、こうしてあげることしか出来なくて。……だからごめんね」 あんなに優しさに包まれたことは、星子の人生で、他になかったような気がする。これ程満ち足りた気持ちになったのは、間違いなくあの時と……今この瞬間だけだった。 「大丈夫、地獄には一緒に行ってあげる。ずっと一緒だから。愛してるわ、星子」 死ぬのだ。星子は悟った。もう何の可能性も自分には残っていない。このまま姉の胸に抱かれ、姉と共に死んでいくのだ。 だがしかし……それで良いのだと星子は感じた。 自分は負けたのだ。この世界に敗北し、姉の持つ意志と信念に敗北した。負けたからには死ぬしかない。しょうがない。それは納得せざるを得ないことなのだ。 どれだけ生きたいと願っても、どんな汚い手を尽くしても、負けてしまうことは必ずある。自分がこれまでに犠牲にして来たたくさんの命がそうだったように、それは当然のことなのだ。 問題はそこに至るまでにどれだけ悔いなく生きられるかということだ。そういう意味では、星子はその生涯を全力で戦い抜いて来た。逆境の中、ベストは尽くして来たはずだった。だから星子に何の悔いもない。そう思うことが出来ただけでも、これまで必死に生き抜いてきたことに意味はある。満足できる。自分は間違ってなかったとそう感じられる。 そしておそらくは……姉も別の形で満足を見出しているのではないだろうか? 己の信念を、誇りを、最後の一瞬まで追及し続けたその生涯に、満足しているのではないのだろうか? だったら……千秋の方もまた、何も間違ってはいない。 人間は、生命は、自分の信じる生き方を貫いたのなら、結果はどうあれその生涯を祝福されるべきなのだ。そういう意味では、星子と千秋の価値観はどちらも間違ったものではない。そう言う意味では、今この場所に、敗者など存在しないのではないか? 星子は共に死にゆく姉の身体にしがみ付く。その血の匂いを吸い込み、その体温を感じながら、星子は残された命を謳歌していた。 千秋はずっと星子を抱きしめ続けてくれている。 悪くない最後だ。そして、悪くない人生だった。 星子はそう思った。思うことが出来た瞬間、途端に瞼が降りて来る。あらゆる感覚がほどけて消え去り、最後には、暖かな闇だけが残された。 |
粘膜王女三世 2020年12月27日 23時17分47秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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