月に咲く花 |
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歳を重ねたからといって目に映る景色が急に変化するわけじゃないし、知識や思考能力が自動的に身につくわけでもない。 それでも私たちは分類される。年齢、立場、肩書、そういった属性で判断され、それに相応しい立ち振る舞いを求められる。 私は常に、私でしかないのに。 なんにせよ、私は本日一月二十一日をもってニ十歳になり、この国の規定によって成人すなわち大人として定義されることになった。 成人になると様々な権利が認められ、飲酒もその一つだ。 で、私はいまアルコールドリンクのメニュー表を見つめている。人生で二十度目の誕生日の夜、とあるファミリーレストランで、さっそく大人の権利を行使しようとしているのだ。 「うーん、どれがいいかな」 「まぁ、女子が最初に飲むお酒としてはサワー系がいいんじゃないかなぁ」 迷う私に、音無恵(おとなし めぐみ)が助け船を出した。中学時代の同級生で、サバサバした感じの娘だ。 「これなんかどぉ? レモンサワー」 テーブルに置いたメニュー表を指差す恵に、私はうなずく。 「んじゃ、それにする」 去る一月十四日、私が住む街で成人式がおこなわれた。 式の内容はともかくとして、小中学校時代の友達と再会できたのは同窓会みたいで結構楽しかった。 恵の顔を見るのもひさしぶりだった。中学時代はそれなりに仲がよかったけど、別の高校に通うようになってからは疎遠になっていて、会うのは中学校の卒業式以来だったのだ。 式が終わったあとは、私と恵を含めた十人くらいのグループでファミレスに行った。解散になったあと、帰る方向が同じだった私と恵は、二人で話しながら歩いた。 「乃花(のはな)って、誕生日一月の終わりごろだったよねぇ?」 「うん。一月二十八日」 「よかったらさぁ、その日二人で夕食でもどう?」 「え?」 意外な提案に、少し考えた。記念すべきニ十歳とはいえ家族で盛大にお祝いをするような予定はないし、いま通ってる大学には、一緒に誕生日を過ごすほど親しい友達もいない。 「わかった、いいよ」 「よしよし、じゃあお酒の味を教えてあげよう。あたしは六月生まれだから、大人の世界では先輩だからねぇ」 そんなわけで私たちはいま、このファミレスにいる。窓際のテーブル席に、向かい合って座っていた。 店員さんを呼んで注文を済ませると、恵が言う。 「乃花はさぁ、なんで振袖着なかったのぉ?」 「ああ」 先日の成人式の話だ。出席していた女子のほとんどが振袖に身を包んでいる中で、私はジャケットにスラックスという格好だった。 「なんか振袖って抵抗があってさ。なんとなくだけど」 振袖は、派手な花柄のものが多い。そういう服を着る気分にはなれなかったのだ。 「そうなんだ。あたしは和服が苦手でさぁ。動きにくいし」 振袖を着用していなかったのは恵も同様だ。彼女はそんな部分にシンパシーを感じて、私を夕食に誘ったのかもしれない。 恵は頬杖をついて窓の外に目を向け、ポツリとつぶやく。 「ていうか、成人式自体どうでもよかった感じ。親が出ろっていうから出たけどさぁ」 私も外の景色に視線を移した。太陽の陽が届かなくなった街はまるで黒いキャンバスで、街灯や看板の光は芸術的な絵画みたい。ここは四十万都市の中心部で、飲み屋なんかも集まっている場所だ。人もまばらとは言えない程度に行きかっていて、そのほとんどが大人だった。この人たちの多くも、かつて成人式を経験したのだろう。 「私も、強いて出ない理由がなかっただけで、別にどうでもよかったかな」 そう言って恵のほうに視線を戻すと、ちょうどこちらを向いた彼女と目が合った。 「だよねぇ。だいたい、年齢で子供とか大人とかを決めるのっておかしいよねぇ」 「そうだよね。成長のスピードは人それぞれだし」 「うん。他人から言われるまでもなく、あたしたちはもう、とっくに大人なんだからさぁ」 意外な言葉に、私は返事をできなかった。 成人式に対する冷めた感情は私と恵で共通していても、そこに至る道筋は、まったくの逆なのかもしれない。 「お待たせしました」 店員さんがお盆を持ってやってきた。食事の前にドリンクが運ばれてきたようだ。 私の前にレモンサワーが、恵の前には彼女が注文したハイボールが置かれる。 「それじゃぁ、乃花のニ十歳の誕生日を祝って乾杯ぃ」 「乾杯!」 恵が持ち上げたグラスに、私は自分のグラスを軽く打ちつけた。レモンサワーを一口飲む。炭酸とレモンの酸味を感じたあとで、アルコールのにおいが少しだけ、ツンと鼻を刺激した。 「はじめてのお酒は、どうかなぁ?」 「うーん。思ったよりも、いやじゃないかな。ジュースみたいだし、」 「それがサワー系のいいところだからねぇ」 「でも、そんなにおいしいとも思えないけど」 「最初はそんなもんだよぉ。経験を積むことで、少しずつ魅力に気づいていくものなのさ、お酒っていうのは」 「そんなもんかな。恵が飲んでるハイボールっていうのは、どんなお酒なの?」 「ウイスキーを炭酸水で割ったやつだよ。ウイスキー独特の苦みや香りを楽しめつつ、飲みやすくもあるお酒だねぇ」 「そっかー。私もいつか飲んでみようかな」 「よかったらさぁ、別の日にまた飲みに行こうよ」 「うん、そうだね。また誘ってよ」 「バーに行ってさぁ、カクテルを飲もうよ。いろんな種類があって楽しめるし、飲みやすいのも多いよ。それに、男受けもいいしねぇ」 「男受け、か。そんなの考えたこともないや」 「おやおやぁ?」 恵はグラスをテーブルに置き、身を乗り出して顔をこちらに寄せてきた。 「乃花ってば、ひょっとしてまだバージンなのぉ?」 「ちょっ」 言葉に詰まった。 「な、なに言ってんのよ、こんなところで!」 素早く視線を巡らせて、周囲の様子をうかがう。さいわい、となりにも前後の席にもお客さんの姿はなく、この会話が他人に聞かれている心配はなさそうだ。 「で、どうなのぉ?」 「い、言いたくないっ!」 黙秘権を行使したものの、必死に隠すような言い方になってしまい、これでは肯定したも同然だった。 恵はにやにやしながら頬杖をついて、私の顔を見つめてくる。私は目を逸らして、レモンサワーを一口飲んだ。 「ふふふ。乃花は相変わらずの清純派なわけだ。それじゃあまだ、名前のとおりにもなってないんだねぇ」 「なにそれ、どういう意味?」 「大地の花っていう名前」 私の苗字は大地(だいち)なので、フルネームで呼ぶと『大地の花』という文章に聞こえる。小学生のころから散々ネタにされてきたことだ。 「花っていうのは生殖器官なんだよぉ」 そんなこと意識したこともなかったけれど、確かにそうだ。花とは、植物が繁殖をするために咲かせるものなのだ。 「いまの乃花はまだ、花を咲かせてないってことだよねぇ」 「い、いや、おかしいでしょ。私、ちゃんと子供をつくれる身体にはなってるから、花は咲いてるってことだよ。ただ、や、やってないってだけで」 もはや完全に肯定してしまったけれど、いまさら気にしても仕方がない。 「うんにゃ、人間の花というものは、身体じゃなくて心に咲かせるものなのさ。だからまだ、乃花の花は咲いてないんだよぉ」 こんな話をするくらいだから、恵は当然経験があるのだろう。それはニ十歳としてはごく普通のことで、むしろこちらのほうが少数派なのかもしれないけれど、それでも私にはまだ、そういうことは考えられない。でもそれを恥じるような気持ちもあって、複雑。 私はまた、レモンサワーで口内を湿らせた。あー、もう。やめたいなぁ、この話題。 そう思っていたら、店員さんが料理を運んできた。私の前にはチーズカルボナーラが、恵の前にはハンバーグセットが置かれる。 私たちはそれぞれの夕食を食べ始めた。これを機に話題が変わってくれることを願ったけど、恵の攻撃はまだ終わらない。 「ねぇ、男と付き合ったこともないのぉ? 大学で出会いくらいあるでしょぉ?」 「女子大だし」 「でも、出会いは学校の中だけとは限らないじゃん。乃花なら、引く手あまたでしょぉ」 「ど、どういう意味よ」 「だって乃花、かわいいしぃ。あたしが男だったら、ほっとかないけどなぁ」 同性とはいえ、そんなことを面と向かって言われると照れてしまう。私は恵から目を逸らして、食事を始めた。 「ねぇ、本当に誰とも付き合ったことないのぉ? 実はあるんでしょ? 一人くらいさぁ」 私は答えない。恵のほうを見ず、黙々とパスタを口に運ぶ。 「キスは? キスもしたことないのぉ?」 思わずむせ返って、品のない音を立ててしまった。なんとかパスタを吐き出さないように飲み込んでから、ゲホゲホと咳をする。テーブル上のお酒、じゃなくてお冷のほうを手に取り、二、三口飲むと、ようやく落ち着いた。 「おやぁ? これはビンゴかなぁ。どうやら、キスの経験はあるみたいだねぇ」 新しいおもちゃを手にした子供みたいに笑う恵を、私はにらみつける。 「い、言いたくないって言ってるでしょ!」 そう、話せるわけがないのだ。 あんな奇妙なファーストキス、いや、本当にキスだったのかどうかもわからない体験のことは。 あの出来事がフラッシュバックする。これまでも忘れたことは一瞬だってないけど、より強く、より鮮明に、私の脳内で映像が再生される。 ハンバーグを頬張りながらにやつく中学時代の同級生を置き去りにして、私の意識は過去へトリップする。 あれは、中学三年の夏休みのことだ。 〇 七月二十三日、午後八時すぎ。 高校受験を控えた、大事な大事な中学三年の夏休み。そんなときだけど、私は自室のベッドに寝転がってテレビを観ていた。サボっているわけじゃなくて、息抜きだよ息抜き。 と、スマートフォンが鳴らす電子音が耳に届く。 身を起こして、枕元に置いていたスマホを手に取った。ディスプレイに表示されていたのはクラスメイトの名前だ。 月岡翔(つきおか しょう)。 男子の中では比較的、というかほとんど唯一、私が日常的に会話をする相手だった。とはいえ電話がかかってくるのははじめてだった。 一体なんだろう。妙な期待感に、心臓の鼓動が速まる。 受話ボタンを押す指が、少しだけ震えた。 「も、もしもし?」 「あ、大地か? 俺だ。月岡」 「うん。なんか用?」 「いきなりで悪いんだけどさ、いまから出てこられるか?」 「え?」 「俺、いま武鳥公園にいるんだ。大地の家の近くなんだろ?」 確かに、そんなことを以前月岡に話したような気がする。 「大地も、武鳥公園に来られないかな?」 「なんなの? 要件があるなら、いま電話で」 「直接会わないとダメなんだ。頼むよ。時間は取らせないから」 少し迷った。夜に呼び出されるなんて、なんだか危ないイメージ。 でも月岡は真面目な生徒だし、信用しても大丈夫だろうと思う。 「わかった。いまから行くよ」 「ああ、ありがとう」 電話を切ると、私は親にコンビニに買い物に行ってくると伝えて、家を出た。 マンションや一軒家が立ち並ぶ夜道を歩く。さすがは真夏、まとわりつく空気は湿っぽく、夜だというのに熱を帯びていた。背中に汗が一筋流れるのを感じる。 五分ほどで武鳥公園の入り口にたどり着いた。広さは学校の体育館ほど。中央は広場になっていて、端のほうには遊具やトイレが設置されている。 広場の真ん中に人影があった。身長は百七十センチ弱で痩身。あの背格好は、月岡に間違いなさそうだ。 私は小走りに月岡のほうに近づいて行った。彼は私に気がつくと、こちらに向き直る。 私は二メートルほどの距離をおいて月岡と向き合った。 「おう、大地。来てくれたか」 「うん」 夜だから当然景色は暗いけれど、公園内は照明のおかげである程度明るくて、月岡の姿はしっかり確認できる。 太くて吊り上がり気味のまゆ毛と、対照的にたれ気味な目。鼻筋も通っていて濃いめな顔立ちは、どちらかというとイケメンの部類に入ると私は思う。前髪が長めなスポーツ刈りも似合っている。 服装はなんだか妙な感じだった。上半身はスキニーな詰襟のジャケットで、色はテカテカとした銀。夏なのに長袖だ。下半身は黒いロングパンツで、こっちもスキニー。なんとなく、SF映画に出てくる宇宙船乗組員の服みたい。独特のセンスだな、と思う。 そういえば、私の格好はTシャツに七分丈のチノパンという部屋着のままだった。それに髪を整えたりもしてない。変じゃないかなって急に不安になった。額に汗がにじんだのは、たぶん気温のせいだけじゃない。 「で、なんなの、話って」 不安を紛らわすように、私は語気を強めた。 「あー、それなんだけどな」 そう言ったっきり月岡は口をつぐみ、腕を組んでうつむいたり、かと思えば天を仰いでため息をついたり、落ち着きなく動き始めた。発言するのをためらっているようだ。 もしかして月岡、私に告白するつもりなの? 期待と緊張で、私の心臓は激しく踊った。喉が急速に水分を失うのを感じて、何度も生唾を飲み込む。 やがて月岡は、姿勢を正して私と目を合わせた。 「よし、俺も男だ。思い切って言うぜ」 意を決したように、真剣な表情になる月岡。 「大地、単刀直入に言う」 「う、うん」 心臓が胸の壁を突き破らんばかりの勢いで鼓動する。 月岡の口が大きく息を吸い込み、そしてその言葉を放った。 「俺とキスしてくれ!」 「は?」 思わず、間の抜けた言葉を発してしまった。 いやいやいや、ちょっと待ってよ。告白は期待したけど、そこを飛び越えていきなりキス? 「あの、意味がわからないんだけど」 「つまりさ、俺とこの場で、口づけを交わしてほしいんだよ」 「いや、あのね、言葉の意味はわかる。わからないのは理由のほう」 「えーっと、それはさ」 月岡は数秒間頭をボリボリと掻いてからつづけた。 「その、俺が大人になるために必要っていうか」 「はあ? なにそれ?」 大人になるためにキスを? それって単に、そういう欲が湧いたってこと? もしかして、あわよくばその先も、なんて考えてるの? 一気に冷めた。月岡ってこんな奴だったんだ。 私は月岡に背を向けて歩き出した。なんだか、どっと疲れた気がする。早く帰って、今日はもう寝よう。 「待ってくれよ大地!」 肩をつかまれた。仕方なく、私は振り向いて月岡のほうを見る。悪魔のような形相で、私は怒っているんですよ、という意思表示をすることも忘れずに。 「悪い大地。怒らせたんなら謝るよ。でもこれには理由があるんだ。話だけでも聞いてくれないか?」 まゆ毛を下げ、心底申し訳なさそうな顔になっている月岡。私は一度目を閉じて深呼吸をしてから、彼と身体を正対させた。 「わかった。話は聞いてあげる。理由ってなに?」 「あ、ありがとう大地。いいか、驚かないで聞いてくれよ?」 「うん」 「実は俺、月に住んでいる人間なんだ」 月岡の発した声が鼓膜を震わせ、それが電気信号となって脳に到達し、言語として認識する。そういった正常な処理が私の体内でおこなわれたはずなのに、まったくもって意味が理解できなのはなんでだろう。 「は?」 私の口から出たのは、またしても間の抜けた言葉だった。 「俺は月の世界の王子で、いずれ父親のあとを継いで王になる。月岡翔っていうのも地球で過ごすための仮名で、本名は、シンディロ・オクヌ・シャラティーマっていうんだ」 「えっと、ちょっと待って」 力説する月岡を制して、私は頭を抱えた。 「中二病?」 「違う! マジなんだよ! この格好も、月のフォーマルな服装なんだ」 「あー、そう。マジね。マジなのね」 これ以上突っ込んでも収集がつかなそうなので、とりあえず話を進めることにした。 「で、月の人間である月岡が、どうして地球に住んでるの?」 「月の王子は、百八十歳から二百歳までのあいだ、地球に住んで研修する習わしがあるんだよ」 「二百歳?」 「あ、二百歳っていうのは月の暦で言ったものだよ。月は、地球時間の二十七日とちょっとで、地球の周りを一周するんだ。それが月の世界での一年。地球の暦で換算すると、二百歳はちょうど十五歳くらいだな」 正直理解が追いつかなかったけど、とにかく話のつづきを聞くことにした。 「で、俺も百八十歳のときに地球に来て、それから二十年、地球の年数で言ったら一年半くらいが経って、いまちょうど二百歳なんだ」 月岡は、中学一年の二月という、ものすごく中途半端な時期に転入してきたのだ。いまから一年半くらい前のことだから、確かに時期としては一致する。 「俺、もう月に帰る時期なんだよ。それでさ」 上空を指差す月岡。私はそちらに視線を向ける。 そこには、我々地球人にとって最もなじみ深い星が浮かんでいた。月だ。ちょうど正円に近い形をしていて、太陽から反射した強烈な光を地球に降らせている。 「ほら、今日は満月だろ? 地球から見て満月のとき、月からは地球が真っ暗に見えるんだけど、そのときだけ月と地球を結ぶワームホールが開くんだよ」 「ふーん、それで?」 「俺は今夜のうちに月に帰らなくちゃいけない。次の満月のときには二百一歳になってるから」 「あー、そう」 ありえない、と思う。それなのに、どこかワクワクしてる自分がいることに気がついていた。もしもこの話が本当なら、私はいま異星人と会話していることになるのだ。 小さく首を振る。常識的に考えて、月に人がいるわけがない。 「じゃあ早く帰ったら? バイバーイ」 私はそっけなく言った。 「いや、ダメなんだ。俺はまだ課題をクリアしてない」 「課題?」 「地球研修には特に一つ、大きな目的があるんだよ」 「なんなの?」 「愛を知ること」 なんで月岡が私にキスを要求したのか、なんとなく想像できた。 「地球という異文化の中で人の愛を知る。そうすることで様々な人間の立場に立ってものを考えられる、王に必要な素養が育まれる。それが月の世界の教えなんだよ。その課題をクリアするための最終テストが」 「キスを、すること?」 「ビンゴッ!」 こちらを指差す月岡。 私はこれ見よがしに大きなため息をつくと、きびすを返してまた月岡に背を向けた。 「だから、待ってくれって大地!」 月岡は再び私の肩をつかむ。私はその手を払いのけて振り返り、ありったけの憎悪を込めて彼の顔をにらんだ。 「ふざけないでよ! 意味不明な設定までつくってキスしようとするなんて、頭おかしいんじゃないの! このエロ野郎!」 「エ、エロ野郎とかいうなよ! それに、設定じゃなくて本当だっていうの!」 「嘘でしょ! キスが、愛を知るための最終テストなら、愛を育んだ相手とするのが筋ってもんでしょ? なんで私に申し出るのよ?」 「そ、それは」 「ふん! どうせ誰でもよかったんでしょ! 好奇心でキスしてみたくなって、頼んだらさせてくれそうな相手だと思って、私を呼び出したんだ!」 「だ、誰でもいいわけないだろ! 俺は大地がよかったんだ!」 「え?」 うつむき加減になり、声量を落とす月岡。 「も、もっと前から言おうと思ってたけど、勇気が出なかったんだ。ただ、これだけは言える。俺は、キスする相手は大地だって、ずいぶん前から決めてた」 「そ、それってつまり、どういうこと?」 「い、言わせるなよ、これ以上は」 いや、言ってほしいよ。ちゃんと言ってくれないと納得できないよ。 そう思ったけど、私のほうもそれを言葉にすることができない。 顔面が、体中が、徐々に熱くなっていく。無意識のうちに、私はくちびるを舐めていた。心臓の激しい鼓動音が耳に届いて、もしかしたら月岡にもこの音が聞こえてるんじゃないかって心配になる。 月岡は視線を上げ、私と目を合わせた。その瞳に、私は吸い込まれそうな気分になる。 「なあ大地。月では二百歳になると大人として認められるんだ。でも王子である俺は、この課題をクリアしないと大人になれない。次期王として、それは許されないんだ」 一メートル前方に立っていた月岡が、一歩だけ距離を詰めた。 私のすぐ目の前に、月岡がいる。 「大地は、俺のこと嫌いか?」 声が出ない。私は首を小さく振って、否定の意を示す。 「不躾な頼みなのはわかってる。でもこれは、課題のことだけじゃなく、俺自身の本意でもあるんだ。頼む大地、俺とキスをしてくれ。俺を大人にしてくれ」 私は小さくうなずいていた。無意識に出た動作だった。 「よかった。じゃあ」 月岡が私の両肩をつかんだ。身長が高い月岡の顔を、見上げるかたちになる私。その顔が、ゆっくりと接近してくる。 ちょ、ちょっと待ってよ! まだ心の準備が。 目をつぶる。キスのときにまぶたを閉じるのは自然なことかもしれないけど、ちょっと強くつぶりすぎた気がする。 数秒後、私のくちびるに柔らかいものが一瞬だけ触れた。 あれ、いまひょっとして、キスした? そんなわけないよね? これからが本番だよね? そう思って目をつぶったまま待っていたけど、その後数十秒経ってもなにも起こらない。いつの間にか、月岡につかまれていた肩の感触も消えている。 私は目を開いた。 そこに月岡の姿はなく、満月に照らされた公園の景色だけが広がっていた。 〇 「んでさぁ、あたしは思ったわけよぉ。彼らは間違いなく、今後のお笑い界を背負って立つ逸材だってねぇ。まだ若いし、二人ともピンでも結果を出してるしぃ」 恵がハンバーグを食べながら熱弁を振るっている。昨年末の漫才コンテストで優勝したコンビについてだ。私はあまり興味がなかったし、月岡のことで頭が一杯だったので、パスタを食べながら適当に相槌を打っていた。とりあえず、話題が恋愛ごとから離れてくれたことには、ほっとする。 その後も世間のニュースのこととか、最新のスマホアプリのこととか、たわいない会話をつづけた。 その最中も、私の頭の中では月岡の顔がぐるぐると回っていた。 彼の姿を見たのは、あの夏の夜が最後だ。 夏休みが明けると、月岡は登校してこなかったのだ。家庭の事情で転校したのだと、先生からは説明された。 いろんな人に話を聞いたけれど、転校先を知る人はいなかった。 電話をかけてもつながらず、月岡の行方はようとして知れないのだった。 私たちは食事を終え、お酒も飲みほした。今日は平日なので、二人とも明日がある。もうお酒はやめておくことにして、デザートを注文した。 会話の内容が一段落し、沈黙が落ちる。そのタイミングで私はつい、こんなことを口にしてしまう。 「ねえ、月岡翔って覚えてる?」 「月岡? 中学のときの? いたよねぇ、そんなやつ」 椅子の背もたれに身を預け、懐かしむように視線を上に向ける恵。 「変な時期に転校してきて、いきなりいなくなったよねぇ」 「そうそう。その月岡」 失敗した、と私は思っていた。なんで月岡のことなんて話し出したんだろう。恵のことだから、これも恋愛話に結びつけかねない。取りつくろうように、つけ加えた。 「いや、なんか急に思い出しちゃってさ。特に意味はないんだけど」 「あー、もしかしてぇ」 恵は私の顔を見てにやりと笑う。 「乃花がキスした相手って、月岡なのぉ?」 ほら、こうなった! というか、鋭すぎるでしょ恵! 私がなにも言えずにいると、恵は身を乗り出してにやけ顔を近づける。 「キスは中学のうちに済ませてたんだぁ。意外だなぁ」 「そ、そんなこと言ってないでしょ!」 「まぁ、いいや」 恵はにやにやしながらも、キスについてはこれ以上追及しないことにしたみたいだ。とりあえず安心する。 「月岡ってさぁ、おかしなやつだったよねぇ。なんか、宇宙の話ばっかりしてた気がする」 「うん」 月岡は学校で変人扱いされていた。誰もが知っている芸能人を知らなかったり、カップラーメンやカレーを食べたことがないと言ったりと、ありえないほどの世間知らずだったからだ。 そのくせ天体に関する知識が豊富で、宇宙について語らせると、ことさら饒舌になるのだった。特に月に関しては異常なほどに詳しくて、毎日のように月に関するうんちくを披露していたものだ。 「月の直径ってさ、地球の四分の一くらいなんだけど、それって他の星の衛星と比べると、でかすぎるんだよな」 「月と地球の距離は三十八万キロ以上あるんだけど、そんなに離れてる衛星ってのは他にないんだよ」 「月って実は、ちょっとずつ地球から遠ざかってるんだ。一年間で、だいたい三・八センチくらいな」 月岡がする月や宇宙に関する話は、どれも興味深いものだった。私がなにか宇宙のことを聞くと、彼は間髪を入れずに答えてくれるので、私は何度も何度も宇宙関連の質問をした。 いつしか私は、月岡との関係性を心地いいものに感じていた。 ある日、私はこんなことを聞いた。 「ねえ月岡、地球に宇宙人が来てる可能性ってあるの?」 月岡は自信満々に言った。 「うん。宇宙人は地球に来てるよ」 その言葉は、私に勇気をくれるものだった。だからといって本気で信じたわけではないし、後に「俺は月の人間だ」なんて言い出すとは思ってもみなかったけど。 「月岡も、ニ十歳になったんだよねぇ。元気にしてるかなぁ。いま、どこにいるんだろうねぇ」 恵はそんなことを言った。月岡と特に親しくなかったはずの彼女は、本気で気にしているわけではないだろう。でも私は、月岡の所在を心の底から知りたいと思っていた。 あのとき月岡は、私にキスをしたのだろうか。一瞬だけ伝わったあの柔らかさは、私と月岡のくちびるが触れ合った感覚だったのだろうか。 そんな謎を残して消え去り、私の心に一生消えないであろう強烈な記憶を刻み込んだ月岡翔。 あれからおよそ五年半。月岡のことを考えなかった日はない。 注文したデザートが運ばれてきて、私の前にキャラメルハニーパンケーキが、恵の前に抹茶クリームあんみつが置かれた。 「懐かしいよねぇ、中学時代」 あんみつを頬張りながら、恵はしみじみと言う。 「あのころはみんな若かったよねぇ。それでも五年も経てば、いやでも変化するってもんだ。特に、朱美には驚いたよねぇ」 「ああ、うん、そうだったね」 成人式で再会した、中学時代の同級生の一人だ。中学生のときは眼鏡をかけていて地味だった茂木朱美が、大きく変貌していたのだ。眼鏡はコンタクトになり、長い髪を茶色く染めて明るい雰囲気に、なにより苗字が茂木ではなく阿部になっていた。高校卒業後すぐに結婚し、すでに子供までいるのだという。 その他にも何人か、しばらくぶりに再会した同級生のことを、私は思い出していた。語学留学でカナダに住んでいるという娘や、まだ無名だけどプロサッカー選手になったという男子もいた。印象が大きく変わった人もいれば、さほど変わっていない人もいて、だけどそれぞれが五年分の成長をきっちり果たしていたように思う。 いま、私の目の前にいる女性も。 「恵も、結構変わったよね」 「あれぇ? そう?」 「うん」 中学時代は首の後ろでまとめていた髪は、いまはウェーブのかかったショートヘアになっていて、色も少し茶色っぽい。化粧をしているのは当然だけど、その仕上がりが妙に艶っぽかった。スタイルも、以前からは想像ができないほどグラマラスになっている。 恵は現在、小さな印刷会社で事務の仕事をしているのだという。大学生である私よりも一足先に社会人デビューしていたわけだ。その分、しっかりと大人の女性を感じさせる風貌になっていて、私とは大違いだ。 「あたし、年上と接する機会が多いからさぁ、その影響かもねぇ」 「うん。すごく大人っぽくなったよ」 「成長した証だとすれば、うれしいけどねぇ」 恵はちゃんと成長してるよ。私のほうは成長できず、なにも変わっていないけど。そう思う。 もちろん私だって、肉体的には成長したと思う。体つきが丸みを帯び、顔からも幼さが消えて。でも、中身の成長がそれに伴っていないのだ。 化粧だって薄くナチュラルなものしかしたことがないし、ミディアムヘアも中学生のころから、いや小学生のころから変えてない。 小学生のころといえば、こんなことがあった。六年生の春のことだったと思う。 私はそのころハマっていた漫画の影響で、地球には宇宙人が住み着いていると信じていた。のみならず、UFOを見たとか、宇宙人に会ったとか、戯言を吹聴していた。いま考えると、かなり痛い子だったけど。 ある日、クラスメイトの男子が「宇宙人が地球にいるわけないだろバカ」と言ってきた。秀才で通っていて、でも言動が鼻につくので私は嫌いだった子だ。 その子はなんだかんだと難しいことを言って私を論破して、反論できなかった私はついカッとなってその子を押してしまい、そこから取っ組み合いの大喧嘩になった。 二人とも怪我はなかったものの、教室のガラスを割ってしまい、放課後に二人の親が学校に呼び出された。私たちは騒動の説明と謝罪をさせられる事態になったのだ。 大人の前ではいい子面な男子は終始殊勝な態度で、そのせいで私が一方的に悪いみたいな扱いになって、悔しくて仕方がなかった。 「向こうの男の子、偉かったねえ。しっかり謝ってたし、大人びてたわ」 帰り道、母がそんなことを言うもんだから私はムカついて、終始黙っていた。そんな私を見下ろし、母は冷たい言葉を放ったのだ。 「あんたも、もっとしっかりしなさい。もうすぐ大人なんだから」 確かにそのころ、私は赤く汚れた下着を見て自分が赤ちゃんをつくれる身体になったことを知り、大人への道を一歩一歩進んでいることを自覚し始めていた。 でも、母の言うことには納得できなかった。 大人になるってなに? 先生や親の前でいい子にすること? それとも、宇宙人なんていないと思うこと? 釈然としなかったけれど、それでも私は反省をする必要があった。あの騒動は、私が男子を押したせいで起こったのだから。 それから私は宇宙人を見たなどと言うのはやめ、親や先生の機嫌を取る言動を心がけるようにした。そうすることが、大人になることなのだと信じて。 「ねえ恵、大人になるって、どういうことなのかな?」 パンケーキをフォークで切りながら、私はそんなことを聞いていた。 「言ったじゃん。私たちは、とっくに大人なんだってさぁ」 スプーンについたクリームを舐め、恵は言う。 「逆に言うと、大人って意外と大人じゃないんだよねぇ。みんな必死に、大人の仮面を被ってるだけだよ」 「そうかな」 「大人は、子供が思ってるほど大人じゃないし、子供は、大人が思ってるほど子供じゃないんだよぉ。あたしたちはみんな、幼いころから一人の人間として成熟してるのさ」 「でも私、みんなを見てると、ちゃんと大人になってて偉いなって思うよ」 たとえ仮面を被っているのだとしても、私はそれさえできていない。 「乃花もちゃんと大人だよぉ。あとは心の花を開くだけさ」 開けないのだ、その花を。 大人への道を進む私の足は、中学生のときに止まったしまった。「宇宙人は地球に来てるよ」という月岡の発言の影響で。 あの言葉が私を、宇宙人を信じる子供時代につなぎ止めている。常識的に考えて、宇宙人は地球にはいない。頭ではそう考えても、私は心の奥底で宇宙人の存在を信じているのだろう。きっといまでも。 「んー、うまいなぁ」 恵はもう、あんみつを食べ終えようとしている。私もキャラメルハニーパンケーキを口に運んだ。ハチミツの甘さよりも、キャラメルソースのほろ苦さのほうが際立っているように感じた。 〇 私たちはファミレスを出ると、市内で一番大きな駅のほうに歩みを進めた。この場所までは、電車で来たのだ。 ビルが立ち並ぶ大通りを進む。車道には車のヘッドライトが次々と行きかい、歩道を歩く人の姿も多い。 横断歩道の前に、数人が信号待ちをしている。居酒屋と思しき店の前では、十数人のグループが固まって楽しそうに話をしていた。飲み会が終わったところだろうか、それともこれから店に入るところなのだろうか。 夜の世界を楽しむ大人たち。この人たちも昔は子供で、成長して大人になったのだ。 横断歩道を渡るため、私と恵は足を止めた。 「あれぇ? ハンバーガー屋がなくなってる」 恵が対面の歩道のほうを指差した。見ると、確かに以前はハンバーガーショップだった店が、不動産屋に変わっている。 「それに向こうにも、なんかできてるねぇ」 少し先の景色に目を向ける恵。そこにはクレーンが立っていて、高い建物を建設している途中だった。 「このあたりも、少しずつ変わってるねぇ」 「そうだね」 世の中は常に、時間と共に変化しているのだ。街並みも、人も。 歩行者用の信号が青になったので、横断歩道を渡ろうと足を踏み出した。そのとき。 「あ、ちょっと待ってぇ。トイレ行きたくなった。そこのトイレに行ってくる」 恵が言うので振り向くと、背後に大きな公園があった。恵は「さっきの店で行っとけばよかったぁ」と言いながら、公園の中に入っていく。 私も公園に入り、入り口付近で待つことにした。奥のほうに明かりのついた建物がある。あれがトイレのようで、恵はそちらに向かっている。 自分の吐いた息が白く濁り、霧散した。一月の寒空の下は、凍えそうなほどの冷気に包まれている。コートを羽織っているけれど、じっとしているとつらい。手をすり合わせながら、辺りをうろうろと歩いた。 上空に目を向けた。都市が放つ光りのせいか空は仄明るくて、星の姿は見えない。ただ一つ、月を除いては。 まんまるな月が、己の存在を誇示するように夜空に鎮座していた。満月が放つ光りは強く、他の星が見えないのはその影響もありそうだ。 月岡が住んでいるかもしれない、月。 古くから人類の生活にも影響を与えてきた、地球に一番近い異星。パートナーのように身近な存在で、だけど簡単に行くことはできない場所。 彼は言っていた。満月のときだけ、地球と月をつなぐワームホールが開くのだと。 満月を見るたび、私は考えてしまう。月にいる月岡が、地球に来ているのではないかと。満月の夜なら、月岡に会える可能性があるのではないかと。 実際には、月に生物がいるなんて、ありえないのだけれど。 人類はアポロ計画で月に到達しているし、その後も幾度となく探査機を月に送り込んでいる。それでも、月で生物が発見されたという話は一度も聞いたことがない。 だいいち月には空気も水もないし、重力だって地球の六分の一しかない。もし月に生物がいるなら、そういう環境に適応した身体になっているだろう。月の人間が、地球で普通に生活できるわけがないのだ。 だけどもやっぱり、私は心の深層で信じてしまっている。月岡は月で暮らしていて、満月の日には地球に来ていると。 そうでないと悲しいから。地球のどこかに引っ越しただけなのに、私になにも言わずに去ってしまったなんて、そんなのは悲しすぎるから。 ああ、ダメだ。私はまた月岡のことを考えている。 思考を振り払うように、大きく頭を振った。 私はもう大人なのだ。一人の人間として自立することを求められるし、いつまでも周囲に頼ってばかりではいられない。 過去に縛られることなく、未来を見すえて前に進まなければならないのだ。 だけども、と思う。 私に、それができるだろうか。 誰もが時間というフィールドを軽やかに駆け抜け、大人へと成長していく。なのに私は深い砂の上を進むようにひどく緩慢な動きで、まるで自分だけが現世から切り離され、時間の流れから取り残されているように感じる。 月の大地を歩いているみたいだ。一面に広がる乾いた砂の地面。どこまで行っても変わらない景色。花なんて咲くはずもない無味乾燥な世界。 「月岡のせいだよ」 私は足を止め、つぶやいていた。視線は相変わらず上空、その先には満月がある。 月岡の記憶が私に絡みつき、脚を引っ張っているのだ。 彼のことを忘れない限り、前に進めない。大人になることができない。 そう思うけど、忘れるなんてできるはずがなくて。 「バカ! 月岡のバカ!」 私は吠えた。満月に向かって。 「あんな中途半端なかたちで姿を消して、したのかどうかもわからないようなキスで私の心をもてあそんで!」 私は、月岡に言いたいことがあった。彼に対して抱いている感情があった。でもそれを伝えることができなくて。いつかきっと、と思っているうちに時間がすぎて。 突然いなくなるなんて思ってなかった。もっと早く言っておけばよかったって、後悔ばかりが募った。 もう、想いを伝えることもできない。そう考えると目頭が熱くなる。 「会いたいよ、月岡」 「呼んだか?」 背後から声が聞こえた。低くて落ち着きのある声。聞き覚えがあって、すごく懐かしくて、ずっと聞きたいと思っていた声。 おそるおそる、私は振り返った。 痩身の男性。太くて吊り上がり気味のまゆ毛と、対照的にたれ気味な目。筋の通った鼻。前髪が長めなスポーツ刈り。 あのころの印象はそのままに、だけど確実に成長した姿がそこにはあった。 「つ、月岡、なの?」 男性はにやりと口角を上げた。 「シンディロ・オクヌ・シャラティーマだよ」 「ふふっ」 思わず笑ってしまった。 「私にとっては、月岡翔だよ」 「ははは。そうだな」 彼も笑う。 「ひさしぶりだな、大地」 「そうだね、ひさしぶり」 渇望していた姿がそこにあって、いろんな感情がごちゃ混ぜになって心に押し寄せたけど結局勝ったのはうれしさで、私の頬は自然と緩んだ。 「いやー、懐かしいな地球の世界!」 右手で頭を掻きながら月岡は言う。 「今日はどうしても地球に来たかったからさ、偶然にも満月の日でよかったよ!」 「今日来たかったって、どういうこと?」 「誕生日だったんだろ、大地」 「あ」 知ってくれてたんだ、私の誕生日のこと。 「ニ十歳だよな? 地球のこの国で、大人って認められる年齢だろ? そのお祝いを言いに来たんだ」 薄く笑う月岡。街の光と月明かりのおかげでその顔がはっきりと見えて、大人らしい力強さと品位を携えた表情に、胸の高鳴りを禁じ得ない。 「おめでとう、大地」 「あ、ありがとう」 照れくさくて、私は月岡の顔から目を逸らした。あの日と同じく、銀色のジャケットと黒いロングパンツに身を包んでいるのが目に入る。月の世界ではフォーマルだと言っていた服装だ。 「お祝いの品とかは渡せないけどさ、どうしてもこれだけは言いたかったんだ。それに、ひさしぶりに大地の顔を見られてよかった」 私もだよ、と思うけど声にすることはできない。代わりに、再び彼の顔を見て、憎まれ口を叩いた。 「まったく、いきなりいなくなったと思ったら、現れるのも突然なんだから。いままでどこをほっつき歩いてたのよ?」 「言ったろ? 月だよ」 彼の表情に、おちゃらけた様子などまるでない。 「マジなの?」 「マジさ。俺は月の人間なんだよ」 それが真実なのか虚構なのか、そんなことはもう、どうでもいいと思った。 「だからって、何も言わずにいなくなるなんて、ひどいよ。行先もわからないし、連絡も取れないし」 「ごめん。あのときは俺も恥ずかしくて、つい逃げ出しちまったんだ。でも、おかげで俺は課題をクリアできた。大地には感謝しかないよ」 やっぱり月岡は、あのとき私にキスをしていたんだ。一瞬だけ触れた柔らかいものは、彼のくちびるだったんだ。 「長い時間が経ったんだから当然だけど、大地、変わったな」 「そ、そう?」 「ああ。大人になった感じだ。見違えたよ」 大人になった。本当にそうだろうか。 沸々と、腹の奥から負の感情が沸き起こってくる。様々なことに、私は怒りを覚えた。月岡に対しても、自分に対しても。 「なってないよ」 うつむき加減に、つぶやく。 聞き取れなかったのか呆けた顔をした月岡を見据え、今度は大声をぶつけた。 「大人になんて、なってないよ! なれなかったんだよ、月岡のせいで!」 「俺のせい?」 「私にあんなことして、急にいなくなって、そのせいで私の時間はあのときから止まったままなんだよ!」 違う。本当は月岡のせいじゃない。私が大人になれないでいるのは自分のせいだ。想いを伝える勇気を持てなかった、弱い心のせいだ。 そうわかっているのだけれど、あふれ出る感情を抑えることができない。それを包みこむように瞳の奥から暖かいものが生まれて、頬を一筋伝い落ちた。 「大人になんか、なれないよ。月岡のことが忘れられないから」 私は一歩足を踏み出し、三メートルほど前方にいる彼との距離を詰める。 言わなくちゃ。想いを伝えなくちゃ。この期を逃したらもう、チャンスなんてないから。 弱い心を克服しなくちゃ。 「私は月岡のことが好き! ずっとずっと、好きだった!」 意外そうに目を見開く月岡に、私はつづける。 「ねえ、月岡。大人になれずに立ち止まってる私の手を引っ張って、大人にしてよ」 月岡はゆっくり、首を振った。 「ごめん、無理だ。だって俺は、月の人間なんだから」 ショックはなかった。わかってたから。月岡はもう、違う世界にいるんだってこと。こうしてまた会えただけでも、奇跡なんだってこと。 「そっかぁ。ま、仕方ないよね」 「本当にごめんな。月の人間はさ、基本的に地球に来ちゃいけないんだよ。それに俺は王子だから、勝手な行動もできない。今日だって実は、お忍びで来てるんだ。だから、長い時間はいられない」 「そうなんだ、ふふふ」 「ん? なに笑ってるんだよ?」 「別に。ただ、言いたいことを言えてすっきりしたから」 実際、清々しい気分だった。とてつもなく長いマラソンを完走したみたいに。 月岡は、ふっと相好を崩した。 「なあ大地、聞いてくれよ。俺、もうすぐ王になるんだ。月の王様だぜ? 本当はもっとあとになる予定だったんだけど、親父の体調不良とか、いろいろ重なってさ」 「へえ。よかったじゃん。おめでとう」 「ああ、ありがとう。でもさ、これから大変だよ。王になったら多くの人に信頼される必要がある。威厳が求められるんだな。まさしく、大人でなくちゃならないんだよ」 月岡は天を仰いで、大きく息を吐いた。その息が白く濁ることはない。 「だけど、実際にこの歳になってわかったけど、人間って歳を取ってもあんまり変わらないもんだよな。俺はいま二百七十三歳で、地球の年齢で言ったらニ十歳だけど、正直言って実感わかないんだよ。地球で中学校に通ってたころと比べても大して成長してないっていうかさ」 「そんなことないよ。月岡、成長したと思うよ」 私が言うと、月岡は少し顔をほころばせて、こちらを見た。 「お、どんなところが?」 「顔つきが精悍なった。それに背も伸びたよね。全体的に、男らしくなったよ」 「そっかー。そう言ってもらえるとうれしいな。ま、身体が成長するのは当然だけどな」 それから彼は、また上空に目を向ける。夜空に浮かぶ満月を見つめているのかもしれない。 「でも、中身もちゃんと成長しなくちゃな。なんたって、俺は月の王になるんだから。しっかり大人にならないといけない」 「私も」 月岡から視線を逸らし、歩道を行きかう人々に目を向けた。子供から成長して、いまは社会的責任を果たしているであろう大人たち。私にとって人生の先輩、そんな人たち。 「私も大人にならなくちゃ。もうニ十歳なんだから、前に進まなくちゃ。過去を捨てて」 「過去を捨てて? どうして?」 月岡が言う。私は彼に視線を戻した。 「過去は大切なものだ。捨てちゃダメだよ。過去を大事にしてこそ成長できる、そうなんじゃないか?」 過去を大事にする。そんなこと、考えたこともなかった。過去は、月岡と過ごしたあの日々は、私を縛りつける鎖でしかないのだと思ってた。 捨てなくてもいいんだろうか。私はいつまでも月岡との記憶を大事にして、いつまでも彼のことを想っていていいのだろうか。 「だったら、月岡は大事にしてくれているの? 中学生のときに私と話したことも。あの日の出来事のことも」 「もちろんさ」 真顔の月岡はひどく魅力的で、ああ、私はこの人に恋をしていたんだと、あらためて実感する。 「俺、中学だと浮いてただろ? 常識的なことも知らなかったし、宇宙の話ばっかりしてさ。最初は正直、地球で暮らして行けるのか、愛を知ることができるのか、不安で仕方がなかったよ。でも、そんな不安を和らげてくれる人に出会えたんだ」 右腕を前に出し、人差し指を伸ばす月岡。その指の先にいる人物は、一人しかいない。 「大地のことだよ。大地は俺の話を熱心に聞いてくれて、そのときのうれしそうな顔がまぶしくて、本当に助けられたと思う。砂漠みたいだった俺の心の中に、花を咲かせてくれたんだ。『大地の花』っていう名前のとおりにさ」 「もうっ」 恥ずかしくて、思わず目を逸らした。 「くさいこと言わないでよ」 「大地のおかげで、俺は人の愛を知ることができたと思う。だから思ったんだ。最後の課題でキスをする相手は、絶対にこの人だって」 月岡は言葉を切り、沈黙が流れる。もう一度彼の顔を見ると、穏やかな笑顔がそこにあった。 「俺も、大地のことが好きだ。中学のころから、月に帰ったあとも、これからもずっと」 なんて素晴らしい瞬間だろう。この世に生を受けて二十年の中で、最も幸福で、最も歓喜に溢れる場面が、いまこのときだ。 私も自然と笑顔になる。それを美しいと、月岡が感じてくれていればいいなと思う。 だけど、浮かれ気分にはなれなくて。 「でも、月岡は私の気持ちに応えてくれない、そうなんでしょう?」 「うん。俺だって悲しいし、悔しいけどさ。俺は月の人間だから」 月岡はそこで、ニッと笑った。 「俺さ、王になったらやりたいことがあるんだよ」 「うん」 「花を咲かせたいんだ。月の世界にさ。月は砂ばかりで、花がないんだ。俺、地球ではじめて花を見たときに感動して、月にもこの美しさを広げたいって思ったんだよ。月の大地を花で埋め尽くすのが、俺の夢なんだ」 「素敵な夢だね。きっとできるよ、月岡なら」 「おう、応援してくれよ! 大地が俺の心に花を咲かせてくれたように、俺は月に花を咲かせてみせるから」 そう言った彼は少し寂しげな表情をつくり、また上空に目を向ける。 「さてと、あんまり長い時間はいられないんだ。そろそろ帰らなくちゃな」 「そっか。もう、お別れなんだね」 寂しさはない。悲しくもない。ただ、悔いの残らない別れ方をしたい、そう思った。 「ねえ月岡」 私は言う。 「私、決めたよ。過去を捨てるんじゃなくて大事にして、そうすることで前に進むって。大人になるって」 「うん、それでいい」 「でも、だからって、月岡が私にしたことを許したわけじゃないんだからね。あんなかたちで強引にキスして、そのくせなにも言わずにいなくなって」 「あ、ああ。それは、本当に悪かったよ」 ドギマギする月岡が可愛くて、思わず頬が緩む。 「あれ、私のファーストキスだったの。それがあんな微妙なキスだなんて、本当にがっかりなんだから。最後に、その責任だけでも取ってよ」 「ああ、どうすればいい?」 「もう一度キスして」 真剣な表情で、私は言った。 「いま、ここで。今度は、ちゃんとしてよ」 「わかった。いいぜ」 月岡はためらわずに言うと、こちらに近づいてくる。 私の目の前で足を止め、肩をつかんでくる月岡。五年半前と同じシチュエーションだけれど、当時よりも身長差が広がっているので、私はかなり首を上げる状態になる。 身長差を少しでも埋めるために、つま先立ちをした。 「ひょっとして大地、キスが上手くなっちゃってたりする?」 「んーん。なってないよ。これが二度目だから」 「そっか。俺も同じだ」 月岡が少しだけ顔を傾け、こちらの顔に寄せてくる。今回は目を開けたままにしようと思っていたけど、無意識のうちに閉じてしまった。 リラックスさせた口を、ほんの少しだけ前に突き出した。そこに、柔らかいものが触れる。厚みと弾力と、温かみのあるそれが、私のくちびるに圧をかける。 その繊細な部分で、彼とつながっていることを確かに感じて。 とても甘美で、幻想の中を漂っているようで。 口元を中心として顔全体に伝わる月岡の体温と、脳裏に流れる彼との思い出がない交ぜになって、不思議な気分になる。キスはきっと、身体だけじゃなく心もつなぐものなのだ。 舌を入れてきてたりはしなかったけど、たっぷりと十数秒間、月岡はくちびるを密着させた。 やがてゆっくりと、くちびるにかかる圧が解ける。肩をつかむ手の感触も。 私はかかとを降ろし、それでもまだ、まぶたは開かない。なんだか宇宙空間にいるようにふわふわとした気分で、その余韻に浸っていたかった。 「それじゃあな、大地」 声が耳に届いて、私はゆっくりと目を開けた。目の前に広がる夜の景色に、月岡の姿はもうない。 私は見をひるがえし、天を見上げた。黒い布地にぽっかりと大きな穴を開けたように、銀色の光を放つ円、満月。あそこに月岡は帰ったのだろうか。いつでも私たちの傍にいて、それでも手の届かない、あの星に。 「ありがとう月岡。さようなら」 私の声は白い煙のように立ち上り、すぐに消えてなくなった。 〇 「いやぁ、お待たせぇ」 恵が戻ってきた。その姿を見ると、ファンタジーの世界から現実に帰ってきたようで、寂しいような、安心したような、複雑な気分になる。 「おやぁ?」 恵は私の顔を見ると、意外そうな顔をした。 「乃花、なんかあったのぉ? なんだか、急に顔つきが変わった気がする」 「んーん、別に」 私は首を振り、再び上空の満月を見る。 「ねえ恵、宇宙人っていると思う?」 「んー? いるんじゃなぁい?」 と恵。 「だってさぁ、宇宙って考えられないくらい広いんでしょ? 宇宙人がいる星の一つや二つ、絶対にあると思うけどねぇ」 「じゃあ、地球には来てると思う? 宇宙人」 「来てたら面白いよねぇ」 弾むような恵の声。視線を降ろして彼女を見ると、恵もこちらを向いていた。 「宇宙人が地球人のふりしてたくさん暮らしててさぁ、自分の星に地球の情報を送ったり、地球を侵略する準備をしてたり、でも地球人にも一部それに気がついてる人がいて、宇宙人対策組織なんかがあったり。そういう想像をするとワクワクするし、宇宙人が地球に来てるといいなって思うよねぇ」 「うん、そうだよね。来てるといいよね」 私が微笑むと、恵も私に笑い返してくる。 「さ、行こっかぁ」 「うん」 公園から出た私たちは、横断歩道で信号待ちをしている人たちの中に混ざる。 私はもう一度満月を見て、すぐに視線を戻し、自分の胸に手を当てた。 人生はつづく。その中で変わっていくこともあるだろう。忘れることもあるだろう。 それでも。 宇宙人を信じてた小学生時代も。 月岡翔に恋をした中学生時代も。 奇妙で微妙だった最初のキスも。 甘美で幻想的な二度目のキスも。 すべての記憶を心の内に包んで。 生涯大切にしようと私は誓った。 歩行者用の信号が青になり、前にいた人たちが、次に恵が、横断歩道を渡る。私は少しだけ遅れて、その背中を追いかける。 一歩一歩地面を踏みしめて、未来へと、大人の自分へとつづく道を進む。 乾いた月の大地、そこに色鮮やかな花が次々と咲いて一面を埋め尽くしていく。そんな情景をイメージしながら。 |
いりえミト 2020年12月27日 17時16分23秒 公開 ■この作品の著作権は いりえミト さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年01月14日 14時29分38秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時24分38秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時23分51秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時20分05秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時16分33秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時13分20秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時11分24秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時06分57秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時03分51秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 14時00分21秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 13時58分43秒 | |||
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Re: | 2021年01月14日 13時55分09秒 | |||
合計 | 14人 | 310点 |
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