小麦の妖精に恋したら |
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〔1〕 食欲の秋と、人は言う。 「天高く馬肥ゆる秋」の諺もある。 空は高く青く澄み渡り、心地よい日差しと頬を撫でる涼やかな風。美味なる穀物や果物が、豊富に実る秋……。 「……って、食べ過ぎじゃない? フーミン!」 午前授業終わりのチャイムと共に、山ほどの惣菜パンを机に積み上げた春風一二美(はるかぜ ひふみ)は、呆れる私を気にする素振りもなく満面の笑みを浮かべた。 「うん、心配しなくて大丈夫よぅ、スー子。五個中三個がお昼で、残りの二個はオヤツなの」 「そういう問題じゃなくてさぁ……」 溜息と共に私は自分の机から椅子を引っ張って、一二美の正面に腰掛ける。 「昨日も半分はオヤツと言いながら、ポテサラ・サンドとカレーパンとチョココロネ、全部食べちゃったじゃない? 机に並べたら我慢できなくなるから、オヤツの分は鞄から出さない方が良いと思うけど?」 私の提案に一二美は小さな頭を振って抗議する。天然パーマの長い髪がフワフワ広がって甘い香りを振りまいた。 「だってだって、全部並べてどれから食べようかなって悩むのが楽しいの。この気持ち、わかって欲しいんだよぅ」 「わかんない」 「あぁん……スー子、陸上部エースだからってストイックすぎるんだよぅ。ブロッコリーと鶏のササミばかり食べてないで、たまには……ほれ、このコロッケパンを食すが良い!」 「うっ……!」 「均一に綺麗な焼き色をしたコッペパン。縦一文字の切れ目には、黄色くて可愛らしいコーンがこぼれ落ちそうなほどタップリ入ったコロッケの断面が二つ並んで、ソースは甘めの中濃ソース。ザクザク食感のキャベツたっぷり! そのかわり、そのオレンジちょうだいっ!」 きめの細かい食パンみたいに真っ白で柔らかそうな頬が、一二美の笑顔でふっくら膨らんで……。 「美味しそ……いやいや、ダメダメ! オレンジは私の唯一の楽しみなんだから、譲れません!」 頬をつつきたい誘惑を抑え込んで、私は一二美とコロッケパンに背を向けた。 私……綾波涼子(あやなみすずこ)は、陸上部短距離走選手。 ここ、私立秋草高校で二年連続インターハイ予選県大会に出場している。 0・5キロの体重増加が、0・1秒の記録に変化をもたらす世界。少しでも身体を軽くしたくて、中学で陸上を始めてから髪さえもショートカットにしたのだ。 いくら一二美のすすめでも、コロッケパンに手を出すことは出来ない 「ヤッパリ、食べてくれないのかぁ……体重維持はわかるけどさぁ。身長も随分伸びたし、もっと食べなきゃ筋肉もつかないよぅ?」 ふぅっと、一二美は大きく息を吐いてから、不満そうに大きな瞳で私を見つめる。 「私のことは良いんだよ、自分の身体のことはちゃんと自分で管理してる。フーミンこそ、そんなに食べたらワンサイズ上の制服が必要になるからね!」 「ふぅん。まぁ、最近胸のあたりがキツいのは確かだけど……」 ブレザーを脱いで白シャツだけのフーミンが、ゆさゆさと胸を揺らす。羨ましさをグッと堪え、私は自分のお弁当箱を机の上に開いた。 一二美が言った通り、今日もブロッコリーと鶏のササミ。小松菜のシラス・ポン酢和え、トマトとチーズの卵焼き。デザートにオレンジのワンカット。カルシウムとタンパク質多め、炭水化物はなし。 「スー子、運動量多いのに、そんだけで足りるの? ねぇほら、このクリームパンあげるよ?」 「いぃーらぁーなぁーいってば!」 「えー? こんなに食べたら太るし」 「気にするくらいなら、たくさん買わなきゃいいでしょ?」 「だってぇ、『サン・ベーカリー』の陽向さんの笑顔が素敵だからぁ、ついついたくさん買っちゃうんだよぅ」 一二美、お気に入りのパン屋さん『サン・ベーカリー』。 私達が通う私立秋草高校から、最寄り駅に行く途中の人気店だ。 豊富な種類の惣菜パンは味もボリュームも大満足で、何しろ安い。朝はお昼や朝練後の腹拵え用に最適な惣菜パン。夕方には帰宅する学生を対象に、オヤツや間食に最適な甘いパンが棚にたくさん用意されているのだ。 しかも、店主の娘さんで看板娘でもある陽向さんが超美人! 紅いタータン柄の三角巾とエプロン。キッチリとアイロンが掛かって清潔そうな白いブラウス。膝下までのスカートは日替わりで、タイトだったりフレアだったり。 「はぁあ……エプロンがぱっつんぱっつんになるほど、ふくよかな陽向さんのオッパイに顔を埋めたい! 焼きたてパンみたいに柔らかいんだろうなぁ……マジ天使、陽向さん可愛いよぅー!」 「……私はフーミンの方が可愛いと思う」 「んっ? なに?」 「……っ、なっなんでもない!」 一年中グラウンドで走っている私の日焼けが落ちない茶色の肌と違って一二美は、ほんのりピンクがかった白い肌。胸だって陽向さんに負けないくらいボリュームがある。 それに、好きなパンを食べているときの幸せそうな笑顔は天使そのものだ。 眺めているだけで、お腹いっぱい……と、思ったそばから一二美が新たなパンの包みを開く。 「あっ! フーミン、それ四個目じゃない? お昼は三個までじゃなかったの?」 「んっふふふんっ! やはり大好きなハムカツサンドを放課後まで我慢することは出来ませんでしたっ! 天に星、地に花、人に愛。そしてパンにはハムカツ! これぞ天の理(ことわり)、この世の真理なり!」 「そんな諺、聞いたことないんですけど? しかも人には愛ってさぁ……あまり大食いしてると、好きな男が出来ても逃げられちゃうからね?」 「大丈夫だよぅ! 私が恋してるのは『小麦の妖精』さんだから!」 「ぷっ、『小麦の妖精』って?」 ああそうか、陽向さんのことか。パン屋さんだから小麦粉に引っかけて『小麦の妖精』さんねぇ……。 一二美に彼氏が出来るのは、当分先のことになりそうだ。 笑いながら私は、味のない卵焼きを口に放り込んだ。 〔2〕 中学で陸上を始めてから辛いと思ったこともある食事制限も、いまはもうすっかり慣れてしまった。 むしろ、食べ物に興味がなくなったのだ。 食事は単なるエネルギー補給。味も、香りも、どうでもいい。 いっそ、車にガソリンを入れるように補給できたらいいのに。 あぁ、でも注射は嫌だな。痛いから。飲むだけですむジュースとか、タブレットなら……。 「綾波さん? ストレッチするときは動かしている部分を意識して。いま、何か他のこと考えてたでしょう?」 名前を呼ばれて我に返ると、陸上部外部顧問の田部井コーチが私の顔を覗き込んでいた。 そうだ、いまは土曜日の午前練習終わりで整理体操してたんだ。 「すみません……」 まさか食事をしなくて良い方法を考えていたとは言えず、決まり悪さを取り繕い謝った私の肩を、元陸上選手だった田部井ゆかりコーチが優しく叩く。 「ねぇ、綾波さん。あなた少し、ダイエットしすぎじゃないかしら? 短距離選手にとって体重管理は大切だけど、あなた春から身長が3センチも伸びたでしょ。身長に合ったバランスで体重も増やしてカルシウムを補わないと、女性の陸上選手が陥りやすい骨粗しょう症になるのよ?」 三十代後半で、二人の子供を持つ女性コーチは母親の顔で私に注意した。 「……大丈夫です」 「ちょっと心配だから、一週間の食事を記録して提出してちょうだい。栄養面の不足を補うメニューを考えるわ」 「はい」 「それからもう一つ気になることがあるんだけど……まぁ、その事はまた後で話すわね」 「?」 面倒くさいな……。 部室で帰り仕度をしながら大きな溜息を吐く。 自分の食事は面倒くさい。だけど一二美が美味しそうにパンを頬張る姿を見ていると、幸せに思うのはなぜだろう? 一二美が食べているものなら、美味しそうに見えるのはなぜだろう? あんなふうに、食事をしたいと思っているのかな? 一緒に同じものを食べてみたら、私も美味しいと思えるのかな? でも、あの食べっぷりは私には無理だな。体重管理もあるし……。 ボンヤリ考えながら駅に向かっていると、途中にある『サン・ベーカリー』手前のマンション影に見覚えのある姿を見つけた。 「あれっフーミン、何してんの? 土曜日なのに、わざわざ『サン・ベーカリー』のパン買いに来たんだ?」 一二美の家は学校最寄り駅から二つ先だ。この店のパンのためだけに運動嫌いの一二美が自転車を漕いできたなら、大した根性……というか、食欲だと感心する。 「しっ! 静かにするのよぅ!」 私に気付いた一二美は指を立て、ぷっくりとした自分の唇に押し当ててから『サンベーカリー』に目配せした。 「えぇ……?」 視線の先は駐車場に面した勝手口だ。そのドアの前で、陽向さんが若い男の人と言い争っているように見えた。 マンションの陰に身を隠し、息を殺して十五分ほど経った頃。男の人は駐車場に止めてあった車に乗り込み去って行った。通りに出て遠ざかる車を見送っていた陽向さんは、急に顔を覆ってしゃがみ込む。 「フーミン、どうしよう。陽向さん、泣いてるみたいだよ?」 私が言い終わらないうちに一二美は駐車場を駆け抜けていった。私も慌てて後を追いかける。 いや、あれはどう見ても恋人との喧嘩でしょ? 私達、女子高生に慰められるような問題じゃ無いと思うけど……。 一二美の行動力に呆気にとられながら放っておくことも出来ず、駆け付けた私もエナメルバックから未使用のタオルを引っ張り出して陽向さんに渡した。 「あの……これ、綺麗なので使ってください」 すると一二美が「よくやった」と言わんばかりの顔で私に頷く。 なんだろう、この上から目線……。 「大丈夫ぅ? 陽向ちゃん。いまの人が浅倉さんでしょ? やっぱり、説得できなかったかぁ……」 「……って、陽向ちゃん呼び?」 年上の陽向さんを「陽向ちゃん」と呼ぶ一二美に驚いて、二人を見比べる私に陽向さんが笑った。 よかった、少し落ち着いたみたいだ。 「ありがとう、一二美ちゃん。それと……涼子ちゃん?」 陽向さんに名を呼ばれ、私は頷いた。多分、一二美から聞いているんだろうな。でも、いつの間に、そんなに仲良しになったんだろう? 胸に、何かがチクリと刺さる。 「二人のおかげで、元気が出たわ。お礼に、お茶とアップルパイを御馳走したいんだけれど、どうかしら?」 「喜んで!」 間髪を入れず一二美が応えたので、成り行き上、私もお誘いを受けることにした。 私達を勝手口から招き入れた陽向さんは、お会計カウンター後ろのパーティションで仕切られたカフェテーブルに、ティーカップとアップルパイを用意してくれた。 「お店が暇なとき、このテーブルでお昼を食べたりお茶を飲んだりしてるのよ。最近は一二美ちゃんが一緒にお茶してくれるから楽しいわ。今日は父が病院の日で夕方まで帰らないから、ゆっくりしていってね」 そう言って微笑んだ陽向さんは、目元がまだ赤く腫れていたけどヤッパリとても綺麗だった。 なんだよ、さっきの男は。陽向さんを泣かせるなんて最低だな。 込み上げる怒りを抑えながら、せめて腫れが引くまでお客さんが来ないように願う。 一二美を見れば、大好きなアップルパイに手も付けず、神妙な顔でティーカップを持ったまま動かない。 きっと、私と同じ気持ちなんだ。 「あ、そろそろオーブンの火入れ時間だわ。ちょっと失礼するわね」 楽しく雑談という雰囲気になれず、居心地の悪い無言の空間から陽向さんが席を外した。私と一二美の二人きりの方が気楽だろうと、気を遣ってくれたのかも知れない。 陽向さんが席を外した途端、一二美はアップルパイにガブリと食い付いた。 「さっきの男の人ねぇ、浅倉さんという人で陽向さんの彼氏なんだぁ……」 「あ、うん、そうかなって思ったけど……なんで喧嘩してたんだろうね?」 先ほど陽向さんに掛けた一二美の言葉から、理由を知っているのだろうと考えカマを掛ける。 一二美は難しい顔で「うーん……」と二度唸ってから紅茶を一口飲み、決意が決まったらしい。私の顔を真っ直ぐ見つめた。 「浅倉さんはねぇ、専門学校出てから二年、『サン・ベーカリー』店長の下でパン職人の勉強してたんだって。短大卒の陽向さんより二歳上で、修行始めてから一年過ぎた頃に付き合いだしたんだけど、この辺の環境が変わってから客層も変わって、陽向さんのお父さんである店長と意見が合わなくなってきたのよぅ。それで独立するって言って、店を出ちゃったの。いまは新しくできた駅ナカのベーカリー『ソレイユルヴァン』支店長なんだって」 「あぁ、あの焼きたてバゲットとクロワッサンで人気の店か」 「そうなのよぅ……この数年で昔からある家が買収されて、駅近マンションになっちゃたでしょ? そしたら惣菜パンとか菓子パンが売れなくなったんだって。浅倉さんがオシャレなドイツパンやフランスパンにもチャレンジしてバリエーション増やそうって言ったら、店長が怒っちゃって……」 確かにカレーパンやコロッケパン、メンチカツサンドは学生や社会人の昼ご飯として需要があるけど、オシャレなマンション住人の朝ご飯には似合わないかもなぁ……。チョココロネやクリームパンみたいな菓子パンも、子供のオヤツには少し重い。 「陽向さんは、いまでも浅倉さんと付き合ってるからロミジュリ的な板挟みになってるんだ?」 「ろみじゅり?」 一二美が目を数度瞬き、首をかしげる。私の好きなディカプリオ様の映画だけど通じないのか……まぁいいや。。 「つまり陽向さんのお父さんと浅倉さんが仲が悪いから、陽向さんが困ってるんでしょ? お父さんに遠慮して付き合ってる事を言えないのに、浅倉さんに一緒になろうと迫られてるとか?」 「えっ? なんでそこまでわかるのよぅ!」 解ります、定番ですから。 「そっかぁ……陽向さんのお父さんと浅倉さんが、お互い理解し合えると良いのにね。私は、たくさん食べなくても長く噛んで味が楽しめるフランスパン好きだけど、サンドイッチになると苦手な匂いのチーズやハムを挟んだ物が多くて値段も高いから『ソレイユルヴァン』には行かないな。『サン・ベーカリー』は逆に、お惣菜がメインでカロリーが気になっちゃう。パンの味と、お惣菜の味が半々だと良いのに……」 私の言葉が終わると同時に、一二美が勢いよく立ち上がった。カフェテーブルのティーカップがガチャンと鳴って、一瞬焦る。 「それだよスー子、イイコト考えた! 陽向さんのために絶対、二人を仲直りさせよう!」 イイコトって、ナニ? 呆気にとられる私をよそに、一二美はニコニコ笑っていた。 〔3〕 私が一二美と知り合った切っ掛けは『サン・ベーカリー』だ。 『サン・ベーカリー』は私の自宅マンションから近いこともあり、母が頻繁に店を利用していた。 高校に入学して日の浅い、ある日曜日の午後。 たまたま母に頼まれ、私は朝食用の食パンとバターロールを買うため店を訪れた。 バターと、カスタード。チョコレートとバニラ。シナモンとアップルパイ用に煮たリンゴの甘酸っぱい香り。こんがり綺麗に焼き上がったパンが、西の窓から入る陽光でいっそう艶やかに美味しそうに見える時間。 美人で有名な看板娘、陽向さんを困り顔にさせている、ふわふわ髪の美少女。 それが、春風一二美だった。 六枚切り食パン一袋と五個入りバターロール二袋をトレーに乗せカウンターに並ぶと、私より幼く見える美少女は会計でもめているようだった。 「足りない分は次のご来店時でいいですよ?」 陽向さんの言葉に少女は譲らず、トレー上の菓子パンの中からどれを棚に戻すか悩んでいる。 早くしろ……ではなく私はつい、可愛いなと思った。 小学校高学年か中学生一年くらいの女の子が、おやつに迷っているのだ。ここは、お姉さんである私が助けてやるべきだろう。 「いくら足りないの? 私が出してあげる」 私の言葉に振り向いた少女の顔が、驚きから嬉しそうな笑顔になる。助け船に喜んだのかと思ったら、思いがけない言葉に私の方が驚かされた。 「あっ、綾波さん! 恥ずかしいとこ見られちゃいましたぁ。二組の春風です。二十円、貸してもらっていいですか? 明日学校で返しますぅ!」 後日、貸したお金を返しに来た一二美と仲良くなって一年が経つけど、あの時はまさか隣のクラスの同級生とは思わなかったな。 しかも彼氏の相談されるほど、陽向さんと親しくなっているなんて……。 泣いている陽向さんを目撃した翌日の日曜日。 「昨日のことで、相談がある」と呼び出され、部活のない午後に一二美の家を訪れた私は頼まれていた『ソレイユルヴァン』のバゲットとクロワッサンをリビングのテーブルに並べた。 「ところで、フーミンが考えたイイコトってどんなこと?」 一二美の家は戸建てで、オープンキッチン付きのリビングは広いしテーブルも大きい。 「んっふふふ……つまりぃ、フランスパンを使ったハムカツサンドで仲直り作戦なのだよ!」 「は? 意味わかんないんだけど?」 戸惑う私を尻目に、レモン色の可愛いエプロンをつけた一二美はバゲットを手にキッチンに立った。 ザクリと気持ち良い音を立て、パンナイフがバゲットを切り分けていく。 「スー子がヒントくれたんだぁ。フランスパンとお惣菜パンの良いところを合体させたら、二人を仲直りさせられるかもって」 一二美はバゲットの切り込みにハムカツを押し込んだものを皿に乗せ、私の前に置いた。 お世辞にも、美味しそうには見えない。 「ねぇ、試しに食べてみてよぅ!」 食事制限はしてるけど、パンや揚げ物を全く食べないわけじゃなかった。興味が無いだけだ。 一二美が頼むならと仕方なく、一口かじる。 「うーん……コッペパンや食パンは柔らかいから、ハムカツの衣の歯ごたえを美味しく感じるかもだけど、フランスパンの固さだと食べにくいし顎が疲れそうだなぁ」 「そっかぁ……そう簡単にはいかないかぁ。じゃぁ、クロワッサンに小倉餡とか、どう思う? 『サン・ベーカリー』のアンパンみたいに、生クリームも入れて……」 「ゴメン、試食は誰か他の人に頼んでくれる? 私、糖質制限してるから!」 思わず強い口調になってしまい、慌てて私は言い訳を探す。 「……っ、えっと、近い時期に記録会があって……そろそろ調整しなきゃいけないんだ。だから、あまり協力できないと思う。ゴメン……」 「あ、ううん、わたしの方こそスー子のこと考えずにテンション上げちゃってゴメンね……」 しょんぼりと肩を落とした一二美に、また胸が痛む。 「帰る……ね。ロードワークの時間なんだ」 「うん、頑張ってね」 なんとなく気まずくなった空気から逃げるように私は、一二美の家を後にした。 おかしいな……私、どうしちゃったんだろう? 日課のロードワーク中、グルグルと色々な考えが頭に浮かぶ。 一二美は大事な私の友達で、大好きなパンを幸せそうに食べている時の笑顔が最高に可愛くて、その笑顔が大好きで……。 陽向さんの前でも、あの笑顔でパンを食べるんだろうな。 そう考えたとき、また胸に何かが刺さった。 痛みの原因が思い当たって立ち止まる。 「はははっ、なんだ私……陽向さんに嫉妬してるのか」 陽向さんが相手なら、一二美も恋バナするのかな? パンの話題で盛り上がったりしそうだな。 寂しいような、苛つくような、悲しいような、嫌な気分。 だけど一番嫌なのは、陽向さんに嫉妬してる自分だ。 私は一二美の笑顔が好き。一二美が幸せそうに笑うなら、相手が誰だって……。 「私ってば、馬鹿みたい。他に友達いないから変な独占欲出ちゃうんだよ。私には大好きな陸上が……」 大好き? 大好きってなんだろう? いまの私、本当に走るのが好きなのかな? 創作パンの試食から逃げ出した後も、一二美は相変わらずお昼になると隣のクラスからやってきた。だけど会話は弾まず、沈黙が増えていった。 一週間もしないうちに一二美から笑顔が消え、居たたまれなくなった私は昼休みの自主練を理由に部室で昼食を取るようになった。 汗と土埃の匂いが充満した部室で食べるお弁当は、ますます食に対する興味を失わせる。いつしかそのお弁当も、半分くらいしか食べる事が出来なくなった。 そして迎えた記録会の日。 日差しを遮る物の無い秋晴れのグラウンドで準備運動をする私の体調は絶好調……とは言いがたく、なんだか体がフワフワ浮いているような気分だった。 「綾波さん、顔色悪いわね。大丈夫?」 短距離用トラックに向かう私に、田部井コーチが声を掛けてきた。 「大丈夫です。最近伸び悩みだったタイム、今日は更新して見せますよ」 笑顔で応えたけれど、なんだか胸がムカムカして喉が張り付くような感覚に声が擦れた。 ヤバいな、足下がしっかり……しない……。 「綾波さん? えっ、綾波さんっ!」 何度も私を呼ぶコーチの声が、どんどん小さくなる……。 真っ赤になった目の前に黒い幕が下りたと思った途端、何もわからなくなった。 〔4〕 救急車で運ばれ、医師から受けた診断は低血糖症だった。 炭水化物摂取の制限しすぎや激しい運動の後などに起きやすく、思考力の低下・イライラ・ふらつき・頭痛・倦怠感などの症状が出るらしい。 身に覚えがありすぎて、落ち込んだ。 点滴を受け、経過観察で一晩入院して自宅に戻れたけど母が心配するのでもう一日学校を休むことになった。 携帯には心配した部活仲間やコーチ、クラスメイトからメッセージがたくさん届いている。 だけど、春風一二美からのメッセージは無かった。 自分が気付かなかっただけで、最近の私は毎日イライラしていたのだろう。そのせいで一二美は笑わなくなって、どこか私に遠慮しているような素振りもあった……。 もしかして、倒れるほど食事制限してる私の前で無邪気に菓子パンを食べていたことを気に病んでいるのかな? 違う。違うよ、一二美。 悪いのは私。 お母さんからもコーチからも心配されてたのに、うるさいとしか思わなかった。食べないことで、こんなに影響が出るとは思わなかった。 幸せそうに食べる一二美を見ているのが大好きで、自分は食べなくても大丈夫だと思っていたんだ……。 三日ぶりに登校した日の昼休み、いつものように一二美がひょっこり教室入り口に顔を出すことを期待しながらお弁当を開いた。栄養士さんの指導を受けて、お母さんが作ってくれたお弁当。 生姜の香りがする甘辛味付けの鶏そぼろを敷き詰めた御飯、蓮根とゴボウとニンジンのきんぴら、ホウレン草のおひたし、カボチャの煮付け、プチトマト。そしてオレンジがワンカット。 定番のブロッコリーは悪習慣の思い出だからか、入っていない。ブロッコリーが悪いわけじゃ無いんだけど。 お母さんが、どんな想いでこのお弁当を作ったか考えながら、よく噛んで飲み込んだ。 美味しいという感覚はまだ良く解らないけど、ありがとうと思いながら食べると味覚を刺激する色々な味が、だんだん嬉しくなってくる。 この感覚が、一二美を笑顔にしているのだと初めて解った気がした。 だけど、その日の昼休み。 一二美はとうとう姿を見せてはくれなかった。 田部井コーチから一週間の練習禁止を命じられた私は、終業のチャイムと同時に一二美のクラスに向かった。探しても一二美の姿が見当たらないので、教室を出てきた女子をつかまえ聞いたら「大事な用事がある」と言って午前早退したという。 会いたい。 会って、「私もしっかり食べるから、また一緒にお昼を食べよう」と伝えたい……。 沈んだ気持ちのまま駅に向かって歩いていると、バターと砂糖が溶け合った甘い香りに気が付いた。 あぁ、いつの間にか『サン・ベーカリ』の前まで来ていたんだ。 ふと、一二美がいるような気がして立ち止まった。 「大事な用事で早退したんだから、いるわけ無いよね……」 思い直して歩き出したとき。 「待って、涼子ちゃん!」 お店から飛び出してきた陽向さんが、私を呼び止めた。 「えっ、あの……なんでしょう?」 「お願いがあるの、少し中でお話しできないかしら?」 「……?」 陽向さんは、彼女らしくないほど強引に私の手を掴んで店内へ引っ張り込み、カウンター裏のテーブルに座らせた。 「ちょっと待っててね」 真剣な表情で言われたので大人しく座って待っていると、陽向さんは奧にあるキッチンからハーブティーのポットとサンドイッチの乗ったお皿を運んできた。 ハーブティーはハーブと一緒にオレンジやリンゴやベリーが入ったフルーツハーブティー。サンドイッチは……なんだろう? パンはフランスパンみたいだけど、中身はハムカツ? 「栄養不足と低血糖で倒れたって聞いたわ。だから元気になるように考えた涼子ちゃんスペシャル、食べてくれる?」 戸惑う私に陽向さんは笑顔で言った。 私が倒れたこと、多分お母さんから聞いたんだ。そして私が食べたくなるような惣菜パンの相談でもしたのだろう。 せっかく、陽向さんが私のために考えて作ってくれたのだ。お母さんのお弁当と同じように、ありがとうの気持ちで齧り付いた。 絶妙のバランスで表面カリカリの皮を残し薄くスライスしたバゲットに、このカツは……レバカツ? レバーは苦手だけど、あの独特の臭みやザラザラ感がなくて香りも良い。 味付けはソース……にしては優しい甘さ。 薄いサクサクの衣は油っぽく無くて、普通よりさらに細く刻まれた千切りキャベツのおかげで歯当たりがいい。 それに……あぁ、オレンジの香りと酸味。 「美味しい……です」 言葉にして私は、自分で驚いていた。 美味しいと、思うことが出来たんだ。 「良かった! 美味しいって!」 陽向さんがキッチンに向かって声を掛けた。たぶん、店長のお父さんも協力してくれたんだ。お礼を言わなきゃと、立ち上がってキッチンの方に顔を向けた。 「……一二美?」 ところがキッチンから現れたのは、可愛らしいレモン色のエプロンをつけた春風一二美だった。 一二美は大きな両目に涙を溜め、私に走り寄って抱きつく。 「うぇっっうえぇぇええっ……良かったよう……私、スー子がゴハンを食べなくて、このままじゃ死んじゃうんじゃないかって、すごくすごく心配してっ……ひっく……うえっく……それで食べて欲しくて……でも無理強いして嫌われちゃって……そしたら倒れたって聞いて……」 「ごっ、ごめんねぇ、フーミン。私、自分のことばっかりで……。嫌ってないよ……私が悪かったんだから、泣かないでぇ……」 我慢できなくなって、私も泣き出す。 号泣する私達にタオルを渡し、少し落ち着くのを待って陽向さんは一二美のことを話してくれた。 「私と一二美ちゃんが仲良くなったのは、そもそも涼子ちゃんのことを相談されたからなのよ? 大事な友達がゴハンを食べないから、どんどん痩せて元気も無くなっているって」 毎日のようにパンを買ってくれる可愛い女子校生に相談されて陽向さんは、なんとか力になりたいと思ったのだそうだ。そして、どんなパンなら食べてくれるか二人で考えたのだという。 栄養価が高く、鉄分やビタミンが豊富なレバーを臭み抜きのため牛乳に浸した後、ウスターソースと蜂蜜の特製ソースに漬け込んで挽きの細かいパン粉をまぶし、ノンフライヤーでカリッと焼き上げる。 レバーに味付けしてからフライにするのは、フランスパンは食パンより気泡が荒いのでソースが漏れて美味しそうに見えなくなるから。ノンフライヤーを使用したのはカロリーを気にする涼子への配慮。さらにオレンジの酸味と香りで爽やかさをアップ。 芯に近い柔らかい部分を可能な限り細く刻んだキャベツもタップリ入れて、野菜と食物繊維も十分に。 「もしかしてフーミンが今日、早退したのって……」 私の質問に一二美は、照れくさそうに笑う。 「だってぇ……早く元気になって欲しくてぇ。ホントは家まで届けるつもりだったんだけど、陽向さんがお店の外にいたスー子を見つけて連れてきちゃったから、めっちゃ焦ったよぅ」 あぁ……一二美の笑顔を、ようやく取り戻した。 「ずっと前から、私のこと心配してくれてたんだ……うっ……ありがとう……」 嬉しくなってまた泣き出した私は、涙と鼻水でグチャグチャになりながらサンドイッチを全部食べきった。 〔5〕 陽向さんのお父さんと彼氏さんの関係は、一二美が考案したレバカツサンドが解決したそうだ。 フランスパンにレバカツという発想が面白い上に、お父さんも彼氏の浅倉さんも美味しさに驚き納得してくれたらしい。そこに一二美と私の友情物語も加わって、「仲違いしている暇があったら、美味しいパンを創ろう」と、意見が一致したらしい。 結果的に私も、仲直りの立役者になったわけだ。 いま私は背の高さと足のバネを活かして高飛びやハードルに挑戦している。記録も伸びしろがあって、挑戦することが楽しい毎日だ。 田部井コーチからは「倒れる前は機械的に走っているみたいだったけど、最近は楽しんでいるように見えるから安心したわ」と言われた。自分で気が付かないうちに、かなり追い詰められていたのかも知れない。 そして今日も昼休みになった途端、一二美が私の教室にやってきた。 秋はもう終わりを告げ、北風が吹く寒い時期になっても食欲の衰えは無いらしく、机の上にたくさんのパンを並べていく。 「陽向さん、浅倉さんと婚約したんだってね。やっぱり『サン・ベーカリー』を継ぐことになるのかな? まぁ、パンの種類が増えて良いかもしれないけど、フーミンは失恋しちゃったね……」 私の言葉に、腕組みをして最初に食べるパンを選んでいた一二美がきょとんとした顔を向けた。 「んんっ? 私、告白したけどまだ失恋してないよ?」 「えっ、だって『小麦の妖精』に恋してるって……」 一二美はハムカツサンドを包んであるビニールを、真剣な表情で丁寧に剥がしていく。「私の爺ちゃんねぇ、北海道に小麦畑もってるんだぁ。毎年遊びに行ってるんだけど、自家栽培の小麦でパンを焼いてくれるんだよね。それが凄く美味しいの。一度、収穫前の小麦畑に連れてってもらった時ね、さあっと吹き渡った風に黄金色の穂が揺れて凄く綺麗だったんだよ……」 一二美のパン好きの原点は、そこなのか。 そう思いながら聞いていると、話は意外な方向に向かった。 「中学の時、会場が近いせいで陸上の県大会応援に駆り出されたことがあってぇ、その時に風を巻き上げて走るスー子の姿見てね。あぁ、北海道の小麦畑を渡る風の妖精さんみたいだなぁって思ったんだよね……」 「えっ? それって……?」 「ほらぁ、スー子の肌って小麦色してるから、『小麦の妖精』さんっ!」 狼狽える私にかまわず、一二美はハムカツサンドをパクリと頬張ると天使の顔で無邪気に笑った。 終わり |
来栖らいか 2020年12月27日 13時36分10秒 公開 ■この作品の著作権は 来栖らいか さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年02月16日 16時57分57秒 | |||
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Re: | 2021年02月16日 14時51分52秒 | |||
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Re: | 2021年02月16日 14時35分53秒 | |||
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Re: | 2021年02月16日 12時30分00秒 | |||
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Re: | 2021年01月19日 15時21分56秒 | |||
合計 | 13人 | 220点 |
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